元史

列傳第四十八: 楊大淵 劉整

楊大淵(文安を附す)

楊大淵は天水の人である。兄の大全、弟の大楫とともに、皆宋に仕えた。大淵は兵を総率して閬州を守った。戊午の年、憲宗の軍が閬州の大獲城に至ると、宋の降臣王仲を遣わして大淵を招いたが、大淵は彼を殺した。憲宗は怒り、諸軍に督戦して力攻めさせた。大淵は恐れ、遂に城を挙げて降った。憲宗は彼を誅殺せんとしたが、汪田哥が諫めて止めたので、免じた。その兵を従わせることを命じ、蓬州、広安などの諸郡を招降させ、釣魚山を攻撃させた。大楫を管軍総管に抜擢し、諸王に従って礼義城を攻撃させた。己未の冬、大淵を侍郎・都行省に任じ、閫外の任を悉く彼に委ねた。

世祖中統元年、詔を下して大淵に諭して言うには、「なお忠貞の節を励まし、共に康乂の功を成せ」と。大淵は拝命して躍り上がり、直ちに兵を遣わして礼義城を攻撃し、その糧秣輸送を掠め、総管黄文才、路鈐、高坦之を捕らえて帰還した。二年の秋、兵を出して通川に至り、宋の将鮮恭と戦い、統制白継源を捕らえた。秦しょく行省は大淵及び青居山の征南都元帥欽察の麾下の将校六十三人が功績があったとして、朝廷に上奏した。詔して虎符一つ、金符五つ、銀符五十七を与え、功績に応じて官を定め、その名を上聞するよう命じた。三年の春、世祖は開州・達州に出撃することを命じ、宋軍と平田で戦い、さらに巴渠で戦い、その知軍范燮、統制魏興、路分黄迪、節幹陳子潤などを生け捕りにした。

先に、大淵が建言し、呉を取るには必ず先に蜀を取り、蜀を取るには必ず先に夔州を占拠すべきであると言った。そこでその甥の文安を遣わして宋の巴渠を攻撃させた。万安寨に至ると、守将の盧埴が降った。さらに文安に夔州・達州の要衝を視察させ、蟠龍山に城を築かせた。山は四面が岩で険阻であり、進んで攻め、退いて守るに足る。城が未だ完成しないうちに、宋の夔路提刑鄭子発が言うには、「蟠龍は夔の咽喉である。敵にこれを占拠させれば、夔は守り難い。これは必ず争うべき地である」と。そこで兵を率いて争いに来た。文安は全力で防備した。大淵は宋軍が来たと聞き、直ちに甥の安撫使文仲に兵を率いて救援に向かわせた。宋軍は夜中に逃げ去り、追撃してこれを破った。秋七月、詔して大淵の麾下の将士に功績があったとして、金符十、銀符十九を賜い、別に海青符二を与え、事態が急な時には馳せて上聞させるようにした。その後、合州の功績を賞して、さらに白金五十両を賜った。大淵は利州大安軍で塩をもって軍糧と交換したいと朝廷に請うた。許された。

冬、大淵が入朝し、東川都元帥に任じられ、征南都元帥欽察とともに事務を執ることを命じられた。大淵が帰還すると、さらに渠江のほとりに虎嘯城を築き、宋の大良城を威圧した。時を過ぎずして完成した。四年、宋の賈似道が楊琳を遣わし、空名の告身及び蠟書、金幣を携えさせ、大淵を誘って南帰させようとした。文安がこれを捕らえて上聞した。詔して琳を誅殺させた。五月、世祖は大淵及び張大悦が神山を回復した功績により、詔を下して褒賞し諭し、なお蒙古・漢軍に鈔百錠を賜った。

至元元年、大淵が花羅、紅辺絹を各百五十段進貢した。詔して言うには、「貢いだ幣帛は、既に忠勤を見る。卿は辺境を守る。優しく憐れむべきである。今後はこれをもって自ら用いよ。旨があるまで進めるな」と。その後まもなく、大淵がその部将王仲を擅に殺した。詔してこれを戒め諭し、仲の家を没収することを免じるよう命じた。冬十月、大淵は間諜を用いて、宋の総統祁昌が間道を通って糧秣を得漢城に運び入れ、かつその郡守向良及び官吏の親族を内地に移そうとしていることを知った。そこで自ら軍を率いて急襲し、椒坪でこれと遭遇し、三日連戦して、祁昌、向良などを生け捕りにし、捕獲した輜重は数千に及んだ。翌日、宋の都統張思広が兵を率いて救援に来たが、再びこれを大破し、その将の盛総管及び祁昌の弟を生け捕りにした。二年、大淵は文安を遣わし、向良などの家族を用いて、得漢城を招降させたが、陥落しなかった。四月、大淵は病により卒去した。八年、大淵を追封して閬中郡公とし、諡して肅翼といった。

子の文粲は、閬蓬広安順慶夔府等路都元帥を襲封した。兄の子は文安。

文安は字を泰叔といい、父は大全で、宋に仕えて敍州を守った。壬寅の年、国軍が蜀に入ると、大全は戦死し、武節大夫、眉州防禦使を追贈され、諡して愍忠といい、その長子文仲に官職を与えた。文安はわずか二歳で、母の劉氏がこれを養育し、叔父の大淵を頼って閬州に寄った。戊午の年、憲宗が兵をもって大獲を攻めると、大淵は郡を挙げて降り、侍郎・都行省に任じられ、文仲も安撫使に任じられた。

中統元年、文安は監軍に任じられた。礼義城を攻撃し、殺傷甚だ多く、その糧船を奪い、回り込んで通川に出て、宋の将黄文才、高坦之を捕らえた。二年、再び通川に出撃し、宋の将鮮恭と大戦し、統制白継源を生け捕りにした。三年、開州・達州に出撃し、戦いに屡々勝利し、知軍范燮、統制魏興、黄迪、陳子閏などを生け捕りにした。文安を開達忠萬梁山等処招討使に任じた。巴渠に軍を置き、万安寨主の盧植が降った。そこで蟠龍城を築き、夔州・達州の要路を占拠した。宋軍が争いに来て、半月相持したが、文仲が兵を率いて救援に来ると、宋軍は夜中に逃げ去り、文安が追撃して、これを大破した。四年、銀符を佩び、千戸に昇進し、監軍は元の如く、進んで虎嘯城を築き、大良城を包囲した。

至元元年、宋の都統張喜が兵を率いて蟠龍を攻撃したが、大戦してこれを破り、喜は密かに軍を率いて夜中に逃げ去り、得漢城に出た。文安は兵を遣わして追撃し、またこれを破り、裨将陳亮を生け捕りにした。さらに方斗城を築き、蟠龍の援護とし、裨将の高先にこれを守らせた。宋軍が潼川を攻撃すると、行省は文安に救援に向かうことを命じ、射洪の納垻で宋軍を破り、斬り捕るところ甚だ多かった。宋の都統祁昌が重兵をもって糧秣を得漢城に運び、かつその官属を内地に移そうとした。大淵は文安に先んじてこれを邀撃することを命じた。昌は椒原に柵を立てて守り、合兵してこれを攻め、三日連戦して祁昌を捕らえ、得漢城の守臣向良の家族を捕虜にし、これを用いて良を招いた。良は城を挙げて降り、捕虜を闕下に献上した。

二年、金符に改めて授けられ、前職のまま、還って宋の開州、達州などを攻撃し、その統制張剛、総管伏林を生け捕りにした。八月、宋軍が開州から糧秣を達州に運ぼうとした。文安は奇兵を率い、間道を通ってこれを邀撃し、総管方富などを捕らえた。行省がその功績を上奏すると、夔東路征行元帥を充てることを命じ、前後に捕らえた者を引き連れて入朝するよう命じた。詔して黄金、鞍馬を差等をつけて賜った。帰還後、宋の金州断虎隘を攻め奪い、その将梁富を殺し、路鈐、趙貴などを生け捕りにした。

三年の春、千戸李吉らとともに開州の大通を攻略し、宋の将硬弓張と大戦し、統制陳德などを捕らえた。冬、総帥汪惟正がその将李木波らを遣わし、間道を通って開州を襲撃させた。文安は千戸王福に兵を率いてこれを助けさせた。福が先に登城し、その城を破った。宋の将龐彦海は崖に身を投じて死に、副将劉安仁を生け捕りにし、兵を留めてその地を守備させた。宋の諸路の兵が救援に来て、城を三重に包囲し、城外に堡塁を築いた。文安は密かに人を城中に入れ、堅守するよう諭した。四年の春、行省は文安に救援に向かうことを命じた。直ちに兵を率いてその糧道を断った。宋軍は戦い甚だ力強く、飛び来る矢が文安の顔面に当たったが、矢を抜いて力戦し、これを大破し、その将張德などを殺した。二月、文安は創が甚だ重いため、蟠龍に帰還した。宋軍は遂に開州を回復した。文安はそこで総把の馬才、楊彪を遣わし、達州の盧灘峽を掠め、宋軍と遭遇し、その将蒲徳を生け捕りにした。

五年、文仲が卒去すると、詔により文安はそのまま金虎符を佩用し、閬州夔東路安撫使軍民元帥に充てられ、引き続き副都元帥府の事務を輔佐した。閬州は累次兵変に遭い、戸口が凋耗していたので、文安は耕桑を教え、鰥寡で自活できない者で、互いに配偶を願う者があれば、一戸に併せて役に充て、民はようやく旧業に復した。冬、千戸馬才・張琪を派遣して達州を攻略させ、宋の将范伸・王德・解明らを生け捕りにした。六年、蔡邦光・李吉・嵇永興を派遣して達州の朱師鄭巿を攻略させ、総管周徳新・裨将王遷を生け捕りにした。秋、総把王顕を派遣して達州の泥垻を攻略させ、総管張威を生け捕りにした。冬、兵を派遣して大寧の曲水を掠め、副将王仁を生け捕りにした。

七年、厳僉省に従って重慶を攻め、龍坎において大戦し、宋兵を破った。鏵鉄寨を攻め、その将袁宜・何世賢らを生け捕りにした。捷報が聞こえると、詔により白金・宝鈔・幣帛を差等を以て賜った。秋、達州の聖耳城を攻め、宋の将楊普・時仲を生け捕りにし、その禾を刈り取って還った。また元帥蔡邦光を派遣して開州を攻略させ、宋の将陳俊を生け捕りにした。冬、文粲が入朝して謁見すると、帝はこれを諭して言った、「汝ら兄弟は辺陲に力を宣べている、朕の知るところである」と。文安の階を進めて明威将軍とした。

八年春、蔡邦光を派遣して達州を攻め、聖耳城下で戦い、その将蒲桂を生け捕りにした。また開州の沙平で戦い、その将王順を生け捕りにした。時に宋は朱禩孫を以て蜀を帥としていたが、禩孫は閬の人であり、数度間諜を派遣して人心を動揺させたが、文安はたびたびその間諜を捕獲し、閬州はついに憂いがなかった。秋八月、文安は東川統軍匣剌と会して達州を攻め、三戦三勝した。まもなく千戸嵇永興を派遣して開州を攻め、平𭵶・曲水で戦い、総管王道らを生け捕りにした。軍が還ると、捕虜を率いて謁見し、帝は深く奨諭を加え、昭勇大将軍・東川路征南招討使に抜擢し、金銀・宝鈔・鞍馬・弓矢・幣帛を差等を以て賜った。

九年秋、軍を率いて小寧に出て、屯田を措置し、韓福を派遣して達州九君山を攻め、宋の将張俊を生け捕りにした。元帥蔡邦光を派遣して蓬州兵と会し、永睦において宋師を邀撃し、これを戦勝した。また嵇永興・楊彪を派遣して宋の裨将劉威らを追襲し、聖耳の外城を破り、寨主楊桂を捕獲し、兵を放って焚掠して還った。九月、金湯城を築き、屯田の糧を積むとともに、宋の龍爪城を逼迫させた。宋兵が必ず来て争うことを慮り、韓福を派遣して出兵して通川に至らせ、これを牽制し、宋兵と銼耳山で遭遇し、これを破り、総管蔡雲龍らを捕虜にした。達州牛門に出て、宋兵の回路を断ち、総管李佺・李徳を生け捕りにした。宋兵が達州に糧を輸送したので、兵を派遣して盧灘峡で邀撃し、統制孫聡・張順らを生け捕りにした。

夏、元帥李吉を派遣して開州を攻略させ、瀉油坡で戦い、その提挙李貴、および石笋寨主雍徳を生け捕りにした。宋兵がまた羅頂山より開・達に糧を輸送したので、蔡邦光・李吉に伏兵を派遣してこれを遮らせ、裨将呉金らを生け捕りにし、その糧船を覆した。閏六月、蓬州兵が龍爪城を攻め落とし、東川統軍司は文安にこれを兼領させた。時に蓬州兵は既に去っており、宋の都統趙章がまた来てこれを占拠し、かつ出兵して迎え撃ったので、文安はこれと戦い、これを破り、総管王元を生け捕りにして還った。秋、宋の都統閻国宝・監軍張応庚が達州に糧を運んだので、文安はこれを瀉油坡で邀撃し、その糧を奪い、あわせて二将を生け捕りにした。宋の開州守将鮮汝忠が帰路を邀え遮ったので、これと戦って破り、総轄秦興祖・譚友孫を捕獲した。

十一年春三月、文安は軍を率いて小寧に屯し、捕虜の言うところを得ると、鮮汝忠らが蟠龍の麦を取ろうとしているというので、ただちに千戸王新徳・楊彪らを派遣して宋の境を散掠させ、文安は自ら蟠龍を守備してこれに備えた。李吉が由山を攻略し、城下で戦い、その将葉勝を生け捕りにした。蔡邦光・楊彪を派遣して竹山寨を掠め、趙統制と戦い、その将鄭桂・荘俊を生け捕りにした。秋、蒙古漢軍万戸怯必烈らとともに宋の夔東を攻め、高陽・夔・巫などの寨を抜き、守将厳貴・竇世忠・趙興を生け捕りにし、これにより江を跨いで橋を造り、宋兵の往来の路を断った。宋兵が来て争ったので、戦ってこれを退けた。還って牛頭城を攻め、火箭を以てその官舎民居を焼いた。十一月、蔡邦光を派遣して九君山を攻略させ、その将孫徳・柳栄・趙威を生け捕りにした。

時に宋は鮮汝忠・趙章を以て開・達二州の鎮を易えていたが、汝忠の家属はなお開州に留まっていた。文安は言った、「達州は攻め易くない。もし先に開州を抜き、その家属を捕虜にして、汝忠を招けば、達州は兵を煩わすことなくして下すことができるであろう」と。そこで蔡邦光に千戸呼延順らを率いて開州を攻めさせ、一方で盛んに兵を蟠龍に駐屯させ、声援とした。十二年正月、諸軍は夜に枚を銜み、開州城下に迫り、死士を派遣して先に登らせ、関を斬って入った。城中の人が知った時には、千戸景疇が既に城の絶頂に旗幟を立てていた。宋軍は潰散し、趙章を生け捕りにしたが、守将韓明父子はなお率いる所の兵を以て巷戦し、力尽きて、これもまた生け捕りにされた。文安は汝忠の家属を蟠龍に移し、元帥王師能に檄を持たせて達州に赴かせてこれを招いた、「降れば家属は全うでき、降らなければ全城塗炭となる、汝は早く計らうべきである」と。汝忠はついに趙栄を派遣して降を約し、王師能は兵を以て入ってその城を占拠した。汝忠は率いる所の将士を率いて文安の軍門に詣でて降り、その妻子財物をことごとく返還した。趙章の子桂楫は師姑城を守っていたので、兵を派遣してこれを招くと、これもまた降った。ただ洋州龍爪城の守将謝益が固守したので、力を併せてこれを攻め、統制王慶を生け捕りにし、益は城を棄てて逃走した。ここにおいて元帥李吉・嵇永興、千戸王新徳らを派遣し、兵を率いて鮮汝忠を以て由山などの処八城を招かせると、皆風に望んで迎え降り、凱旋した。経歴陳徳勝を派遣して鮮汝忠・趙桂楫ら十余人を以て京師に捷を献上した。帝は悦び、文安に驃騎衛上将軍を加授し、宣撫使を兼ね、鈔一千錠を賜った。文粲に鎮国上将軍を加授した。

文安はまもなくその兄の子応之を派遣して都勝・茂竹・広福の三城を招かせ、自ら大軍を将いて、声援とし、皆これを降した。秋七月、兵は楽勝城に至り、宋の将蒲済川が降った。梁山を進攻すると、宋の将袁世安が堅守した。文安はその外城を焼き、梁山軍は忠勝軍を恃んで堅固であったが、力を尽くしてこれを攻め落とし、守将王智を殺し、部轄景福を生け捕りにし、梁山を四十日間包囲したが、世安は方に随って備え防禦し、ついに降らなかった。文安はそこで兵を移して万州の牛頭城を攻め、守将何威を殺し、その民を移し、進んで万州を包囲したが、守将上官夔は戦い守ることに力を尽くした。文安はそこで監軍楊応之・鎮撫彭福寿を派遣して東川行院の兵と会し、小江口に出て援兵を牽制させると、果たしてこれと遭遇し、戦ってこれを破り、総管李臯・花茂実らを生け捕りにした。万州は固守して下らなかったので、文安は包囲を解いて去った。石城堡を攻め、守将譚汝和を諭して降した。鶏冠城を攻め、守将杜賦を諭して降した。また石馬・鉄平・小城・三聖・油木・牟家・下隘などの城を招いた。冬、白帝城に進むと、夔の帥張起巖が堅守して出なかったので、文安は師が老いたことを以て、ついに還った。宋の都統弋徳がまた開州を占拠したので、文安は神仙山に城を築いてこれを逼迫させ、元帥蔡邦光・万戸紀天英に屯守させた。

十三年、官階を金吾衛上將軍に進め、玉帯一腰を賜う。夏、朝廷は安西王相李德輝を遣わして東川の課程を経畫せしめ、宋の梁山守將袁世安は使者を遣わして降伏を約す。文安はこれを德輝に告げ、德輝は大いに喜び、直ちに文安を遣わして兵を率い、王旨を奉じて往きてこれを招かしむ。世安は遂に降る。秋七月、軍を進めて萬州を攻む。經歷徐政を遣わして守臣上官夔を諭して降らしめんとす。夔は従わず、これを数重に囲み、一月を踰え、外城を攻め抜く。夔の守将張起巖来りて救う。鎮撫彭福壽を遣わして迎撃し、これを破り、その舟師を尽く殺し、その将宋明を俘虜す。萬州は気を奪わる。文安はまた王旨を伝え、夔を諭して降らしめんとす。夔は終に屈せず。文安は鋭を尽くして城を攻め、密かに勇士を遣わして梯にて城に登り夜襲し、関を斬って入る。夔は巷戦して死す。萬州既に定まり、使者を遣わして鐵檠・三寶の両城の守将楊宜・黎拱辰を招きて降らしめ、兵を分かち施州を攻略し、統制薛忠を擒え、大雪に会い、蔡邦光を遣わして夜襲し、守帥何艮を殺し、その城を奪う。

十四年夏、兵を進めて咸淳府を攻む。時に宋は六郡鎮撫使馬堃を以て守と為す。文安は堃と同里閈なり、これを諭して降らしめんとす。堃は従わず、乃ち柵を列ねて城を攻む。冬十二月、密かに勇士を遣わして雲梯に躡り夜登し、関を斬って外兵を納る。堃は力を尽くして巷戦す。達州安撫使鮮汝忠は宋兵と力戦して死す。暁に比し、宋兵大いに敗れ、堃は力屈して就擒す。十五年、兵を進めて紹慶を攻む。守将鮮龍は敵を迎え撃つ。二月、密かに勇士を遣わし、夜梯衝を以てその北門を攻め破る。鮮龍大いに驚き、散卒を収めて力戦す。兵敗れて就擒す。

蜀境既に定まるも、独り夔州堅く守りて下らざりき。朝廷は荊湖都元帥達海に命じて巫峽より兵を進め夔州を取らしめ、また西川の劉僉院は夔の守将の親属を挟みて往きてこれを招かしむ。文安は乃ち元帥王師能を遣わして舟師を将いこれと俱にせしむ。張起巖竟に城を以て降る。夏、入覲す。文安は得たる城邑の図を献ず。帝これを労いて曰く、「汝が城を攻め地を略する功、何ぞ是くの如く多きや」と。四川南道宣慰使に擢て、白貂裘を解いてこれを賜う。

十七年、辯士王介を遣わして散毛諸洞蠻を諭降せしめ、散毛の両子を入覲せしむ。因りて進言して曰く、「元帥蔡邦光、昔散毛蠻を征して死せり、念うべきなり」と。帝曰く、「散毛既に降りてこれを殺せば、何を以て遠方を懐けんや」と。乃ち蔡邦光の子を擢て、管軍總管と為し、虎符を佩かしめ、散毛の両子に金銀符各一を賜い、へいせてその酋長に金虎符を賜う。文安を遥かに参知政事に授け、行四川南道宣慰使と為す。十九年春、入覲し、龍虎えい上將軍・中書左丞に擢てられ、行江西省事を命ぜらる。官に到ること一月を踰え、疾を以て卒す。

子の艮之、虎符・昭勇大將軍・管軍萬戶を襲佩し、歴て湖南宣慰副使・岳州路總管に至り、卒す。

劉整

劉整、字は武仲、先世は京兆樊川の人、鄧州穰城に徙る。整は沈毅にして智謀有り、騎射を善くす。金乱に、宋に入り、荊湖制置使孟珙の麾下に隷す。珙、金の信陽を攻む。整は前鋒と為り、夜、ぎょう勇十二人を縦し、塁を渡り城に登り、襲いてその守を擒え、還りて報ず。珙大いに驚き、唐の李存孝が十八騎を率いて洛陽らくようを抜きしに比し、今整の将いる所更に寡くして信陽を取るは、と、乃ちその旗に「賽存孝」と書す。累遷して潼川十五軍州安撫使、瀘州軍州事を知る。

整は北方の人として、西辺を扞ぎ功有り。南方の諸将皆その下に出づ。呂文德これを忌み、その画策する所輒ち擯沮せられ、功有れば輒ち掩いて白さず。俞興と整に隙有るを以て、これに四川を制置せしめて整を図らしむ。興は軍事を以て整を召す。行かず。遂に誣搆す。整は使者を遣わして臨安に訴うるも、又達せず。向士璧・曹世雄の二将見殺さるるに及び、整益々危く自ら保たず。乃ち款附を謀る。

中統二年夏、整は瀘州十五郡・戸三十萬を籍して附に入る。世祖その来を嘉し、夔府行省を授け、安撫使を兼ね、金虎符を賜い、仍て金銀符を賜いてその将校の功有る者に給せしむ。俞興、瀘州を攻む。整は宝器を出して士卒に分ち、激して戦わしむ。戦うこと数十合、これを敗る。復た使者を遣わして宋の賜いし金字牙符及び佩印を献じ、益々屯兵し厚く儲積して宋を図る計を請う。

三年、入朝し、行中書省を成都・潼川の両路に於て授けられ、銀一万両を賜い、軍士の失業する者に分かち給し、仍て都元帥を兼ね、諸山に寨を立て、以て宋兵を扼す。同列、整の功を嫉み、将に謀ってこれを陥れんとす。整懼れ、潼川を分帥するを請う。七月、潼川都元帥に改め、茶塩を宣課して以て軍に餉う。四年五月、宋の安撫高達・温和、進みて成都に逼る。整馳せてこれを援く。宋兵、賽存孝の至るを聞き、遁去す。将に潼川を擣たんとし、又整と錦江にて遇い敗る。至元三年六月、昭武大將軍・南京路宣撫使に遷る。

四年十一月、入朝し、進言して曰く、「宋主弱く臣悖り、国を一隅に立つ。今天、混一の機を啓く。臣、犬馬の労を效し、先ず襄陽を攻め、その扞蔽を撤かんことを願う」と。廷議これを沮む。整又曰く、「古より帝王、四海一家ならざれば正統と為さず。聖朝、天下の十七八を有つ。何ぞ一隅を置きて問わず、自ら正統を棄つるや」と。世祖曰く、「朕が意決せり」と。五年七月、鎮國上將軍・都元帥に遷る。九月、都元帥阿朮と偕に諸軍を督し、襄陽を囲み、城の鹿門堡及び白河口に拠り、攻取の計を為す。兵五万を率い、沿江の諸郡を鈔略す。皆城に嬰りてその鋭を避け、人民八万を俘虜す。六年六月、都統唐永堅を擒う。七年三月、漢水中流に実心臺を築き、上に弩砲を置き、下に石囤五つを為し、以て敵船を扼す。且つ阿朮と計りて曰く、「我が精兵突騎、当たる所破るるも、惟だ水戦は宋に如かざるのみ。彼の長とする所を奪い、戦艦を造り、水軍を習わば、則ち事済まん」と。駅乗を以て聞す。制可す。既に還り、船五千艘を造り、日々水軍を練る。雨に出づること能わざるも、亦地に画きて船と為してこれを習い、練卒七万を得る。八月、復た外囲を築き、以て敵の援を遏つ。

八年五月、宋の帥范文虎、都統張順・張貴を遣わし、輪船を駕し、襄陽に衣甲を饋る。邀撃し、順を斬る。独り貴は城に入るを得たり。九月、参知河南行中書省事に陞る。九年正月、諸翼漢軍都元帥を加う。襄陽の帥呂文煥、城に登りて敵を観る。整、馬を躍らせて前に進み曰く、「君、天命に暗く、生霊に害及び、豈に仁者の事ならんや。而又齷齪として戦うこと能わず、勇者に羞を取らる。請う、君と勝負を決せん」と。文煥答えず、伏弩して整に中つ。三月、樊城の外郭を破り、首二千級を斬り、裨将十六人を擒う。諜、文煥の将に張貴を遣わして城を出で援を求めんとするを知る。乃ち戦艦を分部し、草を縛りて牛の状の如くし、漢水の傍らに、綿亘参錯せしむ。衆その用いる所を測る莫し。九月、貴果たして夜出で、輪船に乗じ、流れに順いて下走す。軍士これを覘い知り、岸の傍らに草牛を爇きて昼の如くす。整と阿朮、戦艦を麾い、転戦すること五十里、貴を櫃門關に於て擒え、余衆を尽く殺す。

十一月、詔して水軍四万戸を統べしむ。宋の荊湖制置李庭芝、金印牙符を以て、整に漢軍都元帥・盧龍軍節度使を授け、燕郡王に封じ、書を作り、永寧の僧をして持たせて整の所に送らしめ、間を以て整を期せしむ。永寧令之を得て、駅伝して朝廷に聞かしむ。勅して張易・姚樞に雑問せしむ。適た整軍より至り、言う、「宋臣が襄陽を攻むる策を画するを怒り、故に此れを設けて臣を殺さんとす。臣実に知らず」と。詔して整に復書せしめて謂わしむ、「整命を受くる以来、惟だ戎兵を督厲し、垂亡の孤城を挙げるのみを知る。宋若し果たに生霊を念と為すは、当に重ねて信使を遣わし、朝廷に命を請うべし。顧みて此の小数を為すは、事に何の益かあらん」と。

時に襄陽を囲むこと既に五年、整計るに樊・襄は唇歯なり、宜しく先ず樊城を攻むべしと。樊城の人柵を以て城を蔽い、木を斬りて江中に列置し、鉄索を以て貫く。整丞相伯顔に言う、善く水する者をして木を断ち索を沈めしむべしと。戦艦を督して城下に趨らしめ、回回砲を以て之を撃ち、而して其の柵を焚かしむ。十年正月、遂に樊城を破り、之を屠る。唐永堅を遣わして襄陽に入り、呂文煥を諭す。乃ち城を以て降る。功を上ぐ。整に田宅・金幣・良馬を賜う。

整朝に入り、奏して曰く、「襄陽破るれば、則ち臨安動く。若し将に練る所の水軍を以て、勝に乗じて長駆せば、長江必ず皆宋の所有に非ざるべし」と。遂に行淮西枢密院事に改め、正陽に駐り、淮を夾して城し、南に江を逼り、其の東西の衝を断つ。十一年、驃騎衛上将軍・行中書左丞に陞る。宋の夏貴悉く水軍を以て来攻す。之を大人洲に破る。十二年正月、詔して整別に兵を将いて淮南に出ださしむ。整鋭く江を渡らんと欲す。首将之を止む。果たして行かず。丞相伯顔鄂に入る。捷至る。整声を失して曰く、「首帥我を止む。顧みて我をして成功後人せしむ。善く作する者は必ずしも善く成さず。果然なり」と。其の夕、憤惋して卒す。年六十三。龍虎衛上将軍・中書右丞を贈り、諡して武敏と曰う。

子の垣、嘗て父に従い昝万寿を通泉に戦い破る。埏、管軍万戸。均、榷茶提挙。垓、都元帥。孫九人、克仁、房州を知る。