巻160

列伝第四十七:王磐・王鶚・高鳴・李冶・李昶・劉肅・王思廉・李謙・徐世隆・孟祺・閻復

王磐

王磐は字を文炳といい、広平永年の人である。代々農業を営み、毎年麦を一万石収穫したので、郷人は万石王家と号した。父の禧は、金の末年に財産を出して軍費を助け、進義副尉に補せられた。蒙古軍が永年を破り、城を屠ろうとしたとき、禧はまた家財を尽くして軍費を助け、民衆はそれによって難を免れた。金人が汴に遷ると、一家を挙げて南に黄河を渡り、汝州の魯山に住んだ。

原文王磐字文炳,廣平永年人。世業農,歲得麥萬石,鄉人號萬石王家。父禧,金末入財佐軍興,補進義副尉。國兵破永年,將屠其城,禧復罄家貲以助軍費,眾賴以免。金人遷汴,乃舉家南渡河,居汝之魯山。

磐がちょうど冠年(二十歳)のとき、麻九疇に従って郾城で学び、客居して甚だ貧しく、一日に粥を一器作り、それを朝晩の食事とした。二十六歳のとき、正大四年の経義進士に及第し、帰徳府録事判官に授けられたが、赴任しなかった。この後、経史百家の学に大いに力を注ぎ、文辞は宏放で、広大で際限がなかった。河南が兵乱に遭うと、磐は難を避けて淮・襄の間へ転じ、宋の荊湖制置司は平素からその名を知っており、議事官に辟召した。丙申(1236年)、襄陽で兵変が起こると、北に帰り、洛西に至ったところ、楊惟中が詔を奉じて儒士を招集することとなり、磐を得て、深く礼遇したので、河内に寓居した。東平総管の厳実が学を興し士を養うと、磐を師として迎え、学業を受ける者は常に数百人おり、後に多くが名士となった。

原文磐年方冠,從麻九疇學于郾城,客居貧甚,日作糜一器,畫為朝暮食。年二十六,擢正大四年經義進士第,授歸德府錄事判官,不赴。自是大肆力於經史百氏,文辭宏放,浩無涯涘。及河南被兵,磐避難,轉入淮、襄間,宋荊湖制置司素知其名,辟為議事官。丙申,襄陽兵變,乃北歸,至洛西,會楊惟中被旨招集儒士,得磐,深禮遇之,遂寓河內。東平總管嚴實興學養士,迎磐為師,受業者常數百人,後多為名士。

中統元年(1260年)、直ちに益都等路宣撫副使に拝され、しばらくして、病気のため免ぜられた。李璮は平素から磐を重んじ、礼を以て招き寄せた。磐もまた青州の風土を好み、渳河のほとりに田を買い、その居宅に「鹿菴」と題し、ここで終わるつもりであった。李璮が謀反を企てると、磐はそれを察知し、身を脱して済南に至り、駅馬を得て馳せ去り、京師に入り、侍臣を通じて上聞した。世祖は即日に召見し、その誠節を嘉して、慰労甚だ厚かった。李璮が済南を占拠すると、大軍がこれを討ち、帝は磐に行省事を参議するよう命じた。李璮が平定されると、妻子を連れて東平に至った。召されて翰林直学士に拝され、国史の編纂に参与した。

原文中統元年,即拜益都等路宣撫副使,居頃之,以疾免。李璮素重磐,以禮延致之,磐亦樂青州風土,乃買田渳河之上,題其居曰鹿菴,有終焉之意。及璮謀不軌,磐覺之,脫身至濟南,得驛馬馳去,入京師,因侍臣以聞。世祖即日召見,嘉其誠節,撫勞甚厚。璮據濟南,大軍討之,帝命磐參議行(臺)〔省〕事。璮平,遂挈妻子至東平。召拜翰林直學士,同脩國史。

真定・順徳等路宣慰使として出向した。衡水県のダルガチ(達魯花赤)忙兀䚟は、貪暴で法を守らず、県民はこれを苦しんだ。趙清という者がその罪を告発し、すでに自白させたが、ちょうど監察機関が初めて設置された時期で、忙兀䚟の妻は口封じの手段がないことを恐れ、家人を呼んで酒を飲ませて酔わせ、利益で誘って、夜に趙清を殺させようとした。趙清は逃れて難を免れたが、その父母妻子は皆殺しにされた。趙清は官に訴えたが、権力者が忙兀䚟を庇い、取り合わず、さらにその供述を翻させようとした。磐はついに上奏して法に照らして処置し、その家財を没収し、半分を趙清に与えた。郡に西域の大商人がおり、金を貸して利息を取り、期日通りに返済しない者があると、すぐに自宅に牢獄を設け、拘束して鞭打った。その者はさらに勢いを頼んで官府に干渉し、まっすぐに来て庁事に座り、指図を平然と行った。磐は大いに怒り、左右を叱って引きずり下ろさせ、数十回鞭打った。当時、府の役所は城上に仮寓していたので、すぐに城下に突き落とし、ほとんど死にそうになった。郡人は快哉を叫んだ。間もなく、真定で蝗害が発生し、朝廷が使者を派遣して捕獲を監督させた。役夫は四万人いたが、使者は不足と考え、隣接する道に文書を送って援助を求めようとした。磐は言った。「四万人は多い。どうして他の郡を煩わせる必要があろうか。」使者は怒り、磐に状況説明を責め、三日で蝗を全て捕獲するよう求めた。磐は動じず、自ら役夫を率いて田畑に出向き、方法を設けて監督して捕獲させ、三日で蝗は全て駆除された。使者は驚いて神業のようだと思った。

原文出為真定、順德等路宣慰使。(邢)〔衡〕水縣達魯花赤忙兀䚟,貪暴不法,縣民苦之。有趙清者,發其罪,既具伏矣,適初置監司,其妻懼無以滅口,召家人飲酒至醉,以利啗之,使夜殺清,清逃獲免,乃盡殺其父母妻子。清訴諸官,權要蔽忙兀䚟,不為理,又欲反其具獄。磐竟奏置諸法,籍其家貲,以半給清。郡有西域大賈,稱貸取息,有不時償者,輒置獄于家,拘繫榜掠。其人且恃勢干官府,直來坐廳事,指麾自若。磐大怒,叱左右捽下,箠之數十。時府治寓城上,即擠諸城下,幾死,郡人稱快。未幾,蝗起真定,朝廷遣使者督捕,役夫四萬人,以為不足,欲牒鄰道助之。磐曰:「四萬人多矣,何煩他郡!」使者怒,責磐狀,期三日盡捕蝗,磐不為動,親率役夫走田間,設方法督捕之,三日而蝗盡滅,使者驚以為神。

再び翰林に入って学士となり、宰相に謁見した際、まず言った。「当今、民を害する官吏は、転運司が最も甚だしい。白骨にまで税をかけるほどである。これを廃止して、民力を蘇生させるべきである。」これによって運司は遂に廃止された。アフマド(阿合馬)は大臣にそそのかし、中書省と尚書省の両省を一つに合併し、右丞相アントン(安童)を三公に拝するよう請願し、ひそかにその政権を奪おうとした。詔によって会議が開かれた。磐は言った。「両省を一つに合併し、右丞相がこれを総括するのは、実に便利である。そうでなければ、従来のままにすべきである。三公は政事に関与しないのであれば、虚設すべきではない。」この議論はそこで止んだ。太常少卿に遷り、致仕を請うたが、許されなかった。

原文復入翰林為學士,入謁宰相,首言:「方今害民之吏,轉運司為甚,至稅人白骨,宜罷去之,以蘇民力。」由是運司遂罷。阿合馬諷大臣,請合中書、尚書兩省為一,拜右丞相安童為三公,陰欲奪其政柄。有詔會議,磐言:「合兩省為一,而以右丞相總之,實便,不然,則宜仍舊,三公既不預政事,則不宜虛設。」其議遂沮。遷太常少卿,乞致仕,不允。

当時、宮殿は未だ建てられておらず、朝儀も定まっていなかった。慶賀の際には、臣下や庶民が雑然と帳殿の前に至り、執法者はその喧騒を憂えて、制止できなかった。磐は上疏して言った。「旧制によれば、天子の宮門に、入るべからざる所に入ることを『闌入』という。闌入の罪は、第一の門から第三の門まで、軽重の差がある。宣徽院に命じて、両省以下の百官の姓名を登録させ、それぞれ班序に従い、通事舎人の伝呼と導きを待ってから進ませるべきである。順序を越える者は、殿中司が糾察して罰を定め、入るべからざる所に入る者は、闌入の罪に準ずる。そうすれば朝廷の礼儀も次第に整えられるであろう。」これによって儀制が初めて定まった。

原文時宮闕未建,朝儀未立,凡遇稱賀,臣庶雜至帳殿前,執法者患其諠擾,不能禁。磐上疏曰:「按舊制:天子宮門,不應入而入者,謂之闌入。闌入之罪,由第一門至第三門,輕重有差。宜令宣徽院,籍兩省而下百官姓名,各依班序,聽通事舍人傳呼贊引,然後進。其越次者,殿中司糾察定罰,不應入而入者,準闌入罪,庶朝廷之禮,漸可整肅。」於是儀制始定。

曲阜の孔子廟には、歴代にわたって洒掃の務めに当たらせるため、民戸百家が与えられ、その家の賦役を免除されていた。この時、尚書省が戸籍調査のため、これを全て民籍に収めてしまった。磐は言った。「林廟戸百家の年間の賦税は、鈔で六百貫に過ぎず、わずかに六品官の一年の俸禄に匹敵するだけである。聖朝の疆域は万里、財賦は毎年億万を数える。どうして一六品官の俸禄を惜しんで、孔子に備えないことがあろうか。かつ、府庫の利益には大してならず、国体を損なうことは甚だ大きい。」当時の論者はこれを正しいとした。帝は天下の獄囚が増えているのを憂い、諸路に命じて死罪以下の囚人を全て釈放して家に帰らせ、秋八月を期して悉く京師に来て判決を聴くよう命じた。囚人は期日通りに到着した。帝は哀れに思い、その罪を全て赦免した。ある日、詞臣に詔を作らせ、天下に戒め諭させたが、皆、帝の意に適わなかった。磐だけが囚人を釈放した趣旨に基づいて文辞を作ると、帝は喜んで言った。「これは朕が言いたくても言えなかったことを、卿が朕のために言ってくれたのだ。」嘉奬してやまず、酒を取って賜った。

原文曲阜孔子廟,歷代給民百戶,以供洒掃,復其家,至是,尚書省以括戶之故,盡收為民,磐言:「林廟戶百家,歲賦鈔不過六百貫,僅比一六品官終年俸耳。聖朝疆宇萬里,財賦歲億萬計,豈愛一六品官俸,不以待孔子哉?且於府庫所益無多,其損國體甚大。」時論韙之。帝以天下獄囚滋多,敕諸路自死罪以下,縱遣歸家,期秋八月,悉來京師聽決,囚如期至,帝惻然憐之,盡原其罪。他日,命詞臣作詔,戒喻天下,皆不稱旨意,磐獨以縱囚之意命辭,帝喜曰:「此朕所欲言而不能者,卿乃能為朕言之。」嘉奬不已,取酒賜之。

再び致仕を請うたが、許されなかった。国子祭酒の許衡が帰郷を告げようとしたとき、帝は近臣を遣わして磐に意見を問うた。磐は言った。「衡は平素から廉潔で節操がある。その退任を求める理由は、もしかすると生員の数が少なく、禄を無駄に消費していることに不安を感じているからではないでしょうか。生員を増やし、彼に教育を施させれば、人材が育つ見込みがあり、衡が禄を受けることも少しは安心できるでしょう。」詔はこれに従った。

原文再乞致仕,不允。國子祭酒許衡將告歸,帝遣近臣問磐,磐言:「衡素廉介,意其所以求退者,得非生員數少,坐縻廩祿,有所不安耶?宜增益生員,使之施教,則庶幾人材有成,衡之受祿亦可少安矣。」詔從之。

磐は病気を理由に家に引きこもった。帝は使者を遣わして見舞い、名薬を賜った。磐は会議の席で、しばしば言った。「前代の用人は、二十歳で政事に就き、七十歳で致仕した。これはその材力を活用し、その衰老を憐れみ、廉耻の心を養うためである。今、官に就く者は年齢制限がなく、老病の者も退くことができない。彼らは自ら恥を知らず、朝廷もそれを非としない。これは甚だよろしくない。」この時、病気を理由に、月俸の支給を断つよう請願し、秋から春にかけて、固く致仕を乞うた。帝は使者を遣わして慰諭して言った。「卿は年こそ老いているが、煩雑な事務を任せているわけではない。どうして辞めようとするのか。」引き続き終身にわたり俸禄を与えるよう詔し、断たれた月俸も全て返還させた。磐はやむを得ず、再び起用された。

原文磐移疾家居,帝遣使存問,賜以名藥。磐嘗於會集議事之際,數言:「前代用人,二十從政,七十致仕,所以資其材力,閔其衰老,養其廉耻之心也。今入仕者不限年,而老病者不能退,彼既不自知耻,朝廷亦不以為非,甚不可也。」至是,以疾,請斷月俸毋給,自秋及春,堅乞致仕。帝遣使慰諭之曰:「卿年雖老,非任劇務,何以辭為?」仍詔祿之終身,併還所斷月俸。磐不得已,復起。

当時、ちょうど宋を討伐していた。帷幄の謀議で決まらないことがあると、すぐに使者を遣わして磐に問うた。磐の陳述する意見は、常に上意に適った。帝が日本に出兵しようとしたとき、便宜を問うた。磐は言った。「今は宋を討伐している最中である。全力をこれに用いるべきで、そうすれば一挙にこれを取ることができるでしょう。もしさらに力を東夷に分ければ、長い時日を費やし、功績は結局成し難いでしょう。宋を滅ぼしてから、ゆっくり図るのが遅くありません。」江南が平定されると、磐は上疏し、大要は「軍士を禁制し、官吏を選択し、功を賞し罪を罰し、恩信を推し広めて、新たに帰附した者を撫安し、寇盗を消滅させること」を述べた。その言は要を得て切実であり、皆施行された。

原文時方伐宋,凡帷幄謀議,有所未決,即遣使問之,磐所敷陳,每稱上意。帝將用兵日本,問以便宜,磐言:「今方伐宋,當用吾全力,庶可一舉取之。若復分力東夷,恐曠日持久,功卒難成。俟宋滅,徐圖之未晚也。」江南既下,磐上疏,大略言:「禁戢軍士,選擇官吏,賞功罰罪,推廣恩信,所以撫安新附,銷弭寇盜。」其言要切,皆見施行。

朝廷において冗官を淘汰する議論があり、権勢に近い者が私的に按察司が不便であるとし、これを併合・廃止しようとした。王磐が上疏して奏上した。「各路・州郡は、京師から遠く離れており、貪官汚吏が小民を侵害し、訴えるところがない。ただ按察司を頼りとしてこれを申し立て、理を明らかにしているのである。もしこれを冗官と指して、一律に罷免してしまえば、小民は冤罪で死んでも訴えるところがなくなるであろう。もし京師に御史台があって四方の事を糾察するというならば、それは甚だしく当たらない。そもそも御史台は、朝廷の百官・京畿の州県を糾察するのでさえ、まだ及ばないことがあるのに、ましてや外路の千百の城の事を周遍できるであろうか。もしこれを運司に併入しようとするならば、運司は専ら営利と課税増収を職務としており、民を管轄する官とは常に彼此を分かっている。どうして細民の冤抑を顧みる暇があろうか。」これによって按察司は廃止されずに済んだ。

原文朝議汰冗官,權近私以按察司不便,欲併省之。磐奏疏曰:「各路州郡,去京師遙遠,貪官污吏,侵害小民,無所控告,惟賴按察司為之申理。若指為冗官,一例罷去,則小民寃死而無所訴矣。若曰京師有御史臺糾察四方之事,是大不然。夫御史臺,糾察朝廷百官、京畿州縣,尚有弗及,況能周徧外路千百城之事乎?若欲併入運司,運司專以營利增課為職,與管民官常分彼此,豈暇顧細民之寃抑哉?」由是按察司得不罷。

朝廷が宋平定の功績を記録し、宰相・執政にまで昇進した者が二十余人に及んだため、官制を改定する議論が起こった。王磐が上疏して奏上した。「歴代の制度には、官品があり、爵号があり、職位がある。官爵は栄寵を示すためであり、職位は事権を委ねるためである。臣下に功績や労苦があれば、その大小に従って官爵で報い、才能や能力があれば、その堪えるところに相応しく職位に処する。これが人君が臣下を統御する術である。臣は思うに、功績のある者には、散官を加えて昇進させるか、あるいは五等の爵号を賜うべきであり、漢・唐の侯を封ずる制度のようであればよい。職位に任ずるのは適当ではない。」

原文朝廷錄平宋功,遷至宰相執政者二十餘人,因議更定官制,磐奏疏曰:「歷代制度,有官品,有爵號,有職位,官爵所以示榮寵,職位所以委事權。臣下有功有勞,隨其大小,酬以官爵,有才有能,稱其所堪,處以職〔位〕,此人君御下之術也。臣以為有功者,宜加遷散官,或賜五等爵號,如漢、唐封侯之制可也,不宜任以職位。」

日本征伐の役において、出師の期日が定まった。王磐が入朝して諫言した。「日本は小夷であり、海道は険しく遠い。勝っても武を誇るに足らず、勝たなければ威厳を損なう。臣は伐たない方がよいと存じます。」帝は激怒し、言うべきでないことであるとし、さらに言った。「これはわが国の法では、言った者は赦さない。お前は他に心があってそう言うのか。」王磐は答えて言った。「臣は赤心をもって国のためを思い、敢えて言上したのであります。もし他心があれば、どうして叛乱の地から、万死を冒して帰参したでしょうか。今、臣はすでに八十歳であり、まして子孫もいません。他心があって何をしようというのでしょうか。」翌日、帝は侍臣を遣わして温かい言葉で慰撫し、憂い恐れることなからしめた。後に内府の珍玩を閲覧し、碧玉の宝枕があったため、これを取り出して賜った。

原文日本之役,師行有期,磐入諫曰:「日本小夷,海道險遠,勝之則不武,不勝則損威,臣以為勿伐便。」帝震怒,謂非所宜言,且曰:「此在吾國法,言者不赦,汝豈有他心而然耶?」磐對曰:「臣赤心為國,故敢以言,苟有他心,何為從叛亂之地,冒萬死而來歸乎?今臣年已八十,況無子嗣,他心欲何為耶?」明日,帝遣侍臣以溫言慰撫,使無憂懼。後閱內府珍玩,有碧玉寶枕,因出賜之。

王磐は年老いたことを理由に、累次にわたって致仕を乞うた。丞相の和礼霍孫がこれを取り次いで言上すると、詔してその請いを許し、資徳大夫に進階させ、致仕させたが、なお終身にわたり半俸を給することとした。皇太子はその去ることを聞き、宮中に召し入れて食事を賜い、久しく慰問した。出発の日、公卿百官は皆宴を設けて餞別した。翌日、皇太子は聖安寺で宴を賜い、公卿百官は麗沢門の外まで見送りに出た。縉紳はこれを栄誉とした。王磐に子がなかったため、その婿の著作郎李穉賓を東平判官に任じ、養いやすくさせた。大臣がしばしば謁見するたびに、帝は王磐の起居の様子を尋ね、終始眷顧して衰えなかった。

原文磐以年老,累乞骸骨。丞相和禮霍孫為言,詔允其請,進資德大夫,致仕,仍給半俸終身。皇太子聞其去,召入宮,賜食,慰問良久。行之日,公卿百官皆設宴以餞。明日,皇太子賜宴聖安寺,公卿百官出送麗澤門外,縉紳以為榮。磐無子,命其壻著作郎李穉賓為東平判官,以便養。每大臣燕見,帝數問磐起居狀,始終眷顧不衰。

王磐は資性剛直方正で、閑居するときも妄りに言笑せず、毎回奏対するときは必ず正論をもってし、意に阿って承順することを肯んじなかった。帝はかつて古風で直な者と称賛した。権勢を握る幸臣が側目しても顧みなかった。阿合馬がちょうど権勢を得たとき、重い財貨を贈って碑文を求めたが、王磐は拒絶して与えなかった。推薦した宋衜・雷膺・魏初・徐琰・胡祗遹・孟祺・李謙は、後に皆名臣となった。九十二歳に至り、卒去の夕、大きな星が正寝の東に隕落した。端貞雅亮佐治功臣・太傅・開府儀同三司を追贈され、洺国公に追封され、諡して文忠といった。

原文磐資性剛方,閑居不妄言笑,每奏對,必以正,不肯阿意承順,帝嘗以古直稱之,雖權倖側目,弗顧也。阿合馬方得權,致重幣求文于碑,磐拒弗與。所薦宋衜、雷膺、魏初、徐琰、胡祗遹、孟祺、李謙,後皆為名臣。年至九十二,卒之夕,有大星隕正寢之東。贈端貞雅亮佐治功臣、太傅、開府儀同三司,追封洺國公,諡文忠。

王鶚

王鶚、字は百一、曹州東明の人。曾祖父は成、祖父は立、父は琛。王鶚が生まれたとき、大きな鳥が庭に止まった。郷里の先生張奫が言った。「鶚である。この児はきっと大きな名声を得るであろう。」それによって名付けた。幼くして聡明で悟りが早く、日に千余言を誦し、成長して詞賦に巧みであった。

原文王鶚字百一,曹州東明人。曾祖成,祖立,父琛。鶚始生,有大鳥止於庭,鄉先生張奫曰:「鶚也。是兒其有大名乎!」因名之。幼聰悟,日誦千餘言,長工詞賦。

金の正大元年、進士第一甲第一人(状元)の出身となり、応奉翰林文字を授けられた。六年、帰徳府判官を授けられ、亳州城父県令を代行した。七年、同知申州事に改められ、蔡州汝陽県令を代行したが、母の喪に服した。天興二年、金主が蔡に遷都した。詔して尚書省に恒山公武仙に進兵を促す文書を作らせた。金主が文書を閲覧し、誰が作ったかと問うと、右丞完顔仲徳が言った。「前翰林応奉の王鶚です。」金主は言った。「朕が即位した時の状元か。」召し出して見ると、抜擢任用が遅かったことを惜しんだ。喪中を起復させ、尚書省右司都事を授け、左右司郎中に昇進させた。三年、蔡が陥落し、殺されようとしたとき、万戸の張柔がその名を聞き、救い出し、車で連れ帰り、保州に館して保護した。

原文金正大元年,中進士第一甲第一人出身,授應奉翰林文字。六年,授歸德府判官,行亳州城父令。七年,改同知申州事,行蔡州汝陽令,丁母憂。天興二年,金主遷蔡,詔尚書省移書恒山公武仙進兵,金主覽書,問誰為之,右丞完顏仲德曰:「前翰林應奉王鶚也。」曰:「朕即位時狀元耶?」召見,惜擢用之晚。起復,授尚書省右司都事,陞左右司郎中。三年,蔡陷,將被殺,萬戶張柔聞其名,救之,輦歸,舘于保州。

甲辰の冬、世祖が藩邸にあって、遺逸の士を訪求し、使者を遣わして王鶚を招聘した。到着すると、使者数人が迎えて労い、召し出して応対させた。孝経・書経・易経を進講し、および斉家治国の道、古今事物の変遷を講じ、毎夜遅くまで及んだ。世祖は言った。「我は今すぐに汝の言うことを実行することはできないが、どうして異日に行えないことがあろうか。」一年余りして帰還を乞うと、馬を賜い、なお近侍の闊闊・柴禎ら五人に彼に従って学ばせた。続いて大都に移住することを命じ、邸宅一区を賜った。かつて謁見の際に請うて言った。「天兵が蔡を攻克したとき、金主は自縊し、その奉御の絳山が汝水のほとりで遺体を焼いて葬りました。礼として旧君に服喪するものがあります。願わくば往って葬祭を行いたい。」世祖はその義を感じて許した。到着すると、すでに河水に没していたため、祭具と牲酒を設け、位牌を立てて哭した。

原文甲辰冬,世祖在藩邸,訪求遺逸之士,遣使聘鶚。及至,使者數輩迎勞,召對。進講孝經、書、易,及齊家治國之道,古今事物之變,每夜分,乃罷。世祖曰:「我雖未能即行汝言,安知異日不能行之耶!」歲餘,乞還,賜以馬,仍命近侍闊闊、柴禎等五人從之學。繼命徙居大都,賜宅一所。嘗因見,請曰:「天兵克蔡,金主自縊,其奉御絳山焚葬汝水之傍,禮為舊君有服,願往葬祭。」世祖義而許之,至則為河水所沒,設具牲酒,為位而哭。

庚申年、世祖が即位し、中統と建元した。まず翰林学士承旨を授け、制誥や典章は皆彼が裁定した。至元元年、資善大夫を加えられた。上奏して言った。「古来の帝王の得失興廃が考察できるのは、史があるからです。我が国家は神武をもって四方を平定し、天戈の臨むところ、臣服しない者はありませんでした。これは皆、太祖皇帝の廟謨雄断によるものです。もし時に乗じて記録しなければ、久しくなって遺失することを恐れます。宜しく局を置いて実録を纂修し、遼・金二史を附修すべきです。」また言った。「唐の太宗は天下を平定し始めて、弘文館学士十八人を置きました。宋の太宗は太祖の開創の後に承けて、内外学士院を設けました。史冊は爛然として、文治と称されました。堂堂たる我が国朝に、どうして唐・宋のような英才がないことがありましょうか。」皆これに従い、始めて翰林学士院を設立し、王鶚は李冶・李昶・王磐・徐世隆・高鳴を学士として推薦した。また十道提挙学校官を設置することを奏上した。

原文庚申,世祖即位,建元中統。首授翰林學士承旨,制誥典章,皆所裁定。至元元年,加資善大夫。上奏:「自古帝王得失興廢可考者,以有史在也。我國家以神武定四方,天戈所臨,無不臣服者,皆出太祖皇帝廟謨雄斷所致,若不乘時紀錄,竊恐久而遺亡,宜置局纂就實錄,附修遼、金二史。」又言:「唐太宗始定天下,置弘文舘學士十八人,宋太宗承太祖開創之後,設內外學士院,史冊爛然,號稱文治。堂堂國朝,豈無英才如唐、宋者乎!」皆從之,始立翰林學士院,鶚遂薦李冶、李昶、王磐、徐世隆、高鳴為學士。復奏立十道提舉學校官。

事を言上する者がいて、宰執がその人に非ずとし、詔して儒臣に廷議させて宰相に任ずべき者を挙げさせた。当時、阿合馬は巧みで諂う者で、隙に乗じて宰相の位を得ようとし、大臣もまたこれを助けた。衆人はその非を知りながら、敢えて言う者はいなかった。王鶚は奮然として筆を投げて言った。「我は衰老の年であり、国に報いる術がない。もしこの者を宰相に推挙任用しようとするならば、我は驢の尾に挿すこと(=恥を忍んで従うこと)はできない。」袖を振って立ち上がった。奸計はこれによって中止された。五年、致仕を乞うと、詔して有司に命じ、終身にわたり禄米を給することとし、大事があれば使者を遣わして就いて問うこととした。十年、卒去。八十四歳。諡して文康といった。

原文有言事者,謂宰執非其人,詔儒臣廷議可任宰相者。時阿合馬巧佞,欲乘隙取相位,大臣復助之,眾知其非,莫敢言。鶚奮然擲筆曰:「吾以衰老之年,無以報國,即欲舉任此人為相,吾不能插驢尾矣。」振袖而起,奸計為之中止。五年,乞致仕,詔有司歲給廩祿終其身,有大事則遣使就問之。十年,卒,年八十四,諡文康。

王鶚は性質が楽易で、文章を作るのに彫飾を事とせず、かつて言った。「学者は窮理を先とすべきである。章を分け句を析することは、経生や挙子の業であって、己のための学問ではない。」論語集義一卷、汝南遺事二卷、詩文四十卷(応物集と称す)を著した。子がなく、婿の周鐸の子である之綱にその祭祀を継がせた。之綱は官は翰林侍講学士に至った。

原文鶚性樂易,為文章不事雕飾,嘗曰:「學者當以窮理為先,分章析句,乃經生舉子之業,非為己之學也。」著論語集義一卷,汝南遺事二卷,詩文四十卷,曰應物集。無子,以壻周鐸子之綱承其祀。之綱,官至翰林侍講學士。

高鳴

高鳴、字は雄飛、真定の人。若くして文学をもって知名であった。河東の元裕が上書して推薦したが、返答がなかった。諸王旭烈兀が西域を征伐しようとしたとき、その賢を聞き、使者を三度遣わして召し出した。高鳴はようやく起ち上がり、王のために西征に関する二十余りの策を陳べた。王はしばしば善しと称賛し、すぐに彰徳路総管として推薦した。

原文高鳴字雄飛,真定人,少以文學知名。河東元裕上書薦之,不報。諸王旭烈兀將征西域,聞其賢,遣使者三輩召之,鳴乃起,為王陳西征二十餘策,王數稱善,即薦為彰德路總管。

世祖が即位すると、誥命と金符を賜い、やがて召されて翰林學士となり、太常少卿を兼ねた。至元五年、御史臺が設置されると、高鳴を侍御史に任じ、風紀條章の多くは彼が裁定した。まもなく四道按察司が設置され、名士を選任したが、高鳴の推薦による者が多く、当時の論評は皆その人を見抜く眼力を称えた。天下が初めて平定された時、中書省・枢密院の政務は多く滞っていたので、上奏者はそれぞれに督事官二人を置くよう請うたが、高鳴は言った、「適任の官を得れば、自然と政務の停滞はなくなる。臣の職務は憲法を奉ずることにあり、これを推挙して監察することを願う。員外の官を置くべきではない」。

原文世祖即位,賜誥命金符,已而召為翰林學士,兼太常少卿。至元五年,立御史臺,以鳴為侍御史,風紀條章,多其裁定。尋立四道按察司,選任名士,鳴所薦居多,時論咸稱其知人。天下初定,中書、樞密事多壅滯,言者請置督事官各二人,鳴曰:「官得人,自無滯政,臣職在奉憲,願舉察之,毋為員外置人也。」

七年、三省を設置する議論が起こると、高鳴は封事を上奏して言った、「臣が聞くところでは、三省は近古に設置され、その法は中書省が政令を出し、門下省に移して、議論が合わなければ駁正し、あるいは詔書を封還する。議論が合えば、中書省に戻し、中書省が尚書省に移し、尚書省が六部・郡国に下す。今、天下は古より大きく、事柄はますます繁雑である。一省で決済してもなお停滞があるというのに、まして三省ではどうか。また、官を多く置くのは、失政を免れようとするためであるが、ただ賢俊を一堂に集め、連署して参決させれば、自ずと失政は免れる。必ずしも別の官を異なる席に置かねば失政がないというわけではない。故に言う、政は人を得ることを貴び、官が多いことを貴ばぬ、と。一省の方が便利である」。世祖は深くこれを然りとし、議論は遂に取りやめとなった。川・陝で盗賊が起こり、省臣はこれを憂い、特にひどい者を専断で誅戮して盗賊を止めるよう請うた。朝廷の議論はこれに従おうとしたが、高鳴は諫めて言った、「制令では天下の死囚は必ず論報を待つこととしており、これは刑を重んじ、民生を惜しむためである。今その請いに従えば、天下に擅殺の道を開くことになり、仁政を害すること甚だ大きい」。世祖は言った、「善し」。すぐに止めるよう命じた。

原文七年,議立三省,鳴上封事曰:「臣聞三省,設自近古,其法由中書出政,移門下,議不合,則有駁正,或封還詔書;議合,則還移中書;中書移尚書,尚書乃下六部、郡國。方今天下大於古,而事益繁,取決一省,猶曰有壅,況三省乎!且多置官者,求免失政也,但使賢俊萃于一堂,連署參決,自免失政,豈必別官異坐,而後無失政乎!故曰:政貴得人,不貴多官。不如一省便。」世祖深然之,議遂罷。川、陝盜起,省臣患之,請專戮其尤者以止盜,朝議將從之,鳴諫曰:「制令天下上死囚,必待論報,所以重用刑、惜民生也。今從其請,是開天下擅殺之路,害仁政甚大。」世祖曰︰「善。」令速止之。

高鳴は常に敢言をもって上に知られ、嘗て内裏に入った時、大風雪に遭い、帝は御史大夫タチャル(塔察兒)に言った、「高學士は年老いている。後に大政があれば、尋ねてよい」。太官の酒肉を賜って慰労し、そのように敬礼された。九年、吏禮部尚書に遷った。十一年、病没。六十六歳。文集五十巻がある。

原文鳴每以敢言被上知,嘗入內,值大風雪,帝謂御史大夫塔察兒曰:「高學士年老,後有大政,就問可也。」賜太官酒肉慰勞之,其見敬禮如此。九年,遷吏禮部尚書。十一年,病卒,年六十六,有文集五十卷。

李冶

李冶、字は仁卿、真定欒城の人。金の進士に及第し、高陵の主簿に任じられたが、赴任せず、鈞州の知事に辟召された。壬辰の年、城が陥落し、李冶は微服で北に渡り、忻・崞の間に流寓し、書物を集めて環堵の室に住んだ。人は耐えられなかったが、李冶はゆとりをもって処した。

原文李冶字仁卿,真定欒城人。登金進士第,調高陵簿,未上,辟知鈞州事。歲壬辰,城潰,冶微服北渡,流落忻、崞間,聚書環堵,人所不堪,冶處之裕如也。

世祖が潜邸におられた時、その賢を聞き、使者を遣わして召し、かつ言った、「かねて仁卿が学優れ才豊かで、潜徳を隠して耀かさぬと聞く。久しく一見を欲していた。他の言い訳はするな」。既に至ると、問うた、「河南で官に居る者で誰が賢か」。答えて言った、「険夷一節、ただ完顏仲德のみ」。また問うた、「完顏合答及び蒲瓦はどうか」。答えて言った、「二人は将略に短少で、疑わずに任用した。これが金の滅びた所以です」。また問うた、「魏徴・曹彬はどうか」。答えて言った、「魏徴は忠言讜論、知ることを言わざるなく、唐の諍臣から見れば、魏徴が第一である。曹彬は江南を伐つに、嘗て妄りに一人も殺さず、方叔・召虎に比すべきである。漢の韓信・彭越・衛青・霍去病は論ずるに及ばぬ」。また問うた、「今の臣で魏徴のような者はいるか」。答えて言った、「今は側媚が風となり、魏徴のような賢者を求めるは、実にその人を得難い」。また問うた、「今の人材の賢否は」。答えて言った、「天下は未だ嘗て材に乏しからず、求めれば得、捨てれば失う。理勢そういうものである。今の儒生で魏璠・王鶚・李献卿・蘭光庭・趙復・郝経・王博文の輩は、皆有用の材であり、また皆賢王が嘗て聘問された者である。挙げて用いれば、何が不可であろうか。ただ用いて尽くさぬことを恐れるのみ。然れども四海の広さ、豈にこの数子に止まろうか。王が誠に外に広く求められば、明廷に集まるのを見るでしょう」。

原文世祖在潛邸,聞其賢,遣使召之,且曰:「素聞仁卿學優才贍,潛德不耀,久欲一見,其勿他辭。」既至,問︰「河南居官者孰賢?」對曰:「險夷一節,惟完顏仲德。」又問︰「完顏合答及蒲瓦何如?」對曰:「二人將略短少,任之不疑,此金所以亡也。」又問︰「魏徵、曹彬何如?」對曰:「徵忠言讜論,知無不言,以唐諍臣觀之,徵為第一。彬伐江南,未嘗妄殺一人,儗之方叔、召虎可也。漢之韓、彭、衞、霍,在所不論。」又問︰「今之臣有如魏徵者乎?」對曰:「今以側媚成風,欲求魏徵之賢,實難其人。」又問︰「今之人材賢否?」對曰:「天下未嘗乏材,求則得之,舍則失之,理勢然耳。今儒生有如魏璠、王鶚、李獻卿、蘭光庭、趙復、郝經、王博文輩,皆有用之材,又皆賢王所嘗聘問者,舉而用之,何所不可,但恐用之不盡耳。然四海之廣,豈止此數子哉?王誠能旁求於外,將見集於明廷矣。」

また問うた、「天下をどう治めるべきか」。答えて言った、「天下を治めるのは、難しければ登天の如く難しく、易しければ反掌の如く易しい。法度あれば治まり、名を控え実を責めれば治まり、君子を進め小人を退ければ治まる。このようにして天下を治めれば、豈に反掌の如く易しからざらんや。法度なければ乱れ、名有りて実なければ乱れ、小人を進め君子を退ければ乱れる。このようにして天下を治めれば、豈に登天の如く難からざらんや。且つ治道は、法度を立て、紀綱を正すに過ぎない。紀綱とは、上下相維持するもの。法度とは、賞罰をもって懲勸を示すもの。今は大官小吏、下は編氓に至るまで、皆自ら恣にし、私を以て公を害する。これ法度なきなり。功ある者は必ずしも賞を得ず、罪ある者は必ずしも罰せられず、甚だしきは功ある者がかえって辱めを受け、罪ある者がかえって寵を得る。これ法度なきなり。法度廃れ、紀綱壊れれば、天下が変乱しないのは、已に幸いである」。

原文又問︰「天下當何以治之?」對曰:「夫治天下,難則難於登天,易則易於反掌。蓋有法度則治,控名責實則治,進君子退小人則治,如是而治天下,豈不易於反掌乎?無法度則亂,有名無實則亂,進小人退君子則亂,如是而治天下,豈不難於登天乎?且為治之道,不過立法度、正紀綱而已。紀綱者,上下相維持;法度者,賞罰示懲勸。今則大官小吏,下至編氓,皆自縱恣,以私害公,是無法度也。有功者未必得賞,有罪者未必被罰,甚則有功者或反受辱,有罪者或反獲寵,是無法度也。法度廢,紀綱壞,天下不變亂,已為幸矣。」

また問うた、「昨今の地震はどうか」。答えて言った、「天裂は陽不足、地震は陰有余。夫れ地道は陰なり。陰が太盛すれば、則ち常を変ず。今の地震は、或いは姦邪側に在り、或いは女謁盛行し、或いは讒慝交至し、或いは刑罰中を失い、或いは征伐驟挙する。この五者の内、必ず一つがここにある。夫れ天の君を愛すること、その子を愛するが如し。故にこれを示して警めるのである。苟くも姦邪を辨じ、女謁を去り、讒慝を屏ぎ、刑罰を省み、征討を慎み、上は天心に当たり、下は人意に協えば、則ち咎を転じて休と為すことができましょう」。世祖は嘉してこれを納れた。

原文又問︰「昨地震何如?」對曰:「天裂為陽不足,地震為陰有餘。夫地道,陰也,陰太盛,則變常。今之地震,或姦邪在側,或女謁盛行,或讒慝交至,或刑罰失中,或征伐驟舉,五者必有一于此矣。夫天之愛君,如愛其子,故示此以警之耳。苟能辨姦邪,去女謁,屏讒慝,省刑罰,慎征討,上當天心,下協人意,則可轉咎為休矣。」世祖嘉納之。

李冶は晚年に元氏に家を構え、封龍山の下に田を買い、学徒がますます多くなった。世祖が即位すると、再び招聘し、清要の職に処そうとしたが、李冶は老病を理由に、懇願して山に還った。至元二年、再び學士として召されたが、職に就いて一月ほどで、また老病を理由に辞去し、家で卒した。八十八歳。著書に『敬齋文集』四十巻、『壁書藂削』十二巻、『泛説』四十巻、『古今黈』四十巻、『測圓海鏡』十二巻、『益古衍段』三十巻がある。

原文冶晚家元氏,買田封龍山下,學徒益眾。及世祖即位,復聘之,欲處以清要,冶以老病,懇求還山。至元二年,再以學士召,就職期月,復以老病辭去,卒于家,年八十八。所著有敬齋文集四十卷,壁書藂削十二卷,泛說四十卷,古今(難)〔黈〕四十卷,測圓(鏡海)〔海鏡〕十二卷,益古衍(疑)〔段〕三十卷。

李昶

李昶、字は士都、東平須城の人。父の李世弼は、外家に従って孫明復の春秋を学び、その宗旨を得た。金の貞祐初年、三度廷試に赴いたが及第せず、推恩により彭城の主簿を授けられたが、志が鬱屈して楽しまず、遂に再び試験を求めた。ある夜、李彥の牓下で及第する夢を見た。計偕の士を調べたがその名はなく、当時李昶は十六歳で、既に程文を作ることができたので、名を彦と改めた。興定二年、父子で廷試に臨み、李昶は果たして春秋で第二甲第二人に、世弼は第三甲第三人に及第した。父子の褒貶はそれぞれ異なり、時人は向・歓に比したが、世弼は遂に再び仕えず、晚年になって東平教授を授けられて卒した。

原文李昶字士都,東平須城人。父世弼,從外家受孫明復春秋,得其宗旨。金貞祐初,三赴廷試,不第,推恩授彭城簿,志壹鬱不樂,遂復求試。一夕,夢在李彥牓下及第,閱計偕之士,無之,時昶年十六,已能為程文,乃更其名曰彥。興定二年,父子廷試,昶果以春秋中第二甲第二人,世弼第三甲第三人,父子褒貶各異,時人以比向、歆,而世弼遂不復仕,晚乃授東平教授以卒。

李昶は穎悟人に過ぎ、読書は夙習の如く、故なくして戸外に出ず、隣里もその面を識ることは稀であった。初めて父に従って科場に入った時、同輩は彼を軽んじ、譏議紛紜たるものがあった。監試者はその次舎を遠ざけ、伺察甚だ厳しかった。李昶は筆を揮って数千言、午前中には既に草稿を脱した。及第して官に就き、徵事郎・孟州温県丞を授かった。正大元年、超授で儒林郎・緋魚袋を賜い、鄭州河陰の主簿となった。三年、召されて尚書省掾を試みられ、再び漕運提挙に転じた。

原文昶穎悟過人,讀書如夙習,無故不出戶外,鄰里罕識其面。初從父入科場,儕輩少之,譏議紛紜,監試者遠其次舍,伺察甚嚴。昶肆筆數千言,比午,已脫藳。釋褐,授徵事郎、孟州溫縣丞。正大改元,超授儒林郎、賜緋魚袋、鄭州河陰簿。三年,召試尚書省掾,再調漕運提舉。

国兵が河南を下すと、親を奉じて郷里に還る。行臺の厳実が辟召して都事に任じ、行軍万戸府知事に改める。実が卒すと、子の忠済が嗣ぎ、昶を経歴に昇進させる。数年を経て、忠済は政事に怠り、貪佞の徒が隙に乗じて進む。昶、忠済に言うには、「近年内外ともに裘馬を相尚び、飲宴度を過ごし、庫蔵は空虚、百姓は匱乏す。もしなお故常を循習せば、恐らくは変を生ずるあらん。惟だ閣下は正士を接納し、小人を黜遠し、浮華を去り、樸素を敦くし、騎従を損じ、宴游を省き、すでに然るの失を救う能わずとも、未だ然らざるの禍を弭ぐべし」と。時に朝廷は諸侯を裁抑し、法制次第に密なり。忠済は縦侈自若たり。昶は親老を以て解くを求め、許されず。俄かに父憂にて官を去り、門を杜して教授す。一時の名士、李謙・馬紹・吳衍の輩、皆その門に出づ。

原文國兵下河南,奉親還鄉里。行臺嚴實辟授都事,改行軍萬戶府知事。實卒,子忠濟嗣,陞昶為經歷。居數歲,忠濟怠於政事,貪佞抵隙而進。昶言於忠濟曰:「比年內外裘馬相尚,飲宴無度,庫藏空虛,百姓匱乏,若猶循習故常,恐或生變。惟閤下接納正士,黜遠小人,去浮華,敦樸素,損騎從,省宴游,雖不能救已然之失,尚可以弭未然之禍。」時朝廷裁抑諸侯,法制寢密,忠濟縱侈自若,昶以親老求解,不許。俄以父憂去官,杜門教授,一時名士,若李謙、馬紹、吳衍輩,皆出其門。

歳己未、世祖宋を伐ち、濮州に次ぐ。昶の名を聞き、召見して治國用兵の要を問う。昶上疏す。治國を論ずるには、賢を用い、法を立て、賞罰し、君道を尽くし、本を務め、源を清むるを以て対え、用兵を論ずるには、罪を伐ち、民を救い、殺を嗜まざるを以て対う。世祖嘉納す。明年、世祖即位し、開平に召し至り、国事を訪う。昶は知る所を言わざるなく、眷遇益々隆し。

原文歲己未,世祖伐宋,次濮州,聞昶名,召見,問治國用兵之要。昶上疏:論治國,則以用賢、立法、賞罰、君道、務本、清源為對;論用兵,則以伐罪、救民、不嗜殺為對。世祖嘉納之。明年,世祖即位,召至開平,訪以國事,昶知無不言,眷遇益隆。

時に徴需煩重なり。行中書省は税賦を科徴し、逋戸といえども貸さず。昶、時相に書を移す。その略に曰く、「百姓弊政に困すること久し。聖上龍飛し、首めて明詔を頒ち、天下の人、更生を得るが如し。目を拭い耳を傾けて太平を徯つ。半年の間、人漸く失望す。良に渴仰の心太く切にして、興除の政未だ孚らざる故なり。側聞く、丁巳の戸籍に拠りて租税を科徴せんと欲すと。見戸に比すれば、或いは十六七を加多す。止だ見戸を験するも、応に輸するに猶恐らく逮わず。復た逃故を包補せしめば、必ず艱難を致さん。苟も撫字安集を心とせず、惟だ供億を事とせば、則ち諸人皆能くす。豈に聖上賢を擢し更化するの意ならんや」と。ここにおいて省府は逋戸の賦を蠲す。

原文時徵需煩重,行中書省科徵稅賦,雖逋戶不貸,昶移書時相,其略曰:「百姓困於弊政久矣,聖上龍飛,首頒明詔,天下之人,如獲更生,拭目傾耳,以徯太平,半年之間,人漸失望,良以渴仰之心太切,興除之政未孚故也。側聞欲據丁巳戶籍,科徵租稅,比之見戶,或加多十六七,止驗見戶,應輸猶恐不逮,復令包補逃故,必致艱難。苟不以撫字安集為心,惟事供億,則諸人皆能之,豈聖上擢賢更化之意哉?」於是省府為蠲逋戶之賦。

中統二年春、内難平ぐ。昶上表賀し、因って諷諫を進む。曰く、「患難は以て儆戒を存する所以、禍乱は将に聖明を開かんとす。伏して願わくは日々その徳を新たにし、休むと雖も休まず、戦勝して矜らず、功成して有せず、宗親を和輯し、将士を撫綏し、庶政を増脩し、百官を選用し、儉を以て用を足し、寛を以て民を養い、安にして危を忘れず、治にして乱を忘れず、恒に北征宵旰の勤を以て、永く南面逸豫の戒と為さんことを」と。世祖久しく善しと称す。世祖嘗て燕処す。昶を見るに望みて、輒ち容を斂めて曰く、「李秀才至れり」と。その敬礼せらるること此の如し。会に厳忠済罷め、その弟忠範を以てこれに代う。忠範表して昶を師事することを請う。特授して翰林侍講学士、東平路総管軍民同議官を行わしむ。昶十二条の事を条し、宿弊を剗除す。

原文中統二年春,內難平,昶上表賀,因進諷諫曰:「患難所以存儆戒,禍亂將以開聖明,伏願日新其德,雖休勿休,戰勝不矜,功成不有,和輯宗親,撫綏將士,增脩庶政,選用百官,儉以足用,寬以養民,安不忘危,治不忘亂,恒以北征宵旰之勤,永為南面逸豫之戒。」世祖稱善久之。世祖嘗燕處,望見昶,輒斂容曰:「李秀才至矣。」其見敬禮如此。會嚴忠濟罷,以其弟忠範代之,忠範表請昶師事之,特授翰林侍講學士,行東平路總管軍民同議官。昶條十二事,剗除宿弊。

至元元年、遷転の制行わる。路・府・州・県の官員を減併す。ここにおいて事を謝して家居す。五年、起用されて吏礼部尚書と為る。品格条式・選挙礼文の事、多く裁定す。凡そ大政を議するに、宰相は延いて上座に置き、その説を傾聴す。六年、姦臣阿合馬、制国用使司を尚書省に陞するを議す。昶は老を請いて帰る。七年、詔して南京路総管兼府尹を授く。赴かず。八年、山東東西道提刑按察使を授く。務めて大體を持ち、苛細を事とせず。未幾にして致仕す。二十二年、昶の年すでに八十三、復た使を遣わしてこれを徴す。老疾を以て辞す。田千畝を賜う。二十六年卒す。年八十七。

原文至元元年,遷轉之制行,減併路、府、州、縣官員,於是謝事家居。五年,起為吏禮部尚書,品格條式、選舉禮文之事,多所裁定。凡議大政,宰相延置上座,傾聽其說。六年,姦臣阿合馬議陞制國用使司為尚書省,昶請老以歸。七年,詔授南京路總管兼府尹,不赴。八年,授山東東西道提刑按察使,務持大體,不事苛細,未幾致仕。二十二年,昶年已八十(二)〔三〕,復遣使徵之,以老疾辭,賜田千畝。二十六年卒,年八十有七。

昶嘗て春秋諸家の説を集めてこれを折衷し、曰く『春秋左氏遺意』二十巻。早年に語・孟を読み、先儒の失を見、考訂して編を成す。及び朱氏・張氏の解を得るに、往往脗合す。その書遂に出さず。独り孟子の旧説新説矛盾するものを取り、参考して一に帰し、己見を附して、『孟子権衡遺説』五巻と為す。

原文昶嘗集春秋諸家之說折中之,曰春秋左氏遺意二十卷。早年讀語、孟,見先儒之失,考訂成編,及得朱氏、張氏解,往往脗合,其書遂不復出。獨取孟子舊說新說矛盾者,參考歸一,附以己見,為孟子權衡遺說五卷。

劉肅

劉肅、字は才卿、威州洺水の人。金の興定二年詞賦進士。嘗て尚書省令史と為る。時に内蔵官の羅及び珠を盗む者あり。盗は時に得ず。珠を貨する牙儈及び蔵吏を逮繫し、誣服する者十一人。刑部議して皆極刑に置かんとす。肅これを執して曰く、「盗に正贓無し。これを殺せば冤なり」と。金主怒る。近侍夜に肅に見え、その旨を具道す。肅曰く、「冤獄を辨析するは我が職なり。一己を惜しんで十一人の命を戕う、可ならんや」と。明日、省に詣りて辨すること愈力なり。右司郎中張天綱曰く、「吾汝が為に奏を具し辨析せん」と。奏入り、金主悟り、囚は死を免る。

原文劉肅字才卿,威州洺水人。金興定二年詞賦進士。嘗為尚書省令史。時有盜內藏官羅及珠,盜不時得,逮繫貨珠牙儈及藏吏,誣服者十一人。刑部議皆置極刑,肅執之曰:「盜無正贓,殺之寃。」金主怒,有近侍夜見肅,具道其旨,肅曰:「辨析寃獄,我職也,惜一己而戕十一人之命,可乎!」明日,詣省辨愈力。右司郎中張天綱曰:「吾為汝具奏辨析之。」奏入,金主悟,囚得不死。

新蔡令に調ず。先ず、県は民に賦するに牛の多寡を以て差と為す。民匿して耕さず。肅至り、樹畜繁なる者は賦を加えざるを命ず。民遂に殷富す。淮に瀕する民、宋境に竄入し、兵に籍してその糧を優する者有り。間に帰る者あり、衣食に頗る艱しく、時に怨言を出だして曰く、「淮を渡るに如かず」と。告ぐる者謀叛を以て論ず。肅曰く、「淮は宋境を限る。一水のみ。果たして叛せんと欲せば、往くに難からず。口に言うと雖も心に実無し。律に準えば当に杖八十すべし」と。奏すべし。継いて戸部主事に擢ぐ。

原文調新蔡令。先時,縣賦民以牛多寡為差,民匿不耕,肅至,命樹畜繁者不加賦,民遂殷富。瀕淮民有竄入宋境,籍為兵而優其糧,間有歸者,頗艱於衣食,時出怨言曰:「不如渡淮。」告者以謀叛論,肅曰:「淮限宋境,一水耳,果欲叛,不難往也,口雖言而心無實,準律當杖八十。」奏可。繼擢戶部主事。

金亡び、東平の厳実に依る。行尚書省左司員外郎を辟し、又行軍万戸府経歴に改む。東平は歳に絲銀を賦し、復た綿十万両・色絹万匹を輸す。民堪えず。肅、実を賛して奏してこれを罷む。壬子、世祖潜邸に居す。肅を以て邢州安撫使と為す。肅、鉄冶を興し、及び楮幣を行い、公私これに頼る。

原文金亡,依東平嚴實,辟行尚書省左司員外郎,又改行軍萬戶府經歷。東平歲賦絲銀,復輸綿十萬兩、色絹萬匹,民不能堪,肅贊實奏罷之。(庚)〔壬〕子,世祖居潛邸,以肅為邢州安撫使。肅興鐵冶,及行楮幣,公私賴焉。

中統元年、真定宣撫使に擢ぐ。時に中統新鈔行わる。(銀鈔)を罷めて用いず。真定は銀鈔を以て外と交通する者、凡そ八千余貫。公私囂然として措く所を知らず。肅三策を建つ。一には旧鈔を用いること仍る、二には新旧兼用、三には官新鈔を以て旧鈔を如数に易う。中書その第三策に従う。遂に鈔五十万貫を降す。二年、左三部尚書を授く。官曹の典憲、多く議定す。未幾、商議中書省事を兼ぬ。三年、致仕し、半俸を給す。四年、卒す。年七十六。

原文中統元年,擢真定宣撫使。時中統新鈔行,罷(鈔銀)〔銀鈔〕不用。真定以銀鈔交通于外者,凡八千餘貫,公私囂然,莫知所措。肅建三策:一曰仍用舊鈔,二曰新舊兼用,三曰官以新鈔如數易舊鈔。中書從其第三策,遂降鈔五十萬貫。二年,授左三部尚書,官曹典憲,多所議定。未幾,兼商議中書省事。三年,致仕,給半俸。四年,卒,年七十六。

肅の性舒緩にして、執守有り。嘗て諸家の易説を集め、曰く『読易備忘』。後に累贈して推忠賛治功臣・栄禄大夫・上柱国・大司徒・邢国公、諡して文獻。

原文肅性舒緩,有執守。嘗集諸家易說,曰讀易備忘。後累贈推忠贊治功臣、榮祿大夫、上柱國、大司徒、邢國公,諡文獻。

子の憲、礼部侍郎。愻、大名路総管。孫の賡、翰林学士承旨。

原文子憲,禮部侍郎;愻,大名路總管。孫賡,翰林學士承旨。

王思廉

王思廉、字は仲常、真定獲鹿の人。幼くして太原の元好問に師事す。既に冠し、張徳耀河東を宣撫し、辟して書記を掌らしむ。復た謝して帰る。至元十年、董文忠これを薦む。世祖文忠に問うて曰く、「汝何に由て王思廉の賢を知るや」と。対えて曰く、「郷人の善き者これを称するなり」と。遂に召見し、符宝局掌書を授く。十三年、姚枢挙げて昭文館待制と為し、奉訓大夫・符宝局直長に遷す。

原文王思廉字仲常,真定獲鹿人。幼師太原元好問,既冠,張德耀宣撫河東,辟掌書記,復謝歸。至元十年,董文忠薦之,世祖問文忠曰:「汝何由知王思廉賢?」對曰:「鄉人之善者稱之也。」遂召見,授符寶局掌書。十三年,姚樞舉為昭文舘待制,遷奉訓大夫、符寶局直長。

十四年、翰林待制に改める。嘗て『通鑑』を進読し、唐太宗が魏徴を殺すとの語あり、及び長孫皇后の諫め進むる事に至り、帝は内官に命じて皇后の閤に引き至らしめ、その説を講衍せしむ。后曰く、「是れ誠に宸衷に益有り。爾は宜しく善言を択びて進講し、慎んで瀆辞を以て上聴を煩わすことなかれ」と。毎に侍読するに、帝は御史大夫玉速帖木児・太師月赤察児・御史中丞撒里蛮・翰林学士承旨掇立察等をして、皆聴受せしむ。帝嘗て延春閣に御し、群臣に大賚し、十人を列として進ましむ。思廉偶々衛士の列に在り、帝は董文忠を責めて曰く、「思廉は儒臣なり、豈に衛士の列に宜しからんや」と。

原文十四年,改翰林待制。嘗進讀通鑑,至唐太宗有殺魏徵語,及長孫皇后進諫事,帝命內官引至皇后閤,講衍其說,后曰:「是誠有益於宸衷。爾宜擇善言進講,慎勿以瀆辭煩上聽也。」每侍讀,帝命御史大夫玉速帖木兒、太師月赤察兒、御史中丞撒里蠻、翰林學士承旨掇立察等,咸聽受焉。帝嘗御延春閣,大賚羣臣,俾十人為列以進,思廉偶在衞士之列,帝責董文忠曰:「思廉儒臣,豈宜列衞士!」

十八年、中順大夫・典瑞少監に進む。十九年、帝白海に幸す。時に千戸王著、大都に於いて奸臣阿合馬を矯殺し、辞は枢密副使張易に連なる。帝は思廉を行殿に召し、左右を屏ひて問うて曰く、「張易反す、若は之を知るか」と。対えて曰く、「未だ詳らかにせず」と。帝曰く、「反す已に反す已に、何ぞ未だ詳らかにせざるや」と。思廉徐ろに奏して曰く、「僭号改元するを反と謂い、他国に亡入するを叛と謂い、群聚山林して民物を賊害するを乱と謂う。張易の事、臣実に能く詳らかにせず」と。帝曰く、「朕即位以来、李璮の臣ならざるが如き、豈に我を漢の高帝・趙の太祖の若くして、遽かに帝位に陟る者と為さんや」と。思廉曰く、「陛下は神聖天縦、前代の君比ぶるに足らず」と。帝歎じて曰く、「朕往者竇默に問う有り、其の応響の如し。蓋し心口相違わず、故に思わずして得たり。朕今汝に問う、能く然らんや。且つ張易の為す所、張仲謙之を知るや否や」と。思廉即ち対えて曰く、「仲謙知らず」と。帝曰く、「何を以て之を明らかにするや」と。対えて曰く、「二人相安からず、臣故に其の知らざるを知るなり」と。

原文十八年,進中順大夫、典瑞少監。十九年,帝幸白海。時千戶王著矯殺奸臣阿合馬於大都,辭連樞副密使張易。帝召思廉至行殿,屏左右,問曰:「張易反,若知之乎?」對曰:「未詳也。」帝曰:「反已反已,何未詳也?」思廉徐奏曰:「僭號改元謂之反,亡入他國謂之叛,羣聚山林賊害民物謂之亂,張易之事,臣實不能詳也。」帝曰:「朕自即位以來,如李璮之不臣,豈以我若漢高帝、趙太祖,遽陟帝位者乎?」思廉曰:「陛下神聖天縱,前代之君不足比也。」帝歎曰:「朕往者有問於竇默,其應如響,蓋心口不相違,故不思而得。朕今有問汝,能然乎?且張易所為,張仲謙知之否?」思廉即對曰:「仲謙不知。」帝曰:「何以明之?」對曰:「二人不相安,臣故知其不知也。」

二十年、太監に陞る。思廉は儒素を以て進み、帝の眷注優渥なり。嘗て疾有り、御薬を賜い、安否を顧問す。蹕に扈し、乗する所の馬を失い、内廄の馬五匹を給す。賜う所の玉帯を盗竊せられ、更に玉帯を以て之を賜う。裕宗東宮に居す。思廉進みて曰く、「殿下の府中、宜しく学官を建て、左右近侍をして嘗て正学に親しましむれば、必ず能く明徳を裨輔せん」と。裕宗之を然りとす。裕宗嘗て甲第を買いて思廉に賜わんと欲す。思廉固く辞す。二十三年、嘉議大夫・同知大都留守に改め、少府監事を兼ぬ。藩王乃顔叛す。帝親征す。思廉間いて留守段貞に謂いて曰く、「藩王反側するは、地大なる故なり。漢の鼂錯の地を削るの策、実に良図たり。何ぞ上に之を言わざるや」と。貞、帝に見え、遂に以て聞かす。帝曰く、「汝何ぞ能く是の言を出すや」と。貞、思廉を以て対う。帝之を嘉す。二十九年、正議大夫・枢密院判官に遷る。

原文二十年,陞太監。思廉以儒素進,帝眷注優渥。嘗疾,賜御藥,顧問安否;扈蹕,失所乘馬,給內廄馬五匹;盜竊所賜玉帶,更以玉帶賜之。裕宗居東宮,思廉進曰:「殿下府中,宜建學官,俾左右近侍,嘗親正學,必能裨輔明德。」裕宗然之。裕宗嘗欲買甲第賜思廉,思廉固辭。二十三年,改嘉議大夫、同知大都留守,兼少府監事。藩王乃顏叛,帝親征,思廉間謂留守段貞曰:「藩王反側,地大故也,漢鼂錯削地之策,實為良圖,盍為上言之?」貞見帝,遂以聞,帝曰:「汝何能出是言也?」貞以思廉對,帝嘉之。二十九年,遷正議大夫、樞密院判官。

大徳元年、成宗即位し、中奉大夫・翰林学士に遷り、仍って枢密院判官、病を以て帰る。三年、起して工部尚書と為し、征東行省参知政事に拝す。七年、大名路を総管す。八年、召して集賢学士と為す。十一年、正奉大夫・太子賓客を授く。

原文大德元年,成宗即位,遷中奉大夫、翰林學士,仍樞密院判官,以病歸。三年,起為工部尚書,拜征東行省參知政事。七年,總管大名路。八年,召為集賢學士。十一年,授正奉大夫、太子賓客。

仁宗即位し、翰林学士承旨・資善大夫を以て致仕す。延祐七年卒す。年八十三。翰林学士承旨・資徳大夫・河南江北等処行中書省右丞・上護軍を贈り、恒山郡公を追封し、諡して文恭と曰う。

原文仁宗即位,以翰林學士承旨、資善大夫致仕。延祐七年卒,年八十三。贈翰林學士承旨、資德大夫、河南江北等處行中書省右丞、上護軍,追封恒山郡公,諡文恭。

李謙

李謙、字は受益、鄆の東阿の人。祖は元、医を以て著名なり。父は唐佐、性恬退にして、仕進を喜ばず。

原文李謙字受益,鄆之東阿人。祖元,以醫著名。父唐佐,性恬退,不喜仕進。

謙幼より成人の風有り。始めて学に就き、日に数千言を記し、賦を作るに声有り。徐世隆・孟祺・閻復と斉名し、而して謙を首とす。東平府教授と為り、生徒四集す。累官して万戸府經歷、復た東平に教授す。先ず時、教授に俸無し。郡、儒戸の銀百両を斂めて束脩に備う。謙辞して曰く、「家幸いに甚だ貧しからざる者に非ず、豈に貨を聚めて以て自ら殖えんや」と。

原文謙幼有成人風,始就學,日記數千言,為賦有聲,與徐世隆、孟祺、閻復齊名,而謙為首。為東平府教授,生徒四集,累官萬戶府經歷,復教授東平。先時,教授無俸,郡斂儒戶銀百兩備束脩,謙辭曰:「家幸非甚貧者,豈可聚貨以自殖乎!」

翰林学士王磐、謙の名を以て聞こえ、応奉翰林文字に召す。一時の制誥、多く其の手に出づ。至元十五年、待制に陞り、駕に扈して上都に至り、銀壺・藤枕を賜う。十八年、直学士に陞り、太子左諭徳と為り、裕宗に東宮に侍す。十事を陳ぶ。曰く心を正す、曰く親を睦まじくす、曰く儉を崇む、曰く幾諫、曰く兵を戢む、曰く賢を親しむ、曰く文を尚ぶ、曰く律を定む、曰く名を正す、曰く弊を革む。裕宗崩ず。世祖又た命じて成宗を潜邸に傅え、至る所に謙を以て自ら随う。侍読学士に転ず。世祖深く器重を加え、嘗て便殿に坐を賜い、群臣に酒を飲ます。世祖曰く、「卿の飲まざるを聞く、然れども能く朕の為に強いて飲まんや」と。因って蒲萄酒一鍾を賜いて曰く、「此れ極めて人を酔わしむ、汝の勝えざるを恐る」と。即ち三近侍に令して扶掖して出でしむ。二十六年、足疾を以て帰を辞す。

原文翰林學士王磐以謙名聞,召為應奉翰林文字,一時制誥,多出其手。至元十五年,陞待制,扈駕至上都,賜以銀壺、藤枕。十八年,陞直學士,為太子左諭德,侍裕宗於東宮。陳十事:曰正心,曰睦親,曰崇儉,曰幾諫,曰戢兵,曰親賢,曰尚文,曰定律,曰正名,曰革弊。裕宗崩,世祖又命傅成宗於潛邸,所至以謙自隨。轉侍讀學士。世祖深加器重,嘗賜坐便殿,飲羣臣酒,世祖曰:「聞卿不飲,然能為朕強飲乎?」因賜蒲萄酒一鍾,曰:「此極醉人,恐汝不勝。」即令三近侍扶掖使出。二十六年,以足疾辭歸。

三十一年、成宗即位し、駅伝して上都に召す。既に見え、労して曰く、「朕卿の疾有るを知る。然れども京師家を去ること遠からず、且つ良医多し、能く疾を愈さしめん。卿当に国政と謀るべく、余は以て卿を労せず」と。学士に陞る。元貞初、疾を引いて家に還る。大徳六年、召して翰林承旨と為す。年七十一を以て、致仕を乞う。九年、又た召す。至大元年、半俸を給す。仁宗皇太子と為り、太子少傅に徴す。謙皆力めて辞す。

原文三十一年,成宗即位,驛召至上都。既見,勞曰:「朕知卿有疾,然京師去家不遠,且多良醫,能愈疾。卿當與謀國政,餘不以勞卿也。」陞學士。元貞初,引疾還家。大德六年,召為翰林承旨,以年七十一,乞致仕。九年,又召。至大元年,給半俸。仁宗為皇太子,徵為太子少傅,謙皆力辭。

仁宗即位し、十六人を召す。謙其の首に居る。乃ち力疾して行在に於いて帝に見え、九事を疏言す。其の略に曰く、「心術を正して以て百官を正し、孝治を崇めて以て天下に先んじ、賢能を選んで以て輔相の位に居らしめ、視聴を広めて以て上下の情を通じ、貧乏を恤んで以て邦家の本を重んじ、農桑を課して以て衣食の源を豊かにし、学校を興して以て人材の路を広くし、律令を頒して民をして犯さしめず、士卒を練って安に居りて危を慮う。紀綱を振粛し内外を糾察するに至っては、台憲の官尤も当に素より清望著しく、治体に深く明らかにし、苛細を事とせざる者を選んで之を為すべし」と。帝嘉納す。集賢大学士・栄禄大夫に遷り、致仕し、加えて銀一百五十両、金織幣及び帛各三匹を賜う。帰り、家に卒す。年七十九。

原文仁宗即位,召十六人,謙居其首。乃力疾見帝于行在,疏言九事,其略曰:「正心術以正百官,崇孝治以先天下,選賢能以居輔相之位,廣視聽以通上下之情,恤貧乏以重邦家之本,課農桑以豐衣食之源,興學校以廣人材之路,頒律令使民不犯,練士卒居安慮危。至於振肅紀綱、糾察內外,臺憲之官尤當選素著清望、深明治體、不事苛細者為之。」帝嘉納焉。遷集賢大學士、榮祿大夫,致仕,加賜銀一百五十兩,金織幣及帛各三匹。歸,卒于家,年七十九。

謙の文章醇厚にして古風有り、浮巧を尚ばず。学者之を宗とし、号して野斎先生と曰う。子偘、官は大名路総管に至る。

原文謙文章醇厚有古風,不尚浮巧,學者宗之,號野齋先生。子偘,官至大名路總管。

徐世隆

徐世隆、字は威卿、陳州西華の人。弱冠、金の正大四年の進士第に登り、辟かれて県令と為る。其の父世隆を戒めて曰く、「汝年少、学未だ至らず、急ぎ仕進すること毋れ。更に当に書を読み、往事を多く識り、以て智識を益すべし。三十を俟って官に入るも未だ晩からず」と。世隆遂に官を辞し、益々学に篤し。

原文徐世隆字威卿,陳州西華人。弱冠,登金正大四年進士第,辟為縣令。其父戒世隆曰:「汝年少,學未至,毋急仕進,更當讀書,多識往事,以益智識,俟三十入官,未晚也。」世隆遂辭官,益篤于學。

壬辰の歳、父が没す。癸巳、世隆は母を奉じて北に河を渡り、厳実が東平幕府に招致し、書記を掌らしむ。世隆は実に寒素を収養するを勧め、一時の名士多これに帰す。憲宗即位し、拘榷燕京路課税官と為さんとす。世隆固く辞す。壬子、世祖潜邸に在り、日月山に召見す。時に方に雲南を征するを図り、以て世隆に問う。対えて曰く、「孟子に言有り、『人を殺すを嗜まざる者は能くこれを一にする』と。夫れ人君たる者、人を殺すを嗜まず、天下定まる可し。況んや蕞爾たる西南夷をや」と。世祖曰く、「誠に卿の言の如くならば、吾が事済まん」と。実時に金の太常登歌楽を得たり。世祖使いを遣わして取りて観しむ。世隆典領して以て行く。既に見て、世これを留めんと欲す。世隆は母老ゆるを以て辞す。実の子忠済は世隆を以て東平行台経歴と為し、ここに益々忠済を賛して学を興し士を養わしむ。

原文歲壬辰,父歿。癸巳,世隆奉母北渡河,嚴實招致東平幕府,俾掌書記。世隆勸實收養寒素,一時名士多歸之。憲宗即位,以為拘榷燕京路課稅官,世隆固辭。壬子,世祖在潛邸,召見于日月山。時方圖征雲南,以問世隆,對曰:「孟子有言:『不嗜殺人者能一之。』夫君人者,不嗜殺人,天下可定,況蕞爾之西南夷乎!」世祖曰:「誠如卿言,吾事濟矣。」實時得金太常登歌樂,世祖遣使取之觀,世隆典領以行,既見,世祖欲留之,世隆以母老辭。實子忠濟以世隆為東平行臺經歷,於是益贊忠濟興學養士。

中統元年、燕京等路宣撫使に擢でらる。世隆は新民善俗を務めと為す。中書省諸路に檄して禁衛の羸馬を養わしむ。数万計に及び、芻秣とその什器、前期に戒備す。世隆曰く、「国馬は北方に牧す。往年南に飼うこと無し。上新たに天下に臨み、京畿は根本の地、煩擾の事、必ずこれを為さず。馬来らざるべし」と。吏白して曰く、「これ軍需なり。その責軽からず」と。世隆曰く、「責は我が坐すべきなり」と。遂に備えを為さず。馬果たして至らず。清滄の塩課、前政は欠損して額に及ばず。世隆これを綜覈し、増羨若干を得たり。銀三十鋌を賜う。二年、治を順天に移す。歳饑え、世隆廩を発してこれを貸し、全活甚だ衆し。三年、宣撫司罷む。世隆東平に還り、宮県大楽・文武二舞を増すを請う。旧工に教習せしめ、以て大祀に備う。制可す。世隆を除して太常卿と為し以てこれを掌らしめ、兼ねて本路学校事を提挙す。四年、世祖堯・舜・禹・湯の君たるの道を問う。世隆書の載する所の帝王の事を取りて以て対う。帝喜びて曰く、「汝朕が為に直解して進読せよ。我将にこれを聴かん」と。書成る。帝翰林承旨安蔵に命じて訳写して以て進めしむ。

原文中統元年,擢燕京等路宣撫使,世隆以新民善俗為務。中書省檄諸路養禁衞之羸馬,數以萬計,芻秣與其什器,前期戒備。世隆曰:「國馬牧於北方,往年無飼於南者。上新臨天下,京畿根本地,煩擾之事,必不為之。馬將不來。」吏白:「此軍需也,其責勿輕。」世隆曰:「責當我坐。」遂弗為備,馬果不至。清滄鹽課,前政虧不及額,世隆綜覈之,得增羨若干,賜銀三十鋌。二年,移治順天,歲饑,世隆發廩貸之,全活甚眾。三年,宣撫司罷,世隆還東平,請增宮縣大樂、文武二舞,令舊工教習,以備大祀,制可。除世隆太常卿以掌之,兼提舉本路學校事。四年,世祖問堯、舜、禹、湯為君之道,世隆取書所載帝王事以對,帝喜曰:「汝為朕直解進讀,我將聽之。」書成,帝命翰林承旨安藏譯寫以進。

至元元年、翰林侍講学士に遷り、太常卿を兼ぬ。朝廷の大政は諮訪して後に行い、詔命典冊多くその手より出づ。世隆奏す、「陛下中国に帝たり。まさに中国の事を行うべし。事の大なる者は、首に惟だ祭祀、祭は必ず廟有り」と。因りて図を以て上り、有司に勅して時にこれを興建せしむるを乞う。これに従う。一年を踰えて廟成る。遂に祖宗の神御を迎え、太室に奉安し、而して大饗の礼成る。帝悦び、賞賜優渥なり。

原文至元元年,遷翰林侍講學士,兼太常卿,朝廷大政諮訪而後行,詔命典冊多出其手。世隆奏:「陛下帝中國,當行中國事。事之大者,首惟祭祀,祭必有廟。」因以圖上,乞敕有司以時興建,從之,踰年而廟成。遂迎祖宗神御,奉安太室,而大饗禮成。帝悅,賞賜優渥。

俄かに戸部侍郎を兼ぬ。詔を承けて三省を立てるを議し、遂に内外の官制を定めてこれを上ぐ。時に朝儀未だ立たず。世隆奏して曰く、「今四海一家、万国会同す。朝廷の礼、粛にせざるべからず。宜しく百官朝会の儀を定むべし」と。これに従う。七年、吏部尚書に遷る。世隆は銓選に守るべき法無きを以て、選曹八議を撰す。

原文俄兼戶部侍郎,承詔議立三省,遂定內外官制上之。時朝儀未立,世隆奏曰;「今四海一家,萬國會同,朝廷之禮,不可不肅,宜定百官朝會儀。」從之。七年,遷吏部尚書,世隆以銓選無可守之法,為撰選曹八議。

九年、外補を乞う。虎符を佩び、東昌路総管と為る。郡に至り、専ら徳を以て下を率いるを務めとし、鞭箠を事とせず。吏欺くに忍びず、民も亦化服す。期年にして政成り、郡人これを頌す。十四年、起用されて山東提刑按察使と為る。時に妖言の獄有り。所司逮捕すること凡そ数百人。世隆詿誤する者十八九を剖析し、悉くこれを縦遣す。十五年、淮東に移る。宋の将許瓊の家童、瓊が官庫の財を匿うと告ぐ。有司その妻子を繫ぎてこれを徴す。世隆曰く、「瓊の匿う所は、故宋の物なり。豈に今の官財を盗む者と同論すべけんや」と。同僚従わず。世隆独り抗章して弁明す。行台これ是とし、釈して問わず。会に日本を征す。世隆上疏して諫止す。語頗る剴切なり。当路者直ちに以て聞かず。已にして帝意悟る。その事も亦寝す。十七年、召されて翰林学士と為り、又召されて集賢学士と為る。皆疾を以て辞す。

原文九年,乞補外,佩虎符,為東昌路總管。至郡,專務以德率下,不事鞭箠,吏不忍欺,民亦化服,期年而政成,郡人頌之。十四年,起為山東提刑按察使。時有妖言獄,所司逮捕凡數百人,世隆剖析詿誤者十八九,悉縱遣之。十五年,移淮東。宋將許瓊家童告瓊匿官庫財,有司繫其妻孥徵之。世隆曰:「瓊所匿者,故宋之物,豈得與今盜官財者同論耶?」同僚不從,世隆獨抗章辯明,行臺是之,釋不問。會征日本,世隆上疏諫止,語頗剴切,當路者不即以聞,已而帝意悟,其事亦寢。十七年,召為翰林學士,又召為集賢學士,皆以疾辭。

世隆は儀観魁梧、襟度宏博、慈祥楽易なり。人これを忤うも、慍色無し。賓客を喜び、施与を楽しむ。前代の典故に明習し、尤も律令に精しく、疑獄を決するに善し。二十二年、安童再び相に入る。世隆は老ゆと雖も、尚お用いる可しと奏す。使いを遣わしてこれを召す。仍お老病を以て辞す。便宜九事を附奏す。田十頃を賜う。時に年八十、卒す。著す所に瀛洲集百巻、文集若干巻有り。

原文世隆儀觀魁梧,襟度宏博,慈祥樂易。人忤之,無慍色。喜賓客,樂施與,明習前代典故,尤精律令,善決疑獄。二十二年,安童再入相,奏世隆雖老,尚可用。遣使召之,仍以老病辭,附奏便宜九事。賜田十頃。時年八十,卒。所著有瀛洲集百卷、文集若干卷。

孟祺

孟祺は字を徳卿と曰い、宿州符離の人なり。世に財を以て郷里に雄たり。父仁、儒を業とし、節行有り。壬辰、北に渡り、済州魚台に寓す。州帥石天祿これを礼し、兼ねて詳議府事を辟す。

原文孟祺字德卿,宿州符離人。世以財雄鄉里。父仁,業儒,有節行。壬辰,北渡,寓濟州魚臺,州帥石天祿禮之,辟兼詳議府事。

祺は幼くして敏悟、騎射に善く、早くより問学を知り、父に侍して東平に徙居す。時に厳実学校を脩め、生徒を招き、考試法を立てる。祺就いて試み、上選に登る。辟して書記を掌らしむ。廉希憲・宋子貞皆これを器遇し、以て朝に聞こえ、国史院編脩官に擢でらる。従仕郎・応奉翰林文字に遷り、太常博士を兼ぬ。一時の典冊、多くその手より出づ。至元七年、節を持ちて高麗に使いし、還りて旨に称し、承事郎・山東東西道勧農副使を授かる。

原文祺幼敏悟,善騎射,早知問學,侍父徙居東平。時嚴實脩學校,招生徒,立考試法,祺就試,登上選,辟掌書記。廉希憲、宋子貞皆器遇之,以聞于朝,擢國史院編脩官。遷從仕郎、應奉翰林文字,兼太常博士。一時典冊,多出其手。至元七年,持節使高麗,還,稱旨,授承事郎、山東東西道勸農副使。

十二年、丞相伯顔兵を将いて宋を伐つ。詔して宿望博学、大計を賛画す可き者を選びて俱に行かしむ。遂に祺に承直郎・行省諮議を授く。久しくして郎中に遷る。伯顔雅にこれを信任す。時に軍書填塞す。祺酬応剖決し、略く凝滞無し。師建康に駐す。伯顔兵事を以て闕に詣る。政大小と無く、祺と執政並びにこれを裁決す。及び焦山に戦い、宋軍下流に在り。祺曰く、「勢いに乗じて速やかに進み、以て彼が気を奪うに若かず」と。その言の如くにして、遂にこれを大破す。伯顔これを聞き、喜びて曰く、「書生の乃ち能く兵を知ること是の如くなるを意いざりき」と。諸将虜掠を利し、争って臨安に趨る。伯顔計を問う。祺対えて曰く、「宋人の計は、惟だ閩に竄くるのみ。若し兵を以てこれを迫らば、彼必ず速やかに逃るべし。一旦盗臨安に起らば、三百年の積、焚蕩して遺ること無からん。計を以てこれを安んじ、彼をして懼れざらしむるに若かず。正に果を取るが如く、稍々時日を待つ耳」と。伯顔曰く、「汝の言正に吾が意に合う」と。乃ち書を草し、人を遣わして臨安に至らしめ、以てこれを安慰す。宋乃ち復た閩に遷るを議せず。

原文十二年,丞相伯顏將兵伐宋。詔選宿望博學、可贊畫大計者與俱行,遂授祺承直郎、行省諮議。久之,遷郎中,伯顏雅信任之。時軍書填塞,祺酬應剖決,略無凝滯。師駐建康,伯顏以兵事詣闕,政無大小,祺與執政並裁決之。及戰焦山,宋軍下流。祺曰:「不若乘勢速進,以奪彼氣。」如其言,遂大破之。伯顏聞之,喜曰:「不意書生乃能知兵若是!」諸將利虜掠,爭趨臨安,伯顏問計,祺對曰:「宋人之計,惟有竄閩爾。若以兵迫之,彼必速逃,一旦盜起臨安,三百年之積,焚蕩無遺矣。莫若以計安之,令彼不懼,正如取果,稍待時日耳。」伯顏曰:「汝言正合吾意。」乃草書,遣人至臨安,以安慰之,宋乃不復議遷閩。

先ず是れ、宋の降表は姪と称し、皇帝と称す。屡々拒みて納れず。祺自ら請うて使いと為り、降表を徴す。至れば則ち三省にて宋の相と会す。夜三鼓、議未だ決せず。祺正色して曰く、「国勢ここに至る。夫れ復た何をか待たん」と。遂に議を定む。書成る。宋の謝太后内批して宝を用う。これを携えて出づ。復た謝太后を内殿に起し、国璽十二枚を取り出づ。伯顔将に親しくこれを封ぜんとす。祺これを止めて曰く、「管鑰は自ら主者有り。親しくすべき所に非ず。一たび謹まざる有らば、恐らくは異時姦人妄りに相染污し、終に明らかにす可からず」と。遂に止む。

原文先是,宋降表稱姪,稱皇帝,屢拒不納。祺自請為使,徵降表。至則會宋相于三省。夜三鼓,議未決,祺正色曰:「國勢至此,夫復何待!」遂定議。書成,宋謝太后內批用寶,携之以出,復起謝太后於內殿,取國璽十二枚出。伯顏將親封之,祺止之曰:「管鑰自有主者,非所宜親,一有不謹,恐異時姦人妄相染污,終不可明。」遂止。

江南平ぐ。伯顔祺の前後の功多きを奏し、且つ言う、祺は重任に堪う可しと。旨有りて褒陞し、少中大夫・嘉興路総管を授け、虎符を佩ばしむ。祺至りて、首に学を興すを務めとし、規制を創立す。官に在ること未だ久しからず、竟に疾を以て官を解き、東平に帰る。至元十八年、太中大夫・浙東海右道提刑按察使に擢でらる。疾に赴かず。卒す。年五十一。宣忠安遠功臣・中奉大夫・参知政事・護軍・魯郡公を贈られ、諡して文襄と曰う。子二人:遵、遹。

原文江南平,伯顏奏祺前後功多,且言祺可任重。有旨褒陞,授少中大夫、嘉興路總管,佩虎符。祺至,首以興學為務,創立規制。在官未久,竟以疾解官,歸東平。至元十八年,擢太中大夫、浙東海右道提刑按察使,疾不赴。卒,年五十一。贈宣忠安遠功臣、中奉大夫、參知政事、護軍、魯郡公,諡文襄。子二人:遵,遹。

閻復

閻復、字は子靖、その先祖は平陽和州の人である。祖父の衍は金に仕え、王事に殉じた。父の忠は兵乱を避けて山東の高唐に移り、遂にそこに家を定めた。

原文閻復字子靖,其先平陽和州人。祖衍,仕金,歿王事。父忠,避兵山東之高唐,遂家焉。

復が生まれるとき、奇しき光が室を照らした。性質は簡素で重厚、容姿は美しく豊かであった。七歳で書を読み、聡明さは人に絶していた。弱冠にして東平の学に入り、名儒康曄に師事した。時に厳実が東平行台を領し、諸生を招いて進士の業を修めさせ、元好問を迎えてその文章を校試させた。選に預かった者は四人、復が首位、徐琰・李謙・孟祺がこれに次いだ。

原文復始生,有奇光照室。性簡重,美丰儀。七歲讀書,穎悟絕人。弱冠入東平學,師事名儒康曄。時嚴實領東平行臺,招諸生肄進士業,迎元好問校試其文,預選者四人,復為首,徐琰、李謙、孟祺次之。

歳は己未(1259年)、初めて行台において書記を掌り、御史掾に抜擢された。至元八年(1271年)、王磐の推薦により、翰林応奉となり、才能を選ばれて会同館副使を充て、兼ねて接伴使となった。車駕に扈従して上京し、応制の詩二篇を賦し、規諫の意を寓した。世祖は和礼霍孫を顧みて言った、「かくの如き才能ある者を、どうして用いられぬことがあろうか」。十二年(1275年)、翰林修撰に昇進。十四年(1277年)、出て河北河南道提刑按察司事を僉し、階は奉訓大夫。十六年(1279年)、入朝して翰林直学士となり、州郡の校官多く職に適わざるを以て、銓選の法を定むることを建議した。十九年(1282年)、侍講学士に昇進。明年、集賢侍講学士に改め、同領会同館事。

原文歲己未,始掌書記於行臺,擢御史掾。至元八年,用王磐薦,為翰林應奉,以才選充會同館副使,兼接伴使。扈駕上京,賦應制詩二篇,寓規諷意,世祖顧和禮霍孫曰:「有才如此,何可不用!」十二年,陞翰林修撰。十四年,出僉河北河南道提刑按察司事,階奉訓大夫。十六年,入為翰林直學士,以州郡校官多不職,建議定銓選之法。十九年,陞侍講學士。明年,改集賢侍講學士,同領會同館事。

二十三年(1286年)、翰林学士に昇進。帝はしばしば復を榻前(御前)に召し出し、面諭して詔旨を授け、草稿を作って進上させると、帝は善しと称した。二十八年(1291年)、尚書省が廃止され、中書省が再び立てられた。帝は精励して治を図り、相を選ぶことを急ぎ、一日、便殿に召し入れて諭して言った、「朕、卿をして政を執らせんと欲す、いかがか」。復はたびたび謝して勝任に足らざるを言うと、帝は侍臣に謂って言った、「書生は義理を識り、謙譲を存する、これ然り、強いるなかれ」。御史台は提刑按察司を改めて粛政廉訪司とし、まず復を浙西道粛政廉訪使に命じた。先に、姦臣桑哥が国政を執り、嘗て旨有りて翰林に命じ桑哥輔政碑を撰せしめた。桑哥既に敗れるや、詔して有司にその碑を倒させ、復らもまたこれに坐して免官された。

原文二十三年,陞翰林學士,帝屢召至榻前,面諭詔旨,具草以進,帝稱善。二十八年,尚書省罷,復立中書省。帝勵精圖治,急於擇相,一日,召入便殿,諭之曰:「朕欲命卿執政,何如?」復屢謝不足勝任,帝謂侍臣曰:「書生識義理,存謙讓,是也,勿強。」御史臺改提刑按察司為肅政廉訪司,首命復為浙西道肅政廉訪使。先是,姦臣桑哥當國,嘗有旨命翰林撰桑哥輔政碑,桑哥既敗,詔有司踣其碑,復等亦坐是免官。

三十一年(1294年)、成宗即位し、旧臣として召し入朝させ、重錦・玉環・白金を賜い、集賢学士を除し、階は正議大夫。元貞元年(1295年)、上疏して言う、「京師には宜しくまず宣聖廟学を建て、釈奠の雅楽を用いることを定むべし」。これに従う。また言う、「曲阜の守塚戸は、先ごろ有司が民籍に併入したが、宜しくこれを復すべし」。その後、詔して孔林に洒掃二十八戸・祀田五千畝を賜うたが、皆復の請いによるものであった。三年(1297年)、星変に因り、また上疏して「律令を定め、封贈を頒ち、俸給を増し、内外の官を調通すべし」と言う。かつ曰く、「古えは、刑は大夫に上らず。今、郡守が租を徴するに杖罰を受く、廉隅を励ます所以にあらず。江南の公田の租は重し、宜しく減じて貧民に貸すべし」。後多く採用された。大徳元年(1297年)、なお翰林学士に遷る。二年(1298年)、詔して楮幣一万貫を賜う。四年(1300年)、帝は榻前に召し、密かに諭して言った、「中書の庶務繁重、左相はその人を得難し。卿、朕のために知る所を挙げよ」。復はハラハスン(哈剌哈孫)を以て答えた。帝は大いに喜び、即ち使いを遣わして召し入れ、相とした。復もまた翰林学士承旨を拝し、階は正奉大夫。

原文三十一年,成宗即位,以舊臣召入朝,賜重錦、玉環、白金,除集賢學士,階正議大夫。元貞元年,上疏言:「京師宜首建宣聖廟學,定用釋奠雅樂。」從之。又言:「曲阜守塚戶,昨有司併入民籍,宜復之。」其後詔賜孔林洒掃二十八戶、祀田五千畝,皆復之請也。三年,因星變,又上疏言「定律令,頒封贈,增俸給,通調內外官」。且曰:「古者,刑不上大夫,今郡守以徵租受杖,非所以厲廉隅。江南公田租重,宜減,以貸貧民。」後多采用。大德元年,仍遷翰林學士。二年,詔賜楮幣萬貫。四年,帝召至榻前,密諭之曰:「中書庶務繁重,左相難其人,卿為朕舉所知。」復以哈剌哈孫對。帝大喜,即遣使召入,相之;復亦拜翰林學士承旨,階正奉大夫。

十一年(1307年)春、武宗践祚し、復はまず三事を陳べた。「名器を惜しみ、賞罰を明らかにし、人材を択ぶ」と。言は皆剴切であった。未だ幾ばくもなく、階を進めて栄禄大夫とし、遥かに平章政事を授け、その他は元の如し。復は力辞したが、許されなかった。上疏して骸骨を乞う。詔してその請いに従い、半俸を給して終養させた。時に仁宗は東宮に居り、重錦を賜い、公卿をして都門外で祖道(送別の宴)を行わしめた。即位するに及んで、使いを遣わして復を召したが、復は病を以て辞した。皇慶元年(1312年)三月卒す。年七十七。諡して文康。『静軒集』五十巻有り。

原文十一年春,武宗踐祚,復首陳三事,曰「惜名器,明賞罰,擇人材」,言皆剴切。未幾,進階榮祿大夫,遙授平章政事,餘如故,復力辭,不許。上疏乞骸骨,詔從其請,給半俸終養。時仁宗居東宮,賜以重錦,俾公卿祖道都門外。及即位,遣使召復,復以病辭。皇慶元年三月卒,年七十七,諡文康。有(靖)〔靜〕軒集五十卷。