元史

列傳第四十六:宋子貞 商挺 趙良弼 趙璧

宋子貞

宋子貞、字は周臣、潞州長子の人である。性質は聡明で悟りが早く学問を好み、詞賦に巧みであった。弱冠にして、推薦状を得て礼部の試験を受け、族兄の知柔とともに太学生に補せられ、ともに当時に名を知られ、人々は大宋・小宋と称した。

金の末、潞州に乱が起こり、子貞は趙・魏の地を奔走した。宋の将軍彭義斌が大名を守り、彼を辟召して安撫司計議官とした。義斌が没すると、子貞は衆を率いて東平行臺の厳実に帰順した。実は平素よりその名を聞いており、幕府に招き置き、詳議官に用い、兼ねて学校を提挙させた。これより先、実は毎度人をして朝廷に事を請わせる際、近侍に託して奏決させ、中書を経由せず、これにより丞相耶律楚材と意見が合わなかった。子貞が至ると、実に勧めて丞相に礼を尽くし、殷勤を通じさせ、凡そ奏請するには必ず先ず諮詢し稟告すべきであるとした。丞相は喜び、これより交歓して隔てなくなり、実はこれによりますます子貞を信任した。

太宗四年、実は黄陵を守備した。金人が全力で攻め寄せ、戦って利あらず、敵の勢いは頗る張り、曹・濮以南は皆震動した。敵中より逃げ帰った者がおり、金兵が大挙して来ると言い、人情は恐懼した。子貞は実に請い、虚言を広めた者の首を斬って諸城に示させ、境内は乃ち安堵した。汴梁が既に陥ちると、飢民が北へ移り、餓死者が道に満ちた。子貞は方々に賑済救済し、全く生き延びた者は一万余人に及んだ。金の士人で流寓する者は、皆引見して周済を与え、且つ推薦して用いた。名儒の張特立・劉肅・李昶らを羈旅の中から抜擢し、彼らと同列にした。四方の士人は風聞して至り、故に東平は一時に人材が他鎮より多かった。

七年、太宗は子貞を行臺右司郎中に任じた。中原がほぼ平定され、事多く草創であり、行臺の統べる五十余城において、州県の官は或いは将校より抜擢され、或いは民伍より起用され、概ね政務に暗かった。甚だしい者は、専ら掊克聚斂を能とすることを以てし、官吏互いに貪私を為して民を苦しめた。子貞は前代の観察採訪の制に倣い、命官して三道に分かれて官吏を糾察させ、程式を立て、期会を定め、貪婪怠惰を罷め、廉潔勤勉を奨励し、官府に始めて紀綱が生じ、民は蘇息を得た。東平の将校が民を占めて部曲戸とし、これを脚寨と称し、その賦役を擅にし、凡そ四百所に及んだ。子貞はこれを罷めて州県に帰すよう請うた。実は初め難色を示したが、子貞が力説して乃ち聞き入れられ、人々は便利と為した。

実が卒去し、子の忠済が爵を襲ぎ、特に子貞を敬った。朝廷に請い、参議東平路事を授け、兼ねて太常礼楽を提挙させた。子貞は新たに廟学を建て、前進士の康曄・王磐を教官として招き、生徒を数百人招致し、粟を出して贍い、経芸を習わせた。毎季の程試には必ず自ら臨んだ。斉魯の儒風は、これにより一変した。

歳己未、世祖が南伐し、子貞を濮に召し寄せ、方略を問うた。対えて曰く、「本朝は威武有余れども、仁徳未だ洽からず。命に拒む所以のものは、只だ死を畏れるのみ、若し投降する者を殺さず、脅従する者を治めなければ、則ち宋の郡邑は檄を伝えて定めることができましょう。」世祖はその言を善しとした。中統元年、益都路宣撫使を授けられた。未だ幾ばくもなく、入朝し、右三部尚書に拝された。時に新たに省部が立ち、典章制度は多く子貞が裁定した。李璮が叛き、済南を拠ると、詔して子貞に軍前行中書省事を参議させた。子貞は単騎で済南に至り、璮の形勢を観察し、因って丞相史天澤に説いて曰く、「璮は衆を擁して東より来たり、孤城を坐して守る、宜しく外城を増築し、その奔突を防ぐべし、彼が糧尽き援絶すれば、攻めずして自ずから破れましょう。」議は天澤と合致し、遂に璮を擒えた。

子貞は還り、上書して便宜十事を陳べ、大略に謂う、「官爵は人主の柄なり、選法は宜しく尽く吏部に帰すべし。律令は国の紀綱なり、宜しく早く刊定すべし。監司は一路を総統す、その材に非ざるを用いれば、人望を厭わず、公廉にして才徳ある者を選びて之を為すを乞う。今州県の官は相伝えて世襲し、非法の賦斂を行い、民は窮して訴えるところ無し、宜しく遷転して以てその弊を革むべし。」また国学を建てて冑子を教え、州郡に勅して提学に諸生を課試させ、三年毎に貢挙することを請うた。旨有りて中書に命じ次第に之を行わしめた。至元二年、始めて州県官の世襲を罷む。子貞を遣わし左丞相耶律鑄とともに山東を行き、所部の官を遷調させた。還り、翰林学士を授け、中書省事を参議した。俸祿を班給し、職田を定むることを奏請し、従われた。俄かに中書平章政事に拝された。復た時務の切要なる者十二策を陳べ、帝は頗る子貞を用いるの遅かりしを悔いた。

未だ幾ばくもなく、年老いを以て退くことを求め、帝曰く、「卿の気力は未だ衰えず、勉めて朕の為に留まり、大事を措置せよ、百司の差に条理有るを俟ちて、卿の自便に聴す。」三年十一月、懇ろに辞し、乃ち請いを得た。特に中書に勅し、凡そ大事有れば、即ちその家に訪問せしめた。子貞は私居にありて、毎度朝廷の事便ならざるを聞けば、必ず封疏を上奏し、君を愛し国を憂うる心は、進退を以てその心を異にしなかった。卒年八十一。初めて病み、家人が医薬を進めると、これを退けて曰く、「死生には命有り、吾が年は八十を踰えたり、何を以て薬と為さんや。」病危うく、諸子が遺言を請うと、子貞曰く、「吾が平昔汝らを教うること少なからず、今尚何をか言わんや。」

子の渤、字は齊彥、才名有り、官は集賢学士に至る。

商挺

商挺、字は孟卿、曹州済陰の人である。その先祖は、本姓は殷氏であったが、宋の諱を避けて改めた。父の衡は、僉陝西行省員外郎となり、戦死した。挺は二十四歳の時、汴京が破られ、北へ走り、冠氏の趙天錫に依り、元好問・楊奐と交遊した。東平の厳実が聘して諸子の師とした。実が卒去し、子の忠済が嗣ぐと、挺を辟召して経歴とし、出でて曹州判官とした。未だ幾ばくもなく、復た経歴となり、忠済を賛して学を興し士を養わしめた。

癸丑、世祖が潜邸に在り、京兆分地を受け、挺の名を聞き、使者を遣わして徴し塩州に至らしめた。入対して旨に称し、字を以てして名を呼ばず。間を置いて宴語に陪し、因って曰く、「挺の来たる時、李璮は朐山に城し、東平は当に米一万石を餽送すべきところなり。東平より朐山に至るには、率ね十石を以て一石を致し、且つ車は雨に淖び必ず後期す、後期すれば罪は死なり。沂州に輸送し、璮の軍に取らしめて食わしむるを請う、便なり。」世祖曰く、「民を愛すること此の如く、何ぞ忍びて卿に従わんや。」

楊惟中が関中を宣撫すると、商挺は郎中となった。兵火の余波で、八州十二県の戸数は一万に満たず、皆驚き憂いて頼るものもなかった。挺は惟中を補佐し、賢良を進め、貪暴を退け、尊卑を明らかにし、埋もれた人材を出し、規程を定め、簿責を主とし、楮幣を印刷し、俸祿を頒ち、農を務めて税を薄くし、その有無を通じさせた。一ヶ月で、民は安んじた。大猾一人を誅すると、群吏は皆恐れた。また関中の常賦を半減するよう請うた。翌年、惟中が罷免され、廉希憲が代わって来ると、挺を宣撫副使に昇進させた。

丙辰の年、京兆から軍需の布一万匹、米三千石、帛三千段、それに見合う武器を徴発し、平涼の軍に輸送せよとの命が下った。期限が非常に迫っており、郡人は大いに恐れた。挺は言った。「他のものは集めやすいが、米を千里運ぶのは我が蚕麦の妨げになる。」郿の長で王姓の者は平涼の人であった。挺は召して相談すると、答えて言った。「官の運送を煩わせず、私の家に積んだ粟があります。どうかこれで代えて輸送させてください。」挺は大いに喜び、代価を載せて与え、他の輸送物も期日に合わせた。また懐孟の治めを兼ねるよう命じられ、境内は大いに治まった。丁巳の年、憲宗は阿藍答児に河南・陝右の会計を命じた。戊午の年、宣撫司が廃止され、挺は東平に戻った。

憲宗が親征してしょくに向かい、世祖は鄂・漢へ向かおうとして小濮に軍を駐め、挺を召して軍事を問うた。挺は答えて言った。「蜀の道は険しく遠い。万乗の身で軽々しく動くべきでしょうか。」世祖はしばらく黙っていたが、言った。「卿の言は正に我が心に合う。」憲宗が崩御し、世祖が北還する途中、張文謙を遣わして挺に事を計らせた。挺は言った。「軍中では符信を厳重にすべきで、奸詐を防がねばなりません。」文謙は急いで追いついてこれを言上した。世祖は大いに悟り、罵って言った。「一人も我にこのことを言う者がいなかった。商孟卿がいなければ大計を危うくするところだった!」急いで使者を軍に遣わして約束を立てさせた。間もなく、阿里不哥の使者が軍中に来たので、捕らえて斬った。挺を召して北上し開平に至らせ、挺は廉希憲と密かに大計を補佐した。

世祖が即位すると、挺は上奏して言った。「南の軍は乗輿を護衛すべく戻るべきであり、西の軍は便利な地に駐屯すべきです。」これに従った。廉希憲と挺を以て陝・蜀を宣撫させた。中統元年夏五月、京兆に至った。哈剌不花という者は、蜀征伐時の名将で、渾都海はかつてその副将であったが、時に六盤山に駐屯し、兵を挙げて阿里不哥に応じた。挺は希憲に言った。「六盤の軍について三つの策がある。精鋭を尽くして東進し、直ちに京兆を衝くのが上策である。兵を六盤に集め、隙を窺って動くのが中策である。重装備で北帰し、和琳に応じるのが下策である。」希憲が「彼らはどれを取るだろうか」と問うと、挺は「必ず下策を取るでしょう」と言った。果たしてその通りになった。そこで希憲と議を定め、八春・汪良臣に兵を発してこれを防がせた。事の詳細は希憲伝にある。六盤の兵が既に北へ向かうと、阿藍答児が和琳から兵を率いて南へ来て、哈剌不花・渾都海と甘州で出会った。哈剌不花は意見が合わないとして、その兵を率いて北へ去り、阿藍答児は遂に渾都海と合軍して南へ向かった。時に諸王合丹が騎兵を率いて八春・汪良臣の兵と合流し、三道に分かれてこれを防いだ。陣を布くと、大風が砂を吹き、良臣は軍士に下馬を命じ、短兵でその左翼を突き、陣の後ろに回り出て、その右翼を崩して出た。八春は直ちにその前面を衝き、合丹は精騎を統率してその帰路を遮った。甘州の東で大戦し、阿藍答児・渾都海を殺した。事が聞こえると、帝は大いに喜び、言った。「商孟卿は古の良将である。」宣撫司を行中書省に改め、希憲を右丞に進め、挺を行省事僉と進めた。

二年、参知政事に進んだ。宋の将劉整が瀘州を以て降伏し、以前に宋に降った者数百人を縛って帰順してきた。軍吏は誅して戒めとするよう請うたが、挺はことごとく上奏して釈放した。興元の判官費寅は罪があって誅殺を恐れ、兵を借りて城を完成させた事で挺と希憲を朝廷に訴えた。帝は便殿に挺を召し、問うて言った。「卿は関中・懐孟で二度治績を上げたのに、誹謗の言葉が日々届く。はたして同僚に卿を阻む者がいるのか?それとも位が高くて志が怠ったのか?近年王文統を論じる者は多いが、卿だけは一言もない。」挺は答えて言った。「臣は元より文統の為人を知っており、かつて趙璧とこれを論じました。陛下もまだ覚えておられるでしょう。臣が秦にいた三年間、過失は多かった。権に従って応変したこともあるでしょう。もし功を成して己に帰し、事が敗れて咎を人に分かたせるようなことは、臣は必ずしません。どうか誅戮にお就きください。」挺が出て行くと、帝は駙馬忽剌出・枢密副使合答らを顧みて、挺の前後の大計を数え、合わせて十七あった。そこで嘆いて言った。「挺はこのように功績があるのに、なお自ら罪があると言う。このようにして、誰が再び朕のために力を尽くそうか。卿らはこれを覚えておけ。」四年、金符を賜り、四川行枢密院事を行った。

至元元年、参知政事として入朝した。史事について建議し、遼・金二史の編修に付いては、王鶚・李冶・徐世隆・高鳴・胡祗遹・周砥らをこれに当たらせるべきだとし、大いに帝の意に合った。二年、河東に分省したが、間もなく召還された。三年、帝が経学に留意されると、挺は姚枢・竇黙・王鶚・楊果とともに五経の要語を凡そ二十八類に編纂して進呈した。六年、同僉枢密院事となった。七年、僉書に遷った。八年、副使に昇進した。軍糧を計算し、軍官の品級を定め、軍吏に俸給を与えた。四千人を屯田させ、三万亩を開墾し、その収穫を以て親軍に糧食を与えた。軍務に耐えられない戸三万戸を淘汰し、一丁の者もまた淘汰した。丁が多くて産業が少ない者、産業が多くて丁が少ない者は、財力で互いに助け合い、合わせて一軍を出すようにした。

九年、皇子忙阿剌を安西王に封じ、王相府を立て、挺を王相とした。十四年、詔して王に北征を命じると、王は挺に命じて言った。「関中の事で不便なものは、ことごとく改めるがよい。」挺は言った。「延安の民兵数千は、李忽蘭吉に練習させ、不測の事態に備えるべきです。」間もなく、禿魯が叛き、延安の兵で敵に応じたところ、果たしてその力を得た。挺は王に十策を進言した。親鄰を睦まじくし、人心を安んじ、民時を敬い、不虞に備え、民生を厚くし、事権を一にし、心源を清くし、自治を謹み、本根を固くし、下情を察することである。王は酒を設けて嘉納した。王が薨じると、王妃は挺に命じて朝廷に請願させ、子の阿難答を嗣がせようとした。帝は言った。「年少で、祖宗の訓えに習熟していない。卿が暫く王相府の事を行え。」

初め、運使郭琮・郎中郭叔雲は王相趙炳と隙を構えた。或る者が趙炳の不法を告げると、妃は命じて彼を六盤の獄に囚し死なせた。朝廷はこれを擅殺と疑い、郭琮・叔雲を捕らえて訊問し、罪を認めさせた。事は趙炳伝に詳しい。初め商挺に少しも関わりはなかった。ただ王府の女奚(侍女)徹徹のみが、二郭の謀に与したため、臨刑の際、生き延びようと望み、初めて曖昧な言葉で商挺とその子瓛を連座させた。帝は怒り、商挺を召し出して趙炳の家に拘禁し、瓛を獄に下した。帝は趙氏の子(趙炳の子)に命じて言った、「商孟卿(商挺)は老書生である。諸儒と共にその罪を議せよ」と。吏部尚書青陽夢炎が議勳を以て奏上して言った、「臣は宋の儒者であり、商挺の従来の功績が今の過ちを補えるかどうか知りません」と。帝は快く思わず、「これは同類相助の言辞である」と言った。符宝郎董文忠が奏上して言った、「夢炎は商挺がどのような人物か知りません。臣はかつての推戴の功績を彼に話しました」と。帝はしばらくして言った、「その事は果たしてどうなのか」と。答えて言った、「臣は目で見てはいませんが、耳では確かに聞きました。殺人の謀議には、商挺は与っていません」と。帝は黙然とした。十六年春、旨があった、「商挺を全く無罪として釈放することはできず、その家を没収せよ」と。この冬、初めて商挺と瓛を釈放した。二十年、枢密副使に復し、まもなく病気により免じられた。二十一年、趙氏の子が再び父の冤罪を訴え、商挺は再び拘禁され、百余日にして釈放された。二十五年、帝は中丞董文用に問うて言った、「商孟卿は今年いくつか」と。答えて言った、「八十です」と。帝はその老いを大いに惜しみ、その康強を嘆じた。この歳の冬十二月に卒した。詩千余篇あり、特に隷書に優れていた。延祐初年、推誠協謀佐運功臣・太師・開府儀同三司・上柱国・魯国公を追贈され、諡して文定といった。子は五人:琥・璘・瑭・瓛・琦。

琥は字を台符という。至元十四年、姚枢・許衡の推薦により、江南行御史台監察御史に任じられた。建康の戍卒で湯氏の財産を狙う者がおり、その家に戈を投げ込み、反乱の具と誣告した。琥はその冤罪を知り、誣告者を罪して湯氏を釈放した。華亭の蟠龍寺の僧思月が謀叛を企てて捕らえられると、その徒党が火を放って奪還に来て、民は大いに騒擾した。琥は急いでその首魁を誅した。文法吏が琥の擅誅を責めると、行台中丞張雄飛が言った、「江南は残破の余り、盗賊が屡々起こる。なお常例に循っているようでは、憲台を用いて何になろうか」と。吏の議は遂に屈した。都昌の妖賊杜万一が僭号して乱を唱えると、行台は琥に命じて審問させた。脅従者を械で繋ぎ獄は満ちたが、琥は全て詿誤として釈放して帰した。党与で潜伏する者はなお多く、琥は榜を掲げて招来すると、三日と経たずに雲のごとく集まった。

二十七年、召されて中台監察御史に任じられた。地震が起こると、琥は上書して言った、「昔、漢の文帝にこの異変があったが、その応(災い)がなかったのは、みずから徳化を行ってこれを消したからである」と。そこで漢の文帝の時政を条陳して進言した。また言った、「国を治める道は、立法と任人との二つに過ぎない。法は徒らに立つものではなく、人によって行われねばならず、人を濫用せず、ただ賢を択ぶべきである」と。そこで天下の名士十余人を挙げた。帝はこれに従い、皆召し出して用い、格別の待遇で遇った。三十年、国子司業に遷った。卒した。『彝斎文集』がある。

瑭は字を礼符という。右衛屯田千戸に仕えた。一年余りして、病を謝して親に侍り、時に年わずか三十二歳であった。後に郷里に帰り、室を築いて晦道堂と名付けた。これは七世の祖宗弼が、宋の仁宗の時に太子中舎人となり、五十歳で官を辞して築いた堂の名を取ったものである。

琦は字を徳符という。大徳八年、成宗が召して宿衛に備えさせた。仁宗が東宮にあった時、奏上して集賢直学士に任じた。大名路治中に転じたが、赴任しなかった。皇慶元年、集賢侍講学士を授けられた。延祐四年、侍読官・通奉大夫に昇進し、鈔二万五千貫を賜った。泰定元年、秘書卿に遷ったが、病で帰り、卒した。琦は山水画を得意とした。かつて蜀に使いし、公平に法を守り、秋毫も私するところがなかった。

趙良弼

趙良弼は字を輔之といい、女直人である。本姓は朮要甲といったが、音が訛って趙家となり、趙を氏とした。父の慤は、金の威勝軍節度使で、諡して忠閔といった。慤の長子良貴は嵩汝招討使、良貴の子の讜は許州兵官、慤の従子の良材は太原を守った。皆、国事に死した。

良弼は明敏で、智略が多かった。初め進士に挙げられ、趙州で教授した。世祖が潜藩にあった時、召し出されて応対が意に適った。邢州安撫司が立てられると、良弼を抜擢して幕長とした。邢州は長く良吏を得ず、かつ要衝に当たり、使者が雑踏し、民は多く逃げ去っていた。良弼は区画に方策があり、事が掣肘される時は藩邸に請うた。二年の間に、凡そ六度往復し、請うたことは従わないことはなかった。脱兀脱が断事官として邢を鎮めたが、その属官は罪を犯して廃された者と結託し、互いに嫌隙を構えて動くごとに沮撓した。世祖が雲南を征していた時、良弼は駅伝を馳せてこの事を報告した。そこで脱兀脱を罷免し、その属官を廃し、邢州は大いに治まり、戸口は倍増した。世祖が潜藩にあった時、分地は関陝にあり、廉希憲・商挺を以て陝西を宣撫させ、良弼を参議司事とした。阿藍答児が国政を執ると、世祖の英武を憚り、憲宗に讒言した。そこで阿藍答児を陝西省左丞相とし、劉太平を参知政事とし、京兆の銭穀を鈎校させ、群獄を鍛錬し、死者二十余人を出し、衆は皆股が慄いた。良弼は大義を力説し、言葉と気持ちは懇ろで、二人は遂に誣いることができず、故に宣撫司は何ら連座することがなかった。

己未(1259年)七月、世祖が南征し、参議元帥事を召し、兼ねて江淮安撫使とした。自ら桴鼓を執り、士卒に率先し、五戦皆捷した。廬舎を焼き、降民を殺すことを禁じ、至る所で恩徳を宣布したので、民は皆安堵した。既に江を渡り、鄂州を攻めた時、憲宗の崩御を聞き、世祖が北還すると、良弼は時務十二事を陳べ、言うところは皆根拠があった。衛に至り、京兆に遣わされて秦・蜀の人情事情を察訪させると、一月を踰えず、実情を悉く得て還り報告した。曰く、「宗王穆哥に他心はなく、西南六盤を悉く委属させるのが宜しい。渾都海は六盤に軍を屯し、士馬は精強で、皆北帰を思っており、事に不意のことがあるのを恐れる。紐鄰は秦・川の蒙古諸軍を総べ、秦・蜀の民心を多く得ているが、年少で勇猛で、去就を軽んじる。重職を以て寵し、速やかにその兵権を解くべきである。劉太平・霍魯懐は今、行尚書省事を行い、声は糧餉を調達すると言いながら、陰に秦・蜀を拠んとする志がある。百家奴・劉黒馬・汪惟正兄弟は、徳恵を蒙り、皆心を尽くして命令を待っている」と。その言は皆採用された。

庚申(1260年)、良弼は凡そ五度にわたり進言して即位を勧めた。曰く、「今、中外皆、大王の早く正宸に進み、天下を安んぜられることを願っています。事勢この如く、どうして中止を容れられましょうか。社稷の安危は、間髪を容れません」と。世祖はこれを嘉した。即位すると、陝西四川宣撫司を立て、再び廉希憲・商挺を使・副とし、良弼を参議とした。良弼は先に行き、断事官八春に謀って言った、「今、渾都海は日夜北帰を思い、紐鄰は遷延して直ちに行かず、まず使者を遣わして上旨を奉じ、紐鄰に入朝を促し、劉太平に京兆に速やかに還らせるべきである」と。八春はその議に従った。至ると、紐鄰は果たして営を移して涇に入らんとし、劉太平は六盤に向かわんとしたが、命令を聞いて止まった。

その後、渾都海は果たして叛いて北へ帰ろうとした。趙良弼は汪惟正・劉黒馬の両宣撫と決議し、渾都海の党類である元帥の乞台不花・迷立火者を捕らえて誅殺した。廉希憲と商挺は勝手に殺したという名目を懸念し、使者を遣わして入朝させて奏上し、罪を待った。趙良弼は密かに状況を記した文書を授けて使者に言った。「初めに二帥を捕らえるよう命じた時は、ただ囚えて返報を待つようにとのみ命じたが、臣は密かに大げさにしては不都合と思い、急いで誅殺すべきであり、勝手に殺したのは臣にあり、実は宣撫司にはない。もし上(皇帝)が廉希憲らを怒られるならば、願わくば使者はただちにこの奏上を出してほしい。」帝は結局問わず、使者が奏上を政府に白状すると、皆、趙良弼を長者であるとした。参議陝西省事に昇進した。蜀人の費寅は私怨から廉希憲・商挺が京兆で異心を抱いている九つの事柄を誣告し、趙良弼を証拠とした。帝は趙良弼を召して詰問した。趙良弼は泣いて言った。「二臣は忠良であり、必ずやそのような心はありません。願わくば臣の心臓を切り開いて明らかにしてください。」帝の疑いは解けなかった。ちょうど李璮を平定した時、王文統の往来した書状を得て、ますます二臣を疑う気持ちが強くなり、趙良弼を厳しく責め、至らぬところはなく、ついにはその舌を断とうとした。趙良弼は死を誓って少しも変えず、帝の疑念はようやく解けた。費寅はついに反逆の罪で誅殺された。

至元七年、趙良弼を経略使とし、高麗の屯田を統轄させた。趙良弼は屯田が不便であると述べ、固辞した。そこで趙良弼を使節として日本に派遣することにした。先に、至元の初年、数度にわたり使者を遣わして日本と通じたが、ついに要領を得なかった。ここにおいて趙良弼は行くことを請うた。帝はその老齢を哀れんで許さなかったが、趙良弼が固く請うたので、ついに秘書監を授けて行かせた。趙良弼は奏上した。「臣の父兄四人は金のために死んだ。翰林の臣に命じてその碑文を作らせてください。臣はたとえ絶域で死んでも、遺憾はありません。」帝はその請いを聞き入れた。兵三千を与えて従わせようとしたが、趙良弼は辞退し、ただ書状官二十四人だけを連れて行った。

船が金津島に着くと、その国の人々は使節の船を見て、刃を挙げて攻撃しようとした。趙良弼は船を捨てて岸に上がり、旨を説いた。金津の守備は板屋に招き入れ、兵で取り囲み、燭を消して大声で騒いだが、趙良弼は凝然として自若としていた。夜が明けると、その国の太宰府の官が四方の山に兵を並べ、使者の来訪の様子を尋ねた。趙良弼はその不敬の罪を数え上げ、なおも礼の趣旨を説いた。太宰府の官は恥じて服し、国書を求めた。趙良弼は言った。「必ずや汝が国の王に会ってから、初めて授けよう。」数日後、また来て国書を求め、かつ言った。「我が国では太宰府以東には、上古より使臣が至ったことはない。今、大朝が使節をここに遣わされたのに、国書を授けられないならば、どうして信を示せようか。」趙良弼は言った。「隋の文帝が裴清を遣わした時、王は郊外に出迎えて礼を成した。唐の太宗・高宗の時、遣わされた使者は皆、王に会うことができた。王はどうしてただ大朝の使臣に会わないのか。」また国書を求めやまず、詰問と応答を数度繰り返し、ついには兵で趙良弼を脅した。趙良弼は終に与えず、ただ少し写しを取って示しただけだった。後にはまた声を張り上げて、大将軍が兵十万を率いて国書を求めに来ると言った。趙良弼は言った。「汝が国の王に会わないならば、寧ろ我が首を持って行け。国書は得られぬ。」日本は屈せしめられないと知り、使節と副使十二人を入朝させ、なおも人を遣わして趙良弼を対馬島まで送らせた。

十年五月、趙良弼は日本から帰り、入朝して謁見した。帝はその経緯を尋ねて知ると、言った。「卿は君命を辱めずと言えよう。」後に帝が日本を討とうとした時、三度尋ねた。趙良弼は言った。「臣は日本に一年余り住み、その民俗を観察しましたが、残忍で勇猛で殺戮を好み、父子の親しみや上下の礼を知りません。その地は山水が多く、耕桑の利はなく、その民を得ても使役できず、その地を得ても富みは増しません。ましてや舟師が海を渡れば、海風の時期は定まらず、禍害は測り知れません。これは有用の民力を以て、窮まりなき巨壑に埋めるようなもので、臣は撃たぬ方がよいと思います。」帝はこれに従った。

十一年十二月、趙良弼を同僉書樞密院事とした。丞相の伯顔が宋を伐つ時、趙良弼は言った。「宋の重兵は揚州にあります。大軍を以て先ず銭唐を衝くべきです。」後にはついにその計の通りになった。また言った。「宋が滅びれば、江南の士人は多く学問を廃するでしょう。経史科を設けて人材を育成し、律令を定めて奸吏を鎮めるべきです。」ついに皆その議を用いた。帝はかつてゆったりと尋ねて言った。「高麗は小国であるが、工匠や棋技は皆、漢人に勝っている。儒者に至っては、皆、経書に通じ、孔子・孟子を学んでいる。漢人はただ賦税の徴収や詩を吟ずることに務めるばかりで、何の役に立とうか。」趙良弼は答えて言った。「これは学者の病ではなく、国家が何を尚ぶかによるのです。詩賦を尚べば、人は必ずそれに従い、経学を尚べば、人もまたそれに従います。」

趙良弼はたびたび病気を理由に辞任を請うた。十九年、懐孟に居住する旨を得た。趙良弼の別荘は温県にあり、もと三千畝の土地があった。そこでこれを二つに分け、六分を懐州に、四分を孟州に与え、皆、永久に廟学に属させて生徒を養わせた。自ら儒素の出身であることを以て、本を忘れないことを示したのである。ある人が政治のあり方を尋ねると、趙良弼は言った。「『必ず忍ぶことがあって、初めて事が成る。』人の性で発しやすく制しがたいものは、怒りが最も甚だしい。必ず己に克たねば、その後で怒りを制することができ、必ず理に順わねば、その後で怒りを忘れることができる。忍び難きを忍び、容れ難きを容れることができて、初めて事は成るのである。」二十三年、卒去した。七十歳であった。推忠翊運功臣・太保・儀同三司を追贈され、韓国公を追封され、諡は文正といった。子の趙訓は、陝西平章政事となった。

趙璧

趙璧は字を寶臣といい、雲中懷仁の人である。世祖が親王であった時、その名を聞いて召し出して会い、秀才と呼んで名を呼ばず、三人の童子を賜り、薪水を与え、后に命じて自ら衣を製させて賜り、試着して合わないのを見ると、すぐに加減し、寵遇は比べる者もなかった。駅馬を馳せて四方に赴き、名士の王鶚らを招聘するよう命じた。また蒙古の生徒十人に、趙璧について儒書を学ばせた。趙璧に国語(モンゴル語)を習わせ、『大学衍義』を訳させ、時に馬上で趙璧の陳説を聞くと、言辞の趣旨は明らかで通じており、世祖はこれを賞賛した。

憲宗が即位すると、趙璧を召して問うた。「天下はどうすれば治まるか。」答えて言った。「まず近侍の中で特に不善の者を誅することを請います。」憲宗は不愉快になった。趙璧が退出すると、世祖は言った。「秀才、汝は全身が胆なのか。我もまた汝のために両手に汗を握ったよ。」ある日、断事官の牙老瓦赤がその印を持ち、帝に請うて言った。「これは先朝が臣に賜った印です。今、陛下が即位され、この旧印をなお用いられるのか、それとも新しいものに替えられるのか。」時に趙璧は傍らに侍っていたが、これを詰って言った。「汝を用いるか否かは、聖裁に取るべきである。汝はどうして印を以て請うことを敢えてするのか。」その印を奪い取って帝の前に置いた。帝はしばらく黙っていたが、やがて言った。「朕もまたこのようなことはできない。」これより牙老瓦赤は用いられなくなった。

壬子年、河南経略使となった。河南の劉万戸は貪欲で淫らで暴虐であり、郡中の婚嫁は必ずまず彼に賄賂し、その請いを得てから行い、皆、彼を翁と呼んでいた。その党類の董主簿は特に勢いを恃んで暴虐を働き、容姿の良い民女三十余人を強奪していた。趙璧が着任すると、その罪を調べてただちに斬り、民女を皆、返した。劉万戸は大いに驚き、時に大雪が降っていたので、趙璧を訪ねて労い、かつ酒を酌んで賀して言った。「経略が着任され、強暴な者を誅鋤されたので、雪が瑞応となったのです。」趙璧は言った。「董主簿のような者は、まだ他にもいる。全て誅し終われば、瑞応は大いに至るであろう。」劉万戸は息を殺して再び言葉を発することができず、帰って臥せり病んで死んだ。当時の人はこれを恐れて死んだと思った。

己未(1259年)、宋を伐つに当たり、江淮荊湖経略使となる。兵は鄂州を包囲し、宋の賈似道が使者を遣わして来て、行人を請いて和を願うと、張璧は行くことを請うた。世祖は言った、「汝が城に登れば、必ず我が旗を謹んで視よ。旗が動けば、速やかに帰るがよい」。張璧が城に登ると、宋の将軍宋京が言った、「北兵もし軍を返すならば、江を割いて界とし、かつ毎年銀・絹匹両を各二十万ずつ奉ることを願う」。張璧は言った、「大軍が濮州に至った時、確かにこの請いがあったならば、なお従われることもあろう。今は既に江を渡った。この言葉は何の益があろうか。賈制置(賈似道)は今どこにおられるのか」。張璧はちょうど世祖の旗が動くのを見て、乃ち言った、「他日またこれを議するを俟とう」。遂に還った。

憲宗が崩御し、世祖が即位した。中統元年(1260年)、燕京宣慰使に拝される。時に蜀軍への供給で府庫は既に尽き、及び北辺に用兵するに及び、張璧は饋運を経画し、相継いで絶えなかった。中書省が立てられ、平章政事を授けられ、答剌罕の号を加えることを議したが、力辞して受けなかった。二年、北征に従い、燕に還ることを命じられ、平章政事を兼ねて大都督ととくとして諸軍を領した。この年、初めて太廟の雅楽を製した。楽工の党仲和・郭伯達は音律を知る者として選中されたが、偽鈔を造った者に連座し、獄に繋がれた。張璧は言った、「太廟の雅楽は、大饗に用いるもので、聖上が以て孝を昭かにし本に報いる所以である。豈に無辜に及んで繋ぎ、雅楽の成るを廃すことができようか」。奏請してこれをゆるした。三年、李璮が益都で反し、親王合必赤に従ってこれを討った。李璮は既に済南を占拠し、諸軍は食に乏しかった。張璧は済河から粟及び羊・豕を得て以て軍に饋り、軍は再び大いに振るった。

至元元年(1264年)、官制が行われ、栄禄大夫を加えられた。帝は宋に対する檄文を作ろうとし、筆を執る者数人も、旨に称わず、乃ち張璧を召してこれを作らせた。文が成ると、帝は大いに喜んで言った、「秀才のみが我が意を曲く尽くした」。枢密副使に改める。六年、宋の守臣に間使を遣わして降を約する者があり、帝は張璧に鹿門山の都元帥阿朮の営に詣り密議することを命じた。張璧に同行漢軍都元帥府事を命じた。宋の将軍夏貴が兵五万を率い、糧三千艘を饋り、武昌より流を溯り、襄陽に入って援けた。時に漢水が暴漲し、張璧は険に拠り伏兵を設けてこれを待った。夏貴は果たして夜中に潜かに上り、張璧は策馬して鹿門を出て、二十余里を行き、伏兵を発し、その五舟を奪い、大呼して言った、「南船は既に敗れた。我が水軍は速やかに進むべし」。夏貴はおそれて敢えて動かなかった。明くる朝、阿朮が至り、諸将を領して江を渡り西に夏貴の騎兵を追い、張璧は水軍万戸解汝楫等を率いて夏貴の舟師を追った。遂に虎尾洲で合戦し、夏貴は大いに敗れて走り、士卒溺死すること甚だ多く、戦艦五十を奪い、将士三百余人を擒にした。

高麗王禃がその臣林衍に逐われ、帝は張璧を還し召し、中書左丞に改め、国王頭輦哥と同行して東京等路中書省事を行い、兵を平壌に聚めた。時に林衍は既に死んでいた。張璧は王と議して言った、「高麗が江華島に遷居してより数年になる。外は卑辞臣貢するも、内はその険を恃む。故に権臣をして畏忌する所なく、ほしいままにその主を逐わしめる。今、林衍は死んだが、王は実に罪無し。若し朝廷兵を遣わし護って帰し、古京に国を復させれば、以て兵を安んじ民を息ませることができ、策の上なる者である」。因って使者を遣わして以て聞かせると、帝はこれに従った。時に同行者は高麗の美人を分けたが、張璧は三人を得て、皆これを還した。

師が還り、中書右丞に遷る。冬、太廟を祀ったが、有司が黄幔を失い、神庖の竈下に索めて得たが、既に甚だしく汚れ破れていた。帝は聞き、大怒して言った、「大不敬である。斬るに当たる」。張璧は言った、「法は杖断して遠くに流すに止まる」。その人は死を免れた。十年、再び平章政事を拝する。十三年、卒す。年五十七。大徳三年(1299年)、大司徒しとを贈られ、諡して忠亮という。

子二人:仁栄は帰徳府事の同知、仁恭は集賢直学士。孫二人:崇は郊祀署令、弘は左蔵庫提点。