巻159

列傳第四十六:宋子貞 商挺 趙良弼 趙璧

宋子貞

宋子貞、字は周臣、潞州長子の人である。性質は聡明で悟りが早く学問を好み、詞賦に巧みであった。弱冠にして、推薦状を得て礼部の試験を受け、族兄の知柔とともに太学生に補せられ、ともに当時に名を知られ、人々は大宋・小宋と称した。

原文宋子貞字周臣,潞州長子人也。性敏悟好學,工詞賦。弱冠,領薦書試禮部,與族兄知柔同補太學生,俱有名於時,人以大、小宋稱之。

金の末、潞州に乱が起こり、子貞は趙・魏の地を奔走した。宋の将軍彭義斌が大名を守り、彼を辟召して安撫司計議官とした。義斌が没すると、子貞は衆を率いて東平行臺の厳実に帰順した。実は平素よりその名を聞いており、幕府に招き置き、詳議官に用い、兼ねて学校を提挙させた。これより先、実は毎度人をして朝廷に事を請わせる際、近侍に託して奏決させ、中書を経由せず、これにより丞相耶律楚材と意見が合わなかった。子貞が至ると、実に勧めて丞相に礼を尽くし、殷勤を通じさせ、凡そ奏請するには必ず先ず諮詢し稟告すべきであるとした。丞相は喜び、これより交歓して隔てなくなり、実はこれによりますます子貞を信任した。

原文金末,潞州亂,子貞走趙、魏間。宋將彭義斌守大名,辟為安撫司計議官。義斌歿,子貞率眾歸東平行臺嚴實。實素聞其名,招置幕府,用為詳議官,兼提舉學校。先是,實每令人請事于朝,托近侍奏決,不經中書,因與丞相耶律楚材有違言。子貞至,勸實致禮丞相,通慇懃,凡奏請,必先咨禀。丞相喜,自是交懽無間,實因此益委信子貞。

太宗四年、実は黄陵を守備した。金人が全力で攻め寄せ、戦って利あらず、敵の勢いは頗る張り、曹・濮以南は皆震動した。敵中より逃げ帰った者がおり、金兵が大挙して来ると言い、人情は恐懼した。子貞は実に請い、虚言を広めた者の首を斬って諸城に示させ、境内は乃ち安堵した。汴梁が既に陥ちると、飢民が北へ移り、餓死者が道に満ちた。子貞は方々に賑済救済し、全く生き延びた者は一万余人に及んだ。金の士人で流寓する者は、皆引見して周済を与え、且つ推薦して用いた。名儒の張特立・劉肅・李昶らを羈旅の中から抜擢し、彼らと同列にした。四方の士人は風聞して至り、故に東平は一時に人材が他鎮より多かった。

原文太宗四年,實戍黃陵。金人悉力來攻,與戰不利,敵勢頗張,曹、濮以南皆震。有自敵中逃歸者,言金兵且大至,人情恟懼。子貞請於實,斬揚言者首以令諸城,境內乃安。汴梁既下,饑民北徙,餓殍盈道。子貞多方賑救,全活者萬餘人。金士之流寓者,悉引見周給,且薦用之。拔名儒張特立、劉肅、李昶輩於羈旅,與之同列。四方之士聞風而至,故東平一時人材多於他鎮。

七年、太宗は子貞を行臺右司郎中に任じた。中原ゆるがほぼ平定され、事多く草創であり、行臺の統べる五十余城において、州県の官は或いは将校より抜擢され、或いは民伍より起用され、概ね政務に暗かった。甚だしい者は、専ら掊克聚斂を能とすることを以てし、官吏互いに貪私を為して民を苦しめた。子貞は前代の観察採訪の制に倣い、命官して三道に分かれて官吏を糾察させ、程式を立て、期会を定め、貪婪怠惰を罷め、廉潔勤勉を奨励し、官府に始めて紀綱が生じ、民は蘇息を得た。東平の将校が民を占めて部曲戸とし、これを脚寨と称し、その賦役を擅ほしいままにし、凡そ四百所に及んだ。子貞はこれを罷めて州県に帰すよう請うた。実は初め難色を示したが、子貞が力説して乃ち聞き入れられ、人々は便利と為した。

原文七年,太宗命子貞為行臺右司郎中。中原略定,事多草創,行臺所統五十餘城,州縣之官或擢自將校,或起由民伍,率昧於從政。甚者,專以掊克聚斂為能,官吏相與為貪私以病民。子貞倣前代觀察采訪之制,命官分三道糾察官吏,立為程式,與為期會,黜貪墯,奬廉勤,官府始有紀綱,民得蘇息。東平將校占民為部曲戶,謂之脚寨,擅其賦役,幾四百所。子貞請罷歸州縣。實初難之,子貞力言乃聽,人以為便。

実が卒去し、子の忠済が爵を襲ぎ、特に子貞を敬った。朝廷に請い、参議東平路事を授け、兼ねて太常礼楽を提挙させた。子貞は新たに廟学を建て、前進士の康曄・王磐を教官として招き、生徒を数百人招致し、粟を出して贍い、経芸を習わせた。毎季の程試には必ず自ら臨んだ。斉魯の儒風は、これにより一変した。

原文實卒,子忠濟襲爵,尤敬子貞。請于朝,授參議東平路事,兼提舉太常禮樂。子貞作新廟學,延前進士康曄、王磐為教官,招致生徒幾百人,出粟贍之,俾習經藝。每季程試,必親臨之。齊魯儒風,為之一變。

歳己未、世祖が南伐し、子貞を濮に召し寄せ、方略を問うた。対えて曰く、「本朝は威武有余れども、仁徳未だ洽からず。命に拒む所以のものは、只だ死を畏れるのみ、若し投降する者を殺さず、脅従する者を治めなければ、則ち宋の郡邑は檄を伝えて定めることができましょう。」世祖はその言を善しとした。中統元年、益都路宣撫使を授けられた。未だ幾ばくもなく、入朝し、右三部尚書に拝された。時に新たに省部が立ち、典章制度は多く子貞が裁定した。李璮が叛き、済南を拠ると、詔して子貞に軍前行中書省事を参議させた。子貞は単騎で済南に至り、璮の形勢を観察し、因って丞相史天澤に説いて曰く、「璮は衆を擁して東より来たり、孤城を坐して守る、宜しく外城を増築し、その奔突を防ぐべし、彼が糧尽き援絶すれば、攻めずして自ずから破れましょう。」議は天澤と合致し、遂に璮を擒えた。

原文歲己未,世祖南伐,召子貞至濮,問以方略。對曰:「本朝威武有餘,仁德未洽。所以拒命者,特畏死爾,若投降者不殺,脅從者勿治,則宋之郡邑可傳檄而定也。」世祖善其言。中統元年,授益都路宣撫使。未幾,入覲,拜右三部尚書。時新立省部,典章制度,多子貞裁定。李璮叛,據濟南,詔子貞參議軍前行中書省事。子貞單騎至濟南,觀璮形勢,因說丞相史天澤曰:「璮擁眾東來,坐守孤城,宜增築外城,防其奔突,彼糧盡援絕,不攻自破矣。」議與天澤合,遂擒璮。

子貞は還り、上書して便宜十事を陳べ、大略に謂う、「官爵は人主の柄なり、選法は宜しく尽く吏部に帰すべし。律令は国の紀綱なり、宜しく早く刊定すべし。監司は一路を総統す、その材に非ざるを用いれば、人望を厭わず、公廉にして才徳ある者を選びて之を為すを乞う。今州県の官は相伝えて世襲し、非法の賦斂を行い、民は窮して訴えるところ無し、宜しく遷転して以てその弊を革むべし。」また国学を建てて冑子を教え、州郡に勅して提学に諸生を課試させ、三年毎に貢挙することを請うた。旨有りて中書に命じ次第に之を行わしめた。至元二年、始めて州県官の世襲を罷む。子貞を遣わし左丞相耶律鑄とともに山東を行き、所部の官を遷調させた。還り、翰林学士を授け、中書省事を参議した。俸祿を班給し、職田を定むることを奏請し、従われた。俄かに中書平章政事に拝された。復た時務の切要なる者十二策を陳べ、帝は頗る子貞を用いるの遅かりしを悔いた。

原文子貞還,上書陳便宜十事,大略謂:「官爵,人主之柄,選法宜盡歸吏部。律令,國之紀綱,宜早刊定。監司總統一路,用非其材,不厭人望,乞選公廉有才德者為之。今州縣官相傳以世,非法賦斂,民窮無告,宜遷轉以革其弊。」又請建國學教冑子,敕州郡提學課試諸生,三年一貢舉。有旨命中書次第施行之。至元二年,始罷州縣官世襲。遣子貞與左丞相耶律鑄行山東,遷調所部官。還,授翰林學士,參議中書省事。奏請班俸祿,定職田,從之。俄拜中書平章政事。復陳時務之切要者十二策,帝頗悔用子貞晚。

未だ幾ばくもなく、年老いを以て退くことを求め、帝曰く、「卿の気力は未だ衰えず、勉めて朕の為に留まり、大事を措置せよ、百司の差に条理有るを俟ちて、卿の自便に聴す。」三年十一月、懇ろに辞し、乃ち請いを得た。特に中書に勅し、凡そ大事有れば、即ちその家に訪問せしめた。子貞は私居にありて、毎度朝廷の事便ならざるを聞けば、必ず封疏を上奏し、君を愛し国を憂うる心は、進退を以てその心を異にしなかった。卒年八十一。初めて病み、家人が医薬を進めると、これを退けて曰く、「死生には命有り、吾が年は八十を踰えたり、何を以て薬と為さんや。」病危うく、諸子が遺言を請うと、子貞曰く、「吾が平昔汝らを教うること少なからず、今尚何をか言わんや。」

原文未幾,以年老求退,帝曰:「卿氣力未衰,勉為朕留,措置大事,俟百司差有條理,聽卿自便。」三年十一月,懇辭,乃得請。特敕中書,凡有大事,即其家訪問。子貞私居,每聞朝廷事不便,必封疏上奏,愛君憂國,不以進退異其心。卒年八十一。始病,家人進醫藥,却之曰:「死生有命,吾年踰八十,何以藥為?」病危,諸子請遺言,子貞曰:「吾平昔教汝者不少,今尚何言耶!」

子の渤、字は齊彥、才名有り、官は集賢学士に至る。

原文子渤,字齊彥,有才名,官至集賢學士。

商挺

商挺、字は孟卿、曹州済陰の人である。その先祖は、本姓は殷氏であったが、宋の諱を避けて改めた。父の衡は、僉陝西行省員外郎となり、戦死した。挺は二十四歳の時、汴京が破られ、北へ走り、冠氏の趙天錫に依り、元好問・楊奐と交遊した。東平の厳実が聘して諸子の師とした。実が卒去し、子の忠済が嗣ぐと、挺を辟召して経歴とし、出でて曹州判官とした。未だ幾ばくもなく、復た経歴となり、忠済を賛して学を興し士を養わしめた。

原文商挺字孟卿,曹州濟陰人。其先,本姓殷氏,避宋諱改焉。父衡,僉陝西行省員外郎,以戰死。挺年二十四,汴京破,北走,依冠氏趙天錫,與元好問、楊奐遊。東平嚴實聘為諸子師。實卒,子忠濟嗣,辟挺為經歷,出為曹州判官。未幾,復為經歷,贊忠濟興學養士。

癸丑、世祖が潜邸に在り、京兆分地を受け、挺の名を聞き、使者を遣わして徴し塩州に至らしめた。入対して旨に称し、字を以てして名を呼ばず。間を置いて宴語に陪し、因って曰く、「挺の来たる時、李璮は朐山に城し、東平は当に米一万石を餽送すべきところなり。東平より朐山に至るには、率ね十石を以て一石を致し、且つ車は雨に淖び必ず後期す、後期すれば罪は死なり。沂州に輸送し、璮の軍に取らしめて食わしむるを請う、便なり。」世祖曰く、「民を愛すること此の如く、何ぞ忍びて卿に従わんや。」

原文癸丑,世祖在潛邸,受京兆分地,聞挺名,遣使徵至鹽州。入對稱旨,字而不名。間陪宴語,因曰:「挺來時,李璮城朐山,東平當餽米萬石。東平至朐山,率十石致一石,且車淖于雨必後期,後期罪死。請輸沂州,使璮軍取食,便。」世祖曰:「愛民如此,忍不卿從?」

楊惟中が関中を宣撫すると、商挺は郎中となった。兵火の余波で、八州十二県の戸数は一万に満たず、皆驚き憂いて頼るものもなかった。挺は惟中を補佐し、賢良を進め、貪暴を退け、尊卑を明らかにし、埋もれた人材を出し、規程を定め、簿責を主とし、楮幣を印刷し、俸祿を頒ち、農を務めて税を薄くし、その有無を通じさせた。一ヶ月で、民は安んじた。大猾一人を誅すると、群吏は皆恐れた。また関中の常賦を半減するよう請うた。翌年、惟中が罷免され、廉希憲が代わって来ると、挺を宣撫副使に昇進させた。

原文楊惟中宣撫關中,挺為郎中。兵火之餘,八州十二縣,戶不滿萬,皆驚憂無聊。挺佐惟中,進賢良,黜貪暴,明尊卑,出淹滯,定規程,主簿責,印楮幣,頒俸祿,務農薄稅,通其有無。期月,民乃安。誅一大猾,羣吏咸懼。且請減關中常賦之半。明年,惟中罷,廉希憲來代,陞挺為宣撫副使。

丙辰の年、京兆から軍需の布一万匹、米三千石、帛三千段、それに見合う武器を徴発し、平涼の軍に輸送せよとの命が下った。期限が非常に迫っており、郡人は大いに恐れた。挺は言った。「他のものは集めやすいが、米を千里運ぶのは我が蚕麦の妨げになる。」郿の長で王姓の者は平涼の人であった。挺は召して相談すると、答えて言った。「官の運送を煩わせず、私の家に積んだ粟があります。どうかこれで代えて輸送させてください。」挺は大いに喜び、代価を載せて与え、他の輸送物も期日に合わせた。また懐孟の治めを兼ねるよう命じられ、境内は大いに治まった。丁巳の年、憲宗は阿藍答児に河南・陝右の会計を命じた。戊午の年、宣撫司が廃止され、挺は東平に戻った。

原文丙辰,徵京兆軍需布萬匹、米三千石、帛三千段,械器稱是,輸平涼軍。期迫甚,郡人大恐。挺曰:「他易集也,運米千里,妨我蠶麥。」郿長王姓者,平涼人也,挺召與謀,對曰:「不煩官運,僕家有積粟,請以代輸。」挺大悅,載價與之,他輸亦如期。復命兼治懷孟,境內大治。丁巳,憲宗命阿藍答兒會計河南、陝右。戊午,罷宣撫司,挺還東平。

憲宗が親征して蜀に向かい、世祖は鄂・漢へ向かおうとして小濮に軍を駐め、挺を召して軍事を問うた。挺は答えて言った。「蜀の道は険しく遠い。万乗の身で軽々しく動くべきでしょうか。」世祖はしばらく黙っていたが、言った。「卿の言は正に我が心に合う。」憲宗が崩御し、世祖が北還する途中、張文謙を遣わして挺に事を計らせた。挺は言った。「軍中では符信を厳重にすべきで、奸詐を防がねばなりません。」文謙は急いで追いついてこれを言上した。世祖は大いに悟り、罵って言った。「一人も我にこのことを言う者がいなかった。商孟卿がいなければ大計を危うくするところだった!」急いで使者を軍に遣わして約束を立てさせた。間もなく、阿里不哥の使者が軍中に来たので、捕らえて斬った。挺を召して北上し開平に至らせ、挺は廉希憲と密かに大計を補佐した。

原文憲宗親征蜀,世祖將趨鄂、漢,軍于小濮,召問軍事。挺對曰:「蜀道險遠,萬乘豈宜輕動?」世祖默然久之,曰:「卿言正契吾心。」憲宗崩,世祖北還,道遣張文謙與挺計事。挺曰:「軍中當嚴符信,以防姦詐。」文謙急追及言之。世祖大悟,罵曰:「無一人為我言此,非商孟卿幾敗大計!」速遣使至軍立約。未幾,阿里不哥之使至軍中,執而斬之。召挺北上至開平,挺與廉希憲密贊大計。

世祖が即位すると、挺は上奏して言った。「南の軍は乗輿を護衛すべく戻るべきであり、西の軍は便利な地に駐屯すべきです。」これに従った。廉希憲と挺を以て陝・蜀を宣撫させた。中統元年夏五月、京兆に至った。哈剌不花という者は、蜀征伐時の名将で、渾都海はかつてその副将であったが、時に六盤山に駐屯し、兵を挙げて阿里不哥に応じた。挺は希憲に言った。「六盤の軍について三つの策がある。精鋭を尽くして東進し、直ちに京兆を衝くのが上策である。兵を六盤に集め、隙を窺って動くのが中策である。重装備で北帰し、和琳に応じるのが下策である。」希憲が「彼らはどれを取るだろうか」と問うと、挺は「必ず下策を取るでしょう」と言った。果たしてその通りになった。そこで希憲と議を定め、八春・汪良臣に兵を発してこれを防がせた。事の詳細は希憲伝にある。六盤の兵が既に北へ向かうと、阿藍答児が和琳から兵を率いて南へ来て、哈剌不花・渾都海と甘州で出会った。哈剌不花は意見が合わないとして、その兵を率いて北へ去り、阿藍答児は遂に渾都海と合軍して南へ向かった。時に諸王合丹が騎兵を率いて八春・汪良臣の兵と合流し、三道に分かれてこれを防いだ。陣を布くと、大風が砂を吹き、良臣は軍士に下馬を命じ、短兵でその左翼を突き、陣の後ろに回り出て、その右翼を崩して出た。八春は直ちにその前面を衝き、合丹は精騎を統率してその帰路を遮った。甘州の東で大戦し、阿藍答児・渾都海を殺した。事が聞こえると、帝は大いに喜び、言った。「商孟卿は古の良将である。」宣撫司を行中書省に改め、希憲を右丞に進め、挺を行省事僉と進めた。

原文世祖既即位,挺奏曰:「南師宜還扈乘輿,西師宜軍便地。」從之。以廉希憲及挺宣撫陝、蜀。中統元年夏五月,至京兆。哈剌不花者,征蜀時名將也,渾都海嘗為之副,時駐六盤山,以兵應阿里不哥。挺謂希憲曰:「為六盤,有三策:悉銳而東,直擣京兆,上策也;聚兵六盤,觀釁而動,中策也;重裝北歸,以應和林,下策也。」希憲曰:「彼將何從?」挺曰:「必出下策。」已而果然。於是與希憲定議,令八春、汪良臣發兵禦之,事具希憲傳。六盤之兵既北,而阿藍答兒自和林引兵南來,與哈剌不花、渾都海遇於甘州。哈剌不花以語不合,引其兵北去,阿藍答兒遂與渾都海合軍而南。時諸王合丹率騎兵與八春、汪良臣兵合,乃分為三道以拒之。既陣,大風吹沙,良臣令軍士下馬,以短兵突其左,繞出陣後,潰其右而出,八春直擣其前,合丹勒精騎邀其歸路,大戰于甘州東,殺阿藍答兒、渾都海。事聞,帝大悅,曰:「商孟卿,古之良將也。」改宣撫司為行中書省,進希憲為右丞,挺為僉行省事。

二年、参知政事に進んだ。宋の将劉整が瀘州を以て降伏し、以前に宋に降った者数百人を縛って帰順してきた。軍吏は誅して戒めとするよう請うたが、挺はことごとく上奏して釈放した。興元の判官費寅は罪があって誅殺を恐れ、兵を借りて城を完成させた事で挺と希憲を朝廷に訴えた。帝は便殿に挺を召し、問うて言った。「卿は関中・懐孟で二度治績を上げたのに、誹謗の言葉が日々届く。はたして同僚に卿を阻む者がいるのか?それとも位が高くて志が怠ったのか?近年王文統を論じる者は多いが、卿だけは一言もない。」挺は答えて言った。「臣は元より文統の為人を知っており、かつて趙璧とこれを論じました。陛下もまだ覚えておられるでしょう。臣が秦にいた三年間、過失は多かった。権に従って応変したこともあるでしょう。もし功を成して己に帰し、事が敗れて咎を人に分かたせるようなことは、臣は必ずしません。どうか誅戮にお就きください。」挺が出て行くと、帝は駙馬忽剌出・枢密副使合答らを顧みて、挺の前後の大計を数え、合わせて十七あった。そこで嘆いて言った。「挺はこのように功績があるのに、なお自ら罪があると言う。このようにして、誰が再び朕のために力を尽くそうか。卿らはこれを覚えておけ。」四年、金符を賜り、四川行枢密院事を行った。

原文二年,進參知政事。宋將劉整以瀘州降,繫前降宋者數百人來歸,軍吏請誅以戒,挺盡奏而釋之。興元判官費寅有罪懼誅,以借兵完城事訟挺與希憲于朝。帝召挺便殿,問曰:「卿在關中、懷孟,兩著治效,而毀言日至,豈同寅有沮卿者耶?抑位高而志怠耶?比年論王文統者甚眾,卿獨無一言。」挺對曰:「臣素知文統之為人,嘗與趙璧論之,想陛下猶能記也。臣在秦三年,多過,其或從權以應變者有之。若功成以歸己,事敗分咎於人,臣必不敢,請就戮。」挺既出,帝顧駙馬忽剌出、樞副合答等,數挺前後大計,凡十有七,因嘆曰:「挺有功如是,猶自言有罪,若此,誰復為朕戮力耶!卿等識之。」四年,賜金符,行四川行樞密院事。

至元元年、参知政事として入朝した。史事について建議し、遼・金二史の編修に付いては、王鶚・李冶・徐世隆・高鳴・胡祗遹・周砥らをこれに当たらせるべきだとし、大いに帝の意に合った。二年、河東に分省したが、間もなく召還された。三年、帝が経学に留意されると、挺は姚枢・竇黙・王鶚・楊果とともに五経の要語を凡そ二十八類に編纂して進呈した。六年、同僉枢密院事となった。七年、僉書に遷った。八年、副使に昇進した。軍糧を計算し、軍官の品級を定め、軍吏に俸給を与えた。四千人を屯田させ、三万亩を開墾し、その収穫を以て親軍に糧食を与えた。軍務に耐えられない戸三万戸を淘汰し、一丁の者もまた淘汰した。丁が多くて産業が少ない者、産業が多くて丁が少ない者は、財力で互いに助け合い、合わせて一軍を出すようにした。

原文至元元年,入拜參知政事。建議史事,附修遼、金二史,宜令王鶚、李冶、徐世隆、高鳴、胡祗遹、周砥等為之,甚合帝意。二年,分省河東,俄召還。三年,帝留意經學,挺與姚樞、竇默、王鶚、楊果纂五經要語凡二十八類以進。六年,同僉樞密院事。七年,遷僉書。八年,陞副使。數軍食,定軍官品級,給軍吏俸。使四千人屯田,開墾三萬畝,收其穫以餉親軍。汰不勝軍者戶三萬戶,一丁者亦汰去;丁多業寡,業多丁寡,財力相資,合出一軍。

九年、皇子忙阿剌を安西王に封じ、王相府を立て、挺を王相とした。十四年、詔して王に北征を命じると、王は挺に命じて言った。「関中の事で不便なものは、ことごとく改めるがよい。」挺は言った。「延安の民兵数千は、李忽蘭吉に練習させ、不測の事態に備えるべきです。」間もなく、禿魯が叛き、延安の兵で敵に応じたところ、果たしてその力を得た。挺は王に十策を進言した。親鄰を睦まじくし、人心を安んじ、民時を敬い、不虞に備え、民生を厚くし、事権を一にし、心源を清くし、自治を謹み、本根を固くし、下情を察することである。王は酒を設けて嘉納した。王が薨じると、王妃は挺に命じて朝廷に請願させ、子の阿難答を嗣がせようとした。帝は言った。「年少で、祖宗の訓えに習熟していない。卿が暫く王相府の事を行え。」

原文九年,封皇子忙阿剌為安西王,立王相府,以挺為王相。十四年,詔王北征,王命挺曰:「關中事有不便者,可悉更張之。」挺曰:「延安民兵數千,宜使李忽蘭吉練習之,以備不虞。」未幾,禿魯叛,以延安兵應敵,果獲其力。挺進十策於王,曰:睦親鄰,安人心,敬民時,備不虞,厚民生,一事權,清心源,謹自治,固本根,察下情。王為置酒嘉納。王薨,王妃使挺請命于朝,以子阿難答嗣。帝曰:「年少,祖宗之訓未習,卿姑行王相府事。」

初め、運使郭琮・郎中郭叔雲は王相趙炳と隙を構えた。或る者が趙炳の不法を告げると、妃は命じて彼を六盤の獄に囚し死なせた。朝廷はこれを擅殺と疑い、郭琮・叔雲を捕らえて訊問し、罪を認めさせた。事は趙炳伝に詳しい。初め商挺に少しも関わりはなかった。ただ王府の女奚(侍女)徹徹のみが、二郭の謀に与したため、臨刑の際、生き延びようと望み、初めて曖昧な言葉で商挺とその子瓛を連座させた。帝は怒り、商挺を召し出して趙炳の家に拘禁し、瓛を獄に下した。帝は趙氏の子(趙炳の子)に命じて言った、「商孟卿(商挺)は老書生である。諸儒と共にその罪を議せよ」と。吏部尚書青陽夢炎が議勳を以て奏上して言った、「臣は宋の儒者であり、商挺の従来の功績が今の過ちを補えるかどうか知りません」と。帝は快く思わず、「これは同類相助の言辞である」と言った。符宝郎董文忠が奏上して言った、「夢炎は商挺がどのような人物か知りません。臣はかつての推戴の功績を彼に話しました」と。帝はしばらくして言った、「その事は果たしてどうなのか」と。答えて言った、「臣は目で見てはいませんが、耳では確かに聞きました。殺人の謀議には、商挺は与っていません」と。帝は黙然とした。十六年春、旨があった、「商挺を全く無罪として釈放することはできず、その家を没収せよ」と。この冬、初めて商挺と瓛を釈放した。二十年、枢密副使に復し、まもなく病気により免じられた。二十一年、趙氏の子が再び父の冤罪を訴え、商挺は再び拘禁され、百余日にして釈放された。二十五年、帝は中丞董文用に問うて言った、「商孟卿は今年いくつか」と。答えて言った、「八十です」と。帝はその老いを大いに惜しみ、その康強を嘆じた。この歳の冬十二月に卒した。詩千余篇あり、特に隷書に優れていた。延祐初年、推誠協謀佐運功臣・太師・開府儀同三司・上柱国・魯国公を追贈され、諡して文定といった。子は五人:琥・璘・瑭・瓛・琦。

原文初,運使郭琮、郎中郭叔雲與王相趙炳搆隙。或告炳不法,妃命囚之六盤獄以死。朝廷疑擅殺之,執琮、叔雲鞫問,伏辜,事具趙炳傳。初無一毫及挺。惟王府女奚徹徹,以預二郭謀,臨刑,望以求生,始有瞹昧語連挺及其子瓛。帝怒,召挺,拘炳家,瓛下獄。帝命趙氏子曰:「商孟卿,老書生,可與諸儒讞其罪。」吏部尚書青陽夢炎以議勳奏曰:「臣宋儒,不知挺向來之功可補今之過否?」帝不悅曰:「是同類相助之辭也。」符寶郎董文忠奏曰:「夢炎不知挺何如人,臣以曩時推戴之功語之矣。」帝良久曰:「其事果何如?」對曰:「臣目未覩,耳固聞之,殺人之謀,挺不與也。」帝默然。十六年春,有旨:「挺不可全以無罪釋之,籍其家。」是冬,始釋挺及瓛。二十年,復樞密副使,俄以疾免。二十一年,趙氏子復訟父寃,挺又被繫,百餘日乃釋。二十五年,帝問中丞董文用曰:「商孟卿今年幾何?」對曰:「八十。」帝甚惜其老,而嘆其康強。是歲冬十有二月卒。有詩千餘篇,尤善隸書。延祐初,贈推誠協謀佐運功臣、太師、開府儀同三司、上柱國、魯國公,諡文定。子五人:琥、璘、瑭、瓛、琦。

琥は字を台符という。至元十四年、姚枢・許衡の推薦により、江南行御史台監察御史に任じられた。建康の戍卒で湯氏の財産を狙う者がおり、その家に戈を投げ込み、反乱の具と誣告した。琥はその冤罪を知り、誣告者を罪して湯氏を釈放した。華亭の蟠龍寺の僧思月が謀叛を企てて捕らえられると、その徒党が火を放って奪還に来て、民は大いに騒擾した。琥は急いでその首魁を誅した。文法吏が琥の擅誅を責めると、行台中丞張雄飛が言った、「江南は残破の余り、盗賊が屡々起こる。なお常例に循っているようでは、憲台を用いて何になろうか」と。吏の議は遂に屈した。都昌の妖賊杜万一が僭号して乱を唱えると、行台は琥に命じて審問させた。脅従者を械で繋ぎ獄は満ちたが、琥は全て詿誤として釈放して帰した。党与で潜伏する者はなお多く、琥は榜を掲げて招来すると、三日と経たずに雲のごとく集まった。

原文琥字台符。至元十四年,以姚樞、許衡薦,拜江南行御史臺監察御史。建康戍卒有利湯氏財者,投戈于其家,誣為反具。琥知其寃,罪誣者而釋之。華亭蟠龍寺僧思月謀叛被擒,其黨縱火來劫,民大擾,琥亟誅其魁。文法吏責琥擅誅,行臺中丞張雄飛曰:「江南殘毀之餘,盜賊屢起,顧尚循常例,安用憲臺為哉!」吏議遂屈。都昌妖賊杜(辛)〔萬〕一,僭號倡亂,行臺檄琥按問。械繫脅從者盈獄,琥悉以詿誤縱遣之。黨與竄伏者猶眾,琥揭牓招徠,不三日雲集。

二十七年、召されて中台監察御史に任じられた。地震が起こると、琥は上書して言った、「昔、漢の文帝にこの異変があったが、その応(災い)がなかったのは、躬みずから徳化を行ってこれを消したからである」と。そこで漢の文帝の時政を条陳して進言した。また言った、「国を治める道は、立法と任人との二つに過ぎない。法は徒らに立つものではなく、人によって行われねばならず、人を濫用せず、ただ賢を択ぶべきである」と。そこで天下の名士十余人を挙げた。帝はこれに従い、皆召し出して用い、格別の待遇で遇った。三十年、国子司業に遷った。卒した。『彝斎文集』がある。

原文二十七年,徵拜中臺監察御史。屬地震,琥上書言:「昔漢文帝有此異,而無其應,蓋以躬行德化而弭也。」因條陳漢文時政以進。又言:「為國之道,在立法、任人二者而已。法不徒立,須人而行,人不濫用,惟賢是擇。」因舉天下名士十餘人。帝從之,皆召用,待以不次。三十年,遷國子司業。卒。有彝齋文集。

瑭は字を礼符という。右衛屯田千戸に仕えた。一年余りして、病を謝して親に侍り、時に年わずか三十二歳であった。後に郷里に帰り、室を築いて晦道堂と名付けた。これは七世の祖宗弼が、宋の仁宗の時に太子中舎人となり、五十歳で官を辞して築いた堂の名を取ったものである。

原文瑭字禮符。仕為右衞屯田千戶。歲餘,謝病侍親,時年纔三十二。後還鄉里,築室曰晦道堂,蓋取七世祖宗弼,宋仁宗時為太子中舍人,年五十掛冠所築堂名也。

琦は字を徳符という。大徳八年、成宗が召して宿衛に備えさせた。仁宗が東宮にあった時、奏上して集賢直学士に任じた。大名路治中に転じたが、赴任しなかった。皇慶元年、集賢侍講学士を授けられた。延祐四年、侍読官・通奉大夫に昇進し、鈔二万五千貫を賜った。泰定元年、秘書卿に遷ったが、病で帰り、卒した。琦は山水画を得意とした。かつて蜀に使いし、公平に法を守り、秋毫も私するところがなかった。

原文琦字德符。大德八年,成宗召備宿衞。仁宗在東宮,奏授集賢直學士。調大名路治中,不赴。皇慶元年,授集賢侍講學士。延祐四年,陞侍讀官、通奉大夫,賜鈔二萬五千貫。泰定元年,遷祕書卿,病歸,卒。琦善畫山水。嘗使蜀,持平守法,秋毫無私。

趙良弼

趙良弼は字を輔之といい、女直人である。本姓は朮要甲といったが、音が訛って趙家となり、趙を氏とした。父の慤は、金の威勝軍節度使で、諡して忠閔といった。慤の長子良貴は嵩汝招討使、良貴の子の讜は許州兵官、慤の従子の良材は太原を守った。皆、国事に死した。

原文趙良弼字輔之,女直人也。本姓朮要甲,音訛為趙家,因以趙為氏。父慤,金威勝軍節度使,諡忠閔;慤長子良貴,嵩汝招討使;良貴子讜,許州兵官;慤從子良材,守太原:俱死事。

良弼は明敏で、智略が多かった。初め進士に挙げられ、趙州で教授した。世祖が潜藩にあった時、召し出されて応対が意に適った。邢州安撫司が立てられると、良弼を抜擢して幕長とした。邢州は長く良吏を得ず、かつ要衝に当たり、使者が雑踏し、民は多く逃げ去っていた。良弼は区画に方策があり、事が掣肘される時は藩邸に請うた。二年の間に、凡そ六度往復し、請うたことは従わないことはなかった。脱兀脱が断事官として邢を鎮めたが、その属官は罪を犯して廃された者と結託し、互いに嫌隙を構えて動くごとに沮撓した。世祖が雲南を征していた時、良弼は駅伝を馳せてこの事を報告した。そこで脱兀脱を罷免し、その属官を廃し、邢州は大いに治まり、戸口は倍増した。世祖が潜藩にあった時、分地は関陝にあり、廉希憲・商挺を以て陝西を宣撫させ、良弼を参議司事とした。阿藍答児が国政を執ると、世祖の英武を憚り、憲宗に讒言した。そこで阿藍答児を陝西省左丞相とし、劉太平を参知政事とし、京兆の銭穀を鈎校させ、群獄を鍛錬し、死者二十余人を出し、衆は皆股が慄いた。良弼は大義を力説し、言葉と気持ちは懇ろで、二人は遂に誣いることができず、故に宣撫司は何ら連座することがなかった。

原文良弼明敏,多智略。初舉進士,教授趙州。世祖在潛藩,召見,占對稱旨。會立邢州安撫司,擢良弼為幕長。邢久不得善吏,且當要衝,使者旁午,民多逃去。良弼區畫有方,事或掣制,則請諸藩邸,再閱歲,凡六往返,所請無不從。脫兀脫以斷事官鎮邢,其屬要結罪廢者,交搆嫌隙,動相沮撓。世祖時征雲南,良弼馳驛白其事,遂黜脫兀脫,罷其屬,邢大治,戶口增倍。世祖在潛藩時,分地在關陝,奏以廉希憲、商挺宣撫陝西,以良弼參議司事。阿藍答兒當國,憚世祖英武,讒于憲宗。遂以阿藍答兒為陝西省左丞相,劉太平參知政事,鈎校京兆錢穀,煅煉羣獄,死者二十餘人,眾皆股栗。良弼力陳大義,詞氣懇款,二人卒不能誣,故宣撫司一無所坐。

己未(1259年)七月、世祖が南征し、参議元帥事を召し、兼ねて江淮安撫使とした。自ら桴鼓を執り、士卒に率先し、五戦皆捷した。廬舎を焼き、降民を殺すことを禁じ、至る所で恩徳を宣布したので、民は皆安堵した。既に江を渡り、鄂州を攻めた時、憲宗の崩御を聞き、世祖が北還すると、良弼は時務十二事を陳べ、言うところは皆根拠があった。衛に至り、京兆に遣わされて秦・蜀の人情事情を察訪させると、一月を踰えず、実情を悉く得て還り報告した。曰く、「宗王穆哥に他心はなく、西南六盤を悉く委属させるのが宜しい。渾都海は六盤に軍を屯し、士馬は精強で、皆北帰を思っており、事に不意のことがあるのを恐れる。紐鄰は秦・川の蒙古諸軍を総べ、秦・蜀の民心を多く得ているが、年少で勇猛で、去就を軽んじる。重職を以て寵し、速やかにその兵権を解くべきである。劉太平・霍魯懐は今、行尚書省事を行い、声は糧餉を調達すると言いながら、陰に秦・蜀を拠んとする志がある。百家奴・劉黒馬・汪惟正兄弟は、徳恵を蒙り、皆心を尽くして命令を待っている」と。その言は皆採用された。

原文己未七月,世祖南征,召參議元帥事,兼江淮安撫使。親執桴鼓,率先士卒,五戰皆捷;禁焚廬舍、殺降民,所至宣布恩德,民皆按堵。既渡江,攻鄂州,聞憲宗崩,世祖北還,良弼陳時務十二事,言皆有徵。至衞,遣如京兆察訪秦、蜀人情事宜,不踰月,具得實還報,曰;「宗王穆哥無他心,宜以西南六盤悉委屬之。渾都海屯軍六盤,士馬精強,咸思北歸,恐事有不意。紐鄰總秦、川蒙古諸軍,多得秦、蜀民心,年少鷙勇,輕去就,當寵以重職,疾解其兵柄。劉太平、霍魯懷,今行尚書省事,聲言辦集糧餉,陰有據秦、蜀志。百家奴、劉黑馬、汪惟正兄弟,蒙被德惠,俱悉心俟命。」其言皆見采用。

庚申(1260年)、良弼は凡そ五度にわたり進言して即位を勧めた。曰く、「今、中外皆、大王の早く正宸に進み、天下を安んぜられることを願っています。事勢この如く、どうして中止を容れられましょうか。社稷の安危は、間髪を容れません」と。世祖はこれを嘉した。即位すると、陝西四川宣撫司を立て、再び廉希憲・商挺を使・副とし、良弼を参議とした。良弼は先に行き、断事官八春に謀って言った、「今、渾都海は日夜北帰を思い、紐鄰は遷延して直ちに行かず、まず使者を遣わして上旨を奉じ、紐鄰に入朝を促し、劉太平に京兆に速やかに還らせるべきである」と。八春はその議に従った。至ると、紐鄰は果たして営を移して涇に入らんとし、劉太平は六盤に向かわんとしたが、命令を聞いて止まった。

原文庚申,良弼凡五上言勸進,曰:「今中外皆願大王早進正宸,以安天下,事勢如此,豈容中止?社稷安危,間不容髮。」世祖嘉之。既卽位,立陝西四川宣撫司,復以廉希憲、商挺為使、副,良弼為參議。良弼先行,謀諸斷事官八春曰:「今渾都海日夜思北歸,紐鄰遷延不卽行,當先遣使奉上旨促紐鄰入朝,劉太平速還京兆。」八春從其議。至則紐鄰果移營將入涇,劉太平將趨六盤,聞命乃止。

その後、渾都海は果たして叛いて北へ帰ろうとした。趙良弼は汪惟正・劉黒馬の両宣撫と決議し、渾都海の党類である元帥の乞台不花・迷立火者を捕らえて誅殺した。廉希憲と商挺は勝手に殺したという名目を懸念し、使者を遣わして入朝させて奏上し、罪を待った。趙良弼は密かに状況を記した文書を授けて使者に言った。「初めに二帥を捕らえるよう命じた時は、ただ囚えて返報を待つようにとのみ命じたが、臣は密かに大げさにしては不都合と思い、急いで誅殺すべきであり、勝手に殺したのは臣にあり、実は宣撫司にはない。もし上(皇帝)が廉希憲らを怒られるならば、願わくば使者はただちにこの奏上を出してほしい。」帝は結局問わず、使者が奏上を政府に白状すると、皆、趙良弼を長者であるとした。参議陝西省事に昇進した。蜀人の費寅は私怨から廉希憲・商挺が京兆で異心を抱いている九つの事柄を誣告し、趙良弼を証拠とした。帝は趙良弼を召して詰問した。趙良弼は泣いて言った。「二臣は忠良であり、必ずやそのような心はありません。願わくば臣の心臓を切り開いて明らかにしてください。」帝の疑いは解けなかった。ちょうど李璮を平定した時、王文統の往来した書状を得て、ますます二臣を疑う気持ちが強くなり、趙良弼を厳しく責め、至らぬところはなく、ついにはその舌を断とうとした。趙良弼は死を誓って少しも変えず、帝の疑念はようやく解けた。費寅はついに反逆の罪で誅殺された。

原文後渾都海果叛北歸,良弼與汪惟正、劉黑馬二宣撫決議,執渾都海之黨元帥乞台不花、迷立火者誅之。希憲及挺慮有擅殺名,遣使入奏待罪。良弼具密狀授使者,言:「始遣捕二帥時,止令囚以俟報,臣竊以為張惶不便,宜急誅之,擅殺在臣,實不在宣撫司。若上怒希憲等,願使者卽出此奏。」帝竟不問,使者以奏白政府,咸以良弼為長者。陞參議陝西省事。蜀人費寅以私憾誣廉希憲、商挺在京兆有異志者九事,以良弼為徵。帝召良弼詰問,良弼泣曰:「二臣忠良,保無是心,願剖臣心以明之。」帝意不釋。會平李璮,得王文統交通書,益有疑二臣意,切責良弼,無所不至,至欲斷其舌。良弼誓死不少變,帝意乃解,費寅卒以反誅。

至元七年、趙良弼を経略使とし、高麗の屯田を統轄させた。趙良弼は屯田が不便であると述べ、固辞した。そこで趙良弼を使節として日本に派遣することにした。先に、至元の初年、数度にわたり使者を遣わして日本と通じたが、ついに要領を得なかった。ここにおいて趙良弼は行くことを請うた。帝はその老齢を哀れんで許さなかったが、趙良弼が固く請うたので、ついに秘書監を授けて行かせた。趙良弼は奏上した。「臣の父兄四人は金のために死んだ。翰林の臣に命じてその碑文を作らせてください。臣はたとえ絶域で死んでも、遺憾はありません。」帝はその請いを聞き入れた。兵三千を与えて従わせようとしたが、趙良弼は辞退し、ただ書状官二十四人だけを連れて行った。

原文至元七年,以良弼為經略使,領高麗屯田。良弼言屯田不便,固辭,遂以良弼奉使日本。先是,至元初,數遣使通日本,卒不得要領。於是良弼請行,帝憫其老,不許,良弼固請,乃授祕書監以行。良弼奏:「臣父兄四人,死事于金,乞命翰林臣文其碑,臣雖死絕域,無憾矣。」帝從其請。給兵三千以從,良弼辭,獨與書狀官二十四人俱。

船が金津島に着くと、その国の人々は使節の船を見て、刃を挙げて攻撃しようとした。趙良弼は船を捨てて岸に上がり、旨を説いた。金津の守備は板屋に招き入れ、兵で取り囲み、燭を消して大声で騒いだが、趙良弼は凝然として自若としていた。夜が明けると、その国の太宰府の官が四方の山に兵を並べ、使者の来訪の様子を尋ねた。趙良弼はその不敬の罪を数え上げ、なおも礼の趣旨を説いた。太宰府の官は恥じて服し、国書を求めた。趙良弼は言った。「必ずや汝が国の王に会ってから、初めて授けよう。」数日後、また来て国書を求め、かつ言った。「我が国では太宰府以東には、上古より使臣が至ったことはない。今、大朝が使節をここに遣わされたのに、国書を授けられないならば、どうして信を示せようか。」趙良弼は言った。「隋の文帝が裴清を遣わした時、王は郊外に出迎えて礼を成した。唐の太宗・高宗の時、遣わされた使者は皆、王に会うことができた。王はどうしてただ大朝の使臣に会わないのか。」また国書を求めやまず、詰問と応答を数度繰り返し、ついには兵で趙良弼を脅した。趙良弼は終に与えず、ただ少し写しを取って示しただけだった。後にはまた声を張り上げて、大将軍が兵十万を率いて国書を求めに来ると言った。趙良弼は言った。「汝が国の王に会わないならば、寧ろ我が首を持って行け。国書は得られぬ。」日本は屈せしめられないと知り、使節と副使十二人を入朝させ、なおも人を遣わして趙良弼を対馬島まで送らせた。

原文舟至金津島,其國人望見使舟,欲舉刃來攻,良弼捨舟登岸喻旨。金津守延入板屋,以兵環之,滅燭大譟,良弼凝然自若。天明,其國太宰府官陳兵四山,問使者來狀。良弼數其不恭罪,仍喻以禮意。太宰官愧服,求國書。良弼曰:「必見汝國王,始授之。」越數日,復來求書,且曰:「我國自太宰府以東,上古使臣,未有至者,今大朝遣使至此,而不以國書見授,何以示信!」良弼曰:「隋文帝遣裴清來,王郊迎成禮,唐太宗、高宗時,遣使皆得見王,王何獨不見大朝使臣乎?」復索書不已,詰難往復數四,至以兵脅良弼。良弼終不與,但頗錄本示之。後又聲言,大將軍以兵十萬來求書。良弼曰:「不見汝國王,寧持我首去,書不可得也。」日本知不可屈,遣使介十二人入覲,仍遣人送良弼至對馬島。

十年五月、趙良弼は日本から帰り、入朝して謁見した。帝はその経緯を尋ねて知ると、言った。「卿は君命を辱めずと言えよう。」後に帝が日本を討とうとした時、三度尋ねた。趙良弼は言った。「臣は日本に一年余り住み、その民俗を観察しましたが、残忍で勇猛で殺戮を好み、父子の親しみや上下の礼を知りません。その地は山水が多く、耕桑の利はなく、その民を得ても使役できず、その地を得ても富みは増しません。ましてや舟師が海を渡れば、海風の時期は定まらず、禍害は測り知れません。これは有用の民力を以て、窮まりなき巨壑に埋めるようなもので、臣は撃たぬ方がよいと思います。」帝はこれに従った。

原文十年五月,良弼至自日本,入見,帝詢知其故,曰:「卿可謂不辱君命矣。」後帝將討日本,三問,良弼言:「臣居日本歲餘,覩其民俗,狠勇嗜殺,不知有父子之親、上下之禮。其地多山水,無耕桑之利,得其人不可役,得其地不加富。況舟師渡海,海風無期,禍害莫測。是謂以有用之民力,填無窮之巨壑也,臣謂勿擊便。」帝從之。

十一年十二月、趙良弼を同僉書樞密院事とした。丞相の伯顔が宋を伐つ時、趙良弼は言った。「宋の重兵は揚州にあります。大軍を以て先ず銭唐を衝くべきです。」後にはついにその計の通りになった。また言った。「宋が滅びれば、江南の士人は多く学問を廃するでしょう。経史科を設けて人材を育成し、律令を定めて奸吏を鎮めるべきです。」ついに皆その議を用いた。帝はかつてゆったりと尋ねて言った。「高麗は小国であるが、工匠や棋技は皆、漢人に勝っている。儒者に至っては、皆、経書に通じ、孔子・孟子を学んでいる。漢人はただ賦税の徴収や詩を吟ずることに務めるばかりで、何の役に立とうか。」趙良弼は答えて言った。「これは学者の病ではなく、国家が何を尚ぶかによるのです。詩賦を尚べば、人は必ずそれに従い、経学を尚べば、人もまたそれに従います。」

原文十一年十二月,以良弼同僉書樞密院事。丞相伯顏伐宋,良弼言:「宋重兵在揚州,宜以大軍,先擣錢唐。」後訖如其計。又言:「宋亡,江南士人多廢學,宜設經史科,以育人材,定律令,以戢姦吏。」卒皆用其議。帝嘗從容問曰:「高麗,小國也,匠工弈技,皆勝漢人,至於儒人,皆通經書,學孔、孟。漢人惟務課賦吟詩,將何用焉!」良弼對曰:「此非學者之病,在國家所尚何如耳。尚詩賦,則人必從之,尚經學,則人亦從之。」

趙良弼はたびたび病気を理由に辞任を請うた。十九年、懐孟に居住する旨を得た。趙良弼の別荘は温県にあり、もと三千畝の土地があった。そこでこれを二つに分け、六分を懐州に、四分を孟州に与え、皆、永久に廟学に属させて生徒を養わせた。自ら儒素の出身であることを以て、本を忘れないことを示したのである。ある人が政治のあり方を尋ねると、趙良弼は言った。「『必ず忍ぶことがあって、初めて事が成る。』人の性で発しやすく制しがたいものは、怒りが最も甚だしい。必ず己に克たねば、その後で怒りを制することができ、必ず理に順わねば、その後で怒りを忘れることができる。忍び難きを忍び、容れ難きを容れることができて、初めて事は成るのである。」二十三年、卒去した。七十歳であった。推忠翊運功臣・太保・儀同三司を追贈され、韓国公を追封され、諡は文正といった。子の趙訓は、陝西平章政事となった。

原文良弼屢以疾辭,十九年,得旨居懷孟。良弼別業在溫縣,故有地三千畝,乃析為二,六與懷州,四與孟州,皆永隸廟學,以贍生徒,自以出身儒素,示不忘本也。或問為治,良弼曰:「『必有忍,(乃其)〔其乃〕有濟。』人性易發而難制者,惟怒為甚。必克己,然後可以制怒;必順理,然後可以忘怒。能忍所難忍,容所難容,事斯濟矣。」二十三年,卒,年七十。贈推忠翊運功臣、太保、儀同三司,追封韓國公,諡文正。子訓,陝西平章政事。

趙璧

趙璧は字を寶臣といい、雲中懷仁の人である。世祖が親王であった時、その名を聞いて召し出して会い、秀才と呼んで名を呼ばず、三人の童子を賜り、薪水を与え、后に命じて自ら衣を製させて賜り、試着して合わないのを見ると、すぐに加減し、寵遇は比べる者もなかった。駅馬を馳せて四方に赴き、名士の王鶚らを招聘するよう命じた。また蒙古の生徒十人に、趙璧について儒書を学ばせた。趙璧に国語(モンゴル語)を習わせ、『大学衍義』を訳させ、時に馬上で趙璧の陳説を聞くと、言辞の趣旨は明らかで通じており、世祖はこれを賞賛した。

原文趙璧字寶(仁)〔臣〕,雲中懷仁人。世祖為親王,聞其名召見,呼秀才而不名,賜三僮,給薪水,命后親製衣賜之,視其試服不稱,輒為損益,寵遇無與為比。命馳驛四方,聘名士王鶚等。又令蒙古生十人,從璧受儒書。敕璧習國語,譯大學衍義,時從馬上聽璧陳說,辭旨明貫,世祖嘉之。

憲宗が即位すると、趙璧を召して問うた。「天下はどうすれば治まるか。」答えて言った。「まず近侍の中で特に不善の者を誅することを請います。」憲宗は不愉快になった。趙璧が退出すると、世祖は言った。「秀才、汝は全身が胆なのか。我もまた汝のために両手に汗を握ったよ。」ある日、断事官の牙老瓦赤がその印を持ち、帝に請うて言った。「これは先朝が臣に賜った印です。今、陛下が即位され、この旧印をなお用いられるのか、それとも新しいものに替えられるのか。」時に趙璧は傍らに侍っていたが、これを詰って言った。「汝を用いるか否かは、聖裁に取るべきである。汝はどうして印を以て請うことを敢えてするのか。」その印を奪い取って帝の前に置いた。帝はしばらく黙っていたが、やがて言った。「朕もまたこのようなことはできない。」これより牙老瓦赤は用いられなくなった。

原文憲宗即位,召璧問曰:「天下何如而治?」對曰:「請先誅近侍之尤不善者。」憲宗不悅。璧退,世祖曰:「秀才,汝渾身是膽耶!吾亦為汝握兩手汗也。」一日,斷事官牙老瓦赤持其印,請于帝曰:「此先朝賜臣印也,今陛下登極,將仍用此舊印,抑易以新者耶?」時璧侍旁,質之曰:「用汝與否,取自聖裁,汝乃敢以印為請耶!」奪其印,置帝前。帝為默然久之,既而曰:「朕亦不能為此也。」自是牙老瓦赤不復用。

壬子年、河南経略使となった。河南の劉万戸は貪欲で淫らで暴虐であり、郡中の婚嫁は必ずまず彼に賄賂し、その請いを得てから行い、皆、彼を翁と呼んでいた。その党類の董主簿は特に勢いを恃んで暴虐を働き、容姿の良い民女三十余人を強奪していた。趙璧が着任すると、その罪を調べてただちに斬り、民女を皆、返した。劉万戸は大いに驚き、時に大雪が降っていたので、趙璧を訪ねて労い、かつ酒を酌んで賀して言った。「経略が着任され、強暴な者を誅鋤されたので、雪が瑞応となったのです。」趙璧は言った。「董主簿のような者は、まだ他にもいる。全て誅し終われば、瑞応は大いに至るであろう。」劉万戸は息を殺して再び言葉を発することができず、帰って臥せり病んで死んだ。当時の人はこれを恐れて死んだと思った。

原文壬子,為河南經略使。河南劉萬戶貪淫暴戾,郡中婚嫁,必先賂之,得所請而後行,咸呼之為翁。其黨董主簿,尤恃勢為虐,強取民女有色者三十餘人。璧至,按其罪,立斬之,盡還民女。劉大驚,時天大雪,因詣璧相勞苦,且酌酒賀曰:「經略下車,誅鋤強猾,故雪為瑞應。」璧曰:「如董主簿比者,尚有其人,俟盡誅之,瑞應將大至矣。」劉屏氣不復敢出語,歸臥病而卒,時人以為懼死。

己未(1259年)、宋を伐つに当たり、江淮荊湖経略使となる。兵は鄂州を包囲し、宋の賈似道が使者を遣わして来て、行人を請いて和を願うと、張璧は行くことを請うた。世祖は言った、「汝が城に登れば、必ず我が旗を謹んで視よ。旗が動けば、速やかに帰るがよい」。張璧が城に登ると、宋の将軍宋京が言った、「北兵もし軍を返すならば、江を割いて界とし、かつ毎年銀・絹匹両を各二十万ずつ奉ることを願う」。張璧は言った、「大軍が濮州に至った時、確かにこの請いがあったならば、なお従われることもあろう。今は既に江を渡った。この言葉は何の益があろうか。賈制置(賈似道)は今どこにおられるのか」。張璧はちょうど世祖の旗が動くのを見て、乃ち言った、「他日またこれを議するを俟とう」。遂に還った。

原文己未,伐宋,為江淮荊湖經略使。兵圍鄂州,宋賈似道遣使來,願請行人以和,璧請行。世祖曰:「汝登城,必謹視吾旗,旗動,速歸可也。」璧登城,宋將宋京曰:「北兵若旋師,願割江為界,且歲奉銀、絹匹兩各二十萬。」璧曰:「大軍至濮州時,誠有是請,猶或見從,今已渡江,是言何益!賈制置今焉在耶?」璧適見世祖旗動,迺曰:「俟他日復議之。」遂還。

憲宗が崩御し、世祖が即位した。中統元年(1260年)、燕京宣慰使に拝される。時に蜀軍への供給で府庫は既に尽き、及び北辺に用兵するに及び、張璧は饋運を経画し、相継いで絶えなかった。中書省が立てられ、平章政事を授けられ、答剌罕の号を加えることを議したが、力辞して受けなかった。二年、北征に従い、燕に還ることを命じられ、平章政事を兼ねて大都督として諸軍を領した。この年、初めて太廟の雅楽を製した。楽工の党仲和・郭伯達は音律を知る者として選中されたが、偽鈔を造った者に連座し、獄に繋がれた。張璧は言った、「太廟の雅楽は、大饗に用いるもので、聖上が以て孝を昭かにし本に報いる所以である。豈に無辜に及んで繋ぎ、雅楽の成るを廃すことができようか」。奏請してこれを原した。三年、李璮が益都で反し、親王合必赤に従ってこれを討った。李璮は既に済南を占拠し、諸軍は食に乏しかった。張璧は済河から粟及び羊・豕を得て以て軍に饋り、軍は再び大いに振るった。

原文憲宗崩,世祖即位。中統元年,拜燕京宣慰使。時供給蜀軍,府庫已竭,及用兵北邊,璧經畫饋運,相繼不絕。中書省立,授平章政事,議加答剌罕之號,力辭不受。二年,從北征,命還燕,以平章政事兼大都督領諸軍。是年,始製太廟雅樂。樂工党仲和、郭伯達以知音律在選中,為造偽鈔者連坐,繫獄。璧曰:「太廟雅樂,大饗用之,聖上所以昭孝報本也,豈可繫及無辜,而廢雅樂之成哉!」奏請原之。三年,李璮反益都,從親王合必赤討之。璮已據濟南,諸軍乏食,璧從濟河得粟及羊豕以饋軍,軍復大振。

至元元年(1264年)、官制が行われ、栄禄大夫を加えられた。帝は宋に対する檄文を作ろうとし、筆を執る者数人も、旨に称わず、乃ち張璧を召してこれを作らせた。文が成ると、帝は大いに喜んで言った、「秀才のみが我が意を曲く尽くした」。枢密副使に改める。六年、宋の守臣に間使を遣わして降を約する者があり、帝は張璧に鹿門山の都元帥阿朮の営に詣り密議することを命じた。張璧に同行漢軍都元帥府事を命じた。宋の将軍夏貴が兵五万を率い、糧三千艘を饋り、武昌より流を溯り、襄陽に入って援けた。時に漢水が暴漲し、張璧は険に拠り伏兵を設けてこれを待った。夏貴は果たして夜中に潜かに上り、張璧は策馬して鹿門を出て、二十余里を行き、伏兵を発し、その五舟を奪い、大呼して言った、「南船は既に敗れた。我が水軍は速やかに進むべし」。夏貴は慴おそれて敢えて動かなかった。明くる朝、阿朮が至り、諸将を領して江を渡り西に夏貴の騎兵を追い、張璧は水軍万戸解汝楫等を率いて夏貴の舟師を追った。遂に虎尾洲で合戦し、夏貴は大いに敗れて走り、士卒溺死すること甚だ多く、戦艦五十を奪い、将士三百余人を擒にした。

原文至元元年,官制行,加榮祿大夫。帝欲作文檄宋,執筆者數人,不稱旨,乃召璧為之。文成,帝大喜曰:「惟秀才曲盡我意。」改樞密副使。六年,宋守臣有遣間使約降者,帝命璧詣鹿門山都元帥阿朮營密議。命璧同行漢軍都元帥府事。宋將夏貴率兵五萬,饋糧三千艘,自武昌泝流,入援襄陽。時漢水暴漲,璧據險設伏待之。貴果中夜潛上,璧策馬出鹿門,行二十餘里,發伏兵,奪其五舟,大呼曰:「南船已敗,我水軍宜速進。」貴懾不敢動。明旦,阿朮至,領諸將渡江西追貴騎兵,璧率水軍萬戶解汝楫等追貴舟師。遂合戰於虎尾洲,貴大敗走,士卒溺死甚眾,奪戰艦五十,擒將士三百餘人。

高麗王禃がその臣林衍に逐われ、帝は張璧を還し召し、中書左丞に改め、国王頭輦哥と同行して東京等路中書省事を行い、兵を平壌に聚めた。時に林衍は既に死んでいた。張璧は王と議して言った、「高麗が江華島に遷居してより数年になる。外は卑辞臣貢するも、内はその険を恃む。故に権臣をして畏忌する所なく、擅にその主を逐わしめる。今、林衍は死んだが、王は実に罪無し。若し朝廷兵を遣わし護って帰し、古京に国を復させれば、以て兵を安んじ民を息ませることができ、策の上なる者である」。因って使者を遣わして以て聞かせると、帝はこれに従った。時に同行者は高麗の美人を分けたが、張璧は三人を得て、皆これを還した。

原文高麗王禃為其臣林衍所逐,帝召璧還,改中書左丞,同國王頭輦哥行東京等路中書省事,聚兵平壤。時衍已死,璧與王議曰:「高麗遷居江華島有年矣,外雖卑辭臣貢,內恃其險,故使權臣無所畏忌,擅逐其主。今衍雖死,王實無罪,若朝廷遣兵護歸,使復國于古京,可以安兵息民,策之上者也。」因遣使以聞,帝從之。時同行者分高麗美人,璧得三人,皆還之。

師が還り、中書右丞に遷る。冬、太廟を祀ったが、有司が黄幔を失い、神庖の竈下に索めて得たが、既に甚だしく汚れ破れていた。帝は聞き、大怒して言った、「大不敬である。斬るに当たる」。張璧は言った、「法は杖断して遠くに流すに止まる」。その人は死を免れた。十年、再び平章政事を拝する。十三年、卒す。年五十七。大徳三年(1299年)、大司徒を贈られ、諡して忠亮という。

原文師還,遷中書右丞。冬,祀太廟,有司失黃幔,索得於神庖竈下,已甚污弊。帝聞,大怒曰:「大不敬,當斬!」璧曰:「法止杖斷流遠。」其人得不死。十年,復拜平章政事。十三年,卒,年五十七。大德三年,贈大司徒,諡忠亮。

子二人:仁栄は帰徳府事の同知、仁恭は集賢直学士。孫二人:崇は郊祀署令、弘は左蔵庫提点。

原文子二人:仁榮,同知歸德府事;仁恭,集賢直學士。孫二人:崇,郊祀署令;弘,左藏庫提點。