巻158

列傳第四十五:姚樞 許衡 竇默

姚樞

姚樞、字は公茂、柳城の人、後に洛陽に移住した。若くして学問に励み、内翰の宋九嘉は彼に王を補佐する才略があると見抜き、楊惟ただ中は彼と共に太宗に拝謁した。乙未の年、南征の際、詔により樞は惟中に従い軍中で儒者・道士・僧侶・医者・占い師を求めた。ちょうど棗陽を攻略した時、主将は捕虜を皆穴埋めにしようとしたが、樞は詔書の意に非ず、後日どのように復命するのかと強く弁じ、数人を急いで竹林に逃がして死を免れさせた。徳安を陥落させ、名儒趙復を得て、初めて程頤・朱熹の書を手に入れた。辛丑の年、金符を賜り、燕京行臺郎中となった。当時、牙魯瓦赤が行臺を統べていたが、ひたすら賄賂に事寄せ、樞が幕僚の長であるため、分け前をやろうとした。樞は一切拒絶し、官を棄てて去った。家族を連れて輝州に来て、家廟を建て、別室を設けて孔子及び宋の儒者周惇頤らの像を祀り、諸経典つかさどを刊行して学者に恵み、書を読み琴を弾き、あたかも終身を過すぐごすかのようであった。当時、許衡は魏にいたが、輝州に至り、程・朱の注釈した書を書き写して帰り、弟子たちに言った。「以前に授かったものは皆誤りであった。今初めて学問を進める順序を聞いた。」その後、家族を挙げて樞を頼りに住んだ。

原文姚樞字公茂,柳城人,後遷洛陽。少力學,內翰宋九嘉識其有王佐略,楊惟中乃與之偕覲太宗。歲乙未,南伐,詔樞從惟中即軍中求儒、道、釋、醫、卜者。會破棗陽,主將將盡坑之,樞力辨非詔書意,他日何以復命,乃蹙數人逃入篁竹中脫死。拔德安,得名儒趙復,始得程頤、朱熹之書。辛丑,賜金符,為燕京行臺郎中。時牙魯瓦赤行臺,惟事貨賂,以樞幕長,分及之。樞一切拒絕,因棄官去。攜家來輝州,作家廟,別為室奉孔子及宋儒周惇頤等象,刊諸經,惠學者,讀書鳴琴,若將終身。時許衡在魏,至輝,就錄程、朱所註書以歸,謂其徒曰:「曩所授受皆非,今始聞進學之序。」既而盡室依樞以居。

世祖が潜邸にあった時、趙璧を遣わして樞を召し寄せると、大いに喜び、客礼をもって遇した。治世の道を問うと、樞は数千言に及ぶ書を呈し、まず二帝三王の道を述べ、治国平天下の大綱をまとめて八項目とした。曰く、修身、力學、尊賢、親親、畏天、愛民、好善、遠佞。次に時弊を救う策として三十条を挙げた。曰く、「省部を立てれば、諸政務は一つの機関から出て、綱領が挙がり紀律が張られ、朝に命じたことが夕に変わることはない。才能ある者を登用し、隠逸・遺賢を推挙し、選考を慎重にし、職員を淘汰すれば、世襲の爵位に専ら頼らずに人材が出る。俸祿を等級付けすれば、汚職が塞がれ公道が開かれる。法律を定め、刑獄を審査すれば、生殺の権を朝廷に収め、諸侯が専断できず、山のような罪も安易かに免れず、毫髪の過ちも極刑に罹らず、冤罪や抑圧は伸べられる。監司を設け、昇進・降格を明らかにすれば、善良な者と奸悪な者を挙げ糾弾できる。徴斂あつを緩めれば、部族が誅求によって横暴にならない。駅伝を簡素にすれば、州郡が需索に困らない。学校を整え、経術を尊び、節孝を表彰すれば、人材を育成し、風俗を厚くし、教化を美しくする基礎となり、士人が文飾に流されなくなる。農桑を重んじ、賦税を軽くし、徭役を減らし、遊惰を禁じれば、民力が緩み、浮薄・虚偽に走らず、かつ工芸技術に習熟する者が年々富み栄え、耕織に勤しむ者が日に日に飢寒に陥ることも免れる。軍政を粛正すれば、田舎の里に行営〔往復〕の騒擾みだを知らない。困窮者を救済し、鰥寡を憐れめば、倒れ連なり訴える先のない者も養われる。屯田を布いて辺境の守備を充実させ、漕運を通じて京都よしに食糧を送る。債務を帳消しにすれば、西域の商人が子金を元金に繰り入れる(複利)ことができず、高利貸しの家を破綻させる。貯蓄を広め、常平倉を復活して凶年に備え、平準を立てて物価を調節し、利便を退けて僥倖の道を塞ぎ、密告を杜絶して訴訟の源を絶つ。」それぞれに施行の方法を詳述し、その内容は本末を兼ね備え、細大漏らさなかった。世祖はその才能を奇異とし、動くごとに必ず召して問い、かつ世子に経書を授けるよう命じた。

原文世祖在潛邸,遣趙璧召樞至,大喜,待以客禮。詢及治道,乃為書數千言,首陳二帝三王之道,以治國平天下之大經,彙為八目,曰:修身,力學,尊賢,親親,畏天,愛民,好善,遠佞。次及救時之弊,為條三十,曰:「立省部,則庶政出一,綱舉紀張,令不行於朝而變於夕。辟才行,舉逸遺,慎銓選,汰職員,則不專世爵而人才出。班俸祿,則贓穢塞而公道開。定法律,審刑獄,則收生殺之權于朝,諸侯不得而專,丘山之罪不致苟免,毫髮之過免罹極法,而寃抑有伸。設監司,明黜陟,則善良姦窳可得而舉刺。閣徵斂,則部族不橫於誅求。簡驛傳,則州郡不困於需索。修學校,崇經術,旌節孝,以為育人才、厚風俗、美教化之基,使士不媮於文華。重農桑,寬賦稅,省徭役,禁游惰,則民力紓,不趨於浮偽,且免習工技者歲加富溢,勤耕織者日就饑寒。肅軍政,使田里不知行營〔往復〕之擾攘。周匱乏,恤鰥寡,使顛連無告者有養。布屯田以實邊戍,通漕運以廩京都。倚債負,則賈胡不得以子為母,破稱貨之家。廣儲蓄、復常平以待凶荒,立平準以權物估,卻利便以塞倖塗,杜告訐以絕訟源。」各疏(弛)〔施〕張之方,其下本末兼該,細大不遺。世祖奇其才,動必召問,且使授世子經。

憲宗が即位し、詔して赤老温山以南の全ての軍民を、世祖に総轄させた。世祖は詔を受けた後、臣下を宴し、酒宴を終えて退出しようとした時、人を遣わして樞を留め、問うた。「さきほど諸臣は皆祝賀したが、汝だけは黙っていた。なぜか。」答えて言う。「今、天下の土地の広さ、人民の殷さ、財賦の豊かさにおいて、漢地に勝るものがあるでしょうか。軍民を我々が全て有するならば、天子は何をなさいますか。いずれ廷臣が間に入れば、必ず後悔して奪い返されるでしょう。兵権のみを保持し、必要な物資は役所から取るようにするのが、勢い順で理に安んじます。」世祖は言った。「私の考えの及ばなかったところだ。」そこでこれを上奏し、憲宗はこれを聞き入れた。樞はまた、汴に屯田経略司を置いて宋を図り、衞に都運司を置いて黄河で穀物を輸送するよう請うた。憲宗が同姓を大いに封じた時、世祖に南京と関中のいずれかを自ら選ぶよう勅した。樞は言った。「南京は黄河の流路が定まらず、土壌は薄く水は浅く、塩鹹地が生じます。関中はその田が上上で、古来、天府陸海と称される地です。」そこで世祖は関中を望んだ。

原文憲宗即位,詔凡軍民在赤老溫山南者,聽世祖總之。世祖既奉詔,宴羣下,罷酒將出,遣人止樞,問曰:「頃者諸臣皆賀,汝獨默然,何耶?」對曰:「今天下土地之廣,人民之殷,財賦之阜,有加漢地者乎?軍民吾盡有之,天子何為?異時廷臣間之,必悔而見奪,不若惟持兵權,供億之需取之有司,則勢順理安。」世祖曰:「慮所不及者。」乃以聞,憲宗從之。樞又請置屯田經略司於汴以圖宋;置都運司于衞,轉粟于河。憲宗大封同姓,敕世祖於南京、關中自擇其一。樞曰:「南京河徙無常,土薄水淺,舄鹵生之,不若關中厥田上上,古名天府陸海。」於是世祖願有關中。

壬子の夏、世祖に従って大理に征し、曲先脳兒の地に至った。夜の宴で、樞は宋の太祖が曹彬を遣わして南唐を取った時、一人も殺さず、市場の店舗も変わらなかった故事を述べた。翌日、世祖は鞍に寄りかかって呼びかけた。「汝が昨夜、曹彬が殺さなかったと言ったことを、私は為し得る。私は為し得る!」樞は馬上で祝賀して言った。「聖人の心、仁明このようであれば、生民の幸い、国の福です。」翌年、軍は大理城に及び、世祖は樞に命じて帛を裂いて旗とし、殺戮を止める命令を書き、街路に分けて号令させた。これにより民は互いに無事を保つことができた。

原文壬子夏,從世祖征大理,至曲先腦兒之地。夜宴,樞陳宋太祖遣曹彬取南唐不殺一人、市不易肆事。明日,世祖據鞍呼曰:「汝昨夕言曹彬不殺者,吾能為之,吾能為之!」樞馬上賀曰:「聖人之心,仁明如此,生民之幸,有國之福也。」明年,師及大理城,飭樞裂帛為旗,書止殺之令,分號街陌,由是民得相完保。

丙辰の年、樞が入朝した。ある者が王府が中原の人心を得ていると讒言したため、憲宗は阿藍答兒を遣わして大々的に調査させ、関中に役所を置き、百四十二箇条をもって経略宣撫の官吏を推問糾合し、下は商人からの徴税に至るまで漏らさず、言った。「役所が終わる日には、この罪に問われる者は劉黒馬・史天澤のみを上奏し、残りは皆誅殺せよ。」世祖はこれを聞いて快く思わなかった。樞は言った。「帝は君であり、兄です。大王は皇弟であり、臣です。事を争い難く、遠くにいて禍を受けるでしょう。むしろ王邸の妃・公主を全て連れて自ら朝廷に帰り、長く留まる策とし、疑いは自ずから解けるでしょう。」世祖が憲宗に拝謁した時、互いに涙を流し、ついに弁明させずに止め、調査局を廃止した。

原文丙辰,樞入見。或讒王府得中土心,憲宗遣阿藍答兒大為鈎考,置局關中,以百四十二條推集經略宣撫官吏,下及征商無遺,曰:「俟終局日,入此罪者惟劉黑馬、史天澤以聞,餘悉誅之。」世祖聞之不樂。樞曰:「帝,君也,兄也;大王為皇弟,臣也。事難與較,遠將受禍。莫若盡王邸妃主自歸朝廷,為久居謀,疑將自釋。」及世祖見憲宗,皆泣下,竟不令有所白而止,因罷鈎考局。

世祖が即位し、十道の宣撫使を立て、樞を東平の宣撫使とした。郡に着くと、勧農・檢察の二人を置いて監察させ、物力を推し量って賦役を均等にし、鉄官を廃止した。二年、太子太師に任じられた。樞は言った。「皇太子が未だ立てられていないのに、どうして先に太師がありましょうか。」受け取った任命書を中書省に返し、事は許衡伝に見える。大司農に改任された。樞は上奏して言った。「太宗の世に、詔して孔子五十一代の孫元措に仍び衍聖公を世襲させ、その死後、子と族人が襲爵を争って求めて、潜邸に訴訟した時、帝(世祖)は当時、『ただ勉学に励み、成徳達才の者が現れたならば、私は官に任じよう』と言われました。また曲阜には太常雅楽があり、憲宗は東平の守臣に命じてその歌工・舞郎と楽器・祭器を日月山に運ばせ、帝は自ら臨観され、東平の守臣に命じて、欠員を補充し、練習を絶やさないようにさせました。かつ陛下は聖賢の子孫が詩書に通じず、凡庸な庶民と同様であることを哀れまれ、既に洛の士人楊庸に命じて孔・顔・孟の三族の諸孫の俊秀を選んで教えさせておられます。どうか楊庸に正式に教官を授け、国家が人材を育成し招聘を待ち、四方を風動させる美事を成し遂げさせてください。王鏞は古い制度・故事に習熟しておりますので、礼楽を提挙させ、崩壊しないようにさせるのが宜しいでしょう。」全て聞き入れられた。詔して中書省に赴き議事に参与し、条格を講定するよう命じ、かつ懇ろに諭して言った。「姚樞が台司の職を辞退したことは、朕は甚だ嘉とする。省中の諸事務は、一二の老成した者が同心して補佐するに頼る。尚書の劉肅と共に心を尽くせ。隠すことなかれ。」条格が完成すると、丞相の史天澤と共に上奏し、帝は深く嘉し採用した。

原文世祖即位,立十道宣撫使,以樞使東平。既至郡,置勸農、檢察二人以監之,推物力以均賦役,罷鐵官。二年,拜太子太師。樞曰:「皇太子未立,安可先有太師?」以所受制還中書,事見許衡傳。改大司農。樞奏曰:「在太宗世,詔孔子五十一代孫元措仍襲封衍聖公,卒,其子與族人爭求襲爵,訟之潛藩,帝時曰:『第往力學,俟有成德達才,我則官之。』又曲阜有太常雅樂,憲宗命東平守臣輦其歌工舞郎與樂色俎豆至日月山,帝親臨觀,飭東平守臣,員闕充補,無輟肄習。且陛下閔聖賢之後詩、書不通,與凡庶等,既命洛士楊庸選孔、顏、孟三族諸孫俊秀者教之,乞真授庸教官,以成國家育材待聘風動四方之美。王鏞鍊習故實,宜令提舉禮樂,使不致崩壞。」皆從之。詔赴中書議事,及講定條格,且勉諭曰:「姚樞辭避台司,朕甚嘉焉。省中庶務,須賴一二老成同心圖贊,其與尚書劉肅往盡乃心,其尚無隱。」及修條格成,與丞相史天澤奏之,帝深嘉納。

李璮が謀叛を企てたとき、帝が問うた、「卿はどう見るか。」と。対えて言うには、「李璮が我が北征の隙に乗じ、海辺に迫って燕を衝き、居庸関を閉ざし、人心を慌て震え上がらせるならば、これが上策である。宋と連和し、地の利に拠って持久し、しばしば辺境をかき乱し、我々を救援に奔走させて疲弊させるならば、これが中策である。もし済南に出兵し、山東の諸侯の応援を待つならば、これは捕らえられるだけである。」と。帝が言うには、「今、賊はどの策を取るだろうか。」と。対えて言うには、「下策を取るでしょう。」と。初め、帝がかつて天下の人材について論じ、王文統に及んだとき、姚樞は言った、「この人は学術が純粋でなく、遊説をもって諸侯に干渉し、いつの日か必ず反逆するでしょう。」と。この時になって、文統は果たして李璮に連座して誅殺された。

原文李璮謀叛,帝問:「卿料何如?」對曰:「使璮乘吾北征之釁,瀕海擣燕,閉關居庸,惶駭人心,為上策。與宋連和,負固持久,數擾邊,使吾罷於奔救,為中策。如出兵濟南,待山東諸侯應援,此成擒耳。」帝曰:「今賊將安出?」對曰:「出下策。」初,帝嘗論天下人材,及王文統,樞曰:「此人學術不純,以游說干諸侯,他日必反。」至是,文統果因璮伏誅。

四年、中書左丞に拝され、世侯を廃止し、牧守を置くことを上奏した。ある者が中書の政事が大いに乱れていると言うと、帝は怒り、大臣たちは罪を得て測り知れぬ事態となった。姚樞が上言した。

原文四年,拜中書左丞,奏罷世侯,置牧守。或言中書政事大壞,帝怒,大臣罪且不測者。樞上言:

太祖が創業し、前古を超越したが、政治を施す暇がなかった。その後数朝にわたり、官は多く刑は濫用され、民は困窮し財は尽きた。陛下は天与の仁聖の資質をお持ちで、昔、潜龍の時より聖典を聴き、老成を訪ね、日々治道を講じられた。邢州、河南、陝西などは、いずれも最も治まらぬ所であったが、安撫・経略・宣撫の三使司を置かれた。その法は、人を選んで職に就かせ、俸禄を頒って廉潔を養い、汚濫を除いて政治を清め、農桑を勧めて民を富ませるものであった。三年に満たぬうちに、大いに治まったと称された。諸路の民は陛下が己を救ってくださるのを、赤子が母を求めるように待ち望んだ。先帝が崩御され、国難が相次いで起こったが、天が聖人を開き、大統を継承され、すぐに歴代の遺制を用い、内には省部を立て、外には監司を設けられた。中統から今に至る五、六年の間、外侮と内叛が絶え間なく続いたが、それでも官が負債から離れ、民が賦役に安んじ、府庫はほぼ充実し、倉廩はほぼ完備し、鈔法はほぼ行われ、国用はほぼ足り、官吏は遷転し、政事は新しくなった。これらはすべて、陛下が祖宗の基業をよく保ち、先王の法を信用して行われたことによるものである。

原文太祖開創,跨越前古,施治未遑。自後數朝,官盛刑濫,民困財殫。陛下天資仁聖,自昔在潛,聽聖典,訪老成,日講治道。如邢州、河南、陝西,皆不治之甚者,為置安撫、經略、宣撫三使司。其法,選人以居職,頒俸以養廉,去污濫以清政,勸農桑以富民。不及三年,號稱大治。諸路之民望陛下之拯己,如赤子之求母。先帝陟遐,國難並興,天開聖人,纘承大統,即用歷代遺制,內立省部,外設監司,自中統至今五六年間,外侮內叛繼繼不絕,然能使官離債負,民安賦役,府庫粗實,倉廪粗完,鈔法粗行,國用粗足,官吏遷轉,政事更新,皆陛下克保祖宗之基、信用先王之法所致。

今、治道を創始するにあたり、まさに上は天心に応え、下は民心を結び、親族を睦まじくして本を固め、儲副を立てて国祚を重んじ、大臣を定めて国政を担当させ、経筵を開いて心を正し、辺備を修めて不測に備え、糧餉を蓄えて凶作に待ち、学校を立てて人材を育成し、農桑を勧めて生計を豊かにすべきである。これによって先烈を輝かせ、帝徳を成し、子孫に遺し、遠くまで誉れを流すことができる。陛下の才略をもってすれば、これを行うのは余裕がある。近ごろ、陛下の聡明なお耳が日々煩わされ、朝廷の政令が日々改まり月々異なる、と仄聞する。木を植え始めてまた移し、屋を組み立ててまた壊すが如きである。遠近の臣民は戦き恐れるに堪えず、ただ大本が一度廃されれば、遠大な事業は成し難く、陛下の将来の憂い、国家の重大な害となることを恐れている。

原文今創始治道,正宜上答天心,下結民心,睦親族以固本,建儲副以重祚,定大臣以當國,開經筵以格心,修邊備以防虞,蓄糧餉以待歉,立學校以育才,勸農桑以厚生。是可以光先烈,成帝德,遺子孫,流遠譽。以陛下才略,行此有餘。邇者伏聞聰聽日煩,朝廷政令日改月異,如木始栽而復移,屋既架而復毀。遠近臣民不勝戰懼,惟恐大本一廢,遠業難成,為陛下之後憂,國家之重害。

帝の怒りはこれによって解けた。

原文帝怒為釋。

十年、昭文館大学士に拝され、礼儀の事を詳定した。その年、襄陽が陥落し、ついに宋を取ることを議した。姚樞は上奏して大将を求めるならば、右丞相安童と知枢密院伯顔でなければならない、と言った。十一年、姚樞が言うには、「陛下が人を殺さない詔を下され、伯顔が江を渡り、兵は時を過ごさず、西は蜀川から起こり、東は海辺に迫り、降る城三十、戸は百万を超えた。古より南を平定するに、このような神速はなかった。今、夏から秋にかけて、一城も降らず、すべて軍官が国の大計を考えず、陛下の深い仁を体せず、財利を貪り殺掠を行うことによるものである。揚州、焦山、淮安では、人は必死で戦い、我々は勝ちはしたが、傷ついた者も多かった。宋が国たり得ないのは明らかであるが、臨安がなお軽々しく降ろうとしないのは、生を好み死を憎むは人の常情であり、おそらく敢えてしないのであって、ただ我が招来し殺戮を止めるという信が堅固でないことを恐れているだけである。殺戮を止める詔を重申し、賞罰を必ず立て、恩信を必ず行わせれば、聖慮は労せず、軍力は費やさずに済む。」また、宋の鞭背・黥面および諸々の濫刑を禁ずるよう請うた。十三年、翰林学士承旨に拝された。十七年、卒去。七十八歳。諡は文獻。

原文十年,拜昭文館大學士,詳定禮儀事。其年,襄陽下,遂議取宋。樞奏如求大將,非右丞相安童、知樞密院伯顏不可。十一年,樞言:「陛下降不殺人之詔,伯顏濟江,兵不踰時,西起蜀川,東薄海隅,降城三十,戶踰百萬,自古平南,未有如此之神捷者。今自夏徂秋,一城不降,皆由軍官不思國之大計,不體陛下之深仁,利財剽殺所致。揚州、焦山、淮安,人殊死戰,我雖克勝,所傷亦多。宋之不能為國審矣,而臨安未肯輕下,好生惡死,人之常情,蓋不敢也,惟懼吾招徠止殺之信不堅耳。宜申止殺之詔,使賞罰必立,恩信必行,聖慮不勞,軍力不費矣。」又請禁宋鞭背、黥面及諸濫刑。十三年,拜翰林學士承旨。十七年,卒,年七十八,諡曰文獻。

姚樞の天質は含み広く仁恕であり、恭順で敏く倹約勤勉であり、人に欺かれていると疑ったことはなかった。その徳に背く者がいても、怨みを留めなかった。憂患が来ても、言葉や顔色に表さなかった。謀りごとがあれば来る者があり、必ず繰り返し告げた。

原文樞天質含弘而仁恕,恭敏而儉勤,未嘗疑人欺己。有負其德,亦不留怨。憂患之來,不見言色。有來即謀,必反復告之。

子の煒は、平章政事として仕えた。従子の燧は、官は翰林学士承旨に至り、文章の大家として知られ、卒して諡は文といった。

原文子煒,仕為平章政事;從子燧,官至翰林學士承旨,以文章大家知名,卒諡曰文。

許衡

許衡、字は仲平、懐州河内の人である。代々農を業とした。父の通は、河南に避難し、泰和九年九月に衡を新鄭県に生んだ。幼い時から並外れた資質があり、七歳で学に入り、章句を授けられた。師に問うて言った、「読書は何のためか。」と。師が言うには、「科第を得るためだ。」と。言うには、「それだけのことか。」と。師は大いにこれを奇とした。書を授けるごとに、またその旨義を問うことができた。久しくして、師はその父母に言った、「児は聡明で凡人ではなく、いつの日か必ず大いに人に優る者となるでしょう。私はその師ではありません。」と。ついに辞去しようとしたが、父母が強く引き留めても止められなかった。このようにして三度師を替えた。少し成長すると、学を好むこと飢渇の如くであったが、世の乱れに遭い、かつ貧しくて書がなかった。かつて日者の家で書の疏義を見て、宿泊させてくれるよう請い、手で写して帰った。徂徠山に難を逃れた後、初めて王輔嗣(王弼)の易説を得た。当時は兵乱の中、衡は夜に思い昼に誦し、身をもって体得し力んで実践し、言動は必ず義に照らしてから発した。かつて暑中に河陽を通り過ぎ、非常に喉が渇いた。道に梨があり、衆は争って取って食べたが、衡ひとり樹の下に端座して泰然としていた。ある者がこれを問うと、言うには、「自分のものでないものを取ることは、できない。」と。人が言うには、「世は乱れ、これは主のないものだ。」と。言うには、「梨に主がないからといって、我が心にひとり主がないことがあろうか。」と。

原文許衡字仲平,懷之河內人也,世為農。父通,避地河南,以泰和九年九月生衡於新鄭縣。幼有異質,七歲入學,授章句,問其師曰:「讀書何為?」師曰:「取科第耳!」曰:「如斯而已乎?」師大奇之。每授書,又能問其旨義。久之,師謂其父母曰:「兒穎悟不凡,他日必有大過人者,吾非其師也。」遂辭去,父母強之不能止。如是者凡更三師。稍長,嗜學如饑渴,然遭世亂,且貧無書。嘗從日者家見書疏義,因請寓宿,手抄歸。既逃難(岨崍)〔徂徠〕山,始得易王輔嗣說。時兵亂中,衡夜思晝誦,身體而力踐之,言動必揆諸義而後發。嘗暑中過河陽,渴甚,道有梨,眾爭取啖之,衡獨危坐樹下自若。或問之,曰:「非其有而取之,不可也。」人曰:「世亂,此無主。」曰:「梨無主,吾心獨無主乎?」

魯に移り魏に留まった。人々はその徳があるのを見て、少しずつ従った。三年住んで、乱が平定されつつあると聞き、懐州に帰った。河・洛の間を往来し、柳城の姚樞から伊洛の程氏(程顥・程頤)および新安の朱氏(朱熹)の書を得て、ますます大いに得るところがあった。まもなく蘇門に住み、姚樞および竇默と講習し合った。およそ経伝・子史・礼楽・名物・星暦・兵刑・食貨・水利の類、講じないものはなく、慨然として道を以て己が任とした。かつて人に語って言った、「綱常は一日たりとも天下から亡びてはならない。もし上に立つ者にそれを任ずる者がいなければ、下の者が任ずるのである。」と。およそ喪祭娶嫁には、必ず礼に照らし、その郷人に提唱し、学ぶ者は次第に盛んとなった。家は貧しく自ら耕し、粟が熟すれば食べ、粟が熟さなければ糠や菜を食べ、泰然として処し、歌い誦ずる声が戸外に聞こえて金石のようであった。財が余れば、すぐにそれを諸族の人々および諸生の貧しい者に分けた。人が何かを遺しても、一毫でも義に合わなければ受けなかった。姚樞がかつて召されて京師に入ったとき、その雪斎を衡に住まわせ、守る者に館とさせたが、衡は拒んで受けなかった。庭に果物が熟れて爛れ地に落ちていても、童子が通り過ぎても、また横目で見ることなく去った。その家人がこのように感化されたのである。

原文轉魯留魏,人見其有德,稍稍從之。居三年,聞亂且定,乃還懷。往來河、洛間,從柳城姚樞得伊洛程氏及新安朱氏書,益大有得。尋居蘇門,與樞及竇默相講習。凡經傳、子史、禮樂、名物、星曆、兵刑、食貨、水利之類,無所不講,而慨然以道為己任。嘗語人曰:「綱常不可一日而亡於天下,苟在上者無以任之,則在下之任也。」凡喪祭娶嫁,必徵於禮,以倡其鄉人,學者寖盛。家貧躬耕,粟熟則食,粟不熟則食糠覈菜茹,處之泰然,謳誦之聲聞戶外如金石。財有餘,即以分諸族人及諸生之貧者。人有所遺,一毫弗義弗受也。樞嘗被召入京師,以其雪齋居衡,命守者館之,衡拒不受。庭有果熟爛墮地,童子過之,亦不睨視而去,其家人化之如此。

甲寅の年、世祖が秦中に出て王となられ、姚樞を勧農使として、民に耕作を教えさせた。また秦の人々を教化する方法を考え、衡を召して京兆提学とした。秦の人々は兵乱から脱したばかりで、学びたくても師がおらず、衡が来ると聞いて、人々はこぞって喜び幸いに学びに来た。郡県には皆学校が建てられ、民は大いに教化された。世祖が南征されると、衡は懐州に帰った。学ぶ者たちは引き留めたができず、臨潼まで送って帰った。

原文甲寅,世祖出王秦中,以姚樞為勸農使,教民畊植。又思所以化秦人,乃召衡為京兆提學。秦人新脫於兵,欲學無師,聞衡來,人人莫不喜幸來學。郡縣皆建學校,民大化之。世祖南征,乃還懷,學者攀留之不得,從送之臨潼而歸。

中統元年、世祖が皇帝の位に即くと、許衡を京師に召し寄せた。当時、王文統は利に言及して進み出て平章政事となり、衡や姚枢らは侍従として入り、治乱休戚について言上し、必ず義を根本とすべきと説いた。文統はこれを憂いた。かつ竇默が日々帝の前で彼の学術を排撃するので、衡と彼が表裏をなしているのではないかと疑い、枢を太子太師とし、默を太子太傅とし、衡を太子太保とするよう奏上した。表面上は重用するふりをして、実は彼らが頻繁に帝に近侍するのを防ごうとしたのである。默は文統をしばしば攻撃しても当たらないので、東宮(皇太子)に仕えることで禍を避けようとし、枢と共に任命を受け、入朝して謝恩しようとした。衡は言った、「これは義に安んじないことである。姑く論じないとしても、礼によれば、師傅と太子は東西に向さきかい合い、師傅が座って初めて太子が座る。諸公はこれができると見込むか? できなければ、師道は我々の方から廃することになる」。枢はその通りだと思い、共に任命書を懐中して殿中に立ち、五度辞退してようやく免じられた。改めて枢を大司農とし、默を翰林侍講学士とし、衡を国子祭酒に任じた。間もなく、衡もまた病を理由よしに辞して帰郷した。

原文中統元年,世祖即皇帝位,召至京師。時王文統以言利進為平章政事,衡、樞輩入侍,言治亂休戚,必以義為本。文統患之。且竇默日於帝前排其學術,疑衡與之為表裏,乃奏以樞為太子太師,默為太子太傅,衡為太子太保,陽為尊用之,實不使數侍上也。默以屢攻文統不中,欲因東宮以避禍,與樞拜命,將入謝。衡曰:「此不安於義也,姑勿論。禮,師傅與太子位東西鄉,師傅坐,太子乃坐。公等度能復此乎?不能,則師道自我廢也。」樞以為然,乃相與懷制立殿下,五辭乃免。改命樞大司農,默翰林侍講學士,衡國子祭酒。未幾,衡亦謝病歸。

至元二年、帝は安童を右丞相とし、衡にこれを補佐させようと、再び京師に召し寄せ、中書省にて政事を議するよう命じた。衡はそこで上疏して言った。

原文至元二年,帝以安童為右丞相,欲衡輔之,復召至京師,命議事中書省。衡乃上疏曰:

臣は性質愚鈍で学術も疎らであり、思いがけず虚名が偶然にも聖聴に塵することとなった。陛下は賢を好み善を楽しみ、短を捨て長を取られる。臣のような不才の者をも、甲寅年から今に至る十三年の間、凡そ八度も詔旨を賜り、心中ひそかに思い巡らせば、何をもって報いるべきか。また先日は御前で徳音を拝聴し、叮嚀として懇切なご言葉を賜り、中書の重大な政務について、臣に言い尽くすことを許された。臣は昏愚ではあるが、陛下がこれほど厚く知遇してくださることに感じ入り、敢えて所有を尽くさずにおられようか、万が一にも益するところがあればと。孟子は「君に難きを責むる之を恭と謂い、善を陳べて邪を閉ざす之を敬つつしと謂う」と言い、孔子は「道を以て君に事え、可からざれば則ち止む」と言われた。臣が守るところの大意は、概ねこのようなものである。伏して願わくは、陛下がその不佞を寛容し、その至誠を察していただければ、些少な愚見も或いは少しは補うところがあるかもしれない。

原文臣性識愚陋,學術荒疏,不意虛名偶塵聖聽。陛下好賢樂善,舍短取長,雖以臣之不才,自甲寅至今十有三年,凡八被詔旨,中懷自念,何以報塞。又日者面奉德音,叮嚀懇至,中書大務,容臣盡言。臣雖昏愚,荷陛下知待如此其厚,敢不罄竭所有,裨益萬分。孟子以「責難於君謂之恭,陳善閉邪謂之敬」;孔子謂「以道事君,不可則止」。臣之所守,大意蓋如此也。伏望陛下寬其不佞,察其至懷,則區區之愚,亦或有小補云。

その第一は、古より国を立てるには、皆規模(基本方針・制度)がある。これを循って行えば、治績は期待できる。そうでなければ、心は疑い目は眩み、変更や分割・改変を繰り返しても、それが適うとは思われない。昔、子産が衰えた周代の列国を補佐し、孔明が西蜀の一隅を治めた時でさえ、定論があり、終身それに従った。まして堂堂たる天下に、一定の説なくして妄りに行うことができようか。前代を考察すると、北方の勢力が中原を有する場合、必ず漢法を行ってこそ長久でいられる。故に後魏・遼・金は歴年が最も多く、それができなかった他の政権は、皆乱亡が相次いだ。史冊に詳しく記載され、明らかに考察できる。もし国家が朔漠(北方の砂漠地帯)に居たなら、このことを論ずる必要はない。今日の治世において、これ以外に何が適宜であろうか。陸を行くには車が適し、水を行くには舟が適する。これを逆にすれば行くことができない。幽燕では寒いものを食べ、蜀漢では熱いものを食べる。これを逆にすれば必ず変調を来たす。このことから論ずれば、国家が漢法を行うべきことは疑いない。しかし、万世にわたる国の習俗、累わずらい朝の勲旧(功臣・旧臣)を、一日にして臣下の謀に従わせ、亡国の習俗(宋などの制度)に改めさせるのは、その情勢には甚だ難しいところがある。(窃)〔ひそ〕かに考えてみると、寒と暑は確かに異なる。しかし寒が暑に変わるのは、微温から始まり、温から熱へ、熱から暑へと、百八十二日を積み重ねて寒が尽きる。暑が寒に変わる勢いもまた同様で、これも積み重ねの証左である。もし漸次に慣らし、年月を待ち、心を堅く確かにし、事を易しく常に行えば、変えられないものはない。これは陛下がこれを尊信して堅く守り、小人を交えず、近い効果を責めず、流言を顧みなければ、治世を成し遂げる功績はほぼ達成できるであろう。

原文其一曰:自古立國,皆有規模。循而行之,則治功可期。否則心疑目眩,變易分更,未見其可也。昔子產相衰周之列國,孔明治西蜀之一隅,且有定論,終身由之;而堂堂天下,可無一定之說而妄為之哉?考之前代,北方之有中夏者,必行漢法乃可長久。故後魏、遼、金歷年最多,他不能者,皆亂亡相繼,史冊具載,昭然可考。使國家而居朔漠,則無事論此也。今日之治,非此奚宜?夫陸行宜車,水行宜舟,反之則不能行;幽燕食寒,蜀漢食熱,反之則必有變。以是論之,國家之當行漢法無疑也。然萬世國俗,累朝勳舊,一日驅之下從臣僕之謀,改就亡國之俗,其勢有甚難者。(切)〔竊〕嘗思之,寒之與暑,固為不同。然寒之變暑也,始於微溫,溫而熱,熱而暑,積百有八十二日而寒始盡。暑之變寒,其勢亦然,是亦積之之驗也。苟能漸之摩之,待以歲月,心堅而確,事易而常,未有不可變者。此在陛下尊信而堅守之,不雜小人,不責近效,不恤流言,則致治之功庶幾可成矣。

第二は、中書の事務はその煩雑さに勝えないが、その要は用人と立法の二つに尽きる。身近な例えをすれば、髪が頭にある時、手で整えず櫛で整える。食物が器にある時、手で取らず匙で取る。手だけではできないが、櫛と匙を用いることは、即ち手が行うことである。上(君主)が人を用いるのも、これと何が異なろうか。しかし人の賢否を詳しく知らない以上、確かに急いで用いることはできない。しかし、既に誰が君子で誰が小人かを知りながら、なお患得患失し、進退を敢えてせず、ただ人を知ると言いながら実は人を用いることができないのでは、何の益があろうか。人は皆飲食するが、ただ膳夫だけが五味の調和を整えられる。人は皆日月を見るが、ただ星官だけが虧食(日食・月食)の数を推算できる。それは誠にその法を得ているからである。古人に言う、「高きを為すには必ず丘陵に因り、低きを為すには必ず川沢に因り、政を為すには必ず先王の道に因る」。今、里巷の談話は、動もすれば古を以て嘲弄の種とするが、今日口にする食物、身にまとう衣類が、皆古人の遺した法で違えることのできないものであることを知らない。まして天下の広大、国家の重きにおいて、古の成法に反して違えることができようか。それはまた考えることが甚だ浅はかである。人を治めるのは法であり、法を守るのは人である。人と法が互いに支え合えば、上は安らぎ下は順い、宰執(宰相)は朝廷の上で悠々とし、煩わされず労せず、これこそ所謂省(簡素・効率)である。

原文二曰:中書之務不勝其煩,然其大要在用人、立法二者而已矣。近而譬之,髮之在首,不以手理而以櫛理;食之在器,不以手取而以匕取。手雖不能,而用櫛與匕,是即手之為也。上之用人,何以異此。然人之賢否,未知其詳,固不可得而遽用也。然或已知其孰為君子,孰為小人,而復患得患失,莫敢進退,徒曰知人,而實不能用人,亦何益哉!人莫不飲食也,獨膳夫為能調五味之和;莫不睹日月也,獨星官為能步虧食之數者,誠以得其法故也。古人有言曰:「為高必因丘陵,為下必因川澤,為政必因先王之道。」今里巷之談,動以古為詬戲,不知今日口之所食,身之所衣,皆古人遺法而不可違者,豈天下之大,國家之重,而古之成法反可違邪?其亦弗思甚矣!夫治人者法也,守法者人也。人法相維,上安下順,而宰執優游於廊廟之上,不煩不勞,此所謂省也。

立法と用人については、今すぐには古のようにはできないが、既に官にある者には俸給を与えてその廉潔を養い、まだ官にない者には条格(任用規定)を緩やかに定め、叙用に就かせれば、失職の怨みは少しは和らげられるであろう。外には監司を設けて汚濫を監察し、内には吏部を専任させて資歴を定めれば、分を越えた求めは次第に止むであろう。再任・三任し、高きを抑え低きを挙げれば、人材と爵位はほぼ平らかになるであろう。貴家の世襲、品官の任子(子孫への官職授与)、版籍(戸籍)の数については、続いて議論すべきであり、これも緩めてはならない。

原文夫立法用人,今雖未能遽如古昔,然已仕者當給俸以養其廉,未仕者當寬立條格,俾就敍用,則失職之怨少可舒矣。外設監司以察污濫,內專吏部以定資歷,則非分之求漸可息矣。再任三任,抑高舉下,則人才爵位略可平矣。至於貴家之世襲,品官之任子,版籍之數,續當議之,亦不可緩也。

その第三は、民は生まれながらに欲望があり、主がなければ乱れる。上天は眷顧して命じ、君師を作り出す。これは恐らく最も難しい任務を任せるのであり、安楽の地を与えて楽しませるためではない。このため堯・舜以来、聖帝明王は皆兢兢業業、小心に畏れ慎んだ。それは誠に天が与えられた最も難しい任務であることを知り、初めから易しい心でこれに臨むことができないからである。それが難しいと知って難しさをもって臨めば、難事も為し得るかもしれない。難しいと知らずに易しさをもって臨めば、他日の難事は為し得ないものとなるであろう。孔子は言われた、「君たるは難く、臣たるは易からず」。臣たるの道については、臣は既に安童に告げた。君主たることの難しさについては、特に陛下が専心すべきところである。臣はその切実で肝要なことを申し上げたい。

原文其三曰:民生有欲,無主乃亂,上天眷命,作之君師,此蓋以至難任之,非予之可安之地而娛之也。是以堯、舜以來,聖帝明王莫不兢兢業業、小心畏慎者,誠知天之所畀至難之任,初不可以易心處之也。知其為難而以難處,則難或可為;不知為難而以易處,則他日之難有不可為者矣。孔子曰:「為君難,為臣不易。」為臣之道,臣已告之安童矣。至為君之難,尤陛下所當專意也。臣請言其切而要者。

君主たる者は、言葉を発することの難しさを患うるのではなく、言葉を実行することの難しさを患うべきである。言葉を実行することの難しさを知れば、その言葉を発するにあたって慎まざるを得ない。昔、劉安世は一度も妄語をせぬ行いを実践し、七年を経てようやく成し遂げた。安世は一介の士人に過ぎず、交わる者は一家の親族、一郷の民衆であり、同列の臣下も数十百人に過ぎないのに、その言葉でさえこのようであった。まして天下の広大さ、兆民の多さ、事の万変、日に万機ある中で、君主が一身一心をもってこれに対応し、言葉に過失がないようにしようとして、果たして容易にできようか。故に、かつて言ったことを今日忘れる者があり、今命じたことを後日自ら違える者があり、可否異同が入り乱れ、次々と変更され、紀綱は布かれず、法度は立たず、臣下は拠り所を失い、奸人はこれに乗じて弊害をなす。天下の人は疑惑し驚き惑い、君主が無法無信もはやここに至ったと議するのである。これに他ならない理由は、至難の地を難しきものとして処せず、易きものとして処したからである。もし大学の道に従い、修身を根本とし、一言一動、必ずその然る所以と当然なる所以を求め、愛に牽かれず、憎に蔽われず、喜びに因らず、怒りに激せず、虚心端意、熟思して審らかに処すれば、当たらぬことは少ないであろう。いかんぞ、上に立つ者は多く舒肆(安逸放縦)を楽しみ、臣下たる者は多く容悦へつらいに事える。容悦は本来私心によるものであり、私心が盛んになれば人を畏れなくなる。舒肆は本来欲望によるものであり、欲心が盛んになれば天を畏れなくなる。天を畏れぬ心と、人を畏れぬ心とが、隔てなく感応合致すれば、その務める所は皆、快心の事ばかりとなる。快心であれば、口は言いたいことを言い、身は動きたいように動き、どうして兢兢業業として修身を根本とし、一言一動、熟思して審らかに処しようか。これが君主の言葉を実行することの難しさであり、しかも天下の人々よりも難しい所以である。

原文夫人君不患出言之難,而患踐言之難。知踐言之難,則其出言不容不慎矣。昔劉安世行一不妄語,七年而後成。夫安世一士人也,所交者一家之親、一鄉之眾也,同列之臣不過數十百人而止耳,而言猶若此,況天下之大,兆民之眾,事有萬變,日有萬機,人君以一身一心而酬酢之,欲言之無失,豈易能哉?故有昔之所言而今日忘之者,今之所命而後日自違者,可否異同,紛更變易,紀綱不得布,法度不得立,臣下無所持循,奸人因以為弊,天下之人疑惑驚眩,且議其無法無信一至於此也。此無他,至難之地不以難處,而以易處故也。苟從大學之道,以修身為本,凡一言一動,必求其然與其所當然,不牽於愛,不蔽於憎,不因於喜,不激於怒,虛心端意,熟思而審處之,雖有不中者蓋鮮矣。奈何為人上者多樂舒肆,為人臣者多事容悅。容悅本為私也,私心盛則不畏人矣;舒肆本為欲也,欲心盛則不畏天矣。以不畏天之心,與不畏人之心,感合無間,則其所務者皆快心事耳。快心則口欲言而言,身欲動而動,又安肯兢兢業業,以修身為本,一言一動,熟思而審處之乎?此人君踐言之難,而又難於天下之人也。

人の真情と偽りには易きものと険しきものがあり、険しきものは知り難く、易きものは知り易い。これは特にその人の険易によるものである。しかしまた、衆寡の区別がある。寡なれば知り易く、衆ければ知り難い。故に上に立つ者は下を知ることが難しく、下にいる者は上を知ることが易しい。その情勢がそうさせるのである。知り難き地に処し、知り難き人を御するにあたり、欺かれないようにするのは難しい。昔、包拯は剛厳峭直で、明察と称されたが、一人の小吏に欺かれたことがある。しかし包拯は一京尹に過ぎず、人に欺かれたとしても、一事を誤り一人を害するに過ぎない。君主は億兆の上に立ち、予奪・進退・賞罰・生殺の権を操っている。不幸にも欺かれるならば、非を是とし、是を非とし、その害は計り知れない。君主に喜怒が無ければよいが、喜怒があれば、その喜びを賛えて恩を売り、その怒りを煽って勢いを張ろうとする。君主に愛憎が無ければよいが、愛憎があれば、その愛を仮りて私を成し、その憎みを藉りて怨みを報いようとする。甚だしきは、本来喜びが無いのに、誑かして喜ばせ、本来怒りが無いのに、煽り立てて怒らせ、本来愛するに足らぬのに、誑かして誉めて愛させ、本来憎むべきでないのに、強いて短所を言って憎ませる。もしこのようであれば、進める者必ずしも君子ではなく、退ける者必ずしも小人ではなく、与える者必ずしも功有りではなく、奪う者必ずしも罪有りではなく、賞し、罰し、生かし、殺すに至るまで、正しきを得ることは稀である。君主は欺かれていることに気づかず、かえってその者に任せて天下の欺きを防ごうとする。欺きがここまで至って、尚防ぐことができようか。およそ君主は人を知ることを貴び、人を用いることを急務とすべきである。人を得て用いれば、防ぐ必要は無くなる。この道を取らないならば、近づく者は争って進む者、利を好む者、恥知らずの者ばかりである。彼らは詐術を抱え、千蹊万径をもって君心を惑わし、その欺きを防ごうとしても、堯や舜でさえできないであろう。

原文人之情偽有易有險,險者難知,易者易知,此特係夫人之險易者然也。然又有眾寡之分焉,寡則易知,眾則難知。故在上者難於知下,而在下者易於知上,其勢然也。處難知之地,御難知之人,欲其不見欺也難矣。昔包拯剛嚴峭直,號為明察,然一小吏而能欺之。然拯一京尹耳,其見欺於人,不過誤一事、害一人而已。人君處億兆之上,操予奪進退賞罰生殺之權,不幸見欺,則以非為是,以是為非,其害有不可勝既也。人君惟無喜怒也,有喜怒,則贊其喜以市恩,鼓其怒以張勢。人君惟無愛憎也,有愛憎,則假其愛以濟私,藉其憎以復怨。甚至本無喜也,誑之使喜;本無怒也,激之使怒;本不足愛也,而誑譽之使愛;本無可憎也,而強短之使憎。若是,則進者未必為君子,退者未必為小人,予者未必為有功,奪者未必為有罪,以至賞之、罰之、生之、殺之,鮮有得其正者。人君不悟其受欺也,而反任之以防天下之欺,欺而至此,尚可防邪?大抵人君以知人為貴,以用人為急。用得其人,則無事於防矣。既不出此,則所近者爭進之人耳,好利之人耳,無恥之人耳。彼挾其詐術,千蹊萬徑,以蠱君心,欲防其欺,雖堯、舜不能也。

賢者は公を心とし、愛を心とし、利に回らず、勢いに屈せず、これを朝廷の要路に置けば、諸事はその正しきを得、天下はその恩沢を被る。国家にとって、その重みは固よりこのようである。賢者は時に遭わず、自ら韜晦することを務めるので、世は固より容易に知ることができない。仮に知る者がいても、援引する者がいなければ、君主は知る由もない。君主が知ったとしても、召し命ずるのに、雑役の者のように軽んじれば、賢者は屑にしない。仮に容貌をもって接し、礼をもって待ったとしても、その言が用いられなければ、賢者は留まらない。あるいはその言を用いたとしても、また小人を参らせて、小さな利を責め、近い効果を期するならば、賢者を用いる名はあっても、賢者を用いる実がなく、賢者もどうして尸位素餐して天下の譏りを取ろうか。これはただ難進であるのみならず、また難合なるものがある。君主は崇高の地にあり、およそ人の過ちを聞くことを楽しみ、己の過ちを聞くことを楽しまず、己の心を快くすることを務め、民の心を快くすることを務めない。賢者は必ず匡めて正し、扶けて安んじ、堯や舜の正しさ、堯や舜の安らかさのようになって初めてやめようとする。故にその情勢は常に合い難い。況んや奸邪佞倖の徒は、正しきを醜とし、直きを悪み、ほしいままに詆毀し、方々を尽くして陥れようとする。罪戾を免れないことが見えるならば、どうして諸事がその正しきを得、天下がその恩沢を被ることを望めようか。古より今に至るまで、端人雅士が進むことを重んじて退くことを軽んじるのは、まさにこのためである。大禹は聖人であり、善を聞けば即ち拝したが、益はなお「賢を任うるに貳せず、邪を去るに疑わず」と戒めた。後世の君主はどうすべきか。これが賢者を用いることの難しさである。

原文夫賢者以公為心,以愛為心,不為利回,不為勢屈,置之周行,則庶事得其正,天下被其澤,其於人國,重固如此也。夫賢者遭時不偶,務自韜晦,世固未易知也。雖或知之,而無所援引,則人君無由知也。人君知之,然召之命之,汎如厮養,賢者有不屑也。雖或接之以貌,待之以禮,然而言不見用,賢者不處也。或用其言也,而復使小人參之,責小利,期近效,有用賢之名,無用賢之實,賢者亦豈肯尸位素餐以取譏於天下哉!此特難進者也,而又有難合者焉。人君處崇高之地,大抵樂聞人過,而不樂於聞己之過,務快己之心,而不務快民之心,賢者必欲匡而正之,扶而安之,如堯、舜之正、堯、舜之安而後已,故其勢恒難合。況夫奸邪佞倖,醜正而惡直,肆為詆毀,多方以陷之,將見罪戾之不免,又可望其庶事得其正,而天下被其澤邪!自古及今,端人雅士所以重於進而輕於退者,蓋以此耳。大禹聖人,聞善即拜,益猶戒之以「任賢勿貳,去邪勿疑」,後世人主宜如何也?此任賢之難也。

奸邪の人は、その心が険しく、その術が巧みである。険しいが故に、千態万状で人には知り得ず、巧みであるが故に、千蹊万径で人には防ぎ得ない。その諂いは恭しきに似、その攻撃は直きに似、その欺きは信ずべく、その佞いは近づくべく見え、努めて君主の喜怒を窺い迎合し、その勢いを窃んで己の威を立て、その欲望を助けて主君の愛を結ぶ。愛は上に隆く、威は下に擅り、大臣は敢えて議せず、近親は敢えて言わず、毒は天下に被るも、上はこれを知らない。ここに至ってこれを除こうとしても、既に難しい。とはいえ、これは特に君主が悟らない場合の話であり、なお言い分がある。宇文士及の佞を、太宗はその情を灼かに見抜きながらも斥けることができず、李林甫の賢を妬み能を嫉むのを、明皇はその奸を洞見しながらも退けることができなかった。邪が人を惑わすこと、このようなものがある。畏れざるべけんや。

原文奸邪之人,其為心也險,其用術也巧。惟險也,故千態萬狀而人莫能知;惟巧也,故千蹊萬徑而人莫能禦。其謟似恭,其訐似直,其欺似可信,其佞似可近,務以窺人君之喜怒而迎合之,竊其勢以立己之威,濟其欲以結主之愛,愛隆於上,威擅於下,大臣不敢議,近親不敢言,毒被天下而上莫之知,至是而求去之,亦已難矣。雖然,此特人主之不悟者也,猶有說焉。如宇文士及之佞,太宗灼見其情而不能斥;李林甫妬賢嫉能,明皇洞見其奸而不能退。邪之惑人,有如此者,可不畏哉!

上(君主)が誠をもって下(臣民)を愛すれば、下は忠をもって上に報いる。これは感応の理である。しかし往昔を考察すると、常情では論じられぬものがある。禹は洪水を抑えて民を救い、啓はまたよく敬して禹の道を承け継いだ。その恩沢は深かった。しかし一代伝わって太康が道を失うと、万姓は仇怨して去った。これはなぜか。漢の高帝は布衣より起こり、天下は影のごとく従った。滎陽の難では、紀信は命を捨てて急に赴くに至った。人心の帰するところは明らかである。しかし天下が定まった後、沙中に謀反する者があった。これまたなぜか。私はひそかに考えた。民が君を戴くのは天命に本づき、初めから順わぬ心はない。ただ、彼らを失望させ、不平を抱かせることによって、怨怒が生ずるのである。禹・啓は民を赤子のごとく愛したが、太康は安逸にふけって徳を滅ぼした。これが失望の原因である。漢の高帝は寛仁をもって天下を得たが、天下が定まった後、愛憎によって誅賞を行った。これが不平の原因である。古今の君主で、民に恩沢を施しながら民に怨まれ怒られる者は、皆この類いである。君主が位に就いた初め、すでに美言を以て天下に告げたのに、後に実がそれに副わない。故に怨みが生ずる。臣下は皆同じ臣下であり、大差はない。君主がただ己の私心で一人を厚遇すれば、薄遇された者はすでにこれを憎む。ましてや功ある者を薄遇し、罪ある者を厚遇すれば、人々が心に怒りを抱かぬことがあろうか。必ずや古の大学の道のごとく、修身を本とし、一言一動、すべて天下の模範となりうるものとし、一賞一罰、すべて天下の公正に合うものとすれば、億兆の民の心は求めずして自ずから得られ、失望や不平の累があろうはずがない。

原文夫上以誠愛下,則下以忠報上,感應之理然也。然考之往昔,有不可以常情論者。禹抑洪水以救民,啟又能敬承繼禹之道,其澤深矣,然一傳而太康失道,則萬姓仇怨而去者,何邪?漢高帝起布衣,天下影從,滎陽之難,紀信至捐生以赴急,則人心之歸可見矣,及天下已定,而沙中有謀反者,又何邪?竊嘗思之,民之戴君,本於天命,初無不順之心,特由使之失望,使之不平,然後怨怒生焉。禹、啟愛民如赤子,而太康逸豫以滅德,是以失望;漢高以寬仁得天下,及其已定,乃以愛憎行誅賞,是以不平。古今人君,凡有恩澤於民,而民怨且怒者,皆類此也。夫人君有位之初,既出美言而告天下矣,既而實不能副,故怨生焉。等人臣耳,無大相遠,人君特以己之私而厚一人,則其薄者已疾之矣,況於薄有功而厚有罪,人得不怒於心邪?必如古者大學之道,以修身為本,一言一動,舉可以為天下之法,一賞一罰,舉可以合天下之公,則億兆之心將不求而自得,又豈有失望不平之累哉!

三代以下で盛治と称せられるのは、漢の文帝・景帝に及ぶものはない。しかし当時を考察すると、天象は数度変異し、山崩れ地震は数えきれぬほどであった。これは小ならば水旱の災いがあり、大ならば乱亡の応報がある前兆であって、徒然に起こったのではない。しかし文・景は天心をよく承け、ひたすら民を養うことを務めとした。今年は農桑を勧め、明年は田租を減じた。このように懇ろに愛したのであるから、民心を得て和気が応じたのは当然である。臣が拝見するに、前年秋に孛星が西方に出、彗星が東方に出た。去年冬には彗星が東方に見え、また西方に見えた。議する者は、旧を除き新を布いて天変に応ずべきだという。臣は、いっそ直ちに文・景の恭倹愛民を法とし、道理明らかで義正しく信頼できるようにする方がよいと考える。天が君を立てるのは、もとより下民のためである。故に孟子は「民を重んじ、君を軽んず」といい、書経にも「天の視みるは我が民の視るに由り、天の聴くは我が民の聴くに由る」とある。これによって論ずれば、天の道は常に下にあり、常に不足にある。民を治める者が、下に求めずして高きに求め、不足に求めずして有余に求めようとする。これこそ天変を招く所以である。その変異はすでに生じ、その象徴はすでに著しく、乖戾の兆しはすでに萌しているのに、なおかつ従来の習わしに因り、下を抑え不足を損なう。これを天に順うというのは、難しいことではないか。

原文三代而下稱盛治者,無如漢之文、景,然考之當時,天象數變,山崩地震未易遽數,是將小則有水旱之災,大則有亂亡之應,非徒然而已也。而文、景克承天心,一以養民為務,今年勸農桑,明年減田租,懇愛如此,宜其民心得而和氣應也。臣竊見前年秋孛出西方,彗出東方,去年冬彗見東方,復見西方。議者謂當除舊布新,以應天變。臣以為曷若直法文、景之恭儉愛民,為理明義正而可信也。天之樹君,本為下民。故孟子謂「民為重,君為輕」,書亦曰「天視自我民視,天聽自我民聽」。以是論之,則天之道恒在於下,恒在於不足也。君人者,不求之下而求之高,不求之〔不〕足而求之有餘,斯其所以召天變也。其變已生,其象已著,乖戾之幾已萌,猶且因仍故習,抑其下而損其不足,謂之順天,不亦難乎?

この六つは、皆困難な項目である。その要を挙げれば、徳を修め、賢を用い、民を愛する三つに過ぎない。これを治の本という。本が立てば、紀綱は布かれ、法度は行われ、治功は必ず達成される。そうでなければ、愛悪相攻め、善悪互いに害し合い、生民は水火に陥ることを免れず、これをもって治めようとしても、万に一つもできない。

原文此六者,皆難之目也。舉其要,則修德、用賢、愛民三者而已。此謂治本。本立,則紀綱可布,法度可行,治功可必。否則愛惡相攻,善惡交病,生民不免於水火,以是為治,萬不能也。

その四に曰く、古の聖君を語れば必ず堯・舜といい、古の賢相を語れば必ず稷・契という。堯・舜は天道を知ってこれを順承し、稷・契はまた堯・舜の心を知ってこれを輔賛したからである。これこそ天下の法となり、後世に伝えられる所以である。天道は生を好んで私せず、堯と舜もまた生を好んで私しなかった。「克よく俊徳を明らかにし」て「黎民於ここに変ず」に至り、「人時を敬み授け」て「庶績咸ことごとく熙ひらく」に至る。これが天道を順承した実である。稷は百穀を播いて民生を厚くし、契は五教を敷いて民心を善くした。これが堯・舜を輔賛した実である。臣はかつて繰り返し熟考し推し広め、思ってはまた思い、往古の聖賢の言に照らし合わせてみると一つとして同じでなく、歴代の治乱の跡に験してみると一つとして合わないものはなかった。この道が行われれば、民を富ませ、兵を強くし、人材を盛んにし、国勢を重くすることができる。私は日夜これを熟慮している。今、国家はただ財を斂める巧みさを知るだけで、財を生む由を知らず、ただ人の欺くのを防ぐことのみを知り、人の善を養おうとせず、ただ法令の行われ難きを憂えるだけで、法令の行われるべき地なきを憂えない。誠に農民を優遇し重んじ、擾さず害さず、游惰の民を駆り立てて南畝(農耕)に帰らせ、種芸を課し、懇ろに諭して督行すれば、十年の後、倉庫府庫の蓄積は今日の比ではないであろう。都邑から州県に至るまで皆学校を設け、皇子以下より庶人の子弟に至るまで皆学に入らせ、父子君臣の大倫を明らかにし、洒掃応対より天下を平らげる要道に至るまでを学ばせれば、十年の後、上は下を御する所以を知り、下は上に事える所以を知り、上下和睦して、これまた今日の比ではないであろう。この二つが行われれば、万の目(細目)はことごとく挙がる。そうでなければ、他のことは皆期待できない。この道は、堯・舜の道である。孟子は「我は堯・舜の道に非ざれば、敢えて王前おんまえに陳べず」といった。臣の愚かなる衷心も、ひそかに学びたいと願うものである。

原文其四曰:語古之聖君,必曰堯、舜;語古之賢相,必曰稷、契。蓋堯、舜能知天道而順承之,稷、契又知堯、舜之心而輔贊之,此所以為法於天下,可傳於後世也。夫天道好生而不私,堯與舜亦好生而不私。若「克明俊德」,至於「黎民於變」,「敬授人時」,至於「庶績咸熙」,此順承天道之實也。稷播百穀以厚民生,契敷五教以善民心,此輔贊堯、舜之實也。臣嘗復熟推衍,思之又思,參之往古聖賢之言無不同,驗之歷代治亂之迹無不合,蓋此道之行,民可使富,兵可使強,人才可使盛,國勢可使重,夙夜念之至熟也。今國家徒知斂財之巧,而不知生財之由;徒知防人之欺,而不欲養人之善;徒患法令之難行,而不患法令無可行之地。誠能優重農民,勿擾勿害,敺游惰之人而歸之南畝,課之種藝,懇喻而督行之,十年之後,倉府之積,當非今日之比矣。自都邑而至州縣,皆設學校,使皇子以下至於庶人之子弟,皆入於學,以明父子君臣之大倫,自洒掃應對以至平天下之要道,十年已後,上知所以御下,下知所以事上,上下和睦,又非今日之比矣。二者之行,萬目斯舉,否則他皆不可期也。是道也,堯、舜之道也。孟子曰:「我非堯、舜之道,不敢以陳於王前。」臣愚區區,竊亦願學也。

その五に曰く、天下が定まる所以は、民の志が定まることである。民の志が定まれば、士は士たることに安んじ、農は農たることに安んじ、工商は工商たることに安んずる。そうすれば上に立つ者に安んずべき道理がある。民が白屋(平民)たることに安んぜず、必ず禄仕を求め、仕官が卑位に安んぜず、必ず尊栄を求める。四方万里より、車の輻やが轂こしきに集まるように並び進み、各々厭くことなく恥じぬ心を抱く。上に立つ者は寒心せざるを得ないではないか。臣が聞くところによれば、天下を取る者は勇敢を尚び、天下を守る者は退譲を尚ぶ。取ることと守ることには、それぞれ相応しいものがあり、民を治める者はこれを審らかにせざるを得ない。審らかにして後に発すれば、発して中らぬことはない。そうでなければ、事に触れて急に喜怒し、喜怒の色は容貌に現れ、言葉は口より出て、人皆これを知る。徐しずかにその故を考うれば、喜ぶべきことなきを知れば必ず喜んだ過ちを悔い、怒るべきことなきを知れば必ず怒った過ちを悔う。甚だしきは先に喜び後に怒り、先に怒り後に喜ぶ。号令が数度変わるのは、喜怒を節せぬ故である。故に先王は心を潜めて恭默(つつしみ黙す)とし、喜怒を易えず、未だ発せざるときは、最も近き者もその発するを知ることができず、発すれば最も親しき者もこれを移すことができない。故に号令は簡にして悔いなく、則ち節に中らぬことはない。数度変えることは不可であり、数度信を失うことは特に不可である。周の幽王は無道であったからこれを顧みなかった。今はそのようなことはないのに、どうして人の信じないように苦しめることがあろうか。

原文其五曰:天下所以定者,民志定,則士安於士,農安於農,工商安於為工商,則在上之人有可安之理矣。夫民不安於白屋,必求祿仕;仕不安於卑位,必求尊榮。四方萬里,輻輳並進,各懷無厭無耻之心,在上之人可不為寒心哉!臣聞取天下者尚勇敢,守天下者尚退讓。取也守也,各有其宜,君人者不可不審也。夫審而後發,發無不中,否則觸事而遽〔喜怒〕,喜怒之色見於貌,言出於口,人皆知之。徐考其故,知其無可喜者則必悔其喜之失,無可怒者則必悔其怒之失,甚至先喜而後怒,先怒而後喜,號令數變,喜怒不節之故也。是以先王潛心恭默,不易喜怒,其未發也,雖至近莫能知其發也,雖至親莫能移,是以號令簡而無悔,則無不中節矣。夫數變,不可也;數失信,尤不可也。周幽無道,故不恤此,今無此,何苦使人之不信也。

上書が奏上されると、帝はこれを嘉し納れた。許衡は帝に謁見してから、多く奏上陳述したが、退出する時は皆その草稿を削った。故にその言は多く秘され、世に聞くことは稀で、伝わるものは特にこれだけである。衡は病多く、帝は五日に一度省(尚書省)に至ることを許し、時に尚方の名薬美酒を賜って調養させた。四年、ついにその帰郷(懐州)を許した。五年、再び召還され、奏対もまた秘された。

原文書奏,帝嘉納之。衡自見帝,多奏陳,及退,皆削其草,故其言多祕,世罕得聞,所傳者特此耳。衡多病,帝聽五日一至省,時賜尚方名藥美酒以調養之。四年,乃聽其歸懷。五年,復召還,奏對亦祕。

六年、命じて太常卿徐世隆と共に朝儀を定めさせた。儀式が完成すると、帝は臨観し、大いに喜んだ。また詔して太保劉秉忠・左丞張文謙と共に官制を定めさせた。許衡は歴代の古今の分併統属の順序を考証し、権摂・増置・冗長・側置のものを取り除き、凡そ省部・院臺・郡縣及び后妃・儲藩・百司の聯属統制する所を定めて図とした。七年、これを奏上した。翌日、公卿を集めて中書・院臺の行移の体裁について雑議させた。衡は言った、「中書は天子を補佐して国政を総べるものである。院臺は具に呈すべきである」と。時に商挺は枢密に在り、高鳴は御史臺に在ったが、皆これを喜ばず、咨禀と定めようとし、大言を以て衡を動かそうとして言った、「臺院は皆宗親大臣である。もし一たび忤らば、禍測るべからず」と。衡は言った、「私は国制を論じているのであって、人と何の関わりがあろうか」と。遂にその言を帝の前に質し、帝は言った、「衡の言う通りである。我が意もまたかくの如し」と。

原文六年,命與太常卿徐世隆定朝儀,儀成,帝臨觀,甚悅。又詔與太保劉秉忠、左丞張文謙定官制,衡歷考古今分併統屬之序,去其權攝增置冗長側置者,凡省部、院臺、郡縣與夫后妃、儲藩、百司所聯屬統制,定為圖。七年,奏上之。翌日,使集公卿雜議中書、院臺行移之體,衡曰:「中書佐天子總國政,院臺宜具呈。」時商挺在樞密,高鳴在臺,皆不樂,欲定為咨禀,因大言以動衡曰:「臺院皆宗親大臣,若一忤,禍不可測。」衡曰:「吾論國制耳,何與於人。」遂以其言質帝前,帝曰:「衡言是也,吾意亦若是。」

未だ幾ばくもせず、阿合馬が中書平章政事となり、尚書省六部の事を領した。権を擅にするに因り、勢は朝野を傾け、一時の大臣多くこれに阿る中、衡は毎にこれと議するに、必ず正言して少しも譲らなかった。已にしてその子にまた僉枢密院の命があった。衡は独り執議して言った、「国家の事権は、兵・民・財の三者のみである。今その父は民と財を典とし、子また兵を典とするは、不可である」と。帝は言った、「卿はその反を慮るのか」と。衡は対えて言った、「彼は反せずとも、これ反の道である」と。阿合馬はここに於いて衡を恨み、亟に衡を中書に在らしむべきことを薦め、事に因って中傷せんとした。俄かに左丞に除されたが、衡は屡々入って辞免し、帝は左右に命じて衡を掖き出させた。衡は出て閾に及んだが、還って奏上して言った、「陛下は臣に出でよと命じられましたが、果たして省を出よとのお言葉でしょうか」と。帝は笑って言った、「殿門を出よとのことだ」と。上京に従幸し、乃ち阿合馬の専権・上を罔くし、政を蠹し民を害する若干の事を論列したが、報いられなかった。ここに因って病を謝して機務を解くことを請うた。帝は惻然とし、その子師可を召し入れ、旨を諭し、且つ自らに代わる者を挙げることを命じた。衡は奏上して言った、「人を用いるは、天子の大柄である。臣下が広くその賢否を論ずることは可であるが、若しこれに位を授けんとすれば、則ち宸衷より断ずべきであり、臣下に市恩の漸しあることを使うべからず」と。

原文未幾,阿合馬為中書平章政事,領尚書省六部事,因擅權,勢傾朝野,一時大臣多阿之,衡每與之議,必正言不少讓。已而其子又有僉樞密院之命,衡獨執議曰:「國家事權,兵民財三者而已。今其父典民與財,子又典兵,不可。」帝曰:「卿慮其反邪?」衡對曰:「彼雖不反,此反道也。」阿合馬由是銜之,亟薦衡宜在中書,欲因以事中之。俄除左丞,衡屢入辭免,帝命左右掖衡出。衡出及閾,還奏曰:「陛下命臣出,豈出省邪?」帝笑曰:「出殿門耳。」從幸上京,乃論列阿合馬專權罔上、蠹政害民若干事,不報。因謝病請解機務。帝惻然,召其子師可入,諭旨,且命舉自代者。衡奏曰:「用人,天子之大柄也。臣下汎論其賢否則可,若授之以位,則當斷自宸衷,不可使臣下有市恩之漸也。」

帝は久しく太学を開かんと欲していたが、会に衡の益々力めて罷めることを請うたので、乃ちその請いに従った。八年、集賢大学士と為し、国子祭酒を兼ね、親しく蒙古の弟子を選んで教えしめた。衡は命を聞き、喜んで言った、「これは我が事である。国人の子は大朴未だ散ぜず、視聴専一である。若しこれを善類の中に置き数年涵養すれば、将に必ず国用と為るべし」と。乃ちその弟子王梓・劉季偉・韓思永・耶律有尚・呂端善・姚燧・高凝・白棟・蘇郁・姚燉・孫安・劉安中の十二人を伴読として徴することを請うた。詔して駅伝を以てこれを京師に召し、各齋に分処して齋長と為した。時に選ばれた弟子は皆幼稚であったが、衡はこれを成人の如く扱い、子の如く愛し、出入進退はその厳たること君臣の若くあった。その教えと為すや、覚に因って善を明らかにし、明に因って蔽を開き、その動息を相って張弛と為した。課誦の少暇あれば、即ち礼を習わせ、或いは書算を習わせた。少者は則ち拝跪・揖譲・進退・応対を習わせ、或いは射を、或いは投壺をさせ、負けた者は読書若干遍を罰せられた。久しくして、諸生は人々自得し、師を尊び業に敬し、下って童子に至るまで、亦た三綱五常が生人の道であることを知った。

原文帝久欲開太學,會衡請罷益力,乃從其請。八年,以為集賢大學士,兼國子祭酒,親為擇蒙古弟子俾教之。衡聞命,喜曰:「此吾事也。國人子大樸未散,視聽專一,若置之善類中涵養數年,將必為國用。」乃請徵其弟子王梓、劉季偉、韓思永、耶律有尚、呂端善、姚燧、高凝、白棟、蘇郁、姚燉、孫安、劉安中十二人為伴讀。詔驛召之來京師,分處各齋,以為齋長。時所選弟子皆幼稚,衡待之如成人,愛之如子,出入進退,其嚴若君臣。其為教,因覺以明善,因明以開蔽,相其動息以為張弛。課誦少暇,即習禮,或習書算。少者則令習拜跪、揖讓、進退、應對,或射,或投壺,負者罰讀書若干遍。久之,諸生人人自得,尊師敬業,下至童子,亦知三綱五常為生人之道。

十年、権臣屡々漢法を毀り、諸生の廩食或いは継がず、衡は懐に還ることを請うた。帝は以って翰林学士王磐に問うた。磐は対えて言った、「衡は人を教えるに法あり、諸生の行いは政に従うべく、これは国の大体であり、宜しくその去るを聴くべからず」と。帝は諸老臣に命じてその去留を議わせた。竇默は衡のために懇請したので、乃ち衡の還ることを聴き、賛善王恂に学事を摂行せしめた。劉秉忠等は奏上し、衡の弟子耶律有尚・蘇郁・白棟を助教として、衡の規矩を守らしむることを乞うた。これに従った。

原文十年,權臣屢毀漢法,諸生廪食或不繼,衡請還懷。帝以問翰林學士王磐,磐對曰:「衡教人有法,諸生行可從政,此國之大體,宜勿聽其去。」帝命諸老臣議其去留,竇默為衡懇請之,乃聽衡還,以贊善王恂攝學事。劉秉忠等奏,乞以衡弟子耶律有尚、蘇郁、白棟為助教,以守衡規矩,從之。

国家、中原を得てより以来、金の大明暦を用いたが、大定年間に是正されてより六七十年、気朔加時漸く差を生じた。帝は海宇混一を以て、時を協わせ日を正すべしとされた。十三年、詔して王恂に新暦を定めさせた。恂は暦家は暦数を知って暦理を知らずと為し、宜しく衡を得てこれを領せしむべしとし、乃ち集賢大学士兼国子祭酒として太史院事を教領せしめ、京師に召し寄せた。衡は冬至は暦の本であり、而して暦本を求むるは気を験するに在りと為した。今用いる所の宋の旧儀は、汴より還って京師に至るまで已に乖舛し、これに歳久しくして規環叶わずを加えた。乃ち太史令郭守敬等と共に新たに儀象圭表を製し、丙子の冬より日測して晷景を得、丁丑・戊寅・己卯の三年の冬至加時を以て、大明暦より十九刻二十分を減じ、又古の歳余歳差法を増損し、上って春秋以来の冬至を考するに、尽く合わざるは無かった。月食の衝及び金木二星の距を以て冬至の日躔を験し、旧暦より七十六分退くを校した。日転の遅疾中平行度を以て月離の宿度を験し、旧暦より三十刻を加えた。線を以て管に代えて赤道宿度を窺測した。四正定気を以て損益限を立て、以て日の盈縮を定めた。二十八限を分かって三百三十六と為し、以て月の遅疾を定めた。赤道を変じて九道と為し月行を定めた。遅疾転定度分を以て定朔を定め、而して平行度を用いず。日月実合の時刻を以て晦を定め、而して虚進法を用いず。躔離朓朒を以て交食を定めた。その法は古を視て皆密であり、而して又諸暦の積年月日法の傅会する所を悉く去り、一に天道自然の数を本とし、永久に施して弊無きべし。自余の訛を正し闕を完うするは、蓋し一事に非ず。十七年、暦成り、これを奏上し、賜うに授時暦と名づけ、天下に頒布した。

原文國家自得中原,用金大明曆,自大定是正後六七十年,氣朔加時漸差。帝以海宇混一,宜協時正日。十三年,詔王恂定新曆。恂以為曆家知曆數而不知曆理,宜得衡領之,乃以集賢大學士兼國子祭酒,教領太史院事,召至京。衡以為冬至者曆之本,而求曆本者在驗氣。今所用宋舊儀,自汴還至京師已自乖舛,加之歲久,規環不叶。乃與太史令郭守敬等新製儀象圭表,自丙子之冬日測晷景,得丁丑、戊寅、己卯三年冬至加時,減大明曆十九刻二十分,又增損古歲餘歲差法,上考春秋以來冬至,無不盡合。以月食衝及金木二星距驗冬至日躔,校舊曆退七十六分。以日轉遲疾中平行度驗月離宿度,加舊曆三十刻。以綫代管闚測赤道宿度。以四正定氣立損益限,以定日之盈縮。分二十八限為三百三十六,以定月之遲疾。以赤道變九道定月行。以遲疾轉定度分定朔,而不用平行度。以日月實合時刻定晦,而不用虛進法。以躔離朓朒定交食。其法視古皆密,而又悉去諸曆積年月日法之傅會者,一本天道自然之數,可以施之永久而無弊。自餘正訛完闕,蓋非一事。十七年,曆成,奏上之,賜名曰授時曆,頒之天下。

六月、疾を以って懐に還ることを請うた。皇太子は帝に請うて、子の師可を懐孟路総管としてこれを養わしめ、且つ東宮の官をして来り衡に諭させて言った、「公は道の行われざるを以て憂うることなかれ。公安んずれば則ち道行わるる時あり。善く薬し自ら愛せよ」と。十八年、衡の病革まる。家人祠をなそうとしたが、衡は言った、「我一日未だ死せずんば、寧く祖考に事あること無からんや」と。扶け起きて、儀の如く奠献した。既に撤し、家人餕すや、怡怡として楽しげであった。已にして卒す。年七十三。この日、大雷電し、風木を抜く。懐の人貴賤少長を問わず、皆門に於いて哭した。四方の学士訃を聞き、皆集まって哭した。数千里を来たりて墓下に祭哭する者あり。

原文六月,以疾請還懷。皇太子為請於帝,以子師可為懷孟路總管以養之,且使東宮官來諭衡曰:「公毋以道不行為憂也,公安則道行有時矣,其善藥自愛。」十八年,衡病革,家人祠,衡曰:「吾一日未死,寧不有事於祖考。」扶而起,奠獻如儀。既撤,家人餕,怡怡如也。已而卒,年七十三。是日,大雷電,風拔木。懷人無貴賤少長,皆哭於門。四方學士聞訃,皆聚哭。有數千里來祭哭墓下者。

衡は善く教え、その言は煦煦たり、童子と語るに雖も、これを傷つけんことを恐るるが如し。故に至る所、貴賤賢不肖を問わず皆楽しんでこれに従い、その才の昏明大小に随って皆得る所あり、世用と為すべし。去る所、人は皆哭泣し、忍びずして捨て、その教えを服念すること金科玉条の如く、終身敢えて忘れず。或いは未だ嘗て門に及ばずとも、その緒余を伝え、而して節を折り力行して名世と為る者、往々にしてこれあり。その言を聴くに、武人・俗士・異端の徒と雖も、感ぜず悟らざる者は無かった。丞相安童は一たび衡を見て、同列に語って言った、「汝ら輩自ら相上下すと謂うも、蓋し十百と千万との比である」と。翰林承旨王磐は気概一世にし、与す所少なかったが、独り衡を見て言った、「先生は神明なり」と。大徳元年、栄禄大夫・司徒を贈り、諡して文正と曰う。至大二年、正学垂憲佐運功臣・太傅・開府儀同三司を加えられ、魏国公に封ぜられた。皇慶二年、詔して孔子廟廷に従祀す。延祐初年、又詔して京兆に書院を立てて衡を祀り、田を与えて祠事を奉ぜしめ、名づけて魯斎書院と曰う。魯は、衡が魏に居た時に署した斎名である。子に師可有り。

原文衡善教,其言煦煦,雖與童子語,如恐傷之。故所至,無貴賤賢不肖皆樂從之,隨其才昏明大小皆有所得,可以為世用。所去,人皆哭泣,不忍舍,服念其教如金科玉條,終身不敢忘。或未嘗及門,傳其緒餘,而折節力行為名世者,往往有之。聽其言,雖武人俗士異端之徒,無不感悟者。丞相安童一見衡,語同列曰:「若輩自謂不相上下,蓋十百與千萬也。」翰林承旨王磐氣概一世,少所與可,獨見衡曰:「先生,神明也。」大德(二)〔元〕年,贈榮祿大夫、司徒,諡文正。至大二年,加正學垂憲佐運功臣、太傅、開府儀同三司,封魏國公。皇慶二年,詔從祀孔子廟廷。延祐初,又詔立書院京兆以祀衡,給田奉祠事,名魯齋書院。魯,衡居魏時所署齋名也。子師可。

竇默(李俊民を附す)

原文竇默李俊民附

竇默は字を子聲といい、初名は傑、字は漢卿、廣平肥郷の人である。幼くして読書を知り、毅然として志を立てた。族祖の旺は郡の功曹となり、吏事を習わせようとしたが、就こうとしなかった。時に国兵が金を伐つに及び、默は捕虜となった。同時に捕虜となった者三十人は皆殺されたが、默のみは脱して郷里に帰った。家は破れ、母のみが存命であったが、驚き恐れた余り、母子ともに病を得、母はついに亡くなり、病を押して藁葬した。大兵が再び至ったので、遂に南へ走って河を渡り、母方の親族である呉氏を頼った。医者の王翁が娘を娶らせ、医業に従事させた。転じて蔡州に客寓し、名医李浩に遇い、銅人針法を授けられた。金主が蔡に遷ると、默は兵がやがて来ることを恐れ、また徳安へ走った。孝感県令の謝憲子が伊洛の性理の書を授けたので、默はこれまで学んだことがなかったが、学問はここから始まったと自覚した。折しも中書の楊惟中が旨を奉じて儒・道・釋の士を招集したので、默は北へ帰り、大名に隠棲し、姚樞・許衡と朝夕に講習し、寝食を忘れるほどであった。その後肥郷に戻り、経術を教授し、これによって知名となった。

原文竇默字子聲,初名傑字漢卿,廣平肥鄉人。幼知讀書,毅然有立志。族祖旺,為郡功曹,令習吏事,不肯就。會國兵伐金,默為所俘。同時被俘者三十人,皆見殺,惟默得脫歸其鄉。家破,母獨存,驚怖之餘,母子俱得疾,母竟亡,扶病藁葬。而大兵復至,遂南走渡河,依母黨吳氏。醫者王翁妻以女,使業醫。轉客蔡州,遇名醫李浩,授以銅人針法。金主遷蔡,默恐兵且至,又走德安。孝感令謝憲子以伊洛性理之書授之,默自以為昔未嘗學,而學自此始。適中書楊惟中奉旨招集儒、道、釋之士,默乃北歸,隱於大名,與姚樞、許衡朝暮講習,至忘寢食。繼還肥鄉,以經術教授,由是知名。

世祖が潜邸にあった時、使者を遣わして召したが、默は姓名を変えて自らを晦ました。使者はその友人に会いに行かせ、微服でその後を追わせたので、默は已むなく命に従った。到着すると、治道について問われ、默はまず三綱五常を以て答えた。世祖は言った、「人道の端緒、これより大なるはない。これを失えば、世に立つことができない」。默はまた言った、「帝王の道は、誠意正心にあり、心が既に正しければ、朝廷遠近、敢えて一に正にせざるはない」。一日に三度も召して語り、奏対は皆意に適った。これより敬待して礼を加え、暫しも左右を離さなかった。世祖が今の世で治道に明るい者を問うと、默は姚樞を推薦し、即時に召して用いた。間もなく皇子真金に默に従って学ばせ、玉の帯鉤を賜り、諭して言った、「これは金の内府の旧物である。汝は老人であるから、佩用するに相応しい。また我が子にこれを見せて、我を見るが如くにさせよ」。久しくして南還を請うたので、大名・順徳にそれぞれ田宅を与え、有司に歳ごとに衣物を調進させて常例とした。

原文世祖在潛邸,遣召之,默變姓名以自晦。使者俾其友人往見,而微服踵其後,默不得已乃拜命。既至,問以治道,默首以三綱五常為對。世祖曰:「人道之端,孰大於此。失此,則無以立於世矣。」默又言:「帝王之道,在誠意正心,心既正,則朝廷遠近莫敢不一於正。」一日凡三召與語,奏對皆稱旨,自是敬待加禮,不令暫去左右。世祖問今之明治道者,默薦姚樞,即召用之。俄命皇子真金從默學,賜以玉帶鈎,諭之曰:「此金內府故物,汝老人,佩服為宜,且使我子見之如見我也。」久之,請南還,命大名、順德各給田宅,有司歲具衣物以為常。

世祖が即位すると、上都に召し出して問うた、「朕は唐の魏徴の如き者を求めたいと思うが、そのような人物はいるか」。默は答えて言った、「顔を犯して諫諍し、剛毅で屈しない者は、許衡がその人です。深識遠慮し、宰相の才ある者は、史天澤がその人です」。天澤は当時河南を宣撫していたが、帝は即時に召して右丞相に任じ、默を翰林侍講學士とした。当時中書省が初めて建てられ、平章政事王文統が頗る任用されていた。默は上書して言った、

原文世祖即位,召至上都,問曰:「朕欲求如唐魏徵者,有其人乎?」默對曰:「犯顏諫諍,剛毅不屈,則許衡其人也。深識遠慮,有宰相才,則史天澤其人也。」天澤時宣撫河南,帝即召拜右丞相,以默為翰林侍講學士。時初建中書省,平章政事王文統頗見委任,默上書曰:

臣が陛下に仕えて十余年、数度顧問を承け、聖訓を聞き及ぶことにより、陛下が治を求めることに急であり、未だ嘗て利を生民にし社稷を安んずることを心とされないことがないのを見ることができます。時に先帝が上にあり、姦臣が権を擅にし、天下の財賦を総べ、操執を手にし、奇貨を貢進し、紛華を衒耀して、上心を悦ばせました。朋党を扇結し、骨肉を離間した者は、皆この徒です。この徒が路に当たったので、陛下はその初心を尽くすことができなかったのです。世を救う一念は、多年涵養されてきました。

原文臣事陛下十有餘年,數承顧問,與聞聖訓,有以見陛下急於求治,未嘗不以利生民安社稷為心。時先帝在上,姦臣擅權,總天下財賦,操執在手,貢進奇貨,衒耀紛華,以娛悅上心。其扇結朋黨、離間骨肉者,皆此徒也。此徒當路,陛下所以不能盡其初心。救世一念,涵養有年矣。

今、天順人応し、大寶に誕登され、天下の生民、歓忻踴躍せざるはなく、盛治を引領しています。然るに天下を平治するには、必ず正人端士を用い、唇吻の小人の一時的な功利の説は、必ずや国家の基本を定立し、子孫の久遠の計とすることはできません。利を売り勤めを献げ、憐れみを乞い寵を取る者を、その志を行わせないようにすればよいのです。若し夫れ鈎距揣摩し、利害を以て人主の意を驚動させる者は、他意なく、諸賢を擯斥し、独り政柄を執らんとするにあります。これは蘇秦・張儀の流れです。惟陛下にこれを察していただきます。伏して望むらくは、別に公明有道の士を選び、重任を授けられれば、天下幸甚です。

原文今天順人應,誕登大寶,天下生民莫不歡忻踴躍,引領盛治。然平治天下,必用正人端士,唇吻小人一時功利之說,必不能定立國家基本,為子孫久遠之計。其賣利獻勤、乞憐取寵者,使不得行其志,斯可矣。若夫鈎距揣摩,以利害驚動人主之意者,無他,意在擯斥諸賢,獨執政柄耳,此蘇、張之流也,惟陛下察之。伏望別選公明有道之士,授以重任,則天下幸甚。

ある日、默は王鶚・姚樞と共に帝の前にあり、再び面と向かって文統を斥けて言った、「この人は学術が正しくなく、久しく相位に居れば、必ず天下に禍いをもたらします」。帝が言った、「それでは誰が相たるべきか」。默は言った、「臣の見るところでは、許衡に如く者はありません」。帝は不悦となって罷めた。文統は深くこれを忌み、默を太子太傅とするよう請うた。默は辞して言った、「太子の位号は未だ正されていません。臣は先んじて太傅の名を受けることはできません」。そこで再び翰林侍講學士とした(詳しくは許衡伝に見える)。默は間もなく病と称して帰った。未だ幾ばくもせず、文統は誅せられた。帝はその言葉を追憶し、近臣に謂って言った、「かつて王文統を用いるべからずと言った者は、竇漢卿ただ一人であった。向にもし一二人これに言う者があったならば、朕どうしてそれを考えなかったことがあろうか」。召し還して京師に邸宅を賜り、有司に命じて月ごとに廩祿を給し、国に大政あれば輒すなわちこれを訪ねた。

原文他日,默與王鶚、姚樞俱在帝前,復面斥文統曰:「此人學術不正,久居相位,必禍天下。」帝曰:「然則誰可相者?」默曰:「以臣觀之,無如許衡。」帝不悅而罷。文統深忌之,乃請以默為太子太傅,默辭曰:「太子位號未正,臣不敢先受太傅之名。」乃復以為翰林侍講學士,詳見許衡傳。默俄謝病歸,未幾,文統伏誅,帝追憶其言,謂近臣曰:「曩言王文統不可用者,惟竇漢卿一人。向使更有一二人言之,朕寧不之思耶?」召還,賜第京師,命有司月給廪祿,國有大政輒以訪之。

默は王磐らと共に、翰林院を分置するよう請い、専ら蒙古文字を掌らせ、翰林學士承旨の撒的迷底里にこれを主掌させた。その翰林兼国史院は、旧に従い国史を纂修し、制誥を典り、顧問に備え、翰林學士承旨兼修起居注の和禮霍孫にこれを主掌させた。帝はその奏を許可した。默はまた言った、「三代が風俗淳厚で歴数長久であったのは、皆学校を設けて士を養ったことによるのです。今、学を建て師を立て、貴族の子弟を博選してこれを教え、風化の本を示すべきです」。帝は嘉してこれを納れた。默は嘗て劉秉忠・姚樞・劉肅・商挺と共に上前に侍した。默は言った、「君に過ちある挙動があれば、臣は直言すべきです。都・俞うん・吁う・咈ふつは、古より尊ばれたことです。今はそうではありません。君が可と言えば臣も可とし、君が否と言えば臣も否とします。善政ではありません」。翌日、再び幄殿で帝に侍した。狩人が一羽の鷹を失った。帝は怒り、侍臣の或る者が傍らから大声で罪を加えるべきだと謂った。帝はその迎合を厭い、杖刑に処するよう命じ、狩人は問わずに釈放した。退いた後、秉忠らは默を賀して言った、「公の誠が主の知を得ていなければ、どうしてここまで感悟させることができたでしょうか」。

原文默與王磐等請分置翰林院,專掌蒙古文字,以翰林學士承旨撒的迷底里主之;其翰林兼國史院,仍舊纂修國史,典制誥,備顧問,以翰林學士承旨兼修起居注和禮霍孫主之。帝可其奏。默又言:「三代所以風俗淳厚、歷數長久者,皆設學養士所致。今宜建學立師,博選貴族子弟教之,以示風化之本。」帝嘉納之。默嘗與劉秉忠、姚樞、劉肅、商挺侍上前,默言:「君有過舉,臣當直言,都俞吁咈,古之所尚。今則不然,君曰可臣亦以為可,君曰否臣亦以為否,非善政也。」明日,復侍帝於幄殿。獵者失一鶻,帝怒,侍臣或從旁大聲謂宜加罪。帝惡其迎合,命杖之,釋獵者不問。既退,秉忠等賀默曰:「非公誠結主知,安得感悟至此。」

至元十二年、默は八十歳となり、公卿皆賀しに往った。帝はこれを聞き、拱手して言った、「この輩は賢者である。どうか上帝に請い、数年を減じて朕の左右に留め、共に天下を治めさせたいものだ。惜しいことには今老いてしまった」。しばらくの間、悵然とした。默は既に老いて、事を視なかったが、帝は数度中使を遣わし珍玩や諸器物を持たせて見舞いに行かせた。十七年、昭文館大学士を加えられ、卒去した。八十五歳。訃報を聞き、帝は深く嗟悼し、厚く賵賜を加え、皇太子もまた鈔二千貫を賻おくりものとし、有司に命じて護送して肥郷に帰葬させた。

原文至元十二年,默年八十,公卿皆往賀,帝聞之,拱手曰:「此輩賢者,安得請於上帝,減去數年,留朕左右,共治天下,惜今老矣!」悵然者久之。默既老,不視事,帝數遣中使以珍玩及諸器物往存問焉。十七年,加昭文舘大學士,卒,年八十五。訃聞,帝深為嗟悼,厚加賵賜,皇太子亦賻以鈔二千貫,命有司護送歸葬肥鄉。

默は人となり楽易で、平居(平生)未だ嘗て人物を評品せず、人と居る時は温然たる儒者であった。至って国家の大計を論ずる時は、面折廷諍し、人々は汲黯も以てこれを過ることはできないと言った。帝は嘗て侍臣に謂って言った、「朕は賢を求めて三十年、ただ竇漢卿及び李俊民の二人を得たのみである」。また言った、「竇漢卿の心と、姚公茂(姚樞)の才とを、合して一つとすれば、全人と言うべきであろう」。後に累贈して太師とし、魏国公に封じ、諡して文正とした。子の履は、集賢大学士となった。

原文默為人樂易,平居未嘗評品人物,與人居,溫然儒者也。至論國家大計,面折廷諍,人謂汲黯無以過之。帝嘗謂侍臣曰:「朕求賢三十年,惟得竇漢卿及李俊民二人。」又曰:「如竇漢卿之心,姚公茂之才,合而為一,斯可謂全人矣。」後累贈太師,封魏國公,諡文正。子履,集賢大學士。

李俊民は字を用章といい、澤州の人で、河南の程氏(程顥・程頤)の伝授する学を得た。金の承安年間に進士第一に挙げられ、応奉翰林文字となった。未だ幾ばくもせず、官を棄て仕えず、学んだところを以て郷里で教授し、従う者が甚だ盛んで、千里を遠しとせず来る者さえあった。金源が南遷すると、嵩山に隠れ、後に懐州に移り、間もなくまた西山に隠れた。既にして変が倉猝として起きたが、人々はその先見の明に服した。俊民が河南にいた時、隠士の荊先生という者が、邵雍の皇極数(易学の一種)を授けた。当時、数(術数)を知る者は、劉秉忠の右に出る者がなく、俊民もまた自ら及ばないと思っていた。

原文李俊民字用章,澤州人,得河南程氏傳受之學。金承安中舉進士第一,應奉翰林文字。未幾,棄官不仕,以所學教授鄉里,從之者甚盛,至有不遠千里而來者。金源南遷,隱於嵩山,後徙懷州,俄復隱於西山。既而變起倉猝,人服其先知。俊民在河南時,隱士荊先生者,授以邵雍皇極數。時之知數者,無出劉秉忠之右,亦自以為弗及也。

世祖が潜藩に在った時、安車をもって彼を召し、日々虚しく訪ねることはなかった。急いで山に還ることを乞うと、世祖はその意に逆らうことを重んじ、中貴人を遣わして護送させた。また嘗て張仲一に命じて禎祥について問わせたが、即位すると、その言は皆験した。しかし俊民は既に死んでおり、諡を賜って莊靜先生とした。

原文世祖在潛藩,以安車召之,延訪無虛日。遽乞還山,世祖重違其意,遣中貴人護送之。又嘗令張仲一問以禎祥,及即位,其言皆驗。而俊民已死,賜諡莊靜先生。