元史

列傳第四十四:劉秉忠 張文謙 郝經

劉秉忠〔秉恕〕

劉秉忠、字は仲晦、初名は侃、仏門に従ったため、また子聰と名乗り、官に就いてから初めて今の名に改めた。その先祖は瑞州の人で、代々遼に仕え、官族であった。曾祖父は金に仕え、邢州節度副使となり、その地に家を構えたため、祖父の劉澤以降、邢の人となった。庚辰の年(1220年)、木華黎が邢州を取って都元帥府を立て、その父の劉潤を都統とした。事が定まると、州録事に改めて任命し、鉅鹿・内丘両県の提領を歴任し、赴任先ごとに仁愛を施した。

秉忠は生まれつき風骨が秀でて異なり、志気は英邁で束縛されなかった。八歳で学問に入り、日に数百言を誦した。十三歳で、帥府に人質となった。十七歳で、邢臺節度使府の令史となり、親を養った。平素から鬱々として楽しからず、ある日筆を投げて嘆いて言った。「我が家は累世にわたり衣冠の家であるのに、刀筆の吏に埋もれるのか。大丈夫、世に遇わなければ、隠居して志を求めるべきである。」即座に職を棄て去り、武安山中に隠棲した。久しくして、天寧寺の虚照禅師が弟子を遣わして招き、僧侶とした。その文才を認め、書記を掌らせた。後に雲中を遊歴し、南堂寺に留まった。

世祖が潜邸にあった時、海雲禅師が召され、雲中を通りかかり、彼の博学多才を聞き、共に行くよう招いた。謁見すると、応対が上意に叶い、たびたび顧問を受けた。秉忠は書物で読まないものはなく、特に易と邵氏の経世書に精通し、天文・地理・律暦・三式六壬遁甲の類に至るまで、精通しないものはなかった。天下の事を論じるのは掌を指すが如くであった。世祖は大いにこれを愛し、海雲が南還すると、秉忠は藩邸に留まった。数年後、父の喪に奔り、葬具として金百両を賜り、使者を遣わして邢州まで送らせた。喪が明けると、再び召され、旨を奉じて和林に還った。数千百言に及ぶ上書をし、その要旨は次の通りである。

典章・礼楽・法度・三綱五常の教えは、堯・舜に備わり、三王がこれを継ぎ、五覇がこれを壊した。漢の興起以来、五代に至るまで、千三百余年の間、この道を行った者は、漢の文帝・景帝・光武帝、唐の太宗・玄宗の五君であり、玄宗には疵がないわけではない。しかし治乱の道は、天に係り人による。天は成吉思皇帝を生み、一旅を起こし、諸国を降し、数年を経ずして天下を取った。勤労憂苦し、大宝を子孫に遺し、万祀に伝え、無疆の福を永く保たんとした。

愚かにも聞くところによれば、「馬上にて天下を取るも、馬上にて治むることはできない」と。昔、武王は兄、周公は弟であった。周公は天下の善事を思い、夜を日に継ぎ、一事を得るごとに坐して朝を待ち、周室を匡正し、周の天下を八百余年保ったのは、周公の力である。君上(モンゴル皇帝)は兄、大王(世祖)は弟である。周公の故事を思い行うことは、今日にある。千載一遇の時、失うべからざるものである。

君主が任ずるものは、内においては宰相より大なるはなく、宰相は百官を率い、万民を教化する。外においては将軍より大なるはなく、将軍は三軍を統率し、四方を安んずる。内外相補い合うことは、国の急務であり、必ずこれを先にすべきである。しかし天下の大きさは、一人の力で及ぶものではなく、万事の細かさは、一心で察知できるものではない。開国の功臣の子孫を選び、京府州郡の監守に分かち、旧官を督責して王法に従わせるべきである。なお按察官を派遣して守らせ、治績ある者は昇進させ、ない者は罷免すれば、天下は労せずして定まるであろう。

天下の戸数は百万を超えるが、忽都那演が断事して以来、差役が甚だ大きく、これに軍馬の徴発が加わり、使臣の煩わしい干渉、官吏の収奪があり、民は堪えられず、それゆえ逃亡する。旧例に比べて半減すべきか、あるいは三分の一を去り、現存の民をもって差税を定め、逃亡者を招いて復業させ、改めて決定すべきである。官には定まった序列がなく、清廉な者は昇進の道がなく、汚濫な者は降格されない。古例に比附して、百官の爵禄・儀仗を定め、家を富ませ身を貴からしめるべきである。民に罪を犯した者には、条規を設けて罪を定める。威福は君主の権であり、命を奉ずるのは臣下の職である。今、百官が自ら威福を行い、進退生殺を意のままにしているのは、禁治すべきである。

天下の民は教化を聞いたことがなく、現在の囚人は赦免すべきであり、教令を明らかに施し、畏れを知らしめれば、罪を犯す者は自ずから少なくなるであろう。教令が設けられたならば、繁雑にすべきではなく、大朝(モンゴル)の旧例に基づき、民間に設けるべきものを十数条増やすだけで十分である。教令が施行されたならば、死罪に至らない罪は全て取り調べてから判決し、死刑を犯した者は覆奏してから審断を聴き、無辜の者に刑が及ばないようにすべきである。

天子は天下を家とし、兆民を子とし、国が不足すれば民から取り、民が不足すれば国から取り、互いに魚と水のように必要とする。国家を持つ者は、府庫を置き、倉廩を設けるのも、民を助けるためである。民たる者は、産業を営み、田野を開くのも、国の用を資するためである。今、官民の負う債務を清算すべきであり、もし実際に差役のため借りたものであれば、合罕皇帝の聖旨に従い、元本一に対し利息一として、官司が返還すべきである。凡そ名目のない賠償、虚偽の契約による負債、および元本を既に返済し過ぎたものは、全て赦免すべきである。

税糧を遠方の倉に納めるのは、一を費やして十を廃するようなものであり、近くの倉に輸送するのを便宜とすべきである。駅路に当たる州城では、飲食接待の負担が偏重しているので、費用を計算して差役に準ずるべきである。関市・津梁の正税は十五分の一を取るのが、旧制に従うべきである。横取りを禁じ、税法を減じて、百姓を利するべきである。倉庫の加耗(損耗分の追加徴収)が甚だ重いので、度量衡を均一に一法とし、錙銖圭撮尺寸全てを公平にし、信を存し詐を去るべきである。珍貝・金銀の産出は、砂を淘り石を錬るのは、実に容易ではない。一度に糸や革を飾り、木石に塗り、器仗に装飾し、一時の華麗を取って、塵と化して益なくするのは、甚だ惜しむべきであり、禁治すべきである。帝冑・功臣・大官以下の礼服には規定があるが、それ以外の無職の者は僭越してはならない。今、土地は広く民は少なく、賦役は繁重で、民は生きるに聊かず、どうして産業を厚くするために耕作に力を尽くせようか。勧農官一員を派遣し、天下の百姓を率いて農桑に務め、産業を営ませるべきであり、国の大いなる利益となる。

古には庠序学校が廃されたことはなかったが、今の郡県には学があっても、官が設置したものではない。旧制に従い、三学(国子学・太学・四門学)を修築し、教授を設け、人材を選抜し、経義を上とし、詞賦・論策を次とすべきである。科挙の設置については、既に合罕皇帝の聖旨を奉じているので、これに因んで言えば、実行しやすい。学校を開設するには、開国の功臣の子孫を選んで教育を受けさせ、達才を選んで任用すべきである。

天下において朝省(中央政府)より大なるはなく、民に親しいものは県宰(県令)より近いものはない。朝省に法があっても、県宰は選ぶべきであり、県宰が正しければ、民は自ずから安んずるであろう。関西・河南は土地が広く肥沃であるが、軍馬の出入りする所であり、治められてはいるが豊かではない。官を設けて招撫し、数年もせずして民が帰還し土地が開墾され、軍馬の用を資することは、国の大事である。移剌中丞が塩鉄諸産・商賈酒醋貨殖諸事を専売制とし、宣課(税)を定めたが、たとえ実情に従って拡大徴収しても、不足分は民から取り、滞納して納められなければ、既に軽くはない。オルホカン(奥魯合蠻)が旧額の倍で専売するよう奏請し、しばしば民間から徴収している。徴税と専売が並行すれば、民は手足の置き所がない。旧例に従って専売を処理し、さらに軽減し、煩雑なものを廃し、徴税のみとし、利を献じようとする徒輩が民を削り国を害するに従わせてはならない。鰥寡孤独・廃疾の者には、孤老院を設け、衣糧を与えて養うべきである。使臣が州郡に到れば、舘を設け、官衙や民家に安んじて宿泊させてはならない。

孔子は百王の師となり、万世の法を立てた。今、廟堂は廃れているが、存するものはなお多い。州郡に祭祀を行わせ、釈奠を旧儀の如くすべきである。近代の礼楽器具は散逸しており、これを調査・収集させ、太常の旧人を徴して後学を教導し、器備わり人存するようにし、漸次これを修めることは、実に太平の基、王道の本である。今天下は広遠であり、成吉思皇帝の威福によるものではあるが、また天地神明の陰に祐けられたところでもある。名儒を訪ね、旧礼に従い、上下の神祇を尊び祭り、天地の気を和らげ、時序の運行に順い、神に享けられ民に依られ、その徳が幽明に極まり、天下が一人の慶事に頼るようにすべきである。

現行の遼暦は、日月の交食にかなりの誤差がある。司天臺が新暦を作成したと聞くが、施行されていない。新君の即位に因み、暦を頒布し元号を改めるべきである。京府州郡に更漏を設置し、民に時を知らしめる。国は滅びても史は存するのは、古の常道である。金史を撰修し、一代の君臣の事業が後世に墜ちないようにすることは、大いに励みとなる。

国家は天のように広大であり、一万の中から一を取って、天下の名士・宿儒で営運産業のない者を養い、困窮に至らせないようにすべきである。あるいは営運産業のある者については、以前の聖旨に照らし、種養して輸納すべき差税以外の大小の雑役は全て免除し、自ら給養させることは、実に国家が人材を養い人を励ます大事である。明君が人を用いるのは、大匠が材木を用いるが如く、その巨細長短に随って規矩縄墨を施すのである。孔子は言う、「君子は小知すべからずして大受すべく、小人は大受すべからずして小知すべし」と。およそ君子の存するところは大きく、小人の事を尽くすことはできず、或いは一短あり、小人の拘るところは狭く、君子の量と同じくすることはできず、或いは一長あり。その才を尽くして用いることが、成功の道である。

君子は言をもって人を廃せず、人をもって言を廃さない。言路を大きく開くことが、天下を成し、兆民を安んずる所以である。天地の大、日月の明も、或いは蔽われることがある。しかも天の明を蔽うものは雲霧であり、人の明を蔽うものは私欲と佞説である。常人にこれあれば、一心を蔽う。人君にこれあれば、天下を蔽う。常に左右の諫臣を選び、未だ形ならざるに諷諭させ、至密に忖画させるべきである。君子の心は、理義に一にして忠良を懐き、小人の心は、利欲に一にして讒佞を懐く。君子が位を得れば、小人に容れるところあり、小人が勢いを得れば、必ず君子を排す。明君上に在りては、弁ぜざるべからざるなり。孔子が「佞人を遠ざけよ」と言い、また「利口の邦家を覆す者を悪む」と言うのは、これを謂うのである。

今、利を言う者は多く、利国を図って民を害するのではなく、実に民を残害して自ら利を得ようとしている。国中の人民が必ず用いる場冶(製塩・製鉄所など)を、各路の課税所に付して、専売の方法を定めさせ、その他利を言う者は全て罷免すべきである。古の明王は遠方の物を宝とせず、宝とするは賢者のみであった。もし賢者が位に在り、能者が職に在れば、これらは皆一人の睿知であり、賢王の輔成によるのである。古の治世は民の産業を均しくしたが、井田を廃して阡陌として以来、後世これに因って復することができなかった。今、窮乏なる者は益々損なわれ、富盛なる者は増加している。利を行なう者が官勢を恃むことを禁じ、官に居り位にある者が民利を侵すことを禁じ、商賈と民が和好して交易し、擅奪・欺罔の害を生じないようにすることは、真に国家の利である。

笞杖の制度は、古を合わせ今を酌み、均しく一法とし、敢えて越える者なからしめるべきである。私的に牢獄を設置し、無辜の民を淫することを禁じ、鞭背の刑は禁治し、生を愛する徳を顕彰すべきである。朝省を立てて百官を統べ、有司を分けて衆事を御し、京府州郡の親民の職に至るまで備えざるなく、上に紀綱正しく、下に法度行われるならば、これによって天下は労せずして治まるのである。今、新君即位の後、朝省を立てて政本とすべきである。その他の百官は、員数が多いことではなく、ただ人を得ることに在るのみである。

世祖はこれを嘉納した。また言うには、「邢州は旧一万余戸であったが、兵興以来数百に満たず、凋弊日々に甚だしい。真定の張耕、洺水の劉肅のような良牧守を得てこれを治めれば、なお完復することができる」と。朝廷は直ちに張耕を邢州安撫使とし、劉肅を副使とした。これによって流民は復業し、邢州を順徳府に昇格させた。

癸丑年、世祖に従って大理を征した。翌年、雲南を征した。毎に天地の好生、王者の神武不殺を以て勧め、城を克した日には、妄りに一人も戮さなかった。己未年、宋を伐つに従い、また雲南で言ったことを力説して上に勧め、到る所で全活した者は数え切れないほどであった。

中統元年、世祖が即位し、天下を治める大経、民を養う良法を問うた。劉秉忠は祖宗の旧典を採り、古制で今に適うものを参酌し、条列して上聞した。ここに詔を下して元号を建て年を紀し、中書省・宣撫司を立てた。朝廷の旧臣、山林の遺逸の士は、皆見いだされて任用され、文物は燦然として一新した。

劉秉忠は左右に居ながらも、なお旧服を改めず、当時の人は彼を聰書記と称した。至元元年、翰林学士承旨の王鶚が上奏して言うには、「劉秉忠は久しく藩邸に侍し、歳月を積み、帷幄の密謀に参じ、社稷の大計を定め、忠勤労績があり、褒崇を受くべきである。聖明御極し、万物惟新たなのに、劉秉忠はなおその野服散号のままであるのは、深く未だ安からず、その衣冠を正し、顕秩を以て崇めるべきである」と。帝は奏を覧て、即日に光禄大夫に拝し、位は太保、中書省事に参領させた。詔して翰林侍読学士の竇默の娘を妻とし、第宅を奉先坊に賜い、かつ少府の宮籍監戸を与えた。劉秉忠は命を受けると、天下を己が任とし、事の巨細を問わず、国家の大体に関わるものについては、知ることは言わずといえず、言うことは聴かれずといえず、帝の寵任は愈々隆盛となった。燕閑の顧問には、常に人物を推薦して器使に備えさせ、凡そ甄抜した者は、後皆名臣となった。

初め、帝は劉秉忠に桓州東、灤水の北に地相をさせ、龍岡に城郭を建てさせ、三年で完成し、開平と名付けた。後に上都に昇格し、燕を中都とした。四年、また劉秉忠に中都城を築かせ、宗廟宮室を建て始めた。八年、国号を大元と建てることを奏上し、中都を大都とした。その他、章服を頒ち、朝儀を挙げ、俸禄を給し、官制を定めることなど、皆劉秉忠から発し、一代の成憲となった。

十一年、上都に扈従した。その地に南屏山があり、かつて精舎を築いて居た。秋八月、劉秉忠は無病で端坐したまま卒した。享年五十九。帝は聞いて驚悼し、群臣に謂って言うには、「劉秉忠は朕に事えて三十余年、小心慎密、艱険を避けず、言うに隠情なく、その陰陽術数の精妙、事を占めて来るを知ることは、符契の合うが如く、ただ朕のみこれを知り、他人は聞くを得ない」と。内府の銭を出して棺殮を整え、礼部侍郎の趙秉温にその喪を護って大都に還葬させた。十二年、太傅を贈られ、趙国公に封ぜられ、諡して文貞といった。成宗の時、太師を贈られ、諡して文正といった。仁宗の時、また常山王に進封された。

劉秉忠は幼より学を好み、老に至るまで衰えず、人臣の極位に在りながらも、斎居蔬食、終日澹然として、平昔と異ならなかった。自ら蔵春散人と号した。常に吟詠を以て自ら適とし、その詩は蕭散閑淡、その人となりに類していた。文集十巻がある。子がなく、弟の劉秉恕の子である蘭璋を後嗣とした。

秉恕は字を長卿という。書を読むことを好み、弱冠の年に劉肅に易を学び、遂に理學に明るくなった。兄の秉忠は世祖に仕え、士を推薦することを自ら任じたが、私的な親族を嫌って、ただ秉恕だけは推挙しなかった。側近がこれを聞き届けて召し出され、遂に共に潜邸に侍した。世祖がかつて秉忠に白金千両を賜ったところ、辞して言うには、「臣は山野の鄙人にて、僥倖にも御遇いを受け、衣服や器物は全て尚方より出ており、金は用いるところがございません」と。世祖は言った、「卿には独り親族や故旧がおらず、彼らに遺すこともないのか?」と。辞退は許されず、遂に受け取ってこれを分け与え、二百両を秉恕に与えた。秉恕は言った、「兄は多年勤労され、この賞を受けるべきであり、秉恕は功績なく、恩を冒すことができましょうか」と。終に受け取らなかった。

中統元年、礼部侍郎・邢州安撫副使に抜擢された。二年、金符を賜り、吏部侍郎に転じた。三年、邢州を順徳府に昇格させ、金虎符を賜り、順徳安撫使となった。至元元年、転官法が施行され、嘉議大夫に改められ、彰徳・懐孟・淄萊・順天・太原の五路総管を歴任した。淄萊府に死刑囚六人がおり、判決は既に確定していた。秉恕はこれを疑い、詳細に審理して実情を得、六人はこれにより死を免れた。その他の赴任地でも、全て善政を施した。召されて礼部尚書に任ぜられた。出向して淮西宣慰使となり、宣慰司が廃止されると、湖州・平陽の両路総管を歴任した。平陽では凶年にあたり、民は食糧に苦しんだので、直ちに倉を開いてこれを賑恤し、全活した者は多かった。六十歳で、官において卒した。

張文謙

張文謙は、字を仲謙といい、邢州沙河の人である。幼少より聡明で、記憶・暗誦に優れ、太保劉秉忠と同窓であった。世祖が潜邸におられた時、邢州を分地として受け、秉忠が文謙を用いることができると推薦した。歳丁未、召し出されて応対が意に適い、王府書記を掌ることを命ぜられ、日に日に信任を受けた。邢州は要衝に当たり、初め二千戸を勲臣の食邑として分け与え、毎年人を遣わして監領させたが、皆治め撫でることを知らず、徴求は百方に出て、民は命に堪えられなかった。ある者が王府に訴えたので、文謙は秉忠と共に世祖に言上した、「今、民生の困弊は、邢州ほど甚だしい所はありません。どうして人を選んで往って治めさせ、その成效を責め、四方の模範とさせ、そうすれば天下は均しく恩恵を受けるでしょう」と。そこで近侍の脱兀脱・尚書劉肅・侍郎李簡を選んで派遣した。三人が邢に至り、心を合わせて治め、弊害を洗い流し、貪暴を除去すると、流亡した者も帰還し、一ヶ月も経たぬうちに戸数は十倍に増加した。これにより世祖は益々儒士を重んじ、政事に任用するようになったが、皆文謙の発案によるものであった。

歳辛亥、憲宗が即位した。文謙と秉忠は時務において先に行うべきことを数々世祖に言上し、悉く施行された。世祖が大理を征伐した時、国主高祥が命令に抵抗し、使者を殺して遁走した。世祖は怒り、その城を屠殺しようとした。文謙と秉忠・姚枢が諫めて言った、「使者を殺し命令に抵抗したのは高祥のみであり、民の罪ではありません。どうかお赦しください」と。これにより大理の民は全活を頼ることができた。己未、世祖が軍を率いて宋を伐とうとした時、文謙と秉忠は言った、「王者の師は、征伐はあっても戦いはなく、一視同仁すべきで、殺戮を嗜むべきではありません」と。世祖は言った、「卿らとこの言葉を守ることを約束しよう」と。既に宋の境内に入ると、諸将に命じて妄りに殺さず、人の家屋を焼かず、捕獲した生口は全て解放させた。

中統元年、世祖が即位し、中書省を立て、まず王文統を平章政事に、文謙を左丞に任じた。綱紀を立て、利害得失を講明し、国を安んじ民を利することを務めとした。詔令が出るや、天下に太平の望みがあった。しかし文統は元来猜忌心が強く、謀議の際にしばしば賛否を争い、積もって不和となり、文謙は急ぎ外任を求め、詔により本官のまま大名等路宣撫司事を行った。出発に際し、文統に言った、「民の困窮は久しく、況んや大旱の時にあたり、税賦を量り減じなければ、どうして来蘇の望みを慰めることができましょうか」と。文統は言った、「上は新たに即位され、国家の経費はただ税賦に仰いでいる。もしまた減損すれば、どうして供給できようか」と。文謙は言った、「百姓が足りれば、君は誰と不足することがあろうか!時が和ぎ年が豊かになるのを待って、取るのも遅くはありません」と。そこで常賦の十分の四、商酒税の十分の二を免除した。

二年春、朝見に来て、再び政府に留め置かれた。左右部を初めて立て、諸般の事務を講究施行し、大小事とも全て挙行されたが、文謙の力による所が多かった。三年、阿合馬が左右部を管轄し、財用を総理し、専ら奏請しようとして、中書省に報告せず、詔して廷臣に議させた。文謙は言った、「財用を分けて管轄することは、古よりこの理はありますが、中書が関与しないというのは、この理はありません。もし中書が問わなければ、天子が自ら臨まれるのですか」と。帝は言った、「仲謙の言う通りである」と。

至元元年、詔して文謙を中書左丞として西夏中興等路に行省させた。羌の習俗は元来鄙野で、事に統紀がなく、文謙はしょくの士で俘虜となっていた者五六人を得て、理め出して吏事を習わせ、十日一ヶ月の間に簿書に品式ができ、子弟も書を読むことを知るようになり、習俗が一変した。唐来渠・漢延渠の二渠を浚渫し、田十数万頃を灌漑し、人々はその利益を蒙った。

三年、朝廷に戻った。諸勢家が数千戸を数え、私奴として隷属させるべきだと主張し、議論は久しく決しなかった。文謙は乙未年の戸籍帳を基準とすべきだとし、奴隷で未だ籍に占められていない者は、勢家に帰属させてもよいが、その他の良民は奴隷とする理はない、と言った。議論は遂に決し、法として守られることとなった。五年、淄州の妖人胡王が衆を惑わし、事が発覚し、百余人を逮捕した。丞相安童が文謙の言葉を以て奏上した、「愚民は無知で、誑かされ誘われたのであり、その首悪を誅するだけで十分です」と。詔して直ちに文謙に命じてその獄を決断させ、ただ三人のみが棄市の刑に処せられ、残りは皆釈放された。

七年、大司農卿に任ぜられ、諸道に勧農司を立て、巡行して勧課すること、籍田を開き、先農先蠶の礼を行うことを奏上した。また竇默と共に国子学を立てることを請うた。詔して許衡を国子祭酒とし、貴冑の子弟を選んで教育させた。時に阿合馬が民間の鉄を拘束し、官が農器を鋳造し、価格を高くして民に配給すること、東平・大名に行戸部を創設し、紙幣を造り及び諸路の転運司を以て、政事に干済し民を害することを議したが、文謙は悉く帝の前で極論してこれを罷めさせた。十三年、御史中丞に転じた。阿合馬は憲臺がその奸を発覚することを慮り、諸道の按察司を罷めてこれを揺るがそうと奏上したが、文謙はその旧に復するよう奏上した。しかし自ら奸臣に忌まれることを知り、力を尽くして去職を求めた。折しも世祖が大明暦が年久しく次第に誤差が生じたとして、許衡らに新暦を作らせることを命じ、文謙に昭文館大学士を授け、太史院を管轄させ、その事を総理させた。十九年、枢密副使に任ぜられた。一年余りして、病により任上で薨じた。六十八歳。

文謙は早くから劉秉忠に従い、術数を深く究め、晚年に許衡と交わり、特に義理の学に精粋であった。人となりは剛直明察で簡重であり、凡そ上前に陳べることは、堯・舜の仁義の道でなかったことはない。数度権幸に逆らい、是非得失については、一切意に介さなかった。家にはただ蔵書数万巻を蔵するのみであった。特に人材を引薦することを己が任とし、当時の論評は益々これを称えた。累贈して推誠同徳佐運功臣・太師・開府儀同三司・上柱国を贈られ、追封して魏国公とし、諡して忠宣といった。

長子の晏は、御史中丞にまで仕え、贈られて陝西行省平章政事、封ぜられて魏国公、諡して文靖といった。

郝経

郝経は字を伯常といい、その先祖は潞州の人であったが、澤州の陵川に移り、代々儒学を家業とした。祖父の天挺には、元裕がかつて師事した。金の末年に、父の思温は河南の魯山に避難した。河南が乱れると、住民は窖に隠れたが、乱兵が火で煙を燻して、民は多く死に、郝経の母の許氏も死んだ。郝経は蜜を寒漬けの汁と混ぜ、母の歯をこじ開けて飲ませると、すぐに蘇生した。時に郝経は九歳で、人々は皆これを異とした。金が滅びると、順天に移った。家は貧しく、昼は薪や米を背負って生計を立て、夜は読書した。五年住み、守帥の張柔・賈輔に知られ、上客として招かれた。両家の蔵書は皆万巻に及び、郝経は広く読み、通じないものはなかった。燕・趙の間を往来し、元裕はしばしば彼に言った、「お前の容貌は祖父に似ており、才器は並々ならぬ、努めよ」と。

憲宗二年、世祖が皇弟として金蓮川に邸を開くと、郝経を召し、経国安民の道を諮問した。数十条の事を条上すると、大いに喜び、遂に王府に留めた。この時、宋と連年兵を交え、憲宗は蜀に入り、世祖に東師を総統するよう命じた。郝経は従って濮に至った。ちょうど宋国の奏議を得て献上する者がおり、その言うところは辺防を厳にし、衝要を守る、凡そ七道であった。そこで諸将に議を下すと、郝経は言った、「古、天下を一にする者は、力によらず徳による。彼は今、敗亡の兆しがなく、我は空国して出る。諸侯は内で窺い、小民は外で凋弊する。経はその危険を見るも、その利益を見ない。王は徳を修め恵みを布き、族を厚くし賢を簡び、遠人を綏懐し、諸道を制御し、盟を結び備えを整え、西師を待つがよい。上は天心に応じ、下は人望を繋ぎ、時に順って動けば、宋は図るに足らぬ」と。世祖は郝経を儒生とし、愕然として言った、「お前は張抜都と議したのか」と。郝経は答えて言った、「経は若くして張柔の家に舘したことがあり、その論議を聞いたことがある。これは経の臆説であって、張柔は知らない」と。七道議七千余言を進めた。そこで楊惟中を江淮荊湖南北等路宣撫使とし、郝経を副使とし、帰徳軍を率い、先ず江上に至り、恩信を宣布し、降附を納れさせようとした。惟中はひそかに汴に還ろうとしたが、郝経は言った、「私は公とともに南征の命を受け、汴に還る命を受けたとは聞かない」と。惟中は怒り、聞き入れなかった。郝経は麾下を率いて旌を揚げて南進すると、惟中は恐れて謝罪し、郝経とともに行った。

郝経は憲宗が蜀におり、師が久しく功なく、東師議を進めた。その概略は次のようである。

郝経は聞く、天下の事を未然に図れば則ち易く、天下の事を已然に救えば則ち難し。已然の中にまた未然の者あり、往く者を失わずして来る者を遂げしむるは、是れ尤も難しと。国家は一旅の衆を以て、朔漠に奮起し、斗極を斡旋して天下を図り、馬首の向く所、摧破せざるはなかった。金源を滅ぼし、西夏を併せ、荊・襄を蹂躙し、成都を克ち、大理を平げ、諸夷を轢き、四海を奄征し、天下の十八を有し、元魏・金源の故地を尽くして尚お多く、廓然として大なるに侔うものなし。ただ宋が下らず、混一できず、兵を連ね禍を構えること二十年を踰えた。何ぞ曩時に掇取する易くして、今日図惟する難きや。

そもそも天下を取るには、力で併せる可きものあり、術で図る可きものあり。力を以て併せれば則ち久しき可からず、久しければ則ち頓弊して振わず。術を以て図れば則ち急ぐ可からず、急げば則ち僥倖にして成り難し。故に漢・唐以来、攻取を樹立するは、或いは五六年、十年を踰える者なく、是を以て其の力弊せず、而して卒に大を保ち功を定む。晋の呉を取る、隋の陳を取るは、皆経営比佽すること十有余年、是を以て其の術成を得、而して卒に混一す。或いは久く或いは近く、要するに成功各々其の可きに当たり、妄りに為さざるのみ。

国家、極を建て統を開きて垂五十年、而して一に之を兵を以てす。遺黎残姓、游気驚魂、虔劉劘盪、殆ど殲尽せんと欲す。古より用兵、未だかくの如く久しく且つ多きはあらず、其の力安んぞ弊せざらんや。且つ兵を括り賦を率い、朝に令を下して夕に出師し、躬ら甲冑を擐ぎ、山川を跋履し、国を闔して大挙し、之を以て宋を伐ち混一を図る。志を以てすれば則ち鋭く、力を以てすれば則ち強く、土を以てすれば則ち大なり。而して其の術は未だ尽くさず。苟も諸国既に平ぎたる後、師を息め民を撫で、治を致し化を成し、法を創し制を立て、条綱を敷布し、上下井井として、撓まず紊れず、老成を任じて輔相と為し、英特を起して将帥と為し、賢能を選んで任使と為し、智計を鳩めて機衡と為し、賦を平らげて用を足し、農を屯して食を足し、内治既に挙がり、外禦亦備わる。其の服さざる有らば、姑く文誥を以てし、拒んで従わざれば、而して後隙を伺い釁を観て以て天伐を正す。東海より襄・鄧に至るまで、重兵数道、幟を聯ね武を接し、以て正兵と為す。漢中より大理に至るまで、軽兵捷出し、亢を批き脅に抵し、以て奇兵と為す。帥臣人を得、師は律を以て出で、九重の内に高拱して、而して海外截然たり。是れを為さずして、乃ち間歳を於て遽かに大挙を為し、上下震動し、兵連禍結し、危きに底安んず、是れ已然にして止む可からざる者なり。東師未だ出でざる、大王仁明なれば、則ち猶お未然の者有り、議せざる可けんや。

国家の用兵は、一に国俗を制と為し、古に師らず。師の衆寡、地の険易、敵の強弱を計らず、必ず合圍把矟し、禽獣の若く之を獵取す。聚まること丘山の如く、散ずること風雨の如く、迅かなること雷電の如く、捷かなること鷹鶻の如く、鞭弭の属する所、期を指し日を約し、万里にして忒せず、兵家の詭道を得て、奇を用いるに長ず。澮河の戦より、勝に乗じて燕・雲を下し、遂に兵を遺して去り、取るに意なきに似たり。既に回鶻を破り、西夏を滅ぼし、乃ち兵を関陝に下して以て金師を敗り、然る後に深く之を取る所以を知る、是れ奇を用いるに長ずるなり。既にして斡腹の挙有り、金・房より潼関の背を繞り出でて以て汴を攻む。擣虚の計有り、西和より径に石泉・威・茂に入りて以て蜀を取る。示遠の謀有り、臨洮・吐番より西南を穿徹して以て大理を平ぐ。皆奇を用いるなり。夫れ其の無備を攻め、其の不意に出で、而る後に奇を用いる可し。豈に百万の衆を連ね、首尾万余里、六飛雷動し、乗輿親しく出で、天下を竭くし、四海を倒し、宇宙を騰擲し、天地を軒豁し、大は遐徼の土に極まり、細は委巷の民に窮まり、其の鐘を撞きて其の耳を掩い、其の臍を囓みて其の目を蔽う、かくの如く奇を用いることあらんや。是れ千金の璧を執りて瓦石に投ずるなり。

其の初め奇を以て勝つや、関隴・江淮の北、平原曠野の多きに、而して吾は騎に長ず、故に向う所禦う能わず。兵鋒新鋭、民物稠夥、擁して之を擠せば、郡邑自ら潰れ、而して吾は攻に長ず、故に撃つ所破らざる無く、是を以て其の奇を用いて驟勝す。今、大山深谷を以て限り、重険荐阻を以て阨し、危途繚径を以て迂す。我の険に乗じて奇を用うれば則ち難く、彼の険に因りて奇を制すれば則ち易し。況んや客主の勢懸隔し、蘊蓄の情露顕し、虜掠を以て資と為す無く、俘獲を以て役に備うる無く、有限の力を以て無限の険を冒す。奇謀祕略有りと雖も、用うる所無し。力用うる所無きは無力と同く、勇施す所無きは不勇と同く、計行う能わざるは無計と同し。泰山卵を圧すの勢、河海爇を濯ぐの挙、擁遏頓滞し、盤桓して進むを得ず、所謂強弩の末は魯縞を射ること能わざる者なり。

今の計略としては、すでに生じた過失を救い、未だ生じざる変事を防ぐに過ぎない。西方の軍勢が既に構えられ、急には解くことができず、二頭の虎が相闘うが如く、急に岩阻の中に入り、これを見る者は辟易して暇なく、いずくんぞ理をもって説き、これをして逡巡して自ら退かしめんや。彼はその危険を知り、国を尽くして命を併せ、我は必ずこれを取らんとし、自ら悔いる由なし。兵連ね禍結び、いつかや已まん。

殿下は人を遣わして行在所に命を稟じ、大軍を境に圧し、使を遣わして宋を諭し、大信を示し、名を降して幣を進め、地を割き質を納めしむべし。彼は必ず命を受け、姑くこれと和し、兵を偃げ民を息め、以て我が力を全うし、後挙を図るは、天地人神の福なり。命を稟じて従わざれば、殿下の義尽き、而る後に我が師を進め、重ねて慎み詳しく審らかにし、躁軽飄忽たることなく、前定の謀と為し、而して一にこれを正大にし、西師を仮りて奇と為し、我が正を用いよ。師の南轅するに比し、先ず恩信を示し、その文移を申し、禍福を諭し、殿下の仁にして殺さず、攻戦を好み土地を闢かず、已むを得ずして兵を用うるの意を知らしめよ。誠意昭著に、恩信流行し、然る後に精勇を閲実し、別に一軍と為し、帳下の卒と為し、老成にして兵を知る者を挙げて将帥と為し、更直して宿衛し、以て不虞に備えよ。その余の師衆は、各々侯伯に畀え、我が府の大官元臣をして分師して総統せしめ、戦攻の卒と為せ。その新たに入りし部曲は、瞢然として兵を知らず、名は兵と為すも、実は役徒たる者は、辺に沿いて進築せしめ、敵の郡邑と犬牙相制し、屯戍の卒と為せ。単弱を推択し、逃匿を究竟し、部伍を編葺し、聞望重臣をしてこれが撫育を為さしめ、近裏の故屯を総押し、鎮守の卒と為せ。掣肘の計を行わしめず、妄意の徒を屏息せしめ、内外の備禦に缺綻なからしめ、然る後に節を制して進まん。既にその境に入り、陳を敦くし列を固くし、緩やかにこれを行え。彼は守に善くして我は攻めず、彼は城壁を恃みて戦わずして我を老いらしめんとし、我は長囲を合して攻めずして彼を困らしめ、我は我が長所を用い、彼はその長所を用いる能わず。出入便利の地を選びて久駐の基と為し、必取の勢を示せ。廬舎を焚くことなく、人民を傷つけることなく、その生路を開き、以てその心を携え、亟に肄して疲れしめ、多方に誤らせ、以てその力を弊わさん。

兵勢既に振い、蘊蓄既に見わるれば、則ち軽兵を以て両淮を掠め、その樵採を杜ぎてその糧路を遏え、血脈を断絶せしめ、各々孤城を守り、取るに足らざるを示せ。即ち大兵を進め、直ちに江に抵り、江に沿いて上下に列屯万竈し、号令明肅、部曲厳整、首尾締構し、各々舟楫を具え、声言して径渡せんとす。彼は必ず震疊し、自ら変故を起こさん。蓋し彼の精鋭は尽く両淮に在り、江面闊越し、その巖阻を恃み、兵は皆柔脆にして、用兵以来未だ一戦せず、いずくんぞ我が百戦の鋭気に当たらんや。一処崩壊すれば、則ち風望みて皆潰え、肱髀続かず、外内限絶し、勇者は用いる能わずして怯者は敵する能わず、背者は返る能わずして面者は禦ぐ能わず、水陸相擠し、必ず我が為に乗ぜられん。これは兵家の所謂く堅きを避けて瑕を攻め、実を避けて虚を撃つものなり。

もし兵力を存養し、漸次に進み、以て万全を図らんと欲すれば、則ち先ず荊にして後淮、先ず淮にして後江とせよ。彼の素論は、「荊・襄有れば則ち以て淮甸を保つべく、淮甸有れば則ち以て江南を保つべし」と謂う。先んずるに、我嘗て荊・襄有り、淮甸有り、上流有り、皆自らこれを失えり。今まさに彼の保つ所に従いて以て我が攻めと為し、一軍を命じて襄・鄧より出で、直ちに漢水を渡り、舟を造りて梁と為し、水陸師を済さしめよ。軽兵を以て襄陽を掇ぎ、その糧路を絶ち、重兵は皆漢陽に趨り、その不意に出で、以て江の隙を伺え。然らずんば、則ち重兵を襄陽に臨ましめ、軽兵捷出し、均・房を穿徹し、遠く帰・峡を叩き、以て西師に応ぜよ。もし交・広・施・黔の選鋒透出し、夔門守らず、大勢順流すれば、即ち兵を併せて大出し、荊・郢を摧拉し、湘・潭を横潰し、以て掎角を成せ。一軍は寿春より出で、その鋭気に乗じ、併せて荊山を取り、淮を駕して梁と為し、以て南北を通ぜしめよ。軽兵は寿春を抄し、而して重兵は鍾離・合淝の間に支布し、湖濼を掇拾し、関隘を奪取し、濡須に拠り、皖口を塞ぎ、南は舒・和に入り、西は蘄・黄に及び、徜徉恣肆し、以て江口を覗わん。烏江・采石に広く戍邏を布き、江渡の険易を偵り、備禦の疏密を測り、徐々にこれが謀を為し、而る後に師を進めよ。所謂く両淮の腹心を潰し、長江の襟要を抉るものなり。一軍は維揚より出で、楚に連なり蟠亘し、長淮を蹈跨し、我が強対に隣す。通・泰・海門、揚子江面は、密かに彼の京畿に近く、必ず皆備禦堅厚ならん。若し遽かに攻撃せば、則ち必ず老師費財せん。まさに重兵を以て維揚に臨ましめ、合して長囲と為し、必取を示せ。而して軽兵を以て通・泰より出で、直ちに海門・瓜歩・金山・柴墟河口を塞ぎ、游騎上下し、江を吞み海を吸い、併せて威信を著し、月時を以て遅らせ、以てその変を観よ。これは所謂く緩を図り持久の勢いなり。三道並び出で、東西連衡し、殿下或いは一軍に処り、これが節制を為し、我が兵力をして常に余裕有らしめよ。かくの如くすれば、則ち未来の変或いは弭ぎ、已然の失一日或いは救われん。

議者は必ず曰く、三道並び進まば、則ち兵分かれて勢弱く、力を併せて一向にせば、則ち我に当たるもの莫し、と。曾て知らず、国を取るの術は地を争うの術と異なり、力を併せて一向にするは、地を争うの術なり。諸道並び進むは、国を取るの術なり。昔の混一する者は、皆かくの如くなり。晋の呉を取るや、則ち六道進み、隋の陳を取るや、則ち九道進み、宋の南唐に対するや、則ち三面皆進む。一旅の衆を以て能く国を克つことを聞かず、或いはこれ有りと雖も、僥幸の挙なり。豈に堂堂たる大國、師徒百万にして、僥幸の挙を為さんや。況んや彼は江を渡り国を立てること百有余年、紀綱修明、風俗完厚、君臣輯睦し、内に禍釁無く、東西南北輪広万里、亦未だ小とすべからず。敗盟以来、日に軍実を討ちてこれを申警せざる日無く、彷徨百折し、我が強対に当たり、未だ大敗せず、弱しと謂うべからず。豈に蔑視し、秦に人無しと謂い、直ちに一軍を以て倖いに勝ちを取らんと欲せんや。秦王、王翦に伐荊を問うに、翦曰く「六十万ならざれば不可なり」。秦王曰く「将軍老いたり」。李信に命じて二十万を将いて往かしむるも、克たず、卒に翦に兵六十万を畀えて而る後楚を挙ぐ。蓋し衆は必ず用いる所有り、事勢は懸料して倖いに取るべからざる者有り。故に王者の挙は必ず万全、その倖挙する者は、崛起する無頼の人なり。

嗚呼!西方の軍勢が出動して、既に兵士交代の時期(瓜戍)に及びながら、未だ功績を挙げていない。国家の全盛の力は東方(東左)にある。もしもまっすぐに進撃して振るい立たせ、鋭気をもって功を図り、一挙に金陵を陥落させ、臨安を攻略することもできよう。もし兵力が消耗疲弊し、戦役が遷延し、進退もままならず、かえって敵に付け込まれるようなことがあれば、後悔して及ぶだろうか!固より慎重に詳細に審査し、計略をもって図るべきである。前に述べたように、我が力を全うするのが、いわゆる坐勝(戦わずして勝つ)である。そうは言っても、なお憂うべきことがある。国家が諸国を攻略するにあたり、飄忽として凌厲(すばやく激しく)であり、本来は力で勝ってきた。今、理由もなく大挙して出動し、もしもまた措置を誤り、英雄の気勢を挫き、天下の人心を服従させる術がなければ、悪を熟し奸を抱く輩が隙を窺い、間隙に付け込むことになり、国内が空虚となって、動揺させられやすい。臣の愚見が東路軍について諄々と説き、反覆して論じるのは、既に起こったことではなく、未然のことを問題としているからである。

そこで兵を集めて長江を渡り、鄂州を包囲した。憲宗の崩御を聞き、諸将を召集して協議したところ、郝経は再び進言した。

易経に言う。「進退存亡を知りてその正を失わざる者は、それ聖人にのみあらんか!」殿下は聡明睿知にして、臨むに足る。発強剛毅にして、断ずるに足る。進退存亡の正しさは、既に久しくご存知である。かつて沙陀におられた時、臣に命じて言われた。「時は未だならず」と。また言われた。「時という一字は最も整理すべきである」と。また言われた。「行うべき時は、お前が自ら知るであろう」と。大いなるかな王の言葉、「時乗六龍」(時機に乗じて六龍を駆る)の道を、既に久しくご存知である。出師以来、進んで退かず、臣には理解できないところがある。故に真定において、曹・濮において、唐・鄧において、しきりに言上したが、ご許可を得られなかった。今、事態が切迫したので、再び狂言を進言する。

国家が金を平定して以来、ただ進取を務め、時を養い晦ます(力を蓄える)ことをせず、師老いて財を費やし、ついに成功せず、三十年になる。蒙哥汗が即位し、まさに静謐を図るために安静にすべき時に、突然理由もなく大挙し、進んで退かず、王に東路軍を委ねたが、進むべきでないのに急いで進んだ。命令があるので自ら安逸を貪れず、汝南に至り、凶報(憲宗崩御)を聞いたならば、即ち使者を遣わして諸将に遍く告げ、それぞれ順次退却させ、宋と和好を修め、大事(帝位継承)を定めるべきであり、再び進むべきでないのに急いで進んだ。会師の期日があるので、江辺で合流し、使者を遣わして宋を諭し、兵を止めて民を安んじ、軍を整えて帰還すべきであり、再び進むべきでないのにまた進んだ。淮河を渡るべきでなかったのに、どうして長江を渡るべきであろうか。妄りに進むべきでなかったのに、どうして城を攻めるべきであろうか。もし機会を逃すべからず、敵を放つべからずというならば、既に長江を渡った以上、中止できぬならば、便乗して虚を衝き鄂州を奪い、兵を分けて四方に出撃し、直ちに臨安に迫り、疾雷耳を掩うに暇あらず(電光石火)の勢いで臨めば、宋もまた攻略できよう。もしそれができないならば、難きを知って退き、金の兀朮のようであっても失策ではない。師は進むべきでないのに進み、江は渡るべきでないのに渡り、城は攻めるべきでないのに攻め、速やかに退くべき時に退かず、速やかに進むべき時に進まず、戦役が遷延し、長江のほとりでぐずぐずし、実情が露見し勢いが屈し、天下の兵力を挙げても一城を取れず、我は尽き彼は満ちる、さらに何を待とうというのか。しかも諸軍の疫病による罹患者は既に十の四、五に及び、さらに月日を引き延ばせば、冬春の交わりには疫病が必ず大流行し、帰還したくてもできなくなる恐れがある。

彼らは上流に憂いがなく、呂文德は既に兵を併せて防衛し、我が国の欠陥を知って、闘志は自ずから倍加している。両淮の兵は全て白鷺に集結し、江西の兵は全て隆興に集結し、嶺広の兵は全て長沙に集結し、閩・越の沿海の巨船大艦が順次到着し、隙を窺って進撃し、もし江や黄の渡し場で遮断し、大城関の口で邀撃し、漢東の石門を塞ぎ、郢・復の湖沼地帯を限界とすれば、我が軍はどこに帰ろうか。やむを得ず江・浙に突入し、その心腹を衝くほかない。聞くところによると、臨安・海門には既に龍舟が準備されており、既に移動している。金山に戻り着き、命を併せて脱出を求めるならば、韓世忠のような人物がいないと言えようか。しかも鄂州と漢陽は大別山を分かち据え、中に巨大な湖沼を挟み、活城と号される。肉薄して骨を並べてこれを抜くとしても、彼らは破れた壁の孤城を捨てて去り、流れを遡れば洞庭湖に入り、荊・襄を保ち、流れに沿って下れば精兵健櫓が滸・黄を突破して過ぎ、防ぎ止めるのは容易でない。それもまた徒らに人命を費やすだけで、我々は何を得られようか。小さな一城、勝っても武勇を示さず、勝たねば大いに威望を損ない、さらに何を待とうというのか。

とはいえ、王の本心としては、長江を渡りたくなかった。既に渡った後は、城を攻めたくなかった。既に攻城した後は、命を併せて戦いたくなかった。家屋を焼かず、人民を傷つけず、その衣冠を変えず、その墳墓を毀たず、三百里外では侵掠させなかった。ある者が臨安に直行するよう勧めると、言われた。「その民人は稠密である。もし行けば、殺戮しなくとも踏み躙られるであろう。我が忍ぶところではない。もし天が我に与えるならば、人を殺す必要はない。もし天が与えぬならば、人を殺して何の益があろうか」と。そして結局行かなかった。諸将は士人(宋の文官・軍人)を非難し、役に立たないと言い、人を殺さないから城が取れないと言った。王は言われた。「あの城を守っているのは、ただ一人の士人賈制置(賈似道)である。お前たち十万の衆が勝てず、数ヶ月人を殺しても抜けず、それはお前たちの罪であって、どうして士人の罪であろうか」と。ますます殺人を禁じられた。巋然たる一つの仁徳は天に通じ、早くから帰還の志があったが、遂行できなかっただけである。しかし今、事態は切迫しており、断行せざるを得ない。

宋人はちょうど大敵を恐れ、自救の軍は集結しているものの、我が方を謀る余裕はない。ただ我が国内は空虚であり、塔察国王と李行省(李璮)は肱髀相依(密接な関係)で、背中と脇腹にいる。西域の諸胡は関隴を窺い、旭烈大王と隔絶している。民を苦しめる諸奸臣はそれぞれ両端を持ち、誰が立つか観望し、神器を覬覦し、指を染め涎を垂らさぬ者はない。一人狡猾な者がいれば、あるいは戎心(謀反の心)を起こし、先んじて挙事すれば、腹背敵を受けて大事は去る。しかも阿里不哥は既に赦令を行い、脱里赤を断事官・行尚書省に任じ、燕都を占拠し、図籍を押さえ、諸道に号令し、皇帝の事を行っている。たとえ大王が平素から人望があり、重兵を握っているとしても、金の世宗と海陵王(完顔亮)の事をただ見ないのか。もし彼が果決で、遺詔を受けたと称し、すぐに位号を正し、中原に詔を下し、長江の上で赦を行えば、帰還できようか。

先日、張仲一と共に新月城を視察するよう命じられた。西南隅から東北隅に至るまで、万人敵(防御施設)があり、上を大車が並行でき、槎丳楼を並べ、構造が重複しており、必ずや攻め落とせない。ただ和議を許して帰還するのみである。断然として班師し、速やかに大計を定め、未然に禍を消すべきである。まず精鋭の兵に命じて江面を遮断させ、宋と和議を講じ、淮南・漢上・梓夔の両路を割譲し、疆界と歳幣を定める。輜重を置き、軽騎で帰還し、淮河を渡って駅伝を利用し、直ちに燕都に至れば、天から降るが如く、彼らの奸謀僭志は氷解する。一軍を遣わして蒙哥汗の霊輿を迎え、皇帝の璽を収める。使者を遣わして旭烈・阿里不哥・摩哥及び諸王駙馬を召集し、和林で会喪する。汴京・京兆・成都・西涼・東平・西京・北京に官吏を派遣し、慰撫安輯し、真金太子を召して燕都を鎮守させ、形勢を示す。そうすれば大宝は帰する所を得て、社稷は安泰となる。

ちょうど宋の守帥賈似道もまた密使を遣わして和議を請うたので、そこで班師した。

翌年、世祖が即位し、郝経を翰林侍読学士とし、金虎符を佩用させ、国信使として宋に使いさせ、即位を告げさせ、かつ和議を定めさせ、なお辺境沿いの諸将に掠奪を禁ずるよう勅した。郝経が入朝して辞すと、葡萄酒を賜り、詔して言われた。「朕は即位したばかりで、諸事草創である。卿は遠行するにあたり、朕を輔けるべきことを、速やかに聞かせよ」。郝経は便宜十六事を奏上した。いずれも立政の大要であり、文辞が多いので載せない。

時に郝経は重き名望あり、平章王文統これを忌む。既に行かんとす、文統ひそかに李璮に属して潜師して宋を侵さしめ、手を借りて経を害せんと欲す。経、済南に至る、璮、書を以て経を止む、経、璮の書を朝廷に聞かせて行く。宋、淮安にて璮の軍を破る、経、宿州に至り、副使劉仁傑・参議高翿を遣わして入国の期日を請わしむ、報いず。宰相及び淮帥李庭芝に書を遺わす、庭芝復書して果たして経を疑い、而して賈似道方に敵を却けたるを功と為し、経の至りて謀の泄るるを恐れ、竟に経を真州に舘す。経乃ち表を宋主に上りて曰く、「願わくは魯連の義に附し、難を排し紛を解かん、豈に知らんや唐儉の徒の如く、兵を款して国を誤らんとは。」又た数たび宋主及び宰執に上書し、戦和の利害を極めて陳べ、且つ入見及び帰国を請う、皆報いず。駅吏、棘垣し戸を鑰し、昼夜守邏し、以て経を動かさんと欲す、経屈せず。経、下を待つこと素より厳しく、又久しく羈困す、下に怨む者多し。経諭して曰く、「嚮に命を受け進まず、我が罪なり。一たび宋境に入り、死生進退、其の彼に在るに聴く、我終に身を屈し命を辱しむる能わず。汝等不幸、宜しく忍び以て之を待つべし、我観るに宋の祚将に久しからず。」居ること七年、従者怒鬭し、死者数人、経独り六人と別舘に処る。又た九年、丞相伯顔詔を奉じて南伐し、帝、礼部尚書中都海牙及び経の弟行樞密院都事郝庸を遣わし宋に入り、行人を執るの罪を問わしむ、宋懼れ、総管段佑を遣わし礼を以て経を送り帰らしむ。賈似道の謀既に泄れ、尋いで亦た竄死す。経帰りて道中病み、帝、枢密院及び尚医近侍を勅して迎労せしめ、過ぐる所の父老瞻望して涕を流す。明年夏、闕に至り、燕を錫うること大庭に、政事を以て咨り、賞賚差あり。秋七月、卒す、年五十三、官護喪して還葬し、諡して文忠と曰う。明年、宋平ぐ。

経、人と為り気節を尚び、学を為すに務めて用有るを務む。及んで留められ、言を託して後世に垂れんと思い、『続漢書かんじょごかんじょ』・『易春秋外伝』・『太極演』・『原古録』・『通鑑書法』・『玉衡貞観』等の書及び文集を撰す、凡そ数百巻。其の文豊蔚豪宕、議論を善くし、詩多く奇崛なり。宋に拘わるること十六年、従者皆学に通ず。書佐苟宗道、後に官至りて国子祭酒。経還るの歳、汴中の民、金明池に雁を射て、繫ぐ帛を得、書せる詩に云く、「霜落ち風高く恣に如くす、帰期回首すること是れ春初。上林の天子弓繳を援けば、窮海の纍臣帛書有り。」後に題して曰く、「至元五年九月一日雁を放つ、獲る者殺す勿れ、国信大使郝経真州忠勇軍営新舘に書す。」其の忠誠此の如し。

二弟彝・庸、皆名有り。彝は字は仲常、隠居して以て寿を終え、庸は字は季常、終わりに潁州守。子采麟、亦た賢く、家を起して林州を知り、仕えて山南江北道粛政廉訪使に至る。