董文炳〔士元 士選〕
董文炳、字は彦明、董俊の長子である。父が没した時、年わずか十六歳、諸幼弟を率いて母の李夫人に仕えた。夫人は賢行あり、家を治めるに厳しく、子を教えるに篤かった。文炳は侍其先生に師事し、機敏で記憶誦読に優れ、幼少より儼然として成人の如くであった。
歳は乙未、父の任により藁城県令となる。同僚は皆父の時代の人で、文炳の年少を軽んじ、吏もまた彼を畏れなかった。文炳は訴訟の裁断に明るく、恩をもって威を補った。間もなく、同僚は手を束ねて彼に従い、吏は案牘を抱えて署名を求め、仰ぎ見ることを敢えず、里人もまた大いに感化服従した。県は貧しく、旱魃と蝗害が重なり、しかも徴税収奪は日々暴虐で、民は生きるに聊かならなかった。文炳は私穀数千石を県に与え、県は民を寛容にすることができた。前任の県令は軍興による費用不足のため、人から借金し、貸し主は利息を年ごとに倍増させ、県は民の蚕糸と麦でこれを償った。文炳は言った。「民は困窮している。私が県令として、義としてこれを見るに忍びない。私が代わって償おう。」そこで田畑と家屋若干畝を計算して価値を貸し主に与え、さらに県の閑田を籍に登録して貧民に生業とさせ、耕作させた。これにより流離の民は次第に帰還し、数年で民の食糧は充足した。朝廷が初めて戸籍調査を行い、実数を隠す者は誅殺し、その家を没収すると命じた。文炳は民に口数を集めて居住させ、戸数を少なくした。人々は不可と為したが、文炳は言った。「民のために罪を得ることは、私の甘んじるところである。」民にもまた喜ばない者がいたが、文炳は言った。「後で私に感謝するだろう。」これにより賦税の取り立ては大いに減り、民は皆豊かで完備した。隣県の民で訴訟して公正な裁きを得られない者は、皆文炳のもとに赴いて決裁を求めた。文炳がかつて大府に謁見した時、隣県の人が集まってこれを見て言った。「私はしばしば董令のことを聞くが、董令もまた人であるのに、どうしてかくも神のように明察なのか。」時に府は飽くことなく要求し、文炳は抑えて与えなかった。ある者が府に讒言し、府は中傷して害を加えようとした。文炳は言った。「私は終に民を剥いで利を求めることはできない。」ただちに官を棄てて去った。
世祖が潜藩にあった時、癸丑の秋、憲宗の命を受けて南詔を征討した。文炳は義士四十六騎を率いて従軍し、人馬は道中で死に尽きんばかりであった。吐番に至った時、従える者は二人のみとなり、その二人は文炳を支えて徒歩で行き、道中を躊躇し、死んだ馬の肉を取って食いつなぎ、一日に三二十里も行けなかったが、志はますます奮い立ち、必ず軍に至らんと期した。ちょうど使者が通りかかり、文炳に遇い、その様子を帰って報告した。時に文炳の弟の文忠は先に世祖の軍に従っており、世祖はただちに文忠に命じ、尚廏の五頭の馬を解かせて乾糧を載せ、文炳を迎えさせた。到着すると、世祖はその忠誠を壮とし、かつその労苦を憐れみ、賜与は甚だ厚かった。任用されること皆旨に叶い、これにより日々親しく重用され事を執った。
己未の秋、世祖は宋を伐ち、淮西の台山寨に至り、文炳に命じてこれを取らせた。文炳は馳せて寨の下に至り、禍福を説いたが応じない。文炳は冑を脱ぎ捨てて呼ばわった。「私が兵威を極めないのは、お前たちを生かそうとするためだ。速やかに降らなければ、今この寨を屠るぞ。」守る者は恐れ、ついに降伏した。九月、軍は陽羅堡に駐屯した。宋兵は岸に堡を築き、船を江中に並べ、軍容は甚だ盛んであった。文炳は世祖に請うて言った。「長江は天険であり、宋が国として恃むところです。必ず死守する勢いであり、その気勢を奪わなければなりません。臣に試みさせてください。」ただちに敢死の士数十百人を率いてその前に当たり、弟の文用・文忠を率い、艨艟に乗り鼓櫂して疾駆し、叫呼して奮い立った。鋒が交わると、文炳は衆を指揮して岸に向かって搏ち、宋軍は大敗した。文用に軽舟で捷報を伝えさせた。世祖はちょうど香炉峯に駐在しており、馬を策って下山し戦勝の様子を尋ねると、鞍に手をかけて立ち上がり、鞭を竪げて仰ぎ指して言った。「天意である。」かつて他の軍に命じて甲を解かせず、明日城を囲むべしとした。江を渡り終えると、憲宗の崩御に会った。閏十一月、軍を返した。
璮が誅殺されると、山東はなお平定されず、そこで文炳を山東東路経略使とし、親軍を率いて行かせた。金銀符五十を出し、功ある者に与えることを許した。閏九月、文炳は益都に至り、兵を外に留め、数騎の従者とともに衣冠を整えて入城した。府に居を構え、警衛を設けず、璮の旧将吏を召し庭に立たせて言った。「璮は狂賊であり、お前たちを誤らせた。璮はすでに誅殺された。お前たちは皆王の民である。天子は至仁至聖であり、経略使を遣わしてお前たちを慰撫する。互いに安んじて恐れるな。経略使は便宜を以て将吏を除任擬定する権限がある。お前たちは努めて金銀符を得よ。経略使は上命を妨げて功ある者に与えないことはしない。」配下の者は大いに喜び、山東は安んじた。
七年、山東路統軍副使に改め、沂州を治めた。沂は宋と境を接し、鎮兵は内郡の糧秣輸送に頼っていた。詔があり、管轄区域で和糴を行えとのことだった。文炳は州県の移文を収めるよう命じた。衆は詔に違うと諫めたが、文炳は言った。「ただ止めるだけだ。」そこで使者を入れて奏上し、大略次のように言った。「敵国と接境し、我が虚実を知られる、これが一つの不可。辺境の民は供給に甚だ労苦し、この役で重く苦しむ、これが二つの不可。我が民を困窮させて来る者を恐れさせる、これが三つの不可。」帝は大いに悟り、これを罷めた。九年、枢密院判官に遷り、淮西で行院事を執った。正陽に両城を築き、両城は淮を挟んで相望み、襄陽を牽制し宋の腹心を衝くものとした。
十年、参知政事に拝された。夏、長雨が降り、水が漲り、宋の淮西制置使夏貴が舟師十万を率いて攻めて来た。矢石が雨のように降り注ぐ中、文炳は城に登ってこれを防いだ。ある夜、夏貴は去ってまた来襲し、飛び来る矢が文炳の左腕を貫き、脇腹に突き刺さった。文炳は矢を抜き取って左右の者に渡し、四十余りの矢を放った。箙の中の矢が尽きると、左右の者を顧みて矢を求め、さらに十余りを放ったが、矢が続かず、力も尽きて、弓を引き絞ることができず、遂に気を失ってほとんど危うくなった。翌日、水が外郭に入り込んだ。文炳は士卒を指揮して避けようとしたが、夏貴がこれに乗じ、軍を押しつけて陣を敷いた。文炳は創の病が甚だしく、子の士選が代わって戦うことを請うた。文炳はその志を壮として遣わし、また自ら起き上がって創を包み、剣を手に取って督戦した。士選が戈で夏貴の将を打ち倒したが、死なず、これを捕らえて献上した。夏貴は遂に去り、再び来襲することはなかった。
この年、大軍を挙げて宋を伐つこととなり、丞相伯顔は襄陽より東下し、宋人と陽羅堡で戦った。文炳は九月に正陽を発ち、十一年正月に安慶で伯顔と合流した。安慶の守将范文虎は城を挙げて降った。文炳は伯顔に請うて言った、「大軍は既に陽羅堡で疲弊しております。我が軍が先鋒を務めるべきです」。伯顔はこれを許した。宋の都督賈似道が防ぎに来て、軍を蕪湖に布陣させたが、似道は軍を棄てて逃走した。次に当塗に至ると、文炳はまた伯顔に言った、「采石は長江の南に当たり、和州と対峙しております。これを取らねば、必ず後顧の憂いがあります」。遂にこれを攻撃し、知州事王喜を降した。
三月、詔があり、時節が暑熱に向かうことを以て、伯顔の軍に建康に駐屯し、文炳の軍に鎮江に駐屯するよう命じた。時に揚州・真州は堅守して下らず、常州・蘇州は既に降ったがまた叛いた。張世傑・孫虎臣は真州・揚州の兵と誓って死戦を約し、真州・揚州の兵は戦う毎に敗れ、出撃しようとしなかった。世傑らは大艦万艘を並べ、焦山下の江中に碇を下ろし、精鋭の兵卒を前に置いた。文炳は自らこれに突入し、士選を別の船に乗せた。弟の子の士表が従うことを請うた。文炳は顧みて言った、「我が弟にはお前ただ一人の子である。もし私と士選が戻らぬことがあっても、士元・士秀はまだ敵を殺すに足る。お前を行かせるには忍びない」。士表が固く請うたので、遂に許した。文炳は輪船に乗り、大将の旗鼓を立て、士選・士表の船がその両翼を護り、大声で叫んで陣を突き、諸将が続いて進んだ。飛び交う矢が日を蔽った。戦いが酣になると、短兵相接し、宋兵もまた死に物狂いで戦い、声は天地を震わせ、横たわる屍と捨てられた武器で、江水は流れを止めた。寅の刻から午の刻まで戦い、宋軍は大敗し、世傑は逃走した。文炳は夾灘まで追い及んだ。世傑は潰走した兵卒を収めて再び戦ったが、またこれを破り、遂に東の方、海へと逃げ去った。文炳の船は小さく、海に入ることができず、夜になってようやく帰還した。甲士一万余人を捕虜としたが、皆これを釈放して殺さず、戦船七百艘を獲た。宋の力はここに至って遂に尽きた。
十月、諸軍は三道に分かれて進軍し、文炳は左軍に属し、長江に沿って海を併せて臨安へと向かった。先に、江陰軍僉判の李世脩が降伏を欲しながら果たせずにいた。文炳が檄を以て諭すと、世脩は城を挙げて来附した。文炳は彼に本軍安撫使を権(臨時に)行うことを命じた。通過する所の民は兵乱を知らず、生口(捕虜)を獲るごとに、皆これを釈放して帰し、敢えて匿う者はなかった。威信が先んじて布かれると、皆旗を見て服した。張瑄は数千の兵を擁し、海を背にして横行していた。文炳は招討使の王世強及び士選を遣わしてこれを降伏させた。士選は単舸で張瑄の所に至り、威徳を以て諭すと、張瑄は降伏し、海船五百隻を得た。
伯顔は文炳に命じて城に入り、宋の官府を廃止し、その諸軍を解散させ、庫蔵を封じ、礼楽器及び諸々の図籍を収めさせた。文炳は宋主の諸璽符を取って伯顔に献上した。伯顔が宋主を入朝させると、詔があり、事を留めて一切文炳に委ねた。豪猾を禁じ制し、士女を慰撫し、宋の民は主君が代わったことを知らなかった。時に翰林学士の李槃が詔を奉じて宋の士人を招くため臨安に至った。文炳は彼に言った、「国は滅ぼすことができても、歴史は失われてはならない。宋の十六主は、天下を有すること三百余年、その太史の記す所は全て史館にある。宜しく悉く収めて典礼に備えるべきである」。そこで宋史及び諸注記五千余冊を得て、国史院に帰した。宋の宗室である福王与芮が京師(大都)に赴き、重宝を以て遍く諸貴人に贈ったが、文炳のみがこれを退けて受け取らなかった。後に官が与芮の家を没収して記録した時、宝を受け取った者の名簿を具にしたが、ただ文炳の名はなかった。伯顔が朝廷に入って奏上して言った、「臣らは天威を奉じて宋を平定しました。宋は既に平定されましたが、民を懐け安んじ集める功績は、董文炳が最も多いです」。帝(世祖)は言った、「文炳は我が旧臣であり、忠勤は朕が平素より知っている」。そこで資徳大夫・中書左丞に拝した。
時に張世傑が吉王昰を奉じて台州に拠り、また閩中も宋のために守られていた。勅命により文炳は進兵し、通過する所で士卒と馬に田畑の麦を踏みつけることを禁じ、言った、「倉にあるものは我が既に食し、野にあるものを汝らがまた踏みつけるならば、新たに帰附した民はどうして命を繋ぐことができようか」。これによって南人はこれを感じ、兵を以て相向かうに忍びなかった。台州に至ると、世傑は逃げ去った。諸将は先に州民を捕虜にしていた。文炳は命令を下して言った、「台州の民は我に最初に順効した。我が暇なくして有することができなかった故に、世傑がこれを占拠したのである。その民に何の罪があろうか。敢えて捕虜を釈放しない者は、軍法に論ずる」。免れることのできた者は数万口に及んだ。温州に至ると、温州は未だ下らなかった。命令して言った、「子女を取るなかれ、民の所有を掠奪するなかれ」。衆は「諾」と答えた。その守将は城中に火を放って逃走した。文炳は急いで火を消すことを命じ、その将を追いかけて捕らえ、民を残害した罪を数え上げ、斬って衆に示した。嶺を越えると、閩人は老いた者を扶けて来迎え、漳州・泉州・建寧・邵武の諸郡は皆、款(降伏の意)を送って来附した。凡そ州若干、県若干、戸口若干を得た。閩人は文炳の徳を最も深く感じ、廟を建ててこれを祀った。
十四年、帝は上都におり、丁度北辺に警報があり、親征して北伐しようとした。正月、急ぎ文炳を召し寄せた。四月、文炳は臨安より至った。到着するまで、帝は日々その来る時期を問うた。到着すると、即座に召し入れた。文炳は拝礼して言った、「今や南方は既に平定され、臣は効力する所がありません。北辺の事に従うことを請います」。帝は言った、「朕が卿を召したのは、その意はここにあるのではない。小輩が兵を盗み、朕自らこれを鎮撫する。山以南は国の根本である。全てを卿に託す。もし不測の事があれば、便宜を以て処置して奏聞せよ。中書省・枢密院の事は大小を問わず、卿に諮って行え。既に主たる者に勅した。卿は努めよ」。文炳は避けて辞謝したが、許されなかった。そこで奏上して言った、「臣が臨安におりました時、阿里伯が詔を奉じて宋の諸蔵の貨宝を検査・徴発し、没収・隠匿を追及するのが甚だ細かく、人々は実にこれを苦しんでおりました。宋人は未だ我が徳に馴染んでおらず、急に財貨で苦しめるのは、恐らく民を安んじ懐ける道ではないでしょう」。即座に詔を下してこれを止めさせた。また言った、「かつて泉州の蒲寿庚が城を挙げて降りました。寿庚は平素より市舶を主管しております。その事権を重くし、我がために海寇を防ぎ、諸蛮を誘って臣服させるようにすべきであると申し上げ、そこで臣が佩用していた金虎符を解いて寿庚に佩用させました。陛下にはその専擅の罪をお許し下さい」。帝は大いにこれを嘉し、更に金虎符を賜った。宴労が終わると、即座に陛辞(辞去の挨拶)を許した。文炳は皇太子に拝謁を求めた。帝はこれを許し、また太子に勅して言った、「董文炳の任は甚だ重い。拝謁が終われば即座に行かせよ」。拝謁すると、慰労の諭しは懇切であった。文炳は士選を宿衛に留め、即日、道に就いた。上都に滞在したのは凡そ三日であった。
大都に至り、日に日に中書省・枢密院に赴くも、中書省の案文に署名しなかった。平章政事アフマドは寵愛を恃んで権勢を振るい、生殺与奪を思いのままにし、ただ董文炳だけを畏れて、奸悪な行いをやや収めた。かつて筆を執って請うて言うには、「相公の官は左丞であり、省の案文に署名すべきです」と。再三再四請うたが、文炳は署名しようとしなかった。皇太子はこれを聞き、宮臣のジュフナに言うには、「董文炳の深慮は、お前たちの知るところではない」と。後に或る時私かにその理由を問うと、文炳は言うには、「主上の私に託されたところは、根本の重きにあり、文書移牒の細事ではない。かつ私が少しでも従えば奸を助け、従わなければ讒言を招く。讒言が行われれば身は危うく、付託の本意を深く失うことになる。私はこのゆえに大政には参画し、細務は略するのである」と。
十五年夏、文炳は病を得、機務を解くことを奏請した。詔して言うには、「大都は暑さが厳しく、病者に適さない。卿はここに来るがよい、必ずや癒えよう」と。文炳は上都に至り、奏上して言うには、「臣の病は機務を統べるに足りず、西北は高く寒く、筋骨が舒暢であれば、自ずと癒えるでしょう。どうか北辺に尽力させてください」と。帝は言うには、「卿はもとより忠孝であるが、それは行うに足らない。枢密の事は重い。卿を枢密院事僉書とし、中書左丞はもとのままとする」と。文炳は辞したが、許されず、遂に拝命した。八月の天寿節、礼が成って賜宴があり、帝は文炳を上座に座らせ、宗室大臣に諭して言うには、「董文炳は功臣である。理においてこの座に座るべきである」と。毎回尚食の時、上食があれば必ず取り分けて文炳に賜った。この夜、文炳の病が再び発作した。勅して御医に毎日来て診視させる。九月十三日、病篤く、沐浴して坐し、文忠らを召して言うには、「私は先人が王事に死し、国に殉じて辺境で死ねなかったことを恨んでいた。今ここに至るは天命である。願わくば董氏の世々に馬に乗れる男子あらんことを。力を尽くして国に報いよ。そうすれば我が死して瞑目するであろう」と。言い終わり、枕に就いて卒去した。帝は聞き、悼み痛んで久しく、文忠に喪を護って藁城に葬らせ、過ぎる所の官司に礼をもって弔祭させ、金紫光禄大夫・平章政事を追贈し、諡して忠献といった。子に士元・士選あり。
士元、一名を不花、字は長卿、文炳の長子である。幼い頃に母を喪い、祖母の李氏がこれを愛し、文炳に言うには、「児が言葉を話せるようになったら、すぐに読書させよ」と。数歳で名儒に従って学を受けた。成長すると、騎射に優れた。憲宗が蜀を征した時、士元は二十三歳、叔父の文蔚に従って鄧州の一軍を率いて西行した。軍が釣魚山に駐屯すると、宋人は堅壁を構えて守りを拒んだ。士元は文蔚に代わって攻撃することを請い、配下の精鋭を率いて先に登り、力戦すること久しく、他の軍が続かなかったため引き返した。憲宗はこれを壮とし、金帛を賜った。
中統の初め、文蔚が入って禁兵を統べると、士元は世家の子として選ばれて供奉内班となり、車駕に従って北方を巡狩し、かつて武定山の戦いに参与した。帝はその忠勤を知り、事を任せうるとした。ちょうど文蔚が病没し、子がなかったため、命じて士元に千夫長を襲封させた。出師して南征し襄・漢を攻め、禁兵を分けて淮上に戍らせたが、士元は軍中にあって武備を整え、号令は厳然としていた。
丞相バヤンが江南を平定したが、宋兵は両淮を保って未だ降らず、士元はしばしばこれと戦い、淮安堡を陥落させ、功により武節将軍に昇進した。太師ボロクンに従って揚州を攻め、軍を湾頭堡に駐屯させた。時は大暑のさなか、ボロクンは病んで京師に帰り、行省のアリが代わって諸軍を統率した。揚州の守将姜才が隙に乗じて攻めてきた。アリはもとより軍事に慣れておらず、軽騎数百を率いて堡を出た。士元と別将のハラトが百騎を率いてこれに従った。日はすでに暮れ、宋兵は万余人が到着した。士元は左右に言うには、「大丈夫の国に報いるのはまさに今日である。恐れるな」と。陣を整えて戦おうとしたところ、アリは急いで左旋回を命じ、やがて遁走した。士元とハラトは配下の兵を率いて敵に赴き死戦し、鬨の声は地を震わし、泥濘で馬を馳せることができず、馬を棄てて歩戦し、四更になって敵衆はようやく退いた。夜明けになって、アリが戦場を視察に来ると、士元が泥の中に臥し、身に十七ヶ所の槍傷を受け、甲と衣裳はことごとく赤く染まり、肩に担がれて営に至り絶命した。四十二歳。ハラトもまた戦死した。
士選、字は舜卿、文炳の次子である。幼い頃から文炳に従って軍中に居り、昼は武事を治め、夜は読書を怠らなかった。文炳が総帥として宋兵と金山で戦った時、士選は力戦し、これを大いに破り、海まで追撃して還った。張瑄らが降伏した時、丞相バヤンが陣頭でこれを見て、その驍勇を壮とし、使者を遣わして問うと、初めて文炳の子であることを知った。功を奏上し、金符を佩び、管軍総管となった。戦って数たび功があった。宋が降伏すると、文炳に従って宋の宮中に入り、宋主の降表を取り、その文書図籍を収めたが、静重にして大体を識り、秋毫も私せず、軍中で称えられた。宋が平定され、軍を返すと、詔して侍衛親軍諸衛を置き、士選を前衛指揮使とした。号令は明正で、士大夫の心を得た。間もなく、その職を弟の士秀に譲った。帝はその志を嘉し、命じて士秀に前衛を将とさせ、士選を湖広に行枢密院事同僉とした。久しくして召還された。
宗王ナイヤンが叛くと、帝は親征し、士選を行在所に召し、李勞山とともに漢人諸軍を将いてこれを防がせた。ナイヤンの軍の飛矢が乗輿の前に及んだ時、士選らは歩卒を出して横撃し、その衆は敗走した。緩急進退に礼法があり、帝は甚だこれを善とした。サンガの事が敗露すると、帝は直士を求めて用い、その弊を改めようとし、ここに士選を召して政事を論議させ、中書左丞として平章政事チェリとともに浙西に鎮し、僚属を辟挙することを許した。任地に至り、民の病苦を察し、すべて帝の意のままにこれを除き、民は大いに悦んだ。聚斂の臣で奸利をなす者がおり、事が発覚して罪を得て死に臨んだが、詐って言うには、「派遣した海商が海外から未だ至らない。留めてこれを待たせてください」と。士選は言うには、「海商が至れば捕らえて記録し、至らなければどうしようもない。この人の存亡にかかわることではない。もしこの人がかろうじて生き延びれば、天下に謝するすべがない」と。遂にその罪を究めた。浙には湖沼が多く、広く蓄泄して水旱を防いでいたが、豪民が占拠して耕作することが多く、水の居積する所がなく、故にしばしば水旱があった。士選はチェリと力を合わせてこれを開復した。
成宗が即位すると、建康に行樞密院を設置した。間もなく、江西行省左丞に任じられた。贛州の賊劉六十が偽りの名号を立て、衆を集めて一万余りに至った。朝廷は兵を遣わしてこれを討たせたが、主将は傍観して退縮し戦おうとせず、守吏はまたこれに乗じて良民をかき乱したため、賊の勢いはますます盛んになった。士選は自ら赴くことを請うた。衆は喜んでこれを託した。即日に道につき、兵の増援を求めず、ただ掾史の李霆鎮・元明善の二人を率い、文書を持って出発した。衆はその行いを測りかねた。贛の境に至ると、民を害する官吏を捕らえてこれを処断した。民は互いに語り合って言った、「官法がこのようであるとは知らなかった」と。進んで興国県に至り、賊の巣窟から百里と離れていないところで、将校を選んで分兵して地を守り、命令を待たせた。乱を激化させた者を察知して、ことごとく法に置き、また奸民で賊の巣窟となっている者を誅した。ここにおいて民は争って出て自ら尽力することを請い、数日を経ずして遂に賊の首魁を擒にし、余衆を散じて農に帰らせた。軍中で賊の作った文書を獲得したが、近隣の郡県の富人の姓名がことごとく記されていた。霆鎮・明善はこれを焼くことを請うた。民心はますます安んじた。使いを遣わして事の平定を朝廷に報告した。中書平章政事不忽木はその使いを召して言った、「董公は功績簿を上奏したのか」と。使いは言った、「某が出発する際、左丞が言葉を授けて言われました、『朝廷がもし軍功について問うならば、ただ鎮撫が無状であったことを述べ、罪を免れることが幸いであり、何の功があって言うことがあろうか』と」。そこでその書状を出したが、ただ贓吏数人を罷免することを請うただけで、賊を破った事については言及していなかった。朝廷の議論は、その大礼を知りながら誇らないことを深く嘆賞した。江南行御史臺中丞に任じられた。清廉と威厳は平素より顕著で、厳しくしなくとも粛然とし、凛然として大臣の風格があった。
枢密院事に任じられ、間もなく御史中丞に任じられた。前中丞の崔彧は長く風紀の任にあり、事功を成し遂げるために巧みに周旋した。その死後、不忽木が平章軍国重事としてこれを継いだが、方正で大礼を堅持し、天下はこれを望んだ。しかしすでに病が多く、遂に士選にこれを託した。風采は明らかで優れ、朝廷内外は粛然とした。
時に丞相完澤が劉深の言葉を用い、八百媳婦国を征討するために出師した。遠く煙瘴の地を冒し、到着しても未だ戦わず、士卒の死者は十のうち七、八に及んだ。民を駆り立てて糧秣を転送して軍に供給させたが、谿谷の間は舟車を通すことができず、必ず背負って運ばなければならなかった。一人が粟八斗を届けるのに、数人を率いてこれを補助し、凡そ数十日を経てようやく届いた。これにより民の死者も数十万に及び、朝廷内外は騒然とした。しかし完澤は帝に説いて言った、「江南の地はすべて世祖が取られたものであり、陛下がこの役を起こさなければ、後世に見るべき功績がありません」と。帝はその言葉を入れ、用兵の意思は非常に固く、故に敢えて諫める者はいなかった。士選は同列を率いてこれを言上し、殿中で奏事を終えると、同列は皆立ち上がったが、士選は独り言った、「今、劉深が出師し、有用の民をもって無用の地を取ろうとしています。仮に取るべきであったとしても、必ず使いを遣わしてこれを諭し、諭しても従わないならば、それから糧を集め兵を選び、時を見て行動すべきです。どうして軽々しく一人の妄言を用いて、百万の生霊を死地に至らせることができましょうか」と。帝の顔色が変わったが、士選はなお明らかに弁じ止まなかった。侍従は皆そのために戦慄した。帝は言った、「事はすでに成った。卿は再び言うな」と。士選は言った、「言葉によって罪を受けるのは、臣の当然のことです。他日、言わないことをもって臣を罪するならば、臣が死んでも何の益がありましょうか」と。帝は手を振って彼を立ち上がらせ、左右がこれを擁して出した。数か月も経たないうちに、帝は軍が敗北したと聞き、慨然として言った、「董二哥の言葉が的中した。私は彼に恥ずかしい」。そこで上尊を賜って直言を表彰し、ようやく兵を罷め、劉深らを誅した。世祖はかつて文炳を董大哥と呼んだので、帝は二哥をもって士選を呼んだのである。久しくして出て江浙行省右丞となり、汴梁行省平章政事に遷り、また陝西に遷った。
子の守忠は、雲南行省参知政事。守慤は、侍正府判官。守思は、威州の知州。
張弘範
六年、諸道の兵を徴発して宋の襄陽を囲み、益都淄萊等路行軍萬戸に任じ、再び金虎符を佩かせた。朝廷は益都の兵が李璮の教練した卒であり、勇猛で手に負い難いと考え、故に彼にこれを率いさせた。鹿門堡を戍り、宋の糧道を断ち、かつ郢の救兵を絶とうとした。弘範は建言して言った、「国家が襄陽を取るのに、長久の計を立てるのは、人命を重んじてその自滅を待とうとするからです。かつて、夏貴が江の増水に乗じて衣糧を城中に送り入れましたが、我が師は坐視し、これを防ぐ者はいませんでした。その境は南は江陵・帰・峽に接し、商販・行旅・士卒が絡繹として絶えません。どうして自滅する時がありましょうか。万山に城を築いてその西を断ち、灌子灘に柵を設けてその東を絶つべきです。そうすれば、ほぼ速やかに斃れる道でしょう」。帥府はその言葉を用いることを奏上し、弘範の兵千人を移して万山を戍らせた。
城が完成すると、将兵とともに東門から出て弓射を競っていると、宋軍が急に襲来した。将佐たちは皆、寡兵で多勢に敵わないから、城に入って守るべきだと述べた。張弘範は言った。「我ら諸君がここにいるのは何事のためか。敵が来たのに戦わぬというのか。退却を口にする者は死罪とする。」すぐに甲冑を着て馬に乗り、偏将の李庭を遣わして前方を防がせ、他の将に後方を攻撃させ、自らは二百騎を率いて長蛇の陣を敷き、命令した。「我が太鼓の音を聞いたら進め。まだ鳴らぬうちは動くな。」宋軍の歩兵と騎兵が交互に陣を突いたが、弘範の軍は動かず、宋軍は二度進んでは二度退いた。弘範は言った。「敵の気勢が衰えた。」太鼓を鳴らすと、前後の軍が奮撃し、宋軍は敗走した。
至元八年(1271年)、一字城を築いて襄陽に迫り、樊城の外郭を破った。九年、樊城を攻撃し、流れ矢が肘に当たったが、傷を包帯して主帥に会い言った。「襄陽と樊城は互いに唇歯の関係にあるため、破ることができない。もし江の水路を遮断し、その援軍を断ち、水陸から挟み撃ちにすれば、樊城は必ず陥落します。樊城が落ちれば、襄陽は何を頼りにできましょうか。」主帥はこれに従った。翌日、再び精鋭の兵卒を繰り出して先に登城させ、ついにこれを陥落させた。襄陽が降ると、宋の将軍呂文煥とともに参内し、錦衣・白金・宝鞍を賜り、将校たちにもそれぞれ恩賞が与えられた。
十五年、宋の張世傑が海上で広王趙昺を擁立すると、福建・広東が呼応したため、弘範を派遣してこれを平定させ、蒙古漢軍都元帥に任じた。宮廷を辞する際に上奏して言った。「漢人で蒙古軍を統率した者はおりません。どうか蒙古の信頼できる臣を首帥とされますよう。」帝は言った。「汝は父(張柔)とチャガン(察罕)のことを知っているか。安豊を破ったとき、汝の父は兵を留めて守らせようとしたが、チャガンは従わなかった。軍が南下した後、安豊は再び宋の所有となり、進退ともに拠り所を失いかけた。汝の父は深く悔やんだが、それは任せることに専一でなかったためである。どうして汝に再び汝の父の悔いを持たせることができようか。今、汝に大事を任せる。汝の父の心をもって心とすることができれば、私は汝を賞賛しよう。」面と向かって錦衣と玉帯を賜ったが、弘範は受けず、代わりに剣と甲冑を請うた。帝は武庫の剣と甲冑を出させ、自ら選ばせ、さらに諭して言った。「この剣は、汝の副将である。命令に従わぬ者は、これで処せよ。」出発に際し、李恒を自分の副将に推薦し、帝はこれに従った。
揚州に至り、将校と水陸二万の兵を選んで分道南征し、弟の張弘正を先鋒とした。戒めて言った。「汝を選んで驍勇とさせるのは、私情によるものではない。軍法は重い。私は私情をもって公務を曲げることはできない。努めよ。」弘正の向かうところ勝利した。三江寨を攻撃した。寨は要害に拠り高所に乗じていたため、近づくことができず、そこで軍を連ねてこれに向かった。寨の中では弓を引き絞って待ち構えていた。弘範は下馬して朝食をとるよう命じ、持久戦の構えを見せた。弓を引き絞る者は疑って動かず、他の寨も不意を突かれた。突然、軍を指揮して連続して数寨を陥落させ、引き返して三江寨を攻め、ことごとく陥落させた。漳州に至り、その東門に軍を置き、別将に南門・西門を攻撃させ、その隙に北門を破って陥落させた。鮑浦寨を攻撃し、またも陥落させた。これにより沿海の郡邑は皆、風の便りを聞いて降伏帰附した。五坡嶺で宋の丞相文天祥を捕らえ、拝礼をさせたが屈せず、弘範はその義を重んじて賓客の礼をもって遇し、京師に送った。宋の礼部侍郎鄧光薦を捕らえ、子の張珪に命じて師事させた。
十六年正月庚戌、潮陽港から船を出して海に入り、甲子門に至り、宋の斥候将の劉青・顧凱を捕らえ、広王の所在を知った。辛酉、崖山に駐屯した。宋軍の千余艘の船が海中に碇を下ろし、その上に楼櫓を建てており、隠然たる堅固な堡塁のようであった。弘範は水軍を率いてこれに向かった。崖山は東西に対峙し、その北側は水が浅く、船が座礁し、潮が来なければ進めない。そこで山の東から南に回り込んで大洋に入り、ようやくその船団に接近することができた。さらに奇兵を出してその水汲みの道を断ち、その宮室を焼いた。世傑の甥が弘範の軍中にいた。三度使者を遣わして招いたが、世傑は従わなかった。甲戌、李恒が広州から到着し、二隻の戦艦を与えて北面を守らせた。
二月癸未、戦おうとしたとき、ある者がまず砲を使うよう請うた。弘範は言った。「火が起これば船は散り散りになる。戦うに及ばない。」翌日、軍を四つに分け、東・南・北の三面に配置した。弘範は自ら一軍を率いて一里余り離れ、命令した。「宋の船は潮が満ちてくれば必ず東へ逃げようとする。急いで攻撃し、逃がすな。我が楽の音が鳴り始めたら戦え。命令に背く者は斬る。」まず北面の一軍に指揮を取らせ、潮に乗って戦わせたが、勝利できず、李恒らは潮の流れに沿って退却した。楽が鳴り始めると、宋の将軍は宴会でもするのかと思い、少し気を緩めた。弘範の水軍がその前面を攻撃し、諸軍がこれに続いた。あらかじめ船尾に戦闘用の楼閣を造り、布の幕で覆い隠し、将兵に命じて盾を背負って伏せさせ、命令した。「銅鑼の音を聞いたら立ち上がって戦え。銅鑼より先に妄りに動く者は死罪だ。」飛び交う矢はハリネズミのようであったが、盾の下に伏せた者は動かなかった。船が接舷しようとする時、銅鑼を鳴らして幕を撤去し、弓弩と火砲石が交錯して発射され、たちまち七艘の船を同時に破り、宋軍は大敗した。宋の臣下が主君の趙昺を抱いて水に赴き死んだ。その符璽印章を奪い取った。世傑は先に逃げ、李恒が大洋まで追ったが及ばなかった。世傑は交趾へ逃げたが、風で船が破損し、海陵港で死んだ。その他の将吏は皆降伏した。嶺南から海南までことごとく平定し、崖山の南面を磨き、石に功績を刻んで記念し、帰還した。
十月、朝廷に入り、内殿にて宴を賜い、慰労甚だ厚し。未だ幾ばくもせず、瘴癘の疾発作す。帝、尚医を命じて診視せしめ、近臣を遣わして薬を用いるを臨議せしめ、衛士を敕して門を監せしめ、雑人を止めて其の病を擾さしめず。病甚だしく、沐浴して衣冠を易え、扶掖して中庭に至り、闕に面して再拝す。退きて坐し、酒を命じて楽を作し、親故と別れを言ふ。賜はりし所の剣甲を出だし、命じて嗣子の珪に付して曰く、「汝の父は是を以て功を立てたり、汝佩服して忘るるなかれ」と。語竟はりて、端坐して卒す。年四十三。銀青栄禄大夫・平章政事を贈り、諡して武烈と曰ふ。至大四年、推忠効節翊運功臣・太師・開府儀同三司・上柱国・斉国公を加贈し、諡を改めて忠武と曰ふ。延祐六年、保大功臣を加へ、淮陽王に加封し、諡して献武と曰ふ。子の珪は、自ら伝有り。