巻156

列伝第四十三:董文炳 張弘範

董文炳〔士元 士選〕

原文董文炳〔士元 士選〕

董文炳、字は彦明、董俊の長子である。父が没した時、年わずか十六歳、諸幼弟を率いて母の李夫人に仕えた。夫人は賢行あり、家を治めるに厳しく、子を教えるに篤かった。文炳は侍其先生に師事し、機敏で記憶誦読に優れ、幼少より儼然として成人の如くであった。

原文董文炳字彥明,俊之長子也。父歿時年始十六,率諸幼弟事母李夫人。夫人有賢行,治家嚴,篤於教子。文炳師侍其先生,警敏善記誦,自幼儼如成人。

歳は乙未、父の任により藁城県令となる。同僚は皆父の時代の人で、文炳の年少を軽んじ、吏もまた彼を畏れなかった。文炳は訴訟の裁断に明るく、恩をもって威を補った。間もなく、同僚は手を束ねて彼に従い、吏は案牘を抱えて署名を求め、仰ぎ見ることを敢えず、里人もまた大いに感化服従した。県は貧しく、旱魃と蝗害が重なり、しかも徴税収奪は日々暴虐で、民は生きるに聊かならなかった。文炳は私穀数千石を県に与え、県は民を寛容にすることができた。前任の県令は軍興による費用不足のため、人から借金し、貸し主は利息を年ごとに倍増させ、県は民の蚕糸と麦でこれを償った。文炳は言った。「民は困窮している。私が県令として、義としてこれを見るに忍びない。私が代わって償おう。」そこで田畑と家屋若干畝を計算して価値を貸し主に与え、さらに県の閑田を籍に登録して貧民に生業とさせ、耕作させた。これにより流離の民は次第に帰還し、数年で民の食糧は充足した。朝廷が初めて戸籍調査を行い、実数を隠す者は誅殺し、その家を没収すると命じた。文炳は民に口数を集めて居住させ、戸数を少なくした。人々は不可と為したが、文炳は言った。「民のために罪を得ることは、私の甘んじるところである。」民にもまた喜ばない者がいたが、文炳は言った。「後で私に感謝するだろう。」これにより賦税の取り立ては大いに減り、民は皆豊かで完備した。隣県の民で訴訟して公正な裁きを得られない者は、皆文炳のもとに赴いて決裁を求めた。文炳がかつて大府に謁見した時、隣県の人が集まってこれを見て言った。「私はしばしば董令のことを聞くが、董令もまた人であるのに、どうしてかくも神のように明察なのか。」時に府は飽くことなく要求し、文炳は抑えて与えなかった。ある者が府に讒言し、府は中傷して害を加えようとした。文炳は言った。「私は終に民を剥いで利を求めることはできない。」ただちに官を棄てて去った。

原文歲乙未,以父任為藁城令。同列皆父時人,輕文炳年少,吏亦不之憚。文炳明於聽斷,以恩濟威。未幾,同列束手下之,吏抱案求署字,不敢仰視,里人亦大化服。縣貧,重以旱蝗,而徵斂日暴,民不聊生。文炳以私穀數千石與縣,縣得以寬民。前令因軍興乏用,稱貸於人,而貸家取息歲倍,縣以民蠶麥償之。文炳曰:「民困矣,吾為令,義不忍視也,吾當為代償。」乃以田廬若干畝計直與貸家,復籍縣閒田與貧民為業,使耕之。於是流離漸還,數年間民食以足。朝廷初料民,令敢隱實者誅,籍其家。文炳使民聚口而居,少為戶數。眾以為不可,文炳曰:「為民獲罪,吾所甘心。」民亦有不樂為者,文炳曰:「後當德我。」由是賦斂大減,民皆富完。旁縣民有訟不得直者,皆詣文炳求決。文炳嘗上謁大府,旁縣人聚觀之,曰:「吾亟聞董令,董令顧亦人耳,何其明若神也!」時府索無厭,文炳抑不予。或讒(知)〔之〕府,府欲中害之,文炳曰:「吾終不能剝民求利也。」即棄官去。

世祖が潜藩にあった時、癸丑の秋、憲宗の命を受けて南詔を征討した。文炳は義士四十六騎を率いて従軍し、人馬は道中で死に尽きんばかりであった。吐番に至った時、従える者は二人のみとなり、その二人は文炳を支えて徒歩で行き、道中を躊躇し、死んだ馬の肉を取って食いつなぎ、一日に三二十里も行けなかったが、志はますます奮い立ち、必ず軍に至らんと期した。ちょうど使者が通りかかり、文炳に遇い、その様子を帰って報告した。時に文炳の弟の文忠は先に世祖の軍に従っており、世祖はただちに文忠に命じ、尚廏の五頭の馬を解かせて乾糧を載せ、文炳を迎えさせた。到着すると、世祖はその忠誠を壮とし、かつその労苦を憐れみ、賜与は甚だ厚かった。任用されること皆旨に叶い、これにより日々親しく重用され事を執った。

原文世祖在潛藩,癸丑秋,受命憲宗征南詔。文炳率義士四十六騎從行,人馬道死殆盡。及至吐番,止兩人能從,兩人者挾文炳徒行,躑躅道路,取死馬肉續食,日行不能三二十里,然志益厲,期必至軍。會使者過,遇文炳,還言其狀。時文炳弟文忠先從世祖軍,世祖即命文忠解尚廏五馬載糗糧迎文炳。既至,世祖壯其忠,且閔其勞,賜賚甚厚。有任使皆稱旨,由是日親貴用事。

己未の秋、世祖は宋を伐ち、淮西の台山寨に至り、文炳に命じてこれを取らせた。文炳は馳せて寨の下に至り、禍福を説いたが応じない。文炳は冑を脱ぎ捨てて呼ばわった。「私が兵威を極めないのは、お前たちを生かそうとするためだ。速やかに降らなければ、今この寨を屠るぞ。」守る者は恐れ、ついに降伏した。九月、軍は陽羅堡に駐屯した。宋兵は岸に堡を築き、船を江中に並べ、軍容は甚だ盛んであった。文炳は世祖に請うて言った。「長江は天険であり、宋が国として恃むところです。必ず死守する勢いであり、その気勢を奪わなければなりません。臣に試みさせてください。」ただちに敢死の士数十百人を率いてその前に当たり、弟の文用・文忠を率い、艨艟に乗り鼓櫂して疾駆し、叫呼して奮い立った。鋒が交わると、文炳は衆を指揮して岸に向かって搏ち、宋軍は大敗した。文用に軽舟で捷報を伝えさせた。世祖はちょうど香炉峯に駐在しており、馬を策って下山し戦勝の様子を尋ねると、鞍に手をかけて立ち上がり、鞭を竪げて仰ぎ指して言った。「天意である。」かつて他の軍に命じて甲を解かせず、明日城を囲むべしとした。江を渡り終えると、憲宗の崩御に会った。閏十一月、軍を返した。

原文己未秋,世祖伐宋,至淮西臺山寨,命文炳往取之。文炳馳至寨下,諭以禍福,不應,文炳脫冑呼曰:「吾所以不極兵威者,欲活汝眾也,不速下,今屠寨矣。」守者懼,遂降。九月,師次陽羅堡。宋兵築堡于岸,陳船江中,軍容甚盛,文炳請於世祖曰:「長江天險,宋所恃以為國,勢必死守,不奪其氣不可,臣請嘗之。」即與敢死士數十百人當其前,率弟文用、文忠,載艨艟鼓櫂疾趨,叫呼畢奮。鋒既交,文炳麾眾趨岸搏之,宋師大敗。命文用輕舟報捷。世祖方駐香爐峯,因策馬下山問戰勝狀,則扶鞍起立,竪鞭仰指曰:「天也!」且命他師毋解甲,明日將圍城。既渡江,會憲宗崩。閏十一月,班師。

庚申、世祖は上都で即位した。これが中統元年である。文炳に命じて燕南諸道を宣慰させた。帰還して奏上した。「人々は久しく弛緩放縦しており、一朝に急に法で束ねることはできません。危惧疑惑する者なお多く、天下を赦し、彼らと更始すべきです。」世祖はこれに従い、反側する者はついに安んじた。二年、山東東路宣撫使に抜擢された。ちょうど赴任途中、侍衛親軍が設置されることとなり、帝は言った。「親軍は文炳でなければ任に堪え難い。」ただちに遥かに侍衛親軍都指揮使を授け、金虎符を佩かせた。

原文庚申,世祖即位于上都,是為中統元年,命文炳宣慰燕南諸道。還奏曰:「人久弛縱,一旦遽束以法,不可。危疑者尚多,宜赦天下,與之更始。」世祖從之,反側者遂安。二年,擢山東東路宣撫使。方就道,會立侍衞親軍,帝曰:「親軍非文炳難任。」即遙授侍衞親軍都指揮使,佩金虎符。

三年、李璮が済南で反乱した。璮は大賊で、兵を用いるに巧みであった。文炳は諸軍と会してこれを包囲し、璮は逃れることができなかった。久しくして、賊の勢いは日々逼迫した。文炳は言った。「窮した賊は計略で捕らえることができる。」そこで城下に至り、璮の将で田都帥という者を呼んで言った。「反乱したのは璮だけだ。残りの者は来れば我が味方である。自ら死を取るな。」田は城から縋り降りて降伏した。田は璮の愛将であり、降伏すると、衆はついに乱れ、璮を捕らえて献上した。璮の兵に浙・漣両軍二万余人がおり、勇猛で戦いに巧みであった。主将は彼らが賊に与したことを怒り、諸軍に配属し、密かに殺させようとした。文炳は二千人を殺すこととなったが、主将に言った。「彼らは璮に脅迫されただけです。殺せば天子の仁聖なる御心に背く恐れがあります。かつて天子が南詔を伐った時、妄りに人を殺した者は、たとえ大将でも罪に問われました。これは殺すべきではありません。」主将はこれに従った。しかし他で殺した者はすでに多く、皆大いに後悔した。

原文三年,李璮反濟南。璮劇賊,善用兵。文炳會諸軍圍之,璮不得遁。久之,賊勢日蹙,文炳曰:「窮寇可以計擒。」乃抵城下,呼璮將田都帥者曰:「反者璮耳,餘來即吾人,毋自取死也。」田縋城降。田,璮之愛將,既降,眾遂亂,禽璮以獻。璮兵有浙、漣兩軍二萬餘人,勇而善戰,主將怒其與賊,配諸軍,使陰殺之。文炳當殺二千人,言于主將曰:「彼為璮所脅耳,殺之恐乖天子仁聖之意。向天子伐南詔,或妄殺人,雖大將亦罪之,是不宜殺也。」主將從之。然他殺之者已眾,皆大悔。

璮が誅殺されると、山東はなお平定されず、そこで文炳を山東東路経略使とし、親軍を率いて行かせた。金銀符五十を出し、功ある者に与えることを許した。閏九月、文炳は益都に至り、兵を外に留め、数騎の従者とともに衣冠を整えて入城した。府に居を構え、警衛を設けず、璮の旧将吏を召し庭に立たせて言った。「璮は狂賊であり、お前たちを誤らせた。璮はすでに誅殺された。お前たちは皆王の民である。天子は至仁至聖であり、経略使を遣わしてお前たちを慰撫する。互いに安んじて恐れるな。経略使は便宜を以て将吏を除任擬定する権限がある。お前たちは努めて金銀符を得よ。経略使は上命を妨げて功ある者に与えないことはしない。」配下の者は大いに喜び、山東は安んじた。

原文璮伏誅,山東猶未靖,乃以文炳為山東東路經略使,率親軍以行。出金銀符五十,有功者聽與之。閏九月,文炳至益都,留兵于外,從數騎衣冠而入。居府,不設警衞,召璮故將吏立之庭,曰:「璮狂賊,詿誤汝等。璮已誅死,汝皆為王民,天子至仁聖,遣經略使撫汝,當相安毋懼。經略使得便宜除擬將吏,汝等勉取金銀符,經略使不敢格上命不予有功者。」所部大悅,山東以安。

至元三年、帝は李璮の乱を戒め、方鎮の横暴を密かに削ごうとし、文炳をもって史氏の両万戸に代えて鄧州光化行軍万戸・河南等路統軍副使とした。官に着くと、戦艦五百艘を建造し、水戦を習練し、宋を取る方略を予め謀り、凡そ要害の地には皆柵を列ね堡を築き、防備の計画とした。帝はかつて文炳を召して密謀し、河北の民丁を大いに徴発しようとした。文炳は言った。「河南は宋の境に密接し、人は江淮の地利に習熟しています。河北に耕作させて軍を供給し、河南に戦わせて地を開拓させるのが宜しいでしょう。宋が平定されたなら、河北は永く兵籍に属し、河南は籍を削って民とします。このようにするのが便利です。また将校は平素俸給がなく、連年用兵して、身が大校でありながら外出に馬に乗れない者さえあります。臣は配下の千戸に私的に兵士四人、百戸に二人を使役させ、彼らが雇役することを許し、少しその労力を食わせています。」帝は皆これに従い、始めて将校に俸銭を頒ち、官秩によって差等をつけた。

原文至元三年,帝懲李璮之亂,欲潛銷方鎮之橫,以文炳代史氏兩萬戶為鄧州光化行軍萬戶、河南等路統軍副使。到官,造戰艦五百艘,習水戰,預謀取宋方略,凡阸塞要害皆列柵築堡,為備禦計。帝嘗召文炳密謀,欲大發河北民丁。文炳曰:「河南密邇宋境,人習江淮地利,宜使河北耕以供軍,河南戰以闢地。俟宋平,則河北長隸兵籍,河南削籍為民。如是為便。又將校素無俸給,連年用兵,至有身為大校出無馬乘者。臣即所部千戶私役兵士四人,百戶二人,聽其雇役,稍食其力。」帝皆從之,始頒將校俸錢,以秩為差。

七年、山東路統軍副使に改め、沂州を治めた。沂は宋と境を接し、鎮兵は内郡の糧秣輸送に頼っていた。詔があり、管轄区域で和糴を行えとのことだった。文炳は州県の移文を収めるよう命じた。衆は詔に違うと諫めたが、文炳は言った。「ただ止めるだけだ。」そこで使者を入れて奏上し、大略次のように言った。「敵国と接境し、我が虚実を知られる、これが一つの不可。辺境の民は供給に甚だ労苦し、この役で重く苦しむ、これが二つの不可。我が民を困窮させて来る者を恐れさせる、これが三つの不可。」帝は大いに悟り、これを罷めた。九年、枢密院判官に遷り、淮西で行院事を執った。正陽に両城を築き、両城は淮を挟んで相望み、襄陽を牽制し宋の腹心を衝くものとした。

原文七年,改山東路統軍副使,治沂州。沂與宋接境,鎮兵仰內郡餉運。有詔和糴本部,文炳命收州縣所移文。眾諫以違詔,文炳曰:「但止之。」乃遣使入奏,略曰:「敵人接壤,知吾虛實,一不可;邊民供頓甚勞,重苦此役,二不可;困吾民以懼來者,三不可。」帝大悟,罷之。九年,遷樞密院判官,行院事於淮西。築正陽兩城,兩城夾淮相望,以綴襄陽及擣宋腹心。

十年、参知政事に拝された。夏、長雨が降り、水が漲り、宋の淮西制置使夏貴が舟師十万を率いて攻めて来た。矢石が雨のように降り注ぐ中、文炳は城に登ってこれを防いだ。ある夜、夏貴は去ってまた来襲し、飛び来る矢が文炳の左腕を貫き、脇腹に突き刺さった。文炳は矢を抜き取って左右の者に渡し、四十余りの矢を放った。箙の中の矢が尽きると、左右の者を顧みて矢を求め、さらに十余りを放ったが、矢が続かず、力も尽きて、弓を引き絞ることができず、遂に気を失ってほとんど危うくなった。翌日、水が外郭に入り込んだ。文炳は士卒を指揮して避けようとしたが、夏貴がこれに乗じ、軍を押しつけて陣を敷いた。文炳は創の病が甚だしく、子の士選が代わって戦うことを請うた。文炳はその志を壮として遣わし、また自ら起き上がって創を包み、剣を手に取って督戦した。士選が戈で夏貴の将を打ち倒したが、死なず、これを捕らえて献上した。夏貴は遂に去り、再び来襲することはなかった。

原文十年,拜參知政事。夏,霖雨,水漲,宋淮西制置使夏貴帥舟師十萬來攻,矢石雨下,文炳登城禦之。一夕,貴去復來,飛矢貫文炳左臂,着脅。文炳拔矢授左右,發四十餘矢。菔中矢盡,顧左右索矢,又十餘發,矢不繼,力亦困,不能張滿,遂悶絕幾殆。明日,水入外郭,文炳麾士卒欲避,貴乘之,壓軍而陣。文炳病創甚,子士選請代戰,文炳壯而遣之,復自起束創,手劍督戰。士選以戈擊貴將仆,不死,獲之以獻。貴遂去,不敢復來。

この年、大軍を挙げて宋を伐つこととなり、丞相伯顔は襄陽より東下し、宋人と陽羅堡で戦った。文炳は九月に正陽を発ち、十一年正月に安慶で伯顔と合流した。安慶の守将范文虎は城を挙げて降った。文炳は伯顔に請うて言った、「大軍は既に陽羅堡で疲弊しております。我が軍が先鋒を務めるべきです」。伯顔はこれを許した。宋の都督賈似道が防ぎに来て、軍を蕪湖に布陣させたが、似道は軍を棄てて逃走した。次に当塗に至ると、文炳はまた伯顔に言った、「采石は長江の南に当たり、和州と対峙しております。これを取らねば、必ず後顧の憂いがあります」。遂にこれを攻撃し、知州事王喜を降した。

原文是歲,大舉兵伐宋,丞相伯顏自襄陽東下,與宋人戰陽羅堡。文炳以九月發正陽,十一年正月會伯顏于安慶。安慶守將范文虎以城降。文炳請于伯顏曰:「大軍既疲於陽羅堡,吾兵當前行。」伯顏許之。宋都督賈似道來禦,師陳於蕪湖,似道棄師走。次當塗,文炳復言于伯顏曰:「采石當江之南,和州對峙,不取,必有後顧。」遂進攻之,降知州事王喜。

三月、詔があり、時節が暑熱に向かうことを以て、伯顔の軍に建康に駐屯し、文炳の軍に鎮江に駐屯するよう命じた。時に揚州・真州は堅守して下らず、常州・蘇州は既に降ったがまた叛いた。張世傑・孫虎臣は真州・揚州の兵と誓って死戦を約し、真州・揚州の兵は戦う毎に敗れ、出撃しようとしなかった。世傑らは大艦万艘を並べ、焦山下の江中に碇を下ろし、精鋭の兵卒を前に置いた。文炳は自らこれに突入し、士選を別の船に乗せた。弟の子の士表が従うことを請うた。文炳は顧みて言った、「我が弟にはお前ただ一人の子である。もし私と士選が戻らぬことがあっても、士元・士秀はまだ敵を殺すに足る。お前を行かせるには忍びない」。士表が固く請うたので、遂に許した。文炳は輪船に乗り、大将の旗鼓を立て、士選・士表の船がその両翼を護り、大声で叫んで陣を突き、諸将が続いて進んだ。飛び交う矢が日を蔽った。戦いが酣になると、短兵相接し、宋兵もまた死に物狂いで戦い、声は天地を震わせ、横たわる屍と捨てられた武器で、江水は流れを止めた。寅の刻から午の刻まで戦い、宋軍は大敗し、世傑は逃走した。文炳は夾灘まで追い及んだ。世傑は潰走した兵卒を収めて再び戦ったが、またこれを破り、遂に東の方、海へと逃げ去った。文炳の船は小さく、海に入ることができず、夜になってようやく帰還した。甲士一万余人を捕虜としたが、皆これを釈放して殺さず、戦船七百艘を獲た。宋の力はここに至って遂に尽きた。

原文三月,有詔以時向暑熱,命伯顏軍駐建康,文炳軍駐鎮江。時揚州、真州堅守不下,常州、蘇州既降復叛。張世傑、孫虎臣約真、揚兵誓死戰,真、揚兵戰每敗,不敢出。世傑等陳大艦萬艘,碇焦山下江中,勁卒居前。文炳身犯之,載士選別船。弟之子士表請從,文炳顧曰:「吾弟僅汝一子,脫吾與士選不返,士元、士秀猶足殺敵,吾不忍汝往也。」士表固請,乃許。文炳乘輪船,建大將旗鼓,士選、士表船翼之,大呼突陣,諸將繼進,飛矢蔽日。戰酣,短兵相接,宋兵亦殊死戰,聲震天地,橫屍委仗,江水為之不流。自寅至午,宋師大敗,世傑走,文炳追及于夾灘。世傑收潰卒復戰,又破之,遂東走於海。文炳船小,不可入海,夜乃還。俘甲士萬餘人,悉縱不殺,獲戰船七百艘,宋力自此遂窮。

十月、諸軍は三道に分かれて進軍し、文炳は左軍に属し、長江に沿って海を併せて臨安へと向かった。先に、江陰軍僉判の李世脩が降伏を欲しながら果たせずにいた。文炳が檄を以て諭すと、世脩は城を挙げて来附した。文炳は彼に本軍安撫使を権(臨時に)行うことを命じた。通過する所の民は兵乱を知らず、生口(捕虜)を獲るごとに、皆これを釈放して帰し、敢えて匿う者はなかった。威信が先んじて布かれると、皆旗を見て服した。張瑄は数千の兵を擁し、海を背にして横行していた。文炳は招討使の王世強及び士選を遣わしてこれを降伏させた。士選は単舸で張瑄の所に至り、威徳を以て諭すと、張瑄は降伏し、海船五百隻を得た。

原文十月,諸軍分三道而進,文炳居左,由江並海趨臨安。先是,江陰軍僉判李世脩欲降不果,文炳檄諭之,世脩以城來附,令權本軍安撫使。所過民不知兵,凡獲生口,悉縱遣之,無敢匿者,威信前布,皆望旗而服。張瑄有眾數千,負海為橫,文炳命招討使王世強及士選往降之。士選單舸至瑄所,諭以威德,瑄降,得海舶五百。

十三年春正月、塩官に至った。塩官は臨安の大県であり、救援が至るのを待ち、招降しても再三下らなかった。将佐らがこれを屠ることを請うた。文炳は言った、「県は臨安から百里も離れておらず、声勢は互いに及ぶ。臨安が降伏を約するのは既に成言がある。我が軽々しく一人を殺せば、大計を害することになる。ましてや一県を屠ることがあろうか」。そこで人を遣わして城中に意を諭させると、県は降伏した。遂に臨安城北で伯顔と会した。張世傑はその主君を連れて海に逃れようとした。文炳は臨安城南を迂回して出て、浙江亭を守備した。世傑の計略は行わず、宋主の弟である吉王昰・広王昺を密かに連れて南走し、宋主㬎は遂に降伏した。

原文十三年春正月,次鹽官。鹽官,臨安劇縣,俟救至,招之再返不下。將佐請屠之,文炳曰:「縣去臨安不百里,聲勢相及,臨安約降已有成言,吾輕殺一人,則害大計,況屠一縣耶?」於是遣人入城諭意,縣降。遂會伯顏于臨安城北。張世傑欲以其主逃之海,文炳繞出臨安城南,戍浙江亭。世傑計不行,乃竊宋主弟吉王昰、廣王昺南走,而宋主㬎遂降。

伯顔は文炳に命じて城に入り、宋の官府を廃止し、その諸軍を解散させ、庫蔵を封じ、礼楽器及び諸々の図籍を収めさせた。文炳は宋主の諸璽符を取って伯顔に献上した。伯顔が宋主を入朝させると、詔があり、事を留めて一切文炳に委ねた。豪猾を禁じ制し、士女を慰撫し、宋の民は主君が代わったことを知らなかった。時に翰林学士の李槃が詔を奉じて宋の士人を招くため臨安に至った。文炳は彼に言った、「国は滅ぼすことができても、歴史は失われてはならない。宋の十六主は、天下を有すること三百余年、その太史の記す所は全て史館にある。宜しく悉く収めて典礼に備えるべきである」。そこで宋史及び諸注記五千余冊を得て、国史院に帰した。宋の宗室である福王与芮が京師(大都)に赴き、重宝を以て遍く諸貴人に贈ったが、文炳のみがこれを退けて受け取らなかった。後に官が与芮の家を没収して記録した時、宝を受け取った者の名簿を具つぶさにしたが、ただ文炳の名はなかった。伯顔が朝廷に入って奏上して言った、「臣らは天威を奉じて宋を平定しました。宋は既に平定されましたが、民を懐け安んじ集める功績は、董文炳が最も多いです」。帝(世祖)は言った、「文炳は我が旧臣であり、忠勤は朕が平素より知っている」。そこで資徳大夫・中書左丞に拝した。

原文伯顏命文炳入城,罷宋官府,散其諸軍,封庫藏,收禮樂器及諸圖籍。文炳取宋主諸璽符上於伯顏。伯顏以宋主入覲,有詔留事一委文炳。禁戢豪猾,無慰士女,宋民不知易主。時翰林學士李槃奉詔招宋士至臨安,文炳謂之曰:「國可滅,史不可沒。宋十六主,有天下三百餘年,其太史所記具在史館,宜悉收以備典禮。」乃得宋史及諸注記五千餘冊,歸之國史院。宋宗室福王與芮赴京師,徧以重寶致諸貴人,文炳獨卻不受。及官錄與芮家,具籍受寶者,惟文炳無名。伯顏入朝奏曰:「臣等奉天威平宋,宋既已平,懷徠安集之功,董文炳居多。」帝曰:「文炳吾舊臣,忠勤朕所素知。」乃拜資德大夫、中書左丞。

時に張世傑が吉王昰を奉じて台州に拠り、また閩中も宋のために守られていた。勅命により文炳は進兵し、通過する所で士卒と馬に田畑の麦を踏みつけることを禁じ、言った、「倉にあるものは我が既に食し、野にあるものを汝らがまた踏みつけるならば、新たに帰附した民はどうして命を繋ぐことができようか」。これによって南人はこれを感じ、兵を以て相向かうに忍びなかった。台州に至ると、世傑は逃げ去った。諸将は先に州民を捕虜にしていた。文炳は命令を下して言った、「台州の民は我に最初に順効した。我が暇なくして有することができなかった故に、世傑がこれを占拠したのである。その民に何の罪があろうか。敢えて捕虜を釈放しない者は、軍法に論ずる」。免れることのできた者は数万口に及んだ。温州に至ると、温州は未だ下らなかった。命令して言った、「子女を取るなかれ、民の所有を掠奪するなかれ」。衆は「諾」と答えた。その守将は城中に火を放って逃走した。文炳は急いで火を消すことを命じ、その将を追いかけて捕らえ、民を残害した罪を数え上げ、斬って衆に示した。嶺を越えると、閩人は老いた者を扶けて来迎え、漳州・泉州・建寧・邵武の諸郡は皆、款(降伏の意)を送って来附した。凡そ州若干、県若干、戸口若干を得た。閩人は文炳の徳を最も深く感じ、廟を建ててこれを祀った。

原文時張世傑奉吉王昰據台州,而閩中亦為宋守。敕文炳進兵,所過禁士馬無敢履踐田麥,曰:「在倉者吾既食之,在野者汝又踐之,新邑之民何以續命?」是以南人感之,不忍以兵相向。次台州,世傑遁。諸將先俘州民,文炳下令曰:「台人首效順於我,我不暇有,故世傑據之,其民何罪?敢有不縱所俘者,以軍法論。」得免者數萬口。至溫州,溫州未下,令曰:「毋取子女,毋掠民有。」眾曰:「諾。」其守將火城中逃,文炳亟命滅火,追擒其將,數其殘民之罪,斬以徇。逾嶺,閩人扶老來迎,漳、泉、建寧、邵武諸郡皆送款來附。凡得州若干、縣若干、戶口若干。閩人感文炳德最深,廟而祀之。

十四年、帝は上都におり、丁度北辺に警報があり、親征して北伐しようとした。正月、急ぎ文炳を召し寄せた。四月、文炳は臨安より至った。到着するまで、帝は日々その来る時期を問うた。到着すると、即座に召し入れた。文炳は拝礼して言った、「今や南方は既に平定され、臣は効力する所がありません。北辺の事に従うことを請います」。帝は言った、「朕が卿を召したのは、その意はここにあるのではない。小輩が兵を盗み、朕自らこれを鎮撫する。山以南は国の根本である。全てを卿に託す。もし不測の事があれば、便宜を以て処置して奏聞せよ。中書省・枢密院の事は大小を問わず、卿に諮って行え。既に主たる者に勅した。卿は努めよ」。文炳は避けて辞謝したが、許されなかった。そこで奏上して言った、「臣が臨安におりました時、阿里伯が詔を奉じて宋の諸蔵の貨宝を検査・徴発し、没収・隠匿を追及するのが甚だ細かく、人々は実にこれを苦しんでおりました。宋人は未だ我が徳に馴染んでおらず、急に財貨で苦しめるのは、恐らく民を安んじ懐ける道ではないでしょう」。即座に詔を下してこれを止めさせた。また言った、「かつて泉州の蒲寿庚が城を挙げて降りました。寿庚は平素より市舶を主管しております。その事権を重くし、我がために海寇を防ぎ、諸蛮を誘って臣服させるようにすべきであると申し上げ、そこで臣が佩用していた金虎符を解いて寿庚に佩用させました。陛下にはその専擅の罪をお許し下さい」。帝は大いにこれを嘉し、更に金虎符を賜った。宴労が終わると、即座に陛辞(辞去の挨拶)を許した。文炳は皇太子に拝謁を求めた。帝はこれを許し、また太子に勅して言った、「董文炳の任は甚だ重い。拝謁が終われば即座に行かせよ」。拝謁すると、慰労の諭しは懇切であった。文炳は士選を宿衛に留め、即日、道に就いた。上都に滞在したのは凡そ三日であった。

原文十四年,帝在上都,適北邊有警,欲親將北伐。正月,急召文炳。四月,文炳至自臨安。比至,帝日問來期。及至,即召入。文炳拜稽首曰:「今南方已平,臣無所效力,請事北邊。」帝曰:「朕召卿,意不在是也。豎子盜兵,朕自撫定。山以南,國之根本也,盡以託卿。卒有不虞,便宜處置以聞。中書省、樞密院事無大小,咨卿而行,已敕主者,卿其勉之。」文炳避謝,不許,因奏曰:「臣在臨安時,阿里伯奉詔檢括宋諸藏貨寶,追索沒匿甚細,人實苦之。宋人未洽吾德,遽苦之以財,恐非安懷之道。」即詔罷之。又曰:「昔者泉州蒲壽庚以城降,壽庚素主市舶,謂宜重其事權,使為我扞海寇,誘諸蠻臣服,因解所佩金虎符佩壽庚矣,惟陛下恕其專擅之罪。」帝大嘉之,更賜金虎符。燕勞畢,即聽陛辭,文炳求見皇太子,帝許之,復敕太子曰:「董文炳所任甚重,見畢即遣行。」既見,慰諭懇至。文炳留士選宿衞,即日就道,凡在上都三日。

大都に至り、日に日に中書省・枢密院に赴くも、中書省の案文に署名しなかった。平章政事アフマドは寵愛を恃んで権勢を振るい、生殺与奪を思いのままにし、ただ董文炳だけを畏れて、奸悪な行いをやや収めた。かつて筆を執って請うて言うには、「相公の官は左丞であり、省の案文に署名すべきです」と。再三再四請うたが、文炳は署名しようとしなかった。皇太子はこれを聞き、宮臣のジュフナに言うには、「董文炳の深慮は、お前たちの知るところではない」と。後に或る時私かにその理由を問うと、文炳は言うには、「主上の私に託されたところは、根本の重きにあり、文書移牒の細事ではない。かつ私が少しでも従えば奸を助け、従わなければ讒言を招く。讒言が行われれば身は危うく、付託の本意を深く失うことになる。私はこのゆえに大政には参画し、細務は略するのである」と。

原文至大都,更日至中書、樞密,不署中書案。平章政事阿合馬方恃寵用事,生殺任情,惟畏文炳,奸狀為之少斂。嘗執筆請曰:「相公官為左丞,當署省案。」請至再四,不肯署。皇太子聞之,謂宮臣竹忽納曰:「董文炳深慮,非爾曹所知。」後或私問其故,文炳曰:「主上所付託者,在根本之重,非文移之細。且吾少徇則濟姦,不徇則致讒。讒行則身危,而深失付託本意。吾是以預其大政,而略其細務也。」

十五年夏、文炳は病を得、機務を解くことを奏請した。詔して言うには、「大都は暑さが厳しく、病者に適さない。卿はここに来るがよい、必ずや癒えよう」と。文炳は上都に至り、奏上して言うには、「臣の病は機務を統べるに足りず、西北は高く寒く、筋骨が舒暢であれば、自ずと癒えるでしょう。どうか北辺に尽力させてください」と。帝は言うには、「卿はもとより忠孝であるが、それは行うに足らない。枢密の事は重い。卿を枢密院事僉書とし、中書左丞はもとのままとする」と。文炳は辞したが、許されず、遂に拝命した。八月の天寿節、礼が成って賜宴があり、帝は文炳を上座に座らせ、宗室大臣に諭して言うには、「董文炳は功臣である。理においてこの座に座るべきである」と。毎回尚食の時、上食があれば必ず取り分けて文炳に賜った。この夜、文炳の病が再び発作した。勅して御医に毎日来て診視させる。九月十三日、病篤く、沐浴して坐し、文忠らを召して言うには、「私は先人が王事に死し、国に殉じて辺境で死ねなかったことを恨んでいた。今ここに至るは天命である。願わくば董氏の世々に馬に乗れる男子あらんことを。力を尽くして国に報いよ。そうすれば我が死して瞑目するであろう」と。言い終わり、枕に就いて卒去した。帝は聞き、悼み痛んで久しく、文忠に喪を護って藁城に葬らせ、過ぎる所の官司に礼をもって弔祭させ、金紫光禄大夫・平章政事を追贈し、諡して忠献といった。子に士元・士選あり。

原文十五年夏,文炳有疾,奏請解機務,詔曰:「大都暑熾,非病者宜,卿可來此,固當愈。」文炳至上都,奏曰:「臣病不足領機務,西北高寒,筋骸舒暢,當復自愈,請盡力北邊。」帝曰:「卿固忠孝,是不足行也。樞密事重,以卿僉書樞密院事,中書左丞如故。」文炳辭,不許,遂拜。八月天壽節,禮成賜宴,帝命坐文炳上坐,諭宗室大臣曰:「董文炳,功臣也,理當坐是。」每尚食,上食輒輟賜文炳。是夜,文炳疾復作,敕賜御醫日來診視。九月十三日,疾篤,洗沐而坐,召文忠等曰:「吾以先人死王事,恨不為國死邊,今至此,命也。願董氏世有男能騎馬者,勉力報國,則吾死瞑目矣。」言畢,就枕卒。帝聞,悼痛良久,命文忠護喪葬藁城,令所過有司以禮弔祭,贈金紫光祿大夫、平章政事,諡忠獻。子士元、士選。

士元、一名を不花、字は長卿、文炳の長子である。幼い頃に母を喪い、祖母の李氏がこれを愛し、文炳に言うには、「児が言葉を話せるようになったら、すぐに読書させよ」と。数歳で名儒に従って学を受けた。成長すると、騎射に優れた。憲宗が蜀を征した時、士元は二十三歳、叔父の文蔚に従って鄧州の一軍を率いて西行した。軍が釣魚山に駐屯すると、宋人は堅壁を構えて守りを拒んだ。士元は文蔚に代わって攻撃することを請い、配下の精鋭を率いて先に登り、力戦すること久しく、他の軍が続かなかったため引き返した。憲宗はこれを壮とし、金帛を賜った。

原文士元,一名不花,字長卿,文炳長子也。自襁褓喪母,祖母李氏愛之,謂文炳曰:「俟兒能言,即令讀書。」數歲,從名儒受學。及長,善騎射。憲宗征蜀,士元年二十三,從叔父文蔚率鄧州一軍西行。師次釣魚山,宋人堅壁拒守。士元請代文蔚攻之,以所部銳卒先登,力戰良久,以它軍不繼而還。憲宗壯之,賜以金帛。

中統の初め、文蔚が入って禁兵を統べると、士元は世家の子として選ばれて供奉内班となり、車駕に従って北方を巡狩し、かつて武定山の戦いに参与した。帝はその忠勤を知り、事を任せうるとした。ちょうど文蔚が病没し、子がなかったため、命じて士元に千夫長を襲封させた。出師して南征し襄・漢を攻め、禁兵を分けて淮上に戍らせたが、士元は軍中にあって武備を整え、号令は厳然としていた。

原文中統初,文蔚入典禁兵,士元以世家子選供奉內班,從車駕巡狩北方,嘗預武定山之役。帝知其忠勤可任以事。會文蔚病卒,無子,命士元襲為千夫長。出師南征襄、漢,分禁兵戍淮上,士元在軍中修敕武備,號令肅然。

丞相バヤンが江南を平定したが、宋兵は両淮を保って未だ降らず、士元はしばしばこれと戦い、淮安堡を陥落させ、功により武節将軍に昇進した。太師ボロクンに従って揚州を攻め、軍を湾頭堡に駐屯させた。時は大暑のさなか、ボロクンは病んで京師に帰り、行省のアリが代わって諸軍を統率した。揚州の守将姜才が隙に乗じて攻めてきた。アリはもとより軍事に慣れておらず、軽騎数百を率いて堡を出た。士元と別将のハラトが百騎を率いてこれに従った。日はすでに暮れ、宋兵は万余人が到着した。士元は左右に言うには、「大丈夫の国に報いるのはまさに今日である。恐れるな」と。陣を整えて戦おうとしたところ、アリは急いで左旋回を命じ、やがて遁走した。士元とハラトは配下の兵を率いて敵に赴き死戦し、鬨の声は地を震わし、泥濘で馬を馳せることができず、馬を棄てて歩戦し、四更になって敵衆はようやく退いた。夜明けになって、アリが戦場を視察に来ると、士元が泥の中に臥し、身に十七ヶ所の槍傷を受け、甲と衣裳はことごとく赤く染まり、肩に担がれて営に至り絶命した。四十二歳。ハラトもまた戦死した。

原文丞相伯顏克江南,宋兵保兩淮未下,士元數與戰,拔淮安堡,以功遷武節將軍。從太師博魯歡攻揚州,駐師灣頭堡。時方大暑,博魯歡病還京師,以行省阿里代領諸軍。揚州守將姜才乘隙來攻。阿里素不習兵,率輕騎數百出堡,(元士)〔士元〕與別將哈刺禿以百騎從之。日已暮,宋兵至者萬餘,士元謂左右曰:「大丈夫報國政在今日,勿懼也。」方整陣欲戰,阿里趣令左旋,已乃遁去。士元與哈剌禿以部兵赴敵死戰,鼓譟震地,泥淖馬不能馳,乃棄馬步戰,至四更,敵眾始退。及旦,阿里來視戰地,見士元臥泥中,身被十七槍,甲裳盡赤,肩舁至營而絕,年四十二。哈剌禿亦戰死。

江淮が平定されると、バヤンは入朝して帝に言うには、「淮海の戦役で損じたのは、ただ二将のみです」と。帝がその人を問うと、士元とハラトとを答えた。帝は言うには、「不花は健捷人に過ぎ、昼戦なら必ずや敵を制したであろう。夜戦で死んだのは、甚だ惜しい」と。至大元年、鎮国上将軍・枢密院事僉書を追贈し、諡して節愍といった。後に推誠効節功臣・資徳大夫・中書左丞・護軍を加贈し、趙郡公に追封し、諡を忠愍と改めた。

原文江淮既平,伯顏入朝言於帝曰:「淮海之役,所損者二將而已。」帝問其人,以士元與哈剌禿對。帝曰:「不花健捷過人,晝戰必能制敵,夜戰而死,甚可惜也。」至大元年,贈鎮國上將軍、僉書樞密院事,諡節愍。後加贈推誠效節功臣、資德大夫、中書左丞、護軍,追封趙郡公,改諡忠愍。

士選、字は舜卿、文炳の次子である。幼い頃から文炳に従って軍中に居り、昼は武事を治め、夜は読書を怠らなかった。文炳が総帥として宋兵と金山で戦った時、士選は力戦し、これを大いに破り、海まで追撃して還った。張瑄らが降伏した時、丞相バヤンが陣頭でこれを見て、その驍勇を壮とし、使者を遣わして問うと、初めて文炳の子であることを知った。功を奏上し、金符を佩び、管軍総管となった。戦って数たび功があった。宋が降伏すると、文炳に従って宋の宮中に入り、宋主の降表を取り、その文書図籍を収めたが、静重にして大体を識り、秋毫も私せず、軍中で称えられた。宋が平定され、軍を返すと、詔して侍衛親軍諸衛を置き、士選を前衛指揮使とした。号令は明正で、士大夫の心を得た。間もなく、その職を弟の士秀に譲った。帝はその志を嘉し、命じて士秀に前衛を将とさせ、士選を湖広に行枢密院事同僉とした。久しくして召還された。

原文士選字舜卿,文炳次子也。幼從文炳居兵間,晝治武事,夜讀書不輟。文炳總師與宋兵戰金山,士選戰甚力,大敗之,追至海而還。及降張瑄等,丞相伯顏臨陣觀之,壯其驍勇,遣使問之,始知為文炳子。奏功,佩金符,為管軍總管。戰數有功。宋降,從文炳入宋宮,取宋主降表及收其文書圖籍,靜重識大體,秋毫無所取,軍中稱之。宋平,班師,詔置侍衞親軍諸衞,以士選為前衞指揮使,號令明正,得士大夫心。未幾,以其職讓其弟士秀。帝嘉其意。命士秀將前衞,而以士選同僉行樞密院事於湖廣,久之召還。

宗王ナイヤンが叛くと、帝は親征し、士選を行在所に召し、李勞山とともに漢人諸軍を将いてこれを防がせた。ナイヤンの軍の飛矢が乗輿の前に及んだ時、士選らは歩卒を出して横撃し、その衆は敗走した。緩急進退に礼法があり、帝は甚だこれを善とした。サンガの事が敗露すると、帝は直士を求めて用い、その弊を改めようとし、ここに士選を召して政事を論議させ、中書左丞として平章政事チェリとともに浙西に鎮し、僚属を辟挙することを許した。任地に至り、民の病苦を察し、すべて帝の意のままにこれを除き、民は大いに悦んだ。聚斂の臣で奸利をなす者がおり、事が発覚して罪を得て死に臨んだが、詐って言うには、「派遣した海商が海外から未だ至らない。留めてこれを待たせてください」と。士選は言うには、「海商が至れば捕らえて記録し、至らなければどうしようもない。この人の存亡にかかわることではない。もしこの人がかろうじて生き延びれば、天下に謝するすべがない」と。遂にその罪を究めた。浙には湖沼が多く、広く蓄泄して水旱を防いでいたが、豪民が占拠して耕作することが多く、水の居積する所がなく、故にしばしば水旱があった。士選はチェリと力を合わせてこれを開復した。

原文宗王乃顏叛,帝親征,召士選至行在所,與李勞山同將漢人諸軍以禦之。乃顏軍飛矢及乘輿前,士選等出步卒橫擊之,其眾敗走。緩急進退有禮,帝甚善之。桑哥事敗,帝求直士用之,以易其弊,於是召士選論議政事,以中書左丞與平章政事徹理往鎮浙西,聽辟舉僚屬。至部,察病民事,悉以帝意除之,民大悅。有聚斂之臣為奸利,事發得罪且死,詐言所遣舶商海外未至,請留以待之,士選曰:「海商至則捕錄之,不至則無如之何,不係斯人之存亡也。苟此人幸存,則無以謝天下。」遂竟其罪。浙多湖泊,廣蓄泄以藝水旱,率為豪民占以種藝,水無所居積,故數有水旱,士選與徹理力開復之。

成宗が即位すると、建康に行樞密院を設置した。間もなく、江西行省左丞に任じられた。贛州の賊劉六十が偽りの名号を立て、衆を集めて一万余りに至った。朝廷は兵を遣わしてこれを討たせたが、主将は傍観して退縮し戦おうとせず、守吏はまたこれに乗じて良民をかき乱したため、賊の勢いはますます盛んになった。士選は自ら赴くことを請うた。衆は喜んでこれを託した。即日に道につき、兵の増援を求めず、ただ掾史の李霆鎮・元明善の二人を率い、文書を持って出発した。衆はその行いを測りかねた。贛の境に至ると、民を害する官吏を捕らえてこれを処断した。民は互いに語り合って言った、「官法がこのようであるとは知らなかった」と。進んで興国県に至り、賊の巣窟から百里と離れていないところで、将校を選んで分兵して地を守り、命令を待たせた。乱を激化させた者を察知して、ことごとく法に置き、また奸民で賊の巣窟となっている者を誅した。ここにおいて民は争って出て自ら尽力することを請い、数日を経ずして遂に賊の首魁を擒にし、余衆を散じて農に帰らせた。軍中で賊の作った文書を獲得したが、近隣の郡県の富人の姓名がことごとく記されていた。霆鎮・明善はこれを焼くことを請うた。民心はますます安んじた。使いを遣わして事の平定を朝廷に報告した。中書平章政事不忽木はその使いを召して言った、「董公は功績簿を上奏したのか」と。使いは言った、「某が出発する際、左丞が言葉を授けて言われました、『朝廷がもし軍功について問うならば、ただ鎮撫が無状であったことを述べ、罪を免れることが幸いであり、何の功があって言うことがあろうか』と」。そこでその書状を出したが、ただ贓吏数人を罷免することを請うただけで、賊を破った事については言及していなかった。朝廷の議論は、その大礼を知りながら誇らないことを深く嘆賞した。江南行御史臺中丞に任じられた。清廉と威厳は平素より顕著で、厳しくしなくとも粛然とし、凛然として大臣の風格があった。

原文成宗即位,僉行樞密院於建康。未幾,拜江西行省左丞。贛州盜劉六十偽立名號,聚眾至萬餘。朝廷遣兵討之,主將觀望退縮不肯戰,守吏又因以擾良民,賊勢益盛。士選請自往,眾欣然託之。即日就道,不求益兵,但率掾史李霆鎮、元明善二人,持文書以去,眾莫測其所為。至贛境,捕官吏害民者治之,民相告語曰:「不知有官法如此。」進至興國縣,去賊巢不百里,命擇將校分兵守地待命。察知激亂之人,悉置于法,復誅奸民之為囊槖者。於是民爭出請自效,不數日遂擒賊魁,散餘眾歸農。軍中獲賊所為文書,旁近郡縣富人姓名具在。霆鎮、明善請焚之,民心益安。遣使以事平報于朝。中書平章政事不忽木召其使謂之曰:「董公上功簿邪?」使者曰:「某且行,左丞授之言曰:『朝廷若以軍功為問,但言鎮撫無狀,得免罪幸甚,何功之可言!』」因出其書,但請黜贓吏數人而已,不言破賊事。廷議深歎其知體而不伐。拜江南行御史臺中丞,廉威素著,不嚴而肅,凜然有大臣風。

枢密院事に任じられ、間もなく御史中丞に任じられた。前中丞の崔彧は長く風紀の任にあり、事功を成し遂げるために巧みに周旋した。その死後、不忽木が平章軍国重事としてこれを継いだが、方正で大礼を堅持し、天下はこれを望んだ。しかしすでに病が多く、遂に士選にこれを託した。風采は明らかで優れ、朝廷内外は粛然とした。

原文入僉樞密院事,俄拜御史中丞。前中丞崔彧久任風紀,善斡旋以就事功。既卒,不忽木以平章軍國重事繼之,方正持大體,天下望之,而已多病,遂以屬之士選。風采明俊,中外竦然。

時に丞相完澤が劉深の言葉を用い、八百媳婦国を征討するために出師した。遠く煙瘴の地を冒し、到着しても未だ戦わず、士卒の死者は十のうち七、八に及んだ。民を駆り立てて糧秣を転送して軍に供給させたが、谿谷の間は舟車を通すことができず、必ず背負って運ばなければならなかった。一人が粟八斗を届けるのに、数人を率いてこれを補助し、凡そ数十日を経てようやく届いた。これにより民の死者も数十万に及び、朝廷内外は騒然とした。しかし完澤は帝に説いて言った、「江南の地はすべて世祖が取られたものであり、陛下がこの役を起こさなければ、後世に見るべき功績がありません」と。帝はその言葉を入れ、用兵の意思は非常に固く、故に敢えて諫める者はいなかった。士選は同列を率いてこれを言上し、殿中で奏事を終えると、同列は皆立ち上がったが、士選は独り言った、「今、劉深が出師し、有用の民をもって無用の地を取ろうとしています。仮に取るべきであったとしても、必ず使いを遣わしてこれを諭し、諭しても従わないならば、それから糧を集め兵を選び、時を見て行動すべきです。どうして軽々しく一人の妄言を用いて、百万の生霊を死地に至らせることができましょうか」と。帝の顔色が変わったが、士選はなお明らかに弁じ止まなかった。侍従は皆そのために戦慄した。帝は言った、「事はすでに成った。卿は再び言うな」と。士選は言った、「言葉によって罪を受けるのは、臣の当然のことです。他日、言わないことをもって臣を罪するならば、臣が死んでも何の益がありましょうか」と。帝は手を振って彼を立ち上がらせ、左右がこれを擁して出した。数か月も経たないうちに、帝は軍が敗北したと聞き、慨然として言った、「董二哥の言葉が的中した。私は彼に恥ずかしい」。そこで上尊を賜って直言を表彰し、ようやく兵を罷め、劉深らを誅した。世祖はかつて文炳を董大哥と呼んだので、帝は二哥をもって士選を呼んだのである。久しくして出て江浙行省右丞となり、汴梁行省平章政事に遷り、また陝西に遷った。

原文時丞相完澤用劉深言,出師征八百媳婦國,遠冒煙瘴,及至未戰,士卒死者十已七八。驅民轉粟餉軍,谿谷之間不容舟車,必負擔以達。一夫致粟八斗,率數人佐之,凡數十日乃至。由是民死者亦數十萬,中外騷然。而完澤說帝:「江南之地盡世祖所取,陛下不興此役,則無功可見於後世。」帝入其言,用兵意甚堅,故無敢諫者。士選率同列言之,奏事殿中畢,同列皆起,士選乃獨言:「今劉深出師,以有用之民而取無用之地。就令當取,亦必遣使諭之,諭之不從,然後聚糧選兵,視時而動。豈得輕用一人妄言,而致百萬生靈於死地?」帝色變,士選猶明辨不止,侍從皆為之戰慄,帝曰:「事已成,卿勿復言。」士選曰:「以言受罪,臣之所當。他日以不言罪臣,臣死何益!」帝麾之起,左右擁之以出。未數月,帝聞師敗績,慨然曰:「董二哥之言驗矣,吾愧之。」因賜上尊以旌直言,始為罷兵,誅劉深等。世祖嘗呼文炳曰董大哥,故帝以二哥呼士選。久之出為江浙行省右丞,遷汴梁行省平章政事,又遷陝西。

士選は平生、忠義をもって自ら任じ、特に廉潔で節操があると称された。門生や部曲から、一毫でも献上することを敢えてする者はいなかった。家を治めることは非常に厳しく、孝悌は特に篤かった。時に世家で礼法のある者と言えば、必ず董氏に帰した。賢士を礼敬することは特に至れり尽くせりであった。江西においては、属掾の元明善を賓友とし、既にまた呉澄を得てこれを師とし、虞汲を家塾に招いてその子を教えさせた。諸老儒や西蜀の遺士は、皆書院の禄をもってこれを起用し、その学ぶところを教授させた。南行臺に遷ると、また虞汲の子虞集を招いてともにさせ、後にまた范梈ら数人を得た。皆、文学をもって当時に大いに顕れた。故に世に賢を求め士を薦めることを称するにも、必ず董氏を第一とした。晚年は易を読むことを好み、淡泊としてその身を終えた。官に赴くたびに、必ず先祖伝来の田畑や家屋を売って旅費とし、故に老いてますます貧しく、子孫は布衣の士と異ならず、官に仕える者は往々にして廉吏と称された。

原文士選平生以忠義自許,尤號廉介,自門生部曲,無敢持一毫獻者。治家甚嚴,而孝弟尤篤。時言世家有禮法者,必歸之董氏。其禮敬賢士尤至。在江西,以屬掾元明善為賓友,既又得吳澄而師之,延虞汲於家塾以教其子。諸老儒及西蜀遺士,皆以書院之祿起之,使以所學教授。遷南行臺,又招汲子集與俱,後又得范梈等數人。皆以文學大顯於時。故世稱求賢薦士,亦必以董氏為首。晚年好讀易,澹然終其身。每一之官,必賣先業田廬為行貲,故老而益貧,子孫不異布衣之士,仕者往往稱廉吏云。

子の守忠は、雲南行省参知政事。守慤は、侍正府判官。守思は、威州の知州。

原文子守忠,雲南行省參知政事;守慤,侍正府判官;守思,知威州。

張弘範

張弘範、字は仲疇、張柔の第九子である。馬槊をよくし、やや詩歌を作ることができた。二十歳の時、兄の順天路総管弘略が寿陽の行都に上計する際、弘範を留めて府事を摂らせた。吏民はその明断に服した。蒙古軍が通過する際に暴虐をほしいままにしたので、弘範は杖罰を加えて追い遣り、その境に入って敢えて犯す者はいなかった。

原文張弘範字仲疇,柔第九子也。善馬槊,頗能為歌詩。年二十,時兄順天路總管弘略上計壽陽行都,留弘範攝府事,吏民服其明決。蒙古軍所過肆暴,弘範杖遣之,入其境無敢犯者。

中統初年、御用局総管に任じられた。三年、行軍総管に改め、親王合必赤に従って済南において李璮を討った。張柔は戒めて言った、「汝が城を囲むには険地を避けるな。汝に怠りの心がなければ、兵は必ず死力を尽くす。主将はその険しさを慮る。もし来犯する者があれば、必ず救いに赴くであろう。それによって功を立てることができる。努めよ」と。弘範は城西に営した。李璮が軍を出して諸将の営を突いたが、ただ弘範の方を向かなかった。弘範は言った、「我が営は険地にある。李璮は我に弱みを示している。必ず奇兵をもって来襲し、我が悟らないと思っているのだ」。そこで長い塁を築き、内に甲士を伏せ、外に壕を設け、東門を開いてこれを待った。夜に士卒に命じて壕を浚ってより深く広くした。李璮は知らなかった。翌日、果たして飛橋を擁して攻めてきたが、岸に及ばず、軍は壕の中に陥り、壕を跨いで上る者を得たが、塁門に突入すると、伏兵に遇って皆死に、賊将二人を降した。張柔はこれを聞いて言った、「真に我が子なり」。李璮が誅された後、朝廷は李璮が兵民の権をことごとく専有したために乱を為すことができたことを戒め、大藩の子弟で官にある者を罷めることを議し、弘範も例によって罷められた。

原文中統初,授御用局總管。三年,改行軍總管,從親王合必赤討李璮於濟南。柔戒之曰:「汝圍城勿避險地。汝無怠心,則兵必致死。主者慮其險。苟有來犯,必赴救,可因以立功,勉之。」弘範營城西,璮出軍突諸將營,獨不向弘範。弘範曰:「我營險地,璮乃示弱於我,必以奇兵來襲,謂我弗悟也。」遂築長壘,內伏甲士,而外為壕,開東門以待之,夜令士卒浚濠益深廣,璮不知也。明日,果擁飛橋來攻,未及岸,軍陷壕中,得跨壕而上者,突入壘門,遇伏皆死,降兩賊將。柔聞之曰:「真吾子也。」璮既誅,朝廷懲璮盡專兵民之權,故能為亂,議罷大藩子弟之在官者,弘範例罷。

至元元年、弘略がすでに宿衛に入ると、帝は召見し、その兄弟に順天を守ることを代行できる者がいることを考え、かつ弘範に済南の功績があることを念い、順天路管民総管に任じ、金虎符を佩かせた。二年、大名を守ることに移った。年に大水があり、家屋が流され没し、租税を出すことができなかった。弘範はすぐにこれを免除した。朝廷はその専断を罪とした。弘範は入見を請い、進み出て言った、「臣は思いますに、朝廷が小さな倉を儲けるよりは、大きな倉を儲ける方がよいと」。帝は言った、「どういうことか」。答えて言った、「今年は水害で収穫がなく、必ず民に納入を責めれば、倉庫は実っても、民は死亡してほとんど尽きてしまいます。来年の租税はどこから出しましょうか。どうしてその民を生かし、逃亡に至らせないようにして、毎年恒常的な収穫を得させることが、陛下の大きな倉庫ではないでしょうか」。帝は言った、「大礼を知っている。問うことはするな」。

原文至元元年,弘略既入宿衞,帝召見,意其兄弟有可代守順天者,且念弘範有濟南之功,授順天路管民總管,佩金虎符。二年,移守大名。歲大水,漂沒廬舍,租稅無從出,弘範輒免之。朝廷罪其專擅,弘範請入見,進曰:「臣以為朝廷儲小倉,不若儲之大倉。」帝曰:「何說也?」對曰:「今歲水潦不收,而必責民輸,倉庫雖實,而民死亡殆盡,明年租將安出?曷若活其民,使不致逃亡,則歲有恒收,非陛下大倉庫乎!」帝曰:「知體,其勿問。」

六年、諸道の兵を徴発して宋の襄陽を囲み、益都淄萊等路行軍萬戸に任じ、再び金虎符を佩かせた。朝廷は益都の兵が李璮の教練した卒であり、勇猛で手に負い難いと考え、故に彼にこれを率いさせた。鹿門堡を戍り、宋の糧道を断ち、かつ郢の救兵を絶とうとした。弘範は建言して言った、「国家が襄陽を取るのに、長久の計を立てるのは、人命を重んじてその自滅を待とうとするからです。かつて、夏貴が江の増水に乗じて衣糧を城中に送り入れましたが、我が師は坐視し、これを防ぐ者はいませんでした。その境は南は江陵・帰・峽に接し、商販・行旅・士卒が絡繹として絶えません。どうして自滅する時がありましょうか。万山に城を築いてその西を断ち、灌子灘に柵を設けてその東を絶つべきです。そうすれば、ほぼ速やかに斃れる道でしょう」。帥府はその言葉を用いることを奏上し、弘範の兵千人を移して万山を戍らせた。

原文六年,括諸道兵圍宋襄陽,授益都淄萊等路行軍萬戶,復佩金虎符。朝廷以益都兵乃李璮所教練之卒,勇悍難制,故命領之。戍鹿門堡,以斷宋餉道,且絕郢之救兵。弘範建言曰:「國家取襄陽,為延久之計者,所以重人命而欲其自斃也。曩者,夏貴乘江漲送衣糧入城,我師坐視,無禦之者。而其境南接江陵、歸、峽,商販行旅士卒絡繹不絕,寧有自斃之時乎!宜城萬山以斷其西,柵灌子灘以絕其東,則庶幾速斃之道也。」帥府奏用其言,移弘範兵千人戍萬山。

城が完成すると、将兵とともに東門から出て弓射を競っていると、宋軍が急に襲来した。将佐たちは皆、寡兵で多勢に敵わないから、城に入って守るべきだと述べた。張弘範は言った。「我ら諸君がここにいるのは何事のためか。敵が来たのに戦わぬというのか。退却を口にする者は死罪とする。」すぐに甲冑を着て馬に乗り、偏将の李庭を遣わして前方を防がせ、他の将に後方を攻撃させ、自らは二百騎を率いて長蛇の陣を敷き、命令した。「我が太鼓の音を聞いたら進め。まだ鳴らぬうちは動くな。」宋軍の歩兵と騎兵が交互に陣を突いたが、弘範の軍は動かず、宋軍は二度進んでは二度退いた。弘範は言った。「敵の気勢が衰えた。」太鼓を鳴らすと、前後の軍が奮撃し、宋軍は敗走した。

原文既城,與將士較射出東門,宋師奄至。將佐皆謂眾寡不敵,宜入城自守。弘範曰:「吾與諸君在此何事,敵至將不戰乎?敢言退者死。」即擐甲上馬,立遣偏將李庭當其前,他將攻其後,親率二百騎為長陣,令曰:「聞吾鼓則進,未鼓勿動。」宋軍步騎相間突陣,弘範軍不動,再進再却,弘範曰:「彼氣衰矣。」鼓之,前後奮擊,宋師奔潰。

至元八年(1271年)、一字城を築いて襄陽に迫り、樊城の外郭を破った。九年、樊城を攻撃し、流れ矢が肘に当たったが、傷を包帯して主帥に会い言った。「襄陽と樊城は互いに唇歯の関係にあるため、破ることができない。もし江の水路を遮断し、その援軍を断ち、水陸から挟み撃ちにすれば、樊城は必ず陥落します。樊城が落ちれば、襄陽は何を頼りにできましょうか。」主帥はこれに従った。翌日、再び精鋭の兵卒を繰り出して先に登城させ、ついにこれを陥落させた。襄陽が降ると、宋の将軍呂文煥とともに参内し、錦衣・白金・宝鞍を賜り、将校たちにもそれぞれ恩賞が与えられた。

原文八年,築一字城逼襄陽,破樊城外郭。九年,攻樊城,流矢中其肘,裹瘡見主帥曰:「襄、樊相為唇齒,故不可破。若截江道,斷其援兵,水陸夾攻,樊必破矣。樊破則襄陽何所恃?」從之。明日,復出銳卒先登,遂拔之。襄陽既下,偕宋將呂文煥入覲,賜錦衣、白金、寶鞍,將校行賞有差。

十一年、丞相バヤンが宋を討伐すると、弘範は左部の諸軍を率いて漢江に沿い、東は郢西を攻略し、南は武磯堡を攻めてこれを奪取した。北方の軍が長江を渡るとき、弘範は先鋒となった。宋の宰相賈似道が兵を督いて蕪湖を阻み、殿帥の孫虎臣が丁家洲を占拠した。弘範は転戦しながら前進し、諸軍がこれに続くと、宋軍は潰走し、弘範は長駆して建康に至った。十二年五月、世祖は使者を遣わし、丞相に軽敵や貪欲な進軍を戒め、盛夏であるから、しばらく駐留して待機するよう諭した。弘範が進言して言った。「聖恩が士卒を厚く遇されるのは誠に結構ですが、緩急の判断は、遠くから推し量ることはできません。今、敵はすでに気勢を失っており、まさに破竹の勢いに乗じて、遺策なくこれを取るべき時です。どうして迂遠で緩慢な策を取り、敵に計略を立てる余裕を与えるべきでしょうか。」丞相はこれを認め、駅伝を飛ばして宮廷に至り、情勢を面論し、進軍の旨を得た。

原文十一年,丞相伯顏伐宋,弘範率左部諸軍循漢江,東略郢西,南攻武磯堡,取之。北兵渡江,弘範為前鋒。宋相賈似道督兵阻蕪湖,殿帥孫虎臣據丁家洲。弘範轉戰而前,諸軍繼之,宋師潰,弘範長驅至建康。十二年五月,帝遣使諭丞相毋輕敵貪進,方暑,其少駐以待。弘範進曰:「聖恩待士卒誠厚,然緩急之宜,非可遙度。今敵已奪氣,正當乘破竹之勢,取之無遺策矣。豈宜迂緩,使敵得為計耶?」丞相然之,馳驛至闕,面論形勢,得旨進師。

十二年、瓜洲に駐屯し、兵を分けて柵を立て、その要害を占拠した。揚州都統の姜才が統率する兵は強悍で戦いに長けていたが、この時二万の兵を率いて揚子橋から出撃した。弘範は都元帥アジュを補佐してこれを防ぎ、宋軍と川を挟んで陣を布いた。弘範は十三騎を率いて真っ直ぐに渡河して突撃したが、敵陣は堅固で動かず、弘範は引き下がった。一人の騎兵が馬を躍らせ刀を振るい、まっすぐに弘範に向かってきた。弘範は手綱を返して逆に迎え撃ち、刺し殺すと、手応えとともにたちまち馬の下に倒れ、その兵たちは潰乱した。城門まで追撃し、一万余りの首級を斬り、互いに踏みつけ合い溺死した者は過半に及んだ。宋の将軍張世傑・孫虎臣らが水軍を率いて焦山で決戦した。弘範は一軍を率いて側面から横撃すると、宋軍は敗北した。圌山の東まで追撃し、戦艦八十艘を奪い、捕虜と斬首は数千に及んだ。その功績を上奏すると、亳州万戸に改められ、後にバアトル(抜都)の名を賜った。

原文十二年,次瓜洲,分兵立柵,據其要害,揚州都統姜才所統兵勁悍善戰,至是以二萬人出揚子橋。弘範佐都元帥阿朮禦之,與宋兵夾水陣。弘範以十三騎徑度衝之,陣堅不動,弘範引却。一騎躍馬揮刀,直趣弘範,弘範旋轡反迎刺之,應手頓斃馬下,其眾潰亂,追至城門,斬首萬餘級,自相蹂藉溺死者過半。宋將張世傑、孫虎臣等率水軍於焦山決戰,弘範以一軍從旁橫衝之,宋師遂敗。追至圌山之東,奪戰艦八十艘,俘馘千數。上其功,改亳州萬戶,後賜名拔都。

中書左丞の董文炳に従い、海路から丞相バヤンと合流し、進軍して近郊に駐屯した。宋の君主が降伏の表文を奉り、伯姪の関係を称したが、往復して決着がつかなかった。弘範が命を受けて城に入り、その大臣たちの罪を数え上げると、皆屈服し、ついに称臣の降伏表文を持って来て奉った。十三年、台州が反乱を起こしたが、これを討伐平定し、首謀者を誅殺しただけであった。十四年、軍を返し、鎮国上將軍・江東道宣慰使に任じられた。

原文從中書左丞董文炳,由海道會丞相伯顏,進次近郊。宋主上降表,以伯姪為稱,往返未決。弘範將命入城,數其大臣之罪,皆屈服,竟取稱臣降表來上。十三年,台州叛,討平之,誅其為首者而已。十四年,師還,授鎮國上將軍、江東道宣慰使。

十五年、宋の張世傑が海上で広王趙昺を擁立すると、福建・広東が呼応したため、弘範を派遣してこれを平定させ、蒙古漢軍都元帥に任じた。宮廷を辞する際に上奏して言った。「漢人で蒙古軍を統率した者はおりません。どうか蒙古の信頼できる臣を首帥とされますよう。」帝は言った。「汝は父(張柔)とチャガン(察罕)のことを知っているか。安豊を破ったとき、汝の父は兵を留めて守らせようとしたが、チャガンは従わなかった。軍が南下した後、安豊は再び宋の所有となり、進退ともに拠り所を失いかけた。汝の父は深く悔やんだが、それは任せることに専一でなかったためである。どうして汝に再び汝の父の悔いを持たせることができようか。今、汝に大事を任せる。汝の父の心をもって心とすることができれば、私は汝を賞賛しよう。」面と向かって錦衣と玉帯を賜ったが、弘範は受けず、代わりに剣と甲冑を請うた。帝は武庫の剣と甲冑を出させ、自ら選ばせ、さらに諭して言った。「この剣は、汝の副将である。命令に従わぬ者は、これで処せよ。」出発に際し、李恒を自分の副将に推薦し、帝はこれに従った。

原文十五年,宋張世傑立廣王昺于海上,閩、廣響應,俾弘範往平之,授蒙古漢軍都元帥。陛辭奏曰:「漢人無統蒙古軍者,乞以蒙古信臣為首帥。」帝曰:「汝知而父與察罕之事乎?其破安豐也,汝父欲留兵守之,察罕不從。師既南,安豐復為宋有,進退幾失據,汝父深悔恨,良由委任不專故也,豈可使汝復有汝父之悔乎?今付汝大事,能以汝父之心為心,則予汝嘉。」面賜錦衣、玉帶,弘範不受,以劍甲為請。帝出武庫劍甲,聽其自擇,且諭之曰:「劍,汝之副也,不用令者,以此處之。」將行,薦李恒為己貳,從之。

揚州に至り、将校と水陸二万の兵を選んで分道南征し、弟の張弘正を先鋒とした。戒めて言った。「汝を選んで驍勇とさせるのは、私情によるものではない。軍法は重い。私は私情をもって公務を曲げることはできない。努めよ。」弘正の向かうところ勝利した。三江寨を攻撃した。寨は要害に拠り高所に乗じていたため、近づくことができず、そこで軍を連ねてこれに向かった。寨の中では弓を引き絞って待ち構えていた。弘範は下馬して朝食をとるよう命じ、持久戦の構えを見せた。弓を引き絞る者は疑って動かず、他の寨も不意を突かれた。突然、軍を指揮して連続して数寨を陥落させ、引き返して三江寨を攻め、ことごとく陥落させた。漳州に至り、その東門に軍を置き、別将に南門・西門を攻撃させ、その隙に北門を破って陥落させた。鮑浦寨を攻撃し、またも陥落させた。これにより沿海の郡邑は皆、風の便りを聞いて降伏帰附した。五坡嶺で宋の丞相文天祥を捕らえ、拝礼をさせたが屈せず、弘範はその義を重んじて賓客の礼をもって遇し、京師に送った。宋の礼部侍郎鄧光薦を捕らえ、子の張珪に命じて師事させた。

原文至揚州,選將校水陸二萬,分道南征,以弟弘正為先鋒,戒之曰:「選汝驍勇,非私汝也。軍法重,我不敢以私撓公,勉之。」弘正所向克捷。進攻三江寨,寨據隘乘高,不可近,因連兵向之,寨中持滿以待。弘範下令下馬治朝食,若將持久者。持滿者疑不敢動,而他寨不虞也。忽麾軍連拔數寨,迴擣三江,盡拔之。至漳州,軍其東門,命別將攻南門、西門,乃乘虛破其北門,拔之。攻鮑浦寨,又拔之。由是瀕海郡邑皆望風降附。獲宋丞相文天祥于五坡嶺,使之拜,不屈,弘範義之,待以賓禮,送至京師。獲宋禮部侍郎鄧光薦,命子珪師事之。

十六年正月庚戌、潮陽港から船を出して海に入り、甲子門に至り、宋の斥候将の劉青・顧凱を捕らえ、広王の所在を知った。辛酉、崖山に駐屯した。宋軍の千余艘の船が海中に碇を下ろし、その上に楼櫓を建てており、隠然たる堅固な堡塁のようであった。弘範は水軍を率いてこれに向かった。崖山は東西に対峙し、その北側は水が浅く、船が座礁し、潮が来なければ進めない。そこで山の東から南に回り込んで大洋に入り、ようやくその船団に接近することができた。さらに奇兵を出してその水汲みの道を断ち、その宮室を焼いた。世傑の甥が弘範の軍中にいた。三度使者を遣わして招いたが、世傑は従わなかった。甲戌、李恒が広州から到着し、二隻の戦艦を与えて北面を守らせた。

原文十六年正月庚戌,由潮陽港發舶入海,至甲子門,獲宋斥候將劉青、顧凱,乃知廣王所在。辛酉,次崖山。宋軍千餘艘碇海中,建樓櫓其上,隱然堅壁也,弘範引舟師赴之。崖山東西對峙,其北水淺,舟膠,非潮來不可進,乃由山之東轉南入大洋,始得逼其舟,又出奇兵斷其汲路,燒其宮室。世傑有甥在弘範軍中,三使招之,世傑不從。甲戌,李恒自廣州至,授以戰艦二,使守北面。

二月癸未、戦おうとしたとき、ある者がまず砲を使うよう請うた。弘範は言った。「火が起これば船は散り散りになる。戦うに及ばない。」翌日、軍を四つに分け、東・南・北の三面に配置した。弘範は自ら一軍を率いて一里余り離れ、命令した。「宋の船は潮が満ちてくれば必ず東へ逃げようとする。急いで攻撃し、逃がすな。我が楽の音が鳴り始めたら戦え。命令に背く者は斬る。」まず北面の一軍に指揮を取らせ、潮に乗って戦わせたが、勝利できず、李恒らは潮の流れに沿って退却した。楽が鳴り始めると、宋の将軍は宴会でもするのかと思い、少し気を緩めた。弘範の水軍がその前面を攻撃し、諸軍がこれに続いた。あらかじめ船尾に戦闘用の楼閣を造り、布の幕で覆い隠し、将兵に命じて盾を背負って伏せさせ、命令した。「銅鑼の音を聞いたら立ち上がって戦え。銅鑼より先に妄りに動く者は死罪だ。」飛び交う矢はハリネズミのようであったが、盾の下に伏せた者は動かなかった。船が接舷しようとする時、銅鑼を鳴らして幕を撤去し、弓弩と火砲石が交錯して発射され、たちまち七艘の船を同時に破り、宋軍は大敗した。宋の臣下が主君の趙昺を抱いて水に赴き死んだ。その符璽印章を奪い取った。世傑は先に逃げ、李恒が大洋まで追ったが及ばなかった。世傑は交趾へ逃げたが、風で船が破損し、海陵港で死んだ。その他の将吏は皆降伏した。嶺南から海南までことごとく平定し、崖山の南面を磨き、石に功績を刻んで記念し、帰還した。

原文二月癸未,將戰,或請先用砲。弘範曰:「火起則舟散,不如戰也。」明日,四分其軍,軍其東南北三面,弘範自將一軍相去里餘,下令曰:「宋舟潮至必東遁,急攻之,勿令得去,聞吾樂作乃戰,違令者斬。」先麾北面一軍乘潮而戰,不克,李恒等順潮而退。樂作,宋將以為且宴,少懈,弘範舟師犯其前,眾繼之。豫構戰樓於舟尾,以布幙障之,命將士負盾而伏,令之曰:「聞金聲起戰,先金而妄動者死。」飛矢集如蝟,伏盾者不動。舟將接,鳴金撤障,弓弩火石交作,頃刻并破七舟,宋師大潰。宋臣抱其主昺赴水死。獲其符璽印章。世傑先遁,李恒追至大洋不及。世傑走交趾,風壞舟,死海陵港。其餘將吏皆降。嶺海悉平,磨崖山之陽,勒石紀功而還。

十月、朝廷に入り、内殿にて宴を賜い、慰労甚だ厚し。未だ幾ばくもせず、瘴癘の疾発作す。帝、尚医を命じて診視せしめ、近臣を遣わして薬を用いるを臨議せしめ、衛士を敕して門を監せしめ、雑人を止めて其の病を擾さしめず。病甚だしく、沐浴して衣冠を易え、扶掖して中庭に至り、闕に面して再拝す。退きて坐し、酒を命じて楽を作し、親故と別れを言ふ。賜はりし所の剣甲を出だし、命じて嗣子の珪に付して曰く、「汝の父は是を以て功を立てたり、汝佩服して忘るるなかれ」と。語竟はりて、端坐して卒す。年四十三。銀青栄禄大夫・平章政事を贈り、諡して武烈と曰ふ。至大四年、推忠効節翊運功臣・太師・開府儀同三司・上柱国・斉国公を加贈し、諡を改めて忠武と曰ふ。延祐六年、保大功臣を加へ、淮陽王に加封し、諡して献武と曰ふ。子の珪は、自ら伝有り。

原文十月,入朝,賜宴內殿,慰勞甚厚。未幾,瘴癘疾作,帝命尚醫診視,遣近臣臨議用藥,敕衞士監門,止雜人毋擾其病。病甚,沐浴易衣冠,扶掖至中庭,面闕再拜。退坐,命酒作樂,與親故言別。出所賜劍甲,命付嗣子珪曰:「汝父以是立功,汝佩服勿忘也。」語竟,端坐而卒。年四十三。贈銀青榮祿大夫、平章政事,諡武(略)〔烈〕。至大四年,加贈推忠效節翊運功臣、太師、開府儀同三司、上柱國、齊國公,改諡忠武。延祐六年,加保大功臣,加封淮陽王,諡獻武。子珪,自有傳。