汪世顯(子)德臣・良臣・惟正
汪世顯、字は仲明、鞏昌塩川の人。系は旺古族に出自す。金に仕え、屡々戦功を立て、官は鎮遠軍節度使・鞏昌便宜総帥に至る。金が平らぎ、郡県は風に望んで款附すれども、世顯独り城を守る。皇子闊端が兵を城下に駐めるに及び、始めて衆を率いて降る。皇子曰く、「我四方を征し、至る所皆下る。汝独り固守す、何ぞや」と。対えて曰く、「臣敢えて主に背き節を失わざるのみ」と。又問うて曰く、「金亡びて久し、汝降らず、果たして誰が為ぞや」と。対えて曰く、「大軍迭り至り、適従すべきを知らず。惟だ殿下の仁武にして殺さざるを、窃かに必ず能く闔城の軍民を保全せんと意う。是を以て降るなり」と。皇子大いに悦び、制を承けて世顯に章服を賜い、官は其の旧に従わしむ。
即ち南征に従い、嘉陵を断ち、大安を擣つ。田・楊諸蛮は陣を結びて敵を迎う。世顯は軽騎を以て馳せて之を撓ます。宋の曹将軍は潜かに兵を相為して掎角す。世顯は単騎を以て之を突き、数十人を殺す。黎明、大軍四より合し、其の主将を殺し、武信に入り、遂に資・普に進みて逼る。軍を葭萌にす。宋将は山に依りて柵を為す。世顯は数騎を以て往きて之を奪い、勝に乗じて資州を定め、嘉定・峨眉を略す。進みて開州に次ぐ。時に方に泥潦たり。間道より攀縁して以て達す。宋軍は万州南岸に屯す。世顯は即ち水北に船を造りて以て之を疑わしめ、夜に上游より革舟を鼓して襲い之を破る。宋師大いに擾い、奔を追うて夔峡に至り、巫山を過ぎ、宋の援軍と遇い、首三千余級を斬る。明年、師還りて重慶を攻む。大暑に会す。乃ち罷めて帰る。太宗に覲し、金符を賜い、其の名を易えて中山と為し、且つ歴数其の功。世顯拝謝して曰く、「此れ皆聖明の福德の致す所、臣何ぞ預からんや」と。
辛丑、蜀帥陳隆之、書を貽して戦を請い、声言して衆百万有りとす。皇子諸将を集めて之を議う。咸に隆之を生擒すべしと謂う。世顯曰く、「敵に臨むに何如なるかを顧みよ。誇辞を用いる無かれ」と。軍を成都に薄む。隆之戦いて屡々却き、壁を堅くして出でず。其の部曲田顯、夜に降らんと約す。隆之之を覚る。世顯曰く、「事急なり」と。亟に城に梯して入りて顯を救い、従者七十余人と出でるを得、隆之を獲て之を斬る。世顯復た精鋭五百人を簡び、漢州を擣つ。州兵三千出でて戦う。城閉ざし、尽く没す。三日、大軍其の城に薄む。又三日、之を克つ。
子七人: 忠臣、鞏昌便宜副総帥。次に徳臣。次に直臣、鞏昌中路都総領、王事に歿す。次に良臣。次に翰臣、奥魯兵馬都元帥。佐臣、鞏昌左翼都総領、王事に歿す。清臣、四川行枢密院副使。
徳臣、賜名して田哥、字は舜輔。年十四、太子に侍して游猟し、矢虚発する無し。爵を襲いて鞏昌等二十四路便宜都総帥と為り、蜀征に従い、前軍を将いて忠・涪より出で、向う所克ち獲る。運山を攻め進み、麾下を率いて先んず。乗ずる所の馬飛石に中りて死す。歩戦して外城を抜く。宋将余玠、漢中を攻む。徳臣馳せて之に赴く。玠聞きて遁去す。
憲宗素より其の名を聞く。入覲するに及び、陳ぶ所悉く嘉納せられ、印符を賜い、沔州を城せしむ。沔は嘉陵の要路に据わる。徳臣室廬を繕治し、官属を部署し、数日にして集う。嘉定を攻め進む。敵潜かに軍を夜に出だす。徳臣迎え戦い、百人を殺す。還りて左綿雲頂に至る。宋軍夜に乗じて営を斫つ。之を覚り、千人を殺し、百人を生擒す。進みて隆慶に次ぐ。宋軍仍りて夜に出で、力戦して之を尽く殺す。馬漕溝に及び、伏兵に遇い、戦いて其の統制羅廷鶚を獲る。又詔して徳臣に益昌を城せしむ。諸戍皆節制を聴す。世祖皇弟として西南に事有り。徳臣入見し、益昌の賦税及び徭役漕糧を免じ、屯田を以て長久の計と為さんことを乞う。並びに之に従う。即ち命じて行部を鞏に置き、漕司を沔に立て、販鬻を通じ、餽餉を給す。奏して兄忠臣に府事を摂せしめ、己をして専ら益昌に事を得しめんことを乞う。益昌は蜀の喉襟たり。蜀人其の威名を憚り、諸郡環視して、敢えて出で鬭う者無し。
甲寅春、旱す。嘉陵漕舟水澀む。議者棄て去らんと欲す。徳臣曰く、「国家蜀の事を我に託す。死有るのみ。奈何ぞ之を棄てんや」と。乗ずる所の馬を尽く殺して士に饗す。嘉川を襲い、糧二千余石を得。雲頂の呂達、兵五千を将いて邀え戦う。即ち陣に之を擒にし、復た糧五千石を得。既にして魚関・金牛の水陸運偕に至り、屯田の麦も亦登る。食用遂に給す。
夏、宋の提轄崔忠・鄭再立を獲、檄を持ちて苦竹を諭せしめんことを縦令す。守将南清城を以て降る。俘うる所の城中の民悉く之に帰す。東南の戍卒数百、去るの志有り。徳臣之を揣み知り、券を給して縦ち去らしむ。皆泣謝す。未だ幾ばくもせず、山寨相継ぎて款を輸す。宋将余晦、都統甘閏を遣わし、兵数万を以て紫金山を城す。徳臣即ち精卒を選び、枚を銜みて夜進み、大いに之を破る。閏僅かに身を以て免る。南清北覲す。其の下清の妻子を殺して以て叛く。蜀将焦遠兵を領いて之に餉う。徳臣遠を撃ち破り、餉う所の資糧を尽く獲る。冬、蜀兵二万復た至る。又之を敗り、糧百余艘を獲る。魚関より沔水に至るまで、迂回して渡りを為すこと百有八。是に至り、悉く橋梁と為す。
戊午の年、帝(モンケ)親征し、漢中に駐屯し、徳臣は行在所に参朝した。初め、諸路の軍が成都に至り、突然宋人に包囲された時、徳臣は将を派遣して救援し、約束して言った。「先に敵を破った者に、この城を領するよう奏上する。」包囲はこれにより解けた。詔して、江南の事が定まるのを待ち、約束通りに城を与えることとした。帝が益昌に至り、北山に駐在し、徳臣に言った。「来る者が汝の利州での功績を言うが、今汝の身を見ると甚だ小さいが、胆は甚だ大きい。敵がかつて汝の城に迫ったことがあるか知らない。」徳臣は答えて言った。「陛下の洪福に頼り、一度も来たことはありません。」帝は言った。「彼らは卿の威名を憚っているのだ。」金帯を賜い、かつ石碑を立てて功績を記すよう命じた。嘉陵江と白水が合流する所は、水勢が激しく急であった。帝が問うた。「船は幾つあれば渡れるか。」徳臣は言った。「大軍百万は、滞ることができません。別の方策を立てるべきです。」即ち命じて舟を繋いで橋とし、一晩で完成し、平坦な道を歩むようであった。帝は諸王を顧みて言った。「汪徳臣の言葉は虚しく発せられることはない。」白金三十斤を賜い、なお石碑を刻んで功績を記すよう命じた。苦竹が既に命令に背いたので、ここに至ってこれを攻めた。岩壁が険しく絶えているので、ある者が天橋を架けることを請うた。帝が徳臣に問うと、言った。「臣は先登して敵陣を陥れることだけを知り、橋を架けることは知りません。」やがて橋は果たして功を奏さなかった。そこで将士を率いて魚貫として進んだ。帝が遠望して、嘆じて言った。「人がその胆勇を言うのは、虚誉であろうか。」宋の将趙仲武が降伏を申し出たが、楊礼はなおも抗戦したので、奮撃してことごとくこれを殺した。徳臣が軽い病気にかかった。帝が労って言った。「汝の病気は皆わが家のためである。」葡萄酒を飲ませ、玉帯を解いて賜い、言った。「わが酒を飲み、わが帯を着けよ。病気は癒えるであろうか。」徳臣は泣いて謝した。宋の龍州守将王徳新は親しい者を遣わして順従を願い、郡民のために祈ることを条件とした。奏上してその請いの通りにした。長寧を攻撃し、これを抜き、守将王佐を斬った。
子六人あり。長子は惟正。次は惟賢(大司徒)。惟和(昭文館大学士)。惟明(質子として元帥となる)。惟能(征西都元帥)。惟純(権便宜都総帥)。
良臣は、十六、七歳の時から兄徳臣に従って出征した。戦うごとに常に前鋒となり、功により裨帥に抜擢され、便宜都府参議を兼ねた。癸丑の年、徳臣の推薦により、鞏昌帥となり、配下の兵を率いて白水に屯田し、蜀の辺境の砦は再び略奪に出ることを敢えてしなかった。憲宗(モンケ)親征し、軍が六盤山に至ると、良臣は鞏昌に還り、必要な物資を供給し、事は集まり民は擾乱されなかった。詔して便宜総帥府事を権行させた。良臣は奏上した。「願わくは兄徳臣とともに力を尽くして四川を平定したい。」帝は言った。「行軍の糧秣輸送は、軽んじられぬことである。汝がその責を担えば、自ら功を立てることができよう。」良臣は命を受けると、橋梁を整え、道路を平らにし、舟車を営み、水陸に滞りなく、蓄積は満ちあふれた。旨があり、黄金と弓矢を賜い、その才能を表彰した。
世祖(クビライ)が即位すると、阿藍台児と渾都海が命に背き、六盤の府庫を掠奪し、西辺が騒動した。詔して良臣に討伐させた。兵が山丹に至り、営を置き、兵を押さえて戦わないこと凡そ二月。俄かに大軍が耀碑谷に至った。両軍が対峙すると、良臣は慷慨として諸将に誓って言った。「今日のことは、国の安危にかかっている。勝てば富貴を保つことができ、敗れれば身は殺され家は滅びる。もし命を用いることができれば、たとえ戦場で死んでも、忠孝の名を失わない。」衆はこれを聞き、勇躍して前進した。ちょうど大風が砂を舞い上げ、昼も暗くなった。良臣は自ら数十人を斬り、賊の勢いは沮喪した。衆軍は勝に乗じてこれを撃ち、賊は大いに潰走し、阿藍台児と渾都海を捕らえてこれを殺し、西辺は平穏になった。捷報が聞こえると、金虎符を賜い、便宜都総帥を権行した。
至元六年、東川副統軍を授かった。八年、兄の子惟正が朝廷に請い、良臣が長く軍務に労しているので、自らが代わりたいと乞うた。九年、また良臣に昭勇大将軍、鞏昌等二十四処便宜都総帥を授け、兼ねて本路諸軍オルド総管とした。翌年、召し入れると、帝は言った。「成都は兵乱に遭うこと久しい。卿が安集する必要がある。」鎮国上将軍、枢密副使、西川行枢密院事を授け、蜀人は安堵した。十一年、嘉定を攻撃し、昝万寿は堅守して出て来なかった。良臣は伏兵があると推測し、山谷を大いに捜索すると、果たして得てこれを殺し、陣を進めて城に迫った。万寿は全軍を出して戦ったが、大いにこれを破り、伏した死体が江を蔽った。万寿は降伏を乞うた。良臣は奏上してその死を免じ、居民は安堵した。良臣は兵を統率して順流而下り、紫雲、瀘州、敍州が相継いで帰順した。還って重慶を包囲した。
子七人あり。惟勤(雲南諸路行省平章政事)。惟簡(保寧万戸)。惟某(同知屯田総管府事)。惟永(征西都元帥)。惟恭(階州同知)。惟仁(人匠総管ダルガチ)。惟新(漢軍千戸)。
惟正は字を公理といい、幼少より聡明であった。蔵書二万巻を有し、文人とともに古今の治乱を論議することを好み、特に兵法を談ずることを喜んだ。時に出遊して狩猟する際には、従騎を指揮して攻守の陣形をとらせた。父が軍中で卒すると、皇姪の寿王が彼に父の爵位を継承させ、青居山を守らせた。世祖が即位すると、正式にこれを授けられた。初め、憲宗は渾都海に騎兵二万を率いさせて六盤を守らせ、また乞台不花を青居に守らせたが、この時、渾都海が叛き、乞台不花が兵を起こしてこれに呼応しようとした。惟正はただちに力士に命じて乞台不花を縛らせ、これを殺した。世祖はその功を嘉し、詔して東川の軍事はすべて彼の処分に従うこととした。
至元七年、宋人が合州を修築したので、詔して武勝軍を立ててこれに抗させた。惟正は嘉陵江に臨んで柵を築き、その水路を扼した。夜には柵の間に灯を懸け、竹を編んで籠とし、その中に火炬を置き、地勢に順って転走させ、百歩外を照らして不測の事態に備えた。宋人は備えあることを知り、敢えて近づかなかった。九年、兵を率いて忠州・涪州を掠め、令・簿各一名を捕らえ、七つの寨を破り、守将六名を生け捕りにし、千六百余戸を降し、五百名を捕虜とした。ちょうど丞相伯顔が襄陽を陥落させ、宋を取ることを議した時、惟正は上奏して言った、「蜀で未だ下らぬものは、数城のみである。余力を併せて余杭を攻めるべきである。本根(根本)が既に抜かれれば、これ(蜀の諸城)はどこへ行くというのか。願わくは本兵をもって、嘉陵江を下り夔峡を経て、伯顔と銭塘で会したい。」帝は優詔をもって答えられた、「四川の事は重い。卿を措いて誰に託せようか。他日蜀が平定されれば、その功は伯顔に劣るものか。」間もなく、両川枢密院が兵を合わせて重慶を包囲したので、兵を増やしてこれを助けるよう命じられ、惟正はその洪崖門を奪い、宋の将である何統制を捕らえた。皇子安西王が秦蜀に出鎮することとなり、惟正を召し還した。
子二人。嗣昌は武略將軍・成都管軍副萬戸。寿昌は資德大夫・江南行御史臺中丞。
史天澤の事績
史天澤は字を潤甫といい、秉直の末子である。身長八尺、声は洪鐘の如く、騎射に優れ、勇力は人に絶していた。兄の天倪に従って真定を統帥した。乙酉の年、天倪は彼に母を護送して北京に帰らせた。まもなく天倪が武仙に害されると、府僚の王縉・王守道が燕で天澤に追いつき、言った、「変事が突然起こり、部曲は散り散りに逃走し、多くは近郊におります。公が轡を回して南行されれば、招かずとも自ら集まるでしょう。」天澤は毅然として言った、「兄弟の仇は、義として復すべきものである。死をも避けぬ、まして死なぬとも限らぬのに。」ただちに資財装備を傾け、甲冑兵器と交換し、南還した。行くこと満城に至り、士馬を多く得た。天澤は軍事を代行し、監軍李伯祐を国王孛魯のもとに遣わして状況を言上させ、かつ援軍を請うた。
天澤は当時帳前軍総領であった。孛魯は制命を承けて兄の職を継ぎ都元帥とするよう命じた。笑乃䚟に蒙古軍三千人を率いさせてこれを援けさせ、勢いを合わせて盧奴を攻撃した。武仙の驍将である葛鐵槍という者が、衆一万人を擁して来て防戦した。天澤はこれを迎え撃ち、自ら士卒の先頭に立ち、勇気は百倍した。賊は退いて泒河に阻まれ、夜に乗じて逃げ去った。天澤は追いつき、葛鐵槍を生け捕りにし、残りの衆は悉く潰走し、その兵甲輜重を獲得し、軍威は大いに振るった。遂に中山を下し、無極を攻略し、趙州を抜き、進軍して野頭に至った。ちょうど天澤の兄天安も兵を提げて来援し、武仙を撃ってこれを破り、武仙は双門に奔り、遂に真定を回復した。
間もなく、宋の大名総管彭義斌がひそかに武仙と結び、真定を取ろうとした。天澤は笑乃䚟とともにこれを贊皇で扼し、武仙を進ませなかった。義斌は勢いが窮し、山を焼いて自ら守った。天澤は鋭卒五十人を遣わし、鋒を摧いて突入させ、自らは鉄騎を率いてその後に続き、義斌を縛り斬った。
間もなく、武仙は再び諜者を遣わし、城中の大曆寺で死士を結んで内応させ、夜に関を斬って入り、その城を占拠した。天澤は歩卒数十人を引き連れ、城東を越えて出て、藁城に至り、董俊に援けを求めた。董俊は鋭卒数百人を授け、夜に真定に赴かせた。笑乃䚟の兵もまた至り、叛いた者三百余人を捕らえた。武仙は数騎を従え、西山の抱犢寨に逃れて保った。笑乃䚟は民が賊に従ったことに怒り、一万余人を駆り立てて殺そうとした。天澤は言った、「彼らは皆我が民である。ただ賊に脅迫されたに過ぎぬ。何の罪があって殺すのか。」力爭して釈放させた。そこで城壁を繕い、楼櫓を立て、犯し難き計をなし、流散する者を招集し、困窮する者を存恤した。抱犢などの諸寨は、武仙の巣窟であり、直ちにこれを覆滅しなければ、終に後患を遺すと考え、急攻してこれを下し、武仙は遂に遁走した。続いてまた蟻尖・馬武などの寨を取り、相州・衞州もまた降った。
己丑の年、太宗が即位し、三萬戸を立てて漢兵を分統することを議した。天澤はちょうど入朝しており、真定・河間・大名・東平・済南の五路萬戸に任じられた。庚寅の冬、武仙が再び衞州に兵を屯めた。天澤は諸軍を合わせてこれを包囲した。金の将完顏合達が衆十万を率いて来援し、戦いは不利となり、諸将は皆敗走した。天澤のみが千人を率いてその背後に回り、一つの都尉軍を破り、大軍と合流してこれを攻撃し、武仙は逃げ去り、遂に衞州を回復した。
壬辰の春、太宗は白坡より河を渡り、天沢に兵を率いて孟津より河南に会するよう詔し、到着すると睿宗は既に合達の軍を三峯山に破っていた。そこで命じて京東の地を攻略させ、太康・柘県・瓦岡・睢州を降伏させ、陽邑において金の将完顔慶山奴を追撃斬殺した。夏、帝は北還し、睿宗を留めて兵を総括させて汴を包囲させた。
癸巳の春、金主は包囲を突破して出奔し、完顔白撒に黄龍岡より新衞を襲撃させた。天沢は軽騎を率いて馳せ赴き、到着する頃には包囲は既に完了していた。天沢は奮って戈を突き進めて城下に至り、守備兵に呼びかけて「汝らは努めよ、援兵が今に至らん」と言い、再び躍り出た。その兵は皆披靡し、遂に大軍と挟撃して白撒らを敗走させ蒲城に至らしめ、天沢はその後を追った。白撒らの兵は尚八万あったが、捕虜斬殺すること殆ど尽き、金主は単舸で東走して帰徳に至った。天沢は帰徳まで追撃し、諸軍と会合した。新衞の達魯花赤撒吉思不花は城に迫り水を背にして営を張ろうとしたが、天沢は「これ豈に兵を駐める地たるや。彼若し来犯せば、則ち進退拠る所を失わん」と言ったが、聞き入れられなかった。折しも天沢は事あって汴に赴き、戻る頃には撒吉思不花の全軍は皆没していた。金主は蔡に遷り、帝は元帥倴盞に命じて大軍を率いて包囲させた。天沢はその北面を担当し、筏を結んで潜かに汝水を渡り、連日血戦した。甲午の春正月、蔡は陥落し、金主は自縊して死に、天沢は真定に還った。
当時は政煩わしく賦重く、西北の商人から借金して納税に代え、利息を累倍し、これを羊羔利と称し、民は支給できなかった。天沢は上奏して官が元本と利息を一度だけ償うよう請うた。続いて凶作となり、借金で貢賦を充て、積み立てた銀は一万三千錠に至った。天沢は家財を傾け、一族と官吏を率いて代わりに償った。また中戸を軍とし、上下戸を民とするよう請い、定籍として著し、境内は以て寧かになった。
金が滅亡し、軍を移して宋を伐った。乙未、皇子曲出に従って棗陽を攻め、天沢は先鋒として登城し、これを陥落させた。襄陽を攻めるに及んで、宋兵は舟数千を峭石灘に陳列した。天沢は二隻の舟に決死隊を載せ、直ちに突撃してこれを破り、溺死転覆した者は万を数えた。丁酉、宗王口溫不花に従って光州を包囲し、天沢は先ずその外城を破り、子城を攻めてまたこれを破った。軍は復州に駐屯した。宋兵は舟三千で湖面を鎖し柵とした。天沢は「柵が破れれば、復州は自ずから潰れよう」と言い、自ら桴鼓を執り、勇士四十人を督いてその柵を攻め、時を踰えずして柵は破れ、復州の人は懼れて降伏を請うた。寿春を進攻し、天沢は独り一面を担当した。宋兵が夜に出て陣営を斬り込んできたので、天沢は手ずから数人を撃殺し、麾下の兵が続いて至り、その兵を悉く淮水に追い込んで死なせ、勝に乗じて南進し、向かう所ことごとく勝利した。
壬子、入朝して拝謁し、憲宗は衞州五城を賜って分邑とした。世祖は当時藩邸にあって、漢地の治まらぬこと、特に河南の甚だしいことを極めて知り、天沢を経略使とするよう請うた。着任すると利を興し害を除き、政として挙げられざるはなく、郡邑の長官・次官の中で特に貪横な者二人を誅し、境内は大いに治まった。阿藍答兒が諸路の財賦を鉤較し、鍛錬羅織して至らざる所なく、天沢は勲旧として独り優遇されたが、天沢は「我は経略使である。今我を責めずして余人を罪するは、我何ぞ安からんや」と言い、これにより釈放される者が甚だ多かった。
戊午の秋、憲宗に従って宋を伐ち、西蜀より入った。己未の夏、合州の釣魚山に駐屯した。軍中に大疫が流行し、ちょうど撤兵を議していたところ、宋の将呂文德が艨艟千余りで嘉陵江を溯上してきた。北軍は迎撃したが利あらず、帝は天沢に防がせた。そこで軍を両翼に分け、江を跨いで射撃させ、自ら舟師を率いて流れに順って縦撃し、三戦三勝してその戦艦百余隻を奪い、重慶まで追撃して還った。
初め、天沢が出発する際、帝は軒に臨んで詔を授け、専征を責め、諸将をして皆その節度を聴かしめた。天沢は未だかつて詔を人に示さず、帰還すると帝は慰労したが、功績を悉く諸将に帰し、その慎密謙退この如かった。天沢は憲宗の時に嘗て上奏したことがある。「臣は初め先兄天倪の軍民の職を摂行し、天倪には二子あり、一子は民政を管し、一子は兵権を掌り、臣また入って寄遇を叨む。一門の内に三つの要職を処すは、分として辞すべき所、臣は退休すべし」。帝は「卿は奕世忠勤、国に労あり。一門三職、何ぞ愧じ何ぞ嫌わんや」と言い、遂に許さなかった。この時に至り、言う者あるいは李璮の変は諸侯の権が太重きに由るとした。天沢は遂に上奏した。「兵民の権は一門に併せてはならず、行うには請うて臣の家より始めん」。ここにおいて史氏の子姪で即日兵符を解いた者は十七人であった。
天沢は平素より自らその才能を誇ることなく、大節に臨み、大事を論ずるに及んでは、毅然として天下の重きを以て自ら任じた。四十歳にして初めて節を折りて書を読み、特に『資治通鑑』に熟達し、論を立てること多く人の意表に出づ。宰相に拝された日、門庭は悄然としており、ある者より権を以て自ら張るよう勧められたが、天沢は唐の韋澳が周墀に告げた言葉を挙げて言った、「相公に権無からんことを願う。爵禄刑賞は、天子の柄である、何を以て権と為さんや!」これによりてこれを謝し、言った者は慚じて服した。金の末年に当たり、名士が流寓して所を失うと、皆その生計を整えて賓礼し、後に多く顕達に至らしめた。帰徳を破った時、李大節を釈放して殺さず、真定に送り、参謀に署した。衛を食邑とし、王昌齢にこれを治めさせたが、旧人は多く不平を抱きながらも離間することができず、その人を知る明察、人を用いる専一はこのようであった。これにより将相に出入すること五十年、上は疑わず下は怨むことなく、人はこれを郭子儀・曹彬に比したという。
子の格は湖広行省平章政事、樟は真定順天新軍万戸、棣は衛輝路転運使、杠は湖広行省右丞、杞は淮東道廉訪使、梓は同知澧州、楷は同知南陽府、彬は中書左丞。
格は字を晉明という。壬子の歳、憲宗は天沢に衛城を賜い、格に節度使を授けた。憲宗が崩じると、格は北に留まって謙州にあり、五年して帰り、鄧州旧軍万戸となった。その後また張弘範に代わって亳州万戸となり、以前率いていた鄧州旧軍を弘範に授けた。襄陽攻めに従い、襄陽が陥落すると、白金・衣裘・弓矢・鞍馬を賜った。諸軍が江を渡るに当たり、平章阿朮が二十五万戸を率いて前陣にあり、五万戸ごとに一人を選んで帥としこれを統率させたが、格はその一人であった。格の軍は先に渡河したが、宋の将程鵬飛に撃退され、格は三ヶ所の傷を負い、その兵二百を失った。まもなく再び大戦し、流れ矢に当たり、鵬飛自身も七ヶ所の傷を負い、ついに敗走した。その後、枢密院が格の軽進を奏上し、その罪を問うよう請うたが、帝はその功を思い、その罪を軽くした。平章阿里海牙に従って潭州を攻めさせた時、砲撃で柵の木が飛び、肩を傷つけ、矢が手を貫通したが、傷を包んで先に登城し、これを陥落させ、遂に軍民安撫として留まって守備した。
入朝して拝謁し、定遠大将軍を加えられ、天沢が佩用していた玉帯を賜った。静江攻めに従い、兵士は轒轀車で身を蔽いながら城壁を穿ったが、格の担当区域では砲石や礌石が地を蔽い、車が近づけなかった。そこで隙を窺って兵士を率いて城壁の堞に攀じ登り、蟻のように付き従って上り、これを陥落させた。広西十八州、広東三州を巡行して平定し、皆下した。静江が兵を受けた当初、溪洞の諸夷は皆雲南に降ったが、格は使者を遣わして諭し、来降したのは五十州に及び、雲南がこれを争った。事が上聞され、詔して格の節度に従うことを許した。広西宣撫使に昇進し、鎮国上将軍・広南西道宣慰使に改めた。
宋が滅亡すると、陳宜中・張世傑が益王昰・広王昺を擁して福州に拠り、益王を立て、嶺海に檄を伝えてその地を回復せんとし、夏貴が既に江沿いの州郡を回復したと偽って言い触らした。諸戍将は江路が既に絶たれ、北帰できないとして、皆事を計ることを口実に静江に戻った。格は言った、「君らもまた虚声に懼れたのか!貴が嶺を越えるのを待ち、確かに北帰できないと判明すれば、吾が諸君とともに雲南を経由して帰れば、不可ということはない。敢えて軽々しく戍を棄てようとは!」行省は広東の肇慶・徳慶・封州を放棄し、兵を併せて梧州を守備することを議した。格は言った、「地を棄て備えを撤くは、敵に怯を示すものであり、不可である。兵を増やしてこれを守備すべきだ。」大賊の蘇仲は潰走兵を集め、鎮龍山に拠って王を称し、外では劫掠し、内では耕植し、秋には収穫を終えていた。大軍が来ると聞けば偽って降伏し、官軍は暑さを畏れて深入りせず、横・象・賓・貴の四州は皆その害を受けた。格はその境界に堡を築き、土兵をもって守らせ、官軍に命じてその廬柵を焼き払わせ、民にその禾稼を踏み荒らさせた。仲は窮迫し、遂に降伏した。益王の残党が潯州を破った。李辰・李福を斬った。静江から北の全州・永州に至るまで、皆城を守り、羅飛が永州を包囲したが、凡そ七月下らなかった。判官潘沢民が間道を通って来て急を告げたので、格は兵を分けて赴援し、その衆を殲滅した。
益王が死ぬと、衛王が立った。広州に向かい、海中の崖山に陣を構え、曾淵子をして雷州を占拠させた。降伏を諭したが聞かず、進軍して攻撃すると、淵子は碙洲に奔った。世傑は数万の兵を率いて雷州を再び奪取せんとし、戍将劉仲海がこれを撃退した。後に全軍を挙げて包囲して来た。城中は糧食が絶え、兵士は草を食とした。格は欽・廉・高・化の諸州から糧食を漕送してこれを供給したので、世傑は包囲を解いて去った。詔して格に雷州を守備させた。衛王が死ぬと、広東・広西は悉く平定された。張弘範が亳州軍を再び率いることを請うた。そこで格に鄧州旧軍を還した。参知政事・行広南西道宣慰使に拝された。入朝して拝謁し、資徳大夫・湖広行中書省右丞に拝された。江西右丞に移り、まもなくまた湖広右丞となり、平章政事に進んだ。卒去。五十八歳。
子の燿は福建行省平章政事、栄は鄧州旧軍万戸。