元史

列傳第四十一: 洪福源 鄭鼎 李進 石抹按只 謁只里 鄭溫

洪福源(子)俊奇 君祥 萬

洪福源は、その先祖は中国人であり、唐が才子八人を高麗に派遣して教化させたが、洪氏はその一人であった。子孫は代々三韓で貴族となり、居住地を唐城と名付けた。父の大宣は都領として麟州を鎮守し、福源は神騎都領となり、そこで家を構えた。丙子の年、金源・契丹の九万余りの衆が高麗に逃げ込んだ。丁丑年九月、江東の城池を奪って拠った。戊寅年冬十二月、太祖は哈赤吉・扎剌に命じて兵を率いて追討させた。大宣は迎えて降伏し、哈赤吉らと共にこれを撃ち、その元帥趙冲を降した。壬午年冬十月、また着古與ら十二人を派遣して内通の真偽を窺わせたが、帰還途中で害された。

辛卯年秋九月、太宗は将の撒里答に命じてこれを討たせた。福源は先に帰附した州県の民を率い、撒礼塔と力を併せて未帰附の者を攻め、また阿児禿らと共に進んで王京に至った。高麗王㬚はその弟の懐安公を遣わして降伏を請うた。そこで王京及び州県に達魯花赤七十二人を置いて鎮守させ、軍は還った。壬辰年夏六月、高麗は再び叛き、置かれた達魯花赤を殺し、国中の民を悉く駆り立てて江華島に拠った。福源は北界四十余城の遺民を招集して待機した。秋八月、太宗は再び撒礼塔に兵を率いて来討させた。福源は尽く配下を率いて合流して攻め、王京の処仁城に至った時、撒礼塔は流れ矢に当たって卒した。その副将の帖哥は兵を引いて還ったが、福源のみが留まって屯した。

癸巳年冬十月、高麗は衆を悉く動員して西京を攻め、その民を屠り、大宣を劫いて東へ連れ去った。福源は遂に招集した北界の衆を尽く率いて来帰し、遼陽・瀋陽の間に居住させた。帝はその忠を嘉した。甲午年夏五月、特に金符を賜い、管領帰附高麗軍民長官とし、なお本国の未帰附の人民を招討するよう命じた。また高麗の民に諭旨を下し、王㬚及び元より難を構えた者を捕らえて来朝する者がいれば、洪福源と同様に東京に居住させ、恩礼を優加して抜擢任用するとし、もし大軍が既に加われば、拒む者は死に、降る者は生き、その降民は福源に統率させるとした。

乙未年、帝は唐古抜都児に命じて福源と共に進討させ、龍崗・咸従の二県、鳳・海・洞の三州の山城及び慈州を攻め落とし、また金山・帰・信・昌・朔州を落とした。己亥年春二月、入朝し、鎧甲弓矢及び金織文段・金銀器・金鞍勒等を賜った。乙巳年、定宗は阿母罕に命じて兵を率い、福源と共に威州平虜城を落とした。辛亥年、憲宗が即位し、虎符に改めて授け、前後帰附高麗軍民長官のままとした。癸丑年、諸王耶虎に従って禾山・東州・春州・三角山・楊根・天龍等の城を攻め、落とした。甲寅年、扎剌台と合兵して光州・安城・忠州・玄風・珍原・甲向・玉果等の城を攻め、また落とした。

戊午年、福源はその子の茶丘を扎剌台の軍に従わせた。時に高麗の族子の王綧が入質していたが、密かに本国の帰順人民を併せて統べようと企て、帝に福源を讒言したため、遂に誅殺された。享年五十三。後に嘉議大夫・瀋陽侯を追贈され、諡は忠憲。子は七人、俊奇・君祥が最も著名である。

俊奇は小字を茶丘といい、福源の第二子である。幼くして軍に従い、ぎょう勇をもって知られ、世祖は嘗てその小字で呼んだ。中統二年秋、茶丘は父の冤罪を雪ぎ、世祖はこれを哀れみ、詔を下して諭して言った、「汝の父は寵用を加えられようとしていた時に、誤って刑罰に掛かった。故に既に廃された中にあって、維新の恩沢を施す。元の降った虎符を帯びて、父の職を襲い、帰附高麗軍民総管を管領せよ」。

至元六年、高麗の権臣林衍が叛いた。冬十一月、詔によりその軍三千を率いて国王頭輦哥に従ってこれを討平し、江華島にあった臣民を移し、再び王京に帰した。十二月、帝は茶丘に命じて兵を率いて鳳州等の処に行き、屯田総管府を立てさせた。八年二月、入朝し、鈔百緡を賜った。林衍の余党の裴仲孫らは、高麗王禃の親族である承化侯を立てて王とし、三別抄軍を率いて珍島に拠って叛いた。五月、茶丘は旨を奉じ、経略使欣都と共に進兵してこれを討ち、その軍を破り、承化侯を殺した。その党の金通精は余衆を率いて耽羅に逃げた。帝は侍衛親軍千戸の王岑を遣わし、茶丘と征討の策を議わせた。茶丘は上表して陳べた、「通精の党は多くが王京におり、彼らを招くことができる。招いて従わなければ、撃つのも遅くはない」。これに従った。間もなく旨を奉じて羅州道に行き戦船の建造を監督し、かつ耽羅を招降することとなった。茶丘は通精の甥の金永ら七人を得て、彼らに招降させたが、通精は従わず、金永を留め、残りは尽く殺した。十年、詔により茶丘は欣都と共に兵を率いて海を渡り、耽羅を撃破し、通精を捕らえて殺し、その脅従者は悉く赦免した。高麗はようやく平定された。

十一年、また戦船の建造を監督し、日本国征討の準備を命じられた。三月、昭勇大将軍・安撫使を授けられ、高麗軍民総管は元の通りとした。己卯、茶丘に高麗の農事を提点するよう命じた。八月、東征右副都元帥を授けられ、都元帥忽敦らと共に舟師二万を率い、海を渡って日本を征し、対馬・壱岐・宜蛮等の島を落とした。十四年正月、鎮国上将軍・東征都元帥を授けられ、高麗を鎮守した。二月、蒙古・高麗・女直・漢軍を率い、丞相伯顔に従って北征し、叛臣の只魯瓦歹らを討った。四月、脱剌河に至り、突然賊と遭遇した。茶丘は陣を突いて前に進み、伯顔はその勇を聞き、白金五十両・金鞍勒・弓矢を賜った。

十七年、龍虎衛上将軍・征東行省右丞を授けられた。十八年、右丞欣都と共に舟師四万を率い、高麗の金州合浦から進んだ。時に右丞范文虎らが兵十万を率い、慶元・定海等の処から海を渡り、日本壱岐・平戸等の島で合兵して上陸する予定であったが、兵が交わる前に、秋八月、風が舟を破損したため還った。十九年十月、茶丘に命じて平灤の黒堝児で戦船七百艘を建造監督させ、後の挙兵に備えさせた。二十一年十一月、再び征東行省右丞を授けられた。二十三年、江浙等の処に行き漢人を復業させるよう命じられた。

二十四年、乃顔が叛き、車駕は親征した。翎根甲・宝刀を賜い、高麗・女直・漢軍を率いて扈従するよう命じられた。突然乃顔の騎兵一万余りと遭遇した。時に茶丘の兵は三千に満たず、衆に懼色があった。茶丘は夜に軍中に令し、多く衣帛を裂いて旗幟とし、馬の尾を断って旄とし、林木に隠れ映えて疑兵を張り巡らせた。乃顔の兵は大いに驚き、官兵が大挙して来たと思い、遂に降伏した。帝はこれを聞き、厚く賞を与えた。凱旋して、遼陽等処行尚書省右丞を授けられた。二十七年、病を理由に辞任した。

叛王の哈丹らが高麗に逃げ込み、その国の西京を侵撹した。遼陽から二千里の地が皆騒動した。中書省は特に茶丘を起用して遼左を鎮守させ、帝は闍里台孛羅児を遣わして金字円符を賜い、茶丘に便宜行事を命じた。二十八年、病により卒した。享年四十八。子は四人、長男は萬という。

君祥は小字を雙叔といい、福源の第五子である。十四歳の時、兄の茶丘に従って上京で世祖に拝謁し、帝は喜び、劉秉忠に相面させた。秉忠は言った、「この子は目つきが並々ならず、後に必ず功名を顕わすであろう。ただ学問に力を注ぐべきである」と。そこで師儒を選んで教えさせた。至元三年、高麗の民三百人を兵籍に編入し、君祥にこれを統率させた。禿花禿烈、伯顏らの軍に従い、萬寿山を築き、また通州の運河開通に従事した。帝は自ら諭して言った、「汝が志を守り忠勤に励むことは、朕が知るところである」と。帝が便殿に座り、江南と海東の地図を閲覧し、詳しい者を召してその険易を尋ねようとした時、左丞相伯顏と枢密副使合達が君祥を推挙して詔に応じた。奏上と応対が詳細明瞭であったので、帝は喜び、大杯で酒を賜った。伯顔を顧みて言った、「この子は、遠大な器である」と。

六年、林衍が叛き、頭輦哥に従ってこれを征討した。八年、河南を守備した。九年、淮西を攻略し、その大凹城を陥落させた。十年、元帥孛魯罕に従って淮東の射陽湖を襲撃し、その男女と牛馬を捕虜とした。

十一年、朝廷に入った。帝が伯顔に宋討伐を命じた時、朝議では宋の兵力が多く両淮に集結しており、我が渡江の意図を聞けば、必ず軍を移して防衛に当たるだろうとして、右衛指揮使禿満歹に軽鋭二万を率いて淮安を攻撃させ、牽制することとした。君祥は蒙古漢軍都鎮撫としてこれに従軍した。後に伯顔が既に長江を渡ると、帝は禿満歹に軍を返して蕭県に駐屯させた。その時、君祥は伯顔軍中に使者として赴いていた。宋の黄州制置使陳奕が降伏し、その子が漣水軍の知軍であったので、伯顔は三十騎を派遣して招降しようとし、君祥に命じて入朝して奏上させた。帝は言った、「卿は急ぎ戻るがよい。陳知府が降伏したなら、直ちに連れて来い」と。そして共に入朝すると、宴席でもてなし労うこと甚だ厚かった。元帥孛魯罕に従って清河を攻め、これを陥落させた。海州安撫丁順が降伏を約束したので、孛魯罕は君祥に命じてこれを上聞させた。その時、伯顔はちょうど上京に朝見しており、君祥を見て大いに喜び、そのまま南伐に従軍させた。

伯顔が淮安を陥落させ、揚州に至り、兵を分けて淮西を攻撃した。宋の制置使夏貴が牛都統を使者として書状を伯顔に送り、「諺に言う、人を一万人殺せば、自らも三千を損なう。どうか国力を費やして辺境の城を攻め奪うことなく、行在(臨安)が帰順すれば、辺境の城はどこへ行くというのか」と言った。伯顔は君祥に牛都統を伴わせて入朝させ、三日留め置いてから軍中に戻した。なお詔旨を伝えて伯顔に諭した、「事は遠くから推し量るのは難しく、機に臨んで慎重に図るべきである」と。伯顔の軍が鎮江に駐屯した時、諜報によると宋の洪都統という者が都督ととく府の将軍であった。伯顔は君祥に言った、「汝は同姓であるから、行って招致することができるであろう」と。洪都統は即座に喜んで来見し、君祥は手厚くもてなした。軍が進み、臨平山に駐屯した。臨安から五十里の距離である。洪都統が来て報告した、「宋の丞相陳宜中と殿帥張世傑は既に逃げ去り、ただ三宮(皇帝・皇后ら)だけがまだ行かない。早く計略を定めて、生民を生き延びさせられるようにすべきである」と。伯顔はそこで洪都統に命じて宋の三宮を護衛させ、君祥にこれに従わせた。宋が降伏すると、武略将軍・中衛親軍千戸に昇進した。十五年、江南の民兵を徴発することを命じられた。帰還後、明威将軍・中衛親軍副都指揮使に昇進した。十七年、昭勇大将軍に進んだ。十九年、枢密院判官を授けられた。二十三年、昭武大将軍・同僉枢密院事に転じた。

二十四年、乃顔が叛き、世祖の親征に従った。駐蹕する度に、君祥は兵車を外側に環状に配置して営衛とし、布置は厳密で、帝はこれを賞賛した。凱旋すると、輔国上将軍を加えられた。車駕の起居を類別して記録し、『東征録』とした。二十八年、遼陽行省右丞を授けられたが、枢密院に留められ、また旧職に就いた。まもなく集賢大学士を加えられ、従前の通り同僉枢密院事を務めた。議論する者が東南海口の辛橋から河を開鑿して灤河に合流させ、糧食を上都まで運ぼうとした。詔を奉じて中書右丞阿里と共にその利害を視察し、帰還後、甚だ不便であると極言し、中止させた。また高麗に使者として赴き、帰還後、僉書枢密院事に改められた。

成宗が即位し、久任の官を削減する詔が下った。知枢密院事暗伯らが上奏した、「君祥は枢密院に十六年在職し、最も久しい者です」と。帝は言った、「君祥は終始一貫して心を尽くしている。移す必要はない」と。大徳二年、高麗への使者を命じられたが、御史台の臣が他の事柄で君祥を弾劾し、途中で追い返された。やがてその事は取り下げられた。三年、江浙に使者として赴き、民間の疾苦を尋ねた。使命を終えて帰還後、昌平の皇華山に退居し、時事について口を閉ざして五年を過ごした。

大徳九年、司農に抜擢され、まもなく中書右丞に任じられた。十年春、江浙行省右丞に改められた。秋、遼陽右丞に改められ、朝廷に上奏した、新たに省治を設け、巡兵を増やし、儒学提挙官・都鎮撫などの官を設置して、文化を興し、武備を整えるべきであると。事が成らぬうちに、武宗が即位し、同知枢密院事に召し出され、栄禄大夫・平章政事に進み、遼陽等処行中書省事を商議し、遼陽行省平章政事に改められ、まもなく行省事商議に改められた。至大二年に卒去した。子の邁は、奉訓大夫・同知開元総管府事となった。

萬は小字を重喜という。至元十三年、宿衛に入った。十八年、職を襲い、懐遠大将軍・安撫使・高麗軍民総管となり、なお父の茶丘が佩用していた虎符を佩用した。

二十四年、乃顔が叛き、兵を率いてこれを征討した。六月、撒里禿魯の地に至り、都万戸闍里鉄木児と共に乃顔の将黄海と戦い、これを大破した。また世祖に従って塔不台と戦い、またこれを破った。その月、乃顔の地に至り、詔を奉じて蒙古・女直・漢軍を留め置き、哈剌河を鎮守させた。さらに精鋭の騎兵を選んで車駕に扈従し、失剌斡耳朵に至り、御史大夫玉速帖木児に従って乃顔を討った。七月、扎剌麻禿に至り、金家奴と戦い、これを破り、蒙可山・那兀江などの地まで追撃し、遂に金家奴・塔不台らを平定した。九月、軍を返した。

哈丹と八剌哈赤が再び叛いた。十月、重喜は諸王愛牙哈赤・平章塔出・都万戸闍里鉄木児に従ってこれを征討した。十二月、木骨不剌に駐屯した。その時、諸王脱歓と監司脱台が兵四千余りでその党徒と戦い、やや退却したので、重喜は騎兵を率いてこれを救援し、鋒先を冒して陣に突入し、その軍勢を大破した。また諸王乃蛮帯・愛牙哈赤・平章薛闍干に従い、叛王の兵と兀朮站で戦い、また黒龍江で戦い、また貼満哈の地で戦い、いずれもこれを破った。二十五年、重喜はまた玉速帖木児に従って出師し、五月、貼列可に至り、哈丹禿魯干と戦い、戦功を挙げた。木骨児抄剌に至り、また戦った。八月、貴列河に至り、重喜は兵を率いて先に渡河して戦い、勝利した。十月、また玉速帖木児に従って木八蘭を征討に向かった。十二月、古土禿魯干と戦い、これを撃破した。二十七年六月、白金五十両と甲一襲を賜った。九月、禅春に至り、哈丹禿魯干と戦った。二十八年二月、平章薛闍干に従って高麗の青州に至った。五月、哈丹と八日間戦い、また戦ってこれを大破した。六月、軍を返し、昭勇大将軍を授けられ、三珠虎符を佩用し、職は従前の通りとした。十月、薛闍干が重喜を伴って入朝し、その功績を上聞した。帝はこれを嘉し、玉帯一腰と白金五十両を賜い、龍虎衛上将軍・遼陽等処行中書省右丞を授けた。

二十九年、依然として元より降下された虎符を佩用し、高麗・女直・漢軍萬戸を総管し、安撫使・高麗軍民総管を兼ねた。六月、資徳大夫・遼陽等処行中書省右丞に改める。大徳十年、その叔父君祥に代わらせた。十一年、武宗即位、重喜は上都に朝した。七月、再び遼陽行省右丞を授けられる。至大二年、漳州に謫され、杭州に至ったところで赦令に遇い留まる。翌年卒す。子の滋、爵を襲ぐ。

鄭鼎〔子制宜〕

鄭鼎は、沢州陽城の人である。幼くして孤となり、自立することができ、書を読み大義を理解し、妄りに言笑しなかった。成長して後は、勇力人に過ぎ、特に騎射を善くした。初め沢・潞・遼・沁の千戸となった。甲午の年、塔海紺不に従いしょくを征し、二里散関を攻め、屡々戦功を立て、還って秦中に屯した。未だ幾ばくもせず、宋の将余侍郎が桟道を焼き絶ち、兵をもって興元を囲んだので、鼎は衆を率いてこれを修復し、宋兵を破り、興元の囲みを解いた。乙巳、陽城県軍民長官に遷る。

庚戌、憲宗に従い大理国を征し、六盤山より臨洮を経て、西蕃諸城を下し、雪山に抵る。山径は盤屈し、騎を捨て徒歩し、嘗て憲宗を背負いて行く。敵は険要を扼して拠る。鼎は身を奮って力戦し、敵は敗北す。帝これを壮とし、馬三匹を賜う。金沙河に至る。波濤洶湧たり。帝は水傍の危石に臨み、立馬してこれを観る。鼎諫めて曰く、「これは聖躬の宜しくする所にあらず」と。親しく扶けて下馬せしむ。帝これを嘉す。俄かに大理を囲み、昼夜急攻し、城陥ち、その主を禽す。大理平ぐ。師還り、鼎に命じて後を居らしむ。道、吐蕃を経て、全軍して帰る。辛亥、入朝す。帝、時務を以て問う。鼎、敷対詳明なり。帝嘉納し、名を賜うて曰く、也可抜都。

己未、白金千両を賜う。世祖に従い南伐し、大勝関を攻め、これを破る。継いて台山寨を破り、その守者胡知県を禽す。勝に乗じて独り進み、前に泥淖に陥ち、伏兵葭葦の間に突出するに遇う。鼎奮撃し、連ねて三人を殺し、余衆遁去す。帝急ぎ鼎を召し還す。使者以て聞く。帝曰く、「将たる者は慎重なるべし、勇を恃みて軽く進むべからず」と。遂に衛士三百人を分ち与え、以て不虞に備え、且つこれを戒めて曰く、「今より朕の命を奉ぜざるは、軽く敵と接することを得ず」と。秋九月、帝江滸に駐蹕し、諸将に命じて南渡せしむ。先ず彼岸に達する者は、烽火を挙げて応とせよ。鼎、首めて南岸を奪い、衆軍畢く渡る。進んで鄂州を囲み、戦い益々力を加う。別に興国軍を攻め、宋兵五千に遇い、力戦してこれを破り、その将桑太尉を擒にし、懦怯を責め、事える所に忠ならざるを以て、これを斬る。

中統元年、功により平陽・太原両路万戸に遷る。阿藍答児・渾都海の乱、鼎は分かち本道の兵を率いてこれを討つ。二年、詔して鼎に征西等の軍を統べさせ、雁門関の隘を戍らしむ。河東南・北両路宣撫使に遷る。三年、平陽太原宣慰使に改めて授く。至元三年、平陽路総管に遷る。この年大旱、鼎下車して雨降る。平陽は地狭く人衆く、常に食を欠く。鼎乃ち汾水を導き、民田千余頃を溉ぎ、潞河鵬黄嶺の道を開き、以て上党の粟を来たす。学校を修め、風俗を励まし、横澗の故橋を建てて行旅を便にす。民これを徳とす。

七年、僉書西蜀四川行尚書省事に改め、兵を将いて東川を巡る。嘉定を過ぎ、蜀兵に遇い、江中に戦い、その将李越を擒にし、悉く戦船を獲る。八年五月、軍前行尚書省事に改む。十一年、宋を伐つに従う。十二年、黄州を鎮す。夏四月、淮西宣慰使に改めて授く。十三年、昭毅大将軍を加えられ、白金五百両を賜う。

十四年、湖北道宣慰使に改め、移って鄂州を鎮す。夏五月、蘄・黄二州叛く。鼎、兵を将いてこれを討ち、樊口に戦う。舟覆きて溺死す。年六十三。十七年、董文忠等奏す、「鄭也可抜都害に遇う。その叛人の家産物産は、宜しく悉くその子納懐に与うべし」と。帝これに従う。中書右丞を贈り、諡して忠毅。後に宣忠保節功臣・平章政事・柱国を加贈され、潞国公を追封され、諡して忠肅。子に制宜あり。

制宜、小字は納懐、性聰敏、荘重にして器局あり、国語を通習す。至元十四年、父の職太原・平陽万戸を襲ぎ、依然として鄂州を戍る。時に鄂は守を欠く。俾くもって府事を摂せしむ。十九年、朝廷将に日本を征せんとし、楼船を何家洲に造る。洲の地狭し。衆、旁の居民を徙さんと欲す。制宜従わず、広き地に改めて授く。居民これを徳とす。城中屡々災あり。或る者制宜に言う、「恐らくは姦人の間を乗じて変を為さん、宜しくその疑似の者を捕え、痛くこれを治むべし」と。制宜曰く、「吾は但だ守備を厳にするのみ、如何ぞ無辜に濫及せんや」と。一人も笞せず、災も亦遂に息む。盗賊近郊に伏し、晨暮剽劫し、流言城に入らんとす。俄かに数男子城外より至り、顧盻異常なり。制宜、吏に命じて縛して獄に入れ、これを問うに験無し。行省その非なるを疑い、将にこれを釈せんとす。従わず。明日、再び城東に出で、一人に遇う。白馬に乗り、貌服殊異なり。制宜叱して下らしめ、これを訊ぬれば、乃ち前の数男子と同く盗を為す者なり。遂にその罪を正し、一郡帖然たり。

二十四年、駕に扈従し東征して乃顔を討つ。敵に赴き自ら効せんことを請う。帝左右を顧みて曰く、「而が父は王事に歿す。ただ一子あるのみ。行陣に在らしむるなかれ」と。制宜ますます力を請う。乃ち月児呂那顔に従って別に一軍と為し、戦功により懐遠大将軍・枢密院判官を授けられる。明年、車駕上都に幸す。旧制、枢府の官従行するは、歳に一員を留めて本院の事を司どらしめ、漢人は与かることを得ず。ここに至り、以て制宜に属す。制宜遜辞す。帝曰く、「汝豈に漢人の比ならんや」と。竟にこれを留む。二十八年、湖広行省参知政事に遷る。陛辞す。帝曰く、「汝が父は王事に死す。賞未だ汝に及ばず。近者、要束木誅に伏し、已にその財産人畜を籍没す。汝その佳なる者を択びてこれを取るべし」と。制宜対えて曰く、「彼は贓を以て敗る。臣またこれを取らば、寧くも汚れ無からんや」と。帝その守る所を賢とし、白金五千両を賜う。未だ幾ばくもせず、徴されて内台侍御史に拝す。安西旧に牧地あり。圉人勢を恃み、冒して民田十万余頃を奪う。有司に訟う。積年理むること能わず。制宜詔を奉じて往き、図籍を按じてこれを正す。訟ここより息む。

三十年、湖広行枢密副使を除く。湖南の地闊遠、群寇険に依りて出没し、昭・賀二州及び廬陵の境、民常に害を被る。制宜偏師を率いて二州を徇い、道廬陵永新を経て、首賊及びその党を獲、皆これを殺す。茶郷の譚計龍なる者、悪少年を聚め、兵器を匿して姦を為す。既に捕獲するも、その家賂を納めて以て獄事を緩めんとす。制宜悉く以て軍を労し、計龍を市に斬る。ここより湖以南復た盗賊無し。元貞元年、制有り、行枢密院副使一員を添置し、制宜と連署せしむ。制宜員は常設に非ず、先任の者は当に罷むべしとす。俄かに朝に入り、特にもって大都留守を授けられ、少府監を領し、武衛親軍都指揮使を兼ね、屯田事を知る。

大徳八年、晋の地に大地震があり、平陽は特に甚だしく、圧死する者多く、制宜は命を承けて慰問救恤に当たったが、遅れて事に及ばぬことを恐れ、昼夜兼行で倍の速さで進み、到着すると自ら里巷に入り、傷つき病む者を慰め、粟や布帛を与え、生き残った者はこれに頼った。成宗は平素よりその名を知り、寵遇は殊に厚く、宴に侍るごとに、敢えて酒を飲まず、終日怠惰な様子がなかった。帝はその忠勤を察し、しばしば内醸の酒を賜うたが、制宜は常にそれを持ち帰って母に奉った。帝はこれを聞き、特にその母蘇氏を潞国太夫人に封じた。十年、制宜は病により終わり、年四十七であった。推忠賛治功臣・銀青栄禄大夫・平章政事を追贈され、沢国公を追封され、諡して忠宣といった。子の阿児思蘭が嗣いだ。

李進

李進は、保定路曲陽県の人である。幼くして軍籍に属し、初め万戸張柔に従って杞の三叉口に駐屯した。当時、荊山の西九十里にある龍岡という所は、宋の境であった。歳庚戌(1250年)の春、張柔は兵を率いて岡の上に堡を築いた。ちょうど淮水が氾濫して増水した時、宋が舟師を以て突然到来し、主帥の察罕が軍を率いて迎え撃った。李進は兵十五人を一舟に載せ、十余里にわたって転戦し、一隻の巨艦を奪い、これにより功により百戸に昇進した。

戊午(1258年)、憲宗が西征するに当たり、丞相史天沢(当時は河南経略大使)が諸道の兵の驍勇なる者を選んで従軍させ、李進を総把に任じた。この年の秋九月、陳倉より興元に入り、米倉関を越えた。その地は荒廃して塞がり通じず、李進は木を伐って七百余里の道を開いた。冬十一月、定遠七十関に至った。この関は上下ともに連堡を築き、宋が五百人で守っていた。巴渠江の水が堡の東を巡って流れていた。天沢は李進に関の下に赴いて降伏を説くよう命じたが、聞き入れなかった。李進はひそかに間道を偵察し、帰って天沢に報告して言った、「彼らは攻め取れます」。この夜二更、天沢は李進に勇士七十人を率いさせ、不意を突いて攻撃させた。門の枢を外して入った者は二十人であった。守門の者が気づき、刀を抜いて抵抗したので、李進は傷を負ったが、気にしなかった。懸門がやがて閉じられ、諸軍は中に入れなかった。李進は二十人と力を合わせて戦い、三十人を殺傷した。後の兵は上堡に逃げた。李進は懸門を破壊し、諸軍を中に入れ、上堡まで追撃し、さらに多くの殺傷を加えた。宋兵は敵わず、捨てて逃げた。夜が明けようとする頃、李進はついにその堡を奪い、これを守った。これにより関の通路が初めて開通し、諸軍は全て通過した。李進は功により上賞を受けた。

己未(1259年)春二月、天沢の軍が行在所に至り、合州釣魚山寨を包囲した。夏五月、宋が嘉陵江より舟師を以て来援し、三槽山の西で初めて大戦が行われた。六月、山の東で戦い、功があった。秋七月、宋兵の戦艦三百余隻が黒石峡の東に停泊し、軽舟五十隻を前鋒とした。北軍の船七十余隻は峡の西に停泊し、互いに一里余り離れていた。帝(モンケ・カアン)は東山に立馬し、兵二万を擁して江を挟んで陣を布いた。天沢は衆に号令して言った、「我が鼓の音を聞け、我が旗を見よ、少しも怠るな」。しばらくして鼓の音が聞こえ、その旗が東を指すのを見て、諸軍は鼓譟して突入した。兵が一たび交わると、宋の前鋒は潰走し、戦艦も続いて混乱し、流れに乗って縦撃を加え、死者は数えきれなかった。帝は指さして諸将に言った、「白旗の下で紅の半臂(半袖の上着)を着て突進している者は誰か」。天沢が李進だと答えると、錦衣と名馬を賜った。八月、また浮図関で戦い、前後合わせて五度戦い、いずれも功により上賞を受けた。

世祖が即位すると、侍衛親軍に入った。中統二年、総把を宣授され、銀符を賜った。三年、李璮征討に従軍して功があった。至元八年、兵を率いて襄陽に赴いた。十二年、湖北・湖南の地を攻略することに従った。宋が平定されると、兵馬使として分兵して鄂州に屯田した。十三年、軍二千を率い、河西中興府で屯田した。十四年、武略将軍を加えられ、千戸に昇進した。十五年、六盤山に移って屯田し、武毅将軍を加えられ、金符を賜った。十七年、明威将軍・管軍総管に昇進した。十九年、虎符を賜い、さらに懐遠大将軍に進められ、西域の別石八里に屯田するよう命じられた。

二十三年秋、海都及び篤娃らが軍を率いて洪水山に至り、李進は力戦したが、衆寡敵せず、軍は潰え、李進は捕らえられた。摻八里まで連行されたが、逃げ帰った。和州に至り、潰兵三百余人を収容し、戦いながら進み、京師に帰還した。金織紋衣二襲と鈔一千五百貫を賞賜された。二十五年、蒙古侍衛親軍都指揮使司僉事に任じられた。翌年、左翼屯田万戸に改めて任じられた。元貞元年春、卒去した。

子の雯は、武徳将軍・左翼屯田万戸を襲授され、虎符を佩用した。皇慶二年、宣武将軍を加えられた。延祐六年、仁宗はその父李進がかつて北征して捕らえられたことを思い、特に雯に中統鈔五百錠を賜ってこれを慰撫した。泰定元年春、病気を理由に辞任した。子の朶耳只が襲いだ。

石抹按只

石抹按只は、契丹人で、代々太原に住んだ。父の大家奴は、漢軍五百人を率いて太祖に帰順した。歳戊午(1258年)、按只が代わってその軍を率い、都元帥紐璘に従って成都を攻めた。当時、宋兵が霊泉に集結していたが、按只は配下の兵を率いてこれと戦い、大いに破り、その将の韓都統を殺した。また都元帥按敦に従って瀘州を攻め、按只は戦艦七十艘を率いて馬湖江に至った。宋軍は先に五百艘で江の渡しを押さえていたが、按只はこれを撃破した。当時、宋兵は沿江に橋を撤去して守っていたが、按只は地形を見て浮橋を造り、軍が至っても行く手を阻まれることがなかった。宋はその工事を妨害しようとしたが、兵を出すたびに敗れ、馬湖から合江・涪江・清江に至るまで、合わせて二十余か所に浮橋を架設した。四川が平定された時、浮橋の功績が多かった。

己未(1259年)、宋は巨艦に甲士数万を載せ、清江の浮橋に屯した。七十日間対峙した。水が急に増水し、浮橋が壊れ、西岸の軍は多く流され溺れた。按只の軍は東岸におり、急いで浮橋を撤去し、舟を岸の下に集め、士卒は死を免れた。さらに別部の軍五百余人を救い出した。先鋒の奔察火魯赤がこのことを上聞すると、憲宗は使者を遣わして慰労の言葉を賜い、賞賜は甚だ厚かった。叙州の守将が江の渡しを横たえて遮ったため、軍は渡ることができなかった。按只は軍中の牛皮を集め、渾脱(皮袋の浮き)や皮船を作り、これに乗って戦い、その軍を破り、その渡しを奪い、浮橋を造って軍を渡らせた。中統三年、河中府船橋水手軍総管に任じられ、金符を佩用した。これは浮橋を架設した功績によるものであった。

至元四年、行省の也速帯児に従って瀘州を攻め、按只は水軍を率いて宋の将陳都統・張総制と馬湖江で戦い、按只自身は二か所の傷を負ったが、ますます奮戦してこれを破った。六年正月、也速帯児が兵を率いて瀘州に向かい、按只に舟でその器械・糧食を運送させ、水路から進ませた。宋兵が再び馬湖江を扼したが、按只はこれを撃破し、四十人を生け捕りにし、その船五艘を奪った。さらに水軍一千を以て眉州・簡州の二州に糧食を運び、軍中はこれに頼った。九年、建都蛮征討に従い、一年余りしても落とせなかったが、按只が先にその城に登り、力戦したので、遂にこれを降した。軍が帰還する途中、病により卒去した。行省は承制(命令を受けて便宜を図る)して、その子の不老に代わってその軍を率いさせた。

不老は嘉定攻撃に従い、巨艦七十艘に勇士数千人を載せ、その上流を占拠し、府江紅崖灘に浮橋を造って渡河した。十二年、嘉定が降伏すると、宋の将鮮于都統が衆を率いて遁走したので、不老は大仏灘まで追撃し、ことごとくこれを斃した。行院の汪田哥が紫雲・瀘・敍等の城を攻め取った際、不老の功績が最も多かった。諸軍が重慶を包囲したとき、不老は先だって戦艦三百艘を以て観灘に陣を列ね、その退路を断った。十三年、随翼軍五百人を率い、招討薬剌海と合流し、白水江岸に柵を立てて守りを固めた。不老は夜陰に乗じて宋軍を襲撃し、直ちに重慶城下に迫り、千斯門を攻撃した。宋軍は驚いて潰走し、溺死者多く、生け捕り三十余人、その旗幟甲仗を奪って献上した。宋の涪州守将が舟師を率いて来援したので、不老は広陽垻においてこれを撃破し、生け捕り六十余人、その船十艘を奪った。十四年、瀘州攻撃に従い、不老は配下の兵を率いて神臂門を攻め、蟻のごとく付き登り、首級五十を斬った。翌日再び戦い、これを破った。十五年、重慶太平門を再び攻め、不老は先登し、その城壁守備兵数十人を殺し、宋の都統趙安が城を以て降伏した。総管黄亮は舟に乗って逃げたが、不老は追撃してこれを生け捕りにし、その兵士五十人を捕え、戦艦五十艘を奪った。

十六年、父の職を襲うことを命じられ、懐遠大将軍・船橋軍馬総管となり、さらに金虎符を賜り、夔路鎮守副万戸を兼ねた。十八年、大小盤の諸峒蛮が叛いたので、諸翼の蒙古・漢軍三千余人を率いて施州を戍守することを命じられた。やがて蛮酋の向貴・誓用等が降伏し、その他の未だ服さない峒蛮も悉く平定したので、保寧等処万戸に任じられた。

謁只里

謁只里は女直人である。祖父の昔宝味也不干は金の進士に及第し、金が滅亡すると太宗に帰順した。謁只里は幼少より聡明で記憶力に優れ、成長すると孝友をもって知られた。世祖の潜邸に仕え、宿衛に備わった。中統初年、陝西行枢密院事に参議することを命じられ、商挺がこれを補佐した。出発に際し、入奏して言うには、「関陝は要地であり、軍務は軽くありません。阿脱仰剌は国の元臣で、陛下がまさにこれを任じようとされていますが、慮うに臨時に議論が合わず、必ずや大計を誤るでしょう。もし意見の相違があれば、臣に上聞することを許していただきたい」と。帝はその奏を認め、宴を賜ってこれを遣わした。間もなく、行省断事官に改められ、再び宿衛に入った。李璮が平定されると、朝議で宿衛の士を選んで漢軍を監させ、謁只里は虎符を佩き、毗陽において軍を監した。

至元七年、監戦を命じられ、配下の諸軍を率いて襄陽を包囲し、一字堡を築いて軍勢を張った。一時の名将唆都・劉国傑・李庭等は皆その麾下に属した。樊城を攻め、その軍を率いて先登し、これを破った。受けた賞賜は悉く将士に分け与えた。十一年、丞相伯顏に従って郢州に駐屯し、数騎を率いて出撃し、宋兵と遭遇した。配下の兵卒が落馬し、敵に捕らえられたので、謁只里は単騎で戈を横たえ、直ちに敵軍に突入し、これを取り戻し、さらに四人を殺し捕らえた。当時、糧食の補給が続かず、諸将はこれを憂えた。謁只里は西進して江陵龍湾堡を攻め、その粟一万石を奪い、衆はこれによって窮地を脱した。元兵が東下すると、宋将夏貴が陽邏洑で迎え撃った。伯顔が未だ到着しないうちに、衆は少し待とうとしたが、謁只里は言う、「兵は神速を貴び、機は失うべからず。その未だ定まらざるに及んで撃つべきである」と。そこで直ちに前進して夏貴の軍を衝き、戦船百余隻を獲、夏貴は敗走した。伯顔はその功績を上奏し、定遠大将軍を加えられた。

十二年、常州を攻め、謁只里は雲梯と繩橋を造って登城し、遂にこれを陥落させた。行省の檄を奉じて安吉諸州を巡行し、皆これを降した。十三年、宋が降伏すると、伯顔は謁只里に命じてその宮殿を監守させ、号令は厳粛で、秋毫も犯さなかった。入朝して功績が記録され、昭勇大将軍に昇進した。間もなく、鎮国上将軍・浙東宣慰使に任じられ、紹興を鎮守した。十九年に卒去、享年四十二。

子の亦老温は万戸を襲い、累進して江東廉訪使となった。脱脱は淮東宣慰使となった。

鄭温

鄭温は真定霊寿の人である。初め中書粘合南合に従って南征し、功績があり、合必赤千戸となった。丞相史天沢に従い、新軍万戸鎮撫となった。憲宗が西川を征したとき、鄭温は四月にわたって甲を解かず、天沢が鄭温を引見し、その功績を詳しく述べると、帝は言った、「朕が親しく見たところである」と。名を也可抜都と賜り、鞍勒を賞与された。閬州に戻ると、旨を奉じて軍を分けて青居・釣魚等の山の守備巡邏に当たらせ、天沢は鄭温に四千人を統率させ、釣魚山の警邏に当たらせた。

中統元年、金虎符を佩き、総管となった。三年、李璮が叛くと、詔により鄭温は軍を率いて還り討伐した。済南に至ると、大軍がその城を包囲し、賊将楊抜都等が夜陰に乗じて営を襲った。鄭温は力戦して黎明に及び、賊は退いた。諸王哈必赤・丞相史天沢は手厚くこれを賞した。七月、城が陥落し、鄭温に兵三千を率いて益都を平定に向かうことを命じた。功績により再び上賞を受け、侍衛親軍総管に任じられた。

至元六年、懐遠大将軍・右衛副都指揮使に進んだ。九年、詔により鄭温は蒙古・漢人・女真・高麗の諸部軍一万人を統率し、海を渡って耽羅を征討し、これを平定した。十二年、右衛親軍都指揮使に昇進し、三衛の軍一万人を率い、岳州・江陵・沙市・潭州攻撃に従い、いずれも功績があり、平章阿里海涯より銀十錠を賞与された。十四年、入朝し、昭勇大将軍・枢密院判官に転じた。

十八年、輔国上将軍・江淮行省参知政事に改められた。杭州の民が飢えたので、米二十万石を出して売り払った。まもなく常州の官田三十頃を賜った。二十二年、召還された。二十三年、江浙左丞に昇進し、新附漢軍一万五千を以て淮安雲山白水塘に屯田を設けることを命じられた。二十八年に卒去、享年八十一。

子の欽は利用監丞、釭は榷茶都運使、銓は右衛親軍千戸、鏞は袁州路判官となった。