元史

列傳第四十:劉敏、王檝、王守道、高宣、王玉汝、焦德裕、石天麟、李邦瑞、楊奐、賈居貞

劉敏

劉敏、字は有功、宣徳青魯〔里〕の人。壬申の歳、太祖の軍が山西に駐屯した時、敏は十二歳で、父母に従って徳興の禅房山に避難した。兵が至ると、父母は敏を棄てて逃げたが、大将が哀れんで養育した。ある日、帝が行営で諸将を宴すると、敏もそれに従って入った。帝はその容貌が魁偉なのを見て異とし、召して出身を問い、宿衛に留めることを許した。国語(モンゴル語)を習い、二年を経て諸部の言葉に通じたので、帝はこれを嘉して玉出干の名を賜い、禁闥に出入りさせ、初め奉御とした。帝が西遼諸国を征伐してこれを破り、また回回国を征伐してその軍二十万を破り、その地を悉く収めた時、敏は皆これに従軍した。

癸未、安撫使に任じ、便宜行事を許され、燕京路の税課徴収・漕運・塩場・僧道・司天等の事を兼ね、西域の工匠千余戸及び山東・山西の兵士を与えられ、両軍を立てて燕を戍守させた。二総管府を置き、敏の従子二人に金符を佩かせて二府の長とし、敏にその役を総轄させ、玉印を賜い、金虎符を佩かせた。佐吏の宋元を安撫副使に、高逢辰を安撫僉事に奏薦し、各々銀章を賜い、金符を佩かせた。李臻を参謀とした。初め、耶律楚材が都邑を総裁した時、契丹人が多く、その徒党はしばしば夜中に弓矢を挟んで民財を掠奪し、官はこれを禁じ得なかったが、敏はその渠魁を誅戮し、諸市にさらしものにした。また、豪民が良民を奴隷として籍に冒す者が多かったが、敏は悉くこれを帰した。民で星暦に習熟する者を選び、司天太史氏とした。学校を興し、名士を進めてその師とした。

己丑、太宗即位し、行宮の幄殿を改造した。乙未、和林に城を築き、万安宮を建て、宮闈司局を設け、駅伝を立てて貢輸を便利にした。完成すると、宴賜は甚だ厚かった。辛丑の春、行尚書省を授けられ、詔して曰く「卿の行うところ、有司は関与して聞くことを得ず」と。間もなく牙魯瓦赤が西域より戻り、敏と共に漢民を治めることを奏上し、帝はその請いを允した。牙魯瓦赤は元来剛直で気性を尊び、自ら専断できないことを恥じ、遂にその配下の忙哥児に命じて流言をもって敏を誣告させた。敏は手詔を示したので、やっと止んだ。帝はこれを聞き、漢察火児赤・中書左丞相粘合重山・奉御李簡に命じて詰問させて実情を得、牙魯瓦赤を罷免し、依然として敏に単独で任せた。また李臻を左右司郎中に登用した。臻は幕府に二十年、参賛の功が多かった。

丙午、定宗即位し、詔して敏に奥都剌と共に行省事を行わせた。辛亥夏六月、憲宗即位し、行在所に召し赴かせ、依然として牙魯瓦赤と共に政務を執らせた。甲寅、子の世亨をもって自らに代わることを請うた。帝はこれを許し、世亨に銀章を賜い、金虎符を佩かせ、塔塔児台の名を賜った。帝は世亨に命に従わない者はこれを罷免せよと諭した。またその子世済に散祝台の名を賜い、必闍赤として宿衛に入らせた。

帝が宋を伐つため、陝右に行幸した時、敏は病を押して輿に乗り請見した。帝曰く「卿は病があるのに、召されずして来た。言うことがあるのか」と。敏曰く「臣は聞く、天子が出巡すれば、義として扈従すべきであると。敢えて病を辞するであろうか。ただ中原は土地が広く民が貧しく、師を労して遠く征伐するは、恐らく計に非ざるなり」と。帝は納れず、敏は帰り、年豊に退居した。世祖が南征し、年豊を過ぎた時、敏が入見すると、諭して曰く「我が太祖は励精図治し、見て知る者は卿のみである。汝は春秋高し、これを彙次して後世の法とせよ」と。間もなく病んで燕に帰り、夏四月に卒した。年五十九。

王檝

王檝、字は巨川、鳳翔虢県の人。父は霆、金の武節将軍・麟游主簿。檝は性倜儻、弱冠で進士に挙げられず、乃ち終南山に入って書を読み、孫・呉の兵法を渉猟した。泰和年中、また下第し、闕に詣でて上書し、当世の急務を論じた。金主は給事縉山元帥府に仕えさせた。間もなく元帥高琪の推薦により、特賜で進士出身を賜い、副統軍に任じ、涿鹿の隘を守った。

太祖が兵を率いて南下すると、檝は三日間激戦し、兵敗れて捕らえられた。将に戮せられんとしたが、神色変らず、太祖問うて曰く「汝は何ぞ敢えて我が師に抗し、独り死を懼れざるか」と。対えて曰く「臣は布衣として恩を受け、躯を捐げて国に報いんと誓う。今既に軍を僨せしめ、死を得るを幸いとす」と。帝はその義を感じて釈放し、都統に任じ、金符を佩かせ、山西の潰兵を招集せしめた。大軍に従って紫荊関を破り、涿・易・保州・中山を取った。軍が雄州に駐屯すると、節度使孫吳が堅守して降らなかったので、檝が城に入って禍福を諭すと、呉は遂に城を以て降った。

甲戌、宣撫使に任じ、行尚書六部事を兼ねた。三合抜都・太傅猛安に従って兵を率い南征し、古北口を下し、薊・雲・順等州を攻め、過ぐる所迎えて降り、漢軍数万を得、遂に中都を包囲した。乙亥、中都降る。檝進言して曰く「国家は仁義を以て天下を取る。民に信を失うべからず。虜掠を禁じ、以て民望を慰むべし」と。時に城中は食糧絶え、人相食らう。乃ち軍士に糧を与え、城に入って転売することを許した。故に士は金帛を得、民は粒食を得た。また議して曰く「田野久しく荒れ、兵後の牛無し。宜しく官を差し、瀘溝橋において軍の戻る所に駆られたる牛を索め、十に一を取って農民に給すべし」と。その説を用い、数千頭を得、近県に分給した。民大いに悦び、復業する者衆し。三合・猛安は檝に命じて保定・新城・信安・雄・・文安・清・滄諸城を招諭させた。皆風望して款附した。乃ち滄州に行司を置いてこれを鎮めた。遂に猛安に従って入覲し、銀青栄禄大夫を授けられ、依然として前職、御史大夫を兼ね、世襲千戸とした。

時に河間・清・滄がまた叛いた。帝は檝に命じてこれを討たせ、また駙馬孛禿に命じて蒙古軍及び乣・漢軍三千を分けて檝に属させた。遂に河間を回復し、軍民一万口を得た。孛禿はその反覆を憎み、尽く誅殺せんとした。檝これを解いて曰く「群羊を駆って東西せしむるは牧人なり。羊何ぞ知らんや。その渠魁を殲するは足れり。この輩を釈し、近県に遷し、強者は軍に従わせ、弱者は農と為せ。これは天の我に与うる所なり。何を以て殺さんや」と。孛禿曰く「汝はこの輩が再び叛かざることを保し得るか」と。檝曰く「可なり」と。即ち移文して保任し、皆全活を得た。

帝は闍里畢と皇太弟国王に命じて諸侯王の城邑を分撥し、闍里畢に諭して曰く「漢人の中で王宣撫の如きは、任用して使うべし」と。遂に前職を以て、三司副使を判ずることを兼ねた。後また省臣に命じて帰附した工匠の数を総括し、将に大臣をして分掌せしめんとした。太師阿海が諸大臣の名を具列して聞かせると、帝曰く「朕にその人あり。偶々姓名を忘れたるのみ」と。良久くして曰く「得たり。旧人王宣撫、この職に任ずるべし」と。遂に檝に命じてこれを掌らせた。時に都城の廟学は既に兵火で焼失していたので、檝は旧枢密院の地を取って再びこれを創立し、春秋に諸生を率いて釈菜の礼を行い、また旧岐陽の石鼓を取って廡下に列べた。

丙戌の日、西夏征伐に従軍す。秦州に至るや、夏人は橋梁をことごとく撤去して備えと為し、軍は阻まれて進むを得ず、帝諸将に問うも、皆計の出づる所を知らず。檝夜を徹して士卒を督し木石を運ばしめ、暁に及んで橋成り、軍乃ち進むを得たり。戊子の日、監国公主の命を奉じ、中都の省を領す。時に盗賊信安に起こり、北山の盗賊李密と結び、転じて近県を掠むるに属す。檝曰く「都城は根本の地なり、何ぞ備え無かるべけんや」と。水を引きて城を環らし、経費を調度す。檝自ら券を作り、これを賈人に仮し、而して斂は民に及ばず、人心稍く安んず。男守謙を遣わし軍を率いて諸盗を討たしめ、之を平らぐ。

庚寅の年、関中征伐に従い、長駆して京兆に入り、進んで鳳翔を克つ。太宗に請うて曰く「此れ臣が郷邦なり、願わくは城に入り親族を訪い求めん」と。果たして族人数十口を得て以て帰る。壬辰の年、汴京攻撃に従う。癸巳の年、命を奉じて国書を持ち宋に使し、兀魯剌を以て之を副とす。宋に至るや、宋人甚だ礼重し、即ち使を遣わし金幣を以て入貢せしむ。檝前後凡そ五度往き、和議未だ決せざるを以て、隠憂疾を致し、南に卒す。宋人重く賵し、仍て使を遣わし其の柩を帰し、燕に葬る。子六人。

王守道

王守道、字は仲履、其の先は真定平山の人なり。金亡びて、群盗並び起こり、州県の吏多く乱に乗じて貪暴不法、民往々令丞及び属吏を殺す。宣撫司守道を署して県尉と為し、衆之を悦び、因って転じて令を摂め、真定主簿に改む。史天倪河北西路兵馬都元帥と為り、真定を鎮む。既に大名・沢・潞・懷・孟の城邑の未だ附かざる者を収め、以て府経歴と為す。及び金の恒山公武仙降り、署して史天倪の副帥と為す。守道天倪に謂ひて曰く「是の人は位公の下に居り、意平らかならざる有り、安んぞ此れに鬱鬱たるを得んや。宜しく事に先んじて備えを為すべし」と。天倪然りとせず、未だ幾ばくもせず、果たして其の害せらるる所と為る。及び仙城を以て反し金に為るや、史氏の人と属県旁近の豪傑天倪の弟天沢を納れて主帥と為し、仙を攻む。時に史天安白霫に在り、変を聞き、兵を率いて亦至り、遂に真定を復す。仙走りて西山諸寨を保ち、守道の家人を執り、重幣を以て之を誘ふ。守道顧みず、日々史氏の部曲昆弟と徴発調度して以て讐を復し、卒に仙を逐ひて遁去せしむ。

後に慶源軍節度使に擢でらる。天沢五路万戸と為り、守道を行軍参謀に署し、兼ねて検察使とす。荘聖太后真定を以て湯沐邑と為す。守道鎮に在り、幕僚として頻りに歳を致して覲し、敷対旨に称し、金符・錦衣・金銭を賜はるを得たり。中統三年、天沢入りて左丞相を拝す。即ち真定等路万戸府参謀を授く。至元七年卒す。至大元年、子顒の貴に以て、特ち銀青栄禄大夫・大司徒しとを贈られ、寿国公を追封され、諡して忠恵と曰ふ。仁宗即位し、復た推忠協力秉義功臣・金紫光禄大夫・大司徒・上柱国を加ふ。

高宣

高宣、遼陽の人。太宗元年、詔して宣を元帥と為し、金符を賜ひ、兵を統べて睿宗に従ひ大名を攻む。宣進みて曰く「今命を奉じて師を出だし、罪を伐ち民を弔ふ。願はくは殺を嗜むこと無くして、以て上意に称せん」と。睿宗元帥朮乃を召して之を諭し、軍中に令して宣の言の如くせしむ。及び城破れ、兵刃に血せず、民心悦服す。四年正月、金兵三峯山を破るに従ひ、宣に降る者二千余戸、籍を以て献じ、打捕鷹坊都総管府を立てて之を統べ、宣を以て都総管と為し、金符を賜ひ、仍て子孫其の職を世はしむ。卒す。皇慶二年、宣力功臣・銀青栄禄大夫・大司徒を贈られ、営国公を追封され、諡して簡僖と曰ふ。

子天錫、世祖の潜邸に事へ、必闍赤と為り、宿衛に入り、甚だ親幸せらる。中統二年、其の父の官を以て授けられ、鷹坊都総管と為る。四年、燕京諸路奥魯総管に改め、按察副使に遷り、仍て鷹坊都総管を兼ぬ。天錫丞相孛羅・左丞張文謙に語りて曰く「農桑は衣食の本なり。本を務めざれば、則ち民の衣食足らず、教化興すべからず。古の王政、此れに先んずる莫し。願はくは之に留意せん」と。丞相以て聞こゆ。帝悦び、命して司農司を立て、天錫を以て中都山北道巡行勧農使と為し、司農丞を兼ぬ。尋ち司農少卿・巡行勧農使に遷り、又戸部侍郎に遷り、嘉議大夫・兵部尚書に進み、卒す。後に推忠保義功臣・太保・儀同三司・上柱国を贈られ、営国公を追封され、諡して荘懿と曰ふ。

子諒、裕宗初め燕王に封ぜらる。諒を以て符宝郎と為す。俄ち命して其の父の官を襲はしめ、鷹房都総管と為す。裕宗甚だ之を愛し、符宝郎董文忠に謂ひて曰く「汝我が為に奏請せよ。諒の管する民戸を我に隷せしめ、庶くは諒の尽力して我が用に為るを得ん」と。文忠入りて奏す。帝之に従ふ。未だ幾ばくもせず、諒に嘉議大夫を授け、兵部尚書に遷す。卒す。仁宗の時、推誠保徳賛治功臣・太師・開府儀同三司・上柱国を贈られ、営国公を追封され、諡して宣靖と曰ふ。

子塔失不花、成宗命して其の祖父の官を世はしむ。居喪を以て辞す。大徳元年、奉議大夫・章佩監丞を授く。四年、朝列大夫・利用監丞に改む。八年、少監に陞る。武宗即位し、中議大夫・秘書監丞を授く。仁宗東宮に居す。召し入れて宿衛せしむ。至大三年冬、少中大夫・納綿府達魯花赤に遷り、且つ之を諭して曰く「此れ先世の守る旧職なり」と。皇慶元年春、嘉議大夫・同知崇祥院事に改めて授く。冬、資徳大夫に進み、院使と為る。

延祐四年夏四月、帝塔失不花に謂ひて曰く「汝が祖嘗て司農と為りしが、今復た以て汝に授く」と。遂に栄禄大夫・大司農に遷す。英宗東宮に居す。塔失不花前代の嘉言善行を撰集し、名づけて承華事略と曰ひ、へいせて豳風図を画きて以て進む。帝之を覧み、奬諭して曰く「汝能く太子を輔けて以て正し、朕甚だ之を嘉す」と。命して図書を東宮に置き、太子をして時時観省せしむ。六年、集禧院使に改む。退きて家に居し、卒す。

王玉汝

王玉汝、字は君璋、鄆の人。少く吏事を習ふ。金末民南渡に遷る。玉汝其の親を奉じて間道より還る。行台厳実鄆に入りて拠る。玉汝を署して掾史と為し、稍く遷り、行台令史を補ふ。中書令耶律楚材東平を過ぐ。之を奇とし、版を以て東平路奏差官に授く。事を以て京師に至り、楚材の門に遊び、之を待つこと家人父子の然るが如し。実年老いて戎に従ふに艱し。玉汝奏請して本府総管を以て之を行はしむ。夏津災あり。玉汝奏請して其の民の一歳を復す。済州の長官州を以て朝廷に直隷せんと欲し、大名の長官冠氏等十七城を以て大名に改隷せんと欲す。玉汝皆之を弁正す。

戊戌の日、東平の地を分けて諸勲貴に封じ、十に裂き、各々その収入を私し、有司と関わり無し。玉汝曰く、「若し是くの如くならば、則ち厳公の事業の存するもの幾ばくも無し。」と。夜静かにして、楚材の帳の後ろにて哭す。明日、召して其の故を問う。曰く、「玉汝は厳公の使たり、今厳公の地分裂し、而して救止すること能わず、面目無くして還り報ずるに、将に此の荒寒の野に死せんとす、是を以て哭するのみ。」と。楚渠憫然として久しくし、使いて帝の前に詣りて陳愬せしむ。玉汝進みて言うに曰く、「厳実は三十万戸を以て朝廷に帰し、崎嶇兵間に、三たび其の家室を棄て、卒に異志無し、豈に他の降者と同ならんや?今其の土地を裂き、其の人民を析くは、功有るを旌ぐ所以に非ず。」と。帝玉汝の忠款を嘉し、且つ其の言を直と為すを以て、是より分かたず。行臺知事に遷り、仍って平陰令を遥領す。

辛丑、実の子忠済職を襲ぎ、左右司郎中を授け、遂に行臺の政を総ぶ。分封の家、厳氏の総めて其事を握るを以て、頗る自便せず、定宗即位す、皆闕下に聚まり、復た東平の地を剖分せんと欲す。是の時、衆心危疑し、将に首を俛めて命を聴かんとす、玉汝力強く群言を排し、事遂に已む。憲宗即位す、旨有りて常賦の外、歳に銀六両を出だすを令し、之を包垜銀と謂う。玉汝曰く、「民力支えず。」と。諸路の管民官を糾率し、之を闕下に愬う、三分の一を減ずるを得。累官して龍虎衛上將軍・泰定軍節度使に至り、兼ねて兗州管内観察使と為り、行臺参議を充てる。

壬子、病を以て事に謝し門を杜ち、日に経史を以て自ら娯しむ。乙卯、忠済人をして玉汝に謂わしめて曰く、「君閑久し、暫く起きて、吾が憂いを分かつ可し。」と。玉汝堅く辞し、参議の印を以て強いて之を委ぬ、已むを得ず起きて事を視る、僅かに五六日、裁画署置し、煥然として一新す。八月既望、星有りて庭中に隕ち、已にして玉汝卒す。

焦徳裕

焦徳裕、字は寛父、其の遠祖の賛は、宋の丞相富弼に従い瓦橋関を鎮め、遂に雄州の人と為る。父の用は、金に仕え、束鹿令より千戸に陞り、雄州の北門を守る。太祖の兵至る、州人南門を開きて降る、用猶力戦し、遂に生け捕らえらる。帝其の忠壮を以てし、釈して殺さず、旧官に復す。山東に地を徇う、未だ嘗て妄りに一人を殺さず。年六十二にして卒す。後に徳裕の貴に因り、中書左丞を追贈し、恒山郡公に封じ、諡して正毅と曰う。

徳裕は左氏春秋に通じ、少より拳勇にして射を善くし、其の舅の解昌に従い軍中にあり。金の将武仙、真定の守史天倪を殺す。仙既に敗走す、其の党の趙貴・王顕・斉福等、仙の故壘を保ち、数たび太行を侵掠す。太宗廷臣に才弁有る者を択びて往きて之を招かしむ。楊惟中徳裕を以て薦む。遂に真定に使し、斉福を降し、趙貴を擒え、王顕は亡走す。徳裕追い射て之を殺す。其の地悉く平ぐ。詔して井陘北障城の田を賜う。中統三年、李璮平ぐ。世祖命じて徳裕に益都を曲赦せしむ。四年、金符を賜い、閬蓬等処都元帥府参議と為る。宋の臣夏貴、宣撫使張庭瑞を虎嘯山に囲む。薪土を実らせて水源を塞ぎ、人飲むを得る無し。帥府徳裕に檄して之を援かしむ。徳裕夜に貴の営に薄し、卒を令して各々三炬を持たしむ。貴驚きて走る。鵝谿に追い及び、千人を馘り、馬畜兵仗を万計獲る。京畿漕運使に陞る。

至元六年、陝西道提刑按察司事を僉す。八年、転じて西夏中興道按察副使と為る。十一年、丞相伯顔に従い南征し、僉行中書省事を授かる。遂に従いて安慶を下す。鎮江に至る。焦山寺の主僧、居民を誘いて叛く。丞相阿朮既に其の魁を誅し、尽く其の徒を阬せんと欲す。徳裕諫めて之を止む。命じて徳裕先ず城に入りて撫定せしむ。宋平ぐ。賜予有りて加わる。旨を奉じて異人異書を求む。平章阿合馬、丞相伯顔が丁家洲の降卒を殺せる事を譖り、奏して徳裕を以て中書参政と為し、仮に一言を以て之を証成せんと欲す。徳裕辞して拝せず。久しくして、復た僉行省事と為る。

十四年、淮東宣慰使に改む。淮西の賊、司空しくう山を保つ。淮東四郡の守に檄して応ぜしむ。元帥帖哥邏其の檄を得、即ち郡守許定国等四人を械し、反状を承らしめ、将に其の家を籍せんとす。徳裕言う、「四人は皆新たに降りし将、天子既に之を寵綏し、地有り民有り、望む所盈つ。方に報效を誓い、安んぞ他に覬う有らん?奈何ぞ疑似を以て四守を殺し、寧んぞ反間に非ざるを知らざるや?」と。尽く其の官を復す。福建行省参知政事を拝す。二十五年卒す。年六十九。栄禄大夫・平章事を贈り、恒国公を追封し、諡して忠粛と曰う。

子の簡は、余姚州知州。潔は、信州治中。

石天麟

石天麟、字は天瑞、順州の人。年十四、入りて太宗に見え、因りて宿衛に留まる。天麟好学して倦まず、諸国の書語に習わざる無し。帝中書令耶律楚材を命じて庶務を釐正せしめ、賢能を選びて参佐と為す。天麟選に在り、名を蒙古台と賜う。宗王西域を征し、天麟を以て断事官と為す。

憲宗六年、天麟を遣わして海都に使わす。拘留すること久し。既にして辺将皇子北安王を劫して以て往き、天麟の所に寓す。天麟稍々其の用事の臣と相親狎し、因りて宗親の恩義、及び臣子の逆順禍福の理を以て語る。海都之を聞きて悔悟し、遂に天麟と北安王を遣わして同に帰らしむ。天麟拘留せらるること二十八年、始めて還るを得。世祖大いに悦び、賞賚甚だ厚し。中書左丞を拝し、兼ねて断事官と為す。天麟辞して曰く、「臣奉使して状無し。陛下幸いに赦して誅せず。何ぞ復た栄寵を叨る可けん?況んや臣才識浅薄、年力衰憊、豈に政を任うるに堪えんや?恐らくは徒らに廟堂の羞を貽すのみ。敢えて詔を奉ぜず。」と。帝其の誠を嘉し、褒慰すること良久く、之に従う。

丞相安童嘗て海都の官爵を受けたりと譛る者有り。帝怒る。天麟奏して曰く、「海都実に宗親、偶々違言有り、仇敵に比ぶるに非ず。安童之を拒絶せざるは、其の疑心を釈き、其の臣順を導かんと為すなり。」と。帝の怒り乃ち解く。江南の道観、偶々宋主の遺像を蔵す。僧素より道士と交悪す。其の事を発し、将に之を極刑に置かんとす。帝以て天麟に問う。対えて曰く、「遼国主后の銅像西京に在る者は、今尚ほ之有り、未だ禁令有るを聞かず。」と。事遂に寝す。天麟年七十余、帝以て御する所の金龍頭の杖を之に賜い、曰く、「卿年老り、宮掖に出入し、此を杖とす可し。」と。時に権臣用事し、凶焰薰炙し、人敢えて言う者無し。天麟独り其の姦を言い、顧みる所無し。人其の忠直を服す。

成宗即位し、栄禄大夫・司徒を加え、大いに玉徳殿に宴し、天麟を召して宴に与からしめ、御薬を以て賜い、左右を命じて之に酒を勧めしむ。頗る酔う。命じて御輦を以て家に送り還らしむ。武宗即位し、平章政事に進む。至大二年秋八月卒す。年九十二。推誠宣力保徳翊戴功臣・開府儀同三司・太師・上柱国を贈り、冀国公を追封し、諡して忠宣と曰う。

子の珪は、累官して治書侍御史に至り、枢密副使に遷り、復た侍御史と為り、河南行中書省右丞を拝し、栄禄大夫・南台御史中丞に陞り、卒す。次子の懐都は、初め断事官を襲ぎ、累遷して刑部尚書・荊湖北道宣慰使と為る。孫の哈藍赤は、断事官を襲ぐ。

李邦瑞

李邦瑞、字は昌國、字をもって行われる。京兆臨潼の人、代々農家。邦瑞は幼少より学を好み、書を読み大義を通暁した。かつて掠奪され、太原に逃れ、金の将軍の小史となり、閻漫山寨を守備した。國王木華黎が諸城を攻め落とすと、金の将軍は逃走し、邦瑞は衆を率いて来帰し、再び太原に居住した。守臣はその才能を惜しみ、鞍馬を整え、行在所に遣わし、中書がその名を奏聞した。

庚寅の歳、旨を受けて宋に使いし、宝応に至るも入国できず。間もなく、再び往くことを命じられ、なお山東淮南路行尚書省の李全に護送を命じたが、宋はなお拒絶した。再び旨を奉じて行くこととなり、邦瑞は蘄・黄を経由し、宋は賤しい者を遣わして迎えさせたので、邦瑞は怒り、叱りつけて追い返した。宋は行人を改めて命じ、ようやく約定通りに議して帰還した。太宗は慰労し、車騎・旃裘・衣装及び銀十錠を賜った。邦瑞は因みに奏上した:「干戈の際、宗族離散いたしました。帰って尋ね訪ねることを乞います。」帝は速不䚟・察罕・匣剌達海らに諭し、邦瑞を駅伝で南京に馳せさせ、親戚を尋ね訪ねさせ、あるいは諸部に隷属している者があれば、ことごとく帰属させた。

甲午、諸王闊出に従い河南を経略し、歴訪した河北・陝西の州郡四十余城を、図を描いて進上し、金符・宣差軍儲使を授けられた。乙未夏六月、卒す。子に榮。

楊奐

楊奐、字は煥然、乾州奉天の人。母はかつて東南の日光が自らを射し、傍らに一神人が筆を授ける夢を見た。やがて奐が生まれ、父は文明の象とみなし、因って名を奐とした。十一歳の時、母が没し、成人のように哀毀した。金末、進士に挙げられず、乃ち万言の策を作り、時弊を指陳し、皆人の敢えて言わざる所であったが、未だ上奏せずに帰り、郷里で教授した。

癸巳の歳、金の元帥崔立が汴京を以て降伏し、奐は微服で北渡し、冠氏の帥趙壽之が即座に奐を招き致し、師友の礼をもって遇した。門人に京師より書を載せて来た者がおり、因って集めて読むことができた。東平の嚴實が奐の名を聞き、しばしばその行蔵を問うたが、奐は終に一度も詣でなかった。

戊戌、太宗は宣德稅課使劉用之に詔して諸道の進士を試させた。奐は東平で試みられ、二度とも賦論で第一となった。監試官に従って北上し、中書耶律楚材に謁し、楚材が奏薦し、河南路徵收課稅所長官兼廉訪使を授けられた。奐は行こうとして、楚材に言った:「僕不肖、誤って破格の任用を蒙り、書生をもって財賦を治めるは、既に長ずる所ではありません。ましてや河南は兵乱の後、遺民僅かであり、鮮を烹るの喩えは、正に今日に当たります。急いてこれを擾せば、糜爛必至です。願わくは歳月を仮し、瘡痍を撫摩させ、朝廷の愛養基本の万一の助けとさせてください。」楚材は大いに善しとした。奐は既に到着すると、一時の名士を招致してこれと議し、政事の約束は一に簡易を以て事とした。境内を巡行し、親しく塩務の月課が幾何か、難易如何かを問うた。増額を言う者がいたが、奐はこれを責めて言った:「下を剥ぎ上を欺く、汝は我にこれを為させようとするか!」即座に元額の四分の一を減じ、公私ともに便利とした。一月を踰えずして政成り、時論翕然として、これ以前の漕司には未だかつてなかったとされた。官に十年、乃ち燕の行臺に請老した。

壬子、世祖が潜邸にあられた時、駅伝で奐を召し、京兆宣撫司事を参議させ、累次上書し、請いを得て帰った。乙卯、病篤く、後事を平時のように処置し、觴を引いて大笑して卒す。年七十。諡を文憲と賜う。

奐は博覧強記し、文を作るに務めて陳言を去り、古人を蹈襲するを恥とした。朝廷の諸老は皆行輩を折ってこれと交わった。関中は多く士を号すといえども、名は奐の右に出る者なかった。奐は生産を治めず、家に十金の業なく、人の急を周するを喜び、力及ばずとも、なお強いてこれを為した。人に片善あれば、委曲を尽くして称奬し、その名聞こえざるを恐れ、或いは小過失あれば、必ず言を尽くして勧め止め、その怨怒を計らわなかった。著す所に還山集六十巻・天興近鑑三巻・正統書六十巻あり、世に行われる。

賈居貞〔鈞〕

賈居貞、字は仲明、真定獲鹿の人。十五歳の時、汴京陥落し、母を奉じて天平に居住した。冠にはじめて、行臺の從事となった。当時法制未だ立たず、人は賄賂を以て相交結した。黄金五十両を餽る者あり、居貞はこれを退けた。太宗聞いて嘉歎し、有司に勅して月ごとに白金百両を給し、その廉を旌げさせた。世祖が潜邸にあられた時、その賢を知り、召して用い、上都城の築造を監させた。事畢り、母喪のため帰った。

世祖即位し、中統元年、中書左右司郎中を授けられた。帝に従い北征し、毎に資治通鑑を陳説し、軍中に在りとも、未だ書を廃さなかった。一日、帝問う:「郎の俸は幾何か。」居貞は数をもって対えた。帝はあまりに薄いと言い、増やすよう勅したが、居貞は辞して言った:「品秩当然のことであり、臣をもって制を紊すべからず。」劉秉忠が居貞を参知政事に奏薦したが、また辞して言った:「他日必ず郎官より例に援りて執政を求むる者あり、将に何を以てこれを処すべきか。」拝せず。至元元年、中書省事を参議し、詔により左丞姚樞とともに河東山西に行省し、侯を罷め守を置いた。五年、再び中書郎中となり、当時阿合馬が権を擅にし、これを忌み、給事中に改めた。丞相史天澤らとともに國史を纂修した。

十一年、丞相伯顏が宋を伐つに当たり、居貞は宣撫使として行省事を議した。既に江を渡り、鄂・漢を下すと、伯顏は大軍を率いて東下し、右丞阿里海涯と居貞を留めて分省しこれを鎮守させた。居貞言う:「江陵は要地、乃ち宋の制閫が重兵を屯する所。諸将和睦せず、遷徙の民城に盈ち、また皆疾疫に罹り、芻薪乏闕し、門を杜って敢えて樵採せざると聞く。隙に乗じて先ずこれを取らざれば、春水漲くにおよび、上流彼に乗ぜられんことを恐るれば、則ち鄂危うし。」駅伝で奏聞した。十二年春、阿里海涯に命じて兵を領し江陵を取らせ、居貞は僉行省事として鄂に留まった。ここにおいて倉廩を発して流亡を賑い、宋の宗室子孫で流寓する者には廩食を与え、その服を変えず、その楮幣を行わせた。東南未だ下らざる州郡に商旅留滞する者には、引給して帰らせた。商税を括り并せて湖荻の禁を免じた。舟百余〔十〕艘を造り、水軍を以て駕し、民を病ませなかった。一方安んずるを得た。

婁安邦が信陽を以て来帰し、入覲に遣わしたが、裨将陳思聰がその家を屠った。居貞は計略をもって召し寄せ、思聰の罪を数えて誅した。

宋の幼主が既に降伏すると、その宰相陳宜中らは二王を擁して閩・広に逃れ、所在で扇動し、民衆は争ってこれに応じた。蘄州の賊が司空山で蜂起し、〔鄂〕の属県の民傅高もまた兵を起こして応じた。居貞は檄文を移して禍福を諭し、その配下はしばしば離散し、官軍で圧迫して遂にこれを平定した。傅高は姓名を変えて逃亡したが、捕らえてこれを誅殺した。初め、鄭万戸を遣わして賊を討たせたところ、鄭は言う、「鄂の大姓は皆傅高と通じております、先にこれを除き、禍の根源を絶つことを請います」と。居貞は言う、「傅高は鼠の子で無知であり、まさに誅殺されようとしている、大姓が何の関わりがあろうか。私は彼らに他の異心がないことを保証する」と。鄭は兵を率いて出陣した後、自分の親しい部将を留め置き、戒めて言う、「我が軍が帰還したと聞いたら、汝は直ちに城楼で烽火を挙げ、内外合わせて発動し、城中の大姓を皆殺しにせよ」と。ちょうどその者が戦いに敗れて溺死したため、その事は初めて明らかとなった。

十四年、湖北宣慰使に拝任されたが、命令が下る前に、居貞は門を閉めて出仕せず、驕れる将と悍ましい卒とが合謀して民を擾乱しようとしたため、再び出て政務を視察し、人々はこれによって恐れをなさなかった。出発する際には、鄂の老幼が道で号泣して見送り、その像を石に刻み、泮宮に祠った。

十五年、江西行省参知政事に転じたが、未だ着任せぬうちに、民衆は千里を争って出迎え訴えた。時に民間で宋の二王の文帖を受けた者を逮捕することが甚だ急であり、連座して繫獄された豪族三百余家に及んだが、居貞が到着すると、悉くこれを釈放し、その文帖を水火に投じた。士卒が武器を携えて民家に入り、匿っていると誣って財物を奪い取る者、人の子女を取って奴妾とする者があれば、皆厳しく法によって処断した。大水が民家を損壊すると、居貞は倉を開いてこれを救済した。南安の李梓発が乱を起こすと、居貞は将帥が出兵して民を擾乱することを慮り、自ら赴くことを請い、兵卒わずか千人を率い、城北に営し、人を遣わしてこれを諭した。賊衆は居貞の到着を聞くと、皆散り隠れ、再び用いられなくなった。梓発は妻子を一室に閉じ込め、自ら焼死した。帰還するまで、一人も誅殺しなかった。杜万一が都昌で乱を起こすと、居貞は兵を調発してこれを捕らえ、豪族の姓名を百数名列挙した文書が届き、賊と連なっているという。居貞は言う、「首謀者は誅殺された、蔓延させる必要があろうか」と。命じてその文書を焼却させた。

十七年、朝廷が再び日本を征し、江南に戦艦を建造した。居貞は民の困窮を極言し、このようなことをすれば必ず乱を招くとし、朝廷に入ってこの事を奏上して中止させようとしたが、出発せず、病により在官のまま卒した。享年六十三。推忠輔義功臣・銀青栄禄大夫・中書平章政事を追贈され、定国公を追封された。次子は鈞である。

鈞は字を元播といい、幼くして書を読み、深沈として包容があった。榷茶提挙より、監察御史に拝任され、僉淮東廉訪司事・行臺都事を経て、入朝して刑部郎中となり、右司郎中・参議中書省事に改めた。仁宗が即位すると、参知政事に拝任され、尚書省の制定した法を廃止することを議した。僉書枢密院に転じ、再び参知政事となり、錦衣・宝帯を賜わり、寵遇と賞賜が加えられた。政務を行うに大体を堅持し、風裁は峻厳で整然とし、些細なことで名誉を釣ろうとはしなかった。皇慶元年、上幸に従って上都に至り、病に罹り、家で卒した。前後して詔により賻として鈔三万貫を賜わり、葬事に供された。子の汝立が嗣いだ。