巻153

列傳第四十:劉敏、王檝、王守道、高宣、王玉汝、焦德裕、石天麟、李邦瑞、楊奐、賈居貞

劉敏

劉敏、字は有功、宣徳青魯〔里〕の人。壬申の歳、太祖の軍が山西に駐屯した時、敏は十二歳で、父母に従って徳興の禅房山に避難した。兵が至ると、父母は敏を棄てて逃げたが、大将が哀れんで養育した。ある日、帝が行営で諸将を宴すると、敏もそれに従って入った。帝はその容貌が魁偉なのを見て異とし、召して出身を問い、宿衛に留めることを許した。国語(モンゴル語)を習い、二年を経て諸部の言葉に通じたので、帝はこれを嘉して玉出干の名を賜い、禁闥に出入りさせ、初め奉御とした。帝が西遼諸国を征伐してこれを破り、また回回国を征伐してその軍二十万を破り、その地を悉く収めた時、敏は皆これに従軍した。

原文劉敏字有功,宣德青魯〔里〕人。歲壬申,太祖師次山西,敏時年十二,從父母避地德興禪房山。兵至,父母棄敏走,大將憐而收養之。一日,帝宴諸將於行營,敏隨之入,帝見其貌偉,異之,召問所自,俾留宿衞。習國語,閱二歲,能通諸部語,帝嘉之,賜名玉出干,出入禁闥,初為奉御。帝征(遼西)〔西遼〕諸國,破之,又征回回國,破其軍二十萬,悉收其地,敏皆從行。

癸未、安撫使に任じ、便宜行事を許され、燕京路の税課徴収・漕運・塩場・僧道・司天等の事を兼ね、西域の工匠千余戸及び山東・山西の兵士を与えられ、両軍を立てて燕を戍守させた。二総管府を置き、敏の従子二人に金符を佩かせて二府の長とし、敏にその役を総轄させ、玉印を賜い、金虎符を佩かせた。佐吏の宋元を安撫副使に、高逢辰を安撫僉事に奏薦し、各々銀章を賜い、金符を佩かせた。李臻を参謀とした。初め、耶律楚材が都邑を総裁した時、契丹人が多く、その徒党はしばしば夜中に弓矢を挟んで民財を掠奪し、官はこれを禁じ得なかったが、敏はその渠魁を誅戮し、諸市にさらしものにした。また、豪民が良民を奴隷として籍に冒す者が多かったが、敏は悉くこれを帰した。民で星暦に習熟する者を選び、司天太史氏とした。学校を興し、名士を進めてその師とした。

原文癸未,授安撫使,便宜行事,兼燕京路徵收稅課、漕運、鹽場、僧道、司天等事,給以西域工匠千餘戶,及山東、山西兵士,立兩軍戍燕。置二總管府,以敏從子二人,佩金符,為二府長,命敏總其役,賜玉印,佩金虎符。奏佐吏宋元為安撫副使,高逢辰為安撫僉事,各賜銀章,佩金符;李臻為參謀。初,耶律楚材總裁都邑,契丹人居多,其徒往往中夜挾弓矢掠民財,官不能禁,敏戮其渠魁,令諸市。又,豪民冒籍良民為奴者眾,敏悉歸之。選民習星曆者,為司天太史氏;興學校,進名士為之師。

己丑、太宗即位し、行宮の幄殿を改造した。乙未、和林に城を築き、万安宮を建て、宮闈司局を設け、駅伝を立てて貢輸を便利にした。完成すると、宴賜は甚だ厚かった。辛丑の春、行尚書省を授けられ、詔して曰く「卿の行うところ、有司は関与して聞くことを得ず」と。間もなく牙魯瓦赤が西域より戻り、敏と共に漢民を治めることを奏上し、帝はその請いを允した。牙魯瓦赤は元来剛直で気性を尊び、自ら専断できないことを恥じ、遂にその配下の忙哥児に命じて流言をもって敏を誣告させた。敏は手詔を示したので、やっと止んだ。帝はこれを聞き、漢察火児赤・中書左丞相粘合重山・奉御李簡に命じて詰問させて実情を得、牙魯瓦赤を罷免し、依然として敏に単独で任せた。また李臻を左右司郎中に登用した。臻は幕府に二十年、参賛の功が多かった。

原文己丑,太宗即位,改造行宮幄殿。乙未,城和林,建萬安宮,設宮闈司局,立驛傳,以便貢輸。既成,宴賜甚渥。辛丑春,授行尚書省,詔曰:「卿之所行,有司不得與聞。」俄而牙魯瓦赤自西域回,奏與敏同治漢民,帝允其請。牙魯瓦赤素剛尚氣,恥不得自專,遂俾其屬忙哥兒誣敏以流言,敏出手詔示之,乃已。帝聞之,命漢察火兒赤、中書左丞〔相〕粘合重山、奉御李簡詰問得實,罷牙魯瓦赤,仍令敏獨任。復辟李臻為左右司郎中,臻在幕府二十年,參贊之力居多。

丙午、定宗即位し、詔して敏に奥都剌と共に行省事を行わせた。辛亥夏六月、憲宗即位し、行在所に召し赴かせ、依然として牙魯瓦赤と共に政務を執らせた。甲寅、子の世亨をもって自らに代わることを請うた。帝はこれを許し、世亨に銀章を賜い、金虎符を佩かせ、塔塔児台の名を賜った。帝は世亨に命に従わない者はこれを罷免せよと諭した。またその子世済に散祝台の名を賜い、必闍赤として宿衛に入らせた。

原文丙午,定宗即位,詔敏與奧都剌同行省事。辛亥夏六月,憲宗即位,召赴行在所,仍命與牙魯瓦赤同政。甲寅,請以子世亨自代,帝許之,賜世亨銀章,佩金虎符,賜名塔塔兒台。帝諭世亨以不從命者黜之。又賜其子世濟名散祝台,為必闍赤,入宿衞。

帝が宋を伐つため、陝右に行幸した時、敏は病を押して輿に乗り請見した。帝曰く「卿は病があるのに、召されずして来た。言うことがあるのか」と。敏曰く「臣は聞く、天子が出巡すれば、義として扈従すべきであると。敢えて病を辞するであろうか。ただ中原は土地が広く民が貧しく、師を労して遠く征伐するは、恐らく計に非ざるなり」と。帝は納れず、敏は帰り、年豊に退居した。世祖が南征し、年豊を過ぎた時、敏が入見すると、諭して曰く「我が太祖は励精図治し、見て知る者は卿のみである。汝は春秋高し、これを彙次して後世の法とせよ」と。間もなく病んで燕に帰り、夏四月に卒した。年五十九。

原文帝伐宋,幸陝右,敏輿疾請見,帝曰:「卿有疾,不召而來,將有言乎?」敏曰:「臣聞天子出巡,義當扈從,敢辭疾乎!但中原土曠民貧,勞師遠伐,恐非計也。」帝弗納,敏還,退居年豐。世祖南征,過年豐,敏入見,諭之曰:「我太祖勵精圖治,見而知者惟卿爾。汝春秋高,其彙次以為後法。」未幾,病歸于燕,夏四月卒,年五十九。

王檝

王檝、字は巨川、鳳翔虢県の人。父は霆、金の武節将軍・麟游主簿。檝は性倜儻、弱冠で進士に挙げられず、乃ち終南山に入って書を読み、孫・呉の兵法を渉猟した。泰和年中、また下第し、闕に詣でて上書し、当世の急務を論じた。金主は給事縉山元帥府に仕えさせた。間もなく元帥高琪の推薦により、特賜で進士出身を賜い、副統軍に任じ、涿鹿の隘を守った。

原文王檝字巨川,鳳翔虢縣人。父霆,金武節將軍、麟游主簿。檝性倜儻,弱冠舉進士不第,乃入終南山讀書,涉獵孫、吳。泰和中,復下第,詣闕上書,論當世急務,金主俾給事縉山元帥府。尋用元帥高琪薦,特賜進士出身,授副統軍,守涿鹿隘。

太祖が兵を率いて南下すると、檝は三日間激戦し、兵敗れて捕らえられた。将に戮せられんとしたが、神色変らず、太祖問うて曰く「汝は何ぞ敢えて我が師に抗し、独り死を懼れざるか」と。対えて曰く「臣は布衣として恩を受け、躯を捐げて国に報いんと誓う。今既に軍を僨せしめ、死を得るを幸いとす」と。帝はその義を感じて釈放し、都統に任じ、金符を佩かせ、山西の潰兵を招集せしめた。大軍に従って紫荊関を破り、涿・易・保州・中山を取った。軍が雄州に駐屯すると、節度使孫吳が堅守して降らなかったので、檝が城に入って禍福を諭すと、呉は遂に城を以て降った。

原文太祖將兵南下,檝鏖戰三日,兵敗見執,將戮之,神色不變,太祖問曰:「汝曷敢抗我師,獨不懼死乎?」對曰:「臣以布衣受恩,誓捐軀報國,今既僨軍,得死為幸!」帝義而釋之,授都統,佩以金符,令招集山西潰兵。從大軍破紫荊關,取涿、易、保州、中山。軍次雄州,節度使孫吳堅守不下,檝入城喻以禍福,吳遂以城降。

甲戌、宣撫使に任じ、行尚書六部事を兼ねた。三合抜都・太傅猛安に従って兵を率い南征し、古北口を下し、薊・雲・順等州を攻め、過ぐる所迎えて降り、漢軍数万を得、遂に中都を包囲した。乙亥、中都降る。檝進言して曰く「国家は仁義を以て天下を取る。民に信を失うべからず。虜掠を禁じ、以て民望を慰むべし」と。時に城中は食糧絶え、人相食らう。乃ち軍士に糧を与え、城に入って転売することを許した。故に士は金帛を得、民は粒食を得た。また議して曰く「田野久しく荒れ、兵後の牛無し。宜しく官を差し、瀘溝橋において軍の戻る所に駆られたる牛を索め、十に一を取って農民に給すべし」と。その説を用い、数千頭を得、近県に分給した。民大いに悦び、復業する者衆し。三合・猛安は檝に命じて保定・新城・信安・雄・霸・文安・清・滄諸城を招諭させた。皆風望して款附した。乃ち滄州に行司を置いてこれを鎮めた。遂に猛安に従って入覲し、銀青栄禄大夫を授けられ、依然として前職、御史大夫を兼ね、世襲千戸とした。

原文甲戌,授宣撫使,兼行尚書六部事。從三合拔都、太傅猛安率兵南征,下古北口,攻薊、雲、順等州,所過迎降,得漢軍數萬,遂圍中都。乙亥,中都降。檝進言曰:「國家以仁義取天下,不可失信於民,宜禁虜掠,以慰民望。」時城中絕粒,人相食,乃許軍士給糧,入城轉糶,故士得金帛,而民獲粒食。又議:「田野久荒,而兵後無牛,宜差官瀘溝橋索軍回所驅牛,十取其一,以給農民。」用其說,得數千頭,分給近縣,民大悅,復業者眾。三合、猛安俾檝招諭保定、新城、信安、雄、霸、文安、清、滄諸城,皆望風款附,乃置行司于滄州以鎮之。遂從猛安入覲,授銀青榮祿大夫,仍前職,兼御史大夫,世襲千戶。

時に河間・清・滄がまた叛いた。帝は檝に命じてこれを討たせ、また駙馬孛禿に命じて蒙古軍及び乣・漢軍三千を分けて檝に属させた。遂に河間を回復し、軍民一万口を得た。孛禿はその反覆を憎み、尽く誅殺せんとした。檝これを解いて曰く「群羊を駆って東西せしむるは牧人なり。羊何ぞ知らんや。その渠魁を殲するは足れり。この輩を釈し、近県に遷し、強者は軍に従わせ、弱者は農と為せ。これは天の我に与うる所なり。何を以て殺さんや」と。孛禿曰く「汝はこの輩が再び叛かざることを保し得るか」と。檝曰く「可なり」と。即ち移文して保任し、皆全活を得た。

原文時河間、清、滄復叛,帝命檝討之,復命駙馬孛禿分蒙古軍及乣、漢軍三千屬檝,遂復河間,得軍民萬口。孛禿惡其反復,欲盡誅之,檝解之曰:「驅羣羊使東西者,牧人也,羊何知哉!殲其渠魁足矣。釋此輩,遷之近縣,強者使從軍,弱者使為農,此天之所以畀我也,何以殺為!」孛禿曰:「汝能保此輩不復反耶?」檝曰:「可。」即移文保任之,俱得全活。

帝は闍里畢と皇太弟国王に命じて諸侯王の城邑を分撥し、闍里畢に諭して曰く「漢人の中で王宣撫の如きは、任用して使うべし」と。遂に前職を以て、三司副使を判ずることを兼ねた。後また省臣に命じて帰附した工匠の数を総括し、将に大臣をして分掌せしめんとした。太師阿海が諸大臣の名を具列して聞かせると、帝曰く「朕にその人あり。偶々姓名を忘れたるのみ」と。良久くして曰く「得たり。旧人王宣撫、この職に任ずるべし」と。遂に檝に命じてこれを掌らせた。時に都城の廟学は既に兵火で焼失していたので、檝は旧枢密院の地を取って再びこれを創立し、春秋に諸生を率いて釈菜の礼を行い、また旧岐陽の石鼓を取って廡下に列べた。

原文帝命闍里畢與皇太弟國王分撥諸侯王城邑,諭闍里畢曰:「漢人中若王宣撫者,可任使之。」遂以前職,兼判三司副使。後又命省臣總括歸附工匠之數,將俾大臣分掌之。太師阿海具列諸大臣名以聞,帝曰:「朕有其人,偶忘姓名耳。」良久曰:「得之矣,舊人王宣撫可任是職。」遂命檝掌之。時都城廟學既燬於兵,檝取舊樞密院地復創立之,春秋率諸生行釋菜禮,仍取舊岐陽石鼓列廡下。

丙戌の日、西夏征伐に従軍す。秦州に至るや、夏人は橋梁をことごとく撤去して備えと為し、軍は阻まれて進むを得ず、帝諸将に問うも、皆計の出づる所を知らず。檝夜を徹して士卒を督し木石を運ばしめ、暁に及んで橋成り、軍乃ち進むを得たり。戊子の日、監国公主の命を奉じ、中都の省を領す。時に盗賊信安に起こり、北山の盗賊李密と結び、転じて近県を掠むるに属す。檝曰く「都城は根本の地なり、何ぞ備え無かるべけんや」と。水を引きて城を環らし、経費を調度す。檝自ら券を作り、これを賈人に仮し、而して斂は民に及ばず、人心稍く安んず。男守謙を遣わし軍を率いて諸盗を討たしめ、之を平らぐ。

原文丙戌,從征西夏。及秦州,夏人盡撤橋梁為備,軍阻不得前,帝問諸將,皆不知計所出。檝夜督士卒運木石,比曉,橋成,軍乃得進。戊子,奉監國公主命,領省中都。屬盜起信安,結北山盜李密,轉掠近縣,檝曰:「都城根本之地,何可無備!」引水環城,調度經費,檝自為券,假之賈人,而斂不及民,人心稍安。遣男守謙率軍討諸盜,平之。

庚寅の年、関中征伐に従い、長駆して京兆に入り、進んで鳳翔を克つ。太宗に請うて曰く「此れ臣が郷邦なり、願わくは城に入り親族を訪い求めん」と。果たして族人数十口を得て以て帰る。壬辰の年、汴京攻撃に従う。癸巳の年、命を奉じて国書を持ち宋に使し、兀魯剌を以て之を副とす。宋に至るや、宋人甚だ礼重し、即ち使を遣わし金幣を以て入貢せしむ。檝前後凡そ五度往き、和議未だ決せざるを以て、隠憂疾を致し、南に卒す。宋人重く賵し、仍て使を遣わし其の柩を帰し、燕に葬る。子六人。

原文庚寅,從征關中,長驅入京兆,進克鳳翔,請于太宗曰:「此臣鄉邦也,願入城訪求親族。」果得族人數十口以歸。壬辰,從攻汴京。癸巳,奉命持國書使宋,以兀魯剌副之。至宋,宋人甚禮重之,即遣使以金幣入貢。檝前後凡五往,以和議未決,隱憂致疾,卒于南。宋人重賵之,仍遣使歸其柩,葬于燕。子六人。

王守道

王守道、字は仲履、其の先は真定平山の人なり。金亡びて、群盗並び起こり、州県の吏多く乱に乗じて貪暴不法、民往々令丞及び属吏を殺す。宣撫司守道を署して県尉と為し、衆之を悦び、因って転じて令を摂め、真定主簿に改む。史天倪河北西路兵馬都元帥と為り、真定を鎮む。既に大名・沢・潞・懷・孟の城邑の未だ附かざる者を収め、以て府経歴と為す。及び金の恒山公武仙降り、署して史天倪の副帥と為す。守道天倪に謂ひて曰く「是の人は位公の下に居り、意平らかならざる有り、安んぞ此れに鬱鬱たるを得んや。宜しく事に先んじて備えを為すべし」と。天倪然りとせず、未だ幾ばくもせず、果たして其の害せらるる所と為る。及び仙城を以て反し金に為るや、史氏の人と属県旁近の豪傑天倪の弟天沢を納れて主帥と為し、仙を攻む。時に史天安白霫に在り、変を聞き、兵を率いて亦至り、遂に真定を復す。仙走りて西山諸寨を保ち、守道の家人を執り、重幣を以て之を誘ふ。守道顧みず、日々史氏の部曲昆弟と徴発調度して以て讐を復し、卒に仙を逐ひて遁去せしむ。

原文王守道字仲履,其先真定平山人。金亡,羣盜並起,州縣吏多乘亂貪暴不法,民往往殺令丞及屬吏。宣撫司署守道為縣尉,眾悅之,因轉攝令,改真定主簿。史天倪為河北西路兵馬都元帥,鎮真定,既收大名、澤、潞、懷、孟城邑之未附者,以為府經歷。及金恒山公武仙降,署為史天倪副帥,守道謂天倪曰:「是人位居公下,意有不平,安能鬱鬱於此!宜先事為備。」天倪不以為然,未幾,果為所害。及仙以城反為金,史氏之人與屬縣旁近豪傑納天倪之弟天澤為主帥,攻仙。時史天安在白霫,聞變,率兵亦至,遂復真定。仙走保西山諸寨,執守道家人,以重幣誘之,守道不顧,日與史氏部曲昆弟徵發調度以復讎,卒逐仙遁去。

後に慶源軍節度使に擢でらる。天沢五路万戸と為り、守道を行軍参謀に署し、兼ねて検察使とす。荘聖太后真定を以て湯沐邑と為す。守道鎮に在り、幕僚として頻りに歳を致して覲し、敷対旨に称し、金符・錦衣・金銭を賜はるを得たり。中統三年、天沢入りて左丞相を拝す。即ち真定等路万戸府参謀を授く。至元七年卒す。至大元年、子顒の貴に以て、特ち銀青栄禄大夫・大司徒を贈られ、寿国公を追封され、諡して忠恵と曰ふ。仁宗即位し、復た推忠協力秉義功臣・金紫光禄大夫・大司徒・上柱国を加ふ。

原文後擢慶源軍節度使,天澤為五路萬戶,署守道行軍參謀,兼檢察使。莊聖太后以真定為湯沐邑,守道在鎮,以幕僚頻歲致覲,敷對稱旨,得賜金符、錦衣、金錢。中統三年,天澤入拜左丞相,即授真定等路萬戶府參謀。至元七年卒。至大元年,以子顒貴,特贈銀青榮祿大夫、大司徒,追封壽國公,諡忠惠。仁宗即位,復加推忠協力秉義功臣、金紫光祿大夫、大司徒、上柱國。

高宣

高宣、遼陽の人。太宗元年、詔して宣を元帥と為し、金符を賜ひ、兵を統べて睿宗に従ひ大名を攻む。宣進みて曰く「今命を奉じて師を出だし、罪を伐ち民を弔ふ。願はくは殺を嗜むこと無くして、以て上意に称せん」と。睿宗元帥朮乃を召して之を諭し、軍中に令して宣の言の如くせしむ。及び城破れ、兵刃に血せず、民心悦服す。四年正月、金兵三峯山を破るに従ひ、宣に降る者二千余戸、籍を以て献じ、打捕鷹坊都総管府を立てて之を統べ、宣を以て都総管と為し、金符を賜ひ、仍て子孫其の職を世はしむ。卒す。皇慶二年、宣力功臣・銀青栄禄大夫・大司徒を贈られ、営国公を追封され、諡して簡僖と曰ふ。

原文高宣,遼陽人。太宗元年,詔宣為元帥,賜金符,統兵從睿宗攻大名,宣進曰:「今奉命出師,伐罪弔民,願勿嗜殺,以稱上意。」睿宗召元帥朮乃諭之,下令軍中如宣言。及城破,兵不血刃,民心悅服。四年正月,從破金兵三峯山,降宣者二千餘戶,籍以獻,立打捕鷹坊都總管府統之,以宣為都總管,賜金符,仍令子孫世其職。卒。皇慶二年,贈宣力功臣、銀青榮祿大夫、大司徒,追封營國公,諡簡僖。

子天錫、世祖の潜邸に事へ、必闍赤と為り、宿衛に入り、甚だ親幸せらる。中統二年、其の父の官を以て授けられ、鷹坊都総管と為る。四年、燕京諸路奥魯総管に改め、按察副使に遷り、仍て鷹坊都総管を兼ぬ。天錫丞相孛羅・左丞張文謙に語りて曰く「農桑は衣食の本なり。本を務めざれば、則ち民の衣食足らず、教化興すべからず。古の王政、此れに先んずる莫し。願はくは之に留意せん」と。丞相以て聞こゆ。帝悦び、命して司農司を立て、天錫を以て中都山北道巡行勧農使と為し、司農丞を兼ぬ。尋ち司農少卿・巡行勧農使に遷り、又戸部侍郎に遷り、嘉議大夫・兵部尚書に進み、卒す。後に推忠保義功臣・太保・儀同三司・上柱国を贈られ、営国公を追封され、諡して荘懿と曰ふ。

原文子天錫,事世祖潛邸,為必闍赤,入宿衞,甚見親幸。中統二年,授以其父官,為鷹坊都總管。四年,改燕京諸路奧魯總管,遷按察副使,仍兼鷹坊都總管。天錫語丞相孛羅、左丞張文謙曰:「農桑者,衣食之本,不務本,則民衣食不足,教化不可興,古之王政,莫先於此,願留意焉。」丞相以聞,帝悅,命立司農司,以天錫為中都山北道巡行勸農使,兼司農丞。尋遷司農少卿、巡行勸農使,又遷戶部侍郎,進嘉議大夫、兵部尚書,卒。後贈推忠保義功臣、太保、儀同三司、上柱國,追封營國公,諡莊懿。

子諒、裕宗初め燕王に封ぜらる。諒を以て符宝郎と為す。俄ち命して其の父の官を襲はしめ、鷹房都総管と為す。裕宗甚だ之を愛し、符宝郎董文忠に謂ひて曰く「汝我が為に奏請せよ。諒の管する民戸を我に隷せしめ、庶くは諒の尽力して我が用に為るを得ん」と。文忠入りて奏す。帝之に従ふ。未だ幾ばくもせず、諒に嘉議大夫を授け、兵部尚書に遷す。卒す。仁宗の時、推誠保徳賛治功臣・太師・開府儀同三司・上柱国を贈られ、営国公を追封され、諡して宣靖と曰ふ。

原文子諒,裕宗初封燕王,以諒為符寶郎,俄命襲其父官,為鷹房都總管。裕宗甚愛之,謂符寶郎董文忠曰:「汝為我奏請,以諒所管民戶隸於我,庶得諒盡力為我用。」文忠入奏,帝從之。未幾,授諒嘉議大夫,遷兵部尚書。卒。仁宗時,贈推誠保德贊治功臣、太師、開府儀同三司、上柱國,追封營國公,諡宣靖。

子塔失不花、成宗命して其の祖父の官を世はしむ。居喪を以て辞す。大徳元年、奉議大夫・章佩監丞を授く。四年、朝列大夫・利用監丞に改む。八年、少監に陞る。武宗即位し、中議大夫・秘書監丞を授く。仁宗東宮に居す。召し入れて宿衛せしむ。至大三年冬、少中大夫・納綿府達魯花赤に遷り、且つ之を諭して曰く「此れ先世の守る旧職なり」と。皇慶元年春、嘉議大夫・同知崇祥院事に改めて授く。冬、資徳大夫に進み、院使と為る。

原文子塔失不花,成宗命世其祖父官,以居喪辭。大德元年,授奉議大夫、章佩監丞。四年,改朝列大夫、利用監丞。八年,陞少監。武宗即位,授中議大夫、祕書監丞。仁宗居東宮,召入宿衞。至大三年冬,遷少中大夫、納綿府達魯花赤,且諭之曰:「此先世所守舊職也。」皇慶元年春,改授嘉議大夫、同知崇祥院事。冬,進資德大夫,為院使。

延祐四年夏四月、帝塔失不花に謂ひて曰く「汝が祖嘗て司農と為りしが、今復た以て汝に授く」と。遂に栄禄大夫・大司農に遷す。英宗東宮に居す。塔失不花前代の嘉言善行を撰集し、名づけて承華事略と曰ひ、并せて豳風図を画きて以て進む。帝之を覧み、奬諭して曰く「汝能く太子を輔けて以て正し、朕甚だ之を嘉す」と。命して図書を東宮に置き、太子をして時時観省せしむ。六年、集禧院使に改む。退きて家に居し、卒す。

原文延祐四年夏四月,帝謂塔失不花曰:「汝祖嘗為司農,今復以授汝。」遂遷榮祿大夫、大司農。英宗居東宮,塔失不花撰集前代嘉言善行,名曰承華事略,并畫豳風圖以進。帝覽之,奬諭曰:「汝能輔太子以正,朕甚嘉之。」命置圖書東宮,俾太子時時觀省。六年,改集禧院使。退居于家,卒。

王玉汝

王玉汝、字は君璋、鄆の人。少く吏事を習ふ。金末民南渡に遷る。玉汝其の親を奉じて間道より還る。行台厳実鄆に入りて拠る。玉汝を署して掾史と為し、稍く遷り、行台令史を補ふ。中書令耶律楚材東平を過ぐ。之を奇とし、版を以て東平路奏差官に授く。事を以て京師に至り、楚材の門に遊び、之を待つこと家人父子の然るが如し。実年老いて戎に従ふに艱し。玉汝奏請して本府総管を以て之を行はしむ。夏津災あり。玉汝奏請して其の民の一歳を復す。済州の長官州を以て朝廷に直隷せんと欲し、大名の長官冠氏等十七城を以て大名に改隷せんと欲す。玉汝皆之を弁正す。

原文王玉汝字君璋,鄆人。少習吏事。金末遷民南渡,玉汝奉其親從間道還。行臺嚴實入據鄆,署玉汝為掾史,稍遷,補行臺令史。中書令耶律楚材過東平,奇之,版授東平路奏差官。以事至京師,遊楚材門,待之若家人父子然。實年老艱於從戎,玉汝奏請以本府總管代之行。夏津災,玉汝奏請復其民一歲。濟州長官欲以州直隸朝廷,大名長官欲以冠氏等十七城改隸大名,玉汝皆辨正之。

戊戌の日、東平の地を分けて諸勲貴に封じ、十に裂き、各々その収入を私し、有司と関わり無し。玉汝曰く、「若し是くの如くならば、則ち厳公の事業の存するもの幾ばくも無し。」と。夜静かにして、楚材の帳の後ろにて哭す。明日、召して其の故を問う。曰く、「玉汝は厳公の使たり、今厳公の地分裂し、而して救止すること能わず、面目無くして還り報ずるに、将に此の荒寒の野に死せんとす、是を以て哭するのみ。」と。楚渠憫然として久しくし、使いて帝の前に詣りて陳愬せしむ。玉汝進みて言うに曰く、「厳実は三十万戸を以て朝廷に帰し、崎嶇兵間に、三たび其の家室を棄て、卒に異志無し、豈に他の降者と同ならんや?今其の土地を裂き、其の人民を析くは、功有るを旌ぐ所以に非ず。」と。帝玉汝の忠款を嘉し、且つ其の言を直と為すを以て、是より分かたず。行臺知事に遷り、仍って平陰令を遥領す。

原文戊戌,以東平地分封諸勳貴,裂而為十,各私其入,與有司無相關。玉汝曰:「若是,則嚴公事業存者無幾矣。」夜靜,哭於楚材帳後。明日,召問其故,曰:「玉汝為嚴公之使,今嚴公之地分裂,而不能救止,無面目還報,將死此荒寒之野,是以哭耳。」楚材惻然良久,使詣帝前陳愬。玉汝進言曰:「嚴實以三十萬戶歸朝廷,崎嶇兵間,三棄其家室,卒無異志,豈與他降者同?今裂其土地,析其人民,非所以旌有功也。」帝嘉玉汝忠款,且以其言為直,由是得不分。遷行臺知事,仍遙領平陰令。

辛丑、実の子忠済職を襲ぎ、左右司郎中を授け、遂に行臺の政を総ぶ。分封の家、厳氏の総めて其事を握るを以て、頗る自便せず、定宗即位す、皆闕下に聚まり、復た東平の地を剖分せんと欲す。是の時、衆心危疑し、将に首を俛めて命を聴かんとす、玉汝力強く群言を排し、事遂に已む。憲宗即位す、旨有りて常賦の外、歳に銀六両を出だすを令し、之を包垜銀と謂う。玉汝曰く、「民力支えず。」と。諸路の管民官を糾率し、之を闕下に愬う、三分の一を減ずるを得。累官して龍虎衛上將軍・泰定軍節度使に至り、兼ねて兗州管内観察使と為り、行臺参議を充てる。

原文辛丑,實子忠濟襲職,授左右司郎中,遂總行臺之政。分封之家,以嚴氏總握其事,頗不自便,定宗即位,皆聚闕下,復欲剖分東平地。是時,眾心危疑,將俛首聽命,玉汝力排羣言,事遂已。憲宗即位,有旨令常賦外,歲出銀六兩,謂之包垜銀。玉汝曰:「民力不支矣!」糾率諸路管民官,愬之闕下,得減三分之一。累官至龍虎衛上將軍、泰定軍節度使,兼兖州管內觀察使,充行臺參議。

壬子、病を以て事に謝し門を杜ち、日に経史を以て自ら娯しむ。乙卯、忠済人をして玉汝に謂わしめて曰く、「君閑久し、暫く起きて、吾が憂いを分かつ可し。」と。玉汝堅く辞し、参議の印を以て強いて之を委ぬ、已むを得ず起きて事を視る、僅かに五六日、裁画署置し、煥然として一新す。八月既望、星有りて庭中に隕ち、已にして玉汝卒す。

原文壬子,以病謝事杜門,日以經史自娛。乙卯,忠濟使人謂玉汝曰:「君閒久矣,可暫起,為吾分憂。」玉汝堅辭,以參議印強委之,不得已起視事,僅五六日,裁畫署置,煥然一新。八月既望,有星隕庭中,已而玉汝卒。

焦徳裕

焦徳裕、字は寛父、其の遠祖の賛は、宋の丞相富弼に従い瓦橋関を鎮め、遂に雄州の人と為る。父の用は、金に仕え、束鹿令より千戸に陞り、雄州の北門を守る。太祖の兵至る、州人南門を開きて降る、用猶力戦し、遂に生け捕らえらる。帝其の忠壮を以てし、釈して殺さず、旧官に復す。山東に地を徇う、未だ嘗て妄りに一人を殺さず。年六十二にして卒す。後に徳裕の貴に因り、中書左丞を追贈し、恒山郡公に封じ、諡して正毅と曰う。

原文焦德裕字寬父,其遠祖贊,從宋丞相富弼鎮瓦橋關,遂為雄州人。父用,仕金,由束鹿令陞千戶,守雄州北門。太祖兵至,州人開南門降,用猶力戰,遂生獲之,帝以其忠壯,釋不殺,復舊官。徇地山東,未嘗妄殺一人。年六十二卒,後以德裕貴,追贈中書左丞,封恒山郡公,諡正毅。

徳裕は左氏春秋に通じ、少より拳勇にして射を善くし、其の舅の解昌に従い軍中にあり。金の将武仙、真定の守史天倪を殺す。仙既に敗走す、其の党の趙貴・王顕・斉福等、仙の故壘を保ち、数たび太行を侵掠す。太宗廷臣に才弁有る者を択びて往きて之を招かしむ。楊惟中徳裕を以て薦む。遂に真定に使し、斉福を降し、趙貴を擒え、王顕は亡走す。徳裕追い射て之を殺す。其の地悉く平ぐ。詔して井陘北障城の田を賜う。中統三年、李璮平ぐ。世祖命じて徳裕に益都を曲赦せしむ。四年、金符を賜い、閬蓬等処都元帥府参議と為る。宋の臣夏貴、宣撫使張庭瑞を虎嘯山に囲む。薪土を実らせて水源を塞ぎ、人飲むを得る無し。帥府徳裕に檄して之を援かしむ。徳裕夜に貴の営に薄し、卒を令して各々三炬を持たしむ。貴驚きて走る。鵝谿に追い及び、千人を馘り、馬畜兵仗を万計獲る。京畿漕運使に陞る。

原文德裕通左氏春秋,少拳勇善射,從其舅解昌軍中。金將武仙殺真定守史天倪,仙既敗走,其黨趙貴、王顯、齊福等保仙故壘,數侵掠太行。太宗擇廷臣有才辯者往招之,楊惟中以德裕薦。遂使真定,降齊福,擒趙貴,王顯亡走,德裕追射殺之,其地悉平。詔賜井陘北障城田。中統三年,李璮平,世祖命德裕曲赦益都。四年,賜金符,為閬蓬等處都元帥府參議。宋臣夏貴圍宣撫使張庭瑞于虎嘯山,實薪土塞水源,人無從得飲。帥府檄德裕援之。德裕夜薄貴營,令卒各持三炬,貴驚走,追及鵝谿,馘千人,獲馬畜兵仗萬計。陞京畿漕運使。

至元六年、陝西道提刑按察司事を僉す。八年、転じて西夏中興道按察副使と為る。十一年、丞相伯顔に従い南征し、僉行中書省事を授かる。遂に従いて安慶を下す。鎮江に至る。焦山寺の主僧、居民を誘いて叛く。丞相阿朮既に其の魁を誅し、尽く其の徒を阬せんと欲す。徳裕諫めて之を止む。命じて徳裕先ず城に入りて撫定せしむ。宋平ぐ。賜予有りて加わる。旨を奉じて異人異書を求む。平章阿合馬、丞相伯顔が丁家洲の降卒を殺せる事を譖り、奏して徳裕を以て中書参政と為し、仮に一言を以て之を証成せんと欲す。徳裕辞して拝せず。久しくして、復た僉行省事と為る。

原文至元六年,僉陝西道提刑按察司事。八年,轉西夏中興道按察副使。十一年,從丞相伯顏南征,授僉行中書省事。遂從下安慶。至鎮江,焦山寺主僧誘居民叛,丞相阿朮既誅其魁,欲盡阬其徒,德裕諫止之。命德裕先入城撫定。宋平,賜予有加。奉旨求異人異書。平章阿合馬譖丞相伯顏殺丁家洲降卒事,奏以德裕為中書參政,欲假一言證成之,德裕辭不拜。久之,復僉行省事。

十四年、淮東宣慰使に改む。淮西の賊、司空山を保つ。淮東四郡の守に檄して応ぜしむ。元帥帖哥邏其の檄を得、即ち郡守許定国等四人を械し、反状を承らしめ、将に其の家を籍せんとす。徳裕言う、「四人は皆新たに降りし将、天子既に之を寵綏し、地有り民有り、望む所盈つ。方に報效を誓い、安んぞ他に覬う有らん?奈何ぞ疑似を以て四守を殺し、寧んぞ反間に非ざるを知らざるや?」と。尽く其の官を復す。福建行省参知政事を拝す。二十五年卒す。年六十九。栄禄大夫・平章事を贈り、恒国公を追封し、諡して忠粛と曰う。

原文十四年,改淮東宣慰使。淮西賊保司空山,檄淮東四郡守為應,元帥帖哥邏得其檄,即械郡守許定國等四人,使承反狀,將籍其家。德裕言:「四人者,皆新降將,天子既寵綏之,有地有民,盈所望矣,方誓報效,安有他覬?奈何以疑似殺四守,寧知非反間耶?」盡復其官。拜福建行省參知政事。二十五年卒,年六十九。贈榮祿大夫、平章政事,追封恒國公,諡忠肅。

子の簡は、余姚州知州。潔は、信州治中。

原文子簡,餘姚州知州;潔,信州治中。

石天麟

石天麟、字は天瑞、順州の人。年十四、入りて太宗に見え、因りて宿衛に留まる。天麟好学して倦まず、諸国の書語に習わざる無し。帝中書令耶律楚材を命じて庶務を釐正せしめ、賢能を選びて参佐と為す。天麟選に在り、名を蒙古台と賜う。宗王西域を征し、天麟を以て断事官と為す。

原文石天麟字天瑞,順州人。年十四,入見太宗,因留宿衞。天麟好學不倦,於諸國書語無不習。帝命中書令耶律楚材釐正庶務,選賢能為參佐,天麟在選,賜名蒙古台。宗王征西域,以天麟為斷事官。

憲宗六年、天麟を遣わして海都に使わす。拘留すること久し。既にして辺将皇子北安王を劫して以て往き、天麟の所に寓す。天麟稍々其の用事の臣と相親狎し、因りて宗親の恩義、及び臣子の逆順禍福の理を以て語る。海都之を聞きて悔悟し、遂に天麟と北安王を遣わして同に帰らしむ。天麟拘留せらるること二十八年、始めて還るを得。世祖大いに悦び、賞賚甚だ厚し。中書左丞を拝し、兼ねて断事官と為す。天麟辞して曰く、「臣奉使して状無し。陛下幸いに赦して誅せず。何ぞ復た栄寵を叨る可けん?況んや臣才識浅薄、年力衰憊、豈に政を任うるに堪えんや?恐らくは徒らに廟堂の羞を貽すのみ。敢えて詔を奉ぜず。」と。帝其の誠を嘉し、褒慰すること良久く、之に従う。

原文憲宗六年,遣天麟使海都,拘留久之,既而邊將劫皇子北安王以往,寓天麟所。天麟稍與其用事臣相親狎,因語以宗親恩義,及臣子逆順禍福之理,海都聞之悔悟,遂遣天麟與北安王同歸。天麟被拘留二十八年,始得還,世祖大悅,賞賚甚厚。拜中書左丞,兼斷事官,天麟辭曰:「臣奉使無狀,陛下幸赦弗誅,何可復叨榮寵?況臣才識淺薄,年力衰憊,豈能任政?恐徒貽廟堂羞,不敢奉詔。」帝嘉其誠,褒慰良久,從之。

丞相安童嘗て海都の官爵を受けたりと譛る者有り。帝怒る。天麟奏して曰く、「海都実に宗親、偶々違言有り、仇敵に比ぶるに非ず。安童之を拒絶せざるは、其の疑心を釈き、其の臣順を導かんと為すなり。」と。帝の怒り乃ち解く。江南の道観、偶々宋主の遺像を蔵す。僧素より道士と交悪す。其の事を発し、将に之を極刑に置かんとす。帝以て天麟に問う。対えて曰く、「遼国主后の銅像西京に在る者は、今尚ほ之有り、未だ禁令有るを聞かず。」と。事遂に寝す。天麟年七十余、帝以て御する所の金龍頭の杖を之に賜い、曰く、「卿年老り、宮掖に出入し、此を杖とす可し。」と。時に権臣用事し、凶焰薰炙し、人敢えて言う者無し。天麟独り其の姦を言い、顧みる所無し。人其の忠直を服す。

原文有譖丞相安童嘗受海都官爵者,帝怒,天麟奏曰:「海都實宗親,偶有違言,非仇敵比,安童不拒絕之,所以釋其疑心,導其臣順也。」帝怒乃解。江南道觀偶藏宋主遺像,有僧素與道士交惡,發其事,將置之極刑,帝以問天麟,對曰:「遼國主后銅像在西京者,今尚有之,未聞有禁令也。」事遂寢。天麟年七十餘,帝以所御金龍頭杖賜之,曰:「卿年老,出入宮掖,杖此可也。」時權臣用事,凶焰薰炙,人莫敢言。天麟獨言其姦,無所顧忌,人服其忠直。

成宗即位し、栄禄大夫・司徒を加え、大いに玉徳殿に宴し、天麟を召して宴に与からしめ、御薬を以て賜い、左右を命じて之に酒を勧めしむ。頗る酔う。命じて御輦を以て家に送り還らしむ。武宗即位し、平章政事に進む。至大二年秋八月卒す。年九十二。推誠宣力保徳翊戴功臣・開府儀同三司・太師・上柱国を贈り、冀国公を追封し、諡して忠宣と曰う。

原文成宗即位,加榮祿大夫、司徒,大宴玉德殿,召天麟與宴,賜以御藥,命左右勸之酒,頗醉,命御輦送還家。武宗即位,進平章政事。至大二年秋八月卒,年九十二。贈推誠宣力保德翊戴功臣、開府儀同三司、太師、上柱國,追封冀國公,諡忠宣。

子の珪は、累官して治書侍御史に至り、枢密副使に遷り、復た侍御史と為り、河南行中書省右丞を拝し、栄禄大夫・南台御史中丞に陞り、卒す。次子の懐都は、初め断事官を襲ぎ、累遷して刑部尚書・荊湖北道宣慰使と為る。孫の哈藍赤は、断事官を襲ぐ。

原文子珪,累官治書侍御史,遷樞密副使,復為侍御史,拜河南行中書省右丞,陞榮祿大夫、南臺御史中丞,卒。次子懷都,初襲斷事官,累遷刑部尚書、荊湖北道宣慰使。孫哈藍赤,襲斷事官。

李邦瑞

李邦瑞、字は昌國、字をもって行われる。京兆臨潼の人、代々農家。邦瑞は幼少より学を好み、書を読み大義を通暁した。かつて掠奪され、太原に逃れ、金の将軍の小史となり、閻漫山寨を守備した。國王木華黎が諸城を攻め落とすと、金の将軍は逃走し、邦瑞は衆を率いて来帰し、再び太原に居住した。守臣はその才能を惜しみ、鞍馬を整え、行在所に遣わし、中書がその名を奏聞した。

原文李邦瑞字昌國,以字行,京兆臨潼人,世農家。邦瑞幼嗜學,讀書通大義。嘗被掠,逃至太原,為金將小史,從守閻漫山寨。國王木華黎攻下諸城堡,金將走,邦瑞率眾來歸,復居太原。守臣惜其材,具鞍馬,遣至行在所,中書以其名聞。

庚寅の歳、旨を受けて宋に使いし、宝応に至るも入国できず。間もなく、再び往くことを命じられ、なお山東淮南路行尚書省の李全に護送を命じたが、宋はなお拒絶した。再び旨を奉じて行くこととなり、邦瑞は蘄・黄を経由し、宋は賤しい者を遣わして迎えさせたので、邦瑞は怒り、叱りつけて追い返した。宋は行人を改めて命じ、ようやく約定通りに議して帰還した。太宗は慰労し、車騎・旃裘・衣装及び銀十錠を賜った。邦瑞は因みに奏上した:「干戈の際、宗族離散いたしました。帰って尋ね訪ねることを乞います。」帝は速不䚟・察罕・匣剌達海らに諭し、邦瑞を駅伝で南京に馳せさせ、親戚を尋ね訪ねさせ、あるいは諸部に隷属している者があれば、ことごとく帰属させた。

原文歲庚寅,受旨使宋,至寶應,不得入。未幾,命復往,仍諭山東淮南路行尚書省李全護送,宋仍拒之。復奉旨以行,邦瑞道出蘄、黃,宋遣賤者來迎,邦瑞怒,叱出之,宋改命行人,乃議如約而還。太宗慰勞,賜車騎旃裘衣裝,及銀十錠。邦瑞因奏:「干戈之際,宗族離散,乞歸尋訪。」帝諭速不䚟、察罕、匣剌達海等:邦瑞馳驛南京,詢訪親戚,或以隸諸部者,悉歸之。

甲午、諸王闊出に従い河南を経略し、歴訪した河北・陝西の州郡四十余城を、図を描いて進上し、金符・宣差軍儲使を授けられた。乙未夏六月、卒す。子に榮。

原文甲午,從諸王闊出經略河南,凡所歷河北、陝西州郡四十餘城,繪圖以進,授金符、宣差軍儲使。乙未夏六月卒。子榮。

楊奐

楊奐、字は煥然、乾州奉天の人。母はかつて東南の日光が自らを射し、傍らに一神人が筆を授ける夢を見た。やがて奐が生まれ、父は文明の象とみなし、因って名を奐とした。十一歳の時、母が没し、成人のように哀毀した。金末、進士に挙げられず、乃ち万言の策を作り、時弊を指陳し、皆人の敢えて言わざる所であったが、未だ上奏せずに帰り、郷里で教授した。

原文楊奐字煥然,乾州奉天人。母嘗夢東南日光射其身,旁一神人以筆授之,已而奐生,其父以為文明之象,因名之曰奐。年十一,母歿,哀毀如成人。金末,舉進士不中,乃作萬言策,指陳時病,皆人所不敢言者,未及上而歸,教授鄉里。

癸巳の歳、金の元帥崔立が汴京を以て降伏し、奐は微服で北渡し、冠氏の帥趙壽之が即座に奐を招き致し、師友の礼をもって遇した。門人に京師より書を載せて来た者がおり、因って集めて読むことができた。東平の嚴實が奐の名を聞き、しばしばその行蔵を問うたが、奐は終に一度も詣でなかった。

原文歲癸巳,金元帥崔立以汴京降,奐微服北渡,冠氏帥趙壽之即延致奐,待以師友之禮。門人有自京師載書來者,因得聚而讀之。東平嚴實聞奐名,數問其行藏,奐終不一詣。

戊戌、太宗は宣德稅課使劉用之に詔して諸道の進士を試させた。奐は東平で試みられ、二度とも賦論で第一となった。監試官に従って北上し、中書耶律楚材に謁し、楚材が奏薦し、河南路徵收課稅所長官兼廉訪使を授けられた。奐は行こうとして、楚材に言った:「僕不肖、誤って破格の任用を蒙り、書生をもって財賦を治めるは、既に長ずる所ではありません。ましてや河南は兵乱の後、遺民僅かであり、鮮を烹るの喩えは、正に今日に当たります。急いてこれを擾せば、糜爛必至です。願わくは歳月を仮し、瘡痍を撫摩させ、朝廷の愛養基本の万一の助けとさせてください。」楚材は大いに善しとした。奐は既に到着すると、一時の名士を招致してこれと議し、政事の約束は一に簡易を以て事とした。境内を巡行し、親しく塩務の月課が幾何か、難易如何かを問うた。増額を言う者がいたが、奐はこれを責めて言った:「下を剥ぎ上を欺く、汝は我にこれを為させようとするか!」即座に元額の四分の一を減じ、公私ともに便利とした。一月を踰えずして政成り、時論翕然として、これ以前の漕司には未だかつてなかったとされた。官に十年、乃ち燕の行臺に請老した。

原文戊戌,太宗詔宣德稅課使劉用之試諸道進士。奐試東平,兩中賦論第一。從監試官北上,謁中書耶律楚材,楚材奏薦之,授河南路徵收課稅所長官,兼廉訪使。奐將行,言於楚材曰:「僕不敏,誤蒙不次之用,以書生而理財賦,已非所長。又況河南兵荒之後,遺民無幾,烹鮮之喻,正在今日,急而擾之,糜爛必矣。願假以歲月,使得撫摩瘡痍,以為朝廷愛養基本萬一之助。」楚材甚善之。奐既至,招致一時名士與之議,政事約束,一以簡易為事。按行境內,親問鹽務月課幾何、難易若何。有以增額言者,奐責之曰:「剝下欺上,汝欲我為之耶!」即減元額四之一,公私便之。不踰月,政成,時論翕然,以為前此漕司未之有也。在官十年,乃請老于燕之行臺。

壬子、世祖が潜邸にあられた時、駅伝で奐を召し、京兆宣撫司事を参議させ、累次上書し、請いを得て帰った。乙卯、病篤く、後事を平時のように処置し、觴を引いて大笑して卒す。年七十。諡を文憲と賜う。

原文壬子,世祖在潛邸,驛召奐參議京兆宣撫司事,累上書,得請而歸。乙卯,疾篤,處置後事如平時,引觴大笑而卒,年七十。賜諡文憲。

奐は博覧強記し、文を作るに務めて陳言を去り、古人を蹈襲するを恥とした。朝廷の諸老は皆行輩を折ってこれと交わった。関中は多く士を号すといえども、名は奐の右に出る者なかった。奐は生産を治めず、家に十金の業なく、人の急を周するを喜び、力及ばずとも、なお強いてこれを為した。人に片善あれば、委曲を尽くして称奬し、その名聞こえざるを恐れ、或いは小過失あれば、必ず言を尽くして勧め止め、その怨怒を計らわなかった。著す所に還山集六十巻・天興近鑑三巻・正統書六十巻あり、世に行われる。

原文奐博覽強記,作文務去陳言,以蹈襲古人為耻。朝廷諸老皆折行輩與之交。關中(書)〔雖〕號多士,名未有出奐右者。奐不治生產,家無十金之業,而喜周人之急,雖力不贍,猶勉強為之。人有片善,則委曲稱奬,唯恐其名不聞;或小過失,必盡言勸止,不計其怨怒也。所著有還山集六十卷、天興近鑑三卷、正統書六十卷,行于世。

賈居貞〔鈞〕

原文賈居貞〔鈞〕

賈居貞、字は仲明、真定獲鹿の人。十五歳の時、汴京陥落し、母を奉じて天平に居住した。冠に甫はじめて、行臺の從事となった。当時法制未だ立たず、人は賄賂を以て相交結した。黄金五十両を餽る者あり、居貞はこれを退けた。太宗聞いて嘉歎し、有司に勅して月ごとに白金百両を給し、その廉を旌げさせた。世祖が潜邸にあられた時、その賢を知り、召して用い、上都城の築造を監させた。事畢り、母喪のため帰った。

原文賈居貞字仲明,真定獲鹿人。年十五,汴京破,奉母居天平。甫冠,為行臺從事。時法制未立,人以賄賂相交結。有餽黃金五十兩者,居貞卻之。太宗聞而嘉歎,敕有司月給白金百兩,以旌其廉。世祖在潛邸,知其賢,召用之,俾監築上都城。訖事,以母喪歸。

世祖即位し、中統元年、中書左右司郎中を授けられた。帝に従い北征し、毎に資治通鑑を陳説し、軍中に在りとも、未だ書を廃さなかった。一日、帝問う:「郎の俸は幾何か。」居貞は数をもって対えた。帝はあまりに薄いと言い、増やすよう勅したが、居貞は辞して言った:「品秩当然のことであり、臣をもって制を紊すべからず。」劉秉忠が居貞を参知政事に奏薦したが、また辞して言った:「他日必ず郎官より例に援りて執政を求むる者あり、将に何を以てこれを処すべきか。」拝せず。至元元年、中書省事を参議し、詔により左丞姚樞とともに河東山西に行省し、侯を罷め守を置いた。五年、再び中書郎中となり、当時阿合馬が権を擅にし、これを忌み、給事中に改めた。丞相史天澤らとともに國史を纂修した。

原文世祖即位,中統元年,授中書左右司郎中。從帝北征,每陳說資治通鑑,雖在軍中,未嘗廢書。一日,帝問:「郎俸幾何?」居貞以數對。帝謂其太薄,敕增之,居貞辭曰:「品秩宜然,不可以臣而紊制。」劉秉忠奏居貞為參知政事,又辭曰:「他日必有由郎官援例求執政者,將何以處之?」不拜。至元元年,參議中書省事,詔與左丞姚樞行省河東山西,罷侯置守。五年,再為中書郎中,時阿合馬擅權,忌之,改給事中。同丞相史天澤等纂修國史。

十一年、丞相伯顏が宋を伐つに当たり、居貞は宣撫使として行省事を議した。既に江を渡り、鄂・漢を下すと、伯顏は大軍を率いて東下し、右丞阿里海涯と居貞を留めて分省しこれを鎮守させた。居貞言う:「江陵は要地、乃ち宋の制閫が重兵を屯する所。諸将和睦せず、遷徙の民城に盈ち、また皆疾疫に罹り、芻薪乏闕し、門を杜って敢えて樵採せざると聞く。隙に乗じて先ずこれを取らざれば、春水漲くに迨および、上流彼に乗ぜられんことを恐るれば、則ち鄂危うし。」駅伝で奏聞した。十二年春、阿里海涯に命じて兵を領し江陵を取らせ、居貞は僉行省事として鄂に留まった。ここにおいて倉廩を発して流亡を賑い、宋の宗室子孫で流寓する者には廩食を与え、その服を変えず、その楮幣を行わせた。東南未だ下らざる州郡に商旅留滞する者には、引給して帰らせた。商税を括り并せて湖荻の禁を免じた。舟百余〔十〕艘を造り、水軍を以て駕し、民を病ませなかった。一方安んずるを得た。

原文十一年,丞相伯顏伐宋,居貞以宣撫使議行省事。既渡江,下鄂、漢,伯顏以大軍東下,留右丞阿里海涯與居貞分省鎮之。居貞曰:「江陵要地,乃宋制閫重兵所屯。聞諸將不睦,遷徙之民盈城,復皆疾疫,芻薪乏闕,杜門不敢樵採。不乘隙先取之,迨春水漲,恐上流為彼所乘,則鄂危矣。」驛聞。十二年春,命阿里海涯領兵取江陵,居貞以僉行省事留鄂。於是發倉廩以賑流亡,宋宗室子孫流寓者,廩食之,不變其服,而行其楮幣。東南未下州郡,商旅留滯者,給引以歸之。免括商稅并湖荻禁。造舟百數〔十〕艘,駕以水軍,不致病民。一方安之。

婁安邦が信陽を以て来帰し、入覲に遣わしたが、裨将陳思聰がその家を屠った。居貞は計略をもって召し寄せ、思聰の罪を数えて誅した。

原文婁安邦以信陽來歸,遣入覲,裨將陳思聰屠其家。居貞以計召至,數思聰罪而誅之。

宋の幼主が既に降伏すると、その宰相陳宜中らは二王を擁して閩・広に逃れ、所在で扇動し、民衆は争ってこれに応じた。蘄州の賊が司空山で蜂起し、〔鄂〕の属県の民傅高もまた兵を起こして応じた。居貞は檄文を移して禍福を諭し、その配下はしばしば離散し、官軍で圧迫して遂にこれを平定した。傅高は姓名を変えて逃亡したが、捕らえてこれを誅殺した。初め、鄭万戸を遣わして賊を討たせたところ、鄭は言う、「鄂の大姓は皆傅高と通じております、先にこれを除き、禍の根源を絶つことを請います」と。居貞は言う、「傅高は鼠の子で無知であり、まさに誅殺されようとしている、大姓が何の関わりがあろうか。私は彼らに他の異心がないことを保証する」と。鄭は兵を率いて出陣した後、自分の親しい部将を留め置き、戒めて言う、「我が軍が帰還したと聞いたら、汝は直ちに城楼で烽火を挙げ、内外合わせて発動し、城中の大姓を皆殺しにせよ」と。ちょうどその者が戦いに敗れて溺死したため、その事は初めて明らかとなった。

原文宋幼主既降,其相陳宜中等挾二王逃閩、廣,所在扇惑,民爭應之。蘄州寇起司空山,〔鄂〕屬縣民傅高亦起兵應。居貞移檄諭以禍福,其下往往渙散,壓以官軍,遂削平之。高變姓名逃逸,獲而戮之。初,遣鄭萬戶討賊,鄭言:「鄂之大姓皆與傅高通,請先除之,以絕禍本。」居貞曰:「高鼠子無知,行就戮矣,大姓何預!吾能保其無他。」鄭既領兵出,留其所善部將,戒曰:「聞吾還軍,汝即舉烽城樓,內外合發,當盡殺城中大姓。」會其人戰敗溺死,其事始彰。

十四年、湖北宣慰使に拝任されたが、命令が下る前に、居貞は門を閉めて出仕せず、驕れる将と悍ましい卒とが合謀して民を擾乱しようとしたため、再び出て政務を視察し、人々はこれによって恐れをなさなかった。出発する際には、鄂の老幼が道で号泣して見送り、その像を石に刻み、泮宮に祠った。

原文十四年,拜湖北宣慰使,命未下,居貞閉門不出,而驕將悍卒,合謀擾民,乃復出視事,人恃以無恐。及行,鄂之老幼號送于道,刻其像于石,祠之泮宮。

十五年、江西行省参知政事に転じたが、未だ着任せぬうちに、民衆は千里を争って出迎え訴えた。時に民間で宋の二王の文帖を受けた者を逮捕することが甚だ急であり、連座して繫獄された豪族三百余家に及んだが、居貞が到着すると、悉くこれを釈放し、その文帖を水火に投じた。士卒が武器を携えて民家に入り、匿っていると誣って財物を奪い取る者、人の子女を取って奴妾とする者があれば、皆厳しく法によって処断した。大水が民家を損壊すると、居貞は倉を開いてこれを救済した。南安の李梓発が乱を起こすと、居貞は将帥が出兵して民を擾乱することを慮り、自ら赴くことを請い、兵卒わずか千人を率い、城北に営し、人を遣わしてこれを諭した。賊衆は居貞の到着を聞くと、皆散り隠れ、再び用いられなくなった。梓発は妻子を一室に閉じ込め、自ら焼死した。帰還するまで、一人も誅殺しなかった。杜万一が都昌で乱を起こすと、居貞は兵を調発してこれを捕らえ、豪族の姓名を百数名列挙した文書が届き、賊と連なっているという。居貞は言う、「首謀者は誅殺された、蔓延させる必要があろうか」と。命じてその文書を焼却させた。

原文十五年,遷江西行省參知政事,未至,民爭千里迎訴。時逮捕民間受宋二王文帖者甚急,坐繫巨室三百餘,居貞至,悉出之,投其文帖于水火。士卒有挾兵入民家,誣為藏匿以取財者,取人子女為奴妾者,皆痛繩以法。大水壞民廬,居貞發廩賑之。南安李梓發作亂,居貞慮將帥出兵擾民,請親往,卒纔千人,營于城北,遣人諭之。賊眾聞居貞至,皆散匿,不復為用。梓發閉妻子一室,自焚死。比還,不戮一人。杜萬一亂都昌,居貞調兵擒之,有列巨室姓名百數來上,云與賊連,居貞曰:「元惡誅矣,蔓延何為?」命火其牒。

十七年、朝廷が再び日本を征し、江南に戦艦を建造した。居貞は民の困窮を極言し、このようなことをすれば必ず乱を招くとし、朝廷に入ってこの事を奏上して中止させようとしたが、出発せず、病により在官のまま卒した。享年六十三。推忠輔義功臣・銀青栄禄大夫・中書平章政事を追贈され、定国公を追封された。次子は鈞である。

原文十七年,朝廷再征日本,造戰艦于江南,居貞極言民困,如此必致亂,將入朝奏罷其事,未行,以疾卒于位,年六十三。贈推忠輔義功臣、銀青榮祿大夫、中書平章政事,追封定國公。仲子鈞。

鈞は字を元播といい、幼くして書を読み、深沈として包容があった。榷茶提挙より、監察御史に拝任され、僉淮東廉訪司事・行臺都事を経て、入朝して刑部郎中となり、右司郎中・参議中書省事に改めた。仁宗が即位すると、参知政事に拝任され、尚書省の制定した法を廃止することを議した。僉書枢密院に転じ、再び参知政事となり、錦衣・宝帯を賜わり、寵遇と賞賜が加えられた。政務を行うに大体を堅持し、風裁は峻厳で整然とし、些細なことで名誉を釣ろうとはしなかった。皇慶元年、上幸に従って上都に至り、病に罹り、家で卒した。前後して詔により賻として鈔三万貫を賜わり、葬事に供された。子の汝立が嗣いだ。

原文鈞字元播,幼讀書,淵默有容。由榷茶提舉,拜監察御史,僉淮東廉訪司事、行臺都事,入為刑部郎中,改右司郎中、參議中書省事。仁宗即位,拜參知政事,議罷尚書省所立法。遷僉書樞密院,復參知政事,賜錦衣、寶帶,寵賚有加。為政持大體,風裁峻整,不孑孑釣名譽。皇慶元年,從幸上都,遇疾,卒于家。前後詔賻鈔三萬貫,供葬事。子汝立嗣。