薛塔剌海
高閙兒
高閙兒は女直の人である。太祖に仕え、西域征討に従軍した。また闊出太子・察罕那演に従い、連年出征して功績を重ね、金符を授かり、山前十路の匠軍を総管管領した。
王義
王義、字は宜之、真定寧晋の人、家は代々農を業としていた。義は胆智があり、沈黙寡言で、書を読んで大義を知った。金人が汴に遷都すると、河朔に盗賊が起こり、県人は集まって謀り言うには、「時事このようである。我らが家室を保全せんと欲すれば、よろしく統属すべきところあるべし」と。そこで互いに推し合って義を長とし、県事を代行させ、まもなく都統と号した。太師・国王木華黎の軍が城下に至ると、義は衆を率い、寧晋をもって帰順した。太祖に謁見し、駿馬二匹を賜り、寧晋令を授けられ、趙州以南招撫使を兼ねた。この時兵乱が起こり、民は農耕を廃し、至る所で人肉を食うありさまであった。寧晋の東に藪沢があり、周囲百余里、中に小堡があって瀝城といった。義は言う、「瀝城は小さいながらも堅固で、かつ魚・藕・菱・芡の利がある。失うべからず」と。偏将の李直に寧晋を守らせ、自らは衆を率いて瀝城を保った。これにより全活する者が多かった。
乙亥の年、金将李伯祥が趙州を占拠した。木華黎は義を遣わしてその城を攻撃させた。ちょうど大風雨となり、義は壮士を率い、長梯を抱え、疾走して夜の四更、四面から一斉に登城し、守塀の者を殺した。城中は混乱し、伯祥は身一つで天壇寨に逃走し、一州はついに平定された。木華黎は制を承けて義に趙州太守・趙冀二州招撫使を授けた。丁丑の年、大軍は南進して鉅鹿・洺州の二城を取った。還軍して唐陽西の九門に至り、金の監軍納蘭が冀州節度使柴茂等を率い、兵万余を将いて北行するのに遭遇した。義は桑林に伏兵を置き、まず百騎でこれを挑発した。納蘭は急いで迎え戦おうとしたため、少し退却してこれを桑林に近づけ誘い、伏兵が起こると、金兵は大いに乱れ、奔還した。納蘭の二人の弟及び万戸李虎を捕らえた。戊寅の年、束鹿を抜き、深州に進攻した。守帥は城をもって降伏した。順天都元帥張柔がその功績を上奏し、深州節度使・深冀趙三州招撫使に昇進した。
金将武仙が兵四万をもって束鹿を攻撃しに来た。仙は軍士に諭して言う、「束鹿は兵少なく糧なく、城には楼櫓もない。一日で抜けるであろう」と。精鋭を尽くして攻めて来たが、義は機に応じて防ぎ拒み、三十日を経ても陥落させることができず、大小数十戦すべて勝利した。ある夜、義は将佐を召して言う、「今、城を守る力は余裕があるが、外に援兵なく、糧食も尽きようとしている。どうして坐して斃れるを待とうか」と。牛を殺して士卒に饗し、精鋭三千を率い、枚を銜んで夜に出撃し、直ちに仙の本営を突いた。仙の軍は乱れ、暗闇に乗じて攻撃し、数千人を殺した。仙は余衆を率いて真定に逃げ戻り、その軍資器仗をことごとく鹵獲した。木華黎はこれを聞き、使者を遣わして銀牌十枚を送り、義に命じて功ある者に賜らせた。庚辰の年、冀州を抜き、柴茂を捕らえ、械をかけて軍前に送った。木華黎・張柔がまたその功績を上奏し、龍虎衛上将軍・安武軍節度使を授けられ、深冀二州元帥府事を行い、金虎符を賜った。
辛巳の日、武仙はまたその将の盧秀・李伯祥を遣わし、兵を率いて趙州を襲い、併せて瀝城を取らんと謀り、戦艦数百艘を率いて江を下った。王義は舟楫を紀家荘に備え、その下流を遮り、邀撃した。王義の士卒は皆水郷の人で、水戦に長け、回旋開闔し、往来すること風雨の如く、船が接すれば、躍り上がって彼の船に登り、奮って戈を疾く撃ち、敵は当たる能わず、千余人を殺し、盧秀を生け捕りにした。李伯祥は退いて瀝城を保ったが、王義は兵を率いてこれを抜き、李伯祥は西に走り、二子はそこで死んだ。邢州の盗賊は趙大王と号し、数千の衆を聚め、任県の固城水寨を占拠し、真定の史天沢は諸道の兵を集めてこれを攻めたが下せなかった。甲午の日、王義は兵を率いてその城に迫り、一鼓してこれを下し、趙大王・侯県令ら数人を捕らえて殺し、残党は悉く平定した。王義はそこで教令を布き、散亡を招集し、種芸を勧め率い、深州・冀州の間は、遂に楽土となったという。
王玉(忱附)
王玉は、趙州寧晋の人である。身長が高く、肋骨が合わさって力が多く、金の末年に万戸となり、趙州を鎮めた。太師・国王木華黎が中原を下すと、王玉は衆を率いて来て帰附し、本部の軍を領し、邢州・洺州・磁州の三州及び済南諸郡を攻めるに従い、長漢万戸と号した。沢州・潞州諸州を攻めるに従い、ただ潞州のみ堅壁して下らず、王玉は力戦し、流れ矢が左目に当たったが、ついにその城を抜いた。また平陽を破り、太原・汾州・代州等を下した。師が還ると、元帥府監軍に署せられ、趙州四十寨をこれに隷属させた。
先に、金の将武仙は既に降ったがまた叛き、元帥史天倪を殺した。宋の将彭義斌は大名におり、密かに武仙と合した。王玉は笑乃帯・史天沢に従い、武仙を攻めて敗り、彭義斌を生け捕りにし、軍を寧晋東里寨に駐めた。武仙は人を遣わして誥命を齎し、王玉の妻を誘ったが、妻は拒んで言った、「妾どうして夫をして国家に二心を懐かせることができましょうや」。武仙はこれを数重に囲み、その子の寧寿を殺した。王玉はこれを聞き、数騎を率いてその囲みを突破し、数百人を斬り獲て還った。武仙は人を遣わしてこれを追ったが、敢えて進まず、皆言った、「王将軍は胆気驍雄、我らは敵ではない」。武仙はそこで王玉の先祖二十七の冢を尽く発き、骸骨を道に満たした。王玉は史天沢諸将に従い、武仙を趙州で撃ち、武仙は糧食が絶え、双門寨に走り、これを囲んだ。大風に会い、武仙は独り脱走し、その将四十三人を斬り、真定は遂に平定した。定遠将軍を加えられ、真定五路万戸を権め、趙州慶源軍節度副使を仮した。
忱は字を允中といい、幼くして書を読み、明敏で才識があった。平章趙璧が裕宗の潜邸に引見し、語が旨に称したので、宿衛を命じ、銭穀計簿を掌らせた。山北遼東道提刑按察司副使を授けられた。駙馬伯忽里がしばしば馳せて狩猟し民田を蹂躙したので、忱は法をもってこれを糾した。憲吏の耿熙が北京宣慰司の積年の逋負を徴すれば、計で鈔二十万錠を得られると言上した。帝は使者を遣わして実を覈させた。耿熙は事の露見を懼れ、勝手に制語を増やし、「并打算大小一切諸衙門等事」の凡そ十二字があり、官吏を追い繋ぐこと数百人に至った。忱が験問すると、その詐りを知り、耿熙はそこで款伏した。裕宗が潜邸で薨じると、忱は建言した、「陛下は春秋高く、早く儲嗣を建てるべきです」。平章不忽木がこれを聞かせると、帝は嘉してこれを納れた。
趙迪
趙迪は、真定藁城の人である。幼くして孤となり、母に事えて孝で、力が多く騎射に長けた。金末に義軍万戸となった。郡将が六鈞の強弩を出し、賞を立てて能く挽く者を募ると、趙迪はこれができ、即ち真定尉に署せられ、藁城尉に遷り、丞に陞った。
太祖の兵が藁城に至ると、趙迪は衆を率いて迎え降った。壬午の年、藁城を永安州と改め、趙迪を以て節度使事を同知せしめた。かつて帝に従って西征し、他の将校は豪横に俘掠したが、ただ趙迪のみ軍を厳しく治め、過ぐる所犯すこと無かった。
先に、真定が既に破られると、趙迪は急ぎ入って藁城の人で城中にいる者を索め、男女千余人を得た。諸将が分け取らんとしたが、趙迪は言った、「これらは皆私が掠めたもので、私に帰すべきである」。諸将が諾すると、趙迪はそこでその人を召して言った、「私は汝らが他の将に得られることを懼れ、分けて奴とするであろうから、索めて私に帰したのである。今汝らを放ち往かせん、宜しく各々生産を遂げ、良民と為れ」。衆は感泣して去った。時に兵荒の余り、骸骨が野を蔽い、趙迪は大塚を為して収め瘞った。壬子の年に卒し、年七十。子七人あり、椿齢は真定路転運使となった。
邸順(琮附)
邸順は、保定行唐の人で、曲陽県に籍を占めた。金末に盗賊が起こると、邸順は諸族と会し、郷人の豪壮数百人を集め、その弟の常とともに、石城・玄保に両寨を築き、分かれて拠り守った。甲戌の年、衆を率いて来て帰し、太祖は行唐令を授けた。丙子の年、真定が饑え、群盗が城を拠って叛き、民は皆穴地してこれを避けたが、盗賊は地を発いてその人を噉ったので、邸順は数百人を擒えて殺した。朝廷は曲陽を恒州に陞め、邸順を以て安撫使とした。
金の将武仙が真定を拠り、衆を率いて来て攻めたので、邸順はこれと戦い、大いにこれを破り、金虎符を賜り、鎮国上将軍・恒州等処都元帥を加えられた。庚辰の年、武仙が兵を黄・堯の両山に屯すると、邸順及び弟の常はまたこれを撃ち破った。時に西京の郝道章が密かに武仙と結び、州県を抄掠したので、邸順は郝道章を擒えて殺し、武仙は真定に退いて自ら保った。邸順は木華黎に従ってこれを攻め、王柳口でこれを破り、武仙は遂に真定を棄てて南に走った。功により、邸順に名を察納合兒と賜り、驃騎衛上将軍に陞め、山前都元帥を充てた。弟の常には、名を金那合兒と賜った。
辛卯の春、太宗に従って河南諸郡を攻め、民十余万を招き降し、邸順を以て中山府を知らしめた。己亥の年、金符を佩き、行軍万戸となり、諸路の元差軍五千人を管領した。大軍に従って帰徳府を破り、邸順を留めてこれを戍らせた。丁未の年、師を五河口に駐めると、宋兵が夜に営を襲ったので、邸順はその衆を掩殺し、十五人を生け捕りにした。癸丑の年、漣水を攻めた。甲寅の年、部属の肖撤八・耨隣の功を挙げて奏し、上は肖撤八・耨隣に金銀符を賜り、仍び麾下に隷せしめた。丙辰の春、邸順は卒し、年七十四であった。
子の栄仁、其の虎符を襲ぎ佩び、宣武将軍・帰徳万戸となり、広東の惠州を鎮む。瘴気の疾に感じ、事に任じず。子の貫襲ぐ。貫卒す。子の士忠襲ぐ。士忠卒す。子の文襲ぐ。順の族弟に琮有り。
琮は、太祖の時、族兄の行唐元帥常に従って来降す。歳乙酉(1225年)、金の降将武仙復た真定を拠りて叛く。琮、之を黄台に破る。癸巳(1233年)、元帥倴盞に従って蔡にて金を滅ぼし、功有り。真定五路万戸、総管府推官に選び充てらる。尋なく旨を奉じ、金符を賜い、管軍総押に授けられ、七路の兵馬を管領し、徐州を鎮む。宋兵境に入る。琮戦いて之を却く。己亥(1239年)、大将察罕に従って滁州を攻め、力戦し、流れ矢臍に中る。明年卒す。
王善 子の慶端 附す
王善、字は子善、真定藁城の人。父の増は、本県の酒務を監り、孝行を以て称さる。善は資儀雄偉、其の音鐘の若く、智略多く、尤も騎射に精し。金の貞祐の播遷に際し、田疇荒蕪し、人食を得ること無し。善は食を求めて以て母に奉ず。乙亥(1215年)、群盗蜂起す。衆、善を推して長と為す。善は約束法有り、備禦方有りて、盗賊犯す能わず。本県主簿に擢てらる。
戊寅(1218年)、権に中山府治中と為る。時に武仙真定を鎮むるも、陰かに異志を蓄え、善の威名を忌み、密かに知府李済・府判郭安に図らしむ。己卯(1219年)秋、済・安宴を張り伏兵し、善を召して事を計る。善覚り、即ち還りて衆を治め、倉卒しく八十人を得、慷慨として盟し、人争い自ら奮い、遂に済・安を誅す。乃ち其の党に諭して曰く、「釁を造る者は李・郭のみ、余は問う所無し」と。善夜北城上に臥し、麾下に戒めて曰く、「我を以て汝が家を累わすこと無かれ、当に吾が首を取って帥府に献ずべし」と。衆曰く、「公何を為してか此言を出だすや?我輩は惟死を効するのみ」と。遂に衆を率いて来帰す。金符を授けられ、中山府事を同知す。是の年冬、兵三百を以て武仙を攻む。仙将を遣わし精鋭二千を率いて拒戦せしむ。善之を擒え斬る。仙獲鹿に走る。其の佐段琛に城守を委ぬ。復た戦いて之を抜き、其の城に入り拠る。軍勢大いに振るう。中山より以南、降る州郡四十二。
庚辰(1220年)、中山真定等路招討使に遷り、尋なく右副元帥・驃騎大将軍を加えられ、藁城に屯す。壬午(1222年)、藁城を匡国軍に陞し、善を行帥府事と為す。癸未(1223年)、金吾衛大将軍・左副元帥に進む。仙窮迫して降を請う。詔命して旧鎮に復せしむ。善奏す、「仙は狼子野心、終に必ず反覆す。城隍を修め之を備えんことを請う」と。未なく仙果たして叛き、衆を率いて来攻す。火西門に及ぶ。善出で戦い、之を却く。仙其の部下宋元に老幼四千人を俘にさせて南奔せしむ。善追いて之を奪い、俾て故業に復せしむ。仙是より後敢えて復た真定に入らず。其の部曲多く来降す。丙戌(1226年)、功を以て金虎符を賜い、仍行帥府事と為す。
慶端、字は正甫、初め郡の筦庫と為り、進んで水軍提領と為る。士卒を訓練し、常に敵に臨むが如し。老僧口にて李璮を破り、功を以て金符を佩び、千戸と為る。大都城の築造を監る。清口に移戍す。宋兵来攻す。守将戦死し、城陥んと欲す。慶端刀を抜き衆に誓い、創を裹み力戦す。城以て全しを得。群盗四起す。復た撃ちて之を走らす。武節将軍・管軍総管に進み、左右中衛の兵を領す。世祖に従い北征し、還り、右衛親軍副都指揮使に遷り、進んで侍衛軍都指揮使と為る。威武営を建て、以て衛兵を処し、田廬を経画し、各々安業せしむ。別に神鋒軍を立て、親しく蹶張弩の技を以て教え、整暇堂・犀利局を作る。渠を浚い室を構え、家事を治むるが如し。
至元十九年(1282年)、詹事丞に改む。時に有司、威武に就き粟数万石を貸し、饑民を済わんと欲す。裕宗東宮に在り、慶端を以て問う。慶端対えて曰く、「兵民等しきものなり、何ぞ間てんや」と。即ち命じて之に与う。帝嘗て近侍を遣わし夜出でて伺察せしむ。邏卒の執る所と為る。近侍実を以て告ぐ。卒曰く、「軍中は惟だ将軍の令を知るのみ、其の他を知らず」と。近侍以て聞かしむ。帝黒貂裘を以て賞す。及りて乃顔を親征するに、慶端に命じて其の部を以て従わしむ。時に年六十余、士卒と甘苦を同じくし、昼は則ち甲を擐き兵を執りて敵を迎え、夜は臥して衣を解かず、暇有れば則ち士卒をして軍市を為らしめ、自ら相懋遷せしむ。征東の功、慶端の贊画多し。
杜豐
杜豐、字は唐臣、汾州西河の人。父の珪は、積徳して施しを好み、郷里で善人と称された。豐は若くして大志を持ち、倜儻として群を抜き、兵法に通じた。金に仕え、平遙義軍謀克となり、銀符を佩用した。太祖が太原を取ると、豐は配下を率いて来降した。皇舅按赤那延が兵馬都提控を授けた。国王按察兒に従って平陽を攻め、先鋒として登城した。絳州・解州の諸堡を陥落させ、流民三万戸余りを招集した。功により金虎符を賜り、征行元帥左監軍に昇進した。金人が南へ逃れると、豐に河北を守備させた。
庚辰の年、上黨公張開が一万の兵を率いて汾州に侵寇したので、豐は精鋭騎兵五千を率いてこれを破った。国王阿察兒に従い、懐孟を陥落させ、溫谷・木澗等の寨を破り、常に先鋒として登城した。洪洞西山を攻め、六百余級を斬首した。松平山を攻めてこれを破り、賊は崖から落ちて死ぬ者が万を数え、多くの捕虜を得た。金の将武仙らが平陽・太原の間を往来して略奪し、道路が塞がれた。壬午の年、豐は龍虎衛上將軍・河東南北路兵馬都元帥に任じられ、便宜を許された。そこで玉女・割渠等の寨を破り、千余人を捕虜とした。
丙戌の年、按赤那延に従って益都を攻め、金の守将が包囲を突破して出てきたので、豐は戦ってこれを阻み、千級を斬首し、二十人を捕虜とした。益都が陥落し、登州・萊州の地を攻略し、島民一万余りを降した。己丑の年、本部を率いて沁州を取った。これにより銅鞮・武郷・襄垣・綿上・沁源の諸県は皆陥落した。辛卯の年、豐に命じて平陽・太原・真定及び遼州・沁州の未だ降らぬ山寨を撫定させ、皆平定した。乙未の年、沁州長官に昇進した。長官とは、国初の高爵である。沁州に十余年在任し、徭役を緩やかにし税を軽くし、農桑を勧めて課し、民は富足した。丁未の年、老齢を理由に退職を請うた。丙辰の年、病により家で卒した。享年六十七。沁州の人は祠を立て、毎年祭祀を行った。
子は三人:思明、思忠、思敬。思敬は世祖の潜邸に仕え、平陽路同知から累進して治書侍御史となった。阿合馬が失脚すると、御史臺の臣僚は皆罷免されたが、思敬は帝の眷顧を知られていたため、ただ一人留任した。出て安西路総管となり、陝西行省事を僉行し、汴梁総管を歴任し、再び中臺に入って侍御史となった。当時桑哥が罪により誅殺され、風紀はこれにより振粛された。間もなく、参知政事に任じられ、四川行省左丞に改められたが赴任せず、中書左丞に昇進した。致仕し、八十六歳で卒した。諡は文定。
石抹孛迭兒
石抹孛迭兒は契丹人。父の桃葉兒は霸州に移住した。孛迭兒は金に仕え、霸州平曲水寨管民官となった。太師・国王木華黎が軍を率いて霸州に至ると、孛迭兒は迎えて降った。木華黎はその智勇を察し、これを奇として、千戸に抜擢した。甲戌の年、木華黎に従って雄州で太祖に拝謁し、銀符を佩用させられ、漢軍都統を充てられた。帝が牛闌山に駐蹕し、漢軍を皆殺しにしようとしたが、木華黎は孛迭兒が有用であるとして、その赦免を奏上し、麾下に隷属させた。高州平定に従軍した。
乙亥の年、左監軍に任じられ、金符を佩用し、北京都元帥吾也兒と分かれて錦州紅羅山・北京東路の漢軍二万を率いた。また奪忽闌闍里必に従って山東・大名の地を攻略した。洺州に至ると、城の守りが非常に堅固で、軍は進めなかったが、孛迭兒は矢石を避けず、兵を率いて先鋒として登城し、遂にこれを陥落させた。丁丑の年、益都・沂州・密州・萊州・淄州の平定に従った。戊寅の年、太原・忻州・代州・平陽・吉州・隰州・岢嵐・汾州・石州・絳州・河中・潞州・澤州・遼州・沁州の平定に従った。
辛巳の年、木華黎が詔を奉じて孛迭兒を龍虎衛上將軍・霸州等路元帥に昇進させ、金虎符を佩用させ、黒軍を率いて固安水寨を鎮守させた。到着後、兵士に屯田させ、耕しながら戦い、荊棘を切り開き、廬舎を建てた。数年で、城邑は全て整備され、燕京の外蔽となった。庚寅の年、行在所で太宗に朝見し、金符を賜った。辛卯の年、国王塔思に従って河南を征した。癸巳の年、遼東で万奴を討伐し、平定した。
孛迭兒は初め征伐に従い、後に将となってからも、大小百戦し、赴くところ功績があった。七十歳で、病により官任中に卒した。子に糺查剌・查茶剌がいる。
賈塔剌渾
賈塔剌渾は冀州の人。太祖が中原に用兵する際、砲を用いることのできる者を募って兵籍に編入し、塔剌渾を四路総押に任じ、金符を佩用させてこれを率いさせた。益都を攻めて陥落させると、龍虎衛上將軍・行元帥左監軍を加えられ、便宜を許された。軍が帰還し、謙謙州(古の烏孫国)に駐屯した。己丑の年、配下及び契丹・女直・唐兀・漢の兵を率いて、斡脫剌兒城を攻めた。塔剌渾は諸軍を督し、城に穴を穿って先に入城し、これを破った。直ちに軍中で元帥に任じられ、銀青榮祿大夫に改められた。睿宗に従って散関に入り、関外四州を攻略し、興元を経て、漢江を渡り、唐州・鄧州・申州・裕州の諸州を攻略し、鼓行して東進し、河南を平定した。金紫光祿大夫・総領都元帥に昇進した。大帥太赤に従って徐州・邳州を攻め、平定した。十六年、卒した。
子の抄兒赤が襲職し、諸王也孫哥・塔察兒に従って南征した。戊午の年、軍中で卒した。子の冀驢が襲職したが、卒した。
弟の六十八が襲職した。至元五年、諸軍が襄陽・樊城を包囲した。九年、六十八は配下を率いて駱駝嶺一字城を守備し、砲を樊城南に設置したが、発射せず、敵の心を弛ませた。やがて精鋭兵を率いて突出し、城西を攻めてこれを破った。功により銀幣・鞍馬・弓矢を賜った。
十一年、諸軍が南征し、江を渡った。翌年、宣武將軍を加えられた。宋の常州の守臣姚訔が堅く守って降らなかったので、六十八は砲を発してその城壁を破壊し、諸軍を入城させた。宋の援兵が突如として到来したが、力戦してこれを退けた。常州が既に陥落すると、帥府は新たに降附した砲手軍を統率するよう命じた。臨安が降伏すると、懷遠大將軍を加えられ、諸軍に従って宋の二王を海まで追撃し、三十余城を陥れた。十四年、昭勇大將軍を加えられた。十五年、南軍の精鋭を率いて宿衛に入り、輔國上將軍を加えられた。十八年、功績を論じられ、奉國上將軍を授かり、砲手軍都元帥を管領した。二十年、都元帥を罷免され、代わりに砲手軍匠萬戶を授かり、三珠虎符を佩用した。二十六年、卒去した。
奧敦世英
奧敦世英は女真人である。その先祖は金に仕え、淄州刺史となった。癸酉の年、太祖の軍が山東を攻め下すと、淄州の民は世英と弟の保和を奉じて迎え降り、二人とも萬戶に任じられた。世英は豪放で武略があり、萬戶から德興府尹に遷った。当時、金の經略使苗道潤が兵を率いて山西を回復しようとしたので、世英はこれと戦い、勝利した。捕虜を皆殺しにしようとしたところ、その母が責めて言った、「汝は名家の出である。死を恐れて降ったのであり、これらは兵卒に過ぎない。死戦に駆り立てられた者を、どうして忍んで殺せようか」。そこで止めた。世英は数騎を従えて定襄を巡察中、軍中で卒去した。
保和は萬戶から昭勇大將軍・德興府元帥に昇進し、虎符を賜り、雄州總管に改任された。まもなく元帥として真定・保定・順德の諸道の農事を管轄し、合わせて二十余万畝の田を開墾した。真定路勸農事に改め、諸官署を兼ねて管轄し、邸宅・武器・裘馬を賜り、戸を与えられてその租税を食んだ。五十六歳で致仕した。保和に四人の子がいた。希愷、希元、希魯、希尹である。
希元は彰德漕運使となった。希魯は澧州路總管となった。
田雄
田雄は字を毅英といい、北京の人である。幼くして孤児となり、自立して、驍勇で騎射に優れていることで知られた。金の末年に軍都統に任じられた。辛未の年、太祖の軍が北京に至ると、雄は衆を率いて出降した。太祖は雄を太師・國王ムカリ(木華黎)の麾下に属させ、興中・廣寧の諸郡を征討し、府州県二十九を平定し、錦州の張鯨兄弟の乱を平定し、柏郷・邢・相を攻撃するのに従った。辛巳の年、鄜・坊・綏・葭の諸州を攻撃するのに従って功績があり、ムカリは詔命を受けた形式で雄を隰・吉州刺史に任じ、鎮戎軍節度使を兼ね、行都元帥府事を行い、汾西霍山の諸柵を平定させた。壬午の年、ムカリの命により、河中帥を授けられ、石天應の節制を受けた。
太宗の時、西和・興元の諸州を攻撃するのに従い、また夔・萬の諸州を攻撃するのに従った。功績を論じられて特に優れていたので、金符を賜り、行軍千戸を授けられ、召し出されて御前先鋒となった。まもなく、楨州雷家堡を攻め破るよう命じられた。聖旨を奉じて河南の降伏帰附を招き入れ、十三万七千余りの戸を得た。民は皆安堵していたが、別の部将の将校が兵を放って略奪したので、民は恐れ悔いて降伏したことを後悔した。雄は力を尽くして救護し、ついに己の財産を出して与えるに至り、民は害を免れた。癸巳の年、鎮撫陝西總管京兆等路事を授けられた。当時関中は戦乱に苦しみ、郡県は荒廃していた。雄は荊棘を切り開き、官府を立て、禍福を説き、四方の山の堡寨で未だ降らなかった者を招き寄せ、その人々を得ると、皆慰めて帰した。これによって帰附する者が日に日に多くなった。雄はそこで民に農業に力を入れるよう教え、京兆は大いに治まった。事が聞こえ、金符を賜った。定宗の時、和寧(カラコルム)に入朝した。病により卒去した。五十八歳。後に西秦王を追封された。
子は八人おり、大明が職を襲い、京兆等路都總管府事を知った。
張拔都
張拔都は昌平の人である。辛未の年、太祖が南征すると、拔都は衆を率いて来て帰附し、先鋒を願い出た。そこで宿衛に留め置かれた。近臣ハンドゥフ(漢都虎)に従って西方に回紇・河西の諸蕃を征し、隴・蜀を経て洛に入り、屡々戦い、流れ矢が頬に当たっても少しも退かなかった。帝はこれを聞いて壮とし、拔都の名を賜った。これよりハンドゥフも専ら彼を任用した。甲午の年、金が滅亡すると、ハンドゥフを砲手諸色軍民人匠都元帥とし、真定を守らせた。ハンドゥフが卒去し、子がなかったので、拔都が代わった。ハンドゥフの兄の子の贍闍が成長すると、拔都は朝廷に請い、その政務を返して老後を過ごした。
子の世澤が襲職し、丞相バヤン(伯顏)に従って南征し、大小十余りの戦いがあり、いずれも功績があった。また広西平定に従った。翌年、瓊・萬の諸州を収め、宣武將軍・行軍總管に拝された。まもなく、副萬戸に遷り、明威將軍を加えられた。鎮南王トゴン(脫歡)に従って交趾を伐ち、既に帰還した後、再び挙兵する際、かつて往ったことのある将校は、留まって休養することを許された。脫歡という者がおり、行くべきであったが、ちょうど病にかかり、起き上がれなかった。世澤は言った、「我が祖父・父は武勇をもって称され、私はその余沢を蒙り、国の厚恩を荷っている。王室に忠誠を尽くし、前人に光を増すべきであり、どうして安易に自らの安泰を図るようなことができようか」。力を尽くして代わることを請い、凱旋した。人はその義を服したという。
張榮
張榮は清州の人で、後に鄢陵に移住した。甲戌の年(1214年)、(金の)太保明安に従って降伏し、太祖(チンギス・カン)は虎符を賜い、懐遠大将軍・元帥左都監に任じた。乙亥年(1215年)正月、詔を奉じて東平・益都などの諸郡を攻略した。戊寅年(1218年)、軍匠を率いて、太祖の西域諸国征伐に従軍した。庚辰年(1220年)八月、西域の莫蘭河に至ったが、渡河できなかった。太祖が河を渡る策を問うと、張榮は舟を造ることを請うた。太祖がさらに「舟はすぐには完成し難いが、軍を渡すのはいつになるか」と問うと、張栄は一月を期限とすると請け、工匠を監督して百艘の船を造り、遂に河を渡った。太祖はその才能を嘉し、その功を賞して、名を兀速赤と賜った。癸未年(1223年)七月、鎮国上将軍・砲水手元帥に昇進した。甲申年(1224年)七月、河西征伐に従軍した。乙酉年(1225年)、関西五路征伐に従軍した。十月、鳳翔を攻撃し、砲で右腿を負傷した。帝(太宗オゴデイ)は命じて銀三十錠を賜い、雲内州で養生させた。庚寅年(1230年)七月に卒去。七十三歳であった。
趙天錫 賁亨
趙天錫は字を受之といい、冠氏の人である。金末に兵乱が起こると、その祖父は財力で郷里に雄となり、衆望を集めた。貞祐の乱の時、父の林は冠氏を守護して功績があり、冠氏丞に任じられ、まもなく令に昇進した。大安の末(1211年頃)、天錫は食糧を供出して軍を助け、修武校尉に補され、洺水県の酒務を監察した。太祖が兵を南下させると、防禦使蘇政が彼を冠氏令とし、そこで県民を率いて桃源・天平などの山に拠った。辛巳年(1221年)春、行臺東平の厳実に帰順した。厳実は平素より天錫の名を知っており、遂に麾下に抜擢し、上党征伐に従軍させ、功績により冠氏令を授け、まもなく元帥左都監に転じ、令の職は従前の通り兼務させた。
甲申年(1224年)、宋将彭義斌が大名を占拠し、冠氏元帥李全がこれに降ると、人心は大いに動揺した。天錫は衆に命じて暫くその鋒を避け、後の挙兵を図るべきとし、将佐を率いて大将ブルハイの軍に依拠した。間もなく、真定で義斌を破り、左副元帥・同知大名路兵馬都総管事を授けられた。李全は大名におり、その帥の蘇椿と結び、金の河南従宜鄭倜を迎え入れ、日々冠氏を奪取することを事としていたが、天錫は戦うごとに勝利した。ある日、鄭倜が自ら一万の兵を率いて来攻したが、天錫は死士を率いて城壁に乗り、三昼夜力戦し、鄭倜は陥落させられないと見て、風塵に乗じて遁走した。己丑年(1229年)、行在所に朝見し、民便に関する事を上奏すると、優詔でこれに従った。戊戌年(1238年)、宋を征伐し、蘄州・黄州の間に駐兵したが、病にかかり帰還し、冠氏で卒去した。五十歳。子は六人、賁亨が嗣いだ。
十四年(1277年)、虎符・懐遠大将軍・処州路総管府達魯花赤を授けられた。赴任しないうちに、丁度盗賊が澉浦で蜂起したため、行省が檄を飛ばして招討使とし、兵を率いてこれを平定させた。間もなく、処州青田県の季文龍・章焱が趙知府を殺害して反乱を起こし、賁亨はその党与を捕らえ、初めて七県が全て反乱していることを知った。季文龍は自ら両浙安撫使を称し、処州の天慶観を占拠した。賁亨は衆を率いてこれを包囲し、騎兵三百を率いて下河門に陣を敷いた。賊が出撃してくると、精鋭の騎兵でこれを蹂躙し、賊は城を棄てて包囲を突破して散走し、三級を斬首した。賁亨が城に入ると、散亡した者を招集し、官府を立てた。章焱が再び二万の衆を合わせて来攻し、悪渓の南に陣を敷いた。賁亨は兵を分けて拒守させ、自ら精鋭を率いて乱流を衝撃し、折しも万戸フドタイが援兵を率いて到着し、巳の刻から亥の刻まで戦い、賊はようやく退いた。文龍は溺死した。フドタイは処州が乱山の中に州があり、城壁がなく頼るものがない上、反覆する者もいるとして、屠殺しようとしたが、賁亨は「私はこの郡を監することを命じられて来た。賊は確かに殺すべきだが、良民に何の罪があろうか」と言って従わなかった。将士が子女金帛を掠奪したので、賁亨は率先した者を捕らえて杖罰し、さらにそれぞれ失ったものを求めて返させたので、州民は喜んで服した。