巻147

列傳第三十四: 張柔 史天倪 史天祥

張柔〔弘略〕

原文張柔〔弘略〕

張柔、字は德剛、易州定興の人、代々農業に従う。柔は若くして慷慨、気節を重んじ、騎射に優れ、豪俠と称された。金の貞祐年間、河北に盗賊が起こると、柔は一族・同党を集めて西山の東流寨を守り、壮士を選び、隊伍を結んで自衛し、盗賊は敢えて犯さなかった。郡人の張信が柔の声勢を借り、流浪の民の娘を妻に娶ろうとしたので、柔は張信を百回鞭打ち、その娘を返した。張信はこれを恨み、徒党を結んで柔を害そうと謀った。間もなく、張信は罪有りて誅に当たるべきところ、柔が救って免れさせたので、ここに驍勇の士多く義を慕ってこれに従った。

原文張柔字德剛,易州定興人,世力農。柔少慷慨,尚氣節,善騎射,以豪俠稱。金貞祐間,河北盜起,柔聚族黨保西山東流寨,選壯士,結隊伍以自衞,盜不敢犯。郡人張信假柔聲勢,納流人女為妻,柔鞭信百,而還其女。信憾之,謀結黨害柔。未幾,信有罪當誅,柔救之得免,於是驍勇之士多慕義從之。

中都経略使苗道潤が承制して柔に定興令を授け、累進して(青)〔清〕州防禦使に遷る。道潤はその才能を上表し、昭毅大将軍を加え、遙かに永(寧)〔定〕軍節度使を領し、雄州管内観察使を兼ね、権元帥左都監、行元帥府事とした。その後、道潤がその副たる賈瑀に殺害されると、賈瑀は使者を遣わして巧言をもって告げて言うには、「我が道潤を除くことができたのは、君が兵を助けなかったからである。」柔は怒って使者を叱り、「賈瑀は我が事とする者を殺した。我は賈瑀の肉を食らってもなお快意足らず、反ってこのような言葉で戯れるのか!」遂に檄を移して道潤の部曲に告げ、易州の軍市川に会し、衆を誓ってその復讐を為さんとし、衆皆感泣した。丁度、道潤の麾下の何伯祥が道潤の佩いし金虎符を得て献じたので、これにより柔を行経略使事に推した。事が聞こえ、驃騎将軍・中都留守を加え、大興府尹・本路経略使を兼ね、行元帥事とした。

原文中都經略使苗道潤承制授柔定興令,累遷(青)〔清〕州防禦使。道潤表其才,加昭毅大將軍,遙領永(寧)〔定〕軍節度使,兼雄州管內觀察使,權元帥左都監,行元帥府事。繼而道潤為其副賈瑀所殺,瑀遣使以好辭來告曰:「吾得除道潤者,以君不助兵故也。」柔怒叱使者曰:「瑀殺吾所事,吾食瑀肉且未足快意,反以此言相戲耶!」遂移檄道潤部曲,會易州軍市川,誓眾為之復讐,眾皆感泣。適道潤麾下何伯祥得道潤所佩金虎符以獻,因推柔行經略使事。事聞,加驃騎將軍、中都留守,兼大興府尹、本路經略使,行元帥事。

戊寅の年、国兵(蒙古軍)が紫荊口より出で、柔は率いる所部を率いて狼牙嶺にて逆らい戦い、馬が躓き捕らえられ、遂に衆を率いて降った。太祖(チンギス・カン)はその旧職を還し、便宜行事することを得させた。柔は部曲を招集し、雄・易・安・保の諸州を下し、孔山にて賈瑀を攻め破り、賈瑀を誅し、その心臓を剖いて道潤を祭った。賈瑀の与党の郭収もまた降り、その衆をことごとく有し、治所を満城に移した。

原文戊寅,國兵出紫荊口,柔率所部逆戰於狼牙嶺,馬蹶被執,遂以眾降,太祖還其舊職,得以便宜行事。柔招集部曲,下雄、易、安、保諸州,攻破賈瑀於孔山,誅瑀,剖其心祭道潤。瑀黨郭收亦降,盡有其眾,徙治滿城。

金の真定の帥武仙が兵数万を会して来攻した。柔は兵数百をもって、奇策を以て迎え戦い、これを大破した。勝に乗じて完州を攻め、これを下し、州佐の甄(仝)〔全〕を獲た。(仝)〔全〕は慷慨として戮せられんとしたが、柔は義としてこれを釈し、かつ守に昇らせ、部曲を将いて従わしめた。己卯の年、武仙また来攻し、敗走させ、進んで郎山・(祈)〔祁〕陽・曲陽を抜き、諸城寨これ聞き、皆降った。既にして中山叛く。柔は兵を引いてこれを囲み、武仙の将葛鐵鎗と新楽に戦い、流れ矢が柔の頷に中り、その二歯を折った。矢を抜いて戦い、数千級を斬首し、藁城令劉成を擒え、遂に中山を抜いた。武仙また兵を会して満城を攻む。柔は城に登り拒戦し、また流れ矢に中る。武仙の兵は大呼して曰く、「張柔に中った!」柔は動ぜず、門を開いて突撃し、皆敗走した。地を略して鼓城に至り、単騎で城に入り、禍福を以て諭すと、城は遂に降った。また(祈)〔祁〕陽にて武仙を破り、進んで深・沢・寧・晋・安・平を攻め、これを克った。別将を分遣して平棘・藁城・無極・欒城の諸県を攻め下し、地を千余里開拓した。ここにより深・冀以北、(鎮)〔真〕定以東三十余城、山に沿う反側の鹿児・野貍等の寨、相次いで降附した。一月の間に、武仙と遇すること凡そ十有七度、毎戦必ず勝った。

原文金真定帥武仙會兵數萬來攻,柔以兵數百,出奇迎戰,大破之。乘勝攻完州,下之,獲州佐甄(仝)〔全〕。(仝)〔全〕慷慨就戮,柔義而釋之,且升為守,使將部曲以從。己卯,仙復來攻,敗走之,進拔郎山、(祈)〔祁〕陽、曲陽,諸城寨聞之,皆降。既而中山叛,柔引兵圍之,與仙將葛鐵鎗戰于新樂,流矢中柔頷,折其二齒,拔矢以戰,斬首數千級,擒藁城令劉成,遂拔中山。仙復會兵攻滿城,柔登城拒戰,復為流矢所中,仙兵大呼曰:「中張柔矣!」柔不為動,開門突戰,皆敗走。略地至鼓城,單騎入城,喻以禍福,城遂降。又敗仙於(祈)〔祁〕陽,進攻深、澤、寧、晉、安、平,克之。分遣別將攻下平棘、藁城、無極、欒城諸縣,闢地千餘里。由是深、冀以北,(鎮)〔真〕定以東三十餘城,緣山反側鹿兒、野貍等寨,相繼降附。一月之間,與仙遇者凡十有七,每戰輒勝。

ちょうど行在所に捷を献ぜんとし、宣徳に至った時、易州の軍が叛き、その守盧応の妻子を逐い、西山の馬頭寨を占拠した。柔これを聞き、即ち輜重を棄てて還り、奇計を出してその寨を破り、叛者を誅し、その妻子を帰した。栄禄大夫・河北東西等路都元帥を加え、抜都魯の号を賜り、官属を置き、将士遷授に差等有り。

原文方獻捷于行在所,行次宣德,而易州軍叛,逐其守盧應妻子,據西山馬頭寨。柔聞之,即棄輜重還,出奇計破其寨,而誅叛者,歸其妻子。加榮祿大夫、河北東西等路都元帥,號拔都魯,置官屬,將士遷授有差。

燕の帥孱赤台がしばしば柔を凌ぎ、柔はこれに下らず、乃ち中都の行臺に柔を讒して曰く、「張柔は驍勇無敵、かつて捕らえられて降ったが、今兵権を委ねられ、戦えば勝ち攻めれば取り、威河朔に震う。今これを図らざれば、後必ず制し難からん。常に我を殺さんと欲し、我敢えて南せず。」行臺は柔を召し、土室に幽し、孱赤台はその上に帳を張り寝し、甲騎を以て環らした。明日殺さんとすれども、孱赤台一夕にして暴死し、柔は乃ち免れることを得た。金の経略使固安の王子昌は、戦に善くして知名なり、信安の張進と兵を連ね、水を阻んで固めとし、遠近これを憚った。柔はその不意に出で、兵を率いて直ちに渡り、生擒して還った。

原文燕帥孱赤台數凌柔,柔不為下,乃譖柔於中都行臺曰:「張柔驍勇無敵,向被執而降,今委以兵柄,戰勝攻取,威震河朔,失今不圖,後必難制。常欲殺我,我不敢南也。」行臺召柔,幽之土室,孱赤台施帳寢其上,環以甲騎,明日將殺之,孱赤台一夕暴死,柔乃得免。金經略使固安王子昌,善戰知名,與信安張進連兵,阻水為固,遠近憚之。柔出其不意,率兵徑渡,生擒以還。

乙酉の年、真定の武仙がその帥史天倪を殺す。その弟天澤が使いを遣わして援を求む。柔は驍将喬惟忠等を遣わし千余騎を率いてこれに赴かせ、武仙と戦い、これを破った。遂に惟忠・宋演を分遣して彰徳を略し、斉魯を徇わしめ、聶福堅をして青・魏・山東を略させしむ。璽書を以て柔に行軍千戸・保州等処都元帥を授く。丙戌の年、将を遣わし兵を率いて国王孛魯に従い、益都にて李全を攻め、これを降す。丁亥の年、鎮を保州に移す。保州は兵火の余り、荒廃すること十五年、盗賊その間に出没す。柔はこれがため市井を画し、民居を定め、官廨を置き、泉を引いて城に入れ、溝渠を疏浚して卑湿を瀉し、商を通じ工を恵み、遂に殷富を致した。廟学を城の東南に遷し、その旧制を増した。

原文乙酉,真定武仙殺其帥史天倪,其弟天澤使來求援。柔遣驍將喬惟忠等率千餘騎赴之,與仙戰,敗之。遂分遣惟忠、宋演略彰德,徇齊魯;聶福堅略青、魏、山東。璽書授柔行軍千戶、保州等處都元帥。丙戌,遣將以兵從國王孛魯,攻李全于益都,降之。丁亥,移鎮保州。保自兵火之餘,荒廢者十五年,盜出沒其間。柔為之畫市井,定民居,置官廨,引泉入城,疏溝渠以瀉卑濕,通商惠工,遂致殷富;遷廟學于城東南,增其舊制。

壬辰の年、睿宗(トルイ)に従い金を伐つ。その衆に語って曰く、「我が兵を用いること、人を殺すこと多し。豈に冤なる者無からんや。今より以降、敵と戦うに非ざれば、誓って殺さじ。」汴京を囲み、柔は軍を城の西北にす。金兵しばしば出でて拒戦す。柔は単騎で陣を陷れ、出入りすること数四、金人これを支えること能わず。金主(哀宗)は黄陵岡より河を渡り、漚麻岡に次ぎ、衛州を取らんと欲す。柔は兵を以て合撃し、金主は敗走して睢陽に走る。その臣崔立が汴京を以て降る。柔は金帛については一も取るところ無く、独り史館に入り、金の実録并びに秘府の図書を取る。耆徳及び燕趙の故族十余家を訪求し、衛送して北に帰らしむ。遂に睢陽を囲み、金主は汝南に走る。汝南は柴潭を恃みて阻みとす。時に宋の孟珙が兵糧を以て来会す。珙はその南を決し、潭水涸る。金人懼れ、南門を開いて死戦を求めんとす。柔は歩卒二十余を以てその陣を突き、聶福堅を促して先登せしめ、二校を擒えて帰る。また張信を遣わしてその内隍を占拠せしめ、諸軍斉しく進む。金主自殺す。汝南既に破れ、城を屠ることを下令す。一小校が十人を縛って待つ。一人容貌特に異なり。柔問うに、状元の王鶚なり。その縛を解き、賓礼を以てこれに接す。朝に入り、太宗(オゴデイ)は歴数してその戦功を称え、諸帥の上に班し、金虎符を賜い、軍民万戸に昇らしむ。

原文壬辰,從睿宗伐金,語其眾曰:「吾用兵,殺人多矣,寧無寃者?自今以往,非與敵戰,誓不殺也。」圍汴京,柔軍於城西北,金兵屢出拒戰,柔單騎陷陣,出入數四,金人莫能支。金主自黃陵岡渡河,次漚麻岡,欲取衞州,柔以兵合擊,金主敗走睢陽。其臣崔立以汴京降,柔於金帛一無所取,獨入史舘,取金實錄并祕府圖書;訪求耆德及燕趙故族十餘家,衞送北歸。遂圍睢陽,金主走汝南。汝南恃柴潭為阻,會宋孟珙以兵糧來會,珙決其南,潭水涸。金人懼,啟南門求死戰,柔以步卒二十餘突其陣,促聶福堅先登,擒二校以歸。又遣張信據其內隍,諸軍齊進,金主自殺。汝南既破,下令屠城,一小校縛十人以待,一人貌獨異,柔問之,狀元王鶚也,解其縛,賓禮之。入朝,太宗歷數其戰功,班諸帥上,賜金虎符,升軍民萬戶。

乙未の日、皇子クチュ(闊出)に従って棗陽を抜き、続いて大帥タイチ(太赤)に従って徐・邳を攻めた。丁酉の年、詔により曹武に屯兵して宋を威圧した。道中九里関を通過する際、張柔は配下を率いて直進しようとしたが、ある者が「関は非常に険しく、宋は必ず伏兵を設けている。大軍と共に進む方が良い」と諫めた。聞かず、二十騎を率いて直ちに進み関を占拠し、ちょうど甲を解いて食事をしていると、宋兵が両山の間から現れ、幾重にも包囲した。騎兵たちは皆顔色を失ったが、張柔は単騎で馳せ突き囲みを破った。大軍が続いて到着し、遂に曹武に達し、縁山の諸堡をことごとく陥落させ、洪山寨を攻めてこれを破り、遂に山下に営を張った。張柔が兵を率いて他処へ略地に出ていると、宋兵が虚を突いて襲来した。張柔が戻り、これと遭遇し、朝から夕方まで、合わせて十余戦し、宋軍を大いに破り、その将校十三人を斬った。遂に諸軍と会して光州を奪い、さらに進んで黄州を目指し、三山寨を破り、大湖中に至って戦艦を得、江に沿って戦いを交え、黄州西北隅に陣を構えた。舟に乗って出てくる者がいたので、張柔は言った、「これは我が隙を偵察する者である。夜には必ず我が不意を襲うだろう」。そこで軍を三つに分けて待ち受けた。二更の時、宋軍が果たして来襲したので、張柔は遮ってこれを撃ち、数百人を捕虜とし、溺死者は数え切れなかった。その東門を攻めると、矢石が雨のように降り注ぎ、軍が少し後退したので、張柔は死士十余りを率い、戈を奮って大声で叫び、向かうところ敵は倒れ伏し、捕虜を捕えて帰還した。宋軍は恐れて和を請うたので、軍を返した。

原文乙未,從皇子闊出拔棗陽,繼從大帥太赤攻徐、邳。丁酉,詔屯兵曹武以逼宋。道出九里關,柔欲率所部徑往,或言關甚險,宋必設伏,不若與大軍俱進。不聽,與二十騎直前據關,方解甲而食,宋兵出兩山間,圍數重,騎皆失色,柔單騎馳突潰圍。大軍繼至,遂達曹武,悉下緣山諸堡,攻洪山寨,破之,遂營山下。柔率眾出略地他處,宋兵乘虛來襲,柔還,與之遇,自旦至暮,凡十餘戰,大敗宋師,斬其將校十有三人。遂會諸軍取光州,又進趣黃州,破三山寨,至大湖中,得戰艦,沿江接戰,壁於黃州西北隅。有乘舟出者,柔曰:「此偵伺我隙者也,夜必襲吾不備。」乃分軍為三以待之。二鼓時,宋師果至,柔遮擊之,俘數百人,溺死者不可計。攻其東門,矢石雨注,軍少却,柔率死士十餘,奮戈大呼,所向仆踣,執俘而還。宋師懼,請和,乃還軍。

大帥チャハン(察罕)が滁州を攻めた時、張柔は二百騎を率いて向かった。当時、廬・泗・盱眙・安豊の間には、宋の屯戍が相望み、斥候が非常に厳しかった。ある者が張柔に行かないよう勧めたが、聞かず、戦いながら前進し、合わせて二十余戦した。滁州に到着した時、チャハンは滁州が長く陥ちないので、解囲して去ろうとしたが、張柔は決戦を請い、これに従った。陣を布いた後、宋の驍将が挑戦に出てきたので、張柔は偽って退却した。宋将が驕ったところを、張柔は馳せて追いつき、鞭で打って地に墜とし、宋将は張柔の手綱を掴んで自陣に引きずり込んだ。飛んできた石が張柔の鼻に当たり、両軍が鬨の声を上げる中、張柔は帰還し、傷を包んで再び戦った。夜に鞏彦暉を遣わしてその営を襲撃させ、城の東南隅を焼き、張柔は精鋭の兵卒五十七人を率いて先に登城し、これを陥落させた。己亥の年、本官のまま河南諸翼兵馬征行事を節制し、河南三十余城が皆これに属した。

原文大帥察罕攻滁州,柔以二百騎往。時廬、泗、盱眙、安豐間,宋屯戍相望,斥候甚嚴,或勸柔勿行,不聽,且戰且前,凡二十餘戰。比至滁,察罕以滁久不拔,欲解去,柔請決戰,從之。既陣,宋驍將出挑戰,柔佯却,宋將驕,柔馳及之,檛擊墜地,宋將執柔轡曳入其陣,飛石中柔鼻,兩軍鬨,柔得還,裹瘡復戰。夜遣鞏彥暉劫其營,焚城東南隅,柔〔率〕銳卒五十七人先登,拔之。己亥,以本官節制河南諸翼兵馬征行事,河南三十餘城皆屬焉。

庚子の年、詔により張柔ら八万戸に宋を討伐させた。辛丑の年、保州を順天府に昇格させ、御衣数襲・名馬二頭・尚廐の馬百頭を賜った。張柔は軍を率いて五河口から淮を渡り、和州の諸城を攻略し、軍を返すと、配下の将千人を分遣して襄城に屯田させた。チャハンが上奏して張柔に諸軍を総括させ杞を鎮守させた。初め、汴で黄河が決壊し、西南に流れて陳留に入り、三つに分かれ、杞はその中の洲にあった。宋兵は舟楫の利を恃み、亳・泗に駐屯し、汴・洛を侵犯して河南を攪乱した。張柔はそこで旧杞の東西中三山が河を挟む地に、水勢を順らせて殺ぐため、連城を築き、浮橋を架け、進戦退耕の計を立てたので、敵は敢えて来なかった。諸軍と共に寿州を攻め破った時、張柔は兵を留めて守ろうとしたが、チャハンは従わなかった。また泗州で宋軍を破り、杞上に帰還した。帳下の吏の夾谷顯祖が罪を得て逃亡し、変事を上告して張柔を誣告したため、張柔を捕らえて北へ送った。大臣の多くが一族を挙げて張柔を保証したので、遂にその誣告を弁明し、顯祖は誅殺された。

原文庚子,詔柔等八萬戶伐宋。辛丑,升保州為順天府,賜御衣數襲、名馬二、尚廐馬百。柔率師自五河口濟淮,略和州諸城,師還,分遣部下將千人屯田于襄城。察罕奏柔總諸軍鎮杞。初,河決於汴,西南入陳留,分而為三,杞居其中潬。宋兵恃舟楫之利,駐亳、泗,犯汴、洛,以擾河南。柔乃即故杞之東西中三山夾河,順殺水勢,築連城,結浮梁,為進戰退耕之計,敵不敢至。會諸軍攻破壽州,柔欲留兵守之,察罕不從。又敗宋師于泗州,還杞上。帳下吏夾谷顯祖得罪亡走,上變誣柔,執柔以北。大臣多以闔門保柔者,卒辨其誣,顯祖伏誅。

辛亥の年、憲宗が即位し、金虎符に換えて授けられ、依然として軍民万戸とした。甲寅の年、鎮守を亳州に移した。亳州の周囲は皆水で、舟楫なくしては到達できなかったので、張柔は城壁を甃き、橋梁を造って汴堤に連ね、商賈の利を通じさせた。また孔子廟を建て、校官と弟子員を設けた。入朝して奏上すると、帝は喜び、衣一襲・翎根甲一領・金符九・銀符十九を賜い、功のあった将校に頒った。

原文辛亥,憲宗即位,換授金虎符,仍軍民萬戶。甲寅,移鎮亳州。環亳皆水,非舟楫不達,柔甃城壁為橋梁屬汴堤,以通商賈之利;復建孔子廟,設校官弟子員。入奏,帝悅,賜衣一襲、翎根甲一、金符九、銀符十九,頒將校之有功者。

己未の年、裨将の張果・王仲仁を分けて憲宗に従い蜀を征伐させ、王安国・胡進・田伯榮・宋演を分けて宗王タチャル(塔察児)に従い荊山を攻撃させ、張柔は世祖に従い鄂を攻めた。世祖は大勝関から、張柔は虎頭関から進み、沙窩で宋兵と遭遇し、張柔の子の弘彦がこれを撃破し、進んで守関の兵と戦い、これを破った。世祖は陽羅から江を渡り、張柔に急いで軍を合わせて鄂を攻めるよう促したが、百余日陥ちなかった。世祖はこれを諭して言った、「私は狩人のようなものだ。囲いの中の豚を捕まえることはできないが、野の猪を狩ってお前の食としよう。お前は囲いを破って取るがよい」。張柔はそこで何伯祥に鵝車を作らせ、城を掘り崩し、別に勇士を遣わして先に登城させ、その西南隅を攻め、幾度もこれを破った。ちょうど憲宗の凶報が届き、宋もまた和議を行ったので、世祖は北還し、張柔に蒙古・漢軍を統領させ、後命を待たせ、白鹿磯に城を築き、久しく駐屯する計を立てた。

原文己未,分裨將張果、王仲仁,從憲宗征蜀;王安國、胡進、田伯榮、宋演,從宗王塔察兒攻荊山;柔從世祖攻鄂。世祖由大勝關,柔由虎頭關,與宋兵遇於沙窩,柔子弘彥擊破之,進與守關兵戰,敗之。世祖自陽羅渡江,促柔會兵攻鄂,百餘日不能下。世祖諭之曰:「吾猶獵者,不能擒圈中豕,野獵以供汝食,汝可破圈而取之。」柔乃令何伯祥作鵝車,洞掘其城,別遣勇士先登,攻其西南陬,屢破之。會憲宗凶問至,宋亦行成,世祖北還,命柔統領蒙古、漢軍,以俟後命,城白鹿磯,為久駐計。

中統元年、世祖が即位し、詔により軍を返した。アリクブケ(阿里不哥)が反逆し、世祖が北征すると、詔により張柔に入衛させたが、廬朐河に至り、詔によりこれを止めた。その兵三千五百を分けて京師を守衛させ、子の弘慶を人質とした。二年、金の実録を朝廷に献上し、かつ致仕を請うたので、安粛公に封じ、第八子の弘略に職を襲わせた。

原文中統元年,世祖即位,詔班師。阿里不哥反,世祖北征,詔柔入衞,至廬朐河,有詔止之。分其兵三千五百衞京師,以子弘慶為質。二年,以金實錄獻諸朝,且請致仕,封安肅公,命第八子弘略襲職。

至元三年、栄禄大夫を加えられ、行工部事を判じ、大都を城した。四年、蔡国公に進封された。五年六月に卒去、七十九歳。推忠宣力翊運功臣・太師・開府儀同三司・上柱国を追贈され、諡は武康。延祐五年、汝南王に加封され、諡は忠武。子は十一人あり、弘略・弘範が最も顕著で、弘範は独自に伝がある。

原文至元三年,加榮祿大夫,判行工部事,城大都。四年,進封蔡國公。五年六月卒,年七十九。贈推忠宣力翊運功臣、太師、開府儀同三司、上柱國,諡武康。延祐五年,加封汝南王,諡忠武。子十有一人,弘略、弘範最顯,弘範自有傳。

弘略は字を仲傑といい、張柔の第八子である。謀略があり、経史に通じ、騎射に優れた。嘗て張柔に従って杞を鎮守し、亳に移った。乙卯の年、憲宗に朝見し、金符を授けられ、順天万戸を権めた。蜀征伐に従ったが、その幼さを考慮して錦衣を賜り、鎮守に還らせた。張柔が致仕すると、弘略に金虎符・順天路管民総管・行軍万戸を授け、依然として宣徳・河南・懐孟等路の諸軍で亳に屯する者を総括させた。

原文弘略字仲傑,柔第八子也。有謀略,通經史,善騎射。嘗從柔鎮杞徙亳。歲乙卯,入朝憲宗,授金符,權順天萬戶。從征蜀,以其幼,賜錦衣,令還鎮。柔既致仕,授弘略金虎符、順天路管民總管、行軍萬戶,仍總宣德、河南、懷孟等路諸軍屯亳者。

中統三年、李璮が反逆し、宋将の夏貴に救援を求めた。夏貴は蘄から虚を突いて北進し、亳・滕・徐・宿・邳・滄・濱の七州と、新蔡・符離・蘄・利津の四県を奪い、守将を殺した。張弘略は戦船を率いて渦口でこれを阻み、夏貴は蘄に退いて守った。弘略は亳軍を発してこれを攻め、水陸並進した。宋兵は平素から亳軍を恐れており、城を焼いて夜遁し、追撃してほぼ殲滅し、軍資を数え切れぬほど獲て、失った地を全て回復した。李璮が誅殺された後、当時李璮と書簡を交わした者を追及したが、ただ弘略の書簡は皆忠義を勧める内容であったので、事は釈明された。朝廷は李璮の叛逆を戒め、諸侯の権力を削って彼らを保全しようと務め、弘略の兵職を解き、京師に宿衛させ、只孫の冠服を賜って宴享に従わせた。

原文中統三年,李璮反,求救於宋將夏貴。貴自蘄乘虛北奪亳、滕、徐、宿、邳、滄、濱七州,新蔡、符離、蘄、利津四縣,殺守將。弘略率戰船遏之于渦口,貴退保蘄,弘略發亳軍攻之,水陸並進。宋兵素憚亳軍,焚城宵遁,追殺殆盡,獲軍資不可計,盡復所失地。李璮既誅,追問當時與璮通書者,獨弘略書皆勸以忠義,事得釋。朝廷懲璮叛逆,務裁諸侯權以保全之,因解弘略兵職,宿衞京師,賜只孫冠服,以從宴享。

至元三年、大都を城する際、その父を補佐して築宮城総管となった。八年、朝列大夫・同行工部事を授けられ、宿衛親軍・儀鸞等局を兼領した。十三年、城が完成すると、内帑の金釦・瑇瑁の巵を賜り、中奉大夫・淮東道宣慰使を授かった。十四年、宋の広王昺が閩・広を占拠した。当時東海県に数万の粟が貯蔵されており、行省は弘略に兵二千を将いてこれを守備させ、さらに命じて舟を造り粟を淮安に運び入れさせた。弘略は民舟を顧み、粟十石を積める者には一石を与えるとし、人々は争ってこれに赴き、一月で完了した。

原文至元三年,城大都,佐其父為築宮城總管。八年,授朝列大夫、同行工部事,兼領宿衞親軍、儀鸞等局。十三年,城成,賜內帑金釦、瑇瑁巵,授中奉大夫、淮東道宣慰使。十四年,宋廣王昺據閩、廣,時東海縣儲粟數萬,行省檄弘略將兵二千戍之,仍命造舟運粟入淮安。弘略顧民舟,有能載粟十石者與一石,人爭趨之,一月而畢。

十六年、江西宣慰使に転ず。時に饒州に盗賊起こり、都昌を犯す。弘略は、饒州は江東に属するとはいえ、南康とは一湖を隔てるのみであり、この賊を滅ぼさねば、我が境も必ず相扇いで起こる者あらん、と考える。乃ち人を遣わして直ちにその巣穴を擣ち、賊の首魁を生け捕りにして、市で磔にし、残党は潰散す。令を下して曰く、「兵を操らざる者は、皆平民なり、余は問うところなし」と。間もなく、病により亳に帰る。讒言する者あり、貴臣の子が江南に田宅を買い楽しんで帰るを忘れたと、その言葉に弘略を引き合いに出す。或る者弘略に謂いて曰く、「公はただ亳に居り、未だ江南に在らず、入見して自ら明らかにすべし」と。弘略曰く、「明らかにすれば、言う者譴責を得ん、我は寧ろ疾を称して家に居らん」と。

原文十六年,遷江西宣慰使。會饒州盜起,犯都昌。弘略以為,饒雖屬江東,與南康止隔一湖,此寇不滅,則吾境必有相扇而起者。乃使人直擣其巢穴,生縛賊酋,磔于市,餘黨潰散。下令曰:「不操兵者,皆為平民,餘無所問。」頃之,以疾歸亳。有讒貴臣子在江南買田宅樂而忘歸者,詞引弘略。或謂弘略曰:「公但居亳,未嘗在江南,入見宜自明。」弘略曰:「明之,則言者獲譴矣,吾寧稱疾家居。」

二十九年、世祖に龍虎台で謁見し、請うて曰く、「臣の子玠、長ず、宿衛に備えんことを願う」と。従う、且つ酒を賜いて曰く、「卿年未だ老いず、事を謝するは何ぞ為さん」と。特に命じて河南行省参知政事と為す。元貞二年卒す。推忠佐理功臣・銀青栄禄大夫・平章政事・上柱国・蔡国公を贈られ、諡して忠毅。子三人:玠、瑾、琰。

原文二十九年,見世祖於龍虎臺,請曰:「臣之子玠長矣,願備宿衞。」從之,且賜以酒曰:「卿年未老,謝事何為?」特命為河南行省參知政事。元貞二年卒。贈推忠佐理功臣、銀青榮祿大夫、平章政事、上柱國、蔡國公,諡忠毅。子三人:玠,瑾,琰。

史天倪〔楫・権・枢〕

原文史天倪〔楫 權 樞〕

史天倪、字は和甫、燕の永清の人。曾祖倫、少より侠を好み、室を築くに土を発して金を得、始めて財に饒かになる。金末、中原塗炭す、乃ち家塾を建て、学者を招き来たり、蔵して活かす豪士甚だ衆く、河朔に侠を以て称せられ、士族で奴虜に陥った者は、輒ち金を出してこれを贖う。甲子、歳大いに饑え、粟八万石を発して饑者を賑い、士皆争いてこれに附く。祖成珪、倜儻として父の風有り。乱に遭い、盗賊四方より起こる、乃ち悉くその家財を散じ、唯倉粟を存するのみ。

原文史天倪字和甫,燕之永清人。曾祖倫,少好俠,因築室發土得金,始饒於財。金末,中原塗炭,乃建家塾,招徠學者,所藏活豪士甚眾,以俠稱於河朔,士族陷為奴虜者,輒出金贖之。甲子,歲大侵,發粟八萬石賑饑者,士皆爭附之。祖成珪,倜儻有父風。遭亂,盜賊四起,乃悉散其家財,唯存廩粟而已。

父秉直、書を読み気義を尚ぶ。癸酉、太師・国王木華黎、兵を統べて南伐し、向かう所残破す、秉直、族を聚めて謀りて曰く、「方今国家喪乱す、吾が家百口、何を以てか自保せん」と。既にして降る者は皆免るるを得ると知り、乃ち里中の老稚数千人を率い、涿州の軍門に詣でて降る。木華黎、秉直を用いんと欲す、秉直辞してその子を薦む、乃ち天倪を万戸と為し、而して秉直に命じて降人の家属を管領せしめ、霸州に屯す。秉直、拊循方有り、遠近聞きて附く者十余万家。尋いでこれを漠北に遷す、降人の道に饑う、秉直、賜わるところの牛羊を得て、悉く分かちて食わしめ、多く全活す。甲戌、木華黎に従い北京を攻む。乙亥、北京降る、木華黎制を承け、烏野児を北京路都元帥と為し、秉直に尚書六部事を行わしめ、饋餉を主り、軍中未だ乏絶せず。庚寅、老を以て事を謝し、郷里に帰る。卒す、年七十一。三子:長天倪、次天安、次天澤。天澤は自ら伝有り。

原文父秉直,讀書尚氣義。癸酉,太師、國王木華黎統兵南伐,所向殘破,秉直聚族謀曰:「方今國家喪亂,吾家百口,何以自保!」既而知降者皆得免,乃率里中老稚數千人,詣涿州軍門降。木華黎欲用秉直,秉直辭而薦其子,乃以天倪為萬戶,而命秉直管領降人家屬,屯霸州。秉直拊循有方,遠近聞而附者十餘萬家。尋遷之漠北,降人道饑,秉直得所賜牛羊,悉分食之,多所全活。甲戌,從木華黎攻北京。乙亥,北京降,木華黎承制,以烏野兒為北京路都元帥,秉直行尚書六部事,主餽餉,軍中未嘗乏絕。庚寅,以老謝事,歸鄉里。卒,年七十一。三子:長天倪,次天安,次天澤。天澤自有傳。

天倪の生まれた夕べ、白気庭を貫く。成童、姿貌魁傑。道士有りて見て異にし曰く、「封侯の相なり」と。長ずるに及び、学を好み、日に千言を誦す。大安末、進士に挙げられて第せず、乃ち歎いて曰く、「大丈夫身を立つるは、独り文を以てするのみならんや!我に荒鶏夜鳴くに遇わしめ、百万の衆を擁せば、功名は唾手にして取るべし」と。木華黎見てこれを奇とす。既に万戸として諸の降卒を統べ、木華黎に従い三関以南の地を略し、東海に至り、過ぐる所の城邑皆下る。因りて木華黎に進言して曰く、「金は幽燕を棄て、都を汴に遷す、已に策を失えり。遼水東西の諸郡は、金の腹心なり。我若し大寧を得てその喉襟を扼せば、則ち金たとえ遼陽有りとも、終に保つ能わざるべし」と。木華黎これを善しとす。

原文天倪始生之夕,白氣貫庭。成童,姿貌魁傑。有道士見而異之曰:「封侯相也。」及長,好學,日誦千言。大安末,舉進士不第,乃歎曰:「大丈夫立身,獨以文乎哉!使吾遇荒鷄夜鳴,擁百萬之眾,功名可唾手取也。」木華黎見而奇之。既以萬戶統諸降卒,從木華黎略地三關已南,至于東海,所過城邑皆下。因進言於木華黎曰:「金棄幽燕,遷都于汴,已失策矣。遼水東西諸郡,金之腹心也。我若得大寧以㧖其喉襟,則金雖有遼陽,終不能保矣。」木華黎善之。

先に、倫の卒せし時、河朔諸郡清楽社四十余を結び、社ごとに千人に近く、歳時に倫を像りてこれを祠る。是に至り、天倪その壮勇なる者一万人を選び義兵と為し、号して清楽軍と曰い、従兄天祥を先鋒と為し、向かう所敵無く、兵を分かちて三河・薊州を略し、諸寨風を望んで款服す。甲戌、太祖に燕の幄殿で朝し、陳ぶる所皆奇謀至計、大いに旨に称し、金符を賜い、馬歩軍都統を授け、二十四万戸を管領せしむ。木華黎に従い高州を攻め、又従い北京を攻め、皆戦わずして克つ。

原文先,倫卒時,河朔諸郡結清樂社四十餘,社近千人,歲時像倫而祠之。至是,天倪選其壯勇萬人為義兵,號清樂軍,以從兄天祥為先鋒,所向無敵,分兵略三河、薊州,諸寨望風款服。甲戌,朝太祖于燕之幄殿,所陳皆奇謀至計,大稱旨,賜金符,授馬步軍都統,管領二十四萬戶。從木華黎攻高州,又從攻北京,皆不戰而克。

乙亥、右副都元帥を授け、改めて金虎符を賜う。詔を奉じて南征し、平州を囲み、金の経略使乞住降る。兵を進めて真定に至り、所属の部邑款附せざる無し。而して真定の帥武仙固く守りて下らざれば、遂に軍を移して大名を囲む。衆、城堅く撃つべからずと謂う、天倪その西南の角を攻めしむ。勁卒屡上り屡却く、天倪先登し、守る者辟易す、遂にその城を破る。丙子、木華黎の兵と燕南に会す。清州監軍王守約・平州推官合達俱に城を以て叛き、謀りを連ねて海を越え金に帰せんとす。天倪追襲して楽安に至り、合達益都行省忙古の兵を以て来り拒ぐ、これを敗り、守約を殺し、忙古を擒にし、首級一万を斬る。

原文乙亥,授右副都元帥,改賜金虎符。奉詔南征,圍平州,金經略使乞住降。進兵真定,所屬部邑無不款附。而真定帥武仙固守不下,遂移軍圍大名,眾謂城堅不可擊,天倪使攻其西南角,勁卒屢上屢却,天倪先登,守者辟易,遂破其城。丙子,會木華黎兵於燕南,清州監軍王守約、平州推官合達俱以城叛,連謀越海歸金,天倪追襲至樂安,合達以益都行省忙古兵來拒,敗之,殺守約,擒忙古,斬首萬級。

丁丑、山東諸郡を徇う。部卒に民の豕を殺す者有り、立って斬りて徇しむ、軍中粛然たり。遠近響応し、中山の李明・趙州の李瑀・邢州の武貴・威州の武振・磁州の李平・洺州の張立等を知り、風を望んで皆下る。己卯、木華黎に従い河東を徇い、絳州に至る。その団楼石を以て甃き、牢として破る可からず。天倪命じてその旁を穴らしむ、地虚しく、楼陥る、遂にこれを抜く。木華黎喜び、繍衣・金鞍・名馬を以て賞す。庚辰、軍を還して真定に至り、武仙降る。木華黎制を承け、天倪を金紫光禄大夫・河北西路兵馬都元帥と為し、府事を行わしめ、仙これを副う。天倪乃ち木華黎に言いて曰く、「今中原粗く定まるも、過ぐる所猶お鈔掠を縱すは、王者の民を弔い罪を伐つ意に非ず。且つ王は天子の命を奉じ、天下の暴を除く、豈に復たその為す所を效わんや」と。王曰く、「善し」と。下令して「敢えて剽虜する者有らば、軍法を以て事に従うべし」と。辛巳、金の懐州元帥王榮・潞州元帥裴守謙・澤州太守王珍皆城を以て降る。壬午、済南の水寨を攻め、これを破る。

原文丁丑,徇山東諸郡,部卒有殺民豕者,立斬以徇,軍中肅然;遠近響應,知中山李明、趙州李瑀、邢州武貴、威州武振、磁州李平、洺州張立等,望風皆下。己卯,從木華黎徇河東,至絳州,其團樓甃以石,牢不可破,天倪命穴其旁,地虛,樓陷,遂拔之。木華黎喜,賞以繡衣、金鞍、名馬。庚辰,還軍真定,武仙降。木華黎承制以天倪為金紫光祿大夫、河北西路兵馬都元帥,行府事,仙副之。天倪乃言於木華黎曰:「今中原粗定,而所過猶縱鈔掠,非王者弔民伐罪意也。且王奉天子命,為天下除暴,豈復效其所為乎!」王曰:「善。」下令:「敢有剽虜者,以軍法從事。」辛巳,金懷州元帥王榮、潞州元帥裴守謙、澤州太守王珍皆以城降。壬午,攻濟南水寨,破之。

癸未、山西を徇い、遂に三関を克ち、浹旬ならずして四十余寨を定む。兵河衞に至り、喜んで曰く、「河衞は、夷門の限りなり。河衞既に破るれば、則ち夷門守る能わざるべし」と。厳実兵を以て来り会し、自ら河衞を攻めんことを請う。天倪曰く、「合達・蒲瓦も亦勍敵なり」と。実曰く、「易与なり、公の為にこれを破るを保つ」と。明日、実蒲瓦の兵と南門に遇う。合達の兵北より奄に至る。実の兵敗れ、竟に執わるる所と為る。天倪曰く、「合達、実を以て汴に帰せば、必ず今夕ならん」と。急に馮存・杜必貴に命じ、壮士一千三百を率い、延津柳渡に伏せしむ。果たして夜、実を縛って延津を過ぐるに、存等に遇い、戦う、これを敗る。実脱して帰るを得、必貴戦死す。未だ幾ばくもせず、帝命じて天倪軍を回して真定に至らしむ。

原文癸未,徇山西,遂克三關,不浹旬,定四十餘寨。兵至河衞,喜曰:「河衞者,夷門之限也。河衞既破,則夷門不能守矣。」嚴實以兵來會,請自攻河衞,天倪曰:「合達、蒲瓦,亦勍敵也。」實曰:「易與耳,保為公破之。」明日,實與蒲瓦兵遇於南門,合達兵自北奄至,實兵敗,竟為所執。天倪曰:「合達以實歸汴,必以今夕。」急命馮存、杜必貴,率壯士一千三百,伏延津柳渡。果夜縛實過延津,遇存等,與戰,敗之,實得脫歸,必貴戰死。未幾,帝命天倪回軍真定。

甲申の夏、大名総管彭義斌、宋兵を以て河朔を犯す。天倪恩州にて逆戦し、義斌敗れ、大名に入り保つ。乙酉、師還る。武仙の党が西山の腰水・鉄壁の二寨を拠りて叛くを聞く。天倪直ちにその巣穴を擣ち、尽く掩い殺す。仙怒り、乱を謀る。乃ち宴を設け天倪を邀う。その謀りを知る者あり、天倪を止めて往く毋からしむ。天倪従わず、遂に仙の為す所と為りて殺さる。

原文甲申夏,大名總管彭義斌以宋兵犯河朔,天倪逆戰於恩州,義斌敗,入保大名。乙酉,師還,聞武仙之黨據西山腰水、鐵壁二寨以叛,天倪直擣其巢穴,盡掩殺之。仙怒,謀作亂,乃設宴邀天倪,有知其謀者,止天倪毋往,天倪不從,遂為仙所殺。

天倪が真定に赴いたとき、秉直は密かに戒めて言った。「武仙の言葉の調子を見ると、結局は我々のために働くことはないだろう。備えるべきである。」天倪は言った。「私は真心をもって人に接している。人がもし私を裏切るならば、天が必ず許さない。どうかご心配なく。」秉直はそこで孫の楫と権を連れて北京に帰った。この時になって、人々はその先見の明に感服した。先に、天倪が蹴鞠をして夜に帰ったとき、大きな星が馬の前に落ちて音がしたので、心に嫌な予感がしたが、果たして禍に遭ったのである。天倪が死んだとき、年は三十九であった。妻の程氏は、乱を聞いて賊に辱められるのを恐れ、自殺した。子は五人、そのうち三人はまだ幼く、皆難に死に、ただ楫と権が生き残った。

原文天倪之赴真定也,秉直密戒之曰:「觀武仙之辭氣,終不為我用,宜備之。」天倪曰:「我以赤心待人,人或相負,天必不容,願無慮。」秉直乃攜其孫楫、權還北京。至是,人服其先識。先是,天倪擊鞠夜歸,有大星隕馬前,有聲,心惡之,果及禍。天倪死時,年三十九。妻程氏,聞亂,恐污於賊,乃自殺。子五人,其三人尚幼,俱死於難,惟楫、權在。

楫は字を大済という。歳己亥(1239年)、中山府の知事となった。まもなく征南行軍萬戸翼経略に昇進し、蘄州・黄州の地を巡行して占領し、士卒をよく慰撫し、向かうところ功があった。壬寅(1242年)、天澤が楫を引き連れて太宗に拝謁し、上奏して言った。「臣の兄天倪が国事に殉じたとき、二人の子はまだ幼かったので、臣は詔を受けて府の事務を代行して参りました。今、楫はすでに成人いたしました。どうか職を解いて彼に授けてください。」帝は賞賛して嘆息し言った。「今、官職を争う者は多く、官職を譲る者は少ない。卿のこの行いは大いに賞賛すべきである。朕は自ら官を彼に与えよう。」即座に楫を真定兵馬都総管とし、金虎符を佩用させた。

原文楫字大濟。歲己亥,知中山府事。尋遷征南行軍萬戶翼經略,徇地蘄、黃,善撫士卒,所向有功。壬寅,天澤引楫入見太宗,奏曰:「臣兄天倪死事時,二子尚幼,臣受詔攝行府事,今楫已成人,乞解職授之。」帝嘉歎曰:「今之爭官者多,讓官者少,卿此舉殊可嘉尚。朕自有官與之。」即以楫為真定兵馬都總管,佩金虎符。

辛亥(1251年)、朝廷が初めて包銀を徴収しようとしたとき、楫は銀と物産で折納することを請い、さらにその元の額を減らすよう求め、詔はこれに従い、これを令として定めた。各道で紙幣(楮幣)が互いに貿易されるが、境界を出ることができず、二、三年ごとに一度交換されるため、紙幣の元本が日々消耗し、商人の往来が途絶えていた。楫は銀と紙幣が互いに価値を保つ法(銀鈔相権法)を立てることを請い、人々は便利だと思った。ある者が塩を運び、戸籍に基づいて人口を計算し、民に配給して食わせることを請うたが、楫はそれができないと争って言った。「塩鉄は民の貿易に任せるべきもので、どうして差役税の例のように割り当てることができようか?」議論はそこで立ち消えとなった。元氏県の民が府の官僚を高官に訴えたが、調べてみると事実無根であったので、その民を死罪に処そうとした。楫は力を尽くして救おうとした。高官が言った。「この者はお前たちを死地に陥れようとしたのに、反って救おうとするのはなぜか。」楫は言った。「彼を誅殺すれば確かに後世への戒めにはなりますが、赦してその心に恥じ入らせるには及びません。まして人命は最も重いもので、妄言をしたというだけで極刑を加えるべきでしょうか。」そこで杖罰を加えて放免した。

原文辛亥,朝廷始徵包銀,楫請以銀與物折,仍減其元數,詔從之,著為令。各道以楮幣相貿易,不得出境,二三歲輒一易,鈔本日耗,商旅不通,楫請立銀鈔相權法,人以為便。或請運鹽按籍計口,給民以食,楫爭其不可,曰:「鹽鐵從民貿易,何可若差稅例配之?」議遂寢。元氏民有愬府僚於達官者,質之無實,將抵之死,楫力為營解,達官曰:「是人陷汝輩死地,而反救之,何耶?」楫曰:「誅之固足以懲後,未若宥之以愧其心。況人命至重,豈宜以妄言之故,而加以極刑?」乃杖而遣之。

中統元年(1260年)、真定路総管、同判本道宣撫司事に任じられた。真定は山を表し河を帯び、三十余城が連なり、生殺与奪の権限は全て彼の専決に委ねられていた。楫は身を慎み率先し、政教を明らかにし、賞罰を信実にし、賢良を任用し、貪婪な官吏を淘汰し、孤独な者を憐れみ、民は皆その徳を慕った。推挙した州県の佐史で文学の才ある者三十余人は、後に皆有名になった。ちょうど天澤が「兵権と民政の権柄は一門に併せて掌握すべきではない。その実施は臣の家から始めてください」と言ったので、楫は即日に印綬を解いて帰った。死去、年五十九。

原文中統元年,授真定路總管、同判本道宣撫司事。真定表山帶河,連屬三十餘城,生殺進退,咸倚專決。楫謹身率先,明政化,信賞罰,任賢良,汰貪墨,恤煢獨,民咸德之。所舉州縣佐史有文學者三十餘人,後皆知名。會天澤言:「兵民之柄不可併居一門,行之請自臣家始。」楫即日解綬歸。卒,年五十九。

子の炫は常徳管軍総管、煇は孟州知州、燧は東昌府同知、煊は潼関提挙、煬は広西按察司僉事となった。

原文子炫,常德管軍總管;煇,知孟州;燧,同知東昌府事;煊,潼關提舉;煬,僉廣西按察司事。

権は字を伯衡といい、勇猛で謀略があった。初め権萬戸として天澤に従い南征した。歳壬子(1252年)、天澤が萬戸から河南経略使に改任されたので、権がその任を代わった。甲寅(1254年)、鄧州に駐屯し、樊城で宋の将軍高達を破った。己未(1259年)、世祖自ら将として宋を討伐し、権は淮西で出迎えた。世祖が長江を渡り、鄂州に駐屯したとき憲宗が崩御したので、世祖は北還し、権に命じて江北岸の武磯山に総兵として鎮守させた。中統元年(1260年)、詔を下して賞賛し、金虎符を賜り、真定河間濱棣邢洺衞輝等州路并びに木烈乣軍兼屯田州城民戸沿辺鎮守諸軍総管萬戸に任じられた。その所属する千戸・萬戸は、全てその号令を聴くこととなった。

原文權字伯衡,勇而有謀。初以權萬戶從天澤南征。歲壬子,天澤以萬戶改河南經略使,乃以權代其任。甲寅,屯軍鄧州,敗宋將高達於樊城。己未,世祖自將伐宋,權出迎於淮西。世祖渡江,次鄂州而憲宗崩,世祖北還,乃命權總兵鎮江北岸之武磯山。中統元年,降詔奬諭,賜金虎符,授真定河間濱棣邢洺衞輝等州路并木烈乣軍兼屯田州城民戶沿邊鎮守諸軍總管萬戶;其所屬千戶、萬戶,悉聽號令。

至元六年(1269年)、宮廷に召し出され、南征の策を問われた。答えて言った。「襄陽は江陵の屏障であり、樊城は襄陽の外郭です。我が軍がもし先に樊城を攻めれば、襄陽は支えることができず、戦わずして自ら降伏するでしょう。その後、嘉定に兵を駐め、淮・泗に武威を輝かせれば、事は必ず成就します。」帝はその計略を良しとした。

原文至元六年,召至闕下,問以征南之策。對曰:「襄陽乃江陵之藩蔽,樊城乃襄陽之外郛,我軍若先攻樊城,則襄陽不能支梧,不戰自降矣。然後駐兵嘉定,耀武淮、泗,事必有濟。」帝善其計。

至元七年(1270年)、宋軍が辺境を侵したので、権は兵を率いて荊子口に向かい、大破した。帝は白金五百両を賜ったが、権は全て分けて士卒を労った。宋の将軍夏貴が船万艘に壮士を乗せて江面を奪おうとしたので、権は進撃してこれを破り、帝は衣幣・弓矢・鞍勒を賜った。まもなく随州に糧食を輸送していると、夏貴が再び兵を率いて我が軍の前路を扼したので、権は戦ってこれを破り、白金七百両を賜った。制により河南等路宣撫使に任じられたが、まだ就任しないうちに、金虎符を賜り、江漢大都督を充てられ、軍馬を総制し、屯田萬戸を総管した。ちょうど天澤が一門が兵権と民政の権柄を兼ねてはならないと言ったので、権は鎮国上将軍・真定等路総管兼府尹に任じられた。東平に転じ、また河間に転じた。死去。

原文七年,宋兵侵邊,權引兵趨荊子口,大破之,帝賜白金五百兩,權悉以分勞士卒。宋將夏貴以船萬艘載壯士,欲奪江面,權進攻,破之,帝賜以衣幣、弓矢、鞍勒。既而轉糧于隨,貴復引兵扼我前路,權戰破之,賜白金七百兩。制授河南等路宣撫使,未上,賜金虎符,充江漢大都督,總制軍馬,總管屯田萬戶。會天澤言一門不可兼掌兵民之柄,乃授權鎮國上將軍、真定等路總管,兼府尹。徙東平,又徙河間。卒。

樞は字を子明という。父の天安は字を全甫といい、秉直の次男である。歳癸酉(1213年)、秉直に従って降伏した。太師木華黎はその兄の天倪を萬戸としたが、天安を軍中に人質とした。丁丑(1217年)、錦州の反乱者張致を討伐し、平定した。己卯(1219年)、関右の地を攻略し、鄜州の勇将で張鉄槍と号する張資祿を生け捕りにした。乙酉(1225年)、武仙が真定で天倪を殺害したので、天安は衆を率いて天澤のもとに来て合流し、力を合わせて武仙を攻め、敗走させた。功により行北京元帥府事を授かり、真定を治撫した。

原文樞字子明。父天安,字全甫,秉直仲子也。歲癸酉,從秉直降。太師木華黎以其兄天倪為萬戶,而質天安軍中。丁丑,從討錦州叛人張致,平之。己卯,從略地關右,生擒鄜州驍將張資祿號張鐵槍者。乙酉,武仙殺天倪於真定,天安率眾來會天澤,併力攻仙,敗走之。以功授行北京元帥府事,撫治真定。

庚寅(1230年)、宋が邢州の西山に兵を集め、武仙の援軍と称し、その徒の趙和を城中に間者として送り込み、副官の李甲・劉清が内応して投降の意思を示したと誣告した。守将は二人を械にかけて府に送り、大帥は急いで誅殺するよう命じた。天安はその詐りを推し量り、自ら取り調べることを請うた。果たしてその実情を得たので、趙和を斬って見せしめにした。壬辰(1232年)、金討伐に従軍した。軍が帰還すると、大盗の梁満・蘇傑らを討ち、全て平定した。甲午(1234年)、真定等路萬戸を宣し権任され、金符を賜った。丙午(1246年)、入朝し、黄金五十両・白狐裘一領・牝馬百頭を賜った。乙卯(1255年)に死去。

原文庚寅,宋聚兵邢之西山,聲言為仙援,遣其徒趙和行間城中,誣倅副李甲、劉清嘗輸款為內應,守將械兩人送府,大帥趣命戮之。天安揣知其詐,請自鞫之,果得其情,遂斬和以徇。壬辰,從伐金。師還,討劇盜梁滿、蘇傑等,悉平之。甲午,宣權真定等路萬戶,賜金符。丙午,入覲,賜黃金五十兩、白狐裘一、牝馬百。乙卯卒。

樞は二十余歳で、勲臣の子として中山府の知事となり、治績があった。甲寅(1254年)、初めて新軍を登録したとき、天澤は長兄の二人の子はそれぞれ官位があるが、次兄の子はまだ仕官していないとして、樞を征行萬戸に奏上し、真定・彰徳・衞州・懐孟の新軍を配属し、唐州・鄧州を守備させた。乙卯(1255年)、漢水の鴛鴦灘で宋の水軍を破り、金虎符を賜った。

原文樞年二十餘,以勳臣子知中山府,有治績。甲寅,初籍新軍,天澤以長兄二子各有官位,而仲兄之子未仕,乃奏樞為征行萬戶,配以真定、彰德、衞州、懷孟新軍,戍唐、鄧。乙卯,敗宋舟師於漢水之鴛鴦灘,賜金虎符。

戊午(1258年)、憲宗が宋を討伐し、蜀から侵入した。天澤に従って行在所に赴き、大散関で帝に拝謁した。帝は労って言った。「卿は長く東方を鎮守し、今また遠くから来た。その勤めもまた極まりない。」樞は答えて言った。「臣の祖父・父は国の厚恩を受けました。今、陛下自ら六師を御し、万里の外にご苦労なさっているのに、臣ひとり死力を尽くして、その万が一にも報いることができましょうか!」帝はその言葉に感奮し、前鋒とするよう命じた。宋が劍州を立て、苦竹崖に仮の治所を置いていた。前は絶澗に阻まれ、深さ数百尺で、険しさを頼みに備えをしていなかった。帝は樞に偵察させた。樞は健卒数十人を率い、縄で下り、そこに軍を進めるべき場所を得て報告した。帝は樞に急いでそれを取るよう促した。宋人は恐れて降伏した。翌日、大宴会が開かれ、帝は皇后を顧みて、樞に酒を賜るよう命じ、かつ新たに降附した渠帥たちに諭して言った。「我が国が創業以来、皇后が臣下に酒を賜ったことはない。特に樞父子が代々忠貞を篤くしているので、殊礼をもって寵遇するのである。国事に力を尽くす者があれば、礼もまたこのようになろう。」

原文戊午,憲宗伐宋,入自蜀,從天澤詣行在,朝帝于大散關。帝勞之曰:「卿久鎮東方,茲復遠來,勤亦至矣。」樞對曰:「臣之祖、父,受國厚恩,今陛下親御六師,暴露萬里之外,臣獨不能出死力,以報萬分之一邪!」帝壯其言,命為前鋒。(立宋)〔宋立〕劍州,僑治於苦竹崖,前阻絕澗,深數百尺,恃險而不備,帝使樞偵之。樞率健卒數十,縋而下,得其所以致師處以聞。帝趣樞急取之,宋人懼,乃降。翼日,大宴,帝顧皇后,命飲樞酒,且諭新附渠帥曰:「我國家自開創以來,未有皇后賜臣下酒者,特以樞父子世篤忠貞,故寵以殊禮。有能盡瘁事國者,禮亦如之。」

己未(1259年)、天澤に従い嘉陵江で宋の将軍呂文徳を撃破し、重慶まで追撃して帰還し、黄金五十両・白金二百両・錦一匹を賜った。

原文己未,從天澤擊敗宋將呂文德於嘉陵江,追至重慶而還,賜黃金五十兩、白金二百兩、錦一匹。

世祖即位すると、金虎符を改めて賜う。中統二年、天沢に従い駕に扈従して北征す。三年、李璮叛し、済南に拠る。また天沢に従い往きてこれを討つ。城の西南に大澗あり、歴山に亘る。枢一軍独りその険に当たり、澗を挟んで城し、木柵を澗中に竪つ。淫雨暴漲し、木柵尽く壊る。枢曰く、「賊吾が隙に乗じ、夜を俟って必ず出づべし」と。葦炬数百を作り城上に置くことを命ず。三鼓に逮し、賊果たして至る。炬を飛ばしてこれを擲ち、風怒り火烈しく、弓弩斉しく発す。賊衆大いに潰え、自ら相蹂躪し、死する者算うべからず。未だ幾もせず、璮就擒す。

原文世祖即位,改賜金虎符。中統二年,從天澤扈駕北征。三年,李璮叛,據濟南,復從天澤往討之。城西南有大澗,亘歷山,樞一軍獨當其險,夾澗而城,竪木柵於澗中。淫雨暴漲,木柵盡壞,樞曰:「賊乘吾隙,俟夜必出。」命作葦炬數百置城上。逮三鼓,賊果至,飛炬擲之,風怒火烈,弓弩齊發,賊眾大潰,自相蹂躪,死者不可勝計。未幾,璮就擒。

至元四年、宋兵開・達諸州を囲む。枢を以て左壁総帥と為し、虎符を佩かしむ。凡そ河南・山東・懐孟・平陽・太原・京兆・延安等の軍悉くこれを統べしむ。宋兵これを聞き、解き去る。

原文至元四年,宋兵圍開、達諸州,以樞為左壁總帥,佩虎符,凡河南、山東、懷孟、平陽、太原、京兆、延安等軍悉統之,宋兵聞之,解去。

六年、高麗人金通精、珍島に拠り以て叛く。これを討つこと歳余、下らず。七年、枢を進めて昭勇大将軍・鳳州経略使と為す。枢至り、諸将佐に謂いて曰く、「賊勢方に張り、力を以て勝つ易からず。況んや炎暑海気蒸欝し、弓力弛弱して、猝かに用うべからず。軍を分かち三と為し、旗幟を多く張りて以てこれを疑わすべし。吾諸君と潜師してその巣穴を擣てば、これを破る必ずせん」と。戦い、これを大いに破り、その地悉く平ぐ。

原文六年,高麗人金通精據珍島以叛,討之,歲餘不下。七年,進樞昭勇大將軍、鳳州經略使。樞至,謂諸將佐曰:「賊勢方張,未易力勝,況炎暑海氣蒸欝,弓力弛弱,猝不可用。宜分軍為三,多張旗幟以疑之。吾與諸君潛師擣其巢穴,破之必矣。」與戰,大破之,其地悉平。

十二年、復た万戸を以て丞相伯顔に従い宋を伐つ。錦衣一・宝鞍一・弓一・矢百・甲十注・馬十二匹を賜い、仍て天沢帳下の士十人を給して従わしむ。宋平ぐ。安吉州安撫使を署す。時新附の初め、民所在に険阻に依りて自保す。枢威信を以てこれを招懐し、業を復して民と為る者千万を以て計う。

原文十二年,復以萬戶從丞相伯顏伐宋,賜錦衣一、寶鞍一、弓一、矢百、甲十注、馬十二匹,仍給天澤帳下士十人以從。宋平,署安吉州安撫使。時新附之初,民所在依險阻自保,樞以威信招懷之,復業為民者以千萬計。

十四年、疾を移して還る。十九年、起して東京路総管と為す。辞して赴かず。二十三年、中奉大夫・山東東西道宣慰使を拝し、済南を治め、後また益都を治む。二十四年、卒す。年六十七。

原文十四年,移疾還。十九年,起為東京路總管,辭不赴。二十三年,拜中奉大夫、山東東西道宣慰使,治濟南,後又治益都。二十四年,卒,年六十七。

子煥、昭勇大将軍・後衛親軍都指揮使、金虎符を佩く。燁、奉訓大夫・秘書少監。

原文子煥,昭勇大將軍、後衞親軍都指揮使,佩金虎符;燁,奉訓大夫、祕書少監。

史天祥

史天祥、父は懐徳、尚書秉直の弟なり。歳癸酉、太師・国王木華黎、太祖に従い金を伐つ。天祥、秉直に随い涿に迎えて降る。木華黎、懐徳を命じて就きてその黒軍を領せしめ帳下に隷し、天祥を都鎮撫に署す。降卒の長身武勇なる者二百人を選び、これを領せしむ。丁壮を招徠し、衆万余を得、従いて覇州・文安・大城・滄濱・長山等二十余城を取り、東下して淄・沂・密の三州を下す。至る所皆先登す。詔して銀符を以て賜う。大軍に従い燕を攻むるも、克たず。

原文史天祥,父懷德,尚書秉直之弟也。歲癸酉,太師、國王木華黎從太祖伐金,天祥隨秉直迎降於涿。木華黎命懷德就領其黑軍隸帳下,署天祥都鎮撫,選降卒長身武勇者二百人,使領之。招徠丁壯,得眾萬餘,從取霸州、文安、大城、滄濱、長山等二十餘城,東下淄、沂、密三州,所至皆先登,詔賜以銀符。從大軍攻燕,不克。

甲戌、高州に地を略し、恵和・金源・和衆・龍山・利・建・富庶等十五城を抜く。惟だ大寧固守して下らず。天祥、金の将完顔胡速を獲る。木華黎これを殺さんとす。天祥曰く、「一人を殺すも敵に損なうこと無く、適に天下の人を駆りて吾が敵と為さん。且つその降る時嘗て不死を許す。今これを殺せば、後に信を取る無し。従いてこれを用うるに若かず」と。乃ち千戸と為す。復た衆を合してその城を攻む。懐徳先登し、その二将を擒うるも、流矢に中り、軍に歿す。乃ち統ぶる所の黒軍を以て、天祥を命じてこれを領せしむ。

原文甲戌,略地高州,拔惠和、金源、和眾、龍山、利、建、富庶等十五城,惟大寧固守不下。天祥獲金將完顏胡速,木華黎欲殺之,天祥曰:「殺一人無損於敵,適驅天下之人為吾敵也。且其降時嘗許以不死,今殺之,無以取信於後,不若從而用之。」乃以為千戶。復合眾攻其城,懷德先登,擒其二將,為流矢所中,歿于軍。乃以所統黑軍,命天祥領之。

天祥その父の死を憤痛し、これを攻むること愈急なり。乙亥、大帥烏野児とともにその北京留守銀答忽・同知烏古倫を降す。北京傍近の諸寨を進攻す。磨雲山の王都統首めて軍門に詣り降る。天祥命じて崖に入り列し、都統不剌を擒う。その縛を釈し、仍て大義を以て暁す。不剌感泣し、願わくば死を効さんとす。天祥その誠を察し、王都統とともに往きて城子崖の王家奴を説き降さんことを許す。乃ち三人を命じて各々旧卒を将とし、空名告身を付し、楼子崖等二十余寨を諭して悉く降らしむ。老幼数万・勝兵八千を得る。西乾河の答魯・五指山の楊趙奴独り固守して下らず。天祥これを撃つこと大小百余戦、趙奴死し、答魯敗走す。戸二万を得る。西山総帥兵馬を授く。興州節度使趙守玉反す。天祥烏野児と分道してこれを討平す。答魯復た衆を聚めて龍山を攻む。槊を以て烏野児の胸を刺し、随って馬より墮つ。天祥馳せ救いて免れしめ、復た陣を整えて出戦し、これを大いに敗り、首級八千を斬る。答魯戦死す。進んで中興府を克つ。

原文天祥憤痛其父之死,攻之愈急。乙亥,與大帥烏野兒降其北京留守銀答忽、同知烏古倫。進攻北京傍近諸寨,磨雲山王都統首詣軍門降,天祥命入列崖,擒都統不剌,釋其縛,仍曉以大義,不剌感泣,願效死。天祥察其誠,許與王都統往說降城子崖王家奴,乃命三人各將舊卒,付空名告身,使諭樓子崖等二十餘寨悉降,得老幼數萬、勝兵八千。西乾河答魯、五指山楊趙奴獨固守不下,天祥擊之,大小百餘戰,趙奴死,答魯敗走,得戶二萬。授西山總帥兵馬。興州節度使趙守玉反,天祥與烏野兒分道討平之。答魯復聚眾攻龍山,以槊刺烏野兒中胸,隨墮馬,天祥馳救得免,復整陣出戰,大敗之,斬首八千級,答魯戰死。進克中興府。

張致、錦州を盗み拠る。木華黎に従いこれを討平す。契丹漢軍関肅を擒うるに会し、復た利州し、銀治に於いて劉禄を殺し、首級五十を斬る。尖山・香炉・紅螺・塔山・大虫・駱駝・団崖諸寨悉く平ぎ、生口万余を虜い、錦州の旧将杜節を得、并せて黒軍五百人、即ち命じてこれを統べしむ。

原文張致盜據錦州,從木華黎討平之。會契丹漢軍擒關肅,復利州,殺劉祿於銀治,斬首五十級,尖山、香爐、紅螺、塔山、大蟲、駱駝、團崖諸寨悉平,虜生口萬餘,得錦州舊將杜節,并黑軍五百人,即命統之。

丙子春、魚児濼に於いて太祖に覲し、金符を賜い、提控元帥を授く。蓋・金・蘇・復等州を抜き、金の完顔奴・耶律神都馬を獲る。鎮国上将軍・利州節度使・所部降民都総管・監軍兵馬元帥に遷す。丁丑夏、山賊祁和尚、武平に拠る。これを討平す。金の将巣元帥を縛す。また興州の車河に於いて重児の盗衆万人を滅す。己卯、権兵馬都元帥と為し、蒙古・漢軍・黒軍並びに節制を聴かしむ。河東・平陽・河中・岢嵐・絳・石・隰・吉・廓等八十余城を下す。

原文丙子春,覲太祖於魚兒濼,賜金符,授提控元帥。拔蓋、金、蘇、復等州,獲金完顏奴、耶律神都馬,遷鎮國上將軍、利州節度使、所部降民都總管、監軍兵馬元帥。丁丑夏,山賊祁和尚據武平,討平之。縛金將巢元帥。又滅重兒盜眾萬人於興州之車河。己卯,權兵馬都元帥,蒙古、漢軍、黑軍並聽節制。下河東、平陽、河中、岢嵐、絳、石、隰、吉、廓等八十餘城。

庚辰、真定に至る。木華黎天祥をして城を攻めしむ。天祥因りて請いて曰く、「これを攻むれば恐らくは無辜に及びて戮せん。往きてこれを諭すに若かず。苟もその従わざれば、兵を加うるも未だ晩からず」と。木華黎これを許す。天祥往きて守将武仙を見、禍福を以て諭す。仙悟り、乃ち降る。吾也而天祥を留めて真定を守らしめんと請う。木華黎曰く、「天下未だ定まらず、智勇士左右を離るべけんや。吾将に別にこれを処せん」と。乃ち秉直の子天倪を河北西路兵馬都元帥と為し真定を鎮め、天祥を左副都元帥と為し、余は故の如くし、兵を引いて南に屯し邢西遙水山下に在り。仙の兄貴、万人を以て山上に壁す。固に負いて下らず。天祥、完顔胡速及び黒軍百人を携え、鳥道より扳援して上り、尽くこれを掩捕す。仙驚いて曰く、「公若し羽翼有る者の如し。然らずんば、何ぞ其れ能くせんや」と。遂に邢・磁・相の三州を下す。黄龍岡に従い戦い、単・勝・兗の三州を破る。

原文庚辰,至真定,木華黎使天祥攻城,天祥因請曰:「攻之恐戮及無辜,不如先往諭之。苟其不從,加兵未晚。」木華黎許之。天祥往見守將武仙,諭以禍福,仙悟,乃降。吾也而請留天祥守真定,木華黎曰:「天下未定,智勇士可離左右乎?吾將別處之。」乃以秉直之子天倪為河北西路兵馬都元帥,鎮真定;以天祥為左副都元帥,餘如故,引兵南屯邢西遙水山下。仙兄貴以萬人壁於山上,負固不下,天祥携完顏胡速及黑軍百人,由鳥道扳援而上,盡掩捕之。仙驚曰:「公若有羽翼者,不然,何其能也!」遂下邢、磁、相三州。從戰黃龍岡,破單、勝、兗三州。

木華黎東平を囲むこと久しく下らず。吾也而の尽力せざるを怒り、将に手ずからこれを斬らんとす。天祥代わりて攻めんことを請う。木華黎喜び、皮甲一を付し、また己が鉄鎧とともにこれを被らしめ、鏖戦已まず。木華黎人をしてこれを止めて曰く、「爾力竭けり。宜しく少しく休むべし」と。復た金鞍名馬をこれに与う。辛巳、従いて綏徳・鄜・坊等五十余城を取る。壬午、木華黎青龍・金勝諸堡を攻む。花帽軍堅守して下らず。既に破り、これを屠らんと欲す。天祥力諫して止む。壮士五千人を得る。

原文木華黎圍東平,久不下,怒吾也而不盡力,將手斬之,天祥請代攻。木華黎喜,付皮甲一,又與己鐵鎧并被之,鏖戰不已,木華黎使人止之曰:「爾力竭矣,宜少休。」復以金鞍名馬與之。辛巳,從取綏德、鄜、坊等五十餘城。壬午,木華黎攻青龍、金勝諸堡,花帽軍堅守不下,既破,欲屠之,天祥力諫而止,獲壯士五千人。

癸未の春、軍を河中に還し、木華黎がその功を上奏すると、金虎符を賜わり、蒙古漢軍兵馬都元帥に任じられ、十二万戸を総轄し、河中を鎮守した。冬、西夏を巡行し、賀蘭山を破った。帰還の途上、賊に遭遇し、額を射られて負傷し、出血し、目がかすんだ。甲申、北京に帰還し、右副北京等七路兵馬都元帥に任じられた。庚寅、太宗に盧朐河で謁見し、致仕を乞うたが、許されなかった。辛卯、太宗が河南に用兵するに際し、強いて従軍させられ、河上で転漕を担当し、諸軍に糧秣を供給した。

原文癸未春,還軍河中,木華黎上其功,賜金虎符,授蒙古漢軍兵馬都元帥,總十二萬戶,鎮河中。冬,徇西夏,破賀蘭山。還,遇賊,射傷額,出血,目為之昏。甲申,歸北京,授右副北京等七路兵馬都元帥。庚寅,朝太宗於盧朐河,乞致仕,不允。辛卯,太宗用兵河南,強之從行,轉漕河上,給餉諸軍。

壬辰、天祥に汴京の百工数千を率いさせ、霸州の益津に駐屯させ、行元帥府事を執らせ、錦衣一襲を賜わった。かつて、天祥は夜中に流れ矢を受け、鏃が頰骨に刺さって抜けなかったが、この時、金瘡が再発し、鏃が口から出た。睿宗はこれを聞いて哀れみ、海濱和衆利州等処総管に任じ、兼ねて霸州御衣局人匠都達魯花赤を領せしめ、行北京七路兵馬都元帥府事を執らせた。憲宗が即位すると、旧職のままにさせた。戊午の秋九月、病により卒去した。享年六十八。

原文壬辰,命天祥領汴京百工數千,屯霸州之益津,行元帥府事,賜錦衣一襲。初,天祥夜中流矢,鏃入頰骨,不能出,至是,金瘡再發,鏃自口出。睿宗聞而閔之,授海濱和眾利州等處總管,兼領霸州御衣局人匠都達魯花赤,行北京七路兵馬都元帥府事。憲宗即位,俾仍舊職。戊午秋九月,以疾卒,年六十八。

天祥は幼少より大志を抱き、背が高く肋骨が密に並び、力は人に抜きん出ており、酒を嗜まず、農耕を好み、施しを好んだ。乙未の戸籍調査の際、その奴隷千余口を解放し、平民とした。晩年は目が見えなくなったが、国を憂い民を愛する心は、一度も忘れることがなかった。

原文天祥幼有大志,長身駢脅,力絕人,性不嗜酒,喜稼穡,好施予。乙未括戶,縱其奴千餘口,俾為民。晚雖喪明,憂國愛民之心,未嘗忘也。

子の彬は江東提刑按察副使、槐は霸州御衣局人匠都達魯花赤を襲職した。

原文子彬,江東提刑按察副使;槐,襲霸州御衣局人匠都達魯花赤。