張柔〔弘略〕
張柔、字は德剛、易州定興の人、代々農業に従う。柔は若くして慷慨、気節を重んじ、騎射に優れ、豪俠と称された。金の貞祐年間、河北に盗賊が起こると、柔は一族・同党を集めて西山の東流寨を守り、壮士を選び、隊伍を結んで自衛し、盗賊は敢えて犯さなかった。郡人の張信が柔の声勢を借り、流浪の民の娘を妻に娶ろうとしたので、柔は張信を百回鞭打ち、その娘を返した。張信はこれを恨み、徒党を結んで柔を害そうと謀った。間もなく、張信は罪有りて誅に当たるべきところ、柔が救って免れさせたので、ここに驍勇の士多く義を慕ってこれに従った。
中都経略使苗道潤が承制して柔に定興令を授け、累進して(青)〔清〕州防禦使に遷る。道潤はその才能を上表し、昭毅大将軍を加え、遙かに永(寧)〔定〕軍節度使を領し、雄州管内観察使を兼ね、権元帥左都監、行元帥府事とした。その後、道潤がその副たる賈瑀に殺害されると、賈瑀は使者を遣わして巧言をもって告げて言うには、「我が道潤を除くことができたのは、君が兵を助けなかったからである。」柔は怒って使者を叱り、「賈瑀は我が事とする者を殺した。我は賈瑀の肉を食らってもなお快意足らず、反ってこのような言葉で戯れるのか!」遂に檄を移して道潤の部曲に告げ、易州の軍市川に会し、衆を誓ってその復讐を為さんとし、衆皆感泣した。丁度、道潤の麾下の何伯祥が道潤の佩いし金虎符を得て献じたので、これにより柔を行経略使事に推した。事が聞こえ、驃騎将軍・中都留守を加え、大興府尹・本路経略使を兼ね、行元帥事とした。
戊寅の年、国兵(蒙古軍)が紫荊口より出で、柔は率いる所部を率いて狼牙嶺にて逆らい戦い、馬が躓き捕らえられ、遂に衆を率いて降った。太祖(チンギス・カン)はその旧職を還し、便宜行事することを得させた。柔は部曲を招集し、雄・易・安・保の諸州を下し、孔山にて賈瑀を攻め破り、賈瑀を誅し、その心臓を剖いて道潤を祭った。賈瑀の与党の郭収もまた降り、その衆をことごとく有し、治所を満城に移した。
金の真定の帥武仙が兵数万を会して来攻した。柔は兵数百をもって、奇策を以て迎え戦い、これを大破した。勝に乗じて完州を攻め、これを下し、州佐の甄(仝)〔全〕を獲た。(仝)〔全〕は慷慨として戮せられんとしたが、柔は義としてこれを釈し、かつ守に昇らせ、部曲を将いて従わしめた。己卯の年、武仙また来攻し、敗走させ、進んで郎山・(祈)〔祁〕陽・曲陽を抜き、諸城寨これ聞き、皆降った。既にして中山叛く。柔は兵を引いてこれを囲み、武仙の将葛鐵鎗と新楽に戦い、流れ矢が柔の頷に中り、その二歯を折った。矢を抜いて戦い、数千級を斬首し、藁城令劉成を擒え、遂に中山を抜いた。武仙また兵を会して満城を攻む。柔は城に登り拒戦し、また流れ矢に中る。武仙の兵は大呼して曰く、「張柔に中った!」柔は動ぜず、門を開いて突撃し、皆敗走した。地を略して鼓城に至り、単騎で城に入り、禍福を以て諭すと、城は遂に降った。また(祈)〔祁〕陽にて武仙を破り、進んで深・沢・寧・晋・安・平を攻め、これを克った。別将を分遣して平棘・藁城・無極・欒城の諸県を攻め下し、地を千余里開拓した。ここにより深・冀以北、(鎮)〔真〕定以東三十余城、山に沿う反側の鹿児・野貍等の寨、相次いで降附した。一月の間に、武仙と遇すること凡そ十有七度、毎戦必ず勝った。
ちょうど行在所に捷を献ぜんとし、宣徳に至った時、易州の軍が叛き、その守盧応の妻子を逐い、西山の馬頭寨を占拠した。柔これを聞き、即ち輜重を棄てて還り、奇計を出してその寨を破り、叛者を誅し、その妻子を帰した。栄禄大夫・河北東西等路都元帥を加え、抜都魯の号を賜り、官属を置き、将士遷授に差等有り。
燕の帥孱赤台がしばしば柔を凌ぎ、柔はこれに下らず、乃ち中都の行臺に柔を讒して曰く、「張柔は驍勇無敵、かつて捕らえられて降ったが、今兵権を委ねられ、戦えば勝ち攻めれば取り、威河朔に震う。今これを図らざれば、後必ず制し難からん。常に我を殺さんと欲し、我敢えて南せず。」行臺は柔を召し、土室に幽し、孱赤台はその上に帳を張り寝し、甲騎を以て環らした。明日殺さんとすれども、孱赤台一夕にして暴死し、柔は乃ち免れることを得た。金の経略使固安の王子昌は、戦に善くして知名なり、信安の張進と兵を連ね、水を阻んで固めとし、遠近これを憚った。柔はその不意に出で、兵を率いて直ちに渡り、生擒して還った。
乙酉の年、真定の武仙がその帥史天倪を殺す。その弟天澤が使いを遣わして援を求む。柔は驍将喬惟忠等を遣わし千余騎を率いてこれに赴かせ、武仙と戦い、これを破った。遂に惟忠・宋演を分遣して彰徳を略し、斉魯を徇わしめ、聶福堅をして青・魏・山東を略させしむ。璽書を以て柔に行軍千戸・保州等処都元帥を授く。丙戌の年、将を遣わし兵を率いて国王孛魯に従い、益都にて李全を攻め、これを降す。丁亥の年、鎮を保州に移す。保州は兵火の余り、荒廃すること十五年、盗賊その間に出没す。柔はこれがため市井を画し、民居を定め、官廨を置き、泉を引いて城に入れ、溝渠を疏浚して卑湿を瀉し、商を通じ工を恵み、遂に殷富を致した。廟学を城の東南に遷し、その旧制を増した。
壬辰の年、睿宗(トルイ)に従い金を伐つ。その衆に語って曰く、「我が兵を用いること、人を殺すこと多し。豈に冤なる者無からんや。今より以降、敵と戦うに非ざれば、誓って殺さじ。」汴京を囲み、柔は軍を城の西北にす。金兵しばしば出でて拒戦す。柔は単騎で陣を陷れ、出入りすること数四、金人これを支えること能わず。金主(哀宗)は黄陵岡より河を渡り、漚麻岡に次ぎ、衛州を取らんと欲す。柔は兵を以て合撃し、金主は敗走して睢陽に走る。その臣崔立が汴京を以て降る。柔は金帛については一も取るところ無く、独り史館に入り、金の実録并びに秘府の図書を取る。耆徳及び燕趙の故族十余家を訪求し、衛送して北に帰らしむ。遂に睢陽を囲み、金主は汝南に走る。汝南は柴潭を恃みて阻みとす。時に宋の孟珙が兵糧を以て来会す。珙はその南を決し、潭水涸る。金人懼れ、南門を開いて死戦を求めんとす。柔は歩卒二十余を以てその陣を突き、聶福堅を促して先登せしめ、二校を擒えて帰る。また張信を遣わしてその内隍を占拠せしめ、諸軍斉しく進む。金主自殺す。汝南既に破れ、城を屠ることを下令す。一小校が十人を縛って待つ。一人容貌特に異なり。柔問うに、状元の王鶚なり。その縛を解き、賓礼を以てこれに接す。朝に入り、太宗(オゴデイ)は歴数してその戦功を称え、諸帥の上に班し、金虎符を賜い、軍民万戸に昇らしむ。
乙未の日、皇子クチュ(闊出)に従って棗陽を抜き、続いて大帥タイチ(太赤)に従って徐・邳を攻めた。丁酉の年、詔により曹武に屯兵して宋を威圧した。道中九里関を通過する際、張柔は配下を率いて直進しようとしたが、ある者が「関は非常に険しく、宋は必ず伏兵を設けている。大軍と共に進む方が良い」と諫めた。聞かず、二十騎を率いて直ちに進み関を占拠し、ちょうど甲を解いて食事をしていると、宋兵が両山の間から現れ、幾重にも包囲した。騎兵たちは皆顔色を失ったが、張柔は単騎で馳せ突き囲みを破った。大軍が続いて到着し、遂に曹武に達し、縁山の諸堡をことごとく陥落させ、洪山寨を攻めてこれを破り、遂に山下に営を張った。張柔が兵を率いて他処へ略地に出ていると、宋兵が虚を突いて襲来した。張柔が戻り、これと遭遇し、朝から夕方まで、合わせて十余戦し、宋軍を大いに破り、その将校十三人を斬った。遂に諸軍と会して光州を奪い、さらに進んで黄州を目指し、三山寨を破り、大湖中に至って戦艦を得、江に沿って戦いを交え、黄州西北隅に陣を構えた。舟に乗って出てくる者がいたので、張柔は言った、「これは我が隙を偵察する者である。夜には必ず我が不意を襲うだろう」。そこで軍を三つに分けて待ち受けた。二更の時、宋軍が果たして来襲したので、張柔は遮ってこれを撃ち、数百人を捕虜とし、溺死者は数え切れなかった。その東門を攻めると、矢石が雨のように降り注ぎ、軍が少し後退したので、張柔は死士十余りを率い、戈を奮って大声で叫び、向かうところ敵は倒れ伏し、捕虜を捕えて帰還した。宋軍は恐れて和を請うたので、軍を返した。
大帥チャハン(察罕)が滁州を攻めた時、張柔は二百騎を率いて向かった。当時、廬・泗・盱眙・安豊の間には、宋の屯戍が相望み、斥候が非常に厳しかった。ある者が張柔に行かないよう勧めたが、聞かず、戦いながら前進し、合わせて二十余戦した。滁州に到着した時、チャハンは滁州が長く陥ちないので、解囲して去ろうとしたが、張柔は決戦を請い、これに従った。陣を布いた後、宋の驍将が挑戦に出てきたので、張柔は偽って退却した。宋将が驕ったところを、張柔は馳せて追いつき、鞭で打って地に墜とし、宋将は張柔の手綱を掴んで自陣に引きずり込んだ。飛んできた石が張柔の鼻に当たり、両軍が鬨の声を上げる中、張柔は帰還し、傷を包んで再び戦った。夜に鞏彦暉を遣わしてその営を襲撃させ、城の東南隅を焼き、張柔は精鋭の兵卒五十七人を率いて先に登城し、これを陥落させた。己亥の年、本官のまま河南諸翼兵馬征行事を節制し、河南三十余城が皆これに属した。
庚子の年、詔により張柔ら八万戸に宋を討伐させた。辛丑の年、保州を順天府に昇格させ、御衣数襲・名馬二頭・尚廐の馬百頭を賜った。張柔は軍を率いて五河口から淮を渡り、和州の諸城を攻略し、軍を返すと、配下の将千人を分遣して襄城に屯田させた。チャハンが上奏して張柔に諸軍を総括させ杞を鎮守させた。初め、汴で黄河が決壊し、西南に流れて陳留に入り、三つに分かれ、杞はその中の洲にあった。宋兵は舟楫の利を恃み、亳・泗に駐屯し、汴・洛を侵犯して河南を攪乱した。張柔はそこで旧杞の東西中三山が河を挟む地に、水勢を順らせて殺ぐため、連城を築き、浮橋を架け、進戦退耕の計を立てたので、敵は敢えて来なかった。諸軍と共に寿州を攻め破った時、張柔は兵を留めて守ろうとしたが、チャハンは従わなかった。また泗州で宋軍を破り、杞上に帰還した。帳下の吏の夾谷顯祖が罪を得て逃亡し、変事を上告して張柔を誣告したため、張柔を捕らえて北へ送った。大臣の多くが一族を挙げて張柔を保証したので、遂にその誣告を弁明し、顯祖は誅殺された。
辛亥の年、憲宗が即位し、金虎符に換えて授けられ、依然として軍民万戸とした。甲寅の年、鎮守を亳州に移した。亳州の周囲は皆水で、舟楫なくしては到達できなかったので、張柔は城壁を甃き、橋梁を造って汴堤に連ね、商賈の利を通じさせた。また孔子廟を建て、校官と弟子員を設けた。入朝して奏上すると、帝は喜び、衣一襲・翎根甲一領・金符九・銀符十九を賜い、功のあった将校に頒った。
己未の年、裨将の張果・王仲仁を分けて憲宗に従い蜀を征伐させ、王安国・胡進・田伯榮・宋演を分けて宗王タチャル(塔察児)に従い荊山を攻撃させ、張柔は世祖に従い鄂を攻めた。世祖は大勝関から、張柔は虎頭関から進み、沙窩で宋兵と遭遇し、張柔の子の弘彦がこれを撃破し、進んで守関の兵と戦い、これを破った。世祖は陽羅から江を渡り、張柔に急いで軍を合わせて鄂を攻めるよう促したが、百余日陥ちなかった。世祖はこれを諭して言った、「私は狩人のようなものだ。囲いの中の豚を捕まえることはできないが、野の猪を狩ってお前の食としよう。お前は囲いを破って取るがよい」。張柔はそこで何伯祥に鵝車を作らせ、城を掘り崩し、別に勇士を遣わして先に登城させ、その西南隅を攻め、幾度もこれを破った。ちょうど憲宗の凶報が届き、宋もまた和議を行ったので、世祖は北還し、張柔に蒙古・漢軍を統領させ、後命を待たせ、白鹿磯に城を築き、久しく駐屯する計を立てた。
十六年、江西宣慰使に転ず。時に饒州に盗賊起こり、都昌を犯す。弘略は、饒州は江東に属するとはいえ、南康とは一湖を隔てるのみであり、この賊を滅ぼさねば、我が境も必ず相扇いで起こる者あらん、と考える。乃ち人を遣わして直ちにその巣穴を擣ち、賊の首魁を生け捕りにして、市で磔にし、残党は潰散す。令を下して曰く、「兵を操らざる者は、皆平民なり、余は問うところなし」と。間もなく、病により亳に帰る。讒言する者あり、貴臣の子が江南に田宅を買い楽しんで帰るを忘れたと、その言葉に弘略を引き合いに出す。或る者弘略に謂いて曰く、「公はただ亳に居り、未だ江南に在らず、入見して自ら明らかにすべし」と。弘略曰く、「明らかにすれば、言う者譴責を得ん、我は寧ろ疾を称して家に居らん」と。
史天倪〔楫・権・枢〕
史天倪、字は和甫、燕の永清の人。曾祖倫、少より侠を好み、室を築くに土を発して金を得、始めて財に饒かになる。金末、中原塗炭す、乃ち家塾を建て、学者を招き来たり、蔵して活かす豪士甚だ衆く、河朔に侠を以て称せられ、士族で奴虜に陥った者は、輒ち金を出してこれを贖う。甲子、歳大いに饑え、粟八万石を発して饑者を賑い、士皆争いてこれに附く。祖成珪、倜儻として父の風有り。乱に遭い、盗賊四方より起こる、乃ち悉くその家財を散じ、唯倉粟を存するのみ。
父秉直、書を読み気義を尚ぶ。癸酉、太師・国王木華黎、兵を統べて南伐し、向かう所残破す、秉直、族を聚めて謀りて曰く、「方今国家喪乱す、吾が家百口、何を以てか自保せん」と。既にして降る者は皆免るるを得ると知り、乃ち里中の老稚数千人を率い、涿州の軍門に詣でて降る。木華黎、秉直を用いんと欲す、秉直辞してその子を薦む、乃ち天倪を万戸と為し、而して秉直に命じて降人の家属を管領せしめ、霸州に屯す。秉直、拊循方有り、遠近聞きて附く者十余万家。尋いでこれを漠北に遷す、降人の道に饑う、秉直、賜わるところの牛羊を得て、悉く分かちて食わしめ、多く全活す。甲戌、木華黎に従い北京を攻む。乙亥、北京降る、木華黎制を承け、烏野児を北京路都元帥と為し、秉直に尚書六部事を行わしめ、饋餉を主り、軍中未だ乏絶せず。庚寅、老を以て事を謝し、郷里に帰る。卒す、年七十一。三子:長天倪、次天安、次天澤。天澤は自ら伝有り。
天倪の生まれた夕べ、白気庭を貫く。成童、姿貌魁傑。道士有りて見て異にし曰く、「封侯の相なり」と。長ずるに及び、学を好み、日に千言を誦す。大安末、進士に挙げられて第せず、乃ち歎いて曰く、「大丈夫身を立つるは、独り文を以てするのみならんや!我に荒鶏夜鳴くに遇わしめ、百万の衆を擁せば、功名は唾手にして取るべし」と。木華黎見てこれを奇とす。既に万戸として諸の降卒を統べ、木華黎に従い三関以南の地を略し、東海に至り、過ぐる所の城邑皆下る。因りて木華黎に進言して曰く、「金は幽燕を棄て、都を汴に遷す、已に策を失えり。遼水東西の諸郡は、金の腹心なり。我若し大寧を得てその喉襟を扼せば、則ち金たとえ遼陽有りとも、終に保つ能わざるべし」と。木華黎これを善しとす。
先に、倫の卒せし時、河朔諸郡清楽社四十余を結び、社ごとに千人に近く、歳時に倫を像りてこれを祠る。是に至り、天倪その壮勇なる者一万人を選び義兵と為し、号して清楽軍と曰い、従兄天祥を先鋒と為し、向かう所敵無く、兵を分かちて三河・薊州を略し、諸寨風を望んで款服す。甲戌、太祖に燕の幄殿で朝し、陳ぶる所皆奇謀至計、大いに旨に称し、金符を賜い、馬歩軍都統を授け、二十四万戸を管領せしむ。木華黎に従い高州を攻め、又従い北京を攻め、皆戦わずして克つ。
乙亥、右副都元帥を授け、改めて金虎符を賜う。詔を奉じて南征し、平州を囲み、金の経略使乞住降る。兵を進めて真定に至り、所属の部邑款附せざる無し。而して真定の帥武仙固く守りて下らざれば、遂に軍を移して大名を囲む。衆、城堅く撃つべからずと謂う、天倪その西南の角を攻めしむ。勁卒屡上り屡却く、天倪先登し、守る者辟易す、遂にその城を破る。丙子、木華黎の兵と燕南に会す。清州監軍王守約・平州推官合達俱に城を以て叛き、謀りを連ねて海を越え金に帰せんとす。天倪追襲して楽安に至り、合達益都行省忙古の兵を以て来り拒ぐ、これを敗り、守約を殺し、忙古を擒にし、首級一万を斬る。
丁丑、山東諸郡を徇う。部卒に民の豕を殺す者有り、立って斬りて徇しむ、軍中粛然たり。遠近響応し、中山の李明・趙州の李瑀・邢州の武貴・威州の武振・磁州の李平・洺州の張立等を知り、風を望んで皆下る。己卯、木華黎に従い河東を徇い、絳州に至る。その団楼石を以て甃き、牢として破る可からず。天倪命じてその旁を穴らしむ、地虚しく、楼陥る、遂にこれを抜く。木華黎喜び、繍衣・金鞍・名馬を以て賞す。庚辰、軍を還して真定に至り、武仙降る。木華黎制を承け、天倪を金紫光禄大夫・河北西路兵馬都元帥と為し、府事を行わしめ、仙これを副う。天倪乃ち木華黎に言いて曰く、「今中原粗く定まるも、過ぐる所猶お鈔掠を縱すは、王者の民を弔い罪を伐つ意に非ず。且つ王は天子の命を奉じ、天下の暴を除く、豈に復たその為す所を效わんや」と。王曰く、「善し」と。下令して「敢えて剽虜する者有らば、軍法を以て事に従うべし」と。辛巳、金の懐州元帥王榮・潞州元帥裴守謙・澤州太守王珍皆城を以て降る。壬午、済南の水寨を攻め、これを破る。
癸未、山西を徇い、遂に三関を克ち、浹旬ならずして四十余寨を定む。兵河衞に至り、喜んで曰く、「河衞は、夷門の限りなり。河衞既に破るれば、則ち夷門守る能わざるべし」と。厳実兵を以て来り会し、自ら河衞を攻めんことを請う。天倪曰く、「合達・蒲瓦も亦勍敵なり」と。実曰く、「易与なり、公の為にこれを破るを保つ」と。明日、実蒲瓦の兵と南門に遇う。合達の兵北より奄に至る。実の兵敗れ、竟に執わるる所と為る。天倪曰く、「合達、実を以て汴に帰せば、必ず今夕ならん」と。急に馮存・杜必貴に命じ、壮士一千三百を率い、延津柳渡に伏せしむ。果たして夜、実を縛って延津を過ぐるに、存等に遇い、戦う、これを敗る。実脱して帰るを得、必貴戦死す。未だ幾ばくもせず、帝命じて天倪軍を回して真定に至らしむ。
甲申の夏、大名総管彭義斌、宋兵を以て河朔を犯す。天倪恩州にて逆戦し、義斌敗れ、大名に入り保つ。乙酉、師還る。武仙の党が西山の腰水・鉄壁の二寨を拠りて叛くを聞く。天倪直ちにその巣穴を擣ち、尽く掩い殺す。仙怒り、乱を謀る。乃ち宴を設け天倪を邀う。その謀りを知る者あり、天倪を止めて往く毋からしむ。天倪従わず、遂に仙の為す所と為りて殺さる。
天倪が真定に赴いたとき、秉直は密かに戒めて言った。「武仙の言葉の調子を見ると、結局は我々のために働くことはないだろう。備えるべきである。」天倪は言った。「私は真心をもって人に接している。人がもし私を裏切るならば、天が必ず許さない。どうかご心配なく。」秉直はそこで孫の楫と権を連れて北京に帰った。この時になって、人々はその先見の明に感服した。先に、天倪が蹴鞠をして夜に帰ったとき、大きな星が馬の前に落ちて音がしたので、心に嫌な予感がしたが、果たして禍に遭ったのである。天倪が死んだとき、年は三十九であった。妻の程氏は、乱を聞いて賊に辱められるのを恐れ、自殺した。子は五人、そのうち三人はまだ幼く、皆難に死に、ただ楫と権が生き残った。
楫は字を大済という。歳己亥(1239年)、中山府の知事となった。まもなく征南行軍萬戸翼経略に昇進し、蘄州・黄州の地を巡行して占領し、士卒をよく慰撫し、向かうところ功があった。壬寅(1242年)、天澤が楫を引き連れて太宗に拝謁し、上奏して言った。「臣の兄天倪が国事に殉じたとき、二人の子はまだ幼かったので、臣は詔を受けて府の事務を代行して参りました。今、楫はすでに成人いたしました。どうか職を解いて彼に授けてください。」帝は賞賛して嘆息し言った。「今、官職を争う者は多く、官職を譲る者は少ない。卿のこの行いは大いに賞賛すべきである。朕は自ら官を彼に与えよう。」即座に楫を真定兵馬都総管とし、金虎符を佩用させた。
子の炫は常徳管軍総管、煇は孟州知州、燧は東昌府同知、煊は潼関提挙、煬は広西按察司僉事となった。
至元六年(1269年)、宮廷に召し出され、南征の策を問われた。答えて言った。「襄陽は江陵の屏障であり、樊城は襄陽の外郭です。我が軍がもし先に樊城を攻めれば、襄陽は支えることができず、戦わずして自ら降伏するでしょう。その後、嘉定に兵を駐め、淮・泗に武威を輝かせれば、事は必ず成就します。」帝はその計略を良しとした。
至元七年(1270年)、宋軍が辺境を侵したので、権は兵を率いて荊子口に向かい、大破した。帝は白金五百両を賜ったが、権は全て分けて士卒を労った。宋の将軍夏貴が船万艘に壮士を乗せて江面を奪おうとしたので、権は進撃してこれを破り、帝は衣幣・弓矢・鞍勒を賜った。まもなく随州に糧食を輸送していると、夏貴が再び兵を率いて我が軍の前路を扼したので、権は戦ってこれを破り、白金七百両を賜った。制により河南等路宣撫使に任じられたが、まだ就任しないうちに、金虎符を賜り、江漢大都督を充てられ、軍馬を総制し、屯田萬戸を総管した。ちょうど天澤が一門が兵権と民政の権柄を兼ねてはならないと言ったので、権は鎮国上将軍・真定等路総管兼府尹に任じられた。東平に転じ、また河間に転じた。死去。
樞は字を子明という。父の天安は字を全甫といい、秉直の次男である。歳癸酉(1213年)、秉直に従って降伏した。太師木華黎はその兄の天倪を萬戸としたが、天安を軍中に人質とした。丁丑(1217年)、錦州の反乱者張致を討伐し、平定した。己卯(1219年)、関右の地を攻略し、鄜州の勇将で張鉄槍と号する張資祿を生け捕りにした。乙酉(1225年)、武仙が真定で天倪を殺害したので、天安は衆を率いて天澤のもとに来て合流し、力を合わせて武仙を攻め、敗走させた。功により行北京元帥府事を授かり、真定を治撫した。
庚寅(1230年)、宋が邢州の西山に兵を集め、武仙の援軍と称し、その徒の趙和を城中に間者として送り込み、副官の李甲・劉清が内応して投降の意思を示したと誣告した。守将は二人を械にかけて府に送り、大帥は急いで誅殺するよう命じた。天安はその詐りを推し量り、自ら取り調べることを請うた。果たしてその実情を得たので、趙和を斬って見せしめにした。壬辰(1232年)、金討伐に従軍した。軍が帰還すると、大盗の梁満・蘇傑らを討ち、全て平定した。甲午(1234年)、真定等路萬戸を宣し権任され、金符を賜った。丙午(1246年)、入朝し、黄金五十両・白狐裘一領・牝馬百頭を賜った。乙卯(1255年)に死去。
樞は二十余歳で、勲臣の子として中山府の知事となり、治績があった。甲寅(1254年)、初めて新軍を登録したとき、天澤は長兄の二人の子はそれぞれ官位があるが、次兄の子はまだ仕官していないとして、樞を征行萬戸に奏上し、真定・彰徳・衞州・懐孟の新軍を配属し、唐州・鄧州を守備させた。乙卯(1255年)、漢水の鴛鴦灘で宋の水軍を破り、金虎符を賜った。
戊午(1258年)、憲宗が宋を討伐し、蜀から侵入した。天澤に従って行在所に赴き、大散関で帝に拝謁した。帝は労って言った。「卿は長く東方を鎮守し、今また遠くから来た。その勤めもまた極まりない。」樞は答えて言った。「臣の祖父・父は国の厚恩を受けました。今、陛下自ら六師を御し、万里の外にご苦労なさっているのに、臣ひとり死力を尽くして、その万が一にも報いることができましょうか!」帝はその言葉に感奮し、前鋒とするよう命じた。宋が劍州を立て、苦竹崖に仮の治所を置いていた。前は絶澗に阻まれ、深さ数百尺で、険しさを頼みに備えをしていなかった。帝は樞に偵察させた。樞は健卒数十人を率い、縄で下り、そこに軍を進めるべき場所を得て報告した。帝は樞に急いでそれを取るよう促した。宋人は恐れて降伏した。翌日、大宴会が開かれ、帝は皇后を顧みて、樞に酒を賜るよう命じ、かつ新たに降附した渠帥たちに諭して言った。「我が国が創業以来、皇后が臣下に酒を賜ったことはない。特に樞父子が代々忠貞を篤くしているので、殊礼をもって寵遇するのである。国事に力を尽くす者があれば、礼もまたこのようになろう。」
己未(1259年)、天澤に従い嘉陵江で宋の将軍呂文徳を撃破し、重慶まで追撃して帰還し、黄金五十両・白金二百両・錦一匹を賜った。
至元四年、宋兵開・達諸州を囲む。枢を以て左壁総帥と為し、虎符を佩かしむ。凡そ河南・山東・懐孟・平陽・太原・京兆・延安等の軍悉くこれを統べしむ。宋兵これを聞き、解き去る。
六年、高麗人金通精、珍島に拠り以て叛く。これを討つこと歳余、下らず。七年、枢を進めて昭勇大将軍・鳳州経略使と為す。枢至り、諸将佐に謂いて曰く、「賊勢方に張り、力を以て勝つ易からず。況んや炎暑海気蒸欝し、弓力弛弱して、猝かに用うべからず。軍を分かち三と為し、旗幟を多く張りて以てこれを疑わすべし。吾諸君と潜師してその巣穴を擣てば、これを破る必ずせん」と。戦い、これを大いに破り、その地悉く平ぐ。
子煥、昭勇大将軍・後衛親軍都指揮使、金虎符を佩く。燁、奉訓大夫・秘書少監。
史天祥
史天祥、父は懐徳、尚書秉直の弟なり。歳癸酉、太師・国王木華黎、太祖に従い金を伐つ。天祥、秉直に随い涿に迎えて降る。木華黎、懐徳を命じて就きてその黒軍を領せしめ帳下に隷し、天祥を都鎮撫に署す。降卒の長身武勇なる者二百人を選び、これを領せしむ。丁壮を招徠し、衆万余を得、従いて覇州・文安・大城・滄濱・長山等二十余城を取り、東下して淄・沂・密の三州を下す。至る所皆先登す。詔して銀符を以て賜う。大軍に従い燕を攻むるも、克たず。
甲戌、高州に地を略し、恵和・金源・和衆・龍山・利・建・富庶等十五城を抜く。惟だ大寧固守して下らず。天祥、金の将完顔胡速を獲る。木華黎これを殺さんとす。天祥曰く、「一人を殺すも敵に損なうこと無く、適に天下の人を駆りて吾が敵と為さん。且つその降る時嘗て不死を許す。今これを殺せば、後に信を取る無し。従いてこれを用うるに若かず」と。乃ち千戸と為す。復た衆を合してその城を攻む。懐徳先登し、その二将を擒うるも、流矢に中り、軍に歿す。乃ち統ぶる所の黒軍を以て、天祥を命じてこれを領せしむ。
天祥その父の死を憤痛し、これを攻むること愈急なり。乙亥、大帥烏野児とともにその北京留守銀答忽・同知烏古倫を降す。北京傍近の諸寨を進攻す。磨雲山の王都統首めて軍門に詣り降る。天祥命じて崖に入り列し、都統不剌を擒う。その縛を釈し、仍て大義を以て暁す。不剌感泣し、願わくば死を効さんとす。天祥その誠を察し、王都統とともに往きて城子崖の王家奴を説き降さんことを許す。乃ち三人を命じて各々旧卒を将とし、空名告身を付し、楼子崖等二十余寨を諭して悉く降らしむ。老幼数万・勝兵八千を得る。西乾河の答魯・五指山の楊趙奴独り固守して下らず。天祥これを撃つこと大小百余戦、趙奴死し、答魯敗走す。戸二万を得る。西山総帥兵馬を授く。興州節度使趙守玉反す。天祥烏野児と分道してこれを討平す。答魯復た衆を聚めて龍山を攻む。槊を以て烏野児の胸を刺し、随って馬より墮つ。天祥馳せ救いて免れしめ、復た陣を整えて出戦し、これを大いに敗り、首級八千を斬る。答魯戦死す。進んで中興府を克つ。
張致、錦州を盗み拠る。木華黎に従いこれを討平す。契丹漢軍関肅を擒うるに会し、復た利州し、銀治に於いて劉禄を殺し、首級五十を斬る。尖山・香炉・紅螺・塔山・大虫・駱駝・団崖諸寨悉く平ぎ、生口万余を虜い、錦州の旧将杜節を得、并せて黒軍五百人、即ち命じてこれを統べしむ。
丙子春、魚児濼に於いて太祖に覲し、金符を賜い、提控元帥を授く。蓋・金・蘇・復等州を抜き、金の完顔奴・耶律神都馬を獲る。鎮国上将軍・利州節度使・所部降民都総管・監軍兵馬元帥に遷す。丁丑夏、山賊祁和尚、武平に拠る。これを討平す。金の将巣元帥を縛す。また興州の車河に於いて重児の盗衆万人を滅す。己卯、権兵馬都元帥と為し、蒙古・漢軍・黒軍並びに節制を聴かしむ。河東・平陽・河中・岢嵐・絳・石・隰・吉・廓等八十余城を下す。
庚辰、真定に至る。木華黎天祥をして城を攻めしむ。天祥因りて請いて曰く、「これを攻むれば恐らくは無辜に及びて戮せん。往きてこれを諭すに若かず。苟もその従わざれば、兵を加うるも未だ晩からず」と。木華黎これを許す。天祥往きて守将武仙を見、禍福を以て諭す。仙悟り、乃ち降る。吾也而天祥を留めて真定を守らしめんと請う。木華黎曰く、「天下未だ定まらず、智勇士左右を離るべけんや。吾将に別にこれを処せん」と。乃ち秉直の子天倪を河北西路兵馬都元帥と為し真定を鎮め、天祥を左副都元帥と為し、余は故の如くし、兵を引いて南に屯し邢西遙水山下に在り。仙の兄貴、万人を以て山上に壁す。固に負いて下らず。天祥、完顔胡速及び黒軍百人を携え、鳥道より扳援して上り、尽くこれを掩捕す。仙驚いて曰く、「公若し羽翼有る者の如し。然らずんば、何ぞ其れ能くせんや」と。遂に邢・磁・相の三州を下す。黄龍岡に従い戦い、単・勝・兗の三州を破る。
木華黎東平を囲むこと久しく下らず。吾也而の尽力せざるを怒り、将に手ずからこれを斬らんとす。天祥代わりて攻めんことを請う。木華黎喜び、皮甲一を付し、また己が鉄鎧とともにこれを被らしめ、鏖戦已まず。木華黎人をしてこれを止めて曰く、「爾力竭けり。宜しく少しく休むべし」と。復た金鞍名馬をこれに与う。辛巳、従いて綏徳・鄜・坊等五十余城を取る。壬午、木華黎青龍・金勝諸堡を攻む。花帽軍堅守して下らず。既に破り、これを屠らんと欲す。天祥力諫して止む。壮士五千人を得る。
癸未の春、軍を河中に還し、木華黎がその功を上奏すると、金虎符を賜わり、蒙古漢軍兵馬都元帥に任じられ、十二万戸を総轄し、河中を鎮守した。冬、西夏を巡行し、賀蘭山を破った。帰還の途上、賊に遭遇し、額を射られて負傷し、出血し、目がかすんだ。甲申、北京に帰還し、右副北京等七路兵馬都元帥に任じられた。庚寅、太宗に盧朐河で謁見し、致仕を乞うたが、許されなかった。辛卯、太宗が河南に用兵するに際し、強いて従軍させられ、河上で転漕を担当し、諸軍に糧秣を供給した。
壬辰、天祥に汴京の百工数千を率いさせ、霸州の益津に駐屯させ、行元帥府事を執らせ、錦衣一襲を賜わった。かつて、天祥は夜中に流れ矢を受け、鏃が頰骨に刺さって抜けなかったが、この時、金瘡が再発し、鏃が口から出た。睿宗はこれを聞いて哀れみ、海濱和衆利州等処総管に任じ、兼ねて霸州御衣局人匠都達魯花赤を領せしめ、行北京七路兵馬都元帥府事を執らせた。憲宗が即位すると、旧職のままにさせた。戊午の秋九月、病により卒去した。享年六十八。
天祥は幼少より大志を抱き、背が高く肋骨が密に並び、力は人に抜きん出ており、酒を嗜まず、農耕を好み、施しを好んだ。乙未の戸籍調査の際、その奴隷千余口を解放し、平民とした。晩年は目が見えなくなったが、国を憂い民を愛する心は、一度も忘れることがなかった。
子の彬は江東提刑按察副使、槐は霸州御衣局人匠都達魯花赤を襲職した。