元史

列傳第三十三:耶律楚材・粘合重山・楊惟中

耶律楚材(子の鑄を附す)

耶律楚材、字は晉卿、遼の東丹王突欲の八世孫。父の履は、学問と行いをもって金の世宗に仕え、特に親任を受け、尚書右丞に終わる。

楚材は三歳で孤となり、母の楊氏が学問を教えた。成長すると、群書に博く通じ、天文・地理・律暦・術数及び仏教・道教・医術・卜筮の説に旁通し、筆を下して文を作れば、あたかも前もって構想したかのようであった。金の制度では、宰相の子は例として省掾に試補される。楚材は進士科を受験しようとしたが、章宗は詔して旧制の通りとさせた。疑わしい獄事数件について問うたところ、当時同試者は十七人であったが、楚材の答弁が特に優れていたため、遂に掾に辟召された。後に開州同知として仕えた。

貞祐二年、宣宗が汴に遷都し、完顏福興が尚書事を行い、燕に留守し、左右司員外郎に辟召した。太祖が燕を平定し、その名を聞き、召して面会した。楚材は身長八尺、美髯で声が大きく響いた。帝はこれを偉しとして言う、「遼と金は代々の仇である。朕が汝のためにこれを雪ごう。」と。答えて言う、「臣の父祖はかつて身を委ねてこれに仕えました。既にその臣となった以上、敢えて君を仇とすることなどできましょうか。」帝はその言葉を重んじ、左右に置き、遂に楚材を吾図撒合里と呼んで名を呼ばず、吾図撒合里とは、国語(モンゴル語)で長髯の人という意味である。

己卯の夏六月、帝は西征して回回国を討った。旗を祭る日に、雨雪が三尺降り、帝はこれを疑った。楚材は言う、「玄冥の気が盛夏に現れたのは、敵を克つ徴候です。」庚辰の冬、大雷があり、また問うた。答えて言う、「回回国の主は野に死ぬでしょう。」後になっていずれも験があった。夏人の常八斤は、弓造りが上手いことで帝に知られ、それゆえにしばしば自ら誇って言った、「国家は今まさに武力を用いる時である。耶律のような儒者に何の役があろうか。」楚材は言う、「弓を治めるにも尚お弓匠を用いる。天下を治める者であれば、天下を治める匠を用いないことがあろうか。」帝はこれを聞いて大いに喜び、日に日に親しく用いるようになった。西域の暦術者が奏上して、五月十五日の夜に月蝕があると言った。楚材は言う、「否。」結局蝕はなかった。翌年十月、楚材が月蝕があると言うと、西域人は無いと言い、期日になると果たして八分蝕した。壬午八月、長星が西方に現れた。楚材は言う、「女直が主を替えようとしている。」翌年、金の宣宗が果たして死んだ。帝は征討のたびに必ず楚材に占わせ、帝もまた自ら羊の肩甲骨を焼いて占い、符合するのを確かめた。楚材を指して太宗に言う、「この人は、天が我が家に賜った者である。爾後、軍国の諸政は全て彼に委ねよ。」甲申、帝が東印度に至り、鉄門関に駐蹕した時、一角獣がおり、形は鹿のようで馬の尾、その色は緑、人の言葉を発し、侍衛の者に言う、「汝が主は早く還るがよい。」帝が楚材に問うと、答えて言う、「これは瑞獣で、その名は角端といい、四方の言葉を話し、生を好み殺すことを憎む。これは天が符を降して陛下に告げているのです。陛下は天の元子、天下の人々は皆陛下の子です。天の心を承けて、民命を全うされることを願います。」帝は即日、軍を返した。

丙戌の冬、霊武を下すのに従軍した。諸将は子女や金帛を争って奪い取ったが、楚材だけは遺書と大黄の薬材を収集した。やがて士卒が疫病にかかった時、大黄を得るとたちまち治った。帝は西方の地を経営するのに忙しく、制度を定める暇がなく、州郡の長吏は生殺を思いのままにし、ついには人の妻子を奴隷にし、財貨を奪い、土地を併せ取るに至った。燕薊留後長官の石抹咸得卜は特に貪暴で、人を殺して市を満たした。楚材はこれを聞いて涙を流し、すぐに入奏し、州郡に対し、璽書を奉じない限り勝手に徴発することを禁じ、大辟に当たる囚人は必ず上奏を待って報せを受けること、違反者は死罪とするよう請うた。これにより貪暴の風はやや収まった。燕には多くの大賊がおり、日が暮れぬうちから牛車を引いて富家に行き、その財物を奪い、与えなければ殺した。時に睿宗が皇子として国政を監理しており、事が聞こえると、中使を遣わして楚材と共に徹底的に取り締まらせた。楚材が尋ね察してその姓名を得ると、皆、留後の親族や権勢家の子弟であった。ことごとく捕らえて獄に下した。その家族が中使に賄賂を贈り、これを緩めようとしたが、楚材が禍福の道理を示したので、中使は恐れ、その言葉に従った。獄が決し、十六人を市中で処刑すると、燕の民はようやく安堵した。

己丑の秋、太宗が即位しようとした時、宗族親戚が皆集まったが、議論はまだ決しなかった。時に睿宗は太宗の実弟であったので、楚材は睿宗に言う、「これは宗廟社稷の大計です。早く定めるべきです。」睿宗が言う、「事はまだ整っていない。別の日を選んではどうか。」楚材は言う、「これを過ぎれば吉日はありません。」遂に策を定め、儀礼制度を立て、親王の察合台に告げて言う、「王は兄ではありますが、位は臣です。礼として拝すべきです。王が拝すれば、敢えて拝さない者はいません。」王は深くこれを然りとした。即位の時、王は皇族及び臣僚を率いて帳の下で拝礼した。退出した後、王は楚材の背を撫でて言う、「真の社稷の臣である。」国朝において尊属が拝礼するのはこれが始まりである。時に朝集に遅れて死罪に当たる者が多かった。楚材が奏上して言う、「陛下は新たに即位されました。これを赦すべきです。」太宗はこれに従った。

中原がようやく平定され、民は多く誤って禁網に触れたが、国法には赦令がなかった。楚材が肆赦(大赦)を請うて議すると、衆人は迂遠だと言ったが、楚材は独り落ち着いて帝に言上した。詔して庚寅年正月朔日以前の事は問わないこととした。また便宜十八事を条陳して天下に頒布した。その概略は、「郡には長吏を置いて民を治めさせ、万戸を設けて軍を総括させ、勢力を均しくして互いに牽制させ、驕横を抑えるべきである。中原の地は財用の出所であるから、その民を慈しみ労わるべきであり、州県は上命を奉じずに敢えて勝手に科差を行う者はこれを罪す。貿易や借貸で官物を扱う者はこれを罪す。蒙古・回鶻・河西の諸人が、地を耕して税を納めない者は死罪。監守が自ら官物を盗む者は死罪。死罪に当たる者は、事由を具えて申奏し、報せを待ってから刑を執行す。貢献の礼物は害が軽くないので、深く禁断すべきである。」帝は全て従ったが、貢献の一事だけは許さず、言う、「彼らが自ら進んで饋献するのは、聞き届けるべきである。」楚材は言う、「弊害の端は、必ずここから起こります。」帝は言う、「卿が奏上することは、従わないことはない。卿は朕の一事に従えないのか。」

太祖の世、毎年西域に出兵し、中原を経営する暇がなく、官吏は多く私利を貪り、蓄財は巨万に至ったが、官には蓄えがなかった。近臣の別迭らが言う、「漢人は国に益がない。その人々を全て追い出して牧草地にすべきである。」楚材は言う、「陛下は南伐なさろうとしています。軍需は資する所がなければなりません。誠に中原の地税・商税・塩・酒・鉄冶・山沢の利を均等に定めれば、毎年銀五十万両・帛八万匹・粟四十余万石を得ることができ、供給に十分です。何を以て益がないと言いましょうか。」帝は言う、「卿、朕のためにこれを実行せよ。」そこで燕京など十路に課税使を立てることを奏上し、長官・次官は全て士人を用い、陳時可・趙昉などのような寛厚な長者を、天下の選りすぐりとし、参佐には全て省部の旧人を用いた。辛卯の秋、帝が雲中に至ると、十路は皆、倉庫の帳簿と金帛を廷中に進呈して並べた。帝は笑って楚材に言う、「汝は朕の左右を離れないのに、国用を充足させることができる。南国の臣にまた卿のような者がいるか。」答えて言う、「あちらにいる者は皆、臣より賢い者ばかりです。臣は不才ですので、燕に留まり、陛下のために用いられているのです。」帝はその謙譲を嘉し、酒を賜った。即日、中書令に任じ、事の大小を問わず、全て先ず彼に報告させた。

楚材上奏す:「凡そ州郡は長吏に民事を専ら治めさせ、万戸は軍政を総べ、凡そ掌る課税は、権貴侵すべからず。」また鎮海・粘合を挙げ、皆これと同事とし、権貴平らかならず。咸得卜は旧怨を以て、特にこれを疾み、宗王に譖りて曰く:「耶律中書令は率ね親旧を用う、必ず二心あり、奏してこれを殺すべし。」宗王使いを遣わして以て聞かしむ、帝その誣を察し、使者を責め、罷めてこれを遣わす。属に咸得卜の不法を訟うる者あり、帝楚材に命じてこれを鞫せしむ、奏して曰く:「この人倨傲なり、故に謗を招き易し。今南方に事有らんとす、他日にこれを治むるも未だ晩からず。」帝私に侍臣に謂いて曰く:「楚材は私讎を較べず、真に寛厚の長者なり、汝曹これに效うべし。」中貴可思不花、金銀を採る役夫及び西域に種田する者と蒲萄を栽うる戸を奏す、帝西京宣徳に於いて万餘戸を徙してこれを充てしむ。楚材曰く:「先帝の遺詔に、山後の民質朴にして、国人に異ならず、緩急用うべし、軽く動かすべからずと。今河南を征せんとす、請う民を残さずしてこの役に給せんことを。」帝その奏を可とす。

壬辰の春、帝南征し、将に河を渉らんとす、詔して逃難の民、来降する者は死を免ず。或いは曰く:「この輩は急なれば降り、緩なれば走る、徒らに敵に資するのみ、宥すべからず。」楚材旗数百を製し、降民に給し、田里に帰らしむるを請う、全活すること甚だ衆し。旧制、凡そ城邑を攻むるに、敵矢石を以て相加うれば、即ち拒命と為し、既に克つ、必ずこれを殺す。汴梁将に下らんとす、大将速不台使いを遣わして来たり言う:「金人抗拒持久し、師多く死傷す、城下の日、宜しくこれを屠るべし。」楚材馳せ入りて奏して曰く:「将士数十年暴露し、欲する所は土地人民のみ。地を得て民無くば、将に焉にかこれを用いん!」帝猶して未だ決せず、楚材曰く:「奇巧の工、厚蔵の家、皆ここに萃まる、若し尽くこれを殺さば、将に獲る所無からん。」帝これを然とし、詔して罪は完顔氏に止め、余は皆問う勿れと。時に兵を避けて汴に居る者百四十七万人を得たり。

楚材また人を遣わし城に入り、孔子の後を求め、五十一代の孫元措を得、襲封衍聖公を奏し、林廟の地を付す。太常の礼楽生を収め、及び名儒梁陟・王万慶・趙著等を召し、九経を直に釈せしめ、東宮に進講せしむるを命ず。また大臣の子孫を率い、経を執り義を解かしめ、聖人の道を知らしむ。編修所を燕京に、経籍所を平陽に置く、ここにより文治興る。

時に河南初めて破れ、俘獲甚だ衆く、軍還るや、逃ぐる者十に七八。旨有り:「逃民を居停し及び資給する者は、その家を滅ぼし、郷社も亦連坐す。」ここにより逃ぐる者は敢えて舎る莫く、多く道路に殍死す。楚材従容として進みて曰く:「河南既に平らぎ、民皆陛下の赤子なり、走りて復た何にか之かん!奈何ぞ一の俘囚に因りて、数十百人を連ねて死せしめんや」帝悟り、その禁を除くを命ず。金の亡ぶるや、唯だ秦・鞏の二十餘州久しく未だ下らず、楚材奏して曰く:「往年吾民罪を逃れ、或いはここに萃まる、故に死を以て戦いを拒ぐ、若し不殺を許さば、将に攻めずして自ら下らん。」詔下り、諸城皆降る。

甲午、中原の民を籍するを議す、大臣忽都虎等議し、丁を以て戸と為す。楚材曰く:「不可なり。丁逃ぐれば、則ち賦出す所無く、当に戸を以てこれを定むべし。」これを再三争い、卒に戸を以て定む。時に将相大臣に駆獲する所有り、往往諸郡に寄留す、楚材戸口を括するに因り、並びに民と為すを令し、匿占する者は死す。

乙未、朝議四征して廷にせざる者を将にす、若し回回人を遣わして江南を征し、漢人を遣わして西域を征せば、深く制御の術を得んとす、楚材曰く:「不可なり。中原・西域相去ること遼遠、未だ敵境に至らざるに、人馬疲乏し、兼ねて水土異宜、疾疫将に生ぜんとす、宜しく各その便に従うべし。」これに従う。

丙申の春、諸王大いに集い、帝親しく觴を執り楚材に賜いて曰く:「朕の誠を推し卿を任ずる所以は、先帝の命なり。卿に非ざれば、則ち中原今日無からん。朕の安枕を得る所以は、卿の力なり。」西域諸国及び宋・高麗の使者来朝す、語多く実ならず、帝楚材を指してこれに示し曰く:「汝が国にこの如き人有るか?」皆謝して曰く:「有らず。殆ど神人のごときか!」帝曰く:「汝等唯だこの言妄らざるのみ、朕も亦度るに必ずこの人無からんとす。」于元なる者有り、交鈔を行わんことを奏す、楚材曰く:「金章宗の時初めて交鈔を行い、銭と通行す、有司鈔を出すを利と為し、鈔を収むるを諱り、これを老鈔と謂い、万貫を以て唯だ一餅を易うるに至る。民力困竭し、国用匱乏す、当に鑒戒と為すべし。今交鈔を印造するは、宜しく万錠を過ぐべからず。」これに従う。

秋七月、忽都虎民籍を以て至る、帝州県を裂き親王功臣に賜わんことを議す。楚材曰く:「土を裂き民を分かちば、嫌隙を生じ易し。多く金帛を以てこれに与うるに如かず。」帝曰く:「已に許す奈何。」楚材曰く:「若し朝廷吏を置き、その貢賦を収め、歳終りにこれを頒ち、擅に科徴せしめざらば、可なり。」帝その計を然とし、遂に天下の賦税を定む、毎に二戸絲一斤を出だし、以て国用に給し、五戸絲一斤を出だし、以て諸王功臣の湯沐の資に給す。地税は、中田毎畝二升半、上田三升、下田二升、水田毎畝五升、商税は三十分の一、塩価は銀一両に四十斤。既に常賦を定め、朝議以て太軽と為す、楚材曰く:「法を涼に作り、その弊猶お貪り有り、後将に利を以て進む者有らん、則ち今已に重し。」

時に工匠の制造、官物を糜費し、十に私すこと八九、楚材皆これを考覈し、以て定制と為さんことを請う。時に侍臣脱歓天下の室女を簡せんことを奏す、詔下る、楚材これを尼みて行わず、帝怒る。楚材進みて曰く:「向に美女二十有八人を択び、使令に備うるに足れり。今復た選抜せば、臣民を擾わすを恐れ、覆奏せんと欲するのみ。」帝良久にして曰く:「これを罷むべし。」また民の牝馬を収めんと欲す、楚材曰く:「田蠶の地は、馬の産する所に非ず、今若しこれを行わば、後必ず人の害と為らん。」またこれに従う。

丁酉、楚材奏して曰く:「器を制する者は必ず良工を用い、成を守る者は必ず儒臣を用う。儒臣の事業は、数十年を積まざれば、殆ど未だ易く成し難し。」帝曰く:「果して爾らば、その人を官すべし。」楚材曰く:「請うこれを校試せん。」乃ち宣德州宣課使劉中に命じ郡に随い考試せしめ、経義・詞賦・論を以て三科に分かち、儒人俘われて奴と為る者も、亦令して就試せしめ、その主匿みて遣わさざる者は死す。士を得ること凡そ四千三十人、奴と為るを免くる者四分の一。

先に、州郡の長吏多く賈人の銀を借りて以て官に償い、息数倍を累ね、羊羔児利と曰い、妻子を奴と為すに至り、猶お償うに足らず。楚材本利相侔うて止むを令し、永く定制と為し、民間の負う所は、官代わってこれを償わんことを奏す。一衡量に至り、符印を給し、鈔法を立て、均輸を定め、遞伝を布き、驛券を明らかにし、庶政略備わり、民稍蘇息す。

二人の道士が先後を争い、互いに徒党を立て、その一方が仇敵の徒党の二人を逃亡兵と誣告し、宦官及び通事の楊惟忠と結託して、彼らを捕らえて虐殺した。耶律楚材は惟忠を逮捕した。宦官がまた楚材が制度に違反したと訴えると、帝は怒り、楚材を拘束した。やがて自ら後悔し、釈放を命じた。楚材は縄を解くことを肯ぜず、進み出て言った。「臣は公輔の位に備わり、国政は臣に属しております。陛下が初めに臣を拘束されたのは、罪があるからで、百官に明示し、罪は赦さぬべきでした。今臣を釈放されるのは、無罪だからです。どうして軽々しく反覆し、小児を弄ぶようになさいますか。国に大事があれば、どうして行いましょうか。」皆が顔色を失った。帝は言った。「朕は帝たるも、過ちのないことがあろうか。」そこで温かな言葉で慰めた。楚材はそこで時務十策を陳べた。すなわち、賞罰を信実にし、名分を正し、俸禄を与え、功臣を官とし、殿最を考課し、科差を均しくし、工匠を選び、農桑に務め、土貢を定め、漕運を制することである。皆時務に切実で、悉く施行された。

太原路転運使の呂振・副使の劉子振が、贓罪により罪に当たった。帝は楚材を責めて言った。「卿は孔子の教えが行え、儒者は善人だと言ったのに、どうしてこのような輩があるのか。」答えて言った。「君父が臣子を教えるにも、不義に陥れることを望みません。三綱五常は聖人の名教で、国を有つ者はこれによらぬ者はなく、天に日月があるようなものです。どうして一人の過失のゆえに、万世常に行われる道が我が朝においてのみ廃されることがありましょうか。」帝の意はようやく解けた。

富人の劉忽篤馬・涉獵発丁・劉廷玉らが銀百四十万両で天下の課税を請負おうとした。楚材は言った。「これは利を貪る輩で、上を欺き下を虐げ、害甚だ大である。」奏上してこれを罷めさせた。常に言った。「一利を興すは一害を除くに如かず、一事を生ずるは一事を省くに如かず。任尚が班超の言葉を平平たるものとしたが、千古の下、自ら定論がある。後に譴責を受ける者が、ようやく我が言の妄りでないことを知るであろう。」帝は元来酒を嗜み、日々大臣と酣飲した。楚材は屡々諫めたが聞き入れられず、酒槽の鉄の口を持って進み出て言った。「麹糵は物を腐らせます。鉄でさえこのようであるのに、まして五臓においておや。」帝は悟り、近臣に語って言った。「汝らが君を愛し国を憂うる心に、我が図撒合里(楚材の蒙古名)の如き者があろうか。」金帛を賞与し、近臣に命じて日々酒を三鍾進めるのみで止めさせた。

庚寅年(1230)に課税の基準を定めて以来、甲午年(1234)に河南を平定するまで、歳ごとに増加し、戊戌年(1238)には課税銀は百十万両に増加した。訳史の安天合という者が、鎮海に諂い事え、まず奥都剌合蛮を引き立てて課税を請負わせ、さらに二百二十万両に増加させた。楚材は極力弁明し諫め、声色ともに厳しくなり、言葉と涙がともに流れた。帝は言った。「お前は搏鬪しようというのか。」また言った。「お前は百姓のために泣こうというのか。暫く試しに行わせよ。」楚材は力及ばず止められず、嘆息して言った。「民の困窮は、ここから始まるであろう。」

楚材はかつて諸王と宴し、酔って車中に臥していた。帝が平野に臨んでこれを見、直ちにその営舎に幸し、車に登って手で揺さぶった。楚材は熟睡して醒めず、ちょうど己を擾わすことを怒っていた。ふと目を開けて見て、初めて帝の来られたことを知り、驚いて起きて謝した。帝は言った。「酒があって独りで酔い、朕とともに楽しまないのか。」笑って去った。楚材は冠帯する暇もなく、馳せて行宮に詣でた。帝は酒を設け、極めて歓び終わった。

楚材が国政を執ること久しく、得た俸禄は親族に分け与え、未だ私的に官職を与えたことはなかった。行省の劉敏が穏やかにそのことを言うと、楚材は言った。「親族を睦まじくする義は、ただ金帛で資するべきである。もし政に従わせて法に違うならば、私は私恩に殉ずることはできない。」

歳辛丑(1241)二月三日、帝の病篤く、医者が脈は既に絶えたと言った。皇后はどうすべきか分からず、楚材を召して問うた。答えて言った。「今任用する者人に非ず、官を売り獄を売り、罪なき者が多く囚われております。古人は一言善ければ熒惑が退舍したと申します。天下の囚徒を赦すことを請います。」后は直ちに行おうとしたが、楚材は言った。「君命でなければなりません。」しばらくして帝が少し蘇り、そこで入奏して赦しを行うことを請うた。帝は既に言葉ができず、首肯した。この夜、医者が脈を候うと復活し、丁度赦書を宣読する時であった。翌日、帝は癒えた。冬十一月四日、帝が狩猟に出ようとした。楚材が太乙数で推し、急いで不可であると言った。左右は皆言った。「騎射しなければ、楽しみがありません。」五日間狩猟し、帝は行在所で崩御した。皇后乃馬真氏が称制し、姦回を崇信したため、諸政多く紊れた。奥魯剌合蛮は財貨で政柄を得、朝廷中は皆畏れてこれに附した。楚材は面折廷争し、人の言い難きことを言い、人皆彼を危ぶんだ。

癸卯年(1243)五月、熒惑が房宿を犯した。楚材が奏上して言った。「驚擾があるべきですが、しかし結局何事もありません。」居ること暫くして、朝廷が兵を用い、事が倉卒に起こった。后は遂に甲冑を授け腹心を選ぶことを命じ、西遷して避けようとした。楚材が進み出て言った。「朝廷は天下の根本です。根本が一度揺らげば、天下乱れましょう。臣が天道を観るに、必ず患いはありません。」数日後に事態は鎮定した。后は御璽の空紙を奥都剌合蛮に渡し、自ら書いて記入して行わせようとした。楚材は言った。「天下は先帝の天下です。朝廷には自ら憲章があります。今これを紊そうとされるなら、臣は詔を奉ずることはできません。」事は遂に止んだ。また旨があった。「凡そ奥都剌合蛮が建白することは、令史が書かない者は、その手を断て。」楚材は言った。「国の典故は、先帝が悉く老臣に委ねられました。令史が何の関わりがありましょう。事が理に合えば、自ら奉行すべきであり、もし行えなければ、死さえも避けず、まして手を截つことなど。」后は悦ばなかった。楚材は弁論を止めず、大声をあげて言った。「老臣は太祖・太宗に事え三十余年、国に負うところなく、皇后もまた罪なくして臣を殺すことができましょうか。」后は憾んだが、先朝の旧勲であるため、深く敬い憚った。

甲辰年(1244)夏五月、在官のまま薨去した。年五十五。皇后は哀悼し、賻贈甚だ厚かった。後に楚材を讒する者がおり、彼が相位にあったこと久しく、天下の貢賦の半分がその家に入ったと言った。后は近臣の麻里扎に命じて覆視させたところ、ただ琴阮十余り、及び古今の書画・金石・遺文数千巻のみであった。至順元年(1330)、経国議制寅亮佐運功臣・太師・上柱国を贈られ、広寧王を追封され、諡は文正。子に耶律鉉・耶律鑄がいる。

耶律鑄は字を成仲といい、幼くして聡敏で、文を属することを善くし、特に騎射に巧みであった。楚材が薨じると、嗣いで中書省事を領した。時に年二十三。耶律鑄は上言して禁網を緩めるべきであるとし、遂に歴代の徳政で時宜に合うもの八十一章を採って進めた。戊午年(1258)、憲宗がしょくを征するに当たり、詔して耶律鑄に侍衛のぎょう果を領させて従わせ、屡々奇計を出して城邑を攻め落とし、尚方の金鎖甲及び内厩の驄馬を賜った。乙未年(1259)、憲宗が崩御し、阿里不哥が叛いた。耶律鑄は妻子を棄て、身を挺して朔方より来帰した。世祖はその忠を嘉し、即日召見し、賞賜優厚であった。中統二年(1261)、中書左丞相に拝された。この年冬、詔して兵を将いて北辺を備禦させ、後に兵を徴して扈従し、上都の北で阿里不哥を破った。

至元元年、光禄大夫を加えられる。法令三十七章を奏上して定め、吏民これを便とした。二年、山東に行省す。未だ幾ばくもせずして召還さる。初め、清廟の雅楽は登歌のみあり、詔して宮懸八佾の舞を鋳製せしむ。四年春三月、楽舞成る。表を上りて之を献じ、仍て大成と賜名することを請う。制して曰く「可なり」と。六月、栄禄大夫・平章政事に改む。五年、復た光禄大夫・中書左丞相を拝す。十年、平章軍国重事に遷る。十三年、詔して国史を監修せしむ。朝廷に大事有れば、必ず咨訪す。十九年、復た中書左丞相を拝す。二十年冬十月、職印を納めず、東平人の謀を聚めて逆を為すと妄奏し、幕僚を間諜し、及び罪囚阿里沙を党すに坐し、遂に罷免せられ、仍て其の家貲の半を没収し、山後に徙居す。二十二年卒す。年六十五。

子十一人:希徴、希勃、希亮、希寛、希素、希固、希周、希光、希逸(淮東宣慰使)、余は其の名を失う。至順元年、推忠保徳宣力佐治功臣・太師・開府儀同三司・上柱国・懿寧王を贈られ、文忠と諡す。

粘合重山の子、南合

粘合重山は金源の貴族なり。国初、質子たり。金の将に亡ぶるを知り、遂に質を委ぬ。太祖、畜馬四百匹を賜い、宿衛官必闍赤と為さしむ。諸国を平ぐるに従い功有り。涼州を囲み、大旗を執りて六軍を指麾す。手に流矢中るも動かず。已にして侍従官と為り、数たび内廷に侍宴するを得。因りて諫めて曰く、「臣聞く、天子は天下を以て憂と為す。憂うれば治まらざるは未だあらず。憂を忘るれば能く治むる者は未だこれ有らざるなり。酒を置きて楽を為す、此れ憂を忘るるの術なり」と。帝深く嘉納す。中書省を立て、重山に積勲有るを以て、左丞相を授く。時に耶律楚材は右丞相たり。凡そ官を建て法を立つる、賢を任じ能を使う、及び郡邑を分ち課賦を定め漕運を通じ国用を足すは、多く楚材に出で、而して重山之を佐成す。

太宗七年、宋を伐つに従い、詔して軍前行中書省事と為し、便宜を以てすることを許す。師、宋の境に入る。江淮の州邑、風に望みて款附す。重山其の民三十余万を降し、定城・天長の二邑を取り、一人も誅せず。復た中書に入りて事を視、中廐馬十匹・貫珠袍一を賜う。卒す。太尉を贈られ、魏国公に封ぜられ、忠武と諡す。

十年、詔して其の子江淮安撫使南合に嗣ぎて行軍前中書省事を行わしむ。時に大将察罕、寿春を囲み、七日にして始めて下る。其の城を屠らんと欲す。南合曰く、「降らざるは独り守将のみ。其の民何の罪か有らん」と。是に由りて免るることを得。

初め、世祖、汴に於いて宋を伐たんと軍す。南合進みて曰く、「李璮は国の厚恩を承け、一方を坐制す。然れども其の人多く詐り、叛く日無からん」と。帝も亦之を患う。中統元年、両たび宣撫使に遷る。明年、中書右丞・中興等路行中書省事を授かる。三年、秦蜀五路四川行中書省事に遷る。其の年、李璮、益都に反す。帝使いして南合に諭して曰く、「卿の言猶お耳に在り。璮果たして反せり。卿宜しく西鄙を謹守すべし」と。対えて曰く、「臣謹んで詔を受く。敢えて西鄙を以て陛下の憂と為さじ」と。明年、中書平章政事を授かる。四年、病卒す。魏国公に封ぜられ、宣昭と諡す。子、博温察児、河中府を知る。

楊惟中

楊惟中、字は彦誠、弘州の人。金末、孤童子として太宗に事え、書を読むことを知り、胆略有り、太宗之を器とす。年二十、命を奉じて西域三十余国に使し、国威を宣暢し政条を敷布し、皆な戸口を籍し吏に属せしめ、乃ち帰る。帝是に於いて大用の意有り。

皇子闊出、宋を伐つ。命じて惟中を軍前行中書省事と為す。宋の棗陽・光化等の軍、光・随・郢・復等の州、及び襄陽・徳安府を克つ。凡そ名士数十人を得、伊・洛の諸書を収めて燕都に送り、宋の大儒周惇頤の祠を立て、太極書院を建て、儒士趙復・王粹等を延いて其の間に講授せしむ。遂に聖賢の学を通じ、慨然として道を以て天下を済わんと欲す。中書令を拝す。太宗崩ず。太后称制す。惟中は一相として天下の任を負う。

定宗即位す。平陽道断事官斜徹、横恣にして法に不法なり。詔して惟中に宣慰せしむ。惟中、按じて之を誅す。金亡ぶ。其の将武仙、鄧州に潰ゆ。余党、太原・真定の間に散入し、大明川に拠り、金の開興の年号を用い、衆数万に至り、数千里を剽掠す。詔して諸道の兵を会して之を討たしむも、克たず。惟中、節を仗して開諭し、其の渠帥を降し、余党悉く平ぐ。

憲宗即位す。世祖、太弟として金蓮川に鎮まり、開府して専ら封拝するを得。乃ち河南道経略司を汴梁に立て、惟中等を奏して使と為し、唐・鄧・申・裕・嵩・汝・蔡・息・亳・潁の諸州に屯田せしむ。初め金を滅ぼす時、監河橋万戸劉福を以て河南道総管と為す。福は貪鄙残酷にして、遺民を虐害すること二十余年。惟中至り、福を召して約束を聴かしむ。福、疾と称して至らず。惟中、座に大梃を設け、復た之を召し、使いして福に謂わしめて曰く、「汝命に奉ぜずんば、吾軍法を以て事に従わん」と。福已むを得ず、数千人を以て擁衛し惟中に見ゆ。惟中即ち大梃を握りて之を撃ち仆す。数日、福死す。河南大いに治まる。陝右四川宣撫使に遷る。時に諸軍の帥、横侈にして民を病ます。郭千戸なる者尤も甚だし。人の夫を殺して其の妻を奪う。惟中、之を戮して以て徇しむ。関中粛然たり。人に語りて曰く、「吾は殺すを好むに非ず。国家の綱紀立たず、此の輩をして良民を賊害せしめ、控告する所無し。去らんと欲すと雖も、可ならんや」と。

歳己未、世祖、東師を総統す。惟中を奏して江淮京湖南北路宣撫使と為し、行臺を建てしめ、以て先ず啓行し、恩信を宣布せしむ。蒙古・漢軍諸帥並びに節制を聴かしむ。師還り、蔡州に卒す。年五十五。中統二年、追諡して忠粛公と曰す。