巻146

列傳第三十三:耶律楚材・粘合重山・楊惟中

耶律楚材(子の鑄を附す)

原文耶律楚材子鑄附

耶律楚材、字は晉卿、遼の東丹王突欲の八世孫。父の履は、学問と行いをもって金の世宗に仕え、特に親任を受け、尚書右丞に終わる。

原文耶律楚材字晉卿,遼東丹王突欲八世孫。父履,以學行事金世宗,特見親任,終尚書右丞。

楚材は三歳で孤となり、母の楊氏が学問を教えた。成長すると、群書に博く通じ、天文・地理・律暦・術数及び仏教・道教・医術・卜筮の説に旁通し、筆を下して文を作れば、あたかも前もって構想したかのようであった。金の制度では、宰相の子は例として省掾に試補される。楚材は進士科を受験しようとしたが、章宗は詔して旧制の通りとさせた。疑わしい獄事数件について問うたところ、当時同試者は十七人であったが、楚材の答弁が特に優れていたため、遂に掾に辟召された。後に開州同知として仕えた。

原文楚材生三歲而孤,母楊氏教之學。及長,博極羣書,旁通天文、地理、律曆、術數及釋老、醫卜之說,下筆為文,若宿搆者。金制,宰相子例試補省掾。楚材欲試進士科,章宗詔如舊制。問以疑獄數事,時同試者十七人,楚材所對獨優,遂辟為掾。後仕為開州同知。

貞祐二年、宣宗が汴に遷都し、完顏福興が尚書事を行い、燕に留守し、左右司員外郎に辟召した。太祖が燕を平定し、その名を聞き、召して面会した。楚材は身長八尺、美髯で声が大きく響いた。帝はこれを偉しとして言う、「遼と金は代々の仇である。朕が汝のためにこれを雪ごう。」と。答えて言う、「臣の父祖はかつて身を委ねてこれに仕えました。既にその臣となった以上、敢えて君を仇とすることなどできましょうか。」帝はその言葉を重んじ、左右に置き、遂に楚材を吾図撒合里と呼んで名を呼ばず、吾図撒合里とは、国語(モンゴル語)で長髯の人という意味である。

原文貞祐二年,宣宗遷汴,完顏(復)〔福〕興行(中)〔尚〕書事,留守燕,辟為左右司員外郎。太祖定燕,聞其名,召見之。楚材身長八尺,美髯宏聲。帝偉之,曰:「遼、金世讎,朕為汝雪之。」對曰:「臣父祖嘗委質事之,既為之臣,敢讎君耶!」帝重其言,處之左右,遂呼楚材曰吾圖撒合里而不名,吾圖撒哈里,蓋國語長髯人也。

己卯の夏六月、帝は西征して回回国を討った。旗を祭る日に、雨雪が三尺降り、帝はこれを疑った。楚材は言う、「玄冥の気が盛夏に現れたのは、敵を克つ徴候です。」庚辰の冬、大雷があり、また問うた。答えて言う、「回回国の主は野に死ぬでしょう。」後になっていずれも験があった。夏人の常八斤は、弓造りが上手いことで帝に知られ、それゆえにしばしば自ら誇って言った、「国家は今まさに武力を用いる時である。耶律のような儒者に何の役があろうか。」楚材は言う、「弓を治めるにも尚お弓匠を用いる。天下を治める者であれば、天下を治める匠を用いないことがあろうか。」帝はこれを聞いて大いに喜び、日に日に親しく用いるようになった。西域の暦術者が奏上して、五月十五日の夜に月蝕があると言った。楚材は言う、「否。」結局蝕はなかった。翌年十月、楚材が月蝕があると言うと、西域人は無いと言い、期日になると果たして八分蝕した。壬午八月、長星が西方に現れた。楚材は言う、「女直が主を替えようとしている。」翌年、金の宣宗が果たして死んだ。帝は征討のたびに必ず楚材に占わせ、帝もまた自ら羊の肩甲骨を焼いて占い、符合するのを確かめた。楚材を指して太宗に言う、「この人は、天が我が家に賜った者である。爾後、軍国の諸政は全て彼に委ねよ。」甲申、帝が東印度に至り、鉄門関に駐蹕した時、一角獣がおり、形は鹿のようで馬の尾、その色は緑、人の言葉を発し、侍衛の者に言う、「汝が主は早く還るがよい。」帝が楚材に問うと、答えて言う、「これは瑞獣で、その名は角端といい、四方の言葉を話し、生を好み殺すことを憎む。これは天が符を降して陛下に告げているのです。陛下は天の元子、天下の人々は皆陛下の子です。天の心を承けて、民命を全うされることを願います。」帝は即日、軍を返した。

原文己卯夏六月,帝西討回回國。禡旗之日,雨雪三尺,帝疑之,楚材曰:「玄冥之氣,見於盛夏,克敵之徵也。」庚辰冬,大雷,復問之,對曰:「回回國主當死于野。」後皆驗。夏人常八斤,以善造弓,見知於帝,因每自矜曰:「國家方用武,耶律儒者何用?」楚材曰:「治弓尚須用弓匠,為天下者豈可不用治天下匠耶?」帝聞之甚喜,日見親用。西域曆人奏五月望夜月當蝕。楚材曰:「否。」卒不蝕。明年十月,楚材言月當蝕,西域人曰不蝕,至期果蝕八分。壬午八月,長星見西方,楚材曰:「女直將易主矣。」明年,金宣宗果死。帝每征討,必命楚材卜,帝亦自灼羊胛,以相符應。指楚材謂太宗曰:「此人,天賜我家。爾後軍國庶政,當悉委之。」甲申,帝至東印度,駐鐵門關,有一角獸,形如鹿而馬尾,其色綠,作人言,謂侍衞者曰:「汝主宜早還。」帝以問楚材,對曰:「此瑞獸也,其名角端,能言四方語,好生惡殺,此天降符以告陛下。陛下天之元子,天下之人皆陛下之子,願承天心,以全民命。」帝即日班師。

丙戌の冬、霊武を下すのに従軍した。諸将は子女や金帛を争って奪い取ったが、楚材だけは遺書と大黄の薬材を収集した。やがて士卒が疫病にかかった時、大黄を得るとたちまち治った。帝は西方の地を経営するのに忙しく、制度を定める暇がなく、州郡の長吏は生殺を思いのままにし、ついには人の妻子を奴隷にし、財貨を奪い、土地を併せ取るに至った。燕薊留後長官の石抹咸得卜は特に貪暴で、人を殺して市を満たした。楚材はこれを聞いて涙を流し、すぐに入奏し、州郡に対し、璽書を奉じない限り勝手に徴発することを禁じ、大辟に当たる囚人は必ず上奏を待って報せを受けること、違反者は死罪とするよう請うた。これにより貪暴の風はやや収まった。燕には多くの大賊がおり、日が暮れぬうちから牛車を引いて富家に行き、その財物を奪い、与えなければ殺した。時に睿宗が皇子として国政を監理しており、事が聞こえると、中使を遣わして楚材と共に徹底的に取り締まらせた。楚材が尋ね察してその姓名を得ると、皆、留後の親族や権勢家の子弟であった。ことごとく捕らえて獄に下した。その家族が中使に賄賂を贈り、これを緩めようとしたが、楚材が禍福の道理を示したので、中使は恐れ、その言葉に従った。獄が決し、十六人を市中で処刑すると、燕の民はようやく安堵した。

原文丙戌冬,從下靈武,諸將爭取子女金帛,楚材獨收遺書及大黃藥材。既而士卒病疫,得大黃輒愈。帝自經營西土,未暇定制,州郡長吏,生殺任情,至孥人妻女,取貨財,兼土田。燕薊留後長官石抹咸得卜尤貪暴,殺人盈市。楚材聞之泣下,即入奏,請禁州郡,非奉璽書,不得擅徵發,囚當大辟者必待報,違者罪死,於是貪暴之風稍戢。燕多劇賊,未夕,輒曳牛車指富家,取其財物,不與則殺之。時睿宗以皇子監國,事聞,遣中使偕楚材往窮治之。楚材詢察得其姓名,皆留後親屬及勢家子,盡捕下獄。其家賂中使,將緩之,楚材示以禍福,中使懼,從其言,獄具,戮十六人于市,燕民始安。

己丑の秋、太宗が即位しようとした時、宗族親戚が皆集まったが、議論はまだ決しなかった。時に睿宗は太宗の実弟であったので、楚材は睿宗に言う、「これは宗廟社稷の大計です。早く定めるべきです。」睿宗が言う、「事はまだ整っていない。別の日を選んではどうか。」楚材は言う、「これを過ぎれば吉日はありません。」遂に策を定め、儀礼制度を立て、親王の察合台に告げて言う、「王は兄ではありますが、位は臣です。礼として拝すべきです。王が拝すれば、敢えて拝さない者はいません。」王は深くこれを然りとした。即位の時、王は皇族及び臣僚を率いて帳の下で拝礼した。退出した後、王は楚材の背を撫でて言う、「真の社稷の臣である。」国朝において尊属が拝礼するのはこれが始まりである。時に朝集に遅れて死罪に当たる者が多かった。楚材が奏上して言う、「陛下は新たに即位されました。これを赦すべきです。」太宗はこれに従った。

原文己丑秋,太宗將即位,宗親咸會,議猶未決。時睿宗為太宗親弟,故楚材言於睿宗曰:「此宗社大計,宜早定。」睿宗曰:「事猶未集,別擇日可乎?」楚材曰:「過是無吉日矣。」遂定策,立儀制,乃告親王察合台曰:「王雖兄,位則臣也,禮當拜。王拜,則莫敢不拜。」王深然之。及即位,王率皇族及臣僚拜帳下,既退,王撫楚材曰:「真社稷臣也。」國朝尊屬有拜禮自此始。時朝集後期應死者眾,楚材奏曰:「陛下新即位,宜宥之。」太宗從之。

中原がようやく平定され、民は多く誤って禁網に触れたが、国法には赦令がなかった。楚材が肆赦(大赦)を請うて議すると、衆人は迂遠だと言ったが、楚材は独り落ち着いて帝に言上した。詔して庚寅年正月朔日以前の事は問わないこととした。また便宜十八事を条陳して天下に頒布した。その概略は、「郡には長吏を置いて民を治めさせ、万戸を設けて軍を総括させ、勢力を均しくして互いに牽制させ、驕横を抑えるべきである。中原の地は財用の出所であるから、その民を慈しみ労わるべきであり、州県は上命を奉じずに敢えて勝手に科差を行う者はこれを罪す。貿易や借貸で官物を扱う者はこれを罪す。蒙古・回鶻・河西の諸人が、地を耕して税を納めない者は死罪。監守が自ら官物を盗む者は死罪。死罪に当たる者は、事由を具えて申奏し、報せを待ってから刑を執行す。貢献の礼物は害が軽くないので、深く禁断すべきである。」帝は全て従ったが、貢献の一事だけは許さず、言う、「彼らが自ら進んで饋献するのは、聞き届けるべきである。」楚材は言う、「弊害の端は、必ずここから起こります。」帝は言う、「卿が奏上することは、従わないことはない。卿は朕の一事に従えないのか。」

原文中原甫定,民多誤觸禁網,而國法無赦令。楚材議請肆宥,眾以云迂,楚材獨從容為帝言。詔自庚寅正月朔日前事勿治。且條便宜一十八事頒天下,其略言:「郡宜置長吏牧民,設萬戶總軍,使勢均力敵,以遏驕橫。中原之地,財用所出,宜存恤其民,州縣非奉上命,敢擅行科差者罪之。貿易借貸官物者罪之。蒙古、回鶻、河西諸人,種地不納稅者死。監主自盜官物者死。應犯死罪者,具由申奏待報,然後行刑。貢獻禮物,為害非輕,深宜禁斷。」帝悉從之,唯貢獻一事不允,曰:「彼自願饋獻者,宜聽之。」楚材曰:「蠹害之端,必由於此。」帝曰:「凡卿所奏,無不從者,卿不能從朕一事耶?」

太祖の世、毎年西域に出兵し、中原を経営する暇がなく、官吏は多く私利を貪り、蓄財は巨万に至ったが、官には蓄えがなかった。近臣の別迭らが言う、「漢人は国に益がない。その人々を全て追い出して牧草地にすべきである。」楚材は言う、「陛下は南伐なさろうとしています。軍需は資する所がなければなりません。誠に中原の地税・商税・塩・酒・鉄冶・山沢の利を均等に定めれば、毎年銀五十万両・帛八万匹・粟四十余万石を得ることができ、供給に十分です。何を以て益がないと言いましょうか。」帝は言う、「卿、朕のためにこれを実行せよ。」そこで燕京など十路に課税使を立てることを奏上し、長官・次官は全て士人を用い、陳時可・趙昉などのような寛厚な長者を、天下の選りすぐりとし、参佐には全て省部の旧人を用いた。辛卯の秋、帝が雲中に至ると、十路は皆、倉庫の帳簿と金帛を廷中に進呈して並べた。帝は笑って楚材に言う、「汝は朕の左右を離れないのに、国用を充足させることができる。南国の臣にまた卿のような者がいるか。」答えて言う、「あちらにいる者は皆、臣より賢い者ばかりです。臣は不才ですので、燕に留まり、陛下のために用いられているのです。」帝はその謙譲を嘉し、酒を賜った。即日、中書令に任じ、事の大小を問わず、全て先ず彼に報告させた。

原文太祖之世,歲有事西域,未暇經理中原,官吏多聚斂自私,貲至鉅萬,而官無儲偫。近臣別迭等言:「漢人無補於國,可悉空其人以為牧地。」楚材曰:「陛下將南伐,軍需宜有所資,誠均定中原地稅、商稅、鹽、酒、鐵冶、山澤之利,歲可得銀五十萬兩、帛八萬匹、粟四十餘萬石,足以供給,何謂無補哉?」帝曰:「卿試為朕行之。」乃奏立燕京等十路徵收課稅使,凡長貳悉用士人,如陳時可、趙昉等皆寬厚長者,極天下之選,參佐皆用省部舊人。辛卯秋,帝至雲中,十路咸進廩籍及金帛陳于廷中,帝笑謂楚材曰:「汝不去朕左右,而能使國用充足,南國之臣復有如卿者乎?」對曰:「在彼者皆賢於臣,臣不才,故留燕,為陛下用。」帝嘉其謙,賜之酒。即日拜中書令,事無鉅細,皆先白之。

楚材上奏す:「凡そ州郡は長吏に民事を専ら治めさせ、万戸は軍政を総べ、凡そ掌る課税は、権貴侵すべからず。」また鎮海・粘合を挙げ、皆これと同事とし、権貴平らかならず。咸得卜は旧怨を以て、特にこれを疾み、宗王に譖りて曰く:「耶律中書令は率ね親旧を用う、必ず二心あり、奏してこれを殺すべし。」宗王使いを遣わして以て聞かしむ、帝その誣を察し、使者を責め、罷めてこれを遣わす。属に咸得卜の不法を訟うる者あり、帝楚材に命じてこれを鞫せしむ、奏して曰く:「この人倨傲なり、故に謗を招き易し。今南方に事有らんとす、他日にこれを治むるも未だ晩からず。」帝私に侍臣に謂いて曰く:「楚材は私讎を較べず、真に寛厚の長者なり、汝曹これに效うべし。」中貴可思不花、金銀を採る役夫及び西域に種田する者と蒲萄を栽うる戸を奏す、帝西京宣徳に於いて万餘戸を徙してこれを充てしむ。楚材曰く:「先帝の遺詔に、山後の民質朴にして、国人に異ならず、緩急用うべし、軽く動かすべからずと。今河南を征せんとす、請う民を残さずしてこの役に給せんことを。」帝その奏を可とす。

原文楚材奏:「凡州郡宜令長吏專理民事,萬戶總軍政,凡所掌課稅,權貴不得侵之。」又舉鎮海、粘合,均與之同事,權貴不能平。咸得卜以舊怨,尤疾之,譖於宗王曰:「耶律中書令率用親舊,必有二心,宜奏殺之。」宗王遣使以聞,帝察其誣,責使者,罷遣之。屬有訟咸得卜不法者,帝命楚材鞫之,奏曰:「此人倨傲,故易招謗。今將有事南方,他日治之未晚也。」帝私謂侍臣曰:「楚材不較私讎,真寬厚長者,汝曹當效之。」中貴可思不花奏採金銀役夫及種田西域與栽蒲萄戶,帝令於西京宣德徙萬餘戶充之。楚材曰:「先帝遺詔,山後民質樸,無異國人,緩急可用,不宜輕動。今將征河南,請無殘民以給此役。」帝可其奏。

壬辰の春、帝南征し、将に河を渉らんとす、詔して逃難の民、来降する者は死を免ず。或いは曰く:「この輩は急なれば降り、緩なれば走る、徒らに敵に資するのみ、宥すべからず。」楚材旗数百を製し、降民に給し、田里に帰らしむるを請う、全活すること甚だ衆し。旧制、凡そ城邑を攻むるに、敵矢石を以て相加うれば、即ち拒命と為し、既に克つ、必ずこれを殺す。汴梁将に下らんとす、大将速不台使いを遣わして来たり言う:「金人抗拒持久し、師多く死傷す、城下の日、宜しくこれを屠るべし。」楚材馳せ入りて奏して曰く:「将士数十年暴露し、欲する所は土地人民のみ。地を得て民無くば、将に焉にかこれを用いん!」帝猶豫して未だ決せず、楚材曰く:「奇巧の工、厚蔵の家、皆ここに萃まる、若し尽くこれを殺さば、将に獲る所無からん。」帝これを然とし、詔して罪は完顔氏に止め、余は皆問う勿れと。時に兵を避けて汴に居る者百四十七万人を得たり。

原文壬辰春,帝南征,將涉河,詔逃難之民,來降者免死。或曰:「此輩急則降,緩則走,徒以資敵,不可宥。」楚材請製旗數百,以給降民,使歸田里,全活甚眾。舊制,凡攻城邑,敵以矢石相加者,即為拒命,既克,必殺之。汴梁將下,大將速不台遣使來言:「金人抗拒持久,師多死傷,城下之日,宜屠之。」楚材馳入奏曰:「將士暴露數十年,所欲者土地人民耳。得地無民,將焉用之!」帝猶豫未決,楚材曰:「奇巧之工,厚藏之家,皆萃于此,若盡殺之,將無所獲。」帝然之,詔罪止完顏氏,餘皆勿問。時避兵居汴者得百四十七萬人。

楚材また人を遣わし城に入り、孔子の後を求め、五十一代の孫元措を得、襲封衍聖公を奏し、林廟の地を付す。太常の礼楽生を収め、及び名儒梁陟・王万慶・趙著等を召し、九経を直に釈せしめ、東宮に進講せしむるを命ず。また大臣の子孫を率い、経を執り義を解かしめ、聖人の道を知らしむ。編修所を燕京に、経籍所を平陽に置く、ここにより文治興る。

原文楚材又請遣人入城,求孔子後,得五十一代孫元措,奏襲封衍聖公,付以林廟地。命收太常禮樂生,及召名儒梁陟、王萬慶、趙著等,使直釋九經,進講東宮。又率大臣子孫,執經解義,俾知聖人之道。置編修所於燕京、經籍所於平陽,由是文治興焉。

時に河南初めて破れ、俘獲甚だ衆く、軍還るや、逃ぐる者十に七八。旨有り:「逃民を居停し及び資給する者は、その家を滅ぼし、郷社も亦連坐す。」ここにより逃ぐる者は敢えて舎る莫く、多く道路に殍死す。楚材従容として進みて曰く:「河南既に平らぎ、民皆陛下の赤子なり、走りて復た何にか之かん!奈何ぞ一の俘囚に因りて、数十百人を連ねて死せしめんや」帝悟り、その禁を除くを命ず。金の亡ぶるや、唯だ秦・鞏の二十餘州久しく未だ下らず、楚材奏して曰く:「往年吾民罪を逃れ、或いはここに萃まる、故に死を以て戦いを拒ぐ、若し不殺を許さば、将に攻めずして自ら下らん。」詔下り、諸城皆降る。

原文時河南初破,俘獲甚眾,軍還,逃者十七八。有旨:「居停逃民及資給者,滅其家,鄉社亦連坐。」由是逃者莫敢舍,多殍死道路。楚材從容進曰:「河南既平,民皆陛下赤子,走復何之!奈何因一俘囚,連死數十百人乎?」帝悟,命除其禁。金之亡也,唯秦、鞏二十餘州久未下,楚材奏曰:「往年吾民逃罪,或萃于此,故以死拒戰,若許以不殺,將不攻自下矣。」詔下,諸城皆降。

甲午、中原の民を籍するを議す、大臣忽都虎等議し、丁を以て戸と為す。楚材曰く:「不可なり。丁逃ぐれば、則ち賦出す所無く、当に戸を以てこれを定むべし。」これを再三争い、卒に戸を以て定む。時に将相大臣に駆獲する所有り、往往諸郡に寄留す、楚材戸口を括するに因り、並びに民と為すを令し、匿占する者は死す。

原文甲午,議籍中原民,大臣忽都虎等議,以丁為戶。楚材曰:「不可。丁逃,則賦無所出,當以戶定之。」爭之再三,卒以戶定。時將相大臣有所驅獲,往往寄留諸郡,楚材因括戶口,並令為民,匿占者死。

乙未、朝議四征して廷にせざる者を将にす、若し回回人を遣わして江南を征し、漢人を遣わして西域を征せば、深く制御の術を得んとす、楚材曰く:「不可なり。中原・西域相去ること遼遠、未だ敵境に至らざるに、人馬疲乏し、兼ねて水土異宜、疾疫将に生ぜんとす、宜しく各その便に従うべし。」これに従う。

原文乙未,朝議將四征不廷,若遣回回人征江南,漢人征西域,深得制御之術,楚材曰:「不可。中原、西域相去遼遠,未至敵境,人馬疲乏,兼水土異宜,疾疫將生,宜各從其便。」從之。

丙申の春、諸王大いに集い、帝親しく觴を執り楚材に賜いて曰く:「朕の誠を推し卿を任ずる所以は、先帝の命なり。卿に非ざれば、則ち中原今日無からん。朕の安枕を得る所以は、卿の力なり。」西域諸国及び宋・高麗の使者来朝す、語多く実ならず、帝楚材を指してこれに示し曰く:「汝が国にこの如き人有るか?」皆謝して曰く:「有らず。殆ど神人のごときか!」帝曰く:「汝等唯だこの言妄らざるのみ、朕も亦度るに必ずこの人無からんとす。」于元なる者有り、交鈔を行わんことを奏す、楚材曰く:「金章宗の時初めて交鈔を行い、銭と通行す、有司鈔を出すを利と為し、鈔を収むるを諱り、これを老鈔と謂い、万貫を以て唯だ一餅を易うるに至る。民力困竭し、国用匱乏す、当に鑒戒と為すべし。今交鈔を印造するは、宜しく万錠を過ぐべからず。」これに従う。

原文丙申春,諸王大集,帝親執觴賜楚材曰:「朕之所以推誠任卿者,先帝之命也。非卿,則中原無今日。朕所以得安枕者,卿之力也。」西域諸國及宋、高麗使者來朝,語多不實,帝指楚材示之曰:「汝國有如此人乎?」皆謝曰:「無有。殆神人也!」帝曰:「汝等唯此言不妄,朕亦度必無此人。」有于元者,奏行交鈔,楚材曰:「金章宗時初行交鈔,與錢通行,有司以出鈔為利,收鈔為諱,謂之老鈔,至以萬貫唯易一餅。民力困竭,國用匱乏,當為鑒戒。今印造交鈔,宜不過萬錠。」從之。

秋七月、忽都虎民籍を以て至る、帝州県を裂き親王功臣に賜わんことを議す。楚材曰く:「土を裂き民を分かちば、嫌隙を生じ易し。多く金帛を以てこれに与うるに如かず。」帝曰く:「已に許す奈何。」楚材曰く:「若し朝廷吏を置き、その貢賦を収め、歳終りにこれを頒ち、擅に科徴せしめざらば、可なり。」帝その計を然とし、遂に天下の賦税を定む、毎に二戸絲一斤を出だし、以て国用に給し、五戸絲一斤を出だし、以て諸王功臣の湯沐の資に給す。地税は、中田毎畝二升半、上田三升、下田二升、水田毎畝五升、商税は三十分の一、塩価は銀一両に四十斤。既に常賦を定め、朝議以て太軽と為す、楚材曰く:「法を涼に作り、その弊猶お貪り有り、後将に利を以て進む者有らん、則ち今已に重し。」

原文秋七月,忽都虎以民籍至,帝議裂州縣賜親王功臣。楚材曰:「裂土分民,易生嫌隙。不如多以金帛與之。」帝曰:「已許奈何?」楚材曰:「若朝廷置吏,收其貢賦,歲終頒之,使毋擅科徵,可也。」帝然其計,遂定天下賦稅,每二戶出絲一斤,以給國用;五戶出絲一斤,以給諸王功臣湯沐之資。地稅,中田每畝二升又半,上田三升,下田二升,水田每畝五升;商稅,三十分而一;鹽價,銀一兩四十斤。既定常賦,朝議以為太輕,楚材曰:「作法於涼,其弊猶貪,後將有以利進者,則今已重矣。」

時に工匠の制造、官物を糜費し、十に私すこと八九、楚材皆これを考覈し、以て定制と為さんことを請う。時に侍臣脱歓天下の室女を簡せんことを奏す、詔下る、楚材これを尼みて行わず、帝怒る。楚材進みて曰く:「向に美女二十有八人を択び、使令に備うるに足れり。今復た選抜せば、臣民を擾わすを恐れ、覆奏せんと欲するのみ。」帝良久にして曰く:「これを罷むべし。」また民の牝馬を収めんと欲す、楚材曰く:「田蠶の地は、馬の産する所に非ず、今若しこれを行わば、後必ず人の害と為らん。」またこれに従う。

原文時工匠制造,糜費官物,十私八九,楚材請皆考覈之,以為定制。時侍臣脫歡奏簡天下室女,詔下,楚材尼之不行,帝怒。楚材進曰:「向擇美女二十有八人,足備使令。今復選拔,臣恐擾民,欲覆奏耳。」帝良久曰:「可罷之。」又欲收民牝馬,楚材曰:「田蠶之地,非馬所產,今若行之,後必為人害。」又從之。

丁酉、楚材奏して曰く:「器を制する者は必ず良工を用い、成を守る者は必ず儒臣を用う。儒臣の事業は、数十年を積まざれば、殆ど未だ易く成し難し。」帝曰く:「果して爾らば、その人を官すべし。」楚材曰く:「請うこれを校試せん。」乃ち宣德州宣課使劉中に命じ郡に随い考試せしめ、経義・詞賦・論を以て三科に分かち、儒人俘われて奴と為る者も、亦令して就試せしめ、その主匿みて遣わさざる者は死す。士を得ること凡そ四千三十人、奴と為るを免くる者四分の一。

原文丁酉,楚材奏曰:「制器者必用良工,守成者必用儒臣。儒臣之事業,非積數十年,殆未易成也。」帝曰:「果爾,可官其人。」楚材曰:「請校試之。」乃命宣德州宣課使劉中隨郡考試,以經義、詞賦、論分為三科,儒人被俘為奴者,亦令就試,其主匿弗遣者死。得士凡四千三十人,免為奴者四之一。

先に、州郡の長吏多く賈人の銀を借りて以て官に償い、息数倍を累ね、羊羔児利と曰い、妻子を奴と為すに至り、猶お償うに足らず。楚材本利相侔うて止むを令し、永く定制と為し、民間の負う所は、官代わってこれを償わんことを奏す。一衡量に至り、符印を給し、鈔法を立て、均輸を定め、遞伝を布き、驛券を明らかにし、庶政略備わり、民稍蘇息す。

原文先是,州郡長吏多借賈人銀以償官,息累數倍,曰羊羔兒利,至奴其妻子,猶不足償。楚材奏令本利相侔而止,永為定制,民間所負者,官為代償之。至一衡量,給符印,立鈔法,定均輸,布遞傳,明驛券,庶政略備,民稍蘇息焉。

二人の道士が先後を争い、互いに徒党を立て、その一方が仇敵の徒党の二人を逃亡兵と誣告し、宦官及び通事の楊惟忠と結託して、彼らを捕らえて虐殺した。耶律楚材は惟忠を逮捕した。宦官がまた楚材が制度に違反したと訴えると、帝は怒り、楚材を拘束した。やがて自ら後悔し、釈放を命じた。楚材は縄を解くことを肯ぜず、進み出て言った。「臣は公輔の位に備わり、国政は臣に属しております。陛下が初めに臣を拘束されたのは、罪があるからで、百官に明示し、罪は赦さぬべきでした。今臣を釈放されるのは、無罪だからです。どうして軽々しく反覆し、小児を弄ぶようになさいますか。国に大事があれば、どうして行いましょうか。」皆が顔色を失った。帝は言った。「朕は帝たるも、過ちのないことがあろうか。」そこで温かな言葉で慰めた。楚材はそこで時務十策を陳べた。すなわち、賞罰を信実にし、名分を正し、俸禄を与え、功臣を官とし、殿最を考課し、科差を均しくし、工匠を選び、農桑に務め、土貢を定め、漕運を制することである。皆時務に切実で、悉く施行された。

原文有二道士爭長,互立黨與,其一誣其仇之黨二人為逃軍,結中貴及通事楊惟忠,執而虐殺之。楚材按收惟忠。中貴復訴楚材違制,帝怒,繫楚材;既而自悔,命釋之。楚材不肯解縛,進曰:「臣備位公輔,國政所屬。陛下初令繫臣,以有罪也,當明示百官,罪在不赦。今釋臣,是無罪也,豈宜輕易反覆,如戲小兒?國有大事,何以行焉!」眾皆失色。帝曰:「朕雖為帝,寧無過舉耶?」乃溫言以慰之。楚材因陳時務十策,曰:信賞罰,正名分,給俸祿,官功臣,考殿最,均科差,選工匠,務農桑,定土貢,制漕運。皆切於時務,悉施行之。

太原路転運使の呂振・副使の劉子振が、贓罪により罪に当たった。帝は楚材を責めて言った。「卿は孔子の教えが行え、儒者は善人だと言ったのに、どうしてこのような輩があるのか。」答えて言った。「君父が臣子を教えるにも、不義に陥れることを望みません。三綱五常は聖人の名教で、国を有つ者はこれによらぬ者はなく、天に日月があるようなものです。どうして一人の過失のゆえに、万世常に行われる道が我が朝においてのみ廃されることがありましょうか。」帝の意はようやく解けた。

原文太原路轉運使呂振、副使劉子振,以贓抵罪。帝責楚材曰:「卿言孔子之教可行,儒者為好人,何故乃有此輩?」對曰:「君父教臣子,亦不欲令陷不義。三綱五常,聖人之名教,有國家者莫不由之,如天之有日月也。豈得緣一夫之失,使萬世常行之道獨見廢於我朝乎!」帝意乃解。

富人の劉忽篤馬・涉獵発丁・劉廷玉らが銀百四十万両で天下の課税を請負おうとした。楚材は言った。「これは利を貪る輩で、上を欺き下を虐げ、害甚だ大である。」奏上してこれを罷めさせた。常に言った。「一利を興すは一害を除くに如かず、一事を生ずるは一事を省くに如かず。任尚が班超の言葉を平平たるものとしたが、千古の下、自ら定論がある。後に譴責を受ける者が、ようやく我が言の妄りでないことを知るであろう。」帝は元来酒を嗜み、日々大臣と酣飲した。楚材は屡々諫めたが聞き入れられず、酒槽の鉄の口を持って進み出て言った。「麹糵は物を腐らせます。鉄でさえこのようであるのに、まして五臓においておや。」帝は悟り、近臣に語って言った。「汝らが君を愛し国を憂うる心に、我が図撒合里(楚材の蒙古名)の如き者があろうか。」金帛を賞与し、近臣に命じて日々酒を三鍾進めるのみで止めさせた。

原文富人劉忽篤馬、涉獵發丁、劉廷玉等以銀一百四十萬兩撲買天下課稅,楚材曰:「此貪利之徒,罔上虐下,為害甚大。」奏罷之。常曰:「興一利不如除一害,生一事不如省一事。任尚以班超之言為平平耳,千古之下,自有定論。後之負譴者,方知吾言之不妄也。」帝素嗜酒,日與大臣酣飲,楚材屢諫,不聽,乃持酒槽鐵口進曰:「麴糵能腐物,鐵尚如此,況五臟乎!」帝悟,語近臣曰:「汝曹愛君憂國之心,豈有如吾圖撒合里者耶?」賞以金帛,敕近臣日進酒三鍾而止。

庚寅年(1230)に課税の基準を定めて以来、甲午年(1234)に河南を平定するまで、歳ごとに増加し、戊戌年(1238)には課税銀は百十万両に増加した。訳史の安天合という者が、鎮海に諂い事え、まず奥都剌合蛮を引き立てて課税を請負わせ、さらに二百二十万両に増加させた。楚材は極力弁明し諫め、声色ともに厳しくなり、言葉と涙がともに流れた。帝は言った。「お前は搏鬪しようというのか。」また言った。「お前は百姓のために泣こうというのか。暫く試しに行わせよ。」楚材は力及ばず止められず、嘆息して言った。「民の困窮は、ここから始まるであろう。」

原文自庚寅定課稅格,至甲午平河南,歲有增羨,至戊戌課銀增至一百一十萬兩。譯史安天合者,諂事鎮海,首引奧都剌合蠻撲買課稅,又增至二百二十萬兩。楚材極力辨諫,至聲色俱厲,言與涕俱。帝曰:「爾欲搏鬭耶?」又曰:「爾欲為百姓哭耶?姑令試行之。」楚材力不能止,乃歎息曰:「民之困窮,將自此始矣!」

楚材はかつて諸王と宴し、酔って車中に臥していた。帝が平野に臨んでこれを見、直ちにその営舎に幸し、車に登って手で揺さぶった。楚材は熟睡して醒めず、ちょうど己を擾わすことを怒っていた。ふと目を開けて見て、初めて帝の来られたことを知り、驚いて起きて謝した。帝は言った。「酒があって独りで酔い、朕とともに楽しまないのか。」笑って去った。楚材は冠帯する暇もなく、馳せて行宮に詣でた。帝は酒を設け、極めて歓び終わった。

原文楚材嘗與諸王宴,醉臥車中,帝臨平野見之,直幸其營,登車手撼之。楚材熟睡未醒,方怒其擾己。忽開目視,始知帝至,驚起謝,帝曰:「有酒獨醉,不與朕同樂耶?」笑而去。楚材不及冠帶,馳詣行宮,帝為置酒,極歡而罷。

楚材が国政を執ること久しく、得た俸禄は親族に分け与え、未だ私的に官職を与えたことはなかった。行省の劉敏が穏やかにそのことを言うと、楚材は言った。「親族を睦まじくする義は、ただ金帛で資するべきである。もし政に従わせて法に違うならば、私は私恩に殉ずることはできない。」

原文楚材當國日久,得祿分其親族,未嘗私以官。行省劉敏從容言之,楚材曰:「睦親之義,但當資以金帛。若使從政而違法,吾不能徇私恩也。」

歳辛丑(1241)二月三日、帝の病篤く、医者が脈は既に絶えたと言った。皇后はどうすべきか分からず、楚材を召して問うた。答えて言った。「今任用する者人に非ず、官を売り獄を売り、罪なき者が多く囚われております。古人は一言善ければ熒惑が退舍したと申します。天下の囚徒を赦すことを請います。」后は直ちに行おうとしたが、楚材は言った。「君命でなければなりません。」しばらくして帝が少し蘇り、そこで入奏して赦しを行うことを請うた。帝は既に言葉ができず、首肯した。この夜、医者が脈を候うと復活し、丁度赦書を宣読する時であった。翌日、帝は癒えた。冬十一月四日、帝が狩猟に出ようとした。楚材が太乙数で推し、急いで不可であると言った。左右は皆言った。「騎射しなければ、楽しみがありません。」五日間狩猟し、帝は行在所で崩御した。皇后乃馬真氏が称制し、姦回を崇信したため、諸政多く紊れた。奥魯剌合蛮は財貨で政柄を得、朝廷中は皆畏れてこれに附した。楚材は面折廷争し、人の言い難きことを言い、人皆彼を危ぶんだ。

原文歲辛丑二月三日,帝疾篤,醫言脈已絕。皇后不知所為,召楚材問之,對曰:「今任使非人,賣官鬻獄,囚繫非辜者多。古人一言而善,熒惑退舍,請赦天下囚徒。」后即欲行之,楚材曰:「非君命不可。」俄頃,帝少蘇,因入奏,請肆赦,帝已不能言,首肯之。是夜,醫者候脈復生,適宣讀赦書時也,翌日而瘳。冬十一月四日,帝將出獵,楚材以太乙數推之,亟言其不可,左右皆曰:「不騎射,無以為樂。」獵五日,帝崩于行在所。皇后乃馬真氏稱制,崇信姦回,庶政多紊。奧魯剌合蠻以貨得政柄,廷中悉畏附之。楚材面折廷爭,言人所難言,人皆危之。

癸卯年(1243)五月、熒惑が房宿を犯した。楚材が奏上して言った。「驚擾があるべきですが、しかし結局何事もありません。」居ること暫くして、朝廷が兵を用い、事が倉卒に起こった。后は遂に甲冑を授け腹心を選ぶことを命じ、西遷して避けようとした。楚材が進み出て言った。「朝廷は天下の根本です。根本が一度揺らげば、天下乱れましょう。臣が天道を観るに、必ず患いはありません。」数日後に事態は鎮定した。后は御璽の空紙を奥都剌合蛮に渡し、自ら書いて記入して行わせようとした。楚材は言った。「天下は先帝の天下です。朝廷には自ら憲章があります。今これを紊そうとされるなら、臣は詔を奉ずることはできません。」事は遂に止んだ。また旨があった。「凡そ奥都剌合蛮が建白することは、令史が書かない者は、その手を断て。」楚材は言った。「国の典故は、先帝が悉く老臣に委ねられました。令史が何の関わりがありましょう。事が理に合えば、自ら奉行すべきであり、もし行えなければ、死さえも避けず、まして手を截つことなど。」后は悦ばなかった。楚材は弁論を止めず、大声をあげて言った。「老臣は太祖・太宗に事え三十余年、国に負うところなく、皇后もまた罪なくして臣を殺すことができましょうか。」后は憾んだが、先朝の旧勲であるため、深く敬い憚った。

原文癸卯五月,熒惑犯房,楚材奏曰:「當有驚擾,然訖無事。」居無何,朝廷用兵,事起倉卒,后遂令授甲選腹心,至欲西遷以避之。楚材進曰:「朝廷天下根本,根本一搖,天下將亂。臣觀天道,必無患也。」後數日乃定。后以御寶空紙付奧都剌合蠻,使自書填行之。楚材曰:「天下者,先帝之天下。朝廷自有憲章,今欲紊之,臣不敢奉詔。」事遂止。又有旨:「凡奧都剌合蠻所建白,令史不為書者,斷其手。」楚材曰:「國之典故,先帝悉委老臣,令史何與焉!事若合理,自當奉行,如不可行,死且不避,況截手乎!」后不悅。楚材辨論不已,因大聲曰:「老臣事太祖、太宗三十餘年,無負於國,皇后亦豈能無罪殺臣也!」后雖憾之,亦以先朝舊勳,深敬憚焉。

甲辰年(1244)夏五月、在官のまま薨去した。年五十五。皇后は哀悼し、賻贈甚だ厚かった。後に楚材を讒する者がおり、彼が相位にあったこと久しく、天下の貢賦の半分がその家に入ったと言った。后は近臣の麻里扎に命じて覆視させたところ、ただ琴阮十余り、及び古今の書画・金石・遺文数千巻のみであった。至順元年(1330)、経国議制寅亮佐運功臣・太師・上柱国を贈られ、広寧王を追封され、諡は文正。子に耶律鉉・耶律鑄がいる。

原文甲辰夏五月,薨于位,年五十五。皇后哀悼,賻贈甚厚。後有譖楚材者,言其在相位日久,天下貢賦,半入其家。后命近臣麻里扎覆視之,唯琴阮十餘,及古今書畫、金石、遺文數千卷。至順元年,贈經國議制寅亮佐運功臣、太師、上柱國,追封廣寧王,諡文正。子鉉、鑄。

耶律鑄は字を成仲といい、幼くして聡敏で、文を属することを善くし、特に騎射に巧みであった。楚材が薨じると、嗣いで中書省事を領した。時に年二十三。耶律鑄は上言して禁網を緩めるべきであるとし、遂に歴代の徳政で時宜に合うもの八十一章を採って進めた。戊午年(1258)、憲宗が蜀を征するに当たり、詔して耶律鑄に侍衛の驍果を領させて従わせ、屡々奇計を出して城邑を攻め落とし、尚方の金鎖甲及び内厩の驄馬を賜った。乙未年(1259)、憲宗が崩御し、阿里不哥が叛いた。耶律鑄は妻子を棄て、身を挺して朔方より来帰した。世祖はその忠を嘉し、即日召見し、賞賜優厚であった。中統二年(1261)、中書左丞相に拝された。この年冬、詔して兵を将いて北辺を備禦させ、後に兵を徴して扈従し、上都の北で阿里不哥を破った。

原文鑄字成仲,幼聰敏,善屬文,尤工騎射。楚材薨,嗣領中書省事,時年二十三。鑄上言宜疏禁網,遂采歷代德政合於時宜者八十一章以進。戊午,憲宗征蜀,詔鑄領侍衞驍果以從,屢出奇計,攻下城邑,賜以尚方金鎖甲及內廐驄馬。乙未,憲宗崩,阿里不哥叛,鑄棄妻子,挺身自朔方來歸,世祖嘉其忠,即日召見,賞賜優厚。中統二年,拜中書左丞相。是年冬,詔將兵備禦北邊,後徵兵扈從,敗阿里不哥于上都之北。

至元元年、光禄大夫を加えられる。法令三十七章を奏上して定め、吏民これを便とした。二年、山東に行省す。未だ幾ばくもせずして召還さる。初め、清廟の雅楽は登歌のみあり、詔して宮懸八佾の舞を鋳製せしむ。四年春三月、楽舞成る。表を上りて之を献じ、仍て大成と賜名することを請う。制して曰く「可なり」と。六月、栄禄大夫・平章政事に改む。五年、復た光禄大夫・中書左丞相を拝す。十年、平章軍国重事に遷る。十三年、詔して国史を監修せしむ。朝廷に大事有れば、必ず咨訪す。十九年、復た中書左丞相を拝す。二十年冬十月、職印を納めず、東平人の謀を聚めて逆を為すと妄奏し、幕僚を間諜し、及び罪囚阿里沙を党すに坐し、遂に罷免せられ、仍て其の家貲の半を没収し、山後に徙居す。二十二年卒す。年六十五。

原文至元元年,加光祿大夫。奏定法令三十七章,吏民便之。二年,行省山東。未幾徵還。初,清廟雅樂止有登歌,詔鑄製宮懸八佾之舞。四年春三月,樂舞成,表上之,仍請賜名大成,制曰「可」。六月,改榮祿大夫、平章政事。五年,復拜光祿大夫、中書左丞相。十年,遷平章軍國重事。十三年,詔監修國史。朝廷有大事,必咨訪焉。十九年,復拜中書左丞相。二十年冬十月,坐不納職印、妄奏東平人聚謀為逆、間諜幕僚、及黨罪囚阿里沙,遂罷免,仍沒其家貲之半,徙居山後。二十二年卒,年六十五。

子十一人:希徴、希勃、希亮、希寛、希素、希固、希周、希光、希逸(淮東宣慰使)、余は其の名を失う。至順元年、推忠保徳宣力佐治功臣・太師・開府儀同三司・上柱国・懿寧王を贈られ、文忠と諡す。

原文子十一人:希徵;希勃;希亮;希寬;希素;希固;希周;希光;希逸,淮東宣慰使;餘失其名。至順元年,贈推忠保德宣力佐治功臣、太師、開府儀同三司、上柱國、懿寧王,諡文忠。

粘合重山の子、南合

原文粘合重山子南合

粘合重山は金源の貴族なり。国初、質子たり。金の将に亡ぶるを知り、遂に質を委ぬ。太祖、畜馬四百匹を賜い、宿衛官必闍赤と為さしむ。諸国を平ぐるに従い功有り。涼州を囲み、大旗を執りて六軍を指麾す。手に流矢中るも動かず。已にして侍従官と為り、数たび内廷に侍宴するを得。因りて諫めて曰く、「臣聞く、天子は天下を以て憂と為す。憂うれば治まらざるは未だあらず。憂を忘るれば能く治むる者は未だこれ有らざるなり。酒を置きて楽を為す、此れ憂を忘るるの術なり」と。帝深く嘉納す。中書省を立て、重山に積勲有るを以て、左丞相を授く。時に耶律楚材は右丞相たり。凡そ官を建て法を立つる、賢を任じ能を使う、及び郡邑を分ち課賦を定め漕運を通じ国用を足すは、多く楚材に出で、而して重山之を佐成す。

原文粘合重山,金源貴族也。國初為質子,知金將亡,遂委質焉。太祖賜畜馬四百匹,使為宿衞官必闍赤。從平諸國有功,圍涼州,執大旗指麾六軍,手中流矢,不動。已而為侍從官,數得侍宴內廷。因諫曰:「臣聞天子以天下為憂,憂之,未有不治;忘憂,未有能治者也。置酒為樂,此忘憂之術也。」帝深嘉納之。立中書省,以重山有積勳,授左丞相。時耶律楚材為右丞相,凡建官立法,任賢使能,與夫分郡邑,定課賦,通漕運,足國用,多出楚材,而重山佐成之。

太宗七年、宋を伐つに従い、詔して軍前行中書省事と為し、便宜を以てすることを許す。師、宋の境に入る。江淮の州邑、風に望みて款附す。重山其の民三十余万を降し、定城・天長の二邑を取り、一人も誅せず。復た中書に入りて事を視、中廐馬十匹・貫珠袍一を賜う。卒す。太尉を贈られ、魏国公に封ぜられ、忠武と諡す。

原文太宗七年,從伐宋,詔軍前行中書省事,許以便宜。師入宋境,江淮州邑望風款附,重山降其民三十餘萬,取定城、天長二邑,不誅一人。復入中書視事,賜中廐馬十匹、貫珠袍一。卒,贈太尉,封魏國公,諡忠武。

十年、詔して其の子江淮安撫使南合に嗣ぎて行軍前中書省事を行わしむ。時に大将察罕、寿春を囲み、七日にして始めて下る。其の城を屠らんと欲す。南合曰く、「降らざるは独り守将のみ。其の民何の罪か有らん」と。是に由りて免るることを得。

原文十年,詔其子江淮安撫使南合嗣行軍前中書省事。時大將察罕圍壽春,七日始下,欲屠其城,南合曰:「不降者獨守將耳,其民何罪?」由是獲免。

初め、世祖、汴に於いて宋を伐たんと軍す。南合進みて曰く、「李璮は国の厚恩を承け、一方を坐制す。然れども其の人多く詐り、叛く日無からん」と。帝も亦之を患う。中統元年、両たび宣撫使に遷る。明年、中書右丞・中興等路行中書省事を授かる。三年、秦蜀五路四川行中書省事に遷る。其の年、李璮、益都に反す。帝使いして南合に諭して曰く、「卿の言猶お耳に在り。璮果たして反せり。卿宜しく西鄙を謹守すべし」と。対えて曰く、「臣謹んで詔を受く。敢えて西鄙を以て陛下の憂と為さじ」と。明年、中書平章政事を授かる。四年、病卒す。魏国公に封ぜられ、宣昭と諡す。子、博温察児、河中府を知る。

原文初,世祖伐宋軍于汴,南合進曰:「李璮承國厚恩,坐制一方,然其人多詐,叛無日矣。」帝亦患之。中統元年,兩遷宣撫使。明年,授中書右丞、中興等路行中書省事。三年,遷秦蜀五路四川行中書省事。其年,李璮反益都,帝使諭南合曰:「卿言猶在耳,璮果反矣。卿宜謹守西鄙。」對曰:「臣謹受詔,不敢以西鄙為陛下憂。」明年,授中書平章政事。四年,病卒。封魏國公,諡宣昭。子博溫察兒,知河中府。

楊惟中

楊惟中、字は彦誠、弘州の人。金末、孤童子として太宗に事え、書を読むことを知り、胆略有り、太宗之を器とす。年二十、命を奉じて西域三十余国に使し、国威を宣暢し政条を敷布し、皆な戸口を籍し吏に属せしめ、乃ち帰る。帝是に於いて大用の意有り。

原文楊惟中字彥誠,弘州人。金末,以孤童子事太宗,知讀書,有膽略,太宗器之。年二十,奉命使西域三十餘國,宣暢國威,敷布政條,俾皆籍戶口屬吏,乃歸,帝於是有大用意。

皇子闊出、宋を伐つ。命じて惟中を軍前行中書省事と為す。宋の棗陽・光化等の軍、光・随・郢・復等の州、及び襄陽・徳安府を克つ。凡そ名士数十人を得、伊・洛の諸書を収めて燕都に送り、宋の大儒周惇頤の祠を立て、太極書院を建て、儒士趙復・王粹等を延いて其の間に講授せしむ。遂に聖賢の学を通じ、慨然として道を以て天下を済わんと欲す。中書令を拝す。太宗崩ず。太后称制す。惟中は一相として天下の任を負う。

原文皇子闊出伐宋,命惟中於軍前行中書省事。克宋棗陽、光化等軍,光、隨、郢、復等州,及襄陽、德安府。凡得名士數十人,收伊、洛諸書送燕都,立宋大儒周惇頤祠,建太極書院,延儒士趙復、王粹等講授其間。遂通聖賢學,慨然欲以道濟天下。拜中書令。太宗崩,太后稱制,惟中以一相負任天下。

定宗即位す。平陽道断事官斜徹、横恣にして法に不法なり。詔して惟中に宣慰せしむ。惟中、按じて之を誅す。金亡ぶ。其の将武仙、鄧州に潰ゆ。余党、太原・真定の間に散入し、大明川に拠り、金の開興の年号を用い、衆数万に至り、数千里を剽掠す。詔して諸道の兵を会して之を討たしむも、克たず。惟中、節を仗して開諭し、其の渠帥を降し、余党悉く平ぐ。

原文定宗即位,平陽道斷事官斜徹橫恣不法,詔惟中宣慰,惟中按誅之。金亡,其將武仙潰于鄧州,餘黨散入太原、真定間,據大明川,用金開興年號,眾至數萬,剽掠數千里,詔會諸道兵討之,不克。惟中仗節開諭,降其渠帥,餘黨悉平。

憲宗即位す。世祖、太弟として金蓮川に鎮まり、開府して専ら封拝するを得。乃ち河南道経略司を汴梁に立て、惟中等を奏して使と為し、唐・鄧・申・裕・嵩・汝・蔡・息・亳・潁の諸州に屯田せしむ。初め金を滅ぼす時、監河橋万戸劉福を以て河南道総管と為す。福は貪鄙残酷にして、遺民を虐害すること二十余年。惟中至り、福を召して約束を聴かしむ。福、疾と称して至らず。惟中、座に大梃を設け、復た之を召し、使いして福に謂わしめて曰く、「汝命に奉ぜずんば、吾軍法を以て事に従わん」と。福已むを得ず、数千人を以て擁衛し惟中に見ゆ。惟中即ち大梃を握りて之を撃ち仆す。数日、福死す。河南大いに治まる。陝右四川宣撫使に遷る。時に諸軍の帥、横侈にして民を病ます。郭千戸なる者尤も甚だし。人の夫を殺して其の妻を奪う。惟中、之を戮して以て徇しむ。関中粛然たり。人に語りて曰く、「吾は殺すを好むに非ず。国家の綱紀立たず、此の輩をして良民を賊害せしめ、控告する所無し。去らんと欲すと雖も、可ならんや」と。

原文憲宗即位,世祖以太弟鎮金蓮川,得開府專封拜,乃立河南道經略司於汴梁,奏惟中等為使,俾屯田唐、鄧、申、裕、嵩、汝、蔡、息、亳、潁諸州。初滅金時,以監河橋萬戶劉福為河南道總管,福貪鄙殘酷,虐害遺民二十餘年。惟中至,召福聽約束,福稱疾不至,惟中設大梃於坐,復召之,使謂福曰:「汝不奉命,吾以軍法從事。」福不得已,以數千人擁衞見惟中,惟中即握大梃擊仆之。數日,福死,河南大治。遷陝右四川宣撫使。時諸軍帥橫侈病民,郭千戶者尤甚,殺人之夫而奪其妻,惟中戮之以徇,關中肅然。語人曰:「吾非好殺,國家綱紀不立,致此輩賊害良民,無所控告,雖欲不去,可乎!」

歳己未、世祖、東師を総統す。惟中を奏して江淮京湖南北路宣撫使と為し、行臺を建てしめ、以て先ず啓行し、恩信を宣布せしむ。蒙古・漢軍諸帥並びに節制を聴かしむ。師還り、蔡州に卒す。年五十五。中統二年、追諡して忠粛公と曰す。

原文歲己未,世祖總統東師,奏惟中為江淮京湖南北路宣撫使,俾建行臺,以先啟行,宣布恩信,蒙古、漢軍諸帥並聽節制。師還,卒于蔡州,年五十五。中統二年,追諡曰忠肅公。