巻145

列傳第三十二:亦憐真班、廉惠山海牙、月魯不花、達禮麻識理

亦憐真班

亦憐真班は西夏の人である。父の俺伯は忠勤をもって世祖に仕え、知樞密院事となった。

原文亦憐真班,西夏人。父俺伯,以忠勤事世祖,為知樞密院事。

亦憐真班は性質剛直にして、行動には礼法があった。仁宗に召し出されて宿衛に入ることを命じられた。延祐六年、翰林侍講學士・中奉大夫に超擢された。至治二年、同知通政院事に転じ、虎符唐兀親軍都指揮使に抜擢された。泰定初年、資善大夫・典瑞院使に遷った。天曆二年、選ばれて太子家令となり、まもなく資政大夫・同知樞密院事に昇進し、侍御史に抜擢され、なお指揮使を兼ねた。至順初年、翰林學士承旨・榮祿大夫に任じられ、功德使に遷り、指揮使はもとのままとした。まもなく陝西行省平章政事として出向したが、赴任せず、ふたたび翰林學士承旨となった。元統・至元の間、伯顏が丞相となり、権勢を専らにして政を擅にし、亦憐真班が事を論じて阿おもねらぬのを憎み、江南行臺御史大夫として出した。まもなくその子の答里麻を殺し、海南に貶謫して置いた。伯顏が敗れると、ようやく召還されて朝廷に帰った。

原文亦憐真班性剛正,動有禮法。仁宗召見,令入宿衞。延祐六年,超拜翰林侍講學士、中奉大夫。至治二年,調同知通政院事,擢虎符唐兀親軍都指揮使。泰定初,遷資善大夫、典瑞院使。天曆二年,以選為太子家令,尋陞資政大夫、同知樞密院事,擢侍御史,仍兼指揮使。至順初,拜翰林學士承旨、榮祿大夫,遷功德使,指揮使如故。尋出為陝西行省平章政事,未行,復為翰林學士承旨。元統、至元之間,伯顏為丞相,專權擅政,嫉其論事不阿,出為江南行臺御史大夫。尋殺其子答里麻,而謫置海南。及伯顏敗,乃得召還朝。

至正六年、光祿大夫・御史大夫に任じられ、中外の廉潔有能の官をことごとく選んで風憲の職に置いたので、一時には人を得たと称された。宣政院使に遷り、甘肅行省平章政事として出向し、方策を設けて西羌の寇を鎮め、民はこれによって安んじ、石碑を立ててその功を称えた。召還されて、銀青榮祿大夫・知樞密院事となり、太醫院を提調し、まもなく金紫光祿大夫を加えられ、ふたたび御史大夫・知経筵事となり、宣忠斡羅思扈衞親軍指揮使を兼ねた。かつて奏上して言うには、「風俗人心は日に日に薄くなる傾向にある。故吏がかつて仕えた官長を弾劾することを禁ずるよう請う」といった。

原文至正六年,拜光祿大夫、御史大夫,盡選中外廉能之官置諸風憲,一時號稱得人。遷宣政院使,出為甘肅行省平章政事,設法弭西羗之寇,民賴以安,立石頌之。召還,為銀青榮祿大夫、知樞密院事,提調太醫院,尋加金紫光祿大夫,復為御史大夫、知經筵事,兼宣忠斡羅思扈衞親軍指揮使。嘗奏言:「風俗人心日趨於薄,請禁故吏不許彈劾所事官長。」

太師の馬扎児台とその子の丞相脱脱がすでに外に謫居していたとき、時の宰相は彼らを陥れようとし、人を唆して変事を告げさせ、かつ台臣を引き連れてともに上奏させようとした。亦憐真班は言った、「宰相たる者で、閑退する日なき者があろうか。ましてや脱脱父子は在官中に大なる咎過もないのに、どうして彼らを険地に追い詰めようとするのか」と。ついに従わなかった。経筵で進講するには必ず詳しく慎み深くしたので、毎回訳文を読むと必ず嘉納された。監察御史が時の宰相を弾劾して奏上したが、帝は聞き入れず、亦憐真班は反復して論奏してやまなかった。これによって上意に逆らい、江浙行省平章政事として出され、湖廣行省左丞相に遷任された。ふたたび召されて知樞密院事となった。十一年、潁州・亳州で兵乱が起こり、朝廷は将を命じて出師させたが、多くは軍律を失って敗北を招いた。亦憐真班はたびたび時の宰相に進言したが、聞き入れられず、ふたたび江浙行省左丞相として出された。

原文太師馬扎兒台與子丞相脫脫既謫居在外,時相欲傾之,嗾人告變,且扳臺臣同上奏。亦憐真班曰:「凡為相者孰無閑退之日,況脫脫父子在官無大咎過,奈何迫之於險?」終不從。經筵進講必詳必慎,故每讀譯文必被嘉納。監察御史劾奏時相,帝不聽,亦憐真班反復論奏不已,由是忤上意,出為江浙行省平章政事,遷拜湖廣行省左丞相。復召知樞密院事。十一年,潁、亳兵起,朝廷命將出師,多失律致敗,數進言于時相,不見聽,復出為江浙行省左丞相。

十二年、江西行省左丞相に移った。このとき妖賊が蘄州・黄州から饒州を陥とした。饒州に属する安仁県は龍興路と境を接しており、その民はみな相い争って乱を起こした。亦憐真班は道すがら安仁に出て、兵を駐めてこれを招いた。来る者には厚く賞を与え、従わぬ者には子の哈藍朵児只と江西左丞の火你赤らに命じて高所に乗り火を放って攻め散らした。余干県は久しく盗賊の巣窟であったが、これも風聞して従順に服した。先に江西行省平章政事の道童は寛容を以て政を行い、軍民は弛緩していた。亦憐真班が到着すると、風采一新し、威声大いに振るい、所在の群盗はみな帰順を謀るようになった。十四年八月、病により官で卒去した。配下の者はそのために意気消沈した。事が聞こえ、推忠佐運正憲秉義同德功臣を贈られ、斉王を追封され、諡は忠献といった。

原文十二年,移江西行省左丞相。於是妖寇由蘄、黃陷饒州,饒之屬邑安仁與龍興相接境,其民皆相挻為亂。亦憐真班道出安仁,因駐兵招之,來者厚加賞賚,不從者命子哈藍朵兒只與江西左丞火你赤等乘高縱火攻散之。餘干久為盜區,亦聞風順服。先是江西行省平章政事道童以寬容為政,軍民懈弛。亦憐真班既至,風采一新,威聲大振,所在羣盜咸謀歸款矣。十四年八月,以疾卒于官,所部為之喪氣。事聞,贈推忠佐運正憲秉義同德功臣,追封齊王,諡忠獻。

子は九人。長男は答里麻。次は普達失理(翰林學士承旨・知制誥兼修国史)、桑哥八剌(同知稱海宣慰司事)、哈藍朵児只(宣政院使)、桑哥答思(嶺北行省平章)、沙嘉室理(嶺北行省参政)、易納室理(大宗正也可扎魯火赤)、馬的室理(僉書樞密院事)、馬剌室理(内八府宰相)。

原文子九人:長答里麻;次普達失理,翰林學士承旨、知制誥兼修國史,桑哥八剌,同知稱海宣慰司事;哈藍朵兒只,宣政院使;桑哥答思,嶺北行省平章;沙嘉室理,嶺北行省參政;易納室理,大宗正也可扎魯火赤;馬的室理,僉書樞密院事;馬剌室理,內八府宰相。

廉惠山海牙

原文廉惠山海牙

廉惠山海牙、字は公亮、布魯海牙の孫、希憲の従子である。父は阿魯渾海牙、広徳路達魯花赤。

原文廉惠山海牙字公亮,布魯海牙之孫,希憲之從子也。父阿魯渾海牙,廣德路達魯花赤。

惠山海牙は幼くして孤となり、父のことに言及すれば、いつも涙を流した。ただ母を養い家計は日に日に足りず、汚れた衣に粗末な食事も恥じなかった。母が喪に服すと、哀毀して礼を越え、喪を負って長江を渡ると風濤が起こった。舟人は神龍が屍を忌むと言ったので、即ち天を仰いで大呼して言った、「我は母を先人に合葬せんとしている。神はどうして我を阻むのか」と。風はやがて止んだ。弱冠の年、大臣が宿衛に入らせようとしたが、辞して言った、「我が大父は世祖に仕え、経書に通じて廉孟子と号された。今まさに科挙を設けて士を取ろうとしている。願わくは書を読んで科第によって進みたい」と。そこで国学に入り積分した。

原文惠山海牙幼孤,言及父,輒泣下。獨養母而家日不給,垢衣糲食不以為耻。母喪,哀毀踰禮,負喪渡江而風濤作,舟人以神龍忌屍為言,即仰天大呼曰:「吾將祔母于先人,神奈何阨我也!」風遂止。年弱冠,大臣欲俾入宿衞。辭曰:「吾大父事世祖,以通經號廉孟子。今方設科取士,願讀書以科第進。」乃入國學積分。

至治元年、進士に及第し、承事郎・同知順州事を授かった。弓匠提挙の馬都剌という者がおり、勢いを頼んで州民の田を奪い、同僚は彼を恐れた。惠山海牙が到着すると即ちその事を裁いた。在官一年、推薦者によって召されて史館に入り、英宗・仁宗実録の編修に預かり、まもなく監察御史に任じられた。時に中書省に大臣で貪婪狼藉な者がおり、即ち抗章してこれを弾劾し、同僚に語って言った、「もし言責によって罪を得るならば、それは我が職分である」と。既にしてまた明里董阿が太廟の摂祭をなすべからざることを劾奏した。都水監に遷り、会通河を疏濬し、灤・漆の二水に堤防を築き、また京東の閘門を修築した。秘書丞・会福総管府治中を歴任し、二月に仏を迎えるのは財を費やし俗を害すると上疏して言い、時の論はこれを是とした。淮東廉訪司僉事として出向し、江浙行省左右司員外郎に遷り、既にして河東・河南・江西廉訪司僉事を歴任し、江南行御史臺經歷に昇った。時に山東の塩法は大いに乱れ、選ばれて都転運使に任じられたが、未だ一月にも満たないうちに、課税の成績が最も優れたため、金幣と上尊を賞賜された。

原文至治元年,登進士第,授承事郎、同知順州事。有弓匠提舉馬都剌者,怙勢奪州民田,同列畏之。惠山海牙至即治其事。在官期年,用薦者召入史館,預修英宗、仁宗實錄,尋拜監察御史。時中書省有大臣貪猥狼籍,即抗章劾之,語同列曰:「儻以言責獲罪,吾之職也。」既又劾奏明里董阿不當攝祭太廟。遷都水監,疏會通河,隄灤、漆二水,又修京東閘。歷祕書丞、會福總管府治中,上疏言二月迎佛費財蠹俗,時論韙之。出僉淮東廉訪司事,遷江浙行省左右司員外郎,既而歷僉河東、河南、江西廉訪司事,陞江南行御史臺經歷。時山東鹽法大壞,以選除都轉運使,曾未期月,用課最,賞賚金幣、上尊。

至正三年の初め、郊祀の礼が行われ、召されて侍儀使に任じられた。翌年、遼・金・宋の三史編修に預かった。崇文太監に遷った。ここから累遷して河南行省右丞となった。時に詔があり、民を発動して決壊した黄河を治めさせ、属郡を遍く騒がせたので、急ぎ不便であることを上言したが、時の宰相は用いなかった。湖廣行省右丞に遷り、武昌失守に連座したが、やがて事が白状され、江西行省右丞に遷った。

原文至正三年初,行郊禮,召拜侍儀使。明年,預修遼、金、宋三史。遷崇文太監。自是累遷為河南行省右丞。時有詔發民治決河,徧騷屬郡,亟以不便上言,而時宰不用。遷湖廣行省右丞,以武昌失守連坐,既而事白,遷江西行省右丞。

時に管轄する郡県は多く賊に陥とされていた。そこで平章政事・司徒の道童と協力して謀り力を尽くし、守備・招捕の策を定め、そのまま本道の廉訪使に任じられた。間もなく、江西省の治所も陥落し、惠山海牙は福建に逃れた。久しくして、僉江浙行樞密院事に任じられ、改めて福建行省右丞に任じられ、兵をもって延平・邵武を鎮め、境内はこれによって寧かになった。一年余り在任し、詔を奉じて省の政務を治めるために還り、備禦の事を総べ、かつ海路によって京師に供給する賦税を監督し、朝廷はこれに頼った。行宣政院使に遷った。翌年、翰林學士承旨・知制誥兼修国史に任じられた。卒去した。年七十一。

原文時所隸郡縣多陷于賊,乃與平章政事、司徒道童協謀殫力,以定守禦招捕之策,就除本道廉訪使。未幾,江西省治亦陷,惠山海牙遁往福建。久之,除僉江浙行樞密院事,改拜福建行省右丞,以兵鎮延平、邵武,境內以寧。居歲餘,奉詔還治省事,總備禦事,且督賦稅由海道供京師,朝廷賴焉。遷行宣政院使。明年,拜翰林學士承旨、知制誥兼修國史。卒,年七十有一。

月魯不花

月魯不花、字は彦明、蒙古の遜都思氏。生まれつき容貌魁偉で、皆が大器と期待した。まだ元服せず、父の脱帖穆耳が千戸の職で越に戍守したため、韓性先生に師事し、文章を書けば筆を下ろせばすぐに完成し、鮮やかに章を成した。江浙の郷試を受験し、選に中り、右榜の第一となった。ちょうど発表の時、試験官が月の中に花の象がある夢を見、後に果たしてその名に符合したので、人は異と為した。遂に元統元年の進士に登第し、将仕郎・台州路録事司達魯花赤に任じられた。県にはまだ学がなかったので、まず孔子廟を建て、その後また儒士を招いて師と為し、後進を教えた。父の喪に服した。

原文月魯不花字彥明,蒙古遜都思氏。生而容貌魁偉,咸以令器期之。未冠,父脫帖穆耳以千戶職戍越,因受業于韓性先生,為文下筆立就,粲然成章。就試江浙鄉闈,中其選,居右榜第一。方揭曉,試官夢月中有花象,已而果符其名,人以為異。遂登元統元年進士第,授將仕郎、台州路錄事司達魯花赤。縣未有學,乃首建孔子廟,既又延儒士為之師,以教後進。丁外艱。

至正元年、朝廷が行都水監を立てると、選ばれてその監の経歴となった。まもなく広東廉訪司経歴に抜擢された。時に朝廷で河の決壊を治めようと議し、行都水監丞として召されたが、到着する頃には集賢待制に改められ、吏部員外郎に任じられた。命を受けて江浙に粟二十四万石を買い付けに行き、到着すると戸の産の高下を等級づけ、買い付けの多少と為し、民を乱さずに事を成し遂げた。その後軍糧が供給されなくなると、また命を受けて江浙に出向き買い付けし、父老を集めて諭して言った、「今、天子は宵衣旰食(夜明け前に衣を着け日暮れに食事をとる勤勉さ)、ただ恩沢が民に下らず民がその所を得ないことを恐れているのみである。しかし賊をどうしようか。賊を討つ者は必ずまず糧餉を要する。私が汝らを乱さないからこそ、命じて私を再び来させたのであり、賊を討つことは即ち民を安んずる所以である。父老たちはどう思うか」と。衆は皆応えて言った、「公の言う通りです」と。一ヶ月も経たずに、糧食の事は完了した。母の喪に服したが、中書省が賻儀を贈り且つ喪中起復を命じたが、応じなかった。

原文至正元年,朝廷立行都水監,以選為其監經歷。尋擢廣東廉訪司經歷。會廷議將治河決,以行都水監丞召之,比至,改集賢待制,除吏部員外郎。奉命至江浙糴粟二十四萬石,至則第戶產之高下,以為糴之多寡,不擾而事集。既而軍餉不給,又奉命出糴于江浙,召父老諭曰:「今天子宵衣旰食,惟恐澤不下民而民不得其所耳,然奈盜賊何?夫討賊者必先糧餉,以我不汝擾,故命我復來,蓋討賊即所以安民耳。父老其謂何?」眾咸應曰:「公言是也。」不踰月,糧事以畢。丁母憂,中書遣賻且起復,不應。

間もなく、太師・右丞相の脱脱が南征し、軍事に従うことを辟召し、糧餉の輸送を監督したところ、糧餉の用は豊かになった。吏部郎中に昇進し、まもなく監察御史に任じられた。まず上疏して言った、「郊廟の礼が甚だ欠けており、天子はみずから南郊で祭祀を行い、太室で殷祭(盛大な祭)をなすべきである」と。続いてまた上疏して言った、「皇太子は天下の根本であり、老成重臣を選んで輔導と為し、その徳を成すべきである」と。帝は皆これを嘉納した。吏部侍郎に昇進し、江浙で官吏の選考を行ったが、時にその公平を称えられた。ちょうど朝廷に河間・長蘆に局を置いて海船三百艘を造ろうとする建議があったが、月魯不花はすぐに書を為してその不便を詳しく述べた。言上が中書省に入り、議者に逆らい、工部侍郎に転じた。後に彰徳に分派して赴く途中、河間を通りかかると、民が道を遮り押し寄せて拝謝して言った、「公の言葉がなければ、我ら民は死んでいたでしょう」と。

原文未幾,太師、右丞相脫脫南征,辟從軍事,督饋餉,饋餉用舒。陞吏部郎中,尋拜監察御史。首上疏言:「郊廟禮甚缺,天子宜躬祀南郊,殷祭太室。」繼又上疏言:「皇太子天下之本,掌簡老成重臣為輔導,以成其德。」帝皆嘉納之。陞吏部侍郎,銓選於江浙,時稱其公允。適朝廷有建議欲於河間、長蘆置局造海船三百艘者,月魯不花即為書具言其非便。言入中書,忤議者,遷工部侍郎。後分部彰德,道過河間,民遮擁拜謝曰:「微公言,吾民其斃矣。」

時に方々で守令の選任を重んじていた折、保定が京畿に近接しているため、保定路達魯花赤に任じられた。陛辞の際、詔で諄く切に諭された。保定は毎年数十万石の糧を新郷に輸送していたが、不便を苦にしていた。月魯不花は京倉に輸送するよう請うて便利にした。俄かに吏部尚書に任じられた。保定の父老百余名が宮廷に赴き、監郡を留めて我ら民を撫でるよう乞うと述べたので、遂に尚書のまま郡の事を知る(兼任)こととなった。時に賊が北へ黄河を渡り、日々城を修築し濠を浚って戦守の具を整えた。朝廷で五省八衛の軍を発して外鎮に戍守させようと議したが、月魯不花は上疏してその兵を留めて本郡を護ることを願い出た。遂に黒軍数千人及び西山八十二寨の民義軍を団結させて統率し、勢いは大いに張った。賊が再び境を侵したが、皆不利で遁走した。中奉大夫に昇進し、上尊四器・馬百匹を賜り、僚佐はそれぞれ秩を増し、別に宣勅を下して功ある者を賞させた。召還されて詳定使となった。保定の民はその去るを忍びず、画像を描いて祀った。保定を去って一月にして城は陥落した。

原文會方重選守令,以保定密邇京畿,除保定路達魯花赤,陛辭,詔諭諄切。保定歲輸糧數十萬石於新鄉,苦弗便。月魯不花請輸京倉以便之。俄除吏部尚書。保定父老百數詣闕,言乞留監郡以撫吾民,遂以尚書仍知郡事。會賊北渡河,日修城浚濠為戰守具。廷議發五省八衞軍出戍外鎮,月魯不花疏願留其兵護本郡,遂兼統黑軍數千人及團結西山八十二寨民義軍,勢大張。賊再侵境,皆不利,遁去。陞中奉大夫,錫上尊四、馬百匹,僚佐增秩有差,別降宣敕俾賞有功者。召還為詳定使。保定民不忍其去,繪像以祀之。去保定一月而城陷矣。

朝廷は月魯不花が平素より民望を負っているとして、城に入って民を招諭するよう命じた。城に着くと、賊は堅く壁を守って出て来ず、民は多く密かに出て来て謁見拝礼した。大都路達魯花赤に改任された。ある執政が故中書令耶律楚材の先祖の墓地の地を偽って奏上し、蕃僧に与えようとしたが、月魯不花がこれを阻止し、遂に与えなかった。吏部尚書に転じた。時に大賊の程思忠が永平を占拠し、その配下の雷帖木児不花が偽って降伏したが、事が発覚して捕らえられ、殺されたので、思忠は壁を守って一層堅固になった。詔して月魯不花にこれを招撫させた。衆は皆その行を難じたが、月魯不花は毅然として言った、「臣が君命に死ぬは、分である。どうして先んじて禍福を計ろうか」と。遂に城に入って賊を諭すと、賊は皆感激して涙を流し、羅列して拝礼し降伏を受け入れた。

原文朝廷以月魯不花夙負民望,令入城招諭之,抵城,賊堅壁不出,民多竊出謁拜者。改大都路達魯花赤。有執政以故中書令耶律楚材先塋地冒奏與蕃僧為業者,月魯不花格之,卒弗與。轉吏部尚書。會劇賊程思忠據永平,其佐雷帖木兒不花偽降,事覺被擒,殺之,思忠壁守遂益堅。詔令月魯不花招撫之,眾悉難其行,月魯不花毅然曰:「臣死君命,分也,奈何先計禍福哉!」竟入城諭賊,賊皆感泣羅拜納降。

還って、翰林侍講学士に遷り、俄かにまた大都路達魯花赤となった。宣文閣で帝に謁見すると、旨があって言うには、「朕は畿甸の民が疲弊しているので、特に汝を選んで我が民を撫でる。汝は威を峻しくするな、法を弛めるな。もし権力を挟んで汝に非法を干す者があれば、直ちに奏上せよ」と。職務に就いた初め、帝及び皇后・皇太子が皆使者を遣わして酒を賜った。ある権臣が免役の事で謁見に来たが、月魯不花は面と向かって叱責して言った、「聖なる訓戒が耳にある。違うことはできない」と。資善大夫に転じ、江南行御史台中丞に任じられた。陛辞の日、帝は嘉禧殿に御してこれを慰労し、且つ上尊・金幣を賜った。皇太子もまた「成徳誠明」の四大字を書いて賜った。月魯不花は海路で紹興に向かい、政治は寛厳偏らなかった。詔して一品に進階して栄禄大夫とした。まもなく浙西粛政廉訪使に任じられた。

原文還,遷翰林侍講學士,俄復為大都路達魯花赤。入見帝宣文閣,有旨若曰:「朕以畿甸之民疲敝,特選爾撫吾民。爾毋峻威,毋弛法,或挾權以干汝於非法,其即以聞。」視事之初,帝及皇后、皇太子皆遣使賜之酒。有權臣以免役事來謁,月魯不花面斥曰:「聖訓在耳,不敢違。」轉資善大夫,拜江南行御史臺中丞。陛辭之日,帝御嘉禧殿慰勞之,且賜以上尊、金幣;皇太子亦書「成德誠明」四大字賜之。月魯不花乃由海道趨紹興,為政寬猛不頗。詔進階一品為榮祿大夫。既而除浙西肅政廉訪使。

時に張士誠が浙西を占拠し、王号を僭称した。共に処することはできないと考え、甥の同寿に言った、「我が家は代々国恩を受け、賊を刺して国に報いることができないことを恨む。ましてや賊と同処しようか」と。同寿に命じて船を準備して妻子を載せ、自らは木櫃の中に身を隠し、藁秸で覆って脱走し、慶元に至った。士誠の部下がこれを察知し、鉄騎百余りを遣わして曹娥江まで追ったが、及ばずに返った。

原文會張士誠據浙西,僭王號,度弗可與並處,謂姪同壽曰:「吾家世受國恩,恨不能刺賊以報國,矧乃與賊同處邪?」令同壽具舟載妻子,而匿身木櫃中,蔽以藁秸,脫走,至慶元。士誠部下察知之,遣鐵騎百餘追至曹娥江,不及而返。

俄かに山南道廉訪使に改任され、海を渡って北へ向かったが、道が阻まれ、鉄山に戻り着いた。倭賊の船が非常に多く遭遇したので、同舟の人力を頼りに戦って拒んだ。倭賊は投降すると偽って言ったが、受け入れなかった。そこで賊はすぐに船に登り、月魯不花を捕らえて拝伏せよと命じた。月魯不花は罵って言った、「我は朝廷の重臣である。どうして賊に拝しようか」と。遂に害に遇った。害に遇った時、家奴の那海に命じて首賊を刺殺させた。次子の枢密院判官老安・甥の百家奴は敵を防いで、また死んだ。同舟で死事した者は八十余人であった。事が聞こえ、朝廷は攄忠宣武正憲徇義功臣・銀青栄禄大夫・遼陽等処行中書省平章政事・上柱国を追贈し、諡して忠肅とした。

原文俄改山南道廉訪使,浮海北而往,道阻,還抵鐵山,遇倭賊船甚眾,乃挾同舟人力戰拒之,倭賊紿言投降,弗納。於是賊即登舟攫月魯不花令拜伏,月魯不花罵曰:「吾朝廷重臣,寧為賊拜邪!」遂遇害。當遇害時,麾家奴那海刺殺首賊。次子樞密院判官老安、姪百家奴扞敵,亦死之。同舟死事者八十餘人。事聞,朝廷贈攄忠宣武正憲徇義功臣、銀青榮祿大夫、遼陽等處行中書省平章政事、上柱國,諡忠肅。

達禮麻識理

原文達禮麻識理

達禮麻識理、字は遵道、怯烈台氏。その祖先は北方の大族で、六世祖から開平に居住し始めた。父は阿剌不花といい、江西行省参知政事で、追封されて趙国公、諡は襄惠。

原文達禮麻識理字遵道,怯烈台氏。其先北方大族,六世祖始居開平。父曰阿剌不花,江西行省參知政事,追封趙國公,諡襄惠。

達禮麻識理は幼くして聡明で、師について経史を授けられると、過目すればすぐに理解した。至正五年、経筵で選ばれて訳史に充てられ、ますます学問に自ら砥礪し、搢紳先生は皆遠大な将来を期待した。御史台訳史に転補し、遂に御史台照磨に任じられた。十五年、監察御史に任じられ、山北道粛政廉訪司事に僉出されたが、行かず、留まって詹事院長史となった。俄かに工部員外郎に遷り、また留まって長史となった。翌年、中議に任じられ、まもなく参議詹事院事に昇進した。十七年、太子家令となった。十八年、秘書太監・吏部侍郎・御史台経歴・中書右司郎中を歴任した。十九年、刑部尚書に任じられ、南北兵馬司巡綽事を提調した。盗賊が畿甸に迫り、人心は大いに恐れた。達禮麻識理は静をもってこれを鎮め、民はこれに頼って安んじた。二十一年、中書参議から中書参知政事・同知経筵事に昇進した。二十三年冬、上都留守に遷り、開平府尹を兼ね、栄禄大夫を加えられ、土嶺に分司し、東は三州を鎮め、転輸を監督した。

原文達禮麻識理幼穎敏,從師授經史,過目輒領解。至正五年,經筵選充譯史,益自砥礪于學,搢紳先生皆以遠大期之。轉補御史臺譯史,遂除御史臺照磨。十五年,拜監察御史,出僉山北道肅政廉訪司事,未行,留為詹事院長史。俄遷工部員外郎,復留為長史。明年,除中議,尋陞參議詹事院事。十七年,為太子家令。十八年,歷祕書太監、吏部侍郎、御史臺經歷、中書右司郎中。十九年,除刑部尚書,提調南北兵馬司巡綽事。盜逼畿甸,人心大恐。達禮麻識理能鎮之以靜,民恃以為安。二十一年,由中書參議陞中書參知政事、同知經筵事。二十三年冬,遷上都留守,兼開平府尹,加榮祿大夫,分司土嶺,東鎮三州,以督轉輸。

二十四年、朝廷は以前の中書平章政事タシ・テムル(塔失帖木兒)を上都留守として派遣した。当時、ボロ・テムル(孛羅帖木兒)が兵を率いて京師に駐屯し、皇太子は外に出て居を構えていた。ダリマシリ(達禮麻識理)とタシ・テムルはともに忠義をもって国に尽くすことを期し、互いに人心を結集して時勢の変化を見守った。間もなく、タシ・テムルは大司農に改任された。タシ・テムルはダリマシリに言った、「私が京師に行けば強臣に制せられ、図り難い」と。そこで留まって行かなかった。ちょうどトギル(脫吉兒)がボロ・テムルの命により蓋里泊に兵を駐屯させ、宗王イェス・エブケン(也速也不堅)を腹心とし、金印を授けて上都の東郊に駐留させ、留守シェン(善安)にワジラ(瓦吉剌)部落で兵を集めさせた。ダリマシリは彼らに礼をもって遇し、シェンは辞去した。ボロ・テムルはさらにテムル(帖木兒)とトフスゲ(託忽速哥)を上都に派遣し、守備を名目としたが、事態はますます矛盾を深めた。ダリマシリは彼らと応対し、少しも外に表さず、密かに前宗正ジャルグチ(扎魯忽赤)のユル・テムル(月魯帖木兒)を遣わし、ハン・ハハラハイ(罕哈哈剌海)行樞密知院のイラオダル(益老答兒)に密かに連絡を取り、急ぎ兵を南進させるよう請うた。また留守司照磨の陳恭を興州に派遣して兵を徴発し、閑職にある官吏で才能ある者を訪ね求め、東西手バラハチ(八剌哈赤)と虎賁司を統制し、壮丁と苗軍を糾合し、火銃を什伍で連ね、ある日鉄旛竿山下に布陣し、四方の勤王の軍が皆到着したと喧伝した。テムルらは大いに驚き、一夜のうちに東へ逃走し、その率いる兵はことごとく潰走した。これによりダリマシリは武備を増強し、城の守りをますます厳重にした。

原文二十四年,朝廷以前中書平章政事塔失帖木兒來為留守。時孛羅帖木兒擁兵京師,而皇太子出居于外,達禮麻識理與塔世帖木兒皆以忠義許國,相與結人心以觀時變。未幾,改授塔世帖木兒為大司農。塔世帖木兒謂達禮麻識理曰:「我至京師則制於強臣,未易圖也。」因留不行。適脫吉兒以孛羅帖木兒命屯兵蓋里泊,託腹心於宗王也速也不堅,授以金印,俾駐上都之東郊,而以留守善安集兵於瓦吉剌部落。達禮麻識理遇之有禮,善安辭去。孛羅帖木兒復調帖木兒、託忽速哥至上都,以守禦為名,事益矛盾。達禮麻識理與之周旋,略無幾微見於外,而密遣前宗正扎魯忽赤月魯帖木兒潛通音問于罕哈哈剌海行樞密知院益老答兒,請亟調兵南行。又遣留守司照磨陳恭取兵興州,訪求在閑官吏之有才者,約束東西手八剌哈赤、虎賁司,糾集丁壯苗軍,火銃什伍相聯,一旦布列鐵旛竿山下,揚言四方勤王之師皆至,帖木兒等大駭,一夕東走,其所將兵盡潰。由是達禮麻識理增修武備,城守益嚴。

二十五年、皇太子が冀寧におり、上都に分省を設置するよう命じ、ダシ・テムル(達世帖木兒)を平章政事、ダリマシリを右丞とし、便宜を以って事を処置し、根本を固護させた。七月、トゲン・テムル(禿堅帖木兒)がボロ・テムルの命により兵を率いて上都を侵犯し、先に利用少監のテリゲチ(帖里哥赤)を上都に派遣し、広く糧食を備え、遠く大軍を迎えるよう命じた。ダリマシリは大義を説き明かし、彼を市で誅戮し、民情はようやく安定した。やがてトゲン・テムルが鉄甲の馬歩軍を率いて野を覆い尽くすほどに到来し、叫び声は天を震わした。ダリマシリは軍士を整えて城を守らせ、逆順の道理を明らかにして人心を安んじ、城壁を巡視し、昼夜少しも休まなかった。夜には死士を城から縋り下ろし、敵の攻城具を焼き払い、副留守のトルミシ・ハイヤ(禿魯迷失海牙)に命じて兵を率い小東門から出撃させ、臥龍岡で敵と大戦し、これを破った。間もなく、ボロ・テムルが誅殺され、トゲン・テムルらは皆敗走し、上都は安泰となった。中書右丞に任じられ、上都留守を兼ね、虎賁司を提調し、光禄大夫を加えられ、黄金の帯を賜り、さらに東西手バラハチの提調を命じられた。やがて上都分省が廃止されると、遥かに中書平章政事・上都留守を授けられ、首位に位置したが、固辞したが許されなかった。

原文二十五年,皇太子在冀寧,命立上都分省,達世帖木兒為平章政事,達禮麻識理為右丞,便宜行事,以固護根本。七月,禿堅帖木兒用孛羅帖木兒命以兵犯上都,先遣利用少監帖里哥赤至上都,令廣備糧餼,遠迓大軍。達禮麻識理開陳大義,戮之於市,民情乃定。已而禿堅帖木兒帥鐵甲馬步軍蔽野而至,呼聲動天。達禮麻識理飭軍士城守,申明逆順之理以安人心,巡視城壁,晝夜不少息。夜遣死士縋城而下,焚其攻具,而調副留守禿魯迷失海牙引兵由小東門出,與之大戰臥龍岡,敗之。未幾,孛羅帖木兒伏誅,禿堅帖木兒皆奔潰,而上都以安。拜中書右丞,兼上都留守,提調虎賁司,加光祿大夫,賜黃金繫腰,仍命提調東西手八剌哈赤。既而上都分省罷,遙授中書平章政事、上都留守,位居第一,力辭不允。

翌年、大宗正府也可ジャルグチ(也可扎魯忽赤)に召された。さらに翌年、太子詹事に任じられた。詔を奉じて軍中に至り、大義を宣明し、藩将は感悦した。翰林学士承旨に転じた。秋、知樞密院事・大撫軍院事に任じられた。初め、大撫軍院が設置された時、皇太子はオルジェイ・テムル(完者帖木兒)、ダルマ(答爾麻)、テムリンシャ(帖林沙)、バヤン・テムル(伯顏帖木兒)、李国鳳らの計を用い、専らココ・テムル(擴廓帖木兒)の備えとしたが、やがて政権が統一されず、事務はますます乖離し、各々また去り、ダリマシリが到着した時には、事を行うに及ばぬ状態であった。

原文明年,召為大宗正府也可扎魯忽赤。又明年,拜太子詹事。奉詔至軍中,宣明大義,藩將感悅。遷翰林學士承旨。秋,除知樞密院事、大撫軍院事。初,大撫軍院之立,皇太子用完者帖木兒、答爾麻、帖林沙、伯顏帖木兒、李國鳳等計,專以備禦擴廓帖木兒,既而政權不一,事務益乖,各復引去,而達禮麻識理之至,事且無可為者。

ダリマシリの死に先立つこと一晩、ケシク官のハラジャン(哈剌章)なる者(アルラ(阿兒剌)氏のアルト(阿魯圖)の孫)が、夜に太祖(チンギス・カン)が召見し、語る夢を見た、「我は勤労をもって天下を取り、トゴン・テムル(妥歡帖睦爾)に伝えた。しかしアユルシリダラ(愛猷識理達臘)は我が家法を継がず、廃れ損なわせている。もし直ちに改め図らねば、天命は保てぬ。汝は我が功臣の後裔であり、かつ誠実である故に召して語る。汝は明朝、急ぎ我が言葉を汝の主(皇帝)とアユルシリダラに告げよ。告げなければ我は汝を誅す。告げて改めなければ、我は他に処する。ダリマシリはその人、ほぼ時事に通じている者であるが、知りながら言わぬなら、何の用があろうか、我は先ず彼を誅すであろう」と。明朝、ハラジャンが帝に謁見し、夢のことを詳しく告げると、帝は皇太子に告げるよう命じた。退出する頃には、ダリマシリはすでに病なくして卒去していた。

原文達禮麻識理之卒也,先一夕,怯薛官哈剌章者,阿兒剌氏阿魯圖孫也,夜夢太祖召見,語之曰:「我以勤勞取天下,以傳于妥歡帖睦爾。而愛猷識理達臘不克肖似,廢壞我家法,苟不即改圖,天命不可保矣。爾吾功臣之後,且誠實,故召汝語,汝明旦亟以吾言告而主及愛猷識理達臘。汝不以告,吾即殛汝,告而不改,則吾它有處之。達禮麻識理其人庶幾識事宜者,然知而不言,將焉用之,吾其先殛之矣。」明旦,哈剌章入見帝,具以夢告,帝令以告皇太子。比出,則達禮麻識理已無疾而卒矣。