巻144

列伝第三十一:答里麻、月魯帖木兒、卜顏鐵木兒、星吉、福壽、道童

答里麻

答里麻は高昌の人である。祖父の撒吉斯は遼王の傅となり、世祖はその賢を称えた。李璮討伐に従い、勲功により山東行省大都督を授けられた。

原文答里麻,高昌人。大父撒吉斯,為遼王傅,世祖稱其賢。從討李璮,以勳授山東行省大都督。

答里麻は弱冠にして宿衛に入った。大徳十一年、御薬院ダルガチに任じられ、回回薬物院に転じ、まもなく湖北・山南両道廉訪司事を僉し、召されて監察御史に拝された。時に丞相帖木迭兒が権を専らにし貪婪放縦であったので、答里麻は同僚の亦憐真・馬祖常を率いてその罪を弾劾した。高昌の僧侶が丞相の威を恃み、法を違えて南城で婦を娶ったが、答里麻はこれを詰問し、利害を顧みず奮い立ち、風紀はこれにより大いに振るった。河東道廉訪副使に抜擢された。隰州の村民が賽神を行い、酔って姚甲を毆殺し、首謀者は騒ぎに乗じて逃げ去った。有司は同会者を捕らえて獄に繋ぎ、一年を経ても決しなかった。答里麻は言った、「人を殺した者は既に逃げ、存亡も知れない。この連中は皆過って罪に落ちただけで、無罪なのに反って桎梏を加えるのか」と。悉くこれを釈放した。

原文答里麻弱冠入宿衞。大德十一年,授御藥院達魯花赤,遷回回藥物院,尋出僉湖北、山南兩道廉訪司事,召拜監察御史。時丞相帖木迭兒專權貪肆,答里麻帥同寅亦憐真、馬祖常劾其罪。高昌僧恃丞相威,違法娶婦南城,答里麻詰問之,奮不顧利害,風紀由是大振。擢河東道廉訪副使。隰州村民賽神,因醉毆殺姚甲,為首者乘閙逃去,有司逮同會者繫獄,歷歲不決。答里麻曰:「殺人者既逃,存亡不可知,此輩皆詿誤無罪而反桎梏耶?」悉縱之。

至治元年、帖木迭兒が再び丞相となり、復讐を事としたので、答里麻は辞して去った。翌年、燕南道廉訪副使に改めた。開州のダルガチ石不花歹は頗る政績が顕著であったが、同僚がこれを妬み、民を唆して彼が民の妻俞氏と飲酒したと誣告させた。答里麻は察知して、俞氏は八十の老嫗であり、石不花歹は実際に飲酒していないことを知り、ここに誣告者の罪を断じ、石不花歹は職に復帰した。行唐県の民が道端で桑を伐っていたところ、偶々人が斧を借りてその杖を削り、その者が夜に杖を持って民の財を劫いた。事が発覚し、斧の主も盗賊と共に獄に下された。答里麻は、彼が知らなかったことを考慮し、即座に釈放した。深州の民の老女が怒って息子の嫁を毆り殺した。嫁はちょうどその子を抱いており、子も誤って触れて死んだ。老女は七十歳であった。同僚は刑を免ずることを議したが、答里麻は認めず、言った、「国の制度では、罪人七十歳は刑を免ずるが、それは血気が既に衰えて刑に耐えられないからである。老女が既に二人を殺すことができたのに、どうして衰老と言えようか」と。ついに獄中で死なせた。至治元年、済寧路総管に任じられ、学を興し農を勧め、廃れた事柄を悉く修め、府に滞った事は無かった。済陽県に牧童が鉄の連鎖を持って野雀を撃ち、誤って同じく牧する者を殺し、数年獄に繋がれていた。答里麻は言った、「小児が誤って同牧者を殺したのは、実際に殺す意思は無い。罪を定めるのは難しい」と。銅を罰して帰した。

原文至治元年,帖木迭兒復相,以復讎為事,答里麻辭去。明年,改燕南道廉訪副使。開州達魯花赤石不花歹頗著政績,同僚忌之,嗾民誣其與民妻俞氏飲。答里麻察知俞氏乃八十老嫗,石不花歹實不與飲酒,於是抵誣告者罪,石不花歹復還職。行(堂)〔唐〕縣民斫桑道側,偶有人借斧削其杖,其人夜持杖劫民財,事覺,并逮斧主與盜同下獄。答里麻原其未嘗知情,即縱之。深州民媼怒毆兒婦死,婦方抱其子,子亦誤觸死。媼年七十,同僚議免刑,答里麻不可,曰:「國制,罪人七十免刑,為其血氣已衰不任刑也。媼既能殺二人,何謂衰老?」卒死獄中。至治元年,除濟寧路總管,興學勸農,百廢具修,府無停事。濟陽縣有牧童持鐵連結擊野雀,誤殺同牧者,繫獄數歲。答里麻曰:「小兒誤殺同牧者,實無殺人意,難以定罪。」罰銅遣之。

泰定元年、福建廉訪使に昇進した。朝廷が宦官伯顏を遣わして繍段を催促監督させ、民財を横取りし、宣政院判官朮鄰もまた富める僧侶から賄賂を取ったので、答里麻は皆これを弾劾した。浙西廉訪使に転じた。時に文宗が江陵より発し、阿児哈禿が来て旨を諭し、賄賂を求めたが得られず、帰って朝廷に讒言した。京に召され、重罪に処せられようとした。到着する頃には、帝の怒りは解け、上都同知留守に転じた。

原文泰定元年,陞福建廉訪使。朝廷遣宦官伯顏催督綉段,橫取民財,宣政院判官朮鄰亦取賂于富僧,答里麻皆劾之。遷浙西廉訪使。會文宗發江陵,阿兒哈禿來諭旨,求賂不獲,還譖于朝,召至京,處以重罪。比至,帝怒解,遷上都同知留守。

天暦二年八月、明宗が崩御し、文宗が正統の大位につくと、使者が頻繁に往来した。答里麻は朝暮力を尽くし、事に欠けるところなく、帝は特に錦衣を賜ってこれを嘉した。天暦三年、淮東廉訪使に転じた。翌年、召されて刑部尚書に拝された。国の制度では、新君が即位すると必ず諸王・駙馬・妃主及び宿衛の官吏に金帛を賜う。答里麻は言った、「必ず名を唱えて給散し、虚増の数があってはならない」と。国の費用は大いに省かれ、帝はまた黄金の腰帯を賜ってその能を表彰した。

原文天曆(元)〔二〕年八月,明宗崩,文宗入正大統,使者旁午。答里麻朝暮盡力,事無缺失,帝特賜錦衣以嘉之。天曆三年,遷淮東廉訪使。明年,召拜刑部尚書。國制,新君即位,必賜諸王、駙馬、妃主及宿衞官吏金帛。答里麻曰:「必唱名給散,無虛增之數。」國費大省,帝復賜黃金腰帶以旌其能。

元統元年、遼陽行省参知政事に昇進した。高麗国の使者が京に朝するため、遼陽を通り過ぎ、省官に謁し、各々布四匹と書一幅を奉り、征東省の印でこれを封じた。答里麻はその使者を詰問して言った、「国の制度では、印を設けて公牘に署し、奸偽を防ぐものである。何ぞ私書を封ずるのか。況んや汝が国を出る時、我は尚京におり、未だ遼陽省官ではなかった。今何故に書を遺わすのか。汝の君臣は何ぞかくの如く欺詐を行うのか」と。使者は言葉に窮し、その書と布を返した。

原文元統元年,陞遼陽行省參知政事。高麗國使朝京,道過遼陽,謁省官,各奉布四匹、書一幅,用征東省印封之。答里麻詰其使曰:「國制,設印以署公牘、防姦偽,何為封私書?況汝出國時,我尚在京未為遼陽省官,今何故有書遺我?汝君臣何欺詐如是耶?」使辭屈,還其書與布。

元統三年、山東廉訪使に転じた。時に山東に盗賊が起こり、陳馬騾及び新李が白昼に殺掠を行った。答里麻は官吏の貪污が原因であると考え、先ずこれを弾劾して去らせ、その後で賊を擒える方略を上奏した。朝廷はこれを嘉納し、即ち兵を遣わして擒え獲らせ、斉魯は以て安んじた。大都路留守に任じられた。帝は延春閣で大臣を宴し、特に答里麻に白鷹を賜ってその貞廉を表した。帝は嘗て答里麻に七星堂を修繕させた。先に、修繕には必ず赤緑金銀で装飾していたが、答里麻は独り質素を務め、画工に山林景物を図させた。左右の年少者は皆然らずと思った。この年の秋、車駕が上京より還り、入って観ると、乃ち大いに喜び、手を以て壁を撫でて嘆じて言った、「心あるかな、留守よ」と。白金五十両と錦衣一襲を賜った。

原文元統三年,遷山東廉訪使。時山東盜起,陳馬騾及新李白晝殺掠。答里麻以為官吏貪污所致,先劾去之而後上擒賊方略。朝廷嘉納之,即遣兵擒獲,齊魯以安。除大都路留守。帝宴大臣於延春閣,特賜答里麻白鷹以表其貞廉。帝嘗命答里麻修七星堂。先是,修繕必用赤綠金銀裝飾,答里麻獨務樸素,令畫工圖山林景物,左右年少皆不然。是歲秋,車駕自上京還,入觀之,乃大喜,以手撫壁嘆曰:「有心哉,留守也!」賜白金五十兩、錦衣一襲。

至正六年、河南行省右丞に昇進し、翰林学士承旨に改めた。至正七年、陝西行臺中丞に転じた。時に六十九歳であった。致事した後、召されて中書平章政事を商議させたが、拝せず、全俸で終身優養された。

原文至正六年,陞河南行省右丞,改翰林學士承旨。至正七年,遷陝西行臺中丞,時年六十九。致事後,召商議中書平章政事,不拜,全俸優養終身。

月魯帖木兒

原文月魯帖木兒

月魯帖木兒は、卜領勤多禮伯臺氏である。曾祖父の貴裕は太祖に仕え、ケレンク(怯憐口)ケシク(怯薛)官を管領した。祖父の合剌は父の職を襲い、世祖に仕えた。父の普蘭奚は宿衛より中書右司員外郎となり、丞相哈剌哈孫と謀議して武宗を迎え立て、累遷して山北遼東道粛政廉訪使に至った。

原文月魯帖木兒,卜領勤多禮伯臺氏。曾祖貴裕,事太祖,為管領怯憐口怯薛官。祖合剌,襲父職,事世祖。父普蘭奚,由宿衞為中書右司員外郎,與丞相哈剌哈孫建議迎立武宗,累遷至山北遼東道肅政廉訪使。

月魯帖木兒は幼くして聡明で、書を読んで強く記憶し、倜儻として大志があった。十二歳の時、成宗は哈剌哈孫の子脱歓と共に国学に入ることを命じた。仁宗の時に宿衛に入った。一日、帝が左右を顧みて問うて言った、「この人は容貌凡ならず、誰の子か」と。左右はその父の名を忘れたが、月魯帖木兒は即座に対えて言った、「臣が父は普蘭奚でございます」と。帝は言った、「汝の父は謀を賛えて国難を定めた。朕は未だ嘗て忘れたことはない」と。因って脱忽台に命じて四ケシク(怯薛)のジャサク・ホスン(扎撒火孫)に伝旨させ、常に禁廷に侍らせ、その入るを止めないようにさせた。

原文月魯帖木兒幼警穎,讀書強記,俶儻有大志。年十二,成宗命與哈剌哈孫之子脫歡同入國學。仁宗時入宿衞,一日帝顧問左右曰:「斯人容貌不凡,誰之子耶?」左右忘其父名,月魯帖木兒即對曰:「臣父普蘭奚也。」帝曰:「汝父贊謀以定國難,朕未嘗忘。」因命脫忽台傳旨四怯薛扎撒火孫,令常侍禁廷,毋止其入。

哈剌哈孫は彼を中書蒙古ビチェクチ(必闍赤)に用いようとしたが、辞した。哈剌哈孫は言った、「汝は年若い、何を為さんとするのか」と。対えて言った、「御史となりたいだけです」と。人はその志を壮とした。久しくして、遂に監察御史に拝され、上都を巡按し、太師・右丞相帖木迭兒が張弼より賄賂六万貫を受け取り死罪を貸したことを劾奏した。帝は怒り、太師の印を砕き、月魯帖木児に鈔一万貫を賜い、兵部郎中に任じ、殿中侍御史に拝した。給事中・左侍儀・同修起居注に遷った。まもなく右司郎中となり、便殿に座を賜い、帝は左右を顧みて言った、「月魯帖木兒は識量明遠、大用すべき者である」と。他日、帝は近臣に語って言った、「朕は聞く、前代には皆太上皇の号があったと。今皇太子も且つ長じ、大位に居ることができる。朕は太上皇となって、汝らと西山に遊観し天年を終えたい」と。御史中丞蠻子・翰林学士明里董阿は皆称善した。月魯帖木兒独り起ち上がり拝して言った、「臣は聞く、昔の所謂太上皇は、唐の玄宗・宋の徽宗の如きは、皆禍乱に当たり、已むを得ずして之を為した者です。願わくは陛下は正大の位を保ち、以て万世無疆の業を保たれんことを。前代の虚名は何ぞ慕うに足らんや」と。帝はその対えを善しとした。

原文哈剌哈孫欲用為中書蒙古必闍赤,輒辭焉。哈剌哈孫曰:「汝年幼,欲何為乎?」對曰:「欲為御史爾。」人壯其志。久之,遂拜監察御史,巡按上都,劾奏太師、右丞相帖木迭兒受張弼賕六萬貫貸死。帝怒,碎太師印,賜月魯帖木兒鈔萬貫,除兵部郎中,拜殿中侍御史。遷給事中、左侍儀、同修起居注。尋為右司郎中,賜坐便殿,帝顧左右謂曰:「月魯帖木兒識量明遠,可大用者也。」他日,帝語近臣曰:「朕聞前代皆有太上皇之號,今皇太子且長,可居大位,朕欲為太上皇,與若等游觀西山以終天年。」御史中丞蠻子、翰林學士明里董阿皆稱善。月魯帖木兒獨起拜曰:「臣聞昔之所謂太上皇,若唐玄宗、宋徽宗,皆當禍亂,不得已而為之者也。願陛下正大位,以保萬世無疆之業,前代虛名何足慕哉!」帝善其對。

仁宗が崩御すると、帖木迭兒が再び中書省に入り、丞相の地位を占めた。参議の乞失監が金帯を受け取った罪で獄に繋がれると、帖木迭兒は乞失監に命じて、月魯帖木兒が御史であった時に丞相が賄賂を受けたと誣告したことを訴えさせた。皇太后は丞相ハサンらに命じて徽政院で推問させたが事実無根であり、事件は収束した。帖木迭兒はそこで月魯帖木兒を山東塩運司副使に奏請し、亞中大夫から承事郎に降格させたが、一ヶ月の間に塩税が万単位で増加した。父の喪に服し、遺骸を支えて西へ帰還した。山南江北道肅政廉訪副使に抜擢された。泰定初年、汴梁路総管に転じ、さらに武昌総管に任命されたが、親を養うため赴任しなかった。

原文仁宗崩,帖木迭兒復入中書,據相位。參議乞失監以受人金帶繫獄,帖木迭兒乃使乞失監愬月魯帖木兒為御史時誣丞相受賕。皇太后命丞相哈散等即徽政院推問不實,事遂釋。帖木迭兒乃奏以月魯帖木兒為山東鹽運司副使,降亞中大夫為承事郎,期月間鹽課增以萬計。丁外艱,扶喪西還。擢山南江北道肅政廉訪副使。泰定初,遷汴梁路總管,再調總管武昌,以養親不赴。

致和元年、河南行省平章の伯顏が詔を偽って月魯帖木兒を本省参知政事に起用し、共に挙兵を謀議した。月魯帖木兒は固く辞して言った、「皇子が北から帰還なされ、参知政事が誰の命を受けたのかと問われたら、何とお答えすればよいのでしょうか」。伯顏は怒った。ちょうど明里董阿が皇子を迎えに河南を通過し、月魯帖木兒が御史であった時に彼が娼女を娶って封を受けたことを弾劾したことがあったので、明里董阿は伯顏に彼を捕らえるよう説き、丞相の別不花もまた月魯帖木兒と不和であったため、月魯帖木兒を乾寧安撫司に流罪として安置した。至順四年、雷州に移された。

原文致和元年,河南行省平章伯顏矯制起月魯帖木兒為本省參知政事,共議起兵。月魯帖木兒固辭曰:「皇子北還,問參政受命何人,則將何辭以對?」伯顏怒。會明里董阿迓皇子過河南,而月魯帖木兒為御史時嘗劾其娶娼女冒受封,明里董阿因說伯顏收之,丞相別不花亦與之有隙,乃謫月魯帖木兒乾寧安撫司安置。至順四年,移置雷州。

至元六年、順帝は彼を召還した。至正二年、入朝して拝謁し、帝は留めようとしたが、母の喪がまだ葬られていないと辞した。四年、ようやく将作院事同知に起用された。まもなく大宗正府也可札魯花赤に任じられた。九年、太医院使から翰林学士承旨・知経筵事に拝された。進講の際、経史を援用し引証して、王道に基づいており、帝は賞賛して受け入れた。

原文至元六年,順帝召之還。至正二年,入覲,帝欲留之,以母喪未葬辭。四年,乃起同知將作院事。尋除大宗正府也可札魯花赤。九年,由太醫院使拜翰林學士承旨、知經筵事。進讀之際,引援經史,一本於王道,帝嘉納焉。

十二年、江南の諸郡に盗賊が充満し、詔により月魯帖木兒を平章政事とし、江浙行省を管轄させた。そこで丞相トクトに言上した、「江南を守備する計画は既に遅きに失しています。もし臨機応変の処置を許されれば、まだ為すべきことがあります」。聞き入れられなかった。宮廷を辞する際、尚醞・御衣・弓矢・甲冑・衛卒十人・鈔一万五千貫を賜って出発した。任地に着くと、僚属を集め父老を招いて守備の方策を問い、民兵数千人を募集し、号令は厳粛であった。軍を率いて建徳に駐屯し、賊の首魁何福を捕らえて市中で斬り、淳安などの県を回復し、捕虜一万余人を得、帰農した者は三万戸余りに及んだ。この年七月、徽州に駐屯し、病により軍中で卒した。

原文十二年,江南諸郡盜賊充斥,詔拜月魯帖木兒平章政事,行省江浙,因言于丞相脫脫曰:「守禦江南為計已緩,若得從權行事,猶有可為。」不從。陛辭,賜尚醞、御衣、弓矢、甲冑、衞卒十人、鈔萬五千貫以行。比至鎮,引僚屬集父老詢守備之方,招募民兵數千人,號令明肅。統師次建德,獲首賊何福斬于市,遂復淳安等縣,俘獲萬餘人,復業者三萬餘家。是年七月,次徽州,以疾卒于軍中。

卜顏鐵木兒

原文卜顏鐵木兒

卜顏鐵木兒、字は珍卿、唐兀の吾密氏である。性質は聡明で才気煥発、早くより宿衛に備え、武宗・仁宗・英宗に仕えた。天暦初年、太常署丞から監察御史に拝され、殿中侍御史に昇進し、累進して大都路達魯花赤・都転運塩使・肅政廉訪使を歴任し、行中書省参知政事から左右丞に昇り、行御史臺中丞に抜擢され、ついに江浙行省平章政事に拝された。

原文卜顏鐵木兒字珍卿,唐兀吾密氏。性明銳倜儻,早備宿衞,歷事武宗、仁宗、英宗。天曆初,由太常署丞拜監察御史,陞殿中侍御史,累除大都路達魯花赤、都轉運鹽使、肅政廉訪使,由行中書省參知政事陞左右丞,擢行御史臺中丞,遂拜江浙行省平章政事。

至正十二年春、蘄・黄の賊徐寿輝が兵を遣わして湖広を陥落させ、江東・江西に侵攻した。詔により卜顏鐵木兒が軍を率いてこれを討伐した。卜顏鐵木兒はさらに壮健な者を募って兵とし、驍勇の士三千人・戦艦三百艘を得た。当時、湖広平章政事也先帖木兒・江西平章政事星吉・江南行臺御史中丞蠻子海牙はいずれも兵を率いて太平に駐屯し、逗留して進軍しなかった。卜顏帖木兒が到着すると、共に前進した。賊は丁家洲に集結しており、官軍が突然これと遭遇し、奮撃してこれを破り、銅陵県を回復し、その賊帥を生け捕りにし、池州を回復した。そこで万戸普賢奴を陽陵に、王建中を白面渡に、閭兒を無為州に討伐させ、自らは鎮撫不花・万戸明安を率いて池口に駐屯し、上流を防遏し、これを統制した。

原文至正十二年春,蘄、黃賊徐壽輝遣兵陷湖廣,侵江東、西,詔卜顏鐵木兒率軍討之。卜顏鐵木兒益募壯健為兵,得驍勇士三千人、戰艦三百艘。時湖廣平章政事也先帖木兒、江西平章政事星吉、江南行臺御史中丞蠻子海牙皆以兵駐太平,宿留不進。卜顏帖木兒至,乃與俱前。賊方聚丁家洲,官軍猝與遇,奮擊敗之,遂復銅陵縣,擒其賊帥,復池州。遂分遣萬戶普賢奴屯陽陵,王建中屯白面渡,閭兒討無為州,而自率鎮撫不花、萬戶明安駐池口,以防遏上流,為之節度。

やがて江州が再陥落し、星吉はそこで戦死した。蠻子海牙及び威順王寬徹普化の軍はともに潰走して東へ向かった。安慶の包囲がますます切迫し、使者を遣わして援軍を求めてきた。諸将は皆、自らの守備地域を守ろうとしたが、卜顏鐵木兒は言った、「何と不忠なことを言うのか。安慶と池州は一水を隔てるのみである。今、安慶が堅く守っているのはその節義である。患難を救う義は、我々が緩めることができようか。かつ上流の官軍は潰走したとはいえ、皆、百戦の余の者であり、欠けているのは銭穀と器具のみである。私は兵を総べる命を受けている。これを見て顧みないことがあろうか」。ただちに大いに国庫を開いてこれを救済した。潰軍は皆、大いに集結し、両軍の勢いは再び振るい、安慶の包囲はついに解かれた。

原文已而江州再陷,星吉死之。蠻子海牙及威順王寬徹普化軍俱潰而東。安慶被圍益急,遣使來求援,諸將皆欲自守信地,卜顏鐵木兒曰:「何言之不忠耶!安慶與池止隔一水,今安慶固守是其節也,而救患之義我其可緩!且上流官軍雖潰,然皆百戰之餘,所乏者錢穀器具而已,吾受命總兵,其可視之而不恤哉!」即大發帑藏以周之,潰軍皆大集,而兩軍之勢復振,安慶之圍遂解。

十三年三月、賊の大軍が再び池州を攻め、その数は十万に及び、諸県は皆これに呼応した。卜顏帖木兒は諸将を集めて謀議して言った、「賊は表裏で連絡し合っている。もし彼らが堡塁を築き上げ、諸県の食糧を坐して食うのを待っていては、これを破るのは実に難しい。今、新たに到着して疲弊している。その驕りと怠惰に乗じて、精鋭を尽くして攻撃すれば、瞬く間に成功を収めることができるであろう」。皆が「承知した」と言った。そこで交代で戦いを交え、果たして大いにこれを破り、その偽帥を生け捕りにし、捕虜と斬首は数え切れず、諸県は再び平定され、ついに勝ちに乗じて舟師を率いて進軍した。五月、望江で戦い、また小孤山及び彭沢で戦い、また龍開河で戦い、いずれもこれを撃破して敗走させた。進軍して江州を回復し、兵を留めて守備させた。七月、進軍して蘄州を攻め、その偽帥鄒普泰を生け捕りにし、ついにその城を陥落させた。進軍して道士洑に至り、その柵を焼き払い、蘭溪口に到達した。賊の巣窟である黄連寨をまたも陥落させて殲滅した。兵を分けて両巴河を平定し、ここに長江の水路がようやく通じた。十一月、蠻子海牙・四川行省参知政事哈臨禿・左丞桑禿失里・西寧王牙罕沙の軍と合流し、湖広左丞伯顔不花らの軍も皆、集結した。十二月、分道して蘄水県を攻撃し、その偽都を陥落させ、偽将相以下四百余人を捕らえ、徐寿輝はただ一身をもって辛うじて逃れた。功により詔して上尊・黄金帯を賜った。

原文十三年三月,賊眾復來攻池州,眾且十萬,諸縣皆應之。卜顏帖木兒會諸將謀曰:「賊表裏連結,若俟其築壘成而坐食諸縣之粟,破之實難。今新至疲弊,如乘其驕惰,盡銳攻之,則頃刻之間功可成矣。」眾曰:「諾。」遂分番與戰,果大敗之,擒其偽帥,俘斬無算,諸縣復平,遂乘勝率舟師以進。五月,與戰于望江,又戰小孤山及彭澤,又戰龍開河,皆破走之。進復江州,留兵守之。七月,進兵攻蘄州,擒其偽帥鄒普泰,遂克其城。進兵道士洑,焚其柵,抵蘭溪口,賊之巢曰黃連寨,又克而殲之。分兵平兩巴河,於是江路始通。十一月,與蠻子海牙、四川行省參知政事哈臨禿、左丞桑禿失里、西寧王牙罕沙軍合,而湖廣左丞伯顏不花等軍皆會。十二月,分道進攻蘄水縣,拔其偽都,獲偽將相而下四百餘人,徐壽輝僅以身免。以功詔賜上尊、黃金帶。

当時、丞相トクトがちょうど南征の軍を総帥しており、諸賊が皆、既に破られたと聞き、伯顔不花に淮東を征討させ、蠻子海牙に裕渓口を守備させ、威順王を武昌に帰還させ、ただ卜顏鐵木兒のみに長江を制御させた。十六年六月、再び軍を率いて池州を守備した。十一月、卒去した。

原文時丞相脫脫方總戎南征,聞諸賊皆已破,乃檄伯顏不花征淮東,蠻子海牙守裕溪口,威順王還武昌,而卜顏鐵木兒獨控長江。十六年六月,復以軍守池州。十一月,卒。

卜顏鐵木兒は身を持するに清廉で潔癖であり、人は私事で干渉することができなかった。将として赴任する際、贈り物や宴席の供応を受けず、民は兵がいることを知らなかった。性質は至孝であり、幼少時に叔父の阿朮に養われ、彼を実の父のように仕えた。常に花馬に乗ったため、当時、花馬兒平章と称された。

原文卜顏鐵木兒持身廉介,人不敢干以私,其為將所過不受禮遺宴犒,民不知有兵。性至孝,幼養於叔父阿朮,事之如親父。常乘花馬,時稱為花馬兒平章云。

星吉

星吉、字は吉甫、河西の人である。曾祖父は朵吉、祖父は搠思吉朵而只、父は搠思吉で、代々太祖・憲宗・世祖に仕えて怯里馬赤となった。

原文星吉字吉甫,河西人。曾祖朵吉,祖搠思吉朵而只,父搠思吉,世事太祖、憲宗、世祖為怯里馬赤。

星吉は若くして仁宗の潜邸に給事し、精敏をもって称された。至治初年、中尚監を授かり、右侍儀に改め、兼ねて起居注を修めた。監察御史に拝され、直言の名声があった。ここから十五回の転任を経て宣政院使となり、出向して江南行御史臺御史大夫となった。当時、太平の世が長く続き、朝廷内外はちょうど様子見の政治を行っていたが、星吉のみが風紀を堅持し、御史が巡察に出る際は、必ず戒め励まして派遣した。湖東僉事の三宝住は儒者であり、性質は廉潔で、赴任先では貪婪な者を糾弾して容赦しなかった。ある御史が私的な依頼をしたが、拒絶して受け入れられないと、事をでっち上げて彼を弾劾した。上奏文が届くと、星吉は怒って言った、「あの人の清廉さを、誰が知らないというのか。よくもそんなことを言えたものだ」。ただちにその御史を杖罰に処し、その誣告を晴らすよう上奏した。執政者は彼を憎み、湖広行省平章政事に転任させた。

原文星吉少給事仁宗潛邸,以精敏稱。至治初,授中尚監,改右侍儀,兼修起居注。拜監察御史,有直聲。自是十五遷為宣政院使,出為江南行御史臺御史大夫。時承平日久,內外方以觀望為政,星吉獨持風裁,御史行部,必敕厲而遣之。湖東僉事三寶住,儒者也,性廉介,所至搏貪猾無所貸。御史有以自私請者,拒不納,則誣以事劾之。章至,星吉怒曰:「若人之廉,孰不知之,乃敢為是言耶!」即奏杖御史而白其誣。執政者惡之,移湖廣行省平章政事。

湖広の地は江北に連なり、威順王は毎年狩猟に出て、民はこれを苦しめていた。また広楽園を造営し、多くの名高い倡優や大商人を集めて大利を漁り、役人は敢えて逆らう者もなかった。星吉が到着すると、王に謁見を求めた。王は中門を閉ざし、左の扉を開けて、召し入れた。星吉は縄床を引いて王の中門の西に座り、言った。「私は天子の命を受けて牧守として来たのであって、王の私臣ではない。どうして不正の道から入ることができようか。」門番は恐れ、入って王に告げた。王は中門を開けるよう命じた。星吉が入ると、王を責めて言った。「王は帝室の親族、古にいう伯父・叔父にあたるお方である。今、徳のある言葉は聞こえず、狩猟をほしいままにし、淫らなことを広め、下の者に怨みを買っている。これは自ら多くの福を招く道ではないと恐れる。」王は急いで星吉の手を握って謝罪し、その行いをすべてやめさせた。胡僧で小住持という者がおり、三品の官位を受け、寵愛を恃んで甚だ横暴で、たびたび事を起こして官府を凌駕していた。星吉は命じてこれを捕らえさせ、妻妾や女楽の婦女十八人を得た。獄が決し、罪を科して財産を没収した。これによって豪強は手を引き、貧弱な者は快哉を叫んだ。

原文湖廣地連江北,威順王歲嘗出獵,民病之。又起廣樂園,多萃名倡巨賈以網大利,有司莫敢忤。星吉至,謁王,王闔中門,啟左扉,召以入。星吉引繩牀坐王中門西,言曰:「吾受天子命來作牧,非王私臣也,焉得由不正之道入乎!」閽者懼,入告王,王命啟中門。星吉入,責王曰:「王,帝室之懿,古之所謂伯父叔父者也。今德音不聞,而騁獵宣淫,賈怨於下,恐非所以自貽多福也。」王急握星吉手謝之,為悉罷其所為。有胡僧曰小住持者,服三品命,恃寵橫甚,數以事凌轢官府。星吉命掩捕之,得妻妾女樂婦女十有八人,獄具,罪而籍之,由是豪強斂手,貧弱稱快。

至正十一年、汝州・潁州で妖賊が蜂起した。官僚たちと会議を開き協議したところ、ある者が言った。「鄭万戸という者がいる。老将である。これを起用すべきである。」星吉はそこで土兵を募り、城壁を補修し、器械を整え、巡邏警戒を厳しくするよう命じ、すべてその事を鄭に委ねた。賊はこれを聞き、その徒党二千人を遣わして降伏を申し出た。星吉は鄭と謀って言った。「これは偽りである。しかし降伏を申し出てこれを退けるのは、この場合適切ではない。受け入れて詳しく調べるのがよい。」果たしてその実情を得て、これを殲滅し、その首魁数十人を枷にかけて命令を待った。ちょうど詔勅が下り、大司農に召されることになった。同僚が賊の賄賂を受け、かつその功績を妬み、鄭に罪を着せ、枷にかけていた者たちを釈放した。翌日、賊が大挙して押し寄せ、内外呼応して、城はついに陥落した。武昌の人々は首を並べて夜泣きして言った。「大夫(星吉)が去らなければ、我々は捕虜となることがあろうか。」星吉が入朝して謁見すると、賊の顛末をことごとく陳述した。帝は大いに喜び、食事を賜るよう命じた。

原文至正十一年,汝、潁妖賊起,會僚屬議之,或曰:「有鄭萬戶,老將也,宜起而用之。」星吉乃命募土兵,完城池,修器械,嚴巡警,悉以其事屬鄭。賊聞之,遣其黨二千來約降。星吉與鄭謀曰:「此詐也,然降而卻之,於是為不宜,宜受而審之可也。」果得其情,乃殲之,械其渠魁數十人以俟命。適有旨召為大司農。同僚受賊賂,且嫉其功,乃誣鄭罪,釋其所械者。明日,賊大至,內外響應,城遂陷。武昌之人駢首夜泣曰:「大夫不去,吾豈為俘囚乎?」星吉既入見,具陳賊本末。帝大喜,命賜食。

時の宰相は喜ばず、奏上して江西行省平章政事とし、員外に置かれた。星吉が江東に到着すると、詔令により江州を守備せよと命じられた。当時、江州はすでに陥落し、賊は池陽を占拠していた。太平の官軍はわずか三百人で、賊は百万と号し、兵士たちは皆逃げ出そうとした。星吉は言った。「賊を恐れて逃げるのは勇ではない。座して攻撃を待つのは智ではない。お前たちには皆妻子や財産がある。たとえ逃げたとしても免れることができようか。」そこで富者から金を借り、人を募って兵士とした。以前、行台が兵を募った時は、一人につき百五十千を与えたが、応じる者がいなかった。この時、星吉が兵を募ると、一人五十千で、人々は争って赴き、一日で三千人を得た。そこで舟船を整え、直ちに銅陵に向かい、これを攻略した。また賊を白馬湾で破った。賊は敗走し、兵を分けてこれを追撃し、白湄に至った。賊は窮して急ぎ返り、官軍に抵抗した。官軍は勝ちに乗じて奮撃し、賊をことごとく殲滅し、その首魁周驢を生け捕りにし、船六百艘を奪い、軍勢の名声は大いに上がり、ついに池州を回復した。そこで諸将に命じて分かれて道を討ち、石埭などの諸県を回復した。

原文時宰不悅,奏為江西行省平章政事,員外置。星吉至江東,詔令守江州。時江州已陷,賊據池陽。太平官軍止有三百人,賊號百萬,眾皆欲走。星吉曰:「畏賊而逃,非勇也;坐而待攻,非智也。汝等皆有妻子財物,縱逃其可免乎?」乃貸富人錢,募人為兵。先是,行臺募兵,人給百五十千,無應者。至是,星吉募兵,人五十千,眾爭赴之,一日得三千人。乃具舟楫直趨銅陵,克之。又破賊白馬灣。賊敗走,分兵躡之,抵白湄,賊窮急回拒官軍,官軍乘勝奮擊,賊盡殪,擒其渠魁周驢,奪船六百艘,軍聲大振,遂復池州。乃命諸將分道討賊,復石埭諸縣。

賊が再び攻めてきたので、王惟恭に命じて陣を列ねてこれに当たらせた。鋒が交わるやいなや、小船を出して傍らから横撃し、大いに破って敗走させ、進んで清水湾を占拠した。偵察者が、賊の船が上流から来ると告げた。順風に帆を上げ、その数は数十倍にもなり、諸将は顔色を失った。星吉は言った。「心配ない。風勢が強いので、彼らは慌てているから必ず停泊できない。ただ横港に伏せて旗を伏せて待ち、通り過ぎるのを待って撃てば、勝たないことはない。」風は激しく水は速く、賊はたちまち通り過ぎた。そこで旗を掲げ帆を張り、鬨の声を上げて接近するよう命じた。官軍は必死に戦い、風はかえって我が方の味方となり、また大いにこれを破った。当時、賊は長く安慶を包囲していたが、勝利の報が聞こえると、急いで陣営を焼いて逃げた。進んで湖口県を回復し、江州を攻略し、兵を留めて守備させた。王惟恭に命じて小孤山に柵を築かせ、星吉自身は番陽口を占拠し、江湖の要衝を抑えて回復を図った。

原文賊復來攻,命王惟恭列陣當之,鋒始交,出小艦從旁橫擊,大破走之,進據清水灣。伺者告賊艦至自上流,順風舉帆,眾且數十倍,諸將失色。星吉曰:「無傷也,風勢盛,彼倉卒必不得泊,但伏橫港中偃旗以待,俟過而擊之,無不勝矣。」風怒水駛,賊奄忽而過,乃命舉旗張帆鼓譟而薄之,官軍殊死戰,風反為我用,又大破之。時賊久圍安慶,捷聞,遽燒營走。進復湖口縣,克江州,留兵守之。命王惟恭柵小孤山,而星吉自據番陽口,綴江湖要衝以圖恢復。

当時、湖広はすでに陥落し、江西は包囲され、淮・浙もまた多く事変が起こり、ついに後続の援軍はなく、日が経つにつれ食糧はますます乏しく、士卒は皆疲弊していた。ある者が言った。「東南は充実している。どうして食糧を頼りに再挙を図らないのか。」星吉は言った。「私は命を受けて江西を守る。必ずここで死のう。」誰も再び言う者はなかった。しばらくして、賊が大船に乗って四方から集まり、我が軍を攻撃してきた。葦を取って大きな筏を編み、上下流を塞いで火を放った。我が軍は力戦し、兵士は死に尽きようとしていた。星吉の甥の伯不華と親兵数十人がこれに殉死した。星吉はなお堅く座して動かなかった。賊が矢を放って星吉を射ると、昏倒した。賊は平素から星吉の名を聞いており、害するに忍びず、担いで密室に置いた。夜明けになってようやく蘇生した。賊は羅列して拝礼し、争って食物を贈ったが、星吉はこれを叱りつけ、ついに再び食べず、凡そ七日間、自ら力を奮い起き上がり、北に向かって再拝して言った。「臣の力は尽きた。」そこで絶命した。享年五十七。

原文時湖廣已陷,江西被圍,淮、浙亦多故,卒無繼援之者,日久糧益乏,士卒咸困。或曰:「東南完實,盍因糧以圖再舉乎?」星吉曰:「吾受命守江西,必死於此。」眾莫敢復言。有頃,賊乘大船四集,來攻我軍,取蒹葦編為大筏,塞上下流火之。我軍力戰,眾死且盡。星吉之從子伯不華與親兵數十人死之。星吉猶堅坐不動。賊發矢射星吉,乃昏仆。賊素聞星吉名,不忍害,舁置密室中,至旦乃蘇。賊羅拜,爭饋以食,星吉斥之,遂不復食,凡七日,乃自力而起,北面再拜曰:「臣力竭矣。」遂絕,年五十七。

星吉は人となり公明で廉潔、決断力があり、軍中にあっては、将兵と苦楽を共にし、忠義をもって人心を感激させた。それゆえに少をもって衆を撃ち、人をして死力を尽くさせることができたという。

原文星吉為人公廉明決,及在軍中,能與將士同甘苦,以忠義感激人心,故能以少擊眾、得人死力云。

福寿

福寿は唐兀の人である。幼少より俊秀で、読書を知り、特に応対に長けていた。成長すると、環衛に備え、年功により長寧寺少卿を授かり、引進使に改め、知侍儀使に昇進し、正使に進み、出て饒州路達魯花赤となり、淮西廉訪副使に抜擢され、入朝して工部侍郎となり、僉太常礼儀院事を兼ね、監察御史に任ぜられ、戸部侍郎に改め、尚書に昇進し、出て燕南廉訪使となり、さらに五度転任して同知枢密院事となった。

原文福壽,唐兀人。幼俊茂,知讀書,尤善應對。既長,入備環衞,用年勞授長寧寺少卿,改引進使,陞知侍儀使,進正使,出為饒州路達魯花赤,擢淮西廉訪副使,入為工部侍郎,僉太常禮儀院事,拜監察御史,改戶部侍郎,陞尚書,出為燕南廉訪使,又五遷為同知樞密院事。

至正十一年、潁州から賊の反乱が報告された。当時、皇帝の行幸は上都にあり、朝廷は皆躊躇して決断できず、駅伝で上奏して命令を待とうとした。福寿のみが「このようにして許可を得て戻るのを待てば、事態は間に合わなくなるであろう」と言った。そこで決議して兵五百を調達し、衛官の哈剌章・忻都・怯来を遣わしてこれを討伐させ、その後で報告した。順帝はその処置が適切であると認め、翌年、也可札魯忽赤に改めた。間もなく、出て淮南行省平章政事となった。この時、濠州・泗州はともにすでに陥落し、軍は長く功績がなかった。福寿が到着すると、督戦は甚だ急であり、上流の賊の勢いは甚だ汹涌であった。福寿はそこで石頭に城を築き、江面を断つことを議し、守備に方策があり、衆はこれによって堅固であると頼りにした。

原文至正十一年,潁州以賊反告,時車駕在上都,朝堂皆猶豫未決,欲驛奏以待命。福壽獨以謂「比使得請還,則事有弗及矣」。於是決議調兵五百,遣衞官哈剌章、忻都、怯來討之而後以聞。順帝善其處事得宜,明年,改也可札魯忽赤。未幾,出為淮南行省平章政事。是時濠、泗俱已陷,師久無功。福壽至,督戰甚急,而上游賊勢甚洶湧,福壽乃議築石頭,斷江面,守禦有方,眾恃以為固。

十五年、江南行台御史大夫に転任した。以前、集慶に警報があった時、阿魯灰が湖広平章政事として苗軍を率いて来援し、事態が平定すると、その軍は揚州に駐屯した。しかし阿魯灰は軍を統御するに紀律がなく、苗蛮は元来獰猛で、日々殺戮略奪に明け暮れ、治めることができなかった。やがて苗軍は阿魯灰を殺して反乱し、集慶への援軍はついに絶えた。高郵・廬州・和州などの州が相次いで陥落すると、集慶の情勢はますます孤立し、人心はますます震え恐れ、かつ倉庫には蓄積がなく、どうすべきか計略が立たなかった。そこで民は自ら守るために兵となることを願った。福寿はこれにより、資産の多い民は皆糧食を助けるよう命じ、士衆を激励し、守備を完璧にする計画を立てた。朝廷はその労苦を知り、たびたび賞賜を与えた。

原文十五年,遷江南行臺御史大夫。先是,集慶嘗有警,阿魯灰以湖廣平章政事將苗軍來援,事平,其軍鎮揚州。而阿魯灰御軍無紀律,苗蠻素獷悍,日事殺虜,莫能治。俄而苗軍殺阿魯灰以叛,而集慶之援遂絕。及高郵、廬、和等州相繼淪陷,而集慶勢益孤,人心益震恐,且倉庫無積蓄,計未知所出,於是民乃願為兵以自守。福壽因下令民多貲者皆助以糧餉,激厲士眾,為完守計。朝廷知其勞,數賞賚焉。

十六年三月、大明の兵が集慶を包囲した。福寿はたびたび兵を督して出戦し、諸城門をすべて閉ざし、ただ東門のみを開いて出入りを通した。しかし城中の勢いはもはや支えることができず、城はついに陥落した。百官は皆逃げ散った。福寿はただ一人胡床に据わって鳳凰台下に座り、左右を指揮した。ある者が去るよう勧めると、叱りつけて言った。「私は国家の重臣である。城が存すれば生き、城が破れば死ぬ。まだどこへ行くことがあろうか。」達魯花赤の達尼達思は、彼が独り座り何かをしようとしているのを見て、従って決断を尋ね、留まって去らなかった。やがて乱兵が四方から集まり、福寿はついに害され、所在はわからなくなった。達尼達思もまたこれに殉死した。また同時に死んだ者に、治書侍御史の賀方がいた。達尼達思は字を思明という。賀方は字を伯京といい、晋寧の人で、文学で名を知られていた。

原文十六年三月,大明兵圍集慶,福壽數督兵出戰,盡閉諸城門,獨開東門以通出入,而城中勢不復能支,城遂破。百司皆奔潰,福壽乃獨據胡牀坐鳳凰臺下,指麾左右。或勸之去,叱之曰:「吾為國家重臣,城存則生,城破則死,尚安往哉!」達魯花赤達尼達思見其獨坐若有所為者,從問所決,留弗去。俄而亂兵四集,福壽遂遇害,不知所在,達尼達思亦死之。又同時死者,有治書侍御史賀方。達尼達思字思明。賀方字伯京,晉寧人,以文學名。

事が朝廷に聞こえ、朝廷は福壽に金紫光禄大夫・江浙行省左丞相・上柱國を追贈し、衞國公に追封し、諡して忠肅と為した。

原文事聞,朝廷贈福壽金紫光祿大夫、江浙行省左丞相、上柱國,追封衞國公,諡忠肅。

道童

道童は高昌の人、自ら石巖と号す。性質は沈深にして寡言、世冑をもって官に入り、直省舍人を授けられ、歴官は清顯にして、素より能名を負う。信州路総管に転じ、平江に移るも、皆善政を以て称せらる。至正元年、大都路達魯花赤に遷り、出でて江浙行省参知政事と為り、尋いで中書の参政に召され、頃くして、また出でて江浙行省右丞と為り、遂に本省平章政事に昇る。

原文道童,高昌人,自號石巖。性深沉寡言,以世冑入官,授直省舍人,歷官清顯,素負能名。調信州路總管,移平江,皆以善政稱。至正元年,遷大都路達魯花赤,出為江浙行省參知政事,尋召參政中書,頃之,又出為江浙行省右丞,遂陞本省平章政事。

十一年、詔して仍て平章政事を以て江西に行省す。是の年、賊蘄・黄に起こり、平章政事禿堅理不花兵を将いて江州を捍ぐ。既にして土寇蜂起す。道童は素より兵事を知らず、倉皇として措く所なし。左右司郎中普顏不花曰く、「今賊勢衝突し、城中に備え無し、万一守りを失わば、奈何。章伯顏左丞と為る者有り、致仕して撫州に居る。其の人軍務に熟し、宜しく便宜を以て礼を加えて之を請い、本省左丞事を署せしめ、専ら軍旅の調遣を任せしむべし。庶幾く事の済む有らん」と。道童其の言に従い、而して伯顏も亦欣然として起つことを為し、曰く、「此れ正に我が国に報ゆる秋なり」と。至れば則ち普顏不花と与に敵を禦ぐの計を設け、甚だ悉し。

原文十一年,詔仍以平章政事行省江西。是年,賊起蘄、黃,平章政事禿堅理不花將兵捍江州。既而土寇蠭起,道童素不知兵事,倉皇無所措。左右司郎中普顏不花曰:「今賊勢衝突,城中無備,萬一失守,奈何?有章伯顏左丞者,致仕居撫州,其人熟知軍務,宜以便宜禮請之,使署本省左丞事,專任調遣軍旅,庶幾事有可濟。」道童從其言,而伯顏亦欣然為起,曰:「此正我報國之秋也。」至則與普顏不花設禦敵計,甚悉。

明年正月、湖廣陥ち、禿堅里不花江州より遁れて還る。二月、普顏不花兵を将いて江州に往き、石頭渡に至り、賊に遇い戦い敗る。道童之を聞き大いに恐れ、即ち省印を懐きて遁走す。普顏不花還り、伯顏と与に城守の計を定む。後数日、道童始めて南昌の民家より来帰し、遂に門を分ち各守りて以て敵に備うるを議す。三月、賊衆来たりて城を囲む。城中各廂官及び各巷長を置き、晝夕堅守し、衆心翕然たり。而して道童は素より民を恤み、能く人を用い、功有る者は必ず賞し、功無き者或いは罪を加えず、故に多く之を用うる為す。賊城を囲むこと凡そ両月にして民に離志無し。道童密かに死士数千人を召し、面に青を塗り、額に黄布を抹し、黄衣を衣て、前鋒と為し、又別に精鋭数千を選びて中軍と為し、而して陣を助くる者を募りて殿後と為す。万戸章妥因卜魯哈歹に之を領せしむ。夜半、門を開き兵を柵下に伏せ、黎明、鉦鼓大いに震い、因りて奮撃して賊を破る。賊驚きて神と為し、敗走す。遂に勝に乗じて其の営を擣ち、復た兵を分かちて其の余党を掃う。是の時、章伯顏・普顏不花の功居多し。伯顏尋いで疾を以て卒す。朝廷道童の城を捍ぐに功有るを以て、大司徒・開府を加え、仍て龍衣御酒を賜う。

原文明年正月,湖廣陷,禿堅里不花由江州遁還。二月,普顏不花將兵往江州,至石頭渡,遇賊戰敗,道童聞之大恐,即懷省印遁走。普顏不花還,與伯顏定為城守之計。後數日,道童始自南昌民家來歸,遂議分門各守以備敵。三月,賊眾來圍城。城中置各廂官及各巷長,晝夕堅守,眾心翕然。而道童素恤民,能任人,有功者必賞,無功或不加罪,故多為之用。賊圍城凡兩月而民無離志。道童密召死士數千人,面塗以青,額抹黃布,衣黃衣,為前鋒,又別選精銳數千為中軍,而募助陣者殿後。命萬戶章妥因卜魯哈歹領之。夜半,開門伏兵柵下,黎明,鉦鼓大震,因奮擊賊,賊驚以為神,敗走。遂乘勝擣其營,復分兵掃其餘黨。是時,章伯顏、普顏不花之功居多。伯顏尋以疾卒。朝廷以道童捍城有功,加大司徒、開府,仍賜龍衣御酒。

及秋、朝廷亦憐真班を命じて江西行省左丞相と為し、火你赤を左丞と為し、同しく兵を将いて江西に来らしむ。未幾、亦憐真班卒す。道童火你赤に属して富・瑞二州を平げ、其の地を分鎮せしむ。適歳大旱し、公私匱乏す。道童乃ち江浙行省に移咨し、米数十万石・塩数十万引を借り、凡そ軍民約三日に人官米一斗を糴し、昏鈔貳貫を入れ、又三日に官塩十斤を買い、昏鈔貳貫を入る。民皆之に便す。是に由りて按堵故の如く、而して賊も亦其の境を犯す敢えず。

原文及秋,朝廷命亦憐真班為江西行省左丞相,火你赤為左丞,同將兵來江西。未幾,亦憐真班卒,道童屬火你赤平富、瑞二州,分鎮其地。適歲大旱,公私匱乏,道童乃移咨江浙行省,借米數十萬石、鹽數十萬引,凡軍民約三日人糴官米一斗,入昏鈔貳貫,又三日買官鹽十斤,入昏鈔貳貫,民皆便之。由是按堵如故,而賊亦不敢犯其境。

十八年夏四月、陳友諒復た江西城を攻む。時に火你赤已に平章政事に陞り、営國公を加えられ、便宜事を行い、専ら兵柄を任ぜらる。而して素より道童と相能わず、且つ貪忍にして将士の心を得ず、城将に陥らんとするを見て、遂に夜遁去す。道童も亦城を棄て撫州路に退き保ち、諸県の義兵を集めて以て克復を図らんと欲すれども、勢已に為す可からず。因りて嘆いて曰く、「我元朝の大臣と為り、官極品に至る。今城陥ちて守らず、尚何の面目か復た人を見んや」と。適賊の追う者至る。道童敵を迎えんと欲し、水を渡り、未だ岸に登らざるに、賊衆之に乗じ、遂に害せらる。事聞こえ、諡して忠烈を賜う。

原文十八年夏四月,陳友諒復攻江西城。時火你赤已陞平章政事,加營國公,行便宜事,任專兵柄,而素與道童不相能,且貪忍不得將士心,見城且陷,遂夜遁去。道童亦棄城退保撫州路,欲集諸縣義兵以圖克復,而勢已不可為。因嘆曰:「我為元朝大臣,官至極品,今城陷不守,尚何面目復見人乎!」適賊追者至,道童欲迎敵,渡水,未登岸,賊眾乘之,遂為所害。事聞,賜諡忠烈。