馬祖常
馬祖常、字は伯庸、代々雍古部に属し、淨州天山に居住した。錫里吉思という者がおり、祖常にとって高祖父にあたり、金の末期に鳳翔兵馬判官となり、節を守って死んだため恒州刺史を追贈され、子孫はその官に因み、馬を氏とした。曾祖父は月合乃、世祖に従って宋を征し、汴に留まり、饋餉を掌り、累官して礼部尚書となった。父は潤、漳州路総管府事の同知となり、光州に家を構えた。
この時、仁宗は御位について既に久しかったが、なお東宮に居り、飲酒常に過度であった。祖常は上書して「正衙に御し、朝儀を立て、御史は簡を執り、太史は筆を執れば、たとえ姦を懐き利己し官を乞い賞を求める者ありとも、敢えて口に出さざるべし。天子は天地祖宗の重きを承け、極めて調摂すべきであり、酒醴に至っては、近侍が進御するに当たり、一献百拜の義を思うべきである」と請うた。英宗が皇太子となると、また上書して師傅の選任を慎重にするよう請うた。この時、姦臣鉄木迭児が丞相となり、威権を恣にしていた。祖常は彼が国史を盗み見たことを知り、同列を率いてその十罪を劾奏したので、仁宗は震怒し、彼を罷免した。秦州で山が移動した時、祖常は言うには「山は動かざる物である。今や動くのは、野に在って用うべき賢者を用いず、官に在って言うべき佞者を言わざるが故に、かくの如きに至るのである」と。上疏が聞き届けられると、大臣は皆家に居して罪を待った。祖常は賢者を推薦し滞った者を抜擢し、知る所は言わざる無かった。間もなく宣政院経歴に改められ、一月余りで辞して帰り、社稷署令として起用された。間もなく、姦臣が再び丞相となると、左遷されて開平県尹となり、因って中傷しようとしたので、遂に退いて光州に居を定めた。久しくして、姦臣が既に死ぬと、乃ち翰林待制に任じられた。泰定帝が皇太子を立てると、典宝少監・太子左賛善に抜擢された。まもなく翰林直学士を兼ね、礼部尚書に任じられた。祖母の喪に服し、起用されて右賛善となり、再び礼部尚書に任じられ、まもなく辞して帰った。
祖常は朝廷に立つこと既に久しく、多く建明した所があった。嘗て議して「今、国族及び諸部は既に聖賢の書を誦する以上、諸母を尊び以て彝倫を厚くすべきことを知るべし」とした。また議して「将家の子弟は驕脆にして任使に孤ならざる無く、而して庶民には強きを挽き張を蹶て老いて草野に死する者あり、武学・武挙を建て、材を儲けて非常に備うべし」とした。当時は用いられなかったが、識者はこれを是とした。祖常は文章に巧みで、宏贍にして精核、陳言を去ることに務め、専ら先秦両漢を法とし、而して一家の言を自ら成した。特に詩に力を注ぎ、円密清麗、大篇短章伝うべからざる無し。文集が世に行われた。嘗て英宗実録の編纂に預かり、また皇図大訓・承華事略を訳潤し、また列后金鑑・千秋記略を編集して進上し、優渥なる賜物を受けた。文宗が嘗て龍虎臺に駐驆した時、祖常は応制して詩を賦し、特に嘆賞され、中原の碩儒は唯だ祖常のみと謂われた。
巙巙
巙巙、字は子山、康里氏。父の不忽木は自ら伝有り。祖父の燕真は世祖に仕え、征に従って功有り。巙巙は幼くして国学に学び、群書に博通し、その正心修身の要は許衡及び父兄の家伝に得た。成長して宿衛を襲い、風神凝遠、制行峻潔、望んで其れ貴介の公子たるを知る。その事に遇うや英発、髯を掀げて論弁し、法家の拂士も之を過ぐる能わず。
始め承直郎・集賢待制を授かり、兵部郎中に遷り、秘書監丞に転じた。命を受けて泉舶を覈察に往き、珠犀を芥視し、少しも留目しなかった。同僉太常礼儀院事に改められ、監察御史に任じられ、河東廉訪副使に昇進した。未だ着任せず、秘書太監に遷り、侍儀使に昇進した。まもなく中書右司郎中に抜擢され、集賢直学士に遷り、江南行臺治書侍御史に転じた。礼部尚書に任じられ、群玉内司を監した。
巙巙は正色して下を率いた。国の制度として、大楽諸坊は皆本部に隷属し、公讌に遇えば、衆伎畢陳した。巙巙は之を泊如として視、僚佐以下皆粛然とした。会同館事を領するに遷り、尚書・群玉内司監は元の如し。まもなく経筵官を兼ね、再び江南行臺治書侍御史に任じられた。未だ行かず、留まって奎章閣学士院承制学士と為り、仍って経筵官を兼ねた。侍書学士・同知経筵事に昇進し、再び奎章閣学士院大学士・知経筵事に昇進した。浙西廉訪使に任じられたが、再び留まって大学士・知経筵事と為った。まもなく翰林学士承旨・知制誥兼修国史・知経筵事に任じられ、宣文閣崇文監を提調した。
先に、文宗は政治に励み治世を図り、巎巎はしばしば聖賢の格言を帝の側で講誦し、裨益するところ甚だ多かった。順帝が即位した後、権奸を剪除し、治化を改めんと考える。巎巎は経筵に侍し、日々帝に学問に務めるよう勧め、帝はすなわち彼に就いて習授し、師礼をもって寵遇せんと欲したが、巎巎は力辞して受けなかった。凡そ四書・六経に載る治道を、帝のために紬繹して言い、必ずや言辞が達し、帝の衷を感動させ、旨意を敷暢して後やむ。柳宗元の『梓人伝』、張商英の『七臣論』などは、特に喜んで誦説した。嘗て経筵において力説して商英の言う七臣の状を陳べ、左右は錯愕し、嫉むの色があったが、平素その賢を知り、再び慍りを肆にしなかった。帝が暇日に古の名画を観ようと欲すると、巎巎はすなわち郭忠恕の『比干図』を取って進め、因って言うに、商王受(紂王)は忠臣の諫を聴かず、遂にその国を亡ぼしたと。帝が一日、宋徽宗の画を覧て善しと称す。巎巎進みて言う、「徽宗は多能なり、ただ一事能わず。」帝問う、「何を一事と謂うや。」対えて曰く、「ただ君たることを能わざるのみ。身辱められ国破るるは、皆な君たることを能わざるに由る。人君は貴ぶところ君たることを能うるにあり、他は尚ぶところに非ず。」或いは天変民災に遇えば、必ず憂い色に現れ、隙あらば則ち帝に進言して曰く、「天心は仁にして、人君を愛す、故に変を以て儆しめを示す。譬えば慈父の子に対するがごとし、愛すれば則ちこれを教えこれを戒む。子能く敬を起こし孝を起こせば、則ち父の怒必ず釈る。人君側身修行すれば、則ち天意必ず回る。」帝その真誠を察し、己を虚しくして聴く。特に只孫の燕服九襲及び玉帯・楮幣を賜い、以てその言を旌す。
巎巎嘗て人に謂いて曰く、「天下の事は宰相に在りて言うべし、宰相言うを得ざれば則ち台諫これを言い、台諫敢えて言わざれば則ち経筵これを言う。経筵に位を備え、人の敢えて言わざることを天子の前に言い得るは、志願足る。」故に時政の得失に匡救すべきあるも、未だ嘗て緘黙せず。大臣議して先朝の置くところの奎章閣学士院及び芸文監諸属官を罷めんとす。巎巎進みて曰く、「民に千金の産あれば、猶お家塾を設け、館客を延ぶ、豈に堂堂たる天朝、四海を富有し、一学房乃ち容るる能わざるあらんや。」帝聞きて深く然りとす。即日奎章閣を宣文閣と改め、芸文監を崇文監とし、存設は初めの如く、就いて命じて巎巎にこれを董治せしむ。又た検討等の職十六員を置きて進講に備えんことを請う。帝皆な俞允す。時に科挙既に輟みたり、巎巎従容として帝に言う、「古昔人材を取りて世用に済わしむるは、必ず科挙に由る、何ぞ廃すべけんや。」帝その論を采り、尋いで旧制を復す。一日、司馬光の『資治通鑑』を進読し、因って言う、国家まさにこの時に及びて遼・金・宋の三史を修すべし、歳久しうすれば恐らくは闕逸を致さんと。後に局を置きて纂修す、実に巎巎その端を発す。又た郷飲酒礼を国学に行い、民に遜悌を知らしめ、及び唐の劉蕡・宋の邵雍を褒贈して以て道德正直を旌さんことを請う。帝その請いに従い、為に詔を下す。
巎巎は重望を以て高位に居り、而して雅に儒士を愛すること甚だ饑渇に過ぎ、以て故に四方の士大夫翕然としてこれを宗とし、その門に萃まる。達官に勢いを怙せる者あり、言う、「儒に何の好ある、君酷くこれを愛すや。」巎巎曰く、「世祖は儒以て治を致すに足るとし、裕宗に命じて賛善王恂に学ばしむ。今秘書の蔵する所の裕宗の倣書、当時御筆に学生の下に親しく御名を署し習書謹んで呈す、その敬慎此の若し。世祖嘗て暮れに我が先人を召して寝榻の下に坐せしめ、四書及び古史の治乱を陳説し、丙夜に至りて寐ず。世祖喜びて曰く、『朕の卿をして許仲平に従いて学ばしむる所以は、正に卿をして嘉言を以て朕に告げ入らしめんと欲するなり、卿益々懋敬を加えて以て朕が志に副えよ。』今汝言う、儒を愛せずと、寧んぞ聖祖神宗の篤好の意を念わざるや。且つ儒者の道は、これに従えば則ち君仁・臣忠・父慈・子孝、人倫咸く得、国家咸く治まる。これに違えば則ち人倫咸く失い、家国咸く乱る。汝乱れんとして汝が家をせんと欲すれば、吾禦うる能わず、汝慎んでこの言を以て我が国を乱すことなかれ。儒者或いは身は衣に勝たざるが若く、言は口より出でざるが若し、然れども腹中に貯儲する所人に過ぐる者あり、何ぞ易く視るべけんや。」達官色慚じぬ。
既にして出でて江浙行省平章政事に拝す。明年、復た翰林学士承旨を以て召し還る。時に中書平章員闕け、近臣薦用すべき者あらんと欲し、言を以て帝の意を覘う。帝曰く、「平章已に其人あり、今行くこと半途なり。」近臣帝の意の巎巎に在るを知り、復た人を薦めず。京に至ること七日、熱疾を感じて卒す、実に至正五年五月辛卯なり、年五十一。家貧しく、幾くんか以て斂する無からんとす。帝聞き、震悼を為し、賻銀五錠を賜う。その負う所の官中営運の銭は、台臣奏して罰布を以てこれを代償せしむ。巎巎は真行草書を善くし、識者は晋人の筆意を得たりと謂い、単牘片紙人争ってこれを宝とし、金玉に翅ならず。諡して文忠と曰う。
兄回回、字は子淵。敦默寡言、学を耆し文を能くす。成宗朝に宿衛し、擢て太常寺少卿と為る。寺改めて院と為り、太常院使と為る。武宗正位し、藩邸の旧臣を以て使いに出でて旨に称す。至大の間、大司農卿に調じ、山南廉訪使を除き、江南行台治書侍御史に改め、淮西廉訪使に遷り、皆な政声あり。再び河南廉訪使に改む。行省丞相行事多く法に不法、太尉納璘郎中と為り、毎に格して下さず、丞相怒りてこれを出さんと欲す。回回その賢を察し、章を抗して風憲に挙任し、後に三台を歴て名臣と為る。駙馬平章の家奴強いて人物を市す、これを按ずるに貸す所無し。
英宗即位し、丞相拜住首めて薦めて戸部尚書と為し、尋いで南台侍御史に拝し、参議中書に改む。刑書を議定して法の如くするを以て、帝その奏を嘉納す。泰定初め、廷議漕運の事、奏して糧数を減じて以て東南の民力を紓す。太子詹事丞を授け、山東廉訪使に改め、未だ上らず、翰林侍講学士に陞り、江浙行省右丞に遷る。文宗立ち、宣政院使を除く。上言して僧道を沙汰し、その所有する田は宜しく民間と同じく徴輸すべしと乞う。中書右丞に擢で、力辞して第に還る。明宗崩ずるを聞き、流涕して食うこと能わず、ここより杜門して出でざること数年、疾を以て卒す。弟の巎巎と共に時に名臣と為り、世に双璧と号す。
巎巎の子維山、材質清劭、禁廷に侍し、崇文監丞を起し、給事中に擢で、同僉太常礼儀院事に遷り、崇文太監に調ず。
自当
自当は蒙古の人なり。英宗の時、速古児赤より擢て監察御史と為る。囚を録す大興県に、冤を以て事獄に係わる者あり、その人嘗て橐駝の道傍に死するを見、因ってこれをその家に舁り至りて醢とし、数甕の中に置く、会うに官橐駝盗まれ、捕索甚だ亟し、乃ち執いてこれを勘う、その人自ら誣服す。自当その獄辞を審らかにし、冤なるを疑い、即ち上って御史台にす。台臣は贓既に是なり具すと以為い、特だ御史人の殺すを畏るるのみとし、聴かず、改めて他の御史に委ねてこれを讞せしむ、竟に死を処す。後数日、遼陽行省盗を獲るを以て聞く、冤始めて白し、人これを以てその明を服す。
ちょうど次后(三皇后)が崩じたので、工部に行殿の車帳を撤去するよう命じ、すべて新たに作らせようとした。自当はすぐには工事に着手しなかった。尚書が言うには、「これは特旨によるものである。員外が誤れば、罪は我々に帰するであろう」。自当は言った、「もし罪があれば、私が独りで負う」。間もなく、帝は果たして完成したかと問うた。省臣は自当を召し出して責めて問いただした。自当は自ら入対することを請うた。帝に拝謁すると、奏上して言った、「皇后の行殿車帳はまだ新しいのに、もしこれを改作すれば、民を労し財を費やす恐れがあります。かつ先皇后には悪疾もなく、これに住んでも何の嫌疑がありましょうか。必ずや旧きを捨てて新しくするならば、大明殿は世祖が御されたものであり、列聖が嗣位するごとに皆改作したでしょうか」。帝は大いに喜び、省臣に言った、「国家が人を用いるには、自当のような者を選ぶべきで、そうすれば大事を誤ることはないであろう」。特に上尊と金幣を賜り、吏部員外郎に遷った。帝が太后に太皇太后の号を加えようとし、朝堂でこれを議させた。自当だけが言った、「太后を太皇太后と称するのは、典礼に合いません」。皆が言った、「英宗はどうして皇太后の号に太皇太后を加えたのか」。自当は言った、「英宗は孫であり、今上は子です。太皇太后の号は孫が称することができますが、子は称することができません」。議はこうして定まった。中書客省使に遷り、まもなく同僉宣政院事に改められた。
文宗が即位すると、中書左司郎中に任じられた。詔を持って江浙から帰還した使者が、行省臣の様子に不服があるかのようなことを言った。帝は怒り、使者を遣わして不敬の状を問わせ、悉く誅殺しようとした。自当が丞相燕帖木児に言った、「皇帝は新たに即位され、雲南・四川はなお未だ定まっていません。使者の一言によって行省大臣を殺すのは、盛徳の事とは恐れます。況んや江浙は豪奢の地であり、使者がその求める所を満たされなかったなら、言葉を作って陥れることもありましょう」。燕帖木児がこの言葉を帝に伝えると、事は止んだ。やがて参議中書省事に昇進した。燕帖木児が太保伯顔に王爵を封じることを議すると、衆論はこれに附した。自当だけは言わなかった。燕帖木児がその理由を問うと、自当は言った、「太保は位は三公に列し、さらに王封を加えれば、後にもし大功があれば、どう処遇しましょうか。かつ丞相が王に封ぜられたのは、上意によるものです。今太保に王封を加えようとするなら、丞相は上に請うべきです。王爵は中書の選法ではありません」。こうしてその議は廃された。治書侍御史に拝された。
初め、文宗が集慶に潜邸におられた時、天霊寺を創建しようとし、役所に命じて民夫を徴発させた。江南行台監察御史の亦乞剌台が言った、「太子が善事をなさるのであれば、自ら金を出して夫を募うべきです。もし民を役そうとされるなら、朝廷がこれを聞けば都合が悪いでしょう」。この時、文宗は江南行台監察御史を悉く召し出し、皆を監察御史として入朝させようとし、亦乞剌台を罷免しようとした。自当が諫めて言った、「陛下が潜邸におられた時、御史が心を尽くして陛下に言ったのは、忠臣です。今罪なくしてこれを罷めるのは、天下に示すべきことではありません」。そこで亦乞剌台を湖南僉憲に任じた。文宗がかつて西湖に遊ぼうとすると、自当が諫めて言った、「陛下が万乗の尊をもって舟を浮かべて自ら楽しまれるのは、天下をどうなさいますか」。聞き入れられなかった。自当は病と称して従行しなかった。文宗は舟中で顧みて台臣に言った、「自当は終に朕のこの遊びを満足しないのか」。台臣がかつて除目を奏上した時、文宗は筆で一人の姓名を塗り、将作院官の閭閭の名を書き加えた。自当が言った、「閭閭は人となり詼諧であり、教坊司を任せることしかできません。もし風紀の職に居らせれば、台綱は地に掃かれるでしょう」。文宗はやめた。やがて陝西行台侍御史として出された。
順帝の初め、福建都転運塩使に任じられた。先に、自当が左司郎中であった時、泰定帝が河間・江浙・福建の塩引六万を中書参議撒迪に賜ろうとしたが、自当が執って不可とし、僅かに福建塩引二万を賜うにとどまった。この時、自当は再び建言して、塩引はすべて国用に資して民力を舒くべきだと述べた。当時撒迪はちょうど御史大夫であったが、これを怨むことなく、しばしば人を遣わして京師の自当の母を見舞わせた。
やがて母の喪に服し、しばらく閑居した後、再び起用されて浙西粛政廉訪使となった。時に駙馬が江浙行省丞相となっていたが、その宦官が公主の勢いを恃み、杭州のダルガチの位に座り、役所に命じて民間の物を強買させ、従わないとすぐに殴打した。役所が自当に報告すると、自当はただちにこれを捕らえて械につなぎ衆に示した。これ以来、丞相府で民に害をなす者はなくなった。まもなく同僉枢密院事に召された。間もなく再び治書侍御史・同知経筵事となった。寧夏の者が買買らが太師伯顔を謀害しようとしていると告げた。伯顔は自当と中書・枢密などの官に命じて寧夏に赴き審問させたが、その情実はなく、誣告の罪で告発者を処罰した。伯顔は怒った。自当が前に進み出て言った、「太師が我々三人にこれを勘案させたのは、国法の在る所によるものです。必ずや我々三人を罪するならば、自当が実はその事を主としたので、私が独りで当たるべきです」。伯顔は自当を同知徽政院事に左遷した。
自当は四朝に歴事し、官は従仕郎から累転して通奉大夫に至り、常に侃々として在位し、剛介で曲がらず、終始一節を保ち、古の遺直の風があった。しかし結局これによって権貴に忤い、再び権柄を用いられることはなく、君子は皆これを惜しんだ。
阿栄
阿栄は字を存初といい、ケレイ氏である。父は按攤で、中書右丞であった。阿栄は幼くして武宗に仕え、宿衛を備え、累遷して官となり、湖南道宣慰副使となった。温迪罕が湖南に宣撫使として派遣された時、事の大小を問わずすべて彼に委ねた。ちょうど諸郡が凶年にあって飢饉となったので、阿栄は自分の俸禄を分けて粥とし、飢えた者に食べさせ、さらに粟を発して賑済し、救った者は非常に多かった。広西で賊が起こると、衆は皆洶洶として恐れた。阿栄は静をもってこれを鎮め、役所に督えて兵を治めその境を守らせたので、賊は侵入できなかった。湖広行省左右司郎中に遷り、僉会福院事に召され、まもなく吏部尚書に任じられた。泰定初め、湖南宣慰使として出され、浙東道宣慰使都元帥に改められたが、病気を理由に辞した。
小雲石海涯
小雲石海涯、家世は其の祖阿里海涯の伝に見ゆ。其の父は楚國忠惠公、名は貫只哥、小雲石海涯遂に貫を以て氏と為し、復た酸齋を以て自ら号す。母は廉氏、夜に神人の大星を授けて之を吞まするを夢み、已にして姙あり。及び生まるるや、神彩秀異なり。年十二三、膂力人に絶し、健児をして三悪馬を駆りて疾馳せしめ、槊を把りて立ちて馬の至るを待ちて之に騰り上り、二を越えて三に跨り、槊を運らせば風を生じ、観る者は辟易す。或いは彊を挽きて生を射、猛獣を逐い、峻阪を上下すること飛ぶが如く、諸将皆其の趫捷に服す。稍く長じて、節を折りて書を読み、目五行を下す。辞を吐きて文を為すに、故常を蹈襲せず、其の旨皆人の意表に出づ。
初め父の官を襲いて両淮萬戸府達魯花赤と為る。永州を鎮め、軍を御すること極めて厳猛にして、行伍粛然たり。稍く暇あれば、輒ち壺を投じ雅歌し、意の暢適する所、形跡に拘らるることを為さず。一日、弟忽都海涯を呼びて之に語りて曰く、「吾れ生れながら宦情素より薄し、顧みるに祖父の爵は敢へて襲はざるべからず、今已に数年なり、願くは弟に譲らん、弟幸ひに辞す勿れ」と。語り已りて、即ち解きて綰ふ所の黄金虎符を佩かしむ。北して姚燧に学び、燧其の古文の峭厲として法有り及び歌行古楽府の慷慨激烈なるを見て、大いに之を奇とす。
仁宗東宮に在り、其の爵位を弟に譲るを聞き、宮臣に謂ひて曰く、「将相家の子弟其れ是の如き賢者有らんや」と。俄に選ばれて英宗潜邸の説書秀才と為り、禁中に宿衞す。仁宗践祚し、疏を上ぐるに六事を条す。一に曰く辺戍を釈きて文徳を修むべし、二に曰く太子を教へて国本を正すべし、三に曰く諫官を設けて聖徳を輔くべし、四に曰く姓氏を表して勲冑を旌すべし、五に曰く服色を定めて風俗を変ずべし、六に曰く賢才を挙げて至道を恢むべし。書凡そ万餘言、報いず。翰林侍読学士・中奉大夫・知制誥同修国史を拝す。
子男二人:阿思蘭海牙は慈利州達魯花赤、次は八三海涯。孫女一人、学識有り、詞章能くし、懐慶路総管段謙に帰す。
泰不華
順帝即位し、文宗后に太皇太后の号を加ふ、大臣燕鐵木兒・伯顏皆地を列ねて王を封ず。泰不華同列を率ひて章を上ぐるに言ふ、「嬸母宜しく徽称を加ふべからず、相臣当に王土を受くべからず」と。太后怒り、言者を殺さんと欲す。泰不華衆に語りて曰く、「此の事我より之を発す、誅戮を受くるを甘んじ、決して諸公を累はさじ」と。已にして太后怒り解け、曰く、「風憲に臣是の如き有り、豈に祖宗の法を守らざらんや」と。金幣二を賜ひ、以て其の直を旌す。出でて河南廉訪司事を僉し、俄に淮西に移る。継いで江南行御史臺経歴に遷る、赴かずと辞し、転じて江浙行省左右司郎中と為る。浙西大水して稼を害す、会ふに泰不華朝に入り、力を中書に言ひて、其の租を免ぜしむ。擢て祕書監と為し、改めて礼部侍郎と為す。
八年、台州黄巖の民方国珍、蔡乱頭・王伏の讎に逼められ、遂に海に入りて乱を為し、漕運の糧を劫掠し、海道千戸徳流于実を執る。事聞こえ、詔して江浙参政朵児只班に舟師を総べて之を捕へしむ、福州五虎門に追ひ至る、国珍事の危きを知り、舟を焚きて将に遁らんとす、官軍自ら相驚き潰え、朵児只班遂に執はる。国珍其の上に迫りて招降の状を為さしむ、朝廷之に従ひ、国珍兄弟皆之に官を授くる、国珍赴かんことを肯はず、勢益々暴横なり。九年、詔して泰不華に実を察して以て聞こしめす、既に其の状を得て、遂に招捕の策を上ぐ、聴かず。尋いで江東廉訪使を除き、改めて翰林侍読学士・知制誥同修国史と為す。已にして出でて都水庸田使と為る。
十年(至正十年)十二月、方国珍は再び海に入り、沿海の州郡を焼き掠めた。十一年二月、詔して孛羅帖木児を江浙行省左丞とし、兵を総べて慶元に至らしむ。泰不華が賊の情状に通暁していることを以て、浙東道宣慰使都元帥に遷し、兵を分けて温州に駐め、挟撃させた。間もなく、方国珍が温州を寇すと、泰不華は火筏を放ってこれを焼き、一晩で遁走させた。既にして孛羅帖木児は密かに泰不華と約し、六月乙未に合兵して進討することとした。孛羅帖木児は壬辰に期日より先んじて大閭洋に至り、方国珍は夜に勁卒を率いて火を放ち鬨の声を上げた。官軍は戦わずして皆潰走し、水に赴いて死する者は過半に及んだ。孛羅帖木児は捕らえられ、逆に方国珍のために言葉を飾って上奏させた。泰不華はこれを聞いて痛憤し、数日間食事を絶った。朝廷はこれを知らず、再び大司農達識帖木邇らを黄巖に遣わして招降させた。方国珍兄弟は皆岸に登って羅列して拝礼し、退いて民間の小楼に止まった。その夜は中秋で月明かりが明るく、泰不華は壮士を命じて襲撃し殺そうとしたが、達識帖木邇がたまたま夜に泰不華を訪れ、密かに事を告げると、達識帖木邇は言った、「私は詔を受けて招降するのみである。公は勝手に命令を下そうとするのか」と。事はそこで止んだ。泰不華に檄して自ら海浜に至り、その徒衆を解散させ、その海舟と兵器を拘束させ、方国珍兄弟にはまた官職をそれぞれ授けた。既にして泰不華を台州路達魯花赤に遷した。
泰不華は気節を重んじ、俗に浮沈しなかった。太平が台臣に弾劾されて相位を去る時、泰不華はただ一人都門外で餞別を送った。太平は言った、「公は止まれ。私のために公を累わすな」と。泰不華は言った、「士は知己の為に死す。どうして禍を畏れようか」と。後、時に宰相に排斥されても、人として是としない者はなかった。篆書・隷書に優れ、温潤で遒勁であった。嘗て『復古編』十巻を重ねて類し、訛字を考正し、経史に対して多く根拠があったという。
余闕
余闕は字を廷心、一字を天心といい、唐兀氏で、代々河西武威の家である。父は沙剌臧卜、廬州に官し、遂に廬州の人となった。幼くして父を喪い、生徒を教えて母を養い、呉澄の弟子である張恒と交わり、文学が日々進んだ。
間もなく都元帥に昇進した。広西の猫軍五万が元帥阿思蘭に従って江沿いに下り廬州に至った。余闕は移文して、苗蛮は中国を窺わせるべきではないとし、詔して阿思蘭に軍を還らせた。猫軍で境内で暴を働く者がいれば、即ち捕らえて殺し、凜として敢えて犯す者はいなかった。時に群盗が四方の外に環状に分布し、余闕はその中に居て、左右を提挈し、屹然として江淮の一保障となった。功を論じ、江淮行省参知政事に拝され、依然として安慶を守り、江右への通路を開くと、商旅が四方から集まった。池州の趙普勝が衆を帥いて城を攻め、三日連戦して敗走した。間もなくまた至り、二旬相拒してようやく退いた。懐寧県達魯花赤の伯家奴が戦死した。十七年、趙普勝が青軍と共に二道から我が方を攻め、一月余り拒戦して、ついに敗走させた。
秋、淮南行省左丞に拝せられる。安慶は小孤山を倚りて藩蔽と為し、義兵元帥胡伯顏に命じて水軍を統率させてこれを戍らしむ。十月、沔陽の陳友諒、上流より直ちに小孤山を擣ち、伯顏之と戦うこと四昼夜にして勝たず、急ぎ安慶に趣く。賊追いて山口鎮に至り、明日癸亥、遂に城下に迫る。闕兵を遣わして観音橋に扼せしむ。俄かに饒州の祝寇西門を攻め、闕之を斬りて却く。乙巳、賊東門の紅旗に乗じて城に登る。闕死士を簡びて力戦し、賊復た敗れて去る。戊申、賊軍を併せて東西二門を攻め、又之を却く。賊甚だ恚み、乃ち柵を樹て飛樓を起す。庚戌、復た来たりて我を攻め、金鼓の声地を震わす。闕諸将を分ちて各兵を以て賊を払わしめ、昼夜息むことを得ず。癸卯、賊益々兵を生じて東門を攻む。丙午、普勝は東門を軍し、友諒は西門を軍し、祝寇は南門を軍し、羣盗四面より蟻の如く集まり、外に一甲の援無し。西門の勢尤も急なり、闕身を以て之に当たり、徒歩にて戈を提げ士卒の先と為り、士卒号哭して之を止むるも、戈を揮うこと愈よ力み、仍て麾下の将を分ちて三門の兵を督せしめ、自ら孤軍を以て血戦し、斬首算うる無し。而して闕亦た十余創を被る。日中城陥ち、城中火起る。闕為すべからざるを知り、刀を引いて自ら剄し、清水塘の中に墮つ。闕の妻耶卜氏及び子徳生、女福童皆井に赴きて死す。同時に死する者、守臣韓建一家害せられ、建方に疾に臥し、賊を罵りて屈せず、賊之を執りて去り、其の終わる所を知らず。城中の民相率いて城楼に登り、自ら其の梯を捐てて曰く、「寧ろ倶に此に死せん、誓って賊に従わじ」と。焚死する者千計に及ぶ。其の名を知る者は、万戸李宗可、紀守仁、陳彬、金承宗、元帥府都事帖木補化、万戸府経歴段桂芳、千戸火失不花、新李、盧廷玉、葛延齢、丘卺、許元琰、奏差兀都蛮、百戸黄寅孫、安慶推官黄禿倫歹、経歴楊恒、知事余中、懐寧尹陳巨済、凡そ十八人。其の城陥ちし日の、則ち至正十八年正月丙午なり。
闕は経術に留意し、五経皆伝注有り。文を為すに気魄有り、能く其の言わんとする所を達す。詩体は江左を尚び、鮑・謝を高視し、徐・庾以下は論ぜず。篆隸も亦古雅にして伝うべき有り。初め、闕既に死し、賊之を義とし、屍を塘中に求め、棺を具えて斂め西門外に塟る。及び安慶内附し、大明皇帝闕の忠を嘉し、詔して廟を忠節坊に立て、有司に命じて歳時祭を致さしむと云う。