巻143

列傳第三十: 馬祖常 巙巙 自當 阿榮 小雲石海涯 泰不華 余闕

馬祖常

馬祖常、字は伯庸、代々雍古部に属し、淨州天山に居住した。錫里吉思という者がおり、祖常にとって高祖父にあたり、金の末期に鳳翔兵馬判官となり、節を守って死んだため恒州刺史を追贈され、子孫はその官に因み、馬を氏とした。曾祖父は月合乃、世祖に従って宋を征し、汴に留まり、饋餉を掌り、累官して礼部尚書となった。父は潤、漳州路総管府事の同知となり、光州に家を構えた。

原文馬祖常字伯庸,世為雍古部,居(靖)〔淨〕州天山。有錫里吉思者,於祖常為高祖,金季為鳳翔兵馬判官,以節死贈恒州刺史,子孫因其官,以馬為氏。曾祖月合乃,從世祖征宋,留汴,掌饋餉,累官禮部尚書。父潤,同知漳州路總管府事,家于光州。

祖常は七歳で学問を知り、銭を得れば直ちに書物を購入した。十歳の時、燭が倒れて家屋を焼くのを見て、衣を解いて水をかけて火を消し、皆これを奇異として嘆賞した。成長して後、ますます学問に篤く励んだ。蜀の儒者張䇓が儀真で道を講じたので、その門に赴いて学業を受け、数十の疑義を質すと、䇓は大いに彼を器重した。延祐初年、科挙法が施行され、郷貢・会試ともに第一に及第し、廷試では第二人となった。応奉翰林文字を授けられ、監察御史に任じられた。

原文祖常七歲知學,得錢即以市書。十歲時,見燭欹燒屋,解衣沃水以滅火,咸嗟異之。既長,益篤于學。蜀儒張䇓講道儀真,往受業其門,質以疑義數十,䇓甚器之。延祐初,科舉法行,鄉貢、會試皆中第一,廷試為第二人。授應奉翰林文字。拜監察御史。

この時、仁宗は御位について既に久しかったが、なお東宮に居り、飲酒常に過度であった。祖常は上書して「正衙に御し、朝儀を立て、御史は簡を執り、太史は筆を執れば、たとえ姦を懐き利己し官を乞い賞を求める者ありとも、敢えて口に出さざるべし。天子は天地祖宗の重きを承け、極めて調摂すべきであり、酒醴に至っては、近侍が進御するに当たり、一献百拜の義を思うべきである」と請うた。英宗が皇太子となると、また上書して師傅の選任を慎重にするよう請うた。この時、姦臣鉄木迭児が丞相となり、威権を恣にしていた。祖常は彼が国史を盗み見たことを知り、同列を率いてその十罪を劾奏したので、仁宗は震怒し、彼を罷免した。秦州で山が移動した時、祖常は言うには「山は動かざる物である。今や動くのは、野に在って用うべき賢者を用いず、官に在って言うべき佞者を言わざるが故に、かくの如きに至るのである」と。上疏が聞き届けられると、大臣は皆家に居して罪を待った。祖常は賢者を推薦し滞った者を抜擢し、知る所は言わざる無かった。間もなく宣政院経歴に改められ、一月余りで辞して帰り、社稷署令として起用された。間もなく、姦臣が再び丞相となると、左遷されて開平県尹となり、因って中傷しようとしたので、遂に退いて光州に居を定めた。久しくして、姦臣が既に死ぬと、乃ち翰林待制に任じられた。泰定帝が皇太子を立てると、典宝少監・太子左賛善に抜擢された。まもなく翰林直学士を兼ね、礼部尚書に任じられた。祖母の喪に服し、起用されて右賛善となり、再び礼部尚書に任じられ、まもなく辞して帰った。

原文是時,仁宗在御已久,猶居東宮,飲酒常過度。祖常上書請「御正衙,立朝儀,御史執簡,太史執筆,則雖有懷姦利己乞官求賞者,不敢出諸口。天子承天地祖宗之重,當極調攝;至於酒醴,近侍進御,當思一獻百拜之義」。英宗為皇太子,又上書請慎簡師傅。於是姦臣鐵木迭兒為丞相,威權自恣。祖常知其盜觀國史,率同列劾奏其十罪,仁宗震怒,黜罷之。秦州山移,祖常言:「山不動之物,今而動焉,由在野有當用不用之賢,在官有當言不言之佞,故致然爾。」疏聞,大臣皆家居待罪。祖常薦賢拔滯,知無不言。俄改宣政院經歷,月餘辭歸,起為社稷署令。亡何,姦臣復相,左遷開平縣尹,因欲中傷之,遂退居光州。久之,姦臣既死,乃除翰林待制。泰定建儲,擢典寶少監、太子左贊善。尋兼翰林直學士,除禮部尚書。丁祖母憂,起為右贊善,復除禮部尚書,尋辭歸。

天暦元年、燕王内尉として召され、なお礼部に入り、二度貢挙を掌り、一度読巻官を務め、時に人を得たと称された。参議中書省事に昇進し、親郊の礼儀を参定し、読冊祝官を充てられ、治書侍御史に任じられ、徽政副使を歴任し、江南行臺中丞に転じた。

原文天曆元年,召為燕王內尉,仍入禮部,兩知貢舉,一為讀卷官,時稱得人。陞參議中書省事,參定親郊禮儀,充讀冊祝官,拜治書侍御史,歷徽政副使,遷江南行臺中丞。

元統元年、新政を議するために召され、白金二百両・鈔一万貫を賜った。また同知徽政院事を歴任し、遂に御史中丞に任じられた。帝は彼が病を患っているため、詔して特に朝礼を免じ、光禄寺より日々上尊を給した。祖常は憲務を執るに大体を存した。西臺御史がその同僚が禁酤の時に面に酒容有りと劾奏したが、苛細を以ってこれを罷免した。山東廉訪司が孔氏の訴訟事を言上したが、事が名教に関わるとして施行せず、按問する者もまた引き去った。枢密副使に任じられ、間もなく、職を辞して光州に帰った。再び江南行臺中丞に任じられ、また陝西行臺中丞に転じたが、皆病気を理由に赴任しなかった。至元四年に卒去、享年六十、攄忠宣憲協正功臣・河南行省右丞・上護軍・魏郡公を追贈され、諡して文貞といった。

原文元統元年,召議新政,賜白金二百兩、鈔萬貫。又歷同知徽政院事,遂拜御史中丞。帝以其有疾,詔特免朝禮,光祿日給上尊。祖常持憲務存大體。西臺御史劾其僚禁酤時面有酒容,以苛細黜之。山東廉訪司言孔氏訟事,以事關名教不行,按者亦引去。除樞密副使,頃之,辭職歸光州。復除江南行臺中丞,又遷陝西行臺中丞,皆以疾不赴。至元四年卒,年六十,贈攄忠宣憲協正功臣、河南行省右丞、上護軍、魏郡公,諡文貞。

祖常は朝廷に立つこと既に久しく、多く建明した所があった。嘗て議して「今、国族及び諸部は既に聖賢の書を誦する以上、諸母を尊び以て彝倫を厚くすべきことを知るべし」とした。また議して「将家の子弟は驕脆にして任使に孤ならざる無く、而して庶民には強きを挽き張を蹶て老いて草野に死する者あり、武学・武挙を建て、材を儲けて非常に備うべし」とした。当時は用いられなかったが、識者はこれを是とした。祖常は文章に巧みで、宏贍にして精核、陳言を去ることに務め、専ら先秦両漢を法とし、而して一家の言を自ら成した。特に詩に力を注ぎ、円密清麗、大篇短章伝うべからざる無し。文集が世に行われた。嘗て英宗実録の編纂に預かり、また皇図大訓・承華事略を訳潤し、また列后金鑑・千秋記略を編集して進上し、優渥なる賜物を受けた。文宗が嘗て龍虎臺に駐驆した時、祖常は応制して詩を賦し、特に嘆賞され、中原の碩儒は唯だ祖常のみと謂われた。

原文祖常立朝既久,多所建明。嘗議:「今國族及諸部既誦聖賢之書,當知尊諸母以厚彝倫。」又議:「將家子弟驕脆有孤任使,而庶民有挽強蹶張老死草野者,當建武學、武舉,儲材以備非常。」時雖弗用,識者韙之。祖常工於文章,宏贍而精核,務去陳言,專以先秦兩漢為法,而自成一家之言。尤致力於詩,圓密清麗,大篇短章無不可傳者。有文集行于世。嘗預修英宗實錄,又譯潤皇圖大訓、承華事略,又編集列后金鑑、千秋記略以進,受賜優渥。文宗嘗駐驆龍虎臺,祖常應制賦詩,尤被歎賞,謂中原碩儒唯祖常云。

巙巙

巙巙、字は子山、康里氏。父の不忽木は自ら伝有り。祖父の燕真は世祖に仕え、征に従って功有り。巙巙は幼くして国学に学び、群書に博通し、その正心修身の要は許衡及び父兄の家伝に得た。成長して宿衛を襲い、風神凝遠、制行峻潔、望んで其れ貴介の公子たるを知る。その事に遇うや英発、髯を掀げて論弁し、法家の拂士も之を過ぐる能わず。

原文(巙巙)〔巎巎〕字子山,康里氏。父不忽木自有傳。祖燕真,事世祖,從征有功。(巙巙)〔巎巎〕幼肄業國學,博通羣書,其正心修身之要得諸許衡及父兄家傳。長襲宿衞,風神凝遠,制行峻潔,望而知其為貴介公子。其遇事英發,掀髯論辨,法家拂士不能過之。

始め承直郎・集賢待制を授かり、兵部郎中に遷り、秘書監丞に転じた。命を受けて泉舶を覈察に往き、珠犀を芥視し、少しも留目しなかった。同僉太常礼儀院事に改められ、監察御史に任じられ、河東廉訪副使に昇進した。未だ着任せず、秘書太監に遷り、侍儀使に昇進した。まもなく中書右司郎中に抜擢され、集賢直学士に遷り、江南行臺治書侍御史に転じた。礼部尚書に任じられ、群玉内司を監した。

原文始授承直郎、集賢待制,遷兵部郎中,轉祕書監丞。奉命往覈泉舶,芥視珠犀,不少留目。改同僉太常禮儀院事,拜監察御史,陞河東廉訪副使。未上,遷祕書太監,陞侍儀使。尋擢中書右司郎中,遷集賢直學士,轉江南行臺治書侍御史。拜禮部尚書,監羣玉內司。

巙巙は正色して下を率いた。国の制度として、大楽諸坊は皆本部に隷属し、公讌に遇えば、衆伎畢陳した。巙巙は之を泊如として視、僚佐以下皆粛然とした。会同館事を領するに遷り、尚書・群玉内司監は元の如し。まもなく経筵官を兼ね、再び江南行臺治書侍御史に任じられた。未だ行かず、留まって奎章閣学士院承制学士と為り、仍って経筵官を兼ねた。侍書学士・同知経筵事に昇進し、再び奎章閣学士院大学士・知経筵事に昇進した。浙西廉訪使に任じられたが、再び留まって大学士・知経筵事と為った。まもなく翰林学士承旨・知制誥兼修国史・知経筵事に任じられ、宣文閣崇文監を提調した。

原文(巙巙)〔巎巎〕正色率下。國制,大樂諸坊咸隸本部,遇公讌,眾伎畢陳。(巙巙)〔巎巎〕視之泊如,僚佐以下皆肅然。遷領會同舘事,尚書、監羣玉內司如故。尋兼經筵官,復除江南行臺治書侍御史。未行,留為奎章閣學士院承制學士,仍兼經筵官。陞侍書學士、同知經筵事,復陞奎章閣學士院大學士、知經筵事。除浙西廉訪使,復留為大學士、知經筵事。尋拜翰林學士承旨、知制誥兼修國史、知經筵事,提調宣文閣崇文監。

先に、文宗は政治に励み治世を図り、巎巎はしばしば聖賢の格言を帝の側で講誦し、裨益するところ甚だ多かった。順帝が即位した後、権奸を剪除し、治化を改めんと考える。巎巎は経筵に侍し、日々帝に学問に務めるよう勧め、帝はすなわち彼に就いて習授し、師礼をもって寵遇せんと欲したが、巎巎は力辞して受けなかった。凡そ四書・六経に載る治道を、帝のために紬繹して言い、必ずや言辞が達し、帝の衷を感動させ、旨意を敷暢して後やむ。柳宗元の『梓人伝』、張商英の『七臣論』などは、特に喜んで誦説した。嘗て経筵において力説して商英の言う七臣の状を陳べ、左右は錯愕し、嫉むの色があったが、平素その賢を知り、再び慍りを肆にしなかった。帝が暇日に古の名画を観ようと欲すると、巎巎はすなわち郭忠恕の『比干図』を取って進め、因って言うに、商王受(紂王)は忠臣の諫を聴かず、遂にその国を亡ぼしたと。帝が一日、宋徽宗の画を覧て善しと称す。巎巎進みて言う、「徽宗は多能なり、ただ一事能わず。」帝問う、「何を一事と謂うや。」対えて曰く、「ただ君たることを能わざるのみ。身辱められ国破るるは、皆な君たることを能わざるに由る。人君は貴ぶところ君たることを能うるにあり、他は尚ぶところに非ず。」或いは天変民災に遇えば、必ず憂い色に現れ、隙あらば則ち帝に進言して曰く、「天心は仁にして、人君を愛す、故に変を以て儆しめを示す。譬えば慈父の子に対するがごとし、愛すれば則ちこれを教えこれを戒む。子能く敬を起こし孝を起こせば、則ち父の怒必ず釈る。人君側身修行すれば、則ち天意必ず回る。」帝その真誠を察し、己を虚しくして聴く。特に只孫の燕服九襲及び玉帯・楮幣を賜い、以てその言を旌す。

原文先是,文宗勵精圖治,(巙巙)〔巎巎〕嘗以聖賢格言講誦帝側,裨益良多。順帝即位之後,剪除權奸,思更治化。(巙巙)〔巎巎〕侍經筵,日勸帝務學,帝輒就之習授,欲寵以師禮,(巙巙)〔巎巎〕力辭不可。凡四書、六經所載治道,為帝紬繹而言,必使辭達,感動帝衷,敷暢旨意而後已。若柳完元梓人傳、張商英七臣論,尤喜誦說。嘗於經筵力陳商英所言七臣之狀,左右錯愕,有嫉之之色,然素知其賢,不復肆慍。帝暇日欲觀古名畫,(巙巙)〔巎巎〕即取郭忠恕比干圖以進,因言商王受不聽忠臣之諫,遂亡其國。帝一日覽宋徽宗畫稱善。(巙巙)〔巎巎〕進言︰「徽宗多能,惟一事不能。」帝問︰「何謂一事?」對曰:「獨不能為君爾。身辱國破,皆由不能為君所致。人君貴能為君,它非所尚也。」或遇天變民災,必憂見於色,乘間則進言于帝曰:「天心仁,愛人君,故以變示儆。譬如慈父於子,愛則教之戒之。子能起敬起孝,則父怒必釋。人君側身修行,則天意必回。」帝察其真誠,虛己以聽。特賜只孫燕服九襲及玉帶楮幣,以旌其言。

巎巎嘗て人に謂いて曰く、「天下の事は宰相に在りて言うべし、宰相言うを得ざれば則ち台諫これを言い、台諫敢えて言わざれば則ち経筵これを言う。経筵に位を備え、人の敢えて言わざることを天子の前に言い得るは、志願足る。」故に時政の得失に匡救すべきあるも、未だ嘗て緘黙せず。大臣議して先朝の置くところの奎章閣学士院及び芸文監諸属官を罷めんとす。巎巎進みて曰く、「民に千金の産あれば、猶お家塾を設け、館客を延ぶ、豈に堂堂たる天朝、四海を富有し、一学房乃ち容るる能わざるあらんや。」帝聞きて深く然りとす。即日奎章閣を宣文閣と改め、芸文監を崇文監とし、存設は初めの如く、就いて命じて巎巎にこれを董治せしむ。又た検討等の職十六員を置きて進講に備えんことを請う。帝皆な俞允す。時に科挙既に輟みたり、巎巎従容として帝に言う、「古昔人材を取りて世用に済わしむるは、必ず科挙に由る、何ぞ廃すべけんや。」帝その論を采り、尋いで旧制を復す。一日、司馬光の『資治通鑑』を進読し、因って言う、国家まさにこの時に及びて遼・金・宋の三史を修すべし、歳久しうすれば恐らくは闕逸を致さんと。後に局を置きて纂修す、実に巎巎その端を発す。又た郷飲酒礼を国学に行い、民に遜悌を知らしめ、及び唐の劉蕡・宋の邵雍を褒贈して以て道德正直を旌さんことを請う。帝その請いに従い、為に詔を下す。

原文(巙巙)〔巎巎〕嘗謂人曰:「天下事在宰相當言,宰相不得言則臺諫言之,臺諫不敢言則經筵言之。備位經筵,得言人所不敢言於天子之前,志願足矣。」故於時政得失有當匡救者,未嘗緘默。大臣議罷先朝所置奎章閣學士院及藝文監諸屬官。(巙巙)〔巎巎〕進曰:「民有千金之產,猶設家塾,延舘客,豈有堂堂天朝,富有四海,一學房乃不能容耶?」帝聞而深然之。即日改奎章閣為宣文閣,藝文監為崇文監,存設如初,就命(巙巙)〔巎巎〕董治。又請置檢討等職十六員以備進講。帝皆俞允。時科舉既輟,(巙巙)〔巎巎〕從容為帝言:「古昔取人材以濟世用,必由科舉,何可廢也?」帝采其論,尋復舊制。一日進讀司馬光資治通鑑,因言國家當及斯時修遼、金、宋三史,歲久恐致闕逸。後置局纂修,實由(巙巙)〔巎巎〕發其端。又請行鄉飲酒于國學,使民知遜悌,及請褒贈唐劉蕡、宋邵雍以旌道德正直。帝從其請,為之下詔。

巎巎は重望を以て高位に居り、而して雅に儒士を愛すること甚だ饑渇に過ぎ、以て故に四方の士大夫翕然としてこれを宗とし、その門に萃まる。達官に勢いを怙せる者あり、言う、「儒に何の好ある、君酷くこれを愛すや。」巎巎曰く、「世祖は儒以て治を致すに足るとし、裕宗に命じて賛善王恂に学ばしむ。今秘書の蔵する所の裕宗の倣書、当時御筆に学生の下に親しく御名を署し習書謹んで呈す、その敬慎此の若し。世祖嘗て暮れに我が先人を召して寝榻の下に坐せしめ、四書及び古史の治乱を陳説し、丙夜に至りて寐ず。世祖喜びて曰く、『朕の卿をして許仲平に従いて学ばしむる所以は、正に卿をして嘉言を以て朕に告げ入らしめんと欲するなり、卿益々懋敬を加えて以て朕が志に副えよ。』今汝言う、儒を愛せずと、寧んぞ聖祖神宗の篤好の意を念わざるや。且つ儒者の道は、これに従えば則ち君仁・臣忠・父慈・子孝、人倫咸く得、国家咸く治まる。これに違えば則ち人倫咸く失い、家国咸く乱る。汝乱れんとして汝が家をせんと欲すれば、吾禦うる能わず、汝慎んでこの言を以て我が国を乱すことなかれ。儒者或いは身は衣に勝たざるが若く、言は口より出でざるが若し、然れども腹中に貯儲する所人に過ぐる者あり、何ぞ易く視るべけんや。」達官色慚じぬ。

原文(巙巙)〔巎巎〕以重望居高位,而雅愛儒士甚於饑渴,以故四方士大夫翕然宗之,萃於其門。達官有怙勢者,言曰:「儒有何好,君酷愛之?」(巙巙)〔巎巎〕曰:「世祖以儒足以致治,命裕宗學於贊善王恂。今祕書所藏裕宗倣書,當時御筆於學生之下親署御名習書謹呈,其敬慎若此。世祖嘗暮召我先人坐寢榻下,陳說四書及古史治亂,至丙夜不寐。世祖喜曰:『朕所以令卿從許仲平學,正欲卿以嘉言入告朕耳,卿益加懋敬以副朕志。』今汝言不愛儒,寧不念聖祖神宗篤好之意乎?且儒者之道,從之則君仁、臣忠、父慈、子孝,人倫咸得,國家咸治;違之則人倫咸失,家國咸亂。汝欲亂而家,吾弗能禦,汝慎勿以斯言亂我國也。儒者或身若不勝衣,言若不出口,然腹中貯儲有過人者,何可易視也!」達官色慚。

既にして出でて江浙行省平章政事に拝す。明年、復た翰林学士承旨を以て召し還る。時に中書平章員闕け、近臣薦用すべき者あらんと欲し、言を以て帝の意を覘う。帝曰く、「平章已に其人あり、今行くこと半途なり。」近臣帝の意の巎巎に在るを知り、復た人を薦めず。京に至ること七日、熱疾を感じて卒す、実に至正五年五月辛卯なり、年五十一。家貧しく、幾くんか以て斂する無からんとす。帝聞き、震悼を為し、賻銀五錠を賜う。その負う所の官中営運の銭は、台臣奏して罰布を以てこれを代償せしむ。巎巎は真行草書を善くし、識者は晋人の筆意を得たりと謂い、単牘片紙人争ってこれを宝とし、金玉に翅ならず。諡して文忠と曰う。

原文既而出拜江浙行省平章政事。明年,復以翰林學士承旨召還。時中書平章闕員,近臣欲有所薦用,以言覘帝意。帝曰:「平章已有其人,今行半途矣。」近臣知帝意在(巙巙)〔巎巎〕,不復薦人。至京七日,感熱疾卒,實至正五年五月辛卯也,年五十一。家貧,幾無以為斂。帝聞,為震悼,賜賻銀五錠。其所負官中營運錢,臺臣奏以罰布為之代償。(巙巙)〔巎巎〕善真行草書,識者謂得晉人筆意,單牘片紙人爭寶之,不翅金玉。諡文忠。

兄回回、字は子淵。敦默寡言、学を耆し文を能くす。成宗朝に宿衛し、擢て太常寺少卿と為る。寺改めて院と為り、太常院使と為る。武宗正位し、藩邸の旧臣を以て使いに出でて旨に称す。至大の間、大司農卿に調じ、山南廉訪使を除き、江南行台治書侍御史に改め、淮西廉訪使に遷り、皆な政声あり。再び河南廉訪使に改む。行省丞相行事多く法に不法、太尉納璘郎中と為り、毎に格して下さず、丞相怒りてこれを出さんと欲す。回回その賢を察し、章を抗して風憲に挙任し、後に三台を歴て名臣と為る。駙馬平章の家奴強いて人物を市す、これを按ずるに貸す所無し。

原文兄回回,字子淵。敦默寡言,耆學能文。在成宗朝宿衞,擢太常寺少卿。寺改為院,為太常院使。武宗正位,以藩邸舊臣出使稱旨。至大間,調大司農卿,除山南廉訪使,改江南行臺治書侍御史,遷淮西廉訪使,皆有政聲。再改河南廉訪使。行省丞相行事多不法,太尉納璘為郎中,每格不下,丞相怒欲出之。回回察其賢,抗章舉任風憲,後歷三臺為名臣。駙馬平章家奴強市人物,按之無所貸。

英宗即位し、丞相拜住首めて薦めて戸部尚書と為し、尋いで南台侍御史に拝し、参議中書に改む。刑書を議定して法の如くするを以て、帝その奏を嘉納す。泰定初め、廷議漕運の事、奏して糧数を減じて以て東南の民力を紓す。太子詹事丞を授け、山東廉訪使に改め、未だ上らず、翰林侍講学士に陞り、江浙行省右丞に遷る。文宗立ち、宣政院使を除く。上言して僧道を沙汰し、その所有する田は宜しく民間と同じく徴輸すべしと乞う。中書右丞に擢で、力辞して第に還る。明宗崩ずるを聞き、流涕して食うこと能わず、ここより杜門して出でざること数年、疾を以て卒す。弟の巎巎と共に時に名臣と為り、世に双璧と号す。

原文英宗即位,丞相拜住首薦為戶部尚書,尋拜南臺侍御史,改參議中書。以議定刑書如法,帝嘉納其奏。泰定初,廷議漕運事,奏減糧數以紓東南民力。授太子詹事丞,改山東廉訪使,未上,陞翰林侍講學士,遷江浙行省右丞。文宗立,除宣政院使。上言乞沙汰僧道,其所有田宜同民間徵輸。擢中書右丞,力辭還第。聞明宗崩,流涕不能食,自是杜門不出者數年,以疾卒。與弟(巙巙)〔巎巎〕皆為時之名臣,世號為雙璧云。

巎巎の子維山、材質清劭、禁廷に侍し、崇文監丞を起し、給事中に擢で、同僉太常礼儀院事に遷り、崇文太監に調ず。

原文(巙巙)〔巎巎〕子維山,材質清劭,侍禁廷,起崇文監丞,擢給事中,遷同僉太常禮儀院事,調崇文太監。

自当

自当は蒙古の人なり。英宗の時、速古児赤より擢て監察御史と為る。囚を録す大興県に、冤を以て事獄に係わる者あり、その人嘗て橐駝の道傍に死するを見、因ってこれをその家に舁り至りて醢とし、数甕の中に置く、会うに官橐駝盗まれ、捕索甚だ亟し、乃ち執いてこれを勘う、その人自ら誣服す。自当その獄辞を審らかにし、冤なるを疑い、即ち上って御史台にす。台臣は贓既に是なり具すと以為い、特だ御史人の殺すを畏るるのみとし、聴かず、改めて他の御史に委ねてこれを讞せしむ、竟に死を処す。後数日、遼陽行省盗を獲るを以て聞く、冤始めて白し、人これを以てその明を服す。

原文自當,蒙古人也。英宗時,由速古兒赤擢監察御史。錄囚大興縣,有以冤事繫獄者,其人嘗見有橐駝死道傍,因舁至其家醢之,置數甕中,會官橐駝被盜,捕索甚亟,乃執而勘之,其人自誣服。自當審其獄辭,疑為冤,即以上御史臺。臺臣以為贓既具是,特御史畏殺人耳,不聽,改委他御史讞之,竟處死。後數日,遼陽行省以獲盜聞,冤始白,人以是服其明。

泰定二年、扈従して上都に至り、参知政事楊庭玉の贓罪を糾弾して言上したが、返答がなかったので、ただちに印綬を納めて京師に帰った。帝は使者を遣わしてこれを追い、再び任に就かせようとした。自当は再び上章して庭玉を弾劾し、ついにその言の通りとなった。また平章政事禿満迭児が怯薛に入った日に英宗が弑逆されたのは、必ずやその謀を予め聞いていたはずだと奏上して弾劾したが、省みられなかった。そこで禿満迭児に黄金の帯を賜ることとなり、自当は遂に職を辞した。工部員外郎に改められ、中書省が混河開削を委ねたので、自当はこれを見に行き、水の性質が常ならず、民力も疲弊しているので、成功は難しいと朝廷に言上し、河川工事は中止された。

原文泰定二年,扈從至上都,糾言參知政事楊庭玉贓罪,不報,即納印還京師。帝遣使追之,俾復任。即再上章劾庭玉,竟如其言。又劾奏平章政事禿滿迭兒入怯薛之日,英宗被弒,必預聞其謀,不省,乃賜禿滿迭兒黃金繫腰,自當遂辭職。改工部員外郎,中書省委開混河,自當往視之,以為水性不常,民力亦瘁,難以成功,言于朝,河役乃罷。

ちょうど次后(三皇后)が崩じたので、工部に行殿の車帳を撤去するよう命じ、すべて新たに作らせようとした。自当はすぐには工事に着手しなかった。尚書が言うには、「これは特旨によるものである。員外が誤れば、罪は我々に帰するであろう」。自当は言った、「もし罪があれば、私が独りで負う」。間もなく、帝は果たして完成したかと問うた。省臣は自当を召し出して責めて問いただした。自当は自ら入対することを請うた。帝に拝謁すると、奏上して言った、「皇后の行殿車帳はまだ新しいのに、もしこれを改作すれば、民を労し財を費やす恐れがあります。かつ先皇后には悪疾もなく、これに住んでも何の嫌疑がありましょうか。必ずや旧きを捨てて新しくするならば、大明殿は世祖が御されたものであり、列聖が嗣位するごとに皆改作したでしょうか」。帝は大いに喜び、省臣に言った、「国家が人を用いるには、自当のような者を選ぶべきで、そうすれば大事を誤ることはないであろう」。特に上尊と金幣を賜り、吏部員外郎に遷った。帝が太后に太皇太后の号を加えようとし、朝堂でこれを議させた。自当だけが言った、「太后を太皇太后と称するのは、典礼に合いません」。皆が言った、「英宗はどうして皇太后の号に太皇太后を加えたのか」。自当は言った、「英宗は孫であり、今上は子です。太皇太后の号は孫が称することができますが、子は称することができません」。議はこうして定まった。中書客省使に遷り、まもなく同僉宣政院事に改められた。

原文會次三皇后殂,命工部撤行殿車帳,皆新作之。自當未即興工。尚書曰:「此奉特旨,員外有誤,則罪歸於眾矣。」自當曰:「即有罪,我獨任之。」未幾,帝果問成否。省臣乃召自當責問之。自當請自入對。既見帝,奏曰:「皇后行殿車帳尚新,若改作之,恐勞民費財。且先皇后無惡疾,居之何嫌?必欲捨舊更新,則大明殿乃自世祖所御,列聖嗣位豈皆改作乎?」帝大悅,語省臣曰:「國家用人,當擇如自當者,庶不誤大事。」特賜上尊、金幣,遷吏部員外郎。帝欲加號太后曰太皇太后,命朝堂議之。自當獨曰:「太后稱太皇太后,於典禮不合。」眾皆曰:「英宗何以加皇太后號曰太皇太后?」自當曰:「英宗孫也,今上子也,太皇太后之號孫可以稱之,子不可以稱之也。」議遂定。遷中書客省使,俄改同僉宣政院事。

文宗が即位すると、中書左司郎中に任じられた。詔を持って江浙から帰還した使者が、行省臣の様子に不服があるかのようなことを言った。帝は怒り、使者を遣わして不敬の状を問わせ、悉く誅殺しようとした。自当が丞相燕帖木児に言った、「皇帝は新たに即位され、雲南・四川はなお未だ定まっていません。使者の一言によって行省大臣を殺すのは、盛徳の事とは恐れます。況んや江浙は豪奢の地であり、使者がその求める所を満たされなかったなら、言葉を作って陥れることもありましょう」。燕帖木児がこの言葉を帝に伝えると、事は止んだ。やがて参議中書省事に昇進した。燕帖木児が太保伯顔に王爵を封じることを議すると、衆論はこれに附した。自当だけは言わなかった。燕帖木児がその理由を問うと、自当は言った、「太保は位は三公に列し、さらに王封を加えれば、後にもし大功があれば、どう処遇しましょうか。かつ丞相が王に封ぜられたのは、上意によるものです。今太保に王封を加えようとするなら、丞相は上に請うべきです。王爵は中書の選法ではありません」。こうしてその議は廃された。治書侍御史に拝された。

原文文宗即位,除中書左司郎中。有使持詔自江浙還,言行省臣意若有不服者。帝怒,命遣使問不敬狀,將悉誅之。自當言於丞相燕帖木兒曰:「皇帝新即位,雲南、四川且猶未定,乃以使臣一言殺行省大臣,恐非盛德事。況江浙豪奢之地,使臣或不得厭其所需,則造言以陷之耳。」燕帖木兒以言于帝,事乃止。既而陞參議中書省事。燕帖木兒議封太保伯顏王爵,眾論附之。自當獨不言。燕帖木兒問故。自當曰:「太保位列三公,而復加王封,後再有大功,將何以處之?且丞相封王,出自上意,今欲加太保王封,丞相宜請于上。王爵非中書選法也。」遂罷其議。拜治書侍御史。

初め、文宗が集慶に潜邸におられた時、天霊寺を創建しようとし、役所に命じて民夫を徴発させた。江南行台監察御史の亦乞剌台が言った、「太子が善事をなさるのであれば、自ら金を出して夫を募うべきです。もし民を役そうとされるなら、朝廷がこれを聞けば都合が悪いでしょう」。この時、文宗は江南行台監察御史を悉く召し出し、皆を監察御史として入朝させようとし、亦乞剌台を罷免しようとした。自当が諫めて言った、「陛下が潜邸におられた時、御史が心を尽くして陛下に言ったのは、忠臣です。今罪なくしてこれを罷めるのは、天下に示すべきことではありません」。そこで亦乞剌台を湖南僉憲に任じた。文宗がかつて西湖に遊ぼうとすると、自当が諫めて言った、「陛下が万乗の尊をもって舟を浮かべて自ら楽しまれるのは、天下をどうなさいますか」。聞き入れられなかった。自当は病と称して従行しなかった。文宗は舟中で顧みて台臣に言った、「自当は終に朕のこの遊びを満足しないのか」。台臣がかつて除目を奏上した時、文宗は筆で一人の姓名を塗り、将作院官の閭閭の名を書き加えた。自当が言った、「閭閭は人となり詼諧であり、教坊司を任せることしかできません。もし風紀の職に居らせれば、台綱は地に掃かれるでしょう」。文宗はやめた。やがて陝西行台侍御史として出された。

原文初,文宗在集慶潛邸,欲創天靈寺,令有司起民夫。江南行臺監察御史亦乞剌台言曰:「太子為好事,宜出錢募夫,若欲役民,則朝廷聞之非便也。」至是文宗悉召江南行臺監察御史,俾皆入為監察御史,而欲黜亦乞剌台。自當諫曰:「當陛下在潛邸時,御史盡心為陛下言,乃忠臣也。今無罪而黜之,非所以示天下。」乃除亦乞剌台僉憲湖南。文宗嘗欲游西湖,自當諫曰:「陛下以萬乘之尊而汎舟自樂,如天下何?」不聽。自當遂稱疾不從行。文宗在舟中,顧謂臺臣曰:「自當終不滿朕此游耶?」臺臣嘗奏除目,文宗以筆塗一人姓名,而綴將作院官閭閭之名。自當言:「閭閭為人詼諧,惟可任教坊司,若以居風紀,則臺綱掃地矣。」文宗乃止。已而出為陝西行臺侍御史。

順帝の初め、福建都転運塩使に任じられた。先に、自当が左司郎中であった時、泰定帝が河間・江浙・福建の塩引六万を中書参議撒迪に賜ろうとしたが、自当が執って不可とし、僅かに福建塩引二万を賜うにとどまった。この時、自当は再び建言して、塩引はすべて国用に資して民力を舒くべきだと述べた。当時撒迪はちょうど御史大夫であったが、これを怨むことなく、しばしば人を遣わして京師の自当の母を見舞わせた。

原文順帝初,除福建都轉運鹽使。先是,自當為左司郎中時,泰定帝嘗欲以河間、江浙、福建鹽引六萬賜中書參議撒迪,自當執不可,僅以福建鹽引二萬賜之。至是,自當復建言鹽引宜盡資國用以紓民力。時撒迪方為御史大夫,不以為怨,數遣人省自當母于京師所居。

やがて母の喪に服し、しばらく閑居した後、再び起用されて浙西粛政廉訪使となった。時に駙馬が江浙行省丞相となっていたが、その宦官が公主の勢いを恃み、杭州のダルガチの位に座り、役所に命じて民間の物を強買させ、従わないとすぐに殴打した。役所が自当に報告すると、自当はただちにこれを捕らえて械につなぎ衆に示した。これ以来、丞相府で民に害をなす者はなくなった。まもなく同僉枢密院事に召された。間もなく再び治書侍御史・同知経筵事となった。寧夏の者が買買らが太師伯顔を謀害しようとしていると告げた。伯顔は自当と中書・枢密などの官に命じて寧夏に赴き審問させたが、その情実はなく、誣告の罪で告発者を処罰した。伯顔は怒った。自当が前に進み出て言った、「太師が我々三人にこれを勘案させたのは、国法の在る所によるものです。必ずや我々三人を罪するならば、自当が実はその事を主としたので、私が独りで当たるべきです」。伯顔は自当を同知徽政院事に左遷した。

原文既而丁母憂,居閒久之,復起為浙西肅政廉訪使。時有以駙馬為江浙行省丞相者,其宦豎恃公主勢,坐杭州達魯花赤位,令有司強買民間物,不從輒毆之。有司來白自當,自當即逮之械以令眾,自是丞相府無敢為民害者。尋召為同僉樞密院事。尋復為治書侍御史、同知經筵事。寧夏人有告買買等謀害太師伯顏者,伯顏委自當與中書、樞密等官往寧夏鞫問,無其情,乃以誣罔坐告者罪。伯顏怒,自當前曰:「太師所以令吾三人勘之者,以國法所在也。必以罪吾三人,則自當實主其事,宜獨當之。」伯顏乃左遷自當同知徽政院事。

自当は四朝に歴事し、官は従仕郎から累転して通奉大夫に至り、常に侃々として在位し、剛介で曲がらず、終始一節を保ち、古の遺直の風があった。しかし結局これによって権貴に忤い、再び権柄を用いられることはなく、君子は皆これを惜しんだ。

原文自當歷事四朝,官自從仕郎累轉至通奉大夫,常衎衎在位,剛介弗回,終始一節,有古遺直之風。然卒以是忤權貴而不復柄用,君子皆惜焉。

阿栄

阿栄は字を存初といい、ケレイ氏である。父は按攤で、中書右丞であった。阿栄は幼くして武宗に仕え、宿衛を備え、累遷して官となり、湖南道宣慰副使となった。温迪罕が湖南に宣撫使として派遣された時、事の大小を問わずすべて彼に委ねた。ちょうど諸郡が凶年にあって飢饉となったので、阿栄は自分の俸禄を分けて粥とし、飢えた者に食べさせ、さらに粟を発して賑済し、救った者は非常に多かった。広西で賊が起こると、衆は皆洶洶として恐れた。阿栄は静をもってこれを鎮め、役所に督えて兵を治めその境を守らせたので、賊は侵入できなかった。湖広行省左右司郎中に遷り、僉会福院事に召され、まもなく吏部尚書に任じられた。泰定初め、湖南宣慰使として出され、浙東道宣慰使都元帥に改められたが、病気を理由に辞した。

原文阿榮字存初,怯烈氏。父按攤,中書右丞。阿榮幼事武宗,備宿衞,累遷官,為湖南道宣慰副使。溫迪罕奉使宣撫湖南,事無大小悉以委之。會列郡歲饑,阿榮分其廩祿為粥,以食餓者,仍發粟賑之,所活甚眾。廣西寇起,眾皆洶懼。阿榮鎮之以靜,督有司治兵守其境,寇不敢入。遷湖廣行省左右司郎中,召僉會福院事,尋除吏部尚書。泰定初,出為湖南宣慰使,改浙東道宣慰使都元帥,以疾辭。

天暦初め、再び起用されて吏部尚書となり、まもなく参議中書省事となった。二年、中書参知政事・知経筵事に拝された。奎章閣大学士・栄禄大夫・太禧宗禋院使に進み、都典制神御殿事を兼ねた。文宗の眷遇は非常に厚く、阿栄もまた国政に心を尽くし、知る所は言わないことがなかった。久しくして、心に忽ち鬱々として楽しまず、告げて南に帰り武昌に赴いた。至元元年に卒した。

原文天曆初,復起為吏部尚書,尋參議中書省事。二年,拜中書參知政事、知經筵事。進奎章閣大學士、榮祿大夫、太禧宗禋院使,都典制神御殿事。文宗眷遇之甚,而阿榮亦盡心國政,知無不言。久之,心忽鬱鬱不樂,謁告南歸武昌。至元元年卒。

初め、阿榮は閑居して文筆を以て自ら楽しみ、前代の治乱得失を博く究め、その心に会うものを見れば、扼腕して曰く、「忠臣孝子は国家の宝なり、奇男子烈丈夫たる者は固よりかくの如くならざるべけんや」と。日に韋布の士と遊び、至る所山水の佳き処にて、琴を鳴らし詩を賦し、日夕に帰るを忘れた。特に数学に深く、事の成敗利不利及び人の禍福寿夭貴賤を逆推し、多く奇しく当たった。天暦三年春、廷にて策士す。阿榮は虞集と直廬に会し、慨然として歎き興し、集に語りて曰く、「一科を更へて後、科挙は当に輟まん、両科を輟みて復し、復すれば人材彬として大いに出づべし」と。また歎きて曰く、「榮は復た之を見ざるべし、君は猶及び之を見ん」と。集応えて曰く、「士を得ること多き、幸ひに存初の言の如くならん。今文治方に興り、未だ必ずしも中輟の理あらざるべし。存初は国家の世臣、文学に妙にして、盛年にして朝に登り、上に左右し、斯文の望みを属す。集は老いて且つ衰へ、見るも何の補かあらんや」と。阿榮また歎きて曰く、「数当然なるのみ」と。集問うて何を以てか之を知る、答えず。後三年にして卒す。元統三年、科挙果たして罷まり、至正元年に至りて始めて復し、其の言の如し。

原文初,阿榮閒居以文翰自娛,博究前代治亂得失,見其會心者,則扼腕曰:「忠臣孝子國家之寶,為奇男子烈丈夫者固不當如是耶!」日與韋布之士游,所至山水佳處,鳴琴賦詩,日夕忘返。尤深於數學,逆推事成敗利不利及人禍福壽夭貴賤,多奇中。天曆三年春,策士于廷。阿榮與虞集會于直廬,慨然興歎,語集曰:「更一科後科舉當輟,輟兩科而復,復則人材彬彬大出矣。」又歎曰:「榮不復見之矣,君猶及見之。」集應曰:「得士之多,幸如存初言。今文治方興,未必有中輟之理。存初國家世臣,妙於文學,以盛年登朝,在上左右,斯文屬望。集老且衰,見亦何補耶?」阿榮又歎曰:「數當然耳。」集問何以知之,弗答。後三年卒。元統三年,科舉果罷,至正元年始復,如其言。

小雲石海涯

原文小雲石海涯

小雲石海涯、家世は其の祖阿里海涯の伝に見ゆ。其の父は楚國忠惠公、名は貫只哥、小雲石海涯遂に貫を以て氏と為し、復た酸齋を以て自ら号す。母は廉氏、夜に神人の大星を授けて之を吞まするを夢み、已にして姙あり。及び生まるるや、神彩秀異なり。年十二三、膂力人に絶し、健児をして三悪馬を駆りて疾馳せしめ、槊を把りて立ちて馬の至るを待ちて之に騰り上り、二を越えて三に跨り、槊を運らせば風を生じ、観る者は辟易す。或いは彊を挽きて生を射、猛獣を逐い、峻阪を上下すること飛ぶが如く、諸将皆其の趫捷に服す。稍く長じて、節を折りて書を読み、目五行を下す。辞を吐きて文を為すに、故常を蹈襲せず、其の旨皆人の意表に出づ。

原文小雲石海涯,家世見其祖阿里海涯傳。其父楚國忠惠公,名貫只哥,小雲石海涯遂以貫為氏,復以酸齋自號。母廉氏,夜夢神人授以大星使吞之,已而有姙。及生,神彩秀異。年十二三,膂力絕人,使健兒驅三惡馬疾馳,持槊立而待馬至騰上之,越二而跨三,運槊生風,觀者辟易。或挽彊射生,逐猛獸,上下峻阪如飛,諸將咸服其趫捷。稍長,折節讀書,目五行下。吐辭為文,不蹈襲故常,其旨皆出人意表。

初め父の官を襲いて両淮萬戸府達魯花赤と為る。永州を鎮め、軍を御すること極めて厳猛にして、行伍粛然たり。稍く暇あれば、輒ち壺を投じ雅歌し、意の暢適する所、形跡に拘らるることを為さず。一日、弟忽都海涯を呼びて之に語りて曰く、「吾れ生れながら宦情素より薄し、顧みるに祖父の爵は敢へて襲はざるべからず、今已に数年なり、願くは弟に譲らん、弟幸ひに辞す勿れ」と。語り已りて、即ち解きて綰ふ所の黄金虎符を佩かしむ。北して姚燧に学び、燧其の古文の峭厲として法有り及び歌行古楽府の慷慨激烈なるを見て、大いに之を奇とす。

原文初襲父官為兩淮萬戶府達魯花赤。鎮永州,御軍極嚴猛,行伍肅然。稍暇,輒投壺雅歌,意所暢適,不為形跡所拘。一日,呼弟忽都海涯語之曰:「吾生宦情素薄,顧祖父之爵不敢不襲,今已數年矣,願以讓弟,弟幸勿辭。」語已,即解所綰黃金虎符佩之。北從姚燧學,燧見其古文峭厲有法及歌行古樂府慷慨激烈,大奇之。

仁宗東宮に在り、其の爵位を弟に譲るを聞き、宮臣に謂ひて曰く、「将相家の子弟其れ是の如き賢者有らんや」と。俄に選ばれて英宗潜邸の説書秀才と為り、禁中に宿衞す。仁宗践祚し、疏を上ぐるに六事を条す。一に曰く辺戍を釈きて文徳を修むべし、二に曰く太子を教へて国本を正すべし、三に曰く諫官を設けて聖徳を輔くべし、四に曰く姓氏を表して勲冑を旌すべし、五に曰く服色を定めて風俗を変ずべし、六に曰く賢才を挙げて至道を恢むべし。書凡そ万餘言、報いず。翰林侍読学士・中奉大夫・知制誥同修国史を拝す。

原文仁宗在東宮,聞其以爵位讓弟,謂宮臣曰:「將相家子弟其有如是賢者邪?」俄選為英宗潛邸說書秀才,宿衞禁中。仁宗踐祚,上疏條六事。一曰釋邊戍以修文德,二曰教太子以正國本,三曰設諫官以輔聖德,四曰表姓氏以旌勳冑,五曰定服色以變風俗,六曰舉賢才以恢至道。書凡萬餘言,未報。拜翰林侍讀學士、中奉大夫、知制誥同修國史。

会議して科挙の事を議す、多く建明有り、忽ち喟然として歎きて曰く、「尊を辞し卑に居るは、昔賢の尚ぶ所なり。今禁林の清選、与に譲る所の軍資と孰れか高き、人将に吾が後を議せん」と。乃ち疾を称して辞し江南に還り、薬を銭唐市中に売り、姓名を詭し、服色を易へ、人之を識る者有らず。偶々梁山濼を過ぎ、漁父の蘆花を織りて被と為すを見て、之を以て紬に易へんと欲す。漁父其の人を疑ひ、陽に曰く、「君吾が被を欲せば、当に更に詩を賦すべし」と。遂に筆を援りて立ち成り、竟に被を持ち去る。人間に喧伝して蘆花被詩とす。其の隠に依りて世を玩ぶこと多く此の類し。晚年文を為すこと日邃に、詩も亦冲澹なり。草隸等の書は、稍く古人の長ずる所を取り、変化して自ら一家を成し、至る所士大夫之に従ふこと雲の若く、其の片言尺牘を得れば、拱璧を得るが如し。其の死生を視ること昼夜の若く、絶えて念慮に入れず、翛翛として世を遺りて独立せんと欲するが若し。泰定元年五月八日卒す、年三十九。集賢学士・中奉大夫・護軍を贈られ、追封して京兆郡公と為し、諡して文靖と曰ふ。文集若干巻・直解孝経一巻有りて世に行はる。

原文會議科舉事,多所建明,忽喟然嘆曰:「辭尊居卑,昔賢所尚也。今禁林清選,與所讓軍資孰高,人將議吾後矣。」乃稱疾辭還江南,賣藥於錢唐市中,詭姓名,易服色,人無有識之者。偶過梁山濼,見漁父織蘆花為被,欲易之以紬。漁父疑其為人,陽曰:「君欲吾被,當更賦詩。」遂援筆立成,竟持被去。人間喧傳蘆花被詩。其依隱玩世多類此。晚年為文日邃,詩亦冲澹。草隸等書,稍取古人之所長,變化自成一家,所至士大夫從之若雲,得其片言尺牘,如獲拱璧。其視死生若晝夜,絕不入念慮,翛翛若欲遺世而獨立云。泰定元年五月八日卒,年三十九。贈集賢學士、中奉大夫、護軍,追封京兆郡公,諡文靖。有文集若干卷、直解孝經一卷行于世。

子男二人:阿思蘭海牙は慈利州達魯花赤、次は八三海涯。孫女一人、学識有り、詞章能くし、懐慶路総管段謙に帰す。

原文子男二人:阿思蘭海牙,慈利州達魯花赤;次八三海涯。孫女一人,有學識,能詞章,歸懷慶路總管段謙云。

泰不華

泰不華字は兼善、伯牙吾台氏。初め名は達普化、文宗今の名を賜ふ、世に白野山に居る。父は塔不台、入りて直宿衞し、歴仕して台州録事判官、遂に台に居る。家貧しく、書を好みて読み、記問能くす。集賢待制周仁榮養ひて之を教ふ。年十七、江浙郷試第一。明年、大廷に対策し、進士及第を賜ひ、集賢修撰を授けられ、転じて祕書監著作郎、拝して江南行臺監察御史と為る。時に御史大夫脱歡勢を怙りて貪暴なり、泰不華之を劾して罷む。文宗奎章閣学士院を建つ、擢て典籤と為し、拝して中臺監察御史と為る。

原文泰不華字兼善,伯牙吾台氏。初名達普化,文宗賜以今名,世居白野山。父塔不台,入直宿衞,歷仕台州錄事判官,遂居於台。家貧,好讀書,能記問。集賢待制周仁榮養而教之。年十七,江浙鄉試第一。明年,對策大廷,賜進士及第,授集賢修撰,轉祕書監著作郎,拜江南行臺監察御史。時御史大夫脫歡怙勢貪暴,泰不華劾罷之。文宗建奎章閣學士院,擢為典籤,拜中臺監察御史。

順帝即位し、文宗后に太皇太后の号を加ふ、大臣燕鐵木兒・伯顏皆地を列ねて王を封ず。泰不華同列を率ひて章を上ぐるに言ふ、「嬸母宜しく徽称を加ふべからず、相臣当に王土を受くべからず」と。太后怒り、言者を殺さんと欲す。泰不華衆に語りて曰く、「此の事我より之を発す、誅戮を受くるを甘んじ、決して諸公を累はさじ」と。已にして太后怒り解け、曰く、「風憲に臣是の如き有り、豈に祖宗の法を守らざらんや」と。金幣二を賜ひ、以て其の直を旌す。出でて河南廉訪司事を僉し、俄に淮西に移る。継いで江南行御史臺経歴に遷る、赴かずと辞し、転じて江浙行省左右司郎中と為る。浙西大水して稼を害す、会ふに泰不華朝に入り、力を中書に言ひて、其の租を免ぜしむ。擢て祕書監と為し、改めて礼部侍郎と為す。

原文順帝即位,加文宗后太皇太后之號,大臣燕鐵木兒、伯顏皆列地封王。泰不華率同列上章言:「嬸母不宜加徽稱,相臣不當受王土。」太后怒,欲殺言者。泰不華語眾曰:「此事自我發之,甘受誅戮,決不敢累諸公也。」已而太后怒解,曰:「風憲有臣如此,豈不能守祖宗之法乎?」賜金幣二,以旌其直。出僉河南廉訪司事,俄移淮西。繼遷江南行御史臺經歷,辭不赴,轉江浙行省左右司郎中。浙西大水害稼,會泰不華入朝,力言於中書,免其租。擢祕書監,改禮部侍郎。

至正元年、紹興路総管を除く。吏弊を革め、没官牛租を除き、民をして自ら田を実かしめて以て賦役を均からしむ。郷飲酒礼を行ひ、民を教へて譲を興さしめ、越俗大いに化す。召し入れて史館に与はり、遼・宋・金三史を修め、書成りて、祕書卿を授く。礼部尚書に陞り、兼ねて会同舘事を領す。黄河決す、詔を奉じて珪玉白馬を以て河神に致祭し、事竣りて上言す、「淮安以東、河海に入る処、宜しく宋に倣ひて撩清夫を置き、輥江龍鉄掃を用ひ、沙泥を撼蕩し、潮に随ひて海に入るべし」と。朝廷其の言に従ふ、会ふに夫を用ひて屯田す、其の事中つて廃す。

原文至正元年,除紹興路總管。革吏弊,除沒官牛租,令民自實田以均賦役。行鄉飲酒禮,教民興讓,越俗大化。召入史館,與修遼、宋、金三史,書成,授祕書卿。陞禮部尚書,兼會同舘事。黃河決,奉詔以珪玉白馬致祭河神,竣事上言:「淮安以東,河入海處,宜倣宋置撩清夫,用輥江龍鐵掃,撼蕩沙泥,隨潮入海。」朝廷從其言,會用夫屯田,其事中廢。

八年、台州黄巖の民方国珍、蔡乱頭・王伏の讎に逼められ、遂に海に入りて乱を為し、漕運の糧を劫掠し、海道千戸徳流于実を執る。事聞こえ、詔して江浙参政朵児只班に舟師を総べて之を捕へしむ、福州五虎門に追ひ至る、国珍事の危きを知り、舟を焚きて将に遁らんとす、官軍自ら相驚き潰え、朵児只班遂に執はる。国珍其の上に迫りて招降の状を為さしむ、朝廷之に従ひ、国珍兄弟皆之に官を授くる、国珍赴かんことを肯はず、勢益々暴横なり。九年、詔して泰不華に実を察して以て聞こしめす、既に其の状を得て、遂に招捕の策を上ぐ、聴かず。尋いで江東廉訪使を除き、改めて翰林侍読学士・知制誥同修国史と為す。已にして出でて都水庸田使と為る。

原文八年,台州黃巖民方國珍為蔡亂頭、王伏之讎逼,遂入海為亂,劫掠漕運糧,執海道千戶德流于實。事聞,詔江浙參政朵兒只班總舟師捕之,追至福州五虎門,國珍知事危,焚舟將遁,官軍自相驚潰,朵兒只班遂被執。國珍迫其上招降之狀,朝廷從之,國珍兄弟皆授之以官,國珍不肯赴,勢益暴橫。九年,詔泰不華察實以聞,既得其狀,遂上招捕之策,不聽。尋除江東廉訪使,改翰林侍讀學士、知制誥同修國史。已而出為都水庸田使。

十年(至正十年)十二月、方国珍は再び海に入り、沿海の州郡を焼き掠めた。十一年二月、詔して孛羅帖木児を江浙行省左丞とし、兵を総べて慶元に至らしむ。泰不華が賊の情状に通暁していることを以て、浙東道宣慰使都元帥に遷し、兵を分けて温州に駐め、挟撃させた。間もなく、方国珍が温州を寇すと、泰不華は火筏を放ってこれを焼き、一晩で遁走させた。既にして孛羅帖木児は密かに泰不華と約し、六月乙未に合兵して進討することとした。孛羅帖木児は壬辰に期日より先んじて大閭洋に至り、方国珍は夜に勁卒を率いて火を放ち鬨の声を上げた。官軍は戦わずして皆潰走し、水に赴いて死する者は過半に及んだ。孛羅帖木児は捕らえられ、逆に方国珍のために言葉を飾って上奏させた。泰不華はこれを聞いて痛憤し、数日間食事を絶った。朝廷はこれを知らず、再び大司農達識帖木邇らを黄巖に遣わして招降させた。方国珍兄弟は皆岸に登って羅列して拝礼し、退いて民間の小楼に止まった。その夜は中秋で月明かりが明るく、泰不華は壮士を命じて襲撃し殺そうとしたが、達識帖木邇がたまたま夜に泰不華を訪れ、密かに事を告げると、達識帖木邇は言った、「私は詔を受けて招降するのみである。公は勝手に命令を下そうとするのか」と。事はそこで止んだ。泰不華に檄して自ら海浜に至り、その徒衆を解散させ、その海舟と兵器を拘束させ、方国珍兄弟にはまた官職をそれぞれ授けた。既にして泰不華を台州路達魯花赤に遷した。

原文十年十二月,國珍復入海,燒掠沿海州郡。十一年二月,詔孛羅帖木兒為江浙行省左丞,總兵至慶元。以泰不華諗知賊情狀,遷浙東道宣慰使都元帥,分兵于溫州,使夾攻之。未幾,國珍寇溫,泰不華縱火筏焚之,一夕遁去。既而孛羅帖木兒密與泰不華約以六月乙未合兵進討。孛羅帖木兒乃以壬辰先期至大閭洋,國珍夜率勁卒縱火鼓譟,官軍不戰皆潰,赴水死者過半。孛羅帖木兒被執,反為國珍飾辭上聞。泰不華聞之痛憤,輟食數日。朝廷弗之知,復遣大司農達識帖木邇等至黃巖招之。國珍兄弟皆登岸羅拜,退止民間小樓。是夕,中秋月明,泰不華欲命壯士襲殺之,達識帖木邇適夜過泰不華,密以事白之,達識帖木邇曰:「我受詔招降耳,公欲擅命耶?」事乃止。檄泰不華親至海濱,散其徒眾,拘其海舟兵器,國珍兄弟復授官有差。既而遷泰不華台州路達魯花赤。

十二年、朝廷が徐州を征討するに当たり、江浙省臣に命じて舟師を募り大江を守らせた。方国珍は疑念を抱き、再び海に入って叛いた。泰不華は自ら死をもって国に報いようと決意し、兵を発して黄巖の澄江を扼し、義士の王大用を方国珍のもとに遣わし、信約を示して帰順するよう促した。方国珍はますます疑い、王大用を拘束して返さず、小舟二百艘で海門を突破し、州港に入り、馬鞍諸山を犯した。泰不華は衆に告げて言った、「私は書生として顕要に登り、誠に所学に背くことを慮っていた。今、海隅を守り、賊がようやく招き寄せられたばかりなのに、また変を為す。君たちは私を助けてこれを撃て。もし勝てばそれは汝ら衆の功であり、勝たねば私は死を尽くして国に報いるのみである」と。衆は皆躍り上がって行くことを願った。時に方国珍の戚党である陳仲達が往来して計議し、その降伏できる様子を述べた。泰不華は部衆を率い、降伏旗を掲げて潮に乗って前進した。船が砂に触れて進めず、まさに方国珍と出会わんとした時、陳仲達を呼んで先の議を述べさせると、仲達は目が動き気力が萎えた。泰不華はその心が異なることを覚り、手ずからこれを斬った。即ち前に進んで賊船に飛びつき、五人を射殺した。賊が船に躍り込むと、また二人を斬り殺した。賊が槊を挙げて刺してくると、すぐにこれを斬り折った。賊の群れが至り、抱きかかえて方国珍の船に渡そうとした。泰不華は目を怒らせてこれを叱り、躍り起きて賊の刀を奪い、また二人を殺した。賊が槊を集めて刺すと、首に当たって死んだ。なお直立したまま倒れず、その屍を海中に投げた。年四十九。時に十二年三月庚子のことであった。僮の名は抱琴、及び臨海尉の李輔徳、千戸の赤盞、義士の張君璧も皆これに死した。泰不華が既に没した後、江浙行省参知政事に除され、台州路達魯花赤の事を行ったが、命令を聞くに及ばなかった。既にして三年後、栄禄大夫・江浙行省平章政事・柱国を追贈され、魏国公に封ぜられ、忠介と諡され、台州に廟を立て、額を崇節と賜った。

原文十二年,朝廷征徐州,命江浙省臣募舟師守大江,國珍懷疑,復入海以叛。泰不華自分以死報國,發兵扼黃巖之澄江,而遣義士王大用抵國珍,示約信,使之來歸,國珍益疑,拘大用不遣,以小舸二百突海門,入州港,犯馬鞍諸山。泰不華語眾曰:「吾以書生登顯要,誠慮負所學。今守海隅,賊甫招徠,又復為變,君輩助我擊之,其克則汝眾功也,不克則我盡死以報國耳。」眾皆踴躍願行。時國珍戚黨陳仲達往來計議,陳其可降狀。泰不華率部眾,張受降旗乘潮而前,船觸沙不能行,垂與國珍遇,呼仲達申前議,仲達目動氣索,泰不華覺其心異,手斬之。即前搏賊船,射死五人,賊躍入船,復斫死二人,賊舉槊來刺,輒斫折之。賊羣至,欲抱持過國珍船,泰不華嗔目叱之,脫起,奪賊刀,又殺二人。賊攢槊刺之,中頸死,猶植立不仆,投其屍海中。年四十九。時十二年三月庚子也。僮名抱琴,及臨海尉李輔德、千戶赤盞、義士張君璧皆死之。泰不華既沒,除江浙行省參知政事,行台州路達魯花赤事,不及聞命。已後三年,追贈榮祿大夫、江浙行省平章政事、柱國,封魏國公,諡忠介,立廟台州,賜額崇節。

泰不華は気節を重んじ、俗に浮沈しなかった。太平が台臣に弾劾されて相位を去る時、泰不華はただ一人都門外で餞別を送った。太平は言った、「公は止まれ。私のために公を累わすな」と。泰不華は言った、「士は知己の為に死す。どうして禍を畏れようか」と。後、時に宰相に排斥されても、人として是としない者はなかった。篆書・隷書に優れ、温潤で遒勁であった。嘗て『復古編』十巻を重ねて類し、訛字を考正し、経史に対して多く根拠があったという。

原文泰不華尚氣節,不隨俗浮沉。太平為臺臣劾去相位,泰不華獨餞送都門外。太平曰:「公且止,勿以我累公。」泰不華曰:「士為知己死,寧畏禍耶!」後雖為時相擯斥,人莫不韙之。善篆隸,溫潤遒勁。嘗重類復古編十卷,考正訛字,於經史多有據云。

余闕

余闕は字を廷心、一字を天心といい、唐兀氏で、代々河西武威の家である。父は沙剌臧卜、廬州に官し、遂に廬州の人となった。幼くして父を喪い、生徒を教えて母を養い、呉澄の弟子である張恒と交わり、文学が日々進んだ。

原文余闕字廷心,一字天心,唐兀氏,世家河西武威。父沙剌臧卜,官廬州,遂為廬州人。少喪父,授徒以養母,與吳澄弟子張恒游,文學日進。

元統元年、進士及第を賜り、同知泗州事に授けられ、政事は厳明で、古参の吏も皆これを畏れた。間もなく召し入られ、応奉翰林文字となり、転じて中書刑部主事となった。権貴に阿らなかったため官を棄てて帰った。尋いで遼・金・宋の三史を修めるため、再び翰林に召し入れられ、修撰となった。監察御史に拝され、中書礼部員外郎に改められ、出て湖広行省左右司郎中となった。時に莫徭蛮が反し、右丞沙班が師を帥いるべきであったが、堅く行かず、これを責める者もなかった。余闕は言った、「右丞は行くべきである。天子の命を受けて方嶽の重臣たり、弓矢を執って賊を討つことを思わず、自ら安逸を欲するのか。右丞は行くべきである」と。沙班は言った、「郎中の言葉は確かにその通りだが、芻餉が足りないのはどうしようか」と。余闕は言った、「右丞はただ行けばよい。これは得難いことではない」と。余闕は命令を急がせ、三日で皆集まり、沙班は出発した。再び集賢經歷として召し入れられた。翰林待制に遷った。出て浙東道廉訪司僉事となった。母の喪に服し、廬州に帰った。

原文元統元年,賜進士及第,授同知泗州事,為政嚴明,宿吏皆憚之。俄召入,應奉翰林文字,轉中書刑部主事。以不阿權貴棄官歸。尋以修遼、金、宋三史,召復入翰林,為修撰。拜監察御史,改中書禮部員外郎,出為湖廣行省左右司郎中。會莫徭蠻反,右丞沙班當帥師,堅不往,無敢讓之者。闕曰:「右丞當往,受天子命為方嶽重臣,不思執弓矢討賊,乃欲自逸邪!右丞當往。」沙班曰:「郎中語固是,如芻餉不足何?」闕曰:「右丞第往,此不難致也。」闕下令趣之,三日皆集,沙班行。復以集賢經歷召入。遷翰林待制。出僉浙東道廉訪司事。丁母憂,歸廬州。

盗賊が河南に起こり、郡県を陥落させた。至正十二年、行中書を淮東に置き、宣慰司を都元帥府に改め、淮西を治め、余闕を副使・僉都元帥府事として起用し、兵を分けて安慶を守らせた。当時、南北の音信は隔絶し、兵糧共に乏しく、着任して十日で賊が至り、これを撃退した。乃ち有司と諸将を集めて屯田と戦守の計を議し、周囲に堡寨を築き、精鋭の甲兵を選んで外を防ぎ、内で耕稼を行わせた。属県の灊山八社は、土壤が肥沃で、悉くこれを屯田とした。翌年、春夏に大飢饉が起こり、人々は互いに食い合い、乃ち俸禄を捐げて粥を作りこれを食べさせ、生き延びた者は甚だ多かった。失業した民は数万、皆これを安集した。中書に請い、鈔三万錠を得て民を賑済した。同知・副元帥に昇進した。また翌年の秋、大旱魃となり、文を作って灊山神に祈ると、三日で雨が降り、その年は飢饉にならなかった。盗賊が石蕩湖を占拠していたので、出兵してこれを平定し、民に湖の魚を取らせて魚租を納めさせた。十五年夏、大雨が降り、江水が増水し、屯田の禾の半分が水没し、城下の水が湧き上がり、物の吼える声が雷のようであった。余闕が少牢で祠ると、水はすぐに引いた。秋の作物が実り、糧三万斛を得た。余闕は軍に余力があると見て、乃ち堀を浚い城壁を増し、堀の外を大防で囲み、深い塹を三重にし、南から江水を引き入れて注ぎ、周囲に木を植えて柵とし、城上の四面に飛楼を建て、表裏共に完固とした。

原文盜起河南,陷郡縣。至正十(三)〔二〕年,行中書于淮東,改宣慰司為都元帥府,治淮西,起闕副使、僉都元帥府事,分兵守安慶。于時南北音問隔絕,兵食俱乏,抵官十日而寇至,拒却之。乃集有司與諸將議屯田戰守計,環境築堡寨,選精甲外扞,而耕稼于中。屬縣灊山八社,土壤沃饒,悉以為屯。明年,春夏大饑,人相食,乃捐俸為粥以食之,得活者甚眾。民失業者數萬,咸安集之。請于中書,得鈔三萬錠以賑民。陞同知、副元帥。又明年秋,大旱,為文祈灊山神,三日雨,歲以不饑。盜方據石蕩湖,出兵平之,令民取湖魚而輸魚租。十五年夏,大雨,江漲,屯田禾半沒,城下水湧,有物吼聲如雷,闕祠以少牢,水輒縮。秋稼登,得糧三萬斛。闕度軍有餘力,乃浚隍增陴,隍外環以大防,深塹三重,南引江水注之,環植木為柵,城上四面起飛樓,表裏完固。

間もなく都元帥に昇進した。広西の猫軍五万が元帥阿思蘭に従って江沿いに下り廬州に至った。余闕は移文して、苗蛮は中国を窺わせるべきではないとし、詔して阿思蘭に軍を還らせた。猫軍で境内で暴を働く者がいれば、即ち捕らえて殺し、凜として敢えて犯す者はいなかった。時に群盗が四方の外に環状に分布し、余闕はその中に居て、左右を提挈し、屹然として江淮の一保障となった。功を論じ、江淮行省参知政事に拝され、依然として安慶を守り、江右への通路を開くと、商旅が四方から集まった。池州の趙普勝が衆を帥いて城を攻め、三日連戦して敗走した。間もなくまた至り、二旬相拒してようやく退いた。懐寧県達魯花赤の伯家奴が戦死した。十七年、趙普勝が青軍と共に二道から我が方を攻め、一月余り拒戦して、ついに敗走させた。

原文俄陞都元帥。廣西猫軍五萬從元帥阿思蘭沿江下抵廬州,闕移文謂苗蠻不當使之窺中國,詔阿思蘭還軍。猫軍有暴於境者,即收殺之,凜凜莫敢犯。時羣盜環布四外,闕居其中,左提右挈,屹為江淮一保障。論功,拜江淮行省參知政事,仍守安慶,通道于江右,商旅四集。池州趙普勝帥眾攻城,連戰三日敗去,未幾又至,相拒二旬始退,懷寧縣達魯花赤伯家奴戰死。十七年,趙普勝同青軍兩道攻我,拒戰一月餘,竟敗而走。

秋、淮南行省左丞に拝せられる。安慶は小孤山を倚りて藩蔽と為し、義兵元帥胡伯顏に命じて水軍を統率させてこれを戍らしむ。十月、沔陽の陳友諒、上流より直ちに小孤山を擣ち、伯顏之と戦うこと四昼夜にして勝たず、急ぎ安慶に趣く。賊追いて山口鎮に至り、明日癸亥、遂に城下に迫る。闕兵を遣わして観音橋に扼せしむ。俄かに饒州の祝寇西門を攻め、闕之を斬りて却く。乙巳、賊東門の紅旗に乗じて城に登る。闕死士を簡びて力戦し、賊復た敗れて去る。戊申、賊軍を併せて東西二門を攻め、又之を却く。賊甚だ恚み、乃ち柵を樹て飛樓を起す。庚戌、復た来たりて我を攻め、金鼓の声地を震わす。闕諸将を分ちて各兵を以て賊を払わしめ、昼夜息むことを得ず。癸卯、賊益々兵を生じて東門を攻む。丙午、普勝は東門を軍し、友諒は西門を軍し、祝寇は南門を軍し、羣盗四面より蟻の如く集まり、外に一甲の援無し。西門の勢尤も急なり、闕身を以て之に当たり、徒歩にて戈を提げ士卒の先と為り、士卒号哭して之を止むるも、戈を揮うこと愈よ力み、仍て麾下の将を分ちて三門の兵を督せしめ、自ら孤軍を以て血戦し、斬首算うる無し。而して闕亦た十余創を被る。日中城陥ち、城中火起る。闕為すべからざるを知り、刀を引いて自ら剄し、清水塘の中に墮つ。闕の妻耶卜氏及び子徳生、女福童皆井に赴きて死す。同時に死する者、守臣韓建一家害せられ、建方に疾に臥し、賊を罵りて屈せず、賊之を執りて去り、其の終わる所を知らず。城中の民相率いて城楼に登り、自ら其の梯を捐てて曰く、「寧ろ倶に此に死せん、誓って賊に従わじ」と。焚死する者千計に及ぶ。其の名を知る者は、万戸李宗可、紀守仁、陳彬、金承宗、元帥府都事帖木補化、万戸府経歴段桂芳、千戸火失不花、新李、盧廷玉、葛延齢、丘卺、許元琰、奏差兀都蛮、百戸黄寅孫、安慶推官黄禿倫歹、経歴楊恒、知事余中、懐寧尹陳巨済、凡そ十八人。其の城陥ちし日の、則ち至正十八年正月丙午なり。

原文秋,拜淮南行省(右)〔左〕丞。安慶倚小孤山為藩蔽,命義兵元帥胡伯顏統水軍戍焉。十月,沔陽陳友諒自上游直擣小孤山,伯顏與戰四日夜不勝,急趣安慶。賊追至山口鎮,明日癸亥,遂薄城下。闕遣兵扼於觀音橋。俄饒州祝寇攻西門,闕斬却之。乙巳,賊乘東門紅旗登城,闕簡死士力擊,賊復敗去。戊申,賊并軍攻東西二門,又却之。賊恚甚,乃樹柵起飛樓。庚戌,復來攻我,金鼓聲震地,闕分諸將各以兵扞賊,晝夜不得息。癸卯,賊益生兵攻東門。丙午,普勝軍東門,友諒軍西門,祝寇軍南門,羣盜四面蟻集,外無一甲之援。西門勢尤急,闕身當之,徒步提戈為士卒先,士卒號哭止之,揮戈愈力,仍分麾下將督三門之兵,自以孤軍血戰,斬首無算,而闕亦被十餘創。日中城陷,城中火起,闕知不可為,引刀自剄,墮清水塘中。闕妻耶卜氏及子德生、女福童皆赴井死。同時死者,守臣韓建一家被害,建方臥疾,罵賊不屈,賊執之以去,不知所終。城中民相率登城樓,自捐其梯曰:「寧俱死此,誓不從賊。」焚死者以千計。其知名者,萬戶李宗可、紀守仁、陳彬、金承宗,元帥府都事帖木補化,萬戶府經歷段桂芳,千戶火失不花、新李、盧廷玉、葛延齡、丘卺、許元琰,奏差兀都蠻,百戶黃寅孫,安慶推官黃禿倫歹,經歷楊恒,知事余中,懷寧尹陳巨濟,凡十八人。其城陷之日,則至正十八年正月丙午也。

闕は号令厳にして信あり、下と甘苦を同じくす。然れども稍々令に違う有れば即ち斬りて以て徇しむ。闕嘗て病みて事を視ず、将士皆天に籲して身を以て代わることを求む。闕聞き、強いて衣冠して出づ。戦に出づるに当たり、矢石乱下して雨の如し。士盾を以て闕を蔽うも、闕之を却けて曰く、「汝輩亦た命有り、何ぞ我を蔽わんや」と。故に人争いて命を用う。稍々暇有れば、即ち周易に注し、諸生を帥いて郡学に謁し会講す。軍士を門外に立たせて以て聴かしめ、君を尊び上に親しむの義を知らしむ。古の良将の風烈有り。或いは闕を挽きて翰林に入らんと欲すも、闕国歩の危蹙を以て辞して往かず。其の国に忠なるの心蓋し素より定まれり。卒する時年五十六。事聞こえ、闕に攄誠守正清忠諒節功臣・栄禄大夫・淮南江北等処行中書省平章政事・柱国を贈り、豳国公を追封し、忠宣と諡す。議する者謂う、兵興以来、節を死するの臣は闕と褚不華を以て第一と為すと云う。

原文闕號令嚴信,與下同甘苦,然稍有違令即斬以徇。闕嘗病不視事,將士皆籲天求以身代,闕聞,強衣冠而出。當出戰,矢石亂下如雨,士以盾蔽闕,闕却之曰:「汝輩亦有命,何蔽我為?」故人爭用命。稍暇,即注周易,帥諸生謁郡學會講。立軍士門外以聽,使知尊君親上之義,有古良將風烈。或欲挽闕入翰林,闕以國步危蹙辭不往,其忠國之心蓋素定也。卒時年五十六。事聞,贈闕攄誠守正清忠諒節功臣、榮祿大夫、淮南江北等處行中書省平章政事、柱國,追封豳國公,諡忠宣。議者謂自兵興以來,死節之臣闕與褚不華為第一云。

闕は経術に留意し、五経皆伝注有り。文を為すに気魄有り、能く其の言わんとする所を達す。詩体は江左を尚び、鮑・謝を高視し、徐・庾以下は論ぜず。篆隸も亦古雅にして伝うべき有り。初め、闕既に死し、賊之を義とし、屍を塘中に求め、棺を具えて斂め西門外に塟る。及び安慶内附し、大明皇帝闕の忠を嘉し、詔して廟を忠節坊に立て、有司に命じて歳時祭を致さしむと云う。

原文闕留意經術,五經皆有傳注。為文有氣魄,能達其所欲言。詩體尚江左,高視鮑、謝,徐、庾以下不論也。篆隸亦古雅可傳。初,闕既死,賊義之,求屍塘中,具棺斂塟於西門外。及安慶內附,大明皇帝嘉闕之忠,詔立廟於忠節坊,命有司歲時致祭云。