巻142

列伝第二十九:答失八都魯 慶童 也速 徹里帖木兒 納麟

答失八都魯

原文答失八都魯

答失八都魯は、曾祖父は紐璘、祖父は也速答兒であり、伝がある。答失八都魯は、南加台の子である。世襲の万戸として羅羅宣慰司を鎮守した。土人が乱を起こすと、答失八都魯は捕獲して功績があり、四川省が推挙して船橋万戸に充てた。雲南に出征し、大理宣慰司都元帥に昇進した。

原文答失八都魯,曾祖紐璘、祖也速答兒,有傳。答失八都魯,南加台子也。以世襲萬戶鎮守羅羅宣慰司。土人作亂,答失八都魯捕獲有功,四川省舉充船橋萬戶。出征雲南,陞大理宣慰司都元帥。

至正十一年、特に四川行省参知政事に任じられ、配下の探馬赤軍三千を撥付され、平章咬住に従って荊襄で賊を討った。九月、安平駅に駐屯した。時に咬住の軍は既に江陵を平定しており、答失八都魯は自ら襄陽を攻めることを請うた。十二年、進軍して荊門に駐屯した。時に賊は十万、官軍はわずか三千余りであったので、宋廷傑の計を用い、襄陽の官吏および土豪で兵を避けている者を募集し、義丁二万を得て、部伍を編成し、規律を定めた。蛮河まで行くと、賊は要害を守り、兵は渡河できなかった。直ちに屈万戸に命じて奇兵を率い、間道からその背後に出て、首尾から挟撃し、賊は大敗した。襄陽城南まで追撃し、大戦し、その偽将三十人を生け捕りにし、腰斬した。賊はこれより門を閉じて再び出てこなくなった。

原文至正十一年,特除四川行省參知政事,撥本部探馬赤軍三千,從平章咬住討賊於荊襄。九月,次安平站。時咬住兵既平江陵,答失八都魯請自攻襄陽。十二年,進次荊門。時賊十萬,官軍止三千餘,遂用宋廷傑計,招募襄陽官吏及土豪避兵者,得義丁二萬,編排部伍,申其約束。行至蠻河,賊守要害,兵不得渡,即令屈萬戶率奇兵由間道出其後,首尾夾攻,賊大敗。追至襄陽城南,大戰,生擒其偽將三十人,腰斬之。賊自是閉門不復出。

答失八都魯はそこで地形を観察し、内側に八翼を配置して襄城を包囲し、外側に八営を置き、峴山・楚山に駐屯させてその援軍を遮断し、自らは中軍四千を率いて虎頭山を占拠し、城中を見下ろした。従征の者李復を南漳県尹に、黎可挙を宜城県尹に任命し、その民を慰撫して軍需を供給させた。城中の民は包囲されて久しく、夜半、二人が城から縋り下りて営門を叩き、虚実を詳しく告げ、内応を願い出た。答失八都魯は彼らと約束を定め、五月朔日の四更に城を攻め、密号を授けて去らせた。期日になると、民は縄を垂らして官軍を引き入れ、先に登った者は千人近くに及んだ。時に賊船百余艘が城北にあり、密かに水に慣れた者を募ってその底を穿った。夜が明けようとする頃、城は陥落し、賊は巷戦して勝てず、船に逃げようとしたが、船は壊れ、皆溺死した。偽将王権が千騎を率いて西に逃げ、伏兵に遭って生け捕りにされた。こうして襄陽は平定された。答失八都魯に資善大夫を加え、上尊および黄金の束帯を賜り、その弟識里木を襄陽達魯花赤に、子の孛羅帖木児を雲南行省理問とした。賊が再び荊門・安陸・沔陽を犯すと、答失八都魯は直ちに兵を率いてこれを破った。まもなく詔により兵五千を増やし、烏撒烏蒙元帥成都不花をその調発に従わせた。

原文答失八都魯乃相視形勢,內列八翼,包絡襄城,外置八營,軍峴山、楚山,以截其援,自以中軍四千據虎頭山,以瞰城中。署從征人李復為南漳縣尹,黎可舉為宜城縣尹,拊循其民以賦軍饋。城中之民受圍日久,夜半,二人縋城叩營門,具告虛實,願為內應。答失八都魯與之定約,以五月朔日四更攻城,授之密號而去。至期,民垂繩以引官軍,先登者近千人。時賊船百餘艘在城北,陰募善水者鑿其底。天將明,城破,賊巷戰不勝,走就船,船壞,皆溺水死。偽將王權領千騎西走,遇伏兵被擒。襄陽遂平。加答失八都魯資善大夫,賜上尊及黃金束帶,以其弟識里木為襄陽達魯花赤,子孛羅帖木兒為雲南行省理問。比賊再犯荊門、安陸、沔陽,答失八都魯輒引兵敗之。尋詔益兵五千,以烏撒烏蒙元帥成都不花聽其調發。

十三年、青山・荊門の諸寨を平定した。九月、兵を率いて均州・房州を攻略し、穀城を平定し、武当山の数十の寨を攻め落とし、偽将杜将軍を捕らえた。十二月、急行して峡州を攻め、偽将趙明遠の木驢寨を破った。四川行省右丞に昇進し、金の腰帯を賜った。

原文十三年,定青山、荊門諸寨。九月,率兵略均、房,平穀城,攻開武當山寨數十,獲偽將杜將軍。十二月,趨攻峽州,破偽將趙明遠木驢寨。陞四川行省右丞,賜金繫腰。

十四年正月、峡州を奪回した。三月、四川行省平章政事に昇進し、行枢密院事を兼ね、荊襄の諸軍を総括した。五月、玉枢虎児吐華に命じて答失八都魯に代わって中興・荊門を守らせ、また答失八都魯に兵を率いて汝寧に向かわせた。十月、詔により太不花と軍を合わせて安豊を討たせた。この月、苗軍が占拠した鄭州・鈞州・許州の三州を奪回した。十二月、河陰・鞏県を奪回した。

原文十四年正月,復峽州。三月,陞四川行省平章政事,兼知〔行〕樞密院事,總荊襄諸軍。五月,命玉樞虎兒吐華代答失八都魯守中興、荊門,且令答失八都魯以兵赴汝寧。十月,詔與太不花會軍討安豐。是月,復苗軍所據鄭、(均)〔鈞〕、許三州。十二月,復河陰、鞏縣。

十五年、答失八都魯に命じて太不花の管下の諸王藩将の兵馬一切を統轄させ、便宜行事を許した。六月、河南行省平章政事に任じられた。許州長葛に進軍して駐屯し、劉福通と野戦し、そのために敗れ、将士は潰走した。九月、中牟に至り、散兵を収容し、団結して屯田した。賊が再び来て営を襲い、その輜重を掠奪したため、孛羅帖木児とはぐれてしまった。劉哈剌不花が進兵して来援し、賊兵を大破し、孛羅帖木児を捕らえて帰した。再び汴梁東南の青堽に駐屯した。十二月、兵を調発して進討し、太康で賊を大破し、そこで亳州を包囲し、偽宋主小明王は逃げた。

原文十五年,命答失八都魯就管領太不花一應諸王藩將兵馬,許以便宜行事。六月,拜河南行省平章政事。進次許州長葛,與劉福通野戰,為其所敗,將士奔潰。九月,至中牟,收散卒,團結屯種。賊復來劫營,掠其輜重,遂與孛羅帖木兒相失。劉哈剌不花進兵來援,大破賊兵,獲孛羅帖木兒歸之。復駐汴梁東南青堽。十二月,調兵進討,大敗賊于太康,遂圍亳州,偽宋主小明王遁。

十六年、金紫光禄大夫を加えられた。三月、朝廷が脱歓知院を差し遣わして兵を督戦させた。答失八都魯父子は親しく劉福通と対敵し、巳の刻から酉の刻まで、数合大戦し、答失八都魯は馬から落ちた。孛羅帖木児が扶けて馬上に乗せ先に帰らせ、自らは弓矢を持ち連発して追撃者を斃し、夜三更に歩いて営中に戻った。十月、陳留に移駐した。十一月、夾河の劉福通の寨を攻め取った。十二月庚申、高柴店に駐屯し、太康から三十里に迫った。この夜二鼓、賊五百余騎が来て襲撃したが、備えがあったので急いで逃げた。火を付けて追撃し、夜明け頃、陣頭で力戦し、寅の刻から巳の刻まで戦い、四門とも陥落し、壮士が城壁をよじ登ってその外城に入り、数万の首を斬り、偽将軍張敏・孫韓ら九人を生け捕りにし、偽丞相王・羅の二人を殺した。辛酉、太康はことごとく平定され、孛羅帖木児を遣わして京師に捷報を告げさせた。帝は内殿で労いを賜い、その先臣三代を王に封じ、河南行省左丞相に任じ、なお行枢密院事を兼ねて汴梁を守禦させた。識里木は雲南行省左丞、孛羅帖木児は四川行省左丞とした。将校僚属には賞爵に差等があった。

原文十六年,加金紫光祿大夫。三月,朝廷差脫歡知院來督兵,答失八都魯父子親與劉福通對敵,自巳至酉,大戰數合,答失八都魯墜馬,孛羅帖木兒扶令上馬先還,自持弓矢連發以斃追者,夜三更步回營中。十月,移駐陳留。十一月,攻取夾河劉福通寨。十二月庚申,次高柴店,偪太康三十里。是夜二鼓,賊五百餘騎來劫,以有備亟遁。火而追之,比曉,督陣力戰,自寅至巳,四門皆陷,壯士緣城入其郛,斬首數萬,擒偽將軍張敏、孫韓等九人,殺偽丞相王、羅二人。辛酉,太康悉平,遣孛羅帖木兒告捷京師,帝賜勞內殿,王其先臣三世,拜河南行省左丞相,仍兼知〔行〕樞密院事,守禦汴梁;識里木,雲南行省左丞;孛羅帖木兒,四川行省左丞;將校僚屬賞爵有差。

十七年三月、詔により京師に朝見し、開府儀同三司・太尉・四川行省左丞相を加えられた。九月、溝城・東明・長垣の三県を取った。十月、詔により知院達理麻失理を遣わして来援させ、兵を雷沢・濮州に分けたが、達理麻失理は劉福通に殺され、達達の諸軍は皆潰走した。答失八都魯は力及ばず、石村に退いて駐屯した。朝廷はその寇を弄び機を失したのではないかと疑い、使者が戦いを促すことが相次いだ。賊はこれを窺い知り、答失八都魯の通和の書簡を偽造し、諸道路に遺わした。使者は果たしてそれを見つけて進上した。答失八都魯は気づき、ある夜、憂憤して死んだ。十二月庚子のことであった。子の孛羅帖木児は別に伝がある。

原文十七年三月,詔朝京師,加開府儀同三司、太尉、四川行省左丞相。九月,取溝城、東明、長垣三縣。十月,詔遣知院達理麻失理來援,分兵雷澤、濮州,而達理麻失理為劉福通所殺,達達諸軍皆潰。答失八都魯力不能支,退駐石村。朝廷頗疑其玩寇失機,使者促戰相踵。賊覘知之,詐為答失八都魯通和書,遺諸道路,使者果得之以進。答失八都魯覺知,一夕憂憤死,十二月庚子也。子孛羅帖木兒別有傳。

慶童

慶童、字は明德、康里氏。祖父は明里帖木児、父は斡羅思、いずれも益国公に封ぜられた。慶童は早くから勲臣の子孫として仁宗廟に知られ、内廷に給事し、ついに宿衛の長となった。大宗正府掌判に任じられ、三遷して上都留守となった。また累遷して江西・河南の二行省平章政事となった。入朝して太府卿となった。再び上都留守となった。出仕して遼陽行省平章政事となり、寛厚を以て政を行い、遼人はその徳を慕った。

原文慶童字明德,康里氏。祖明里帖木兒,父斡羅思,皆封益國公。慶童早以勳臣子孫受知仁廟,給事內廷,遂長宿衞。授大宗正府掌判,三遷為上都留守。又累遷為江西、河南二行省平章政事。入為太府卿。復為上都留守。出為遼陽行省平章政事,以寬厚為政,遼人德之。

至正十年、平章に転じ、江浙行省を管轄した。時に太平を承けており、宴楽にかなり耽溺し、凡そ遺逸の士で校官に挙げられた者を、ことごとく排斥して用いなかった。このため世論の支持を得られなかった。翌年、盗賊が汝州・潁州で起こり、やがて江浙に蔓延し、江東の饒州・信州・徽州・宣州・鉛山・広徳、浙西の常州・湖州・建徳が、所在で守られなくなった。慶童は僚佐を分遣して師旅を督戦させ、時を経ずして、順次に奪回した。その後、長吏に命じて民数を調査させ、凡そ連座した者は皆問わずに置き、流離の民を招き寄せ、もとの生業に安んじさせ、官粟を発してこれを救済した。省の役所が兵火で焼失したので、その旧地を拡張し、一新させた。貧民を募って工役に就かせ、銭で報酬を与え、杭民でこれによって生き延びた者は特に多かった。

原文至正十年,遷平章,行省江浙。適時承平,頗沉湎于宴樂,凡遺逸之士舉校官者,輒擯斥不用,由是不為物論所與。明年,盜起汝、潁,已而蔓延于江浙,江東之饒、信、徽、宣、鉛山、廣德,浙西之常、湖、建德,所在不守。慶童分遣僚佐往督師旅,曾不踰時,以次克復。既乃令長吏按視民數,凡詿誤者悉置不問,招徠流離,俾安故業,發官粟以賑之。省治燬于兵,則拓其故址,俾之一新。募貧民為工役而償之以錢,杭民賴以存活者尤眾。

十四年、脱脱が太師・右丞相として大軍を率いて南征し、一切の軍需物資・衣甲・兵器・穀粟・薪藁の類は、すべて江浙から調達した。慶童は計画措置に方策があり、陸運・川輸は千里に連なり、朝廷はこれを頼りとした。翌年、盗賊が常州の無錫に起こり、衆議は重兵をもって殲滅すべしとしたが、慶童は言った、「赤子は無知であり、有司に迫られたゆえに、兵を弄んでいるだけである。もし禍福を諭せば、彼らに降伏しない道理はない。」盗賊はこれを聞き、果たして戈を投げ甲を解き、良民となることを請うた。

原文十四年,脫脫以太師、右丞相統大兵南征,一切軍資衣甲器仗穀粟薪藳之屬,咸取具於江浙。慶童規措有方,陸運川輸,千里相屬,朝廷賴之。明年,盜起常之無錫,眾議以重兵殲之,慶童曰:「赤子無知,迫於有司,故弄兵耳。苟諭以禍福,彼無不降之理。」盜聞之,果投戈解甲,請為良民。

十六年、平江・湖州が陥落した。義兵元帥方家奴は配下の軍を率いて杭州城の北関に駐屯し、同党と結託し、互いに扇動して悪事を働き、財貨を掠奪し、白昼人を殺し、民はこれを患いとした。慶童は丞相達識帖睦邇に言った、「我が軍に規律がなければ、どうして敵に勝てようか。必ず方家奴を斬らなければ出師できない。」丞相は慶童とともにその軍に入り、その罪を数え上げ、斬首して示し、民は大いに喜んだ。続いて苗軍の帥楊完者がその軍をもって杭州城を守った。丞相達識帖睦邇はすでに制を承けて完者に江浙行省右丞を授けたが、完者はますます功を以て自ら驕り、慶童の娘を娶ることを求めた。慶童は初め許さなかったが、当時苗軍の勢いは甚だ盛んであり、達識帖睦邇はまさにこれを重んじて頼りとしていたため、強いて主婚し、慶童はやむを得ず娘をこれに与えた。翌年、海寧州に出鎮し、杭州から百里の地で、海に臨み土地は瘠せており、民は甚だ貧しかった。二年居住し、盗賊は止み民は豊かになった。この時までに、慶童は江浙に既に七年おり、険難を経験し、労績が甚だ優れて顕著であったため、召されて翰林学士承旨に拝され、淮南行省平章政事に改めたが、赴任せず、依然として江浙に留任した。

原文十六年,平江、湖州陷。義兵元帥方家奴以所部軍屯杭城之北關,鈎結同黨,相煽為惡,劫掠財貨,白晝殺人,民以為患。慶童言于丞相達識帖睦邇曰:「我師無律,何以克敵?必斬方家奴乃可出師。」丞相乃與慶童入其軍,數其罪,斬首以徇,民大悅。繼而苗軍帥楊完者以其軍守杭城。丞相達識帖睦邇既承制授完者江浙行省右丞,而完者益以功自驕,因求娶慶童女。慶童初不許,時苗軍勢甚張,達識帖睦邇方倚以為重,強為主婚,慶童不得已以女與之。明年,出鎮海寧州,距杭百里,地瀕海磽瘠,民甚貧。居二年,盜息而民阜。至是,慶童在江浙已七年,涉歷險艱,勞績甚優著,召拜翰林學士承旨,改淮南行省平章政事,未行,仍任江浙。

十八年、福建行省平章政事に遷ったが、赴任せず、江南行台御史大夫に拝され、御衣・上尊を賜った。当時南行台は紹興に治所を置き、管轄する諸道は皆阻絶して通じなかった。紹興の東、明州・台州などの郡は方国珍に制せられ、その西、杭州・蘇州などの郡は張士誠に占拠されていた。憲台の綱紀はもはや振るうことができず、ただ空名を存するのみであった。

原文十八年,遷福建行省平章政事,未行,拜江南行臺御史大夫,賜以御衣、上尊。時南行臺治紹興,所轄諸道皆阻絕不通。紹興之東,明、台諸郡則制於方國珍;其西,杭、蘇諸郡則據於張士誠。憲臺綱紀不復可振,徒存空名而已。

二十年、朝廷に召還され、慶童は海路より京師に急行した。中書平章政事に拝された。間もなく、その子の剛僧が宮人と私通したと讒言する者がおり、帝は怒ってこれを殺した。慶童はこれにより鬱々として志を得ず、病と称して家に居ること久しく、日々酒を飲んで自らを慰めた。二十五年、詔により陝西行省左丞相に拝された。当時李思斉が関中に兵を擁しており、慶童が至ると礼をもってこれを遇し、和をもってこれに接した。三年居住し、関陝は平穏となった。京師に召還された。

原文二十年,召還朝,慶童乃由海道趨京師。拜中書平章政事。俄有譖其子剛僧私通宮人者,帝怒殺之。慶童因鞅鞅不得志,移疾家居久之,日飲酒以自遣。二十五年,詔拜陝西行省左丞相。時李思齊擁兵關中,慶童至則御之以禮,待之以和。居三年,關陝用寧。召還京師。

二十八年七月、大明の兵が京城に迫り、帝は皇太子及び六宮、宰臣・近戚に至るまで皆北に奔り、淮王帖木児不花に監国を命じ、慶童を中書左丞相としてこれを補佐させた。八月二日、京城は陥落し、淮王と慶童は斉化門より出て、皆殺害された。

原文二十八年七月,大明兵逼京城,帝與皇太子及六宮至於宰臣近戚皆北奔,而命淮王帖木兒不花監國,慶童為中書左丞相以輔之。八月二日,京城破,淮王與慶童出齊化門,皆被殺。

也速

也速は蒙古人である。倜儻として有能の名があった。宿衛より歴任して尚乗寺提点となり、宣政院参議に遷った。至正十四年、河南の賊芝麻李が徐州を占拠し、也速は太師脱脱に従って南征し、徐州城は堅固で急に陥とせなかった。脱脱は也速の計を用い、巨石を砲とし、昼夜攻撃して止まず、賊は困窮して支えることができなかった。也速はまたその南関の外城を攻め破り、賊は遂に逃げ去った。功により同知中政院事に除された。続いて軍を率いて父の太尉月闊察児に従い淮西を征し、賊が安豊を包囲したので、即ち往きてこれを救援し、淮を渡るに舟がなく、馬を策って水深浅を探り、浮いて渡った。賊は大いに驚き、包囲を解いて去った。濠州を進攻し、詔により班師して還った。将作院使に昇った。

原文也速,蒙古人。倜儻有能名。由宿衞歷尚乘寺提點,遷宣政院參議。至正十四年,河南賊芝麻李據徐州,也速從太師脫脫南征,徐州城堅不可猝拔。脫脫用也速計,以巨石為礮,晝夜攻之不息,賊困莫能支。也速又攻破其南關外城,賊遂遁走。以功除同知中政院事。繼又領軍從父太尉月闊察兒征淮西,會賊圍安豐,即往援之,渡淮無舟,因策馬探水深淺,浮而過,賊大駭,撤圍去。進攻濠州,有詔班師乃還。陞將作院使。

また太尉に従い淮東を征し、盱眙を取った。淮南行枢密院副使に遷り、同知枢密院事に昇った。賊を海州に討ち、これを大いに破った。賊は逃げ、海路を経て山東を襲い、その地をことごとく有した。也速は賊が必ず勝に乗じて北侵すると考え、急ぎ兵を率いて北還し、表裏よりこれを撃ち、滕・兗二州及び費・鄒・曲阜・寧陽・泗水の五県を回復し、賊の勢いは遂に挫けた。間もなく、また泰安州及び平陰・肥城・萊蕪・新泰の四県を回復し、また安水等五十三寨を平定した。

原文復從太尉征淮東,取盱眙。遷淮南行樞密院副使,陞同知樞密院事。討賊海州,大敗之。賊走,航海襲山東,盡有其地。也速計賊必乘勝北侵,急引兵北還,表裏擊之,復滕、兖二州,及費、鄒、曲阜、寧陽、泗水五縣,賊勢遂衄。未幾,復泰安州及平陰、肥城、萊蕪、新泰四縣,又平安水等五十三寨。

知枢密院事に昇った。蒲台の賊杜黒児を討ち、捕らえて京師に送り磔にした。東昌の賊将が北寇しようとし、陵州を経由したので、也速は景州で邀撃し、斬獲すること殆んど尽くした。阜城県を回復した。詔により也速に軍を率いて単家橋に屯し、賊の北路を断つことを命じた。賊は転じて長蘆を攻め、也速は往きてこれと戦い、流れ矢が左手を貫いたが顧みず、転戦して前に進み、賊五百余人を殺し、馬三千匹を奪った。ここにおいて兵を分けて山寨を下し、民は争って来帰した。

原文陞知樞密院事。討蒲臺賊杜黑兒,擒送京師磔之。東昌賊將北寇,道出陵州,也速邀擊於景州,斬獲殆盡。復阜城縣。有詔命也速以軍屯單家橋,斷賊北路。賊轉攻長蘆,也速往與戰,流矢貫左手不顧,轉鬭無前,殺賊五百餘人,奪馬三千匹。於是分兵下山寨,民爭來歸。

中書平章政事に拝され、行省淮南に改めた。雄州・蔚州の賊が相次いで起こり、也速はことごとくこれを平定した。知枢密院事劉哈剌不花の配下の卒が懐来・雲州を掠奪し、乱を起こそうとしたので、也速は軽騎をもってその首謀者を撃滅し、その衆を降して麾下に隷属させた。賊が大寧を陥としたので、詔により也速に往きてこれを討たせた。賊兵が侯家店に駐屯し、也速は賊に遇うや即ち前に進んでこれと戦い、昏より曙に至り、散じてはまた合した。也速は別の騎兵を遣わして賊の背後に回り出させ、賊は腹背敵を受けて大敗した。遂に大寧を抜き、首賊の湯通・周成等三十五人を擒らえ、都市で磔にした。召されて入覲し、賞賚は優厚で、階を進めて金紫光禄大夫・知枢密院事となった。

原文拜中書平章政事,改行省淮南。雄州、蔚州賊繼起,也速悉平之。知樞密院事劉哈剌不花所部卒掠懷來、雲州,欲為亂,也速以輕騎擊滅其首禍者,降其眾隸麾下。賊陷大寧,詔也速往討之。賊兵次侯家店,也速遇賊即前與戰,自昏抵曙,散而復合。也速遣別騎繞出賊後,賊腹背受敵大敗。遂拔大寧,擒首賊湯通、周成等三十五人,磔于都市。召入覲,賞賚優渥,進階金紫光祿大夫、知樞密院事。

既にして賊の雷帖木児不花・程思忠等が永平を陥としたので、詔により也速に出師させ、遂に灤州及び遷安県を回復した。当時遼東の郡県で永平のみ兵災を受けず、儲粟十万、芻藁は山のように積み、居民は殷富であった。賊は隙に乗じて密かに侵入し、土を増して城を築き、河を因って塁とし、堅守して陥とせなかった。也速は外に大営を築き、その樵採を絶ち、数度賊と戦い、その偽帥二百余人を獲、山寨数十を平定した。また昌黎・撫寧の二県を回復し、雷帖木児不花を擒らえて京師に送った。賊は急ぎ、乃ち参政徹力帖木児に降伏を乞い、朝廷に命を請わせ、詔はこれを許し、也速に退師を命じた。也速は賊が必ず計をもって我が師を怠らせようと推し量り、厳に備えをしてこれを偵察した。程思忠は果たして城を棄てて遁走し、急ぎ追って瑞州に至り、殺獲すること万を数えた。賊は遂に東に走って金州・復州に向かった。詔により京師に還った。

原文既而賊雷帖木兒不花、程思忠等陷永平,詔也速出師,遂復灤州及遷安縣。時遼東郡縣惟永平不被兵,儲粟十萬,芻藳山積,居民殷富。賊乘間竊入,增土築城,因河為塹,堅守不可下。也速乃外築大營,絕其樵采,數與賊戰,獲其偽帥二百餘人,平山寨數十。又復昌黎、撫寧二縣,擒雷帖木兒不花送京師。賊急,乃乞降于參政徹力帖木兒,為請命于朝,詔許之,命也速退師。也速度賊必以計怠我師,乃嚴備以偵之。程思忠果棄城遁去,亟追至瑞州,殺獲萬計。賊遂東走金復州。詔還京師。

遼陽行省左丞相に拝され、知行枢密院事を兼ね、迤東の兵農を撫安し、便宜を委ねられ、永平に省を開き、総兵は従前の如くであった。金・復・海・蓋・乾・王等の賊が並び起こり、西は興中州を侵し、密かに海路より永平に向かおうとしたが、也速が省を開くと聞いて止んだ。也速は急ぎ兵を分けてその衝突を防いだ。賊は転じて大寧を攻めたが、守将王聚に敗れ、その渠魁を斬り、衆は潰え、皆西に走った。也速は賊が上都を窺うことを慮り、即ち右丞忽林台に兵を提げて上都を護らせ、精鋭を選んで自ら賊の後を追った。賊は果たして上都を寇し、忽林台がこれを撃破し、賊衆はまた大いに潰えた。永平・大寧はここにおいて始めて平定された。乃ち官属を分命し、労来してその民を安輯し、什伍をもって相保させて耕種に事えさせ、民は石を立ててその勲徳を頌した。

原文拜遼陽行省左丞相,知行樞密院事,撫安迤東兵農,委以便宜,開省于永平,總兵如故。金、復、海、蓋、乾、王等賊並起,西侵興中州,陰由海道趨永平,聞也速開省乃止。也速亟分兵防其衝突。賊乃轉攻大寧,為守將王聚所敗,斬其渠魁,眾潰,皆西走。也速慮賊窺上都,即調右丞忽林台提兵護上都,簡精銳自躡賊後。賊果寇上都,忽林台擊破之,賊眾又大潰。永平、大寧於是始平。乃分命官屬,勞來安輯其民,使什伍相保以事耕種,民為立石頌其勳德。

至正二十四年、孛羅帖木兒は右丞相搠思監と宦官朴不花と怨みを結び、兵を遣わして宮闕を犯し、二人を捕えて去り、也速は遂に中書左丞相に任ぜられた。七月、孛羅帖木兒は兵を留めて大同を守らせ、自ら兵を率いて再び宮闕に向かった。京師は大いに震駭し、百官は帝に従って城を守り、皇太子は兵を統率して清河で迎え撃ち、也速に昌平に軍を置かせた。ところが孛羅帖木兒の前鋒は既に居庸関を越え、昌平に至り、也速の一軍は皆闘志なく、戦わずして潰走し、皇太子は馳せて城に入り、やがて出奔して太原に赴いた。孛羅帖木兒は遂に京城に入り、中書右丞相となり、その事は孛羅帖木兒伝に詳しい。

原文二十四年,孛羅帖木兒與右丞相搠思監、宦者朴不花有怨,遣兵犯闕,執二人以去,而也速遂拜中書左丞相。七月,孛羅帖木兒留兵守大同,自率兵復向闕。京師大震,百官從帝城守,皇太子統兵迎於清河,命也速軍於昌平。而孛羅帖木兒前鋒已度居庸關,至昌平,也速一軍皆無鬭志,不戰而潰,皇太子馳入城,尋出奔于太原。孛羅帖木兒遂入京城,為中書右丞相,語具孛羅帖木兒傳。

至正二十五年、皇太子は太原にあって、拡廓帖木児と謀り内難を清めんとし、制を承って甘粛・嶺北・遼陽・陝西の諸省の諸王の兵を調発し、孛羅帖木児を討伐せんとした。孛羅帖木児は乃ち御史大夫禿堅帖木児を遣わし、兵を率いて上都の皇太子に附く者を攻撃させ、且つ嶺北の兵を防がせ、また也速に兵を率いさせて南に拡廓帖木児の部将竹貞・貊高等を防がせた。也速の軍は良郷に駐屯して進まず、衆に謀ると、皆が孛羅帖木児の行うところ狂悖にして、宗社を危うくせんと図り、内外共に憤ると言った。遂に兵を勒して永平に帰り、西は太原の拡廓帖木児と連絡し、東は遼陽の也先不花国王と連絡し、軍声大いに振るった。孛羅帖木児はこれを憂い、その将同知枢密院事姚伯顔不花を遣わし、兵をもって討伐に向かわせた。軍は通州を過ぎ、白河の水が溢れて進めず、虹橋に駐屯し、塁を築いて待機した。姚伯顔不花は平素より也速を無謀と軽んじ、備えを設けなかった。也速はこれを偵知し、その軍を襲撃して破り、姚伯顔不花を生け捕りにした。孛羅帖木児は大いに恐れ、自ら将兵して也速を討ち、通州に至ったが、大雨三日に及び、乃ち引き返した。孛羅帖木児は先に部将の保安が己に附かぬとしてこれを殺し、この時に至ってまた姚伯顔不花を失い、二人は皆驍将であったので、左右の手を失うが如く、鬱々として楽しからず。事敗れ、遂に誅せられた。

原文二十五年,皇太子在太原,與擴廓帖木兒謀清內難,承制調甘肅、嶺北、遼陽、陝西諸省諸王兵入討孛羅帖木兒。孛羅帖木兒乃遣御史大夫禿堅帖木兒率兵攻上都附皇太子者,且以禦嶺北之兵,又調也速率兵南禦擴廓帖木兒部將竹貞、貊高等。也速軍次良鄉不進,謀之於眾,皆以謂孛羅帖木兒所行狂悖,圖危宗社,中外同憤。遂勒兵歸永平,西連太原擴廓帖木兒,東連遼陽也先不花國王,軍聲大振。孛羅帖木兒患之,遣其將同知樞密院事姚伯顏不花以兵往討。軍過通州,白河水溢不能進,駐虹橋,築壘以待。姚伯顏不花素輕也速無謀,不設備。也速覘知之,襲破其軍,擒姚伯顏不花。孛羅帖木兒大恐,自將討也速,至通州,大雨三日,乃還。孛羅帖木兒先以部將保安不附己,殺之,至是又失姚伯顏不花,二人皆驍將也,如失左右手,鬱鬱不樂。事敗,遂伏誅。

至正二十七年、詔して也速を中書右丞相とし、山東に分省を置かせた。二十八年、大明の兵が山東を取った。閏七月、也速は部将の哈剌章・田勝・周達等と共に莫州で防戦したが、衆敗れて潰走し、乃ち莫州の残民をことごとく掠めて北に遁走した。

原文二十七年,詔以也速為中書右丞相,分省山東。二十八年,大明兵取山東。閏七月,也速與部將哈剌章、田勝、周達等禦於莫州,眾敗潰,乃盡掠莫州殘民北遁。

徹里帖木児

原文徹里帖木兒

徹里帖木児は阿魯温氏である。祖父は累代戦功を立て、西域の大族となった。徹里帖木児は幼少より沈毅にして大志あり、早くより宿衛に備え、中書直省舎人に抜擢され、遂に監察御史に任ぜられた。時に右丞相帖木迭児が権勢を振るい、生殺与奪は皆その意のままに出で、道路に人側目した。徹里帖木児は直言し、歴々にその奸を詆毀したので、帖木迭児は中傷せんとした。時に山東に水害があり、塩課が大いに損じたので、山東転運司副使に除され、僅か一月にして、その欠損数を補い皆充足させた。刑部尚書に転じ、京師の豪右はこれを憚り、法を犯すことなく、而して罪なき者が法に罹る者を多く全うし脱せしめた。

原文徹里帖木兒,阿魯溫氏。祖父累立戰功,為西域大族。徹里帖木兒幼沉毅有大志,早備宿衞,擢中書直省舍人,遂拜監察御史。時右丞相帖木迭兒用事,生殺予奪皆出其意,道路側目。徹里帖木兒抗言,歷詆其奸,帖木迭兒欲中傷之。會山東水,鹽課大損,除山東轉運司副使,甫浹月,補其虧數皆足。轉刑部尚書,京師豪右憚之,不敢犯法,而以非罪麗法者多所全脫。

天暦二年、中書右丞に任ぜられ、やがて中書平章政事に昇進し、出て河南行省平章政事となった。黄河が清んだので、有司はこれを瑞祥とし、朝廷に聞こえさせんと請うた。徹里帖木児は言った、「臣たるもの忠、子たるもの孝、天下治まり、百姓安んずるを瑞祥と知る。その余は治に何の益かあらん」。歳大いに飢えたので、徹里帖木児はこれを賑恤せんと議した。その属官は必ず県より府に上り、府より省に上り、然る後に朝廷に聞こえさせねばならぬと思った。徹里帖木児は慨然として言った、「民の飢え死にする者既に衆し。乃ち常格に拘らんとするか。往復累月すれば、民の存するもの幾ばくもあらん。これは有司が罪を畏れ、怨みを朝廷に帰せんとするなり。吾はこれを為さぬ」。大いに倉廩を開いて賑恤し、乃ち専擅の罪を請うた。文宗はこれを聞いて喜び、龍衣・上尊を賜った。

原文天曆二年,拜中書右丞,尋陞中書平章政事,出為河南行省平章政事。黃河清,有司以為瑞,請聞于朝。徹里帖木兒曰:「吾知為臣忠、為子孝、天下治、百姓安為瑞,餘何益於治?」歲大饑,徹里帖木兒議賑之。其屬以為必自縣上之府,府上之省,然後以聞。徹里帖木兒慨然曰:「民饑死者已眾,乃欲拘以常格耶!往復累月,民存無幾矣。此蓋有司畏罪,將歸怨于朝廷,吾不為也。」大發倉廪賑之,乃請專擅之罪。文宗聞而悅之,賜龍衣、上尊。

至順元年、雲南の伯忽が叛き、知行枢密院事として総兵しこれを討ち、軍を治めるに紀律あり、過ぐる所秋毫も犯さず。賊平ぎ、賞賚甚だ厚く、悉く将士に分け賜い、師の還るに及び、囊中の装いは惟だ巾櫛のみであった。上都留守に除された。先に、上都の官は商旅の貨を買い、その代価を即時に支払わず、この故に商旅は帰ることができず、飢え寒さに死する者さえあった。徹里帖木児はこのために請うた。旨有り、鈔四百萬貫を出してこれを償わせた。江浙行省平章政事に遷り、厳厲を以て政を行い、部内粛然とした。やがて召されて御史中丞に任ぜられ、朝廷これを憚り、風紀大いに振るった。

原文至順元年,雲南伯忽叛,以知行樞密院事總兵討之,治軍有紀律,所過秋毫無犯。賊平,賞賚甚厚,悉分賜將士,師旋,囊裝惟巾櫛而已。除留守上都。先是,上都官買商旅之貨,其直不即酬給,以故商旅不得歸,至有饑寒死者。徹里帖木兒為之請。有旨,出鈔四百萬貫償之。遷江浙行省平章政事,以嚴厲為政,部內肅然。尋召拜御史中丞,朝廷憚之,風紀大振。

至元元年、中書平章政事に任ぜられた。まず科挙の廃止を議し、また太廟の四祭を一祭に減らさんとした。監察御史呂思誠等はその罪状を列挙してこれを弾劾したが、帝は允さず、詔して徹里帖木児に仍って出て署事させた。時に科挙廃止の詔は既に書かれたが未だ宝璽を押さず、参政許有壬が入ってこれを争った。太師伯顔は怒って言った、「汝は風聞して台臣に徹里帖木児を言わせたのか」。有壬は言った、「太師は徹里帖木児が力を宣べたる故を以て、中書に擢き置かれた。御史三十人は太師を畏れずして有壬に従う。豈に有壬の権が太師より重からんや」。伯顔の意解けた。有壬は乃ち言った、「科挙若し罷まらば、天下の人才望みを絶つ」。伯顔は言った、「挙子は多く贓罪に敗れ、また蒙古・色目の名を仮る者あり」。有壬は言った、「科挙未だ行はれざる先、台中の贓罰数うるに遑あらず。豈に尽く挙子より出づるや。挙子に過ち無しとは謂わざるも、彼に較ぶれば則ち少なし」。伯顔は因って言った、「挙子の中任用すべき者は唯だ参政のみ」。有壬は言った、「張夢臣・馬伯庸・丁文苑の輩は皆大事を任ずべし。また欧陽元功の文章の如きは、豈に容易く及ぶべきや」。伯顔は言った、「科挙雖も罷まるも、士の美衣美食を求めんとする者は、皆自ら学に向かうべし。豈に大官に至らざる者あらんや」。有壬は言った、「所謂士たる者は、初より衣食を以て事とせず、その事は治国平天下に在り」。伯顔はまた言った、「今科挙にて人を取るは、実に選法を妨ぐ」。有壬は言った、「古人の言に、賢を立てるに方無しと。科挙にて士を取るは、豈に通事・知印等の出身者より愈らざらんや。今通事等天下凡そ三千三百二十五名、歳に四百五十六人を余す。玉典赤・太醫・控鶴は皆流品に入る。また路吏及び任子その途一ならず。今年四月より九月に至るまで、白身より官を補せられ宣を受くる者七十二人、而して科挙一年僅かに三十余人。太師試みにこれを思え。科挙は選法に果たして相妨ぐや」。伯顔は心にその言を然りとし、然れどもその議既に定まり、中だすこと能わず、乃ち温言を以て慰め解き、且つ有壬を能く言う者と謂った。有壬これを聞いて言った、「能く言うも何の事に益せん」。徹里帖木児時に座に在りて言った、「参政座せよ、多く言うなかれ」。有壬は言った、「太師我をして人に風聞して平章を劾ぜしめしと謂う。共に座すべきや」。徹里帖木児笑って言った、「吾固より未だ嘗てこの語を信ぜず」。有壬は言った、「宜なるかな平章の信ぜざるや。設い有壬果たして人に風聞して平章を言わしめば、則ち言うこと必ず中らん。豈に此くの如きに止まらんや」。衆皆笑いて罷みた。翌日、崇天門にて詔を宣べ、特ち有壬を班首とせしめて以てこれを折辱せんとした。有壬は禍に及ぶを懼れ、勉めてこれに従った。治書侍御史普化は有壬を誚って言った、「参政は過河拆橋者と謂うべし」。有壬はこれを大いなる恥辱とし、遂に疾を移して出でず。

原文至元元年,拜中書平章政事。首議罷科舉,又欲損太廟四祭為一祭。監察御史呂思誠等列其罪狀劾之,帝不允,詔徹里帖木兒仍出署事。時罷科舉詔已書而未用寶,參政許有壬入爭之。太師伯顏怒曰:「汝風臺臣言徹里帖木兒邪?」有壬曰:「太師以徹里帖木兒宣力之故,擢置中書。御史三十人不畏太師而聽有壬,豈有壬權重於太師耶?」伯顏意解。有壬乃曰:「科舉若罷,天下人才觖望。」伯顏曰:「舉子多以贓敗,又有假蒙古、色目名者。」有壬曰:「科舉未行之先,臺中贓罰無算,豈盡出於舉子?舉子不可謂無過,較之於彼則少矣。」伯顏因曰:「舉子中可任用者唯參政耳。」有壬曰:「若張夢臣、馬伯庸、丁文苑輩皆可任大事。又如歐陽元功之文章,豈易及邪?」伯顏曰:「科舉雖罷,士之欲求美衣美食者,皆能自向學,豈有不至大官者邪?」有壬曰:「所謂士者,初不以衣食為事,其事在治國平天下耳。」伯顏又曰:「今科舉取人,實妨選法。」有壬曰:「古人有言,立賢無方。科舉取士,豈不愈於通事、知印等出身者?今通事等天下凡三千三百二十五名,歲餘四百五十六人。玉典赤、太醫、控鶴,皆入流品。又路吏及任子其途非一。今歲自四月至九月,白身補官受宣者七十二人,而科舉一歲僅三十餘人。太師試思之,科舉於選法果相妨邪?」伯顏心然其言,然其議已定,不可中輟,乃為溫言慰解之,且(為)〔謂〕有壬為能言。有壬聞之曰:「能言何益於事?」徹里帖木兒時在座,曰:「參政坐,無多言也。」有壬曰:「太師謂我風人劾平章,可共坐邪?」徹里帖木兒笑曰:「吾固未嘗信此語也。」有壬曰:「宜平章之不信也,設有壬果風人言平章,則言之必中矣,豈止如此而已!」眾皆笑而罷。翌日,崇天門宣詔,特令有壬為班首以折辱之。有壬懼及禍,勉從之。治書侍御史普化誚有壬曰:「參政可謂過河拆橋者矣。」有壬以為大耻,遂移疾不出。

初めに、徹里帖木児が江浙に在った時、科挙が行われ、駅伝で考官を招請し、供応の設備が甚だ盛大であったので、心に頗る不平を抱き、故に彼が中書に入って科挙を廃止することを第一とした。先に、学校の貢士の荘田の租税を怯薛の衣糧に給すべきことを論じ、国政を動かす者を動かして、その機を発せしめ、ここに至って遂にこれを論じて廃止した。徹里帖木児は嘗て武宗を指して那壁と称した。那壁とは、猶お彼という意味である。また嘗て妻の弟の阿魯渾沙の娘を己が娘として、珠袍等の物を偽って請うた。ここにおいて臺臣がまたその罪を弾劾した。而して伯顔もまた彼が己に逆らうことを憎み、斥けようとした。詔して徹里帖木児を南安に貶す。人皆これを快とした。久しくして、貶所に卒した。至正二十三年、監察御史の野仙帖木児等がその罪を弁明し、寒食国公の例に依って王爵を追封し、諡を定め功臣の号を加うべきことを請うたが、事は行われなかった。

原文初,徹里帖木兒之在江浙也,會行科舉,驛請考官,供張甚盛,心頗不平,故其入中書以罷科舉為第一。事先,論學校貢士莊田租可給怯薛衣糧,動當國者,以發其機,至是遂論罷之。徹里帖木兒嘗指斥武宗為那壁,那壁者猶謂之彼也。又嘗以妻弟阿魯渾沙女為己女,冒請珠袍等物。於是臺臣復劾其罪。而伯顏亦惡其忤己,欲斥之。詔貶徹里帖木兒于南安,人皆快之。久之,卒于貶所。至正二十三年,監察御史野仙帖木兒等辨其罪,可依寒食國公追封王爵定諡加功臣之號,事不行。

納麟

納麟は、智曜の孫、睿の子である。大徳六年、納麟は名臣の子として、丞相の哈剌哈孫答剌罕の推薦により、宿衛に備え入った。十年、中書舎人を除された。至大四年、宗正府郎中に遷った。皇慶元年、僉河南廉訪司事に擢げられた。延祐初年、監察御史を拝した。言事が旨に逆らい、仁宗の怒りは測り難く、中丞の朵児只が力を尽くして救ったのでやっと解けた。また、風憲が糾弾の権を恃んで賄賂を受ける者は、刑に処し流罪を加うべきであると上言した。四年、刑部員外郎に遷った。六年、出て河南行省郎中となった。至治三年、入って都漕運使となった。泰定年間、湖南・湖北両道廉訪使に擢げられた。

原文納麟,智曜之孫,睿之子也。大德六年,納麟以名臣子,用丞相哈剌哈孫答剌罕薦,入備宿衞。十年,除中書舍人。至大四年,遷宗正府郎中。皇慶元年,擢僉河南廉訪司事。延祐初,拜監察御史。以言事忤旨,仁宗怒叵測,中丞朵兒只力救之乃解。又言風憲恃糾劾之權而受人賂者,宜刑而加流。四年,遷刑部員外郎。六年,出為河南行省郎中。至治三年,入為都漕運使。泰定中,擢湖南、湖北兩道廉訪使。

天暦元年、杭州路総管を除された。奸を鋤き蠹を去り、吏は畏れ民は悦んだ。翌年、江西廉訪使に改めた。南昌が凶年に飢饉となり、江西行省は粟を発することを難じた。納麟は言う、「朝廷がもし允さなければ、私は家財をもってこれを償おう」と。乃ち粟を出して民を賑い、全活すること甚だ多かった。平章政事の把失忽都が貪欲で放縦に法を犯したので、納麟はこれを弾劾して罷免した。至順元年、湖広行省参知政事を拝した。元統初年、召されて刑部尚書となったが、未だ到着せず、江南行臺治書侍御史に改められた。尋いで中丞に昇った。至元元年、召されて中書参知政事を拝し、同知枢密院事に遷った。尋いで出て江浙行省右丞となり、致仕を乞うたが、許されず、浙西廉訪使を除されたが、力辞して赴任しなかった。

原文天曆元年,除杭州路總管。鋤奸去蠹,吏畏民悅。明年,改江西廉訪使。南昌歲饑,江西行省難於發粟。納麟曰:「朝廷如不允,我當以家貲償之。」乃出粟以賑民,全活甚眾。平章政事把失忽都貪縱不法,納麟劾罷之。至順元年,拜湖廣行省參知政事。元統初,召為刑部尚書,未至,改江南行臺治書侍御史。尋陞中丞。至元元年,召拜中書參知政事,遷同知樞密院事。尋出為江浙行省右丞,乞致仕,不允,除浙西廉訪使,力辭不赴。

至正二年、行宣政院使を除された。上天竺の耆旧僧の弥戒、径山の耆旧僧の恵洲が、恣に放縦に法を犯したので、納麟は皆これに重罪を坐した。行宣政院に崇教所を設け、行省の理問官に擬し、秩四品として、僧の獄訟を治めさせることを請い、従われた。尋いで江浙行省平章政事となった。三年、河南行省平章政事に遷った。翌年、入って中書平章政事となった。七年、出て江南行臺御史大夫となった。尋いで召されて御史大夫を拝し、推薦任用する御史は必ず老成で事に練れた者とした。八年、金紫光禄大夫に進み、老を請うたが、許されず、太尉を加えられた。御史が弾劾して罷免した。姑蘇に退居した。

原文至正二年,除行宣政院使。上天竺耆舊僧彌戒、徑山耆舊僧惠洲,恣縱犯法,納麟皆坐以重罪。請行宣政院設崇教所,儗行省理問官,秩四品,以治僧獄訟,從之。尋為江浙行省平章政事。三年,遷河南行省平章政事。明年,入為中書平章政事。七年,出為江南行臺御史大夫。尋召拜御史大夫,所薦用御史,必老成更事者。八年,進金紫光祿大夫,請老,不許,加太尉。御史劾罷之。退居姑蘇。

十二年、江淮に盗賊が起こり、帝は南台御史大夫とすることを命じた。納麟は詔を承けて即座に起った。仍って太尉を兼ねることを命じ、僚属を設け、江浙・江西・湖広三省の軍馬を総制させた。詔して直省舎人の海玉を遣わし、旨を伝えて慰諭させた。納麟は北面して再拝し言う、「臣たとえ耄老といえども、敢えて勉めて事に従い、余命を尽くして陛下に報いざらんや」と。到着すると集慶の城郭を修築した。時に江浙の杭城が失守し、淮南行省平章政事の失列門が兵を引いて往き援け、采石に次いだ。納麟は使者を遣わしてこれを止めて言う、「聞くところでは杭の賊は破り易く憂うるに足らず、今宣城が危急であるから、先ず兵をもって宣城を救うべきである」と。乃ち典瑞院使の脱火赤を調して蒙古軍を率いさせてこれに応じ、堈下門において賊を大破し、宣州は以て安んじた。已にして賊は徽州・広徳・常州・宜興・溧水・溧陽を陥し、丹陽・金壇・句容に蔓延し、上元・江寧を略し、游兵が鍾山に至り、集慶の勢いは甚だ危うかった。納麟は乃ち力を病にしながら兵を治め、士卒を部署し、治書侍御史の左答納失理に城中を守らせ、中丞の伯家奴に東郊を戍らせた。この時、湖広行省平章政事の也先帖木児が和州に軍を置き、納麟は使者を遣わして援けを求めた。也先帖木児は言う、「我は江北を鎮守することを命ぜられており、敢えて江東に往き援けず」と。納麟はまた監察御史の鄭鄈を遣わしてその行きを力促し、也先帖木児は歩騎を引いて采石を渡り台城に至り、入って納麟の病を候った。納麟は喜び、即座にその故を朝廷に聞こしめた。已にして也先帖木児の兵は東に秣陵に向かい、賊二千余人を殺し、湖熟鎮を平らげ、上元・江寧の境を尽く復し、勝に乗じて溧陽・溧水に入り、賊は潰れて広徳に奔った。その龍潭・方山を占拠する者は常州に奔った。時に江浙行省平章政事の三旦八、右丞の仏家閭もまた兵を引いて来会した。所在の群賊は皆敗北し、州郡悉く平らげられた。

原文十二年,江淮盜起,帝命為南臺御史大夫。納麟承詔即起。仍命兼太尉,設僚屬,總制江浙、江西、湖廣三省軍馬。詔遣直省舍人海玉傳旨慰諭之。納麟北面再拜曰:「臣雖耄老,敢不黽勉從事,盡餘生以報陛下。」至則修築集慶城郭。會江浙杭城失守,淮南行省平章政事失列門引兵往援,次于采石。納麟使止之曰:「聞杭賊易破不足憂,今宣城危急,先宜以兵救宣城。」乃調典瑞院使脫火赤率蒙古軍應之,大破賊于堈下門,宣州以安。已而賊陷徽州、廣德、常州、宜興、溧水、溧陽,蔓延丹陽、金壇、句容,略上元、江寧,游兵至鍾山,集慶勢甚危。納麟乃力疾治兵,部署士卒,命治書侍御史左答納失理守城中,中丞伯家奴戍東郊。是時湖廣行省平章政事也先帖木兒軍和州,納麟遣使求援。也先帖木兒曰:「我奉命鎮江北,不敢往援江東。」納麟復遣監察御史鄭鄈力促其行,也先帖木兒引步騎度采石至臺城,入候納麟疾。納麟喜,即以其故聞于朝。已而也先帖木兒兵東趨秣陵,殺賊二千餘人,平湖熟鎮,盡復上元、江寧境,乘勝入溧陽、溧水,賊潰奔廣德;其據龍潭、方山者奔常州。時江浙行省平章政事三旦八、右丞佛家閭亦引兵來會。所在羣賊皆敗北,州郡悉平。

十三年、納麟は固より謝事を請い、従われ、太尉の如くとすることを命じられ、乃ち慶元に退居した。十六年九月、詔して江南行台を紹興に移置し、また納麟を御史大夫とし、仍って太尉とした。翌年、治所を紹興に移した。十八年、召しに赴き、海路より入朝したが、黒水洋に至り、風に阻まれて還った。十九年、また海路より直沽に向かった。山東の俞宝が戦艦を率いて糧道を断ったので、納麟はその子の安安及び同舟の人に命じてこれを拒ぎ、海口においてその衆を破った。八月、京師に抵った。帝は使者を遣わして上尊をもって労い、皇太子もまた酒脯を饋った。而して納麟は病を感じ日増しに重くなり、通州に卒した。年七十九であった。

原文十三年,納麟固請謝事,從之,命太尉如故,乃退居慶元。十六年九月,詔以江南行臺移置紹興,復以納麟為御史大夫,仍太尉。明年,移治紹興。十八年,赴召,由海道入朝,至黑水洋,阻風而還。十九年,復由海道趨直沽。山東俞寶率戰艦斷糧道,納麟命其子安安及同舟人拒之,破其眾於海口。八月,抵京師。帝遣使勞以上尊,皇太子亦饋酒脯。而納麟感疾日亟,卒于通州。年七十有九。