元史

列傳第二十八: 太不花 察罕帖木兒

太不花

太不花は、弘吉剌氏である。代々外戚として、官は最も貴顕であった。太不花は沈着温厚で大度があり、世冑として官に入り、累遷して雲南行省右丞となり、通政使、上都留守、遼陽行省平章政事を歴任した。至正八年、太平が丞相となると、太不花を大用に堪えると力薦し、召されて中書平章政事となった。翌年、太平が既に罷免されると、脱脱が再び丞相となった。太不花は脱脱に与して太平を害さんと謀り、人々はこれにより彼を不平に思った。

十二年、賊が河南に起こり、知樞密院事老章が出師して久しく功がなく、詔して太不花を河南行省平章政事に拝し、太尉を加え、兵を将いて往きて代わらせた。一ヶ月も経たないうちに、南陽、汝寧、唐、随を平定し、また安陸、徳安等の路を陥とし、降を招き叛を服し、動きは事態に合い、軍声は大いに振るった。十四年、脱脱が太師、右丞相として大兵を総べ高郵を征したが、まもなく詔してその兵権を奪い、太不花を本省左丞相に昇らせ、太尉月闊察児、樞密知院雪雪と共に代わってその兵を総べさせた。山東、河北の諸軍は悉く太不花に節制させた。ところが太不花は軍士の糧食不足を理由に、頗る驕傲で朝廷の命令に従わず、軍士もまたしばしば掠奪して民の患いとなった。十五年、監察御史也里忽都等がその功を怠り民を虐げる罪を弾劾したので、天子は詔を下してその職を悉く奪い、火赤温を率いさせ、平章政事答失八都魯に従って征進させた。

まもなく、また湖広行省左丞相に拝し、湖広、荊襄の諸軍を節制し、沔陽、湖広等の処の水陸の賊徒を招捕せしめた。時に朝廷がまた太平を中書左丞相に拝した。太不花はこれを聞き、心に平らかでなく、嘆いて言った、「私は朝廷に背かず、朝廷が私に背くのである。太平は漢人であり、今また中央に居て政事を用い、安らかに逸楽を受けているのに、私は反って外で勤苦しているとは」。賊を撃つに及んで、賊が退かんとすると、諸将は皆乗勝して江を渡ろうとしたが、太不花はかえって兵を引き返し、鋭気を養うと称した。その後、賊が汴梁を犯すと、守臣が援兵を請うたが、十度往復して、太不花はようやく兵を率いて汴梁を救援したが、なお甲を按じて進まなかった。時に睢、亳、太康は既に陥ち、辺境の警報は日に急であった。ある者が諫めて言った、「賊は旦夕に至らんとしているのに、丞相の兵が進まないのは何故か」。太不花は左右を顧みて大言した、「私がいるのに、何物の小寇が敢えて境を犯すことがあろうか。汝ら多く言うな、私は自ら神算があるのだ」。既にして軍を放って掠奪に出し、百里の内は蕩然として遺るもの無かった。続いてまた師を河北に渡し、曹、濮を取ると声言して、遂に彰徳、衛輝に駐屯した。やがて曹、濮の賊は晋、冀に奔竄し、大同も相次いで守られず、遂に蔓延して制することができなくなった。朝廷はこれを憂い、重臣を両度遣わして密旨を諭し、成算を授けたが、太不花は恬として意に介さなかった。この時、その子寿童が同知樞密院事として兵を将い山東を分討したが、久しく功がなく、嘗て事があって入奏した際、言葉に驕慢の意があり、帝はこれにより彼を憎んだ。

十八年、山東の賊は愈々充満し、且つ京畿に近づいたので、詔して太不花を中書右丞相に拝し、その兵を総べさせて山東を討たせた。河を渡ると、即ち上疏して言うには、「賊の勢いは甚だ張っており、軍の行は糧餉を先とすべきである。昔、漢の韓信かんしんが行軍するに、蕭何しょうかが糧を餽った。方今、措画するに丞相太平に如く者はない。もし太平をして軍中に至らせ供給させれば、事は乃ち成し遂げられよう。然らずんば兵は進むことができない」。その意は実は太平を恨み、彼を軍中に至らせて即ち害さんとしたのである。時に参知政事卜顔帖木児、張晋等が山東に分省していたが、二人は嘗て寿童が兵を進めないことを弾劾していた。太不花が至ると、その餽運が進まないことを以て断罪して遣わした。また知樞密院事完者帖木児が右丞であった日に嘗てその非を弾劾したことを以て、失誤専制の罪を加え、その官を擅に改め、軍に徴して害さんとした。事が聞こえると、廷議は喧然となった。而して太平と太不花は久しく隙があった。その上疏が来たのに合わせ、それが己を害さんとしたことを以て、遂に監察御史迷只児海等に諷してその師を緩め命を拒む罪を弾劾させ、帝の前で力を尽くして讒した。ここにおいて乃ち詔を下してその官爵を削り、その兵権を奪い、蓋州に安置し、知樞密院事悟良哈台にその兵を総べさせた。

太不花は詔があると聞き、夜駆けして劉哈剌不花に詣り救解を求めた。劉哈剌不花とは、太不花の旧部将であり、賊を破り累ねて功があり、淮南行省平章政事に拝され、時に兵を保定に駐めていた。太不花が来るのを見て、楽を張り大いに宴し、酒を挙げて慷慨として言った、「丞相は国家の柱石であり、かくの如き大勲労がある。天子は終に丞相を害することはなく、これは必ず讒言が間に入ったのであろう。私は自ら往きて上に見え言上しよう。丞相は憂うるなかれ」。哈剌不花は即ち走って京に至り、まず太平に見えた。太平はその来たる理由を問うと、哈剌不花は具にその故を告げた。太平は言った、「太不花は大逆不道である。今詔は既に下った。爾は敢えて輒ち妄言するのか。審らかに処さなければ、禍は爾に及ぼう」。哈剌不花は太平の言を聞き、畏懼して、口を噤んで発することができなかった。太平は太不花が必ず哈剌不花の所にいるだろうと推し量り、即ち彼に語って言った、「爾が太不花を致して来ることができれば、私は爾を以て上に見えさせよう。爾の功は小さからぬ」。哈剌不花はこれに応じた。太平は乃ち引いて帝に見えさせ、賜賚は良く厚かった。初め、劉哈剌不花が太不花の部将であった時、倪晦という者と共に幕下にあり、太不花は毎度晦を委任し、哈剌不花の計は多く阻まれて行われず、哈剌不花は心に嘗て怨みとしていた。この時に及んで、事は既に解けがたいと知り、還り、太不花父子を縛って京師に送った。未だ至らぬうちに、皆路で殺した。

察罕帖木児

察罕帖木児は字を廷瑞といい、系は北庭に出自する。曾祖は闊闊台で、元初に大軍に随って河南を収めた。祖の乃蛮台、父の阿魯温に至るまで、皆河南に家し、潁州沈丘の人となった。察罕帖木児は幼くして篤学で、嘗て進士挙に応じ、時に名があった。身長七尺、長い眉が目を覆い、左頬に三本の毫があり、時に怒ると毫は皆直ちに指す。平居より慨然として当世を志すところがあった。

至正十一年、賊が汝、潁に起こり、城邑を焼き、長吏を殺し、過ぎる所は残破し、数ヶ月も経たないうちに、江淮の諸郡は皆陥落した。朝廷は兵を徴して討たせたが、卒に成功がなかった。十二年、察罕帖木児は乃ち義に奮い起兵し、沈丘の子弟で従う者数百人であった。信陽の羅山の人李思斉と合兵し、共に奇計を設けて羅山を襲い破った。事が聞こえると、朝廷は察罕帖木児に中順大夫、汝寧府達魯花赤を授けた。ここにおいて所在の義士は皆兵を将いて来会し、一万人を得て、自ら一軍を成し、沈丘に屯し、数度賊と戦い、輒ち克捷した。

十五年、賊の勢いはますます蔓延し、汴より南は鄧・許・嵩・洛を陥落させた。察罕帖木児の兵は日増しに盛んとなり、転戦して北に進み、遂に虎牢を守備して、賊の鋒を阻んだ。賊は北に盟津を渡り、焚掠して覃懐に至り、河北は震動した。察罕帖木児は進んで戦い、これを大いに破り、残党は河洲に柵を築いたが、殲滅して残らず、河北は遂に平定された。朝廷はその功を奇異とし、中書刑部侍郎に任じ、階は中議大夫とした。苗軍が滎陽けいようで叛くと、察罕帖木児は夜襲して、その衆をほとんど捕虜とし、乃ち営を結んで中牟に屯した。やがて淮右の賊衆三十万が、汴以西を掠め、中牟の営を衝いて来た。察罕帖木児は陣を整えてこれを待ち、死生利害を士卒に諭した。士卒は勇を奮って死戦を決し、一もって百に当たらぬ者はなかった。大風が砂を吹き上げるのに合わせ、自ら猛士を率いて中から鬨の声を上げて起ち、賊の中堅を奮撃し、賊勢は遂に崩れて支えられず、旗鼓を棄てて遁走した。十余里を追撃し、斬首は数え切れなかった。軍声はますます大いに振るった。

十六年、中書兵部尚書に昇進し、階は嘉議大夫となった。続いて賊は西に陝州を陥落させ、殽・函を遮断し、勢い秦・晋に向かおうとした。知樞密院事答失八都魯が河南軍を節制していたので、察罕帖木児と李思斉を調発してこれを攻撃させた。察罕帖木児は即ち鼓行して西に進み、夜に殽陵を抜き、交口に柵を立てた。陝州城は山に阻まれ河を帯び、険阻で堅固であり、賊は南山の粟を転送して食糧とし堅守したので、攻撃しても急に陥すことはできなかった。察罕帖木児は乃ち営中で馬糞を焚き、炊煙の如くして賊を疑わせ、夜に兵を率いて霊宝城を抜いた。守備が整うと、賊は初めて気づき、動けず、即ち河を渡って平陸を陥落させ、安邑を掠め、晋の南辺を蹂躙した。察罕帖木児はこれを追襲し、鉄騎で追い詰めた。賊は引き返して下陽津を扼し、水に赴いて死ぬ者が多かった。数ヶ月相持し、賊勢は窮し、皆遁走潰散した。功により中奉大夫・僉河北行樞密院事を加えられた。

十七年、賊はやがて襄樊より出で、商州を陥落させ、武関を攻め、官軍は敗走し、遂に直ちに長安ちょうあんに向かい、灞上に至り、分道して同州・華州などの諸州を掠め、三輔は震恐した。陝西省臺が告急して来た。察罕帖木児は即ち大衆を率いて潼関に入り、長駆して前進し、賊と遭遇し、戦えば勝ち、殺獲は億万を数えた。賊の残党は皆散潰し、南山に走り、興元に入った。朝廷は関陝を回復した大功を嘉し、資善大夫・陝西行省左丞を授けた。間もなく、賊はしょくはしょくより出で、秦隴を陥落させ、鞏昌を占拠し、遂に鳳翔を窺った。察罕帖木児は即ち先に兵を分けて鳳翔城に入らせ守らせ、諜者を遣わして賊を誘い鳳翔を包囲させた。賊は果たして来てこれを包囲し、厚さ数十重に及んだ。察罕帖木児は自ら鉄騎を将い、昼夜二百里を馳せて赴き、城から一里余りの所に至ると、軍を分けて左右翼を張り掩撃した。城中の軍もまた門を開き鬨の声を上げて出撃し、内外合撃して、呼声は天地を動かした。賊は大いに潰え、自ら相践み蹂躙し、斬首数万級、伏屍百余里に及び、残党は皆遁走して帰還した。関中は悉く平定された。

十八年、山東の賊が分道して京畿を犯した。朝廷は四方の兵を徴発して入衛させ、詔して察罕帖木児に兵を率いて涿州に屯させた。察罕帖木児は即ち兵を留めて清湫・義谷を守備させ、潼関に屯し、南山口を塞ぎ、他の盗賊に備えた。そして自ら鋭卒を将いて召しに赴こうとした。その時、曹・濮の賊が分道して太行を踰え、上党を焼き、晋・冀を掠め、雲中・雁門・代郡を陥落させ、烽火数千里に及び、また大いに南を掠めて還ろうとした。察罕帖木児は先に兵を南山の険阻な所に伏せさせ、自ら重兵を率いて聞喜・絳陽に屯した。賊は果たして南山に走り、伏兵を放って横撃すると、賊は皆輜重を棄てて山谷に走り、南に還り得た者は僅かであった。乃ち兵を分けて沢州に屯し、碗子城を塞ぎ、上党に屯し、吾児谷を塞ぎ、へい州に屯し、井陘口を塞いで、太行の諸道を遮断した。賊は屡々来たが、守将は数度血戦してこれを撃退し、河東は悉く平定された。陝西行省右丞に進み、兼ねて陝西行臺侍御史・同知河南行樞密院事となった。ここにおいて天子は乃ち詔して察罕帖木児に関陝・晋・冀を守禦させ、漢・沔・荊・襄を撫鎮させ、閫外の事を便宜に行わせた。察罕帖木児はますます兵を練り農を訓え、四方を平定することを己の責務とした。

この年、安豊の賊劉福通らが汴梁を陥落させ、宮闕を造営し、正朔を改め、群盗を号召した。巴蜀・荊楚・江淮・斉魯・遼海、西は甘肅に至るまで、所在で兵が起こり、勢い相連結した。察罕帖木児は乃ち北は太行を塞ぎ、南は鞏・洛を守り、自ら中軍を将いて沔池に駐屯した。叛将周全が覃懐を棄てて汴城に入り、合兵して洛陽らくようを攻撃した時に遭遇した。察罕帖木児は厳に守備を固めるよう命じ、別に奇兵を宜陽より出させ、自ら精騎を率いて新安より発し来援した。賊は城下に至り、堅壁は犯し難いと見て、退き引き去り、これに乗じて虎牢まで追撃し、成臯の諸険を塞いで還った。陝西行省平章政事に拝され、仍として同知行樞密院事を兼ね、便宜行事を許された。

十九年、察罕帖木児は汴梁を回復しようと図った。五月、大軍を以て虎牢に駐屯した。先に遊騎を発し、南道は汴南より出で、帰・亳・陳・蔡を略取し、北道は汴東より出で、戦船を河に浮かべ、水陸並び下り、曹南を略取し、黄陵渡を占拠した。乃ち大いに秦兵を発し、函関より出で、虎牢を過ぎ、晋兵は太行より出で、黄河を踰え、俱に汴城下で会し、先ずその外城を奪った。察罕帖木児は自ら鉄騎を将い、杏花営に屯した。諸将は城を環って塁を築いた。賊は屡々出戦したが、戦えば敗れ、遂に城に拠って守った。乃ち夜に城南に伏兵を置き、翌朝、苗軍の軽捷な者を遣わして城を略取して東に走らせた。賊は城を傾けて出て追撃し、伏兵が鬨の声を上げて起ち、邀撃してこれを破った。又、弱卒を外城に柵を立てさせて賊を餌とした。賊は出てこれを争い、弱卒は偽って逃走し、城西に迫り、鉄騎を突撃させて縦撃し、その衆を悉く擒えた。賊はこれよりますます出撃を敢えてしなくなった。八月、諜報により城中が計窮し、食糧も将に尽きんとすることを知り、乃ち諸将閻思孝・李克彝・虎林赤・賽因赤・答忽・脱因不花・呂文・完哲・賀宗哲・安童・張守礼・伯顔・孫翥・姚守徳・魏賽因不花・楊履信・関関らと議し、各々門を分けて攻撃した。夜に至り、将士は勇を鼓して城に登り、関門を斬って入り、遂にこれを抜いた。劉福通はその偽主を奉じて数百騎を従え東門より出て遁走した。偽后及び賊の妻子数万、偽官五千、符璽印章宝貨数え切れずを獲た。住民二十万を全うした。軍は私せず、市は肆を易えず、十日と経たずして河南は悉く平定された。京師に捷を献じ、歓声は中外を動かし、功により河南行省平章政事に拝され、兼ねて知河南行樞密院事・陝西行臺御史中丞となり、仍として便宜行事を許された。詔して天下に告げた。

先に、中原が乱れ、江南からの海運が再び通じず、京師は屡々飢饉に苦しんだ。ここに至り、河南が既に平定され、檄書が江浙に達し、海運が乃ち再び至るようになった。察罕帖木児は河南を平定した後、乃ち兵を分けて関陝・荊襄・河洛・江淮に鎮守させ、重兵を太行に屯し、営壘旌旗は数千里に相望んだ。乃ち日々車船を修め、兵甲を繕い、農に務めて穀を積み、士卒を訓練し、大挙して山東を回復しようと謀った。

先に、山西の晋・冀の地は皆、察罕帖木児が平定したところであった。しかし答失八都魯の子、孛羅帖木児は兵を大同に駐屯させ、これにより晋・冀を併せて占拠せんと欲し、ついに兵争に至った。天子はたびたび詔を下してこれを和解させようとしたが、終に聞き入れず、事は本紀及び答失八都魯伝に見える。

二十一年、諜報により山東の群賊が自ら相攻め殺し合い、また済寧の田豊が賊に降ったことを知る。六月、察罕帖木児は輿に乗り病を押して陝より洛に至り、諸将を大いに集め、師期を議した。并州の軍を発して井陘より出し、遼・沁の軍は邯鄲より出し、沢・潞の軍は磁州より出し、懐・衛の軍は白馬より出し、及び汴・洛の軍とともに、水陸ともに下り、分道して並進した。そして自らは鉄騎を率い、大将の旗鼓を建て、孟津を渡り、覃懐を越え、鼓行して東に進み、冠州・東昌を回復した。八月、軍は塩河に至る。その子拡廓帖木児及び諸将等に、精卒五万をもって東平を擣かせた。東平の賊兵と遭遇し、両戦ともにこれを破り、斬首万余級、直ちにその城下に迫った。察罕帖木児は田豊が山東を占拠して久しく、軍民がこれに服しているとして、書を遣わして逆順の理を諭した。豊及び王士誠は皆降った。ついに東平・済寧を回復した。時に大軍は未だ渡河せず、群賊は皆済南に集まり、斉河・禹城より出兵して相抗した。察罕帖木児は奇兵を分遣し、間道を取って賊の背後に出し、南は泰安を略し、益都に迫り、北は済陽・章丘を徇い、中は沿海の郡邑に沿って進んだ。そして自ら大軍を率いて河を渡り、賊将と分斉において戦い、これを大破し、済南城に進んで迫った。すると斉河・禹城はともに来降し、南道の諸将もまた捷を報じた。好石橋において再び益都の兵を破り、東は海浜に至り、郡邑は風聞して皆款を送った。済南を攻囲すること三月、城はついに陥った。詔して中書平章政事・知河南山東行枢密院事に拝し、陝西行台中丞はもと通りとした。察罕帖木児はついに兵を移して益都を囲み、城を環らして営を列ねること凡そ数十、攻具を大いに治め、百道並進した。賊は全力を尽くして拒み守った。さらに重塹を掘り、長囲を築き、南洋河を遏えて城中に灌がせた。なお要害を分守し、流亡を収輯し、郡県の戸口は再び職方に帰し、号令は煥然とした。

二十二年、時に山東はことごとく平定されたが、ただ益都の孤城のみ未だ陥ちなかった。六月、田豊・王士誠は密かに賊と結び、再び叛くことを図った。田豊が降ったとき、察罕帖木児は誠を推してこれを待ち疑わず、たびたび独りその帳中に入った。豊が既に変を謀るに及んで、察罕帖木児に営塁を行観するよう請うた。衆は往くべからずと為したが、察罕帖木児は曰く、「我は心を推して人を待つ、どうして人人を防ぐことができようか」と。左右は力士を従えんことを請うたが、また許さず、ついに軽騎十一人を従えて行った。王信の営に至り、また豊の営に至り、ついに王士誠に刺された。訃報を聞き、帝は震悼し、朝廷の公卿及び京師四方の人、男女老幼を問わず、慟哭せざる者はなかった。

先に、白気索の如く、長さ五百余丈、危宿より起こり、太微垣を掃う。太史が奏して山東に大水あるべしと。帝曰く、「然らず、山東必ず一良将を失わん」と。即ち馳詔して察罕帖木児に軽挙するなからしめんとしたが、未だ至らずして既に難に及んだ。詔して推誠定遠宣忠亮節功臣・開府儀同三司・上柱国・河南行省左丞相を贈り、忠襄王を追封し、献武と諡した。葬に及んで、賜賻加わり、宣忠興運弘仁效節功臣に改めて贈り、潁川王を追封し、忠襄と改諡し、沈丘県を食邑とし、所在に祠を立て、歳時祭を致した。その父阿魯温に汝陽王を封じ、後また進めて梁王に封じた。

ここにおいて再び拡廓帖木児を起用し、銀青栄禄大夫・太尉・中書平章政事・知枢密院事・皇太子詹事に拝し、なお便宜行事を許し、その父の兵を襲い総べさせた。

拡廓帖木児は既に兵権を領すると、哀しみを銜んで賊を討ち、攻城益々急にし、城守益々固く、ついに地を穴ぐら通道して入った。十一月、その城を抜き、その渠魁陳猱頭ら二百余人を執えて闕下に献じ、田豊・王士誠の心臓を取ってその父を祭り、余党は皆誅せられた。即ち関保に兵を遣わして莒州を取らせ、ここにおいて山東は悉く平定された。拡廓帖木児は本より察罕帖木児の甥、幼より養って子と為した。当時、東は淄・沂に至り、西は関陝を踰えて、皆晏然として事無し。拡廓帖木児はついに兵を汴・洛に駐めた。朝廷は方にこれを倚りて安んぜんとした。孛羅帖木児は察罕帖木児が既に没してより、またたびたび兵をもって晋・冀を争った。帝はたびたび解諭したが、讎隙日増しに深まった。

二十三年、御史大夫老的沙と知枢密院事禿堅帖木児が皇太子に罪を得、皇太子はこれを誅せんと欲し、皆大同に奔り、孛羅帖木児に匿われた。老的沙は帝の母舅、故に帝はたびたび皇太子のためにその事を寝かせようとしたが、皇太子は従わず、帝はこれを如何ともすることができず、則ち旨を伝え密かに孛羅帖木児にその跡を隠させた。しかし丞相搠思監・宦者朴不花は皆皇太子に附き、必ずその事を窮竟せんとした。皇太子はまた方に拡廓帖木児を倚重していた。時に拡廓帖木児は太原に駐まり孛羅帖木児と兵を構え、勢い相持して解けず。

二十四年、搠思監・朴不花は因って孛羅帖木児・老的沙を誣り謀りて不軌を為さんとし、皇太子もまた怒り已まず。三月、天子は故に詔を下して孛羅帖木児の罪を数え、その官職を削り兵を奪った。孛羅帖木児は詔を受けず、ついに兵を遣わして京師に迫り、必ず搠思監・朴不花を得てやまんとした。天子已むを得ず、両人を縛ってこれに与えた。語は搠思監・孛羅帖木児伝にある。七月、孛羅帖木児はまた老的沙と合し禿堅帖木児の兵とともに闕を犯した。時に拡廓帖木児は部将白鎖住に万騎を以て京師を衛わしめ、龍虎台に駐まり、戦って利あらず、ついに皇太子を奉じて太原に奔った。孛羅帖木児は既に朝に入り、相位を占めた。白鎖住はまた二万騎を将いて漁陽に屯し、朝廷の声援と為った。

二十五年、拡廓帖木児は兵をもって大同を擣きこれを取った。皇太子はついに拡廓帖木児に大挙して逆を討たんことを促し、丞相也速の兵を発して東鄙に屯せしめ、魏・遼・斉・呉・・豳諸王の兵を西辺に駐め、自ら拡廓帖木児の兵を率いて中道を取り、京師に抵った。間もなく、孛羅帖木児が既に伏誅せられ、帝は詔して白鎖住の兵に京城を守らせ、ついに詔して皇太子を京に還らせ、拡廓帖木児もまた扈従して朝に入った。九月、詔して伯撒里を右丞相に拝し、拡廓帖木児を左丞相に拝した。伯撒里は累朝の旧臣、拡廓帖木児は後生の晚出、乃ちこれと並び相と為った。両月居りて、即ち南還して師を視んことを請うた。

是の時、中原は事無きも、江淮・川蜀は皆我が有する所に非ず。皇太子は累ねて出でて師を督せんことを請うたが、帝はこれを難じ、乃ち詔して拡廓帖木児に河南王を封じ、天下の兵を総べさせて代わりに行わしめた。拡廓帖木児はここにおいて省を分けて自ら随え、官属の盛んなること、幾らか朝廷に等しく、孫翥・趙恒等を用いて謀主と為した。二十六年二月、京師より河南に還り、墓廬して喪を終えんと欲した。左右皆、命を受けて出師す、中止すべからずと謂う。乃ち再び北渡し、懐慶に居り、また移って彰徳に居った。

初めに、李思齊は察罕帖木兒と共に義兵を起こし、年齢と地位は同等であった。ここに至り拡廓帖木兒がその兵を総帥すると、思齊は心に平らかでなかった。而して張良ちょうりょう弼が先ず命令に背き、孔興・脱列伯等も皆功績を恃み、各々異なる考えを抱き、別に一軍となることを請い、誰も統属されることを肯んじなかった。不和の隙が既に開かれると、遂に仇敵となった。拡廓帖木兒は乃ち関保・虎林赤を遣わし兵を率いて西に良弼を鹿臺に攻めさせたが、思齊もまた良弼と合流し、兵は連なり解くことができなかった。拡廓帖木兒は始め南征の命を受けたが、顧みて却って彰徳に退き居し、又ただ陝西に用兵することを務め、天子の命を置き去りにして問わず、朝廷は因って其の異志有るを疑った。皇太子が太原に奔った時、唐の粛宗の霊武の故事を用い、因って自立せんとした。拡廓帖木兒と孛蘭奚等は従わなかった。京師に還るに及んで、皇后奇氏が旨を伝え、拡廓帖木兒に重兵を以て太子を擁し入城せしめ、帝を脅して位を禅ぜしめんとした。拡廓帖木兒は其の意を知り、京城に至ること三十里に比して、即ち其の軍を散遣した。ここに由り皇太子は心に之を恨んだ。ここに至り、屡々其の出師江淮を促したが、拡廓帖木兒はただ弟の脱因帖木兒及び部将の完哲・貊高を遣わし兵を以て山東に往かせた。而して西の兵は互いに勝負し、終に解けなかった。帝は又詔を下して之を和解させたが、顧みて却って詔使の天下奴等を殺害し、而して跋扈の跡が成った。

二十七年八月、帝は乃ち詔を下し皇太子に親しく出でて天下の兵馬を総べしめ、而して分けて拡廓帖木兒に其の兵を以て潼関より以東、江淮を粛清せしめ、李思齊に其の兵を以て鳳翔より以西、川蜀を進取せしめ、禿魯に其の兵を以て張良弼・孔興・脱列伯等と共に襄樊を取らしめ、王信に其の兵を以て山東の信地を固守せしむることを命じた。然れども詔書は下ったと雖も、皇太子も亦竟に行かずに止まり、而して分兵の命は、拡廓帖木兒は終に扞拒して肯じて受けなかった。ここに於いて貊高・関保等は皆拡廓帖木兒に叛いた。

関保は察罕帖木兒の起兵以来より即ち将となり、勇は諸軍に冠たり、功最も高し。而して貊高は兵を論ずるに善く、尤も察罕帖木兒に信任された。ここに至り、両人は拡廓帖木兒に不臣の心有るを見たので、故に皆之に叛き、其の罪状を列ねて朝に聞かせ、挙兵して共に之を攻めた。而して皇太子は沙藍答児・帖林沙・伯顔帖木兒・李国鳳等の計を用い、撫軍院を立て、天下の軍馬を総制し、専ら拡廓帖木兒に備えた。貊高等が大義を倡える能きを以て、忠義功臣の号を賜うた。

十月、詔して拡廓帖木兒の太傅・中書左丞相を落とし、前に依り河南王とし、汝州を以て食邑とし、弟の脱因帖木兒と共に河南府に居らしめ、而して河南府を以て梁王の食邑とし、従行の官属は悉く還朝せしむ。凡そ拡廓帖木兒の総べる諸軍、帳前にある者は白鎖住・虎林赤に領せしめ、河南にある者は李克彝に領せしめ、山東にある者也速に領せしめ、山西にある者は沙藍答児に領せしめ、河北にある者は貊高に領せしむ。拡廓帖木兒は既に詔を受けると、即ち退軍して沢州に屯した。詔は又禿魯と李思齊・張良弼・孔興・脱列伯に兵を率いて東に向かい、以て天討を正すことを命じた。

二十八年、朝廷は左丞孫景益に分省太原を命じ、関保は兵を以て之が守りと為した。拡廓帖木兒は即ち兵を遣わし太原を占拠し、而して朝廷の置く官を尽く殺した。皇太子は乃ち魏賽因不花及び関保に皆兵を以て思齊・良弼諸軍と沢州を挟撃せしめ、而して天子は又詔を下し拡廓帖木兒の爵邑を削奪し、諸軍に共に之を誅することを命じ、其の将士官吏で順に效う者は本罪を免じ、惟だ孫翥・趙恒の罪は在所に赦さず。二月、拡廓帖木兒は退き平陽に守り、而して関保は遂に沢・潞二州を占拠し以て貊高と合した。時に李思齊・張良弼・孔興・脱列伯は拡廓帖木兒と相持すること既に久しく、大明の兵は時に已に河南に及び、思齊・良弼は皆使者を拡廓帖木兒に詣らせ出師は本心に非ざるを告げ、乃ち兵を解き大いに掠めて西に帰った。七月、貊高・関保は平陽を進攻した。当是の時、拡廓帖木兒の気勢稍々沮え、而して関保・貊高の勢いは甚だ振い、数え請うて戦わんとし、拡廓帖木兒は応ぜず、或いは師を出だすも即ち復た退いた。一日、諜者が貊高の分軍して祁県を掠むるを知ると、即ち夜に師を出だし其の営に迫り掩撃し、大いに其の衆を敗り、貊高・関保は皆就擒した。朝廷之を聞き、遽かに撫軍院を罷め、而して帖林沙・伯顔帖木兒・李国鳳等は誤国を以て皆黜けられた。既にして拡廓帖木兒は上疏して自ら其の情悃を陳べ、帝は尋ねて亦悔悟し、詔を下して其の前非を滌った。

ここに於いて大明兵は既に山東及び河・洛を定め、中原は俱に守られず。閏七月、帝は乃ち詔を下し、復た拡廓帖木兒を前に依り河南王・太傅・中書左丞相に命じ、孫翥・趙恒は並びに旧職に復し、兵を以て河北より南に討たしめ、也速は兵を以て山東に趨らしめ、禿魯の兵は潼関より出で、李思齊の兵は七盤・金・商より出で、以て汴・洛を復せんと図らしめた。未だ幾ばくもなく、也速の兵は遂に潰え、禿魯・思齊の兵も亦嘗て出でず、而して拡廓帖木兒は又自ら平陽より退き太原に守り、復た敢えて南に向かわず、事は已に為すべからざるに至った。已にして大明兵は京城に迫り、帝は北に奔り、国は遂に以て亡んだ。大明兵が太原に至るに及んで、拡廓帖木兒は即ち城を棄て遁れ、其の余衆を領して西に甘粛に奔った。