元史

列傳第二十七: 別兒怯不花 太平 鐵木兒塔識 達識帖睦邇

別兒怯不花

別兒怯不花は字を大用といい、燕只吉䚟氏である。曾祖父の忙怯禿は千戸として憲宗に従い南征して功があり、父の阿忽台は成宗に仕えて丞相となったが誅殺され、後に和寧忠獻王を追贈された。

別兒怯不花は早く孤児となり、八歳の時、興聖太后及び武宗の命により、明宗が藩邸にあった時分に侍った。まもなく国子学に入って諸生となった。時に明宗が周王として雲南に出鎮することとなり、別兒怯不花はこれに従って行ったが、大同まで至って帰還した。仁宗は召し入れて宿衛とし、ある日、殿中からその儀容と挙措がひときわ優れているのを望見し、直ちに召し出して対面し、慰労の言葉をかけた。八番宣撫司長はその世襲の職であったので、英宗はついに懐遠大将軍・八番宣撫司達魯花赤に任じた。着任すると、国家の恩信を宣布し、峒民は感激して喜んだ。長年服従しなかった者も、皆喜んで言うには、「我らはもと賢き将帥の子孫である、どうして命令に背くことができようか」と。十四部を率いて来て約束を受けた。別兒怯不花はこのことを上奏し、天子はこれを賞して留任させた。

泰定三年、特旨をもって同知太常礼儀院事に任じられ、さらに耆老文学の士とともに悠揚として議論に加わった。まもなく監察御史に任ぜられた。翌年、中書右司郎中に転じ、さらに翌年には参議中書省事に昇進した。二年在職し、吏部尚書に任ぜられた。至順元年、その兄の治書侍御史自當が、明里董阿の子閭閭を監察御史とするのは不当であると諫めて止めさせ、別兒怯不花もまた広西両江道宣慰使司都元帥に出された。間もなく母の喪に服して京に帰った。喪が明けて江浙行省参知政事に起用された。江浙から毎年海路で京師に漕送する米穀のことを、別兒怯不花が監督した。まもなく礼部尚書に任ぜられ、徽政院副使に転じ、侍御史に抜擢され、特命をもって宿衛を統領し、栄禄大夫・宣徽使に昇進し、開府儀同三司を加えられた。宿衛士で掌領官の推薦によって任用される者は、往々にして挙げる者がその親密な者ばかりであったが、別兒怯不花に至ってはただ在任の長い者を選んで推挙したので、衆論は一致して服した。宣徽院で造る酒を、横領・要求する者が多く、毎年陶瓶の費用が甚だ多かった。別兒怯不花は銀瓶を造って貯蔵するよう上奏し、要求する者は遂に止んだ。至元四年、御史大夫・知経筵事に任ぜられ、まもなく中書平章に転じた。

至正二年、江浙行省左丞相に任ぜられた。淮東まで行くと、杭州城で大火があり官舎民家がほとんど焼失したと聞き、天を仰いで涙を揮って言った、「杭州は浙省の治所である。我は命を受けて出鎮するのに、火災がこのようであるのは、我が不徳が杭州の人々を累わすことである」と。急ぎ馳せて鎮所に赴き、直ちに被災者二万三千余戸を登録し、戸ごとに鈔一錠を給し、焼死者にも同様にし、人ごとに月米二斗を給し、幼児にはその半額を給した。また日々の酒税を千二百五十緡減額し、織坊の元額を半減し、軍器・漆器の製造を一年間停止し、雑税を全て停止するよう請うた。事が朝廷に聞こえ、従うこととなった。また大いに省庁を造営し、その傍らに付随する民家については、価格を増してその地所を買い取り、民を募って労役に就かせると、その賃金を厚くした。また江浙・福建の塩課を毎年十三万引減額するよう請うた。淫雨や大旱に遇うと、常に神祠に出向いて祈禱し、祈ったことは応じないことがなかった。鎮所に二年在任し、児童女婦に至るまでその恩を感じない者はなかった。召還されて翰林学士承旨に任ぜられ、引き続き宿衛を掌った。

四年、中書左丞相に任ぜられた。朝廷は奉使宣撫を選任して民の疾苦を問い、官吏の貪廉を察することを議し、かつ北藩の風土に習熟し典故を知る者を選び、別兒怯不花をして沙漠を巡行させ、冤罪を洗い弊害を除かせた。その数は数え切れなかった。また使者を発して諸王に諭し、金衣重宝を賜って、それぞれその民を撫育し法制を越えぬようさせた。これにより内外は震動して粛然とした。翌年、大飢饉があり、流民が道に満ちた。有司に命じてこれを賑恤し、郷里に帰りたい者には道中の食糧を給した。また在京の貧民を登録し、日々糧食を売り与えた。帝が上都から還ると、数輩の中使を遣わして迎謁を促し、対面すると、帝自ら酒を酌んで労った。七年、右丞相に進んだ。翌年、御史が別兒怯不花を弾劾したが、徽政院使高龍卜が帝の側で弁解したので、帝は遂にこれを許さなかった。そこで御史大夫亦憐真班を江浙左丞相に出し、中丞以下は皆辞職した。詔してさらに太保を加えた。ここにおいて両臺各道から弾劾の上奏文が相次いで至り、別兒怯不花はますます不安を覚え、まもなく渤海県に謫居させられた。十年正月に卒去した。後に子の達世帖木而が朝廷に用いられ、弘仁輔治秉文守正寅亮同徳功臣・開府儀同三司・上柱国・太師を追贈され、冀王を追封され、諡して忠宣といった。達世帖木而は字を原理といい、官は中書平章政事に至り、学識があり、その家をよく継いだ。

太平

太平は字を允中といい、初め賀氏を姓とし、名を惟一といったが、後に蒙古氏の姓を賜り、名を太平と改めた。仁傑の孫、勝の子である。初め、勝は罪なくして死に、太平は年尚幼かったが、泰定帝がその父の冤罪を雪ぎ、撫恤した。

太平は天性明朗正大であり、弱齢ながらも厳然として老成人のようであった。趙孟頫に学業を受け、また雲中の呂弼に師事した。太平は初め父の職を襲い、虎賁親軍都指揮使となり、まもなく陝西漢中道廉訪副使に抜擢された。文宗は召して工部尚書とし、奎章閣工事を総管させ、また上都留守同知に任ぜられた。順帝の元統初年、枢密副使を命ぜられ、まもなく同知枢密院事に昇進し、御史中丞に転じた。時に中書に参議佛家閭という者がおり、奸佞の輩であった。御史がその罪を弾劾したが、時の宰相がこれを庇い、事は沙汰止みとなった。太平は病を理由に辞して家に臥した。

至正二年、詔して中書参知政事に起用されたが、辞退した。右丞に進められたが、また辞退した。時に御史の祁璧が再び佛家閭を弾劾し、これを罷免したので、ようやく起きて職に就いた。宗室諸王の歳賜として支給される食糧・衣服・幣帛が均等でなかったので、太平は帝に請うてその厚薄を均しくした。守令の多くが職務を失っていたので、臺閣の名臣を選んでこれに充てるよう請うた。なお使者を遣わしてその治行を審査させ、治績最も優れる者には官秩を増し、金幣を賜った。遼・金・宋の三史は長く完成しなかったが、この時太平は力を尽くしてこの事業を支持し、総裁官となってこれを完成させた。時に粟が高価で金銀が安かったので、太平は官本を出して官吏に委ねてこれを買い集めさせ、得たところは莫大であり、その後兵乱が起こり、ついにその用を果たした。四年、中書平章政事に昇進した。五年、宣徽院使に転じた。宣徽は飲饌を掌るが、権勢家が多く横領・要求した。太平は帳簿を取って閲覧し、ただ太常礼儀使阿剌不花だけは何も求めていなかった。太平はこれにより帝に言上し、近職に抜擢し、かつ厚く賜るよう請うた。

六年、御史大夫に拝された。故事によれば、台端(御史台の長官)は国姓(モンゴル人)でなければ任じられないが、太平はこれを理由に辞退した。詔により特別に姓を賜り、名を改めた。七年、中書平章政事に遷り、同列の上位に班した。国王ドルジが左丞相となり、帝に請うて言った、「臣は先臣の余蔭により、早く国王の位を襲い、国家の道理に暗い。今宰相の位に備わるが、太平を得なければ共に事を為すに足りない」。十一月、太平を左丞相に拝し、ドルジを右丞相とした。太平は辞退したが、帝は許さず、なお詔して天下に示した。翌年正月、詔して后妃・功臣の伝を修めさせ、特に太平に命じて国史の監修を同せしめた。これは異例のことであった。太平は、妻子を持つ僧道は民に勒する(強制的に還俗させる)ことを請い、蠹耗を減らし、校官に俸を給して虚冒を防ぎ、経筵講官に座を賜って聖学を崇め、行都水監を立てて黄河を治めることを請うた。隠士の完者篤・執礼哈郎・董立・張樞・李孝光を推挙した。この時、天下に事なく、朝廷は古の礼文の典を稽え、墜ちたるものがあれば必ず挙げた。平生人材を訪問することを好み、南北を問わず、必ず冊に記録し、この時多く進用した。

初め、トクトが既に宰相を罷免され、西土に居住していた。ちょうどその父マジャルタイが卒したので、太平は力を尽くしてトクトに帰葬させ、孝道を全うすべきことを請うた。左右の者は難しいと考えたが、太平は言った、「トクトは王室に心を寄せ、大義のために親を滅ぼした。今父が歿して奔訃(葬儀に駆けつける)することができないならば、善を為す者は怠惰に近くならないか」。固く請うたため、トクトは帰還することができた。トクトが朝廷に戻ると、すぐに太傅に拝されたが、太平が己に恩徳があったことを知らず、汝中柏の讒言によって隙が生じ、急いで太平を中傷しようとした。この時、中書参政の孔思立らは皆一時の名人で、太平が抜擢任用した者たちであったが、悉く罪に誣いて罷免させた。九年七月、翰林学士承旨に罷免され、さらにその過失を誣告弾劾し、併せてその子エセンクトの宗室の女を僭って娶ったことが宜しくないと論じた。トクトの母がこれを聞き、トクト兄弟に言った、「太平は好人である。何が汝らに害あってこれを去らんとするのか。汝ら兄弟もし吾が言いに違うならば、吾が子ではない」。侍御史のサマドゥが朝に揚言して言った、「御史が正人を害し、台綱を壊さんとする。天下後世をどうするつもりか」。すぐに臥病して起き上がらなかった。故吏の田復が太平に自裁を勧めた。太平は言った、「吾に罪なし。天に聴くべきである。もし自殺すれば、まさに慊(恨み)があることになる」。遂に奉元に還り、門を杜って客を謝し、書史をもって自らを楽しませた。

河南で盗賊が起こった。十五年、詔して太平を江浙行省左丞相に命じた。未だ行かず、淮南行省左丞相に改め、知行枢密院事を兼ね、諸軍を総制し、済寧に駐屯させた。時、諸軍は久しく出陣し、糧餉の継続に苦しんでいた。太平は有司に命じて牛具を与えて麦を植えさせ、済寧から海州に至るまで、民を擾さずして兵はこれに頼って済んだ。土兵元帥府を立てて、輪番で耕戦することを議した。十六年、益都に移鎮した。未だ幾ばくもなく、遼陽行省左丞相に除された。粟を糴って京師に給し、処置に法があり、致すところ甚だ多かったが民は擾されなかった。

十七年五月、召されて中書左丞相となった。時、毛貴が山東を占拠し、翌年、河間から侵入し、官軍は屡々敗れ、次第に京都に迫り、中外大いに駭いた。廷議は遷都してこれを避けようとし、和する者は口を揃えたようであった。太平は力爭して不可とし、彰德より同知枢密院事劉ハラブカを起用し、兵を引いてこれを撃たせ、賊衆を大いに破り、京城は遂に安堵した。ちょうど張士誠が浙西を以て降り、また晋・冀・関陝の間では、チャガン・テムルが屡々捷報を奏聞した。ここにおいて中外の人心は翕然とし、中興の望みがあった。

太平はまた考求し、凡そ死節の臣は、布衣であっても贈諡を加え、官ある者はその子孫に官を就けさせ、人々は特に感動した。当時、右丞相チョスカンの家人が偽鈔を造ったことが発覚し、刑部はチョスカンを連座させて逮問しようとした。太平は力を尽くしてこれを解き、言った、「堂堂たる宰相にどうしてこのようなことがあろうか。四海に聞こえたら、国体をどうするのか」。チョスカンが既に弾劾されて罷免されると、太平は得た俸禄の多くを分けて彼に饋った。

二皇后奇氏と皇太子が謀り、内禅を欲し、宦官で資正院使の朴不花を遣わして太平に意を諭させたが、太平は答えなかった。皇后はまた太平を宮中に召し、酒を挙げて前意を申したが、太平は依違するのみであった。この時、皇太子は帝の近臣を尽く逐おうとし、また監察御史に命じて帝の親暱の臣である御史中丞トゥル・テムルを弾劾させた。未だ奏上せずして弾劾した御史が他官に遷されたため、皇太子はエセンクトがその事を漏らしたと疑い、益々太平の政柄を去らんと決意した。知枢密院事のニュデガイが聞いて嘆き言った、「善人は国の紀(秩序の根本)である。もしこれを去れば、国は何に頼ろうか」。数えて帝の前で左右し、以て皇太子の志は未だ逞うに及ばなかった。ちょうどニュデガイが死に、皇太子は遂に監察御史の買住・桑哥失理に命じて左丞成遵・参政趙中らを弾劾させ獄に下して死なせた。二人を太平の党とみなしたのである。太平は勢い留まるべからざるを知り、数えて疾を理由に辞位した。二十年二月、太保に拝し、家で疾を養わせた。台臣が奏言して、当時の事の艱危は、政事が賢材の宏済に頼るところであり、太平が師保として相職を兼ねるのが宜しいと謂った。帝は従うことができなかった。

ちょうど陽翟王アルティ・テムルが乱を倡え、北辺を騒動させ、勢い上都に迫った。皇太子は帝に言い、太平に上都を留守させた。実はこれを死地に置こうとしたのである。太平は遂に往った。同知太常院事のトホンという者がいた。エセンクトの故将である。陽翟王が将に至らんとするのを聞き、兵を引いて王を縛り軍前に至らせた。太平は受けず、生きたまま闕下に致すよう命じ、北辺は以て寧まった。太平は終に己の功としなかった。

未だ幾ばくもなく、詔して太傅に拝し、田若干頃を賜り、奉元に帰らせた。帝は伯撒里を丞相にしようとしたが、伯撒里は辞して言った、「臣は老いて宰相を任ずるに足らず。陛下必ず臣に命ぜられるなら、太平と同事せざれば不可です」。ここにおいて密旨を以て伯撒里に太平を留めて行かせぬよう命じた。太平が沙井に至り、命を聞いて止まり、久しく宿留した。皇太子はその既に去りてまた留まることを悪み、二十三年、御史大夫普化に命じて太平が故に上命に違うことを弾劾させ、その罪を正すべきとさせた。詔して乃ち授けた宣命及び賜った物を悉く拘め、陝西の西に往き居らしめた。チョスカンが因って誣奏し、吐蕃に安置した。尋ねて使者を遣わして自裁を逼令し、太平は東勝に至り、詩一篇を賦し、乃ち自殺した。年六十三。二十七年、監察御史がその無辜を弁じ、褒贈を加えることを請うた。

エセンクトは名を均、字を公秉という。少くして学を好み、俊才があった。累遷して殿中侍御史・治書侍御史・翰林侍読学士となり、皆虎賁親軍都指揮使を襲ぐことを兼ねた。太平が相となった時、広く才彦を延ばすことを務め、エセンクトは丞相の子としてまた己を傾けて士に下るので、以て名称は籍然(盛ん)であった。已にして弾劾されて罷免され、親に従って奉元に還った。六年居り、召されて兵部尚書・同知枢密院事となり、通政院使に除された。太平が再び相となると、知枢密院事を授け、太子詹事に遷った。

十九年、群盗が開平より東進して遼陽に屯す。冬、詔して也先忽都に知樞密院事兼太子詹事を以て師を率いて往討せしむ。太平は其の年少なるを以て、数度命を改むるを請うも、允さず。至れば則ち将を遣わして懿州省治を抜き、盗は遼河を踰えて東奔す。而して朝廷に讒搆日甚だしく、罷めて上都留守と為す。尋いで宣政院使に改め、内艱に丁し起たず。搠思監再び相と為り、復た奏して強いて之を起し、即日監察御史也先帖木、李好直又た劾して之を罷む。

已にして搠思監、皇太子の旨に徇い、大獄を搆え、老的沙、蠻子、按難達識理、沙加識理、也先忽都及び脫懽等の不軌を誣う。脫懽を執りて其の獄を煅鍊し、連逮已まず。帝其の無辜なるを知り、事を釈さんと欲し、特命にて大赦す。而して搠思監条画内に増入し、独り前獄を赦さず。唯だ老的沙は孛羅鐵木兒の大同軍中に逃れ、蠻子、按難達識理等は遂に皆貶死す。也先忽都は撒思嘉の地に貶せらるべく、道は朵思麻に由る。行宣政院使桓州閭は素より太平に知られ、因って其の地に留居せしむ。執政其の故を知り、也先忽都の命に違うを奏し、杖して之を死せしむ。年四十四。詩集十巻有り。

鐵木兒塔識

鐵木兒塔識、字は九齢、国王脫脫の子なり。資禀宏偉、国子学諸生に補し、書を読むこと穎悟人に絶す。潜邸に於いて明宗に事う。文宗の初め、同知都護府事より累遷して礼部尚書と為り、進みて参議中書省事に参じ、陝西行臺侍御史に擢げられ、留まって奎章閣侍書学士と為り、大都留守を除かれ、尋いで同知樞密院事と為る。後至元六年、中書右丞を拝す。至正改元、平章政事に陞る。

伯顏相を罷め、庶務多く更張有り、鐵木兒塔識心を尽くして輔贊す。毎に番直に入れば、帝為に出でて宣文閣に宿し、榻前に坐を賜い、政道を詢ね、必ず夜分に至りて乃ち罷む。二年、郊祀す。鐵木兒塔識言う、大祀竣事すれば、必ず実恵民に及び、以て天心に当つべし、乃ち民に明年の田租の半を賜う。嶺北の地寒く、穡事に任ぜず、歳に富民を募り和糴して辺餉と為す。民稍く利有りと雖も、而して官塩を費やすこと多し。鐵木兒塔識乃ち別に京倉の米百万斛を輸し、和琳に儲えて以て備えと為さんことを請う。日本の商百余人風に遇い高麗に漂入す。高麗其の貨を掠め、表を上りて其の人を没入して奴と為さんことを請う。鐵木兒塔識持して不可とし、曰く「天子一視同仁、豈に人の険に乗じて以て利と為すべけんや。宜しく其の還るを資すべし」。已にして日本果たして表を上りて謝す。俄かに日本僧其の国人の国事を刺探するを遣わす者有りと告ぐ。鐵木兒塔識曰く「刺探は敵国に在りて固より之あり。今六合一家、何を以て刺探と為さん。設い果たして之有らば、正に令して中国の盛を覩せしめ、帰りて其の主に告げしめ、嚮化を知らしむべし」。両浙・閩の塩額累増して課愈く虧く。江浙行省額を減ずるを請う。鐵木兒塔識歳に十三万引を減ずるを奏す。

五年、御史大夫を拝す。務めて静重を以て大體を持ち、苛嬈を為さずして以て声威を立つ。建言す「近年大臣罪を得、重き者は族滅し、軽き者は其の妻子を籍す。祖宗の聖訓、父子の罪は相及ばず。請う之を除かん」。令と為して著す。近畿の饑民争いて京城に赴く。贓罰鈔を出し、米万石を糴い、即ち近郊の寺観を以て糜を為し之に食わしむるを奏す。活かす所勝計すべからず。歳余居りて、平章政事に遷り、位第一に居る。大駕時に巡幸し、留まって大都を鎮す。旧法、細民官倉に糴い、印券を出し、月に之を与うる者、其の直三百文、之を紅貼米と謂う。籌を賦して之を与え、三月を尽くして止む者、其の直五百文、之を散籌米と謂う。貪民其の籌貼を買いて以て利と為す。鐵木兒塔識別に米二十万石を発し、官を遣わして市肆に坐せしめ、人に五十文を持たしめて即ち米一升を得しむるを請う。姦弊遂に絶ゆ。

七年、首相位を去る。帝鐵木兒塔識を召し諭旨す、若く曰く「爾が先人我が先朝に事え、顕かに労績有り。爾実に能く其の家を世う。今汝を左丞相と為すを命ず」。鐵木兒塔識頭を叩き固く辞すも、允さず、乃ち命を拝す。鐵木兒塔識綱紀を修飭し、内外通調の法を立つ。朝官外補するも、陛辞を得るを許し、親しく帝訓を授け、成效を以て責む。郡邑の賢能の吏、次第に甄抜し、入りて朝闕を補わしむ。海漕米四十万石を分ち沿河の諸倉に置き、以て凶荒に備う。先ず是れ、僧人は斉民と均しく官に役せらる。其の法中変す。是に至りて其の旧を復するを奏す。孔子の後襲封衍聖公、階止む四品、奏して三品に陞む。歳に一再国學に詣り、諸生を進めて奬励す。中書の故事、老臣を用いて大政に預議せしむ、久しく廃して設けず。鐵木兒塔識其の規を復するを奏し、腆合、張元朴等四人を起して議事平章と為す。曾て半年に未だず、偏を救い弊を補うの政以て次に興挙し、中外咸く悦ぶ。上京に従幸し還り、政事堂に入ること甫一日、俄かに暴疾を感じて薨ず。年四十六。開誠濟美同德翊運功臣、太師、中書右丞相を贈り、冀寧王を追封し、諡して文忠と曰う。

鐵木兒塔識天性忠亮、学術正大、伊・洛諸儒の書、深く研究す。帝嘗て治を為すに何をか先とすと問う。対えて曰く「法は祖宗なり」。帝曰く「王文統は奇才なり。朕恨むらくは斯の人の如き者を得て之を用いざるを」。対えて曰く「世祖は堯・舜の資有り。文統は王道を以て君に告げずして、乃ち尚お術を尚び、近利を要す。世祖の罪人なり。使え今文統有らば、正に之を遠ざくべく、又何をか取るに足らんや」。初め、伯顏科挙を罷むるを議す。鐵木兒塔識時に参議府に在り、訖くまで奏牘に署せず。及び中書に入りて乃ち之を復行するを議す。処士を徴用し、以て不次の擢を持て待つ。或いは太優なるを疑う。鐵木兒塔識曰く「隠士は朝廷に求むる無く、朝廷は隠士に求むる有り。区区の名爵、何をか惜しむに足らん」。識者之を誦す。時に遼・金・宋三史を修す。鐵木兒塔識総裁官と為り、多く協贊すと云う。

達識帖睦邇

達識帖睦邇、字は九成。幼くして其の兄鐵木兒塔識と俱に国学に入り諸生と為り、経史を読み、悉く能く大義を通じ、尤も書を学ぶを好む。初め世冑を以て官に補せられ、太府監提点と為り、治書侍御史に擢げられ、言を以て罷む。樞密院同知を除かれ、中書右丞・翰林承旨に陞り、大司農に遷る。至正七年、出でて江浙行省平章政事と為る。明年、又た入りて大司農と為り、九年、湖広行省平章政事と為る。沅・靖・柳・桂等路の徭・獠窃発す。朝廷溪洞の険阻を以て、詔を下して之を招諭す。達識帖睦邇謂う「寇情は料るべからず。請う三分省を置き、一は静江を治め、一は沅・靖を治め、一は柳・桂を治め、左右丞・参政を以て分兵し其の地を鎮めしむ。靖州路総管府を罷め、改めて靖州軍民安撫司を立て、万戸府を設け、益すに戍兵を以てす」。朝廷皆其の言の如くす。已にして諸徭・獠悉く降る。召し還り、復た大司農と為る。

至正十一年、台州の方国珍が海上で挙兵した。ダシチェムル(達識帖睦邇)は詔を奉じて江浙行省参知事の樊執敬と共に招諭に赴いた。翌年、河南に盗賊が起こると、河南行省平章政事に任ぜられた。着任すると城壁を修築し、防備を整えたので、賊はその境を侵犯できなかった。淮南行省平章政事に転じた。十五年、中央に入り中書平章政事となった。当時、中書省の庶務は多く吏胥によって滞らされていたが、着任すると提控掾史二人を委任して左右曹を分督させ、全てを裁決した。江浙行省左丞相として出向し、まもなく知行樞密院事を兼ね、便宜行事を許された。当時、江淮の賊勢は日増しに盛んとなり、南北は遮断されていた。ダシダムルは単独で方面を治めたが、人を用いるに非才の者を任用し、賄賂をほしいままに通じ、官爵を売り、ひたすら賄賂の軽重を見て官位の高低を定めたので、誹謗の議論が紛然と起こった。管轄する郡県は次々と陥落したが、それも平然として意に介さなかった。

十六年正月、張士誠が平江を陥落させた。七月、杭州に迫ると、ダシダムルはただちに城を棄てて富陽に逃れた。万戸の普賢奴が力戦してこれを防ぎ、また苗軍の帥である楊完者が当時嘉興に駐屯していたが、これも兵を率いて到着し、張士誠を敗走させた。ダシダムルはようやく帰還した。初め、ダシダムルは完者を海北宣慰使都元帥とし、まもなく江浙行省参政に昇進させ、この時さらに右丞に昇進させた。しかし苗軍は元来軍紀がなく、略奪をほしいままにし、通過した所は蕩然として残るものなく、ダシダムルはかえって完者を重んじて倚り頼んだので、誰もこれを禁遏することができず、故に完者は驕慢を増して日増しにほしいままとなり、制御できなくなった。

翌年、士誠が嘉興を寇し、しばしば完者に敗れた。士誠はそこで蛮子海牙を使者として書を送り、偽って降伏を申し出た。蛮子海牙はかつて南行台御史中丞であり、軍を率いて水寨を結び、采石に屯していたが、大明の兵に敗れ、そこで走って士誠に帰したので、士誠が彼を使者に立てたのであるが、書状の言葉は多く不遜であった。完者はこれを受け入れようとしたが、ダシダムルは同意せず、「私はかつて淮南におり、嘗て士誠を招安したことがあるが、その反覆を知っている。その降伏は信じられない」と言った。完者が固く勧めたので、ようやくこれを許した。士誠は初め王爵を要求したが、ダシダムルは許さなかった。また三公の爵位を請うたが、ダシダムルは「三公は有司の定める所ではない。今私は便宜行事を許されてはいるが、専断はできない」と言った。完者また力を尽くしてこれを請うたので、ダシダムルは表面上は正しい言葉を述べたが、実はその降伏を幸いとし、また完者の意に逆らうことを恐れ、ついに士誠に太尉を授け、その弟の士徳に淮南行省平章政事、士信に同知行樞密院事を授け、その党与もそれぞれ官位を授けた。士徳はまもなく大明の兵に捕らえられた。再び士信を淮南行省平章政事に昇進させた。しかし士誠は降伏したとはいえ、城池・府庫・甲兵・銭穀はすべて従前通り自ら占拠したままだった。ここにおいて朝廷は張士誠を招安したことをダシダムルの功績とし、詔を下して太尉を加えた。

この時、徽州・建徳はすでに陥落しており、完者はたびたび出師したが利あらず。士誠はもとより完者を除こうと図っており、また完者はこの時さらに平章政事慶童の娘を強引に娶ろうとした。ダシダムルはその婚姻を取り持ったが、しかし甚だこれを厭い、ひそかに士誠と計略を定めて完者を除くことにした。士誠に出兵して建徳を回復させると言いふらし、完者の営は杭州城の北にあり、備えをしなかったので、ついに包囲され、苗軍はことごとく潰走し、完者とその弟の伯顔はともに自殺した。その後、事が朝廷に聞こえ、完者に潭国忠愍公、伯顔に衡国忠烈公を追贈した。完者が死ぬと、士誠の兵はついに杭州を占拠した。十九年、朝廷はこれにより士信に江浙行省平章政事を授けた。士信はそこで浙西諸郡の民を大いに徴発して杭州城を修築させた。これ以前より、海運による漕運は久しく不通で、朝廷は使者を遣わして糧食を徴収したが、士誠は米十余万石を運んで京師に達した。方面の権限はすべて張氏に帰し、ダシダムルはただ虚名を保つだけとなった。

まもなく士誠はその部属に自らの功德を称揚させ、必ず王爵を求めようとした。ダシダムルは左右の者に言った、「私は詔命を承ってここに居るが、ただ口先でこの輩を御しているに過ぎない。今、張氏がまた王爵を求める。朝廷は衰微しているとはいえ、終にはその脅迫に屈することはあるまい。しかし、私が今その意に逆らえば、目前に必ず害を受けるであろう。恥を忍び、垢を含んでこれに従うべきである」。そこで文書を整えて朝廷に上奏したが、再三に及んでも返答がなかった。士誠はついに自立して呉王と称し、平江に宮闕を営み、官属を立てた。

当時、答蘭帖木児が江浙行省右丞、真保が左右司郎中であり、二人は士誠に諂い事え、多くの金帛を受け取り、しばしばダシダムルの短所を醸し出したので、張氏はついに相容れない勢いとなった。二十四年、士信は王晟らを使わせてダシダムルの過失を面と向かって数え上げ、省院に移牒して自ら老病を陳べ退任を願うよう強制した。また言った、「丞相の任は士信でなければならない」。士信はただちにダシダムルの掌る諸々の符印を強奪し、自ら江浙行省左丞相となり、ダシダムルを嘉興に移住させた。事が朝廷に聞こえると、ただちに士信を以て江浙行省左丞相とした。

ダシダムルが嘉興に到ると、士信はその垣牆を高くし、門戸を閉ざし、防禁する措置を甚だ厳しくした。ダシダムルはすべて意に介さず、日々妻妾を相手に酒を飲み歌を放吟して平然としていた。士誠は有司に公牘の冒頭をすべて「呉王令旨」と称するよう命じ、また行台に勧めて朝廷に実授を請わせようとしたが、行台御史大夫の普化帖木児はすべて従わなかった。この時、ダシダムルを拘束すると、すぐに人を紹興に遣わし、普化帖木児から行台の印章を要求した。普化帖木児はその印を封じて庫に収め、「我が首は断たれようとも、印は与えられない」と言った。また舟に登るよう迫られると、「我は死すべく、辱められぬ」と言い、悠然と沐浴して衣を更え、妻子と別れを告げ、詩二章を賦し、仰いで毒を飲んで死んだ。臨終に杯を地上に投げつけて言った、「我死す。逆賊は必ずや我が後に続いて滅びるであろう」。数日後、ダシダムルはこれを聞き、嘆いて言った、「大夫すら死んだ。我が死なずして何を為さん」。そこで左右に命じて薬酒を進めさせ、これを飲んで死んだ。士誠はそこでその柩と妻子を車に載せて北の京師に送り返させた。

普化帖木児、字は兼善、答魯乃蛮氏、行台御史大夫帖木哥の子である。累進して福建行省平章政事となったが、当時境内はすべて諸豪族に占拠されており、施すべきことができなかった。南行台に転じた後、また張士誠に逼迫されて死んだ。しかし論ずる者は、その死はダシダムルに比べてやや勝るところがあるとしている。