康里脫脫
康里脫脫は、父を牙牙といい、康國王より雲中王に封ぜられ、阿沙不花の弟である。
脫脫は姿形魁偉で、若い時、兄の斡禿蠻に従って燕南で狩りをした。斡禿蠻が彼を帰らせて獲物を献上させると、世祖はその骨格気力が沈着雄大で、歩みが重々しいのを見て、嘆じて言った。「後日に大用に堪える才が、すでに今に生まれた。」すぐに命じて宿衛に入らせた。成宗の初め、丞相伯顏が北辺におり、脫脫は詔を奉じて名鷹を伯顏に賜った。伯顏はこれを見て驚いて問うた。「汝は誰の子か。」脫脫が実を答えると、伯顏は彼に言った。「私は老いた。他日に大用に堪える者は、汝に比する者を見ない。」
成宗が重篤となると、丞相の哈剌哈孫答剌罕は病と称して直廬に臥した。脫脫はちょうど使い事で京師に至り、すぐに馳せて武宗に国喪を告げさせた。詳細は阿沙不花伝にある。
時に仁宗は興聖太后を奉じて懐孟より至り、内難を定めた後、太后は両太子の星命を陰陽家に付けて推算させ、立つべき者を問うた。言うには、「重光大荒落には災あり、旃蒙作噩は長久なり。」重光は武宗の年幹、旃蒙は仁宗の年幹である。ここにおいて太后はその言葉にやや惑わされ、近臣の朵耳を遣わして武宗に旨を諭させた。「汝兄弟二人は皆我が生みし者、どうして親疏があろうか。陰陽家の言う運祚の長短は、考えないわけにはいかない。」武宗はこれを聞き、黙然とし、脫脫を進めて言った。「我は辺境を防衛し、十年勤労した。また順序も長である。神器の帰するところは、明らかで何の疑いがあろう。今、太后が星命の吉凶を言われるが、天道は茫漠として誰が予知できよう。仮に我が即位した後、施すところが上は天心に合い、下は民望に副うならば、たとえ一日の短さでも、万年に名を垂れるに足る。どうして陰陽の言葉によって祖宗の託けを違えることができようか。これは近ごろ事を任ずる臣が、権を擅にして専殺し、我が他日にその罪を治めることを恐れ、故にこの奸謀を為して大本を動揺させようとしているのだ。脫脫、汝、我のために往って事の機微を察し、速やかに帰って我に報ぜよ。」脫脫は命を受けてすぐに行った。武宗は自ら大軍を率いて西道より進み、按灰は中道より、床兀兒は東道より、各々勁卒一万を従えた。
脫脫は大都に馳せ至り、入って太后に拝謁し、武宗の授けた旨を伝えて聞かせた。太后は愕然として言った。「長短の説は術家の出づる所とはいえ、太子のために周く思慮を遠くするは、我が深き愛より出づる。奸悪は既に除かれ、宗王大臣の議も既に定まった。太子は速やかに来ないでどうするのか。」時に諸王の禿列らが侍しており、皆言った。「臣下が嗣君を輔け戴くに、二心ある者なし。」やがて太后と仁宗は左右を退け、脫脫を留めて語った。「太子は天性孝友にして、中外の属望するところ。今、汝の致すところの言を聞けば、讒間があるようだ。汝、帰って速やかに我のために過失を繕い、我が骨肉に隔てなく、相見て怡愉ならしめよ。そうすれば汝の功は小さからざるものとなろう。」脫脫は頓首して謝して言った。「太母、太弟、煩わしく過慮なさるには及びません。臣は藩邸に侍すること数年、頗る信任を見ました。今帰ってすぐに誠を推し忠を尽くして太子を開き解かせましょう。後日、三宮共に処り、嫌隙なきは、これ脫脫の報効するところです。」
先に、太后は武宗が遅疑して至らないので、既に阿沙不花を遣わして諸王群臣の推戴の意を伝えさせていた。ここに脫脫が続いて往き、旺古察に行き至ると、武宗は馬轎の中からその来るのを望見し、使いを急がせて疾駆させ、彼と共に車に乗せた。脫脫は詳しく太后と仁宗の言葉を伝えると、武宗は大いに感得し、疑いを解いて晴れやかになった。そこで阿沙不花を遣わして還報させた。仁宗は即日、車駕を命じて上都に奉迎した。武宗が帝位に正しくなると、太后を皇太后と尊び、仁宗を皇太子と立てた。三宮が協和したのは、脫脫兄弟の力が多い。
脫脫が京師に至った時、武宗は嘗て彼を同知樞密院に命じた。帰還した時、曾て職務を見たかと問うと、脫脫は答えて言った。「今、正殿には未だ御せず、宗親には未だ見えず、扈従の臣として名位を先んじて取るのは、誠に聖徳に累いあるを恐れ、以て未だ敢えて職事に就きませんでした。」武宗は久しく嘉嘆した。知樞密院の只兒哈忽が潜邸の時、嘗て不遜な言葉があったので、法に置かんとした。脫脫が諫めて言った。「陛下新たに位に正しくなられ、大信未だ立たずして、輒ち誅戮を行えば、知る者は彼が自ら罪有るとし、知らざる者は仇を報ずるとし、恐らくは人人自ら危うくするでしょう。況んや只兒哈忽は先朝の典故に習熟し、今固より少くすべからざる者です。」そこでこれを赦した。海都に継いで王となった者を察八兒といい、平素より武宗の威名に服し、ここに至って諸王を率いて内附した。詔して特に大庭に宴を設けた。故事によれば、凡そ大宴には必ず近臣に命じて王の法度を宣べ敷かせ、以て告戒と為す。脫脫は只兒哈忽を推薦し、その言を具えて進上させると、果たして旨に称った。武宗は嘆じて言った。「博爾忽、博爾朮は前朝の人傑、脫脫は今世の人傑なり。」即ち進上した言葉を脫脫に授けた。諸王大臣が宴服を着て列に就くと、脫脫は即席で西北諸藩の始終離合の由縁と、逆を去り順に效うの義を陳べ、言辞の趣旨明暢で、聞く者傾服した。同知樞密院事より進んで中書平章政事となり、御史大夫を拝された。江南行臺御史大夫に遷った。まもなく召されて錄軍國重事、中書左丞相を拝された。脫脫は知ることを言わずということがなく、言うことを行わずということがなく、中外翕然として賢相と称された。
この時、尚書省は賜与に節度なく、叙任に法なく、財用は日に消耗し、名爵は日に濫れた。脱脱は進言して言う、「爵賞は、帝王が人を用いる所以である。今、爵は比徳に及び、賞は功なきに及び、緩急の際に何を頼みとしようか。中書の掌る所は、銭糧・工役・選法・刑獄の十二事である。もし臣の言に従い、旧制を恪んで遵うならば、臣は諸賢と共に黽勉して事に従うことを願う。然らずんば、臣を用いて何の補いがあろうか」。遂に詔があり、濫りに宣勅を受けた者をして所属に赴いてこれを納めさせた。僥倖の路既に塞がれ、奔競の風は頓に衰えた。中臺に贓罰鈔五百万緡あり、脱脱はこれを出して孤寡老疾の諸窮にして告げる所なき者を賑うことを請うた。宗王南忽里の部人がその主が不軌であると告げ、脱脱はその誣りを弁じ、告者を罪に抵せしめた。宗王牙忽禿がその旧民を斉王八不沙の部中に徴し、隣境の諸王は斉王を奉じて牙忽禿を攻めんとし、斉王は懼れて牙忽禿に奔りこれを避け、遂に斉王の反を告げた。脱脱が簿問して実を得、乃ち斉王を釈し、諸王を嶺南に徙せしめた。辺将脱火赤が新軍万人を以て宗王丑漢に益すことを請い、廷議は脱脱をして往きてその資装を給せしめんとした。脱脱は時方に寧謐なるを謂い、変を挑んで事を生ずるに宜しからずとし、辞して行かず。遂に丞相禿忽魯等二人を遣わしてこれを給せしめ、幾くにか変を激せんとした。四年正月、再び中書左丞相となる。
仁宗即位し、眷待ますます篤く、外に均逸せしめんと欲し、二月、江浙行省左丞相を拝す。下車し、父老を進めて民の利病を問うと、皆が杭城に故に便河ありて江滸に通ずるも、堙廃已久しく、もし疏鑿して舟楫を通ぜば、物価必ず平らかならんと言う。僚佐或いはこれを難じたが、脱脱は言う、「吾が陛辞の日、密旨に便宜行事を許された。民これを便と為すならば、行うべし」。俄かに旨ありて土功を興すことを禁ずるも、脱脱は言う、「天を敬うは民を勤むるに先んずる莫く、民その利を蒙れば則ち災沴自ずから弭ぎ、土功何の尤みかあらん」。一月ならずして成る。
この時、鉄木迭児が丞相となり、位を固め寵を取らんと欲し、乃ち仁宗の子英宗を立てて皇太子とし、而して明宗は武宗の子として周王に封ぜられ、雲南に出鎮することを議した。又、脱脱が武宗の旧臣であることを譖る。詔して京師に逮至せしむ。数日居るに、牀兀児・失列門が両宮の旨を伝えて脱脱に諭して言う、「初め汝の事する所に親しむを疑い、故に汝を召す。今汝に他なきを察す、その復た還鎮せよ」。脱脱は入りて太后に謝して言う、「臣は先帝の知遇を受けながら、太后及び今上の恩を受くること深からざるは為さず、豈に自らを昧すことを敢えてせんや」。江浙に還る。未だ幾ばくもせず、江西行省左丞相に遷る。
英宗嗣位し、召して御史大夫を拝す。時に帖赤先ず大夫となり、陰にこれを忌み、江南行台御史大夫に改むるを奏し、復た言者を嗾えてその職守を擅に離るるを劾せしむ。将にこれを雲南に徙せんとし、会に帖赤誅せらるるに及び、乃ち解く。家に居て出でざること五年。泰定四年薨ず、年五十六。至正初め、推誠全徳守義佐運功臣・太師・開府儀同三司・上柱国を贈られ、和寧王を追封され、諡して忠献と曰う。
脱脱は嘗て宣徳の別墅に師を延いて子を訓え、郷人これを化し、皆学に向かう。朝廷その精舎の額を賜いて景賢書院と曰い、学官を設く。その没するや、即ちその中に祠る。
子九人、その最も顕るき者二人:鉄木児塔識と曰い、達識帖睦邇と曰う、各伝有り。
燕鉄木児〔撒敦 唐其勢〕
泰定帝上都に崩ず、丞相倒剌沙政を専らにし、宗室諸王脱脱・王禅これに附き、幼を立てるを利とす。燕鉄木児時に環衛の事を総べ、大都に留まり、自ら武宗の寵抜の恩を受くる身として、その子宜しく大位を纂すべく、而して一は朔漠に居り、一は南陲に処るは、実に天の置く所、将にこれを啓かんとす。ここにおいて公主察吉児・族党阿剌帖木児及び腹心の士孛倫赤・剌剌等と議し、八月甲午昧爽に、勇士納只禿魯等を率いて興聖宮に入り、百官を会集し、中書平章烏伯都剌・伯顔察児を執り、兵皆刃を露わし、衆に誓って言う、「祖宗の正統は武皇帝の子に属す、敢えて順わざる者は斬る」。衆皆潰散す。遂に姦党を捕えて獄に下し、而して西安王阿剌忒納失里と内庭に入り守り、腹心を枢密に分処し、東華門の夾道に重ねて軍士を列ね、人をして往来してその中に命を伝えしめ、漏泄を防がしむ。即ち前河南行省参知政事明里董阿・前宣政院使答剌麻失里を命じて駅を乗り中興に文宗を迎えしめ、且つ密かに意を以て河南行省平章伯顔に諭し、兵を選び扈従を備えしむ。
ここにおいて府庫を封じ、百司の印を拘え、兵を遣わして諸要害を守らしむ。前湖広行省左丞相別不花を推して中書左丞相と為し、詹事塔失海涯を平章と為し、前湖広行省右丞速速を中書左丞と為し、前陝西行省参政王不憐吉台を枢密副使と為し、蕭忙古䚟仍って通政院使と為し、中書右丞趙世延・枢密同僉燕鉄木児・通政院使寒食と分かって庶務を典とす。在京寺観の鈔を貸し、死士を募り、戦馬を買い、京倉の粟を運んで守禦の士卒に餉い、復た各行省に使を遣わして銭帛兵器を徴発す。
当時諸衛軍に統属なき者あり、又謁選及び罷退の軍官あり、皆これに符牌を与え、調遣を待つ。既に命を受け、謝す所を知らず、注目して立ち、乃ち南向きに拝せしむると、衆皆愕然とし、始めて定向有るを知る。燕鉄木児禁中に宿衛し、夜は則ち更に遷り定まる居なく、坐して旦を待つこと、将に一月。弟撒敦・子唐其勢時に上都に留まり、密かに塔失帖木児を遣わしてこれを召すと、皆その妻子を棄てて来帰す。丁酉、再び撒里不花・鎖南班を遣わし中興に往き大駕の早発を趣し、塔失帖木児をして南使と為し設けしむるに云く、「諸王帖木児不花・寛徹普化、湖広・河南省臣及び河南都万戸合軍して駕を扈し、旦夕に且つ至らん、民疑懼すること勿れ」。丁未、撒敦を命じて兵を以て居庸関を守らしめ、唐其勢をして古北口に屯せしむ。戊申、復た乃馬台を北使と為し、明宗諸王の兵に従い駕を整え南轅すと称し、中外乃ち安んず。辛亥、撒里不花中興より至り、乗輿既に塗を啓くと云い、詔して燕鉄木児を知枢密院事に拝す。丙辰、百官を率いて法駕を備え郊迎す。丁巳、文宗京師に至り、大内に入り居す。
己未(の日)、上都の王禪及び太尉不花、丞相塔失帖木兒、平章買閭、御史大夫紐澤等の軍が榆林に駐屯した。九月庚申(の日)、詔して燕鐵木兒に師を帥いてこれを防がしむ。撒敦が先駆けし、榆林の西に至り、その未だ陣せざるに乗じてこれを攻め、北軍は大いに敗れた。甲子(の日)、詔して都に還る。戊辰(の日)、遼東平章禿滿迭兒が兵を以て遷民鎮を犯し、関を斬って以て入る。撒敦を遣わして往きて拒がしめ、薊州東の沙流河に至り、累戦してこれを敗る。燕鐵木兒は擾攘の際、大名を正さずんば、以て天下の志を係うるに足らずと以為い、諸王大臣と共に闕に伏して進むを勧む。文宗固より辞して曰く、「大兄は朔方に在り、朕敢えて天序を紊れんや」と。燕鐵木兒曰く、「人心の向背の機は、間髪を容れず、一たびこれを失えば、臍を噬むも及ばず」と。文宗悟り、乃ち曰く、「必ず已むを得ずんば、当に天下に明詔し、以て予が退譲の意を著わして後に可なり」と。壬申(の日)、文宗即位し、元を天曆と改め、天下を赦す。
癸酉(の日)、燕鐵木兒を太平王に封じ、太平路を以てその食邑とす。甲戌(の日)、開府儀同三司、上柱國、錄軍國重事、中書右丞相、監修國史、知樞密院事を加え、黄金五百両、白金二千五百両、鈔一万錠、金素織段色繒二千匹、海東白鶻一、青鶻二、豹一、平江官地五百頃を賜う。即日詔して兵を将いて薊州を出で、禿滿迭兒を拒がしむ。乙亥(の日)、三河に駐屯し、而して王禪等の軍は已に居庸関を破り、遂に進みて三塚に屯す。丙子(の日)、燕鐵木兒は蓐食して倍道にして還る。丁丑(の日)、榆河に抵り、(関)〔聞〕くに帝が都城を出で、将に親しく督戦せんとすと。燕鐵木兒は単騎にて請見し、曰く、「陛下出でば、民心必ず驚く、凡そ寇を剪るの事は一に臣に責むるを以てし、願わくは陛下亟に宮に還りて以て黎庶を安んぜよ」と。文宗乃ち還る。明日丁丑(の日)、阿速衞指揮使忽都不花、塔海帖木兒、同知太不花が変を構う、事覚え、械して京師に送り斬りて以て徇す。己卯(の日)、王禪の前軍と榆河北に遇い、我が師奮撃してこれを敗り、紅橋北に追う。王禪の将たる樞密副使阿剌帖木兒、指揮忽都帖木兒が兵を引いて会戦す。阿剌帖木兒は戈を執いて入り刺す、燕鐵木兒は身を側めて以て刀を以てその戈を格し就いてこれを斫ち、左臂に中つ。部将の和尚馳せて忽都帖木兒を撃ち、亦た左臂に中つ。二人は驍将なり、敵為に気を奪われ、遂に卻く。因って紅橋を拠す。両軍水を阻んで陣し、善射の者を命じてこれを射しめ、遂に退き、師を白浮の南にす。知院也速答兒、八都兒、亦納思等を命じて分かち三隊と為し、両翼を張りて以てこれを角し、敵軍敗走す。辛巳(の日)、敵軍復た合し、白浮の野に鏖戦し、周旋馳突し、戈戟戞摩す。燕鐵木兒手ずから七人を斃す。会うに日晡に及び、対壘して宿す。夜二鼓、阿剌帖木兒、孛倫赤、岳來吉を遣わし精鋭百騎を将いて鼓譟してその営を射しめ、敵衆驚擾し、互いに自ら相撃ち、旦に至りて始めて悟り、人馬死傷数なし。明日、天大霧し、敵卒二人を獲たり、云うに王禪等は身を脱して山谷に竄くると。癸未(の日)、天清明、王禪散卒を集めて列を成し山を出づ、我が師は白浮西に駐し、堅壁動かず。是の夜、又た撒敦を命じて潜軍してその後を繞らしめ、部曲八都兒をしてその前を圧せしめ、夾営して銅角を吹かしめて以てこれを震盪せしむ、敵悟らずして乱れ、自ら相撾撃し、三鼓後に乃ち西に遁る。遅明、昌平北に追い及び、数千級を斬首し、降する者万余人。
帝遣わして上尊を賜い、旨を諭して曰く、「丞相は毎戦親しく矢石を冒す、脱し不虞有らば、その宗社を如何せん!自今以後但だ高きに憑りて督戦し、将士の命を用いる用いざる者を察して以てこれを賞罰するも可なり」と。対えて曰く、「臣は身を以てこれに先んずるは、諸将の法と為す。敢えて後るる者は軍法に従って事を行わん。これを諸将に託せば、万一利あらずんば、悔やむも何ぞ及ばん」と。是の日、敵軍再戦再び北し、王禪は単騎にて亡命す。也速答兒、也不倫、撒敦これを追う、就いて也速答兒及び僉院徹里帖木児を命じて卒三万を統べさせ居庸関を守らしめ、昌平南に還り至る。
俄かに報ずるに古北口守らず、上都軍石槽を掠むと。丙戌(の日)、撒敦を遣わして先駆と為し、燕鐵木兒は大軍を以てその後に継ぎ、石槽に至る。敵軍方に炊す、その不備を掩い、直ちにこれを蹂躙し、大軍並び進み、四十里を追撃し、牛頭山に至り、駙馬孛羅帖木兒、平章蒙古答失、牙失帖木兒、院使撒児討溫等を擒え、闕下に献俘し、これを戮す。各衞の将士降する者勝え紀すべからず、余兵奔竄す。夜に撒敦を遣わしてこれを襲い、古北口より逐い出す。
丁亥(の日)、禿滿迭兒及び諸王也先帖木兒の軍通州を陥し、将に京師を襲わんとす、燕鐵木兒急に軍を引いて還る。十月己丑朔、日将に昏んず、通州に至り、その初めて至るに乗じてこれを撃ち、敵軍狼狽して走り潞河を渡る。庚寅(の日)、河を夾んで軍す。敵列をなして黍稭を植え、氊衣を以て衣せしめ、火を然して疑兵と為し、夜遁す。辛卯(の日)、師を率いて河を渡りこれを追う。癸巳(の日)、檀子山の棗林に駐し、也(速)〔先〕帖木兒、禿滿迭兒は陽翟王太平、國王朵羅台、平章塔海の軍を合して来り鬭う、士皆殊死戦す。晚に至り、唐其勢陣に陷り、太平を殺し、死者野を蔽い、余兵宵潰す。已にして撒敦軽兵を将いてこれを要す、及ばずして還る。
乙未(の日)、上都の諸王忽剌台、指揮阿剌鐵木兒、安童が紫荊関に入り、良郷を犯し、游騎南城に逼る。燕鐵木兒即ち諸将兵を率いて北山に循って西し、脱銜して繫囊し、莝豆を盛りて以て馬を飼わしめ、士は行き且つ食い、晨夜兼程し、盧溝河に至る、忽剌台これを聞き、風を望んで西に走る。是の日凱旋し、肅清門より入り、都人は羅拜して馬首に謝し、更生の恵を謝す。燕鐵木兒曰く、「此れ皆天子の威霊なり、吾何の力か有らん」と。入見し、帝大いに悦び、興聖殿に燕を賜い、尽く懽びて罷む。太平王に黄金印を賜い、并せて制書を降し及び玉盤、龍衣、珠衣、寶珠、金腰帯等の物を賜う。
是の日、撒敦遣わして報ずるに禿滿迭兒の軍復た古北口に入ると、燕鐵木兒遂に師を以てこれに赴き、檀州南の野に戦い、これを敗る。東路蒙古萬戸哈剌那懷が麾下万人を率いて降り、余兵東に潰え、禿滿迭兒は走りて還り遼東す。忽剌台、阿剌帖木兒、安童、朵羅台、塔海等を獲て、これを戮す。
先に、齊王月魯帖木兒、東路蒙古元帥不花帖木兒は文宗の即位を聞き、乃ち兵を起こして上都に趨りこれを囲む。時に上都は屡敗して勢蹙る。壬寅(の日)、倒剌沙は肉袒して皇帝宝を奉り出でて死を請う。齊王は兵を調えて護送し京師に至らしむ。庚戌(の日)、文宗は興聖殿に御し、皇帝宝を受け、倒剌沙を獄に下す。両都平ぐ。丁巳(の日)、燕鐵木兒に答剌罕の号を加え、その世世の子孫にこれを襲わしむ。仍って珠衣二、七寶束帯一、白金甕一、黄金瓶二、海東白鶻一、青鶻三、白鷹一、豹二十を賜う。十二月、龍翊衞を置き、命じてその事を領せしむ。
先に、文宗は天下が既定となったので、初志を行うべく、治書侍御史撒迪を遣わして大兄明宗を漠北に迎えさせた。三月辛酉、ついに燕鉄木児に璽宝を護って北上するよう詔した。明宗はその功を嘉し、五月、特に開府儀同三司・上柱国・録軍国重事・中書右丞相・監修国史・大都督・領龍翊親軍都指揮使事・答剌罕・太平王を拝した。六月、太師を加拝し、余は前の如し。明宗に従って南還す。八月朔、明宗は王忽察都の地に次ぐ。文宗は皇太子として謁見す。庚寅、明宗は暴崩す。燕鉄木児は皇后の命により皇帝璽宝を奉じて文宗に授け、疾駆して還り、昼は宿衛士を率いて扈従し、夜は自ら甲冑を擐げて幄殿を巡り護衛す。癸巳、上都に達す。ついに諸王大臣とともに陳べて大位に復することを勧む。己亥、文宗は再び上都において即位す。
四年、文宗大漸し、遺詔して兄明宗の子を立てしむ。やがて文宗崩じ、明宗の次子懿璘質班即位す。四十三日にして崩ず。文宗后朝に臨む。燕鉄木児は群臣と議し文宗の子燕帖古思を立てんとす。文宗后曰く、「天位は至って重し、吾が児年方幼沖、豈に任えんや。明宗に子妥懽貼睦爾あり、広西に出居す、今年十三なり、大統を嗣ぐべし」と。ここにおいて太后の命を奉じ、京師に召還し、良郷に至り、鹵簿を具えてこれを迎う。燕鉄木児はこれと並馬して行き、馬上にて鞭を挙げて指画し、国家多難にして使を遣わし奉迎する故を告ぐ。しかるに妥懽貼睦爾ついに一語もこれに酬ゆることなし。燕鉄木児はその意測るべからざるを疑い、かつ明宗の崩じたるは、実に逆謀に関わり、その即位の後前事を追挙するを恐れ、故に数ヶ月宿留し、心志日に瞀乱す。
先に、燕鉄木児は大権を執って以来、主を震わす威を挟み、肆意に忌憚なし。一宴に或いは十三馬を宰ち、泰定帝后を取って夫人と為し、前後宗室の女四十人を尚し、或いは交礼三日にして遽かに帰遣する者あり、しかるに後房充溢して尽く識ること能わず。一日趙世延の家に宴し、男女列坐し、名づけて鴛鴦会と曰う。座隅の一婦人色甚だ麗しきを見て問うて曰く、「これ誰ぞ」と。意これとともに帰らんと欲す。左右曰く、「これ太師の家人なり」と。ここに至り荒淫日を追って甚だしく、体羸えて血を溺し薨ず。
この時、撒敦は既に死し、唐其勢は中書左丞相となり、伯顔独り用いられる。唐其勢忿りて曰く、「天下は本来我が家の天下なり、伯顔何人ぞや、位吾が上に居る」と。ついに撒敦の弟答里と潜かに異心を蓄え、親しくする所の諸王晃火帖木児に交通し、謀りてこれを援立てて以て社稷を危うくせんとす。帝たびたび答里を召すも至らず。郯王徹徹禿ついにその謀を発す。六月三十日、唐其勢は兵を東郊に伏せ、身みずから勇士を率いて宮闕に突入す。伯顔及び完者帖木児・定住・闊里吉思ら掩捕してこれを獲る。唐其勢及びその弟塔剌海皆誅せらる。しかるにその党北へ答里の所に奔る。答里即ち兵を以て応じ、使者哈児哈倫・阿魯灰を殺し、以て旗を禡ぐ。帝は阿弼を遣わしてこれを諭す。また阿弼を殺し、その党和尚・剌剌らを率いて逆戦す。搠思監・火児灰・哈剌那海らに敗れ、ついに晃火帖木児に奔る。孛羅・晃火児不花に命じて追襲せしむ。力窮まり勢い促し、阿魯渾察答里らを執り上都に送りてこれを戮す。晃火帖木児自殺す。怯薛官阿察赤もまた唐其勢の謀に預かり、伯顔を殺さんと欲す。後に擒えて有司に付し、具にその辜を伏し、誅せらる。
初めに、唐其勢は事敗れて捕らえられ、殿檻を攀じ折って出ようとせず。塔剌海は走り匿れて皇后の座下に至り、后は衣をもってこれを蔽うも、左右の者が曳き出して斬り、血は后の衣に濺ぐ。伯顏は奏して曰く、「兄弟が逆を為して皇后がこれを党するなどあろうか」と。併せて后を執る。后は帝を呼んで曰く、「陛下我を救え」と。帝曰く、「汝の兄弟が逆を為すに、どうして相救えようか」と。乃ち皇后を出宮に遷し、尋いで開平の民舎においてこれを酖殺し、遂に唐其勢の家を簿録す。
伯顏
伯顏は、蔑児吉䚟氏なり。曾大父は探馬哈児、宿衛に給事す。大父は称海、憲宗に従い宋を伐ち、王事に歿す。父は謹只児、宿衛を総べ隆福太后宮にあり。
しかし伯顏は唐其勢を誅殺して以来、独り国政を執り、専権恣肆し、祖宗の成憲を変乱し、天下を虐害し、次第に奸謀を抱くようになった。帝はこれを憂いた。初め、伯顏はその甥の脱脫を宿衛させて帝の起居を窺わせようとしたが、世間の議論を恐れ、枢密知院の汪家奴・翰林承旨の沙剌班をともに禁中近侍に同席させ、実は脱脫に意を属せしめた。故に脱脫の政令は日々整い、衛士は拱手してその制約を聴いた。伯顏は自ら諸衛の精兵を率い、燕者不花を屏敝とし、導従の盛んなこと街衢を満たした。一方で帝の側近の儀衛はかえって寥々として晨星の如かった。勢威は赫灼し、天下の人はただ伯顏の存在を知るのみであった。脱脫は深くこれを憂い、隙を見て家を忘れ国に殉ずるの意を自ら陳べたが、帝はまだこれを信じなかった。阿魯・世傑班を遣わして日々忠義をもって彼と往復論難させ、ますますその心に他意なきを知り、遂に帝に奏上した。帝は初めて疑いを抱かなくなった。この年、車駕が上都より京に還ると、伯顏はしばしば兵を率いて紅城などの諸処を巡行し、帰還する時は常に後になった。三人の謀議はますます固くなり、伯顏は知らず、ますます凶虐を逞しくし、郯王徹徹篤を陥れ讒構し、賜死を奏上した。帝は許可しなかったが、すぐに旨を伝えて刑を執行した。また宣譲王帖木児不花・威順王寛徹普化を貶すことを奏上し、言辞面色は憤厲で、旨を待たずして実行した。帝はますますこれを憤った。伯顏はまた日を追って威を立て、諸々の獄事を鍛錬して無辜にまで及ぼした。
六年二月、伯顏は自ら兵衛を率い、帝に狩猟に出るよう請うた。脱脫は帝に病気と偽って行かないよう告げた。伯顏は固く太子燕帖古思が柳林に出るよう請うた。脱脫は行動を起こそうとし、遂に世傑班・阿魯と合議し、帝に奏上した。戊戌、脱脫は門鑰をことごとく拘め、密旨を受けて軍を率い、阿魯・世傑班は帝の側に侍して命令を伝えた。この夜、帝は玉徳殿に御し、符檄を主管し、号令を発した。詳細は脱脫伝に見える。夜中二鼓、太子怯薛の月可察児に三十騎を率いさせて太子の営に至らせ、これを取って城に入れ、夜半に帝に謁見させた。四鼓、只児瓦歹に詔を奉じて柳林に往かせ、伯顏を河南行省左丞相として出させた。己亥、伯顏は人を遣わして城下に来て理由を問わせた。脱脫は城門の上に傲然として宣言し、丞相一人を罷免する旨があり、従官たちは罪なく、それぞれ本衛に還るべしと言った。伯顏は陛辞を乞うて奏上したが、許されず、遂に出発した。道中真定を過ぎると、父老が觴酒を捧げて進めた。伯顏が問うて言うには、「お前たちは子が父を殺す事を見たことがあるか」と。父老は言うには、「子が父を殺すのは見たことがありません。ただ臣が君を殺すのを見ただけです」と。伯顏は首を垂れて慚愧の色を示した。三月辛未、詔して南恩州陽春県に移し安置することを命じ、龍興路の駅舎で病没した。
馬札児台
馬札児台、世系は兄伯顏伝に見える。馬札児台は早くより武宗に扈従し、後に潜邸において仁宗に侍し、出入りは恭謹で、事に臨んでは敏達であり、仁宗はこれを喜んだ。皇太子に立てられると、中順大夫・典用太監に任じられた。まもなく吏部郎中に遷り、侍郎に陞り、兵部尚書に進み、利用卿に遷り、度支卿に進み、同知典瑞院事に転じ、院使に陞り、大都路達魯花赤を歴任し、虎符を佩き、虎賁親軍都指揮使を領した。
泰定四年、陝西行台治書侍御史に拝された。関陝が大飢饉となり、賑貸が行き届かない者があり、私財を尽くして貧民を救済し、生き延びさせた者は甚だ多かった。太府卿に転じ、また都功德使に転じ、宣政使に改めた。三度の転任もなお太府卿のままで、元降の虎符を佩き、高麗女直漢軍万戸府達魯花赤を領した。御史大夫に拝され、なお高麗女直漢軍を領し、兼ねて右衛阿速親軍都指揮使司達魯花赤となり、承徽寺を提調した。まもなく知枢密院事に遷り、前職を兼ね、武備寺事の提調を加えられ、金牌を加えられ、欽察闖闖帖木児千戸所を領した。またなお知枢密院事のままで、鎮守海口侍衛親軍屯儲都指揮使司達魯花赤を加えられ、その他は前の通りであった。
この時、その伯父の伯顔が中書右丞相であったが、唐其勢を誅殺してからは、ますます畏れるところなく、勝手に人に爵位を与え、死罪を赦免し、邪佞を任用し、無辜を殺害し、諸衛の精兵を収めて己れの用に供し、府庫の銭帛をその出納に任せていた。帝は積もる不満を抑えきれなかった。脱脱は幼少より伯顔に養育されていたが、常にその敗亡を憂い、密かにその父に請うて言うには、「伯父の驕慢放縦は甚だしい。万一、天子が激怒されれば、我が一族は皆殺しとなります。いまだ敗れる前にこれを図るのはどうでしょうか」と。その父ももっともだと思ったが、なお疑念を抱いて久しく決断しなかった。直方に質すと、直方は言うには、「伝に『大義親を滅す』とあります。大夫はただ国家に忠なることを知るのみで、その他は何を顧みましょうか」と。この時、帝の左右前後はすべて伯顔が立てた親党ばかりで、ただ世傑班と阿魯のみが帝の腹心であり、日々帝と共にいた。脱脱はそこでこの二人と深く結び付いた。また、銭唐の楊瑀はかつて帝の潜邸に仕え、奎章閣広成局副使となり、禁中に出入りすることができた。帝はその有用を知り、三人が事を論ずるたびに、楊瑀を参与させた。
五年の秋、車駕は上都に留まり、伯顔は時に応昌に出向いていた。脱脱は世傑班・阿魯と謀り、東門外でこれを迎え撃とうとしたが、勝てないことを恐れてやめた。ちょうど河南の范孟が省臣を偽って殺害し、事が廉訪使の段輔に連座した。伯顔は御史台の臣にほのめかして、漢人は廉訪使に任じてはならないと言わせた。この時、別児怯不花も御史大夫であったが、人に己れを非議されるのを恐れ、病気を理由に出仕しなかったので、その奏章はまだ上らなかった。伯顔が急かすので、監察御史が脱脱に告げた。脱脱は言うには、「別児怯不花はわが上位にあり、かつ印璽を掌っている。どうして私が専断できようか」と。別児怯不花はこれを聞いて恐れ、やがて出仕しようとした。脱脱は抑えきれないと判断し、直方に謀った。直方は言うには、「これは祖宗の法度であり、決して廃してはなりません。どうしてまず上に言上なさらないのですか」と。脱脱は入って帝に告げ、奏章が上ると、帝は脱脱の言の通りにした。伯顔は脱脱の出した策と知り、大いに怒り、帝に言上して言うには、「脱脱は臣の子ではありますが、その心はひたすら漢人を擁護しております。必ずやこれを処罰すべきです」と。帝は言うには、「これはすべて朕の意思であり、脱脱の罪ではない」と。やがて伯顔が勝手に宣譲王・威順王の二王を貶すに及んで、帝はその憤りに耐えかね、彼を追放することを決意した。ある日、涙ながらに脱脱に語ると、脱脱も涙を流し、帰って直方に謀った。直方は言うには、「これは宗廟社稷の安危に関わることであり、密かに行わねばなりません。議論の際、左右にいたのは誰ですか」と。答えて言うには、「阿魯と脱脱木児です」と。直方は言うには、「あなたの伯父は、主君を震え上がらせる威勢をたのみにしています。この連中は富貴さえ得られればよいので、その言葉が一つ漏れれば、主君は危うく身は戮されるでしょう」と。脱脱はそこで二人を家に招き、酒を設け音楽を奏で、昼夜を問わず外に出させなかった。そこで世傑班・阿魯と議し、伯顔が入朝するのを待って捕らえることにした。衛士に命じて宮門の出入りを厳重に戒め、螭坳(階段の龍彫刻)のあたりすべてに兵を配置した。伯顔はこれを見て大いに驚き、脱脱を呼びつけて責めた。答えて言うには、「天子のお住まいの防御は、このようにせざるを得ません」と。伯顔はそこで脱脱を疑い、ますます兵を増やして自衛した。
六年二月、伯顔は太子の燕帖古思を柳林で狩猟させてほしいと請うた。脱脱は世傑班・阿魯と合謀し、自らが掌握する兵と宿衛の士で伯顔を拒もうとした。戊戌の日、ついに京城の門の鍵を拘え、親信の者に命じて城門の下に列び並ばせた。この夜、帝を奉じて玉徳殿に御し、近臣の汪家奴・沙剌班及び省院の大臣を召して先後に入見させ、五門を出て命令を待たせた。また楊瑀と江西の范匯を召して詔書の草稿を起こさせ、伯顔の罪状を数え上げた。詔書ができ上がった時、夜はすでに四更(午前二時頃)であり、中書平章政事の只児瓦歹に命じて柳林に赴かせた。己亥の日、脱脱は城門の上に座し、伯顔もまた騎士を城下に遣わして理由を問わせた。脱脱は言うには、「丞相を追放する旨があります」と。伯顔が率いる諸衛の兵は皆散り、伯顔はついに南へ行った。詳細は伯顔伝にある。事が定まると、詔して馬扎児台を中書右丞相とし、脱脱を枢密院知事・虎符・忠翊衛親軍都指揮使とし、武備寺・阿速衛千戸所を提調させ、紹熙等処軍民宣撫都総使・宣忠兀羅思護衛親軍都指揮使司達魯花赤・昭功万戸府都総使を兼ねさせた。十月、馬扎児台は病気を理由に相位を辞し、詔して太師として邸宅に帰らせた。
四年閏月、宣政院事を統轄した。諸山の主僧が僧司の復活を請い、かつ言うには、「郡県に苦しめられるのは、地獄に座するようなものです」と。脱脱は言うには、「もし僧司を復活させれば、地獄の中にさらに地獄を置くのと何が違うのか」と。この時、病気が次第に重くなり、かつ占術師も年月中が不利であると言ったので、上表して位を辞した。帝は許さず、表は合わせて十七回上ってようやく従った。鄭王に封じ、安豊を食邑とし、巨万の賞賜を与える旨があったが、すべて辞退して受けなかった。そこで松江の田を賜り、稻田提領所を立ててこれを管轄させた。
七年、別児怯不花が右丞相となり、宿怨を以てその父マジャルタイを讒した。詔して甘粛に移徙せしむ。トクトは力を尽くして共に行くことを請い、道中では騎乗・廬帳を点検し、食する時はその品の精粗を視察し、その地に至ると、マジャルタイは安んじた。また西域の撒思の地に移され、河に至り、召還されて甘州にて養生す。十一月、マジャルタイ薨ず。帝はトクトの勲労を思い、召還して京師に帰す。
八年、トクトを太傅と命じ、宮傅を提調し、東宮の事を綜理せしむ。九年、ドルジ・太平ともに相を罷め、遂に詔してトクトを復た中書右丞相とし、上尊・名馬・襲衣・玉帯を賜う。トクト既に復た中書に入り、恩怨報いざるはなし。時に端本堂を開き、皇太子其中に学び、トクトに端本堂事を領せしむ。また阿速・欽察二衛・内史府・宣政院・太医院の事を提調す。
十年五月、母薊国夫人の憂に服す。帝近臣を遣わしてこれを諭し、庶務を出でて理ましむ。ここにおいてトクトはウグスン良楨・龔伯遂・汝中柏・バートムル等を用いて僚属と為し、皆腹心の寄を委ね、大小の事悉くこれと謀り、事行なわれて群臣知らず。吏部尚書シェージェド建言して至正交鈔を更造す、トクトこれを信じ、詔して枢密院・御史台・翰林・集賢院諸臣を集めて議せしむ、皆唯々とするのみ、独り祭酒呂思誠その不可なるを言う、トクト悦ばず。既にして終に鈔法を変え、而して鈔竟に行われず。事は思誠伝に見ゆ。
河、白茅堤に決し、また金堤に決し、方数千里、民その患いを被り、五年塞ぐこと能わず。トクト賈魯の計を用いてこれを塞ぐことを請い、身を以てその事を任ず。出でて群臣に告げて曰く、「皇帝方に下民を憂え、大臣たる者職分として憂いを分かつべし。然れども事に為し難きあり、猶疾に治し難きあるが如し、古より河患は即ち治し難き疾なり、今我必ずやその疾を去らんと欲す」と。而して人人異論あり、皆聴かず。乃ち奏して賈魯を工部尚書と為し、総じて河防を治めしめ、河南北の兵民十七万を発してこれを役し、決堤を築きて成り、故道に復せしむ。凡そ八月にして功成る。事は河渠志に見ゆ。ここにおいて天子その功を嘉し、世襲の答剌罕の号を賜う。また儒臣欧陽玄に勅して河平碑を製せしめ、その功を載せしむ。なお淮安路を賜いてその食邑と為し、郡邑の長吏その自用に聴す。
已にして汝・潁の間に妖寇衆を聚めて反し、紅巾を以て号と為し、襄・樊・唐・鄧皆起ちてこれに応ず。十一年、トクト乃ち奏して弟御史大夫エセン・テムルを枢密院事知らしめ、諸衛の兵十余万を将いてこれを討たしめ、上蔡を克つ。既にして沙河に兵を駐め、軍中夜驚く。エセン・テムル軍資器械を尽く棄て、北に汴梁に奔り、散卒を収め、朱仙鎮に屯す。朝廷エセン・テムル兵に習わざるを以て、詔して別将をしてこれを代わらしむ。エセン・テムル径ちに帰り、昏夜城に入り、なお御史大夫と為る。陝西行台監察御史十二人その喪師辱国の罪を劾す、トクト怒り、乃ち西行台御史大夫ドルジ・バルを湖広行省平章政事に遷し、而して御史は皆各府の添設判官に除し、ここより人皆敢えて事を言う者なし。
十四年、張士誠高郵を拠え、屡々招諭するも降らず、詔してトクトに諸王諸省軍を総制してこれを討たしむ。黜陟予奪一切の庶政、悉く便宜行事を聴す;省台院部諸司選官属を聴す;従行する者節制を禀受す。西域・西番皆兵を発して来たり助く。旌旗千里を累ね、金鼓野に震い、出師の盛んなる、これに過ぐる者なし。師済寧に次し、官を遣わして闕里に詣り孔子を祀り、鄒県を過ぎて孟子を祀る。十一月、高郵に至る。辛未より乙酉に至るまで、連戦皆捷す。兵を分遣して六合を平げ、賊勢大いに蹙る。俄かに詔有りてその老師費財を罪し、河南行省左丞相タイブカ・中書平章政事ヨワチャル・枢密院事知るシェシェを以てその兵を代将せしめ、その官爵を削り、淮安に安置す。
十二月辛亥、詔が軍中に至ると、参議龔伯遂が言うには、「将は軍中にあれば、君命も受けざる所あり。且つ丞相が出師の時、嘗て密旨を被りしが、今密旨を奉じて一意に進討すべし。詔書は且つ開く勿れ、開けば則ち大事去らん」と。脱脱は曰く、「天子詔して我れ従わざれば、是れ天子と抗するなり、君臣の義何れの在りや」と。従わず。既に詔を聴き、脱脱は頓首して謝して曰く、「臣至愚、天子の寵霊を荷い、軍国の重事を委ねられ、蚤夜戦兢し、勝たざるを懼る。一旦此の重負を釈せば、上恩の及ぶ所深し」と。即ち兵甲及び名馬三千を出し、諸将に分賜し、各其の部を帥いて月闊察児・雪雪の節制を聴かしむ。客省副使哈剌答曰く、「丞相此の行、我輩必ず他人の手に死せん、今日は寧ろ丞相の前に死せん」と。刀を抜き頸を刎ねて死す。初め脱脱を淮安に安置せしむるを命ず、俄かに旨有りて亦集乃路に移置す。
十五年三月、台臣猶ほ以て謫軽しとし、其の兄弟の罪を列疏す、ここに於て詔して脱脱を雲南大理宣慰司鎮西路に流し、也先帖木児を四川碉門に流す。脱脱の長子哈剌章は、粛州に安置し、次子三宝奴は、蘭州に安置す。家産を簿録して官に入る。脱脱、大理騰衝に行き至る、知府高惠脱脱を見て、女を以て之に事えしめんと欲し、一程外に室を築きて以て居らしむるを許し、加害する者有りと雖も以て虞るること無かるべしとす。脱脱曰く、「吾れ罪人なり、安んぞ敢えて此を念及さんや」と。巽辞を以て之を絶つ。九月、官を遣わして阿軽乞の地に移置す、高惠は脱脱の前に其の女を受けざるを以て、故に首めて鉄甲軍を発して之を囲む。十二月己未、哈麻詔を矯りて使を遣わし之を鴆す、死す、年四十二。訃中書に聞こえ、尚舎卿七十六を其の地に遣わし、棺衣を易えて以て殮む。
脱脱は儀状雄偉、頎然として千百人中に出で、而して器宏く識遠く、其の蘊を測る莫し。功は社稷に施して伐らず、位は人臣に極めて驕らず、貨財を軽んじ、声色を遠ざけ、賢を好み士を礼す、皆天性に出づ。君に事うるの際に至りては、終始臣節を失わず、古の有道の大臣と雖も、何を以てか之に過ぎん。惟だ其の群小に惑わされ、急に私讎を復するを以て、君子之を譏る。