巻136

列傳第二十三:哈剌哈孫、阿沙不花、拜住

哈剌哈孫

哈剌哈孫は、オルナル氏である。曾祖父の啓昔禮は、初め王可汗(オング・ハン)トオリルに仕えた。王可汗は太祖(チンギス・カン)と兄弟の契りを結んだが、太祖が勢力を得ると、ひそかにこれを忌み、太祖を害そうと謀った。啓昔禮はひそかにその謀略を告げ知らせたので、太祖は二十余人とともに一夜で遁走し、これを聞いた諸部の多くは太祖に帰順し、還って王可汗を攻め滅ぼし、その民衆を併せた。啓昔禮を千戸に抜擢し、答剌罕の称号を賜った。河西・西域諸国の平定に従軍した。祖父の博理察は、太宗の時に太弟睿宗(トルイ)に従って河南を攻め、汴・蔡を取って金を滅ぼし、順徳を賜って分邑とした。父の囊加台は、憲宗に従って蜀を伐ち、軍中で卒した。

原文哈剌哈孫,斡剌納兒氏。曾祖啟昔禮,始事王可汗脫斡璘。王可汗與太祖約為兄弟,及太祖得眾,陰忌之,謀害太祖。啟昔禮潛以其謀來告,太祖乃與二十餘人一夕遁去,諸部聞者多歸之,還攻滅王可汗,併其眾。擢啟昔禮為千戶,賜號答剌罕。從平河西、西域諸國。祖博理察,太宗時從太弟睿宗攻河南,取汴、蔡,滅金,賜順德以為分邑。父囊加台,從憲宗伐蜀,卒于軍。

哈剌哈孫は威厳があり重々しく、みだりに言葉を発したり笑ったりせず、騎射に優れ、国書(モンゴル文字)に巧みで、また儒術を大いに重んじた。至元九年、世祖は勲臣の子孫を登用し、彼に宿衛を掌らせ、答剌罕の称号を襲封させた。この時より人々は答剌罕と呼び、名を呼ばなかった。帝はかつて彼に諭して言った、「汝の家の勲功は王府に記録されている。近く汝を大いに用いよう」。また皇太子に語って言った、「答剌罕は常人と比べるべからず、よく遇すべきである」。十八年、欽・廉の二州を割き、その食邑に加増した。二十二年、大宗正に任じた。法の適用は公平妥当で、冤罪や滞った事件を審理し、数百人を生かした。時の宰相が江南の獄事を宗正寺の管轄にしようと請うたが、哈剌哈孫は言った、「江南は新たに帰附したばかりで、教令はまだ信服されておらず、しかも数千里も離れている。遠くからその刑獄を制しようとして、冤罪が生じないと言えようか」。事はそこで止んだ。

原文哈剌哈孫威重,不妄言笑,善騎射,工國書,又雅重儒術。至元九年,世祖錄勳臣後,命掌宿衞,襲號答剌罕。自是人稱答剌罕而不名。帝嘗諭之曰:「汝家勳載王府,行且大用汝矣。」又語皇太子曰:「答剌罕非常人比,可善遇之。」十八年,割欽、廉二州,益其食邑。二十二年,拜大宗正。用法平允,審錄寃滯,所活數百人。時相請以江南獄隸宗正,哈剌哈孫曰:「江南新附,教令未孚,且相去數千里,欲遙制其刑獄,得無寃乎?」事遂止。

二十八年、栄禄大夫・湖広行省平章政事に任じた。御史台の臣が、彼が宗正寺で獄事を公平に裁き、去れば後任が難しいと上言した。帝は言った、「湖広の地は、朕がかつて駐蹕したことがある。この人物でなければならない」。遂じて赴任した。当時、江湖の間に盗賊が出没し、商人の貨財を掠奪していた。哈剌哈孫が着任すると、兵卒を発してことごとく捕らえ誅殺したので、水陸の道は初めてすべて障害がなくなった。初め、枢密院は各省に行院を置き、兵と民を二分していたが、奸人が党を立てて自らを隠蔽していた。後に入朝した際にその不便を極言して陳べたので、帝はこれを廃止した。帝は問うた、「風憲(監察)の職は、多くの人が吏治を乱すと言うが、本当か」。答えて言った、「朝廷がこれを設けるのは奸悪を糾すためであり、貪吏がこれを憎んで、妄りに誹謗しているのです」。帝はその言葉を正しいとした。

原文二十八年,拜榮祿大夫、湖廣行省平章政事。臺臣言其在宗正決獄平,即去,恐難其繼者。帝曰:「湖廣之地,朕嘗駐蹕,非斯人不可。」遂行。時江湖間盜賊出沒,剽取商旅貨財。哈剌哈孫至,則發卒悉擒誅之,水陸之途始皆無梗。初,樞密置行院於各省,分兵民為二,奸人植黨自蔽。後因入覲極陳其不便,帝為罷之。因問曰:「風憲之職,人多言其撓吏治,信乎?」對曰:「朝廷設此以糾奸慝,貪吏疾之,妄為謗耳。」帝然其言。

三十年、平章劉國傑が兵を率いて交趾を征討することとなり、哈剌哈孫は将吏に民を擾さぬよう戒めた。たまたま民の魚や野菜を奪った者がいたので、その千戸を杖罰し、軍中は粛然とした。まもなく詔旨があり、湖湘の富民一万家を発して広西に屯田させ、交趾を図らせようとした。哈剌哈孫は密かに使者を遣わして奏上した、「往年遠征は功なく、戦禍の傷はまだ癒えていません。今また民を瘴癘の地に移せば、必ずや怨んで叛くでしょう」。役人は彼が奏上したことを知らず、文書を抱えて署名を請うたが、答えなかった。役人が再び請うと、言った、「しばらくこれを緩めよ」。間もなく、使者が返ってきて中止が報じられ、民は皆感激し喜んだ。また広西元帥府が南丹の五千戸を募って屯田させたいと請うた時、事が行省に上ると、哈剌哈孫は言った、「これは土着の民であり、彼らにとって確かに便利であり、内には空地を充実させ、外には交趾の賊寇を制するに足りる。士卒を煩わすことなく、かつ兵糧は余るであろう」。即座に土地を測量させて五つの屯とし、屯長に統率させ、牛・種子・農具を与えた。湖南宣慰使の張國紀が建言し、唐・宋の例に倣って民間に夏税を徴収しようとした。哈剌哈孫は言った、「亡国の弊政であり、寛大の意を失う。聖朝がこれを行えようか」。奏上してその議を止めさせた。

原文三十年,平章劉國傑將兵征交趾,哈剌哈孫戒將吏無擾民。會有奪民魚菜者,杖其千戶,軍中肅然。俄有旨發湖湘富民萬家,屯田廣西,以圖交趾。哈剌哈孫密遣使奏曰:「往年遠征無功,瘡痍未復,今又徙民瘴鄉,必將怨叛。」吏莫知其奏,抱卷請署,弗答。吏再請,則曰:「姑緩之。」未幾,使還報罷,民皆感悅。及廣西元帥府請募南丹五千戶屯田,事上行省,哈剌哈孫曰:「此土著之民,誠為便之,內足以實空地,外足以制交趾之寇,可不煩士卒而饋餉有餘。」即命度地立為五屯,統以屯長,給牛種農具與之。湖南宣慰張國紀建言,欲按唐、宋末徵民間夏稅。哈剌哈孫曰:「亡國弊政,失寬大之意,聖朝其可行耶?」奏止其議。

大徳二年、上都に入朝し、成宗は彼を光禄大夫・江浙行省左丞相に任じた。政務を視ること七日で、中書左丞相に召し出され、階位を銀青栄禄大夫に進めた。任命を受けると、利益を言う者どもを斥け、一に節用愛民を務めとした。大きな政事がある時は必ず儒臣を引きいて雑議させた。京師には長らく孔子廟がなく、国学も他の官署に仮寓していたので、廟学を建て、名儒を学官に選び、近臣の子弟を入学させるよう奏上した。また群議を集めて南郊の祭祀を建て、一代の定制とした。

原文大德二年,入朝上都,成宗拜光祿大夫、江浙行省左丞相。視政七日,徵拜中書左丞相,進階銀青(光)〔榮〕祿大夫。既拜命,斥言利之徒,一以節用愛民為務。有大政事,必引儒臣雜議。京師久闕孔子廟,而國學寓他署,乃奏建廟學,選名儒為學官,采近臣子弟入學。又集羣議建南郊,為一代定制。

五年、同僚の者が雲南行省左丞劉深の計略を以て倡議して言った、「世祖は神武をもって海内を統一され、その功は万世に輝きます。今上(成宗)が大統を継がれましたが、まだ武功がなく、その盛業を顕わしておりません。西南夷に八百媳婦国があり、正朔を奉じておりません。征討に赴くことを請います」。哈剌哈孫は言った、「山嶠の小夷で、万里も遠く隔絶している。諭して来朝させれば足り、中国を煩わすには及びません」。聞き入れられず、ついに兵二万を発し、劉深に将として赴かせた。道は湖広を通り、民は糧秣の輸送に疲弊した。順元に駐屯した時、劉深は蛇節に脅して金三千両・馬三千匹を求めた。蛇節は民が堪えられないため、兵を挙げて劉深を窮谷に包囲し、首尾相救うことができなかった。事が聞こえると、平章劉國傑を派遣して救援に向かわせ、蛇節を擒らえ、軍中で斬った。しかし、兵卒で生き残ったのはわずか十の一二であり、糧秣を輸送した者も同様で、ついに成功しなかった。帝は初めて彼の言葉を用いなかったことを悔いた。恩赦があった時、役人は劉深の罪を釈放するよう議した。哈剌哈孫は言った、「虚名を求めて事端を開き、師を喪い国を辱しめた。常の罪とは比べられず、誅殺しなければ天下に謝罪できません」。奏上して彼を誅殺させた。

原文五年,同列有以雲南行省左丞劉深計倡議曰:「世祖以神武一海內,功蓋萬世。今上嗣大歷服,未有武功以彰休烈,西南夷有八百媳婦國未奉正朔,請往征之。」哈剌哈孫曰:「山嶠小夷,遼絕萬里,可諭之使來,不足以煩中國。」不聽,竟發兵二萬,命深將以往。道出湖廣,民疲於餽餉。及次順元,深脅蛇節求金三千兩、馬三千匹。蛇節因民不堪,舉兵圍深於窮谷,首尾不能相救。事聞,遣平章劉國傑往援,擒蛇節,斬軍中,然士卒存者纔十一二,轉餉者亦如之,訖無成功。帝始悔不用其言。會赦,有司議釋深罪。哈剌哈孫曰:「徼名首釁,喪師辱國,非常罪比,不誅無以謝天下。」奏誅之。

七年、中書右丞相に進んだ。かつて治道はまず守令(地方官)から始めると言い、近頃は多く適任者を得ていないとして、精選を加え、官吏の贓罪十二章および丁憂・婚聘・盗賊などの制度を定め、戸の献上や山沢の利の献納を禁じた。毎年、車駕が上都に行幸する時は、哈剌哈孫は必ず京師を留守した。当時、帝は病に伏せられ、制命は中宮(皇后)から出され、群邪が党をなして付き従ったが、哈剌哈孫は身をもってこれを匡正し、天下は平穏であった。十年、開府儀同三司・監修国史を加えられ、僚属を置いた。冬十一月、帝の病臥が甚だ篤くなると、内に入って医薬に侍り、外に出ては宿衛を総管した。藩王で病状を見舞おうとする者は聴かなかった。日々機務を処理することは以前と変わらなかった。

原文七年,進中書右丞相。嘗言治道必先守令,近用多不得其人,於是精加遴選,定官吏贓罪十二章及丁憂、婚聘、盜賊等制,禁獻戶及山澤之利。每歲車駕幸上都,哈剌哈孫必留守京師。時帝弗豫,制出中宮,羣邪黨附,哈剌哈孫以身匡之,天下晏然。十年,加開府儀同三司、監修國史,置僚屬。冬十一月,帝寢疾篤甚,入侍醫藥,出總宿衞。藩王欲入侍疾者不聽。日理機務如故。

十一年春、成宗が崩御した。当時、武宗は北辺で軍を慰撫し、仁宗は太后に侍って懐慶におり、諸奸臣は北道を断つことを謀り、成后(ブルガン・カトン)に垂簾聴政を請い、安西王アナンダを立てようとした。哈剌哈孫は密かに使者を北に遣わして武宗を迎え、南に遣わして仁宗を迎え、京城の百官の符印をことごとく収め、府庫を封じ、病と称して宮闕の下に臥し、内廷からの旨が日に数度届いても一切聴かず、文書にも一切署名しなかった。人々は彼を害そうとしたが、敢えて発しなかった。仁宗が近郊に至った時も、人々はまだ知らなかった。三月朔日(一日)、人々は文書を並べて署名を請うた。后は三月三日に殿に出て政を聴くことを決し、そこで署名したので、人々は大いに喜び、何をすべきか分からなかった。翌日、仁宗を迎え入れると、左丞相アクトアイおよび安西王アナンダらを捕らえて誅殺し、内難はすべて平定された。冬から春にかけて、一度も家に帰って休暇を取らなかった。夏五月、武宗が北より至り、即皇帝位に即くと、太傅・録軍国重事に任じ、引き続き百揆を総理し、邸宅一区を賜り、その子トホンを入侍させた。

原文十一年春,成宗崩。時武宗撫軍北邊,仁宗侍太后在懷慶,諸奸臣謀斷北道,請成后垂簾聽政,立安西王阿難答。哈剌哈孫密遣使北迎武宗,南迎仁宗,悉收京城百司符印,封府庫,稱疾臥闕下,內旨日數至,並不聽,文書皆不署。眾欲害之,未敢發。及仁宗至近郊,眾猶未知也。三月朔,列牘請署,后決以三月三日御殿聽政,乃立署之,眾大喜,莫知所為。明日,迎仁宗入,執左丞相阿忽台及安西王阿難答等就誅,內難悉平。自冬至春,未嘗一至家休沐。夏五月,武宗至自北,即皇帝位,拜太傅、錄軍國重事,仍總百揆,賜宅一區,以其子脫歡入侍。

初めに、仁宗が入京した際、阿忽台は勇力があり、人々は敢えて近づく者なく、諸王の禿剌が実際に手ずからこれを縛し、功により越王に封ぜられ、三宮ことごとくその邸を訪れ、賜与は甚だ厚く、慶元路をその食邑とした。哈剌哈孫は力を尽くしてこれを争い、言うには、「祖宗の制、親王でなければ一字の封を加えることはできない。禿剌は疎遠な族属であり、どうして一日の功をもって万世の制を廃することができようか」と。帝は聞き入れなかった。禿剌はそこで帝に讒言して言うには、「安西王が大統を謀った時、哈剌哈孫もまた文書に署名したことがある」と。これにより宰相を罷免し、北辺に出鎮させた。詔して言うには、「和林は北辺の重鎮であり、今、諸部降伏する者また百余万、重臣でなければこれを鎮めるに足らず、哈剌哈孫に代える者なしと思い至る」と。黄金三百両、白銀三千五百両、鈔十五万貫、帛四万端、乳馬六十匹を賜い、太傅・左丞相として和林行省事を行わせた。太后もまた帛二百端、鈔五万貫を賜う。

原文初,仁宗之入也,阿忽台有勇力,人莫敢近,諸王禿剌實手縛之,以功封越王,三宮盡幸其第,賜與甚厚,以慶元路為其食邑。哈剌哈孫力爭之,曰:「祖宗之制,非親王不得加一字之封。禿剌疏屬,豈得以一日之功廢萬世之制哉!」帝不聽。禿剌因譖於帝曰:「方安西王謀干大統,哈剌哈孫亦嘗署文書。」由是罷相出鎮北邊。詔曰:「和林為北邊重鎮,今諸部降者又百餘萬,非重臣不足以鎮之,念無以易哈剌哈孫者。」賜黃金三百兩、白銀三千五百兩、鈔十五萬貫、帛四萬端、乳馬六十匹,以太傅、(右)〔左〕丞相行和林省事。太后亦賜帛二百端、鈔五萬貫。

鎮に至り、盗賊となった者一人を斬る。使者を分遣して降伏戸を賑済す。鈔帛を出して牛羊と交換し、これに給することを奏上し、水辺に近い者には魚を取って食することを教える。大雪に遭い、民は食を得ることができず、諸部に伝車を置かせ、おのおの三百里ずつ離し、凡そ十伝し、米数万石を転送して飢民に給し、足らざればさらに牛羊をもって補う。また地を測り内倉を置き、粟を蓄積して来る者を待つ。古渠を浚い、田数千頃を灌漑す。称海の屯田を治め、部族にその間で雑作することを教え、歳に米二十余万を得る。北辺大いに治まる。至大元年、大帳を賜い、諸王諸藩の礼の如くす。閏十一月、病に臥し、その配下に告げて言うには、「我は再び国事を補佐し治めることができぬ。行省の務め、汝らは努めよ、朝廷に憂いを遺すことなかれ」と。薨ず、年五十二。帝これを聞き、驚き悼んで言うには、「我が賢相を喪う」と。賻として鈔二万五千貫を賜う。詔して昌平に帰葬せしめ、推誠履政佐運功臣・太師・開府儀同三司・上柱国を追贈し、順徳王を追封し、諡して忠献とす。

原文至鎮,斬為盜者一人。分遣使者賑降戶。奏出鈔帛易牛羊以給之,近水者教取魚食。會大雪,民無取得食,命諸部置傳車,相去各三百里,凡十傳,轉米數萬石以餉饑民,不足則益以牛羊。又度地置內倉,積粟以待來者。浚古渠,溉田數千頃。治稱海屯田,教部落雜耕其間,歲得米二十餘萬。北邊大治。至大元年,賜大帳,如諸王諸藩禮。〔閏〕十一月,寢疾,語其屬曰:「吾不復能佐理國事矣。行省之務,汝曹勉之,毋貽朝廷憂。」薨,年五十二。帝聞之,驚悼曰:「喪我賢相。」賻鈔二萬五千貫。詔歸葬昌平,追贈推誠履政佐運功臣、太師、開府儀同三司、上柱國,追封順德王,諡忠獻。

子の脱歓、太子賓客より御史中丞に拝され、答剌罕の号を襲ぎ、御史大夫に進み、江南に行台す。まもなく平章に拝され、江浙に行省し、左丞相に進み、行宣政院を兼領す。重厚にして父の風有り、書を読むを喜び、政を行うに苛暴を尚ばず、衆心を得る。致和元年、官にて卒す、年三十七。子に蛮蛮。

原文子脫歡,由太子賓客拜御史中丞,襲號答剌罕,進御史大夫,行臺江南。尋拜平章,行省江浙,進左丞相,兼領行宣政院。重厚有父風,喜讀書,為政不尚苛暴,得眾心。致和元年,卒于官,年三十七。子蠻蠻。

阿沙不花

阿沙不花は、康里国の王族である。初め、太祖が康里を攻略した時、その祖母の苫滅古麻里氏は新たに寡婦となり、二子有り、曲律・牙牙と曰い、皆幼く、国乱れ家破れて依る所無く、去って朝廷に帰らんと欲したが、自ら達する術無きを思う。一夕、数頭の駱駝が皆重い荷を負って突如営中に入り、駆っても去らぬ。朝になって駱駝を営外に繋ぎ、負っていたものをその傍らに置くと、夜また営中に納め、求める者あればこれを帰そうと待つ。このようにして十余日、終いに求める者無し。そこでその装いを開けて視ると、皆西域の重宝であった。驚いて言うには、「天が我を資して東に行かせようとするのか? 然らずば、これは豈に我の有すべき所ならんや」と。遂に駆り立てて二子を載せ、数国を越えて京師に至る。時に太祖は既に崩じ、太宗立ち、その所有するものを尽く献上す。帝は深くこれを異とし、役人に命じて邸舎を整え、糧食を備えて住まわせた。二年住み、国中が既に定まったと聞き、帝に謁して帰らんと欲す。帝言う、「汝は昔何の為に来たりしや? 今何の為に去らんとするや?」 かつその欲する所を問う。対えて言う、「臣妾は昔、国乱れて主無きを以て、遠く陛下に帰しました。今、陛下の威徳に頼り、国が既に定まったと聞き、墳墓を守るために帰りたいのです。妾はただ二子がおりますが、愚かで無知ではありますが、留まって陛下に仕えさせたいと願います」と。帝大いに喜び、直ちに二子を召して宿衛に入れ、礼を以て彼女を送り出した。後十三年、再び来ると、二子は既に憲宗に従って蜀を伐っていた。和寧に至って、憲宗の崩御を聞き、諸将は皆還ったが、二子のみ後れたので、心に憂いとしていた。一つの古廟の傍を通り、そこで入って祈ると、神の語るが如く、連呼して「好好」と言うが、その故を知らず、その国の人で漢語に通じる者に問うと、吉語であると知る。舎に還ると、二子は既に至っていた。遂に留まって住んだ。

原文阿沙不花者,康里國王族也。初,太祖拔康里時,其祖母苫滅古麻里氏新寡,有二子,曰曲律、牙牙,皆幼,而國亂家破無所依,欲去而歸朝廷,念無以自達。一夕有數駝皆重負突入營中,驅之不去。旦乃繫駝營外,置所負其旁,夜復納營中,候有求者歸之。如是十餘日,終無求者。乃發視其裝,皆西域重寶。驚曰:「殆天欲資我而東耶?不然,此豈吾所宜有?」遂驅馳載二子越數國至京師。時太祖已崩,太宗立,盡獻其所有,帝深異之,命有司治邸舍、具廩餼以居焉。居二年,聞國中已定,謁帝欲歸。帝曰:「汝昔何為而來?今何為而去?」且問其所欲。對曰:「臣妾昔以國亂無主,遠歸陛下,今賴陛下威德,聞國已定,欲歸守墳墓耳。妾惟二子,雖愚無知,願留事陛下。」帝大喜,立召二子入宿衞,而禮遣之。後十三年復來,則二子已從憲宗伐蜀矣。逮至和寧,聞憲宗崩,諸將皆還,而二子獨後,心方以為憂。過一古廟,因入禱焉,若聞神語,連稱「好好」而不知其故,問其國人通漢語者,知為吉語。還至舍,則二子已至矣。遂留居焉。

曲律には子無し。牙牙は後に康国王に封ぜられ、六子を生み、阿沙不花が最も賢かった。十四歳で世祖に侍す。世祖は土田を賜い、奴隷を与え、興和の天城に住まわせた。西蕃が使者を遣わして奏請することがあり、既に諭して遣わした後、数日を経て、帝が近侍の諸大臣に問うて言うには、「先日の西使は何を請い、朕は何の言葉を以て遣わしたか」と。諸大臣は誰も答えられず、阿沙不花が傍らから代わって答え、甚だ詳細であった。帝はそこで諸大臣を怒って言う、「卿らは天下の重きを任じ、このようにして却って一童子に及ばぬとは」と。嘗て上都に扈従し、まさに朝に入らんとする時、宮中の草に露多く、跣足で行く。帝は大安閣に御し、遥かにこれを見て、侍臣の戒めと指す。一日、わざと諸門衛に命じて阿沙不花を納れさせぬ。阿沙不花が至ると、諸門衛は皆納れず、そこで水竇より入る。帝が故を問うと、実を以て答え、かつ言うには、「臣一日も侍せずんば、身は何に帰すべきか」と。帝大いに悦び、改めて諸門衛にその出入りを聴かしむ。四宿衛の兵器を整えさせることを命じ、敢えて怠る者無からしめ、また門を掌らせ、闌入する者を取らしめぬ。帝言う、「用いるに足る」と。

原文曲律無子。牙牙後封康國王,生六子,阿沙不花最賢。年十四,入侍世祖。世祖賜土田、給奴隸,使居興和之天城。會西蕃遣使者有所奏請,既諭遣之,後數日,帝問近侍諸大臣曰:「前日西使何請,朕何辭以遣?」諸大臣莫能對,阿沙不花從旁代對甚詳悉。帝因怒諸大臣曰:「卿等任天下之重,如此反不若一童子耶?」嘗扈從上都,方入朝,而宮草多露,跣足而行,帝御大安閣,望而見之,指以為侍臣戒。一日,故命諸門衞勿納阿沙不花。阿沙不花至,諸門衞皆不納,乃從水竇中入。帝問故,以實對,且曰:「臣一日不入侍,身將何歸?」帝大悅,更諭諸門衞聽其出入。命飭四宿衞兵器,無敢或慢;復使掌門,無取闌入。帝曰:「可用矣。」

乃顔が叛くと、諸王の納牙等は皆これに応じた。帝が計いをどう出すべきかと問うと、対えて言う、「臣愚かには、諸王をまず撫慰安堵するに若くはなく、然る後に天討を行えば、叛く者の勢い自ずから孤くなると存じます」と。帝言う、「善し、卿試みに朕のためにこれを行え」と。即ち北に行き納牙を説いて言うには、「大王は乃顔が反したと聞かれましたか」と。曰く、「聞いた」と。曰く、「大王は乃顔が既に使者を遣わして自ら帰順したことを知っておられますか」と。曰く、「知らぬ」と。曰く、「大王等が皆乃顔の外応とならんと欲していると聞きます。今乃顔は既に自ら帰順しました。これは独り大王が主上に抗することになります。幸い主上は聖明であり、また大王の本意でないこともご存知で、これを置いて問わず。しかし二三大臣は惑わぬわけにはいきません。大王は何故上を往き見て自ら陳べ、万全の計となさらぬのですか」と。納牙悦び、これを許す。ここにおいて諸王の謀は皆解けた。阿沙不花還って報ずると、帝は親征を議し、遼陽に徴兵を命じ、千戸に昔宝赤の衆を率いさせて従軍せしむ。

原文乃顏叛,諸王納牙等皆應之。帝問計將安出,對曰:「臣愚以為莫若先撫安諸王,乃行天討,則叛者勢自孤矣。」帝曰:「善,卿試為朕行之。」即北說納牙曰:「大王聞乃顏反耶?」曰:「聞之。」曰:「大王知乃顏已遣使自歸耶?」曰:「不知也。」曰:「聞大王等皆欲為乃顏外應,今乃顏既自歸矣,是獨大王與主上抗。幸主上聖明,亦知非大王意,置之不問。然二三大臣不能無惑,大王何不往見上自陳,為萬全計?」納牙悅,許之。於是諸王之謀皆解。阿沙不花還報,帝乃議親征,命徵兵遼陽,以千戶帥昔寶赤之眾從行。

乃顔が平定されると、阿沙不花は大同・興和の両郡で車駕の経由する帷台嶺という所が、数十里にわたって居民が無いので、詔して役人に命じ嶺の中に家屋を作り、邑民百戸を移して住まわせ、境内の昔宝赤の牧地を割いて耕種させ自養せしめることを請う。これに従う。阿沙不花が既に昔宝赤を領すると、帝はまた興和の桃山数十村の民を尽く移し、その地を昔宝赤の牧地とせんと欲す。阿沙不花は固く三千戸を存して鷹の食を給することを請う。帝は皆これを聴き入れられた。民はその徳を感じ、今に至るも飲食する時必ず祭る。

原文及乃顏平,阿沙不花以大同、興和兩郡當車駕所經有帷臺嶺者,數十里無居民,請詔有司作室嶺中,徙邑民百戶居之,割境內昔寶赤牧地使耕種以自養,從之。阿沙不花既領昔寶赤,帝復欲盡徙興和桃山數十村之民,以其地為昔寶赤牧地。阿沙不花固請存三千戶以給鷹食,帝皆聽納。民德之,至今飲食必祭。

至元三十年、海都が叛き、成宗は皇孫として北辺で軍を慰撫した。阿沙不花は従行し、金山を越えて杭海で戦い功績があった。成宗が即位すると、ちょうど大宗正扎魯火赤の脱児速が贓污の罪で聞こえ、詔してこれを糾問させたところ、脱児速は罪を認めたので、そのまま命じて彼を代行させた。成宗は彼を指して阿即剌と呼んだ。阿即剌とは、訳すと閻羅王である。朱清・張瑄の陰私を訴える者がおり、既に罪に当たったので、帝は兵馬都指揮使の忽剌朮を遣わしてその家を没収させたが、忽剌朮は賄賂を受け取ったとして誅殺された。改めて阿沙不花を派遣したところ、詳細に実情を奏上したので、邸宅一区と鈔一万五千緡を賜り、両城兵馬都指揮使の職務を兼ねた。武宗がまだ懐寧王の時、漠北で軍を総べ、『今日、大用に堪える人材は誰か』と問うた。答えて言うには、『同母弟の脱脱は将相の才であり、これに代える者はおりません』。そこで命じて従行させたが、後になって果たして名臣となった。

原文至元三十年,海都叛,成宗以皇孫撫軍於北。阿沙不花從行,踰金山戰杭海有功。成宗即位,會大宗正扎魯火赤脫兒速以贓污聞,詔鞫問之,脫兒速伏罪,就命代之。成宗目之曰阿即剌。阿即剌,譯言閻羅王也。有訴朱清、張瑄陰私,既抵罪,帝遣兵馬都指揮使忽剌朮籍沒其家,以受賂誅。更命阿沙不花往,具以實聞,賜宅一區、鈔萬五千緡,兼兩城兵馬都指揮使事。武宗時為懷寧王,總軍漠北,問:「今日材可大用者為誰?」對曰:「母弟脫脫將相才也,無以易之。」遂命從行,後果為名臣。

成宗が崩御すると、安西王阿難答が隙に乗じて大統を継ごうと謀り、成后および丞相阿忽台、諸王迷里帖木児らは皆ひそかにこれを助けた。当時、武宗はなお北辺におり、太后および仁宗も懐孟におり、まだ到着していなかった。ちょうど武宗が脱脱を遣わして京師で事を計らせたところ、丞相哈剌哈孫は急ぎ還って武宗に報告するよう命じたが、成后はすでに密かに通政使の只児哈郎に命じてその駅馬を止めさせていた。阿沙不花は事態が急を要すると知り、同知通政院事の察乃と謀り、先日の日付で文書を作成して馬を与えて行かせた。只児哈郎は脱脱が既に去ったと聞き、ようやく吏を詰問したが、案牘を調べてやめた。太后および仁宗が京師に到着すると、安西王が三月三日に偽って仁宗の千秋節を祝賀し、これに乗じて挙兵しようと謀っているという話があった。阿沙不花はこれを哈剌哈孫に言上し、かつ言うには、『先んずれば勝ち、後れれば敗れる。后がひとたび簾を垂れて政を聴けば、我らは皆人に制せられることになります。事に先んじて起こさない手はありません』。哈剌哈孫は『善し』と言った。そこで二日前に仁宗に申し上げ、偽って武宗が使者を遣わして安西王を召し計事させたと称し、到着するやいなや捕らえて上都に送った。丞相阿忽台以下の諸姦臣をことごとく誅殺した。そして哈剌哈孫とともに皆禁中に居住した。

原文成宗崩,安西王阿難答乘間謀繼大統,成后及丞相阿忽台、諸王迷里帖木兒皆陰為之助。時武宗猶在北邊,太后及仁宗亦在懷孟,未至。適武宗遣脫脫計事京師,丞相哈剌哈孫令急還報武宗,而成后已密諭通政使只兒哈郎止其驛馬。阿沙不花知事急,與同知通政院事察乃謀,作先日署文書給馬去。只兒哈郎聞脫脫已去,方詰問吏,閱案牘乃止。太后及仁宗既至京師,有言安西王謀以三月三日偽賀仁宗千秋節,因以舉事者。阿沙不花言之哈剌哈孫,且曰:「先人者勝,後人者敗。后一垂簾聽政,我等皆受制於人矣,不若先事而起。」哈剌哈孫曰:「善。」乃前二日白仁宗,詐稱武宗遣使召安西王計事,至即執送上都。盡誅丞相阿忽台以下諸姦臣。與哈剌哈孫皆居禁中。

仁宗が太子として国政を監理し、使者を北に遣わして武宗を迎えたが、武宗はぐずぐずして進まず、使者を還して太后に報せて言うには、『阿沙不花が行かねばならぬ』。そこで衣帽と尚醞を奉じて行かせた。野馬川に至り、武宗に謁見し、両宮の意を詳しく伝え、かつ安西王の謀変の始末を述べ、かつ言うには、『太子が国政を監理するのは、他変に備え、陛下を待つためです。臣、万死を賭してその他意なきことを保証いたします』。武宗は大いに喜び、衣を解いて彼に着せ、中書平章政事に任じ、軍国大事はすべて彼の裁決を聴いた。そこで内難平定の有功者、燕只哥以下十人を兵馬指揮・直省舎人とするよう奏上した。詔してまず葡萄酒と錦綺を奉じて還り、両宮に報告させた。仁宗は即日、群臣を率いて出迎えた。

原文仁宗以太子監國,遣使北迎武宗,而武宗遲迴不進,遣使還報太后曰:「非阿沙不花往不可。」乃遣奉衣帽、尚醞以往,至野馬川,見武宗,備道兩宮意,及陳安西王謀變始末,且言:「太子監國所以備他變,以待陛下,臣萬死保其無他。」武宗大悅,解衣衣之,拜中書平章政事,軍國大事並聽裁決。因奏平內難之有功者燕只哥以下十人為兵馬指揮、為直省舍人。詔先奉蒲萄酒及錦綺還報兩宮。仁宗即日率羣臣出迎。

武宗が上都に入ると、阿沙不花に特進・太尉を加え、前の如く平章政事とした。命じて丞相塔思不花とともに京師に還り安西王の党を処置させた。連座した囊加真ら三十余人は皆釈放した。かつて命じて太府の金を出し諸王貴戚および近侍に分け賜わったことがあった。ちょうど朝廷を出た時、一人が慌てふためき何かを恐れている様子を見て、『これは必ず金を盗んだ者だ』と言い、召し出して詰問したところ、果たして黄金五十両、白金百両を得て奏上した。その金を以て彼に賜わろうとし、盗人を誅せよと命じた。辞して言うには、『盗人を誅するは固より当然ですが、金は臣の得るべきものではありません。願わくは金を還して盗人の死を贖わせてください』。帝は喜んでこれに従った。近臣が帝の前で蹴鞠をしたことがあった。帝は即座に命じて鈔十五万貫を出して賜わろうとした。阿沙不花は頓首して言うには、『蹴鞠によって上賞を受けるならば、奇技淫巧の人は日々進み、賢者は日々退くでしょう。国家をどうなさいますか。臣、死んでも詔を奉じることはできません』。そこでやめた。

原文武宗入上都,加阿沙不花特進、太尉,依前平章政事。命與丞相塔思不花還京師治安西王黨,諸連坐囊加真等三十餘人,皆釋之。嘗命出太府金分賜諸王貴戚及近侍,方出朝,見一人倉皇若有所懼狀,曰:「此必盜金者。」召詰問之,果得黃金五十兩、白金百兩以聞,就以金賜之,命誅盜者。辭曰:「盜誅固當,金非臣所宜得,願還金以贖盜死。」帝悅而從之。有近臣蹴踘帝前,帝即命出鈔十五萬貫賜之。阿沙不花頓首言曰:「以蹴踘而受上賞,則奇技淫巧之人日進,而賢者日退矣,將如國家何?臣死不敢奉詔。」乃止。

帝はまたかつて五花殿に御し、丞相塔思不花・三宝奴、中丞伯顔らが侍っていた。阿沙不花は帝の容色が日に日に憔悴しているのを見て、進み出て言うには、『八珍の味を知って御せず、万金の身を知って愛せず、これは古人の戒めるところです。陛下は祖宗の付託の重きを思わず、天下の仰望の切なるを思わず、ただ酒に沈み、姫嬪を好まれる。これはあたかも両斧で孤樹を伐るが如く、倒れ伏さないものはありません。かつ陛下の天下は祖宗の天下であり、陛下の位は祖宗の位です。陛下たとえ自らを愛さずとも、宗社をどうなさいますか』。帝は大いに喜んで言うには、『卿でなければ誰が朕のために言うことがあろうか。今後より言葉を惜しむことなかれ。朕は忘れない』。そこで命じて酒を進めさせた。阿沙不花は頓首して謝して言うには、『臣はまさに陛下に飲酒を節するよう願おうとしているのに、かえって勧めるとは、臣の言葉が陛下に信じられていないことになります。臣は詔を奉じることはできません』。左右は皆、帝が直臣を得たことを賀した。そこで開府儀同三司・中書右丞相に進め、御史大夫を行った。

原文帝又嘗御五花殿,丞相塔思不花、三寶奴,中丞伯顏等侍。阿沙不花見帝容色日悴,乃進曰:「八珍之味不知御,萬金之身不知愛,此古人所戒也。陛下不思祖宗付託之重,天下仰望之切,而惟麯糵是沉,姬嬪是好,是猶兩斧伐孤樹,未有不顛仆者也。且陛下之天下,祖宗之天下也,陛下之位,祖宗之位也,陛下縱不自愛,如宗社何?」帝大悅曰:「非卿孰為朕言?繼自今毋愛於言,朕不忘也。」因命進酒。阿沙不花頓首謝曰:「臣方欲陛下節飲而反勸之,是臣之言不信於陛下也,臣不敢奉詔。」左右皆賀帝得直臣。遂進開府儀同三司、中書右丞相,行御史大夫。

まもなくまた平章政事・録軍国重事に復し、広武康里侍衛親軍都指揮使を兼ね、康国公に封ぜられた。左道をもって衆を惑わす者がおり、諸世臣大家は多く信じてこれに趨ったが、ついに法に置いた。知枢密院事に遷った。至大二年十月、任上で薨去した。享年四十七。至正元年、純誠一徳正憲保大功臣・開府儀同三司・中書右丞相・上柱国を追贈され、順寧王を追封され、諡して忠烈といった。

原文俄復平章政事、錄軍國重事,兼廣武〔康里〕侍衞親軍都指揮使,封康國公。有以左道惑眾者,諸世臣大家多信趨之,竟置于法。遷知樞密院事。以至大二年十月薨于位,年四十七。至正元年,贈純誠一德正憲保大功臣、開府儀同三司、中書右丞相、上柱國,追封順寧王,諡忠烈。

その継室の別哥倫氏もまた至行があり、寡居すること三十年、妄りに言笑せず、身に華やかな彩りをまとわなかった。詔してその門を表彰し、元配の達海的斤氏とともに順寧王夫人に封ぜられた。

原文其繼室別哥倫氏,亦有至行,寡居三十年,未嘗妄言笑,身不服華綵。詔旌其門,與元配達海的斤氏並封順寧王夫人。

子の伯嘉訥は廉直剛敏で、国を憂うること家を憂うるが如くであった。かつて京尹となった時、屯儲衛が小民の梅凍児を誘い、海商一百十六人を盗賊と誣告してその財貨を掠めた。獄が決し、械をかけて刑部に送られた。命じて伯嘉訥に審録させたところ、その冤状をことごとく得て、丞相に申し出てこれを釈放し、その財貨を返還させた。後に翰林侍読学士に遷った。

原文子伯嘉訥,廉直剛敏,憂國如憂家。嘗為京尹,屯儲衞誘小民梅凍兒誣首海商一百十有六人為盜而掠其貲,獄具,械送刑部,命伯嘉訥審錄之,盡得其寃狀,白丞相釋之,還其貲。後遷翰林侍讀學士。

拜住

拜住は安童の孫である。五歳で孤児となり、太夫人が養育した。やや成長すると、宏遠端亮で祖父の風があった。至大二年、宿衛長を襲職した。仁宗が即位し、延祐二年、資善大夫・太常礼儀院使に任ぜられた。四年、栄禄大夫・大司徒に進んだ。五年、金紫光禄大夫に進んだ。六年、開府儀同三司を加えられ、その他の官職はすべて前の如くであった。大政を議する毎に必ず、『典故に合うか』と問うた。同官に異見を有する者が、『大朝はただ典故を説くだけなのか』と言うと、拜住は微笑して言うには、『公、試みに言ってみよ。国朝の何事が典故に依らないことがあろうか』。同官は答えることができなかった。太常の事は簡素で、毎退食の後必ず儒士を招き、古今の礼楽刑政、治乱得失を諮詢訪問し、一日中倦むことがなかった。かつて言うには、『人の仕宦は、その職掌に随い、事は皆習うことができる。学問に本があり、これを事業に施すこと、これが儒者の能事であり、宰相の資質である』。

原文拜住,安童孫也。五歲而孤,太夫人教養之。稍長,宏遠端亮,有祖風。至大二年,襲為宿衞長。仁宗即位,延祐二年,拜資善大夫、太常禮儀院使。四年,進榮祿大夫、大司徒。五年,進金紫光祿大夫。六年,加開府儀同三司,餘並如故。每議大政,必問曰:「合典故否?」同官有異見者,曰:「大朝止說典故耶?」拜住微笑曰:「公試言之,國朝何事不依典故?」同官不能對。太常事簡,每退食必延儒士諮訪古今禮樂刑政、治亂得失,盡日不倦。嘗曰:「人之仕宦,隨所職司,事皆可習。至於學問有本,施於事業,此儒者之能事,宰相之資也。」

英宗が東宮に在った時、宿衛の臣を左右に問うと、皆が拜住の賢を称えた。使者を遣わして召し、語らわんとした。拜住は使者に謂って曰く、「嫌疑の際は君子の慎む所なり。我は天子の宿衛を長じながら東宮と私に相往来すれば、我固より罪を得ん。亦た豈に太子の福ならんや」と。遂に往かず。英宗即位し、中書平章政事に拝す。諸侯王を大明殿に会し、詔して太祖の金匱宝訓を進読せしむ。威儀整いて暇あり、語音明暢、注目聳聴せざる者なし。夏五月、徽政使失烈門・要束木の妻也里失八等、謀りて逆を為さんとす。帝密かに其事を得、穆清閣に御し、拜住を召して謀る。対えて曰く、「此の輩は権を擅にし政を乱ること久し。今猶懲めず、陰に党与を結び、社稷を危うくせんと謀る。速やかに天威を施し、以て祖宗の法度を正すべし」と。帝容色を動かして曰く、「此れ朕が志なり」と。命じて衛士を率い之を擒斬せしむ。其の党皆誅せらる。

原文英宗在東宮,問宿衞之臣於左右,咸稱拜住賢。遣使召之,欲與語。拜住謂使者曰:「嫌疑之際,君子所慎,我長天子宿衞而與東宮私相往來,我固得罪,亦豈太子福耶?」竟不往。英宗登極,拜中書平章政事。會諸侯王于大明殿,詔進讀太祖金匱寶訓,威儀整暇,語音明暢,莫不注目竦聽。夏五月,(宣徽)〔徽政〕使失烈門、要束木妻也里失八等謀為逆,帝密得其事,御穆清閣,召拜住謀之。對曰:「此輩擅權亂政久矣,今猶不懲,陰結黨與,謀危社稷,宜速施天威,以正祖宗法度。」帝動容曰︰「此朕志也。」命率衞士擒斬之,其黨皆伏誅。

中書左丞相に拝す。先に、近侍が旨を伝え姓名を以て中書に赴き銓注する者六七百員、選曹之に為り壅滞す。拜住奏して之を閣し、注授は一に選格の次第に依り、吏姦を容るること無し。刑曹の事に情矜るべき有る者は之を寛恕し、貪暴不法は必ず少も容れず。帝常に左右に諭して曰く、「汝輩之を慎め。苟くも国法に陷らば、我曲げて赦すと雖も、拜住は汝を恕さざるべし」と。

原文拜中書左丞相。先時,近侍傳旨以姓名赴中書銓注者六七百員,選曹為之壅滯。拜住奏閣之,注授一依選格次第,吏無容姦。刑曹事有情可矜者寬恕之,貪暴不法必不少容。帝常諭左右曰:「汝輩慎之,苟陷國法,我雖曲赦,拜住不汝恕也。」

至治元年春正月、帝禁中に綵楼を結び、元夕に灯を張り宴を設けんと欲す。時に先帝の喪に居り、参議張養浩上疏す。拜住進諫すべしと謂い、即ち其の疏を袖にして入奏す。帝悦びて止め、仍て養浩に帛を賜い、以て直言を旌す。三月、上都に幸するに従い、察罕脳児に次す。帝行宮の亨麗殿の制度卑隘なるを以て、更に之を広めんと欲す。奏して曰く、「此の地は苦寒、夏に入りて始めて粟黍を種う。陛下初めて大宝に登り、民瘼を求めずして、遽に大役を興して農務を妨げば、恐らくは民望を失わん」と。之に従う。帝嘗て拜住に謂いて曰く、「朕卿を以て大任に委ぬるは、乃祖木華黎が太祖に従い土宇を開拓し、安童が世祖に相い善治を克く成せしが故なり。卿祖宗の令聞を念わば、豈に心を尽くさざる者有らんや」と。拜住再拝して曰く、「陛下臣を以て大任に委ぬ。臣畏るる所三有り。祖宗を辱しむるを畏れ、天下の事大にして識見未だ尽くさざる有るを畏れ、年少にして負荷に克くあたわず、以て聖恩に報ゆる無きを畏る。惟うに陛下垂閔し、時に訓飭を加えられば幸甚なり」と。

原文至治元年春正月,帝欲結綵樓於禁中,元夕張燈設宴。時居先帝喪,參議張養浩上疏,拜住謂當進諫,即袖其疏入奏,帝悅而止,仍賜養浩帛,以旌直言。三月,從幸上都,次察罕腦兒。帝以行宮亨麗殿制度卑隘,欲更廣之。奏曰:「此地苦寒,入夏始種粟黍,陛下初登大寶,不求民瘼,而遽興大役以妨農務,恐失民望。」從之。帝嘗謂拜住曰:「朕委卿以大任者,以乃祖木華黎從太祖開拓土宇,安童相世祖克成善治也。卿念祖宗令聞,豈有不盡心者乎?」拜住再拜曰:「陛下委臣以大任,臣有所畏者三:畏辱祖宗;畏天下事大,識見有所未盡;畏年少不克負荷,無以上報聖恩。惟陛下垂閔,時加訓飭,幸甚。」

延祐年間、朔漠大風雪有り、羊馬駝畜尽く死に、人民流散し、子女を以て人に鬻ぎ奴婢と為す。拜住、興王の根本の地なるを以て、其の民宜しく賑卹を加うべしとし、宗仁衛を立てて之を総べ、県官に命じて贖い衛中に置き、以て生養を遂げしめんことを請う。至元十四年、始めて太廟を大都に建つ。是に至る四十年、親享の礼未だ暇あって講肄せず。拜住奏して曰く、「古に云う礼楽百年にして後興ると。郊廟祭享は此れ其の時なり」と。帝悦びて曰く、「朕之を行う能う」と。預め有司に勅し、親享太室の儀注礼節は一に典故に遵い、擅に増損する無からしむ。冬十月、始めて太廟に事有り。二年春正月、孟享し、始めて法駕を備え、黄麾大仗を設く。帝通天冠・絳紗袍を服し、崇天門より出づ。拜住太尉を摂りて以て従う。帝羽衛文物の美を見、顧みて拜住に曰く、「朕卿の言を用い大礼を挙行す。亦た卿の共に喜ぶ所なり」と。対えて曰く、「陛下帝王の道を以て天下を化成せば、独り臣が幸いなるに非ず、実に四海蒼生の共に慶ぶ所なり」と。致斎の大次に、酌献の礼を行い、升降周旋、儼として素より習うが若し。中外粛然たり。明日宮に還り、鼓吹交作し、万姓聳観す。百年の廃典一旦として復見す。感泣する者有り。拜住百僚を率い大明殿に賀を称え、執事の臣に金帛を賜うこと差有り。又太廟前殿を建て、祫禘配享等の礼を行わんことを議するを奏す。帝従容として拜住に謂いて曰く、「朕天下の大なるを思うに、朕一人の思慮の及ぶ所に非ず。汝朕が股肱たり。規諫を忘れずして、以て朕の及ばざるを輔けよ」と。拜住頓首して謝して曰く、「昔堯・舜君と為り、毎事衆に詢う。善なれば則ち己を捨てて人に従い、万世聖と称せらる。桀・紂君と為り、諫を拒ぎ自ら賢とし、人を悦ばして己に従わしめ、小人に近づくを好む。国滅びて身保たず、民今に至るまで無道の主と称す。臣等洪恩を仰荷し、敢えて忠を竭くして報いざらんや。然れども事之を言うは則ち易く、之を行うは則ち難し。惟うに陛下力行せられ、臣等言わざれば、則ち臣が罪なり」と。帝嘉納す。

原文延祐間,朔漠大風雪,羊馬駝畜盡死,人民流散,以子女鬻人為奴婢。拜住以興王根本之地,其民宜加賑卹,請立宗仁衞總之,命縣官贖置衞中,以遂生養。至元十四年,始建太廟于大都,至是四十年,親享之禮未暇講肄。拜住奏曰:「古云禮樂百年而後興,郊廟祭享此其時矣。」帝悅曰:「朕能行之。」預敕有司,以親享太室儀注禮節,一遵典故,毋擅增損。冬十月,始有事于太廟。二年春正月,孟享,始備法駕,設黃麾大仗,帝服通天冠、絳紗袍,出自崇天門。拜住攝太尉以從。帝見羽衞文物之美,顧拜住曰:「朕用卿言舉行大禮,亦卿所共喜也。」對曰:「陛下以帝王之道化成天下,非獨臣之幸,實四海蒼生所共慶也。」致齋大次,行酌獻禮,升降周旋,儼若素習,中外肅然。明日還宮,鼓吹交作,萬姓聳觀,百年廢典一旦復見,有感泣者。拜住率百僚稱賀于大明殿,執事之臣賜金帛有差。又奏建太廟前殿,議行祫禘配享等禮。帝從容謂拜住曰:「朕思天下之大,非朕一人思慮所及,汝為朕股肱,毋忘規諫,以輔朕之不逮。」拜住頓首謝曰:「昔堯、舜為君,每事詢眾,善則舍己從人,萬世稱聖。桀、紂為君,拒諫自賢,悅人從己,好近小人,國滅而身不保,民到于今稱為無道之主。臣等仰荷洪恩,敢不竭忠以報。然事言之則易,行之則難。惟陛下力行,臣等不言,則臣之罪也。」帝嘉納之。

時に右丞相鐵木迭兒は貪濫譎険にして、屡々大臣を殺し、獄を鬻ぎ官を売り、広く朋党を立て、凡そ己に附かざる者は必ず事を以て之を去らんとす。尤も平章王毅・右丞高昉を悪み、京師諸倉の糧儲失陷するに因り、奏して之を誅せんと欲す。拜住密かに帝に言いて曰く、「道を論じ邦を経るは宰相の事なり。金穀の細務を以て之を責むるは可ならんや」と。帝然りとし、倶に死を免る。鐵木迭兒復た参知政事張思明を引き左丞と為して己を助けしむ。思明尽力し、拜住の方正を忌み、毎に其の党と密語し、謀りて之を中害せんとす。左右其の情を得、間を乗じて以て告げ、且つ之に備えんことを請う。拜住曰く、「我が祖宗は国の元勳たり。世忠貞に篤く、百有餘年。我今年少、叨に寵命を受く。蓋し此を以ての故なり。大臣協和するは国の利なり。今右相を以て我を讎とす。我之に報いんことを求むれば、独り吾が二人の不幸に非ず、亦た国家の不幸なり。吾吾が心を尽くすを知り、上は君父に負けず、下は士民に負けざるのみ。死生禍福は、天実に之を鑒みる。汝輩復た言う毋れ」と。未だ幾もなく、旨を奉じ忠憲王の碑を范陽に往きて立つ。鐵木迭兒久しく疾と称す。拜住の行くを聞き、将に出でて省事に蒞らんとし、朝に入り、内門に至る。帝速速を遣わし之に酒を賜い、且つ曰く、「卿年老す、宜しく自愛すべし。新年を待ちて朝に入るも未だ晩からず」と。遂に怏怏として還る。然れども其の党猶朝中に布列し、事必ず其の家に禀す。拜住の故を以て其の奸を大肆するを得ず、百計之を傾けんとすも、終に遂げず。

原文時右丞相鐵木迭兒貪濫譎險,屢殺大臣,鬻獄賣官,廣立朋黨,凡不附己者必以事去之,尤惡平章王毅、右丞高昉,因在京諸倉糧儲失陷,欲奏誅之。拜住密言於帝曰:「論道經邦,宰相事也,以金穀細務責之可乎?」帝然之,俱得不死。鐵木迭兒復引參知政事張思明為左丞以助己。思明為盡力,忌拜住方正,每與其黨密語,謀中害之。左右得其情,乘間以告,且請備之。拜住曰:「我祖宗為國元勳,世篤忠貞,百有餘年。我今年少,叨受寵命,蓋以此耳。大臣協和,國之利也。今以右相讎我,我求報之,非特吾二人之不幸,亦國家之不幸。吾知盡吾心,上不負君父,下不負士民而已。死生禍福,天實鑒之,汝輩毋復言。」未幾,奉旨往立忠憲王碑于范陽。鐵木迭兒久稱疾,聞拜住行,將出蒞省事,入朝,至內門,帝遣速速賜之酒,且曰:「卿年老宜自愛,待新年入朝未晚。」遂怏怏而還。然其黨猶布列朝中,事必禀于其家,以拜住故不得大肆其奸,百計傾之,終不能遂。

京師倉漕管庫の職は、歳終例として注代すべし。時に張思明亦た疾と称して出でず。衆皆顧望す。拜住朝夕帝の前に在りと雖も、事緩くすべからざるを以て、乃ち日々省中に坐し僚属に謂いて曰く、「左丞病む。省事遂に廃せんや」と。郎中李処恭曰く、「金穀の職は須らく慎みて選択すべし。其人を得ざれば、未だ敢えて遽に擬せず」と。拜住曰く、「汝は官を売るの計なる耳」と。人を遣わし善く思明を慰めしむ。乃ち出でて共に銓事を畢う。

原文在京倉漕管庫之職,歲終例應注代。時張思明亦稱疾不出,眾皆顧望。拜住雖朝夕帝前,以事不可緩,乃日坐省中謂僚屬曰:「左丞病,省事遂廢乎?」郎中李處恭曰:「金穀之職,須慎選擇,不得其人,未敢遽擬。」拜住曰:「汝為賣官之計耳。」遣人善慰思明,乃出共畢銓事。

拜住は常に学校を政教の大本とし、緩やかに見えて実は急務であるが、主管者が心を尽くさないため、遂に廃れて弛緩したとして、内外の官に議論させてこれを救済・整備するよう命じることを請うた。ある者が仏教をもって天下を治められると言うと、帝が尋ねると、対して言った。「清浄寂滅は、自らを治めるにはよいでしょう。しかし天下を治めるには、仁義を捨てれば綱常は乱れます。」またかつて拜住に言った。「今にも唐の魏徴のように敢えて諫める者はいるか。」対して言った。「槃が円ければ水は円く、盂が方ければ水は方くなります。太宗のように諫言を受け入れる君主があれば、魏徴のように敢えて諫める臣下がいるのです。」帝はともにこれを良しとした。六月壬寅、平江の肥沃な田一万畝を賜るよう勅命した。拜住は辞して言った。「陛下が臣に諸々の事務を整理させようとされるのに、先に賜田を受ければ、人は何と言うでしょうか。」帝は言った。「汝は功臣の旧家の子孫であり、廉潔・慎重さを加えている。人が先例を引き合いに出すなら、朕自ら諭そう。」秋七月、張思明を上都に召し寄せるよう奏上し、その罪を数え上げて杖罰を加えて追放した。鉄木迭児も続いて病死した。拜住はこれを慟哭した。

原文拜住每以學校政化大源,似緩實急,而主者不務盡心,遂致廢弛,請令內外官議拯治之。有言佛教可治天下者,帝問之,對曰:「清淨寂滅,自治可也。若治天下,捨仁義,則綱常亂矣。」又嘗謂拜住曰:「今亦有如唐魏徵之敢諫者乎?」對曰:「槃圓則水圓,盂方則水方。有太宗納諫之君,則有魏徵敢諫之臣。」帝並善之。六月壬寅,敕賜平江腴田萬畝。拜住辭曰:「陛下命臣釐正庶務,若先受賜田,人其謂何?」帝曰:「汝勳舊子孫,加以廉慎,人或援例,朕自諭之。」秋七月,奏召張思明詣上都,數其罪,杖而逐之,鐵木迭兒繼亦病卒。拜住哭之慟。

初め、浙の民の呉機が累代にわたって失業していた田を司徒の劉夔に売り、劉夔は宣政使の八剌吉思に賄賂を贈って諸寺に買い置かせ、僧侶の禄を増やすためとし、詔を偽って庫蔵の鈔六百五十万貫を出してその代価とした。田はすでに久しく他人の所有となっていたが、鉄木迭児父子および鉄失らが上下で欺き隠し、分け取って、汚職の額は巨万に及んだ。真人の蔡道泰が姦淫と殺人を犯し、裁判は既に決していたが、鉄木迭児がその金を受け取り、役人に命じて判決を覆させた。拜住はこの二事を挙げて奏上した。命により台察がこれを取り調べ、ことごとく実情を得て、田は本来の所有者に返還し、劉夔・蔡道泰・八剌吉思らは皆死罪に処せられ、その他は罪に応じて処罰された。特に鉄失は赦免された。

原文初,浙民吳機以累代失業之田賣於司徒劉夔,夔賂宣政使八剌吉思買置諸寺,以益僧廩,矯詔出庫鈔六百五十萬貫酬其直。田已久為他人之業,鐵木迭兒父子及鐵失等上下蒙蔽,分受之,為贓鉅萬。真人蔡道泰以奸殺人,獄已成,鐵木迭兒納其金,令有司變其獄。拜住舉奏二事。命臺察鞫之,盡得其情,以田歸主,劉、蔡、八剌吉思等皆坐死,餘論罪有差。特赦鐵失。

冬十二月、右丞相・監修国史に進んだ。帝は三公の爵位を与えようとしたが、懇ろに辞退したため、遂に左丞相を置かず、彼一人に政務を任せた。まず張珪を推薦して平章政事に復帰させ、致仕した老臣を召し出して任用し、その禄と官位を優遇して中書省で議事に参与させた。順序を飛び越えて人材を登用し、少しでも遅れることを恐れ、日々賢者を進め不肖を退けることを重んじた。法制が統一されず役人の守るべきところがないことを憂え、旧典を詳細に定めて通制とするよう奏上した。帝が五台山に行幸した時、拜住は奏上して言った。「古来、帝王が天下を得るには民心を得ることを根本とし、その心を失えば天下を失います。銭穀は民の膏血であり、多く取り立てれば民は困窮し国は危うく、薄く徴収すれば民は豊かで国は安泰です。」帝は言った。「卿の言は甚だ善い。朕が思うに、民を重んじ、君を軽んずる。国に民がいなければ何をもって君となろうか。今、民を治めることは卿らが熟慮して慎重に行うべきである。」

原文冬十二月,進右丞相、監修國史。帝欲爵以三公,懇辭,遂不置左相,獨任以政。首薦張珪,復平章政事,召用致仕老臣,優其祿秩,議事中書。不次用才,唯恐少後,日以進賢退不肖為重務。患法制不一有司無所守,奏詳定舊典以為通制。帝幸五臺,拜住奏曰:「自古帝王得天下以得民心為本,失其心則失天下。錢穀,民之膏血,多取則民困而國危,薄斂則民足而國安。」帝曰:「卿言甚善。朕思之,民為重,君為輕,國非民將何以為君?今理民之事卿等當熟慮而慎行之。」

三年春二月、仁宗実録を進呈しようとする前日、翰林国史院に赴いて読み上げを聴いた。首巻に大徳十一年の事を記すのに、左丞相ハラハサン(哈剌哈孫)の策定の功績を記さず、ただ越王トゥラ(禿剌)の勇決で従容たる様のみを記していた。史官に言った。「左丞相がいなければ、百の越王がいても何の益があろうか。鷹犬の労を記録して、その発蹤指示をした人を略すのは、よろしいか。」すぐに命じてこれを記させた。その他、筆削が未だ十分でないものは、一つ一つ正した。人々は皆その識見に敬服した。

原文三年春二月,將進仁宗實錄,先一日,詣翰林國史院聽讀。首卷書大德十一年事,不書左丞相哈剌哈孫定策功,惟書越王禿剌勇決從容。謂史官曰:「無左丞相,雖百越王何益?錄鷹犬之勞,而略發踪指示之人,可乎?」立命書之。其他筆削未盡善者,一一正之,人皆服其識見。

夏六月、拜住は海運の糧が世祖の時に比べて数倍も増加していることから、今、江南の民力が極めて困窮しているのに、京倉は満ちあふれているとして、毎年二十万石を減らすよう奏請した。帝は遂に鉄木迭児が増やした江淮の糧も併せて免除した。当時、鉄木迭児の過失と悪行は日々明らかになり、拜住はことごとくこれを奏上して報告した。帝は悟り、その官を奪い、その碑を倒した。奸党の鉄失らは甚だ恐れた。帝が上都におられた時、夜眠りが安らかでなく、仏事を行うよう命じた。拜住は国用が足りないことを理由に諫めて止めさせた。その後、誅殺を恐れる者たちが再び密かに僧侶たちを唆して言わせた。「国に厄難がある。仏事を行い大赦をしなければ、これを除くことはできない。」拜住は叱りつけて言った。「お前たちは金帛を得ようと図っているだけではないか。また罪人を庇おうというのか。」奸党はこれを聞いてますます恐れ、異謀を企てた。晋王エセン・テムル(也孫帖木児)が当時北辺を鎮守していたが、鉄失が密かに人を王のもとに遣わし、逆謀を告げて、事が成れば王を帝に推戴することを約束した。王は命じてその者を囚え、使いを上都に遣わして変事を告げさせた。使いが到着する前に、帝の車駕は南に還り、南坡に宿営した。鉄失は赤斤鉄木児らと夜に、配下のアス(阿速)衛の兵を外応として、拜住を殺害し、遂に行幄において帝を弑逆した。晋王が即位し、鉄失らは誅殺された。詔により役所が儀衛を整え、百官と古老が先導し、海雲寺に拜住の画像を車で運び、盛大に仏事を行った。見物人は数万に及び、嘆息し涙を流さない者はなかった。

原文夏六月,拜住以海運糧視世祖時頓增數倍,今江南民力困極,而京倉充滿,奏請歲減二十萬石。帝遂併鐵木迭兒所增江淮糧免之。時鐵木迭兒過惡日彰,拜住悉以奏聞。帝悟,奪其官,仆其碑。奸黨鐵失等甚懼。帝在上都,夜寐不寧,命作佛事。拜住以國用不足諫止之。既而懼誅者復陰誘羣僧言:「國當有厄,非作佛事而大赦無以禳之。」拜住叱曰:「爾輩不過圖得金帛而已,又欲庇有罪耶?」奸黨聞之益懼,乃生異謀。晉王也孫帖木兒時鎮北邊,鐵失潛遣人至王所,告以逆謀,約事成推王為帝。王命囚之,遣使赴上都告變,未至,車駕南還,次南坡,鐵失與赤斤鐵木兒等夜以所領阿速衞兵為外應,殺拜住,遂弒帝於行幄。晉王即位,鐵失等伏誅。詔有司備儀衞,百官耆宿前導,輿拜住畫相於海雲寺,大作佛事,觀者萬數,無不歎惜泣下。

拜住は国を憂え家を忘れ、常に内廷に直して、知ることは言わないことがなかった。太官が酒を進めると、憂いの色を浮かべた。家の金器百余両、その他の宝物で巨万の価値のあるものを盗まれたが、後に盗人が捕まり金器が得られた時、家来が告げに来ても、喜びも怒りも顔色に表さなかった。延祐の末年以来、水害と旱害が相次ぎ、民は生きるに堪えなかった。拜住が宰相になってから、紀綱を振るい立て、廃れていたことを修め興し、不急の事業を削減し、僥倖の門を塞ぎ、兵士と民衆に恩恵を加え、徭役を軽くし税を薄くした。英宗は彼を頼りとし、共に精神を奮い起こして政治をよくしようとした。当時、天下は平穏で、国は富み民は足り、遠方の夷狄で古来中国と通じなかった者も皆朝貢して官吏を請うた。しかし奸臣たちは彼を恐れ、ついに禍難を仕組んだのである。

原文拜住憂國忘家,常直內庭,知無不言。太官以酒進,則憂形于色。有盜其家金器百餘兩,他寶直鉅萬,繼而獲盜得金,家僮來告,色無喜慍。自延祐末,水旱相仍,民不聊生。及拜住入相,振立紀綱,修舉廢墜,裁不急之務,杜僥倖之門,加惠兵民,輕徭薄斂。英宗倚之,相與勵精圖治。時天下晏然,國富民足,遠夷有古未通中國者皆朝貢請吏,而奸臣畏之,卒搆禍難云。

母のケレイ(怯烈)氏は二十二歳で寡婦となり、節操を守った。初め、拜住が太常礼儀院使であった時、年はちょうど二十歳で、役人が邸宅に来て文書に署名を請うたが、たまたま後ろの園で多くの遊戯を見物していたため、出てくるのが少し遅れた。母は厳しい声でこれを叱って言った。「官事を治めないで、お前のしていることが大人のすることか。」拜住は深く自らを責めた。ある日、内に入り侍宴した。英宗は平素から彼が酒を飲まないことを知っていたが、その日は無理に数杯飲ませた。帰宅すると、母は戒めて言った。「天子がお前の度量を試そうとして、無理に飲ませたのだ。お前はますます戒め慎むべきで、酒に溺れてはならない。」また常に代わって睿宗の原廟に祀りに行き、帰って母のそばに侍ると、母が尋ねて言った。「真定の官府はお前をどのようにもてなしたか。」答えて言った。「非常に重くもてなしてくれました。」母は言った。「彼らは天子の威霊と、お前の先祖の勲功と徳行の故であって、お前に何があるというのか。」拜住の賢さは、母の教えによるものであった。後に東平王夫人に封ぜられた。

原文母怯烈氏,年二十二,寡居守節。初,拜住為太常禮儀院使,年方二十,吏就第請署字,適在後圃閱羣戲,出稍後,母厲聲呵之曰:「官事不治,若爾所為豈大人事耶?」拜住深自克責。一日入內侍宴,英宗素知其不飲,是日強以數巵,既歸,母戒之曰:「天子試汝量,故強汝飲。汝當日益戒懼,無酣于酒。」又常代祀睿宗原廟,歸侍左右,母問之曰:「真定官府待汝若何?」對曰:「所待甚重。」母曰:「彼以天子威靈、汝先世勳德故耳,汝何有焉?」拜住之賢,母之教也。後封東平王夫人。

泰定の初め、中書省が丞相の拜住が忠を尽くし節を全うし、群凶のために命を落としたことを奏上し、後世を輝かすために褒賞と顕彰を賜わることを請うた。制により清忠一徳〔佐運〕功臣・太師・開府儀同三司・上柱国を追贈し、東平王を追封し、諡を忠献とした。至正の初め、至仁孚道一徳佐運功臣に改め、その他は元の通りとした。子は篤麟鉄穆爾(トクリン・テムル)である。

原文泰定初,中書奏丞相拜住盡忠效節,殞于羣兇,乞賜褒崇以光後世。制贈清忠一德〔佐運〕功臣、太師、開府儀同三司、上柱國,追封東平王,諡忠獻。至正初,改至仁孚道一德佐運功臣,餘如故。子篤麟鐵穆爾。