巻135

列傳第二十二:鐵哥朮、塔出、塔里赤、塔海帖木兒、口兒吉、忽都、孛兒速、月舉連赤海牙、阿答赤、明安、忽林失、失剌拔都兒、徹里、曷剌、乞台、脫因納、和尚

鐵哥朮

鐵哥朮は高昌の人である。代々五城に住み、後に京師に移った。曾祖父の達釋は謀略があり、国人から信頼された。太祖が西征すると、高昌国主は恐れ、錦衣と白貂帽を賜って達釋を召し出し相談した。達釋は天命の帰する所を知り、その主君に贄を執り臣と称して国を安んずるよう勧めた。これにより尚書と号された。太祖が軍を返すと、諸王が帝に言うには、「達釋の子の野里朮は驍勇で戦に長け、率いる部落も強大である。聞くところでは、その人は常に衆を率いて帰順したいと思っているが、機会がなかったという。どうして招致しないのか」と。太祖はその議を是とし、直ちに詔を下して駅馬五百を与え、迎えて共に来させた。到着すると引見され、大いに重んじられた。丙午年、太祖が西征すると、野里朮は別に親王按只台に従って敵と戦い功績があり、非常に親しく遇された。王がちょうど赤い蓋で日を遮り座っていたが、野里朮が議事するのを聞くと、喜びが顔色に現れ、長く善しと称えた。退いた後、その蓋を取り払って十里まで送った。遂に四環の衛の必闍赤を兼ねて長となることを得た。壬辰年、国兵に従って金を討ち、戦功が最も多かったため、賞賜は厚かった。甲午年、忽都虎を副えて漢人の戸口を調査し、その賦役を計算し、諸功臣に地を分け与えた。人々はその機敏さに服した。

原文鐵哥朮,高昌人。世居五城,後徙京師。曾祖父達釋,有謀略,為國人所信服。太祖西征,高昌國主懼,以錦衣、白貂帽召達釋與謀。達釋知天命有歸,勸其主執贄稱臣,以安其國,由是號為尚書。太祖班師,諸王言於帝曰:「達釋之子野里朮驍勇善戰,所將部落又強大。聞其人每思率眾效順而未有機便,盍致之乎?」太祖是其議,即詔給驛馬五百,迎與俱來。既至,引見,甚器重之。丙午,太祖西征,野里朮別從親王按只台與敵戰有功,甚見親遇。王方以絳蓋障日而坐,及聞野里朮議事,喜見顏色,稱善久之,既退,撒其蓋送之十里。遂得兼長四環衞之必闍赤。壬辰,從國兵討金,以戰功最多,賞賚優渥。甲午,副忽都虎籍漢戶口,籌其賦役,分諸功臣以地,人服其敏。

鐵哥朮は野里朮の長子であり、特に沈着で猛々しく才能があった。かつて兵を擁して叛く者がいた時、鐵哥朮は族人を率いて魚兒濼で戦った。当時は軍事が起こり、簿書や檄文が頻繁で急を要したが、鐵哥朮は一貫してその国書で記録し、遺失するものがなかった。帝は大いにこれを称賛した。至元年中に(隷)〔棣〕州の達魯花赤に抜擢され、徳安府の達魯花赤に転じた。ちょうど土人の蔡知府という者が衆を率いて叛いた時、鐵哥朮は衆を率いて先に登り、矢石を冒し、身に数か所の槍傷を受けながらも戦いを止めず、遂にこれを討平した。主将は怒り、その城を屠ろうとした。鐵哥朮が請うて言うには、「叛いたのは蔡知府数人だけである。城中の人は何の関わりがあろうか。どうしてその党与を誅するだけで止め、無辜の者にまで濫りに及ぼさないのか」と。主将はその誠実さを称え、城は遂に全うされた。累官して嘉議大夫・婺州路達魯花赤に至り、在任地全てに政績を顕著にした。大徳己亥年に卒去し、成宗はその孫の海寿に命じてその柩を載せて京師に帰葬させ、栄祿大夫・江浙行省平章政事・柱国を追贈し、雲国公に封じ、諡を簡肅とした。

原文鐵哥朮,野里朮長子也,尤沉鷙有才。嘗有擁兵叛者,鐵哥朮率族人與戰于魚兒濼。時軍興,簿檄繁急,鐵哥朮一以其國書識之,無遺失者,帝甚嘉焉。至元中,擢為(隸)〔棣〕州達魯花赤,遷德安府達魯花赤。適土人蔡知府者以眾叛,鐵哥朮率眾先登,冒矢石,身被數槍,猶戰不已,遂討平之。主將怒,將屠其城。鐵哥朮請曰:「叛者蔡知府數人而已,城中之人何預焉?盍誅其黨與而止,毋令濫及非辜。」主將嘉其誠懇,城遂得全。累官至嘉議大夫、婺州路達魯花赤,所在咸著政蹟。大德己亥卒,成宗敕其孫海壽載其柩歸葬京師,贈榮祿大夫、江浙行省平章政事、柱國,封雲國公,諡簡肅。

子は四人。義堅亞禮は幼くして裕宗の宮に給事した。至元十五年、中書省の宣使となった。かつて河南に使いした時、ちょうど汴・鄭で大疫が流行し、義堅亞禮は所在の村郭に室廬を構えさせ、医薬を備えて病人を養わせた。これにより軍民で全活する者が多かった。直省舍人に遷った。中書の檄を承けて上都の儲偫を徴考し、帰還すると、帝は錦衣と貂裘一襲を賜い、その能力を表彰した。出て湖州路達魯花赤となったが、官に在って卒去した。月連朮は安陸府事の同知となった。八扎は宣政院事の同知となった。孫は九人。海寿は義堅亞禮の子である。宿衛より世祖の朝に仕え、累官して太中大夫・杭州路達魯花赤に至り、流民を招き復業させることに恩恵を施した。卒去し、翰林直学士を追贈され、范陽郡侯に封じられ、諡を惠敏とした。

原文子四人:義堅亞禮,幼給事裕宗宮。至元十五年,為中書省宣使。嘗使河南,適汴、鄭大疫,義堅亞禮命所在村郭搆室廬,備醫藥,以畜病者,由是軍民全活者眾。遷直省舍人。承中書檄徵考上都儲偫,及還,帝賜錦衣貂裘一襲,以旌其能。出為湖州路達魯花赤,卒于官。月連朮,同知安陸府事。八扎,同知宣政院事。孫九人。海壽,義堅亞禮子也。由宿衞世祖朝累官至太中大夫、杭州路達魯花赤,招復流民有恩惠。卒,贈翰林直學士,封范陽郡侯,諡惠敏。

塔出

塔出は布兀剌の子である。幼くして孤となり、成長して騎射に長けた。至元元年、世祖に侍し、応対の多くが旨に叶い、宝貨と衣物を賜った。四年、察罕の食邑の賦税の半分を与えられ、またその俘虜となった逋戸三十を還された。七年、金虎符を降され、昭勇大将軍・山東統軍使を授けられ、莒・密・膠・沂・郯・邳・宿・即墨等の城を鎮め、方略を設け、斥候を厳にし、宋人は北に向かうことができなかった。九年、詔して統軍司を行樞密院に改め、僉樞密院事に改めた。数度兵を将いて瀕淮の堡柵を攻め落とし、漣海の地を攻略し、人畜を数万単位で獲た。宋人の蔣德勝が来降した時、塔出は上表して賞賚を加えて来る者を勧めるべきであると言い、そこで黄金五十両を賜り、白金はその倍を与えられた。

原文塔出,布兀剌子也。幼孤,長善騎射。至元元年,入侍世祖,占對多稱旨,賜以寶貨衣物。四年,給以察罕食邑賦稅之半,又還其所俘逋戶三十。七年,降金虎符,授昭勇大將軍、山東統軍使,鎮莒、密、膠、沂、郯、邳、宿、即墨等城,設方略,謹斥候,宋人不敢北嚮。九年,詔更統軍司為行樞密院,改僉樞密院事。數將兵攻下瀕淮堡柵,略地漣海,獲人畜萬計。宋人蔣德勝來降,塔出表言宜加賞賚以勸來者,於是賜黃金五十兩,白金倍之。

十年、僉淮西等処行樞密院事に改め、正陽に城を築いて淮海諸州の兵を扼した。宋の陳奕が安豊・廬・寿等州の兵を率いて数度その工事を妨害したが、塔出は精鋭を選んで日に十数度戦い、奕は逃げ去り、遂に正陽を城した。宋人はまた六安に戦艦を造り、正陽を攻めようとしたが、塔出はこれを探り知り、騎兵を率いてその艦を焼いた。糧秣の輸送が長く続かず、兵を出して険要を占め、密かに安豊の麦を取って軍に供給した。宋兵が横河口に陣を布いた時、塔出は奇兵を将いてこれを大破した。

原文十年,改僉淮西等處行樞密院事,城正陽以扼淮海諸州兵。宋陳奕率安豐、廬、壽等州兵數撓其役,塔出選精銳日十數戰,奕遁去,卒城正陽。宋人復造戰艦於六安,欲攻正陽,塔出詢知之,率騎兵焚其艦。餽饟久不繼,出兵據險,潛取安豐麥以餉軍,宋兵壁橫河口,塔出將奇兵大破之。

十一年、朝議があった。「淮上の諸郡は宋の北藩であり、城は堅く兵は精鋭である。これを攻めれば急に落とすことはできず、ただ我が師を老いさせるだけである。まず江を渡ってその根本を断ち切り、兵を淮甸に留めてその救援を絶つべきである。そうすれば長江は虚に乗じて渡ることができる」。そこで塔出を鎮国上将軍・淮西行省参知政事とし、師を帥いて安豊・廬・寿等州を攻め、生口一万余りを俘らえて献上した。葡萄酒二壺を賜り、また曹州の官園を第宅とし、城南の閑田を与えて牧地とした。

原文十一年,朝議:「淮上諸郡,宋之北藩,城堅兵精,攻之不可猝下,徒老我師。宜先渡江翦其根本,留兵淮甸絕其救援,則長江可乘虛而渡也。」於是以塔出為鎮國上將軍、淮西行省參知政事,帥師攻安豐、廬、壽等州,俘生口萬餘來獻,賜蒲萄酒二壺,仍以曹州官園為第宅,給城南閑田為牧地。

宋の夏貴が舟師十万を帥いて正陽を囲み、淮水を決して城に灌ぎ、ほとんど陥落させようとした。帝は塔出を遣わしてこれを救わせた。道すがら潁州に出ると、宋兵が潁を攻めているのに遭遇した。戍卒は僅か数百人で、盛暑であったが、塔出は直ちに公庫の弓矢を発し、市人を駆り出して戦わせた。潁の北関が攻め破られやすいと予め推測し、急いで民を城内に移し伏兵を待ち構えさせた。その夜、宋人は果たして北関を焼き、火光は天に連なり、塔出は衆を率いて暗闇からこれを射た。矢は雨のように降り注ぎ、宋軍は退走して沙河に至り、大破され、溺死者は数え切れなかった。翌日、長駆して直ちに正陽に向かった。当時は長雨が続いており、包囲を突破して城内に入り、堅く壁を守って出なかった。やがてまた晴れ間が開け、右丞阿塔海と分かれて鋭師を帥いて出撃し、淮を渡って中流に至り、皆が決死の戦いをし、宋軍は大潰し、数十里を追撃し、数千級を斬首し、戦艦五百余艘を奪い、遂に正陽の包囲を解いた。塔出は上奏した。「事の殷なる時には、賞罰を明らかにして、将士に懲戒と勧励を与えるべきである」。帝はその言を容れ、賞を差等をつけて頒布した。秋八月、淮西行省は再び行院となった。塔出は兵を率いて淮を渡り、廬・揚の間に屯した。

原文宋夏貴帥舟師十萬圍正陽,決淮水灌城,幾陷,帝遣塔出往救之。道出潁州,遇宋兵攻潁,戍卒僅數百人,盛暑,塔出即發公庫弓矢,驅市人出戰,預度潁之北關攻易破,乃急徙民入城伏兵以待。是夜,宋人果焚北關,火光屬天,塔出率眾從暗中射之,矢下如雨,宋軍退走至沙河,大破之,溺死者不可勝計。明日,長驅直走正陽,時方霖雨,突圍入城,遂堅壁不出。俄復開霽,與右丞阿塔海分帥銳師以出,渡淮至中流,皆殊死戰,宋軍大潰,追數十里,斬首數千級,奪戰艦五百餘艘,遂解正陽之圍。塔出乃上奏:「方事之殷,宜明賞罰,俾將士有所懲勸。」帝納其言,頒賞有差。秋八月,淮西行省復為行院。塔出引兵渡淮,屯廬、揚間。

十二年、丞相伯顏に従って舟師で宋軍と戦い、宋軍は大潰し、その臣賈似道は揚州に奔った。遂に兵を分けて四方に出撃し、池州を克し、太平を取り、流れに順って東下し、建康・丹徒・江陰・常州に至り、皆風に望んで迎え降った。当時揚州は未だ帰附せず、諜報が揚州人が夜襲を丹徒に仕掛けようとしていると告げた。守将が援軍を乞うたので、塔出は伏兵を設けて待ち構えた。揚州軍は果たして夜に至り、塔出は西津を扼して邀撃し、殺し捕らえ溺死させる者が甚だ多かった。入朝すると、帝は玉帯を賜ってその功を表彰し、淮東左副都元帥を授け、なお金虎符を佩かせた。十三年、通奉大夫・参知政事を加えられ、淮西行中書省事を領した。当時、沿淮の諸州は新たに帰附したばかりで、塔出は侵掠を禁じ、瘡痍を撫で、士卒を練り、姦宄に備え、境内は平穏であった。やがて江西都元帥に遷り、広東を征した。塔出は恩信を宣布し、到る所の溪峒が款を通じ、広東は遂に平定された。

原文十二年,從丞相伯顏以舟師與宋軍戰,宋軍大潰,其臣賈似道奔揚州。遂分兵四出,克池州,取太平,順流東下,至建康、丹徒、江陰、常州,皆望風迎降。時揚州未附,諜告揚州人將夜襲丹徒,守將乞援,塔出設伏以待。揚州軍果夜至,塔出扼西津邀擊之,殺獲溺死者甚眾。入朝,帝賜玉帶旌其功,授淮東左副都元帥,仍佩金虎符。十三年,加通奉大夫、參知政事,領淮西行中書省事。時沿淮諸州新附,塔出禁侵掠,撫瘡痍,練士卒,備姦宄,境內帖然。俄遷江西都元帥,征廣東,塔出宣布恩信,所至溪峒納款,廣東遂平。

十四年、双虎符を加賜され、江西宣慰使となる。宋の益王昰・広王昺が嶺海に走り保つに及び、江西宣慰司を再び行中書省に改め、治所を贛州に遷し、塔出に資政大夫・中書右丞を授け、行中書省事を執らしむ。

原文十四年,加賜雙虎符,為江西宣慰使。宋益王昰、廣王昺走保嶺海,復改江西宣慰司為行中書省,遷治贛州,授塔出資政大夫、中書(左)〔右〕丞,行中書省事。

十五年、二王の事を以て入朝して議す。帝は張弘範・李恒に総兵を命じて進討せしめ、塔出は後方に留まり、以て軍費を供す。初め、江西が平定されたばかりの時、帝はその城を毀つことを命じたが、塔出は即ち上表して言う、「豫章の諸郡は皆江に臨んで城を為し、霖潦が泛溢すれば、城がなければ必ず墊溺に至ります。これを毀つは不便です」と。帝はこれに従う。降附の初め、謀叛する者あり、既に敗れて捕獲されたが、塔出は同僚に謂う、「撫治が乖方であったことによるのである。その中に詿誤なき者があろうか」と。その渠魁を誅するに止め、余党は悉く釈放す。瑞州の張公明が左丞呂師夔の不軌を謀るを訴う。塔出はその誣なりを廉察して言う、「狂夫が貨を求めて脅迫せんとするのみである。もし曚昧の言を以て急ぎ朝廷に聞かせば、則ち大獄ここに興り、無辜に連及しよう。且つ師夔は既に相職に居り、詎んで肯て狂妄の事を為さんや。もし遅疑して決せずんば、彼が驚疑するを恐れ、反って異謀を生ぜん」と。乃ち公明を斬って後に聞かせ、帝は是とす。十七年、入朝し、賜労有り、復た江西に行省するを命ぜらる。尋いで疾を以て京師に卒す。時に年三十七。妻の明理氏は貞節を以て称せられ、その門閭を旌表す。

原文十五年,以二王事入議。帝命張弘範、李恒總兵進討,塔出留後,以供軍費。初,江西甫定,帝命隳其城,塔出即表言:「豫章諸郡皆瀕江為城,霖潦泛溢,無城必至墊溺,隳之不便。」帝從之。降附之初,有謀畔者,既敗獲矣,塔出謂同僚曰:「撫治乖方之所致也,中間豈無詿誤?」止誅其渠魁,盡釋餘黨。瑞州張公明愬左丞呂師夔謀為不軌,塔出廉知其誣,曰:「狂夫欲脅求貨耳,若以曚昧言遽聞之朝廷,則大獄茲興,連及無辜。且師夔既居相職,詎肯為狂妄之事!若遲疑不決,恐彼驚疑,反生異謀。」乃斬公明而後聞,帝是之。十七年,入覲,賜勞有加,復命行省於江西,尋以疾卒於京師,時年三十七。妻明理氏,以貞節稱,旌其門閭。

二子あり。長は宰牙、爵を襲ぎ中奉大夫・江西宣慰使。次は必宰牙、征東行中書省左丞に至る。妻の伯牙倫は泰安郡武穆王孛魯歓の女、亦た義を守り賢行有り。

原文二子:長宰牙,襲爵中奉大夫、江西宣慰使;次必宰牙,仕至征東行中書省左丞,妻伯牙倫,泰安郡武穆王孛魯歡之女,亦守義有賢行。

塔里赤

塔里赤は康里の人。その父は也里里白、太祖の時に武功を以て帳前総校を授かり、旨を奉じて南征し洛陽に至り、唐の白楽天の故址を得て、遂にここに家す。

原文塔里赤,康里人。其父也里里白,太祖時以武功授帳前總校,奉旨南征至洛陽,得唐白樂天故址,遂家焉。

塔里赤は幼より穎異にして、書を読むを好み、特に騎射に善し。父職を襲ぎ、戎幕に参佐し、軍馬を調度して、動きことごとく事宜に合う。行省は奏して断事官に充つ。時に南北の民戸、主客良賤雑糅し、蒙古軍の牧馬草地互いに占拠す。塔里赤を命じてその地に至りこれを理めしむ。軍民各々その所を得、ここより世祖その能を知る。蒙古軍を領して樊襄を囲ましむ。塔里赤躬ずから矢石を冒し、向かう所摧陷し、樊城破れ、襄陽降る。丞相伯顔に従い江を渡り、臨安に駐る。尋いで平章オル赤等を命じて六路に分かれ、宋の二王を追襲せしむ。塔里赤は軍を領して福建に至り、過ぐる所秋毫も犯さず、降する者帰するが如し。宋の都統陳宗栄は衆を率いて来降す。功を以て福建招討使に遷る。

原文塔里赤幼穎異,好讀書,尤善騎射。襲父職,參佐戎幕,調度軍馬,動合事宜。行省奏充斷事官。時南北民戶主客良賤雜糅,蒙古軍牧馬草地互相占據,命塔里赤至其地理之,軍民各得其所,由是世祖知其能。俾領蒙古軍圍樊襄,塔里赤躬冒矢石,所向摧陷,樊城破,襄陽降。從丞相伯顏渡江,駐臨安,尋命平章奧魯赤等分為六路,追襲宋二王。塔里赤領軍至福建,所過秋毫無犯,降者如歸,宋都統陳宗榮率眾來降。以功遷福建招討使。

時に諸郡に盗賊起こり、その最も盛んなる者は陳吊眼、衆五万を擁して漳州を陥とす。行省は制を承けて塔里赤を閩広大都督・征南都元帥と為し、四省の軍を総べ、漳州を復し、陳吊眼を生擒して市に戮し、余党悉く誅せらる。継いて交趾征討に従い、黄聖許等を撃破し、功を積んで鎮国上将軍・三珠虎符・広西両江道宣慰使都元帥を加う。賀州に盗賊起こり、塔里赤これを討平す。福建宣慰使に改め、また浙東に改む。金瘡発して卒す。輔国上将軍・浙東道宣慰使都元帥・護軍を贈られ、臨安郡公に追封さる。

原文時諸郡盜起,其最盛者陳吊眼,擁眾五萬,陷漳州。行省承制命塔里赤為閩廣大都督、征南都元帥,總四省軍,復漳州,生擒陳吊眼戮于市,餘黨悉伏誅。繼從征交趾,擊敗黃聖許等,積功加鎮國上將軍、三珠虎符、廣西兩江道宣慰使都元帥。賀州盜起,塔里赤討平之。改福建宣慰使,又改浙東。金瘡發卒,贈輔國上將軍、浙東道宣慰使都元帥、護軍,追封臨安郡公。

子二人。脱脱木児は邵武汀州新軍万戸府ダルガチ。万奴は広西宣慰使都元帥。

原文子二人:脫脫木兒,邵武汀州新軍萬戶府達魯花赤;萬奴,廣西宣慰使都元帥。

塔海帖木児

原文塔海帖木兒

塔海帖木児は答答里帯の人。その先祖は太祖の時に国王ムカリに事え、左手大万戸下の蒙古軍を将いて、太原以西八州を鎮む。金の将王公佐の軍を破り、公佐を斬る。陝右を攻め、河西を征し、金を滅ぼすに従い、皆功有り、種田戸二百七十を賜う。曾祖テムルゲ嗣ぐ。都元帥タハ・ガンブに従い蜀を征し、興元に死す。祖ジャラダイ嗣ぐ。ジャラダイ卒し、父バイダル尚幼く、従祖ジャリ・ダジュ相継いでその職を襲う。ジャリは都元帥ダダイに従い蜀を征し、統ぶる所の軍二百人を以て宋軍を巴州に破り、首級三百を斬り、生擒五十余人。ダジュは西川行枢密院の檄を以て兵三千人を領して碉門を救い、宋軍を大破し、首級三百余を斬り、百余りを俘えて以て帰る。バイダル既に長じ、始めて父の官を以て行省イェスデルに従い建都を征し、軍中に死す。

原文塔海帖木兒,答答里帶人。其先在太祖時事國王木華黎,將左手大萬戶下蒙古軍,鎮太原以西八州。破金將王公佐軍,斬公佐。從攻陝右,征河西,滅金,皆有功,賜種田戶二百七十。曾祖忒木勒哥嗣,從都元帥塔海紺卜征蜀,死於興元。祖扎剌帶嗣。扎剌帶卒,父拜答兒尚幼,從祖扎里、答朮相繼襲其職。扎里從都元帥大答征蜀,以所統軍二百人破宋軍于巴州,斬首三百級,生擒五十餘人。答朮以西川行樞密院檄領兵三千人救碉門,大敗宋軍,斬首三百餘級,俘百餘人以歸。拜答兒既長,始以父官從行省也速帶兒征建都,死軍中。

塔海帖木児は父職を襲ぐ。初め行院フドンに従い嘉定を囲み、嘉定降る。進んで重慶を囲む。守将張珏は師を出して迎敵す。塔海帖木児は力戦して陣に陷り、功最も多し。十五年、またドル軍二百人を以て宋軍を白水江に破り、戦船一を奪い、その衆十三人を俘う。宣武将軍・管軍総管に陞る。イェスダルに従い亦奚不薛を征し、また都掌蛮を征するに従い、皆前鋒と為し、殺獲甚だ多し。

原文塔海帖木兒襲父職,初從行院忽敦圍嘉定,嘉定降。進圍重慶,守將張珏出師迎敵,塔海帖木兒力戰陷陣,功最多。十五年,又以都魯軍二百人破宋軍於白水江,奪戰船一,俘其眾十三人。陞宣武將軍、管軍總管。從也速答兒征亦奚不薛,又從征都掌蠻,皆以為前鋒,殺獲甚眾。

九溪蛮・散猫・大盤蛮の尚木的世用等叛く。行省クリキスに従い師を帥いて往き討ち、皆これを擒え、及びその酋長頭狗等を殺す。イェスダル・ヤラハンは兵一万を率いて雲南兵と会し烏蒙蛮を討ち、閙竈に至る。その酋長阿蒙は五百余の衆を率いて麻布蛮の地に奔る。塔海帖木児は四百人を以て山箐の中に追い至り、これを大敗し、阿蒙を擒えて以て帰る。二十六年、またイェスダルに従い西征し、その終わりを知らず。

原文九溪蠻、散猫、大盤蠻尚木的世用等叛,從行省曲立吉思帥師往討,皆擒之,及殺其酋長頭狗等。也速答兒、藥剌罕率兵萬人會雲南兵討烏蒙蠻,至閙竈,其酋長阿蒙率五百餘眾奔麻布蠻地,塔海帖木兒以四百人追至山箐中,大敗之,擒阿蒙以歸。二十六年,又從也速答兒西征,不知所終。

口児吉

口児吉は阿速氏。憲宗の時、父フデライと共に賜わり、俱に宿衛に直し、阿速軍二十戸を領す。世祖の時、口児吉は百戸を以て元帥アジュに従い宋を伐ち功有り、白金等の物を賜う。宋平らぎ、命じて大宗正府也可ジャルグチに充て、阿速軍を領して海都征討に従い、功を以て上賞を授かる。師還り、成宗は命じて湖広等処を宣撫せしめ、民瘼を訪求せしむ。還りて仍って旧職。至大元年、武宗は命じて左衛阿速親軍都指揮使に充て、広威将軍に進階す。四年、卒す。

原文口兒吉,阿速氏。憲宗時,與父福得來賜俱直宿衞,領阿速軍二十戶。世祖時,口兒吉以百戶從元帥阿朮伐宋有功,賜以白金等物。宋平,命充大宗正府也可扎魯花赤,領阿速軍從征海都,以功授上賞。師還,成宗命宣撫湖廣等處,訪求民瘼,還仍舊職。至大元年,武宗命充左衞阿速親軍都指揮使,進階廣威將軍。四年,卒。

子の的迷的児は玉典赤より百戸に改め、阿速軍を領す。指揮玉爪失に従い叛王ナヤンを征し、金剛奴の軍を鏁宝直の地に却け、ハダン・トルガンを降す。累ねて功を以て賞を受く。至大四年、父職を襲ぎ、明威将軍・阿速親軍都指揮使を授かる。子の香山は武宗・仁宗に事え、宿衛に直す。天暦元年九月、兵興り、宜興に従い戦い、敵兵七人を撃殺し、旦より暮に至るまで、敵兵を却くること凡そ一十三箇所。功を以て金帯一を賜わり、左阿速衛都指揮使を授かる。

原文子的迷的兒,由玉典赤改百戶,領阿速軍。從指揮玉爪失征叛王乃顏,却金剛奴軍于鏁寶直之地,降哈丹禿魯干,累以功受賞。至大四年,襲父職,授明威將軍、阿速親軍都指揮使。子香山,事武宗、仁宗,直宿衞。天曆元年九月,兵興,從戰宜興,擊殺敵兵七人,自旦至暮,却敵兵凡一十三處。以功賜金帶一,授左阿速衞都指揮使。

忽都、

原文忽都

忽都は蒙古兀羅帶氏の人である。父の孛罕は太祖に仕え、宿衞を務めた。太宗の時に至り、鎮西行省となり、蒙古・漢軍を率いた。河中・潼関・河南の攻略に従い、また拜只思・扎忽歹・阿思蘭と共に秦鞏及び仁和の諸堡を攻め、さらに拜只思と共に京兆を守った。乙未の年、左手萬戸を授かり、都元帥答海鉗卜に従って出征し、軍中で卒した。

原文忽都,蒙古兀羅帶氏。父孛罕,事太祖,備宿衞。至太宗時,為鎮西行省,領蒙古、漢軍。從攻河中、潼關、河南,與拜只思、扎忽歹、阿思蘭攻秦鞏及仁和諸堡,又與拜只思守京兆。歲乙未,授左手萬戶,從都元帥答海鉗卜出征,卒軍中。

憲宗は忽都に命じてその軍を率いさせ、都元帥大答に従って巴州を攻めさせ、また都元帥紐璘に従って馬湖江を渡り、宋の敍州兵を老君山の下で破った。中統元年、宋の将が舟師二千をもって成都新津を犯すと、忽都はこれを迎撃して敗り、百五十級を斬首した。至元元年、蒙古漢軍総管を授かった。二年、都元帥百家奴に従い、宋の将夏貴を懐安で破った。五年、卒した。

原文憲宗命忽都將其軍從都元帥大答攻巴州,又從都元帥紐璘渡馬湖江,破宋敍州兵於老君山下。中統元年,宋將以舟師二千犯成都新津,忽都逆擊敗之,斬首百五十級。至元元年,授蒙古漢軍總管。二年,從都元帥百家奴敗宋將夏貴於懷安。五年,卒。

子の扎忽帶は当時宿衞にあり、弟の忽都答立がその職を襲った。忽都答立が卒すると、札忽帶が嗣ぎ、千戸となり、行樞密院に従って重慶を包囲した。重慶守の張珏が勁兵数千を遣わして挑戦に出ると、札忽帶は力戦してこれを大破した。軍を返して瀘州を包囲したが、未だ下さず、行樞密院は彼を朝廷に入らせて事を計らせ、宣武将軍・管軍総管を授けた。再び還って瀘州を攻め、城に登り、瀘州兵と搏戦して死んだ。子の阿都赤が嗣いだ。

原文子扎忽帶,時在宿衞,弟忽都答立襲其職。忽都答立卒,札忽帶嗣,為千戶,從行樞密院圍重慶。重慶守張珏遣勁兵數千出挑戰,札忽帶力戰大破之。回軍圍瀘州,未下,行樞密院遣入朝計事,授宣武將軍、管軍總管。復還攻瀘,登城,與瀘兵搏戰而死。子阿都赤嗣。

孛兒速、

原文孛兒速

孛兒速は脱脫忒氏の人である。世祖の時に宿衞に直し、車駕に扈従して哈剌章を征し還る時、帝が高き丘に駐蹕し、河北に舟を駕して来る者を見て、左右を顧みて言うには、「これは賊である、どうするか」と。孛兒速が進み出て言うには、「臣がこれを防ぎましょう」と。即ち衣を解き直ちに渡り、戈を揮って舟尾の二人を刺し殺し、その舟を掴んで岸に就かせ、舟中の人は倉惶として措くところを知らず、帝は左右に命じて悉くこれを擒らせた。哈剌章が平定され、功により賞を論じられた。

原文孛兒速,脫脫忒氏。世祖時直宿衞,扈駕征哈剌章還,帝駐蹕高阜,見河北有駕舟而來者,顧謂左右曰:「是賊也,奈何?」孛(思)〔兒〕速進曰:「臣請禦之。」即解衣徑渡,揮戈刺死舟尾二人,拏其舟就岸,舟中之人倉惶失措,帝命左右悉擒之。哈剌章平,以功論賞。

子の答答呵兒は、孛可を征することに従って功があり、宿衞より武徳将軍・揭只揭烈温千戸所達魯花赤に昇った。叛王乃顔・也不干等の征討に従い、戈を奮って数人を撃ち殺し、也不干を擒らえ、その管する欽察の民を収めた。武宗の時、懐遠大将軍・元帥に進み、卒した。

原文子答答呵兒,從征孛可有功,由宿衞陞武德將軍、揭只揭烈溫千戶所達魯花赤。從征叛王乃顏、也不干等,奮戈擊死數人,擒也不干,收其所管欽察之民。武宗時,進懷遠大將軍、元帥,卒。

月舉連赤海牙、

原文月舉連赤海牙

月挙連赤海牙は畏兀児の人である。憲宗に従って釣魚山を征し、命を受けて麹薬を修めて師の疫病を療し、白金五十両を賞された。続いて太子満哥都に従って雲南を征し、数度戦って勝った。中統三年、火都及び答離が叛き、兵を率いてこれを討ち平げた。至元十二年、虎符を佩び、隴右河西道提刑按察使となった。兀朗孫火石顔が乱を謀り、皇太子安西王に従ってこれを鎮めに行き、皇太子より白金五十両を賜わった。

原文月舉連赤海牙,畏兀兒〔人〕。從憲宗征釣魚山,奉命修麴藥以療師疫,賞白金五十兩。繼從太子滿哥都征雲南,戰數勝。中統三年,火都暨答離叛,領兵與討平之。至元十二年,佩虎符,為隴右河西道提刑按察使。兀朗孫火石顏謀亂,從皇太子安西王往鎮之,皇太子賜以白金五十兩。

十五年、伯速帯と共に土魯を平げ、皇子は再び金衣・腰帯・金椀を賜い、かつその功を上聞した。十七年、官を進めて嘉議大夫とし、なお旧職に居た。二十年、中奉大夫・四川等処行中書省参知政事に進み、まもなく病により秦州に帰った。大徳八年に卒した。至順年中、推忠宣力定遠功臣・資善大夫・陝西行省左丞・護軍を追贈され、威寧郡公に追封され、諡して襄靖といった。

原文十五年,與伯速帶平土魯,皇子復賜金衣腰帶金椀,且以其功聞。十七年,進官嘉議大夫,仍居舊職。二十年,進中奉大夫、四川等處行中書省參知政事,尋以疾歸秦州。大德八年卒。至順中,贈推忠宣力定遠功臣、資善大夫、陝西行省左丞、護軍,追封威寧郡公,諡襄靖。

阿答赤、

原文阿答赤

阿答赤は阿速氏の人である。父の昂和思は、憲宗の時に虎符を佩びて萬戸となった。

原文阿答赤,阿速氏。父昂和思,憲宗時佩虎符為萬戶。

阿答赤は憲宗に扈従して南征し、敵兵と剣州で戦い、功により白銀を賞された。阿里不哥が叛くと、也児怯等に従ってこれを征討し、功があった。世祖中統三年、李璮の征討に従い、身をもって二十余戦し、功を累ねて金符千戸を授かった。丞相伯顔・平章阿朮の江南平定に際し、阿答赤は皆その行中にあり、戦功を著し、陣に歿した。帝はこれを憐れみ、特に鈔七十錠・白金五百両を賜わって葬具とし、なお鎮巣の民一千五百三十九戸を賜い、その子伯答児に命じて職を襲わせた。

原文阿答赤扈從憲宗南征,與敵兵戰于劍州,以功賞白銀。阿里不哥叛,從也兒怯等征之,有功。世祖中統三年,從征李璮,身二十餘戰,累功授金符千戶。丞相伯顏、平章阿朮之平江南也,阿答赤皆在行中,著戰功,歿于陣。帝憐之,特賜鈔七十錠、白金五百兩,為葬具,仍賜鎮巢之民一千五百三十九戶,命其子伯答兒襲職。

伯答児は別急列迷失に従って北征し、瓮吉剌只児瓦台と牙里伴朶の地で戦い、功により上賞を受けた。まもなく定遠大将軍・後衞都指揮使に進み、右阿速衞事を兼ね、阿速軍を将いて別失八里を征しに行き、敵兵と累戦累勝した。枢密臣がその功を上聞し、白金・貂裘・弓矢・鞍轡等を賞し、まもなくまた銀坐椅を賜わった。

原文伯答兒從別急列迷失北征,與瓮吉剌只兒瓦台戰于牙里伴朵之地,以功受上賞。尋進定遠大將軍、後衞都指揮使,兼右阿速衞事,將阿速軍往征別失八里,與敵兵累戰累捷。樞密臣以其功聞,賞白金、貂裘、弓矢、鞍轡等,尋復以銀坐椅賜之。

子の斡羅思は、宿衞より隆鎮衞都指揮使司事に昇り、一珠虎符を賜わった。天暦元年、上都の軍若干数を降すよう諭し、特に三珠虎符を賜わり、本衞都指揮使に昇った。

原文子斡羅思,由宿衞陞僉隆鎮衞都指揮使司事,賜一珠虎符。天曆元年,諭降上都軍凡若干數,特賜三珠虎符,陞本衞都指揮使。

明安

明安は康里氏の人である。至元十三年、世祖は民のうち離散して住む者や僧道・漏籍の諸色人で差役に当たらない者一万余人を貴赤に充てるよう詔し、明安にこれを統率させた。明安は毎年車駕に扈従して出入りし、事に当たって勤勉であった。二十年、定遠大將軍・中衞親軍都指揮使を授けられた。翌年、虎符の佩用を賜り、貴赤軍を率いて北征した。また翌年、貴赤親軍都指揮使司が設置されると、本衞の達魯花赤に任ぜられた。まもなく旨を奉じて蒙古軍八千を率いて北征し、翌年、別失八剌哈思の地に至り、海都の軍と戦って功績を挙げた。

原文明安,康里氏。至元十三年,世祖詔民之蕩析離居及僧道、漏籍諸色人不當差徭者萬餘人充貴赤,令明安領之。明安歲扈駕出入,克勤于事。二十年,授定遠大將軍、中衞親軍都指揮使。明年,賜佩虎符,領貴赤軍北〔征〕。又明年,立貴赤親軍都指揮使司,命為本衞達魯花赤。尋奉旨領蒙古軍八千北征,明年,至別失八剌哈思之地,與海都軍戰有功。

二十六年冬十二月、別乞憐が叛き、官站の脱脫火孫・塔剌海らを掠奪したので、明安は衆を率いてこれを追撃し、五度戦って五度勝利し、すべてを奪還した。杭海に至ると、強民の闊闊台・撒兒塔台らが衆を率いて乱を起こし、三站の地を奪い、脱脫火孫を掠奪したので、明安は兵を率いてまたこれを追撃し、その軍を退けた。二十七年秋七月、布四麻・當先別乞失・出春伯駙馬・兀者台・朵羅台・兀兒答兒・塔里雅赤らが四怯薛の牛馬・畜牧を掠奪し、また滅烈太子昔博赤および斡脫・布伯の各投下の民をほとんど掠奪し尽くした。明安は兵を率いて汪吉昔博赤の城においてこれを追撃し、賊軍は敗走し、掠奪した民を還し、その牛馬・畜牧などを獲て帰還した。時に出伯・伯都の率いる軍は食糧が乏しく、旨を奉じて明安の獲た畜牧でこれを救済した。二十九年、功績により定遠大將軍・貴赤親軍都指揮使司達魯花赤に昇進した。時に別失八剌哈孫に盗賊が起こり、詔して兵をもってこれを討たせ、別失八里禿兒古闍において戦い、功績を挙げた。賊軍が再び四千人を忽蘭兀孫に集結させたので、明安は方略を設けてこれと戦い、大いにこれを破った。大德二年、再び兵を率いて北征し、海都と戦った。七年、軍中で没した。子に帖哥台、孛蘭奚がいる。

原文二十六年冬十二月,別乞憐叛,劫取官站脫脫火孫塔剌海等,明安率眾追擊之,五戰五捷,悉還之。至杭海,強民闊闊台、撒兒塔台等率眾作亂,奪三站地,劫脫脫火孫,明安引兵又追擊之,却其軍。二十七年秋七月,布四麻、當先別乞失、出春伯駙馬、兀者台、朵羅台、兀兒答兒、塔里雅赤等掠四怯薛牛馬畜牧,及劫滅烈太子昔博赤并斡脫、布伯各投下民殆盡。明安將兵追擊于汪吉昔博赤之城,賊軍敗走,還所掠之民并獲其牛馬畜牧等以歸。時出伯、伯都所領軍乏食,奉旨以明安所獲畜牧濟之。二十九年,以功陞定遠大將軍、貴赤親軍都指揮使司達魯花赤。時別失八剌哈孫盜起,詔以兵討之,戰于別失八里禿兒古闍,有功,賊軍再合四千人於忽蘭兀孫,明安設方略與戰,大敗之。大德二年,復將兵北征,與海都戰。七年,歿于軍。子曰帖哥台,曰孛蘭奚。

帖哥台は初め昭勇大將軍・貴赤親軍都指揮使司達魯花赤となった。萬戸に改充されると、その叔父の脱迭出を代わりに任じた。帖哥台は後に萬戸から中衞親軍都指揮使に改められ、銀青榮祿大夫・平章政事に進んだ。子に普顏忽里、善住がいる。普顏忽里は懷遠大將軍・貴赤親軍都指揮使司達魯花赤となった。善住は初め宿衞に直し、中書直省舍人・諸色人匠達魯花赤を歴任し、奉議大夫・僉中衞親軍都指揮使司事に遷った。天曆元年九月、一珠虎符の佩用を賜り、丞相燕帖木兒に従って檀州などの地で敵を防ぎ、またその家人の那海ら十一人を率い、自ら馬に乗って出て遼軍と戦い、その軍を退け、八十四人を捕虜として帰還した。丞相はこれを称賛した。

原文帖哥台,初為昭勇大將軍、貴赤親軍都指揮使司達魯花赤。及改充萬戶,則以其叔父脫迭出代之。帖哥台後以萬戶改中衞親軍都指揮使,進銀青榮祿大夫、平章政事。子曰普顏忽里,曰善住。普顏忽里,懷遠大將軍、貴赤親軍都指揮使司達魯花赤。善住,初直宿衞,歷中書直省舍人、諸色人匠達魯花赤,遷奉議大夫、僉中衞親軍都指揮使司事。天曆元年九月,賜佩一珠虎符,從丞相燕帖木兒禦敵檀州等處,又率其家人那海等一十一人,自出乘馬與遼軍戰,却其軍,俘八十四人以歸。丞相嘉之。

孛蘭奚は昭武大將軍・中衞親軍都指揮使となり、累官して銀青榮祿大夫・太尉となった。子の桑兀孫は中衞親軍都指揮使となった。桑兀孫が卒すると、弟の乞答海が職を襲った。

原文孛蘭奚,昭武大將軍、中衞親軍都指揮使,積官銀青榮祿大夫、太尉。子桑兀孫,中衞親軍都指揮使。桑兀孫卒,弟乞答海襲職。

忽林失

忽林失は八魯剌䚟氏の人である。曾祖の不魯罕罕劄は太祖に仕えた。諸国平定に従い、八魯剌思千戸となり、その軍をもって太赤温らと戦い、重傷を負って馬から墜ちたが、帝自ら兵を率いてこれを救い、功績により萬戸に昇進し、黄金五十両・白金五百両を賜り、宿衞に直させた。祖の許兒台は十五歳で賊を馳射することができ、勇略をもって称された。定宗に従って欽察を征し、千戸となった。兵を率いて西番を平定した。世祖に従って宋を伐ち、亳州に至り、宋人と迎え撃ってこれを破った。父の瓮吉剌帶は初め軍器監官となり、世祖に従って阿里不哥を親征し、功績により上賞を受けた。まもなく旨を奉じて西域に使いし、地産を調査して、すべてその実情を得た。帝がまさに大いに用いようとした時に卒した。

原文忽林失,八魯剌䚟氏。曾祖不魯罕罕劄,事太祖。從平諸國,充八魯剌思千戶,以其軍與太赤溫等戰,重傷墜馬,帝親勒兵救之,以功陞萬戶,賜黃金五十兩、白金五百兩,俾直宿衞。祖許兒台,年十五能馳射賊,以勇略稱。從定宗〔征〕欽察,為千戶。領兵下西番。從世祖伐宋,至亳州,與宋人迎敵,敗之。父瓮吉剌帶,初為軍器監官,從世祖親征阿里不哥,以功受上賞。俄奉旨使西域,籍地產,悉得其實。帝方欲大用之而卒。

忽林失は初め宿衞に直した。後に千戸として乃顔征伐に従い、馬を馳せ戈を奮い、敵陣を衝撃し、矢が雨のように降り注ぎ、身に三十三か所の傷を負った。成宗は自ら左右を督してその鏃を抜き出させ、医者に治療させ、その功績を上聞した。世祖は宋を平定して得た銀甕および金酒器などを賜り、太府監を統率させた。後に千戸として皇子闊闊出の出征に従い、帰還後、軍中に留まって鎮守した。

原文忽林失初直宿衞。後以千戶從征乃顏,馳馬奮戈,衝擊敵營,矢下如雨,身被三十三創。成宗親督左右出其鏃,命醫療之,以其功聞。世祖以克宋所得銀甕及金酒器等賜之,命領太府監。後以千戶從皇子闊闊出出征,還,留鎮軍中。

後に成宗に従って海都・都瓦らと戦い功績を挙げ、成宗はこれを嘉し、特に翰林承旨に任じ、まもなく萬戸に改めた。叛王の斡羅思・察八兒らと戦い、功績により榮祿大夫・司徒を授けられ、銀印を賜った。武宗はかつて「群臣の中で国に力を尽くすこと忽林失の如き者は実に少ない、厚くこれを賞賜せよ」と言った。そこで使者を遣わして召し出した。まもなく武宗が崩じ、仁宗が即位し、その旧勲を思い、賞賜は特に厚かった。

原文後從成宗與海都、都瓦等戰有功,成宗嘉之,特命為翰林承旨,俄改萬戶。與叛王斡羅思、察八兒等戰,以功授榮祿大夫、司徒,賜銀印。武宗嘗曰:「羣臣中能為國宣力如忽林失者實鮮,其厚賚之。」於是遣使召見。未幾武宗崩,仁宗即位,念其舊勳,賞賚特厚。

子の燕不倫は初め興聖太后の旨を奉じて千戸に充てられた。まもなく萬戸に改充され、その父の職を代わった。尋いて罷免され、その父が受けた司徒の印および萬戸の符を有司に帰し、なお宿衞に直した。致和元年秋八月、上都において、武宗の恩を思い、同志と合謀して文宗を奉迎しようとした。会に同事者が捕らえられたので、その配下を率いて大都に奔還した。特に龍衣一襲を賜り、通政院使に任ぜられた。天曆元年九月、丞相燕帖木児とともに王禅らの兵を紅橋で破り、また白浮で戦い、また昌平東で戦い、また石槽で戦った。帝はその功績を嘉し、榮祿大夫知樞密院事に拝し、世祖が常に御用いになった金帯を賜った。

原文子燕不倫,初奉興聖太后旨,充千戶。俄改充萬戶,代其父職。尋罷,歸其父所受司徒印及萬戶符於有司,仍直宿衞。致和元年秋八月,在上都,思武宗之恩,與同志合謀奉迎文宗。會同事者見執,乃率其屬奔還大都。特賜龍衣一襲,命為通政院使。天曆元年九月,同丞相燕帖木兒敗王禪等兵于紅橋,又戰于白浮,又戰于昌平東,又戰于石槽。帝嘉其功,拜榮祿大夫知樞密院事,以世祖常御金帶賜之。

失剌拔都児

原文失剌拔都兒

失剌拔都児は阿速氏の人である。父の月魯達某は憲宗の時に阿速十人を率いて入朝し、阿塔赤に充てられた。世祖に従って哈剌章の地に至り、数度戦って勝利し、兀里羊哈台がその功績を上聞し、捕虜の人一人を賜ってこれを賞した。後に金瘡が発して卒した。

原文失剌拔都兒,阿速氏。父月魯達某,憲宗時領阿速十人入覲,充阿塔赤。從世祖至哈剌〔章〕之地,戰數勝,兀里羊哈台以其功聞,賜所俘人一口以賞之,後以金瘡發卒。

失剌拔都児は脱別の地から至り、帝は特に白金・楮幣・牛馬などの物を賜った。至元二十一年、丞相伯顔に従って南征し功績を挙げ、なお阿塔赤に充てられた。帝はかつて海青を放つよう命じ、「新たなものを獲ることができればこれを賞する」と言った。失剌拔都児はすぐに弓を引いて一兎二禽を射て献じ、沙魚皮の雑帯および貂裘を賞され、かつ尚乗寺において少卿とし、阿速において千戸とするよう命じられた。二十四年、武略將軍を授けられ、阿速軍千戸を管し、金符を賜った。乃顔が叛くと、諸王和元魯に従ってこれを征伐し、力戦して功績を挙げた。乃顔が平定されると、帝は金腰帯および銀交牀などを賞した。二十五年、武德將軍・尚乗寺少卿に進み、阿速千戸を兼ねた。哈答安らを征伐し、これを破り、その駱駝・馬などの物を獲た。成宗はその功績を嘉し、軍二千を増して与えた。叛王脱脱を討ち、これを擒らえ、功績により賞を受けた。大德六年に卒した。

原文失剌拔都兒至自脫別之地,帝特賜白金、楮幣、牛馬等物。至元(二)十一年,從丞相伯顏南征有功,仍充阿塔赤。帝嘗命放海青,曰:「能獲新者賞之。」失剌拔都兒即援弓射一兔二禽以獻,賞沙魚皮雜帶及貂裘,且命於尚乘寺為少卿、於阿速為千戶。二十四年,授武略將軍,管阿速軍千戶,賜金符。乃顏叛,從諸王和元魯往征之,力戰有功。乃顏平,帝賞以金腰帶及銀交牀等。二十五年,進武德將軍、尚乘寺少卿,兼阿速千戶。征哈答安等,敗之,獲其駝馬等物。成宗嘉其功,以軍二千益之。討叛王脫脫,擒之,以功受賞。大德六年卒。

子の那海産がその職を襲った。至大二年、宣武將軍・右衞阿速親軍都指揮使に進み、三珠虎符を賜った。泰定二年、覃加して明威將軍となった。

原文子那海產,襲其職。至大二年,進宣武將軍、右衞阿速親軍都指揮使,賜三珠虎符。泰定二年,覃加明威將軍。

徹里

徹里は阿速氏の人である。父の別吉八は憲宗の時に従って釣魚山を攻め、功績により賞を受けた。徹里は世祖に仕え、火児赤を務めた。海都征討に従い、戈を奮ってその前鋒を撃ち、官軍の二人が敵陣に陥ったのを、掖えてこれを救い出し、功により賞を受けた。後に杭海征討に従い、その牛馬・畜牧を獲て、全て軍食に供給した。帝はこれを嘉し、鈔三千五百錠を賞与し、なおこれを士卒に分け与えさせた。

原文徹里,阿速氏。父別吉八,在憲宗時從攻釣魚山,以功受賞。徹里事世祖,充火兒赤。從征海都,奮戈擊其前鋒,官軍二人陷陣,掖而出之,以功受賞。後從征杭海,獲其牛馬畜牧,悉以給軍食。帝嘉之,賞鈔三千五百錠,仍以分賚士卒。

成宗の時、賊が博落脱児の地を占拠したので、兵を率いてこれを討つことを命じられ、三千余人を捕らえ、その酋長を誅して還った。客省使の抜都児らと共に八児胡の地へ赴き、以前に捕獲した人口・畜牧を全てその主に給することを命じられた。軍が帰還すると、帝は特に鈔一百錠を賜った。武宗が潜邸におられた時も、銀の酒器を以てこれを賞した。至大二年、左阿速衛が立てられ、本衛の僉事を授かり、金符を賜った。皇慶二年、湘寧王に従って北征し、功により一珠虎符を賜った。

原文成宗時,盜據博落脫兒之地,命將兵討之,獲三千餘人,誅其酋長還。奉命同客省使拔都兒等往八兒胡之地,以前所獲人口畜牧悉給其主。軍還,帝特賜鈔一百錠。武宗居潛邸,亦以銀酒器賞之。至大二年,立左阿速衞,授本衞僉事,賜金符。皇慶二年,從湘寧王北征,以功賜一珠虎符。

子の失列門は宿衛に直した。致和元年秋八月、知院の脱脱木児に従って潮河川に至り、完者八都児・愛的斤ら十二人を捕らえ、八人を誅し、四人を捕えて京師に帰った。また宜興で失剌・乃馬台らに遇い、迎え撃って戈を奮って二人を撃ち殺し、功により白金・楮幣を賞された。天暦元年、両家店において禿満台児の兵を撃つことに従い、その四人を殺し、また功により賞を受けた。薊州で戦いに従い、またその四人を殺した。十一月、また檀子山で十二人を追撃して殺し、功により左衛阿速親軍都指揮使司僉事を授かった。

原文子失列門,直宿衞。致和元年秋八月,從知院脫脫木兒至潮河川,獲完者八都兒、愛的斤等十二人,戮八人,執四人歸京師。復於宜興遇失剌、乃馬台等,迎戰,奮戈擊死二人,以功賞白金、楮幣。天曆元年,從擊禿滿台兒之兵于兩家店,殺其四人,復以功受賞。從戰薊州,又殺其四人。十一月,又追殺十二人于檀子山,以功授左衞阿速親軍都指揮使司僉事。

曷剌

曷剌は兀速児吉氏の人である。至元九年、世祖に謁見し、詔により太官直に入った。叛王乃顔の討伐に従い、白金・楮幣・甲冑・槖駝・鞍馬を賜った。その才能が遠方への使者に堪えるとして、成宗の時に高麗に使いし、和林に使いし、江西・福建に使いし、使節の趣旨を失わなかった。忠勇校尉・中書直省舎人を授かった。息州を監察に出て、奉訓大夫に遷った。武宗の詔に「曷剌は世祖の旧臣である。奉議大夫・都水監卿を授けるべし」とあった。翌年、嘉議大夫を加えられた。また翌年、金虎符を佩び、直東水韃靼女直万戸府達魯花赤を兼ねた。延祐元年、特旨により資善大夫・遼陽等処行中書省左丞を授かり、なおその軍を監した。三年、召還され、特旨により栄禄大夫・大司農を授かった。卒去、年六十三、推誠宣力保徳功臣・太師・開府儀同三司・上柱国を贈られ、薊国公に追封され、諡して安穆といった。

原文曷剌,兀速兒吉氏。至元九年,見世祖,詔入太官直。從討叛王乃顏,賜白金、楮幣、甲冑、槖駝、鞍馬。以其才堪使遠,成宗時使高麗,使和林,使江西、福建,不失使指。授忠勇校尉、中書直省舍人。出監息州,遷奉訓大夫。武宗詔曰:「曷剌世祖舊臣,可授奉議大夫、都水監卿。」明年,加嘉議大夫。又明年,佩金虎符,兼直東水韃靼女直萬戶府達魯花赤。延祐元年,特授資善大夫、遼陽等處行中書省左丞,仍監其軍。三年,召還,特授榮祿大夫、大司農。卒,年六十三,贈推誠宣力保德功臣、太師、開府儀同三司、上柱國,追封薊國公,諡安穆。

子の不花は、仁宗の潜邸で宿衛した。即位すると、特旨により中順大夫・中書直省舎人を授かり、客省副使に改め、太中大夫・典瑞太監に遷り、左司員外郎・参議中書省事に改め、中奉大夫・中書参知政事を拝し、資徳大夫・宣徽副使・同知宣徽事に改め、典瑞院使に改め、父の監軍を兼ねて世襲し、金虎符を佩び、翰林学士に改めた。至治元年、なお翰林学士、監軍として、東蕃諸部の奏事を管轄した。

原文子不花,宿衞仁宗潛邸。及即位,特授中順大夫、中書直省舍人,改客省副使,遷太中大夫、典瑞太監,改左司員外郎、參議中書省事,拜中奉大夫、中書參知政事,資德大夫、宣徽副使、同知宣徽事,改典瑞院使,兼世其父監軍,佩金虎符,改翰林學士。至治元年,仍翰林學士,監軍,領東蕃諸部奏事。

乞台

乞台は察台氏の人である。至元二十四年に欽察衛百戸となり、土土哈に従って叛王失烈吉及び乃顔を征討し功があり、金符を賜り、千戸に昇った。忽剌出征討に従い、阿里台の地で戦った。元貞二年、病により卒去した。

原文乞台,察台氏。至元二十四年為欽察衞百戶,從土土哈征叛王失烈吉及乃顏有功,賜金符,陞千戶。從征忽剌出,戰于阿里台之地。元貞二年,以疾卒。

子の哈賛赤が職を襲い、創兀児に従って魁烈児の地におり、哈答安と戦って功があった。大徳五年、杭海の戦いに従った。武宗に従って哈剌阿答を親征した。また創兀児に従って不別・八憐を征し、前鋒となり、功により賞賚を受けた。皇慶二年、金符を授かり、千戸となった。明宗が潜邸におられた時、延祐四年に命じられて西征に従い、失剌塔児馬失の地で禿満帖木児と戦い、功によりまた厚く賞され、その地に十五年居住した。天暦二年、金符を賜り、昭勇大将軍・同知大都督府事を授かった。卒去した。

原文子哈贊赤襲職,從創兀兒於魁烈兒之地,與哈答安戰有功。大德五年,從戰杭海。從武宗親征哈剌阿答。復從創兀兒征不別、八憐,為前鋒,以功受賞賚。皇慶二年,授金符,為千戶。明宗居潛邸,延祐四年命從西征,與禿滿帖木兒戰于失剌塔兒馬失之地,以功復受厚賞,居其地十五年。天曆二年,賜金符,授昭勇大將軍、同知大都督府事。卒。

脱因納

脱因納は答答叉氏の人である。世祖の時に乃顔征討に従い、功により上賞を受けた。大徳七年、欽察衛親軍千戸所達魯花赤・武徳将軍を授かり、金符を賜った。八年、太僕少卿に改めた。十年、阿児魯軍万戸府達魯花赤に遷り、金虎符に換え、階を進めて懐遠大将軍とした。まもなく中奉大夫・太僕少卿に改め、なお前職を兼ねた。至大二年、甘粛行尚書省参知政事・通奉大夫を拝した。四年、入朝して太僕卿となり、正奉大夫に昇った。皇慶元年、阿児魯万戸府襄陽漢軍達魯花赤を授かり、なお太僕卿を管轄した。延祐三年、資徳大夫・甘粛行中書右丞を拝した。至治二年、通政使に改め、会福院使に転じ、まもなくまた通政に復した。致和元年、上都に分院した。秋八月、倒剌沙に殺された。文宗が即位すると、特に宣力守義功臣・栄禄大夫・上柱国・中書平章政事を贈られ、冀国公に追封され、諡して忠景といった。

原文脫因納,答答叉氏。世祖時從征乃顏,以功受上賞。大德七年,授欽察衞親軍千戶所達魯花赤、武德將軍,賜金符。八年,改太僕少卿。十年,遷阿兒魯軍萬戶府達魯花赤,易金虎符,進階懷遠大將軍。尋改中奉大夫、太僕少卿,仍兼前職。至大二年,拜甘肅行尚書省參知政事、通奉大夫。四年,入為太僕卿,陞正奉大夫。皇慶元年,授阿兒魯萬戶府襄陽漢軍達魯花赤,仍領太僕卿。延祐三年,拜資德大夫、甘肅行中書右丞。至治二年,改通政使,轉會福院使,尋復通政。致和元年,分院上都。秋八月,為倒剌沙所殺。文宗即位,特贈宣力守義功臣、榮祿大夫、上柱國、中書平章政事,追封冀國公,諡忠景。

子に定童・只児哈朗があった。定童は父の職を襲い、阿児魯万戸府襄陽万戸府漢軍達魯花赤となり、金虎符を佩び、明威将軍となった。只児哈朗は初め欽察親軍千戸所達魯花赤を授かり、金符を佩び、武略将軍となった。朝列大夫・通政院副使に改めて授かり、同知を歴任し、院使に昇り、積官して中奉大夫となった。

原文有子曰定童、只(沈)〔兒〕哈朗。定童襲父職,阿兒魯萬戶府襄陽萬戶府漢軍達魯花赤,佩金虎符,明威將軍。只(沈)〔兒〕哈朗,初授欽察親軍千戶所達魯花赤,佩金符,武略將軍。改授朝列大夫、通政院副使,歷同知,陞院使,積官中奉大夫。

和尚

和尚は蒙古乃蛮台氏の人である。祖父の海速は昔烈木千戸所蒙古軍百戸を務めた。伯父の兀魯不花は初め蒙古軍五十戸を務めた。至元七年、昔烈木千戸に従って南征し、功により権百戸を命じられ、僉省の阿剌海牙に従って樊城を攻めた。十一年、新城攻撃に従い、また鄂東門攻撃に従い、処州を攻め、屡々戦功を立てた。二十五年、銀符を賜り、敦武校尉・後衛親軍百戸を授かった。この年秋に卒去した。父の怯烈吉が襲った。怯烈吉が卒去すると、和尚が襲った。

原文和尚,蒙古乃蠻台氏。祖海速,充昔烈木千戶所蒙古軍百戶。伯父兀魯不花,初充蒙古軍五十戶。至元七年,從昔烈木千戶南征,以功命權百戶,從僉省阿(速)〔剌〕海牙攻樊城。十一年,從攻新城,又從攻鄂東門,攻處州,屢立戰功。二十五年,賜銀符,授敦武校尉、後衞親軍百戶。是年秋卒。父怯烈吉襲。怯烈吉卒,和尚襲。

至大三年、忠翊校尉・後衛親軍副千戸に進み、金符を賜った。延祐二年、江西寧都で賊が起こり、守土の官吏を殺したので、元帥の乞住らに従って総兵してこれを討ち、賊酋の蔡五九を生け捕りにして誅し、その巣窟を擣いた。致和元年八月、西安王が兵を以て倒剌沙を討つに当たり、丞相の燕帖木児に従って烏伯都剌を擒えることを命じられ、兵を分けて備禦した。

原文至大三年,進忠翊校尉、後衞親軍副千戶,賜金符。延祐二年,江西寧都寇起,殺守土官吏,從元帥乞住等總兵討之,生擒賊酋蔡五九誅之,擣其巢穴。致和元年八月,西安王以兵討倒剌沙,命從丞相燕帖木兒擒烏伯都剌,分兵備禦。

天暦元年九月、通州に従って戦い、功により名馬を賜う。犯紅橋の兵を撃つに従い、手に戈を執って二人を刺し殺し、これを破り、紅橋を奪う。及び紐(鄰)澤大夫等と力を合わせて白浮に戦い、その四人を殺す。和尚、丞相に白して曰く、「両軍相戦うに、弁ずべきもの有るべし。今号纓ともに黒く、弁ずるもの無し。我が軍は宜しく白に易うべし」と。丞相然りとす。昌平の栗園に戦い、二人を殺す。また亞失帖木兒と石槽に戦い、三人を殺す。十月、檀州南桑口に於いて禿満台兒を撃つに従い、これを破る。また丞相に従ってその軍を檀州の北に追撃し、功有り。十一月、命じて八衞の把総金鼓都鎮撫司の事を領せしむ。

原文天曆元年九月,從戰通州,以功賞名馬。從擊犯紅橋之兵,手戈刺死二人,敗之,奪紅橋。及紐(鄰)澤大夫等力戰於白浮,殺其四人。和尚白丞相曰:「兩軍相戰,當有辨,今號纓俱黑,無辨,我軍宜易以白。」丞相然之。戰于昌平栗園,殺二人。又與亞失帖木兒戰于石槽,殺三人。十月,從擊禿滿台兒於檀州南桑口,敗之。又從丞相追擊其軍于檀州之北,有功。十一月,命領八衞把總金鼓都鎮撫司事。