元史

列傳第二十一:撒吉思、月合乃、昔班、鐵連、愛薛、闊闊、禿忽魯、唐仁祖、朵兒赤、和尚、劉容、迦魯納答思、闊里吉思、小雲石脫忽憐、斡羅思、朵羅台弟闊闊出、子脫歡、也先不花

撒吉思

撒吉思は回鶻の人で、その国の阿大都督ととく多和思の次子である。初め太祖の弟斡真の必闍赤となり、王傅を領した。斡真が薨じると、長子只不干は早世し、嫡孫塔察兒は幼く、庶兄の脫迭は狂恣で、嫡子を廃して自立せんと欲した。撒吉思は火魯和孫と馳せて皇后に白上し、乃ち塔察兒に皇太弟の宝を授け、爵を襲い王とさせた。撒吉思は功により火魯和孫と分治することとなり、黒山以南は撒吉思がこれを治め、その北は火魯和孫がこれを治めた。

憲宗に従い釣魚山を攻め、勢いに乗じて江南を平定すべしと建言し、帝は嘉納した。憲宗が崩じ、阿里不哥が立つを争い、諸王多くこれに附く者あり。撒吉思は馳せて塔察児に会い、力を尽くして協心して世祖を推戴すべきことを言い、塔察児はこれに従った。世祖が即位すると、撒吉思の言ったことを聞き、北京宣撫に任じ、宮人甕吉剌氏及び金帛・章服を賜った。鎮に至ると、奸を鋤き強を抑え、遼東は以て寧かであった。時に高麗に異志あり、帝は使者を遣わして究治させると、その臣洪察忽に罪を委ね、械をかけて京師に送った。遼東を過ぎる時、撒吉思は訪ねて知るに、洪察忽は直諫をもって意に迕ったのであり、即ち奏疏を上ってその事を直し、帝はこれを釈放せしめた。

李璮が叛くと、命じて撒吉思に師を帥い宗王哈必赤に従ってこれを討たしめた。李璮が誅せられると、哈必赤は城を屠らんと欲したが、撒吉思は力爭して言うには、「王者の師は、誅するは元悪に止まり、脅従の者は治めず」と。因ってその人々を撫摩し、衆情大いに悦んだ。山東行省都督に任じ、経略・統軍二使に遷り、益都路達魯花赤を兼ねたが、拝受せず、上言して山東は重鎮であるから、貴戚を選んでこれに臨ませるべきであると言うと、帝は許さなかった。京城の宅一区、益都の田千頃、及び璮の馬群・園林・水磑・海青・銀鼠裘の類を賜った。兵乱の後、民は牛具に乏しく、これを上聞し、民の丁力を検して官がこれを給した。統軍の抄不花は田遊無度で、稼を害し民を病み、元帥の野速答爾は民田を占拠して牧地とした。撒吉思は事に随って表して上聞した。旨ありて、抄不花を杖一百し、野速答爾にその田を還らしめた。璮の故将毛璋が諸部を率いて謀り、撒吉思を執って宋に帰らんと欲したが、璋の党が上変し、乃ち璋を襲って斬った。撒吉思は嘗て古人の親を挙げ讎を挙ぐるの義を慕い、叛帥の故卒も、子姓と参用するを得て、公論多くこれを称した。山東は年毎に屡々凶作で、朝廷に請うて、粟を発して賑恤した。またその田租を蠲免するよう奏上し、山東人は石を刻んで徳を頌した。卒す、年六十六。後に安邊経遠宣恵功臣を贈られ、諡して襄恵という。

月合乃

月合乃、字は正卿。その先は雍古部に属し、臨洮の狄道に徙居した。金が地を略すと、尽く室を挙げて遼東に遷った。曾祖の帖木爾越哥は、金に仕えて馬歩軍指揮使となり、官名に馬があったため、馬を氏とした。祖の把掃馬野禮屬は、静州の天山に徙り、財をもって辺に雄たった。宣宗が汴に遷ると、父の昔里吉思は尚書省訳史に辟され、開封判官を試み、鳳翔府兵馬判官に改まり、国事に死し、輔国上將軍・恒州刺史を贈られ、廟号は褒忠という。

月合乃は学を好み気を負い、父が死した時、年わずか十七、奮然として冠を地に投げて言うには、「吾が父は国難に死せり、吾独り家難を紓ぐこと能わざるや」と。時に国兵が汴を破り、母に侍って北行し、艱関鋒鏑の中にあった。北して憲宗に謁し、辞容端謹で、帝は嘉賞し、卜只児断事官の事を賛せしめ、燕の故城を治所とした。月合乃は慨然として治道を自任し、政事修挙した。

壬子の歳、中原において民丁を料し、凡そ儒を業とする者は一経を通じ試みれば、即ち編戸と異なり、令甲として著した。儒人が丁を免ぜられるのは、実に月合乃に始まる。性、施与を好み、嘗て常平倉を立てるよう建言した。海内の賢士楊春卿・張孝純の輩を挙げて諸郡に分布させ、人を得たりと称された。また名士の敬鼎臣を羅致して、舘下に授業せしめ、馬文玉・牛応之の輩を参佐として薦引し、後皆卿相の位に至った。

己未の歳、世祖が親王として南征し、これに従って汴に行き、専ら饋饟を司らせ、済南の塩百万斤を運び、以て公私の費を給した。過ぎた州郡、汴・蔡・汝・潁の間、商農安業し、軍政修挙したのは、月合乃の力があった。即位すると、詔を降して褒奬した。世祖が親征して阿里不哥を討たんとすると、月合乃は私財を出し、馬五百を市って軍を助けた。帝はその家を厚く贍して言うには、「汝に償うべし」と。礼部尚書に拝し、金虎符を佩かせた。

四年、南辺靖まらず、月合乃は光・潁等の処に榷場を立てれば、歳に鉄一百三万七千余斤を得、農器二十万事を鋳、以て粟四万石と易えて官に輸すれば、官民両便なるのみならず、因って南方を鎮服し得ると建言した。詔して本職をもって兼ねて已に括した戸三千を領し、鉄冶を興煽せしめ、その蒙古・漢軍ともに節制を聴かしめた。行かずして疾にて卒す、年四十八。推忠宣力翊運功臣・正議大夫・僉書枢密院事・上軽車都尉・梁郡侯を贈られ、諡して忠懿という。

子孫、仕籍に登る者甚だ衆し。仁宗の朝に至り、詔して科挙を行うと、曾孫の祖常は博学で文章を能くし、郷試・会試ともに挙首となった。翰林応奉より、監察御史に拝し、直言して上官の意に忤い、去って浮光に居した。数年して、起用されて翰林待制となり、累遷して御史中丞となり、卒して諡して文貞という。

昔班

昔班は畏吾の人である。父の闕里別斡赤は身長八尺、智勇人に過ぎ、太祖の北征を聞き、兵を領いて来帰した。回回国を征することに従い、数たび功を立て、重く賞せられんとしたが、自ら本国の坤閭城達魯花赤となることを請い、これに従い、仍って種田戸二百を賜った。卒す。

昔班は世祖が潜邸にあった時分に仕え、必闍赤の長官に任ぜられた。中統元年、真定路達魯花赤とされ、戸部尚書・宗正府札魯花赤に改めた。阿里不哥の叛に際し、帝は昔班を河西に遣わし、糧運を督して軍に供給させた。西京の北に帰還する途中、万戸阿失鉄木児らが士卒を選抜し、まさに阿里不哥に従わんとしていると聞いた。昔班は詔を偽ってその軍に行在所へ赴かせようと召し、阿失鉄木児は狐疑して決断しなかったが、昔班は委曲を尽くして諭し、かつ言った、「皇帝は兄、阿里不哥は弟である。兄に従うのは順理の事、また何を疑うことがあろうか」。阿失鉄木児らは夜を期して議論することを請い、翌日に返答することを約し、かつ兵をもって昔班を包囲して待った。翌日、皆が来て言った、「汝の言に従おう」。すなわち便宜を以て西京の銭糧をその軍に給し、遂にこれを率いて行った。入見すると、帝は嘆じて言った、「戦陣の間にあって、一夫の助力を得ることでさえ、なお益があるものだ。昔班が二万の軍を率いて来た、その功績は少ないと言えようか」。

海都が叛くと、世祖は大いに兵を閲し、これを討たんとした。先に昔班をして海都に使いさせ、兵を罷めさせ、駅伝を置いて来朝させようとした。昔班が海都のもとに至り、旨を伝えて諭すと、海都は命を聴き、すでに軍を退き駅伝を置いたが、丞相安童の軍は先に火和大王の部曲を撃破し、その輜重をことごとく獲た。海都は恐れ、逃れんとして、昔班に言った、「汝を殺すことは難しくないが、我が父がかつて汝に書を授かったことを思い、ひとまず汝を帰して、安童の事を上聞させよう、我が罪ではない」。昔班がこれを上聞すると、帝は言った、「汝の言う通りである。先に来た者も、かつてこのようなことを言っていた」。まもなく中書右丞に任じ、政事を商議させ、宗王の娘不魯真公主を妻とした。翌年、再び海都に使いし、来帰するよう諭し、かつ言った、「もし我に従わねば、諸王の蕃えいの兵に敵することができようか」。海都は死を畏れて敢えてしないと辞した。昔班は使節を奉じて奔走すること三年、風沙が目を翳し、時に年すでに七十であった。翰林承旨に任じ、全俸を与えて老を養わせ、八十九歳で卒した。

子の斡羅思密は、至元二十三年、浙東宣慰使を授かった。浙東で盗賊が起こり、偽って印璽を鋳造し、天降大王と僭称したが、斡羅思密はこれを討平した。広西に移鎮し、峒蛮の羅天佑が乱を起こしたが、招諭して降した。六十九歳で卒した。子の咬住は、至大三年、典用監卿を授かった。世祖の御帯を盗んだ賊があり、賊を購うために五千錠を懸賞したが、咬住がこれを擒獲し、盗賊は誅せられ、咬住は賞を辞した。武宗はその功を誇らぬことを嘉し、千錠を与えた。官は栄禄大夫・宗正府札魯火赤に至った。

鉄連

鉄連は乃蛮の人で、絳州に居住した。祖父の伯不花は宗王抜都の王傅であった。鉄連は魁偉で寡言、謀略があり、早くより王府に宿衛した。抜都が平陽を分地とすると、鉄連をして隰州を監させた。中統初年、平陽馬歩站達魯花赤に転任した。

至元初年、宗王海都が叛くと、朝廷でこれを討伐しようと議したが、世祖は言った、「朕は宗室の情を以て、ただ徳を以て懐柔すべきである。謹密にして大事を任せうる者を選んで使いさせよ」。左右が鉄連を以て応えたので、遂に召見し、大事について語ると、鉄連の応対は旨に叶った。帝はその弁慧を嘉し、言った、「この事は汝でなければならぬ。しかし必ず先に抜都蒙哥鉄木王の所に詣で、ともに事を計ってから行け」。二人を副使とした。鉄連は命を受けると、直ちに海都の境に赴き、その虚実を視察し、それから諸王と議しようとした。副使は従わず、言った、「上は我らに先ず王と議することを命じられた。今急に敵境に赴くことはできない」。鉄連は言った、「親しく密旨を承った。汝らが違えば誅せられるべきである」。副使は恐れて従い行った。至ると、海都は日々宗親を召して宴飲し、隙を伺って謀害しようとした。鉄連は厳しい声でこれを叱って言った、「まず食え、語るな。言葉が口を滑れば、互いに摘発して罪とされるであろう」。しばらくして、海都は言った、「実に直だな」。酒宴半ば、鉄連は衣を求めて歓を交わそうとした。海都はその雄弁を嘉し、解いて与えようとしたが、その妃が止め、皮服二襲を渡した。そこでその配下に語って言った、「使者たる者はかくあるべきだ」。厚く贈って送り出した。抜都蒙哥鉄木王の所に至ると、詳しく故を告げた。王は言った、「祖宗に訓えがある。叛く者は人がこれを誅すべし。もし通好に従わねば、師を挙げて天罰を行い、我は外から応じて掩襲すれば、剿絶すること難くない」。鉄連は帰還し、ことごとく事を上聞し、帝に言上して言った、「海都の兵は多く鋭い。速戦は適さず、来れば堅く塁を守って待ち、去れば追わず、自ら守りを固くすれば、憂い無し」。帝は深くこれを然りとした。海都から受けた皮服に勅して、すべて金で飾らせ、朝会の際には、これを服して示すべきとした。その賞賜は数えきれなかった。

後にたびたび抜都王の所に使いし、道中海都の游兵に遇った。副使が先に行き、応対を誤って害された。鉄連が後から至り、言った、「我は天子の使である。非礼を以てこれを犯すことができようか」。游兵は言葉に窮し、遂に言った、「先のは偽使、これは真の使だ」。これを釈放し、遂に独りで帰還できた。帝は嘗て侍臣に謂って言った、「鉄連があれば、朕の宗族は和を失わぬであろう」。海都は抜都王が備えを厳重にしていると窺い、心はようやく平らかになった。鉄連は始終四度往復し、十四年を経た。帝は鉄連に言った、「朝廷の官で要重なる者は、ただ汝の選ぶところに任せよう」。答えて言った、「臣の志は王室にあり、その事は未だ成らず、敢えて命を受けることができません。今臣の母は絳州にあり、老いて病んでおります。朝夕侍ることができれば幸いです」。詔してその請いに従い、絳州達魯花赤を授けた。

至元十五年、平陽の李二が乱を謀ったが、鉄連が捕らえて問い、ことごとくその情状を得た。中書がその官位を進めるよう奏上すると、帝は言った、「鉄連はただこれを行うのみであろうか」。宣武将軍を加えた。至元十八年、官において病没した。六十四歳。子の答剌帯が嗣ぎ、信武将軍・同知大同路総管府事に任官した。

愛薛

愛薛は西域弗林の人である。西域諸部の語に通じ、星暦・医薬に巧みであった。初め定宗に仕え、直言敢諫した。時に世祖は藩邸にあり、これを器とした。中統四年、西域星暦・医薬の二司事を掌ることを命じ、後に広恵司と改め、なおこれを領することを命じた。世祖は嘗て都城で大いに仏事を行い、教坊の妓楽および儀仗を集めて迎導させようと詔した。愛薛が奏上して言った、「高麗は新たに附き、山東は初めて定まり、江南は未だ下らず、天下は疲弊しております。これは益なき費で、甚だ謂れ無きことです」。帝は嘉してこれを納れた。至元五年、保定に従猟し、日が久しくなると、帝の前でゆったりと供給の民について語り、「お前たちの耕作を妨げはしないか」と言った。帝は猟を罷めた。

至元十三年、丞相伯顔が江南を平定して帰還すると、姦臣が流言飛語でこれを讒したが、愛薛が叩頭して諫め、解かせた。まもなく詔を奉じて西北の宗王阿魯渾の所に使いした。帰還すると、平章政事に拝されたが、固く辞した。秘書監に抜擢され、崇福使を領し、翰林学士承旨に遷り、国史修撰を兼ねた。

大徳元年、平章政事を授かった。八年、京師で地震があり、上は不であった。中宮が召して問うた、「災異は下民の致すところか」。答えて言った、「天地が警告を示されるのであって、民が何か関わるでしょうか」。成宗が崩ずると、内旨で星暦の秘文を求められたが、愛薛は厳しい色でこれを拒んだ。仁宗の時、秦国公に封ぜられた。卒し、太師・開府儀同三司・上柱国・拂林忠献王を追封された。

子は五人:也里牙(秦國公・崇福使)、腆合(翰林學士承旨)、黑厮(光祿卿)、闊里吉思(同知泉府院事)、魯合(廣惠司提舉)。

闊闊

闊闊、字は子清、本姓は蔑里吉氏の部族、代々不里罕哈里敦の地に居住す。その俗はぎょう勇にして、騎射に長け、諸族はこれを頗る憚る。國初、挙族内附す。世祖が潜邸に居し、闊闊を選びて近侍と為す。

歳甲辰、世祖、王鶚の賢を聞き、兵を避けて保州に居るを、使を遣わして徴し至らしめ、治道を以て問い、闊闊と廉希憲に命じて皆師事せしむ。既にして闊闊は外に使いし、迨びて還るに、鶚は已に行けり、思慕して号泣し、食わざること累日、世祖聞きて之を異とす。歳庚戌、憲宗、復た鶚を召して和林に至らしめ、仍て闊闊に命じて之に従い游ばしむ。毎旦起き、盛んに其の冠服を飾る、鶚これを譲りて曰く「聖主は賢を好み善を楽しみ、天下の士を徴し、命じて若をして学に従わしむ。若等は主上の心に称うること能わず、惟だ鮮華を誇衒して以て驕貴の気を益す、恐らくは外に於いて窒り中に於いて塞がり、道義の言、自ら入る無からん、吾の取らざる所なり」と。闊闊深く自ら悔悟す。明日、俱に純素を以て進み、鶚乃ち悦ぶ。

歳壬子、命を奉じて諸路の軍籍を簽し、丁壮にして産多き者を以て之を充つ、至る所編籍して撓まず、人皆之を徳とす。還るに及び、帝悦び、命じて燕京の匠局を領せしむ。世祖即位し、特に中書左丞を授く。未だ幾ばくもあらず、大名路宣撫使に遷り、疾を以て卒す、年四十。

子堅童、字は永叔、少にして孤、はやく十歳にして、即ち王鶚に従い游ぶ。既に長じ、命を奉じて国学に入り、復た許衡に従い游ぶ。弱冠にして禁廷に入り侍し、中順大夫・侍儀奉御を授かる。中議大夫・同修起居注に遷る。及び使を奉じて済南に至り、楊桓の賢を見、遂に力を尽くして之を薦む。至元二十三年、嘉議大夫・禮部尚書を授かる。吏部尚書に遷り、秩未だ満たざるに、特に通議大夫・御史臺侍御史を授く。

二十四年、東征に扈従し、屢戦して功有り、燕南河北道提刑按察使に遷る。二十八年、正議大夫・燕南河北道肅政廉訪使を授かり、遂に河南行省平章政事を拝し、駅伝を以て召し闕に赴かしむ、未だ拝せず、疾を以て卒す、年三十九。

禿忽魯

禿忽魯、字は親臣、康里亦納の孫亞禮達石の第九子なり。幼より世祖に侍し入り、命じて也先鐵木兒・不忽木と共に許衡に学ばしむ。帝一日其の学ぶ所を問う、禿忽魯と不忽木対えて曰く「三代治平の法なり」と。帝喜びて曰く「康秀才、朕初めに汝を使い往き学ばしむ、汝の即ち此れを知らんとは意わざりき」と。蒙古學士・奉議大夫・客省使を除し、兵部郎中に進み、僉太史院に遷る。嘗て世祖に宴見し、屢び古今の治乱政要を開説し、裨益する所多し。

至元二十年、中書右司郎中に遷る。未だ幾ばくもあらず、大宗正薛徹干、其の府の判署を掌り諸獄の文案を閲するを薦む。嘗て暮に帰り、愀然として若し求めて未だ獲ざる者有るが如し、家人之を問う、曰く「今日議する所は、死案なり、我が心に疑有り、欲く所以に之を活かすを求めんとす、未だ其の方を得ざるのみ」と。他日帰り、喜びて曰く「我之を得たり!法に於いて当に辺地に流徙すべし」と。吏部尚書に遷る。

時に哈剌哈孫、湖広平章と為り、嘗て禿忽魯と共に大宗正に在り、素より其の賢を知り、挙げて以て自ら輔けしむ、遂に資德大夫・湖広右丞を授く。時に湖南・北の盗賊、舟に乗じて縱横に劫掠す、哈剌哈孫之を患う、禿忽魯曰く「樹茂れば鳥集まり、樹を伐れば則ち散ず、一人を戮するは足れり」と。盗首喬大使なる者、九江に居り、郡守曳剌馬丹賂を取りて之を蔽う、使を遣わし擒えて来らしめ、獄成り、殺して諸市に令す、群盗頓に息む。湖南宣慰張國紀、夏税を創めて徴す、民堪えず、禿忽魯屢び之を罷むるを請う。

至元二十九年、辰州蠻叛す、副樞劉國傑・僉院唆木蘭往きて之を討つ、利あらず、移文して辰・澧・沅の民間の弩士三千を索む、哈剌哈孫、民は戦に習わず、強いて之を徒らすは吾が民を傷つくるとし、許さず。禿忽魯曰く「兵は訓練を貴ぶ、乃ち用うべし。漢軍は弩に習わず、蠻を因りて蠻を攻むるは、古の利と為す所なり」と。遂に之を与う、果たして此を以て勝ちを獲る。

成宗即位し、江浙右丞に遷る。適た歳旱、方に至りて雨降る、民心大いに悦ぶ。未だ幾ばくもあらず、平章不忽木卒す、帝之を思い、近侍に問うて曰く「群臣孰か不忽木に似たる者有るや」と。賀伯顔対えて曰く「禿忽魯其の人なり、且つ先帝の知る所なり」と。遂に駅伝を以て召し還し、雕鞍・弓矢を賜い、俄かに樞密副使に遷る。大德七年卒す、年四十八。推忠翊亮佐理功臣・榮祿大夫・江浙等處行中書省平章政事・柱國・大司徒しと・趙國公を贈り、諡して文肅と曰う。

子山僧、仕えて晉寧路總管に至る。

唐仁祖

唐仁祖は字を壽卿といい、畏兀の人である。祖父は唐古直といい、子孫はこれにより唐を氏とした。初め、畏兀が国を挙げて帰順したとき、唐古直は時に十七歳で、太祖に給事し、これにより睿宗に属させられ、言われた、「唐古直は大事を任せうる。」睿宗は未だ用いるに及ばず、莊聖皇后がこれを抜擢して札魯火赤とした。父の驥は、豪爽で射猟を好んだ。世祖が即位すると、驥を裕宗の潜邸の必闍赤に任じ、達魯花赤に昇進させた。

仁祖は幼少より聡明で悟りが早く、父が没すると、母が彼に読書を教え、諸方の言語に通じ、特に音律に精通した。中統の初め、諸貴冑を人質とするよう詔があり、帝が自らこれを閲し、仁祖を見て言われた、「これは唐古直の孫か?聡明であることは疑いない。」国字(モンゴル文字)を習わせた。至元六年、中書省が選抜して蒙古掾に充てた。十六年、平陽で囚人を記録し、冤罪を平反し滞っていた者で死刑を免れた者は合わせて十七人であった。十八年、翰林直學士を授けられた。時に中書が真定・保定両路の租税の滞納を奏上したが、数年決せず、仁祖を遣わしてその文書を閲させたところ、皆中統の旧案であり、急ぎ還って奏上してこれを罷免させた。工部侍郎に転じ、中書右司郎中を除され、参議尚書省事を拝命した。

時に丞相桑哥が政権を執り、威勢がまさに盛んであったが、仁祖は議論を曲げず、たびたび桑哥に逆らい、人々は皆彼を危ぶんだが、仁祖は泰然自若としていた。工部尚書に遷ると、桑哥は曹務の煩雑劇務を以て特に彼を苦しめようとしたが、仁祖はこれを平然と処した。まもなく雲中に使わされたが、桑哥が工部の織物の課税がやや緩慢であると考課し、怒って言った、「国家の歳用を誤る!」急ぎ駅騎を遣わして追い還させ、桑哥の相府で引見すると、すぐに直吏に命じて拘束し督工に赴かせ、かつその期限を促し、言った、「期限に違えば必ず汝を法に致す。」左右は皆彼のために恐れた。仁祖は退き、諸署長を召して悠々と諭して言った、「丞相の怒りは我にあり、汝らにはない。汝らは恐れるな、力を加えて努めるがよい。」衆は皆感激し、昼夜を分かたず功を倍加し、期限に及ばずに完成したので、罷免された。やがて桑哥が獄に繋がれると、旨があり仁祖に命じてその家を没収させた。翌日、桑哥は左右の援けにより釈放され、衆は見て愕然とし、仁祖を見て言った、「怒れる虎の威を、再び犯せようか!」皆、垣を越えて逃げたが、仁祖だけはこれに動じず、桑哥はついに敗れた。

二十八年、翰林學士承旨・中奉大夫を除された。遼陽が飢饉となり、旨を奉じて近侍の速哥・左丞忻都と共に往きて賑済した。忻都は戸籍の口数(人数)の大小に従って給付しようとしたが、仁祖は言った、「不可である。昔籍の小口(子供)は、今や既に大口(大人)となっている。大口を以て給付すべきである。」忻都は言った、「もし善名を求めようとして、我を悪に陥れようとするのか!」仁祖は笑って言った、「我ら二人の善悪は、衆が既にはっきり知っている。どうして今になって初めて名を求めようか。我は国のために民を憐れむことを知るのみで、どうして汝の言葉を気にかけようか?」ついに大口で給付した。まもなく通奉大夫・將作院使を除された。

成宗が即位すると、大母元妃を皇太后と尊び、仁祖が書を善くするので、特に冊文を書くよう勅した。また詔を奉じて世祖の御容の絲織像を督工させ、三年を経て完成を告げた。大徳五年、再び翰林學士承旨・資善大夫・知制誥兼修國史を授けられ、病により卒した。五十三歳。榮祿大夫・平章政事を贈られ、洹國公に追封され、諡は文貞といった。

子の恕は、初め奉訓大夫・壽武庫提點を授けられた。至大年間中、翰林待制に遷り、後に累遷して亞中大夫・侍儀使に至った。

朵兒赤

朵兒赤は字を道明といい、西夏の寧州の人である。父は斡扎簀で、代々その国の史を掌った。初め西涼を守り、父老を率いて城を挙げて太祖に降り、旨があり撒都忽を副えて中興路管民官とした。国兵が西征するとき、糧秣の輸送が絶えず、毫髪の私もなく、時に満朝清と号された。世祖が即位すると、斡扎簀は病臥して卒した。遺奏を高智耀を通じて進上し、名爵を謹み財用を節するよう請うた。帝は嘉してこれを容れられた。

朵兒赤は十五歳で、古注の論語・孟子・尚書に通じた。帝は西夏の子弟に俊逸が多いので、試みに用いようと、香閣に召して見られ、帝は言われた、「朕は聞く、儒者は嘉言が多いと。」朵兒赤は奏上して言った、「陛下は聖明仁智で四海を有せられるが、ただ君子に親しみ小人を遠ざけるべきです。古来帝王で小人によって亡びなかった者はありません。ただ陛下にご明察を願います。」帝は言われた、「朕は廷臣に剛直な忠言があれば、未だかつて喜んで受け入れなかったことはない。違逆する者も、未だかつて罪を加えたことはない。忠直を養い、諂佞を退けようとするためである。汝の言葉は甚だ朕の意に合う。」そこで何に仕えたいかと問うと、朵兒赤は答えて言った、「西夏の営田は、実際に正軍を占めており、もし調用があれば、また耕作を妨げます。土地は瘠せ野は広く、十のうち一も開墾されていません。南軍が屯聚して以来、子弟が繁殖して次第に多くなりました。もしその成年に達した者を、別に籍に編入して屯田の労力を充実させれば、地利は多くなり兵は余るでしょう。その総管となり、計画を尽くしたいと請います。」帝はこれを許可し、中興路新民総管を授けた。官に至ると、その子弟の壮健な者を記録して田を開墾させ、黄河の九つの口を塞ぎ、その三つの流れを開いた。凡そ三年で、賦税の額は倍増し、そのまま営田使に転じた。任期満了で入朝すると、帝は大いに喜び、潼川府尹に昇進させた。時に公府に祿田がなかったが、朵兒赤は官の空地を民に与え、官秩に応じて畝を分け、その税を軽くした。潼川の仕官者に祿が有るのは、これから始まった。

まもなく、臺臣が奏上して雲南廉訪副使とした。時に雲南の諸蛮が叛き、僚佐は皆故を称して去ったが、朵兒赤だけが居残って守った。また八月、省臣は大いに恐れ、符印を返して遁走しようとしたが、朵兒赤は梁王に白状し、檄を得てから出た。山南廉訪副使に遷り、まもなく、また雲南廉訪使に調任された。時に行省丞相帖木迭兒が貪暴で誅殺を擅にし、安撫使法花魯丁をでっち上げ、極刑に処そうとした。朵兒赤はこれに言った、「生殺の権は天子に係る。汝が方面の臣として専ら殺すとは、意は何としようとするのか。小民が法に罹っても、なお必ず審覆するのに、まして朝廷の臣をや。」法花魯丁はついに免れ、まもなくその官を復した。[上𣗥下火]夷が蛮と仇殺し合ったとき、時に省臣が賄賂を受け、その仇討ちを助け、偽って蛮が叛いたと奏上し、兵を起こして良民を殺した。朵兒赤が奏劾し、ついにこれを罷免した。六十二歳で、官において卒した。

子の仁通は、雲南省理問となった。天暦二年三月、雲南の諸王と萬戸伯忽らが叛き、仁通が官軍を率いてこれに抗し、陣に没した。

和尚〔千奴〕

和尚は、玉耳別里伯牙吾台氏である。祖父の哈剌察兒は、配下を率いて太祖に帰順した。父の忽都思は、膂力が人に優れていた。壬辰の年、睿宗に従って金の大将合達の軍を鈞州三峯山で破り、功により抜都魯の号を賜った。甲午、金が滅亡した。乙未、管軍百戸を授けられ、宋の唐・鄧・潁・蔡・襄陽・郢・復・信陽・光等州を攻めに従い、たびたび戦功を立てた。辛亥、名馬・文錦・白金・甲冑・弓矢を賜った。乙卯、漢上の鐵城寨を攻めに従い、軍中に没した。竭忠宣力功臣・資德大夫・中書右丞・上護軍・沇國公を贈られ、諡は武愍といった。

和尚は父の職を襲った。己未、世祖に従って鄂州を攻めた。中統三年、李璮が叛き、国兵に従ってこれを討ち、老僧口で戦い、斬獲甚だ多く、阿剌罕萬戸府經歷に昇進した。至元五年、襄陽を攻め、軍務が繁劇であったが、計画を補佐すること一々方策があり、都元帥阿朮がその才を大用に堪えると推薦した。

十一年、丞相伯顔に従って江を渡り、宋軍と柳子・魯洑・新灘・沌口で戦い、伯顔がその功績を上奏すると、世祖はひたすら賞賛した。十二年、平章阿里海牙に従って岳州を攻め落とし、沙市を取った。江陵に至ると、宋の安撫使高達が城を守って抵抗したが、和尚は直ちに城下に迫り、禍福を説くと、高達は遂に門を開いて降伏した。功により行省郎中に昇進した。国軍に従って潭州を包囲したが、潭州守臣李芾が堅守し、三ヶ月攻めても落ちなかった。十三年、城は陥落し、李芾は死んだ。諸将は略奪を利して、その城を屠殺しようとしたが、和尚は宣言して言った、「我が軍に抵抗したのは宋の将であって、その民に何の罪があろうか。既にその降伏を受け入れた以上、これ即ち我が民である。これを殺すのはどうして忍びられようか。況んや今、多くの城が未だ帰附せず、降伏してから殺せば、これは彼らが死を効する心を強固にするものである」。左丞崔斌が言った、「郎中の言う通りである」。平章阿里海牙の考えもこれと合致し、遂にこれに従った。一城の人はこれにより全活した。これにより湖南の諸郡は風聞して皆降った。世祖はこれを聞き、賞賜を厚くし、行省断事官に改めた。

広西に地を巡行し、前軍を督して静江を攻め破り、遂に行宣撫事を兼ねた。広西が平定されると、太中大夫・常徳路達魯花赤を授かり、治績が最も優れていると評判となり、嶺南広西道提刑按察使に抜擢された。当時、阿里海牙は功を恃んで甚だ驕慢で勝手であり、和尚は弾劾上奏して少しも容赦しなかった。江南浙西道提刑按察使に転じた。浙西は宋の旧都で、民は多く事は煩雑であったが、在職中はただ鎮静を務め、人はその大綱をわきまえていることに敬服した。官にて卒去、年四十九。宣忠守正功臣・銀青栄禄大夫・司徒・上柱国を追贈され、沇国公に追封され、諡は荘粛。子に千奴。

千奴は御史大夫月魯那延の推薦により、大安閣にて入見し、世祖はその功臣の子であることを思い、即ちその父の官を以てこれを授け、武徳将軍・江南浙西道提刑按察使に拝された。当時、江浙行中書省と行御史臺は共に杭州に治所を置いていた。千奴が上言した、「行省は専ら江浙を管轄するので、杭州にあるのが適当です。行台は江南を総鎮するので、杭州に偏在すべきではありません。且つ二つの大府が並立すれば、勢力が迫れば事は滞り、情が通じれば威厳が損なわれます。どうして行台を要便の地に移さないのですか」。数年後、遂に行台を江東に移した。山南湖北道提刑按察使に転じた。

二十六年、明威将軍を加えられ、淮西江北道提刑按察使に転じた。当時、桑哥が政を執り権を擅にして、勢威は赫灼し、敢えて言う者はいなかった。千奴は隙を見て入朝し、柳林で帝に謁見し、極めてその罪状を陳べると、帝はこれに顔色を変えた。間もなく、桑哥は誅殺され、またその党徒がなお朝廷内外に広くいるので、早く処分すべきであると上言した。粛政廉訪司が改めて立てられると、広威将軍に進み、江北淮東道粛政廉訪使を授かった。

三十一年、江東建康道粛政廉訪使に転じ、祖母の喪に服し、喪が明けた。東平・大名諸路には諸王の牧馬草地があり、民田と入り混じり、互いに侵犯し、役所は強弱を見て与奪し、連年争訟が決着しなかった。そこで千奴を起用してこれを治めさせると、その訴訟は遂に収まった。

大徳二年、太中大夫・建康路総管を授かったが、赴任せず、詔を奉じて淮東・西に使いし、民の疾苦を問い、官吏の能否を察した。千奴は諮問訪問に勤め、利を興し害を除き、還って奏上した軍民便宜三十事は、多く採用された。江西湖東・江南湖北両道廉訪使を歴任した。当時、中書平章伯顔らは地位を固めて日久しく、党与が多く盛んで、任用する人は情に従って法を弄び、綱紀は次第に乱れていた。千奴はその実情を摘発し、憲台に上奏して聞かせると、伯顔らは皆罷免された。前後七度憲節を執り、剛正で屈せず、朝廷の事で不便なことがあれば必ず上章して極論し、内外の嫌疑を気にしたことはなかった。

七年、嘉議大夫・大都路総管を授かり、大興府尹を兼ねた。吏を統御し民を治めるに方策があり、暇な日に街路を整え、里巷に標識を立て、国学の工事を興すには特に力を尽くした。間もなく通議大夫・同僉枢密院事に進んだ。上疏して言った、「山東・河南にいる蒙古軍が、甘粛に戍守に行くには、万里を跋渉し、装備や鞍馬の費用は全て自弁で、出征の度に必ず田産を売り、甚だしければ妻子を売ります。戍守の者が未だ帰らず、交代の者が発たねばならず、前後相継いで困苦は日増しに甚だしい。今、辺境に事が無いのに、虚しく兵力を尽くすのは、誠に良策ではありません。近くの甘粛の兵でこれを戍守させ、山東・河南の以前の戍守者については、官が金を出して、その田産妻子を贖い戻し、少しでも救済すべきです」。詔してこれに従った。間もなく、参議中書省事に転じ、機務の決裁を補佐し、精練で明敏であった。禄を求める者が他途から進む者は一切用いず、当時の論評は一致してこれを称えた。

成宗が崩御すると、潜邸より仁宗を迎え、武宗の即位を奉じ、危疑の際に、綸綸補益の功が多かった。栄禄大夫・平章政事・商議枢密院事・左翼万戸府達魯花赤に拝され、屯田事を提調し、玉帯を賜った。

延祐五年、致仕を乞うた。帝はその衰老を憐れみ、その請いを容れ、なお半俸を終身給することとした。濮上に退居し、歴山の下に先聖宴居祠堂を築き、書を万巻集め、名師を招いて郷里の子弟を教え、私田百畝を出してこれを養った。役所がこれを上聞すると、額を賜って歴山書院とした。家居すること七年で卒去、年七十一。推忠輔治功臣・光禄大夫・河南江北等処行中書省平章政事・上柱国を追贈され、衛国公に追封され、諡は景憲。

子の龍宝は監察御史。寿童は洪沢屯万戸、早世。不蘭奚は南台御史。観音保は洪沢屯万戸を襲封。孛顔忽都は進士に挙げられて鄭州知州となり、治行第一として、翰林国史院経歴に入った。

劉容

劉容、字は仲寛、その先祖は西寧青海の人。高祖こうその阿華は、西夏主の尚食を務めた。西夏平定後、西寧の民を雲京に移した。劉容の父の海川はその移徙の中にあり、後に雲京の人となった。

劉容は幼くして聡明で、稍々長ずると、読書を好んだ。その地の風俗は元来武を尚んだが、劉容もまた騎射に長じていたが、しかしそれを好まなかった。中統初年、国師の推薦により、東宮で皇太子に侍し、庫蔵を専ら掌ることを命じられた。退勤する度に、国子祭酒の許衡を訪ね、許衡もまた彼を引き立てた。至元七年、世祖が鎮海に行幸した時、劉容が吏事に通じていると聞き、召し出して、権中書省掾を命じた。事が終わると前職に復し、忠直と称された。

十五年、旨を奉じて江西に使いし、新たに帰附した民を撫慰した。或る者が贈り物を多少受け取り、帰って権貴に賄賂すれば、直ちに栄寵を得られると勧めたが、劉容は言った、「民を剥いで自ら利するのは、我が心どうして安らかであろうか」。使いから帰ると、ただ書籍数車を載せて、皇太子に献上した。嫉妬する者がこれに乗じて讒言したため、これにより劉容は次第に疎んじられたが、劉容もまた終に弁明しなかった。詹事院が立てられると、劉容は上言して言った、「太子は天下の根本です。もし端人正士を左右に得てこれを輔翼させず、傾邪側媚の徒を進ませれば、必ず令徳を損なうでしょう」。聞いた者はこれを是とした。間もなく太子司議を命じられ、秘書監に改めた。

間もなく、出て広平路総管となった。富民に同姓で財産を争う者がおり、訴訟は連年決せず、劉容が着任すると、籍を取って二人の父祖の名を調べ、その実情を得て、直ちに判決を下すと、争う者は遂に服した。皇子の雲南王が汴に至った時、その達魯花赤の某が厚く徴収して、王に賄賂を通じようとしたが、劉容は自ら行くことを請い、その費用を減らした。後に病により官にて卒去、年五十二。

迦魯納答思

迦魯納答思は畏吾児の人で、天竺の仏教および諸国の言語に通じていた。翰林学士承旨の安蔵扎牙答思が世祖に推薦し、召されて朝廷に入り、国師とともに法を講ずることを命じられた。国師は西番の人で、言語が通じなかった。帝はそこで迦魯納答思に命じて国師にその法と言語と文字を習わせ、一年でことごとく通じた。畏吾児の文字で西天・西番の経論を訳し、完成するとその書を進上した。帝は版を彫らせ、諸王大臣に賜った。西南の小国星哈剌的威など二十余種が来朝したとき、迦魯納答思は帝の前でその表章を読み上げて奏上し、諸国は驚き敬服した。

朝廷で暹国・羅斛・馬八児・俱藍・蘇木都剌などの諸国に兵を起こして討とうと議したが、迦魯納答思が奏上した。「これらはみな取るに足らない小国であり、たとえ得たとしても何の益がありましょうか。兵を起こせばただ民の命を損なうだけです。禍福を説いて諭す使者を遣わし、服従しなければ攻めるのが、まだ遅くはありません。」帝はその言を容れた。岳剌也奴・帖滅らを遣わして使わしめ、降伏したのは二十余国に及んだ。

至元二十四年、丞相桑哥が翰林学士に任じようと奏上したが、帝は言った。「迦魯納答思の官は、汝が奏上すべきものではない。」やがて翰林学士承旨・中奉大夫に抜擢し、成宗が潜邸にあったとき侍らせ、かつ節飲を戒めさせた。成宗が即位すると、その忠を思い、栄禄大夫・大司徒に遷した。その老いを憐れみ、車に乗って殿中に入ることを許した。仁宗が即位し、朝廷で冗官を淘汰することを議したが、ただ迦魯納答思だけは司徒のままとして改めず、さらに開府儀同三司を加え、玉の鞍一つを賜った。この年の八月に卒した。

闊里吉思

闊里吉思は蒙古の按赤歹氏である。曾祖父の八思不花は、乃蛮・欽察・兀羅思・馬扎児・回回などの諸国を攻めるに従い、常に先鋒となって敵を破り、太祖はこれを賞して虎符を賜った。また豊州・雲州を諭して降伏させると、抜擢して宣撫使に充てた。祖父の忽押忽辛が職を襲い、虎符を佩いた。憲宗はかつて彼に語って言った。「汝の佩いている金符は古い。どうして世々の功を顕彰しようか。」命じて改めて作り、これを賜った。中統三年、河中府の達魯花赤に改め、卒した。父の薬失謀は、襄陽統軍司の経歴に抜擢され、宿州の達魯花赤に改められたが、いずれも拝命しなかった。枢密副使の孛羅と御史中丞の木八剌が世祖に引見し、奏上して言った。「これは忽押忽辛の子です。どうかその祖父の虎符を授けられたい。」中順大夫・金剛臺の達魯花赤に抜擢し、続いて光州に改めた。たびたび遷って安東州・河中府および温州・潞州を歴任し、建康路の達魯花赤として致仕した。

闊里吉思は初め宿衛として博児赤を務めた。至元二十五年、朝列大夫・司農少卿に抜擢され、金の束帯を賜った。中議大夫・司農卿に遷る。資善大夫・司農卿に昇った。栄禄大夫・行湖広平章に拝され、兵を率いて海南の生黎の諸峒寨を討った。また翌年、これを平定した。軍が還ると、召されて入見し、玉の束帯・金銀・幣帛・弓矢・甲冑、および宝鈔・鞍勒を賜り、旨を得て鎮所に還った。

成宗が即位すると、入見し、海東青鶻・白鶻を各一羽、および衣服を差等をつけて賜った。大徳二年、福建行省平章に改めた。まもなく、福建が江浙に隷属することとなり、福建道宣慰使・都元帥に改めた。征東省平章政事に昇った。高麗は刑政に節度がなく、官は冗員で民は稀であった。闊里吉思はこれによりことごとく裁正を加えて上聞した。旨があり、召されて入見し、便民事宜を条分して奏上させた。大徳五年、再び湖広平章に拝され、一年余りして陝西に改められたが、眼病のため京師に還った。官を加えられて金紫光禄大夫・雲南諸路行中書省左丞相に至り、卒した。享年六十六。

子の完沢は、湖広右丞となり、広西の賊を征討し、軍中に卒した。

小雲石脱忽憐 八丹 附

小雲石脱忽憐は畏吾の人で、その国に仕えて吾魯愛兀赤となった。これは華言で大臣というようなものである。太祖のとき、その父とともに来帰した。回回国を征して還ると、睿宗が潜邸にあったとき事えた。真定は睿宗の分地であり、これをもって本路の断事官とした。

子の八丹は、世祖に事えて宝児赤・鷹房万戸となった。哈剌張を征討するに従い功があり、男女各一人・金一鋌、および銀甕などを賜った。阿里不哥を征討し、昔門禿で戦い、一日に三度合戦し、多くを殺し捕らえたので、金一鋌を賜った。後に鷹房万戸として裕宗に従い北征し、鎮海你里温に至り、銀の椅子および鈔一万五千貫を賜り、真定を守るよう命じられた。

まもなく、揚州に行省するよう命じられたが、八丹は辞して言った。「臣は幼い頃から陛下を離れたことがありません。どうかそばに留まって侍りたい。」隆興府の達魯花赤に改め、遥かに中書右丞を授けられ、諭して言われた。「これは朕がかつて住んだ所である。汝はそこに住め。」八丹はまた辞したが、帝は許さなかった。三年住んだとき、海都が叛き、旨を奉じて甘麻剌太子に従い征討に赴いた。軍が還ると、功により金一鋌を賜った。卒し、銀青栄禄大夫・司徒を追贈された。

子の阿里は鷹房千戸、石得は安西王相府の官、徳眼は汝定府の達魯花赤、阿散は甘粛行省平章政事、臘真は会同館使から同知通政院となり、政績があり、官は栄禄大夫・中書省平章政事に至り、兼ねて翰林学士承旨・通政院使を務め、卒した。子の察乃は金紫光禄大夫・中書省平章政事。察乃の子は十人:老章は知枢密院事、撒馬篤は中書省参知政事。

斡羅思

オロスは、康里氏の人である。曾祖父のハシバヤウは、国初に帰順し、荘聖太后の宮牧官となった。祖父のハイドは、憲宗に従って釣魚山を征し、陣中に没した。父のメリクテムルは、世祖の時に必闍赤となり、後に太府少監となった。

オロスは、至元十九年に内府必闍赤となった。二十一年、監察御史に任ぜられた。雲南行省理問に転じ、雲南王府の事を領した。後に桑哥に逆らい讒言され、その家を没収されたが、金玉の帯各一、黄金五十両のみで、いずれも上(皇帝)から賜わったものであった。公用の官有繁殖畜産を理由に罪を加えようとしたが、帝は言った、「口腹の事は、やめておけ。」二十六年、八番羅甸宣慰司を設置し、嘉議大夫・宣慰使に進んだ。当時、諸蛮の叛服は常ならず、オロスがこれを平定し、安撫司などを立てて守備させた。二十八年、楊都要らを平定した。九月、中奉大夫に進み、虎符を賜わった。翌年、八番順元等処宣慰使・都元帥となり、三珠虎符を賜わった。

大徳六年、通奉大夫・羅羅思宣慰使に任ぜられ、兼ねて管軍万戸を管轄した。正奉大夫に進んだ。武宗が即位すると、召還され、資善大夫・中書左丞を授かり、武衛親軍都指揮使・大都屯田府事を領した。まもなく栄禄大夫・中書右丞に進み、翰林国史承旨を兼ね、なお武衛屯田を領した。たびたび旨を奉じて資産・邸宅を賜わったが、固辞した。四川行省平章政事に転じた。至大二年、召還されたが、瘴癘のため病臥し起き上がれなかった。皇慶二年に卒去、五十六歳であった。光禄大夫・益国公を追贈された。

子のボロプハは、初め宿衛に直し、速古児赤となった。至大元年、翰林侍講学士となり、父の病気のため帰って侍した。延祐四年、再び入侍して速古児赤扎撒孫となった。至治元年、速古児赤五十人の長となり、兼ねて皇后宮の宝児赤を領した。二年、河南府同知を襲授された。子のチャガンブハが、その掌る宿衛を領した。天暦元年、汴で文宗に謁見し、宿衛に直入し、温都赤となった。監察御史に任ぜられ、続いて御史台経歴・中書右司郎中に転じた。中憲大夫・隆禧総管府副達魯花赤を授かった。

ドロタイ

ドロタイは、唐兀氏の人である。祖父の小丑は、太祖が西夏を平定した後、諸色の工匠を徴発した際、弓作りの技をもって進み出て、ケエンウランと名を賜り、怯憐口行営弓匠百戸に任ぜられ、和林に移住し、そこで卒した。父のタルフタイが職を襲った。阿里不哥が叛くと、タルフタイはこれに従い失畝里禿の地で戦い、そこで戦死した。

ドロタイは、万戸のイェスデル、ユワチらに従い、累戦して功を立て、前衛親軍百戸に任ぜられた。積功して昭信校尉こうい・芍陂屯田千戸所達魯花赤に至ったが、後に病気のため退いた。

ドロタイの弟のココチュもまた弓作りを業とし、かつて自ら造った弓を献上した。帝はこれを善しとし、その父の名を問うた。ココチュは答えて言った、「タルフタイでございます、臣の父です。」帝はその姿容貌が魁偉であるのを見て、さらにその射術に堪能かと問うた。左右が答えて言った、「堪能でございます。」試してみると、果たしてその通りであった。そこで近侍に命じた。翌年、武備寺の臣が再びその弓を献上し、かつこれを用いるよう奏上した。帝は言った、「孔子は三綱五常を説き、人はまず自らを治めて、後に人を治めることができ、家を斉えて後に国を治めることができると言った。汝はこの言葉をもって彼に諭し、その後用いるがよい。」まもなく大同路広勝庫達魯花赤に抜擢された。広勝とは、兵器を貯蔵する所である。当時、総管の唐兀海牙が庫を公署として使い、甲冑兵器を空の倉庫に置いたため、多くが虫鼠の害を受けた。ココチュは帝に言上して元に戻させ、かつ既に損壊した兵器の弁償を責めた。使者の薛綽不花、納速魯丁が文書で鷹房軍の衣甲弓矢若干を要求したが、ココチュは文書を入れるよう求め、それを持って行かせた。当時、憲副の速魯蛮が文書を入れぬよう命じ、かつ役人に庫の鍵を封じて点検しようとしたが、ココチュは従わなかった。事が聞こえ、帝は速魯蛮を笞打ちの刑に処し、罷免した。

大徳元年、大同路武州達魯花赤に昇進し、兼ねて本州の諸軍オルク(老営)・勧農事を管轄した。また建州・利州を監察し、四川道廉訪司僉事に改められ、監察御史に任ぜられた。累官して中大夫・大寧路総管に至り、任中に卒した。

ドロタイの子のトホンは、初め宿衛に直し、御史台訳史を歴任し、監察御史に任ぜられた。四川行省左右司員外郎・四川廉訪司僉事・枢密院都事に転じ、断事官に昇進した。その四川に在った時、嘗て上疏して言った、「内外で寺を修築するのは、官銭を支給するとはいえ、一本の椽、一枚の瓦も皆民力を労するもので、百姓は嘆き怨み、和気を傷つけます。宜しく暫く停廃し、なお供仏飯僧の費用を減省して、国用を緩和すべきです。このようにすれば、上は天心に応じ、下は民志に合い、福を求めずして福自ずから至ります。回回戸計は、多くが富商大賈であり、宜しく軍民と一体に役務に応ずるべきです。このようにすれば賦役が均しくなります。国を治めるには善を宝とし、凡そ子女・玉帛・羽毛・歯革・珍禽・奇獣の類は、皆徳を喪い志を喪う具です。今後、回回諸色人等は、宝を携えて売買することを許さず、国用を虚しくする者があれば、罪に処して没収すべきです。このようにすれば、富商大賈はその奸偽を施す所なく、国用に蓄積ができます。」その言辞は懇直で切実であり、当時に称えられた。

エセンブハ

エセンブハは、蒙古の怯烈氏の人である。祖父はシラオグルといい、兄弟四人、長兄はトブハ、次兄はケレゲ、末弟はハラアグラといった。太祖が未だ微賤であった時、ケレゲは既に深く自ら結び付き、後に兄弟四人は皆部属を率いて来帰した。太祖は旧好により、彼らを他族より格別に遇し、必闍赤長に命じ、朝会や宴饗の際には上列に座らせた。シラオグルは早世し、その子のブルハンは幼くして睿宗に仕え、宿衛に入った。憲宗が即位すると、モンケサルと密かに謀議を補佐し、中書右丞相に任ぜられ、遂に国政を専らにした。真定の束鹿を賜り、その食邑とした。至元元年、阿里不哥に党附した罪により論罪され誅殺された。子四人、長男はエセンブハ、次男はムバラク(初め御史台が設置されると中丞となった)、三男はダシュマン(累官して銀青栄禄大夫に至った)、四男はブハテムル(栄禄大夫・四川省平章政事に任ぜられた)。

エセンブハは初めその職を世襲し、必闍赤長となった。裕宗が燕王に封ぜられた時、世祖はエセンブハをその傅とし、かつ彼に言った、「エセンブハは、我が旧臣の子孫で、端方で明信があり、典故に熟達している。爾は毎事彼に問えば、必ずや爾を不善ならしめないであろう。」

二十三年、上柱国・光禄大夫・雲南諸路行中書省平章政事に任ぜられた。当時、阿郎・可馬丁などの種族の僰夷が変を起こしたが、これを討ち平定した。遂に登雲などの路・府・州・県六十余所を立て、戸二十余万を得て、その酋長に官職を与え、その貢税を定めたため、辺境は安寧となった。

大徳二年(1298年)、湖広行省平章に転じた。政治を行うにあたり、怒らずして威厳があり、細かく察しなくとも明らかであった。大事を集議する際、衆論がそろわなければ、ゆるやかに一言を決し、事理にぴたりと当たり、すべて人々の意表に出るものであった。ちょうど汴梁行省に妖術に関する獄事があり、流言が湖広平章政事劉国傑・右丞燕公楠にまで連座したので、朝廷は駅伝で二人を召し入れた。二人は也先不花と以前に意見を違えたことがあり、也先不花は急ぎ使者を付けて奏上し、他意のないことを明らかにしたので、二人はともに釈放された。八年(1304年)、平章河南行省に転じた。黄河が落黎堤を決壊し、その勢いは甚だ危険であったが、役人を督いて士卒に先んじて備えさせたので、汴は災害を免れた。九年(1305年)、上柱国・銀青栄禄大夫・湖広等処行中書省左丞相に進み拝され、賞賜は月を空けることなく、方面は安泰となった。至大二年(1309年)に卒去した。天暦二年(1329年)、推忠守正佐運翊戴功臣・太師・開府儀同三司・上柱国・恒陽王を追贈され、諡は文貞といった。子は五人、すなわち亦憐真・禿魯・答思・怯烈・按攤。

亦憐真は、裕宗に東宮で仕え、家令となった。累進して銀青栄禄大夫・湖南等処行中書省左丞相を拝した。延祐元年(1314年)に卒去した。天暦元年(1328年)、推誠輔治宣化保徳功臣・太傅・開府儀同三司・上柱国を追贈され、武昌王を追封され、諡は忠定といった。

禿魯は、四朝に歴事し、宗正府也可扎魯花赤から起家し、開府儀同三司・中書右丞相・御史大夫・太傅・録軍国重事を拝し、薨去した。天暦二年(1329年)、懐忠秉義昭宣弼亮功臣・太師・開府儀同三司・上柱国を追贈され、広陽王を追封された。

答思は、資徳大夫・湖南宣慰使に至って仕えた。怯烈は、中政使に至って仕えた。

按攤は、成宗に仕え、長宿衛を襲い、旨を奉じて七乗の伝駅を与えられ、湖広において父の也先不花のもとに侍るため往った。諸道の憲司が按攤の孝行を聞き届け、中奉大夫・海北海南道宣慰使・都元帥を拝した。海康は安南・占城などの諸夷と境を接し、海島の生黎は叛服常ならず、按攤の威望はもとより著しく、夷人は服従し、生黎の王高等二十余洞はみな貢税を納めることを願った。在鎮すること一年、親を省みることを理由に辞して去った。至大二年(1309年)、資徳大夫・中書右丞・行浙東道宣慰使司都元帥を拝した。まもなく、武昌において父の喪に奔り、哀毀により病を致して卒去した。天暦二年(1329年)、秉義效忠著節佐治功臣・太保・開府儀同三司・上柱国を追贈され、特進趙国公・中書左丞相を追封され、諡は貞孝といった。

子の阿栄は、宿衛から起家し、湖南道宣慰副使となり、歴任して奎章閣大学士・栄禄大夫・太禧宗禋院使・都典制神御殿事を拝した。