元史

列伝第十九:杭忽思、歩魯合答、玉哇失、麦里、探馬赤、抜都児、昂吉児、哈剌䚟、沙全、帖木児不花

杭忽思

杭忽思は阿速氏で、阿速国の主であった。太宗の軍がその国境に至ると、杭忽思は衆を率いて来降し、抜都児の名を賜り、金符を授けられ、その土民を統領することを命じられた。まもなく勅旨を奉じて阿速軍千人を選び、その長子阿塔赤を従えて行幸に扈従し親征した。帰還後、阿塔赤は宿衛に入って直宿した。杭忽思は国に帰還する途中、敵軍に遭遇し、戦死した。その妻の外麻思に命じて兵を率いさせその国を守らせた。外麻思は自ら甲冑を着け、叛乱を平定した。後に次子の按法普を代わらせた。

阿塔赤は憲宗に従って西川を征し、釣魚山で軍を進め、宋軍と戦って功績があり、帝は自ら酒を賜って飲ませ、白金を賞賜した。阿里不哥が叛くと、也里可に従ってこれを征討した。寧夏に至り、阿藍答児・渾都海と戦い、率先して敵に赴き、矢がその腹に当たったが恐れず、世祖はこれを聞いて賞賛し、白金を賞賜し、召し出して宿衛に入れた。中統二年、行幸に扈従して阿里不哥を親征し、失木里禿の地まで追撃し、功績により再び白金を賞賜された。三年、李璮征討に従い、これを平定した。至元五年、勅旨を奉じて不答台とともに兵を率いて南征し、金剛台を攻め落とした。六年、安慶府攻撃に従い、戦って功績があった。七年、五河口攻略に従った。十一年、沿江の諸郡攻略に従い、鎮巢に戍守したが、民はその命令に耐えられず、宋の降将洪福が計略を用いて酔わせてこれを殺した。世祖はその死を哀れみ、その家に白金五百両・鈔三千五百貫を賜り、併せて鎮巢の降民一千五百三十九戸を与え、その子伯答児に千戸を襲封させ、金符を佩用させた。

時に失烈吉が叛き、詔により伯答児は阿速軍一千を率いてこれを征討し、甕吉剌只児瓦台の軍と押里で戦い、また薬木忽児の軍と禿剌及び斡魯歓の地で戦った。十五年春、伯牙の地に至り、赤憐軍と合戦した。五月、呵剌牙に駐兵し、外剌台・寛赤哥思等の軍と合戦した。その大将塔思不花は木を立てて柵とし、石を積んで城とし、大軍を拒んだ。伯答児は勇士を督励して先に登り、これを陥落させた。伯答児は矢が右腿に当たった。別吉里迷失がその功績を上聞し、白金を賞賜された。二十年、虎符・定遠大将軍・後衛親軍都指揮使を授けられ、阿速軍を兼領し、阿速抜都達魯花赤を充任した。

二十二年、別失八里を征し、亦里渾察罕児の地に軍を進め、禿呵・不早麻の軍と戦い、功績があった。二十六年、杭海を征し、敵の勢いは甚だ盛んで、大軍は食糧に乏しかった。その母の乃咬真は自らの財貨及び畜牧などを輸送して軍の食糧を供給した。世祖はこれを聞いて賞賛し、賜与は甚だ厚かった。大徳四年、伯答児は卒した。

長子の斡羅思は、宿衛から出仕して隆鎮衛都指揮使に至った。次子の福定は職を襲封し、官は懐遠大将軍、まもなく右阿速衛達魯花赤に改め、後衛軍を兼管した。至大四年、兄の都丹が右阿速衛都指揮使を充任した。福定は後衛に復職し、枢密同僉に昇進し、軍一千を率いて遷民鎮を守ることを命じられた。まもなく定遠大将軍・僉枢密院事・後衛親軍都指揮使を授けられ、右衛阿速達魯花赤を提調した。二年、資善大夫・同知枢密院事に進んだ。後至元の間、知枢密院事に進んだ。

歩魯合答

歩魯合答は、蒙古の弘吉剌氏である。祖父の按主奴は、太宗の時に蒙古軍千人を率いて諸王察合台に従い河西を征し、山丹に至った。定・会・階・文の諸州を攻め落とし、功績により元帥となり、金符を佩用し、漢陽の礼店に駐軍し、西和・階・文の南界及び西蕃の辺境を戍守した。金虎符に換えられ、真除で元帥となった。父の車里は職を襲封した。都元帥紐璘に従って成都を攻めた。宋の将劉整が重兵をもって雲頂山を守ると、車里はこれを撃破し、進んでその城を包囲した。劉整が裨校を遣わして出戦させると、敗走し、簡州まで追撃してこれを斬り、三百余人を殺し、遂にその城を陥落させた。重慶を攻めると、車里は兵千人を将いて先鋒となり、馬湖江を渡り、馬老山で宋兵を破り、百余人を俘獲した。戊午年、諸軍は還って灰山に屯したが、宋兵が夜来て営を劫おうとしたので、車里はこれを撃破し、三百級を斬首した。世祖が即位すると、金符を賜り、奥魯元帥となり、また征行元帥に改めた。

至元二年、車里は老病のため職務に堪えられず、諸王阿只吉が歩魯合答に命じてその軍を代行統領させた。至元八年、制により管軍千戸を授けられ、金符を佩用した。宋の将昝万寿が成都を攻めると、僉省厳忠範は歩魯合答に兵七百人を将いて沙坎でこれを防がせた。流れ矢が右頬に当たったが、矢を抜き、戦いますます奮闘し、その軍を大いに破った。十一年、行院汪田哥が兵をもって嘉定を包囲すると、歩魯合答は直ちにその衆を率いて九頂山を攻め、これを破り、嘉定は降伏した。重慶を進攻すると、宋軍が包囲を突破して銅鑼峡へ出走したので、行院忽敦は歩魯合答にこれを追撃させ、広羊垻に至り、二百級を斬首した。瀘州が叛くと、軍を返してこれを討ち、歩魯合答は配下の兵をもって宝子寨を攻めたが、一年余り陥落しなかった。そこで雲梯を造って先に登り、急撃して遂にこれを破り、殺戮捕虜すること殆んど尽くした。十六年、重慶を攻略し、功績により武略将軍・征行元帥に遷った。

二十一年、蒙古探馬赤軍千人を統率して金歯蛮征討に従うことを命じられ、これを平定した。都元帥蒙古歹が羅必甸を征すると、歩魯合答は游兵を率いて先行し、江水が暴漲したが、衆を率いて水を泳いで渡り、城から三百歩の地点に営した。七日間留まり、諸軍が城下に会すると、進んでこれを攻め、歩魯合答が先に登り、その城を陥落させ、遂にこれを屠った。また八百媳婦国征討に従い、車厘に至った。車厘とは、その酋長の居所である。諸王闊闊は歩魯合答に命じて游騎三百を将いて往き、降伏を招諭させたが、聞き入れず、進兵してこれを攻めた。都鎮撫侯正がここで戦死した。歩魯合答はその北門の木を破壊し、遂にその寨に入り、その地は悉く平定された。金虎符を賜り、懐遠大将軍・雲南万戸府達魯花赤を授けられ、卒した。子の忙古不花は管軍千戸を襲封した。

初め、按主奴に三子があった。長子は車里、次子は黒子、三子は帖木児である。黒子は別に金符を賜り、奥魯元帥となり、文州吐蕃達魯花赤を兼ね、卒した。その子の那懐は幼かったので、帖木児がその官を代行した。那懐が成長すると、職を解いてこれを授け、帖木児には随路抜都万戸を改めて授け、後に重慶に移鎮させ、卒した。

玉哇失

玉哇失は、阿速の人である。父の也烈抜都児は、その国主に従って来帰し、太宗は宿衛を充任することを命じた。戊午の年、憲宗に従ってしょくを征し、游兵となり、前進して重慶に至り、数度戦って功績があった。かつて狩猟に出て隘路で虎に遇い、馬から下りて虎と格闘した。虎が口を開いてこれをぜいわんとしたので、手を伸ばして虎の口を探り、その舌を抉り、佩用の刀を抜いて刺し殺した。帝はその勇を壮とし、黄金五十両を賞賜し、別に阿速一軍を立て、その衆を統領させた。世祖に従って阿里不哥を征し、また親王哈必失に従って李璮を征し、ともに功績があり、金符を賜り、本軍千戸を授けられた。襄陽攻略に従い、また沿江の諸城攻略に従った。宋の洪安撫は降伏した後また叛き、これを誘い入れて城中で宴を催し、酔わせてこれを殺した。長子の也速歹児が代わってその軍を統領し、揚州攻撃に従ったが、流れ矢に当たって卒した。

玉哇失は父の職を襲い、阿速軍の千戸となった。丞相伯顔に従って宋を平定し、巣県の二千五十二戸を賜った。只児瓦歹が叛くと、率いる所部の兵をもってこれを撃った。懐魯哈都に至り、その将失剌察児を擒え、軍中で斬り、その衆は悉く平定した。諸王和林及び失剌らが叛き、皇子北安王に従ってこれを討った。斡耳罕河に至り、舟なく、馬を躍らせて流れを渉り渡り、俘獲甚だ多かった。時に北安王は戦いに利あらず、敵陣の中に陥り、玉哇失は諸王薬木忽児に従って金山まで追い、王は乃ち脱して帰ることができた。白金五十両、鈔二千五百貫を賞し、改めて金虎符を賜い、定遠大将軍・前衛親軍都指揮使に進んだ。

諸王乃顔が叛き、世祖親征し、玉哇失は前鋒となった。乃顔は哈丹に兵一万を率いて来拒させたが、これを撃ち破った。不里古都伯塔哈の地まで追い、乃顔の兵は十万と号し、玉哇失は陣に陥り力戦し、またこれを破り、失列門林まで追い、遂に乃顔を擒えた。帝はその功を嘉し、金帯・只孫・銭幣を甚だ厚く賜った。乃顔の余党塔不歹・金家奴が兵を聚めて滅捏該に拠り、大軍に従ってこれを討平した。既にして哈丹また曲連江において叛き、その軍を追撃し、河を渡って遁走した。また海都の将八憐・帖里哥歹・必里察らと亦必児失必児の地において戦い、戦いに屡々捷った。

成宗が潜邸に在った時、帝は海都が連年辺境を犯すを以て、金山に出鎮せしめ、玉哇失は率いる所部を従えて行に在った。皇子闊闊出・丞相朶児朶懐に従って海都の軍を撃ち、陣を突いて入り、これを大破した。また諸王薬木忽児・丞相朶児朶懐に従って海都の将八憐を撃ち、八憐は敗れた。海都また禿苦馬に精兵三万人を率いさせて直ちに撒剌思河に向かい、険を拠って我が師を襲わんと欲した。玉哇失は善射の者三百人を率いてその隘を守り、矢を注いで射て、竟に全軍して帰った。帝はこれを嘉し、鈔一万五千緡・金織段三十匹を賜った。海都・朶哇が兵をもって来襲したが、撃ち走らせた。

武宗が北辺を鎮めると、海都また入寇し、兀児禿に至ったが、玉哇失はこれを敗り、その駱駝・馬・器仗を獲て献じた。時に扎魯花赤孛羅帖木児の将いる兵が海都に小谷において困せられ、帝は玉哇失に命じてこれを援け出させた。帝は喜び、諸将に謂って曰く、「今日の大丈夫の事、玉哇失を措いて其れ誰か能くか。縦え黄金を以て其身を包むとも、猶お未だ以て朕が志を厭うに足らず」。武宗が南還するに及び、玉哇失に命じて後に従わせたが、敵は懼れて敢えて近づかず、因ってこれを留めて辺境を戍らせた。金察剌二、玉束帯・渾金段各一を賜い、仍って秫米七十石を賜い、酒となしてその軍を犒わしめた。後に海都の子察八児らが人を遣わして闕に詣で和を請うと、朝廷はこれを許し、遂に辺備を撤き、玉哇失は乃ち還った。帝はその功を録し、鈔五万貫を賜い、鎮国上将軍に進め、仍って旧職に任じた。

大徳十年五月、衛舎において昼寝し、疾なくして卒した。子の亦乞里歹が襲った。亦乞里歹が卒すると、子の拜住が襲った。

麦里

麦里は徹兀台氏。祖父の雪里堅那顔は、太祖に従って王罕と戦い、班真河水を同じく飲み、功を以て千戸を授かり、徹里台部を領し、諸国を征討し、河西において卒した。父の麦吉が職を襲い、太宗に従って中原を定め、疾を以て卒した。麦里が職を襲い、定宗に従って欽察・阿速・斡魯思諸国を略定した。憲宗に従って宋を伐ち、功有り。

世祖即位すると、諸王霍忽が叛き、河西諸城を掠めた。麦里は帝の初即位に当たり、而して王が首乱するは、此れ長ずべからざるを以て、その弟桑忽答児と共に率いる所部をもってこれを撃ち、一月に八戦し、その掠めたる扎剌亦児・脱脱憐諸部の民を奪い返した。已にして桑忽答児は霍忽に殺され、帝は聞いてこれを憐れみ、使者を遣わして銀鈔羊馬を以て麦里を迎え致し、答剌罕の号を賜い、尋ねて卒した。子は禿忽魯。

探馬赤

探馬赤は禿立不帯の人。諸王没赤に従って蜀を征し、後に兵を以て塔海紺卜・火魯赤・紐璘諸大帥に従った。歳戊午、紐璘が涪州を攻め、還って馬湖江に至ると、宋兵は艦を連ねて江を遮り進むを得ず、探馬赤は精兵二千を率いてこれを撃ち、その舟を奪って渡った。また横江・嘉定・宣化三県において浮橋を造り、以て成都に達した。紐璘は能有りと為し、千人を将とし、万戸昔力答に従って碉門・黎・雅・土蕃の地を略させた。昔力答が死ぬと、行院帖赤は探馬赤を万戸と為し、その軍を領させた。中統四年、蒙古漢軍万戸を授かった。

至元九年、行省也速帯児に従って建都を征し、独り鋭卒千五百人を以て、建都の兵と梅子嶺において戦い、これを大破し、夜馳して速哥と会し、直ちにその営を擣ち、首級数十を斬り、生擒百余り、その輜重を獲て帰った。また兵三千人を益し、左丞曲立吉思と共に勝に乗じて進撃し、建都は勢蹙って降を請うた。また行院汪田哥・忽敦らに従い、嘉定・重慶・瀘・叙諸州を攻め、功を以て崇慶府達魯花赤を兼ねた。十九年卒。子の拜延は、蒙古軍万戸を襲い、甘州を戍った。

抜都児

抜都児は阿速氏、世々上都宜興に居た。憲宗が潜邸に在った時、兄の兀作児不罕及び馬塔児沙と共に衆を帥いて来帰した。馬塔児沙は憲宗に従って麦各思城を征し、前鋒将となり、身に二矢を受け、奮戦してその城を抜いた。また蜀を征することに従い、釣魚山に至り、軍中に歿した。

抜都児は李璮を征することに従い、済南を囲み、身に二十余戦し、世祖はその能を嘉し、納失思段九を賞し、阿速軍一千を領せしめ、常に左右に居らしめた。尋ねて阿塔赤内に於いて怯薛百戸に充てた。後に塔不台に従って南征し、敵軍と金剛台において戦い、また功を以て賞を受けた。師が還ると、帝に言うことく、「臣は軍に従い、国の為に死を効さんことを願う」。世祖はこれを留め、仍って孛可孫に充て、阿速軍を兼領せしめ、御馬には必ず鞚引せしめた。

至元二十三年、広威将軍・後衛親軍副都指揮使を授かり、虎符を賜った。明年夏、亦迷河において乃顔を征することに従い、僉家奴・塔不台を擒えて帰り、鈔及び衣段を賞し、定遠大将軍を加えられた。大徳元年卒。

子の別吉連が襲職した。至大四年、河東・陝西・鞏昌・延安・燕南・河北・遼陽・河南・山東の諸翼衛探馬赤が草地を争って訴訟する者が二百余り起こり、命を受けてこれを究明し、ことごとくその罪を正し、累官して懐遠大将軍となった。致和元年、丞相燕鉄木児に従って倒剌沙の党与である烏伯都剌らを擒え、諸衛軍を率いて居庸関および諸要害の地を守った。天暦元年十月、王禅の軍勢が羊頭山に急襲して至り、隘口を攻め破り、その勢い甚だ盛んであったが、別吉連は丞相に従って衆を擁して奮撃し、その軍中に突入し、王禅は敗走した。文宗は御衣二襲・三珠虎符、および弓矢・甲冑・金帛などの物を賜い、その功を顕彰した。まもなく病気を理由に辞し、子の也連的が襲職した。

昂吉児

昂吉児は張掖の人で、姓は野蒲氏、代々西夏の将家であった。辛巳の年、父の甘卜が配下の部衆を率いて太祖に帰順し、その軍を蒙古軍籍に編入され、引き続き甘卜を千戸としてこれを統率させた。木華黎に従って出征し、病没した。

昂吉児は父の軍を率い、諸国征伐に従軍して功績があった。至元六年、本軍の千戸に任じられ、金符を佩用した。まもなく淮南を攻略し、向かうところ敵なしであった。当時、国軍は南方に進出したばかりで、塞外の馬は暑さにあたり、しばしば疥癬に罹った。昂吉児は配下の馬を太行山に入れて治療し、病んだ馬はことごとく癒えた。これにより軍中の病馬は、おおむね彼に託されるようになり、毎年治療する馬は万を数えた。宋が金剛台に糧食を輸送し、深く侵入する意図を示したので、昂吉児は兵を率いて馳せ往き、その輸送路を断った。そこで上言して言うには、「河南の辺境の郡は宋と境を接し、宋兵はしばしば辺境の患いとなっている。唐州の東南はみな大山であり、信陽は蔡州の南に位置し、南は九里・武陽・平靖・五水などの関に直通している。宋兵は必ずこれらの関を経由して侵入するであろうから、信陽はまさにその咽喉であり、守備はこれより急務はない。往年、金が滅亡した際、朝廷は寿・泗・襄・郢を得たが、兵を留めて守らなかったため、ついに宋にこれを得させてしまった。信陽に城を築き、宋を扼することを請う。」旨を得て、河西軍一千三百人を率いてこれを築城させ、城は完成した。

九年、明威将軍・信陽軍万戸を加えられ、虎符を佩用し、木華黎および阿朮の率いる河西兵を分けて統率させた。懐遠大将軍を加えられた。丞相伯顔が長江を渡るとき、阿朮を留めて淮南東道を平定させ、その西道は昂吉児に属させ、和州に駐兵した。宋の淮西制置使夏貴が侯都統に兵四万を率いて攻め来らせたが、内応を謀る者をことごとく誅し、密かに兵を千秋澗に出してその帰路を塞ぎ、城を出て奮撃し、これを大破し、人馬を千単位で鹵獲した。鎮巣軍が降伏し、阿速軍がこれを戍守したが、人々はその横暴に耐えられず、都統洪福が戍兵をことごとく殺して叛いた。昂吉児はその城を攻め落とし、洪福および董統制・譚正将を擒えた。ついで廬州を攻撃すると、夏貴が人を遣わして言うには、「公は我を攻めないでほしい。我が主君が降伏すれば、我もすぐに降伏する。」宋が滅亡すると、夏貴は配下の部衆を挙げて帰順した。昂吉児は廬州に入城し、民衆は安堵して何ら犯されず、鎮国上将軍・淮西宣慰使に転じた。

宋の丞相文天祥が再び海路から兵を起こすと、舒の民張徳興がこれに応じ、興国・徳安などの諸郡を襲撃して破り、帰って司空しくう山を占拠した。詔により昂吉児がこれを攻撃し、一戦で平定し、張徳興を殺し、その三人の子を捕らえて献上した。

江左が平定されたばかりの頃、官制は草創期で、権臣阿合馬が賄賂を納めて爵位を売り、江南の官僚は冗濫が甚だしく、郡守以下で金符を佩用する者が多いときは三、四人に及び、行省官の挙薦により宣慰使に超授される者が非常に多く、民衆はその命令に耐えられなかった。昂吉児が入朝し、ことごとく帝にこれを言上し、さらに資歴を踏まずに急に昇進した者数人を列挙した。帝は驚いて言った。「このようなことがあるのか。」そこで姚枢らに言った。「これは卿らが知っていることであるのに、朕に言わず、昂吉児がかえって言ったのか。」すぐに平章哈伯・左丞崔斌・翰林承旨和魯火孫・符宝奉御董文忠とともにこれを減汰させ、選曹は清らかになった。引き続き江淮の軍民に詔を下して告諭し、広くこれを知らしめた。

当時、両淮は戦乱の余波で、荊棘が野を蔽っていた。昂吉児は屯田を設置して軍糧を供給することを請い、帝はこれに従った。まもなく阿塔海が言うには、「屯田に用いる人夫・牛・農具は非常に多く、今まさに日本に出兵しようとしている。もしさらに民兵を徴発すれば、動揺を招くことになろう。」議論はそこで中止された。間もなく、宣慰使燕公楠が再びこのことを言上したので、帝は数千人を派遣し、芍陂・洪沢で試みさせたところ、果たして昂吉児の言う通りであった。そこで二万の兵をもってここに屯田させ、毎年数十万斛の米を得た。輔国上将軍・河南行省参知政事・淮西宣慰使都元帥を加えられ、驃騎衛上将軍・行中書省左丞に進み、さらに龍虎衛上将軍・行尚書省右丞を加えられ、両官とも淮西使・帥を兼ねた。

日本が臣礼を取らず、帝は阿塔海らに卒十万を率いて征伐することを命じた。昂吉児が上疏し、その要旨は次の通りである。「臣は聞く、兵は気勢を主とし、上下が同じ欲求を持つ者が勝つと。近ごろ外夷に相次いで出兵し、三軍はしばしば敗北し、気勢を語るに足らず、海内は騒然としている。ひとたび徴発に遇えば、上下ともに愁怨し、いわゆる同じ欲求を持つ者ではない。兵を罷め民を休ませることを請う。」聞き入れられなかった。まもなく軍勢は果たして功績がなかった。

昂吉児はしばしば直言し、たとえ帝が甚だ怒っても、その言葉は少しも屈しなかった。台臣は昂吉児が制御し難いことを憂慮し、牙以迷失が強権を恐れないことを理由に、本道按察使に奏薦して彼を監察させた。牙以迷失はしばしば昂吉児の些細な過失を摘発して上奏したが、朝廷で弁明すると、帝はそれ以外に過失がないことを察知し、すぐにその官を昇進させ、後に結局は些細な過失で罪に問われた。元貞元年に卒去した。

子は五人、その顕著な者は、昂阿禿は廬州蒙古漢軍万戸府達魯花赤、暗普は海北海南道粛政廉訪使である。孫の教化的は世襲で千戸となった。

哈剌䚟

哈剌䚟は哈魯氏である。初め軍に従って襄陽・樊城を攻め、蒙古四万戸府に召されて水軍鎮撫となった。至元十二年、丞相伯顔に従って長江を渡り、管軍百戸に改められ、甲冑・銀鞘刀を賞賜された。十二年秋、丞相阿朮に従って宋軍と焦山で戦い、これを破り、海舟二隻を鹵獲した。阿朮は王世強招討とともに白鷂海船百艘を建造し、四十一万戸翼から漢軍三千五百・新附軍一千五百を選抜して派遣し、哈剌䚟・王世強に併せて統率させた。宋の江陰・許浦・金山・上海・崇明・金浦を攻めてことごとく陥落させ、海船三百余艘を鹵獲し、ついで澉浦海口を戍守した。

十三年春、行省の檄を受け沿海招討副使を充任した。宋の将張世傑の水軍が慶元朐山の東門海界に至ると、哈剌䚟はこれを追撃し、船四隻を鹵獲し、その功績を上奏した。行省はさらに軍七百を増撥し、旧来の率いる士卒と合わせて、定海港口を守備させた。秋七月、宋の昌国州・朐山・秀山の戍兵水軍千余艘が、定海港口を攻め奪おうとしたので、哈剌䚟は迎撃し、その副将および海船三隻を捕虜とした。八月、宋兵が再び定海港口を攻撃したので、哈剌䚟はこれを撃退し、行省の檄を受け蒙古漢軍招討使を充任した。十月、哈剌䚟は兵を率いて温州青㠗門に至り、宋兵と遭遇し、船五隻を奪い、使者を遣わして温州の守臣家之柄を諭し、城をもって降伏させた。十一月、福州に至り、宋の海船二十隻を奪い、毛監丞らを擒えた。

十四年、金符を賜い、宣武将軍・沿海招討副使に任ぜられ、行省の檄により沿海経略副使を充てられ、劉万戸と共に慶元において元帥府事を行い、沿海上下を鎮守し、南は福建に至り、北は許浦に及んだ。六月、行省の檄により沿海経略使を充てられ、左副都元帥を兼ね、海船千艘の督造を命ぜられた。八月、旨あり:江西省右丞塔出らが兵を進めて広南を攻めよ、ハラダイは兵を率いて従軍せよ。十月、昭勇大将軍・沿海招討使に進む。時に宋の処州兵が温州を奪回したので、ハラダイは兵を率いてこれを再び奪取した。潮陽県に進み至り、宋の都統陳懿ら兄弟五人が畬兵七千人を率いて降った。塔出が兵を進めて広州を攻め、一月を過ぎても陥落せず、ハラダイは兵を率いて続いて到着し、宋の安撫張鎮孫・侍郎譚応斗を諭して城を降した。大洋において張世傑を攻撃するに従い、その軍資器械を獲ること数え切れず。南恩州を諭し、宋の閤門宣賛・舎人梁国傑が畬軍一万人を率いて降った。

十五年、軍を慶元に還す。秋八月、入朝して帝に謁し、帝問うて曰く、「汝は何の氏族ぞ」と。対えて曰く、「臣はハル人なり」と。金織文衣・鞍勒を賜い、昭武大将軍・沿海左副都元帥・慶元路総管府ダルガチに抜擢され、配下の軍を率いて海口を戍守した。十六年、日本の商船四艘、篙師二千余人が慶元港口に至り、ハラダイは他意なきを探知し、行省に言上して交易し、これを遣わした。海賊賀文達・顧潤らが海島を寇掠したので、ハラダイはこれを諭して降し、舟六十余艘を得た。十八年、輔国上将軍・都元帥に抜擢され、国兵に従って日本を征し、颶風に遭い、舟は戻った。明年二月、慶元に還って戍守した。二十二年、都元帥を罷め、沿海上万戸府ダルガチに改める。

二十四年、入朝し、帝が日本に関する事柄を問うと、ハラダイは応対が甚だ詳細であったので、海道に還って戍守するよう命ぜられた。浙東宣慰使を授けられ、金織文段・玉束帯・鞍勒・弓矢を差等を付けて賜う。二十五年、枢密院が水軍に将帥を欠くとして、前職を兼ねるよう上奏した。冬、召されて入朝し謁見した。明年、金吾衛上将軍・中書左丞に拝され、浙東道宣慰使を行い、軍職は従前の如く領した。

大徳五年、召されて入朝し謁見した。資徳大夫・雲南行省右丞に抜擢され、劉深と共に八百媳婦国を征した。順元(年)に至り、宋の龍済らが叛き、師を喪って還り、劉深は誅され、ハラダイもまた罪により廃された。十一年、疾により汝州にて卒す。皇慶元年、栄禄大夫・平章政事・鞏国公を追贈され、諡して武惠と曰う。子ハラブハ、沿海万戸府ダルガチを襲う。

沙全

沙全、ハル人。父は沙的、代々沙漠に住み、太祖に従って金を平定し、河南柳泉を戍守し、ここに家を定めた。全は初め抄児赤と名乗り、わずか五歳で宋軍に捕虜とされ、十八歳の時、劉整の幕下に留め置かれた。宋人はその父の名が沙的であることから、沙を姓とさせ、名を全と曰わせた。全は久しく宋に居たので、その険阻堅固な所を備え知っていた。

中統二年、劉整が瀘州を以て帰順すると、全はこれと同行し、宋軍がこれを追撃したが、全は力戦して脱出し、管軍百戸を授けられた。至元三年、劉整が兵を出して雲頂山に至り、宋将夏貴の兵と遭遇し、全は多くを撃殺した。五年、劉整に都元帥事を領させて出師し襄樊を囲むに当たり、全を鎮撫とした。劉整は全に軍を率いさせて仙人山・陳家洞諸寨を攻撃させ、これを破り、千戸に昇進し銀符を賜う。宋将張貴を破り、樊城を抜き、劉整軍と合流した。正陽城を修築し、兵を率いて淮を渡り、宋将陳安撫と戦い、これを破った。十二年、丞相アジュに従い、宋将張世傑・孫虎臣と焦山において大戦し、水陸並進して宋人は支えきれず、鼓旗を尽く棄てて走り、その将士三十三人を捕獲した。常州を攻撃するに従い、これを克ち、勝に乗じて沿海諸城を下した。華亭に至り、士卒に殺掠を禁ずることを戒めたので、遂に城を挙げて出降し、功により華亭軍民ダルガチを授けられた。

時に民心未だ定まらず、未だ帰附せぬ塩徒が数万の衆を聚めて華亭を掠めたが、全はこれを撃破し、その名籍を得ること六千人、行省に請うて淮の芍陂に屯田させた。行省は邑人が新たに帰附したばかりで、時に叛く者があるとして、万戸フドフらに実情を体察させ、その城を屠ろうとした。全は言う、「塩卒は多くその土地の者にあらず、もしこれを屠れば、枉しく死する者衆し」と。死を以てその叛かざることを保証したので、遂に止んだ。金符を賜い、武略将軍を加えられ、塩場を兼領し、職は旧の如し。間もなく華亭を府に昇格させ、全をダルガチとし、虎符を賜う。時に盗賊蜂起し、その最も盛んな者は数千の衆を有したが、全はこれを悉く招来し、境内安んずるを得た。松江万戸府ダルガチに改め、始めて専ら軍政を領す。

二十二年、召見され、隆興万戸府ダルガチに遷る。請いを得て、旧名の抄児赤に復す。間もなく、帝は松江が海に臨む重地であるとして、再びこれを鎮守するよう命じ、三珠虎符を賜い、官にて卒す。

テムルブカ

テムルブカ、ダダリタイ人。父はテチ、乙未の歳、都元帥タハイガンブと共に兵を将いて蜀に入り、蒙古也可明安・和少馬頼及び砲手諸軍を併せ将い、興元・利・剣・成都諸郡を攻め下し、降った宋将小王太尉の衆を悉く麾下に隷属させた。中統二年、虎符を賜い、西川便宜都元帥を授かる。俄に行枢密院に進み、諸軍を率いて西川の未だ下らざる郡邑を略定した。至元元年、益都等路統軍使に遷り、軍中にて死す。

テムルブカ、中統初年に宿衛に備わる。至元七年、虎符を授かり、張馬哥に代わって淄萊水軍万戸となり、その衆を将いて襄陽に赴き、宋将范文虎と灌子灘において戦い、自ら四十余人を殺し、その戦艦を奪い、雲勝洲まで追撃して大いにこれを破った。行省がその功を上奏し、白金五十両・衣一襲・鞍轡一副を賜う。九年、益都新軍万戸を授かる。十一年、益都・淄萊新軍万戸に改める。

丞相バヤンに従って宋を伐ち、その大将夏貴を陽羅堡において破る。大軍が江を渡り、その功最も多しと論ぜられ、白金五百両を賜う。また鄂・蘄・黄・江・建康・常・秀・蘇・杭諸郡を下すに従い、累ねて昭武大将軍を加えられる。参知政事アラハンに従って紹興・温・台・福建諸郡を略定し、台州路総管府ダルガチを授かり、広東宣慰使に遷る。

十六年、都元帥を加えられる。宋将張世傑を香山島に追撃し、世傑死し、その衆数千人を降す。広東諸郡及び海島尽く平定し、諸降臣及び将校の功ある者を率い、大安閣において入朝し謁見する。太府監に命じてその身を視させ、銀鼠裘を製成し、親しくこれを賜い、中書左丞を授かり、江西に行省し、その他の爵賞に差等あり。二十五年、四川等処行尚書省平章政事を拝し、軍務を総べ兼ね、行中書省平章政事に改める。

その兄帖木脫斡(テムトワ)は、初め蒙古軍千戸として蜀征伐に従い功績を挙げ、行樞密院が承制により萬戸に任じた。