元史

列傳第十五: 阿朮 阿里海牙 相威 土土哈

阿朮

阿朮は兀良氏、都帥兀良合台の子である。沈着にして機略あり、智謀に富み、陣に臨んで勇決、その気魄は万人を圧する。憲宗の時、父に従い西南夷を征し、精兵を率いて斥候騎兵となり、向かうところ崩壊させ、その鋒鋭に敢えて当たる者なし。大理を平定し、諸部を克服し、交趾を降すに至るまで、行わざるはなかった。事績は兀良合台伝に見える。憲宗はかつてこれを労って言った、「阿朮は未だ名位なく、身を挺して国に奉ず、特に黄金三百両を賜い、以て将来を励ます」。

世祖即位の後、宿衛を統率する任に留まる。中統三年、諸王拜出・帖哥に従い李璮を征討して功あり。九月、宿衛将軍より征南都元帥に任ぜられ、汴にて兵を治める。宿州を再び設置す。至元元年八月、両淮の地を攻略し、攻め取り戦い獲ること多く、軍威大いに振るう。

四年八月、襄陽に兵を閲し、遂に南郡に入り、仙人・鉄城等の柵を奪い、生口五万を捕虜とす。軍還るに、宋兵は襄・樊の間で邀撃せんとす。阿朮は乃ち安陽灘より江を渡り、精騎五千を留めて牛心嶺に陣し、更に虚寨を設け、疑火を置く。夜半、敵果たして至り、首級万余を斬る。初め、阿朮が襄陽を過ぎし時、虎頭山に駐馬し、漢東の白河口を指して言う、「若し此処に堡塁を築かば、襄陽の糧道を断つべし」。五年、遂に鹿門・新城等の堡を築き、続いて漢水中に台を築き、夾江堡と相呼応せしむ。是より以降、宋兵の襄陽を援くる者は進む能わず。

六年七月、大雨洪水、漢水溢れ、宋将夏貴・范文虎相次いで兵を率いて来援し、更に兵を分ちて東岸の林谷の間に出入す。阿朮、諸将に謂いて曰く、「此れ虚勢を張るものなり、戦うべからず、舟師を整えて新堡に備うべし」。諸将これに従う。翌日、宋兵果たして新堡に向かい、これを大破し、殺し溺れしめ生擒五千余人、戦船百余艘を獲る。ここにおいて戦船を整え、水軍を訓練し、円城を築き、以て襄陽を逼迫す。文虎また舟師を率いて来救し、来興国また兵船百余艘を以て百丈山を侵す。前後湍灘にて邀撃し、俱にこれを敗走せしむ。

九年三月、樊城の外郭を破り、重囲を増築して以てこれを逼迫す。宋の裨将張順・張貴、軍衣を装載したる船百余艘を以て、上流より襄陽に入らんとす。阿朮これを攻め、順は死に、貴は僅かに城中に入る。やがて輪船に乗じて順流東走す。阿朮と元帥劉整は戦船を分泊して待ち受け、薪を燃やして江を照らし、両岸は昼の如し。阿朮は追撃して櫃門関に至り、貴を擒にし、余衆は尽く死す。是年九月、同平章事を加えらる。先に、襄・樊両城は漢水がその間を流れ、宋兵は江中に木を植え、鉄鎖を以て連ね、中に浮橋を造り、以て援兵を通ぜしむ。樊城はこれに恃って堅固たり。ここに至り、阿朮は機鋸を以て木を断ち、斧を以て鎖を断ち、その橋を焼き、襄陽の兵は援ける能わず。十二月、遂に樊城を抜く。襄陽守将呂文煥は懼れて出降す。

十年七月、命を受け淮東を攻略す。揚州城下に抵る。宋は千騎を出して戦わんとす。阿朮は兵を道左に伏せ、偽って敗走し、宋兵これを追う。伏兵発し、その騎将王都統を擒にす。

十一年正月、入朝し、参政阿里海牙と共に宋を伐つことを奏請す。帝は宰相に議せしむるも、久しく決せず。阿朮進みて曰く、「臣久しく行間に在り、備みて宋兵の往昔に弱まるを見る。今を失いて取らざれば、時再び来たらず」。帝は直ちにその奏を許可し、詔して兵十万を増し、丞相伯顔・参政阿里海牙等と共に宋を伐たしむ。三月、平章政事に進む。

秋九月、軍は郢の塩山に駐屯す。捕虜の民の言を得たり、「宋は沿江九郡の精鋭を尽く郢江東・西両城に聚めたり。今、舟師をその間に出せば、騎兵は岸を護るを得ず、これ危険の道なり。黄家湾堡を取るに若かず。東に河口あり、これより船を引き入れ湖に入り、転じて下江に至るを便とすべし」。これに従う。遂に郢を攻めるを捨てて去り、大沢の中を行く。忽ち宋騎兵千人突如として至る。時に従騎は僅か数十人、阿朮は即ち槊を奮って馳せ撃ち、向かうところ畏れて避け、五百余級を追斬し、その将趙・范の二統制を生擒す。沙洋・新城を攻め、これを抜く。前に復州に至る。守将翟貴は迎えて降る。

時に夏貴は大艦を鎖して江・漢口を扼し、両岸の防備は堅厳なり。阿朮は軍将馬福の計を用い、船を回して淪河口より湖中を穿ち、陽羅堡西の沙蕪口より大江に入る。十二月、軍は陽羅堡に至り、これを攻むるも克たず。阿朮、伯顔に謂いて曰く、「城を攻むるは下策なり。若し軍船の半ばを分ち、岸に沿って西上し、青山磯に対し停泊し、隙を窺い虚を衝けば、志を得べし」。これに従う。翌日、阿朮は遥かに南岸の沙洲を見るや、即ち衆を率いてこれに向かい、馬を載せて後に随う。宋将程鵬飛来たりて拒ぐ。大戦中流にて、鵬飛敗走す。諸軍沙洲に抵り、急撃し、岸に攀じ登り歩戦す。開きてまた合すること数四、敵稍々退く。岸に馬を出だし、遂に力戦してこれを破り、鄂の東門まで追撃して還る。夏貴、阿朮の飛渡を聞き、大いに驚き、麾下の兵三百艘を率いて先ず遁走し、余は皆潰走す。遂に陽羅堡を抜き、その軍需物資を尽く得る。

伯顔、軍の向かうべき所を議す。或いは蘄・黄を先に取るを欲す。阿朮曰く、「若し下流に赴かば、退くに拠る所なし。上りて鄂・漢を取らば、旬日を遅らすと雖も、軍に依る所あり、以て万全たるべし」。己未、水陸並びに鄂・漢に向かい、その船三千艘を焚く。煙焔天に漲り、漢陽・鄂州大いに恐れ、相次いで皆降る。

十二年正月、黄・蘄・江州降る。阿朮は舟師を率いて安慶に向かい、范文虎迎えて降る。続いて池州を下す。宋の丞相賈似道は重兵を擁して蕪湖に拒ぎ、宋京を遣わして和を請わしむ。伯顔、阿朮に謂いて曰く、「詔ありて我が軍を駐守せしむ、如何」。阿朮曰く、「若し似道を釈して撃たざれば、既に降りし州郡も今夏守り難からん。且つ宋に信なく、方に使を遣わして和を請うと雖も、また我が軍船を射、我が邏騎を執う。今日は唯当に進兵すべし。事若し過ちあらば、罪は我に帰せよ」。二月辛酉、軍は丁家洲に駐屯す。遂に宋の前鋒孫虎臣と対陣す。夏貴は戦艦二千五百艘を以て江中に横たわり、似道は兵を将いてその後に殿す。時に既に騎兵を遣わし両岸を挟んで進ませ、両岸に砲を樹て、その中堅を撃つ。宋軍の陣動く。阿朮は身を挺して舟に登り、自ら舵を執り、敵陣に突入す。諸軍続いて進み、宋兵遂に大潰す。以上詳しくは伯顔伝に見ゆ。

世祖は、宋の重兵が皆揚州に駐屯し、臨安はこれを重しと頼みとしていると見て、四月、阿朮に命じて兵を分かち揚州を囲んで守らしむ。庚申、真州に至り、珠金砂にて宋兵を破り、二千余級を斬る。既に揚州に抵り、乃ち瓜洲に楼櫓戦具を造り、真州より糧食を漕運し、柵を樹ててその糧道を断つ。宋の都統姜才は歩騎二万を領いて来たり柵を攻む。敵軍は河を挟んで陣す。阿朮は騎士を麾して河を渡りてこれを撃たしむ。戦うこと数合、堅くして退かしむる能わず。衆軍偽って敗走す。才これを逐う。遂に奮って回撃し、万矢雨の如く集まる。才の軍支えられず、その副将張林を擒にし、一万八千級を斬る。

七月庚午、宋の両淮鎮将張世傑・孫虎臣が舟師万艘を率いて焦山の東に駐屯し、十船ごとに一舫とし、鉄鎖で連ねて必死の覚悟を示した。阿朮は石公山に登ってこれを望み、舳艫が連接し旌旗が江を蔽うのを見て、「焼き払って敗走させることができる」と言った。そこで強健で射術に長けた者千人を選び、巨艦に載せて両翼に分かれて挟み撃ちに射かけ、阿朮は中央に位置し、勢いを合わせて進撃し、続いて火矢でその帆檣を焼き、煙炎が天に漲った。宋兵はすでに碇を下ろして死戦していたが、この時には逃走することもできず、前軍は争って水に赴いて死に、後軍は散り散りに逃げた。追撃して圌山に至り、黄鵠・白鷂船七百余艘を鹵獲した。これより宋人は再び軍を成すことができなくなった。

十月、詔を下して中書左丞相に拝し、なお諭して言うには、「淮南は重地であり、李庭芝は狡詐であるから、卿がこれを守る必要がある」と。時に諸軍は臨安を進取し、阿朮は瓜洲に兵を駐めて、揚州の援軍を絶った。伯顔が兵に血を刃に染めさせずして宋を平定できたのは、阿朮の制御する力によることが多かった。

十三年(1276年)二月、夏貴が淮西の諸城を挙げて来附した。阿朮は諸将に言うには、「今、宋はすでに滅びたが、ただ庭芝だけが未だ降伏せず、外からの援助がなお多いためである。もしその声援を絶ち、彼らの糧道を塞ぎ、なお恐らくは東の通州・泰州に走り、江海に逃れようとするだろう」と。そこで揚州の西北丁村に柵を築き、その高郵・宝応からの糧秣輸送を扼し、粟を湾頭堡に貯えて防禦に備え、新城に留まって屯し、泰州を威圧した。また千戸伯顔察児に甲騎三百を率いさせて湾頭の兵勢を助けさせ、かつ戒めて言うには、「庭芝は水路が既に絶たれれば、必ず陸路から出撃するであろう。宜しく謹んで備えるべし。もし丁村で烽火が上がれば、首尾相応じてその帰路を断て」と。六月甲戌、姜才は高郵からの米の輸送が将に至らんとすることを知り、果たして夜に歩騎五千を出して丁村の柵を犯した。暁に至り、伯顔察児が来援し、率いる所は皆阿朮の麾下の精兵で、旗幟には双赤月が描かれていた。諸軍はその塵埃を望み、連呼して「丞相来たる!」と言った。宋軍はその旗を識り、皆遁走し、姜才は身を脱して逃走し、騎兵四百を追殺し、歩卒で免れた者は百人に満たなかった。壬辰、李庭芝は朱煥に揚州を守らせ、姜才を挟んで東走した。阿朮は兵を率いて追襲し、歩卒千人を殺し、庭芝は辛うじて泰州に入り、遂に塁を築いてこれを守った。七月乙巳、朱煥は揚州を以て降伏した。乙卯、泰州守将孫良臣が北門を開いて降伏を受け入れ、李庭芝・姜才を捕らえ、命を受けて揚州市で誅戮した。揚州・泰州が既に陥落すると、阿朮は士卒に厳命を下し、暴掠を禁じた。武衛軍校が民の馬二頭を掠奪した者がおり、即座に斬って衆に示した。両淮は悉く平定され、府二、州二十二、軍四、県六十七を得た。九月辛酉、大明殿において世祖に謁見し、宋の捕虜を陳列した。功績を次第に論じて賞を行い、泰興県二千戸を実封された。

二十三年(1286年)、叛王昔剌木等を北伐する命を受けた。明年(1287年)凱旋した。続いてまた西征し、哈剌霍州に至り、病により卒した。年五十四。河南王を追封された。

阿里海牙

阿里海牙は畏吾児人である。初めて生まれた時、胞衣の中から剖って出てきた。その父は不祥として、棄てようとしたが、母は忍びなかった。成長するに及んで、果たして聡明で弁舌に長け、胆略があった。家は貧しく、かつて自ら耕作し、耒を捨てて嘆いて言うには、「大丈夫たる者、朝廷に功を立てるべきであり、どうして細民のごとく畎畝に倣うことがあろうか」と。去って、その国の書を求めて読み、一ヶ月余りで、また捨て去った。推薦者によって潜邸の世祖に仕えることができた。

世祖が即位すると、次第に抜擢任用され、左右司郎中より参議中書省事に遷った。至元二年(1265年)、諸路行中書省が立てられると、僉河南行省事に進んだ。

五年(1268年)、元帥阿朮・劉整とともに襄陽を取ることを命じられ、また参知政事を加えられた。初め、帝は諸将を遣わし、城を攻めず、ただこれを包囲して、その自ら降伏するのを待つよう命じた。そこで長囲を築き、万山より起こり、百丈・楚山を包み、鹿門に至るまでを覆って、これを遮断した。宋兵で入援する者は、皆敗れて去った。しかし城中の糧食貯蔵は多く、五年間包囲したが、終に陥らなかった。九年(1272年)三月、樊城の外郭を破り、その将はまた内城を閉じて守った。阿里海牙は、襄陽に樊城があるのは、ちょうど歯に唇があるようなものであり、宜しく先ず樊城を攻めるべきで、樊城が陥れば、襄陽は攻めずして得られると考えた。そこで入奏した。帝は初めて許可を報じた。時に西域人亦思馬因が新たな礮法を献上する者がおり、その人を軍中に来させた。十年(1273年)正月、礮をもって樊城を攻め、これを破った。これに先立ち、宋兵は浮橋を作って襄陽の援軍を通じさせていたが、阿里海牙は水軍を発してその橋を焼き、襄陽からの援軍は至らず、城はついに陥った。詳細は阿朮伝に具わる。

阿里海牙は樊城を破ると、その攻撃用具を移して襄陽に向けた。一発の礮がその譙楼に命中し、声は雷霆の如く、城中を震わせた。城中は騒然とし、諸将の多くが城を踰えて降伏した。劉整はその城を粉砕し、文煥を捕らえてその意を快くしようとした。阿里海牙はひとり攻撃を望まず、自ら城下に至り、文煥に語って言うには、「君は孤軍をもって数年城を守り、今や飛鳥も路絶えている。主上は深く汝の忠を嘉している。もし降伏すれば、尊官厚禄を必ず得ることができ、決して汝を殺さない」と。文煥は狐疑して決断できなかった。また矢を折ってこれと誓い、このようにすること数回、文煥は感動して出降した。遂にこれとともに朝廷に入った。帝は文煥を昭勇大将軍・侍衛親軍都指揮使・襄漢大都督ととくとした。阿里海牙は行荊湖等路枢密院事を行い、襄陽を鎮守した。

阿里海牙は奏上して言うには、「襄陽は、昔より用武の地である。今、天が順を助けてこれを克した。宜しく勝に乗じて順流長駆すべく、宋は必ず平定できる」と。平章阿朮もまたその説を賛成した。帝は丞相史天沢にこれを議させた。天沢は言うには、「朝廷もし重臣を遣わし、丞相安童・同知枢密院事伯顔のような者の一人が、諸軍を都督すれば、四海混同は立って待つことができる」と。帝は言うには、「伯顔がよい」と。そこで大いに兵を徴し、伯顔を行中書省左丞相に拝し、阿朮を平章とした。阿里海牙は行省右丞に進み、鈔二百錠を賞賜された。

十一年(1274年)九月、襄陽に会師し、遂に郢州及び沙洋・新城を破った。十二月、軍は沙蕪口より出た。宋の制置夏貴が諸隘を守り、甚だ堅固であった。阿里海牙は兵を麾いて武磯堡を攻め、夏貴は救援に赴いた。阿朮は遂に兵を率いて西の青山磯を渡り、宋の都統程鵬飛が来て迎え戦い、これを江中で敗った。時に夏貴の兵もまた敗走して廬州に走り、宣撫朱禩孫は夜遁して江陵に還り、知鄂州張晏然は城を以て降伏し、程鵬飛は本軍を率いて降伏した。

伯顔は諸将と鄂城下で会し、議して言うには、「鄂は山を襟とし江を帯び、江南の要区である。かつ兵糧ともに備わっている。今、しょく・江陵・岳・鄂は皆未だ下らず、一大将を以てこれを鎮撫しなければ、上流がひとたび動けば、鄂は我が有する所ではなくなる」と。そこで兵四万を以て、阿里海牙を遣わして鄂を戍らせ、自らは阿朮とともに大兵を率いて東に向かった。

阿里海牙は鄂の民を集め、上(皇帝)の徳恵を宣べ、将士に侵掠を禁じた。その配下は恐れおののき、敢えて民の菜を取る者なく、民は大いに喜んだ。人を遣わして寿昌・信陽・徳安の諸郡を巡らせると、皆降った。進んで江陵を巡った。十二年(1275年)春三月、安撫高世傑の軍と巴陵で遭遇し、張栄実に命じてその中堅を突かせ、解汝楫に諸翼の兵を率いさせて左右から挟み撃ちにした。世傑は敗走し、桃花灘で追撃して降伏させた。かくして岳州を陥れた。四月、沙市に至ると、城は降らず、火を放って攻撃し、沙市はたちまち陥落した。宣撫朱禩孫・制置高達は恐れ、直ちに城を降した。そこで江陵に入城し、囚人を釈放し、戍券軍(徴発兵)を解放し、その徭役賦税及び法令の煩瑣な細則を免除した。檄を伝えて郢・帰・峡・常徳・澧・随・辰・沅・靖・復・均・房・施・荊門及び諸洞に至るまで、降らぬ者はなかった。降伏した官を全て官職に任じるよう上奏し、兵を以て峡を守らせ、その戸口財賦を登録して上申した。帝は喜び、三日間大宴会を開き、近臣に語って言った、「伯顔の軍は東に向かい、阿里海牙は孤軍で鄂を守っている。朕は甚だ憂えていた。今、荊南が平定され、我が東征軍は後顧の憂いがなくなった」。そこで自ら手詔を作って彼を褒め、右丞廉希憲に江陵を守らせ、阿里海牙を急ぎ鄂に還るよう促し、かつ沿江の諸城で新たに帰附した者を彼に委ねた。

阿里海牙は鄂に至り、潭州の守臣李芾を招いたが、従わなかった。そこで兵を長沙に移し、湘陰を陥れた。冬十月、潭州に至り、書を城中に射込んで芾に示し、「速やかに降伏し、州民を生かせ。さもなければ皆殺しにする」と言った。返答がなかった。そこで堀の水を決壊させ、諸将を配置し、砲で攻撃して、その木堡を破った。流れ矢が胸に当たり、傷は重かったが、督戦を一層急がせ、その城を奪った。潭州の民はまた月城(堡塁)を築いて抵抗した。合わせて七十日間攻撃し、大小数十回の戦闘があった。十三年(1276年)春正月、芾は力尽き、転運使鍾蜚英・都統陳義と共に自殺し、その将劉孝忠が城を降した。諸将は皆殺しにしようとしたが、阿里海牙は言った、「この州の人口は数百万である。もし悉く殺せば、上(皇帝)が伯顔に曹彬の殺さぬ心構えを諭された意に背く。法を曲げて彼らを生かそう」。また倉を開いて飢えた者に食を与えた。

使者を遣わして郴・全・道・桂陽・永・衡・武岡・宝慶・袁・韶・南雄の諸郡を巡らせると、その守臣は皆その民を率いて出迎え、「丞相が皇帝の好生の徳を体し、殺し捕虜にすることなく、通過する所は全て秋毫も犯さないと聞いた。民は今また太平を見る。各々表を奉じて来降する」と言った。丞相とは、阿里海牙を称したのである。降伏した官を官職に任じるよう上奏し、全て江陵の例の通りとした。

ただ宋の経略使馬塈が静江を守って降らなかった。総管俞全等を遣わして招いたが、皆殺された。ちょうど宋の主君が国を降したので、手詔を降し湘山の僧宗勉を遣わして塈を諭したが、塈はまた彼を殺した。阿里海牙はまた書を送り、天命・地利・人心を以て塈を開導し、広西大都督の地位を約束した。千余言を反復したが、終に聞き入れなかった。そこで入朝して宋平定を賀し、平章政事に拝され、詔を持って静江に赴き塈を諭すよう命じられた。十一月、先鋒が厳関に至ると、塈は関を守って受け入れず、その兵を破り、また都統馬応麒を小溶江で破り、ついに静江に迫った。皇帝から賜わった静江への詔を写し取って塈に示したが、塈はそれを焼き、その使者を斬った。静江は水を以て堅固としていたので、堰を築いて大陽・小溶の二江を断ち、上流を塞ぎ、東南の堤を決壊させてその堀を干上がらせ、その城を破った。民は城が破れたと聞くと、直ちに火を放って居宅を焼き、多くは水に赴いて死んだ。塈及びその総制黄文政・総管張虎は残兵を率いて包囲を突破して逃げたが、捕らえた。阿里海牙は静江の民は反逆しやすく、潭州とは比べものにならず、重刑に処さなければ広西の諸州は服従しないと考え、そこで悉く生き埋めにし、塈を市で斬った。万戸脱温不花を分遣して賓・融・柳・欽・横・邕・慶遠を巡らせ、斉栄祖を鬱林・貴・廉・象に、脱鄰を潯・容・藤・梧に巡らせると、皆降った。特磨の王儂士貴・南丹州の牧莫大秀は皆表を奉じて内附を求め、降伏した官を官職に任じるよう上奏し、潭州の例の通りとした。兵を以て静江・昭・賀・梧・邕・融を守らせ、そこで潭州に還った。

既にして宋の二王が海中で称制すると、雷・瓊・全・永及び潭州所属の県の民である文才喻・周隆・張虎・羅飛が皆兵を起こしてこれに応じ、舒・黄・蘄も相次いで起こり、大きいものは数万の衆、小さいものも数千を下らなかった。詔命によりこれを討伐し、かつ海外の地を攻略せよと命じられた。阿里海牙は才喻等を平定した後、雷州に至り、人を遣わして瓊州安撫趙与珞を降すよう諭したが、聞き入れなかった。そこで自ら大海を五百里航行し、与珞・冉安国・黄之紀を捕らえ、皆車裂きの刑に処し、瓊・南寧・万安・吉陽の地を悉く平定した。八蕃羅甸蛮を降し、その総管龍文貌を入朝させ、宣慰司を置いた。八蕃羅甸・臥龍・羅蕃・大龍・遏蛮・盧蕃・小龍・石蕃・方蕃・洪蕃・程蕃に、並びに安撫司を置いて鎮撫した。

十八年(1281年)、省(行中書省)を鄂州に移すよう上奏した。平定した荊南・淮西・江西・海南・広西の地は、合わせて州五十八を得、峒夷山獠は数え切れなかった。おおむね口先で降伏させ、専ら殺戮に頼ることはなかった。また、民から取る税は全て軽い賦税に定め、民は所在の地に祠を立てて彼を祀った。

二十三年(1286年)、入朝し、光禄大夫・湖広行省左丞相を加えられた。卒去、年六十。開府儀同三司・上柱国を追贈され、楚国公に封ぜられ、諡は武定。至正八年、進んで江陵王に封ぜられた。

子の忽失海牙は湖広行中書省左丞、貫只哥は江西行中書省平章政事。

相威

相威は、国王速渾察の子である。性格は寛大で剛毅、重厚であり、酒を飲まず、言葉少なく笑わなかった。士大夫を招き入れることを好み、経史を読み聞き、古今の治乱を論じ、直臣が忠を尽くし、良将が勝利を収める話に至ると、必ず手を打って称賛した。この故に大事に臨み、大議を決するに当たっては、言葉は必ず要点を押さえていた。

至元十一年、世祖は相威に命じて速渾察が元来統率する弘吉剌等五投下の兵を総括させ、宋征伐に従軍させた。正陽から安豊を取り、廬を攻略し、和を克ち、司空しくう山を攻め、野人原を平定した。安慶を通り、江を渡って東下し、潤州で丞相伯顔の軍と合流し、三道に分かれて並進した。相威は左軍を率い、参政董文炳が副将となり、将校を配置し、規律を明らかにした。江陰・華亭・澉浦・上海は全て風の便りに従って帰順し、官吏民衆は平穏なままだった。進んで塩官に駐屯した。伯顔は既に臨安城下に軍を駐め、宋の幼主の降表を得ていた。相威はそこで兵を瓜洲に移し、阿朮の軍と合流した。揚州に臨むと、都統姜才が兵二万で揚子橋を攻撃したので、諸将を率いてこれを撃破した。

十三年(1276年)夏、駅伝で相威を召還した。秋、入朝し、大饗宴が催され、功績を賞して金虎符・征西都元帥を授け、なお弓矢甲冑鞍・文錦の表裏四組・鈔一万貫を賜り、従者にも賞賜の差があった。時に親王海都が叛いたので、汪総帥の兵を率いて西方の地を鎮守するよう命じられた。

十四年(1277年)、召されて江南諸道行臺御史大夫に拝された。そこで上奏して言うには、「陛下は臣を耳目とされ、臣は監察御史・按察司を耳目とします。もしその人を得なければ、人の耳目が先に閉塞し、下情はどうして上達できましょうか」。帝はこれを嘉し、御史台に命じてその選任を厳しくさせた。毎度除目の文書が届くと、必ず幕僚・御史を集めてその可否を議し、公論に合わない者は即座に弾劾して去らせた。続いて民に便益をもたらす十五事を陳べ、その概略は次の通りである。行省を併合し、冗官を削減し、鎮戍を統制し、官船を管理し、流民を定着させ、故官を登用し、賄賂・贈り物を取り締まり、淮浙塩運司を行省に直轄させ、行大司農営田司を宣慰司に併合し、訴訟の処理は南北を分けず、公田は佃戸を募ってなおその租を減じ、宋の公吏の弊害を革め容認しないこと。帝はこれをすべて採用した。浙東で賊が起こり、浙西宣慰使の昔里伯が兵を放って恣に掠奪し、捕虜が平民に及んだので、御史の商琥を遣わして銭唐の津渡で検閲・処置させ、釈放された者は数千にのぼった。昔里伯は都に逃げ帰ったが、上奏して捕らえ揚州に送り返し、その罪を治めさせた。

十六年、入朝して拝謁した。時に左丞の崔斌らが平章の阿合馬の不法を言上し、勅旨があって相威と知枢密院の博羅に命じ、開平から駅伝を馳せて大都に赴き、共にこれを糾問させた。阿合馬は病気と称して出てこなかった。博羅は引き返そうとしたが、相威は声と表情を厳しくして言った。「勅旨を受けて審問するのに、敢えて引き返して奏上できようか」。車に乗せて病を押して対面させ、まず数件を責めた。既に自白した後、勅旨があって赦免したが、なお相威に諭して言った。「朕は卿が顔を惜しまぬことを知っている」。再び命じて南行台に戻らせた。十七年(1280年)、勅旨があって相威に命じ、阿里海牙・忽都帖木児らが捕虜にした三万二千余りを検査・照合させ、すべて民に放免させた。

十八年(1281年)、右丞の范文虎・参政の李庭が兵十万を率いて、海を渡って倭を征討した。七昼夜で竹島に至り、遼陽省の臣下の兵と合流した。まず太宰府を攻めようとしたが、躊躇して発しなかった。八月一日、颶風が大いに起こり、士卒の十のうち六七を失った。帝は激怒し、再び行省左丞相の阿塔海に命じてこれを征討させた。一時、敢えて諫める者はいなかった。相威は使者を遣わして入奏した。「倭は職貢を奉じない。討伐すべきではあるが、宥すべきではなく、緩やかにすべきであって急ぐべきではない。以前の出師は期日が迫り、戦船は堅固でなく、前車は既に覆った。後は轍を改めるべきである。今これに対する計略は、戦艦をあらかじめ整え、士卒を訓練し、兵を輝かせ武威を揚げ、彼らにこれを聞かせ、深く自ら防備させることである。年月をかけて、その疲れ怠るのを待ち、不意を突き、風に乗って疾く赴き、一挙に下すのが万全の策である」。帝の怒りはようやく解け、遂にその役を罷めた。また陳べて、皇太子が既に中書を令するならば、撫軍監国の任を領すべきであり、正人端士を選び、詹事・賓客・諭德・賛善を立て、左右を護衛翼賛させるのが、国本を樹立する所以であると述べた。帝は深くこれを然りとした。

十九年(1282年)、また奏上して、阿里海牙が降民一千八百戸を占めて奴隷にしたと述べた。阿里海牙は征討によって得たものだと言った。勅旨があった。「もし本当に降民ならば、役所に返せ。もし征討によって得たものならば、御史台に命じてその数を記録して奏聞させ、功績に応じて有功者に賜え」。阿里海牙はまた自らその功績が伯顔に比すべきものと陳べ、養老戸を賜うべきだと主張した。御史の滕魯瞻がこれを弾劾すると、阿里海牙は自ら弁明した。勅旨があって使者を行台に赴かせて逮捕・尋問させた。相威は言った。「臣下として敢えてこのように欺瞞するとは。滕御史に何の罪があろうか」。即座に馳せて奏上し、使者は結局帰った。

二十年(1283年)、病気を理由に入朝を請うた。訳語の『資治通鑑』を進呈すると、帝は直ちにこれを東宮の経筵講読に賜った。江淮行省左丞相に拝された。二十一年(1284年)、出発した。四月、蠡州で卒去した。享年四十四。訃報を聞き、帝は悼み惜しんでやまなかった。

子の阿老瓦丁は、南行台御史大夫である。

孫の脱歓は、集賢大学士である。

土土哈〔牀兀児〕

土土哈は、その祖先は本来武平の北、折連川の按答罕山部族であり、曲出から西北の玉里伯里山に移り住み、それによって氏とし、その国を欽察と号した。その地は中国から三万余里離れ、夏の夜は極めて短く、日が暫く沈むとすぐに出る。曲出は唆末納を生み、唆末納は亦納思を生み、代々欽察国の主となった。

太祖が蔑里乞を征伐した時、その主の火都が欽察に奔ったので、亦納思は彼を受け入れた。太祖は使者を遣わして諭して言った。「お前はどうして我が負傷した鹿を匿うのか。急いで返せ、さもなければ禍いがお前に及ぶぞ」。亦納思は答えて言った。「鷹から逃れた雀でさえ、草むらでも生き延びられる。我が草木にも及ばないというのか」。太祖はそこで将に命じてこれを討たせた。亦納思は既に老いて、国中大いに乱れた。亦納思の子の忽魯速蛮は使者を遣わして自ら太宗に帰順した。憲宗が命を受けて師を帥い、既にその国境に迫った時、忽魯速蛮の子の班都察は、挙族を率いて迎え降り、麦怯斯征伐に従って功績があった。欽察の百人を率いて世祖に従い大理を征し、宋を伐ち、強勇をもって称された。嘗て側近に侍し、尚方の馬畜を掌り、季節ごとに馬乳を攪拌して進上した。色は清く味は美しく、黒馬乳と号した。そこでその配下を目して哈剌赤と言った。

土土哈は、班都察の子である。中統元年、父子で世祖の北征に従い、共に功績によって上賞を受けた。班都察が卒去すると、父の職を襲い、宿衛に備えた。

宗王の海都が乱を構えると、世祖は国家の根本の地として、皇太子の北平王に諸王を率いさせてこれを鎮守させた。至元十四年、諸王の脱脱木・失烈吉が叛き、諸部を寇掠し、祖宗の御座所であった大帳を掠って去った。土土哈は兵を率いてこれを討ち、その将の脱児赤顔を納蘭不剌で破り、諸部を遮って連れ戻した。応昌の部族の只児瓦台が乱を構えると、脱脱木は兵を引いてこれに応じた。途中で土土哈に遭遇し、戦おうとしたが、先にその斥候騎兵数十を捕らえられたので、脱脱木は引き去り、遂に只児瓦台を滅ぼした。脱脱木らを禿兀剌河まで追撃し、三晩宿営してから返った。間もなくまたこれを斡歓河で破り、奪われた大帳を取り戻し、諸部の民衆を北平に還した。

十五年(1278年)、大軍が北征し、詔によって欽察のぎょう騎千人を率いて従軍した。失烈吉を追って金山を越え、扎忽台らを捕らえて献上した。また寛折哥らを破り、傷を包んで力戦し、羊・馬・輜重を多く獲た。朝廷に戻ると、帝は床前に召し出し、自ら慰労し、金銀の酒器及び銀百両・金幣九・歳時の宴に預かる只孫冠服一式・海東の白鶻一羽を賜い、なお奪回した大帳を賜って諭して言った。「祖宗の武帳は人臣が用いるべきものではない。卿がこれを帰還させたので、卿に授ける」。嘗て勅旨があった。「欽察人が民となっている者及び諸王に隷属している者は、皆別に籍を作って土土哈に隷属させよ。戸ごとに鈔二千貫を与え、歳賜として粟帛を与え、その材勇を選んで禁衛に備えよ」。

十九年(1282年)、昭勇大将軍・同知太僕院事を授かる。二十年(1283年)、同知えい尉院事に改め、兼ねて羣牧司を領す。配下の哈剌赤を畿内に屯田させることを請う。詔して州文安県の田四百頃を与え、宋の新附軍人八百を加え、その事を領せしむ。二十一年(1284年)、金虎符を賜い、併せて金貂・裘帽・玉帯各一、海東青鶻一、水磑一区、近郊の田二千畝を賜う。河東諸路の蒙古軍子弟四千六百人を籍し、その麾下に隷属させる。二十二年(1285年)、鎮国上将軍・枢密院副使に拝す。二十三年(1286年)、欽察親軍衞を置き、遂に都指揮使を兼ね、宗族・将吏をもって官属を備えることを聴す。

海都の兵が金山を犯す。詔して大将の朵児朵懐と共にこれを防がしむ。二十四年(1287年)、宗王乃顔叛す。密かに使者を遣わして也不干・勝剌哈を結ぼうとするも、土土哈に捕らえられ、その情を尽く得て上聞す。勝剌哈が宴を設けて二大将を招く。朵児朵懐は行かんとす。土土哈は事測るべからざるものと以為い、遂に止む。勝剌哈の計は行われず。未だ幾ばくもなく、旨有りて勝剌哈に入朝せしむ。東道より進まんとす。土土哈、北安王に言う「彼の分地は東に在り。もし不虞の事あらば、是れ虎を山林に放つなり」と。乃ち西道より進むことを命ず。既にして也不干の叛すと言う者有り。衆は先ず朝に聞えて然る後に兵を発さんと欲す。土土哈曰く「兵は神速を貴ぶ。若し彼果たして叛せば、我が軍その不意に出で、即ちこれを図るべし。然らずんば、これと約して還らん」と。即日行を啓き、疾駆すること七昼夜、禿兀剌河を渡り、孛怯嶺に戦いて、これを大いに敗る。也不干僅かに身をもって免る。世祖、時に乃顔を親征し、これを聞き、使いを遣わして土土哈に命じ、その余党を収めしむ。河に沿いて下る。叛王〔也〕鉄哥の軍万騎に遇い、これを撃ち走らしめ、馬を獲ること甚だ衆し。併せて叛王哈児魯等を擒え、行在所に献俘し、これを誅す。欽察・康里の属で叛所より来帰する者は、即ち以て土土哈に付す。哈剌魯万戸府を置き、安西諸王の部下に散処する欽察の者は、悉くこれを統べしむ。

時に成宗、皇孫として軍を北に撫す。詔して土土哈を従わしむ。乃顔の余党を哈剌(温)に追い、叛王兀塔海を誅し、その衆を尽く降す。二十五年(1288年)、諸王也只里、叛王火魯哈孫に攻められ、使いを遣わして急を告ぐ。復た皇孫に従い師を移してこれを援け、兀魯灰にこれを敗る。還って哈剌温山に至り、夜に貴烈河を渡り、叛王哈丹を敗り、遼左諸部を尽く得て、東路万戸府を置く。世祖、その功を多とし、也只里の女弟塔倫を以てこれに妻せしむ。

二十六年(1289年)、皇孫晋王に従い海都を征す。杭海嶺に抵る。敵先んじて険を占む。諸軍利あらず。惟だ土土哈その軍を以て直前に進み鏖戦し、晋王を翼けて出づ。追騎大いに至る。乃ち精鋭を選び伏せを設けてこれを待つ。寇敢えて逼ることなし。秋七月、世祖北辺に巡幸し、召見して慰諭し、曰く「昔、太祖その臣と患難を同じくする者と、班朮河の水を飲みて以て功を記す。今日の事、何ぞ昔人に愧じんや。卿そのこれを勉めよ」と。還って京師に至り、大いに群臣を宴し、復た土土哈に謂いて曰く「朔方の人來りて、海都の言を聞くに『杭海の役、彼の辺将皆土土哈の如くせば、吾が属安んぞ所を置かんや』と」と。功を論じて賞を行わんとす。帝、先ず欽察の士を欲す。土土哈言う「慶賞の典、蒙古の将吏宜しくこれを先にすべし」と。帝曰く「爾、飾り譲る毋れ。蒙古人は誠に汝の右に居れども、力戦豈に汝の右に在らんや」と。諸将を召して賞を頒つこと差有り。

初め、世祖既に宋を取るや、建康・廬・饒の租戸千を籍して哈剌赤戸と為すことを命じ、俘獲の千七百戸を益して土土哈に賜い、仍て一子を官し、以てその賦を督めしむ。二十八年(1291年)、土土哈奏す「哈剌赤軍万数を以て、用に備うるに足る」と。詔して珠帽・珠衣・金帯・玉帯・海東青鶻各一を賜う。復たその部曲に毳衣・縑素万匹を賜う。ここに於て哈剌赤万人を率い北に漢塔海に狩り、辺寇これ聞き、皆引き去る。

二十九年(1292年)秋、地を金山に略し、海都の戸三千余を獲る。還って和林に至る。詔有りて乞里吉思を進取せしむ。三十年(1293年)春、師欠河に次う。氷を行くこと数日、始めてその境に至り、その五部の衆を尽く収め、兵を屯してこれを守る。功を奏す。龍虎衞上将軍を加え、仍て行枢密院の印を与う。海都、乞里吉思を取るを聞き、兵を引いて欠河に至る。復たこれを敗り、その将孛羅察を擒う。

三十一年(1294年)、成宗即位す。詔して辺境の事重しとし、その会朝を免じ、使いを遣わして就いて銀五百両・七宝金壺盤盂各一・鈔一万貫・白氊帳一・独峯駝五を賜う。冬、京師に召し至り、賞賚加わる有り。別にその麾下の士に鈔千二百万貫を賜う。元貞元年春、仍て北辺を守り出づ。二年(1296年)秋、海都に附く諸王、衆を率いて来帰す。辺民驚擾す。身より玉龍罕の界に至り、饋餉してこれを安集し、諸王岳木忽等を導きて入朝せしむ。帝、御衣を解きて以て賜い、又金五十両・銀千五百両・鈔五万貫・轎輿各一を賜う。

大徳元年(1297年)正月、銀青栄禄大夫・上柱国・同知枢密院事・欽察親軍都指揮使に拝し、命を奉じて北辺に還る。二月、宣徳府に至り卒す。年六十一。金紫光禄大夫・司空を贈られ、延国公を追封され、諡して武毅と曰う。後に昇王を加封す。子八人。その第三子を牀兀児と曰う。

牀兀児

牀兀児、初め大臣の子として詔を奉じ太師月児魯に従い行軍し、百搭山に戦いて功有り、昭勇大将軍・左衞親軍都指揮使に拝す。

大徳元年(1297年)、父の職を襲い、征北諸軍を率い、師を帥いて金山を踰え、八鄰の地を攻む。八鄰の南に答魯忽河あり、其の将帖良臺は水を阻んで軍し、木を伐り柵を岸に立てて自らを庇い、士卒は皆下馬して跪坐し、弓矢を持して我が軍を待つ。矢は及ばず、馬は進めず。牀兀児は命じて銅角を吹かしめ、全軍を挙げて大呼せしむ。声は林野を震わす。其の衆は為す所を知らず、争い起ちて馬に就く。ここにおいて師を麾して悉く渡らしむ。湧水は岸を拍ち、木柵は漂散す。因って師を奮い起こして馳せ撃ち、奔るを追うこと五十里、其の人馬廬帳を尽く得たり。還りて阿雷河に次す。海都の遣わして八鄰を援けし将孛伯の軍と遇う。河の上に高山あり、孛伯は山上に陣す。馬は下り馳するに利あらず。牀兀児は軍を麾して河を渡りて之を蹙めしむ。其の馬多く顛躓す。急ぎ撃ちて之を破り、奔るを追うこと三十余里、孛伯は僅かに身をもって免る。二年(1298年)、北辺の諸王都哇・徹徹禿ら潜かに師を発して火児哈禿の地を襲う。其の地亦た山甚だ高く、敵兵之に拠る。牀兀児は勇にして歩に善き者を選び、挺刃を持たしめて四面より上り、奮撃して、其の軍を尽く覆す。三年(1299年)、朝に入る。成宗親しく御衣を解きて之を賜い、慰労優渥なり。鎮国上将軍・僉枢密院事・欽察親軍都指揮使・太僕少卿に拝す。復た辺に還る。

是の時、武宗潜邸に在り、朔方に軍を領す。軍事は必ず牀兀児に諮る。及び戦うや、牀兀児嘗て先鋒を為す。四年(1300年)秋、叛王禿麦・斡魯思ら辺を犯す。牀兀児は闊客の地に於て敵を迎え撃つ。其の未だ陣せざるに及び、直ち前に進みて之を搏つ。敵敢えて支えず、之を追いて金山を踰えて乃ち還る。五年(1301年)、海都の兵金山を越えて南し、鉄堅古山に止まり、高きに因りて以て自ら保つ。牀兀児急ぎ兵を引きて之を破る。復た都哇と兀児禿の地に於て相い持す。牀兀児は精鋭を以て其の陣に馳せ、左右奮撃し、殺す所勝計すべからず、都哇の兵幾くんぞ尽きんとす。武宗親しく其の戦を視て、乃ち嘆じて曰く、「何ぞ其れ壮なるや!力戦此の如きは未だ有らざるなり」と。事聞こゆ。詔して御史大夫禿只らを遣わし、即ち赤訥思の地に諸王軍将を集めて戦勝の功状を問わしむ。咸に牀兀児の功第一と称す。武宗既に雅忽禿楚王の公主察吉児を尚せしむるを命ず。及び使者功簿を以て奏す。帝復た御衣を出だし、使を遣わして臨みて之を賜う。七年(1303年)秋、朝に入る。帝親しく之に諭して曰く、「卿北辺を鎮め、累ね大功を建つ。黄金を以て卿が身を周飾すと雖も、猶お以て朕が意を尽くすに足らず」と。衣帽・金珠等の物を賜うこと甚だ厚し。驃騎衛上将軍・枢密院副使・欽察親軍都指揮使・太僕少卿に拝す。仍て其の軍万人、鈔四千萬貫を賜う。

九年、諸王都哇・察八児・明里帖木児ら相い聚りて謀りて曰く、「昔我が太祖艱難を以て帝業を成し、天下を奄有す。我が子孫乃ち克く靖恭して、以て其の成を安享する能わず、連年兵を構え、以て相い残殺す。是れ自ら祖宗の業を隳すなり。今軍を撫し辺を鎮むる者は、皆吾が世祖の嫡孫なり。吾誰と争わんや。且つ前に土土哈と戦いて既に勝つ能わず、今其の子牀兀児と戦いて又功無し。惟だ天惟だ祖宗の意見ゆべし。使を遣わして命を請い兵を罷め、一家の好を通ぜしむるに若かず。吾が士民の老者養うを得、少者長ずるを得、傷残疲憊の者休息を得しめば、則ち亦た太祖の我が子孫に望む所に負くこと無からん」と。使至る。帝之を許す。ここにおいて明里帖木児ら兵を罷めて朝に入る。特為に駅を置きて以て往来を通ぜしむ。十年(1306年)、栄禄大夫・同知枢密院事に拝し、尋いで光禄大夫・知枢密院事に拝す。欽察左衛指揮・太僕少卿皆な旧の如し。

成宗崩ず。武宗時に渾麻出の海上に在り。牀兀児急ぎ帰りて大業を定め、以て天下の望みに副わんことを請う。武宗其の言を納れ、即日南還す。及び即位し、先朝の御せし所の大武帳等の物を以て賜い、平章政事を加拝し、仍て枢密・欽察左衛・太僕を兼ぬ。辺に還り、復た容国公に封ぜられ、銀印を授けられ、尚服の衣段及び虎豹の属を賜う。至大二年、朝に入り、句容郡王に加封せられ、金印を改めて授けらる。帝曰く、「世祖大理を征する時に御せし武帳及び服せし珠衣、今以て卿に賜う。其れ辞する勿れ」と。翌日、又世祖の乗せし安輿を以て之を賜い、且つ曰く、「卿足疾有るを以て、故に此れを賜う」と。牀兀児頭を叩き涕を泣き、固く辞して言う、「世祖の御せし帳、服せし衣は、固より臣の敢えて当うる所に非ず。而して乗輿は尤も蒙る所に宜しからざるなり。寵を貪り過当なれば、臣実に敢えず」と。帝左右を顧みて曰く、「他人は此れを辞するを知らず」と。別に命じて有司に馬轎を置かしめて之を賜い、俾く以て殿門下に乗るを得しむ。

仁宗即位す。朝に入る。特づ光禄大夫・平章政事・知枢密院事・欽察親軍都指揮使・左衛親軍都指揮使・太僕少卿を授く。延祐元年、叛王也先不花等の軍を亦忒海迷失の地に於て破る。使を遣わして入り報ず。尚服を以て賜う。二年(1315年)、也先不花の遣わしし将也不干・忽都帖木児を赤麦干の地に於て破る。其の境を追い出で、鉄門関に至り、其の大軍に扎亦児の地に於て遇い、又之を破る。四年(1317年)、帝其の功を念い其の老を憫み、召し入れて中書省事を商議せしめ、知枢密院事と為す。大理国象牙・金飾の轎を進む。即ち以て之を賜う。見る毎に必ず坐を賜い、食する毎に必ず食を賜い、宗室親王の礼を以て待つ。牀兀児常に曰く、「老臣朝廷の賜う所厚し。吾が子孫当に死を以て国に報ずべし」と。

至治二年(1322年)卒す。年六十三。後累ねて揚王に封ぜらる。子六人:燕帖木児、答剌罕・太師・右丞相・太平王;撒敦、左丞相;答里、句容郡王を襲封す。