伯顔は蒙古八鄰部の人である。曾祖父の述律哥圖は太祖に仕え、八鄰部の左千戸となった。祖父の阿剌は父の職を継ぎ、断事官を兼ね、忽禅を平定して功績があり、その地を食邑として得た。父の曉古台はその官を世襲し、宗王旭烈兀に従って西域を開拓した。伯顔は西域で育った。
十一年、大挙して宋を伐つこととなり、史天澤とともに中書左丞相に任じられ、荊湖行省を統轄した。当時、荊湖と淮西にそれぞれ行省が建てられていたが、天澤が言うには、号令が統一されなければ、敗事を招く恐れがあると。詔により淮西行省を行樞密院に改めた。天澤はまた病を理由に、伯顔に専任を願い出たので、伯顔に河南等路行中書省を領させ、所属するものはすべてその節制に従うこととした。秋七月、陛下に別れを告げると、世祖は諭して言った、「昔、曹彬は殺すことを好まぬことで江南を平定した。汝は朕の心を体して、わが曹彬となれ」。
九月甲戌朔、襄陽に会師し、軍を三道に分けて並進した。丙戌、伯顔は平章阿朮とともに中道を取り、漢江に沿って郢州へ向かった。万戸武秀が前鋒となり、水たまりに遭遇した。長雨で水が溢れ、舟がなくて渡れない。伯顔は言った、「我らはやがて大江を飛び渡るというのに、この小さな水たまりを恐れるものか」。そこで一人の壮士を召し、甲冑と武器を背負わせ、馬に乗って先導させ、諸軍に手を振って全軍を渡らせた。癸巳、塩山に駐屯し、郢州から二十里の距離であった。郢は漢水の北にあり、石で城を築き、宋人はさらに漢水の南に新郢を築き、鉄の索を横たえ、戦艦を鎖で繋ぎ、水中に密に杭を立てていた。下流の黄家湾堡にも守禦の具を設け、堡の西に溝があり、南は藤湖に通じ、江まで僅か数里であった。そこで総管李庭・劉國傑を遣わして黄家湾堡を攻めさせ、これを陥落させ、竹を割いて敷き、舟を揺らして藤湖から漢江に入った。諸将が請うて言った、「郢城は我々の喉襟である。取らなければ、後患となる恐れがあります」。伯顔は言った、「用兵の緩急は、私が知っている。城を攻めるのは下策である。大軍が出るのは、この一城のためではない」。そこで郢を捨て、流れに沿って下った。伯顔と阿朮が後衛となり、百騎に満たなかった。十月戊午、大きな沢の中を行軍中、郢の将趙文義・范興が二千騎で襲撃してきた。伯顔と阿朮は甲冑をつける暇もなく、急いで軍を返して迎撃し、伯顔は自ら文義を殺し、范興を生け捕りにして殺した。その士卒の死者は五百人、生け捕りは数十人であった。
甲子、沙洋に駐屯した。乙丑、断事官楊仁風に命じて降伏を勧告させたが、応じなかった。さらに捕虜一人に黄榜と檄文を持たせ、趙文義の首を掲げて城内に入り、守将の王虎臣・王大用を招かせた。虎臣らは捕虜を斬り、黄榜を焼いた。裨将の傅益が水軍十七人を率いて降伏してきたが、虎臣らはまた降伏しようとしたその兵士を斬った。伯顔は再び呂文煥に命じて招かせたが、またも応じなかった。日暮れ時、風が激しく起こると、伯顔は風に乗じて金汁砲を放ち、その家屋を焼かせた。煙と炎が天に漲り、城はついに陥落した。万戸忙古歹が虎臣・大用ら四人を生け捕りにし、残りはすべて屠殺した。丙寅、新城に駐屯し、万戸帖木児・史弼に命じて沙洋で斬った首を城下に並べさせ、黄榜と檄文を城中に射込んで降伏を勧告させた。その守将の邊居誼は、呂文煥を招いて話をさせた。丁卯、文煥が城下に至ると、飛んで来た矢が右腕に当たり、逃げ帰った。戊辰、その総制の黄順が城を越えて出て降伏した。すぐに招討使に任じ、金符を佩かせ、城上の軍に呼びかけさせた。その部下たちはすぐに縄で城を下りてきたが、居誼は彼らを城内に招き入れ、すべて斬った。己巳、その副都統制の任寧も降伏したが、居誼はついに出てこなかった。そこで総管李庭に命じてその外堡を攻め破らせ、諸軍が蟻のように付いて登り、これを陥落させた。残りの三千の兵はなおも力戦して死に、居誼は一家を挙げて自焼した。そこで王虎臣・王大用ら四人も併せて誅殺した。
十一月丙戌、復州に駐屯した。知州の翟貴が城を挙げて降伏した。諸将がその倉庫と軍籍を点検し、官を遣わして鎮撫するよう請うたが、伯顔は聞き入れず、諸将に城に入ることを禁じ、違反者は軍法で処すると諭した。阿朮が右丞阿里海牙を遣わして渡江の時期を言わせたが、伯顔は答えなかった。翌日また来たが、また答えなかった。阿朮が自ら来ると、伯顔は言った、「これは大事である。主上が我ら二人に任せられたのだ。他の者に我々の実情を知らせてよいものか」。密かに期日を決めて去った。乙未、軍は蔡店に駐屯した。丁酉、漢口の形勢を見に行った。宋の淮西制置使夏貴らが戦艦一万艘で要害を分かち据え、都統の王達が陽邏堡を守り、(荊)〔京〕湖宣撫の朱禩孫が遊撃軍で中流を扼し、兵は進むことができなかった。千戸の馬福建が言うには、淪河口から沙蕪を通って江に入れると。伯顔は沙蕪口を偵察させたが、夏貴もまた精兵でこれを守っていた。そこで漢陽軍を包囲し、漢口から渡江すると声言した。貴は果たして兵を移して漢陽を援護した。
十二月丙午、軍は漢口に駐屯す。辛亥、諸将は漢口より堤を開き、船を淪河に引き入れ、先に万戸阿剌罕を遣わして兵を以て沙蕪口を防がしめ、武磯に迫り、陽羅城堡を巡視せしめ、直ちに沙蕪に向かい、遂に大江に入る。壬子、伯顔の戦艦万計、相踵いで至り、数千艘を以て淪河湾口に泊し、蒙古・漢軍数十万騎を江北に屯布す。諸将言う、「沙蕪の南岸、彼の戦船在り、攻めて取り得べし」と。伯顔曰く、「吾も亦其の必ず取り得るを知る、汝輩の小功を貪り、大事を失わんことを慮る。一挙に江を渡り、其の全功を収むる可し」と。遂に攻具を修めしめ、軍を進めて陽羅堡に至る。癸丑、人を遣わして之を招くも、応ぜず。甲寅、再び人を遣わして之を招くも、其の将士皆曰く、「我輩は宋の厚恩を受け、戮力死戦するは、此時なり。叛逆して降るの理有らんや。吾が甲兵を備え、今日を以て之を決せん。我が宋の天下は、猶ほ賭博の孤注の如く、輸贏は此の一擲に在るのみ」と。伯顔諸将を麾して之を攻めしむ、三日にして克たず。術者来たりて言う、「天道南行し、金・木相犯す。若し二星交り過ぎば、則ち江渡る可し」と。伯顔之を退け、言う勿からしむ。乃ち密かに阿朮と謀りて曰く、「彼は我が必ず此の堡を抜きて、能く江を渡らんと謂う。此の堡甚だ堅く、攻むるは徒労なり。汝今夜鉄騎三千を以て、舟を泛かべて直ちに上流に趨き、虚を擣くの計と為し、詰旦江を渡り南岸を襲え。已に過ぎたらば、則ち速やかに人を遣わして我に報ぜよ」と。乙卯、右丞阿里海牙を分遣し、万戸張弘範・忽失海牙・折的迷失等を督し、先ず歩騎を以て陽羅堡を攻めしむ。夏貴来援す。遂に阿朮をして其の不意に出でしめ、万戸晏徹児・忙古歹・史格・賈文備の四翼軍を率い、流を泝り西上四十里、青山磯に対し而して泊す。是の夜、雪大いに作る。遥かに南岸に沙洲多く露わるるを見る。阿朮舟に登り、諸将に指示し、令して直ちに是の洲に趨きしめ、馬を載せて後に随う。万戸史格の一軍先ず渡るも、其の都統程鵬飛に却けらる。阿朮身を横たえて決し、中流に血戦し、其の将高邦顕等を擒にし、死者算無し。鵬飛七創を受け、敗走す。船千余艘を得、遂に南岸を得。阿朮は鎮撫何瑋等数十人と岸を攀じ歩鬭し、開きて復た合する者数四、南軍水に阻まれ、相薄くを得ず。遂に浮橋を起こし、列を成して渡る。阿里海牙継いで張栄実・解汝楫等の四翼軍を遣わし、舳艫相銜いで、直ちに夏貴に抵る。貴麾下の軍数千を引きて先ず遁れ、諸軍之に乗じ、斬溺数計ふ可からず、鄂州東門に追ひ至りて還る。丙辰、阿朮使いを遣わして来報す。伯顔大いに喜び、諸将を揮して急ぎ陽羅堡を攻め破り、王達を斬る。宋軍大いに潰え、数十万の衆、死傷幾くも尽くす。夏貴僅かに身を以て免れ、白虎山に走る。諸将貴を大将と謂ひ、逸して去らしむ可からずとし、之を追はんことを請ふ。伯顔曰く、「陽羅の捷は、吾使いを遣はして前に宋人に告げんと欲す。而して貴走りて吾が使いに代はる。追ふ必ずしも要せず」と。丁巳、伯顔武磯山に登る。大江の南北、皆我が軍なり。諸将賀し、伯顔之を辞謝す。
阿朮還りて江を渡り、兵の向かふ所を議す。或は先づ蘄・黄を取らんと欲す。阿朮曰く、「若し下流に赴かば、退くに拠る所無し。先づ鄂・漢を取らば、遅く旬日と雖も、万全の計と為す可し」と。伯顔之に従ふ。己未、師鄂州に次ぐ。呂文煥・楊仁風等を遣わして之を諭して曰く、「汝が国の恃む所は、江・淮のみ。今我が大兵長江を飛渡するは、平地を履むが如し。汝輩何ぞ速やかに降らざる」と。鄂は漢陽を恃み、将に戦はんとす。乃ち其の戦艦三千艘を焚く。火城中を照らし、両城大いに恐る。庚申、知鄂州張晏然・知漢陽軍王儀・知徳安府来興国、皆城を以て降る。程鵬飛其の軍を以て降る。壬戌、新附の官の品級を定め、宋兵を撤し、諸将に分隷す。是に先立ち、辺民戍卒宋境に陷りし者、悉く縦ち遣す。丁卯、万戸也的哥・総管忽都歹を遣わし、入奏して江渡りの捷を報ぜしむ。分ちて命じ阿剌罕先鋒黄頭をして、寿昌の糧四十万斛を取り、以て軍餉を充てしむ。右丞阿里海牙等を留め、兵四万を以て、鄂に省を分ち、荊湖を規取せしむ。己巳、伯顔は阿朮と大軍を以て水陸東下し、阿朮をして先づ黄州を拠らしむ。
二月壬寅朔、伯顔安慶に至る。制を承けて文虎に両浙大都督を授く。文虎其の従子友信を以て安慶府事を知らしむ。万戸喬珪を命じて之を戍らしむ。丁未、池州に次ぐ。都統制張林城を以て降る。戊申、通判権州事趙昴発其の妻と自経死す。伯顔城に入り、見て之を憐れみ、衣衾を具へしめて葬らしむ。
宋の宰臣賈似道宋京を遣はし書を致し、已に降れる州郡を還し、歳幣を貢するを約す。伯顔武略将軍囊加歹を遣はし其の介阮思聰と同しく命に報ぜしめ、京を止めて以て待たしめ、且つ使はして似道に謂はしめて曰く、「未だ江を渡らざりし時は、和を議し貢を入るるは則ち可なり。今沿江の諸郡皆内附す。和せんと欲せば、則ち当に来たり面議すべし」と。囊加歹還る。乃ち宋京を釈す。
庚申の日、池州を発し、壬戌の日、丁家洲に駐屯した。賈似道は諸路の軍馬十三万(号して百万)を都督し、歩軍指揮使孫虎臣を前鋒とし、淮西制置使夏貴は戦艦二千五百艘を率いて江中に横たわり、似道は後軍を率いた。伯顔は左右翼の万戸に命じて騎兵を率い江を挟んで進ませ、砲声は百里に震動した。宋軍の陣が動揺し、貴は先に遁走し、小船で似道の船に近づき、呼んで言うには「彼は衆にして我は寡なり、勢い支え難し」と。似道これを聞き、慌てふためき、急いで鉦を鳴らして軍を収めると、軍は潰走した。諸軍は大声で叫んだ「宋軍敗れたり」と。諸戦艦で後方にあったものに対し、阿朮は騎兵を急がせて召し寄せ、身を挺して舟に登り、舵を取って敵船に突進し、船首と船尾が互いにぶつかり合い、忽ち分かれ忽ち合した。阿朮は小旗で何瑋・李庭らを指揮し、舟を並べて深く進入させ、伯顔は歩騎に命じて左右から挟撃させ、百五十余里にわたって追撃し、溺死者は数え切れず、船二千余艘を得、及びその軍資・兵器・図籍・符印を獲得した。似道は東に走って揚州へ、貴は走って廬州へ、虎臣は走って泰州へと逃れた。
甲子の日、太平州を攻撃した。丁卯の日、知州孟之縉及び知無為軍劉権・知鎮巣軍曹旺・知和州王喜が、皆城を以て降伏した。庚午の日、軍は建康の龍湾に駐屯し、将士を大いに賞賜した。
三月癸酉の日、宋の沿江制置趙溍は遁走し、溍の兄趙淮は溧陽で兵を挙げ、捕らえられて死んだ。都統徐王栄・翁福らが城を以て降伏し、招討使唆都に命じてこれを守らせた。知鎮江府洪起畏は遁走し、総管石祖忠が城を以て降伏した。知寧国府趙与可は遁走し、知饒州唐震は死に、而して江東の諸郡は皆陥落した。淮西の滁州諸郡も相次いで降伏した。
丙子の日、国信使廉希賢が建康に至り、旨を伝えて諸将に各々営塁を守り、妄りに侵掠するなからしめた。希賢は厳忠範らと共に命を受けて宋に使いし、兵を請うて自衛しようとした。伯顔は言う「使者は言葉をもってすべし、兵をもってすべからず。兵が多いのは、徒らに使事の累いとなるのみ」と。希賢が固く請うたので、与えた。丙戌の日、独松嶺に至ると、果たして宋人に殺害された。
庚寅の日、伯顔は左右司員外郎石天麟を遣わして朝廷に詣で事を奏上させた。世祖は大いに喜び、その奏上を全て許可した。伯顔は行中書省を以て建康に駐屯させ、阿塔海・董文炳は行枢密院を以て鎮江に駐屯させ、阿朮は別に詔を受けて揚州を攻撃させた。江東は凶作で、民に大疫が流行したが、伯顔は随時に賑済救済し、民はこれにより安堵した。
宋人は都統洪模を遣わし、書を徐王栄らに送り、使者殺害の事は太皇太后及び嗣君は実に知らず、皆辺境の将の罪であり、これを按じて誅殺すべきであると述べ、幣を納めて兵を罷め和好を通じることを願った。伯顔は言う「彼は譎詐の計を用いて、我が虚実を窺おうとしている。人を選んで同往させ、その事体を観察し、威徳を宣布して、速やかに降伏せしめるべきである」と。乃ち議事官張羽らに命じて王栄の返書を持たせ、平江の駅に至らせたが、宋人はまたこれを殺害した。
四月乙丑の日、詔があり、時暑方に熾んとして行師に利あらず、秋を俟って再挙すべしとされた。伯顔は奏上して言う「宋人の江海に拠るは、獣の険に保つが如し。今已にその吭を扼せり。少しこれを放てば、逸れて逝くであろう」と。世祖は使者に語って言う「将軍は軍に在りて、中より制せられざるは、兵法なり。宜しく丞相の言に従うべし」と。
五月丁亥の日、また奉御愛先に命じて旨を伝え、伯顔を召して朝廷に赴かせ、阿剌罕を参政とし、留まって省事を治めさせた。伯顔は鎮江に至り、諸将と会して事を計り、各々鎮に還ることを命じ、乃ち江を渡り北行し、上都に入って謁見した。七月癸未の日、中書右丞相に進み、功を阿朮に譲ったので、遂に阿朮を左丞相とした。
八月癸卯の日、命を受けて行省に還り、詔書を付与され、以て宋主を諭すことを命じられた。乃ち益都を取って道とし、沂州等の軍塁を巡視し、淮東都元帥孛魯歓・副都元帥阿里伯を調発し、その部する兵を率いて淮を遡って進ませた。九月戊寅の日、淮安城下で軍を合わせ、新附の官孫嗣武を遣わして城門を叩き大声で呼ばせ、また城中に矢文を射て、守将を諭して降伏せしめようとしたが、皆応じなかった。庚辰の日、招討別吉里迷失は北城の西門を拒み、伯顔は孛魯歓・阿里伯と共に南城堡に親臨し、諸将を指揮して長駆して登らせ、これを抜いた。潰兵は大城に奔らんとしたが、追襲して城門に至り、数百級を斬首し、遂にその南堡を平定した。丙戌の日、宝応軍に駐屯した。戊子の日、高郵に駐屯した。十月庚戌の日、揚州を包囲した。諸将を召して方略を指授し、孛魯歓・阿里伯を留めて湾頭の新堡を守らせ、衆軍は南行した。壬戌の日、鎮江に至り、行院を罷め、阿塔海・董文炳に同署事させた。
十一月乙亥の日、伯顔は軍を三つの道に分け、臨安で会することを期した。参政阿剌罕らを右軍とし、歩騎を率いて建康より出で四安を経て独松嶺に向かわせ、参政董文炳らを左軍とし、舟師を率いて江陰より海に沿って澉浦・華亭に向かわせ、伯顔及び右丞阿塔海は中道より、諸軍を節制し、水陸並びに進んだ。
壬午の日、伯顔の軍は常州に至った。先に常州の守王宗洙は遁走し、通判王虎臣が城を以て降伏していたが、その都統制劉師勇と張彦・王安節らがまたこれに抵抗し、姚訔を推して守とし、固く拒んで数ヶ月下らなかった。伯顔は人を遣わして城下に至らせ、城中に矢文を射て招諭した「已に降りて復た叛くを疑う勿れ、我が師に拒敵するを懼るる勿れ」と。皆応じなかった。乃ち親しく帳前軍を督いて南城に臨み、また多く火砲を建て、弓弩を張り、昼夜これを攻撃した。浙西制置文天祥は尹玉・麻士龍を遣わして来援させたが、皆戦死した。甲申の日、伯顔は帳前軍を叱咤して先に登らせ、赤旗を城上に竪てた。諸軍はこれを見て大声で叫んだ「丞相登れり」と。師は悉く登城した。宋兵は大いに潰え、城を抜き、その城を屠り、姚訔及び通判陳炤らはこれに死し、王安節を生け捕りにし、これを斬った。劉師勇は服装を変え単騎で平江に奔った。諸将はこれを追うことを請うたが、伯顔は言う「追う勿れ。師勇の過ぎる所、城を守る者は胆落すであろう」と。行省都事馬恕を常州尹とした。
蒙古軍都元帥闍里帖木児・万戸懐都を遣わし、先に無錫州を占拠させ、万戸忙古歹・晏徹児に太湖を巡視させ、監戦亦乞里歹・招討使唆都・宣撫使游顕を遣わし、闍里帖木児と会して先に平江に向かわせた。
庚寅の日、降人游介実を遣わし、詔書の副本を奉じて宋に使いさせ、なお書を以て宋の大臣を諭した。十二月辛丑の日、無錫に駐屯した。宋の将作監柳岳らがその国主及び太皇太后の書、併せて宋の大臣の伯顔への書を持参して来見し、涙を垂れて言うには「太皇太后は年高く、嗣君は幼冲にして、且つ衰絰の中に在り。古より礼は喪を伐たず。哀れみ恕して班師せられんことを望み、敢えて毎年進奉して修好せざらんや。今日事ここに至るは、皆奸臣賈似道の信を失い国を誤れるに因るのみ」と。伯顔は言う「主上の即位の初め、国書を奉じて修好せんとしたが、汝が国は我が行人を十六年間拘執した。これにより師を興して罪を問うたのである。去歳、また故なく廉奉使らを殺害した。誰が過ちか。我が師の進まざらんことを欲するならば、将に銭王の土を納れるに效おうとするか、李主の出降するに效おうとするか。爾ら宋は昔、小児の手より天下を得、今また小児の手より失う。蓋し天道なり。多く言う必要なし」と。岳は頓首して泣き止まなかった。招討使抄児赤を遣わし、柳岳の来使の事及び厳奉使の齎した国書を以て入奏させた。
先に、平江守の潜説友は遁走し、通判の胡玉らは既に城を降したが、再び宋人の手に奪われた。甲辰、諸軍は平江に到着し、都統の王邦傑・通判の王矩之が衆を率いて出降した。
庚戌、囊加歹をしてその使者柳岳とともに臨安に還らしむ。忙古歹・范文虎に両浙大都督事を行わせる。寗玉を遣わして呉江の長橋を修築せしむ、十日と経たずして完成す。
庚申、囊加歹が宋の尚書夏士林・侍郎呂師孟・宗正少卿陸秀夫とともに書を携えて来たり、世祖を伯父として尊び、永く子姪の礼を修め、かつ歳幣として銀二十五万両・帛二十五万匹を約すと請う。癸亥、囊加歹をして師孟らとともに臨安に還らしむ。忙古歹・范文虎を遣わし、阿剌罕・昔里伯とともに湖州を取らしむ、知州趙良淳はこれに死す。丙寅、趙与可は城を降す。伯顔は平江を発ち、游顕・懐都・忽都不花を留めて兵を屯し鎮守せしむ。別に寗玉を遣わして長橋を守らしむ。
囊加歹・洪模が来報す、宜中と張世傑・蘇劉義・劉師勇らが益王・広王を擁して浙江を下り、海を航って南に走り、ただ謝太后と幼主のみが宮中に在りと。伯顔は急ぎ使者を遣わし右軍の阿剌罕・奥魯赤、左軍の董文炳・范文虎に諭し、浙江を拠守せしめ、精兵五千人を以てこれを追わしむ、及ばずして還る。
丙戌、軍士の入城を禁じ、呂文煥を持たせて黄榜を以て臨安の内外の軍民に諭し、安堵を保たしむ。先に、三衙の衛士が白昼人を殺し、里巷の小民が乱に乗じて掠奪す、ここに至り民は皆安んず。丁亥、程鵬飛・洪双寿らを宮中に入らせ、謝后を慰諭す。戊子、謝后は丞相呉堅・文天祥・枢密謝堂・安撫賈餘慶・内官鄧惟善を遣わして来見せしむ、伯顔は慰めてこれを遣わすが、天祥の挙動が常ならざるを見て、異志あるを疑い、これを軍中に留む。天祥は数度帰還を請うも、伯顔は笑って答えず。天祥怒りて曰く、「我此れ来たるは両国の大事のためなり、彼らは皆帰遣せらる、何ぞ故に我を留むるや」と。伯顔曰く、「怒る勿れ。汝は宋の大臣たり、責任軽からず、今日の事は、まさに我とともにこれを為すべきなり」と。忙古歹・唆都に命じて館伴と為しこれを羈縻せしむ。程鵬飛・洪双寿に命じて賈餘慶とともに宋主の帝号を削る降表を改めしむ。己丑、臨安城北の湖州市に駐軍す。千戸囊加歹らを遣わし、宋の伝国璽を以て入献せしむ。
庚寅、伯顔は大将の旗鼓を建て、左右翼の万戸を率い、臨安城を巡り、浙江にて潮を観る。暮れ、湖州市に還り、宋の宗室大臣皆来見す。辛卯、万戸張弘範・郎中孟祺が程鵬飛とともに改めた降表及び宋主・謝后の未だ附かざる州郡に諭す手詔を軍前に持至る。鎮撫唐古歹に命じて文天祥の募集した義兵二万余人を罷めしむ。壬辰、伯顔は獅子峯に登り、臨安の形勢を観る。唆都に命じて軍民を撫諭せしめ、諸将を部署して共にその城を守り、その宮を護らしむ。癸巳、謝后また人を遣わして労問し、なお温言を以て慰めてこれを遣わす。甲午、その三衙諸司の兵を各翼に分置し、調遣を待たしむ。その生募等の軍は、帰らんと願う者は聴す。
蕭郁・王世英らを分遣して衢・信諸州を招諭す。二月丁酉、劉頡らを淮西に遣わして夏貴を招諭し、なお別将を遣わして浙東・西の地を徇わしむ。ここにおいて知厳州方回・知婺州劉怡・知台州楊必大・知処州梁椅、並びに城を降す。
右丞張惠・参政阿剌罕・董文炳・呂文煥に命じて入り謝后に謁見し、徳意を宣布してこれを慰諭せしむ。辛丑、宋主は文武の百僚を率い、闕を望みて拝し降表を発す。伯顔は制を承け、臨安を両浙大都督府と為し、忙古歹・范文虎に入らせて府事を治めしむ。また張惠・阿剌罕・董文炳・呂文煥らに命じて城に入り、その軍民銭穀の数を籍し、倉庫を閲実し、百官の誥命・符印図籍を収め、悉く宋の官府を罷む。宋主を取って別室に居らしむ。新附の官を分遣して湖南北・両広・四川の未だ下らざる州郡を招諭す。諸将を部署して要害に分屯せしめ、なお人に命じて宋氏の山陵を侵壊することを得ざらしむ。この日、進軍して浙江のほとりに至る、潮三日至らず、人天の助けと為す。
癸卯、謝后は呉堅・賈餘慶・謝堂・家鉉翁・劉岊を文天祥とともに祈請使と為し、楊応奎・趙若秀を奉表押璽官と為し、闕に赴かせて命を請わしむ。伯顔は表を拝して賀して曰く、
臣伯顔言す、国家の業は大一統にして、海岳必ず明主の帰する所たり。帝王の兵は万全を出だし、蛮夷敢えて天威に抗すべからず。始め干戈の及ぶより、終に文軌の会同に至る。区宇一清し、普天均しく慶ぶ。
臣伯顔ら誠に歓び誠に忭び、頓首頓首す。恭惟うに皇帝陛下は、道五葉に光り、統千齢に接す。梯航日出の邦、冠帯月支の域、丹崖に際して職を述べ、瀚海を奄うして家と為す。独り此の島夷、声教に遵わず、江湖を以て逆命を保つべく、舟楫を以て王師に敵すべしと謂う。兵を連ね固きに負い、四十年を逾え、徳に背き言を食らい、一二に計い難し。聖主の江南に飛渡せしめし日に当たり、行人を遣わして城下の盟を為さんことを乞う。凱奏の言旋するに逮び、輒ち詐謀の復た肆く。我が信使を拘囚し、乾坤再造の恩を忘れ、我が叛臣を招納し、漣海三城の地を盗む。我ここを以て六載襄樊の討ち有り、彼居然として一介行李の来たること無し。禍既に自求より出で、怒ついに斯の赫たるに聞く。
臣伯顔らは禁軍を整え、天誅を恭しく行う。襄漢の上流より発し、再び武昌の旧渡しを出る。江表の藩屏は一空し、烽煙は直接に銭塘に及ぶ。なお度徳量力の心なく、しきりに使臣を殺し書状を毀つ事あり。廟謨の親しく廩するに属し、根本を先にすべきと謂う。乃ち阿剌罕に命じて独松より道を取らしめ、董文炳に海渚より師を進めしむ。臣と阿塔海は中閫を司どるに忝くし、直ちに偽都を指す。掎角の勢既に成り、水陸の師並びに進む。常州已に下り、列郡檄を伝えて悉く平らぐ。臨安を期とし、諸将連営して畢く会す。彼窮蹙を知り、迭りに哀鳴を致す。始めには姪として幣を納むるの祈りあり、次いでは藩を称し璽を奉ずるの請いあり。顧みるに甘言何ぞ実事に益せん、鋭卒を率いて直ちに近郊に抵る。用事の大臣を召し来たり、思帰の衛士を放散す。崛強の心在り、四郊の横草皆無し。飛走の計窮まり、一片の降旛始めて竪つ。其の宋国主は已に二月初五日、闕を望みて拝伏し帰附畢れり。所有の倉廩府庫は、封籍して命を待つの外なり。臣は寛大を奉揚し、吏民を撫戢す。九衢の市肆移らず、一代の繁華旧きが如し。これ惟れ睿算、卓として前王に冠たり。万里を目前の如く視、天下を掌上に運ぶ。致して臣等を令し、明時に獲対し、七徳を歌いて成を告げ、深く龍庭の想を切にし、万年を上りて寿を為し、敬って虎拝の詞を陳ず。
臣伯顔ら、天を瞻み聖を望み激切屏営の至りに任せず、謹んで表を奉りて賀を称し以て聞す。
戊申、堅ら臨安を発つ。堂は行かず。癸丑、宋の福王与芮、伯顔に書を奉り、辞甚だ懇切なり。伯顔曰く、「爾が国既に帰降す、南北共に一家と為る。王疑う勿れ、宜しく速やかに来たり、共に大事に預かるべし」と。且つこれを迓わしむ。戊午、夏貴、淮西を以て降る。庚申、囊加歹に命じて旨を伝え、伯顔を召して宋の君臣とともに朝に入らしむ。
三月丁卯、伯顔臨安に入る。郎中孟祺をして其の礼楽祭器・冊宝・儀仗・図書を籍せしむ。庚午、囊加歹至る。甲戌、与芮来る。伯顔議して阿剌罕・董文炳を行省事を治め留め、以て閩・粵を経略せしめ、忙古歹を以て都督と為し浙西を鎮め、唆都を以て宣撫使と為し浙東を鎮め、唐兀歹・李庭に宋の君臣を護送して北上せしむ。
乙亥、伯顔臨安を発つ。丁丑、阿塔海ら詔を宣し、宋主・母后を促して入覲せしむ。詔を聴き畢り、即日俱に宮を出づ。惟だ謝后は疾を以て独り留まる。隆国夫人黄氏・宮人従行する者百余り、福王与芮・沂王乃猷・謝堂・楊鎮以下、官属従行する者数千人、三学の士数百人。宋主見えんことを求む。伯顔曰く、「未だ朝に入らず、相見の礼無し」と。
五月乙未、伯顔宋主を以て上都に至る。世祖大安閣に御して朝を受け、宋主㬎を降授して開府儀同三司・検校大司徒と為し、瀛国公に封ず。宋平らぎ、府三十七・州百二十八・関監二・県七百三十三を得。伯顔に命じて天地宗廟に告げしめ、天下に大赦す。帝伯顔を労う。伯顔再拝して謝して曰く、「陛下の成算を奉り、阿朮力を効す。臣何の功か之有らん」と。復た同知枢密院に拝し、銀鼠青鼠只孫二十襲を賜う。裨校功有る者百二十三人、銀を賞するに差有り。
初め、海都兵を称して内向す。詔して右丞相安童を以て皇子北平王那木罕を佐けしめ、諸軍を統べて阿力麻里に於いて之に備えしむ。十四年、諸王昔里吉北平王を劫い、安童を拘え、宗王を脅して以て叛く。伯顔に命じて師を率いて之を討たしむ。其の衆と斡魯歓河に遇い、水を夾んで陣し、相持すること終日、其の懈を俟ちて軍を麾して両隊と為し、其の備えざるを掩い、之を破る。昔里吉走りて死す。十八年二月、世祖燕王に命じて軍を北辺に撫せしめ、伯顔を従わせ、仍って之に諭して曰く、「伯顔は才将相を兼ね、事に忠なり。故に汝に従わしむ。常人の如く遇すべからず」と。燕王毎に事を論ずるに、礼を尊びて加う。是歳、群臣に食邑を頒ち、詔して藤州等処四千九百七十七戸を以て益す。
伯顔の宋を取って還るや、詔して百官郊迎して以て之を労わしむ。平章阿合馬、百官に先んじて半舍道に謁す。伯顔服する所の玉鈎絛を解きて之に遺し、且つ曰く、「宋の宝玉固より多し。吾実に取る所無し。此を以て薄しと為す勿れ」と。阿合馬其の己を軽んずるを謂い、中傷せんと思い、乃ち平宋の時、其の玉桃盞を取れるを以て誣う。帝命じて之を按ずるに、験無く、遂に之を釈し、其の任を復す。阿合馬既に死し、此の盞を献ずる者有り。帝愕然として曰く、「幾くんぞ我が忠良を陷れんとす」と。別吉里迷失嘗て伯顔を死罪に誣う。未幾、他の罪を以て誅さる。勅して伯顔に臨視せしむ。伯顔之と酒し、愴然として顧みずして返る。世祖其の故を問う。対えて曰く、「彼自ら罪有り。臣を以て之に臨ましむれば、人将に天誅の公を知らざらん」と。
二十九年の秋、宗王明理鐵木兒が海都を擁して叛き、詔により伯顏がこれを討った。阿撒忽禿嶺で相まみえ、矢が雨のように降り、諸軍は登ることを敢えてしなかった。伯顏はこれを命じて言った、「汝らが寒ければ君は衣を着せ、汝らが飢えれば君は食を与える。政はこの時に力を尽くさんとするものだ。ここで努めなければ、何をもって報いようか!」諸軍を指揮して進ませ、後れる者は斬るとした。伯顏は先に登って陣を陥れ、諸軍は風を見て争って奮い立ち、大いにこれを破った。明里鐵木兒は身一つで逃げ去り、速哥・梯迷禿兒らにこれを追わせた。伯顏は軍を率いて夜に帰還し、必失禿に至ったところ、突然伏兵に遭遇した。伯顏は堅く陣を守って動かず、夜明けになって、ついに引き去らせた。伯顏は軽騎で追って別竭兒に至り、速哥・梯迷禿兒らの兵も到着したので、挟み撃ちにして、二千級を斬首し、その残りの衆を捕虜として帰還した。諸将が言うには、「古礼では、兵が勝てば必ず征討の地で旗を祭るものである」と。捕虜を犠牲に用いようとしたが、伯顏は許さず、衆は皆感服した。軍中で間者を捕らえたが、忻都はこれを殺そうとした。伯顏は許さず、厚く賜物を与え、書を持たせて明里鐵木兒に禍福を諭させた。明里鐵木兒は書を得て感激して泣き、衆を率いて帰順した。
間もなく、海都が再び辺境を侵犯したので、伯顏は留まってこれを防いだ。廷臣の中に、伯顏が長く北辺に居て、海都と通好し、依然として守りを保ち、寸尺の獲るところもないと讒言する者がいた。詔により御史大夫玉昔帖木兒を以てこれに代え、伯顏を大同に居らせ、後の命令を待たせた。玉昔帖木兒が三駅に至らないうちに、海都の兵が再び到来した。伯顏は人を遣わして玉昔帖木兒に告げて言った、「公はしばらく留まり、私がこの賊を討ち平らげてから来られても遅くはありますまい」。伯顏は海都の兵と交戦し、戦いながら退却すること凡そ七日、諸将はこれを臆病と思い、憤って言った、「果たして戦いを恐れるなら、どうして軍を大夫(玉昔帖木兒)に授けないのか」。伯顏は言った、「海都は孤軍を懸けて我が地を渡り、邀撃すれば逃げ去る。深く誘い込めば、一戦で捕らえることができる。諸軍がどうしても速戦を望むなら、もし海都を逃がした場合、誰がその責を負うのか」。諸将は言った、「私どもが負いましょう」。すぐに軍を返してこれを撃破した。海都は果たして脱出して去った。そこで玉昔帖木兒を軍中に召し寄せ、印綬を授けて立ち去った。時に成宗は皇孫として詔を奉じ北辺の軍を慰撫していた。酒を挙げて餞別し言った、「公が去られて、何を以て私を教えられますか」。伯顏は酌んだ酒を挙げて言った、「慎むべきは、これ(酒)と女色のみである。軍中では固より厳しい紀律を守るべきだが、恩徳も偏って廃してはならない。冬夏の営地駐屯は、旧例に従うのが便利である」。成宗はことごとくこれに従った。
三十年冬十二月、駅伝により大同から召し出され、世祖は御不例であった。明年正月、世祖が崩御し、伯顏は百官を総べしてこれを聴いた。兵馬司が日出に晨鐘を鳴らし、日入に昏鐘を鳴らして変事を防ごうと請うた。伯顔はこれを叱って言った、「汝は賊となろうとするのか! いつもの通りにせよ」。ちょうど内府の銀を盗む者があった。宰執は幸いに赦免されて盗んだとして、これを誅しようとした。伯顔は言った、「いつ盗人がいないことがあろうか。今、誰の命によってこれを誅するのか」。人々は皆その識見に服した。
成宗が上都の大安閣で即位した。親王に不満の言葉があった。伯顔は剣を握って殿陛に立ち、祖宗の宝訓を述べ、顧命を宣揚し、成宗を立てた所以の意を述べた。言葉も顔色もともに厳しく、諸王は股を震わせ、殿の下に趨って拝した。五月、開府儀同三司・太傅・録軍国重事に拝され、前の如く枢密院事を知り、金銀を賜わりそれぞれ差があった。時に宰相にこれを忌む者がいた。伯顔はこれに語って言った、「幸いにして私に美酒二甕を送り、諸王と宮前で飲ませてくれ。それ以外は知らない」。江南の三省が累次行枢密院の廃止を請うた。成宗が伯顔に問うた。時に既に病が重く、目を見開いて答えて言った、「内では省・院をそれぞれ置くのが宜しく、外では軍と民を分けて隷属させるのは不便である」。成宗はこれを是とし、三院は遂に廃止された。冬十二月丙申、大星が東北に隕ちた。己亥、木に氷が降った(雨木氷)。庚子、伯顔が薨じた。享年五十九。
伯顔は深い謀略と善い決断力を持ち、二十万の衆を率いて宋を伐つこと、一人を将するが如く、諸将帥はこれを神明のように仰いだ。事を終えて朝廷に還り、帰りの荷物は衣類と寝具のみで、一度も功を言わなかった。大徳八年、特に宣忠佐命開済功臣・太師・開府儀同三司を贈られ、淮安王を追封され、諡は忠武。至正四年、宣忠佐命開済翊戴功臣を加贈され、淮王に進封された。その他は前の通り。
子の買的は、僉枢密院事。囊加歹は、枢密副使。孫の相嘉失禮は、同僉枢密院事・集賢学士。至治の末、白只剌山の先祖の墓に参詣し、変事があると聞き、上都に赴いた。ある人が少し避けるよう勧めたが、言った、「私は国と休戚を共にする。今難があるのに、どうして避けられようか!」上都に至ると、果たして囚われた。久しくして釈放され、間もなく河南江北行省平章政事に拝され、江南行臺御史大夫に遷った。曾孫の普達失理は、皆その家をよく継いだ。