巻126

列傳第十三: 安童 廉希憲

安童〔兀都帶〕

原文安童〔兀都帶〕

安童は、木華黎の四世の孫、霸突魯の長子である。中統の初め、世祖は元勲を追録し、召し入れて宿衛の長とし、年齢はわずか十三歳で、その位は百官の上にあった。母の弘吉剌氏は、昭睿皇后の姉であり、禁中に出入りを許されていた。世祖がある日彼女に会い、安童について尋ねると、彼女は答えて言った。「安童は幼いながらも、公輔(三公・宰相)の器です。」世祖が「どうしてそれがわかるのか」と問うと、答えて言った。「毎回退朝すると必ず老成な人々と語り、一度も年少者と親しむことはありませんでした。それでわかるのです。」世祖は喜んだ。

原文安童,木華黎四世孫,霸突魯長子也。中統初,世祖追錄元勳,召入長宿衞,年方十三,位在百僚上。母弘吉剌氏,昭睿皇后之姊,通籍禁中。世祖一日見之,問及安童,對曰:「安童雖幼,公輔器也。」世祖曰:「何以知之?」對曰:「每退朝必與老成人語,未嘗狎一年少,是以知之。」世祖悅。

四年、阿里不哥の党与千余人を捕らえ、法に照らして処置しようとした時、安童が側に侍っていた。帝が彼に言った。「朕はこの連中を死地に置こうと思うが、どうか。」答えて言った。「人はそれぞれその主のために尽くすものです。陛下は大難を平定されたばかりなのに、急に私的な恨みで人を殺されば、どうして未だ服従しない者を懐柔し服従させることができましょうか。」帝は驚いて言った。「卿は年少であるのに、どこからこのような老成した言葉を得たのか。この言葉はまさに朕の考えと合致する。」これによって帝は彼を深く重んじた。

原文四年,執阿里不哥黨千餘,將置之法,安童侍側,帝語之曰:「朕欲置此屬於死地,何如?」對曰:「人各為其主,陛下甫定大難,遽以私憾殺人,將何以懷服未附?」帝驚曰:「卿年少,何從得老成語?此言正與朕意合。」由是深重之。

至元二年秋八月、光禄大夫・中書右丞相に任じられ、食邑は四千戸に増やされた。安童は辞退して言った。「今、三方(中原・西域・吐蕃)は平定されましたが、江南はまだ帰附していません。臣は年少の身で、誤って重任を担い、四方が朝廷を軽んじる心を抱くことを恐れます。」帝は顔色を動かし、しばらくして言った。「朕は熟慮したが、卿に及ぶ者はいない。」冬十月、許衡を召し寄せ、旨を伝えて省(中書省)に入り議事するよう命じた。許衡は病気を理由に辞退したので、安童はすぐに自らその宿舎を訪ね、長い間語り合った。帰還した後、数日間彼のことを思い続けて忘れられなかった。三年、帝は許衡に諭して言った。「安童はまだ幼く、事に慣れていない。よく輔導せよ。汝に良策があれば、まず彼に告げて朕に伝えさせよ。朕はそれを選ぶであろう。」許衡は答えて言った。「安童は聡明で、しかも節操を持っています。古人の言ったことを告げれば、全て理解できます。臣は心を尽くさないわけにはいきません。ただ、中(宮中)に彼を離間する者がいることを憂え、また外から勢力を用いて人をその中に送り込むことがあれば、実行が難しくなります。臣が省に入った日は浅く、見るところはこの通りです。」四年三月、安童は上奏した。「内外の官には老成な人を用いるべきです。儒臣の姚樞らを省に入れて議事させるのがよろしいでしょう。」帝は言った。「この連中は閑職にあるが、なお優遇して養うべきである。彼らを省に入れて議事させよ。」

原文至元二年秋八月,拜光祿大夫、中書右丞相,增食邑至四千戶。辭曰:「今三方雖定,江南未附,臣以年少,謬膺重任,恐四方有輕朝廷心。」帝動容,有間曰:「朕思之熟矣,無以踰卿。」冬十月,召許衡至,傳旨令衡入省議事,衡以疾辭,安童即親候其館,與語良久,既還,念之不釋者累日。三年,帝諭衡曰:「安童尚幼,未更事,善輔導之。汝有嘉謨,當先告之以達朕,朕將擇焉。」衡對曰:「安童聰敏,且有執守,告以古人所言,悉能領解,臣不敢不盡心。但慮中有人間之,則難行,外用勢力納人其中,則難行。臣入省之日淺,所見如此。」四年三月,安童奏:「內外官須用老成人,宜令儒臣姚樞等入省議事。」帝曰:「此輩雖閑,猶當優養,其令入省議事。」

五年、廷臣が密かに尚書省を設置し、阿合馬にこれを統轄させることを議し、まず安童を三公の位に就けるべきだと奏上した。事が諸儒に下って議論されると、商挺が率先して言った。「安童は国の柱石である。もし三公とすれば、これは虚名で崇めて実はその権力を奪うことになり、甚だよろしくない。」皆がその通りだと言ったので、事は遂に取りやめとなった。七年四月、上奏して言った。「臣が近ごろ言いましたところ、『尚書省・枢密院はそれぞれ奏事することを命じ、常の制度通りとし、その大政令は、臣らが議定してから、その後で上聞する』と。既にご旨を得ました。ところが今、尚書省は一切を直接上奏しており、以前のご旨に違反しているようです。」帝は言った。「まさか阿合馬が朕が彼をかなり信用しているので、専権をふるっているのか。卿と議しないのは、よろしくない。」以前のご旨通りにするよう命じた。

原文五年,廷臣密議立尚書省,以阿合馬領之,乃先奏以安童宜位三公。事下諸儒議,商挺倡言曰:「安童,國之柱石,若為三公,是崇以虛名而實奪之權也,甚不可。」眾曰然,事遂罷。七年四月,奏曰:「臣近言:『尚書省、樞密院各令奏事,並如常制,其大政令,從臣等議定,然後上聞。』既得旨矣,今尚書一切徑奏,似違前旨。」帝曰:「豈阿合馬以朕頗信用之,故爾專權耶?不與卿議,非是。」敕如前旨。

八年、陝西省の臣である也速迭兒が建言した。近年飢饉のため、盗賊が横行している。もし一二人を公然と処刑して見せしめにしなければ、懲戒を示すことができない、と。中書省に詳議を命じた。安童が上奏して言った。「強盗も窃盗も同じく死刑とするのは、おそらく適切ではありません。死罪に至る罪は、やはり従来通り上奏を待つべきです。」これに従った。

原文八年,陝西省臣也速迭兒建言,比因饑饉,盜賊滋橫,若不顯戮一二,無以示懲。敕中書詳議,安童奏曰:「強、竊均死,恐非所宜,罪至死者,宜仍舊待報。」從之。

十年春三月、玉冊・玉宝をもって皇后弘吉剌氏に上り、玉冊・金宝をもって燕王を皇太子とし、兼ねて中書令とし、枢密院事を判らせるよう奏上した。冬十月、帝は安童と伯顔らに諭して言った。「近ごろ史天澤・姚枢が新格を纂定した。朕は既に親覧したが、皆実行可能な法典である。汝らもまた一つ一つ留意して参考にすべきであり、一二増減すべきところがないわけではあるまい。」それぞれ記録させ、議論を促して実行させた。当時、天下で上奏を待つ死囚が五十人おり、安童はそのうち十三人は喧嘩殺人によるもので、他は疑うべき点がないと上奏した。そこで詔して、上奏した十三人を死刑を免じて軍に従わせた。十一年、阿合馬が国を蝕み民を害する数件の事を上奏した。また、各部と大都路の官の多くは才能がないと上奏し、罷免・淘汰を加えるよう請うた。これに従った。

原文十年春三月,奏以玉冊玉寶上皇后弘吉剌氏,以玉冊金寶立燕王為皇太子,兼中書令,判樞密院事。冬十月,帝諭安童及伯顏等曰:「近史天澤、姚樞纂定新格,朕已親覽,皆可行之典,汝等亦當一一留心參考,豈無一二可增減者?」各令紀錄促議行之。時天下待報死囚五十人,安童奏其中十三人因鬭毆殺人,餘無可疑。於是詔以所奏十三人免死從軍。十一年,奏阿合馬蠹國害民數事;又奏各部與大都路官多非才,乞加黜汰。從之。

十二年七月、行中書省枢密院事を以て詔し、太子北平王に従って極辺に出鎮させ、辺境に十年留まった。二十一年三月、王に従って帰還し、闕下で罪を待った。帝はすぐに召見して慰労し、安童は頓首して謝して言った。「臣は使命を奉じて成果なく、聖徳に累を及ぼしました。」そこで寝殿に留め置かれ、四鼓(午前二時頃)になるまで語り合ってから退出した。冬十一月、和禮霍孫が罷免され、再び中書右丞相に任じられ、金紫光禄大夫を加えられた。二十二年、右丞盧世榮が失脚し、詔して諸儒とともに彼が用いた人々及びなした事柄を条陳し、全て罷免した。

原文十二年七月,詔以行中書省樞密院事,從太子北平王出鎮極邊,在邊十年。二十一年三月,從王歸,待罪闕下,帝即召見慰勞之,頓首謝曰:「臣奉使無狀,有累聖德。」遂留寢殿,語至四鼓乃出。冬十一月,和禮霍孫罷,復拜中書右丞相,加金紫光祿大夫。二十二年,右丞盧世榮敗,詔與諸儒條其所用人及所為事,悉罷之。

二十三年夏、中書省が漕司の諸官の姓名を擬して奏上した。帝は言った。「平章・右丞などは、朕が自ら選ぶ。その他は皆卿らの職務である。」安童が上奏して言った。「近ごろ聖意が近侍を耳目として頼りにしようとされていると聞きます。臣は辱くも任使を承っていますが、もし行うことが法に違反するならば、彼らに挙奏させ、罪の軽重は陛下が裁断処置されます。今、近臣は隙をうかがって非類(不適格者)を引き入れ、『某は某の官に、某は某の職に』と言い、署名した奏目の文書を中書省に付して施行させようとします。臣は考えますに、選抜の法は自ら定まった制度があります。その中でも特に先例のないものについては、臣は常に廃して実行しませんでした。彼らの仲間に臣を誹謗する者がいることを憂えております。どうか陛下に詳しくお調べください。」帝は言った。「卿の言う通りである。今後このようなことは行うな。妄りに奏上する者は、すぐに言上せよ。」前吏部尚書の李昶を召し出すよう奏上したが、起きなかった。再び田十頃を賜るよう奏上した。

原文二十三年夏,中書奏擬漕司諸官姓名,帝曰:「如平章、右丞等,朕當親擇,餘皆卿等職也。」安童奏曰:「比聞聖意欲倚近侍為耳目,臣猥承任使,若所行非法,從其舉奏,罪之輕重,惟陛下裁處。今近臣乃伺隙援引非類,曰某居某官、某居某職,以所署奏目付中書施行。臣謂銓選之法,自有定制,其尤無事例者,臣常廢格不行,慮其黨有短臣者,幸陛下詳察。」帝曰:「卿言是也。今後若此者勿行,其妄奏者,即入言之。」奏徵前吏部尚書李昶,不起;復奏賜田十頃。

二十四年、宗王乃顏が叛き、世祖が親征して平定した。宗室で連座した者について、安童に命じて審問させたが、多く冤罪を晴らした。ある時退朝し、左掖門から出ると、罪を免じられた者たちが争って迎え謝し、ある者は手綱を取って馬に乗せようとしたが、安童は毅然として顧みなかった。隙に乗じて帝に言う者があった。「諸王は罪があっても、皆帝室の近親です。丞相は尊いとはいえ、人臣です。どうしてこのように傲慢なのですか。」帝はしばらくして言った。「汝ら小人には、安童のなすことがわかるものか。特に辱しめて過ちを改めさせようとしたのだ。」この年、再び尚書省が設置されると、安童は切に諫めて言った。「臣の力では天意を翻すことはできません。どうか桑哥を用いず、別に賢者を宰相とすれば、なお民を虐げ国を誤るに至らないかもしれません。」聞き入れられなかった。二十五年、天下の大権が全て尚書省に帰するのを見て、たびたび退任を求めたが、許されなかった。二十八年、宰相を罷免されたが、依然として宿衛の事を領した。

原文二十四年,宗王乃顏叛,世祖親討平之。宗室詿誤者,命安童按問,多所平反。嘗退朝,自左掖門出,諸免罪者爭迎謝,或執轡扶上馬,安童毅然不顧。有乘間言於帝曰:「諸王雖有罪,皆帝室近親也,丞相雖尊,人臣也,何悖慢如此!」帝良久曰:「汝等小人,豈知安童所為!特辱之使改過耳。」是歲,復立尚書省,安童切諫曰:「臣力不能回天,乞不用桑哥,別相賢者,猶或不至虐民誤國。」不聽。二十五年,見天下大權盡歸尚書,屢求退,不許。二十八年,罷相,仍領宿衞事。

三十年春正月、病気のため京師楽安里の邸で薨去した。四十九歳。木に氷がつく現象(雨木冰)が三日続いた。世祖は震え悼んで言った。「人が丞相が病んだと言うのを、朕は固より信じなかったが、果たして我が良弼を喪ったか。」詔して大臣に喪事を監護させた。大徳七年、成宗が制を下し、推忠同德翊運功臣・太師・開府儀同三司・上柱国・東平忠憲王を追贈し、碑文は「開国元勲命世大臣之碑」と刻まれた。子に兀都帶がいる。

原文三十年春正月,以疾薨于京師樂安里第,年四十九。雨木冰三日,世祖震悼曰:「人言丞相病,朕固弗信,果喪予良弼!」詔大臣監護喪事。大德七年,成宗制贈推忠同德翊運功臣、太師、開府儀同三司、上柱國、東平忠憲王,碑曰開國元勳命世大臣之碑。子兀都帶。

兀都帶は器量が広大で遠大であった。世祖の時に宿衛の長を襲った。父の安童が没すると、贈られた全ての賻(葬儀の贈り物)を一切受け取らず、素車朴馬(質素な車馬)で只蘭禿の先祖の墓地に帰葬した。母に仕えることは孝行として知られた。成宗が即位すると、銀青栄禄大夫・大司徒に任じられ、太常寺事を領した。南郊で諡を請うため、太尉を摂行し、冊を奉じて尊号・廟号・皇后の尊号を上った。常に掖庭に侍し、大政を補佐し、帝及び中宮(皇后)は皆家人の礼をもって彼を待遇した。

原文兀都帶器度宏遠,世祖時襲長宿衞。父安童歿,凡賵賻之物,一無所受,以素車樸馬歸葬只蘭禿先塋。事母以孝聞。成宗即位,拜銀青榮祿大夫、大司徒,領太常寺事。為請諡(尚)〔南〕郊,攝太尉,奉冊上尊號、廟號、皇后尊號。常侍掖庭,贊畫大政,帝及中宮咸以家人禮待之。

大徳六年正月に薨去した。三十一歳。至大二年、制を下し、輸誠保德翊運功臣・太師・開府儀同三司・上柱国・東平王を追贈し、諡は忠簡といった。子の拜住は、別に伝がある。

原文大德六年正月薨,年三十一。至大二年,制贈輸誠保德翊運功臣、太師、開府儀同三司、上柱國、東平王,諡忠簡。子拜住,自有傳。

廉希憲(希賢)

原文廉希憲〔希賢〕

廉希憲は字を善甫といい、布魯海牙の子である。幼少より魁偉で、挙動は凡児と異なっていた。九歳の時、家奴四人が五頭の馬を盗んで逃げ去ったが、捕らえられた。当時の法では死罪に当たるため、父は怒って役所に引き渡そうとしたが、希憲は泣いて諫めて止めさせ、皆死罪を免れた。またかつて母に侍して中山に住んでいた時、二人の奴が酔って悪口を言った。希憲は「これは私を幼いと思っているのだ」と言い、すぐに府の獄に送って拘束し、杖刑に処した。皆、彼の識見の非凡さを奇異に思った。世祖が皇弟であった時、希憲は十九歳で侍従に入り、その容姿・挙動・議論を見て、恩寵は格別であった。希憲は経史を深く好み、手から書物を離さなかった。ある日、ちょうど『孟子』を読んでいると、召し出しがあったので、急いで懐に入れて参内した。世祖がその説を問うと、性善・義利・仁暴の主旨をもって答えた。世祖はこれを賞賛し、「廉孟子」と呼んだ。これによって名を知られるようになった。かつて近臣と世祖の前で弓を射る競技をした時、希憲は腰に三本の矢を挿していた。それをもらって射ろうとする者がいたので、希憲は「お前は私ができないと思っているのか?ただ私の弓の力が少し弱いだけだ」と言った。左右の者が強弓を授けると、三発連続で命中した。皆は驚き敬服して「真の文武の才である」と言った。

原文廉希憲字善甫,布魯海牙子也。幼魁偉,舉止異凡兒。九歲,家奴四人盜五馬逃去,既獲,時於法當死,父怒,將付有司,希憲泣諫止之,俱得免死。又嘗侍母居中山,有二奴醉出惡言,希憲曰:「是以我為幼也。」即送繫府獄,杖之。皆奇其有識。世祖為皇弟,希憲年十九,得入侍,見其容止議論,恩寵殊絕。希憲篤好經史,手不釋卷。一日,方讀孟子,聞召,急懷以進。世祖問其說,遂以性善義利仁暴之旨為對,世祖嘉之,目曰廉孟子,由是知名。嘗與近臣校射世祖前,希憲腰插三矢,有欲取以射者,希憲曰:「汝以我為不能耶?但吾弓力稍弱耳。」左右授以勁弓,三發連中。眾驚服曰:「真文武材也!」

甲寅の年、世祖は京兆の分地を命じて希憲を宣撫使とした。京兆は隴蜀を制御し、諸王や貴族の藩屏が左右に分布し、民は羌戎と雑居し、特に治め難いことで知られていた。希憲は民の苦しみを研究し、強きを抑え弱きを扶けた。暇な日には許衡・姚樞などの名儒に治道を諮問し、まず衡を用いて京兆学校を提挙させ、人材を教育し、根本的な計略とした。国の制度では、士たる者は奴隷の籍に属さないことになっていたが、京兆には豪強が多く、法令は廃れて行われていなかった。希憲が着任すると、全てに籍を着けて儒者とした。ある民の妻が占い師と共に夫を呪詛して殺した事件があり、裁判が成立した。僚佐は皆、ちょうど大旱魃であるから、占い師は死罪を減ずべきだと述べたが、希憲は法に伏すべきだと議し、間もなく大雨が降り、すぐに応験した。

原文歲甲寅,世祖以京兆分地命希憲為宣撫使。京兆控制隴蜀,諸王貴藩分布左右,民雜羌戎,尤號難治。希憲講求民病,抑強扶弱。暇日從名儒若許衡、姚樞輩諮訪治道,首請用衡提舉京兆學校,教育人材,為根本計。國制,為士者無隸奴籍,京兆多豪強,廢令不行。希憲至,悉令著籍為儒。有民妻與卜者厭詛其夫,殺之,獄成,僚佐皆言方大旱,卜者宜減死,希憲議當伏法,已而大雨立應。

初め、世祖は憲宗の命を受けて河南・関右を経理した。数年経つと、讒言する者が王府の者が多く専権・不法を働いていると述べた。この時、阿藍答児・劉太平に命じて管轄区域を検査させ、酷吏を用いてその事を分掌させ、盛んに告発を奨励した。希憲は「宣撫司の事は自分から出たものであり、罪があれば当然独りで責任を負うべきで、僚属が関与することはない」と言った。事が終わると、ついに罪を得る者はなかった。己未年、憲宗は合州に駐蹕し、世祖は江を渡って鄂州を取った。希憲に命じて府庫の籍簿を作らせた。希憲は儒生百余人を引き連れて軍門に拝伏し、ついで言上した。「今、王師が江を渡りました。軍中で捕虜となった士人は、全て官が買い取って送り返し、特別な恩恵を広めるべきです」。世祖はこれを嘉納し、帰還した者は五百余人に及んだ。

原文初,世祖受命憲宗,經理河南關右。居數歲,讒者謂王府人多專擅不法。至是,命阿藍答兒、劉太平檢覈所部,用酷吏分領其事,大開告訐。希憲曰:「宣撫司事由己出,有罪固當獨任,僚屬何預!」及事竟,卒無獲罪者。己未,憲宗駐蹕合州,世祖渡江取鄂州,命希憲入籍府庫。希憲引儒生百餘,拜伏軍門,因言:「今王師渡江,凡軍中俘獲士人,宜官購遣還,以廣異恩。」世祖嘉納之。還者五百餘人。

憲宗が崩御し、訃報が届くと、希憲は啓上した。「殿下は太祖の嫡孫、先帝の同母弟で、以前雲南を征伐した時は期限通りに平定し、今また南伐に率先して渡江されました。天道は知るべきです。また殿下は才傑を召し集め、全て人望に従い、民を慈しみ養い、天下の人心を帰しています。今、先帝が突然天下を棄てられ、神器に主がおりません。速やかに京に還り、大位を正して天下を安んじられることを願います」。世祖はこれを認め、さらに希憲に先に行って事変を審察するよう命じた。希憲は答えて言った。「劉太平・霍魯海は関右におり、渾都海は六盤におります。征南の諸軍は秦・蜀に散在し、太平は諸将と結託しようとしています。その性質は険悪で詐りに富み、平素より殿下の英武を恐れております。もし関中の地の利に依って異謀を設ければ、次第に制御できなくなるでしょう。趙良弼を遣わして人情と事情を探らせるべきです」。世祖はこれに従った。阿里不哥が北辺で乱を企て、脱忽思を遣わして河朔で兵を起こさせ、大いに凶暴を振るった。真定の名士李槃はかつて荘聖太后の命を受けて阿里不哥に侍読していたが、脱忽思は槃が自分に従わないことを怒り、枷をはせた。希憲は獄中の槃を訪ね、世祖に言上して釈放させた。世祖は希憲に命じて宗王塔察児に食事を賜った。希憲はすぐに自分の考えを王に述べ、まず擁立の謀を建てるべきだと説いた。王はこれを認め、自らその任に当たることを約した。帰ってその言葉を啓上すると、世祖は言った。「このような重大な事を、卿はどうしてそれほど恐れないのか」。

原文憲宗崩,訃音至,希憲啟曰:「殿下太祖嫡孫,先皇母弟,前征雲南,剋期撫定,及今南伐,率先渡江,天道可知。且殿下收召才傑,悉從人望,子惠黎庶,率土歸心。今先皇奄棄萬國,神器無主,願速還京,正大位以安天下。」世祖然之,且命希憲先行,審察事變。對曰:「劉太平、霍魯海在關右,渾都海在六盤,征南諸軍散處秦、蜀,太平要結諸將,其性險詐,素畏殿下英武,倘倚關中形勝,設有異謀,漸不可制,宜遣趙良弼往覘人情事宜。」從之。阿里不哥搆亂北邊,遣脫忽思發兵河朔,大肆凶暴。真定名士李槃嘗奉莊聖太后命侍阿里不哥講讀,脫忽思怒槃不附己,械之,希憲訪槃於獄,言於世祖而釋之。世祖命希憲賜膳於宗王塔察兒,希憲即以己意白王,宜首建翊戴之謀,王然之,許以身任其事。歸啟其言,世祖曰:「若此重事,卿何不懼之甚耶!」

庚申年、開平に至ると、宗室諸王が即位を勧めたが、世祖は謙譲して承諾しなかった。希憲は再び天時と人事をもって進言した。そして言った。「阿里不哥は殿下にとって同母弟で、朔方を居守し、専権を振るって数年になります。神器を覬望するかもしれません。事は測りがたいので、早く大計を定めるべきです」。世祖はこれを認めた。翌日、即位し、元号を中統と建てた。希憲は上言した。「高麗王子の倎は長く京師に留まっていますが、今その父の死を聞きました。彼を王に立てて国に送り返し、恩をもって結ぶべきです」。また言った。「鄂の兵はまだ帰還していません。使者を遣わして宋と講和し、諸軍に北帰を命じるべきです」。帝は全て従った。

原文庚申,至開平,宗室諸王勸進,謙讓未允,希憲復以天時人事進言。且曰:「阿里不哥於殿下為母弟,居守朔方,專制有年,或覬望神器,事不可測,宜早定大計。」世祖然之。明日即位,建元中統。希憲上言:「高麗王子倎久留京師,今聞其父死,宜立為王,遣還國,以恩結之。」又言:「鄂兵未還,宜遣使與宋講好,敕諸軍北歸。」帝皆從之。

趙良弼が関右から戻り、劉太平・霍魯海の反逆の情状を奏上したが、全て希憲の言った通りであった。初め漢地を十道に分けたが、ここに京兆・四川を併せて一道とし、希憲を宣撫使とした。太平・霍魯海はこれを聞くと、駅伝に乗って急ぎ京兆に入り、密かに変事を謀った。三日後、希憲が到着し、詔の趣旨を宣布し、使者を遣わして六盤を安んじ諭した。間もなく、断事官の闊闊出が使者を遣わして来て告げた。「渾都海は既に反逆し、派遣した使者の朵羅台を殺し、その党の密里火者には成都で、乞台不花には青居で、それぞれ兵を率いて来援するよう諭しを遣わしました。また蒙古軍の奥魯官の兀奴忽らに多く金帛を与え、新軍を全て起こし、さらに太平・霍魯海と同日に挙兵することを約しました」。希憲はこの報せを得ると、僚属を召して言った。「上は新たに即位され、我々に責任を委ねられたのは、正に今日のためである。早くこれに対する計略を立てなければ、おそらく手遅れになるだろう」。万戸の劉黒馬・京兆治中の高鵬霄・華州尹の史広を遣わし、太平・霍魯海とその党を急襲して捕らえ、その奸謀を全て得て、全て獄に置いた。さらに劉黒馬を遣わして密里火者を誅し、総帥の汪惟正を遣わして乞台不花を誅し、全て駅伝で報告した。当時、関中には兵備がなく、汪惟良に命じて秦・鞏の諸軍を率いて六盤に進ませた。惟良は上旨を得ていないことを口実にしたので、希憲はすぐに自ら佩びていた虎符と銀印を解いて授け、「これらは皆、私が密旨を受けたものである。君はただ私の事を遂行せよ。制符は既に飛駅で上奏した」と言った。さらに銀一万五千両を渡して功賞に充て、庫の幣帛を出して軍衣を作らせた。惟良は感激し、遂に出発した。また蜀の士卒で交替で守備に当たる者や、在郷の余丁を動員し、諸軍を節制する蒙古官の八春を推してこれを将とし、彼に言った。「君が率いる兵衆は訓練を経ておらず、六盤の兵は精鋭である。鋒を争ってはならず、ただ声勢を張って東進させないようにせよ。そうすれば大事は成就する」。ちょうど詔赦が届いたが、希憲は命じて太平らを獄中で絞殺し、屍を大通りに晒した。そしてようやく詔を出迎え、人心はようやく安まった。そこで使者を遣わして自らを弾劾し、赦令を停止して刑を執行したこと、諸軍を徴調したこと、勝手に惟良を帥としたことなどの罪を述べた。帝は深くこれを善しとし、「経書にいう『権を行なう』とは、これがそれである」と言った。別に金虎符を賜い、諸軍を節制させ、かつ詔して言った。「朕は卿に方面の権を委ねた。事は便宜に従うべきで、常制に拘泥し、事機を失ってはならない」。

原文趙良弼還自關右,奏劉太平、霍魯海反狀,皆如希憲言。初分漢地為十道,乃併京兆、四川為一道,以希憲為宣撫使。太平、霍魯海聞之,乘驛急入京兆,密謀為變。後三日,希憲至,宣布詔旨,遣使安諭六盤。未幾,斷事官闊闊出遣使來告:「渾都海已反,殺所遣使者朵羅台,遣人諭其黨密里火者於成都、乞台不花於青居,使各以兵來援,又多與蒙古軍奧魯官兀奴忽等金帛,盡起新軍,且約太平、霍魯海同日俱發。」希憲得報,召僚屬謂曰:「上新即位,責任吾等,正為今日。不早為之計,殆將無及。」遣萬戶劉黑馬、京兆治中高鵬霄、華州尹史廣,掩捕太平、霍魯海及其黨,獲之,盡得其奸謀,悉置於獄。復遣劉黑馬誅密里火者,總帥汪惟正誅乞台不花,具以驛聞。時關中無兵備,命汪惟良將秦、鞏諸軍進六盤,惟良以未得上旨為辭,希憲即解所佩虎符銀印授之曰:「此皆身承密旨,君但辦吾事,制符已飛奏矣。」又付銀一萬五千兩,以充功賞,出庫幣製軍衣,惟良感激,遂行。又發蜀卒更戍,及在家餘丁,推節制諸軍蒙古官八春將之,謂之曰:「君所將之眾,未經訓練,六盤兵精,勿與爭鋒,但張聲勢,使不得東,則大事濟矣。」會有詔赦至,希憲命絞太平等於獄,尸於通衢,方出迎詔,人心遂安。乃遣使自劾停赦行刑、徵調諸軍、擅以惟良為帥等罪,帝深善之,曰:「經所謂行權,此其是也。」別賜金虎符,使節制諸軍,且詔曰:「朕委卿以方面之權,事當從宜,毋拘常制,坐失事機。」

西川の将紐鄰の奥魯官が、兵を挙げて渾都海に応じようとしたところ、八春がこれを捕らえ、その徒党五十余人を乾州の獄に繋ぎ、二人を京兆に送り、併せて殺すよう請うた。二人は必ず死ぬものと覚悟していたが、希憲は僚佐に言った、「渾都海は勢いに乗じて東下することができず、他の憂いはない。今、衆の志は未だ一つではなく、なお反逆の心を抱いている。彼の軍がその将校が捕らえられ囚われたのを見れば、あるいは別の異心を生じ、害小さからざるものとなろう。今、彼らの死を恐れる気持ちに乗じて、併せて寛大に釈放し、恩を感じて効力を尽くすようにさせ、この軍の余丁を発して八春に隷属させて行かせるのが、上策である」と。初め、八春が諸校を捕らえた後、その軍は疑懼し、驚き乱れて四方に散り、制止することができなかったが、諸校が全く害を受けず、紐鄰の奥魯官が釈放されたと知ると、大喜びして望外を思った。切にその配下を諭して出兵して効力させると、人々感悦し、八春もまた疑念が解けて悟り、果たして精鋭の騎兵数千を得て、これとともに西征しようとした。

原文西川將紐鄰奧魯官,將舉兵應渾都海,八春獲之,繫其黨五十餘人于乾州獄,送二人至京兆,請并殺之。二人自分必死,希憲謂僚佐曰:「渾都海不能乘勢東來,保無他慮。今眾志未一,猶懷反側,彼軍見其將校執囚,或別生心,為害不細。今因其懼死,並加寬釋,使之感恩效力,就發此軍餘丁,往隸八春,上策也。」初,八春既執諸校,其軍疑懼,駭亂四出,莫可禁遏,及知諸校獲全,紐鄰奧魯官得釋,大喜過望。切諭其屬出兵效力,人人感悅,八春亦釋然開悟,果得精騎數千,將與俱西。

詔して希憲を中書右丞とし、秦蜀省事を行わせた。渾都海は京兆に備えがあると聞き、遂に西へ黄河を渡り、甘州へ向かった。阿藍答児もまた和琳より兵を率いてこれと合流し、隴・蜀の諸将を分かって結び、また紐鄰の兄宿敦に命じて書を紐鄰に送らせて招いた。ここにおいて成都の帥百家奴、興元の忙古台、青居の汪惟正・欽察らが、皆使いを遣わして言うには、人心危疑し、事測り難しと。希憲は使いを遣わして深く諭し戒めた。両川の諸将は平素より希憲の威名を憚り、安堵して命令に従った。渾都海・阿藍答児が軍を合わせて東進すると、諸将は利を得ず、河右は大いに震動し、西方の親王執畢帖木児の輜重は皆空となり、秦雍に就いて食を求めた。朝廷の議論では両川を棄てて興元に退き守ろうとしたが、希憲が強く不可を言ったので、やめた。時に親王合丹及び汪惟良・八春らが合兵して西涼で再び戦い、大いにこれを破り、捕虜斬殺することほぼ尽くし、二つの叛徒の首魁を得て送り、京兆の市で梟首した。事が聞こえると、帝は大いにこれを嘉して言った、「希憲は真の男子なり」と。進めて平章政事に拝し、邸宅一区を賜った。時に希憲は三十歳であった。

原文詔以希憲為中書右丞,行秦蜀省事。渾都海聞京兆有備,遂西渡河,趨甘州,阿藍答兒復自和林提兵與之合,分結隴、蜀諸將,又使紐鄰兄宿敦為書招紐鄰。於是成都帥百家奴,興元忙古台,青居汪惟正、欽察,俱遣使言,人心危疑,事不可測。希憲遣使深諭戒之,兩川諸將素憚希憲威名,按堵從命。渾都海、阿藍答兒合軍而東,諸將失利,河右大震,西土親王執畢帖木兒輜重皆空,就食秦雍。朝議欲棄兩川,退守興元,希憲力言不可,乃止。會親王合丹及汪惟良、八春等合兵復戰西涼,大敗之,俘斬略盡,得二叛首以送,梟之京兆市。事聞,帝大嘉之曰:「希憲真男子也!」進拜平章政事,賜宅一區。時希憲年三十矣。

希憲が奏上した、「四川の降民は皆、山谷に散在している。軍吏に厳命を下し、捕虜掠奪を禁止すべきである。違反した者は、千戸以下は犯人と同罪とする」と。また諸人の生口(奴隷)の売買を禁じた。これによって四川は遂に安堵し、降る者ますます多くなった。また解州の塩戸から徴発した軍役及び京兆諸所の無籍戸で霊州の屯田に戍っていた者を罷免し、民力を寛げた。欽察が宋の臣張炳震・王政の二人を捕らえたが、共に母が老いていることを理由に、哀れみを賜って放免することを願ったので、希憲は皆これを帰還させた。ついでに書を宋の四川制置使余玠に与え、天道と人事を以て諭した。玠は書を得て愧じ感ずるところあり、自ら守りを固め、敢えて再び軽挙妄動しなかった。鞏昌帥府が言うには、鎮戎州に謀反を企てる者がおり、四百余人に連座していると。希憲は詳しく推問し、ただ首謀者五人を誅するのみであった。宋の将劉整が瀘州を以て降った時、以前に宋に帰順した者数百人を皆拘束して報告を待っていた。希憲は彼らを釈放するよう奏上し、かつ宰相に書を送り、劉整を恩をもって遇すれば、必ずその死力を得るであろうと述べた。整は後に真っ先に襄陽を取る策を建て、果たして勲功を立てた。宋の将の家族で北方にいる者に対して、希憲は毎年その糧食を給し、宋に仕えている者の子弟は国境を越えてその親を省みることができた。人々は皆これを感じた。

原文希憲奏:「四川降民,皆散處山谷,宜申敕軍吏,禁止俘掠,違者,千戶以下與犯人同罪。」又禁諸人無販易生口,由是四川遂安,降者益眾。又罷解鹽戶所摘軍,及京兆諸處無籍戶之戍靈州屯田者,以寬民力。欽察獲宋臣張炳震、王政二人,俱以母老,願賜矜放,希憲皆遣之還。因為書與宋四川制置余玠,諭以天道人事,玠得書愧感自守,不敢復輕動。鞏昌帥府言,鎮戎州有謀為叛者,連引四百餘人,希憲詳推之,惟誅首惡五人。宋將劉整以瀘州降,盡繫前歸宋者數百人待報。希憲奏釋之,且致書宰臣,待整以恩,當得其死力。整後首建取襄陽之策,果立勳效。宋將家屬之在北者,希憲歲給其糧,仕於宋者,子弟得越界省其親,人皆感之。

李璮が山東で反乱を起こし、事が王文統に連座した。平章趙璧は平素より希憲の勲名を妬んでおり、王文統は張易・希憲の推薦によって大用に至ったと述べ、かつ関中は形勝の地であり、希憲は民心を得て、商挺・趙良弼がこれを補佐しているので、この事は聖慮に掛けるべきであると言った。帝は言った、「希憲は幼い時から朕に仕え、朕はその心を知っている。挺・良弼は皆正士である。何を憂うることがあろうか」と。蜀の降人費正寅が私怨から、李璮の叛乱に乗じて希憲もまた城を修め兵を治め、密かに異志を抱いていると讒言した。帝はこれによって惑わされ、中書右丞南合に命じて希憲に代わって行省を執らせ、かつ告発された事実を覆査させたが、結局実状はなかった。詔して希憲を京師に還らせた。陛下に拝謁すると、言った、「関陝が叛乱し、川蜀が未だ寧かならなかった時、事は火急を告げ、臣は適宜に事を行い、副官らと謀らずに行いました。正寅の言う通りであれば、罪はただ臣に在ります。臣を有司に逮捕拘束するようお願いします」と。帝は御床を撫でて言った、「当時の言葉は、天が知り、朕が知っている。卿に何の罪があろうか」と。長く慰諭した。進めて中書平章政事に拝した。

原文李璮反山東,事連王文統。平章趙璧素忌希憲勳名,因言文統由張易、希憲薦引,遂至大用,且關中形勝之地,希憲得民心,有商挺、趙良弼為之輔,此事宜關聖慮。帝曰:「希憲自幼事朕,朕知其心,挺、良弼皆正士,何慮焉?」蜀降人費正寅以私怨譖希憲因李璮叛,亦修城治兵,潛畜異志,帝因惑之,命中書右丞南合代希憲行省,且覆視所告事,卒無實狀。詔希憲還京師,陛見,言曰:「方關陝叛亂,川蜀未寧,事急星火,臣隨宜行事,不謀佐貳,如寅所言,罪止在臣,臣請逮繫有司。」帝撫御床曰:「當時之言,天知之,朕知之,卿果何罪!」慰諭良久。進拜中書平章政事。

ある日、夜半に希憲を禁中に召し入れ、落ち着いて藩邸時代の事を語り、趙璧の言ったことに及んだ。希憲は言った、「昔、鄂を攻めた時、賈似道が木柵を造って城を囲んだが、一晩で完成した。陛下は扈従の諸臣を顧みて『我はいかにして似道の如き者を得て用いようか』と言われました。劉秉忠・張易が進み出て『山東の王文統は才智の士です。今、李璮の幕僚となっています』と言いました。詔して臣に問われ、臣は『これも聞いておりますが、実は未だその人を識りません』と答えました」。帝は言った、「朕もこれを覚えている」。

原文一日夜半,召希憲入禁中,從容道藩邸時事,因及趙璧所言。希憲曰:「昔攻鄂時,賈似道作木柵環城,一夕而成,陛下顧扈從諸臣曰『吾安得如似道者用之』。劉秉忠、張易進曰『山東王文統,才智士也。今為李璮幕僚』。詔問臣,臣對『亦聞之,實未嘗識其人也』。」帝曰:「朕亦記此。」

希憲が中書に在るとき、綱紀を振るい起こし、名実を総べ劾し、冗濫を淘汰追放し、僥倖を裁抑し、利を興し害を除き、事として便利ならざるはなく、当時一致して治まっていると称えられ、典章文物は鮮やかに考証できるものとなった。また建言した、「国家は創業以来、土地を納めた者及び初めて任命された臣は、皆世襲して守らせてきた。今に至るまでほぼ六十年、子孫は皆その部下を奴隷のように見なし、都邑の長吏は皆その雑役や下僕同然である。これは前古にないことであり、改めるべきで、考課によって罷免昇進させるようにすべきである」と。ここに初めて遷転法を行うことが議せられた。

原文希憲在中書,振舉綱維,綜劾名實,汰逐冗濫,裁抑僥倖,興利除害,事無不便,當時翕然稱治,典章文物,粲然可考。又建言:「國家自開創已來,凡納土及始命之臣,咸令世守,至今將六十年,子孫皆奴視部下,都邑長吏皆其皂隸僮使,前古所無,宜更張之,使考課黜陟。」始議行遷轉法。

至元元年、母の喪に服した。親族を率いて古の喪礼を行い、勺で飲むことすら口に入れないこと三日、慟哭すれば血を吐き、起き上がることができず、草土に臥し、墓の傍らに廬を結んだ。宰執は喪中の礼制が未だ定まっていないことを理由に、極力起復させようとし、共に廬を訪れたが、号泣する声を聞いて、遂に言い出すことができなかった。間もなく、詔があって喪中を奪って起復させた。希憲は詔旨に違えることはできなかったが、出仕する時は素服で事に当たり、帰宅すれば必ず喪服を着た。父の喪に服した時もまた同様であった。

原文至元元年,丁母憂,率親族行古喪禮,勺飲不入口者三日,慟則嘔血,不能起,寢臥草土,廬于墓傍。宰執以憂制未定,欲極力起之,相與詣廬,聞號痛聲,竟不忍言。未幾,有詔奪情起復,希憲雖不敢違旨,然出則素服從事,入必縗絰。及喪父,亦如之。

奸臣阿合馬が左右部を統領し、専ら財賦を総べていた。時にその徒党が互いに攻撃し合ったので、帝は中書に命じて推問させた。衆はその権勢を畏れ、敢えて問う者はいなかった。希憲はその事を徹底的に究明し、状況を上奏した。阿合馬を杖罰し、その統領する職務を罷めて有司に帰属させた。

原文奸臣阿合馬領左右部,專總財賦,會其黨相攻擊,帝命中書推覆,眾畏其權,莫敢問。希憲窮治其事,以狀聞,杖阿合馬,罷所領歸有司。

帝は希憲に諭して言った、「吏は法を廃して貪り、民は業を失って逃散し、工は用に供せず、財は費を賄わない。先朝よりこの患いは久しい。卿らが相となって以来、朕にこの憂いはない」。答えて言った、「陛下の聖明は堯・舜のごとく、臣らは臯陶・稷・契の道をもって治化を補佐し、太平を致すことができず、愧いること多うございます。今日の小治は、多く称えるに足りません」。ついで魏徴のことに論及すると、答えて言った、「忠臣良臣は、何の時代にいないでしょうか。ただ人主が用いるか用いないかによるのです」。内侍が朝堂に旨を伝えに来て、ある事はこのようにすべきだと言った。希憲は言った、「これは宦官が政事に預かる端緒である。開いてはならない」。遂に入って奏上し、その者を杖罰した。

原文帝諭希憲曰:「吏廢法而貪,民失業而逃,工不給用,財不贍費,先朝患此久矣。自卿等為相,朕無此憂。」對曰:「陛下聖猶堯、舜,臣等未能以臯陶、稷、契之道贊輔治化,以致太平,懷愧多矣。今日小治,未足多也。」因論及魏徵,對曰:「忠臣良臣,何代無之?顧人主用不用爾。」有內侍傳旨入朝堂,言某事當爾,希憲曰:「此閹宦預政之漸,不可啟也。」遂入奏,杖之。

言事者が丞相史天澤を訴え、その親族・党与が朝廷内外に布列し、威権日々に盛んで、次第に制御できなくなっていると言った。詔して天澤の政事を罷め、審問を待たせた。希憲が進み出て言った、「天澤は陛下に仕えること久しく、天澤を深く知る者は、陛下に如く者はありません。潜邸の時より、多く任用使役され、兵を将い民を治め、皆治績がありました。陛下はその大事を託すに足ると知り、輔相として用いられました。小人が一旦言葉を発すれば、陛下はその心跡を熟察されるべきです。果たして横暴で臣下の礼を失う者がいるでしょうか。今日、臣を信じられるので、臣はこの詔旨に預かることができますが、他日に臣を訴える者があれば、臣もまた疑われるでしょう。臣らが政府に備員しているのに、陛下の疑信がこのようでは、どうして自ら保つことができましょう。天澤が罷められるならば、臣もまた罷められるべきです」。帝はしばらくして言った、「卿は暫く退け。朕は考えよう」。翌日、帝は希憲を召して諭して言った、「昨日考えたが、天澤に対して訴える者はない」。事は遂に解けた。

原文言者訟丞相史天澤,親黨布列中外,威權日盛,漸不可制。詔罷天澤政事,使待鞫問。希憲進曰:「天澤事陛下久,知天澤深者,無如陛下。始自潛藩,多經任使,將兵牧民,悉有治效。陛下知其可付大事,用為輔相,小人一旦有言,陛下當熟察其心跡,果有肆橫不臣者乎?今日信臣,故臣得預此旨,他日有訟臣者,臣亦遭疑矣。臣等備員政府,陛下之疑信若此,何敢自保?天澤既罷,亦當罷臣。」帝良久曰:「卿且退,朕思之。」明日,帝召希憲諭曰:「昨思之,天澤無對訟者。」事遂解。

また、四川の帥(総司令官)欽察を訴える者があったので、帝は中書省に急ぎ使者を派遣して誅殺するよう命じた。翌日、希憲が改めて上奏すると、帝は怒って言った、「まだためらっているのか!」希憲は答えて言った、「欽察は大帥であり、一人の小人の言葉によって誅殺されれば、民心は必ず驚くでしょう。ここに収監し、訴えた者と朝廷で対決させ、それから天下にその罪を明らかにするのが適当です。」詔を下して有能な者を派遣して審問させたところ、その後事実は無く、欽察は罪を免れた。

原文又有訟四川帥欽察者,帝敕中書急遣使誅之。明日,希憲覆奏,帝怒曰:「尚爾遲回耶!」對曰:「欽察大帥,以一小人言被誅,民心必駭,收繫至此,與訟者廷對,然後明其罪於天下為宜。」詔遣能者按問,其後事竟無實,欽察得免。

希憲は帝の前で奏議するたびに、事を論じるのに激しく切実で、少しも遠慮しなかった。帝は言った、「卿はかつて朕の王府に仕えた時は、多くを受け容れていたのに、今は天子の臣となって、かくも頑ななのか?」希憲は答えて言った、「王府の事は軽く、天下の事は重いのです。もし一度でも面従すれば、天下はその害を受けるでしょう。臣は自らを愛さないわけではありません。」

原文希憲每奏議帝前,論事激切,無少回惜。帝曰:「卿昔事朕王府,多所容受,今為天子臣,乃爾木強耶?」希憲對曰:「王府事輕,天下事重,一或面從,天下將受其害,臣非不自愛也。」

方士が大丹(不老不死の仙薬)を錬成したいと請うたので、帝は中書省に必要なものを支給するよう命じた。希憲は秦・漢の故事をことごとく挙げて奏上し、さらに言った、「堯・舜は長寿を得ましたが、大丹によるものではありません。」帝は言った、「その通りだ。」そこでこれを退けた。当時は国師(帝師)を尊崇していたので、帝は希憲に戒律を受けるよう命じた。希憲は答えて言った、「臣はすでに孔子の戒めを受けています。」帝は言った、「孔子にも戒めがあるのか?」答えて言った、「臣たる者は忠であり、子たる者は孝であるべきです。孔子の戒めとは、このようなものに過ぎません。」

原文方士請煉大丹,敕中書給所需,希憲具以秦、漢故事奏,且曰:「堯、舜得壽,不因大丹也。」帝曰:「然。」遂却之。時方尊禮國師,帝命希憲受戒,對曰:「臣受孔子戒矣。」帝曰:「孔子亦有戒耶?」對曰:「為臣當忠,為子當孝,孔子之戒,如是而已。」

五年(1268年)、初めて御史台が設置され、続いて各道に提刑按察司が設けられた。当時、阿合馬が財政を一手に掌握していたが、言った、「諸般の事務は諸路に責任を負わせ、銭穀(財政)は転運司に任せているのに、今このように取り締まれば、事はどうして成し遂げられようか?」希憲は言った、「台察(監察機関)を立てるのは古い制度です。内にあっては奸邪を弾劾し、外にあっては異常を視察し、民の苦しみを訪ね求め、国政を補益します。これより大きなことはありません。もしこれを廃すれば、上下が専横に貪暴をほしいままにし、事はどうして成就できましょうか!」阿合馬は返答できなかった。

原文五年,始建御史臺,繼設各道提刑按察司。時阿合馬專總財利,乃曰:「庶務責成諸路,錢穀付之轉運,今繩治之如此,事何由辦?」希憲曰:「立臺察,古制也,內則彈劾奸邪,外則察視非常,訪求民瘼,裨益國政,無大於此。若去之,使上下專恣貪暴,事豈可集耶!」阿合馬不能對。

七年(1270年)、詔を下して京師の囚人を釈放した。西域人匿贊馬丁は、先朝(前代)に仕えて巨万の財産を蓄えていたが、怨家に訴えられて大都の獄に繋がれ、すでに釈放されていた。この時、希憲は休暇中で、実際にはこの件に関与していなかった。この秋、帝の車駕が上都から帰還すると、怨家が帝に訴えた。希憲は役所の判決文を取って署名を補い、言った、「天威は測り難い。どうして自分だけが署名しなかったことを幸いとして、安易に免れようとできようか。」希憲が入内して拝謁し、詔書のことを言上すると、帝は言った、「詔は囚人を釈放せよと言っただけで、匿贊馬丁を釈放せよという詔があったのか?」答えて言った、「匿贊馬丁を釈放しなかったなら、臣らもこのような詔は聞いておりません。」帝は怒って言った、「汝らは読書人と称しながら、事に臨んでこのようである。どのような罪を得るべきか?」答えて言った、「臣らは宰相の職に辱むきながら在ります。罪があれば罷免されるべきです。」帝は言った、「ただ汝の言う通りにせよ。」すぐに左丞相耶律鑄とともに罷免された。ある日、帝が侍臣に尋ねた、「希憲は家で何をしているか?」侍臣が読書していると答えた。帝は言った、「読書はもとより朕が教えたことだが、読んでいても用いようとしないなら、多く読んで何になろうか。」その意は、政務を罷められて再び進んで出仕を求めないことを責めたのである。阿合馬がこれに乗じて讒言して言った、「希憲は毎日妻子と宴楽しているだけです。」帝は顔色を変えて言った、「希憲は清貧である。どうして宴を設けることができようか!」希憲がかつて病気になった時、帝は医者三人を派遣して診察させた。医者が沙糖を用いて飲み物を作る必要があると言ったが、当時は最も入手困難であった。家人が外に求めると、阿合馬が二斤を与え、ひそかに好意を示した。希憲はこれを退けて言った、「もしこの物が本当に人を生かすことができるなら、私は終に奸人の与えたもので生きようとはしない。」帝はこれを聞いて、使者を遣わして沙糖を賜った。

原文七年,詔釋京師繫囚。西域人匿贊馬丁,用事先朝,資累鉅萬,為怨家所告,繫大都獄,既釋之矣,時希憲在告,實不預其事。是秋,車駕還自上都,怨家訴於帝,希憲取堂判補署之,曰:「天威莫測,豈可幸其獨不署以苟免耶?」希憲入見,以詔書為言,帝曰:「詔釋囚耳,豈有詔釋匿贊馬丁耶?」對曰:「不釋匿贊馬丁,臣等亦未聞有此詔。」帝怒曰:「汝等號稱讀書,臨事乃爾,宜得何罪?」對曰:「臣等忝為宰相,有罪當罷退。」帝曰:「但從汝言。」即與左丞相耶律鑄同罷。一日,帝問侍臣︰「希憲居家何為?」侍臣以讀書對。帝曰:「讀書固朕所教,然讀之而不肯用,多讀何為?」意責其罷政而不復求進也。阿合馬因讒之曰:「希憲日與妻子宴樂爾。」帝變色曰:「希憲清貧,何從宴設!」希憲嘗有疾,帝遣醫三人診視,醫言須用沙糖作飲,時最艱得,家人求於外,阿合馬與之二斤,且致密意。希憲却之曰:「使此物果能活人,吾終不以奸人所與求活也。」帝聞而遣賜之。

嗣国王(国王代理)頭輦哥が行省として遼陽を鎮守していたが、民を煩わせて不便であるという訴えがあった。十一年(1274年)、詔を下して希憲を起用し、北京行省平章政事とした。出発に際し、輿に乗って入朝し辞去の挨拶をすると、座を賜った。帝は言った、「昔、先朝(世祖の兄モンケ・カアン)の時、卿は事の機微を深く見抜き、常に帝王の道をもって朕を啓発した。また鄂漢(襄陽・鄂州)からの撤兵の際には、天命を繰り返し述べ、朕の心は忘れない。丞相は卿こそ相応しいが、ただ退いて辞退しているだけだ。遼東(原文「遼霅」は「遼霫」の誤りか)の戸は数万を下らず、諸王や国婿(王族の婿)の分地がある。彼らは皆、元より卿の才能を知っている。故に卿を派遣して鎮守させ、朕のこの意を体せよ。」遼東には親王が多く、使者が令旨(王の命令)を伝えると、官吏は立って聴いたが、希憲が着任して初めてこれを正した。

原文嗣國王頭輦哥行省鎮遼陽,有言其擾民不便者。十一年,詔起希憲為北京行省平章政事。將行,肩輿入辭,賜坐,帝曰:「昔在先朝,卿深識事機,每以帝道啟朕。及鄂漢班師,屢陳天命,朕心不忘。丞相卿實宜為,顧退托耳。遼(霅)〔霫〕戶不下數萬,諸王、國壻分地所在,彼皆素知卿能,故命卿往鎮,體朕此意。」遼東多親王,使者傳令旨,官吏立聽,希憲至,始革正之。

西域人が自ら駙馬(王族の婿)を称し、城外に営を張り、富民を捕縛して、その祖父がかつて利息付きで金を貸したと誣告し、償還を非常に急いで求めた。民が行省に訴えたので、希憲はこれを捕らえるよう命じた。その者は怒り、馬に乗って省の堂に入り、寝台の上に座った。希憲は命じて引きずり下ろして跪かせ、これを問いただして言った、「法に私的な獄はない。汝は何者か、敢えて勝手に民を捕縛するとは?」命じて枷をはせて拘禁した。その者は恐れ慄いて哀願し、国王もそのために請うたので、やや寛大にし、対決を待つよう命じた。するとその営の者たちは夜のうちに逃げ去った。まもなく詔が下り国王が帰国したので、希憲が単独で行省の事務を行った。朝廷が鈔(紙幣)を下して馬六千五百頭を買うことになり、希憲は東州に派遣して買わせ、余剰の馬千三百頭を得た。希憲は言った、「上納すれば自ら誇示するようだ。」すぐに他の郡で不足している所に与え、その代金を官に返還した。長公主と国婿が入朝し、郊外で狩猟をほしいままにし、民を非常に煩わせた。希憲は国婿に面と向かって諭し、入朝して奏上しようとした。国婿は驚愕し、入って公主に話した。公主が出てきて、希憲に酒を勧めて言った、「従者が民を煩わせたのは、私は知らなかった。一万五千貫の鈔を出して民に償いの代金を返させますから、どうか使者を派遣しないでください。」これ以来、貴人で通過する者は皆、勝手な振る舞いを恐れるようになった。

原文有西域人自稱駙馬,營于城外,繫富民,誣其祖父嘗貸息錢,索償甚急,民訴之行省,希憲命收捕之。其人怒,乘馬入省堂,坐榻上,希憲命捽下跪,而問之曰:「法無私獄,汝何人,敢擅繫民?」令械繫之。其人惶懼求哀,國王亦為之請,乃稍寬,令待對,舉營夜遁。俄詔國王歸國,希憲獨行省事。朝廷降鈔買馬六千五百,希憲遣買於東州,得羨餘馬千三百。希憲曰:「上之則若自衒。」即與他郡之不及者,以其直還官。長公主及國壻入朝,縱獵郊原,擾民為甚,希憲面諭國壻,欲入奏之。國壻驚愕,入語公主,公主出,飲希憲酒曰:「從者擾民,吾不知也。請以鈔萬五千貫還斂民之直,幸勿遣使者。」自是貴人過者,皆莫敢縱。

十二年(1275年)、右丞阿里海牙が江陵を陥落させ、地形図を朝廷に上って、重臣を命じて大府(行省)を開き鎮守させるよう請うた。帝は急ぎ希憲を召還し、荊南に行省として赴かせ、座を賜って諭して言った、「荊南が我が版図に入った。新たに帰附した者に恩を感じさせ、未だ来ない者に帰順の心を向けさせたい。宋が我が朝にこのような臣があることを知れば、その心を降すに足りる。南方の地は低湿で、卿には適さないが、今大事を託す。卿が辞退しないことを推し量る。」田を賜って居住者の生計を養わせ、馬五十頭を賜って従者の用に供させた。希憲は言った、「臣は常に才識が浅近であることを恐れ、重大な任務に耐えられないのではないかと心配しています。どうして病気を理由に辞退できましょうか!しかし新たな賜り物は敢えて辞退いたします。」さらに詔があり、希憲に制(皇帝の命令)を承って三品以下の官を授けることを命じた。

原文十二年,右丞阿里海牙下江陵,圖地形上於朝,請命重臣開大府鎮之。帝急召希憲還,使行省荊南,賜坐,諭曰:「荊南入我版籍,欲使新附者感恩、未來者向化,宋知我朝有臣如此,亦足以降其心。南土卑濕,於卿非宜,今以大事付託,度卿不辭。」賜田以養居者,馬五十以給從者。希憲曰:「臣每懼才識淺近,不能勝負大任,何敢辭疾!然敢辭新賜。」復有詔,令希憲承制授三品以下官。

希憲は暑さを冒して疾駆して進んだ。鎮守地に着くと、阿里海牙が配下を率いて郊外で出迎え、塵の中に望んで拝礼したので、荊の人々は大いに驚いた。その日から掠奪を禁じ、商販を通じさせ、利を興し害を除き、兵士と民は安堵した。まず宋の旧宣撫司・制置司の二つの役所の幕僚で任務を果たせる者を登用し、情報収集に備え、さらに二十余人を選び、才能に応じて官職を授けた。側近が難色を示したが、希憲は言った、「今は皆、国家の臣子である。どうして疑う必要があろうか!」当時、宋の旧官が大府(行省)に礼謁する時は、必ず広く珍玩を贈ったが、希憲はこれを拒絶し、さらに彼らに言った、「汝らは身は旧官のままだが、あるいは破格の抜擢もあるだろう。聖恩を思い、力を尽くして報いるべきだ。今贈る物が、もし皆自分の物なら、私が取るのは不義である。もし一つでも官の物なら、事は窃盗と同じだ。もし民から徴収したなら、罪がないわけではない。慎むべきである。」皆感激して礼を言って去った。凡そ俘虜となった人で、敢えて殺す者は、故殺(故意殺人)平民の罪に論ずるよう命じた。兵士に捕虜にされ、病気で捨てられた者は、人が収容養育することを許し、病気が治っても、元の主人は再び所有できない。契約書を立てて妻子を質売する者は、その罪を重くし、なおその代金を没収する。以前、江陵城外に水を貯めて防禦していたが、希憲はこれを決壊させ、良田数万畝を得て、貧民の生業とした。沙市の倉の官籍に入っていない粟二十万斛を放出して、公安の飢えを賑済した。大綱(基本方針)が既に挙がると、言った、「教化は緩めてはならない。」そこで大いに学校を興し、教官を選び、経籍を備え、朝に講舎に親しく赴いて、諸生を励ました。

原文希憲冒暑疾驅以進。至鎮,阿里海牙率其屬郊迎,望拜塵中,荊人大駭。即日禁剽奪,通商販,興利除害,兵民按堵。首錄宋故宣撫、制置二司幕僚能任事者,以備采訪,仍擇二十餘人,隨材授職。左右難之,希憲曰:「今皆國家臣子也,何用致疑!」時宋故官禮謁大府,必廣致珍玩,希憲拒之,且語之曰:「汝等身仍故官,或不次遷擢,當念聖恩,盡力報效。今所饋者,若皆己物,我取之為非義;一或係官,事同盜竊;若斂於民,不為無罪。宜戒慎之。」皆感激謝去。令凡俘獲之人,敢殺者,以故殺平民論。為軍士所虜,病而棄之者,許人收養;病愈,故主不得復有。立契券質賣妻子者,重其罪,仍沒入其直。先時,江陵城外蓄水扞禦,希憲命決之,得良田數萬畝,以為貧民之業。發沙市倉粟之不入官籍者二十萬斛,以賑公安之饑。大綱既舉,乃曰:「教不可緩也。」遂大興學,選教官,置經籍,旦日親詣講舍,以厲諸生。

西南の溪洞及び思州・播州の田氏・楊氏、重慶制置の趙定應は、皆越境して降伏を請うた。事が聞こえると、帝は言った、「先朝は兵を用いなければ地を得られなかったが、今希憲は数千里の外より越境して土地を納めさせることができる。その治化のほどが窺える。」関吏が江陵人の私信を得たが、開封せず、上奏した。枢密の臣が帝の前で開封すると、その中にこうあった、「帰附の初め、人々は生活の道がなかった。皇帝が廉相を遣わして荊南に出鎮させたところ、人々が次第に徳化を受けるのみならず、昆虫草木までも皆その恩沢を被った。」帝は言った、「希憲は殺人を好まないから、このようにできるのだ。」

原文西南溪洞及思、播田、楊二氏,重慶制置趙定應,俱越境請降。事聞,帝曰:「先朝非用兵不可得地,今希憲能令數千百里外越境納土,其治化可見也。」關吏得江陵人私書,不敢發,上之,樞密臣發之帝前,其中有曰:「歸附之初,人不聊生。皇帝遣廉相出鎮荊南,豈惟人漸德化,昆蟲草木,咸被澤矣。」帝曰:「希憲不嗜殺人,故能爾也。」

希憲の病は久しく癒えず、十四年の春、近臣の董文忠が言った、「江陵は湿熱の地です。希憲の病はどうなりますか。」即座に希憲を召還した。江陵の民は号泣し道を遮って引き留めたが叶わず、互いにその画像を描き祠堂を建てた。希憲が帰還するとき、行嚢は寂として何もなく、琴と書物を携えるのみであった。帝はその貧しさを知り、特に白金五千両、鈔一万貫を賜った。

原文希憲疾久不愈,十四年春,近臣董文忠言:「江陵濕熱,如希憲病何?」即召希憲還,江陵民號泣遮道留之不得,相與畫像建祠。希憲還,囊橐蕭然,琴書自隨而已。帝知其貧,特賜白金五千兩、鈔萬貫。

五月、上都に至ると、太常卿の田忠良が病を問いに来た。希憲は彼に言った、「上都は聖上の龍飛の地であり、天下が根本と見なすところである。近頃聞くところでは、龍岡で失火があり、民家に延焼したという。これは常事に過ぎない。慎んで、妄りに地理を説く者に上意を惑わさせ動かすことのないようにせよ。」間もなく、果たして数人が都邑を移転させることを奏上した。枢密副使の張易、中書左丞の張文謙がこれと朝廷で論争し、強く不可を主張したが、帝は快く思わなかった。翌日、忠良を召してその事を質すと、忠良は希憲の言葉で答えた。帝は言った、「希憲は病が重いのに、なおこのことを慮っていたのか。」その議は遂に止んだ。

原文五月,至上都,太常卿田忠良來問疾,希憲謂曰:「上都,聖上龍飛之地,天下視為根本。近聞龍岡遺火,延燒民居,此常事耳,慎勿令妄談地理者惑動上意。」未幾,果有數輩以徙置都邑事奏,樞密副使張易、中書左丞張文謙與之廷辨,力言不可,帝不悅。明日,召忠良質其事,忠良以希憲語對,帝曰:「希憲病甚,猶慮及此耶!」其議遂止。

詔して揚州の名医王仲明を徴発し希憲の病を診させた。到着すると、希憲はその薬を服用し、杖をついて起き上がることができるようになった。帝は喜んで希憲に言った、「卿は良医を得て、病は快方に向かっている。」答えて言った、「医者が良薬を持って臣の病を療治します。もし戒慎することができれば、誠に聖諭の通りでございます。もしも放肆で怠惰であれば、良医が何の益がありましょうか。」これは医者を以て諫めを諷したのである。

原文詔徵揚州名醫王仲明視希憲疾,既至,希憲服其藥,能杖而起,帝喜謂希憲曰:「卿得良醫,疾向愈矣!」對曰:「醫持善藥以療臣疾,苟能戒慎,則誠如聖諭;設或肆惰,良醫何益?」蓋以醫諷諫也。

会議して門下省を立てることとなり、帝は言った、「侍中は希憲でなければならない。」中使を遣わして旨を諭させた、「鞍馬の任は卿を労することはしない。坐して道を論じ、時に省中に至り、事で必ず執奏すべきものがあれば、肩輿に乗って入るがよい。」希憲は付けて奏上した、「臣の病など何の憂いがありましょうか。忠を尽くし力を効すことは、平生の願いでございます。」皇太子も人を遣わして旨を諭させた、「上は卿に門下省を領せよと命じられた。群小を憚ることなかれ。我が卿のためにこれを除こう。」結局、阿合馬によって阻まれた。

原文會議立門下省,帝曰:「侍中非希憲不可。」遣中使諭旨曰:「鞍馬之任,不以勞卿,坐而論道,時至省中,事有必須執奏,肩輿以入可也。」希憲附奏曰:「臣疾何足卹?輸忠效力,生平所願。」皇太子亦遣人諭旨曰:「上命卿領門下省,無憚羣小,吾為卿除之。」竟為阿合馬所沮。

十六年の春、鈔一万貫を賜い、詔して再び中書に入ることを命じたが、希憲は病篤いと称した。皇太子が侍臣を遣わして病を問わせ、ついで治道を問うた。希憲は言った、「天下を治めるは人を用いるにあり、君子を用いれば治まり、小人を用いれば乱れる。臣の病は重篤ではありますが、天に委ねるのみです。甚だ憂えるところは、大奸が政を専らにし、群小が阿附して、国を誤り民を害すること、これが病の大なるものです。殿下は聖意を開き、急いでこれを屏除されるべきです。そうでなければ、日に日に沈痾に就き、薬するを得なくなります。」その子に戒めて言った、「丈夫は義を見て勇為すべきであり、禍福は己に預かりません。臯陶・夔・后稷・契・伊尹・傅説・周公・召公を及ぶべからざるものと謂うのは、自ら棄てるものです。天下の事もし牽制がなければ、三代の治も復することができます。」また言った、「汝らは狄梁公伝を読んだか。梁公は大節あるも、不肖の子によって墜とされた。汝らはこれを慎むべきである。」

原文十六年春,賜鈔萬貫,詔復入中書,希憲稱疾篤。皇太子遣侍臣問疾,因問治道,希憲曰:「君天下在用人,用君子則治,用小人則亂。臣病雖劇,委之於天。所甚憂者,大奸專政,羣小阿附,誤國害民,病之大者。殿下宜開聖意,急為屏除,不然,日就沉痾,不可藥矣。」戒其子曰:「丈夫見義勇為,禍福無預於己,謂臯、夔、稷、契、伊、傅、周、召為不可及,是自棄也。天下事苟無牽制,三代可復也。」又曰:「汝讀狄梁公傳乎?梁公有大節,為不肖子所墜,汝輩宜慎之!」

十七年十一月十九日の夜、大きな星が正寝の傍らに隕ち、流れる光が地を照らし、久しくしてようやく消えた。この夜、希憲は卒去した。享年五十。大徳八年、忠清粹德功臣・太傅・開府儀同三司を贈られ、魏国公に追封され、諡して文正とされた。さらに推忠佐理翊運功臣・太師・開府儀同三司・上柱国・恒陽王を加贈され、諡は前の通りであった。

原文十七年十一月十九夜,有大星隕于正寢之旁,流光照地,久之方滅。是夕,希憲卒,年五十。大德八年,贈忠清粹德功臣、太傅、開府儀同三司,追封魏國公,諡文正。加贈推忠佐理翊運功臣、太師、開府儀同三司、上柱國、恒陽王,諡如故。

子は六人。孚は、遼陽等処行中書事を僉す。恪は、台州路総管。恂は、中書平章政事。忱は、邵武路総管。恒は、御史中丞。惇は、江西等処行中書省参知政事。従弟に希賢あり。

原文子六人:孚,僉遼陽等處行中書事;恪,台州路總管;恂,中書平章政事;忱,邵武路總管;恒,御史中丞;惇,江西等處行中書省參知政事。從弟希賢。

希賢、字は達甫、一名は中都海牙。伯父の布魯海牙が嘗て言った、「この児は剛果、必ずや我が家を大きくするであろう。」二十余歳の時、従兄の希憲と共に世祖に侍し、禁中に出入りし、小心で慎み深かった。

原文希賢字達甫,一名中都海牙。伯父布魯海牙嘗曰:「是兒剛果,當大吾家。」年二十餘,與從兄希憲同侍世祖,出入禁中,小心慎密。

至元の初め、北部の王が使者を拘束し殺害した。世祖は使者を選んでこれを諭させようとし、廷臣は希賢を推挙した。到着すると上意を述べ、言辞の趣旨は条理明暢であった。王は悔い謝し、宴を設け、貂裘一襲、白金一笏を贈った。帰還して奏上すると、帝は喜び、御膳を賜った。まもなく中議大夫・兵部尚書に進んだ。

原文至元初,北部王拘殺使者,世祖選使往諭之,廷臣推希賢。至則布上意,辭旨條暢,王悔謝,為設宴,贈貂裘一襲、白金一笏。還奏,帝喜,賜以御膳。尋進中議大夫、兵部尚書。

左丞相の伯顔が宋を伐ち、既に江を渡り、至元十二年の春、希賢に礼部尚書を授け、金虎符を佩かせ、工部侍郎の厳忠範・秘書丞の柴紫芝と共に国書を持って宋に使わしめた。三月丙戌、広徳軍の独松関に至ると、関を守る者が使者であることを知らず、襲撃してこれを殺した。張濡はこれを己の功とし、賞を受け、広徳軍知軍となった。翌年、宋が滅び、張濡を捕らえて殺した。詔して使者を遣わし希賢の喪を護送して帰らせ、後にまた濡の家財を没収してその家に与えた。希賢が死んだ時、年二十九であった。

原文左丞相伯顏伐宋,既渡江,至元十二年春,授希賢禮部尚書,佩金虎符,與工部侍郎嚴忠範、祕書丞柴紫芝持國書使宋。三月丙戌,至廣德軍獨松關,守關者不知為使,襲而殺之。張濡以為己功,受賞,知廣德軍。明年,宋亡,獲張濡殺之,詔遣使護希賢喪歸,後復籍濡家貲付其家。希賢死時,年二十九。