元史

列傳第九:バルジュク・アルト・テギン、テマイシ、アンジャル、シュブタイ、アンムハイ、シリ・キンブ、ソクジトゥルフア、シルキス、ハサンナ

バルジュク・アルト・テギン

バルジュク・アルト・テギン亦都護。亦都護とは、高昌国の君主の称号である。先祖はウイグル(畏兀兒)の地に住み、和林山があり、二つの河がそこから流れ出ている。禿忽剌河と薛靈哥河である。ある夜、神の光が樹に降りた。二つの河の間にあり、人々はその場所に行って待っていると、樹は瘤を生じ、まるで妊娠しているかのようであった。それ以来、光が常に見られるようになった。九月と十日を経て樹の瘤が裂け、五人の嬰児を得た。土地の者がこれを養育した。その最も幼い者をブグ・カガン(不〔古〕可罕)といった。成長すると、遂にその民人と土田を保有し、その君長となった。三十余りの君主を伝え、玉倫的斤となった。幾度も唐と攻戦し、長くして和親を議し、民を休ませ兵を止めた。そこで唐は金蓮公主を的斤の子葛勵的斤に娶せ、和林の別力跛力答に住まわせた。これは婦の居る山という意味である。また天哥里于答哈という山があり、天霊山という意味である。南に胡力答哈という石山があり、福山という意味である。唐の使者と地相を見る者がその国に至り、言うには、「和林が盛んに強盛なのは、この山があるからだ。どうしてその山を壊して、その国を弱めないのか」と。そこで的斤に告げて言うには、「既に婚姻となった以上、あなたに求めることがある。それに与えてくれるか。福山の石は、上国には用がないが、唐人は見たいと願っている」と。的斤は遂に石を与えた。大きくて動かせないので、唐人は烈火でこれを焼き、濃い酢をかけると、その石は砕け、車で運び去った。国中の鳥獣がこれに悲しみ号泣した。七日後、玉倫的斤が卒去し、災異がたびたび現れ、民は安住できず、位を伝える者もまた幾度も亡くなった。そこで交州に遷った。交州とは火州のことである。別失八里の地を統治し、北はアチュ河(阿朮河)に至り、南は酒泉に接し、東は兀敦・甲石哈に至り、西は西蕃に臨む。ここに住むこと凡そ百七十余年に及び、バルジュク・アルト・テギンに至り、契丹に臣従した。

歳は己巳(1209年)、太祖が朔方に興ったと聞き、遂に契丹が置いた監国等の官を殺し、来附しようとした。未だ行わないうちに、帝(太祖)が使者をその国に遣わした。亦都護は大いに喜び、直ちに使者を遣わして入奏して言うには、「臣は皇帝の威徳を聞き、即ち契丹の旧好を棄て、まさに誠を通じようとしていたところ、思いがけず天使が下国に降臨された。今より後、願わくは部衆を率いて臣僕とならん」と。この時、帝は大陽可汗(太陽汗)を征伐し、その子トクト(脱脫)を射て殺した。トクトの子ホド(〔火〕都)、チラウン(赤剌溫)、マジャル(馬札兒)、トスケン(禿薛干)の四人は、全屍をもって帰ることができず、遂にその首を取ってエルティシュ河(也兒的石河)を渡り、亦都護のもとに奔ろうとした。先に使者を遣わしたが、亦都護はこれを殺した。四人が至ると、チャム河(襜河)で大戦した。亦都護はその国相を遣わして来報し、帝はまた使者を遣わして亦都護に諭し返した。遂に金宝を以て入貢した。

辛未(1211年)、ケルレン河(怯綠連河)において帝に朝見し、奏上して言うには、「陛下もし臣を恩顧され、臣をして陛下の四子の末席に加えさせてくださるならば、犬馬の力を尽くすことができましょう」と。帝はその言葉に感じ、公主エリ・アンドン(也立安敦)を娶せ、かつ諸子の序列に加えさせた。ジャベ(者必)那演に従ってハンミェンリ(罕勉力)、ソタン(鎖潭)、回回諸国を征伐し、部曲一万人を率いて先鋒となった。紀律厳明で、向かうところ克捷した。また帝に従ってニシャプリ(你沙卜里)を征伐し、河西を征伐し、いずれも大功があった。卒去した後、次子玉古倫赤的斤が嗣いだ。

玉古倫赤的斤が卒去し、子のマムラ・テギン(馬木剌的斤)が嗣いだ。探馬軍一万人を率い、憲宗に従って宋の合州を伐ち、釣魚山を攻めて功があり、火州に還って卒去した。

至元三年(1266年)、世祖はその子ホチカル・テギン(火赤哈兒的斤)に命じて亦都護を嗣がせた。カイドゥ(海都)、テムデル(帖木迭兒)の乱に際し、ウイグル(畏兀兒)の民は乱に遭って離散した。そこで旨があり、亦都護に命じてこれを収め撫でさせた。その民人が宗王や近戚の境内にいる者は、全てその部に還し遣わしたので、ウイグルの衆は再び集まった。

十二年(1275年)、ドゥア(都哇)、ブスパ(卜思巴)等が兵十二万を率いて火州を包囲し、声をあげて言うには、「アジギ(阿只吉)、オルジェ(奧魯只)諸王が三十万の衆をもってすら、我に抗することができず自ら潰えた。お前が孤城をもって我が鋒に当たることを敢えるのか」と。亦都護は言うには、「私は忠臣は二主に仕えずと聞く。私は生きてはこの城を家とし、死してはこの城を墓とする。終に爾らに従うことはできない」と。包囲を受けること凡そ六月、解けなかった。ドゥアは書を矢に結びつけて城中に射て言うには、「我もまた太祖皇帝の諸孫である。どうして我に附さないのか。かつ爾の祖は嘗て公主を娶った。爾が娘を我に与えるならば、我は兵を休めよう。そうでなければ急攻する」と。その民は互いに言うには、「城中の食糧は将に尽き、力は既に困窮している。ドゥアが攻撃を止めなければ、共に亡びるのみである」と。亦都護は言うには、「我どうして一女を惜しんで民の命を救わないことがあろうか。しかし我は終に彼と相見えることはできない」と。その女エリ・イフミシュ・ベキ(也立亦黑迷失別吉)を、茵(敷物)に厚く載せ、縄を引いて城から縋り降ろして与えた。ドゥアは解いて去った。その後、入朝し、帝はその功を嘉し、重賞を賜い、公主ババハル(巴巴哈兒)を娶せた。これは定宗の女である。また鈔十万錠を賜ってその民を賑済した。火州に還って鎮し、州南のハミリ(哈密力)の地に屯した。兵力は尚寡なく、北方の軍が忽ちその地に至り、大戦して力尽き、遂にそこで死んだ。

子のニュリン・テギン(紐林的斤)は、尚幼く、闕に詣でて兵を請い北征し、父の讐を復そうとした。帝はその志を壮とし、金幣巨万を賜い、公主ブルハン(不魯罕)を娶せた。これは太宗の孫女である。公主が薨じると、またその妹バブチャ(八卜叉)を娶った。旨があり、軍は河西より出で、北征諸軍が斉しく発するのを待ち、遂に永昌に留まった。吐蕃のトマ(脫思麻)が乱を起こすと、詔して栄禄大夫平章政事とし、本部の探馬等軍一万人を領して吐蕃宣慰司を鎮めさせた。威徳明信があり、賊は用いて跡を収め、その民はこれに頼って安んじた。武宗が召還し、亦都護を嗣がせ、金印を賜い、またその部の押西護司の官を署した。仁宗が始めて故実を考証し、高昌王に封じ、別に金印を賜い、王傅の官を設けた。その王の印は諸内郡に行われ、亦都護の印はウイグルの境内に行われた。バブチャ公主が薨じると、また公主ウラジン(兀剌真)を娶った。これは安西王の女である。兵を率いて火州に至り、ウイグルの城池を再建した。延祐五年(1318年)に薨じた。子二人、長はテムル・ブカ(帖木兒補化)、次はチェンギ(籛吉)、いずれもバブチャ公主の生んだ子である。

テムル・ブカは、大徳年間(1297-1307年)に、公主ドルジスマン(朵兒只思蠻)を娶った。これはクドゥン太子(闊端太子)の孫女である。至大年間(1308-1311年)、父に従って入覲し、宿衛を備えた。また東朝において皇太后に仕え、中奉大夫に拝され、大都護事を領した。また資善大夫をもって出て鞏昌等処都総帥達魯花赤となった。永昌において父の喪に奔り、王爵をその叔父キプチャクタイ(欽察台)に譲ることを請うた。叔父が固辞したので、乃ち亦都護・高昌王を嗣いだ。

至治年間(1321-1323)、甘肅諸軍を統率し、引き続きその部族を治めた。泰定年間(1324-1328)に召還され、威順王クンシェク・ブカ(寬徹不花)、宣靖王ブヤントゥ(買奴)、靖安王クボカ(闊不花)とともに襄陽を分鎮した。まもなく開府儀同三司・湖広行省平章政事に任ぜられた。文宗が京師に召し寄せ、大難平定を補佐させた。当時、湖広左丞に政事を妨害する嫉妬深い者がいたので、詔命により誅殺しようとした。テムル・ブカ(帖木兒補化)はこれに対して申請して言った。「確かに罪はありますが、死に至るほどではありません。」人々はその雅量に感服した。天暦元年(1328)、開府儀同三司・上柱国・録軍国重事・知枢密院事に任ぜられた。翌年正月、旧官の勲功により中書左丞相に封ぜられた。三月、太子詹事を加えられた。十月、御史大夫に任ぜられた。その弟ジャンキナイ(籛吉乃)が譲って嗣ぎ、亦都護・高昌王となった。

テマイシ(鐵邁赤)、フトゥ・テムル(虎都鐵木祿)、タハイ(塔海)

テマイシ(鐵邁赤)は、ハル(合魯)氏の人である。騎射に優れ、初めフラン(忽蘭)皇后の帳前(幕下)に仕え、かつて挏馬官に任ぜられた。太祖に従って西夏を平定した。また、皇子クチュ(闊出)、フトゥ(忽都)〔禿〕、行省テムダル(鐵木答兒)に従って河南を平定し、数々の戦功を挙げた。

憲宗が宋を征伐したとき、世祖は皇弟として鄂攻略を命ぜられた。大駕(皇帝の親征)が西川を征し、元帥ウリヤンカダイ(兀良哈台)を交趾から宋を擣(攻撃)させ、諸軍と合流させた。己未の年(1259)、皇弟が鄂渚に駐兵し、ウリヤンカダイが広西から長沙に至ったと聞き、テマイシに練卒千人・鉄騎三千を率いさせ、岳州でウリヤンカダイを迎えさせた。ウリヤンカダイは援軍を得て、江夏に到達し、北へ黄州を渡ったが、テマイシはこれに力を尽くした。

世祖が即位すると、失木土の地で叛王を征討するのに従軍するよう命じ、功績がますます顕著になった。至元七年(1270)、蒙古諸万戸府オロ(奥魯)総管に任ぜられた。十九年(1282)、病気のため卒去した。子は八人おり、フトゥ・テムル(虎都鐵木祿)が最も顕著であった。

フトゥ・テムル(虎都鐵木祿)は読書を好み、学士大夫と交遊し、字を漢卿とした。仁宗はかつて左右の者を顧みて言った。「虎都鐵木祿の字は漢卿である。漢の名卿に劣らない。汝らが漢卿と呼ぶのは適切である。」その母が劉氏であったため、人々はまた彼を劉漢卿とも称した。

至元十一年(1274)、丞相バヤン(伯顏)に従って長江を渡った。宋を平定した後、宋の故宮殿を視察し、財物の倉庫を護衛するよう遣わされた。明州・越州などの州を降伏させた。平章オロ(奥魯)に従って入朝し、忠顕校尉こうい総把に任ぜられ、さらに昭信校尉に転じた。二十二年(1285)、奉訓大夫・荊湖占城等処行中書省理問官に任ぜられた。当時、行省の名称は荊湖占城、荊湖、湖広と三度改められた。ある日、理問として軍事について上奏し、陳述弁明に趣旨があった。世祖は大いに喜び、言うには、「言葉は簡潔で意味は明瞭、聞く者をして喜んで受け入れさせる。かつてその兄アリ(阿里)が機敏で弁舌さわやかであったので、左右に侍らせたが、この人はそれに勝らないのではないか?」都護トインナ(脱因納)に覚えておくよう命じた。

平章政事チョン・ポンビ(程鵬飛)が日本征討を建議し、漢卿を征東省郎中に起用するよう上奏した。帝はトインナを顧みて、言うには、「鵬飛は南人(江南の士人)であるが、なおその才能を知っている。しばらく従わせよ。帰還したら、朕自ら登用しよう。」征東省が廃止されると、漢卿を召還した。丞相アリハイヤ(阿里海牙)は湖広行省の機密事が重要であるため、漢卿を措いて他に適任者なしとして、郎中ヨロンヤヌ(岳洛也奴)を遣わして留任を奏請させ、許された。

二十一年(1284)、皇子鎮南王に従って交趾を征討した。鄂に戻った時、権臣がちょうど威福をほしいままにしていたので、家に退いて処した。二十八年(1291)、太傅・右丞相順徳王ダラハン(答剌罕)に詔して、鄂で権姦をとらえさせた。ダラハンは湖広行中書省平章政事に任ぜられ、旧人で方面の事務に通じている者を尋ねたところ、人々が漢卿を推薦した。使者を南陽の自宅に派遣し、駅伝で武昌に招致し、京師で事を奏上させた。帝はこれを嘉し、給事中に抜擢した。二年ほど在職し、提刑按察司が粛政廉訪司に改められると、台臣が奏上して奉議大夫・広西海北道副使に任ぜられた。陛辞(出発の挨拶)の際、留めて以前の職に据えた。まもなく湖広行省平章政事リウ・グオジエ(劉〔国〕傑)が交趾征伐を奏請し、広東で戦船五百隻を建造することになった。帝は言った。「これは重大事である。才幹ある臣下でなければ成功しない。」漢卿を南方に派遣して工匠を監督させ、勅して言った。「汝が帰還したら、必ずや汝を衆人に顕彰しよう。」そこで頓首して謝した。事が完了した後、帝が崩御し、福建行省郎中、朝列大夫・漢陽監府、中順大夫・湖南宣慰副使に転じた。

峒の酋長岑雄が叛き、詔を奉じて開導諭示し、頑強獰猛な者を服従させた。太中大夫・河南行中書省郎中に改め、通議大夫・同僉枢密院事となり、礼部尚書に任ぜられた。大臣が江南の民田を実査するよう奏上し、漢卿は詔を奉じて江西に使し、田額が以前に定まっており、民を重ねてみだすのは不便として、問わずに置いた。ただ、茶・漕運に関する局を十七箇所設置し、七品の印章を以て局官五十一員を勅授し、中統課銭を五十万緡増加させることを奏上した。正議大夫・兵部尚書に転じた。まもなく中奉大夫・荊湖北道宣慰使に任ぜられ、すでに命じた後、また留任させた。

延祐三年(1316)、大臣が浙東で倭奴(日本人)の商船貿易が乱を招いたとし、漢卿を閩・浙に宣慰使として派遣し、兵民をなだしずめさせるよう奏上した。海陸はこれによって静謐となったという。甥のタハイ(塔海)。

タハイ(塔海)は、漢卿の兄の子である。世祖の時、トトカ(土土哈)に従ってハラチ(哈剌赤)となった。至元二十四年(1287)、車駕に扈従してナヤン(乃顔)を征討した。二十六年(1289)、入朝し、帝はボルチ(宝児赤)に充てるよう命じ、車駕に扈従してカラコルム(和林)に至り、ジスン(只孫)の冠服を賜った。大徳四年(1300)、中書直省舎人に任ぜられた。中書客省副使に遷った。武宗が即位すると、中統鈔五百錠を賜り、その才能を顕彰した。まもなくカラコルム(和林)行省理問所官に進み、通政僉院に改めた。和寧路総管を歴任し、汴梁に改めた。

先に、朝廷が民に田地を自ら実数申告させたが、有司が峻法でこれを縛ったため、民は多く虚報して命令を済ませようとした。その後、差税を徴収する根拠がなくなり、民の多くが逃散流移する者がいた。タハイはその弊害を朝廷に言上した。これによって民間の虚糧二十二万を削減し、民はこれによって安堵した。後に廬州に転任した。時に飛蝗が北から来て、民はこれを憂いた。タハイが天に祈ると、蝗は引き去り、また水に落ちて死ぬものもあり、人々は皆これを異事とした。民が食糧に窮すると、倉を開き価格を下げ、民に買わせ、多くの命を救った。

天暦元年(1328)冬十月、枢密院の臣下がタハイを枢密僉院に充て、潼関及び河中府を守備させるよう奏上した。帝は人を馳せて白金・鈔幣を賜り、僉書枢密院事に宣授した。まもなく、西軍が南陽を侵犯したので、諸衛の兵を督率してこれを平定に向かった。その地に至り、まず勇士を率いてテムゲ(帖木哥)らと戦い、その前鋒の将を破り、その旗鼓を奪い、西軍は敗走した。三珠虎符を賜り、大都督ととくに進み、累官して資善大夫となった。

アンジャル(按扎兒)

按扎児は拓跋氏に属し、かつて太祖に扈従して南征した。丙子の歳、再び諸部平定に従い功績を挙げ、蒙古軍を率いて前鋒となることを命じられた。時に木華黎及び博爾朮が左右の万戸長となり、各々その配下を率いて翊衛となった。太祖は木華黎を太師国王都行省に任じ、承制により事を行わせ、兵を燕・遼・営・青・斉・魯・趙・韓・魏に臨ませ、ことごとくこれを下した。

己卯の歳、河中府が降伏し、兵は北還したが、按扎児に前鋒総帥を領させ、引き続き配下の兵を率いて平陽に駐屯させ金に備えさせ、国王の事を摂行させた。時に金の将軍乞石烈氏が兵を擁してしばしば辺境の患いとなったが、按扎児の威名を畏れて、軽々しくその境を犯さなかった。壬午の歳、元帥石天応が河中府を守り、中条山に駐屯した。金の侯将軍が兄弟兵十余万を率いて夜襲で河中を襲い、天応は偏裨の呉権府に五百の兵を率いて東門より出撃させ、両谷の間に伏兵を置かせた。これを諭して言うには、「敵の半数が過ぎるのを待ち、即ち翼よりこれを撃ち、腹背に敵を受けるようにさせれば、たちまち捕虜となるであろう」と。呉は酔っており、敵が至っても、声援は続かず、城はついに陥落し、天応はそこで戦死した。ついにその城を焼き払い、その民を皆殺しにした。中条に向かおうとしたところ、按扎児が進軍してこれを撃ち、数万級を斬首し、逃れて免れた者はわずか十数名であった。

癸未の歳の春、聞喜県西の下馬村に至った時、木華黎が卒去した。詔して子の孛魯にその爵を襲封させた。時に平陽は要地であったため、按扎児に居守を命じた。庚寅の歳、孛魯が雲中より衛州を包囲した。金の将軍武仙は恐れ、潞東十余里の原上に退いて守った。孛魯は沁南に馳せ至ったが、まだ鼓を立てず、乞石烈が兵を率いてその背後を襲い、孛魯は戦いに利あらず、輜重と人口はことごとく陥没し、按扎児の妻奴丹氏も捕らえられ、大梁に拘禁された。金主は按扎児の威名を聞き、奴丹氏を召して引見した。奴丹氏は顔色を正し言葉を正しくし、動じなかった。金主はそこで彼女に言うには、「今汝を釈放して帰らせるが、汝の夫を連れて来ることができれば、厚く汝を賞すであろう」と。奴丹氏は偽って承諾し、ついに帰還することができた。太宗はこれを聞いて義とし、召見して褒賞を厚く与え、ついに詔してその夫の前鋒の事に預からせた。

帝は従弟の按只吉歹・口温不花大王・皇弟四太子、及び国王孛魯を率いて潞州・鳳翔を征伐した。鈞州三峯山に至ると、金の将軍完顔合達が兵十五万を率いて来戦した。その同僉移剌不花らを俘虜とし、ことごとくこれを誅殺した。明年壬辰の春三月、帝は班師して北還し、都元帥唆伯台とともに汴を包囲することを命じた。城中は按扎児の旗幟を識り、恐れて言うには、「その妻ですら勇猛かつ義に厚い、ましてその夫においておや」と。

甲午の歳、金が滅亡し、詔して功臣を封じ、平陽の戸六百十四・駆戸三十・猟戸四を賜った。間もなく、病により卒去した。子に忙漢・拙赤哥あり。

至元十五年、忙漢は管軍千戸となった。二十四年、乃顔征伐に従軍した。二十六年、海都征伐に従軍した。二十七年、蒙古侍衛親軍千戸を宣授され、金符を佩用した。元貞元年、旨ありて探馬赤軍を率い、哈伯元帥とともに宗王出伯に従って西征することを命じられ、昭信校尉・右都威衛千戸に改めて授けられた。大徳元年、召還された。至大四年に卒去した。子の乃蠻が襲封した。

拙赤哥は宿衛に入り、世祖に従って鄂漢を征伐し、功により白金を賜った。至元三年、李壇征伐に従い、戦死した。子の闊闊朮は御史台都事となった。至元三十一年、国王速渾察の子拾得が既に没した後、その家に故璽があり、王がこれを売ろうとし、闊闊朮に命じて中丞崔彧・御史楊桓に示させた。その文を弁じて言うには、「受命于天、既寿永昌」と。これは秦の璽である。彧はこれを徽仁裕聖皇后に献上するよう請うた。后は鈔二千五百貫を拾得の家に賜い、金織文段二を闊闊朮に賜った。成宗が即位すると、近臣がその事を上聞し、闊闊朮を漢中廉訪僉事に授け、湖南廉訪使にまで至った。

雪不台

雪不台は、蒙古部の兀良罕氏である。遠祖の捏里弼は孛忽都を生み、雄勇にして智略あり。曾孫の合飭溫は哈班・哈不里を生んだ。哈班は二子を生んだ。長は虎魯渾、次は雪不台である。

太祖が初めて興都を班朱泥河(今の龍居河)に建てた時、哈班が群羊を駆って入貢したが、盗賊に遭って捕らえられた。雪不台及び兄の虎魯渾が追い至り、盗賊を刺し殺したため、賊衆は潰走し去り、哈班は羊を帝の御所に進めることができた。これにより父子兄弟は義勇をもって称された。虎魯渾は百夫長として西征し、乃蠻を破り、戦功を立てた。

雪不台は質子として職を襲封した。七年、桓州を攻め、先登してその城を下し、金幣を凡そ一車賜った。十一年、蟾河において滅里吉の衆と戦い、その部長玉峪を追撃し、大いにこれを破り、ついにその地を有した。回鶻征伐に扈従し、その主は国を棄てて去った。雪不台が衆を率いてこれを追撃し、回鶻はついに走り死した。その帑蔵の積み立てはことごとく内府に入り、宝珠一・銀罌を賜った。十八年、欽察を討伐平定し、斡羅思の大・小密赤思老と激戦し、これを降伏させ、滅里吉・乃蠻・怯烈・杭斤・欽察部の千戸を通して一軍を立てることを奏上した。十九年、馬一万匹を献上した。二十一年、馺里畏吾特勤・赤憫等の部、徳順・鎮戎・蘭・会・洮等の州を取った。牝馬三千匹を献上した。

太宗二年、大挙して金を伐ち、河を渡って南進した。睿宗が太弟として兵を率いて漢水を渡り北進し、河南の三峯山で合流した。金の大臣合達ら諸将が歩騎数十万を率いて戦いを待ち構えた。雪不台は睿宗に従って牛頭関より出撃し、謀って言うには、「城邑の兵は野戦に不利であり、破りやすいのみ」と。軍は三峯に集結し、金軍がこれを数重に包囲したため、将士はやや懼れた。やがて風雪が大いに起こり、金兵は凍え倒れ、士気はついに奮い立ち、敵衆はことごとく殪された。河南の諸州は順次降伏・陥落した。四年夏、雪不台は諸道の兵を総率して汴を攻めた。金の義宗は衛州に走り、また帰徳に走り、また蔡州に走った。癸巳の秋、汴の将が城を以て降伏した。その冬、蔡を攻めた。六年春、金が滅亡した。雪不台は汴民が飢えているのを見て、河を渡って食を求めることを許し、民はこれを徳とした。

この年、詔して宗王抜都に西征させ、雪不台を先鋒とした。戦いは大勝した。十三年、兀魯思部の主野力班を討伐し、これを擒らえた。馬劄部を攻め、その酋長怯憐と漷寧河で戦い、偏師を下流より派遣してその城を擣き、これを抜いた。この時、北庭・西域・河南北・関隴はことごとく平定され、雪不台の功労が多かった。

初め、太祖が西夏を征伐した時、雪不台が長く軍中にあることを憐れみ、還省して覲見するよう敕した。雪不台は対えて言うには、「君は労し臣は安逸であるのは、心情として安んじられません」と。帝は壮としてこれを聞き入れた。また、金の帥合達が捕らえられ、不屈して死んだ時、なお雪不台が何処にいるかと問い、一度識りたいと請うた。雪不台が出てきて言うには、「汝はまもなく死ぬ者である、私を識って何とするか」と。合達は言うには、「人臣も各々その主のためであり、卿の勇は諸将を蓋い、天が生んだ英豪である、それは偶然であろうか。卿を見てこそ、甘心して瞑目できる」と。

定宗三年、篤列河の地において卒去した。年七十三。至大元年、効忠宣力佐命功臣・開府儀同三司・上柱国・河南王を追贈され、諡して忠定といった。

唵木海

唵木海は、蒙古八剌忽䚟氏の人で、父の孛合出とともに太祖に仕え、征伐に功があった。帝がかつて城を攻め地を略するのに、どの兵器を先とするかと問うたところ、答えて言うには、「城を攻めるには砲石を先とします。力が重く、遠くまで及ぶからです」と。帝は喜び、直ちに砲手に任じた。甲戌の年、太師国王木華黎が南伐するにあたり、帝は彼に諭して言うには、「唵木海が城攻めに砲を用いる策は甚だ善い。汝がこれを任せれば、何城か破れぬことがあろうか」と。即ち金符を授け、随路砲手達魯花赤とした。唵木海は五百余人を選んでこれを教習し、後に諸国を平定するのに、多くその力に頼った。

太宗が即位すると、近侍として留め置かれ、武芸を講じさせた。壬辰の年、河南攻めに従って功があった。壬子の年、憲宗は特に虎符を授け、都元帥に昇進させた。癸丑の年、宗王旭烈兀に従って剌里西番、斜巨山、桃里寺、河西諸部を征し、ことごとくこれを下した。卒す。子の忒木台児は従軍の功により金符を授けられ、砲手総管を襲職した。

至元十年、正陽の東西二城を修築し、砲二百余座を設置し、宋人と戦ってこれを退けた。十三年、丞相伯顔に従って宋を伐ち、臨安の臯亭山に駐軍し、忙古歹ら八人とともに甲士三百を率いて宋の宮中に入り、伝国の宝を取った。宋の太后が兵を解き内殿で引見を請い、明日に宝を奉じて降伏を乞うことを約した。期日に至り、果たして賈餘慶らを遣わして宝を軍前に奉じた。功により行省断事官に任じられ、またその子の忽都答児に砲手総管を襲職させた。

十四年、昭勇大将軍砲手万戸に進み、元から降った虎符を佩び、平江の常熟を鎮守した。叛民が衆を擁して太尉と号する者がおり、行省は諸軍を集めてこれを討った。忽都答児父子は自ら一軍と為り、戈を奮って陣に陥り、賊の首領戴太尉を斬り、朱太尉を生け捕りにした。帝はその功を嘉された。十五年、平江路達魯花赤を兼ね、まもなく徽州、湖州に転じ、卒した。忽都答児は後に砲手万戸に昇進し、達魯花赤に改めて任じられ、卒した。

昔里鈐部〔愛魯〕

昔里鈐部は、唐兀の人で、昔里氏である。鈐部はまた甘卜とも云い、音が近く互いに用いる。太祖の時、西夏は既に臣服したが、大軍が西征すると、再び二心を抱いた。帝がこれを聞き、軍を返して討伐した。鈐部に忽都鉄穆児とともに沙州を招諭せしめた。州将は偽って降り、牛酒で軍を労いながら、伏兵を設けて待ち受けた。首帥が至ると、伏兵が起こり馬が躓いた。鈐部は自らの乗馬を首帥に与えて逃がし、自らは躓いた馬に乗って殿軍となり、これを撃破した。後日、帝が聞いて言うには、「卿は死地に臨みながら、どうして馬を人と換えたのか」と。鈐部は答えて言うには、「小臣が陣死しても軽重は足りませんが、首帥は陛下が器用される宿将で、失ってはなりません」と。帝はこれを忠と認めた。進軍して粛州を包囲した。守る者は鈐部の兄であった。城が破れて家族が害されることを恐れ、先んじてこれを請うた。帝は城が久しく下らないことに怒り、全てを屠る旨の命令を下したが、ただ鈐部が死地の中からその親族家人を求めることを許した。これにより死を免れた者は百六戸あり、その田業を帰した。

乙未の年、定宗、憲宗ともに親王として速卜帯と西域を征し、翌年出発し、鈐部もこれに加わった。また翌年、寛田吉思海に至り、鈐部は諸王抜都に従って斡羅斯を征し、也里(替)〔贊〕城に至り、七日間大戦してこれを抜いた。己亥の冬十一月、阿速滅怯思城に至り、険固を頼んで久しく下らなかった。翌年春正月、鈐部は敢死の士十人を率い、雲梯を伝って先に登り、十一人を捕虜とし、大声で叫んで「城破れたり!」と言った。衆が蟻のように付いて登り、遂にこれを抜いた。西馬、西錦を賜り、抜都の名を賜った。翌年軍を返し、鈐部を千戸に任じ、只孫を賜って四時の宴服とし、まもなく断事官に転じた。

丙午、定宗が即位すると、大名路達魯花赤に進んだ。憲宗は卜只児を行台に臨ませ、鈐部に同署せしめ、既にしてまた別に虎符を賜い、大名を監察させた。己未、世祖が南征するにあたり、軍餉を供給して、欠乏することはなかった。病により輿に乗せられて帰り、家で卒した。年六十九。子に愛魯。

愛魯は大名路達魯花赤を襲職した。至元五年、雲南〔王〕に従って金歯諸部を征した。蛮兵一万人が縹甸の道を遮断したので、これを撃ち、千余級を斬首し、諸部は震えて服した。六年、再び入り、その租賦を定め、火不麻など二十四寨を平定し、七頭の馴象を得て還った。七年、中慶路達魯花赤に改め、爨僰軍を兼管した。

十年、平章賽典赤が雲南に行省を開くと、愛魯に永昌の境界を整理させ、増えた田は多かった。十一年、中慶の版籍を検閲し、隠戸一万余を得て、四千戸をその地で即時に屯田させた。十三年、詔して烏蒙道を開かせ、師を率いて玉連等州に至り、通過する城寨で未だ附かないものはことごとく撃ち下し、水陸ともに駅伝を設置した。これにより大いに賽典赤に信任された。十四年、忙部也可不薛が叛き、兵二千でこれを討平し、広南西道左右両江宣撫使に遷り、招討使を兼ねた。十六年、雲南諸路宣慰使、副都元帥に遷った。十七年、再び雲南行省を立て、参知政事に拝された。十八年、烏蒙羅佐山、白水江の蛮が万戸阿忽を殺して叛いたので、再びこれを討平した。

十九年、召されて闕に詣り、左丞に進んだ。也可不薛が再び叛き、詔して西川都元帥也速答児、湖南行省脱里察と会師して進討させ、也可不薛を生け捕りにして京師に送り、仁普の諸酋長は皆降り、四千戸を得た。諸王相吾〔答〕児が諸将を率いて緬を征すると、愛魯は糧餉を供給して、欠乏することはなかった。二十二年、烏蒙の阿謀が宣撫使を殺して叛いたので、右丞拜答児とともにこれを征しに行った。拜答児は愛魯がその山川道里に習熟しているので、諸軍に悉くその指揮を聴かせ、分道進撃して、阿蒙を生け捕りにして帰った。

二十四年、右丞に進んだ。朝廷が尚書省を立てると、再び行尚書右丞に改めた。鎮南王が交趾を征するにあたり、詔して愛魯に兵六千人を将いてこれに従わせた。羅羅から交趾の境に至り、交趾の将昭文王が兵四万で木兀門を守った。愛魯はこれと戦って破り、その将黎石、何英を生け捕りにした。三月の間に、大小十八戦し、遂にその王城に至り、諸軍と会戦してまた二十余合戦い、功は多かった。二十五年、瘴癘に感じて卒した。平章政事を追贈され、諡して毅敏といった。

子の教化は、中書平章政事となり、朝廷に請うて、その祖父昔里鈐部に太師を追贈し、諡して貞献とし、さらに愛魯に太師を加贈し、魏国公を追封し、諡を忠節に改めた。

槊直腯魯華

槊直腯魯華は、蒙古の克烈氏である。初めその部衆二百を率いて太祖に従い乃蛮・西夏を征し、功があり、万戸を率いることを命じられ、太師国王木華黎の前鋒となった。金の桓州を下し、その監牧の馬数百万匹を得て、諸軍に分属させると、軍勢は大いに振るった。辛未の歳、遼東・西の諸州を破ったが、ただ東京だけは未だ下らず、金の使者を捕らえ、これを遣わして諭させようとした。槊直腯魯華は言った、「東京は金の旧都であり、守備は厳重で堅固である。攻撃しても容易には下りません。計略をもってこれを破るのがよいでしょう。どうか衣服を変えてその使者と共に往き、これを説得させてください。彼らは疑わないでしょう。その門が開くのを待ち、大軍を続けて向かわせれば、攻略できるでしょう」。果たしてその計の通りとなった。河北の地を巡行し、大名を攻め、大小数十戦、城は陥落寸前となったが、流れ矢に当たって卒した。武宗の時、太傅を贈られ、衛国公に追封され、諡は武敏。

子の撒吉思卜華が、その軍を嗣いで率いた。太宗元年己丑、金符を賜り、河北・山東の諸州を安輯した。先に真定同知の武仙が都元帥史天倪の家を攻め滅ぼしたが、その弟の天澤が武仙を撃ち走らせ、真定を回復した。天沢を真定・河間・済南・東平・大名の五路万戸とした。庚寅、撒吉思卜華に金虎符を佩かせ、総師行省としてその軍を監させた。

金の宣宗が都を汴に遷すに当たり、新衛に河平軍を立てて自らを固め、北門として恃んだ。撒吉思卜華はこれを数度攻めたが、陥とせなかった。壬辰正月、太宗は白坡から河を渡って南へ、睿宗は峭石灘から漢水を渡って北へ向かった。撒吉思卜華は西都の水の舟を集め、河陰から渡河した。鄭に至ると、鄭の守将馬伯堅が降った。金の義宗が勢力窮まって出奔すると、帝は撒吉思卜華に命じてこれを追撃させた。ちょうどその節度使斜捻阿卜が衛を棄てて汴に入ったので、撒吉思卜華は遂にこれを占拠して有した。十二月、義宗は黄陵岡から河を渡り、衛を回復しようと謀った。撒吉思卜華はその将の白撒と白公廟で五日間戦い、捕虜斬首は万を数え、残りの衆は尽く潰走した。義宗は帰徳に逃げ込んだ。撒吉思卜華はその後を追撃し、北門に迫って軍を置いた。左右は皆水であり、その舟師は日々到来した。癸巳四月、その将の官奴が夜来して陣営を斬り込み、腹背敵を受けて、撒吉思卜華は一軍と共に尽く没した。

嗣国王の塔思が制を承けて、その弟の明安答児に行営を領させ、間もなく旨があり、蒙古漢軍万戸とした。明安答児は騎射に優れ、淮安征伐に従い、敵に因って糧食を調達し、未だ欠乏したことがなく、軍士は負担の労を免れ、皆喜んで用いられた。癸丑、憲宗は昔烈門太子に従って南伐させ、鈞州で死んだ。五人の子、長は腯虎、幼は普闌溪。

腯虎は世祖に従い北征して叛王を討ち、戈を挺ててその陣に出入りし、帝はこれを壮として、抜都の号を賜い、白金四百五十両を賞した。李璮の乱を平定するにも、また戦功があった。普闌溪は、光禄大夫・徽政使となった。金が滅びた後、大臣の忽都虎に命じて民を調査し功臣に分封させたところ、撒吉思卜華の妻楊氏が自ら訴えて言った、「わがしゅうと及び夫は皆国事に死んだのに、ただ私だけが遺漏しています」。事が聞こえ、帝は言った、「彼の家は再世にわたり死難した。新衛の民二百戸を賜うべきである」。撒吉思卜華には太師を贈り、諡は忠武。明安答児には太保を贈り、諡は武毅、爵はいずれも衛国公。

昔兒吉思

昔兒吉思は、幼くして太祖に従い回回・河西の諸国を征し、いずれも戦功があった。太宗の時、睿宗に従って西征し、軍は京兆府に駐屯した。ちょうど亦来哈䚟が諸部の兵を率いて乱を起こしたので、昔兒吉思は身を挺して賊陣を斬り、馬を下りて搏戦し、賊衆は靡かない者はなかった。やがて乗馬を失い、歩いて走り睿宗の軍中に至った。賊が退くと、睿宗はその勤労を嘉し、侍女の唆火台を妻として与えた。世祖は特にこれを愛し、軍旅田猟、常に左右に侍らなかったことはなかった。初め、昔兒吉思の妻が皇子の乳母であったため、皇太后は家人の礼をもって遇し、白馬の湩(乳)を共に飲むことを得た。当時朝廷の旧典では、白馬の湩は宗戚貴冑でなければ飲むことができなかった。

昔兒吉思の子の塔出は、宝児赤・迭只斡耳朵千戸となった。塔出の子は千家奴・撒里蛮。千家奴は乃顔征伐に従い、力戦して死に、帝は乃顔の人口・財物を籍没してこれを賜うよう命じた。撒里蛮は十六歳の時、世祖に従って阿里不哥を討ち、失門禿で戦い、功があり、抜都児の号を賜い、賞賜は特に厚く、光禄少卿を授けられ、なお迭只斡耳朵千戸を襲い、同僉宣徽院に改め、僉院事に進んだ。管軍千戸として、乃顔征伐に従い功があり、金盞二つ・金五十両を賞され、また入朝して同知宣徽院事となった。成宗の時、宣徽使に拝され、大司徒しとを加えられ、卒した。子の帖木迭児が迭只斡耳朵千戸を襲ぎ、累遷して宣徽院使となり、遙かに左丞相を授けられた。

哈散納

哈散納は、怯烈亦氏である。太祖の時、王罕征伐に従い功があり、班朱尼河の水を共に飲むことを命じられ、かつ言われた、「我とこの水を共に飲む者は、世々我が用いるところとならん」。後に阿児渾軍を管領し、太祖に従って西域を征し、薛迷則干・不花剌等の城を下した。太宗の時に至っても、なお阿児渾軍を領することを命じられ、併せて回回の人匠三千戸を率いて蕁麻林に駐屯した。間もなく平陽・太原両路の達魯花赤を授けられ、諸色の人匠を兼管し、後に病により卒した。

子の捏古伯が襲い、憲宗に従って釣魚山を攻め、功があり、病により卒した。子の撒的迷失が襲い、撒的迷失が卒すると、子の木八剌が襲い、貴赤千戸を充て、西域親軍副都指揮使に遷り、大徳元年に卒した。弟の禿満答が襲い、禿満答が卒すると、子の哈剌章が襲った。