速不台〔兀良合台〕
速不台は、蒙古の兀良合部の人である。その先祖は斡難河のほとりで狩りをし、敦必乃皇帝に遇い、そこで交わりを結んだ。太祖の時に至るまで、既に五代を経ていた。捏里必という者がいて、孛忽都を生んだ。人々は彼を折里麻と呼んだ。折里麻とは、漢語で謀略ある人という意味である。三世の孫の合赤溫が、哈班を生んだ。哈班には二人の子があり、長男は忽魯渾、次男は速不台で、ともに勇猛で騎射に長けていた。太祖が班朱尼河にいた時、哈班は群れをなす羊を追って進献しようとしたが、盗賊に遭い、捕らえられた。忽魯渾と速不台が続いて到着し、槍で彼らを刺すと、人馬ともに倒れ、残党は逃げ去った。こうして父の難を免れ、羊は行在所に届いた。忽魯渾は百戸として帝に従い、乃蠻部の主と長城の南で戦い、忽魯渾が射てこれを退けると、その兵衆は闊赤檀山へ奔って潰走した。
速不台は、質子として帝に仕え、百戸となった。壬申の年、金の桓州を攻め、真っ先に登城し、その城を陥落させた。帝は命じて金帛一車を賜った。滅里吉部は強盛で従わなかった。丙子の年、帝は諸将を禿兀剌河の黒林に集め、「誰が我に代わって滅里吉を征伐できるか」と問うた。速不台が行くことを請うと、帝はその志を壮として許した。そこで裨将の阿里出に百人を率いて先行させ、その虚実を探らせた。速不台は続いて進軍した。速不台は阿里出に戒めて言った、「汝は宿営する時は必ず乳児の道具を載せて行き、去る時にはそれを遺せ。そうすれば、家族を連れて逃げる者のようであろう」。滅里吉はこれを見て、果たして逃げる者と思い、よって備えをしなかった。己卯の年、大軍は蟾河に至り、滅里吉と遭遇し、一戦してその二将を捕らえ、その兵衆をことごとく降伏させた。その部主の霍都は欽察に奔った。速不台はこれを追い、欽察と玉峪で戦い、これを破った。
壬午の年、帝は回回国を征し、その主の滅里は国を棄てて逃げ去った。速不台と只別に命じてこれを追わせ、灰里河で追いついた。只別は戦って利あらず、速不台は軍を河東に駐め、その兵士たちに三つの松明を焚かせて軍勢を誇示するよう戒めた。その王は夜に遁走した。再び命じて兵一万人を統率し、不罕川の必里罕城からこれを追わせた。凡そ経過した所はみな水のない土地であった。川を渡り終えると、まず千人を遊騎として出し、続いて大軍を昼夜兼行で進ませた。追いついた時、滅里は海に逃げ込み、一ヶ月も経たないうちに病死した。捨て去った珍宝をことごとく獲て献上した。帝は言った、「速不台は干戈に枕し血戦し、我が家のために労を尽くした。朕は甚だこれを嘉する」。大珠と銀の瓶を賜った。
癸未の年、速不台は上奏し、欽察を討つことを請うた。許された。そこで兵を率いて寬定吉思海を回り、転々として太和嶺に至り、石を穿ち道を開き、その不意を衝いた。到着すると、その酋長の玉里吉と塔塔哈兒が不租河に集まっているところに遭遇し、兵を放って奮撃すると、その兵衆は潰走した。矢が玉里吉の子に及び、彼は林間に逃げた。その奴隷が来て告げ、彼を捕らえた。残りの兵衆はことごとく降伏し、よってその境域を収めた。また阿里吉河に至り、斡羅思部の大密赤思老と小密赤思老に遭遇し、一戦してこれを降し、阿速部を攻略して還った。欽察の奴隷でその主君を告げ出た者がいたが、速不台はこれを民として放免した。還ってこれを報告すると、帝は言った、「奴隷がその主に忠でない者が、どうして他人に忠であろうか」。よってこれを誅戮した。また奏上して、滅里吉、乃蠻、怯烈、杭斤、欽察の諸部の千戸を合わせて一軍を立てることを請うた。従った。也迷里霍只部を攻略し、馬一万匹を獲て献上した。
帝は河西を征伐しようとしたが、速不台が連年外にいたので、父母が彼を思うのを恐れ、帰省するよう遣わした。速不台は奏上し、西征に従うことを願った。帝は命じて大磧を渡って行かせた。丙戌の年、撒里畏吾特勒、赤閔などの部、および徳順、鎮戎、蘭、会、洮、河の諸州を攻め落とし、牝馬五千匹を得て、ことごとく朝廷に献上した。丁亥の年、太祖の崩御を聞き、よって還った。
己丑の年、太宗が即位し、禿滅干公主を以て彼に妻せしめた。潼関攻めに従ったが、軍は利あらず、帝はこれを責めた。睿宗が当時藩邸におり、兵家の勝負は常ならずと述べ、功を立てて自ら効力を尽くすよう命じることを請うた。よって命じて兵を率いて睿宗に従い河南を経理させ、道は牛頭関より出でた。金の将の合達が歩騎数十万を率いて戦いを待つところに遭遇した。睿宗が方略を問うと、速不台は言った、「城に住む者は労苦に耐えず、しばしば挑発して疲れさせれば、戦って勝つことができるでしょう」。軍は三峯山に集結した。金兵はこれを数重に囲んだ。ちょうど風雪が大いに起こり、その士卒は凍え倒れ、我が軍はこれに乗じ、殺戮することほぼ尽きた。これより金軍は再び振るわなくなった。壬辰の夏、睿宗は還って官山に駐屯し、速不台を留めて諸道の兵を統率させ汴を包囲させた。癸巳の年、金主は河を渡って北に逃走した。黄龍岡で追撃してこれを破り、首級一万余を斬った。金主は再び南に走って帰徳府に至り、間もなく、また蔡州に走った。汴は降伏し、その后妃と宝器を俘獲して献上し、進んで蔡州を包囲した。甲午の年、蔡州が陥落し、金主は自ら焼死した。当時、汴梁は兵災を受けること久しく、凶作で、人肉を食うありさまであった。速不台は命を下してその民を北に渡らせ、食を求めるに任せた。
乙未の年、太宗は諸王の抜都に命じて八赤蠻を西征させ、かつ言った、「八赤蠻に胆勇があると聞く。速不台にも胆勇がある。これをもって勝つことができるであろう」。よって先鋒と命じ、八赤蠻と戦わせ、続いてまた大軍を統率するよう命じた。よって八赤蠻の妻子を寬田吉思海で捕虜にした。八赤蠻は速不台が来ると聞き、大いに懼れ、海中に逃げ込んだ。
辛丑の年、太宗は諸王の抜都らに命じて兀魯思部の主の也烈班を討たせたが、彼に敗れ、禿里思哥城を包囲したが、陥せなかった。抜都は奏上して速不台を遣わして督戦させることを請うた。速不台は哈必赤軍の怯憐口など五十人を選んでこれに赴かせ、一戦して也烈班を捕らえた。進んで禿里思哥城を攻め、三日でこれを陥落させ、兀魯思の管轄する部衆をことごとく取って還った。哈咂里山を経て、馬札兒部の主の怯憐を攻めた。速不台は先鋒となり、諸王の抜都、吁里兀、昔班、哈丹と五道に分かれて進んだ。兵衆は言った、「怯憐の軍勢は盛んで、軽々しく進むべきではない」。速不台は奇計を出し、その軍を漷寧河におびき寄せた。諸王の軍は上流にあり、水は浅く、馬で渡ることができ、中ほどにまた橋があった。下流は水深かった。速不台は筏を組んで密かに渡り、敵の背後に出ようとした。渡らないうちに、諸王が先に河を渡って戦った。抜都の軍は橋を争い、かえって敵の勢いに乗じられ、甲士三十人が戦死し、またその麾下の将の八哈禿を失った。渡り終えると、諸王は敵がまだ多いとして、速不台を引き返させようとし、ゆっくりと図ろうとした。速不台は言った、「王は帰りたければお帰りなさい。私は禿納河の馬茶城に至らなければ、還りません」。馳せて馬茶城に至ると、諸王もまた至り、よってこれを攻め落として還った。諸王が来て会した時、抜都は言った、「漷寧河の戦いの時、速不台の救援が遅く、我が八哈禿を殺された」。速不台は言った、「諸王はただ上流の水が浅く、かつ橋があることを知り、よって渡って戦っただけで、私が下流で筏を組み終えなかったことを知らない。今ただ私が遅かったと言うが、その故を考えるべきです」。ここにおいて抜都も悟った。後の大会で、馬乳と葡萄酒を飲みながら、怯憐を征した時のことを語り、言った、「当時獲たものは皆、速不台の功績である」。壬寅の年、太宗が崩御した。癸卯の年、諸王が大会を開き、抜都は行かないつもりであった。速不台は言った、「大王は族属において兄です。どうして行かずにいられましょうか」。甲辰の年、よって也只里河で会した。
丙午の年、定宗が即位し、朝会を終えると、家に帰って禿剌河のほとりに住んだ。戊申の年に卒去した。享年七十三。効忠宣力佐命功臣、開府儀同三司、上柱国を贈られ、追封して河南王とし、諡して忠定といった。子に兀良合台がいる。
兀良合台は、初め太祖に仕えた。時に憲宗は皇孫であり、まだ幼かったので、兀良合台が功臣の家柄であることを以て、その養育を護らせた。憲宗が潜邸に在った時、遂に宿衛の職を分掌した。癸巳の年、兵を率いて定宗に従い女真国を征し、遼東において万奴を破った。続いて諸王抜都に従い欽察・兀魯思・阿速・孛烈児等の諸部を征した。丙午の年、また抜都に従い孛烈児乃・捏迷思部を討ち、これを平定した。己酉の年、定宗が崩御した。抜都は宗室の大臣と議して憲宗を立てようとしたが、事は久しく決しなかった。四月、諸王が大会し、定宗皇后が誰を立てるのが適当かと問うと、皆惶惑して敢えて答えなかった。兀良合台が対えて言うには、「この議は既に先に定まっています。再び変えることはできません。」抜都が言うには、「兀良合台の言う通りである。」議は遂に定まった。
憲宗が即位した翌年、世祖が皇弟として兵を総べ西南夷の烏蛮・白蛮・鬼蛮等の諸国を討つに当たり、兀良合台に軍事を総督させた。その鬼蛮とは、即ち赤禿哥国である。癸丑の秋、大軍は旦当嶺より雲南の境に入った。摩些二部の酋長唆火脱因・塔里馬が来迎して降り、遂に金沙江に至った。兀良合台は兵を分けて察罕章に入った。これは白蛮であり、所在の寨柵を次々に攻め落とした。ただ阿塔剌の居る半空和寨のみは、山に依り江に枕し、堅牢で抜くことができなかった。人を遣わして偵察させると、まずその水汲みの道を絶つべきだと言った。兀良合台は精鋭を率いて砲を立ててこれを攻めた。阿塔剌が人を遣わして防戦したので、兀良合台はその子阿朮を遣わして迎撃させると、寨の兵は退走した。遂にその弟の阿叔城も共に抜いた。進軍して龍首関を取ると、世祖を輔けて大理国の城に入った。
甲寅の秋、また兵を分けて付都の善闡を取ると、転じて合剌章の水城を攻め、これを屠った。合剌章とは、烏蛮である。前に羅部府に駐屯した時、大酋の高昇が諸部の兵を集めて防戦したので、洟可浪山の下においてこれを大破し、遂に進んで烏蛮の都たる押赤城に至った。城は滇池に臨み、三面は水であり、険阻で且つ堅固であった。驍勇を選んで砲でその北門を破壊し、火を放って攻めたが、いずれも陥落しなかった。そこで鼓鉦を大いに鳴らし、進んでは止まり、止まっては進み、敵に意図を分からせず、このようにすること七日、その疲労困憊を窺い、夜の五鼓に、その子阿朮に命じて潜かに軍を率いて躍り入らせ、乱れ斬らせると、遂に大いに潰走した。昆沢に至り、その国王段興智及びその渠帥馬合剌昔を擒らえて献上した。山谷に依って阻む残党に対しては、裨将の也里・脱伯・押真に命じてその右を掩い、合台護尉にその左を掩わせ、三日を期して包囲して内に向かわせた。包囲が完成すると、阿朮と共に善射の者二百騎を率い、三日を期して四方から進撃した。兀良合台は陣に陷り激戦し、また纖寨を攻めてこれを抜いた。乾徳哥城に至り、兀良合台は病に罹り、軍事を阿朮に委ねた。城を囲んで砲を立て、草を以て塹を埋め、諸軍がようやく集結した時、阿朮は既に配下を率いて城上で搏戦し、城は遂に陥落した。
丙辰の年、白蛮国・波麗国を征し、阿朮がその驍将を生け捕りにして、闕下に俘虜を献じた。詔により便宜を以て進路を取り、鉄哥帯児の兵と合流せよとの命を受け、遂に烏蒙より出で、瀘江に向かい、禿剌蛮の三城を剗平し、宋の将張都統の兵三万を退け、馬湖江においてその船二百艘を奪い、斬獲は数え切れなかった。遂に嘉定・重慶への通路を開き、合州に抵り、蜀江を渡って、鉄哥帯児と会合した。
丁巳の年、雲南が平定されたので、使いを遣わして朝廷に捷報を献じ、かつ漢の故事に倣い、西南夷を悉く郡県とすることを請うた。許された。その軍に銀五千両・綵幣二万四千匹を賜り、銀印を授け、大元帥を加えられた。還って大理を鎮守し、遂に六盤山を経て臨洮府に至り、大営と合流した。一ヶ月余りして、また西征して烏蛮を討った。
秋九月、使いを遣わして交趾を招降したが、返答がなかった。冬十月、進軍して国境に迫った。その国主陳日煚は江を隔てて象騎・歩卒を列ね、その勢い甚だ盛んであった。兀良合台は軍を三隊に分けて江を渡らせ、徹徹都は下流より先に渡り、大帥は中に居り、駙馬の懐都と阿朮は後ろに居た。なお徹徹都に方略を授けて言うには、「汝の軍は既に渡ったならば、彼と戦ってはならない。彼は必ず我を迎え撃つであろう。駙馬はその後を断て。汝は機を見てその船を奪え。蛮が潰走して江に至り船がなければ、必ず我が擒とすところとなろう。」軍が岸に上陸すると、即ち戦いを交えたが、徹徹都が命令に背いたため、蛮は大敗したものの、舟を操って逃げ去ることができた。兀良合台は怒って言うには、「先鋒が我が節度に背いた。軍には常刑がある。」徹徹都は恐れ、薬を飲んで死んだ。兀良合台は交趾に入り、久しく駐屯する計画を立て、軍令は厳粛で、秋毫も犯さなかった。七日を経て、日煚が内附を請うた。ここにおいて酒を設けて軍士を大いに饗した。還軍して柙赤城に至った。
戊午の年、兵を率いて宋の境内に入った。その地は炎瘴の地で、軍士は皆病に罹り、敵に遭遇して少し退却し、軍士四人を失った。阿朮が還り戦い、その兵卒十二人を擒らえ、その援軍がまた至ったので、阿朮は三十騎で、阿馬禿が続いて五十騎でこれを撃退した。時に兀良合台もまた病に罹り、軍を返そうとしたところ、阿朮の戦馬五十匹が夜に禿剌蛮に掠奪された。阿朮が入って兀良合台に告げて言うには、「我が馬は全て盗賊に掠め取られてしまいました。どうして行軍しましょうか。」即ち軍を分けて捜索させると、三つの寨が山頂に馬を隠していることを知った。阿朮が自ら将士を率いて崖を攀じ登り、その諸寨を破り、賊の酋長を生け捕りにし、前後して盗まれた馬千七百匹を全て得た。そこで柙赤城を屠った。
憲宗が使いを遣わして旨を諭し、来年正月に長沙で軍を会わせることを約した。そこで四王の騎兵三千、蛮・僰一万人を率い、横山寨を破り、老蒼関を開き、宋の内地を巡行した。宋は兵六万を陳べて待ち構えた。阿朮と四王を遣わして潜かに間道よりその中堅を衝かせると、これを大破し、その兵を尽く殺した。勝に乗じて追撃し、貴州を蹴り、象州を蹂躙し、静江府に入り、辰州・沅州の二州を連破し、直ちに潭州城下に抵った。潭州は兵二十万を出して我が帰路を断った。兀良合台は阿朮と大納・玉龍帖木児に命じてその前を攻めさせ、自らは四王と共にその後を攻めて、挟撃してこれを破った。兵は敵境に入って以来、千里を転戦し、一度も敗北しなかった。大小十三戦、宋兵四十余万を殺し、その将大小三人を擒らえた。その州がまた兵を遣わして攻めてきたので、門濠まで追撃し、殆ど溺死させ尽くしたので、敢えて再び出てこなくなった。城下に壁営すること一月余り。時に世祖は既に江を渡り鄂州に駐屯し、也里蒙古に兵二千人を率いさせて来援させ、且つ労問を加えた。遂に鄂州の滸黄洲より北渡し、大軍と合流した。
按竺邇
按竺邇は雍古氏である。その先祖は雲中の塞上に居住し、父の䵣公は金の羣牧使であった。辛未の歳、牧養していた馬を駆って来て太祖に帰順し、その官を終えた。
按竺邇は幼くして外祖父の朮要甲の家に養育され、訛って趙家と言われたため、趙氏を姓とした。十四歳の時、皇子察合台の部に隷属した。かつて大規模な狩猟に従い、数頭の麋を射て獲たところ、二頭の虎が突然現れたので、これを射て皆死なせた。これによって善射の名を得て、皇子は深く彼を器重し愛した。
甲戌、太祖が西方に征して尋思干・阿里麻里等の国を討つに当たり、功によって千戸となった。丁亥、積石州征討に従軍し、先鋒として登城し、その城を陥れた。河州を包囲し、四十級を斬首した。臨洮を破り、徳順を攻め、百余級を斬首した。鞏昌を攻め、秦州に兵を駐屯させた。
太宗が即位すると、察合台を皇兄として尊び、按竺邇を元帥とした。戊子、刪丹州を鎮守し、燉煌から駅伝を設置して玉関に至らせ、西域を通じさせた。関隴平定に従った。辛卯、鳳翔包囲に従い、按竺邇は兵を分けて西南隅を攻め、城上から礧石が乱れ落ちる中、決死の兵士を選んで先に登城し、その城を陥れ、金の将劉興哥を斬った。兵を分けて西和州を攻めると、宋の将彊俊が数万の兵を率い、堅壁清野して我が軍を疲弊させようとした。按竺邇は決死の兵士を率いて城下で罵り、挑戦した。俊は怒り、全軍を出して陣を構えた。按竺邇は偽って退却し、俊がこれを追撃したところ、奇兵をもってその城を奪い、伏兵でその帰路を遮り、数十里にわたって転戦し、数千級を斬首し、俊を生け捕りにした。残兵は仇池に退いて守ったが、進撃してこれを陥れた。平涼攻略に従い、慶陽・邠・原・寧は皆降伏した。涇州が再び叛くと、守将の郭元恕を殺害したため、衆議はこれを屠るべきとした。按竺邇は首謀者のみを誅し、軍は原州に帰還した。降伏した民が老幼を棄てて夜逃げ出した。衆は言った、「これは必ず反逆する者である。残りの者を戒めるため誅すべきである」。按竺邇は言った、「この連中は我々が彼らを北方に移住させようと恐れているだけだ」。人を遣わして諭して言った、「お前たちが逃げれば、軍法で罪に問い、父母妻子も併せて誅する。帰れば、他事なきことを保証する。来年草が青くなったら、牛と酒を備えてこの州で我が軍を迎えよ」。民は皆再び帰還した。豪民の陳苟が数千人を集めて新寨の諸洞に潜んでいた。衆議は火攻めにすべきとした。按竺邇は言った、「招諭して出てこなければ、攻撃しても遅くはない」。そこで数騎を連れて寨に至り、馬を放ち弓矢を解き、苟を呼び寄せて遠くから語りかけ、矢を折って誓いを立てた。苟は直ちに互いに呼び集まって羅拝し、更生の恩を謝し、皆降伏した。
金人が潼関を守り、これを攻めて扇車回で戦ったが、陥せなかった。睿宗が兵を分けて山南より金の境内に入り、按竺邇は先鋒として散関に向かった。宋人は既に桟道を焼き絶っていたため、再び両当県より魚関に出て、沔州に軍を進めた。宋の制置使桂如淵が興元を守っていた。按竺邇は如淵に仮道を請うて言った、「宋は金を仇とすること久しい。どうして我が兵鋒に従い、一挙に国恥を洗わないのか。今、南鄭を仮道し、金・洋を経て唐・鄧に至り、大軍と合流して金を滅ぼそうとしている。これはただ我が利のみならず、宋の利でもある」。如淵は我が軍が国境を圧する勢いで、徒に帰還しないと判断し、遂に人を遣わして我が師を武休関より東に導いて鄧州に至らせ、西は小関を破った。金人は大いに驚き、我が軍が天より降りたと言った。その平章完顔合達・枢密使移剌蒲阿が十七都尉を率い、兵数十万で鄧で相拒んだ。我が師はこれと戦わず、直ちに鈞州に向かい、親王按赤台等の兵と合流し、三峯山下に陣を布いた。ちょうど大雪が降り、金兵は陣列を成した。按竺邇は先に配下の精兵を率いて前で迎撃し、諸軍がこれに乗じ、金師は敗北した。癸巳、金主は蔡に奔った。十二月、蔡包囲に従った。甲午、金は滅亡した。
初め、金の将郭斌が鳳翔より包囲を突破して出て、金・蘭・定・会の四州を守った。この時、按竺邇に命じてこれを取りに行かせ、斌を会州に包囲した。食糧が尽きて逃げ出そうとしたところを城門で撃破した。兵が城内に入り巷戦し、死傷者は甚だ多かった。斌は手に剣を取って妻子を一室に集めさせ、焼き殺し、やがて自ら火中に投身した。ある女奴が火中より児を抱いて出て、泣きながら人に授けて言った、「将軍は忠を尽くした。どうして後嗣を絶やすに忍びようか。これがその児である。哀れんで収容してほしい」。言い終わると、再び火中に赴いて死んだ。按竺邇はこれを聞いて哀れに思い、その孤児を保護するよう命じた。遂に四州を平定した。金の将汪世顯が鞏州を守り、皇子闊端がこれを包囲したが、陥せなかった。按竺邇等を遣わしてこれを招くと、世顯は衆を率いて来降した。皇兄はその才勇を嘉し、賞賜は甚だ厚く、抜都の名を賜い、征行大元帥に任じた。
丙申、大軍が蜀を伐つに当たり、皇子は大散関より出撃し、兵を分けて宗王穆直等に命じて陰平郡より出撃させ、成都で会合することを期した。按竺邇は砲手兵を率いて先鋒となり、宕昌を破り、階州を破壊した。文州を攻めると、守将劉禄が数ヶ月にわたって陥さなかった。諜報により城中に井戸がないことを知ると、その汲道を奪い、勇士を率いて梯子で城に先登し、城壁を守る者数十人を殺し、遂にその城を陥して、禄はこれに死んだ。これにより吐蕃の酋長勘陁孟迦等十族を招き寄せ、皆に銀符を賜った。龍州を平定した。遂に大散関の軍と合流し、進んで成都を陥れた。師が帰還すると、成都は再び叛いた。
丁酉、按竺邇は宗王に言った、「隴の州県は平定されたばかりで、人心はなお二心あり、西漢陽は隴・蜀の要衝に当たる。宋及び吐蕃は侵入を利としている。良将を得てこれを鎮守させるべきである」。宗王は言った、「反側の者を安んじ、寇賊を制するのは、これ上策である。しかし汝に代える者はいない」。そこで蒙古の千戸五人を分けて、その麾下に隷属させて赴かせた。按竺邇は侯和尚に命じて南の沔州石門を守備させ、朮魯に西の階州両水を守備させ、斥候を厳重にし、巡邏を厳しくしたので、西南の諸州は敢えてこれを犯さなかった。
戊戌、元帥塔海に従って諸翼の兵を率いて蜀を伐ち、隆慶を陥れた。己亥、重慶を攻めた。庚子、万州を攻囲した。宋人が数百艘の舟師を率いて流れを遡って迎撃した。按竺邇は流れに沿って精兵を率い、巨筏に乗り、革舟をその間に浮かべて、弓弩を両側から射かけ、宋人は敵うことができず、夔門においてこれを破った。辛丑、西川を伐ち、二十余城を破った。成都の守将田顯が北門を開いて師を迎え入れた。宋の制置使陳隆之は出奔したが、追撃してこれを捕らえ、漢州まで縛って行き、守将王夔を降伏させるよう誘わせた。夔は降伏せず、進軍してこれを攻めた。夔は夜に火牛を駆り、包囲を突破して出奔したため、遂に隆之を斬った。壬寅、大軍と合流して遂寧・瀘・叙等の州を破った。癸卯、資州を破った。庚戌、按竺邇は涇・邠の二州を安んじ集めた。宋の制置使余玠が興元を攻め、文州の降将王徳新が隙に乗じて階州より叛き、扈・牛の二鎮将を捕らえ、千余の衆を率いて江油に走った。憲宗は按竺邇を召し還して旧鎮に帰らせた。按竺邇は将を遣わして直ちに江油を攻め、扈・牛を奪い返した。
子は十人あり、徹理と国宝が最も著名である。徹理は職を襲い元帥となった。丁巳の年、父に従って瀘州を攻め、宋の将劉整を降した。宋の将姚徳が雲頂山に壁を築いて守った。戊午の年、大軍これを囲む。徹理は部兵を率いて水門より先に登り、その壁を破り、姚徳は降った。後に病により廃し、卒す。
国宝は一名を黒梓といい、若くして剣を撃ち書を学び、倜儻として義を好み、謀略あり。父が元帥となり、軍務はことごとく彼に委ねたので、赴くところ多く勝利を得た。重慶攻めに従い、宋の都統張実を降し、併せて合州を掠めて帰還した。
初め、按竺邇が老を告げるに当たり、制命して徹理に征行元帥を襲わしむ。徹理は病を以て事を視ず。国宝乃ち諸弟に謂いて曰く「昔我が先人西陲に兵を耀かし、大功既に集まる。関隴は寧らかなりと雖も、西戎未だ靖まらず。此れ吾が輩の功を立つる秋なり」と。乃ち謝鼎を遣わし、弟国能とともに金帛を持って吐蕃を説き降らす。酋長勘陁孟迦、国宝に従って入覲す。国宝奏して曰く「文州は山川険阨にして、庸蜀を控え、吐蕃を拒ぐ。宜しく文州に城を築き、兵を屯してこれを鎮むべし」と。これに従い、国宝に三品の印を授け、蒙古漢軍元帥と為し、文州吐蕃万戸府達魯花赤を兼ね、勘陁孟迦とともに皆金符を賜う。
子に世栄・世延あり。初め、国宝将に卒せんとするに当たり、世栄幼きを以て、弟国安に命じてその職を襲わしむ。国安既に蒙古漢軍元帥を襲い、文州吐蕃万戸府達魯花赤を兼ぬ。後にその兄国宝の安辺の功を以て、金虎符を賜い、昭勇大将軍に進む。十五年、叛王吐魯を六盤に討ち、これを獲る。職を解きて世栄に授けんことを請う。帝曰く「人は争うに汝は譲る、以て薄俗を敦くすべし」と。その六盤の功を録し、昭毅大将軍・招討使に進む。世栄は、懐遠大将軍・蒙古漢軍元帥を襲ぎ、文州吐蕃万戸府達魯花赤を兼ぬ。後に功を以て安遠大将軍・吐蕃宣慰使議事都元帥に進み、三珠虎符を佩く。世延は、中書平章政事。
畏答児
畏答児は忙兀の人なり。その先剌真八都児、二子あり、次を忙兀児と名づけ、始めて別れて忙兀氏と為る。畏答児はその六世の孫なり。兄畏翼とともに太祖に事う。時に大疇強盛なり。畏翼その属を率いてこれに帰す。畏答児力を尽くしてこれを止むるも聴かず。これを追うも、また肯て還らず。畏答児乃ち還りて太祖に事う。太祖曰く「汝の兄既に去りぬ、汝独り此に留まるは何を為さんとするか」と。畏答児自ら明かすこと無く、矢を取って折りて誓いて曰く「主に終わり事えざる者は、此の矢の如くあらん」と。太祖その誠を察し、更めて名を薛禅と為し、按達と約す。薛禅とは、聰明の謂いなり。按達とは、交わりを定めて易えざるの謂いなり。
太祖、克烈王罕と哈剌真に対陣す。師少なくして敵せず。帝は兀魯一軍に命じて先発せしむ。その将朮徹台、鞭を横たえて馬の鬣を撫で応ぜず。畏答児奮然として曰く「我は猶お鑿の如し、諸君は斧なり。鑿は斧に非ざれば入らず。我は請う先に入らん、諸軍これに継げ。万一還らずとも、三黄頭児あり、唯上これを念え」と。遂に先に出でて陣を陷し、これを大いに敗る。晡時に至るまで、猶お追逐して已まず。勅使これを止めしむるに及びて、乃ち還る。脳中に流矢を受け、創甚だし。帝親しく善薬を傅し、帳中に留めて処す。月余にして卒す。帝深くこれを惜しむ。
王罕の滅びるに及び、帝はその将只里吉実が畏答児に抗したるを以て、乃ち只里吉(実)の民百戸を分かちてその子に隷属せしめ、且つ世々歳賜絶えざらしむ。仍って忙兀人民の散亡する者を収め完うすることを令す。太宗その功を思い、復た北方の万戸を以てその子忙哥を封じて郡王と為す。歳丙申、忽都忽大いに漢民を料し、城邑を分かちて功臣を封ずるに、忙哥に泰安州民万戸を授く。帝その少なきを訝る。忽都忽対えて曰く「臣今差次するに、惟だ旧数の多寡を視る。忙哥の旧は纔か八百戸なり」と。帝曰く「然らず。畏答児の封戸は少なきと雖も、戦功は則ち多し。その増封して二万戸と為し、十功臣とともに諸侯と為る者とせよ。封戸は皆その籍を異にすべし」と。兀魯争いて曰く「忙哥の旧兵は臣が半ばに及ばず。今封すること顧みて臣より多し」と。帝曰く「汝、而が先に鞭を横たえて馬の鬣を撫でし時を忘れたるか」と。兀魯遂に敢えて言わず。
忙哥卒す。孫の只里瓦䚟・乞答䚟、曾孫の忽都忽・兀乃忽里・哈赤、俱に封を襲ぎて郡王と為る。
博羅歓伯都
博羅歓は、畏答児の幼子蘸木曷の孫、瑣魯火都の子なり。時に諸侯王及び十功臣各々断事官あり。博羅歓年十六、本部の断事官と為る。世祖に従って阿里不哥を討ち、数え功あり。帝喜びて馬四十匹を賜い、金幣はこれに称す。
宋を討伐することとなり、金吾衛上將軍・中書右丞を授けられた。詔して大軍を二つに分け、右軍は伯顏・阿朮の節度を受け、左軍は博羅歡の節度を受けることとした。まもなく淮東都元帥を兼ね、山東経略司を廃止し、その軍をすべて博羅歡に隷属させた。そこで下邳に駐屯し、将佐を召して謀議して言うには、「清河城は小さいが堅固で、昭信・淮安・泗州と犄角の勢いをなしており、急には容易に陥とせぬ。海州・東海・石秋は遠く数百里の外にあり、必ず厳重に備えていないであろう。我らは大軍を留めて疑兵とし、軽騎で倍道を以て襲撃すれば、その守将を生け捕りにできよう」と。軍が到着すると、三城は果たして皆陥ち、清河もまた降った。宋の主君が国を挙げて内附したが、淮東の諸城はなおも宋のために守っていた。詔して博羅歡に進軍させ、淮安南堡を抜き、白馬湖及び宝応で戦い、高郵を掠め、西小河から漕河に入り、湾頭を占拠して通州・泰州の援兵を断ち、ついに揚州を陥とし、淮東を平定した。桂陽・徳慶の二万一千戸を加封された。
十四年、応昌において叛臣只里幹台を討ち、これを平定した。玉帯と文綺を賜り、博羅とともに枢密院事を署理し、中書右丞に任じられ、北京に行省した。まもなく召還された。
当時江南は新たに帰附したばかりで、なお多くは反覆する者がおり、詔して民で大軍に従って進討できる者を募り、自ら一軍をなすことを許し、その長官の節度に従うが、他の軍に使役されず、制命と符節はすべて正規軍と同じとする、とあった。ちょうど博羅歡が病臥していたので、枢密の董文忠に附して上奏して言うには、「今や疆土は次第に広大となり、勝兵は百万、指揮すれば集まります。どうしてこの籍のない徒輩を借りる必要がありましょうか。彼らが一度南の地を踏めば、人の貨財を掠め、人の妻子を捕虜とし、仇怨はますます増長し、叛く者はますます多くなるでしょう」と。奏上すると、輿に乗せて病を抱えたまま召され、座を賜り、語り合うと、帝は大いに悟り、その奏を許可した。そして常徳から唐兀の一軍がその境内を残暴にしたと訴え出たので、勅して斬って示し、凡そ募った軍はすべて罷免した。
十六年、哈剌斯・博羅思・幹羅罕の諸部が互いに統属しないので、博羅歡にこれを監させた。十八年、中書右丞として甘粛に行省した。二十年、御史大夫に任じられ、行御史台事を行い、病により帰郷した。
諸王乃顔が叛くと、帝は親征しようとした。博羅歡は諫めて言うには、「昔、太祖が東方の諸侯を分封された時、その地と戸数は臣が皆知っております。二十を率とすれば、乃顔はその九を得、忙兀・兀魯・扎剌児・弘吉剌・亦其烈思の五諸侯はその十一を得ております。ただ五諸侯の兵を徴発すれば、自ずからこれに当たるに足ります。どうして上って乗輿を煩わす必要がありましょうか。臣の病はなお癒えつつあります。どうか東征の任に当たらせてください」と。帝は鎧甲・弓矢・鞍勒を賜い、五諸侯の兵を督して乃顔と戦わせ、これを破った。その党の塔不帯が兵を率いて来て抵抗したが、ちょうど長雨が続き、軍は食糧に乏しく、諸将は退却しようとした。博羅歡は言うには、「今両陣相対している。どうして先に動くことができようか」と。まもなく塔不帯が兵を引いて退いた。博羅歡はその師を率いてこれを乗じ、二日にわたって転戦し、身に三つの矢を受けたが、大いにこれを破り、その駙馬忽倫を斬った。ちょうど太師月魯那演の大軍が来て合流し、ついに乃顔を平定し、塔不帯を生け捕りにした。その後その党の哈丹が再び叛くと、詔して諸侯王乃馬帯とともにこれを討たせた。哈丹の遊騎が突然到来し、博羅歡は三騎の従騎とともに返り走り、絶澗に至った。およそ二丈ばかりで、追騎がまさに追いつかんとした時、博羅歡はその馬を策して一躍して渡り過ぎた。三騎の従騎は皆没し、人々は神の助けがあったのだと言った。哈丹が死ぬと、その子の老的を陣中で斬った。往復すること凡そ四年。凱旋し、哈丹の二妃を捕虜として献上すると、勅して一人を乃馬帯に賜い、一人を博羅歡に賜った。その金銀器を延春閣に陳列し、上は諸侯王将帥を召して分け賜わった。博羅歡は辞退した。帝は言うには、「卿は譲ることができると言えよう」と。そこで金銀器五百両を賜ってこれを表彰した。
河南宣慰が行中書省に改められると、平章政事に任じられた。詔して馬を徴発するに勲臣の家には及ぼさない、とあった。博羅歡は言うには、「我が馬は群をなしている。治める所の地方は三千里である。先に馬を出さなければ、どうして吏民の先導となれようか」と。そこで先に良馬十八頭を納めた。汴南の諸州は広漠たる大水となり、博羅歡は自ら決口を行き、役所に督して修繕完成させた。
三十一年、成宗が即位すると、陝西行中書省平章政事に転じた。赴任せず、河南に留まって鎮守した。入朝し、泰安州からの収入である五戸絲四千斤を、内庫の繒帛と交換し、忙兀の一軍に分け与えることを請うた。帝は勅して駅車で軍中に送らせ、銀百五十両を賜った。陛辞の際、帝はこれを諭して言うには、「卿は今や白髭である。世祖の徳言を、実に多く聞いているであろう。慎んで護るべきである」と。そこで世祖の佩用した弓矢と鞶帯を賜った。しばらくして、近臣が奏上して言うには、「宋を伐った時、右軍は伯顔・阿朮に分属し、左軍は博羅歡に分属しました。今、伯顔・阿朮は皆分地を受けておりますが、博羅歡はまだ及んでおりません。ただ帝の裁断を仰ぎます」と。帝は言うには、「どうして長く言わなかったのか。彼が自ら請うことを恥じたのか」と。そこで高郵の五百戸を加封した。
博羅歡は勇気があり智略に富み、戦いには常に自ら先頭に立ち、獲た財物はすべて将士に与えたので、その死力を得た。平素は常に国事を憂い、変事を聞けば即ち行くことを請い、その事が終わるまで止まなかった。その忠義は天性によるものであった。累贈して推忠宣力賛運功臣・太師・開府儀同三司・上柱国とし、泰安王を加封し、諡して武穆といった。
子に渾都・伯都・埜先帖木児・博羅がいる。渾都は山東宣慰使、遥授で中書平章政事。埜先帖木児は河南江北等処行中書省左丞相、官のまま開府儀同三司・翰林学士承旨で卒した。博羅は陝西等処行中書省平章政事。埜先帖木児の子に、尼摩星吉(郡王を襲封)、亦思剌瓦性吉(中政使)がいる。
英宗が即位すると、再び江南行臺御史大夫に任ぜられた。朝廷に参内し、病を理由に固辞した。帝は長く慰諭し、平章の俸禄を与えて家で養生するよう命じ、さらに十万緡の紙幣を賜った。服用する薬に空青が必要と聞き、詔を下して江南に使者を遣わし探し求めた。伯都は辞謝して言った、「臣はかつて重責を担い、その任に堪えぬことを深く恐れました。今は病で廃人同然です。ましてや厚禄を貪り、重い賜物を受けるなどできましょうか」と。併せて給付された平章政事の俸禄も役所に返還した。
抄思〔別的因〕
抄思は、乃蠻部の人である。また答祿とも号した。その先祖の泰陽は、乃蠻部の首長であった。祖父は曲書律。父は敞溫。太祖が兵を挙げて不順を討つと、曲書律はその部落を失い、敞溫は契丹に奔ってそこで死んだ。抄思はまだ幼く、母と共に艱難辛苦の道を歩き、太祖に帰順し、中宮(皇后)の旨を奉じて宮中に仕えた。
抄思は二十五歳で、早くも征伐に従い、代州・石州を破り、矢石を避けず、常に先頭に立った。雁門の戦いではしばしば勝利した。太宗が睿宗に金を平定せよと命じると、抄思は鋭鋒を執って従い、金兵と戦い、向かうところ敵なしであった。壬辰年、軍が鈞州に駐屯した時、金兵は三峯山に陣を構えた。抄思はその営壁が堅固でないと察し、夜に精騎を率いて襲撃した。金兵は驚き騒ぎ、そこで乗じて撃ち、三峯山を陥落させた。睿宗は抄思の功績を朝廷に報告し、湯陰県の黄招撫ら百十七戸を彼に賜る旨があった。抄思は力強く辞退して受けなかった。再び男女五十人、邸宅一区、黄金の鞶帯、酒壺、盃盂を各一つ賜った。辞退は許されず、ついにこれを受けた。制により萬戸に任じられ、内侍の胡都虎・留乞と共に西京等の地の軍人を徴発して出征及び随州の鎮守に当たらせた。民戸を招集し、千人ごとに官一人を置いて統率させた。丁酉年秋七月、旨を奉じて軍を調達し、西京・大名・濱・棣・懷・孟・真定・河間・邢・洺・磁・威・新衞・保等の府州の軍四千六十余人を得て、これを統率した。後に潁に移鎮したが、病のため大名に帰った。戊申年正月に卒し、年四十四。子に別的因がいる。
別的因がまだ襁褓にある時、父の抄思はちょうど兵を率いて金を平定しており、彼は祖母の康里氏と共に三皇后の宮廷にいた。戊申年、父の抄思が卒すると、母の張氏が別的因を迎えに来て帰した。祖母の康里氏が卒した。張氏はかつてゆったりと彼を訓戒して言った、「人には三つの成人がある。畏れを知って成人し、羞恥を知って成人し、艱難を知って成人する。そうでなければ禽獣に過ぎない」と。別的因は教えを受けてひたすら謹んだ。
甲寅年、世祖が宗王をして黒水を鎮守させた時、察罕那顏に諭旨があり、別的因に抄思の職を継がせ、副萬戸として随・潁等の地を鎮守させよと命じた。丙辰年冬十二月、世祖は再び征鎮の軍士は全て別的因等の号令に従うよう諭した。別的因は身長七尺余、肩幅が広く力強く、刀舞をよくし、特に騎射に精通し、士卒は皆畏服した。
翌年の庚申年、世祖が即位すると、委任は特に専らであった。癸亥年正月、行在所に召し出された。冬十一月、行在所で世祖に謁見し、世祖は金符を賜い、別的因を寿州・潁州の二州屯田府の達魯花赤とした。当時、二州の地は多く荒廃しており、虎が民の妻を食う事件があり、その夫が訴え出た。別的因はしばらく黙っていたが、言った、「これは治めやすい」と。そこで檻を設け機巧を仕掛け、檻の中に子羊を縛って虎を誘った。夜半、虎は果たして来て、機が作動し、虎は檻の中に落ちた。そこでこれを捕らえて射ると、虎は遂に死んだ。これより虎の害はたちまち止んだ。
十六年、宣威将軍・常徳路副達魯花赤に進み、時に同知の李明秀が乱を起こした。別的因は単騎で赴きこれを招撫したいと請い、直ちに賊の砦に到った。賊は彼を軽んじ、備えをしなかった。別的因は朝廷の恩徳を説き、自新の道を取るよう勧めた。明秀はもとより畏服していたので、遂に彼と共に来た。別的因は朝廷に報告し、明秀は誅せられ、賊は平定された。
子の不花は、嶺南広西道粛政廉訪司事を僉となし、文圭は隠徳があり、秘書監著作郎を追贈され、延寿は湯陰県達魯花赤となった。孫の守恭、曾孫の与権は、皆書を読み進士科に及第し、人々は多くこれを称えた。