巻121

列傳第八:速不台、按竺邇、畏答兒、博羅歡、抄思

速不台〔兀良合台〕

原文速不台〔兀良合台〕

速不台は、蒙古の兀良合部の人である。その先祖は斡難河のほとりで狩りをし、敦必乃皇帝に遇い、そこで交わりを結んだ。太祖の時に至るまで、既に五代を経ていた。捏里必という者がいて、孛忽都を生んだ。人々は彼を折里麻と呼んだ。折里麻とは、漢語で謀略ある人という意味である。三世の孫の合赤溫が、哈班を生んだ。哈班には二人の子があり、長男は忽魯渾、次男は速不台で、ともに勇猛で騎射に長けていた。太祖が班朱尼河にいた時、哈班は群れをなす羊を追って進献しようとしたが、盗賊に遭い、捕らえられた。忽魯渾と速不台が続いて到着し、槍で彼らを刺すと、人馬ともに倒れ、残党は逃げ去った。こうして父の難を免れ、羊は行在所に届いた。忽魯渾は百戸として帝に従い、乃蠻部の主と長城の南で戦い、忽魯渾が射てこれを退けると、その兵衆は闊赤檀山へ奔って潰走した。

原文速不台,蒙古兀良合人。其先世獵於斡難河上,遇敦必乃皇帝,因相結納,至太祖時,已五世矣。捏里必者生孛忽都,眾目為折里麻。折里麻者,漢言有謀略人也。三世孫合赤溫,生哈班。哈班二子,長忽魯渾,次速不台,俱驍勇善騎射。太祖在班朱尼河時,哈班嘗驅羣羊以進,遇盜,被執。忽魯渾與速不台繼至,以槍刺之,人馬皆倒,餘黨逸去,遂免父難,羊得達於行在所。忽魯渾以百戶從帝與乃蠻部主戰於長城之南,忽魯渾射却之,其眾奔闊赤檀山而潰。

速不台は、質子として帝に仕え、百戸となった。壬申の年、金の桓州を攻め、真っ先に登城し、その城を陥落させた。帝は命じて金帛一車を賜った。滅里吉部は強盛で従わなかった。丙子の年、帝は諸将を禿兀剌河の黒林に集め、「誰が我に代わって滅里吉を征伐できるか」と問うた。速不台が行くことを請うと、帝はその志を壮として許した。そこで裨将の阿里出に百人を率いて先行させ、その虚実を探らせた。速不台は続いて進軍した。速不台は阿里出に戒めて言った、「汝は宿営する時は必ず乳児の道具を載せて行き、去る時にはそれを遺せ。そうすれば、家族を連れて逃げる者のようであろう」。滅里吉はこれを見て、果たして逃げる者と思い、よって備えをしなかった。己卯の年、大軍は蟾河に至り、滅里吉と遭遇し、一戦してその二将を捕らえ、その兵衆をことごとく降伏させた。その部主の霍都は欽察に奔った。速不台はこれを追い、欽察と玉峪で戦い、これを破った。

原文速不台以質子事帝,為百戶。歲壬申,攻金桓州,先登,拔其城。帝命賜金帛一車。滅里吉部強盛不附。丙子,帝會諸將於禿兀剌河之黑林,問:「誰能為我征滅里吉者?」速不台請行,帝壯而許之。乃選裨將阿里出領百人先行,覘其虛實。速不台繼進。速不台戒阿里出曰:「汝止宿必載嬰兒具以行,去則遺之,使若挈家而逃者。」滅里吉見之,果以為逃者,遂不為備。己卯,大軍至蟾河,與滅里吉遇,一戰而獲其二將,盡降其眾。其部主霍都奔欽察,速不台追之,與欽察戰于玉峪,敗之。

壬午の年、帝は回回国を征し、その主の滅里は国を棄てて逃げ去った。速不台と只別に命じてこれを追わせ、灰里河で追いついた。只別は戦って利あらず、速不台は軍を河東に駐め、その兵士たちに三つの松明を焚かせて軍勢を誇示するよう戒めた。その王は夜に遁走した。再び命じて兵一万人を統率し、不罕川の必里罕城からこれを追わせた。凡そ経過した所はみな水のない土地であった。川を渡り終えると、まず千人を遊騎として出し、続いて大軍を昼夜兼行で進ませた。追いついた時、滅里は海に逃げ込み、一ヶ月も経たないうちに病死した。捨て去った珍宝をことごとく獲て献上した。帝は言った、「速不台は干戈に枕し血戦し、我が家のために労を尽くした。朕は甚だこれを嘉する」。大珠と銀の瓶を賜った。

原文壬午,帝征回回國,其主滅里委國而去。命速不台與只別追之,及于灰里河,只別戰不利,速不台駐軍河東,戒其眾人爇三炬以張軍勢,其王夜遁。復命統兵萬人由不罕川必里罕城追之,凡所經歷皆無水之地。既度川,先發千人為游騎,繼以大軍晝夜兼行。比至,滅里逃入海,不月餘,病死,盡獲其所棄珍寶以獻。帝曰:「速不台枕干血戰,為我家宣勞,朕甚嘉之。」賜以大珠、銀罌。

癸未の年、速不台は上奏し、欽察を討つことを請うた。許された。そこで兵を率いて寬定吉思海を回り、転々として太和嶺に至り、石を穿ち道を開き、その不意を衝いた。到着すると、その酋長の玉里吉と塔塔哈兒が不租河に集まっているところに遭遇し、兵を放って奮撃すると、その兵衆は潰走した。矢が玉里吉の子に及び、彼は林間に逃げた。その奴隷が来て告げ、彼を捕らえた。残りの兵衆はことごとく降伏し、よってその境域を収めた。また阿里吉河に至り、斡羅思部の大密赤思老と小密赤思老に遭遇し、一戦してこれを降し、阿速部を攻略して還った。欽察の奴隷でその主君を告げ出た者がいたが、速不台はこれを民として放免した。還ってこれを報告すると、帝は言った、「奴隷がその主に忠でない者が、どうして他人に忠であろうか」。よってこれを誅戮した。また奏上して、滅里吉、乃蠻、怯烈、杭斤、欽察の諸部の千戸を合わせて一軍を立てることを請うた。従った。也迷里霍只部を攻略し、馬一万匹を獲て献上した。

原文癸未,速不台上奏,請討欽察。許之。遂引兵繞寬定吉思海,展轉至太和嶺,鑿石開道,出其不意。至則遇其酋長玉里吉及塔塔哈兒方聚於不租河,縱兵奮擊,其眾潰走。矢及玉里吉之子,逃於林間,其奴來告而執之,餘眾悉降,遂收其境。又至阿里吉河,與斡羅思部大、小密赤思老遇,一戰降之,略阿速部而還。欽察之奴來告其主者,速不台縱為民,還,以聞。帝曰:「奴不忠其主,肯忠他人乎?」遂戮之。又奏以滅里吉、乃蠻、怯烈、杭斤、欽察諸部千戶,通立一軍,從之。略也迷里霍只部,獲馬萬匹以獻。

帝は河西を征伐しようとしたが、速不台が連年外にいたので、父母が彼を思うのを恐れ、帰省するよう遣わした。速不台は奏上し、西征に従うことを願った。帝は命じて大磧を渡って行かせた。丙戌の年、撒里畏吾特勒、赤閔などの部、および徳順、鎮戎、蘭、会、洮、河の諸州を攻め落とし、牝馬五千匹を得て、ことごとく朝廷に献上した。丁亥の年、太祖の崩御を聞き、よって還った。

原文帝欲征河西,以速不台比年在外,恐父母思之,遣令歸省。速不台奏,願從西征。帝命度大磧以往。丙戌,攻下撒里畏吾特(勒)〔勤〕、赤閔等部,及德順、鎮戎、蘭、會、洮、河諸州,得牝馬五千匹,悉獻於朝。丁亥,聞太祖崩,乃還。

己丑の年、太宗が即位し、禿滅干公主を以て彼に妻せしめた。潼関攻めに従ったが、軍は利あらず、帝はこれを責めた。睿宗が当時藩邸におり、兵家の勝負は常ならずと述べ、功を立てて自ら効力を尽くすよう命じることを請うた。よって命じて兵を率いて睿宗に従い河南を経理させ、道は牛頭関より出でた。金の将の合達が歩騎数十万を率いて戦いを待つところに遭遇した。睿宗が方略を問うと、速不台は言った、「城に住む者は労苦に耐えず、しばしば挑発して疲れさせれば、戦って勝つことができるでしょう」。軍は三峯山に集結した。金兵はこれを数重に囲んだ。ちょうど風雪が大いに起こり、その士卒は凍え倒れ、我が軍はこれに乗じ、殺戮することほぼ尽きた。これより金軍は再び振るわなくなった。壬辰の夏、睿宗は還って官山に駐屯し、速不台を留めて諸道の兵を統率させ汴を包囲させた。癸巳の年、金主は河を渡って北に逃走した。黄龍岡で追撃してこれを破り、首級一万余を斬った。金主は再び南に走って帰徳府に至り、間もなく、また蔡州に走った。汴は降伏し、その后妃と宝器を俘獲して献上し、進んで蔡州を包囲した。甲午の年、蔡州が陥落し、金主は自ら焼死した。当時、汴梁は兵災を受けること久しく、凶作で、人肉を食うありさまであった。速不台は命を下してその民を北に渡らせ、食を求めるに任せた。

原文己丑,太宗即位,以禿滅干公主妻之。從攻潼關,軍失利,帝責之。睿宗時在藩邸,言兵家勝負不常,請令立功自效。遂命引兵從睿宗經理河南,道出牛頭關,遇金將合達帥步騎數十萬待戰。睿宗問以方略,速不台曰:「城居之人不耐勞苦,數挑以勞之,戰乃可勝也。」師集三峯山,金兵圍之數匝。會風雪大作,其士卒僵仆,師乘之,殺戮殆盡。自是金軍不能復振。壬辰夏,睿宗還駐官山,留速不台統諸道兵圍汴。癸巳,金主渡河北走,追敗之於黃龍岡,斬首萬餘級。金主復南走歸德府,未幾,復走蔡州。汴降,俘其后妃及寶器以獻,進圍蔡州。甲午,蔡州破,金主自焚死。時汴梁受兵日久,歲饑,人相食,速不台下令縱其民北渡以就食。

乙未の年、太宗は諸王の抜都に命じて八赤蠻を西征させ、かつ言った、「八赤蠻に胆勇があると聞く。速不台にも胆勇がある。これをもって勝つことができるであろう」。よって先鋒と命じ、八赤蠻と戦わせ、続いてまた大軍を統率するよう命じた。よって八赤蠻の妻子を寬田吉思海で捕虜にした。八赤蠻は速不台が来ると聞き、大いに懼れ、海中に逃げ込んだ。

原文乙未,太宗命諸王拔都西征八赤蠻,且曰:「聞八赤蠻有膽勇,速不台亦有膽勇,可以勝之。」遂命為先鋒,與八赤蠻戰,繼又令統大軍,遂虜八赤蠻妻子於寬田吉思海。八赤蠻聞速不台至,大懼,逃入海中。

辛丑の年、太宗は諸王の抜都らに命じて兀魯思部の主の也烈班を討たせたが、彼に敗れ、禿里思哥城を包囲したが、陥せなかった。抜都は奏上して速不台を遣わして督戦させることを請うた。速不台は哈必赤軍の怯憐口など五十人を選んでこれに赴かせ、一戦して也烈班を捕らえた。進んで禿里思哥城を攻め、三日でこれを陥落させ、兀魯思の管轄する部衆をことごとく取って還った。哈咂里山を経て、馬札兒部の主の怯憐を攻めた。速不台は先鋒となり、諸王の抜都、吁里兀、昔班、哈丹と五道に分かれて進んだ。兵衆は言った、「怯憐の軍勢は盛んで、軽々しく進むべきではない」。速不台は奇計を出し、その軍を漷寧河におびき寄せた。諸王の軍は上流にあり、水は浅く、馬で渡ることができ、中ほどにまた橋があった。下流は水深かった。速不台は筏を組んで密かに渡り、敵の背後に出ようとした。渡らないうちに、諸王が先に河を渡って戦った。抜都の軍は橋を争い、かえって敵の勢いに乗じられ、甲士三十人が戦死し、またその麾下の将の八哈禿を失った。渡り終えると、諸王は敵がまだ多いとして、速不台を引き返させようとし、ゆっくりと図ろうとした。速不台は言った、「王は帰りたければお帰りなさい。私は禿納河の馬茶城に至らなければ、還りません」。馳せて馬茶城に至ると、諸王もまた至り、よってこれを攻め落として還った。諸王が来て会した時、抜都は言った、「漷寧河の戦いの時、速不台の救援が遅く、我が八哈禿を殺された」。速不台は言った、「諸王はただ上流の水が浅く、かつ橋があることを知り、よって渡って戦っただけで、私が下流で筏を組み終えなかったことを知らない。今ただ私が遅かったと言うが、その故を考えるべきです」。ここにおいて抜都も悟った。後の大会で、馬乳と葡萄酒を飲みながら、怯憐を征した時のことを語り、言った、「当時獲たものは皆、速不台の功績である」。壬寅の年、太宗が崩御した。癸卯の年、諸王が大会を開き、抜都は行かないつもりであった。速不台は言った、「大王は族属において兄です。どうして行かずにいられましょうか」。甲辰の年、よって也只里河で会した。

原文辛丑,太宗命諸王拔都等討兀魯思部主也烈班,為其所敗,圍禿里思哥城,不克。拔都奏遣速不台督戰,速不台選哈必赤軍怯憐口等五十人赴之,一戰獲也烈班。進攻禿里思哥城,三日克之,盡取兀魯思所部而還。經哈咂里山,攻馬札兒部主怯憐。速不台為先鋒,與諸王拔都、吁里兀、昔班、哈丹五道分進。眾曰:「怯憐軍勢盛,未可輕進。」速不台出奇計,誘其軍至漷寧河。諸王軍於上流,水淺,馬可涉,中復有橋。下流水深,速不台欲結栰潛渡,繞出敵後。未渡,諸王先涉河與戰。拔都軍爭橋,反為所乘,沒甲士三十人,并亡其麾下將八哈禿。既渡,諸王以敵尚眾,欲要速不台還,徐圖之。速不台曰:「王欲歸自歸,我不至禿納河馬茶城,不還也。」及馳至馬茶城,諸王亦至,遂攻拔之而還。諸王來會,拔都曰:「漷寧河戰時,速不台救遲,殺我八哈禿。」速不台曰:「諸王惟知上流水淺,且有橋,遂渡而與戰,不知我於下流結栰未成,今但言我遲,當思其故。」於是拔都亦悟。後大會,飲以馬乳及蒲萄酒。言征怯憐時事,曰:「當時所獲皆速不台功也。」壬寅,太宗崩。癸卯,諸王大會,拔都欲不往。速不台曰:「大王於族屬為兄,安得不往?」甲辰,遂會於也只里河。

丙午の年、定宗が即位し、朝会を終えると、家に帰って禿剌河のほとりに住んだ。戊申の年に卒去した。享年七十三。効忠宣力佐命功臣、開府儀同三司、上柱国を贈られ、追封して河南王とし、諡して忠定といった。子に兀良合台がいる。

原文丙午,定宗即位,既朝會,還家于禿剌河上。戊申卒,年七十三。贈效忠宣力佐命功臣、開府儀同三司、上柱國,追封河南王,諡忠定。子兀良合台。

兀良合台は、初め太祖に仕えた。時に憲宗は皇孫であり、まだ幼かったので、兀良合台が功臣の家柄であることを以て、その養育を護らせた。憲宗が潜邸に在った時、遂に宿衛の職を分掌した。癸巳の年、兵を率いて定宗に従い女真国を征し、遼東において万奴を破った。続いて諸王抜都に従い欽察・兀魯思・阿速・孛烈児等の諸部を征した。丙午の年、また抜都に従い孛烈児乃・捏迷思部を討ち、これを平定した。己酉の年、定宗が崩御した。抜都は宗室の大臣と議して憲宗を立てようとしたが、事は久しく決しなかった。四月、諸王が大会し、定宗皇后が誰を立てるのが適当かと問うと、皆惶惑して敢えて答えなかった。兀良合台が対えて言うには、「この議は既に先に定まっています。再び変えることはできません。」抜都が言うには、「兀良合台の言う通りである。」議は遂に定まった。

原文兀良合台,初事太祖。時憲宗為皇孫,尚幼,以兀良合台世為功臣家,使護育之。憲宗在潛邸,遂分掌宿衞。歲(乙)〔癸〕巳,領兵從定宗征女真國,破萬奴於遼東。繼從諸王拔都征欽察、兀魯思、阿〔速〕、孛烈兒諸部。丙午,又從拔都討孛烈兒乃、捏迷思部,平之。己酉,定宗崩。拔都與宗室大臣議立憲宗,事久未決。四月,諸王大會,定宗皇后問所宜立,皆惶惑,莫敢對。兀良合台對曰:「此議已先定矣,不可復變。」拔都曰:「兀良合台言是也。」議遂定。

憲宗が即位した翌年、世祖が皇弟として兵を総べ西南夷の烏蛮・白蛮・鬼蛮等の諸国を討つに当たり、兀良合台に軍事を総督させた。その鬼蛮とは、即ち赤禿哥国である。癸丑の秋、大軍は旦当嶺より雲南の境に入った。摩些二部の酋長唆火脱因・塔里馬が来迎して降り、遂に金沙江に至った。兀良合台は兵を分けて察罕章に入った。これは白蛮であり、所在の寨柵を次々に攻め落とした。ただ阿塔剌の居る半空和寨のみは、山に依り江に枕し、堅牢で抜くことができなかった。人を遣わして偵察させると、まずその水汲みの道を絶つべきだと言った。兀良合台は精鋭を率いて砲を立ててこれを攻めた。阿塔剌が人を遣わして防戦したので、兀良合台はその子阿朮を遣わして迎撃させると、寨の兵は退走した。遂にその弟の阿叔城も共に抜いた。進軍して龍首関を取ると、世祖を輔けて大理国の城に入った。

原文憲宗即位之明年,世祖以皇弟總兵討西南夷烏蠻、白蠻、鬼蠻諸國,以兀良合台總督軍事。其鬼蠻,即赤禿哥國也。癸丑秋,大軍自旦當嶺入雲南境。摩些二部酋長唆火脫因、塔裏馬來迎降,遂至金沙江。兀良合台分兵入察罕章,蓋白蠻也,所在寨柵以次攻下之。獨阿塔剌所居半空和寨,依山枕江,牢不可拔。使人覘之,言當先絕其汲道。兀良合台率精銳立砲攻之。阿塔剌遣人來拒,兀良合台遣其子阿朮迎擊之,寨兵退走。遂并其弟阿叔城俱拔之。進師取龍首關,翊世祖入大理國城。

甲寅の秋、また兵を分けて付都の善闡を取ると、転じて合剌章の水城を攻め、これを屠った。合剌章とは、烏蛮である。前に羅部府に駐屯した時、大酋の高昇が諸部の兵を集めて防戦したので、洟可浪山の下においてこれを大破し、遂に進んで烏蛮の都たる押赤城に至った。城は滇池に臨み、三面は水であり、険阻で且つ堅固であった。驍勇を選んで砲でその北門を破壊し、火を放って攻めたが、いずれも陥落しなかった。そこで鼓鉦を大いに鳴らし、進んでは止まり、止まっては進み、敵に意図を分からせず、このようにすること七日、その疲労困憊を窺い、夜の五鼓に、その子阿朮に命じて潜かに軍を率いて躍り入らせ、乱れ斬らせると、遂に大いに潰走した。昆沢に至り、その国王段興智及びその渠帥馬合剌昔を擒らえて献上した。山谷に依って阻む残党に対しては、裨将の也里・脱伯・押真に命じてその右を掩い、合台護尉にその左を掩わせ、三日を期して包囲して内に向かわせた。包囲が完成すると、阿朮と共に善射の者二百騎を率い、三日を期して四方から進撃した。兀良合台は陣に陷り激戦し、また纖寨を攻めてこれを抜いた。乾徳哥城に至り、兀良合台は病に罹り、軍事を阿朮に委ねた。城を囲んで砲を立て、草を以て塹を埋め、諸軍がようやく集結した時、阿朮は既に配下を率いて城上で搏戦し、城は遂に陥落した。

原文甲寅秋,復分兵取附都善闡,轉攻合剌章水城,屠之。合剌章,蓋烏蠻也。前次羅部府,大酋高昇集諸部兵拒戰,大破之於洟可浪山下,遂進至烏蠻所都押赤城。城際滇池,三面皆水,既險且堅,選驍勇以砲摧其北門,縱火攻之,皆不克。乃大震鼓鉦,進而作,作而止,使不知所為,如是者七日,伺其困乏,夜五鼓,遣其子阿朮潛師躍入,亂斫之,遂大潰。至昆澤,擒其國王段(智興)〔興智〕及其渠帥馬合剌昔以獻。餘眾依阻山谷者,分命裨將也里、脫伯、押真掩其右,合台護尉掩其左,約三日捲而內向。及圍合,與阿朮引善射者二百騎,期以三日,四面進擊。兀良合台陷陣鏖戰,又攻纖寨,拔之。至乾德哥城,兀良合台病,委軍事於阿朮。環城立砲,以草填塹,眾軍始集,阿朮已率所部搏戰城上,城遂破。

乙卯の年、不花合因・阿合阿因等の城を攻めると、阿朮が先登してその三城を取った。また赤禿哥山寨を攻めると、阿朮が嶺に沿って戦い、遂にこれを抜いた。勝に乗じて魯魯厮国の塔渾城を撃破し、また忽蘭城を取った。魯魯厮国は大いに恐れ、降伏を請うた。阿伯国には兵四万がいたが、降らなかった。阿朮がこれを攻め、その城に入ると、国を挙げて降伏を請うた。また阿魯山寨を攻め、進んで阿魯城を攻め、これを克服した。そこで未だ降らぬ者を捜索捕縛し、合打台山において赤禿哥軍に遭遇すると、崖際まで追い詰めて、ことごとく殺した。出師以来ここに至るまで、凡そ二年、大理の五城八府四郡及び烏蛮・白蛮等三十七部を平定した。兵威の及ぶところ、款附しない者はなかった。

原文乙卯,攻不花合因、阿合阿因等城,阿朮先登,取其三城。又攻赤禿哥山寨,阿朮緣嶺而戰,遂拔之。乘勝擊破魯〔魯〕厮國塔渾城,又取忽蘭城。魯魯厮國大懼,請降。阿伯國有兵四萬,不降。阿朮攻之,入其城,舉國請降。復攻阿魯山寨,進攻阿魯城,克之。乃搜捕未降者,遇赤禿哥軍於合打台山,追赴臨崖,盡殺之。自出師至此,凡二年,平大理五城八府四郡,洎烏、白等蠻三十七部。兵威所加,無不款附。

丙辰の年、白蛮国・波麗国を征し、阿朮がその驍将を生け捕りにして、闕下に俘虜を献じた。詔により便宜を以て進路を取り、鉄哥帯児の兵と合流せよとの命を受け、遂に烏蒙より出で、瀘江に向かい、禿剌蛮の三城を剗平し、宋の将張都統の兵三万を退け、馬湖江においてその船二百艘を奪い、斬獲は数え切れなかった。遂に嘉定・重慶への通路を開き、合州に抵り、蜀江を渡って、鉄哥帯児と会合した。

原文丙辰,征白蠻國、波麗國,阿朮生擒其驍將,獻俘闕下。詔以便宜取道,與鐵哥帶兒兵合,遂出烏蒙,趨瀘江,剗禿剌蠻三城,却宋將張都統兵三萬,奪其船二百艘於馬湖江,斬獲不可勝計。遂通道於嘉定、重慶,抵合州,濟蜀江,與鐵哥帶兒會。

丁巳の年、雲南が平定されたので、使いを遣わして朝廷に捷報を献じ、かつ漢の故事に倣い、西南夷を悉く郡県とすることを請うた。許された。その軍に銀五千両・綵幣二万四千匹を賜り、銀印を授け、大元帥を加えられた。還って大理を鎮守し、遂に六盤山を経て臨洮府に至り、大営と合流した。一ヶ月余りして、また西征して烏蛮を討った。

原文丁巳,以雲南平,遣使獻捷於朝,且請依漢故事,以西南夷悉為郡縣,從之。賜其軍銀五千兩、綵幣二萬四千匹,授銀印,加大元帥。還鎮大理,遂經六盤山至臨洮府,與大營合。月餘,復西征烏蠻。

秋九月、使いを遣わして交趾を招降したが、返答がなかった。冬十月、進軍して国境に迫った。その国主陳日煚は江を隔てて象騎・歩卒を列ね、その勢い甚だ盛んであった。兀良合台は軍を三隊に分けて江を渡らせ、徹徹都は下流より先に渡り、大帥は中に居り、駙馬の懐都と阿朮は後ろに居た。なお徹徹都に方略を授けて言うには、「汝の軍は既に渡ったならば、彼と戦ってはならない。彼は必ず我を迎え撃つであろう。駙馬はその後を断て。汝は機を見てその船を奪え。蛮が潰走して江に至り船がなければ、必ず我が擒とすところとなろう。」軍が岸に上陸すると、即ち戦いを交えたが、徹徹都が命令に背いたため、蛮は大敗したものの、舟を操って逃げ去ることができた。兀良合台は怒って言うには、「先鋒が我が節度に背いた。軍には常刑がある。」徹徹都は恐れ、薬を飲んで死んだ。兀良合台は交趾に入り、久しく駐屯する計画を立て、軍令は厳粛で、秋毫も犯さなかった。七日を経て、日煚が内附を請うた。ここにおいて酒を設けて軍士を大いに饗した。還軍して柙赤城に至った。

原文秋九月,遣使招降交趾,不報。冬十月,進兵壓境。其國主陳日煚隔江列象騎、步卒甚盛。兀良合台分軍為三隊濟江,徹徹都從下流先濟,大(師)〔帥〕居中,駙馬懷都與阿朮在後。仍授徹徹都方略曰:「汝軍既濟,勿與之戰,彼必來逆我,駙馬隨斷其後,汝伺便奪其船。蠻若潰走,至江無船,必為我擒矣。」師既登岸,即縱與戰,徹徹都違命,蠻雖大敗,得駕舟逸去。兀良合台怒曰:「先鋒違我節度,軍有常刑!」徹徹都懼,飲藥死。兀良合台入交趾,為久駐計,軍令嚴肅,秋毫無犯。越七日,日煚請內附,於是置酒大饗軍士。還軍柙赤城。

戊午の年、兵を率いて宋の境内に入った。その地は炎瘴の地で、軍士は皆病に罹り、敵に遭遇して少し退却し、軍士四人を失った。阿朮が還り戦い、その兵卒十二人を擒らえ、その援軍がまた至ったので、阿朮は三十騎で、阿馬禿が続いて五十騎でこれを撃退した。時に兀良合台もまた病に罹り、軍を返そうとしたところ、阿朮の戦馬五十匹が夜に禿剌蛮に掠奪された。阿朮が入って兀良合台に告げて言うには、「我が馬は全て盗賊に掠め取られてしまいました。どうして行軍しましょうか。」即ち軍を分けて捜索させると、三つの寨が山頂に馬を隠していることを知った。阿朮が自ら将士を率いて崖を攀じ登り、その諸寨を破り、賊の酋長を生け捕りにし、前後して盗まれた馬千七百匹を全て得た。そこで柙赤城を屠った。

原文戊午,引兵入宋境,其地炎瘴,軍士皆病,遇敵少却,亡軍士四人。阿朮還戰,擒其卒十二人,其援復至,阿朮以三十騎,阿馬禿繼以五十騎擊走之。時兀良合台亦病,將旋師,阿朮戰馬五十匹,夜為禿剌蠻所掠,入告兀良合台曰:「吾馬盡為盜掠去,將何以行?」即分軍搜訪,知有三寨藏馬山顛。阿朮親率將士攀崖而上,破其諸寨,生擒賊酋,盡得前後所盜馬千七百匹,乃屠柙赤城。

憲宗が使いを遣わして旨を諭し、来年正月に長沙で軍を会わせることを約した。そこで四王の騎兵三千、蛮・僰一万人を率い、横山寨を破り、老蒼関を開き、宋の内地を巡行した。宋は兵六万を陳べて待ち構えた。阿朮と四王を遣わして潜かに間道よりその中堅を衝かせると、これを大破し、その兵を尽く殺した。勝に乗じて追撃し、貴州を蹴り、象州を蹂躙し、静江府に入り、辰州・沅州の二州を連破し、直ちに潭州城下に抵った。潭州は兵二十万を出して我が帰路を断った。兀良合台は阿朮と大納・玉龍帖木児に命じてその前を攻めさせ、自らは四王と共にその後を攻めて、挟撃してこれを破った。兵は敵境に入って以来、千里を転戦し、一度も敗北しなかった。大小十三戦、宋兵四十余万を殺し、その将大小三人を擒らえた。その州がまた兵を遣わして攻めてきたので、門濠まで追撃し、殆ど溺死させ尽くしたので、敢えて再び出てこなくなった。城下に壁営すること一月余り。時に世祖は既に江を渡り鄂州に駐屯し、也里蒙古に兵二千人を率いさせて来援させ、且つ労問を加えた。遂に鄂州の滸黄洲より北渡し、大軍と合流した。

原文憲宗遣使諭旨,約明年正月會軍長沙,乃率四王騎兵三千,蠻、僰萬人,破橫山寨,闢老蒼關,徇宋內地。宋陳兵六萬以俟。遣阿朮與四王潛自間道衝其中堅,大敗之,盡殺其眾。乘勝擊逐,蹴貴州,蹂象州,入靜江府,連破辰、沅二州,直抵潭州城下。潭州出兵二十萬,斷我歸路。兀良合台遣阿朮與大納、玉龍帖木兒軍其前,而自與四王軍其後,夾擊破之。兵自入敵境,轉鬭千里,未嘗敗北。大小十三戰,殺宋兵四十餘萬,擒其將大小三人。其州又遣兵來攻,追至門濠,掩溺殆盡,乃不敢復出。壁城下月餘。時世祖已渡江駐鄂州,遣也里蒙古領兵二千人來援,且加勞問。遂自鄂州之滸黃洲北渡,與大軍合。

庚申の年、世祖が即位した。夏四月、兀良合台は上都に至った。後十二年にして卒した。七十二歳。子の阿朮は別に伝がある。

原文庚申,世祖即位。夏四月,兀良合台至上都。後十二年卒,年七十二。子阿朮自有傳。

按竺邇

按竺邇は雍古氏である。その先祖は雲中の塞上に居住し、父の䵣公は金の羣牧使であった。辛未の歳、牧養していた馬を駆って来て太祖に帰順し、その官を終えた。

原文按竺邇,雍古氏。其先居雲中塞上,父䵣公為金羣牧使。歲辛未,驅所牧馬來歸太祖,終其官。

按竺邇は幼くして外祖父の朮要甲の家に養育され、訛って趙家と言われたため、趙氏を姓とした。十四歳の時、皇子察合台の部に隷属した。かつて大規模な狩猟に従い、数頭の麋を射て獲たところ、二頭の虎が突然現れたので、これを射て皆死なせた。これによって善射の名を得て、皇子は深く彼を器重し愛した。

原文按竺邇幼鞠于外祖朮要甲家,訛言為趙家,因姓趙氏。年十四,隸皇子察合台部。嘗從大獵,射獲數麋,有二虎突出,射之皆死。由是以善射名,皇子深器愛之。

甲戌、太祖が西方に征して尋思干・阿里麻里等の国を討つに当たり、功によって千戸となった。丁亥、積石州征討に従軍し、先鋒として登城し、その城を陥れた。河州を包囲し、四十級を斬首した。臨洮を破り、徳順を攻め、百余級を斬首した。鞏昌を攻め、秦州に兵を駐屯させた。

原文甲戌,太祖西征尋思干、阿里麻里等國,以功為千戶。丁亥,從征積石州,先登,拔其城。圍河州,斬首四十級。破臨洮,攻德順,斬首百餘級。攻鞏昌,駐兵秦州。

太宗が即位すると、察合台を皇兄として尊び、按竺邇を元帥とした。戊子、刪丹州を鎮守し、燉煌から駅伝を設置して玉関に至らせ、西域を通じさせた。関隴平定に従った。辛卯、鳳翔包囲に従い、按竺邇は兵を分けて西南隅を攻め、城上から礧石が乱れ落ちる中、決死の兵士を選んで先に登城し、その城を陥れ、金の将劉興哥を斬った。兵を分けて西和州を攻めると、宋の将彊俊が数万の兵を率い、堅壁清野して我が軍を疲弊させようとした。按竺邇は決死の兵士を率いて城下で罵り、挑戦した。俊は怒り、全軍を出して陣を構えた。按竺邇は偽って退却し、俊がこれを追撃したところ、奇兵をもってその城を奪い、伏兵でその帰路を遮り、数十里にわたって転戦し、数千級を斬首し、俊を生け捕りにした。残兵は仇池に退いて守ったが、進撃してこれを陥れた。平涼攻略に従い、慶陽・邠・原・寧は皆降伏した。涇州が再び叛くと、守将の郭元恕を殺害したため、衆議はこれを屠るべきとした。按竺邇は首謀者のみを誅し、軍は原州に帰還した。降伏した民が老幼を棄てて夜逃げ出した。衆は言った、「これは必ず反逆する者である。残りの者を戒めるため誅すべきである」。按竺邇は言った、「この連中は我々が彼らを北方に移住させようと恐れているだけだ」。人を遣わして諭して言った、「お前たちが逃げれば、軍法で罪に問い、父母妻子も併せて誅する。帰れば、他事なきことを保証する。来年草が青くなったら、牛と酒を備えてこの州で我が軍を迎えよ」。民は皆再び帰還した。豪民の陳苟が数千人を集めて新寨の諸洞に潜んでいた。衆議は火攻めにすべきとした。按竺邇は言った、「招諭して出てこなければ、攻撃しても遅くはない」。そこで数騎を連れて寨に至り、馬を放ち弓矢を解き、苟を呼び寄せて遠くから語りかけ、矢を折って誓いを立てた。苟は直ちに互いに呼び集まって羅拝し、更生の恩を謝し、皆降伏した。

原文太宗即位,尊察合台為皇兄,以按竺邇為元帥。戊子,鎮刪丹州,自燉煌置驛抵玉關,通西域。從定關隴。辛卯,從圍鳳翔,按竺邇分兵攻西南隅,城上礧石亂下,選死士先登,拔其城,斬金將劉興哥。分兵攻西和州,宋將彊俊領眾數萬,堅壁清野,以老我師。按竺邇率死士罵城下,挑戰。俊怒,悉眾出陣,按竺邇佯走,俊追之,因以奇兵奪其城,伏兵要其歸,轉戰數十里,斬首數千級,擒俊。餘眾退保仇池,進擊拔之。從拔平涼,慶陽、邠、原、寧皆降。涇州復叛,殺守將郭元恕,眾議屠之。按竺邇但誅首惡,師還原州,降民棄老幼,夜亡走。眾曰:「此必反也,宜誅之以警其餘。」按竺邇曰:「此輩懼吾驅之北徙耳。」遣人諭之曰:「汝等若走,以軍法治罪,父母妻子併誅矣。汝歸,保無他。明年草青,具牛酒迎師於此州。」民皆復歸。豪民陳苟集數千人潛新寨諸洞,眾議以火攻之。按竺邇曰:「招諭不出,攻之未晚。」遂偕數騎抵寨,縱馬解弓矢,召苟遙語,折矢與為誓。苟即相呼羅拜,謝更生之恩,皆降。

金人が潼関を守り、これを攻めて扇車回で戦ったが、陥せなかった。睿宗が兵を分けて山南より金の境内に入り、按竺邇は先鋒として散関に向かった。宋人は既に桟道を焼き絶っていたため、再び両当県より魚関に出て、沔州に軍を進めた。宋の制置使桂如淵が興元を守っていた。按竺邇は如淵に仮道を請うて言った、「宋は金を仇とすること久しい。どうして我が兵鋒に従い、一挙に国恥を洗わないのか。今、南鄭を仮道し、金・洋を経て唐・鄧に至り、大軍と合流して金を滅ぼそうとしている。これはただ我が利のみならず、宋の利でもある」。如淵は我が軍が国境を圧する勢いで、徒に帰還しないと判断し、遂に人を遣わして我が師を武休関より東に導いて鄧州に至らせ、西は小関を破った。金人は大いに驚き、我が軍が天より降りたと言った。その平章完顔合達・枢密使移剌蒲阿が十七都尉を率い、兵数十万で鄧で相拒んだ。我が師はこれと戦わず、直ちに鈞州に向かい、親王按赤台等の兵と合流し、三峯山下に陣を布いた。ちょうど大雪が降り、金兵は陣列を成した。按竺邇は先に配下の精兵を率いて前で迎撃し、諸軍がこれに乗じ、金師は敗北した。癸巳、金主は蔡に奔った。十二月、蔡包囲に従った。甲午、金は滅亡した。

原文金人守潼關,攻之,戰於扇車回,不克。睿宗分兵由山南入金境,按竺邇為先鋒,趣散關。宋人已燒絕棧道,復由兩當縣出魚關,軍沔州。宋制置使桂如淵守興元。按竺邇假道於如淵曰:「宋讎金久矣,何不從我兵鋒,一洗國耻?今欲假道南鄭,由金、洋達唐、鄧,會大兵以滅金,豈獨為吾之利?亦宋之利也。」如淵度我軍壓境,勢不徒還,遂遣人導我師由武休關東抵鄧州,西破小關,金人大駭,謂我軍自天而下。其平章完顏合達、樞密使移剌蒲阿帥十七都尉,兵數十萬,相拒于鄧。我師不與戰,直趣鈞州,與親王按赤台等兵合,陣三峯山下。會天大雪,金兵成列。按竺邇先率所部精兵迎擊於前,諸軍乘之,金師敗績。癸巳,金主奔蔡。十二月,從圍蔡。甲午,金亡。

初め、金の将郭斌が鳳翔より包囲を突破して出て、金・蘭・定・会の四州を守った。この時、按竺邇に命じてこれを取りに行かせ、斌を会州に包囲した。食糧が尽きて逃げ出そうとしたところを城門で撃破した。兵が城内に入り巷戦し、死傷者は甚だ多かった。斌は手に剣を取って妻子を一室に集めさせ、焼き殺し、やがて自ら火中に投身した。ある女奴が火中より児を抱いて出て、泣きながら人に授けて言った、「将軍は忠を尽くした。どうして後嗣を絶やすに忍びようか。これがその児である。哀れんで収容してほしい」。言い終わると、再び火中に赴いて死んだ。按竺邇はこれを聞いて哀れに思い、その孤児を保護するよう命じた。遂に四州を平定した。金の将汪世顯が鞏州を守り、皇子闊端がこれを包囲したが、陥せなかった。按竺邇等を遣わしてこれを招くと、世顯は衆を率いて来降した。皇兄はその才勇を嘉し、賞賜は甚だ厚く、抜都の名を賜い、征行大元帥に任じた。

原文初,金將郭斌自鳳翔突圍出,保金、蘭、定、會四州。至是命按竺邇往取之,圍斌于會州。食盡將走,敗之于城門。兵入城巷戰,死傷甚眾。斌手劍驅其妻子聚一室,焚之,已而自投火中。有女奴自火中抱兒出,泣授人曰:「將軍盡忠,忍使絕嗣,此其兒也,幸哀而收之。」言畢,復赴火死。按竺邇聞之惻然,命保其孤。遂定四州。金將汪世顯守鞏州,皇子闊端圍之,未下。遣按竺邇等往招之,世顯率眾來降。皇兄嘉其材勇,賞賚甚厚,賜名拔都,拜征行大元帥。

丙申、大軍が蜀を伐つに当たり、皇子は大散関より出撃し、兵を分けて宗王穆直等に命じて陰平郡より出撃させ、成都で会合することを期した。按竺邇は砲手兵を率いて先鋒となり、宕昌を破り、階州を破壊した。文州を攻めると、守将劉禄が数ヶ月にわたって陥さなかった。諜報により城中に井戸がないことを知ると、その汲道を奪い、勇士を率いて梯子で城に先登し、城壁を守る者数十人を殺し、遂にその城を陥して、禄はこれに死んだ。これにより吐蕃の酋長勘陁孟迦等十族を招き寄せ、皆に銀符を賜った。龍州を平定した。遂に大散関の軍と合流し、進んで成都を陥れた。師が帰還すると、成都は再び叛いた。

原文丙申,大軍伐蜀,皇子出大散關,分兵令宗王穆直等出陰平郡,期會于成都。按竺邇領砲手兵為先鋒,破宕昌,殘階州。攻文州,守將劉祿,數月不下,諜知城中無井,乃奪其汲道,率勇士梯城先登,殺守陴者數十人,遂拔其城,祿死之。因招徠吐蕃酋長勘陁孟迦等十族,皆賜以銀符。略定龍州。遂與大散軍合,進克(城)〔成〕都。師還,而成都復叛。

丁酉、按竺邇は宗王に言った、「隴の州県は平定されたばかりで、人心はなお二心あり、西漢陽は隴・蜀の要衝に当たる。宋及び吐蕃は侵入を利としている。良将を得てこれを鎮守させるべきである」。宗王は言った、「反側の者を安んじ、寇賊を制するのは、これ上策である。しかし汝に代える者はいない」。そこで蒙古の千戸五人を分けて、その麾下に隷属させて赴かせた。按竺邇は侯和尚に命じて南の沔州石門を守備させ、朮魯に西の階州両水を守備させ、斥候を厳重にし、巡邏を厳しくしたので、西南の諸州は敢えてこれを犯さなかった。

原文丁酉,按竺邇言於宗王曰:「隴州縣方平,人心猶貳,西漢陽當隴、蜀之衝,宋及吐蕃利於入寇,宜得良將以鎮之。」宗王曰:「安反側,制寇賊,此上策也,然無以易汝。」遂分蒙古千戶五人,隸麾下以往。按竺邇命侯和尚南戍沔州之石門,朮魯西戍階州之兩水,謹斥堠,嚴巡邏,西南諸州不敢犯之。

戊戌、元帥塔海に従って諸翼の兵を率いて蜀を伐ち、隆慶を陥れた。己亥、重慶を攻めた。庚子、万州を攻囲した。宋人が数百艘の舟師を率いて流れを遡って迎撃した。按竺邇は流れに沿って精兵を率い、巨筏に乗り、革舟をその間に浮かべて、弓弩を両側から射かけ、宋人は敵うことができず、夔門においてこれを破った。辛丑、西川を伐ち、二十余城を破った。成都の守将田顯が北門を開いて師を迎え入れた。宋の制置使陳隆之は出奔したが、追撃してこれを捕らえ、漢州まで縛って行き、守将王夔を降伏させるよう誘わせた。夔は降伏せず、進軍してこれを攻めた。夔は夜に火牛を駆り、包囲を突破して出奔したため、遂に隆之を斬った。壬寅、大軍と合流して遂寧・瀘・叙等の州を破った。癸卯、資州を破った。庚戌、按竺邇は涇・邠の二州を安んじ集めた。宋の制置使余玠が興元を攻め、文州の降将王徳新が隙に乗じて階州より叛き、扈・牛の二鎮将を捕らえ、千余の衆を率いて江油に走った。憲宗は按竺邇を召し還して旧鎮に帰らせた。按竺邇は将を遣わして直ちに江油を攻め、扈・牛を奪い返した。

原文戊戌,從元帥塔海率諸翼兵伐蜀,克隆慶。己亥,攻重慶。庚子,圖萬州。宋人將舟師數百艘遡流迎戰。按竺邇順流率勁兵,乘巨筏,浮革舟於其間,弓弩兩射,宋人不能敵,敗諸夔門。辛丑,伐西川,破二十餘城。成都守將田顯開北門以納師。宋制置使陳隆之出奔,追獲之,縛至漢州,令誘降守將王夔。夔不降,進兵攻之。夔夜驅火牛,突圍出奔,遂斬隆之。壬寅,會大軍破遂寧、瀘、敍等州。癸(亥)〔卯〕,破資州。庚戌,按竺邇安輯涇、邠二州。宋制置使余玠攻興元,文州降將王德新乘隙自階州叛,執扈、牛二鎮將,領眾千餘走江油。憲宗召按竺邇還舊鎮。按竺邇遣將直擣江油,奪扈、牛以歸。

中統元年、世祖が即位すると、異謀を抱く親王がおり、その将阿藍答児・渾都海が関隴を占拠しようと図った。この時、按竺邇は老齢のため、軍務をその子に委ねていた。帝は宗王哈丹・哈必赤・阿曷馬を遣わして西征させた。按竺邇は言った、「今、内難が正に殷盛で、関隴を乱しつつある。これ臣子が安臥している時であろうか。我は老いてはいるが、尚賊を破ることができる」。そこで兵を率いて刪丹の耀碑谷より出撃し、阿曷馬に従い、これと合戦した。ちょうど大風が起こり、昼間も暗くなり、戦いは晡時(午後三時から五時)まで及び、大いにこれを破り、斬首・捕虜は数え切れなかった。按竺邇は総帥汪良臣とともに阿藍答児・渾都海等を捕らえた。勝利の報が聞こえると、帝は璽書を賜って褒め称え、弓矢と錦衣を賜った。四年、卒去した。享年六十九。延祐元年、推忠佐運功臣・太保・儀同三司・上柱国を追贈され、秦国公に封ぜられ、諡は武宣とされた。

原文中統元年,世祖即位,親王有異謀者,其將阿藍答兒、渾都海圖據關隴。時按竺邇以老,委軍於其子。帝遣宗王哈丹、哈必赤、阿曷馬西討。按竺邇曰:「今內難方殷,浸亂關隴,豈臣子安臥之時耶?吾雖老,尚能破賊。」遂引兵出刪丹之耀碑谷,從阿曷馬,與之合戰。會大風,晝晦,戰至晡,大敗之,斬馘無算。按竺邇與總帥汪良臣獲阿藍答兒、渾都海等。捷聞,帝錫璽書襃美,賜弓矢錦衣。四年,卒,年六十九。延祐元年,贈推忠佐運功臣、太保、儀同三司、上柱國,封秦國公,諡武宣。

子は十人あり、徹理と国宝が最も著名である。徹理は職を襲い元帥となった。丁巳の年、父に従って瀘州を攻め、宋の将劉整を降した。宋の将姚徳が雲頂山に壁を築いて守った。戊午の年、大軍これを囲む。徹理は部兵を率いて水門より先に登り、その壁を破り、姚徳は降った。後に病により廃し、卒す。

原文子十人,徹理、國寶最知名。徹理襲職為元帥。丁巳,從父攻瀘州,降宋將劉整。宋將姚德壁雲頂山,戊午,大軍圍之。徹理率部兵由水門先登,破其壁,德降。後以病廢,卒。

国宝は一名を黒梓といい、若くして剣を撃ち書を学び、倜儻として義を好み、謀略あり。父が元帥となり、軍務はことごとく彼に委ねたので、赴くところ多く勝利を得た。重慶攻めに従い、宋の都統張実を降し、併せて合州を掠めて帰還した。

原文國寶一名黑梓,少擊劍學書,倜儻好義,有謀略。父為元帥,軍務悉以委之,故所至多捷。從攻重慶,降宋都統張實,併掠合州以歸。

中統元年、阿藍答児を攻めるに従い功あり。阿藍答児の叛将火都が吐蕃の点西嶺を占拠す。国宝は帥事を摂り、これを討つ。衆は速戦を欲す。国宝曰く「此れ窮寇なり、宜しく少しく緩やかにし、計を以てこれを破るべし」と。遂に精兵を以てその背後を襲う。火都は西走せんと欲す。国宝は険要を拠りてこれを遮り、挑戦すれば則ち兵を斂めて自ら固守す。相持つこと両月、潜かに兵を出してその不意を衝き、これを擒らえて殺す。捷報聞こえ、弓矢・金綺を賜う。

原文中統元年,從攻阿藍答兒有功。阿藍答兒叛將火都據吐蕃之點西嶺。國寶攝帥事,討之,眾欲速戰。國寶曰:「此窮寇也,宜少緩,以計破之。」遂以精兵襲其後。火都欲西走,國寶據險要之,挑戰則斂兵自固。相持兩月,潛兵出其不意,擒殺之。捷聞,賜弓矢、金綺。

初め、按竺邇が老を告げるに当たり、制命して徹理に征行元帥を襲わしむ。徹理は病を以て事を視ず。国宝乃ち諸弟に謂いて曰く「昔我が先人西陲に兵を耀かし、大功既に集まる。関隴は寧らかなりと雖も、西戎未だ靖まらず。此れ吾が輩の功を立つる秋なり」と。乃ち謝鼎を遣わし、弟国能とともに金帛を持って吐蕃を説き降らす。酋長勘陁孟迦、国宝に従って入覲す。国宝奏して曰く「文州は山川険阨にして、庸蜀を控え、吐蕃を拒ぐ。宜しく文州に城を築き、兵を屯してこれを鎮むべし」と。これに従い、国宝に三品の印を授け、蒙古漢軍元帥と為し、文州吐蕃万戸府達魯花赤を兼ね、勘陁孟迦とともに皆金符を賜う。

原文初,按竺邇之告老,制命徹理襲征行元帥。徹理以病不視事。國寶乃謂諸弟曰:「昔我先人耀兵西陲,大功既集,關隴雖寧,而西戎未靖,此吾輩立功之秋也。」乃遣謝鼎與弟國能,持金帛說降吐蕃,酋長勘陁孟迦從國寶入覲。國寶奏曰:「文州山川險阨,控庸蜀,拒吐蕃,宜城文州,屯兵鎮之。」從之,授國寶三品印,為蒙古漢軍元帥,兼文州吐蕃萬戶府達魯花赤,與勘陁孟迦皆賜金符。

時に扶州の諸羌は未だ附かず。国宝は上威徳を宣べ、ここにおいて呵哩禅波哩揭ら諸酋長、皆帰款し、国宝に従って入覲す。国宝は山川形勢を図して献ず。詔して呵哩禅波哩揭を万戸に授け、金虎符を賜い、諸酋長を千戸と為し、皆金符を賜う。国宝に金幣を賜う。国宝、文州を治めて善政あり。至元四年卒す。延祐元年、推誠佐理功臣・光禄大夫・平章政事・柱国を贈られ、梁国公に封ぜられ、諡して忠定と曰う。

原文時扶州諸羌未附,國寶宣上威德,於是呵哩禪波哩揭諸酋長皆歸款,從國寶入覲。國寶圖山川形勢以獻,詔授呵哩禪波哩揭為萬戶,賜金虎符,諸酋長為千戶,皆賜金符。賜國寶金幣。國寶治文州有善政。至元四年卒。延祐元年,贈推誠佐理功臣、光祿大夫、平章政事、柱國,封梁國公,諡忠定。

子に世栄・世延あり。初め、国宝将に卒せんとするに当たり、世栄幼きを以て、弟国安に命じてその職を襲わしむ。国安既に蒙古漢軍元帥を襲い、文州吐蕃万戸府達魯花赤を兼ぬ。後にその兄国宝の安辺の功を以て、金虎符を賜い、昭勇大将軍に進む。十五年、叛王吐魯を六盤に討ち、これを獲る。職を解きて世栄に授けんことを請う。帝曰く「人は争うに汝は譲る、以て薄俗を敦くすべし」と。その六盤の功を録し、昭毅大将軍・招討使に進む。世栄は、懐遠大将軍・蒙古漢軍元帥を襲ぎ、文州吐蕃万戸府達魯花赤を兼ぬ。後に功を以て安遠大将軍・吐蕃宣慰使議事都元帥に進み、三珠虎符を佩く。世延は、中書平章政事。

原文子世榮、世延。初,國寶將卒,以世榮幼,命弟國安襲其職。國安既襲蒙古漢軍元帥,兼文州吐蕃萬戶府達魯花赤,後以其兄國寶安邊功,賜金虎符,進昭勇大將軍。十五年,討叛王吐魯于六盤,獲之,請解職授世榮。帝曰:「人爭而汝讓,可以敦薄俗。」錄其六盤功,進昭毅大將軍、招討使。世榮,襲懷遠大將軍、蒙古漢軍元帥,兼文州吐蕃萬戶府達魯花赤。後以功進安遠大將軍、吐蕃宣慰使議事都元帥,佩三珠虎符。世延,中書平章政事。

畏答児

畏答児は忙兀の人なり。その先剌真八都児、二子あり、次を忙兀児と名づけ、始めて別れて忙兀氏と為る。畏答児はその六世の孫なり。兄畏翼とともに太祖に事う。時に大疇強盛なり。畏翼その属を率いてこれに帰す。畏答児力を尽くしてこれを止むるも聴かず。これを追うも、また肯て還らず。畏答児乃ち還りて太祖に事う。太祖曰く「汝の兄既に去りぬ、汝独り此に留まるは何を為さんとするか」と。畏答児自ら明かすこと無く、矢を取って折りて誓いて曰く「主に終わり事えざる者は、此の矢の如くあらん」と。太祖その誠を察し、更めて名を薛禅と為し、按達と約す。薛禅とは、聰明の謂いなり。按達とは、交わりを定めて易えざるの謂いなり。

原文畏答兒,忙兀人。其先剌真八都兒,有二子,次名忙兀兒,始別為忙兀氏。畏答兒其六世孫也。與兄畏翼俱事太祖。時大疇強盛,畏翼率其屬歸之,畏答兒力止之,不聽,追之,又不肯還,畏答兒乃還事太祖。太祖曰:「汝兄既去,汝獨留此何為?」畏答兒無以自明,取矢折而誓曰:「所不終事主者,有如此矢。」太祖察其誠,更名為薛禪,約為按達。薛禪者,聰明之謂也;按達者,定交不易之謂也。

太祖、克烈王罕と哈剌真に対陣す。師少なくして敵せず。帝は兀魯一軍に命じて先発せしむ。その将朮徹台、鞭を横たえて馬の鬣を撫で応ぜず。畏答児奮然として曰く「我は猶お鑿の如し、諸君は斧なり。鑿は斧に非ざれば入らず。我は請う先に入らん、諸軍これに継げ。万一還らずとも、三黄頭児あり、唯上これを念え」と。遂に先に出でて陣を陷し、これを大いに敗る。晡時に至るまで、猶お追逐して已まず。勅使これを止めしむるに及びて、乃ち還る。脳中に流矢を受け、創甚だし。帝親しく善薬を傅し、帳中に留めて処す。月余にして卒す。帝深くこれを惜しむ。

原文太祖與克烈王罕對陣於哈剌真,師少不敵。帝命兀魯一軍先發,其將朮徹台,橫鞭馬鬣不應。畏答兒奮然曰:「我猶鑿也,諸君斧也,鑿匪斧不入,我請先入,諸軍繼之,萬一不還,有三黃頭兒在,唯上念之。」遂先出陷陣,大敗之,至晡時,猶追逐不已,敕使止之,乃還。腦中流矢,創甚,帝親傅以善藥,留處帳中,月餘卒,帝深惜之。

王罕の滅びるに及び、帝はその将只里吉実が畏答児に抗したるを以て、乃ち只里吉(実)の民百戸を分かちてその子に隷属せしめ、且つ世々歳賜絶えざらしむ。仍って忙兀人民の散亡する者を収め完うすることを令す。太宗その功を思い、復た北方の万戸を以てその子忙哥を封じて郡王と為す。歳丙申、忽都忽大いに漢民を料し、城邑を分かちて功臣を封ずるに、忙哥に泰安州民万戸を授く。帝その少なきを訝る。忽都忽対えて曰く「臣今差次するに、惟だ旧数の多寡を視る。忙哥の旧は纔か八百戸なり」と。帝曰く「然らず。畏答児の封戸は少なきと雖も、戦功は則ち多し。その増封して二万戸と為し、十功臣とともに諸侯と為る者とせよ。封戸は皆その籍を異にすべし」と。兀魯争いて曰く「忙哥の旧兵は臣が半ばに及ばず。今封すること顧みて臣より多し」と。帝曰く「汝、而が先に鞭を横たえて馬の鬣を撫でし時を忘れたるか」と。兀魯遂に敢えて言わず。

原文及王罕滅,帝以其將只里吉實抗畏答兒,乃分只里吉(實)民百戶隸其子,且使世世歲賜不絕。仍令收完忙兀人民之散亡者。太宗思其功,復以北方萬戶封其子忙哥為郡王。歲丙申,忽都忽大料漢民,分城邑以封功臣,授忙哥泰安州民萬戶。帝訝其少,忽都忽對曰:「臣今差次,惟視舊數多寡,忙哥舊纔八百戶。」帝曰:「不然,畏答兒封戶雖少,戰功則多,其增封為二萬戶,與十功臣同為諸侯者,封戶皆異其籍。」兀魯爭曰:「忙哥舊兵不及臣之半,今封顧多於臣。」帝曰:「汝忘而先橫鞭馬鬣時耶?」兀魯遂不敢言。

忙哥卒す。孫の只里瓦䚟・乞答䚟、曾孫の忽都忽・兀乃忽里・哈赤、俱に封を襲ぎて郡王と為る。

原文忙哥卒,孫只里瓦䚟、乞答䚟,曾孫忽都忽、兀乃忽里、哈赤,俱襲封為郡王。

博羅歓伯都

原文博羅歡伯都

博羅歓は、畏答児の幼子蘸木曷の孫、瑣魯火都の子なり。時に諸侯王及び十功臣各々断事官あり。博羅歓年十六、本部の断事官と為る。世祖に従って阿里不哥を討ち、数え功あり。帝喜びて馬四十匹を賜い、金幣はこれに称す。

原文博羅歡,畏答兒幼子蘸木曷之孫,瑣魯火都之子也。時諸侯王及十功臣各有斷事官,博羅歡年十六,為本部斷事官。從世祖討阿里不哥,數有功,帝喜而賜馬四十匹,金幣稱之。

中統三年、李璮叛く。命じて忙兀一軍を帥いて済南を囲ましめ、兵を分かちて益都・萊州を掠め、悉くこれを平らぐ。詔して燕南の獄を録せしむ。讞決明允にして、衣一襲を賜う。皇子雲南王(愛)〔忽〕哥赤、その省臣宝合丁に毒殺せらる。事覚る。中書、その獄を治むべき者四人を択び、奏上するも、皆旨に称せず。丞相線真、博羅歓を以て聞こゆ。帝その奏を可とす。博羅歓辞して曰く「臣は敢えて死を愛しまず、第に年少にして書を知らず、事を誤らんことを恐るるのみ」と。帝乃ち吏部尚書別帖木児をしてその行を輔わしむ。未だ雲南に至らざるに、宝合丁密かに金六籝を以て迎え饋り、事を究めざることを祈る。博羅歓、その兵を徼外に握るを慮り、これを拒めば変を致さんことを恐れ、陽に諾して曰く「吾が槖は容るる能わず、暫く持って帰り、我がこれを取るを待て」と。博羅歓至るや、則ちその獄を竟え、王者を毒したる者を誅し、その金を省に帰す。陛見す。帝顧みて線真に謂いて曰く「卿の挙ぐる、その人を得たり」と。黄金五十両を賜い、詔して忙兀の事は大小と無く、悉く博羅歓に統せしむ。昭勇大将軍・右衞親軍都指揮使を授く。大都に在っては則ち専ら右衞を、上都に在っては則ち三衞を兼ぬ。

原文中統三年,李璮叛。命帥忙兀一軍圍濟南,分兵掠益都、萊州,悉平之。詔錄燕南獄,讞決明允,賜衣一襲。皇子雲南王(愛)〔忽〕哥赤為其省臣寶合丁毒死,事覺,中書擇可治其獄者四人,奏上,皆不稱旨。丞相線真以博羅歡聞,帝可其奏。博羅歡辭曰:「臣不敢愛死,第年少不知書,恐誤事耳。」帝乃以吏部尚書別帖木兒輔其行。未至雲南,寶合丁密以金六籝迎餽,祈勿究其事。博羅歡慮其握兵徼外,拒之恐致變,陽諾曰:「吾槖不能容,可且持歸,待我取之。」博羅歡至,則竟其獄,誅毒王者,而歸其金于省。陛見,帝顧謂線真曰:「卿舉得其人矣。」賜黃金五十兩,詔忙兀事無大小,悉統於博羅歡。授昭勇大將軍、右衞親軍都指揮使,大都則專右衞,上都則兼三衞。

宋を討伐することとなり、金吾衛上將軍・中書右丞を授けられた。詔して大軍を二つに分け、右軍は伯顏・阿朮の節度を受け、左軍は博羅歡の節度を受けることとした。まもなく淮東都元帥を兼ね、山東経略司を廃止し、その軍をすべて博羅歡に隷属させた。そこで下邳に駐屯し、将佐を召して謀議して言うには、「清河城は小さいが堅固で、昭信・淮安・泗州と犄角の勢いをなしており、急には容易に陥とせぬ。海州・東海・石秋は遠く数百里の外にあり、必ず厳重に備えていないであろう。我らは大軍を留めて疑兵とし、軽騎で倍道を以て襲撃すれば、その守将を生け捕りにできよう」と。軍が到着すると、三城は果たして皆陥ち、清河もまた降った。宋の主君が国を挙げて内附したが、淮東の諸城はなおも宋のために守っていた。詔して博羅歡に進軍させ、淮安南堡を抜き、白馬湖及び宝応で戦い、高郵を掠め、西小河から漕河に入り、湾頭を占拠して通州・泰州の援兵を断ち、ついに揚州を陥とし、淮東を平定した。桂陽・徳慶の二万一千戸を加封された。

原文會伐宋,授金吾衞上將軍、中書右丞。詔分大軍為二,右軍受伯顏、阿朮節度,左軍受博羅歡節度。俄兼淮東都元帥,罷山東經略司,而以其軍悉隸焉。遂軍于下邳,召將佐謀曰:「清河城小而固,與昭信、淮安、泗州為掎角,猝未易拔。海州、東海、石秋遠在數百里之外,必不嚴備。吾頓大兵為疑兵,以輕騎倍道襲之,其守將可擒也。」師至,三城果皆下,清河亦降。宋主以國內附,而淮東諸城猶為之守。詔博羅歡進軍,拔淮安南堡,戰白馬湖及寶應,掠高郵,自西小河入漕河,(援)〔據〕灣頭,斷通、泰援兵,遂下揚州,淮東平。益封桂陽、德慶二萬一千戶。

十四年、応昌において叛臣只里幹台を討ち、これを平定した。玉帯と文綺を賜り、博羅とともに枢密院事を署理し、中書右丞に任じられ、北京に行省した。まもなく召還された。

原文十四年,討叛臣只里斡台於(德)〔應〕昌,平之。賜玉帶文綺,與博羅同署樞密院事,拜中書右丞,行省北京。未幾,召還。

当時江南は新たに帰附したばかりで、なお多くは反覆する者がおり、詔して民で大軍に従って進討できる者を募り、自ら一軍をなすことを許し、その長官の節度に従うが、他の軍に使役されず、制命と符節はすべて正規軍と同じとする、とあった。ちょうど博羅歡が病臥していたので、枢密の董文忠に附して上奏して言うには、「今や疆土は次第に広大となり、勝兵は百万、指揮すれば集まります。どうしてこの籍のない徒輩を借りる必要がありましょうか。彼らが一度南の地を踏めば、人の貨財を掠め、人の妻子を捕虜とし、仇怨はますます増長し、叛く者はますます多くなるでしょう」と。奏上すると、輿に乗せて病を抱えたまま召され、座を賜り、語り合うと、帝は大いに悟り、その奏を許可した。そして常徳から唐兀の一軍がその境内を残暴にしたと訴え出たので、勅して斬って示し、凡そ募った軍はすべて罷免した。

原文時江南新附,尚多反側,詔募民能從大軍進討者,使自為一軍,聽節度於其長,而毋役於他軍,制命符節,皆與正同。會博羅歡寢疾,乃附樞密董文忠奏曰:「今疆土寖廣,勝兵百萬,指揮可集,何假此無藉之徒?彼一踐南土,則掠人貨財,俘人妻孥,仇怨益滋,而叛者將愈眾矣。」奏上,召輿疾賜坐,與語,帝大悟,遂可其奏。而常德入訴唐兀一軍殘暴其境內,敕斬以徇。凡所募軍皆罷。

十六年、哈剌斯・博羅思・幹羅罕の諸部が互いに統属しないので、博羅歡にこれを監させた。十八年、中書右丞として甘粛に行省した。二十年、御史大夫に任じられ、行御史台事を行い、病により帰郷した。

原文十六年,以哈剌斯、博羅思、斡羅罕諸部不相統,命博羅歡監之。十八年,以中書右丞行省甘肅。二十年,拜御史大夫,行御史臺事,以疾歸。

諸王乃顔が叛くと、帝は親征しようとした。博羅歡は諫めて言うには、「昔、太祖が東方の諸侯を分封された時、その地と戸数は臣が皆知っております。二十を率とすれば、乃顔はその九を得、忙兀・兀魯・扎剌児・弘吉剌・亦其烈思の五諸侯はその十一を得ております。ただ五諸侯の兵を徴発すれば、自ずからこれに当たるに足ります。どうして上って乗輿を煩わす必要がありましょうか。臣の病はなお癒えつつあります。どうか東征の任に当たらせてください」と。帝は鎧甲・弓矢・鞍勒を賜い、五諸侯の兵を督して乃顔と戦わせ、これを破った。その党の塔不帯が兵を率いて来て抵抗したが、ちょうど長雨が続き、軍は食糧に乏しく、諸将は退却しようとした。博羅歡は言うには、「今両陣相対している。どうして先に動くことができようか」と。まもなく塔不帯が兵を引いて退いた。博羅歡はその師を率いてこれを乗じ、二日にわたって転戦し、身に三つの矢を受けたが、大いにこれを破り、その駙馬忽倫を斬った。ちょうど太師月魯那演の大軍が来て合流し、ついに乃顔を平定し、塔不帯を生け捕りにした。その後その党の哈丹が再び叛くと、詔して諸侯王乃馬帯とともにこれを討たせた。哈丹の遊騎が突然到来し、博羅歡は三騎の従騎とともに返り走り、絶澗に至った。およそ二丈ばかりで、追騎がまさに追いつかんとした時、博羅歡はその馬を策して一躍して渡り過ぎた。三騎の従騎は皆没し、人々は神の助けがあったのだと言った。哈丹が死ぬと、その子の老的を陣中で斬った。往復すること凡そ四年。凱旋し、哈丹の二妃を捕虜として献上すると、勅して一人を乃馬帯に賜い、一人を博羅歡に賜った。その金銀器を延春閣に陳列し、上は諸侯王将帥を召して分け賜わった。博羅歡は辞退した。帝は言うには、「卿は譲ることができると言えよう」と。そこで金銀器五百両を賜ってこれを表彰した。

原文諸王乃顏叛,帝將親征。博羅歡諫曰︰「昔太祖分封東諸侯,其地與戶,臣皆知之,以二十為率,乃顏得其九,忙兀、兀魯、扎剌兒、弘吉剌、亦其烈思五諸侯得其十一,惟徵五諸侯兵,自足當之,何至上煩乘輿哉?臣疾且愈,請事東征。」帝乃賜鎧甲弓矢鞍勒,命督五諸侯兵,與乃顏戰,敗之。其黨塔不帶以兵來拒,會久雨,軍乏食,諸將欲退。博羅歡曰:「今兩陣相對,豈容先動!」俄塔不帶引兵退。博羅歡以其師乘之,轉戰二日,身中三矢,大破之,斬其駙馬忽倫。適太師月魯那演大軍來會,遂平乃顏,擒塔不帶。既而其黨哈丹復叛,詔與諸侯王乃馬帶討之。哈丹游騎猝至,博羅歡從三騎返走,抵絕澗,可二丈許,追騎垂及,博羅歡策其馬一躍而過,三從騎皆沒,人以為有神助云。哈丹死,斬其子老的於陣。往返凡四歲。凱旋,俘哈丹二妃以獻,敕以一賜乃馬帶,一賜博羅歡。陳其金銀器於延春閣,上召諸侯王將帥分賜之。博羅歡辭,帝曰:「卿可謂能讓。」乃賜金銀器五百兩以旌之。

河南宣慰が行中書省に改められると、平章政事に任じられた。詔して馬を徴発するに勲臣の家には及ぼさない、とあった。博羅歡は言うには、「我が馬は群をなしている。治める所の地方は三千里である。先に馬を出さなければ、どうして吏民の先導となれようか」と。そこで先に良馬十八頭を納めた。汴南の諸州は広漠たる大水となり、博羅歡は自ら決口を行き、役所に督して修繕完成させた。

原文河南宣慰改行中書省,拜平章政事,有詔括馬毋及勳臣之家。博羅歡曰:「吾馬成羣,所治地方三千里,不先出馬,何以為吏民之倡?」乃先入善馬十有八。汴南諸州(莽)〔漭〕為巨浸,博羅歡躬行決口,督有司繕完之。

三十一年、成宗が即位すると、陝西行中書省平章政事に転じた。赴任せず、河南に留まって鎮守した。入朝し、泰安州からの収入である五戸絲四千斤を、内庫の繒帛と交換し、忙兀の一軍に分け与えることを請うた。帝は勅して駅車で軍中に送らせ、銀百五十両を賜った。陛辞の際、帝はこれを諭して言うには、「卿は今や白髭である。世祖の徳言を、実に多く聞いているであろう。慎んで護るべきである」と。そこで世祖の佩用した弓矢と鞶帯を賜った。しばらくして、近臣が奏上して言うには、「宋を伐った時、右軍は伯顔・阿朮に分属し、左軍は博羅歡に分属しました。今、伯顔・阿朮は皆分地を受けておりますが、博羅歡はまだ及んでおりません。ただ帝の裁断を仰ぎます」と。帝は言うには、「どうして長く言わなかったのか。彼が自ら請うことを恥じたのか」と。そこで高郵の五百戸を加封した。

原文三十一年,成宗立,遷陝西行中書省平章政事。未行,留鎮河南。入朝,請以泰安州所入五戶絲四千斤,易內庫繒帛,分給忙兀一軍。帝為敕遞車送軍中,賜以銀百五十兩。陛辭,帝諭之曰:「卿今白鬚,世祖德言,實多聞之,宜加慎護。」因以世祖所佩弓矢鞶帶賜之。有頃,近臣奏:「伐宋時,右軍分屬伯顏、阿朮,左軍分屬博羅歡。今伯顏、阿朮皆受分地,而博羅歡未及,惟帝裁之。」帝曰:「何久不言,豈彼耻自請耶?」乃益封高郵五百戶。

大徳元年、叛王薬木忽児・兀魯速不花が来帰した。博羅歡はこれを聞き、使者を馳せて奏上して言うには、「諸王の叛は、皆その父によるものであり、この輩は幼弱で、関与して知るところはありません。今ここに来帰した以上、その前の悪を棄てて、未だ至らぬ者を勧めるべきです」と。帝は深くもっともであるとし、金の鞍勒を賜い、平章政事として湖広に行省することを命じた。ちょうど福建行省を江浙に併合することとなり、光禄大夫・上柱国・江浙等処行中書省平章政事に任じられた。歳余を経て、卒去した。享年六十三。

原文大德元年,叛王藥木忽兒、兀魯速不花來歸。博羅歡聞之,遣使馳奏曰:「諸王之叛,皆由其父,此輩幼弱,無所與知。今茲來歸,宜棄其前惡,以勸未至。」帝深以為然,賜金鞍勒,命以平章政事行省湖廣。會并福建行省入江浙,拜光祿大夫、上柱國、江浙等處行中書省平章政事。居歲餘,卒,年六十三。

博羅歡は勇気があり智略に富み、戦いには常に自ら先頭に立ち、獲た財物はすべて将士に与えたので、その死力を得た。平素は常に国事を憂い、変事を聞けば即ち行くことを請い、その事が終わるまで止まなかった。その忠義は天性によるものであった。累贈して推忠宣力賛運功臣・太師・開府儀同三司・上柱国とし、泰安王を加封し、諡して武穆といった。

原文博羅歡勇有智略,戰常以身先之,所獲財物悉與將士,故得其死力。平居常以國事為憂,聞變即請行,至終其事乃止。其忠義蓋天性然也。累贈推忠宣力贊運功臣、太師、開府儀同三司、上柱國,加封(奉)〔泰〕安王,諡武穆。

子に渾都・伯都・埜先帖木児・博羅がいる。渾都は山東宣慰使、遥授で中書平章政事。埜先帖木児は河南江北等処行中書省左丞相、官のまま開府儀同三司・翰林学士承旨で卒した。博羅は陝西等処行中書省平章政事。埜先帖木児の子に、尼摩星吉(郡王を襲封)、亦思剌瓦性吉(中政使)がいる。

原文子渾都、伯都、埜先帖木兒、博羅。渾都,山東宣慰使,遙授中書平章政事。埜先帖木兒,河南江北等處行中書省左丞相,卒官開府儀同三司、翰林學士承旨。博羅,陝西等處行中書省平章政事。埜先帖木兒子:尼摩星吉,襲郡王;亦思剌瓦性吉,中政使。

伯都は幼少より聡明で異なり、家世を以て自ら誇らず、成長して書史を好んだ。大徳五年、江東道廉訪副使に抜擢され、江南行台侍御史に任じられた。まもなく召されて枢密院事を僉し、舍児別赤を領した。至大二年、出て江南行台御史中丞となり、陝西行台御史大夫に転じた。

原文伯都幼穎異,不以家世自矜,長嗜書史。大德五年,擢江東道廉訪副使,拜江南行臺侍御史。未幾,召入僉樞密院事,領舍兒別赤。至大二年,出為江南行臺御史中丞,遷陝西行臺御史大夫。

延祐元年、甘粛行省平章政事に任じられた。当時米価が高騰し、陸路で一石を運ぶのに二百緡を費やしたので、経画の計を為し、節減すること四百余万緡に至り、これより諸倉はともに充溢した。甘州は気候寒冷で土地が瘠せ、豊作の年は少なかった。民が飢えると粟を発して賑済し、春に種が欠けるとこれを貸し与えた。これにより兵糧は既に足り、民食もまた給された。詔して名鷹・甲冑・弓矢及び鈔五千緡を賜って労った。四年、江浙行省平章政事に移り、入って太子賓客となった。上書して古の先聖王の正心修身の道を陳べると、帝は嘉納した。江南行台御史大夫に転じた。皇太后が東宮官は外に使うべきではないと言い、その行きを止めた。そこで病を以て辞去し、高郵に寓居した。

原文延祐元年,拜甘肅行省平章政事。時米價騰湧,陸輓一石,費二百緡,乃為經畫計,所省至四百餘萬緡,自是諸倉俱充溢。甘州氣寒地瘠,少稔歲。民饑,則發粟賑之,春闕種,則貸之。於是兵饟既足,民食亦給。詔賜名鷹、甲冑、弓矢及鈔五千緡以勞焉。四年,移江浙行省平章政事,入為太子賓客。上書陳古先聖王正心修身之道,帝嘉納之。遷江南行臺御史大夫。皇太后謂東宮官不宜使外,止其行。遂以疾辭去,寓居高郵。

英宗が即位すると、再び江南行臺御史大夫に任ぜられた。朝廷に参内し、病を理由に固辞した。帝は長く慰諭し、平章の俸禄を与えて家で養生するよう命じ、さらに十万緡の紙幣を賜った。服用する薬に空青が必要と聞き、詔を下して江南に使者を遣わし探し求めた。伯都は辞謝して言った、「臣はかつて重責を担い、その任に堪えぬことを深く恐れました。今は病で廃人同然です。ましてや厚禄を貪り、重い賜物を受けるなどできましょうか」と。併せて給付された平章政事の俸禄も役所に返還した。

原文英宗即位,復命為江南行臺御史大夫。陛見,以疾固辭。帝慰諭久之,命以平章之祿歸養于家,復賜鈔十萬緡。所服藥須空青,詔遣使江南訪求之。伯都辭謝曰:「臣曩膺重寄,深懼弗稱,今已病廢,況敢叨濫厚祿以受重賜乎?」併以所給平章政事祿歸有司。

泰定元年、京師に戻り、死去した。朝廷はその貧しさを知り、葬儀費用として二万五千貫の紙幣を贈った。御史臺が三万五千貫を贈るよう上奏し、さらに辞退された俸禄も返還するよう求めたが、妻の弘吉剌氏は受け取らず、言った、「かつて伯都が朝廷に仕えた時、虚しく禄を受けることはありませんでした。今、彼は亡くなりました。もしこの禄を受け取れば、彼の本意ではないでしょう」と。ついに辞退した。子の篤爾只は、将作院判官となった。

原文泰定元年,還京師,卒。朝廷知其貧,賻鈔二萬五千貫。御史臺奏賻三萬五千貫,仍還所辭祿,妻弘吉剌氏弗受,曰:「始伯都仕于朝,不敢虛受廩祿。今歿矣,苟受是祿,非其意也。」卒辭之。子篤爾只,將作院判官。

抄思〔別的因〕

原文抄思〔別的因〕

抄思は、乃蠻部の人である。また答祿とも号した。その先祖の泰陽は、乃蠻部の首長であった。祖父は曲書律。父は敞溫。太祖が兵を挙げて不順を討つと、曲書律はその部落を失い、敞溫は契丹に奔ってそこで死んだ。抄思はまだ幼く、母と共に艱難辛苦の道を歩き、太祖に帰順し、中宮(皇后)の旨を奉じて宮中に仕えた。

原文抄思,乃蠻部人。又號曰答祿。其先泰陽,為乃蠻部主。祖曲書律。父敞溫。太祖舉兵討不庭,曲書律失其部落,敞溫奔契丹卒。抄思尚幼,與其母跋涉間行,歸太祖,奉中宮旨侍宮掖。

抄思は二十五歳で、早くも征伐に従い、代州・石州を破り、矢石を避けず、常に先頭に立った。雁門の戦いではしばしば勝利した。太宗が睿宗に金を平定せよと命じると、抄思は鋭鋒を執って従い、金兵と戦い、向かうところ敵なしであった。壬辰年、軍が鈞州に駐屯した時、金兵は三峯山に陣を構えた。抄思はその営壁が堅固でないと察し、夜に精騎を率いて襲撃した。金兵は驚き騒ぎ、そこで乗じて撃ち、三峯山を陥落させた。睿宗は抄思の功績を朝廷に報告し、湯陰県の黄招撫ら百十七戸を彼に賜る旨があった。抄思は力強く辞退して受けなかった。再び男女五十人、邸宅一区、黄金の鞶帯、酒壺、盃盂を各一つ賜った。辞退は許されず、ついにこれを受けた。制により萬戸に任じられ、内侍の胡都虎・留乞と共に西京等の地の軍人を徴発して出征及び随州の鎮守に当たらせた。民戸を招集し、千人ごとに官一人を置いて統率させた。丁酉年秋七月、旨を奉じて軍を調達し、西京・大名・濱・棣・懷・孟・真定・河間・邢・洺・磁・威・新衞・保等の府州の軍四千六十余人を得て、これを統率した。後に潁に移鎮したが、病のため大名に帰った。戊申年正月に卒し、年四十四。子に別的因がいる。

原文抄思年二十五,即從征伐,破代、石二州,不避矢石,每先登焉。雁門之戰屢捷。會太宗命睿宗平金,抄思執銳以從,與金兵戰,所向無前。壬辰,兵次鈞州,金兵壘于三峯山,抄思察其營壁不堅,夜領精騎襲之,金兵驚擾,遂乘擊之,拔三峯山。睿宗以抄思功聞于朝,有旨以湯陰縣黃招撫等一百一十七戶賜之。抄思力辭不受。復賜以男女五十口,宅一區,黃金鞶帶、酒壺、盃盂各一。辭弗許,迺受之。制授萬戶,與內侍胡都虎、留乞簽起西京等處軍人征行及鎮守隨州。招集民戶,每千人以官一員領之。丁酉秋七月,奉旨調軍,得西京、大名、濱、棣、懷、孟、真定、河間、邢、洺、磁、威、新衞、保等府州軍四千六十餘人,統之。後移鎮潁,以疾歸大名。歲戊申正月卒,年四十四。子別的因。

別的因がまだ襁褓にある時、父の抄思はちょうど兵を率いて金を平定しており、彼は祖母の康里氏と共に三皇后の宮廷にいた。戊申年、父の抄思が卒すると、母の張氏が別的因を迎えに来て帰した。祖母の康里氏が卒した。張氏はかつてゆったりと彼を訓戒して言った、「人には三つの成人がある。畏れを知って成人し、羞恥を知って成人し、艱難を知って成人する。そうでなければ禽獣に過ぎない」と。別的因は教えを受けてひたすら謹んだ。

原文別的因在襁褓時,父抄思方領兵平金,與其祖母康里氏在三皇后宮庭。戊申,父抄思卒,母張氏迎別的因以歸。祖母康里氏卒。張嘗從容訓之曰:「人有三成人,知畏懼成人,知羞耻成人,知艱難成人,否則禽獸而已。」別的因受教唯謹。

甲寅年、世祖が宗王をして黒水を鎮守させた時、察罕那顏に諭旨があり、別的因に抄思の職を継がせ、副萬戸として随・潁等の地を鎮守させよと命じた。丙辰年冬十二月、世祖は再び征鎮の軍士は全て別的因等の号令に従うよう諭した。別的因は身長七尺余、肩幅が広く力強く、刀舞をよくし、特に騎射に精通し、士卒は皆畏服した。

原文甲寅,世祖以宗王鎮黑水,有旨諭察罕那顏,命別的因襲抄思職,為副萬戶,鎮守隨、潁等處。丙辰冬十有二月,世祖復諭征鎮軍士悉聽別的因等號令。別的因身長七尺餘,肩豐多力,善刀舞,尤精騎射,士卒咸畏服之。

翌年の庚申年、世祖が即位すると、委任は特に専らであった。癸亥年正月、行在所に召し出された。冬十一月、行在所で世祖に謁見し、世祖は金符を賜い、別的因を寿州・潁州の二州屯田府の達魯花赤とした。当時、二州の地は多く荒廃しており、虎が民の妻を食う事件があり、その夫が訴え出た。別的因はしばらく黙っていたが、言った、「これは治めやすい」と。そこで檻を設け機巧を仕掛け、檻の中に子羊を縛って虎を誘った。夜半、虎は果たして来て、機が作動し、虎は檻の中に落ちた。そこでこれを捕らえて射ると、虎は遂に死んだ。これより虎の害はたちまち止んだ。

原文明年庚申,世祖即位,委任尤專。癸亥正月,召赴行在所。冬十一月,謁見世祖於行在所,世祖賜金符,以別的因為壽潁二州屯田府達魯花赤。時二州地多荒蕪,有虎食民妻,其夫來告,別的因默然良久,曰:「此易治耳。」迺立檻設機,縛羔羊檻中以誘虎。夜半,虎果至,機發,虎墮檻中,因取射之,虎遂死。自是虎害頓息。

至元十三年、明威将軍・信陽府達魯花赤に任じられ、金符を佩用した。当時、信陽もまた虎が多かった。別的因が着任して間もなく、ある日、馬の覆いを鞍の上に置いて出猟し、左右の者に命じて山を焼き払わせた。虎が走り出ると、別的因は覆いを虎に投げつけた。虎が覆いを捕らえ、地に据わって吼えると、別的因は馬を回して虎を見てこれを射ると、虎はたちまち死んだ。

原文至元十三年,授明威將軍、信陽府達魯花赤,佩金符。時信陽亦多虎,別的因至,未久,一日以馬裼置鞍上出獵,命左右燔山,虎出走,別的因以裼擲虎,虎搏裼,據地而吼,別的因旋馬視虎射之,虎立死。

十六年、宣威将軍・常徳路副達魯花赤に進み、時に同知の李明秀が乱を起こした。別的因は単騎で赴きこれを招撫したいと請い、直ちに賊の砦に到った。賊は彼を軽んじ、備えをしなかった。別的因は朝廷の恩徳を説き、自新の道を取るよう勧めた。明秀はもとより畏服していたので、遂に彼と共に来た。別的因は朝廷に報告し、明秀は誅せられ、賊は平定された。

原文十六年,進宣威將軍、常德路副達魯花赤,會同知李明秀作亂,別的因請以單騎往招之,直抵賊壘,賊輕之,不設備。別的因諭以朝廷恩德,使為自新計,明秀素畏服,遂與俱來。別的因聞于朝,明秀伏誅,賊遂平。

三十一年、懐遠大将軍に進み、池州路達魯花赤に転じた。任地に赴く途中、潁上を経由した。潁は荊山に近く、野猪が時折出没して民の禾稼を害し、民はこれを制することができなかった。別的因が来ると聞き、民は境上に迎えて拝礼し、その故を告げた。別的因は言った、「心配するな」と。そこで荊山に至り、狼牙箭でこれを射ると、猪は数里走った。大徳十三年、昭勇大将軍・台州路達魯花赤に進んだ。卒し、年八十一。

原文三十一年,進懷遠大將軍,遷池州路達魯花赤。之官,道經潁上。潁近荊山,有野豕時出害民禾稼,民莫能制。聞別的因至,迎拜境上,告以其故。別的因曰:「毋慮也。」遂至荊山,以狼牙箭射之,豕走數里。大德十三年,進昭勇大將軍、台州路達魯花赤。卒,年八十一。

子の不花は、嶺南広西道粛政廉訪司事を僉となし、文圭は隠徳があり、秘書監著作郎を追贈され、延寿は湯陰県達魯花赤となった。孫の守恭、曾孫の与権は、皆書を読み進士科に及第し、人々は多くこれを称えた。

原文子不花,僉嶺南廣西道肅政廉訪司事;文圭,有隱德,贈祕書監著作郎;延壽,湯陰縣達魯花赤。孫守恭,曾孫與權,皆讀書登進士科,人多稱之。