元史

列傳第七:察罕 札八兒火者 朮赤台 鎮海 肖乃台 吾也而 曷思麥里

察罕 亦力撒合 立智理威

察罕は、初名を益德といい、唐兀の烏密氏である。父は曲也怯律で、夏の臣であった。その妾がちょうど察罕を身ごもった時、正妻に容れられず、羊の群れを管理する者及里木に嫁がせた。察罕が少し成長すると、その母が(実情を)告げ、かつ「正母にはもう弟がいます」と言った。

察罕は武勇が人に優れ、幼い頃に野原で羊を放牧していた時、杖を地面に立て、帽子を脱いで杖の先端に置き、跪拝して歌舞した。太祖が狩りに出て、これを見て問うた。察罕は答えて言った。「一人で行く時は帽子が上にあって尊く、二人で行く時は年長者が尊い。今は一人で行くので、帽子に敬意を表しているのです。また、大官が来ると聞き、先に礼儀を習っているだけです。」帝はこれを異とし、彼を連れて帰り、光献皇后に言った。「今日の狩りで良い子を得た。大切に遇すがよい。」内廷に給事するよう命じた。成長すると、蒙古の姓を賜り、宮人弘吉剌氏を妻とした。かつて行軍で疲れ、靴を脱いで草を敷いて寝た。フクロウがその傍らで鳴き、心に嫌悪を感じ、靴を投げてそれを撃つと、蛇が靴の中から落ちた。帰還し、そのことを報告した。帝は言った。「この鳥は人が嫌うものだが、お前にとっては喜びの神である。子孫にその類を殺さぬよう戒めよ。」

帝に従って雲中・桑乾を攻略した。金の将定薛が重兵を擁して野狐嶺を守っていた。帝は察罕に虚実を偵察させた。戻って報告し、敵の馬の足が軽く動くだけで、恐れるに足らないと言った。帝は鼓を鳴らして前進するよう命じ、ついにその軍を撃破した。白楼を七日間包囲し、これを陥落させ、功により御帳前首千戸となった。帝に従って西域の孛哈里・薛迷思干の二城を征伐した。回回国主札剌丁が鉄門関で防ぎ守り、兵は進めなかった。察罕が先駆けて道を開き、その将を斬り、残りの兵はすべて降伏した。また西夏を攻撃し、粛州を破った。軍が甘州に駐屯した時、察罕の父曲也怯律が城中に居て守備していた。察罕は矢文を射て彼を招き、かつ弟に会いたいと求めた。当時弟は十三歳で、城壁の高い所に登らせて会わせた。また使者を城中に遣わし、早く降伏するよう諭させた。その副将阿綽ら三十六人が謀を合わせ、曲也怯律父子を殺し、使者をも殺し、力を合わせて守りを固めた。城が陥落すると、帝は皆を生き埋めにしようとしたが、察罕が百姓は罪がないと言い、三十六人の罪だけにした。霊州に進攻した。夏人が十万の兵をもって救援に赴いた。帝みずから戦い、これを大いに破った。帰還して六盤に駐屯した。夏主は中興を堅守した。帝は察罕を城中に遣わし、禍福を諭させた。人々が降伏を議論している最中、ちょうど帝が崩御し、諸将が夏主を捕らえて殺し、また中興を屠ることを議したが、察罕が力強く諫めて止めさせ、馳せ入って遺民を安集した。

太宗が即位すると、河南攻略に従った。北へ帰還して清水答蘭答八の地に至り、馬三百頭・珠衣・金帯・鞍勒を賜った。皇子闊出・忽都禿が宋を伐つ時、察罕を斥候とせよと命じた。また親王口溫不花に従って南伐し、乙未の年、棗陽及び光化軍を攻略した。間もなく、口溫不花を行在所に召し、全軍を察罕に託した。丁酉の年、再び口溫不花とともに進軍して光州を攻略した。戊戌の年、馬歩軍都元帥を授けられ、諸翼軍を率いて天長県及び滁・寿・泗等の州を攻め落とした。定宗が即位すると、黒貂裘一領・鑌刀十振りを賜り、江淮の地を開拓せよと命じた。

憲宗が即位すると、召し出され、累次にわたり金五十両・珠衣一領・金綺二匹を賜り、都元帥を兼ねて尚書省事を領し、汴梁・帰徳・河南・懐・孟・曹・濮・太原の三千余戸を食邑として賜り、及び諸所の草地、合わせて一万四千五百余頃、戸二万余を与えられた。間もなく、再び召し出され、金四百五十両・金綺・弓矢等の物を賜った。乙卯の年に卒去した。推忠開済翊運功臣・開府儀同三司・上柱国を追贈され、河南王に追封され、諡は武宣。子は十人、長子は木花里。

木花里は憲宗に仕え、直宿衛にあり、釣魚山攻撃に従い、功により四オルド怯憐口千戸を授けられ、金幣及び黄金の馬鞍勒を賜った。世祖が即位すると、金五十両・珠二連を賜った。至元四年、宋を攻撃し、江陵から略地して帰還する途中、安陽灘に至った。宋兵がその帰路を扼したが、木花里が奮撃してこれを破った。都元帥阿朮が落馬した。宋軍が追い及んだ時、木花里が彼を挟み上げて馬上に乗せ、激戦して宋兵を退け、これによって難を免れた。特に銀二百五十両を賜り、金虎符を佩用させた。蒙古軍万戸となった。また襄樊を攻撃して功があり、軍中で卒去した。推誠宣力功臣・栄禄大夫・平章政事・柱国を追贈され、梁国公に追封され、諡は武毅。従孫は亦力撒合。

亦力撒合は、祖父は曲也怯律。太祖の時、召し出されて謁見し、皇子チャガタイに属し、ジャルグチとなった。父は阿波古で、諸王アルグに仕え、西域に居住した。至元十年、貴族の子を選んで宿衛に備え、亦力撒合を宮闕に召し出し、スグルチとし、服御の事を掌らせた。非常に親幸され、大きな政事がある時は彼に諮問し、秀才と呼んで名を呼ばなかった。

かつて河西に使者として赴き帰還した時、諸王ジビ・テムルの官職任用が甚だしく濫用されていると奏上した。帝はこれを嘉した。河東提刑按察使に抜擢され、平陽路ダルガチ泰不花を追放した。召還され、黄金百両・銀五百両を賜り、その正直を表彰した。南台御史中丞に進んだ。帝は内蔵の宝刀を取り出して賜り、「これをもって外台を鎮めよ」と言った。当時、丞相アフマドの子フサインが江浙行省平章政事となり、勢いに恃んで貪汚していた。亦力撒合がその奸を暴き、贓物の鈔八十一万錠を得て、奏上してこれを誅殺した。併せて江淮釈教総摂楊輦真加の諸々の不法な事を弾劾し、諸道は震動した。

二十一年、北京宣慰使に改めた。諸王ナヤンが遼東を鎮守していたが、亦力撒合は彼に異志があり、必ず反逆すると察知し、密かに備えを請うた。二十三年、宣慰司を廃し、遼陽行省を立て、亦力撒合を参知政事とした。やがてナヤンは果たして反逆した。帝みずから将兵してこれを征伐した。当時諸軍が皆集結し、亦力撒合が糧食の輸送を掌り、軍の供給に欠けることがなかった。東方が平定されると、帝はその先見の明を嘉し、かつ糧秣輸送の功労により、左丞を加えた。二十七年、諸王スンギの娘を娶るよう命じ、親しく資装を整えて送り、併せて玉帯一腰を贈った。四川行省左丞に改めた。二十九年、再び玉帯一腰を賜った。元貞元年、成宗が即位すると、入朝し、卒去した。弟は立智理威。

立智理威は、裕宗の東宮ビチクチとなり、文書を司った。至元十八年、しょくが初めて平定された時、帝はその地が長く兵乱を受け、百姓が傷つき損なわれたことを哀れみ、近臣を選んでこれを撫安させ、立智理威を嘉定路ダルガチとした。当時、田畑の開墾・賦税の均等化・盗賊の鎮圧・訴訟の調停などの諸事をもって守令を考課していたが、立智理威は詔を謹んで奉じ、民は安堵し、使者が相次いでその才能を推薦した。ちょうど雲南で盗賊が蜂起し、数十万と号し、成都を寇掠しようと声言した。立智理威は馳せ入って危急を告げ、言辞は懇切で、涙を流して続けた。大臣はそれが本当でないかと疑ったが、帝は言った。「雲南は朕が経営した地である。軽んじてはならぬ。」そこで食事を分けて彼を労った。また立智理威に言った。「南人は乱離の中で育った。兵を厭い禍を畏れぬはずがあろうか。統御の方法を誤り、保つにその道をもってしなかったから、乱を起こすのだ。帰って朕の意を諸将に告げよ。叛くならばこれを討ち、服するならばこれを赦し、多く殺して生気を傷つけぬようにせよ。そうすれば人は必ず定まる。」立智理威は蜀に至り、上の旨を宣布した。

俄かに召されて泉府卿となり、後に刑部尚書に遷る。小吏ありて漕臣劉献が倉粟を盗めりと誣告す。宰相桑哥、方に聚斂を事とし、衆その意に阿り、鍛錬して枉服せしむ。立智理威曰く、「刑部は天下の持平なり。今、輦轂の下にて漕臣冤死せば、何を以て四方を正せんや」と。即ち実を以て聞す。是を以て丞相に忤い、出でて江東道宣慰使と為る。官に在りて務めて学を興し、諸生に俊秀なる者有れば、抜きて之を用う。政を為すに厳明にして、豪民猾吏、手を縮めて敢えて犯さず。然れども亦た刑戮する所無くして治まる。元貞二年、四川行省参知政事に遷る。蜀に婦人夫を殺す者有り、数十人を繫治し、箠楚を加うるも、卒に其の実を得ず。立智理威至り、尽く按じて之を得たり。

大徳三年、参知政事を以て湖南宣慰使と為り、継いで荊湖に改む。荊湖に弊政多し。而して公田最も甚だし。部内実に田無く、民の輸ずる租に随ひて之を取る。戸の大小無く、皆公田租を出だす。水旱と雖も免れず。立智理威、民の便ならざる所を問う凡そ十数事を朝に上り、而して公田を言うこと尤も切なり。朝議、使を遣わして之を理せしむ。会に詔有り、凡そ官に公田無き者は、始めて俸に随ひて之を与う。民力稍く蘇る。七年、再び四川行省参知政事に遷る。八年、左丞に進む。雲南王、朝に入る。所在にて驛騎を以て縦に獵す。立智理威曰く、「驛騎は命令を伝うる所以なり。事急なる有らざれば、且つ馳することを得ず。況んや獵をや」と。王憚り、之が為に獵を止む。蜀人饑う。親しく分を勧めて以て之を賑い、活く所甚だ衆し。死して葬る無き者有れば、則ち己が錢を以て地を買ひて葬らしむ。且つ寛政を修めて以て其の民を撫し、部内以て治まる。

十年、朝に入る。帝、白金の対衣を以て之を賜い、資徳大夫・湖広行省左丞を加う。湖広、歳に幣を織りて上供す。省臣を以て工作を領せしめ、使を遣わして他郡に絲を買わしむ。多く奸利を為し、工官又刻剝を為す。故に匠戸日々貧しく、幣を造ること益々悪し。立智理威、使を遣わさず、工に令して賈人に藏絲有る者を視しめ、択びて之を買わしむ。工病むを告げず、歳に費を省くこと数万貫。他郡之を推して用い、皆便なり。

至大三年、疾を以て官に卒す。年五十七。初め資徳大夫・陝西行省右丞・上護軍・寧夏郡公を贈られ、諡して忠恵と曰う。再び推誠亮節崇徳賛治功臣・栄禄大夫・中書平章政事・柱国・秦国公を贈らる。子二人:長は買訥、翰林学士承旨。次は韓嘉訥、御史大夫。孫達理麻、内府宰相。

札八児火者

札八児火者は、賽夷の人なり。賽夷は西域部の族長なり。因りて以て氏と為す。火者は其の官称なり。札八児は身長く髯美しく、瞳方にして顙広く、雄勇にして騎射に善し。初め軍中に於いて太祖に謁し、一見して之を異とす。太祖、克烈の汪罕と隙有り。一夕、汪罕潜かに兵来たり、倉卒として備え為さず、衆軍大いに潰ゆ。太祖遽かに引き去り、従行する者僅かに十九人、札八児之に与る。班朱尼河に至り、餱糧俱に尽き、荒遠にして食を得る所無し。会うに一の野馬北より来たり、諸王哈札児之を射て、殪す。遂に革を刳りて釜と為し、石より火を出だし、河水を汲みて煑て之を啖う。太祖手を挙げて天を仰ぎて誓ひて曰く、「我をして大業を克定せしめば、当に諸人と甘苦を同じくすべし。苟も此の言を渝えば、河水の有るが如くせん」と。将士感泣せざる莫し。

汪罕既に滅び、西域諸部次第に亦平ぐ。乃ち札八児を遣わして金に使わしむ。金礼を為さずして帰る。金人、居庸の塞に恃み、鉄を冶やして関門を錮し、鉄蒺藜を百余里に布き、精鋭を以て守る。札八児既に還り報ず。太祖遂に師を進め、関を距ること百里にして前る能わず、札八児を召して計を問う。対えて曰く、「此よりして北の黒樹林の中に間道有り。騎行すること一人可なり。臣嚮に嘗て之を過ぐ。若し兵を勒し枚を銜みて以て出でば、終夕にして至る可し」と。太祖乃ち札八児に令し軽騎を以て前導せしむ。日暮れて谷に入り、黎明、諸軍已に平地に在り。疾く趨りて南口に至る。金鼓の声天より下るが若し。金人猶睡りて未だ知らざるなり。驚き起るに比し、已に支吾する能わず。鋒鏑の及ぶ所、流血野に被る。関既に破れ、中都大いに震う。已にして金人汴に遷る。太祖中都の山川形勢を覧て、顧みて左右近臣に謂ひて曰く、「朕の此に至る所以は、札八児の功多し」と。又た札八児に謂ひて曰く、「汝弓を引きて之を射よ。箭の落つるに随ひ、悉く汝に畀えて己が地と為せ」と。乗輿北に帰り、札八児と諸将を留めて中都を守らしむ。黄河以北鉄門以南天下都達魯花赤を授け、養老一百戸を賜い、へいせて四王府を居第と為す。

札八児戦ふ毎に、重甲を被り槊を舞ひ、陣を陷し馳突すること飛ぶが如し。嘗て槖駝に乗じて以て戦ひ、衆当る能わず。丘真人と云う者有り。道有るの士なり。崑崳山中に隠居す。太祖其の名を聞き、札八児を命じて往きて之を聘わしむ。丘札八児に語りて曰く、「我嘗て公を識る」と。札八児曰く、「我亦た嘗て真人を見る」と。他日偶坐し、札八児に問ひて曰く、「公は一身の貴顕を極めんと欲するか。子孫の蕃衍を欲するか」と。札八児曰く、「百歳の後、富貴何くにか在らん。子孫恙無くして、以て宗祀を承ぐるに足れり」と。丘曰く、「命を聞けり」と。後果して願ふ所の如くなる。卒年一百十八。推忠佐命功臣・太傅・開府儀同三司・上柱国を贈られ、涼国公を追封され、諡して武定と曰う。二子:阿里罕、明里察。

阿里罕は蚤くより札八児に従ひ行陣に出入し、勇にして謀に善し。憲宗蜀を伐つに、天下質子兵馬都元帥と為る。哈只を生む。終に湖南宣慰使、贈られ推誠保徳功臣・金紫光禄大夫・司徒しと、涼国公を追封され、諡して安恵と曰う。陝西行省平章政事養安・太府監丞阿思蘭・太僕寺丞補孛を生む。養安は阿葩実を生む。太僕寺卿。

明里察は、開府儀同三司・上柱国を贈られ、涼国公を追封され、諡して康懿と曰う。戸部尚書亦不剌金・陝西行省参知政事哈剌を生む。

朮赤台

朮赤台は、兀魯兀台氏なり。其の先剌真八都、材武を以て諸部に雄なり。子を生むこと曰く兀魯兀台、曰く忙兀、扎剌児・弘吉剌・亦乞列思等五人と。開創の先に当たり、大業を協賛す。厥れ後太祖即位し、其の子孫を命ず各々其の名に因りて氏と為し、号して五投下と曰う。朔方既に定まり、六十五人を挙げて千夫長と為す。兀魯兀台の孫曰く朮赤台、其の一なり。

朮赤台は胆略があり、騎射に優れ、その勇猛さは当時第一であった。初め、怯列王可汗の子鮮昆は智勇を備え、諸部はこれを恐れた。怯列亦哈剌哈真沙陀らが兵を率いて侵攻して来たが、戦いは不利であった。近臣の忽因答児らが馳せ告げて太祖に言うには、「事態は切迫しております。臣下の中で忠勇において朮赤台に勝る者はおりません。急ぎ彼を派遣して敵を防がせるべきです」と。これに従った。朮赤台は命を受け、単騎で敵陣に突入し、鮮昆を射殺し、その大将の失列門らを降伏させ、ついに怯列の地を併せ有した。乃蛮と滅児乞台が合兵して侵攻して来た。諸部の中には密かにこれに与する者もいたが、太祖が兵を率いて突然到来するとは予想せず、諸部は潰走し、乗じてこれを破った。朮赤台はその主君の扎哈堅普及び二人の娘を捕虜として帰還し、諸部はことごとく平定された。扎哈堅普と盟約を結んでこれを帰した。間もなく、乃蛮が再び叛いた。朮赤台は計略をもって扎哈堅普を襲撃し、これを殺し、ついにその国を平定した。

朮赤台は初めて怯列亦征討に従軍し、罕哈より出発し、班真海子を経て、万里の険路を越え、戦陣に遇うごとに必ず先鋒となった。帝はかつて彼に諭して言うには、「朕が汝を望むことは、高山の前の日影のようである」と。嬪御の亦八哈別吉と引者思百を賜い、兀魯兀四千人を統率させ、世々替わることなくと命じた。

子の怯台は、武勇が人に優れ、太宗より世祖に至るまで四朝に仕え、功労により徳清郡王に封ぜられ、金印を賜った。丙申年、食邑として德州の戸二万を賜った。至元十八年、食邑二万一千戸を増加され、肇慶路・連州・德州およびその属邑がすべてこれに隷属した。怯台が薨じると、子の端真抜都児が爵を襲い郡王となった。太宗の時に亦剌哈台と戦い、勝利した。帝は直ちに亦剌哈台の妻を彼に賜った。

世祖が阿里不哥を征伐した時、怯台の子の哈答と忽都忽は跪いて帝の前に進み出て自ら申し出て言うには、「臣の父祖は幸いにも先朝において、軍旅征伐の任に当たり、しばしば戦功を立てました。今、王師が北征なさいます。臣らは幸いにも少壮でございます。父祖のように力戦して自ら忠勤を尽くしたいと願います」と。請いが許されると、石木温都の地で戦った。諸王ハダン、駙馬臘真と兀魯・忙兀が右翼に、諸王タチャル及び太丑台が左翼に、合必赤が中軍を率いた。戦いが始まると、その将合丹を捕らえて斬り、外剌の軍はついに敗北した。また失烈延塔兀の地で戦い、帝の前で乱戦となり、日暮れまでにこれを破った。帝は黄金を賜い、将佐・吏卒に行賞をそれぞれ差等をつけて行った。李璮が叛くと、帝はハビチ及び兀里羊哈台闊闊出を派遣してこれを討たせたが、ハダと兀魯納児台も従軍した。李璮が平定されると、功績に与った。

ハダの子のトホンも、かつて諸王チェチェドに従ってジルホタイを討ち、これを捕らえた。またかつて野孫漠連においてシレギ、ヨブフルを破った。及びナヤンを征伐した時、トホンの弟の慶童も軍中にあり、病んでいたがなおも力戦した。

怯台に二人の子があった。端真とハダである。ハダに三人の子があった。トホン、亦隣只班、慶童である。トホンに二人の子があった。タシ・テムルとドライである。タシ・テムルに一人の子があった。ハラ・ブカという。怯台より以下凡そ九人、皆郡王に封ぜられたという。

鎮海

鎮海は、怯烈台氏である。初め軍伍の長として太祖に従い、班朱尼河の水を共に飲んだ。諸王百官と兀難河に大会し、太祖に成吉思皇帝の尊号を奉った。庚午の年、太祖に従って乃蛮を征伐し功績があり、良馬一頭を賜った。壬申の年、曲出ら諸国を攻撃することに従い、真珠の旗を賜り、金虎符を佩び、闍里必となった。タタル、欽察、唐兀、只温、契丹、女直、河西諸国を攻撃することに従い、捕虜とした生口は万を数え、すべて上献し、御用の服器・白金等の物を賜った。阿魯歡に屯田することを命じ、鎮海城を築いてこれを守備させた。

壬申の年、太祖に従って漢地平定を謀り、軍は隆興に駐屯した。金の将の忽察虎と戦い、矢が胸の間に当たり、傷を包んで出撃すること数回、軍の声威はこれによって大いに振るった。燕を破った後、太祖は命じて城中で四方に四本の矢を射させ、凡そ矢の届いた園池・邸舍の場所をすべて彼に賜った。間もなく中書右丞相に任ぜられた。

己丑の年、太宗が即位すると、扈従して西京に至り、河中・河南・鈞州を攻めた。癸巳の年、蔡州を攻めた。功績により恩州一千戸を賜った。先に、天下の童男童女及び工匠を収め、弘州に局を置いた。その後、西域の織金綺紋工三百余戸を得、及び汴京の織毛褐工三百戸を得て、皆弘州に分属させ、鎮海に世々これを掌らせた。定宗が即位すると、鎮海を先朝の旧臣として、なお中書右丞相に任じた。薨じ、八十四歳。

子は十人、勃古思がその封邑を継いだ。世祖に従って花馬大理を征伐し、兵千人を率い、金沙江に浮橋を結んで軍を渡した。中統の初め、功績を論じて益都等路宣撫使に任じ、金虎符・玉帯を賜った。三年、東平路副ダルガチに改め、叛寇を討平した。間もなく済南等路宣慰使に遷った。至元二年、南京路ダルガチに遷った。四年、蘄県の叛民を討平した。病を理由に辞職を請うと、特に保定路ダルガチを授け、銭一万貫を賜り、家に帰って老い、八十一歳で卒した。

肖乃台〔抹兀答児 兀魯台〕

肖乃台は、禿伯怯烈氏で、忠勇をもって太祖に仕えた。当時、木華黎と博児朮が既に左右万戸に立てられていた。帝はゆったりと肖乃台に言うには、「汝は誰の麾下に属して朕のために力を尽くすことを願うか」と。答えて言うには、「木華黎に属することを願います」と。即日、金符を佩びさせ、蒙古軍を率いさせ、太師国王に従って先鋒となった。

兵は河北に至り、史天沢の父が老幼数千を率いて軍門に詣でて降伏した。国王は制を承けて、天沢の兄の天倪を河北西路都元帥に任じ、真定を領させた。乙酉の年、天沢が母を送って白霫に還ると、副帥の武仙が天倪を殺し、真定をもって叛いた。経歴の王縉が天沢を追って燕に至り、主帥を代行することを請うた。監軍の李伯祐を国王の軍前に遣わして状況を言上し、かつ援兵を請うた。国王は肖乃台に精鋭の甲兵三千を率いさせ、天沢と合兵して中山を進囲させた。武仙はその将の葛鉄槍を派遣して来援させた。肖乃台は包囲を解いてこれを迎え撃ち、新楽においてこれと遭遇し、奮撃してこれを破った。日が暮れ、水を隔てて陣営を構えた。肖乃台はその気力が尽きて必ず夜遁するだろうと推測し、勝ちに乗じてさらに進撃し、これを大破し、鉄槍を生け捕りにした。中山の守将もまた夜遁し、ついに中山を陥落させ、無極を奪い、趙州を抜いた。武仙は真定を捨て、西山の抱犢寨に奔った。肖乃台は天沢と共に城に入り、その民を撫定した。間もなく、武仙が密かに水軍と結んで内応し、夜に南門を開いて武仙を入れ、再びその城を占拠した。肖乃台は慌てて歩兵七十人と共に城を越えて藁城に奔った。夜明け近くに、部下が次第に集まり、兵威は再び振るい、真定を襲撃して奪取した。武仙は城を棄てて逃げた。将士は民の反覆を怒り、一万人を追い出して、これを皆殺しにしようとした。肖乃台は言うには、「金氏は国の威信を慕い、我らの来て蘇生させるのを待ち望んでいた。この民は賊に駆り立て脅迫されたのであって、何の罪があろうか。もし一時の憤りに勝てず、ただ自らその力を屈するだけでなく、他城の降伏しない心を固くするだけである」と。そこで皆これを釈放した。

初めに、武仙が叛いた時、その弟は国王(木華黎)の軍中に人質となっていたが、これを聞いて逃げ去った。肖乃台は弟の撒寒を遣わして紫荊関で追い及んでこれを斬り、その妻子を捕虜として帰還した。そこで兵を整えて前進し、太原を下し、太行を攻略し、長勝寨を抜き、武仙の守将盧治中を斬り、武仙を双門寨に包囲したが、武仙は逃げ去った。兵を率いて太行山の東に出ると、宋の将彭義斌に遭遇し、戦ってこれを破り、火炎山まで追撃してその陣営を破り、義斌を生け捕りにして斬った。大名に至ると、守将の蘇元帥が城を降したので、遂に兵を率いて東平に臨み、陽穀で安撫王立剛を破り、東平を包囲した。立剛は漣水に逃れ、金の守将は城を棄てて遁走し、他の将が邀撃してこれを破ったので、遂に東平を平定した。また蒙古不花とともに河北の懐・孟・えいを巡行し、国王に従って益都を平定した。

壬辰(1232年)、黄河を渡り、汴京を攻略し、睢州を巡行し、金の将完顔慶山奴に遭遇し、戦ってこれを破り、追撃して慶山奴を斬った。金主が蔡州に入ると、諸軍がこれを包囲した。肖乃台と史天澤は城の北面を攻め、汝水が前に阻んだが、筏を組んで密かに渡河し、連日血戦した。金が滅亡すると、朝廷は肖乃台の功績が多いとして、史氏の三萬戸軍を併せて将とし南征を図らせ、東平の三百戸を賜ってその賦税を食邑とし、厳実に命じて邸宅を造営させ、牧馬の草地を分け与え、日々の膳には羊二頭および衣糧などを供給させた。老病のため東平で卒し、漠北に帰葬された。子は七人、抹兀答児と兀魯台が知られる。

抹兀答児は、戊戌年(1238年)、国王忽林赤に従って行省として襄陽にあり、両淮の地を攻略した。己未年(1259年)、従って江を渡り、鄂州を攻め、功により銀五十両を賞された。中統元年(1260年)、阿蘭答児と渾都海を追撃し、戦功に預かった。二年、北征に従い、失木禿の地で阿里不哥を破った。三年、また李璮と戦い、功があった。国王忽林赤がその功績を上奏し、旨を奉じて銀五十両を賞され、本投下の諸色匠戸達魯花赤に任じられた。卒す。子は四人、火你赤は江南行臺御史大夫となった。

兀魯台は、中統三年(1262年)、石高山に従い旨を奉じて探馬赤軍を拘集し、本軍の千戸に任じられた。至元八年(1271年)、武略将軍を授かり、銀符を佩いた。十年、樊城を攻めて功があり、金符に換えられ、武徳将軍となった。十一年、江を渡って功があり、銀三百両を賞され、武節将軍に改められた。十二年四月、軍が建安に至り、軍中で卒した。

子の脱落合察児が職を襲い、参政阿剌罕に従って独松関を攻めて功があり、宣武将軍に昇進した。まもなく侍衞軍を管領することを命じられた。枢密院がその渡江以来の累次の戦功を記録し、十八年、懐遠大将軍に昇進した。二十年、江西行省が命じて武寧の叛賊董琦を討伐し、これを平定し、虎符と江州萬戸府達魯花赤に改めて授けられた。二十四年、潮州に移鎮し、賊の張文恵・羅半天らが江西に嘯聚した時、行枢密院の檄を受けてこれを討伐し、兵を率いて賊寨を破り、賊首の羅大老・李尊長らを斬り、その偽の銀印三つを獲た。軍中で卒した。

吾也而

吾也而は、珊竹氏で、状貌は甚だ偉く、腰は十囲もあった。父は図魯華察といい、武勇で称された。太祖五年(1210年)、吾也而は折不那演とともに金の東京を攻略し、功があった。九年、太師木華黎に従って北京を取るに当たり、兵を率いて先駆けとなり、これを下した。捷報が聞こえると、金紫光禄大夫・北京総管都元帥を授けられた。留まってその民を撫し、綏懐に方策があり、北京以南は相次いで降伏した。

時に金の将撻魯が惠州漁河口を要害とし、数万の衆を擁して北疆回復を図っていた。吾也而が鋭兵千人でその鋒を撃ち摧き、数千人を殺し、その旗鼓羊馬を獲、撻魯を軍中で斬った。趙守玉という者が興州を占拠していたが、吾也而が討伐して平定した。

十一年、張致が錦州で叛いたが、またこれを攻め破った。木華黎は大いに喜び、馬十匹・甲五事をもってその功を賞した。十二年、興州監軍重児が兵を挙げて叛いたが、吾也而が往征した。賊軍が乗馬を射殺したので、軍士は憤怒し、奮って戈を衝き、大いに賊軍を破った。十五年、山東征伐に従い、東平で大戦し、馳せ赴いて陣に陷り、生け捕りにした二将を挟んで還った。木華黎はこれを壮とし、功績を上聞した。十六年、延安征伐に従い、矢が右股に中ったが、力戦してこれを破った。まもなくまた葭・鄜の二州を取り、金の梟将張鉄槍を生け捕りにして献上した。十七年、鳳翔及び所属の州郡を攻略した。十八年、帝の親征に従って河西に赴き、翌年これを下した。詔して吾也而に馬五匹・甲一事を賜う。二十年、木華黎に従って益都を包囲した。二年を経て、三十余城を下した。

太宗元年(1229年)、入朝した。命を受けて撒里答火児赤とともに遼東を征伐し、これを下した。三年、また撒里答とともに高麗を征伐し、受・開・龍・宣・泰・葭等の十余城を下した。高麗は懼れ、和を請うた。吾也而がこれを諭して言うには、「もし子を人質とすることができれば、兵を休めよう」。十三年、その子の綧を吾也而に従わせて来朝させた。帝は大いに悦び、厚く賜物を与え、北京・東京・広寧・蓋州・平州・泰州・開元府の七路征行兵馬都元帥を充てさせ、虎符を佩かせた。

憲宗元年(1251年)、召して東夷のことを問うと、答えて言うには、「臣は老いてはいますが、もし威霊を藉りて、三軍を指揮すれば、敵国すらもまだ攻め落とせましょう。まして東夷の小醜など」。帝はその言葉を壮とし、問うて言うには、「酒はどれほど飲むか」。答えて言うには、「賜わるままに」。時に一人の駙馬都尉が側にいたが、平素より酒豪で称されていたので、命じてこれと角飲みをさせた。帝は大笑いし、錦衣と名馬を賜った。まもなく病と称して帰った。七年、また来朝した。帝はその老いを憫れみ、言うには、「太祖の時から今日まで労を効く者は、卿ただ一人に過ぎず」。賜賚は甚だ厚く、都元帥の職をその中子の阿海に授けた。八年秋九月辛亥、夜中、星が帳前で隕ち、光は数丈、音があった。吾也而は言う、「我は死ぬ」。明日、卒した。年九十六。

子は四人、霅礼が最も有名で、太宗の時に北京等路達魯花赤を授けられた。至元七年(1270年)、昭勇大将軍・河間路総管に改めて授けられた。

曷思麦里

曷思麦里は、西域の谷則斡児朶の人である。初め西遼の闊児罕に近侍し、後に谷則斡児朶所属の可散八思哈長官となった。太祖が西征すると、曷思麦里は可散等の城の酋長を率いて迎え降り、大将の哲伯がこれを上聞した。帝は命じて曷思麦里を哲伯に従わせて先鋒とし、乃蛮を攻めてこれを攻略し、その主曲出律を斬った。哲伯は曷思麦里に命じて曲出律の首を持ち、その地(可失哈児・押児牽・斡端諸城)を巡行させると、皆風を望んで降附した。

また你沙不児城征伐に従い、諭してこれを下した。帝が親征して薛迷思干に至り、その主扎剌丁と月恋掲赤の地で合戦し、これを破った。阿剌黒城で扎剌丁らを追襲し、禿馬温山で戦い、またこれを破った。憨顔城西寨まで追撃し、またこれを破った。扎剌丁は海に逃げ入った。曷思麦里はその珍宝を収めて還った。玉児谷・徳痕の両城を取った。続いて憨顔城もまた下った。

帝は使者を遣わして哲伯を急がせ、疾駆して欽察を討たせた。曷思麥里に命じて曲兒忒・失兒灣沙等の城を招諭させ、ことごとく降伏させた。谷兒只部及び阿速部に至ると、兵を以て敵に抗したが、皆戦いに敗れて降った。また黒林城を招降し、進んで鐵兒山において斡羅思を撃ち、これを克ち、その国主密只思臘を獲た。哲伯は曷思麥里に命じてこれを朮赤太子に献上させ、誅殺した。まもなく康里を征し、孛子八里城に至り、その主霍脫思罕と戦い、またその軍を破り、進んで欽察に至り、これも平定した。軍が還ると、哲伯は卒した。

帝がみずから河西を征するに際し、曷思麥里は獲た珍宝及び七寶繖を持ち、阿剌思不剌思において迎えて謁見した。帝は群臣を顧みて言った、「哲伯は常に曷思麥里の功を称えていた。その軀幹は小さいが、声聞は甚だ大きい」と。進上した金寶を以て、その力の及ぶ限りに従い、ことごとく賜うよう命じた。なお薛徹兀兒とともに必闍赤とすることを命じた。間もなく、曷思麥里が奏上して言うには、かつて招安して得た士卒を亦八里城に留め置いたが、これらを従わせて河西征伐に赴かせるのがよい、と。これを許し、常に左右に居らせることを命じた。也吉里海牙に至り、また失的兒威を討ち平らげた。

太祖に従って汴を征し、懷孟に至り、奥魯の事を領するよう命じられた。帝は白坡より黄河を渡り、睿宗の兵と会して金の将合達を攻め、これを破り、回って金蓮川に駐った。壬辰、懷孟州達魯花赤を授けられ、金符を佩びた。癸巳、金の将強元帥が懷州を囲んだので、曷思麥里はその衆及び昔里吉思・鎖剌海等を率いて力戦し、金兵は退いた。また蒲察寒奴・乞失烈札魯を遣わして、金の総帥范真を招諭し、その麾下の軍民一万余人を率いて来降させた。

己亥六月、帝は曷思麥里が西域に従軍し、尽力が多かったことを以て、その長子捏只必に襲封させて懷孟達魯花赤とし、次子密里吉に襲封させて必闍赤とし、曷思麥里を扎魯火赤として西域に帰らせようとした。大帥察罕・行省帖木迭兒がこれを留めるよう奏上したので、帝はその請いを允した。庚子、懷孟河南二十八処都達魯花赤に進められ、隷する州郡で命に従わぬ者があれば、制令を以てその家を没収することを許された。乙卯五月卒した。

子の密里吉がまた懷孟達魯花赤となった。中統三年、淮西攻めに従い、宋と戦って死んだ。