木華黎〔孛魯 塔思 速渾察 乃燕 霸突魯 塔塔兒台 脫脫〕
木華黎は、札剌兒氏にして、代々阿難水の東に居住す。父は孔溫窟哇、戚里の故を以て太祖の麾下に在り、篾里吉を平らげ、乃蠻部を征することに従い、数たび功を立てる。後に乃蠻また叛く、太祖六騎と共に走り、途中食に乏しく、水際の槖駝を擒えてこれを殺し、焼きて太祖に啖らしむ。追騎まさに及ばんとし、而して太祖の馬斃る、五騎相顧みて駭愕す、孔溫窟哇は乗ずる所の馬を以て太祖を済し、身を以て追騎に当たり、之に死す。太祖免るることを得たり。
太祖の軍嘗て利を失い、会うに大雪、牙帳の在る所を失い、夜草沢の中に臥す。木華黎と博爾朮は裘氊を張り、雪中立ち、太祖を障蔽し、達旦して竟に足を移さず。一日、太祖三十余騎を従えて谿谷の間を行く、顧みて謂いて曰く「此の中或いは寇に遇わば、当に奈何せん」と。対えて曰く「請う、身を以て之に当たらん」と。既にして、寇果たして林間より突出し、矢下ること雨の如し、木華黎弓を引きて之を射れば、三発して三人に中る。其の酋呼んで曰く「爾は誰なるか」と。曰く「木華黎なり」と。徐かに馬鞍を解きて之を持ち、太祖を捍衞して出づれば、寇遂に引き去る。
克烈王可汗乃蠻部と讎戦し、太祖に援を求む。太祖木華黎及び博爾朮等を遣わして之を救わしめ、乃蠻の衆を尽く按臺の下に殺し、甲仗・馬牛を獲て還る。既にして、王可汗太祖を襲わんと謀る、其の下の抜台之を知り、密かに太祖に告ぐ。太祖木華黎を遣わして精騎を選び夜その営を斫らしむれば、王可汗走りて死に、諸部の大人風を聞きて款附す。
歳丙寅、太祖即皇帝位し、首に木華黎・博爾朮を命じて左右の萬戸と為す。従容として謂いて曰く「国内平定す、汝等の力多くを占む。我と汝は猶ほ車の轅有るが如く、身の臂有るが如し。汝等切に宜しく此を体し、初心を替うること勿れ」と。
金の降る者皆其の主の璟が宗親を殺戮し、荒淫日に恣にすと言う。帝曰く「朕出師名有り」と。辛未、金を伐つに従い、宣徳に迫り、遂に徳興を克つ。壬申、雲中・九原諸郡を攻め、之を抜き、進んで撫州を囲む。金兵号四十万、野狐嶺の北に陣す。木華黎曰く「彼衆我寡、死力を致して戦わずんば、未だ易くは破れ難し」と。敢死の士を率い、馬を策し戈を横たえ、大呼して陣に陷り、帝諸軍を麾して並びに進ませば、大いに金兵を敗り、澮河に追い至り、尸百里に殭る。癸酉、居庸関を攻むるも、壁堅くして入るを得ず、別将の闍別を遣わして兵を統べさせ紫荊口に趨らしむれば、金の左監軍高琪兵を引いて来たり拒ぐも、戦わずして潰え、遂に涿州を抜く。因って兵を分かち益都・濱・棣諸城を攻め下し、遂に霸州に次ぐ、史天倪・蕭勃迭衆を率いて来たり降り、並びに奏して萬戸と為す。
甲戌、燕を囲むに従い、金主和を請い、北還す。諸軍を統べさせ遼東を征せしめ、高州に次ぐ、盧琮・金朴城を以て降る。乙亥、裨将の蕭也先計を以て東京を平定す。北京を進攻す、金の守将銀青衆二十万を率いて花道に拒ぎ逆戦す、之を敗り、首級八万余を斬る。城中食尽き、契丹軍関を斬って来たり降る、進軍して之を逼れば、其の下銀青を殺し、寅答虎を推して帥と為し、遂に城を挙げて降る。木華黎其の降りの緩きを怒り、之を坑せんと欲す、蕭也先曰く「北京は遼西の重鎮たり、既に降りて之を坑せば、後豈に降る者有らんや」と。之に従う。寅答虎を奏して北京を留守せしめ、吾也而を以て権兵馬都元帥と為し之を鎮めしむ。高徳玉・劉蒲速窩兒を遣わして興中府を招諭せしむ、同知の兀里卜従わず、蒲速窩兒を殺し、徳玉走りて免る。未だ幾ばくもせず、吏民兀里卜を殺し、土豪の石天應を推して帥と為し、城を挙げて降る、奏して興中尹・兵馬都提控と為す。
錦州の張鯨衆十余万を聚め、節度使を殺し、臨海郡王と称し、是に至り来たり降る。詔して木華黎に鯨を以て総北京十提控兵と為し、掇忽闌に従い南征し未だ附かざる州郡を征せしむ。木華黎密かに鯨に反側の意有るを察し、蕭也先を以て其の軍を監せしむることを請う。平州に至り、鯨疾有りと称して逗留し、復た遁れ去らんと謀る、監軍の蕭也先之を執り行在に送り、之を誅す。鯨の弟の致其の兄の誅せられたるを憤り、錦州に拠りて叛き、平・灤・瑞・利・義・懿・広寧等州を略す。木華黎蒙古不花等の軍数万を率いて之を討つ、州郡多く致の署する所の長吏を殺して降る。進んで紅羅山に逼れば、主将の杜秀降り、奏して錦州節度使と為す。
丙子、致興中府を陷す。七月、兵を進めて興中に臨む。先ず吾也而等を遣わして溜石山を攻め、之に諭して曰く「今若し急攻せば、賊必ず兵を遣わして来たり援けん、我其の帰路を断てば、致擒う可きなり」と。又た蒙古不花を遣わして永徳県の東に屯し之を候わしむ。致果たして鯨の子の東平に騎兵八千・歩卒三万を将いさせ、溜石を援けしむ。蒙古不花兵を引いて之に趨り、馳せて報ず、木華黎夜半兵を引き疾馳し、神水県の東にて之に遇い、夾撃す。麾下の兵の半ばを分かち、馬を下りて歩戦す。善射の者数千を選び、令して曰く「賊の歩兵は甲無し、疾く之を射よ」と。乃ち騎兵を麾して斉しく進ませ、大いに之を敗り、東平及び士卒一万二千八百余級を斬る。開義県を抜き、進んで錦州を囲む。致張太平・高益を遣わして出戦せしむるも、又た之を敗り、首級三千余を斬り、溺死する者算うべからず。囲み守ること月余、致将校の力を戮さざるを憤り、敗将二十余人を殺す。高益懼れ、致を縛り出でて降り、誅に伏す。広寧の劉琰・懿州の田和尚降る、木華黎曰く「此れ叛寇なり、之を存すれば以て後を懲らす無し」と。工匠・優伶を除く外、悉く之を屠る。蘇・復・海の三州を抜き、完顔衆家奴を斬る。咸平の宣撫蒲鮮等衆十余万を率い、遁れて海島に入る。
丁丑(1217年)八月、詔を下して太師・国王に封じ、都行省として制を承り事を行い、誓券と黄金印を賜い、「子孫国を伝え、世々絶えることなし」と曰う。弘吉剌・亦乞烈思・兀魯兀・忙兀等十軍、及び吾也而の契丹・蕃・漢等の軍を分かち、並びに麾下に属せしむ。且つ諭して曰く、「太行の北は、朕自ら経略す。太行以南は、卿其れ勉めよ」と。大駕の建つる所の九斿の大旗を賜い、仍て諸将に諭して曰く、「木華黎この旗を建てて以て号令を出すは、朕の親臨するが如し」と。乃ち行省を雲・燕に建て、以て中原を図る。遂に燕南より遂城及び蠡州諸城を攻め、これを抜く。冬、大名府を破り、遂に東に益都・淄・登・萊・濰・密等の州を定む。戊寅(1218年)、西京より太和嶺を由りて河東に入り、太原・忻・代・澤・潞・汾・霍等の州を攻め、悉くこれを降す。遂に平陽を徇す。金の守臣城を棄てて遁ぐ。以前鋒拓拔按察児に蒙古軍を統率せしめて之を鎮め金兵を拒がしめ、義州監軍李廷植の弟守忠を以て河東南路帥府事を権む。己卯(1219年)、蕭特末児等を以て雲・朔より出で、岢嵐火山軍を攻め降す。谷里夾打を以て元帥達魯花赤と為し、石・隰州を攻め抜き、絳州を撃ち、これを克つ。
庚辰(1220年)、復た燕より趙を徇し、漢城に至る。武仙真定を挙げて来降す。権知河北西路兵馬事史天倪進言して曰く、「今中原粗く定まるも、而して過ぐる所猶ほ兵を縦して抄掠す、是れ王者民を弔うの意に非ず」と。木華黎曰く、「善し」と。令を下し無剽掠を禁じ、獲る所の老稚は、悉く田里に還し遣わす。軍中粛然たり、吏民大いに悦ぶ。兵滏陽に至る。金の邢州節度使武貴迎へて降る。天平寨を進攻し、これを破る。蒙古不花を遣わし兵を分かち略めて河北の衞・懷・孟州を定め、済南に入る。嚴実相・魏・磁・洺・恩・博・滑・濬等の州の戸三十万を籍して所隷とし、軍門に詣でて降る。
時に金兵黄陵岡に屯し、号二十万、歩兵二万を遣わし済南を襲う。木華黎軽兵五百を以て之を撃ち走らす。遂に大軍と会し、黄陵岡に迫る。金兵河南岸に陣し、死戦を示す。木華黎曰く、「此れ長兵を用うべからず、当に短兵を以て勝を取るべし」と。騎に下馬せしめ、満を引き斉しく発せしめ、亦た下馬して戦を督う。果たして之を大いに敗り、溺死する者衆し。楚丘を進攻す。楚丘城小にして固く、四面皆水なり。諸軍に草木を以て塹を填めしめ、直ちに城下に抵る。嚴実率いる所の部を以て先に登り、これを抜く。単州を攻め下し、東平を囲む。実を以て山東西路行省を権め、之を戒めて曰く、「東平糧尽きば、必ず城を棄てて走らん。汝其の去るを伺い、即ち城に入りて之を安輯せよ。郡県を苦しむることなかれ、以て事を敗るなかれ」と。梭魯忽禿を留め蒙古軍三千を以て之に屯守せしむ。辛巳(1221年)四月、東平糧尽き、金の行省忙古汴に奔る。梭魯忽禿邀撃して之を斬ること七千余級、忙古数百騎を引きて遁げ去る。実城に入り、行省を建て、其の民を撫す。
先に、郡王帯孫洺を攻めて下さず、是に至り石天応を遣わし之を抜く。五月、軍を還して野狐嶺に至る。宋の漣水忠義統轄石珪来降す。之を以て済・兖・単三州都総管と為し、綉衣玉帯を予え、之を労って曰く、「汝跋渉数千里を憚らず、義を慕いて来る。尋で当に列奏し、汝に高爵を賜わん。爾其れ勉めよ」と。京東安撫使張琳皆来降す。琳を以て山東東路益都滄景濱棣等州都元帥府事を行わしむ。鄭遵亦た棗郷・蓨県を以て降り、之を(完)〔元〕州に陥め、遵を以て節度使と為し、元帥府事を行わしむ。
秋八月、従って青冢に駐る。監国公主使いを遣わして来労し、将士を大いに饗す。東勝より河を渡り西す。夏国の李王兵五万を以て属せんことを請う。冬十月、復た雲中より歴て太和寨を経、葭州に入る。金の将王公佐遁ぐ。石天応を以て行臺兵馬都元帥を権む。進みて綏徳を取り、馬蹄寨を破り、延安より三十里に距りて止みて舍す。金の行省完顔合達兵三万を出して城東に陣す。蒙古不花騎三千を以て之を覘い、馳せて報じて曰く、「彼吾が兵少なるを見て、軽敵の心有り。明日合戦すべし。当に佯敗すべく、以て伏兵を以て勝を取るべし」と。之に従う。夜半、大軍を以て枚を銜み斉しく進み、城東十五里の両谷間に伏す。明日、蒙古不花兵を進む。金兵を見るや、即ち鼓旗を棄てて走る。金兵果たして之を追う。伏発し、鼓声天地を震わし、万矢斉しく下る。金兵大いに敗れ、七千級を斬り、馬八百を獲る。合達走りて延安を保つ。之を囲むこと旬日、下さず。乃ち南に洛川を徇し、鄜州を克つ。
北京権帥石天応金の驍将張鉄槍を擒えて送る。木華黎其の降らざるを責む。厲声答えて曰く、「我金朝の厚恩を受くること二十余年、今事此に至る。死あるのみ!」と。木華黎之を義とし、其の縛を解かんと欲す。諸将其の屈せざるを怒り、竟に之を殺す。遂に坊州を降し、士卒を大いに饗す。金復た隰州を取ると聞く。軒成を以て経略使と為す。是に於て復た丹州より河を渡り隰を囲み、之を克つ。合丑を留め蒙古軍を統率せしめて石・隰の間に鎮め、田雄を以て元帥府事を権む。
壬午(1222年)秋七月、蒙古不花に令し兵を引きて秦隴に出でしめ、以て張り声勢す。山川の険夷を視る。大兵雲中を道とし、孟州四蹄寨を攻め下し、其の民を州に遷す。晉陽義和寨を抜き、進みて三清巖を克ち、霍邑山堡に入り、其の人を趙城県に遷す。青龍堡に迫る。金の平陽公胡天(祚)〔作〕拒み守る。裨将蒲察定住・監軍王和壁を開きて降る。天(祚)〔作〕を平陽に遷す。
八月、星昼に見ゆ。隠士喬静真曰く、「今天象を観るに、未だ征進すべからず」と。木華黎曰く、「主上我に命じて中原を平定せしむ。今河北平らかなりと雖も、而して河南・秦・鞏未だ下らず。若し天象に因りて兵を進めざらば、天下何時にか定まらんや。且つ君命に違う、忠と為すを得んや」と。
冬十月、晋を過ぎて絳に至り、栄州胡瓶堡を抜く。至る所風を望み帰附す。河中久しく金の有する所と為るも、是に至り復た来帰す。木華黎石天応を召して謂いて曰く、「蒲は河東の要害なり。我守者を択ぶに、君に非ざれば可からず」と。乃ち天応を以て河東南北路陝右関西行臺を権めしむ。平陽の李守忠・太原の攸哈剌抜都・隰州の田雄並びに節制を受く。天応に命じて浮梁を造らしめ、以て帰師を済さしむ。乃ち河を渡り同州を抜き、蒲城を下し、径ちに長安に趨る。金の京兆行省完顔合達兵二十万を擁して固く守り、下さず。乃ち麾下の兀胡乃・太不花の兵六千を分かちて之に屯守せしむ。按赤に兵三千を将いて潼関を断たしめ、遂に西に鳳翔を撃つ。月余り下さず。諸将に謂いて曰く、「吾命を奉じて専征す。数年を数えずして遼西・遼東・山東・河北を取り、余力を労せず。前に天平・延安を攻め、今鳳翔を攻めて皆下さず。豈吾が命将に尽きんとするか」と。乃ち兵を渭水の南に駐め、蒙古不花を遣わし南に牛嶺関を越えしめ、宋の鳳州を徇して還る。
時に中條山の賊侯七らが十数万の衆を集め、大軍が既に西に向かったのを窺い、河中を襲おうと謀った。石天應は別将の呉権府に兵五百を率いさせて夜に東門より出撃させ、両谷の間に伏せさせ、戒めて言った、「賊が半分以上過ぎたところで急に撃て、我はその前に出て、汝はその後を攻めれば、勝てるであろう」と。呉権府は酒に酔って期を失い、天應は戦死した。城は陥落し、賊は家屋を焼き払い、人民を殺掠して、中條に引き返した。先鋒元帥の按察兒が邀撃してこれを破り、数万級を斬り、侯七はまた逃げ去った。木華黎は天應の子の斡可にその衆を継がせた。
子 孛魯
孛魯は沈毅にして魁傑、寛厚にして人を愛し、諸国の言葉に通じ、騎射に長じた。年二十七、行在所に入朝した。時に太祖は西域におり、夏国主の李王は外援と陰に結び、異図を抱き、密かに孛魯に討伐を詔した。甲申の秋九月、銀州を攻めてこれを落とし、数万級を斬首し、生口・馬・駱駝・牛・羊数十万を獲、監府の塔海を俘虜とし、都元帥の蒙古不華に兵を率いさせてその要害を守らせて帰還した。
乙酉の春、また行在所に入朝した。同知真定府事の武仙が叛き、都元帥の史天倪を殺し、居民を脅して雙門寨に逃れた。仙の弟は軍中に人質となっていたが、家族を連れて逃げ帰り、撒寒を遣わして紫荊関で追いつき、これを斬った。天倪の弟の天澤に命じて帥府の事を代行させた。丙戌の夏、功臣の戸口を食邑として封ずる詔があり、十投下と言い、孛魯がその首にあった。
宋の将の李全が益都を陥とし、元帥の張琳を捕らえて楚州に送った。秋九月、郡王の帯孫が兵を率いて李全を益都に包囲した。冬十二月、孛魯が兵を率いて斉に入り、先に李喜孫を遣わして李全を招諭した。李全は降伏しようとしたが、部将の田世栄らが従わず、喜孫を殺した。丁亥の春三月、李全が包囲を突破して逃げようとしたのを邀撃して大いに破り、七千余級を斬首し、互いに踏み合い溺死する者は数え切れなかった。夏四月、城中の食糧が尽き、李全は降伏した。諸将は皆言った、「李全は勢い窮まって出降したのであり、心服したのではない。今誅さなければ、後必ず患いとなろう」と。孛魯は言った、「そうではない。一人を誅するは易い。山東に未だ降らぬ者尚多く、李全は平素人心を得ている。これを殺しても威を立てるに足らず、徒らに民望を失うのみである」と。表して上聞し、詔して孛魯に便宜処置させた。そこで李全を山東淮南楚州行省とし、鄭衍德・田世栄をその副とし、郡県は風を聞いて帰順し、山東は悉く平定された。
時に滕州は尚だ金の守るところであり、諸将の中には炎暑のため進攻すべからずと言う者もあったが、孛魯は言った、「主上は親しく大軍を督し、西域を平定すること数年、暑さを理由に戦わなかったと聞かない。我等どうして安んじて自ら安逸を貪ることができようか」と。遂に進兵を促した。金兵が出戦したがこれを破り、三千余級を斬り、その余の老幼は門を開いて出降し、州を石天祿に属させた。先鋒元帥の蕭乃台に命じて蒙古軍を率いさせて済・兖に屯させ、課課不花に兵三千を率いさせて濰・沂・莒に屯させ、宋に備えさせた。千戸の按札に大軍を統率させて河北に駐屯させ、金に備えさせた。
子七人あり:長は塔思、次は速渾察、次は霸都魯、次は伯亦難、次は野蔑干、次は野不干、次は阿里乞失。
孛魯の子 塔思
塔思、一名は查剌溫、幼少より常児と異なり、英才大略、祖風を豊かに備えていた。木華黎は常に言った、「我が志を成すは必ずこの児である」と。成長して後、語る毎に必ず先ず忠孝を言い、「大丈夫、天子の厚恩を受け、当に行陣の間に死を効し、以て報称を図るべし。安んじて萎靡苟且目前に委せ、以て先世の勲業を堕すことができようか」と言った。年十八で爵を襲い、遂に雲中に至った。
庚寅の秋九月、叛将の武仙が潞州を包囲した。太宗は塔思にこれを救わせた。武仙はこれを聞き、軍を十余里退いた。大軍未だ至らざるに、塔思は十余騎を率いて賊の形勢を偵察した。武仙は伏兵を恐れ、敢えて犯さなかった。塔思は言った、「日暮れである。明朝を待ってこれを撃とう」と。この夜五鼓、金の将の移剌蒲瓦が来襲し、我が軍はこれと戦って利あらず、沁南を退いて守った。賊は還って潞州を攻め、城は陥落し、主将の任存がこれに死した。
冬十月、帝は親征し、万戸の因只吉台と塔思を遣わして潞州を再び取らせた。武仙は夜遁し、邀撃して七千余級を斬首し、任存の甥に代わってその衆を統率させた。十一月、帝は鳳翔を攻め、塔思に命じて潼関を守らせて金兵に備えさせた。河中は石天應の死後、再び金の所有となっていた。辛卯、帝は親しくこれを攻め落とし、金の元帥の完顔火燎は遁走し、塔思は追撃してこれを斬った。
壬辰の春、睿宗が金兵と汝・漢の間に相拒した。金の歩騎二十万、帝は塔思と親王の按赤台・口溫不花に合軍して先に進み河を渡らせ、声援とさせた。三峯山に至り、睿宗の軍と合流した。金兵は陣を成し、将に戦わんとしたが、大雪に会い、兵を分けて四方に出し、塔思は矢石を冒して先にその鋒を挫き、諸軍が続いて進み、金兵を大いに破り、移剌蒲瓦を生け捕り、完顔合達は単騎で鈞州に逃げたが、追撃してこれを斬り、遂に鈞州を抜いた。三月、帝は北還し、詔して塔思と忽都虎に兵を統率させ、河南を攻略平定させた。諸郡は皆降ったが、ただ汴京・帰徳・蔡州は未だ下らなかった。塔思は使者を遣わして請うて言った、「臣が祖父は大業を助け興し、累ね勲伐を著した。臣は世爵を襲い、曾て寸の効もなく、去歳また上党に利を失い、罪は万死に当たる。願わくは汴城の一角を分攻し、以て陛下に報いん」と。帝はその言を壮とし、占わせたが、利あらず、乃ち止めた。
癸巳の秋九月、定宗に従って潜邸より東征し、金の咸平宣撫の完顔萬奴を遼東にて生け捕りにした。萬奴は乙亥の歳より衆を率いて東海を保ち、ここに至って平定した。
甲午(1234年)の秋七月、行在所に朝見した。時に諸王が大会し、帝(太宗オゴデイ)は塔思を顧みて言った、「先皇帝(太祖チンギス・カン)は大業を開き、四十年近くになる。今、中原・西夏・高麗・回鶻の諸国は皆すでに臣従し、ただ東南の一角のみがまだ声教を阻んでいる。朕は自ら天討を行いたいと思うが、卿らはどう思うか」。群臣はまだ答えなかったが、塔思が答えて言った、「臣が家は累世恩を受け、万一に報いようと図るのは、まさに今日であります。臣は駑鈍ではありますが、天威を恃み、淮・浙を掃清したいと願います。どうして大駕を煩わして不測の地に親臨させましょうか」。帝は喜んで言った、「塔思は年少ながら、英風美績は朕の心に留まっている。必ずや我が家の大事を成し遂げるであろう」。黄金の甲冑・玻瓈帯及び良弓二十を賜い、王子曲出と共に軍を総べ南征することを命じた。乙未(1235年)の冬、棗陽を陥落させた。曲出は別に襄・鄧を攻略し、塔思は兵を率いて郢を攻めた。郢は漢江に臨み、城は堅く兵は精鋭で、かつ戦艦が多い。塔思は木筏を造ることを命じ、汶上の達魯花赤劉抜都児に死士五百を率いさせ、筏に乗って進撃させた。騎兵を率いて沿岸から迎え撃ち射かけ、大いにこれを破り、溺死者は半数を超え、残りは皆郢に逃げ込んだ。城壁は堅固で陥とせず、生口・馬牛数万を捕らえて帰還した。
丙申(1236年)の冬十月、再び鄧州から出撃し、遂に蘄・黄に至った。蘄州は使者を遣わし金帛・牛酒を献じて軍を犒労し、請うて言った、「宋は小国ですが、大朝に進貢すること年久しい。どうか王には生霊をお思いくださいますよう」。そこでこれを赦免した。遂に進軍して符鎮・六安県焦家寨を陥落させた。
丁酉(1237年)の秋九月、八柳から河を渡り、汴京に入った。守臣の劉甫が大慶殿に酒宴を設けた。塔思は言った、「これは故金の主君の居所である。我は人臣であるから、ここに居座ることはできない」。そこで劉甫の家で宴を催した。冬十月、再び口温不花と共に光州を攻め、主将の黄舜卿が降伏した。口温不花は別に黄州を攻略した。塔思は大蘇山を攻め、数千級を斬首し、生口・牛馬を千単位で獲得した。戊戌(1238年)の春正月、安慶府に至ると、官民は皆江東に逃げ去っていた。北峽関に至ると、宋の汪統制が兵三千を率いて降伏したので、尉氏に移した。三月、行在所に朝見した。秋九月、帝は行宮で群臣に宴を賜い、塔思は大いに酔った。帝は侍臣に語って言った、「塔思の神は既に逝ってしまった。どうして長く生きられようか」。冬十二月、雲中に帰還した。己亥(1239年)の春三月、薨去した。享年二十八。
子の碩篤児は幼かったので、弟の速渾察が襲爵した。碩篤児が成長すると、詔により別に民三千戸を賜って食邑とし、国王の旗幟を建てることを許され、五品の印一つ・七品の印二つを下賜され、その家臣に交付し、官属を置くことを列侯の故事の如くにした。碩篤児が薨じると、子の忽都華が襲爵した。忽都華が薨じると、子の忽都帖木児が襲爵した。忽都帖木児が薨じると、子の宝哥が襲爵した。宝哥が薨じると、子の道童が襲爵した。
速渾察は性質が厳厲で、賞罰は明らかで信義があり、人々は敢えて犯す者はいなかった。兄の塔思と共に太宗に従って鳳翔を攻め功があった。兵を率いて潼関に至り、金人と戦って屡々勝利した。金を滅ぼした後、皇子闊出が宋の棗陽を攻め、郢に入った時、速渾察は皆これに従った。
子は四人:忽林池といい、王爵を襲った;乃燕といい;相威といい;撒蛮といい。相威は独自に伝がある。
乃燕は性質が謙和で、学問を好み、賢能をもって称された。速渾察が薨じると、憲宗(モンケ)は諸子の中から選び、乃燕に爵を襲うことを命じた。乃燕は力を尽くして辞退して言った、「臣には兄の忽林池がおります。彼が襲うべきです」。帝は言った、「朕は知っている。しかし柔弱で勝つことができない」。忽林池もまた固く辞譲した。乃燕は頓首して涕泣し、力を尽くして辞退したが、命を免れることができず、やがて言った、「もしそうであるならば、王爵は必ずや受けられません。願わくは臣の兄に代わって軍国の事を行わせてください」。そこで忽林池が国王として襲爵し、事の大小を問わず、必ず乃燕と謀議し、剖決は精当で、滞るところがなかった。
世祖(クビライ)が潜藩にあった時、常に乃燕と事を論じた。乃燕は大義を敷陳し、また典故に明るく習熟していた。世祖は左右に謂って言った、「乃燕は後必ず大用に堪えるであろう」。そこで彼を薛禅(セチェン)と号した。これは華言で大賢という意味である。乃燕は顕要な地位にありながら、小心謹畏で、毎回一族の子弟たちを諭して言った、「先世は太祖皇帝に従って矢石の間を出入りし、堅きを被り鋭きを執り、将を斬り旗を搴ぎ、勤労すること四十余年、遂に功名を成し遂げた。それ故に一家は恩を蒙ること深厚で、極まりといえる。慎んで驕惰に陥り、先王の名を堕とすことのないように、お前たちは戒めよ」。病没した。世祖はこれを聞き、彼のために悲悼した。至正八年(1348年)、中奉大夫・遼陽等処行中書省参知政事・護軍を追贈され、魯郡公に追封された。子は二人:碩德といい、伯顔察児といった。
碩德は通敏で幹才があった。世祖が即位すると、宿衛に入り、朝儀を司り、後に通政院事を同知した。嘗て言上した、遼東の斡拙・吉烈滅の二種の民が屡々寇掠を行うので、近臣を遣わして諭すべきであると。帝は正にその人選に難儀していたところ、皆が言った、「碩德のみが元勲の世冑で、使節とすることができます」。帝は深くこれを然りとし、碩德に問うた。答えて言った、「先臣は太祖皇帝に従って天下を定め、険艱を辞せず、勲業を立てました。陛下が臣の年少愚戇を以てせず、願わくは行くことを請います」。帝は大いに喜び、御衣を賜い、宴を賜って出発させた。碩徳が到着すると、諸万戸を集めて兵を衝要に陳列し、その渠魁を詰問して誅殺した。脅従した者は皆降伏した。帝は大いに悦び、賞賚に差等をつけた。後に乃顔の征討に従い、また西域に使いし、屡々殊勲を立てた。卒去し、推忠宣恵寧遠功臣を追贈され、諡して忠敏といった。加えて資善大夫・嶺北等処行中書省右丞・上護軍を追贈され、魯郡公に追封された。
霸突魯は世祖に従って征伐し、先鋒元帥となり、累ねて戦功を立てた。世祖が潜邸にあった時、ゆったりと霸突魯に語って言った、「今天下は少し定まった。我は主上に駐驆を回鶻に置き、兵を休め民を息ませるよう勧めたいと思うが、どうか」。答えて言った、「幽燕の地は、龍蟠虎踞し、形勢雄偉で、南は江淮を控え、北は朔漠に連なる。かつ天子は必ず中に居して四方の朝覲を受けるべきです。大王が果たして天下を経営しようとされるならば、駐驆の所は燕でなければなりません」。世祖は憮然として言った、「卿の言がなければ、我はほとんどこれを失うところであった」。
子四人:長は安童、次は定童、次は霸都虎台;他の側室の子に和童あり、国王を襲封した。安童は別に伝がある。
只必は幼より書を読み耽り、筆墨を習った。至元十四年(1277年)、東平を監し、官は少中大夫、善政多く、清白を以て称された。嘗て家蔵の書二千余巻を出し、東平の廟学に置き、学徒に講習せしめた。尋いで嘉議大夫・江南湖北道提刑按察使を授かり、浙西に改めた。大徳四年(1300年)入朝し、金段十匹を賜う。明年の春卒し、年五十一。子三人、皆早く喪う。只必が按察使に除されてより、弟の禿不申がその職を嗣いだ。
禿不申は性質淳靖にして、喜怒を形にせず、民の疾苦を知り、善道を以てこれを導くことができた。旱魃の時は嘗て祈祷し、即ち雨を得た。凶歳には朝廷に請い、倉を開いて賑済した。同僚と睦み、学校を興した。太中大夫を加えられた。士民は石を刻み、その政績を記したという。卒年五十一。子五人:長は不老赤、次は塔実脱因、次は阿魯灰、次は完者不花、次は留住馬。皆順次に東平ダルガチを嗣いだ。
脱脱の祖父は国王速渾察を嗣ぎ、沈深にして智略あり。嘗て命を受け征討し、向かうところ克捷した。父の撒蛮は幼より穎異で、襁褓の時より、世祖はこれを子の如く撫育した。嘗てこれを挟み南征し、同舟して大江を渡るに、その失するを慮り、御榻に繋いだ。長じてより、嘗て左右に侍し、帝は嘗てこれに詔して曰く、「男女異路は古制なり、況んや掖庭においてをや。礼は粛にせざるべからず、汝そのことを司れ」と。既にして近臣の孛羅が命を奉じて急ぎ出で、行進の順序を失う。撒蛮はその礼に違うを怒り、執えて別室に囚う。帝はその久しく至らざるを怪しみ、その故を詢ね知り、罪を釈せしめよと命じた。撒蛮は因りて進みて曰く、「令は陛下より出ず、陛下乃ち自らこれに違う、何を以て臣下を責めんや」と。帝曰く、「卿の言誠に是なり」と。ここより大任せんとする意あり。時に疾を以て卒し、果たさず、年僅かに十七。
脱脱は幼くして既に父を失い、その母の孛羅海は篤く意を用いてこれを教え、孜孜として恐らく及ばざるが如し。稍々長ずると、宿衛に直し、世祖は復た親しく誨導し、特に酒を嗜むことを戒めとした。元服して後、儀容甚だ偉なり。儒士と語るを喜び、一つの善言善行を聞く毎に、拱璧を得るが如く、終身これを識して忘れず。
至元二十四年(1287年)、乃顔征伐に従う。帝は山頂に駐驆し、旌旗野を蔽う。鼓未だ作さざるに、斥候が隙有り乗ずべきを報ずるや、脱脱は即ち甲を擐い家奴数十人を率い疾駆してこれを撃つ。衆皆披靡して敢えて前進せず。帝これを望見し、大いに嗟賞を加え、使者を遣わしてこれを労い、且つ召し還して曰く、「卿軽く進む勿れ、この寇は擒い易し」と。その刀は既に折れ、馬は既に箭に中ったるを視る。帝は顧みて近臣に謂いて曰く、「撒蛮不幸にして早く死す、脱脱幼し、朕これを撫でて教う、常にその立たざるを恐る、今能く此の如くなるは、撒蛮は子有りと謂うべし」と。遂に親しく佩刀及び乗馬を解きてこれを賜う。ここより深く器重を加えられ、機密の事を預聞するを得た。
その後、哈丹復た乱を為すや、成宗は時に潜邸に在り、師を督して往きてこれを征す。脱脱は衆を引き率先して馬を躍らせてこれを蹙め、その衆大いに潰る。脱脱の馬が泥沼に陥るや、哈丹の兵復た進みて挑戦す。脱脱の弟の阿老瓦丁が戈を奮って衝撃し、遂にこれを大いに敗る。
成宗即位すると、その寵顧は特に篤く、常に禁闥に侍し、出入り謹み有り、退いて家人に語りて曰く、「我れ昔先帝の訓を親しく承け、嗜飲する毋れと飭令せらる、今未だ絶つ能わず。人として過ちを知りて改めざる者あらんや。今より以往、家人に酒を以て吾が前に至らしむる者あれば、即ち痛くこれを懲らせよ」と。帝これを聞き、喜びて曰く、「扎剌児台にして脱脱の如きは幾ばくも無し、今能く酒を剛制す、真に大用すべし」と。即ち資徳大夫・上都留守・通政院使・虎賁衛親軍都指揮使を拝し、政令厳粛にして、克くその職を修めた。
時に朱清・張瑄は海運の故を以て、参知政事の位に至り、その勢位を恃み、多く不法を行い、事覚るるを恐れ、黄金五十両・珠三囊を以て脱脱に賂し、その罪を蔽わんことを求む。脱脱は大いに怒り、これを有司に繫ぎ、使者を遣わして以て聞かしむ。帝は喜びて曰く、「脱脱は我が家の老臣の子孫なり、その志固より衆人と殊なるべし」と。内府の黄金五十両を賜い、使いを回して寵賚せしむ。豪民にして白昼人を殺す者あり、脱脱は立命して有司に法に按じてこれを誅せしむ。ここより豪猾息を屏ぎ、民これにより安んず。帝は浙民の相安ずること久しきを以て、未だ召還に及ばず、大徳十一年(1307年)、位にて卒す。年四十四。子の朵児只は別に伝あり。
博爾朮〔玉昔帖木児〕
博爾朮は、阿児剌氏。始祖は孛端察児、才武を以て朔方に雄たり。父は納忽阿児闌、烈祖神元皇帝と境を接し、隣好を敦睦す。博爾朮は志意沈雄にして、戦を善くし兵を知り、太祖に事えしは潜邸の時、艱危を共に履み、義均しく同気の如し、征伐四出し、往くとして従わざる無し。時に諸部未だ寧からず、博爾朮は毎夜警夜し、帝の寝る必ず安枕す。内に寓直し、政要に語及び、或いは達旦に至る。君臣の契り、猶魚水の如し。
初めに、要児斤部の兵卒が牧馬を盗み、ボオルチュはこれと共に追撃した。時に年十三歳、衆寡敵せざるを知り、奇策を以て傍らより挟撃し、盗賊は掠めたものを捨てて去った。大赤兀里での戦いの時、両軍相接し、殊死の戦いを命じ、跬歩も退かざるを下令した。ボオルチュは馬を腰に繋ぎ、跪いて弓を引き絞り、分寸も故処を離れず、太祖はその勇胆を賞した。また嘗て怯列において包囲を突破し、太祖は馬を失い、ボオルチュは帝を擁して累騎して馳せ、野中に頓止した。時に天雪が降り、牙帳の所在を失い、草沢の中に臥し、ムカリと共に氈裘を張って帝を蔽い、通夕立ち続け、足跡も移さず、朝に至り、雪は数尺深く、遂に難を免れた。篾里期の戦いにおいても、風雪に陣を迷わされ、再び敵中に入り、太祖を求め見えず、急ぎ輜重に趨くと、則ち帝は既に還り車中に憩い臥していた。ボオルチュの至るを聞き、曰く「此れ天の我を賛するなり」と。
丙寅の歳、太祖即皇帝位に即き、君臣の分益々密なり、嘗て従容としてボオルチュ及びムカリに謂いて曰く「今国内平定す、多くは汝等の力なり、我の汝に与するは猶お車の轅有るが如く、身の臂有るが如し、汝等宜しく此れを体して替えることなかれ」と。遂にボオルチュ及びムカリを左右の万戸と為し、各その属を以て翊衛せしめ、位は諸将の上に在り。
皇子チャガタイ西域に出鎮するに、旨有りてボオルチュに従い教えを受く。ボオルチュは人生険阻を経渉すれば、必ず善地を獲、過ぐる所軽々に止まること無きを以て教う。太祖、皇子に謂いて曰く「朕の汝を教うるも、亦は是を踰えず」と。未だ幾ばくもせず、広平路の戸一万七千三百余りを賜い分地と為す。老病を以て薨ず、太祖痛悼す。大徳五年、推忠協謀佐運功臣・太師・開府儀同三司を贈り、広平王を追封し、諡して武忠と曰う。
子ブルンテイ、爵を襲い万戸と為り、推誠宣力保順功臣・太師・開府儀同三司を贈られ、広平王を追封され、諡して忠定と曰う。孫ユス・テムル。
孫 ユス・テムル
ユス・テムル、世祖の時に嘗て名を呼ばざるを以て寵し、月呂魯那演の号を賜う。猶お華言にて能官と謂うなり。弱冠にして爵を襲ぎ、按台部の衆を統べ、器量宏達にして、その際を測る莫し。世祖その賢を聞き、駅伝を以て召し闕に赴かしむ。その風骨龐厚なるを見て、御服の銀貂を解きて之を賜う。時に太官内膳の選を重んじ、特命してその事を領せしむ。内殿に侍宴し、ユス・テムル起ちて酒を行く。詔して諸王妃皆な答礼せしむ。
至元二十四年、宗王ナヤン東鄙に叛く。世祖躬ら天討を行い、総戎する者に先んぜしむ。世祖半道に至るに、ユス・テムル既に敵を退け、僵尸野を覆い、数旬の間、三戦三捷し、ナヤンを獲て以て献ず。詔して乗輿の槖駝百蹄を選びて之を労う。謝して曰く「天威の臨む所は、猶お風の草を偃すが如し、臣何の力か之有らん」と。世祖還り、ユス・テムルを留めてその余党を勦めしむ。乃ちその酋金家奴を執りて以て献じ、その同悪数人を軍前にて戮す。
明年、ナヤンの遺孽ハイドゥ・トルガン復た叛く。再び命を出して師を出だし、両たび之と遇い、皆な之を敗り、両河に追い及び、その衆大いに衄き、遂に遁る。時に既に盛冬、声言して春を俟って方に進まんとす。乃ち倍道兼行して黒龍江を過ぎ、その巣穴を擣ち、殺戮殆んど尽き、ハイドゥ・トルガン知る所終わらず、その城を夷し、その民を撫して還る。詔して内府の七宝冠帯を賜いて以て之を旌し、太傅・開府儀同三司を加う。申命して辺を杭海に禦がしむ。二十九年、録軍国重事・知枢密院事を加う。宗王帥臣皆な命を禀る。特賜して歩輦にて内に入る。位望の崇きこと、廷臣その右に出づる者無し。
三十年、成宗皇孫として軍を北辺に撫す。ユス・テムル輔行し、皇孫に儲闈の旧璽を授けんことを請う。詔して之に従う。
三十一年、世祖崩ず。皇孫南還す。宗室諸王上都に会す。定策の際、ユス・テムル起ちて晋王カマラに謂いて曰く「宮車晏駕して、已に三月を踰ゆ。神器久しく虚しゅうすべからず、宗祧主を乏くすべからず。疇昔儲闈の符璽既に帰する所有り。王は宗盟の長たり、何を俟って言わざる」と。カマラ遽かに曰く「皇帝践祚せば、願わくは北面して之に事えん」と。ここにおいて宗親大臣合辞して進むを勧め、ユス・テムル復た坐し、曰く「大事已に定まる、吾死して且つ憾み無し」と。皇孫遂に即位す。秩を進めて太師と為し、尚方の玉帯宝服を賜い、北辺に還り鎮す。
子三人:ムラク、仍お爵を襲い万戸と為る。次にトクレン。次にトクトカ、御史大夫と為る。
ボオルク〔タチャル〕
子の月赤察児は、性質仁厚にして勤倹、母に事えて孝行をもって聞こえた。資質容貌は英偉にして、望めば神の如し。世祖はかねてよりその賢を聞き、かつその父の死を憐れみ、年十六にして召し見る。帝はその容止の端重なるを見、奏対の詳明なるを聞き、喜んで言う、「失烈門に子あり。」と。即ち命じて四怯薛の太官を領せしむ。至元十七年、一怯薛の長となる。明年、詔して曰く、「月赤察児は心を秉り忠実、事を執り敬慎、知ることを言わずとせず、言うこと尽くさずとせず、朝章に暁暢、言うこと輒ち旨に称し、その年少を以てして、その官を陞せずとすべからず。線真に代わりて宣徽使と為すべし。」と。
二十六年、帝は杭海にて叛者を討つ。衆皆陣す。月赤察児奏して曰く、「丞相安童・伯顏、御史大夫月呂祿は、皆すでに命を受けて征戦す。この三人、臣は後にすべからず。今勍賊命に逆らい、敢えて天戈を禦ぐ。惟うに陛下、臣を憐れみ、臣をして一戦せしめよ。」と。帝曰く、「乃祖博爾忽、我が太祖を佐け、征にして在らずとなく、戦にして克たずとなく、その功大なり。卿は安童の輩と爾が家と功を同じくし一体なるを以てし、各々戦功を立て、自ら逮わざるを耻ず。然れども親属櫜鞬を帯び、朝夕に恭しく衞し、爾が功小さからず。何ぞ必ずしも身を行伍に践み、手を以て斬馘を事とし、乃ち爾が心を快くせんや。」と。
二十七年、桑哥既に尚書省を立て、異己を殺し、天下の口を箝し、刑爵を以て貨と為す。既にして紀綱大いに紊る。尚書平章政事也速答児は、太官の属なり。潜かにその事を月赤察児に白し、奏してこれを劾するを請う。桑哥誅せらる。帝曰く、「月赤察児は口を以て大姦を伐ち、その蒙蔽を発す。」と。乃ち桑哥より没入せし黄金四百両、白金三千五百両、及び水田・水磑・別墅を以て、その清彊を賞す。
桑哥既に敗る。帝は湖広行省が西は番洞諸蛮に連なり、南は交趾島夷に接し、延袤数千里、その間土沃にして人稠、畬丁・溪子は善く驚き好んで鬭い、賢なる方伯を得て往きてこれを撫安せんことを思う。月赤察児は哈剌哈孫答剌罕を挙げて行省平章政事と為さんことを請う。凡そ八年、威徳交々孚き、海外に洽う。入りて丞相と為り、天下賢と称す。世、月赤察児を以て人を知るとす。
二十八年、都水使者、渠を鑿ち西に白浮諸水を導き、都城中を経て、東に潞河に入らしめば、則ち江淮の舟は既に広済渠に達し、直ちに都城の匯に泊すべしと請う。帝は亟にその成らんことを欲し、又その細民を役するを欲せず、四怯薛の人及び諸府の人に勅してその役を専らにせしめ、その高深を度り、地を画して分ちて賦し、日を刻して工を畢わらしむ。月赤察児はその属を率い、役者の服を著け、畚鍤を操り、即ち賦せらるる所に就きて率先し、趨る者雲の如く集い、刻に依りて渠成る。賜いて名づけて通恵河と曰う。公私これを便とす。帝、近臣に語りて曰く、「この渠は月赤察児が身をもって衆を率い手を下さざれば、成ること速からざりしなり。」と。
成宗即位す。制して曰く、「月赤察児はその誠力を尽くし、その謀議を深くし、忠を国に抒べ、恵を人に流す。開府儀同三司・太保・録軍国重事・枢密・宣徽使を加うべし。」と。大徳四年、太師を拝す。
初め、金山南北に、叛王海都・篤娃これに拠り、正朔を奉ぜず垂五十年、時に入りて寇と為る。嘗て親王を命じて左右部の宗王諸帥を統べ、大軍を屯列し、その衝突を備えしむ。五年、朝議す、北師少しく怠り、紀律厳ならずと。月赤察児をして晋王を副え以てこれを督めしむ。是の年、海都・篤娃入寇す。大軍分かれて五隊と為り、月赤察児その一を将う。鋒既に交わり、頗る利あらず。月赤察児怒り、甲を被り矛を持ち、身先んじて陣を陷し、一軍これに随う。敵の背に出で、五軍合撃し、大いにこれを敗る。海都・篤娃遁去す。月赤察児も亦兵を罷め帰鎮す。厥れ後、篤娃来たりて臣附を請う。時に武宗も亦軍中に在り。月赤察児、使を遣わし武宗及び諸王将帥に詣り議し、曰く、「篤娃降を請う、我が大なる利と為す。固より上に命を待つべし。然れども往復再び月を閲すれば、必ず事機を失わん。事機一たび失すれば、国の大患と為り、人民は転輸に困しみ、将士は討伐に疲れ、已む時なからん。篤娃の妻は、我が弟馬兀合剌の妹なり。宜しく使を遣わしこれに報じ、その臣附を許すべし。」と。衆議皆以て允と為す。既に遣わし、始めて事を聞かす。帝曰く、「月赤察児は機宜を深く識る。」と。既にして馬兀合剌復命す。ここによりて叛人稍稍来帰す。
帝、月赤察児に詔して曰く、「卿が先世は我が祖宗を佐け、常に大将と為り、城を攻め野に戦い、功烈甚だ著し。卿は乃ち国の元老、忠を宣べ績を底き、中外を靖謐す。朕大統を継ぐに、卿が謀猷多し。今、和林等処行中書省を立て、卿を以て右丞相と為し、前に依りて太師・録軍国重事、特ちに淇陽王に封じ、黄金印を佩かしむ。宗藩の将領は、実に卿が麾の進退を瞻る。その益々乃ち徳を懋くし、乃ち心力を尽くし、服する所を替うること無かれ。」と。四年、月赤察児朝に入る。帝、大明殿に宴し、眷礼優渥なり。尋いで疾を以て第に薨ず。詔して宣忠安遠佐運弼亮功臣を贈り、諡して忠武と曰う。
附 塔察児
塔察児、一名を倴盞と曰い、官山に居す。伯祖父博爾忽、太祖に従い朔方より起ち、直ちに宿衞として火児赤と為る。火児赤とは、櫜鞬を佩きて左右に侍る者なり。ここによりて子孫その職を世く。博爾忽は太祖に従い諸国を平げ、力を宣べること多し。当時、木華黎等と俱に功を以て四傑と号す。塔察児はその従孫なり。驍勇にして戦を善くし、幼より宿衞に直す。
太祖、燕を平ぐ。睿宗国を監す。燕京の盗賊恣意に残殺し、直ちに富庶の家を指し、その物を載運し、有司禁ずること能わざるを聞く。乃ち塔察児・耶律楚材を遣わしその党を窮治せしめ、首悪十六人を誅す。ここによりて巨盗迹を屏う。
太宗が金を伐つに当たり、塔察児は軍に従い、行省兵馬都元帥を授けられ、宿衛と諸王の軍士を分けて統べさせ、河東の諸州郡を下し、河を渡って潼関を破り、陝洛を取った。辛卯、河中府を囲むに従い、これを抜いた。壬辰、白坡を渡るに従った。時に睿宗は既に西和州より興元に入り、武関より出て唐・鄧に至っていた。太宗は睿宗が金兵と相持すること久しいのを以て、乃ち使を遣わして期を約し、兵を会して合進せしめた。即ち詔して諸軍を発して鈞州に至らしめ、連日大雪、睿宗は金人と三峯山に戦い、これを大破した。詔して塔察児等をして進んで汴城を囲ましむ。金主は即ち兄の子曹王訛可を質とし、太宗と睿宗は河北に還った。塔察児は復た金兵と南薰門に戦った。癸巳、金主は蔡州に遷り、塔察児は復た師を帥いて蔡を囲んだ。甲午、金を滅ぼし、遂に留まって中原を鎮撫し、兵を分けて大河の上に屯し、以て宋兵を遏えしめた。丙申、宋の光・息等の州を破り、事が朝廷に聞こえ、息州の軍民三千戸を以てこれを賜った。戊戌、卒した。
子の別里虎䚟が嗣いで火児赤となった。憲宗が即位し、歳壬子、父の職を襲い、四万戸の蒙古・漢軍を総管し、宋の両淮を攻め、悉く辺地を定めた。戊午、師を会して宋の襄陽を囲み、樊城に逼り、力戦してここに死した。