元史

列傳第四:別里古台、朮赤、禿剌、牙忽都、寬徹普化、帖木兒不花

別里古台

宗王別里古台は、烈祖(也速該)の第五子にして、太祖(チンギス・カン)の末弟である。天性純朴篤厚にして、聡明敏捷にして智略多く、華美な装飾を好まず、軀幹魁偉、勇力人に絶する。幼くして太祖に従い諸部落を平定し、従馬を掌った。国法は常に腹心をもってこれに当たらせ、敗北した時は従馬を牽かせた。その子孫最も多く、居処は太祖の行在所に近く、南は按只台の営地に接していた。嘗て太祖に従い諸部族と宴し、或る者が密かに別里古台を害さんと図り、刀をもってその臂を斬り、傷甚だ深かった。帝大いに怒り、索めてこれを誅せんとした。別里古台曰く、「今まさに天下に大事を挙げんとす。臣が故をもって隙を生ずるべきか。且つ臣たとえ傷甚だ深くとも、幸い死に至らず。請う、治むることなかれ」と。帝は特にこれを賢しとした。創業の初め、諸国を征取するに当たり、王は未だ嘗て軍中に在らざることなく、鋒を摧き陣を陷れ、艱険を避けなかった。帝嘗て曰く、「別里古台の力あり、哈撒兒の射あり。これ朕の天下を取る所以なり」と。その称せられること此の如しであった。嘗て国相に立てられ、また長じて扎魯火赤となり、別に印を授けられた。蒙古百姓三千戸、及び広寧路・恩州二城の戸一万一千六百三を賜り、以て分地と為し、また斡難・怯魯連の地に営を建てて居らしめた。江南平定の後、信州路及び鉛山州二城の戸一万八千を加賜された。王薨ず。子曰く罕禿忽、曰く也速不花、曰く口溫不花。

罕禿忽は、性質剛猛にして兵を知る。憲宗に従い征伐し、多く戦功を立て、及び釣魚山を攻めて還る時、道は河南よりし、流亡百余戸を招来し、悉くこれを戸籍に入れた。罕禿忽の子曰く霍歷極、疾を以て廃し、軍に従う能わず、世祖恩州に居らしめ、以てその藩人を統べしめた。至大三年、霍歷極薨じ、子塔出嗣ぐ。塔出は性質温厚、謙恭好学にして経史に通じ、その民を撫恤する能ありという。

也速不花の子曰く爪都、中統三年、始めて推戴の功を以て、広寧王に封ぜられる。至元十三年、銀印を賜う。

口溫不花は兵を領して河南にあり、屡々大功を建てた。子曰く滅里吉台、甕吉剌台。

朮赤

朮赤は、太祖の長子である。国初、親王として西北に分封され、その地極めて遠く、京師を去ること数万里、駅騎急行二百余日にして、ようやく京師に達する。この故にその地の郡邑風俗は皆詳らかにするを得ず。

朮赤薨じ、子抜都嗣ぐ。抜都薨じ、弟撒里答嗣ぐ。撒里答薨じ、弟忙哥帖木兒嗣ぐ。忙哥帖木兒薨じ、弟脫脫忙哥嗣ぐ。脫脫忙哥薨じ、弟脫脫嗣ぐ。脫脫薨じ、弟伯忽嗣ぐ。伯忽薨じ、弟月即別嗣ぐ。至元二年、月即別使いを遣わして分地の歳賜を求め、以て軍站を賑給せんとす。京師には元来領する府治無し。三年、中書省総管府を置くことを請い、正三品の印を与う。至大元年、月即別薨じ、子札尼別嗣ぐ。その位下に旧賜の平陽・晉州・永州分地あり、歳賦は中統鈔二千四百錠、至元五年己卯の歳より始めてこれを給す。

禿剌

禿剌は、太祖の次子察合台の四世孫なり。少より勇力を以て聞こえる。大徳十一年春、成宗崩じ、左丞相阿忽台等潜かに安西王阿難答を立てんと謀り、而して皇后伯岳吾氏を推して称制せしめんとす。中外洶洶たり。仁宗、懐孟より帰り、禿剌を引き入内し、阿忽台等を縛りて出だし、これを誅す。大事遂に定まる。武宗即位し、功を第し、越王に封じ、金印を賜い、紹興路を以てその分地と為す。禿剌、居常怏怏として、怨望の意あり。

至大元年秋、武宗涼亭に幸し、将に舟に御せんとす。禿剌前に進みてこれを止む。帝曰く、「爾如何。朕舟に登らんと欲す」と。禿剌曰く、「人常言有り。一箭麋に中つとも、自能と曰うことなかれ。百兔未だ得ずとも、未だ遽かに止むべからず」と。これ蓋し国俗、儕輩の相靳むの語なり。而して禿剌これを言う。武宗ここよりこれを銜む。既にして万歳山に大宴し、禿剌酔いて起ち、その腰帯を解きて諸地に擲ち、目を嗔らして帝に謂いて曰く、「爾我に与うる所は、此れに止まるのみ」と。帝益々その異志有るを疑う。二年春、楚王牙忽都・丞相脫脫・平章赤因鐵木兒に命じてこれを鞫せしむ。辞服し、遂に伏誅せらる。

子西安王阿剌忒納失里、天曆初め推戴の功を以て、進みて王に封ぜらる。

牙忽都

牙忽都は、祖父の撥綽は睿宗の庶子である。撥綽の母は馬一実といい、乃馬真氏であった。撥綽はぎょう勇で騎射に長け、憲宗は大將軍に任じて北征させ欽察に功を立て、抜都の称号を賜った。丁巳の年、諸侯王に領土を分与する際、蠡州の三千三百四十七戸を賜り、その食邑とした。撥綽は察渾滅児乞氏を娶り、薛必烈傑児を生んだ。薛必烈傑児は弘吉剌氏を娶り、牙忽都を生んだ。

牙忽都が十三歳の時、世祖は祖父の軍を継承するよう命じた。至元十二年、北安王に従って北征した。十三年、失列吉が叛き、人を遣わして誘い脅したが、牙忽都は従わず、王に仕えること一層忠実で謹厳であった。八魯渾抜都児と粘闓が海都と通じ、相率いて引き去ったので、王は牙忽都に兵を率いて追撃させ、八魯渾らを捕らえて献上させた。間もなく、失列吉・約木忽児・脱帖木児らが反逆し、兵をもって王を攻めた。脱帖木児は牙忽都を生け捕りにし、失列吉に拘束させた。牙忽都は王の親臣那台らと謀って逃げ帰ろうとしたが、事が露見し、那台らは殺され、牙忽都も再び拘束され、苦しめ辱しめられること極まった。十四年、兀魯兀台と伯顔が師を率いて叛徒を討ち、失列吉と約木忽児が迎え撃った。牙忽都は密かに赤斤帖木児・禿禿哈と結んでその陣を乱した。失列吉の軍は混乱し、それによって脱走することができた。帝に謁見した時、鬚髪はすっかり白くなっており、帝はこれを哀れみ、賞賜は甚だ厚かった。至元十八年、耒陽州の五千三百四十七戸を加封された。

二十一年、禿禿哈とともに海都を討つよう命じられ、牙忽都が先に進軍し、斥候が間者を捕らえてその虚実を知り、まっすぐに敵陣に突撃し、その精兵を破り、海都は敗走し、捕虜にされた軍民を奪回して帰還した。朶児朶哈がその功績を上奏すると、詔して鈔幣・鎧甲・弓矢を賜った。その後、北安王が帖木児河に駐屯した。乃顔と也不堅に異図があり、也不堅は兵を率いて怯緑憐河の大帳に向かった。王は闊闊出と禿禿哈に衆を率いて追撃させた。那懷の民は騒然として従うべきところを知らなかった。牙忽都は三百騎を率いて進み、阿赤怯地に至った。時に王の帳下の遜篤思部の兵が逃亡したので、牙忽都は諭して帰還させた。その時、怯必禿忽児霍台が蒙古軍二万を誘って乃顔に従わせようとしたが、牙忽都はこれを知り、夜襲してその河上の軍を攻め、突入して帳中に入り、忽都滅児堅に遭遇し、ほとんど捕らえようとしたが、間道を通って逃げ去った。

二十七年、海都が侵入した。時に朶児朶哈は大帳を守備していたが、詔して牙忽都にともに防備に当たらせた。軍は戦わずして潰え、牙忽都の妻子と輜重は不思哈剌嶺の上に駐屯していたが、すべて薬木忽児と明理帖木児に掠奪された。牙忽都はその子の脱列帖木児とはぐれ、ただ十三騎とともに奔還した。世祖は慰撫し賞賛し、鎮遠王の爵位を賜り、塗金銀印を授け、弘吉剌氏の女を賜り、支度の装いは特に厚かった。また納里忽と徹徹不花を遣わして、その部属で同時に掠奪された者たちに命を下し賜るよう命じ、故相桑哥の家財を分けて賜り、さらに各々白金五十両・珠子一酒巵を賜り、鈔幣もこれに相当するものを賜った。また牙忽都に北安王の第二の帳に居住するよう命じた。王が薨じると、帝は大帳を掌るよう命じたが、固辞した。

成宗が即位すると、牙忽都に常に左右に侍るよう命じた。武宗が漠北で兵を統率していた時、子の脱列帖木児を従軍させるよう請うた。大徳五年、海都と篤哇が軍を合わせて侵入した時、脱列帖木児は兵千人を率いて護衛し、先後して力戦し、功績多く、軍中に十年いた。

成宗が崩御すると、安西王阿難答と明理帖木児が神器を窺った。牙忽都は言った、「世祖皇帝の嫡孫がおられる。神器が属すべきはこの方である。安西は藩王であり、入って継承するのは制度に合わない」。武宗が即位すると、その父子の功労と忠勤を厚く遇し、さらに楚王に進封し、金印を賜り、王傅を置き、駙馬都尉都剌哈の妹の弘吉烈氏を楚王妃とし、また叛王察八児の親属を賜った。脱列帖木児は鎮遠王を襲封した。

至大三年、察八児が帰順して来ると、宗親が皆集まった。牙忽都が進み出て言った、「太祖皇帝は四方を平定されたが、ただ南方の地は未だ定まらず、歴代の聖帝が位を嗣がれても、統一には及ばれなかった。世祖皇帝は四海を混一されたが、顧みれば宗室の諸王は、一堂に会して宴を楽しむことができなかった。今、陛下の洪福は天に齊しく、抜都罕の末裔が、まずもって帰順し、叛王察八児は挙族して来帰し、人民と境土は悉く一家となった。地は大きく物は多いが、恃むべきものもあり、恃むべからざるものもある。昔、我が太祖に訓戒があり、世祖がこれを誦された、臣も聞くところがあった。乱れた国を治める者は、法をもってこれを整えるべきであり、それによって上下を弁え、民の志を定めるのである。今、これを整えるべきことを請う。そうすれば人は勧懲するところがあろう。惟うに陛下のご明察を」。帝はその言を嘉し納れた。

牙忽都が薨じると、仁宗は脱列帖木児に楚王を嗣がせた。延祐年間、明宗が西に出ると、脱列帖木児は連座して罪を得、西番に流され、その家財の半分を没収された。明宗が即位すると、制を下して言った、「脱列帖木児に何の罪があろうか、その転徙と籍没は、豈に我が故ではなかったのか。その故号を復し、人民と資財は悉くこれを帰せ」。脱列帖木児が薨じると、子の八都児が立った。八都児が薨じると、三人の子があった。燕帖木児・速哥帖木児・朶羅不花である。燕帖木児が嗣いだ。時に十二歳、妃は弘吉剌氏で、哈只児駙馬の孫娘、速哥失里皇后の従妹である。

寬徹普化

寬徹普化は、世祖の孫、鎮南王脱歓の子である。泰定三年、威順王に封ぜられ、武昌に鎮し、金印を賜り、怯薛丹五百名を撥付され、また自ら募って一千名に至った。王傅官属を設置した。湖広行省が供億する銭糧衣装は、毎年米三万石、銭三万二千錠を支給し、また日々王子と諸妃の飲食を給した。文宗天暦初年、寬徹普化に金銀各五十両・幣三十匹を賜り、依然として湖広に鎮したが、寬徹普化は怯薛などの官に民利を侵奪させ、民はこれを患い苦しんだ。至元五年、太師伯顔が詔を偽って京に召し出し、これを貶した。脱脱が宰相となって、初めてその無辜を明らかにし、再び鎮守に還るよう命じた。至正二年、湖北廉訪司が糾弾して言うには、寬徹普化は宗室を恃み、ほしいままに不法を行っている。返答はなかった。

十一年、徐寿輝が乱を起こし、蘄・黄より起った。寬徹普化はその子の別帖木児・答帖木児とともに兵を率いて金剛台に至ったが、寿輝の部将倪文俊に敗れ、別帖木児を捕らえられた。十二年、寿輝の偽将鄒普勝が武昌を陥落させると、寬徹普化は湖広行省平章和尚とともに城を棄てて逃走した。詔して寬徹普化の印を追奪し、和尚を誅した。十三年、湖広行省参知政事阿魯輝が武昌及び漢陽を克復した。寬徹普化は再び王子を率い、かつ本部の怯薛丹をもって、屡々賊を討ち功を立てた。十四年、詔して寬徹普化に再び武昌に鎮し、その印を還す。

十六年、寛徹普化と宣譲王帖木児不花に命じて兵を率いて懐慶を鎮圧させ、各々に黄金一錠・白金五錠・幣帛九匹・鈔二十錠を賜う。間もなく、再び武昌に還り、その子の報恩奴・接待奴・仏家奴に命じて大船四十余隻で水陸より並進し、沔陽に至り徐寿輝の偽将倪文俊を攻撃させ、且つ妃妾を載せて行かしむ。兵は漢川県の鶏鳴汊に至り、水浅くして船は座礁して進めず、文俊は火筏をもってその船をことごとく焼き払い、接待奴・仏家奴は皆害に遇い、報恩奴は自死し、妃妾は皆陥落し、寛徹普化は陝西に走る。

二十五年、侯伯顔答失が寛徹普化を奉じて雲南よりしょくを経て転戦して去り、成州に至り、京師に至らんと欲す。李思斉は蜀を取るを名目として、扼して行かせず、成州に屯田せしめて没す。

その子に和尚と曰う者あり、義王に封ぜられ、順帝の左右に侍従し、多く功労を顕わす。帝の出入りには、常に俱にする。至正二十四年、孛羅帖木児が兵を称して闕を犯し、遂に中書右丞相となり、国柄を総握し、恣に淫虐を為す。和尚はその君無きを忿り、数たび帝にこれを言う。密旨を受け、儒士徐士本と謀り、勇士の上都馬・金那海・伯顔達児・帖古思不花・火你忽都・洪寶寶・黄哈剌八禿・龍従雲と交結し、陰に孛羅帖木児を刺さんと図る。帝は事の成るを期し、鴿鈴を放って号と為し、徐士本がこれを掌る。明年七月、孛羅帖木児が入って奏事し、延春閣の李樹の下を行き至るに、伯顔達児が衆中より奮い出で、孛羅帖木児を斫り、その脳を中つ。上都馬等競い前ってこれを斫り死なす。詳しくは孛羅帖木児伝に見ゆ。

二十八年、順帝北奔せんとし、詔して淮王帖木児不花に監国せしめ、和尚を以てこれを輔けしむ。京城将に破らんとするに及び、即ち先ず遁れ、その行く所を知らず。

帖木児不花

帖木児不花は、世祖の孫、鎮南王脱歓の第四子なり。初め、世祖の第九子脱歓は安南を討つに功無く、終身見ることを許されず、遂に鎮南王に封ぜられ、揚州に出鎮す。脱歓薨じ、子の老章、鎮南王を襲封す。老章薨じ、弟の脱不花、鎮南王を襲封す。脱不花薨じ、子の孛羅不花幼少なり。帖木児不花乃ち鎮南王を嗣ぐ。

文宗天暦初年、帖木児不花に黄金五十両・白金五十両・幣三十匹を賜う。二年、孛羅不花既に長ず。帖木児不花その位を請うて復た孛羅不花に還す。朝廷その譲りて居らざるを以て、宣譲王に改封し、金印を賜い、廬州に移鎮せしむ。

順帝至元元年、廬州・饒州の牧地一百頃を撥ちてこれを賜う。二年、市宅銭四千錠を賜い、その王府の官に命じ、凡そ班次は、有司の右に列せしむ。五年、伯顔権を擅にし、制を矯って帖木児不花及び威順王寛徹普化を貶す。脱脱が相と為るに至り、始めて帝に言い、この両王は皆無辜なるを明らかにし、詔して復た鎮に還らしむ。

至正十二年、廬州境内に賊起こる。淮西廉訪使陳思謙、帖木児不花に言う、「王は帝室の冑として、淮甸を鎮撫す。豈に坐視すべきや。且つ府中の官属及び怯薛丹人等の数甚だ多く、必ず鋒を摧き陣を陷つるに使うべき者あり。惟うに王これを図らんことを。」帖木児不花大いにその言を悟り、「これ吾が責なり」と曰う。即ち命じてその部する兵及び諸王乞塔歹等を以て、分道して賊を撃ち、その渠帥を擒え、廬州境内皆平らぐ。帝これを聞き、金帯・銀鈔を賜い、その功を賞す。十六年、帖木児不花に命じて寛徹普化と兵を以て懐慶路を鎮遏せしめ、金銀各一錠・幣帛九匹・鈔二十錠を賜う。既にして汝・潁の寇南して淮を渡る。帖木児不花復た便宜を以て芍陂の屯軍を調えてこれを拒ぐ。廬州守られざるに及び、乃ち身を挈いて北帰し、京師に留まる。二十七年、進めて淮王に封ぜられ、金印を賜い、王傅等の官を設く。

二十八年、大明兵京師に逼る。順帝北奔し、詔して帖木児不花に監国せしめ、慶童を中書左丞相に拝してこれを輔けしむ。俄にして城破れ、帖木児不花これに死す。年八十三。