顯懿莊聖皇后
徽仁裕聖皇后
裕宗の徽仁裕聖皇后は伯藍也怯赤、一名は闊闊真といい、弘吉剌氏の出身で、順宗・成宗を生んだ。
先に世祖が狩猟に出て、道中で渇き、一つの帳房に至り、ある女子が駱駝の毛を紡いでいるのを見た。世祖が馬乳を求めた。女子は言った、「馬乳はありますが、しかし私の父母と諸兄は皆不在で、私一人の女子ではあなたに与えるのは難しいです」。世祖は去ろうとした。女子はまた言った、「私が独りここに居るのに、あなたが自ら来て自ら去るのは、道理に宜しくありません。私の父母はすぐに帰りますから、しばらくお待ちください」。しばらくして果たして帰ってきた。馬乳を出して世祖に飲ませた。世祖が去った後、嘆息して言った、「このような女子を人家の婦とすることは、豈に美ならずや」。後に諸臣と謀って太子妃を選ぶと、世祖は皆允さなかった。ある老臣がかつて先の言葉を知っており、彼女が未だ嫁いでいないことを知り、世祖に言上した。世祖は大いに喜び、太子妃に納れた。
后は性孝謹で、中宮(皇后)に善く仕え、世祖は毎に彼女を賢徳なる嫁と呼んで称えた。昭睿順聖皇后(察必皇后)に侍し、左右を離れず、便所に用いる紙に至るまで、また顔で擦って柔らかくして進めた。ある日、裕宗が病んだ時、世祖が見舞いに行き、床上に金糸を織り込んだ臥褥が敷かれているのを見た。世祖は慍ってこれに語って言った、「私はかつて汝を賢しとしていたが、何ぞ乃ち此の如きや」。后は跪いて答えて言った、「常の時は敢えて用いませんでした。今、太子が病んでおられるので、湿気があるのを恐れて、それで用いたのです」。即時に撤去した。
世祖が崩御し、成宗が上都に至ると、諸王が皆会した。先に、御史中丞崔彧が木華黎国王の曾孫世徳の家で玉璽を得ており、その文に「受命于天、既寿永昌」とあった。后に上った。この時、后は手ずから成宗に授けた。皇帝の位に即くと、后を尊んで皇太后とし、冊文に曰く、「家より国に及びて、治道必ず先ず有る所あり;愛を立てるは惟れ親にあり、君徳は孝より先なるは莫し。況んや恩は鞠我に深くして、礼は正名に重し。歴代以来、令儀考うべし。人子の職の在る所、天下の母宜しく尊ぶべし。恭惟く聖母は、聖善は天資に本づき、静専は地道に法る。上は以て宗祏の重を奉じ、下は以て倫紀の常を敍す。我が前人を助け、巻耳憂勤の志を守り;予が冲子を保ち、思齊雍肅の風を成す。肆に神器の帰する所有り、孫謀の素より定まるを知る。畀付は雖も歴数に由るも、規摹は一たび庭闈に出づ。是を以て衆心を率い吁き、鉅度を章明し、拳拳たる大願に勝えず。謹んで冊宝を奉り、尊称を上りて曰く皇太后とす。伏して惟うに長信穆穆たり、周宗綿綿たり。洛書の錫福を備え、慈極の天に儀ることを粲にす。瑶図宝運、万斯年に於いて」。官属を設け、徽政院を置くことを命じた。後に院官が浙西の田七百頃を献上されて受け、位下に籍したことがあった。太后は言った、「私は寡居の婦人であり、衣食は自ら余り有る。況んや江南の率土は皆国家の所有であり、我何ぞ敢えてこれを私せんや」。即時に中書省に命じて、献上を受けた院官を全て更易させた。后の弟が后に因って官を求めようとした。后はこれに語って言った、「もし官を求めようとするか? 汝自ら為せ、我を累わすなかれ」。その後、弟は果たして罷免され、人皆后の先見に服した。
宣懿淑聖皇后
顯宗の宣懿淑聖皇后は、名を普顔怯里迷失といい、弘吉剌氏の出身である。顯宗が晋王の邸に居た時、元妃に納れられ、泰定帝を生んだ。
昭獻元聖皇后
順宗昭獻元聖皇后は名を答己(弘吉剌氏)といい、按陳の孫渾都帖木児の娘である。裕宗が燕邸及び潮河に居た時、順宗はともに侍しており、やや成長すると、世祖は女侍郭氏を賜い、後に后を妃として迎え、武宗及び仁宗を生んだ。
大徳九年、成宗が病に伏せると、卜魯罕皇后が政務を執り、仁宗母子を懐州に出居させた。十年十二月、后は懐州に至った。十一年正月、成宗が崩御した。時に武宗は北辺で兵を総べ、右丞相答剌罕哈剌哈孫が密かに使者を遣わして仁宗に報せ、后とともに京師に奔還させた。后は仁宗とともに内に入って哭し、再び旧邸に出居し、朝夕入って奠した。即ち使者を遣わして武宗を迎え還し、五月に即位させた。
先に、太后は両太子の星命を陰陽家に付して推算させ、立つべき者を問うと、答えて言うには、「重光大荒落には災あり、旃蒙作噩は長久なり」と。重光は武宗の生年、旃蒙は仁宗の生年である。太后はその言にやや惑い、近臣朵耳を遣わして武宗に旨を諭して言うには、「汝兄弟二人は、皆我より出でたる者、豈に親疏あらんや。陰陽家の言う運祚の修短は、思わざるを得ざるなり」と。武宗これを聞いて黙然とし、康里脱脱を進めて言うには、「我は北辺を捍すること十年、また胤次長に居る。太后が星命を以て言うは、茫昧として信じ難し。我が施設が天心民望に合わば、一日の短きと雖も、亦た万世に垂名するに足る。何ぞ陰陽家の言を以て、祖宗の託に乖くべけんや」と。脱脱これを聞かせると、太后愕然として言うには、「修短の説は術家より出ずるとは雖も、吾は太子の遠慮の為に、深く太子を愛する所以なり。太子既に是の如く言う、今当に速やかに来るべし」と。詳しくは康里脱脱伝に見ゆ。
延祐七年、英宗即位す。十二月、尊号を上りて太皇太后とし、冊文に云う、「王政の先、孝を加うるに以て加うるなし。人倫の本、尊親より大なるは莫し。肆に予の臨御の初め、首に推崇の典を挙ぐ。恭惟うらくは太皇太后陛下、仁施溥博にして、明は幽微を燭す。爰に淵潜の宮に居るより、已に天下を母とするの望有り。方に武宗の北狩するに、適成廟の賓天に値う。旋ち乾綱を克く振い、諒に宗祏を再安す。躬に在るの歴数有ると雖も、実に創業の艱難を司る。儀式は慈闈に表れ、動は先帝に謀を協す。補天の妙を究むる莫く、允に扶日の升るが如し。位は至尊に履み、両翼は聖子に成る。嗣は大宝に登り、復た眇躬を擁佑す。矧や徳は塗山に邁り、功は文母に高し。是れ四字を加うるに宜しく、式く徽称を益く衍すべし。謹んで玉冊玉宝を奉り、尊号を加えて曰く、儀天興聖慈仁昭懿寿元全徳泰寧福慶徽文崇佑太皇太后。於戲!是れ強名に渉ると雖も、庶く善頌を申すに庸うるべし。九州四海、養は孝心に足らざるも、万歳千秋、願わくは永く寿祉に膺らんことを」と。
后は性聡慧にして、三朝に歴て佐け、宮中の侍女を教えて皆女功を執り治めしめ、自ら井臼を操った。然れども検飭を事とせず、正位東朝してより、淫恣ますます甚だしく、内には黒驢母亦烈失八が用事し、外には幸臣失烈門・紐鄰及び時宰迭木帖児が相率いて奸を為し、平章張珪等を箠辱するに至り、朝政を濁乱し、至らざる所無かった。英宗の立つに及んで、群倖誅せられ、而して后の勢焰頓に息んだ。