元史

列傳第二: 睿宗 裕宗 顯宗 順宗

睿宗

睿宗景襄皇帝、諱は拖雷、太祖の第四子にして、太宗の同母弟なり。太祖崩御の時、太宗は霍博の地に留まり、国事は帰属する所なく、拖雷実に身を以てこれを任ず。燕京の盗賊が白昼に富民の財物を掠奪し、吏これを禁ずる能わざるを聞き、遂に塔察・吾図撒合里を遣わして往きて窮め治めしめ、十六人を殺し、盗賊始めて息む。

己丑の夏、太宗京師に還る。八月、即位す。明年庚寅の秋、太宗金を伐ち、拖雷に命じて師を帥いて従わしめ、天城堡を破り、蒲城県を抜く。金の平章合達・参政蒲阿西辺を守るを聞き、遂に河を渡り、鳳翔を攻む。前兵戦い利あらずと会し、太宗に従いてこれを援け、合達乃ち退く。辛卯の春、洛陽らくよう・河中諸城を破る。

太宗官山に還り、諸侯王を大会し、謂いて曰く、「人言く、国家を耗するは、実に寇敵に由ると。今金未だ殄びず、実に我が敵なり。諸君寧くは計無からんや」と。拖雷進みて曰く、「臣に愚計有り、衆に聞かすべからず」と。太宗左右を屏い、亟に臨みてこれを問う。その言秘にして、人知る莫し。鳳翔既に下り、降人李昌国なる者有り、言う、「金主汴に遷る、恃む所は黄河・潼関の険のみ。若し宝鶏より出で、漢中に入らば、一月に及ばずして唐・鄧に達すべし。金人これを聞けば、寧くは我が師天より下るを謂わざらんや」と。拖雷これを然りとし、太宗に言う。太宗大いに喜び、諸王大臣に語りて曰く、「昔太祖嘗てこの挙を志す、今拖雷能くこれを言う、真に賽因なり」と。賽因は、猶華言の大好の云うが如し。遂に大いに兵を発す。

太宗中軍を以て碗子城より南下し、河を渡り、洛陽より進む。斡陳那顔左軍を以て済南より進む。而して拖雷右軍を総べ、鳳翔より渭水を渡り、宝鶏を過ぎ、小潼関に入り、宋人の境を渉り、漢水に沿いて下る。期を明年の春とし、俱に汴に会せんとす。搠不罕を遣わして宋に詣りて道を仮し、且つ兵を合わすを約す。宋使者を殺す。拖雷大いに怒りて曰く、「彼昔苟夢玉を遣わして来たりて好を通ず、遽に自ら食言して盟を背くか」と。乃ち兵を分かちて宋の諸城堡を攻め、長駆して漢中に入り、進んで四川を襲い、閬州を陥れ、南部を過ぎて還る。遂に金より房を取る。前鋒三千人、金兵十余万を武当山に破り、均州に趨る。騎を乗じて浮き渡り漢水を渡り、夔曲湼に命じて千騎を率い馳せて白し太宗に至らしむ。太宗方に漢水に詣らんとし、将に兵を分かちてこれに応ぜんとす。会に夔曲湼至る。即ち遣わして拖雷を慰諭し、亟に兵を合わせしむ。

拖雷既に漢を渡る。金の大将合達、伏兵二十余万を鄧州の西に設け、隘に拠りてこれを待つ。時に拖雷の兵四万に満たず。諜報を得るに及び、乃ち悉く輜重を留め、軽騎を以て進む。十二月丙子、金人と禹山に戦う。佯いに北してこれを誘う。金人動かず。拖雷火を挙げて夜行す。金の合達その将に至らんとするを聞き、退きて鄧州を保つ。これを攻むること三日、下らず。遂に将いて北せんとし、三千騎を以て札剌等に命じてこれを率い殿と為す。明旦、大霧道を迷わす。金人の襲う所と為り、殺傷相あたる。拖雷札剌の律を失えるを以て、これを罷め、而して野里知給歹を以て代えたり。未だ幾ばくもなく、金軍を敗る。

壬辰の春、合達等拖雷既に北せしを知り、歩騎十五万を合してその後を躡う。拖雷兵を按じ、その将忽都忽等を遣わしてこれを誘う。日暮れんとして、軍中に令して曰く、「彼を得て休息せしむる毋れ、宜しく夜に鼓譟して以てこれを擾すべし」と。太宗時にまた河を渡り、親王口溫不花等を遣わし万余騎を将いて来たり会わしむ。天大雨雪す。金人僵凍して人色無く、幾くんぞ軍する能わざらんとす。拖雷即ちこれを撃たんと欲す。諸将太宗の至るを俟ちてこれを破るも未だ晩からずと請う。拖雷曰く、「機失うべからず。彼脱せて城に入らば、図り易からず。況んや大敵前に在り、敢えて君父に遺さんや」と。遂に奮いて三峯山に撃ち、大いにこれを破る。奔るを追うこと数十里、流血道に被り、資仗委積す。金の精鋭此に尽く。余衆迸走して睢州に至る。伏兵起こり、またこれを敗る。合達鈞州に走る。僅かに数百騎を遺す。蒲阿汴に走る。望京橋に至り、また禽獲せらる。太宗尋いで至る。戦地を行按し、顧みて拖雷に謂いて曰く、「汝微ならば、この捷を致す能わざるなり」と。諸侯王進みて曰く、「誠に聖諭の如し。然れども拖雷の功、社稷に著る」と。蓋しまたその冊を定むるを指す云うなり。拖雷従容として対えて曰く、「臣何の功か之有らん。此れ天の威、皇帝の福なり」と。聞く者その伐らざるに服す。太宗に従いて鈞州を攻め、これを抜き、合達を獲る。許州を攻め、またこれを抜く。遂に太宗に従いて河南諸郡を収め定む。四月、半渡より真定に入り、中都を過ぎ、北口を出で、夏を官山に住す。

五月、太宗せず。六月、疾甚だし。拖雷天地に祷り、身を以てこれに代わらんことを請う。また巫覡の祓除釁滌の水を取りて飲む。数日を居るに、太宗疾癒ゆ。拖雷これに従いて北還す。阿剌合的思の地に至り、疾に遇いて薨ず。寿四十有。闕。妃は怯烈氏、子十一人、長は憲宗、次ぎ四は則ち世祖なり。憲宗立ち、追諡して英武皇帝と曰い、廟号を睿宗とす。二年、昊天・后土を合祭し、太祖・睿宗を以て配享す。世祖至元二年、改めて諡して景襄皇帝とす。

裕宗

裕宗文惠明孝皇帝、諱は真金、世祖の嫡子なり。母は昭睿順聖皇后、弘吉烈氏。少くより姚樞・竇默に従い孝経を受け、巻を終わるに及び、世祖大いに悦び、食を設けて樞等を饗す。

中統三年、燕王に封ぜられ、中書令を守る。丞相史天澤入りて事を啓す。王曰く、「我幼く、未だ嘗て祖宗の典則を習わず、政体に閑かなり。一旦大任に当たらば、惟だ汝が耆徳を頼む」と。また贊善王恂に諭して曰く、「省臣の啓する所は、国事に等し。爾宜しく入りてこれを与に聞くべし」と。四年、兼ねて枢密院事を判ず。至元初め、省臣奏請して王に勅を署せしむ。每月必ず再び中書に至らしむ。ここにおいて王将に中書に入らんとす。乳母新衣を進む。笑ってこれを却けて曰く、「吾何の事か美観せん」と。嘗て宜興に幸するに従う。世祖豫せず。憂い色に形り、夕べ寐る能わず。母皇后暴かに風疾を得たるを聞き、即ち悲泣し、衣帯に及ばずして行く。

七年の秋、詔を受けて称海を巡撫し、冬に至りて京師に還る。間諸王札剌忽及び従官伯顏等に謂いて曰く、「吾属適に茲の暇有り。宜しく各おの乃心を悉くし、慎んで守る所を言い、吾をしてこれを聞かしむべし」と。ここにおいて撒里蠻曰く、「太祖訓有り。身を治めんと欲せば、先ず心を治めよ。人を責めんと欲せば、先ず己を責めよ」と。伯顏曰く、「皇上訓有り。欺罔・盗竊は、人の至悪なり。一たび欺罔を為せば、則ち後善言を出すも、人終に信ぜず。一たび盗竊を為せば、則ち事未だ覚られざるも、心常に惴惴たり、捕者将に至らんとするが若し」と。札剌忽曰く、「我が祖訓有り。長き者は梢、深き者は底。蓋し言う、終始有るを貴び、長きは必ずその杪を極め、深きは必ずその底を究め、中だ輟むべからざるなり」と。王曰く、「皇上訓有り。大心を持する毋れ。大心一たび持せば、事即ち隳敗す。吾孔子の語を観るに、即ち聖訓と合うなり」と。王恂に至りては陳説尤も多し。事は恂伝に見ゆ。

十年(至元十年、1273年)二月、皇太子に立てられ、なお中書令を兼ね、樞密院事を判じた。玉冊を授けられた。「皇帝が言う。ああ、皇太子真金よ、仰ぎて惟うに太祖皇帝の遺訓に、嫡子の中に嗣服繼統するに克くする者あれば、豫め選定して之を立てると。是を以て太宗英文皇帝を立て、以て丕構を紹隆せしむ。時に自り厥の後、冢嫡を顯立せず、遂に爭端を啓く。朕は上は祖宗の宏規に遵い、下は昆弟の僉同の議に協い、乃ち燕邸より、即ち爾を皇太子に立て、日に積もること有り。比者、儒臣敷奏す、國家儲嗣を定立するに、宜しく冊命有るべし、此れ典禮なりと。今、攝太尉・左丞相伯顏を遣わし、節を持して爾に玉冊金寶を授く。嗚呼!聖武の燕謀、爾其れ承奉せよ。昆弟宗親、爾其れ和協せよ。仁孝を躬行に顯わし、抑も以て所托を負わずと謂うべし。尚其れ戒めよ、朕の命を替えるなかれ。」九月丙戌、詔して宮師府を立て、官屬三十八員を設けた。處士楊恭懿を京兆より起用した。

太子嘗て疾有り、世祖臨幸し、親しく薬を和えて之を賜う。侍臣李衆を遣わし、馳せて嶽瀆名山川を祀らしむ。太子、其の至る郡邑に戒めて、吏を煩わして迎送せしむること無く、重ねて民を擾わすなからしむ。詔して侍えい親軍一万人を以て益々東宮に隷せしむ。太子、王慶端・董士亨に命じて其のぎょう勇なる者を選び、兵法を以て教え、時に閲試せしむ。太子、綾の祫を服し、瀋に漬されたるを、侍臣に命じて重ねて染治せしむ。侍臣、綾を織りて更に之を製せんことを請う。太子曰く、「吾、百端を織らんと欲するも、難しからず。顧みるに是の物未だ敝れず、豈に之を棄つる宜しかるべけんや」と。東宮の香殿成る。工、石を鑿ちて池と為し、曲水流觴の故事の如くせんことを請う。太子曰く、「古に肉林酒池有り、爾吾に之を效わしめんと欲するか」と。許さず。毎に諸王近臣と射を習うの暇に、輒ち經典を講論す。若し資治通鑑・貞觀政要、王恂・許衡の述ぶる所の遼・金帝王行事要略、下りて武経等の書に至るまで、従容片言の間に、苟も允愜なること有らば、未だ嘗て之が為に灑然として容を改めざること無し。時に経幄に侍する者、王恂・白棟の如きは皆朝夕東宮を出でず。而して待制李謙・太常宋衟は尤も咨訪を加え、蓋し間無し。

十八年(1281年)正月、昭睿順聖皇后崩ず。太子、獵所より奔赴し、勺飲口に入れざること終日、廬帳を設けて之に居る。宋衟に命じて顧問に備うべき者を択ばしむ。衟、郭祐・何瑋・徐琰・馬紹・楊居寬・何榮祖・楊仁風等を以て言と為す。太子曰く、「是の数人者、尽く我が為に之を致せ、宜しく近き者より始むべし」と。遂に瑋を易州より、琰を東平より召す。贊善王恂卒す。太子之を聞きて嗟悼し、鈔二千五百緡を賻す。一日、左右を顧みて謂う、「王贊善は言うべきこと有らば必ず言い、未だ嘗て顧惜せず、事に随い規正し、良く多く裨補有り。今其の匹有ること鮮し」と。時に阿合馬国柄を擅にす。太子其の姦悪を悪み、未だ嘗て少しく顔色を仮さず。盗、阿合馬の畏憚する所の者は、独り太子のみなるを知る。因って偽の太子と為し、夜京城に入り、召して之を殺す。和禮霍孫の相に入るに及んで、太子曰く、「阿合馬は盗の手に死す。汝中書に任ず。誠に国に便にして民に利する者あらば、更張を憚るなかれ。苟も或いは沮撓する者あらば、我当に力を以て之を持せん」と。

中書、何瑋を以て省事を参議せしめ、徐琰を以て左司郎中と為さんことを啓す。瑋・琰入見す。太子之に諭して曰く、「汝等孔子の道を学ぶ。今始めて行うを得。宜しく平生の所学を尽くし、力を以て之を行え」と。楊仁風を潞州より、馬紹を東平より辟く。復た楊恭懿を辟きて省中に置き議事せしむ。衞輝総管董文用の官政に練達なるを以て、恭懿と同く省中に置く。按察副使王惲、承華事略を進む。一に曰く広孝、二に曰く立愛、三に曰く端本、四に曰く進学、五に曰く択術、六に曰く謹習、七に曰く聴政、八に曰く達聡、九に曰く撫軍、十に曰く明分、十一に曰く崇儒、十二に曰く親賢、十三に曰く去邪、十四に曰く納誨、十五に曰く幾諫、十六に曰く従諫、十七に曰く推恩、十八に曰く尚儉、十九に曰く戒逸、二十に曰く審官。太子、漢の成帝の馳道を絶たざること、唐の粛宗の絳紗袍を朱明服に改めしことを聞き、大いに喜びて曰く、「吾を行わしめば、亦た当に此の若くならん」と。邢峙の斉の太子に邪蒿を食うを止めしむることを説くに及び、宮臣を顧みて曰く、「菜の名を邪蒿とす。未だ必ずしも果たして邪ならず。之を食うと雖も、豈に遽かに人をして正しからざらしめんや」と。張九思対えて曰く、「古人の戒めを設くる、義固より当に爾るべし」と。

詔して江西龍興路を割きて太子の分地と為す。太子左右に謂いて曰く、「安んぞ治民邢州の張耕の如き者を得んや。誠に之をして往きて治ましめ、江南諸郡に法を取らしめば、民必ず安集せん」と。是に於て宋衟を召し、大いに守長を選び署す。江西行省、歳課の羨餘鈔四十七万緡を献ず。太子怒りて曰く、「朝廷汝等に百姓を安治せしむ。百姓安んずれば、錢糧何ぞ足らざるを患えん。百姓安んぜざれば、錢糧多くと雖も、安んぞ自ら奉ぜんや」と。尽く之を却く。阿里、民官を以て課司を兼ね、歳に附輸して羊三百を請う。太子其の例を越ゆるを以て、之を罷む。参政劉思敬、其の弟思恭を遣わし、新民百六十戸を以て来たりて献ず。太子民の来たる所を問う。対えて曰く、「思敬の重慶を征する時の俘獲する所の者なり」と。太子蹙然として曰く、「帰りて汝が兄に語れ。此の属は宜しく所在に随い放遣して民と為すべし。重ねて人心を失うことなかれ」と。烏蒙宣撫司馬を進む。歳を踰えて之を献ずるの額に即ち、之に諭して曰く、「去歳嘗て多に馬を進むることなからしむ。道路の経る所、数え我が民を労するを恐るるなり。自今より其れ復た然るなかれ」と。

二十年(1283年)春、劉因を保定より辟く。因疾を以て辞す。固く之を辟く。乃ち至り、右贊善大夫に拝す。吏部郎中夾谷之奇を以て左贊善大夫と為す。是の時、已に国子学を立て、李棟・宋衟・李謙皆東宮の僚友を以て、継いで教事を典す。是に至り、因に命じて専ら之を領せしめ、而して衟等を以て仍お咨訪に備えしむ。嘗て曰く、「吾聞く、金の章宗の時、有司太学生の廩費太多なりと論ず。章宗謂う、一の范文正公を養い出す、償う所顧みて豈に少ならんやと。其の言甚だ善し」と。会うに因復た疾を以て去らんことを乞う。二十二年(1285年)、長史耶律有尚を以て国子司業と為す。中庶子伯必、其の子阿八赤を以て入見す。諭して入学せしむ。伯必即ち其の子をして蒙古学に入らしむ。年を踰えて又見ゆ。太子何の書を読むかと問う。其の子蒙古書を以て対う。太子曰く、「我汝に命じて漢人の文字を学ばしむる耳。其れ亟に冑監に入れ」と。

使者を開元に派遣して宋の工部侍郎倪堅を召し出し、到着すると、古今の成敗得失について尋ねたところ、堅は答えて言った、「三代は仁をもって天下を得、その失うところは不仁による。漢・唐の滅亡は、外戚と宦官による。宋の滅亡は、奸党と権臣による。」と。太子はこれを嘉して受け入れ、酒を賜い、日が西に傾いてようやく罷めた。諭徳の李謙と夾谷之奇がかつて進言して言った、「殿下は聡明な天性が早くから備わり、道理を閲するに久しく熟しておられます。今まさに聖なる訓戒に従って諸般の政務を参決なさろうとしています。膳を視、安否を問う礼儀については、もとより賛言を待つまでもありません。しかしながら、軍民の利害、政令の得失については、事が朝廷に関わり、責めは台院に在ります。宮臣の言うべきでないものもあります。ただ、源を澄まし本を固め、成り立った業績を保守することこそ、殿下が留意すべきところであり、臣らが黙して語らざるを得ないことです。謹んで十事を陳べます。曰く、心を正すこと、親族を睦まじくすること、倹約を尊ぶこと、賢者を親しむこと、幾微を諫めること、兵を収めること、文を尚ぶこと、律を定めること、名を正すこと、弊を革めることです。」その正心を論じたところに云う、「太子の心は天下の根本である。太子の心が正しければ、天心の属するところ、人心の繋ぐところがある。唐の太宗がかつて言った、人主の一心は、これを攻める者が多い。あるいは勇力をもって、あるいは弁舌をもって、あるいは諂諛をもって、あるいは奸詐をもって、あるいは嗜欲をもって、車の輻が轂に集まるように攻め、それぞれ自らの売り込みを求める。人主が少しでも懈ると、その一つを受け入れれば、その害は言い尽くせないほどである。殿下は至尊の儲貳であられ、人々が自ら売り込もうとする者も少なくない。常にこの心を喚起し、物欲によって撓らされることのないようにすれば、宗廟社稷と生民の福である。本を固め源を澄ますことは、これに切なるものはない。」と。睦親を論じ、『宗親は王室の藩屏であり、人主が自らを衛るものである。大なる分位が定まり、尊卑が懸け隔たっては、必ず恩意を下に及ぼして、その後その歓心を得ることができる。宗親の歓心を得れば、遠近の歓心を得るのである。』と。その正名と革弊を論じたところは、特に時政に切中していた。

太子は中書省に在ること久しく、聴断に明るく、四方の州郡の科徴・輓漕・造作・和市で、民の休戚に関わるものがあれば、聞くと即日に奏上して罷めさせた。右丞の盧世栄は利を言うことで進用されたが、太子はその意を深く非とした。かつて言った、「財は天から降るものではない。どうして毎年余剰を取り立てることができようか。生民の膏血がこれに尽きることを恐れる。ただ民を害するのみならず、実に国の大いなる蠹である。」と。その後、世栄は果たして罪に坐した。桑哥はもとより世栄を支持していたが、太子にこの言葉があると聞き、ついに口を閉ざして敢えて救わなかった。

至元以来、天下は太平に至り、人材が輩出した。太子は優れた礼遇をもってこれに接し、師友の列に在る者は、朝廷の名望ある徳人でなければ、布衣の節操ある士であり、その徳意は少しも衰えなかった。宋衟が眼病を患うと、鈔千五百緡を賜った。王磐が老いて帰ろうとすると、その婿を東平に官職につけ、終養させた。孔洙が江南から入朝すると、張九思に聖人の道を学びながら、聖人の後裔を知らないことを責めた。その大雅にして群を抜くところは、天性に基づくものであった。中外の人心はこれに帰した。ここにおいて世祖の年齢が高くなり、江南行台監察御史で事を言う者が太子への禅位を請うた。太子はこれを聞いて恐れた。台臣はその上奏を留め置き、敢えて急いで聞かせようとしなかったが、小人が台臣が隠匿したとし、隙に乗じてこれを発した。世祖は大いに怒り、太子はますます恐れ、間もなく遂に薨じた。享年四十三。成宗が即位すると、文恵明孝皇帝と追諡し、廟号を裕宗とし、太廟に祔せた。

顕宗

顕宗光聖仁孝皇帝、諱は甘麻剌、裕宗の長子である。母は徽仁裕聖皇后、弘吉剌氏。甘麻剌は幼少の頃、祖母の昭睿順聖皇后に養育され、日々世祖に侍り、左右を離れたことがなく、畏れ慎んで妄りに言わず、言えば必ず隠すことがなかった。

至元年中、旨を奉じて北辺を鎮守した。叛王の岳木忽児らがその到着を聞き、風を望んで降伏を請うた。やがて都阿・察八児ら諸王が使者を遣わして和を求め、辺境はこれによって寧かになった。かつて出征して金山に駐屯した時、大雪に会い、火を囲んで帳内に坐り、大いに楽しんだ。顧みて左右に言った、「今日の風雪この如し。我と卿らがここにいてなお寒さの色がある。あの従士らもまた人である。腰に弓矢を帯び、刃を担いで周廬の外にいる。その苦しみは推して知るべし。」と。そこで饔人に命じて大いに肉の粥を作らせ、自ら味わってから遍くこれを賜った。部曲を撫循する暇には、也滅堅に命じて国語で『通鑑』を講じさせた。近侍の太不花に戒めて言った、「朝廷は藩屏として我を任じている。事に及ばないところがあれば、まさに汝らが輔助すべきである。もしも勢いに依って威を作り、我が命を用いないならば、軽きは論じて遣わし、大なるは奏聞するのみだ。各々慎むべく、百姓をして安んじて業を営ませ、主上に北顧の憂いなからしめよ。そうすれば我も卿らもここに楽しく居ることができ、これこそ国家に報いる所以である。」と。

二十六年、世祖はその辺境に居ること久しいことを以て、特に柳林の地で狩猟することを命じた。衆を率いて漷州に至り、廩膳が均しからぬことを恐れ、左右司に命じて従士に分け与えさせ、なおその衆を戒めて言った、「汝ら飲食既に足りている。もしもさらに百姓を侵漁するならば、これは汝ら自ら罪譴を取るものであり、悔い無かれ。」と。衆は皆約束に従い、民はこれによって安んじた。北に還り、上京で世祖に拝謁した。世祖はこれを労って言った、「汝が柳林にいた時、民は擾乱を知らなかった。朕は実にこれを嘉する。」と。明年の冬、梁王に封じられ、金印を授けられて雲南に出鎮した。中山を過ぎ、また明年の春に懐・孟を過ぎた。従卒の馬駝の類は千百を下らなかったが、至るところで民から横取りすることはなかった。

二十九年、晋王に改封され、北辺に移鎮し、太祖の四大オルド及び軍馬・ダダ国(蒙古)の国土を統領し、新たに晋王の金印を鋳造して授けられた。中書省の臣が世祖に言上した、「諸王は皆傅を置いています。今、晋王は太祖が基を肇めた地を守っておられます。諸王よりも増すべきものがありましょう。内史を置くことを請います。」と。世祖はこれに従い、北安王傅の禿帰・梁王傅の木八剌沙・雲南行省平章の賽陽を並べて内史とした。明年、内史府を置いた。また明年、世祖が崩御し、晋王は訃報を聞いて上都に駆けつけた。諸王大臣が皆集まっていた。晋王は言った、「昔、皇祖は我に命じて北方を鎮撫させ、社稷を衛らせた。久しく辺境の事に歴り、その職に服したい。同母弟の鉄木耳は仁孝である。大統を嗣ぐに宜しい。」と。ここにおいて成宗が帝位に即き、晋王は再び藩邸に帰った。

元貞元年、タタル部の年穀が熟さず、宣徽院に檄を飛ばしてこれを賑恤させた。また答答剌の民が飢えたので、朝廷に賑恤を請うた。詔して王に鈔千万貫及び銀帛を差等を付けて賜う。皇太后はさらに雲南から貢がれた金器を、朵年を遣わして賜うた。この年の冬、詔を奉じて知枢密院事の札散・同知徽政院事の阿里罕を内史とする。大徳二年、詔して秫米五百石を給す。五年、成宗は辺境の士が貧乏なのを以て、鈔一千万貫を分け与えた。

六年正月乙巳、王薨じ、年四十。王は天性仁厚で、下を御するに恩があった。元貞の初め、藩邸の属官の審伯が年老いたので、その子を代わりに立てることを請うた。内史が王に言上すると、王は言った、「ただ天子の命ずる所による。」と。その自らを守るこのようなありさまであったので、特に朝廷に重んぜられた。しかしながら浮屠を崇尚し、僧に命じて仏事を行わせ、歳ごとに費やす財は数え切れなかった。子三人、曰く也孫帖木児、曰く松山、曰く迭里哥児不花。王の薨じた後十年、仁宗が即位し、王に献武と諡した。また十一年後、英宗がしい害に遇い、也孫帖木児が嗣晋王として皇帝の位に即き、光聖仁孝皇帝と追尊し、廟号を顕宗とし、太室に祔享した。また六年後、文宗が即位すると、その廟室を毀った。

順宗

順宗昭聖衍孝皇帝、諱は答剌麻八剌、裕宗の第二子なり。母は徽仁裕聖皇后と曰い、弘吉剌氏。至元の初め、裕宗燕王たりしとき、答剌麻八剌は燕邸に生まる。明年、詔して裕宗をして潮河に居らしむ。八月、京師に召し至らしむ。凡そ乗輿の巡幸及び歳時の朝賀、未だ嘗て裕宗に侍して行かざるはなし。稍く長じて、世祖女侍郭氏を賜い、その後乃ち弘吉剌氏を納れて妃と為す。二十二年、裕宗薨じ、答剌麻八剌は皇孫として鍾愛せられ、両宮その出閤の礼を優うす。

二十八年、始めて詔して出でて懐州に鎮せしめ、侍衞都指揮使梭都・尚書王倚を行に従わしむ。趙州に至り、従卒に民の桑棗を伐つ者あり、民道に遮りて訴う。答剌麻八剌怒り、従卒を杖ちて以て衆を懲らしめ、王倚を遣わして入奏せしむ。世祖大いに悦ぶ。未だ至らざるに、疾を以て召し還す。明年春、世祖北幸し、疾を治めしめて京師に留まる。両月を越えて薨ず。年二十有九。

子三人:長は阿木哥と曰い、魏王に封ぜらる。郭出なり。妃の生める者は海山と曰い、是れ武宗なり。愛育黎拔力八達と曰い、是れ仁宗なり。大徳十一年秋、武宗即位し、追諡して昭聖衍孝皇帝と曰い、廟号を順宗とす。太廟に祔享す。