十七年春正月癸卯朔、高麗国王王賰がその僉議中賛金方慶を派遣して来朝賀し、兼ねて歳貢を奉じた。丙午、万戸綦公直に命じて別失八里を戍守させ、鈔一万二千五百錠を賜う。辛亥、磁州・永平県に水害あり、鈔を与えてこれを貸与す。丙辰、遷転官員の法を立てる。凡そ過失なき者は現闕を授け、物故及び過犯ある者は選人を以てこれを補い、満代の者は家に還らしめて待たしむ。また諸路の差税課程を定め、増益する者は即時に上報し、隠漏する者はこれを罪し、畝を履んで税を増すを須いず、以て百姓を揺るがさしむ。江淮の銅及び銅銭・銅器を括ることを詔す。辛酉、海賊賀文達の掠めたる良婦百三十余人をその家に還す。広西廉州の海賊霍公明・鄭仲龍等を誅す。甲子、泉州行省に勅し、所轄の州郡の山寨で未だ即時に帰附せざる者は兵を率いてこれを抜き、既に抜きて復た叛く者はこれを屠れ。総管張瑄・千戸羅璧が宋の二王を収める功あり、瑄を沿海招討使に陞叙し、虎符を賜う。璧を管軍総管とし、金符を賜う。丁卯、近郊に畋猟す。侍衛軍を以て工匠の役に供するなきを詔す。戊辰、相威に勅して阿里海牙・忽都帖木児等の俘虜としたる丁三万二千余人を検覈せしめ、併せて民と為して放免す。行中書省を福州に置く。徳慶府を総管府に改む。開灤河五衛軍に鈔を賜う。
三月癸卯、福建の王積翁に命じて入り省事を領せしむ。中書省臣以て不可と為す。戸部尚書に改む。甲辰、車駕上都に幸す。思・播州の軍、鎮遠・黄平の界を侵す。李徳輝等に命じて往きこれを視せしむ。通政院官の任に勝たざる者を罷む。丙午、東西両川に勅して蒙古・漢軍を発し魚通・黎・雅を戍守せしむ。乙卯、都功徳使司を立て、従二品とし、帝師の統ぶる所の僧人並びに吐蕃軍民等の事を掌りて奏す。己未、羅氏鬼国を討つことを詔し、蒙古軍六千、哈剌章軍一万、西川の薬剌海・万家奴の軍一万人、阿里海牙の軍一万を以て、三道並びに進ましむることを命ず。癸亥、高郵等の処飢饉あり、粟九千四百石を賑恤す。辛未、畏吾境内に交鈔提挙司を立てる。月脱古思八部の屯田に牛具を給す。忙古帯等に羊馬及び皇子南木合の下に羊馬の価を賜う。
夏四月壬申朔、中書省臣言う、「唆都の軍士民を擾わす、故に南剣等路の民復た叛く。及び忙古帯往きこれを招徠するに及び、民始めて安んずることを獲たり」と。忙古帯を以て仍に行省福州せしむることを詔す。癸酉、南康の杜可用叛く。史弼に命じてこれを討ち擒えしむ。杭州宣慰司の官四員を定め、游顕・管如徳・忽都虎・劉宣を以てこれに充つ。丙子、隆興路の楊門駅を復た懐安県と為す。庚辰、四川宣慰使也罕的斤、海青符を賜わんことを請う。二符を以てこれに給することを命ず。壬午、史弼朝に入る。乙酉、宋の太常楽を太常寺に付す。泗州霊壁県を改めて仍び宿州に隷せしむ。丁亥、杭州路金玉総管府を立てる。甲午、軍戸の貧乏なる者を民籍に還すことを勅す。丙申、羅佐山の道梗まるを以て、阿里海牙に勅して軍千人を発して戍守せしむ。隆興・泉州・福建に三省を置く不便なるを以て、廷臣に命じて集議して以て聞かしむ。己亥、諸王只必帖木児、各投下に官を設けんことを請う。従わず。庚子、歳星軒轅の大星を犯す。百官の俸を権停することを勅す。寧海・益都等四郡霜、真定七郡蟲、皆桑を損ず。
五月辛丑朔、枢密院兵六百を調えて居庸の南・北口を守らしむ。甲辰、行宮を察罕脳児に作る。丙午、沙州を路に陞す。癸丑、沙州の戸丁を括り、常賦を定め、その富戸の余田は戍守する漢軍に耕種せしむ。雲南行省に詔して四川軍一万人を発し、薬剌海に命じてこれを領し、前に遣わしたる将とともに緬国を征せしむ。高麗国王王賰、民の飢饉を以て、糧万石を貸さんことを乞う。これに従う。福建行省を泉州に移す。甲寅、汀・漳の叛賊廖得勝等を誅す。船三千艘を造り、躭羅に勅して材木を発してこれに給せしむ。庚申、諸王別乞帖木児に銀印を賜う。辛酉、国師掌教所に印を賜う。伯顔の将士の戦功を賞し、銀二万八千七百五十両を賜う。真定・咸平・忻州・漣・海・邳・宿諸州郡蝗。
六月辛未朔(一日)、忽都帯児に闌遺(逃亡・遺棄)の人民と牛畜を収籍させ、荒地を割いて屯田を行わせる。壬申(二日)、再び占城国を招諭する。丁丑(七日)、唆都の部下の顧総管が海道で党を集めて商貨を劫奪し、范文虎がこれを招降したが、再び法に置くことを議する。文虎らに集議してこれを処置せしむ。阿答海らが江南に立てた税課提挙司の廃止を請うが、阿合馬が力爭し、詔して御史台に官を選び検覈させ、実情を具して奏聞せしむ。阿合馬が大宗正府の設置を請う。上都の奥魯官を廃し、留守司に奥魯の事を兼管させる。(西安)〔安西〕王薨ず、その王相府を罷む。呂告蛮部安撫使王阿済を遣わし、万戸昝坤とともに羅氏鬼国を招諭せしむ。壬辰(二十二日)、范文虎を召して日本征討を議す。戊戌(二十八日)、高麗王王(睶)〔賰〕、その将軍朴義を遣わして方物を貢ぐ。江淮等処に鈔法を頒行し、宋の銅錢を廃す。不魯合答らを遣わして江淮行省の阿里伯・燕帖木儿の銭穀を検覈せしむ。泗州を改めて淮安路に隷属させる。忽烈禿・忽不剌ら将士で力戦した者に銀鈔を賜い、また折可察児ら軍士に羊馬の価鈔を給すること各差あり。
八月庚午朔(一日)、蕭簡ら十人が河南五路を歴訪し、擅りに闌遺戸を招く。事覚え、その首謀者を軍に従わせて自ら効わせ、残りは皆これを杖す。乙亥(六日)、蒙古侍衞総管〔府〕を蒙古侍衞親軍都指揮使司に改む。丙子(七日)、太陰心東星を犯す。丁丑(八日)、唆都が三仏斉等八国を招くことを請うが、従わず。南剣路を鎮守する万戸呂宗海が兵を窃んで亡去す、詔してこれを追捕す。戊寅(九日)、占城・馬八児国皆使いを遣わして表を奉り臣と称し、宝物犀象を貢ぐ。以前に徴発した軍に従わんと願う者を軍とし、茶忽に付してこれを領せしめ、日本を征討せしむ。丁亥(十八日)、許衡致仕し、その子師可を懐孟路総管として官し、もって侍養に便ならしむ。碧玉盞六・白玉盞十五を太廟に納む。癸巳(二十四日)、西平王の部に糧を賜う。戊戌(二十九日)、高麗王王(睶)〔賰〕来朝し、かつ将に兵三万を益して日本を征討せんとすと言う。范文虎・忻都・洪茶丘を中書右丞とし、李庭・張抜突を参知政事とし、ともに中書省事を行わしむ。闊里吉思らに鈔を賜い、迷里兀合らに羊馬を賜い、怯魯憐らに牛羊馬の価を賜い、及び東宮位下の怯憐口らに粟帛を賜う。大都・北京・懐孟・保定・南京・許州・平陽旱魃、濮州・東平・済寧・磁州水害。
九月壬子(十三日)、車駕上都より至る。壬戌(二十三日)、也罕的斤、斡端征討に進む。癸亥(二十四日)、命じて沿途で和林からの帰還軍に食糧を給せしむ。甲子(二十五日)、太陰右執法を掩い併せて歳星を犯す。乙丑(二十六日)、庫を守る軍が庫鈔を盗み、八剌合赤がその贓を分け、盗賊を遁走させしむ、詔してこれを誅す。丁卯(二十八日)、羅氏鬼国主阿察及び阿里降伏す、安西王相李徳輝が人を遣わしてともに入覲せしむ。八剌合赤らに羊馬の価二万八千三錠を賜い、及び禿渾の下の貧民に三月分の糧を賜う。
冬十月庚午(二日)、塔剌不罕の軍で賊と力戦した者に、命じて田を与えて賞す。癸酉(五日)、高麗国王王(睶)〔賰〕に開府儀同三司・中書左丞相・行中書省事を加える。甲戌(六日)、使いを遣わして開元等路の軍三千を徴発し日本を征討せしむ。丙子(八日)、雲南王忽哥赤に印を賜う。丁丑(九日)、湖南の兵一万をもって亦奚不薛を伐たしむ、亦奚不薛降伏す。戊寅(十日)、兵十万を発し、范文虎にこれを将せしむ。右丞洪茶丘の将いる征日本新附軍に鈔及び甲を賜う。辛巳(十三日)、営田提挙司を立て、従五品とし、柳林に司を置かしめ、諸色の戸千三百五十五を割きてこれに隷属させ、官が牛・種・農具を給す。壬午(十四日)、詔して陝西四川等処行中書省を立て、不花を右丞とし、李徳輝・汪惟正をともに左丞となす。時に徳輝は既に卒す。甲申(十六日)、詔して龍虎山の天師張宗演を闕に赴かしむ。己丑(二十一日)、都実に命じて黄河の源を窮めしむ。辛卯(二十三日)、漢軍をもって沙・甘に屯田せしむ。壬辰(二十四日)、亦奚不薛病み、その従子を遣わして入覲せしむ。帝曰く、「亦奚不薛は命を稟せず、輒ち職をその従子に授くは、人臣の礼なし。宜しく亦奚不薛を出ださしめ、乃ち軍を還すべし。」癸巳(二十五日)、詔して和州諸城に諭し、流移の民を招集せしむ。丙申(二十八日)、命じて官にある者、任事一月の後、月を経て乃ち俸を給し、或いは事を(発)〔廃〕する者はこれを斥く。使いを遣わして爪哇国及び交趾国を諭す。象轎の製作を始む。怯烈らに糧を給す。火察の家の貧乏なる者に賜う。
この年、死罪を断ずること百二人。
十八年春正月戊戌朔(一日)、高麗国王王賰がその僉議中賛金方慶を遣わして来賀し、兼ねて歳幣を奉ず。辛丑(四日)、阿剌罕・范文虎・囊加帯を召し同赴闕して訓諭を受けさせ、抜都・張珪・李庭を留後とする。忻都・洪茶丘の軍に陸行で日本に抵るよう命じ、兵甲は舟で運び、通過する州県にその糧食を与えさせる。范文虎の言を用い、さらに漢軍一万人を加える。文虎はまた馬二千頭を禿失忽思の軍および回回砲匠に給するよう請う。帝曰く「戦船に何ぞこれを用いん」と。皆従わず。癸卯(六日)、鈔および金銀を発して孛羅に与え、貧民に給させる。丁未(十日)、近郊で狩猟する。江南州郡に蒙古人・回回人を兼用させるよう勅する。諸王位下に設けるべき達魯花赤は、皆赴闕させ、なお詔して諸王阿只吉らにこれを知らしむ。己酉(十二日)、黄州陽羅堡を改めて再び鄂州に隷属させる。辛亥(十四日)、使者を遣わして代わりに嶽瀆后土を祀る。壬子(十五日)、高麗王王賰が使者を遣わし、日本がその辺境を侵犯したので、兵を乞いてこれを追討したいと言う。詔して金州隘口を戍守する軍五百人をこれに付す。丙辰(十九日)、車駕漷州に幸す。符宝局を典瑞監に改め、天下諸司の職印を収める。丁巳(二十日)、制して六祖李全祐に五祖李居寿の祭斗を嗣がせる。癸亥(二十六日)、邵武の民高日新が龍楼寨に拠って乱を為し、これを擒える。忻都らの戦功を賞す。日本征討諸軍に鈔を賜う。
二月戊辰(二日)、侍衛軍四千人を発して正殿を完成させる。日本征討の善射軍および高麗の火長水軍に鈔四千錠を賜う。辛未(五日)、車駕柳林に幸す。高麗王王賰が尚主(公主を娶る)したことを以て、宣命に駙馬の二字を加えて改めることを乞う。制して「可」とす。乙亥(九日)、耽羅で新造した船を洪茶丘の出征に付するよう勅する。詔して刑徒で死刑を減ぜられた者を忻都の軍に付す。揚州で火災があり、米七百八十三石を発して被災の家を賑恤する。范文虎らに日本征討の意を以て諭し、なお軍律を厳しくする。上都留守司を立てる。叙州を路に昇格し、安西省に隷属させる。潭州省の治所を鄂州に移す。湖南宣慰司を潭州に移す。乙酉(十九日)、畏吾の断事官を北庭都護府に改め、秩を従二品に昇格する。丙戌(二十日)、日本国征討軍が出発する。浙東が飢え、粟千二百七十余石を発してこれを賑恤する。己丑(二十三日)、粛州等処の軍民を発して渠を鑿り田を溉ぐ。日本征討軍に衣甲・弓矢・海青符を与える。通政院官渾都と郭漢傑に水駅を整備させ、叙州から荊南まで凡そ十九站、戸二千一百・船二百十二艘を増やすよう勅する。詔して烏瑣・納空らに羅氏鬼国を擾らさぬよう諭し、違反した者は国主阿利に名を具して奏聞させる。福建省左丞蒲寿庚が言うには、「詔により海船二百艘を造ることとなったが、今完成したのは五十艘、民は実に艱苦している」と。詔してこれを止める。乙未(二十九日)、貞懿順聖昭天睿文光応皇后弘吉剌氏崩ず。
夏四月辛未、雲南軍を益し合剌章を征せしむ。癸酉、中外官吏の俸を復た頒つ。辛巳、通・泰二州饑、粟二萬一千六百石を発して之を賑す。戊子、蒙古漢人新附軍總管を置く。甲午、太原の五戸絲を命じて太原に就き輸せしむ。太和嶺より別十八里に至るまで新驛三十を置く。日本を征する河西軍等に鈔を賜ふ。
五月癸卯、西北邊の回回諸人の境を越えて商と為るを禁ず。甲辰、使を遣わし瓜・沙州の饑を賑す。戊申、霍州畏兀按察司を罷む。己酉、甘肅瓜・沙等州に酒を為すを禁ず。壬子、耽羅國の今歳入貢する白紵を免ず。丙辰、烏蒙阿謀宣撫司を以て雲南行省に隷せしむ。歳星右執法を犯す。庚申、人を鬻ぐの禁を厳にし、食を乏くす者は量りて賑貸を加ふ。壬戌、詔して契丹戸を括む。耽羅國達魯花赤塔兒赤に敕し、高麗全羅等處の田獵民を擾はす者を禁ず。
六月丙寅、賽典赤・火尼赤に敕し烏木・拔都怯兒等八處の民戶を分ち管せしむ。謙州の織工百四十二戶甚だ貧し、粟を以て之に給し、其の鬻ぎし妻子は官と為り贖ひ還す。太原新附軍五千を以て甘州に屯田せしむ。丁丑、按察司の劾する所の羨餘糧四萬八千石を以て軍に餉ふ。己卯、順慶路を以て四川東道宣慰司に隷せしむ。安西等處の軍站、凡そ和顧和買は、民と均しく役す。陝西の營田糧十萬石を増し、以て常費に充つ。壬午、耽羅の戍に命じ力田して以て自給せしむ。日本行省の臣使を遣はし来り言ふ、「大軍巨濟島に駐まり、対馬島に至り島人を獲たり。言ふ、太宰府西六十里旧に戍軍有り已に調出して戦ふ、乗虚に之を擣くべし。」詔して曰く、「軍事は卿等自ら之を權衡すべし。」癸未、中書省に命じ姚演の領する漣・海の屯田の官に給する資と歳入の数とを會計せしめ、便なれば則ち之を行ひ、然らずば則ち罷め去らしむ。丁亥、乞赤の招く所の獵戶七千を放ちて民と為す。庚寅、阿剌罕疾有るを以て、詔して阿塔海に軍馬を統率し日本を征せしむ。壬辰、高麗國王王賰言ふ、本國驛四十を置く、民畜凋弊す、敕して併せて二十站と為し、仍馬價八百錠を給す。木剌由國に奉使する苫思丁占城に至り船壞る、人を遣はし来り言ふ、舟糧を給し及び兵を益すことを乞ふ、詔して米一千四百餘石を給す。中書左丞忽都帖木兒を以て中書右丞と為し、中書省事を行はしめ、御史中丞、御史臺事を行ふ忽剌出を中書左丞と為し、尚書省事を行はしむ。皇子南木合の部する所の工匠に羊馬價鈔を賜ふ。
秋七月甲午朔、萬戶綦公直に命じ宣慰使劉恩の将する屯肅州の漢兵千人を分ち、別十八里に入らしめ、嘗て西川を過ぎし兵百人を以て嚮導と為さしむ。丁酉、甘州に和中所を置くを敕し、以て兵糧を給せしむ。京兆四川行省を分ち河西に置く。己亥、阿剌罕卒す。庚子、回回砲手の他郡に散居する者を括め、悉く南京に赴きて屯田せしむ。癸卯、太陰房の距星を犯す。庚戌、忻都の大和嶺に戍る所将の蒙古軍還るを以て、復た漢軍をして戍守せしむ。松州知州僕散禿哥の前後射虎萬計するを以て、號を萬虎將軍と賜ふ。貴赤合八兒禿の招く所の和・真・滁等の戶二千八百二十を賜ひ、俾く自ら之を領せしむ。辛酉、唆都占城を征し、駝蓬を賜ひ以て瘴毒を辟けしむ。占城國来たり象犀を貢す。天師張宗演等に命じ即ち壽寧宮に赤章を天に奏せしむること凡そ五晝夜。
九月癸亥朔(一日)、近郊で狩猟を行った。甲子(二日)、大都の巡邏兵を千人増員した。紙幣を給して上都の飢民を救済した。癸酉(十一日)、商人の市舶貨物で既に泉州で抽分(税)を経たものは、諸処で貿易する際、ただ税を納めるのみとせよ。躭羅の戍兵を増やし、なお高麗国に戦具を給させるよう命じた。庚辰(十八日)、宮中に還った。辛巳(十九日)、大都に蒙古站屯田を設置し、編戸で毎年包銀を納める者及び真定等路の闌遺戸(逃亡戸)を、ともに屯田に従事させ、その真定に在る者は皮貨を免除する。癸未(二十一日)、京兆等路の毎年の課税額が一万九千錠から五万四千錠に増えたが、阿合馬はなお実情に合わないとして、これを精査しようとした。帝は「阿合馬に何がわかろうか」と言い、事はそこで止んだ。大都・新安県の民は和顧和買(官需物資の強制買い上げ)を免除された。甲申(二十二日)、太陰(月)が軒轅大星を犯した。壬辰(三十日)、占城国が来朝して地方産物を貢いだ。大都城を修築した侍衛軍に紙幣・絹帛を差等を付けて賜った。北征軍に銀・紙幣を賞賜した。怯憐口(私属民)及び四オルド(宮帳)の下の者と、范文虎の配下の将兵に羊馬・衣服・幣帛を差等を付けて賜った。
冬十月乙未(三日)、太廟で祭祀を行い、貞懿順聖昭天睿文光応皇后を合祀した。丙申(四日)、民を募って淮西で屯田を行わせた。己亥(七日)、安南王の封号を議し、賜った安南国の畏兀児文字の虎符を、国字(モンゴル文字)で書いたものに替えることとした。なお詔を降して安南国に諭し、日烜の叔父の遺愛を安南国王に立てた。庚子(八日)、溪洞の新附官である鎮安州の岑従毅が、兵を放って殺掠を行い、知州の李顕祖を迫って死に至らしめたため、従毅を召し出して入朝させた。壬寅(十日)、日本征討の将校に衣装・幣帛・靴帽等の物を差等を付けて賜った。乙巳(十三日)、安西王府の協済戸及び南山隘口の軍に命じ、安西・延安・鳳翔・六盤等の処で屯田を行わせた。河西に織毛段匠提挙司を設置した。丁未(十五日)、安南国に宣慰司を置き、北京路ダルガチの孛顔帖木児を参知政事とし、安南国宣慰使を代行させ、都元帥で虎符を佩く柴椿・忽哥児をその副使とした。紙幣一万錠を給し、河西行省に交付して経費に備えさせた。己酉(十七日)、張易らが言上した。「道書を参校したところ、ただ『道徳経』のみが老子の親著であり、他は皆後人の偽撰である。ことごとく焼却すべきである」。これに従い、なお天下に詔諭した。隆興行省に海青符(緊急伝達用の符)を給した。失里咱牙信合八剌麻合迭瓦を占城郡王に任じ、栄禄大夫を加え、虎符を賜った。占城に行中書省を立て、唆都を右丞とし、劉深を左丞とし、兵部侍郎の也黒迷失を参知政事とした。庚戌(十八日)、海船百艘、新旧の軍及び水手合わせて一万人をもって、来年正月を期して海外諸蕃を征討するよう命じ、なお占城郡王に軍糧を給するよう諭した。安南国王陳遺愛を安南に入らせるに当たり、新附軍千人を発して護衛送還させた。詔を降して干不昔国に来朝帰附するよう諭した。壬子(二十日)、和礼霍孫の言を用い、揚州・隆興・鄂州・泉州の四省に、蒙古提挙学校官を各二員ずつ置いた。翰林学士承旨の撒里蛮に会同館・集賢院の事務を兼領させ、平章政事・枢密副使の張易に秘書監・太史院・司天台の事務を兼領させ、翰林学士承旨の和礼霍孫を司徒に任じた。大都南陽真定等処屯田孛蘭奚総管府を農政院に改めた。癸丑(二十一日)、皇太子が北辺から到着した。丙辰(二十四日)、兀良合帯の言により、上都の南四站の人畜が困窮しているとして、紙幣を賜ってこれを給した。庚申(二十八日)、西川の戸籍を編成した。辛酉(二十九日)、邵武の反乱者高日新が降伏した。日本征討から帰還した侍衛新附軍に冬衣を給した。劉天錫らに銀・幣帛を賜い、勝兀剌らに羊馬・紙幣を賜い、諸王阿只吉らに馬・牛・羊を賜い、それぞれ差等があった。
十一月癸亥朔(一日)、詔を降して探馬礼に諭し、帰附するよう命じた。甲子(二日)、陳吊眼の首悪を誅するよう命じ、残りはその兵仗をことごとく没収し、縛って京師に送らせた。己巳(七日)、軍器監に命じて兵仗を高麗の沿海等郡に給付させた。占城に奉使した孟慶元・孫勝夫をともに広州宣慰使とし、出征の調度を兼領させた。高麗国・金州等処に鎮辺万戸府を置き、日本を制圧させた。高日新とその弟の鼎新らが宮門に至り、日新は二度も反乱の首領となったが、山北路の民職に任じた。文慶の類は、泉州に送還した。功績ある将校二百二十三員に銀十万両及び幣帛・弓矢・鞍勒を差等を付けて賜った。詔して安南国王に占城行省の軍糧を給させよとした。高麗国王が海浜の城を修繕して日本に備えたいと請うたが、許さなかった。辛未(九日)、諸王阿只吉に糧六千石を給した。甲戌(十二日)、太陰が五車次南星を犯した。乙亥(十三日)、法師劉道真を召し出し、太乙を祀る法を問うた。丁丑(十五日)、太陰が鬼宿を犯した。壬午(二十日)、詔を降して爪哇国主に諭し、親しく来朝させる。昌州及び蓋里泊の民が飢えたので、紙幣を給して救済した。丙戌(二十四日)、紙幣二万錠を和林の貿易に給付した。日本征討から帰還した軍で後から到着した者は沿海に分かれて戍守させるよう命じた。丁亥(二十五日)、太陰が心宿東星を掩った。揚州行省の新附軍の将校に紙幣を給し、人ごとに二錠ずつとした。己丑(二十七日)、安南国出征の新附軍に紙幣を賜った。礼部尚書の留夢炎及び馬八国に使した俺都剌らに紙幣をそれぞれ差等を付けて賜った。
十二月甲午(三日)、瓮吉剌帯を中書右丞相とした。己亥(八日)、日本行中書省を廃止した。丙午(十五日)、太陰が軒轅大星を犯した。丁未(十六日)、侍衛軍一万人を選抜して訓練し、扈従に備えることを議した。太常寺を正三品に昇格させた。辛亥(二十日)、西川行省に命じて万戸奴の配下の兵に兵仗を給させた。癸丑(二十二日)、益都・淄萊・寧海の開河夫の今年の租賦を免除し、なおその雇い賃を給するよう命じた。乙卯(二十四日)、諸王札忽児が占めていた文安県の地を屯田に給付した。丙辰(二十五日)、新附軍を動員して屯田を行わせた。福州の反賊林天成を捕らえ、市で刑戮に処した。福州路の今年の税を二分免除し、十八年以前の租税はすべて徴収を免除した。漢州徳陽県を成都路に属させた。漳州を路に改めた。礼部尚書の謝昌元に紙幣を賜った。捏古伯の戦功に銀を差等を付けて賞賜した。阿只吉らの助軍馬の代価を償った。塔剌海の籍没戸五十戸を賜った。
この年、保定路清苑県に水害、平陽路松山県に旱害、高唐・夏津・武城等県に螟害が作物を損ない、ともに今年の租を免除し、総計三万六千八百四十石であった。死刑罪二十二人を処断した。