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元史
列傳第一: 后妃一
光獻翼聖皇后
太祖光獻翼聖皇后、名は孛兒台旭真、弘吉剌氏、特薛禪の女なり。特薛禪は子の按陳とともに太祖に従い征伐して功有り、国舅の号を賜わり、王爵に封ぜられ、以て其の部族を統べしむ。旨有り、「女を生めば后と為し、男を生めば公主を尚せ、世世絶ゆること無し」と。世祖至元二年十二月、光獻翼聖皇后と追諡す。冊文に曰く、「祖宗を尊び、誠孝を致すは、実に王政の先んずる所なり。天地に法り、鴻名を建つるも、亦た母儀の称うるに克くす。肆に先ず太室に虔みて、以て後昆に昭示す。茲の至公に体し、大惠を以て節す。欽惟るに光獻皇后は、心を淵静に宅き、徳を柔嘉に稟く。聖神創業の初に当たり、夙夜賢を求むるの助有り。功は社稷に施し、慈訓を景襄に垂る。慶は宮闈に衍び、徽音を莊聖に流す。龍飛の運を協賛し、燕翼の謀を永く詒す。惟れば周人は思斉と称し、亦た本を推して興王の迹をす。漢世に在りて始めて光烈と諡すは、蓋し追遠の情を篤く申べしなり。是を用いて旧章を稽迪し、遺美を増崇す。謹んで摂太尉某を遣わし、玉冊玉宝を奉り、尊諡を加えて曰く光獻翼聖皇后とす。伏して惟うに淑霊降格し、典礼備膺せんことを、億万年に於いて、丕祚を茂んに隆んぜんことを」と。太祖廟に升祔す。其の余の后妃に四オルド四十余人有り、氏族を記さず、其の名は悉く表に見ゆ。後皆此に倣う。
昭慈皇后
太宗昭慈皇后、名は脱列哥那、乃馬真氏、定宗を生む。歳辛丑十一月、太宗崩ず、后は制を称し国を摂ること五年。丙午、諸王百官を会し、定宗を立てんことを議す。朝政は多く后より出づ。至元二年に崩じ、昭慈皇后と追諡し、太宗廟に升祔す。
欽淑皇后
定宗欽淑皇后、名は斡兀立海迷失。定宗崩ず、后は子の失列門を抱きて簾を垂れ政を聴くこと六月。至元二年、欽淑皇后と追諡す。
貞節皇后
憲宗貞節皇后、名は忽都台、弘吉剌氏、特薛禪の孫忙哥陳の女なり。蚤く崩ず。后の妹也速児、継いで妃と為る。至元二年、貞節皇后と追諡し、憲宗廟に升祔す。
順聖皇后
世祖昭睿順聖皇后、名は察必、弘吉剌氏、済寧忠武王按陳の女なり。裕宗を生む。中統初、立てて皇后と為す。至元十年三月、冊宝を授け、尊号を上りて貞懿昭聖順天睿文光応皇后と曰う。
一日、四ケシクの官、京城外の近地を割きて馬を牧せんことを奏す。帝既に允し、方に図を以て進まんとす。后、帝の前に至り、将に諫めんとし、先ず陽に太保劉秉忠を責めて曰く、「汝は漢人の聡明なる者、言えば則ち帝聴く、汝何を為して諫めざる。向に初めて都を定むる時に到り、若し地を以て馬を牧せば則ち可なり、今軍蘸俱に分ち業已に定まれり、之を奪うこと可ならんや」と。帝黙然たり、其の事を寝めしむ。
后嘗て太府監に於いて繒帛の表裏各一を支る。帝、后に謂いて曰く、「此れ軍国の需むる所、私家の物に非ず、后何を以て支うることを得ん」と。后是より宮人を率い親しく女工を執り、諸を旧弓の絃に拘りて之を練り、緝せて紬と為し、以て衣と為す。其の韌密なること綾綺に比す。宣徽院の羊臑皮、置きて用いざるを、后之を取りて合縫して地毯と為す。其の勤倹に節有りて棄つる物無きこと、此の類の如し。
十三年、宋を平ぐ。幼主、上都に朝す。大宴、衆皆甚だ歓ぶ。唯だ后楽しまず。帝曰く、「我今江南を平ぐ、此より兵甲を用いず、衆人皆喜ぶ、爾独り楽しまず、何ぞや」と。后跪きて奏して曰く、「妾聞く、古より千歳の国無し、吾が子孫をして此に及ばしめざらしむるは則ち幸いなり」と。帝、宋の府庫の故物を各々聚めて殿庭の上に置き、后を召して之を視しむ。后徧く視て即ち去る。帝、宦者を遣わし后を追いて問わしむ、何をか取らんと欲する。后曰く、「宋人の貯蓄するは以て其の子孫に遺す、子孫能く守らずして我に帰す、我何ぞ一物を取るを忍びんや」と。時に宋の太后全氏、京に至り、北方の風土に習わず。后、為に奏して江南に回らしむることを令す。帝允さず、三たび奏するに至り、帝乃ち答えて曰く、「爾婦人は遠慮無し、若し之をして南還せしめば、或いは浮言一たび動けば、即ち其の家を廃せん、之を愛する所以に非ざるなり。苟能く之を愛せば、時に存卹を加え、之をして便安ならしむることを得べし」と。后退き、益々之を厚く待つ。
胡帽は旧来前簷が無かったが、帝が射箭の際に日が眩しいと后に話すと、后は直ちに前簷を増やした。帝は大いに喜び、これをもって式とせよと命じた。また一つの衣を製した。前には裳があって衽がなく、後ろは前より倍ほど長く、領も袖もなく、両襻を綴じた。名づけて比甲といい、弓馬に便ならしめた。当時皆これに倣った。后の性質は明敏にして、事機に通達し、国家の初政において、左右より匡正し、当時力有るところがあった。
十八年二月崩ず。三十一年、成宗即位し、五月、追諡して昭睿順聖皇后と曰う。その冊文に曰く、「先を奉じて孝を思うは、臣子の至情なり。恵を節して名を勿らしむるは、古今の大典なり。惟れ殷の娥に明徳の号有り、周の任に思斉の称著る。爰に旧章を考へ、式に尊諡を崇む。恭しく惟るに先皇后は、厚徳物を載せ、正位天を承く。内治を公宮に隆くし、大倫を天下に綱とす。曩に龍潜の邸に事へ、及び虎変の秋に乗ず。鄂渚に班師し、事機の会を洞識し、上都に践祚し、多く輔佐の謀に居る。物に先んずるの明、衷に独断し、賢を進むるの志、上に允叶す。我が聖祖を左右し、帝王の極功を建て、我が前人を撫育し、社稷の重託を嗣ぐ。臣下の勤労灼然として見え、生民の疾苦周知す。宸極に儷すること二十年、慈範を垂れること千万世。惟れ全美聖にして益々聖なり、宜しく顕冊書にして屡書すべし。惓惓懇懇の誠に勝えず、謹んで尊尊親親の義を展べ、以て盛烈を揚げ、以て耿光に対す。謹んで某官某を遣わし、玉冊玉宝を奉り、上尊諡して昭睿順聖皇后と曰う。欽惟く淑霊天に在り、明鑑下に逮る。煒管に輝を増し、徽懿の音を茂揚し、太宮に合饗し、寿昌の福を益衍せんことを」と。世祖廟に升祔す。
南必皇后は、弘吉剌氏、納陳の孫仙童の女なり。至元二十年、納れて皇后と為し、正宮を継いで守る。時に世祖は春秋高く、頗る政に預かり、相臣は常に帝に見えず、輒ち后に因りて事を奏す。子一人有り、名は鉄蔑赤。
貞慈静懿皇后
成宗貞慈静懿皇后、名は失憐答里、弘吉剌氏、斡羅陳の女なり。大徳三年十月、立てて后と為す。皇子徳寿を生む、早く薨ず。武宗至大三年十月、追尊諡して貞慈静懿皇后と曰う。その冊文に曰く、「宗祧定位し、天地の陰陽有るに象り、今古同符し、幽明を通じて典礼を行ふ。哀栄斯に備はり、孝敬兼ねて陳ぶ。恭しく惟るに先元妃弘吉剌氏は、慶仙源に毓ち、徳彤史に昭る。春宮饋を主り、共に采翟の輝を瞻り、椒掖名を正し、飛龍の会に際する莫し。惟れ貞は中に在るの美に協ひ、慈は物を成すの仁を推す。静は既に坤元に合し、懿は益々壼則に彰る。小星の下に逮するも、豈に衆曜の敢て斉しからんや。嗣服云初、追懐已む可からず。是を用ひて先志を究成し、式に徽称を闡く。謹んで某官某を遣わし、上尊諡して貞慈静懿皇后と曰ひ、成宗皇帝殿室に升祔す。伏して惟く淑霊、永く配侑を伸べ、景福を介し、我が無疆を佑けんことを」と。
卜魯罕皇后
卜魯罕皇后は、伯岳吾氏、駙馬脱里思の女なり。元貞初め、立てて皇后と為す。大徳三年十月、冊宝を授く。成宗は疾多く、后は中に居りて事を用ひ、相臣哈剌哈孫を信任す。大徳の政、人平允と称し、皆后の処決なり。京師に万寧寺を創建し、中に秘密仏像を塑す。その形醜怪なり。后は手帕を以てその面を蒙覆し、尋で旨を伝えてこれを毀つ。省院臺臣、上尊号を奏す。帝は允さず。車駕上都に幸す。后方自ら奏請す。帝曰く、「我病日久しく、国家の大事多く廃して挙げず、尚ほ寧く此等の事を理せんや」と。事遂に寝す。大徳十年、后嘗て順宗妃答吉とその子仁宗を謀りて貶し、懐州に往かしむ。明年、成宗崩ず。時に武宗は北辺に在り、その帰らんことを恐れ、必ず前怨を報ぜんとす。后は乃ち命じて安西王阿難答失里を取って京師に来らしめ、謀りてこれを立てんとす。仁宗、懐州より入りて宮禁を清む。既に安西王を誅し、并せて后を構えて私通の事を以てし、出でて東安州に居らしむ。
宣慈恵聖皇后
武宗宣慈恵聖皇后、名は真哥、弘吉剌氏、脱憐子迸不剌の女なり。至大三年四月、冊して皇后と為す。その文に曰く、「乾は天と為り、坤は地と為り、四時是に由りて以て相成る。日は陽を宗とし、月は陰を宗とし、万象之を以て而して並び著る。后職は世教に関すること有り、先猷は邦彝に具載す。惟れ慈旨の親承するに、亦た僉言の允若するなり。咨る爾皇后弘吉剌氏は、睿聡淑哲、端懿誠荘。宝婺輝を分ち、源天潢の自ら出づるに在り、纓徽慶を迪し、系紱組を以て相仍る」と。後逸す。皇慶二年、長秋寺を立て、皇后宮政を掌らしむ。秩三品。泰定四年十一月崩ず。上尊諡して宣慈恵聖皇后と曰い、武宗廟に升祔す。
速哥失里皇后
速哥失里皇后は、按陳哈児只の女、真哥皇后の従妹なり。
妃二人:亦乞烈氏、奴兀倫公主の女、実に明宗を生む。天暦二年、追諡して仁献章聖皇后と曰う。唐兀氏、文宗を生む。天暦二年、追諡して文献昭聖皇后と曰う。
荘懿慈聖皇后
仁宗荘懿慈聖皇后、名は阿納失失里、弘吉剌氏、英宗を生む。皇慶二年三月、冊して皇后と為す。上冊宝し、官を遣わし南郊及び太廟に於て天地に祭告す。典内院を改めて中政院と為し、秩正二品。
英宗即位し、上尊号して皇太后と曰う。その冊文に曰く、「坤は乾徳を承く、所以に両儀の称を著す。母は父尊を統ぶ、所以に一体の号を崇む。故に親に因りて愛を立て、宜しく礼を考へて名を正すべし。恭しく惟る聖母は、温慈恵和、淑哲端懿。上は宗祏の重を奉じ、下は倫紀の常を敍す。王化を二南に恢め、徽音を三母に嗣ぐ。先考を輔佐し、憂勤警戒の慮深く、眇躬を擁佑し、撫育提携の恩至る。今日に迨る、我が丕基を紹ぐ。規摹一に慈闈に出で、付托益々祖訓に彰る。天下の養を致して以て楽と為すも、未だ孝心を尽くすに足らず。域中の大を極めて以て尊と為すも、庶く其の懿美に称すべし。式に貴貴の義に遵ひ、用ひて親親の情を罄す。謹んで某官某を遣わし冊を奉り、上尊号して皇太后と曰う。伏して惟く周宗緜緜、長信穆穆、洛書の錫福を備へ、坤極の天に儀ることを粲かにし、後人を啓佑し、永く胤祚を錫けんことを」と。明日、百官の朝賀を興聖宮に受く。
至治二年に崩御し、上諡して莊懿慈聖皇后とし、その冊文は曰く、「孝を致すは親を揚ぐる所以なり、名を易ふるは行ひを表す所以なり。況んや天下の母として養はれず、天子の位に履みて報ふるは則ち豊かなり。何ぞ孺慕の心に勝へん、必ず欽崇の礼を尽くさざるべからず。欽惟くは先皇太后、夙に壼則を明らかにし、能く徽音を嗣ぐ。先朝を輔佐し、恭儉節用の実有り;眇質を誕育し、劬労顧復の恩有り。九族咸く仁に育まれ、四海其の化を仰ぎ遵ふ。昊天弔はず、景命融けず。聖善の長く違ふを愴み、風猷の未だ泯びざるを念ふ。是を用ひて彤史に揄揚し、正に宜しく宝慈に敷繹すべし。爰に彝経に拠り、徽号を追厳す。謹みて某官某を摂太尉として遣はし、玉冊玉宝を奉り、尊号を上りて曰く莊懿慈聖皇后。伏して惟ふに淑霊在りて如く、太宮に合饗せんことを。鑒格孔昭にして、此の鉅典を膺けよ。陰に丕祚を相ひ、億万斯年。」仁宗廟に升祔す。
莊靜懿聖皇后
英宗莊靜懿聖皇后、名は速哥八剌、亦た啓烈氏、昌国公主益里海涯の女なり。至治元年、冊して皇后と為す。泰定四年六月崩じ、諡して曰く莊靜懿聖皇后。
泰定帝后
泰定帝八不罕皇后、弘吉剌氏、按陳の孫斡留察児の女なり。泰定元年、冊して皇后と為す。
妃二人:一は必罕、一は速哥答里、皆弘吉剌氏、兖王買住罕の女なり。文宗天曆初、俱に東安州に安置す。
明宗后
明宗貞裕徽聖皇后、名は邁来迪、順帝を生みて崩ず。文宗立ち、諡して貞裕徽聖皇后とす。
八不沙皇后、成宗の甥寿寧公主の女なり。明宗の潜邸に侍し、寧宗を生む。天曆二年、寧徽寺を立て、明宗皇后宮事を掌らしめ、鈔一万錠・幣帛二千匹を以て后宮の費用に供す。十一月、后明宗の為に冥福を資せんことを請ふ、命じて帝師に諸僧を率ゐさせ大天源延聖寺にて七日間仏事を行はしめ、道士に玉虚・天宝・太乙・万寿の四宮及び武当・龍虎の二山にて醮を建てしむ。至順元年、有司に勅して明宗后宮に幣帛二百匹を供せしむ。是の年四月崩ず。
文宗后
文宗卜答失里皇后、弘吉剌氏、父は駙馬魯王琱阿不剌、母は魯国公主桑哥剌吉。文宗建業に居る時、后も亦行在に在り。天曆元年、文宗即位し、立って皇后と為す。二年、冊宝を授く。十一月、后銀五万両を以て大承天護聖寺の建立を助く。至順元年、籍没したる張珪家の田四百頃を以て護聖寺に賜ひ永業と為す。后は宦者拜住と謀り明宗后八不沙を殺す。
三年八月、文宗上都にて崩ず、后末命を導揚し、帝の初志を申べ、遂に明宗の次子懿璘質班を立て、是を寧宗とす。十一月、玉冊玉宝を奉り皇后を尊びて皇太后と為す。十二月、興聖殿に御し朝賀を受く。寧宗崩ず、大臣太子燕帖古思を立てんことを請ふ。后曰く、「天位は至って重し、吾が子尚ほ幼し、明宗の長子妥懽帖睦爾広西に在り、今十三歳なり、理当に之を立つべし。」是に於て旨を奉りて京師に迎へ至らしめ、明年六月を以て即位せしむ、是を順帝とす。元統元年、尊びて太皇太后と為し、仍って称制して朝に臨む。至元六年六月、詔して尊号を去り、東安州に安置し、尋いで崩ず。
寧宗后
寧宗答里也忒迷失皇后、弘吉剌氏。至順三年十月、立って后と為す。至正二十八年崩じ、寧宗廟に升祔す。
順帝后
順帝答納失里皇后は、欽察氏、太師太平王燕鐵木兒の娘である。至順四年、皇后に立てられた。元統二年、冊宝を授けられ、その冊文は次のように述べている。「天の元統たる二気は、配するに坤儀より厚きは莫く、月の道右行に循うは、明らかさ乾曜と同じく貞し。昔の帝王の后を宅するは、多く輔相の世勳に居り。蓋し徳を亢宗に選ぶも、また庸を先正に疇するなり。周を造るは任・姒の化に資り、漢を興すは馬・鄧の功を表す。咨るに爾皇后欽察氏は、雍肅にして惠慈、謙裕にして靜淑なり。乃祖乃父は、夙く翼亮の心を堅くし、国に於いて家に於いて、実に修齊の助を獲たり。朕は丕図を纘ぐ初載に、親しく太后の睿謨を承く。我が元臣を眷み、茲に碩媛を簡ぶ。嚴禋に相いて典を率い、慈極を奉じて愉顏を以てす。用て禕翟の華を彰わし、式に旂常の旧を著わす。令して太尉某官を摂せしめ、玉冊宝章を以て授け、爾を皇后と命ず。嘉礼を備え成し、大猷を宏賁せしむ。嗚呼!嵩高は賢を生み、予は良佐を篤く懐う。関睢は始めを正し、爾は徽音に嗣ぐを勉めよ。永く寿康を錫い、悠久を昭示せん。」三年、后の兄御史大夫唐其勢が謀逆を以て誅せられ、弟塔剌海は走りて后宮に匿れ、后は衣を以て之を蔽う。因って后を出宮に遷し、丞相伯顏は開平の民舎にて后を鴆した。
伯顏忽都皇后は、弘吉剌氏、宣慈惠聖皇后真哥の姪、毓德王孛羅帖木兒の娘である。至元三年三月、皇后に立てられた。その冊文は次のように述べている。「帝王の道は、其の家を斉えて天下平らかにし、風教の基づく所は、位を正しくして人倫厚し。爰に配を択びて宗事を承け、古を稽えて典常に率う。咨るに爾弘吉剌氏は淑哲にして温恭、斉荘にして貞一なり。中壼に賢を選ぶに属し、躬を慈闈に命を受く。勖め帥いて来嬪し、榘儀の度有るを蹈み、動容礼に中り、夙夜を謹んで違うこと無し。茲に宮庭に表式し、宜しく其の位号を推崇す。乃ち吉旦を蠲け、庸て彝章を挙ぐ。太尉某を摂せしめて節を持たせ、玉冊宝章を以て授け、爾を皇后と命ず。嗚呼!乾は施し坤は承け、克く順成を四序に成し、日は明らかに月は儷い、久しく照臨を万方にす。朕は世を乂安に躋せんと欲し、爾は其れ予の徳化を助けよ。共に亨嘉の運に御し、益々昌熾の期を延ばせ。爾が徽音を勉め、内治を聿修せよ。」皇子真金を生むが、二歳で夭折した。
后は性質倹約にして、妬忌せず、動くに礼法を以て自ら持す。第二皇后奇氏は素より寵有り、興聖西宮に居り、帝は希に東内に幸す。后の左右以て言うも、后は幾微の怨望の意無し。帝に従い時として上京に巡幸し、中道に次ぐ。帝は内官を遣わし旨を伝え、臨幸せんと欲す。后は辞して曰く、「暮夜は至尊の往来する時に非ず。」内官往復すること三度、竟に拒んで納れず、帝は益々之を賢しとす。帝嘗て后に問う、「中政院の支うる所の銭糧は、皆汝の旨を伝う、汝は還って之を記すや否や?」后対えて曰く、「妾は用うべきときは則ち支う。関防出入は、必ず己が選んだ人に之を司らす。妾豈に能く尽く記せんや。」坤徳殿に居り、終日端坐し、未だ嘗て妄りに戸閾を踰えず。至正二十五年八月崩じ、年四十二。奇氏后は其の遺す所の衣服の弊壊せるを見て、大笑して曰く、「正宮の皇后、何ぞ此等の衣を服するに至らんや!」其の樸素なるを知るべし。一月を踰え、皇太子は冀寧より帰り、之を哭して甚だ哀し。
完者忽都皇后奇氏は、高麗人、皇太子愛猷識理達臘を生む。家は微賤、后の貴きを用い、三世皆追封して王爵とす。初め、徽政院使禿満迭兒が進めて宮女と為し、主として茗飲を供え、以て順帝に事う。后は性質穎黠、日に寵幸を見る。後に答納失里皇后方に驕妬し、数え箠辱す。答納失里既に害に遇うて後、帝は之を立てんと欲すも、丞相伯顏争いて不可とす。伯顏罷相せられ、沙剌班遂に請うて第二皇后に立てしめ、興聖宮に居らしめ、徽政院を改めて資正院とす。
后は事無きときは則ち女孝経・史書を取り、歴代の皇后に賢行有る者を訪問して法と為す。四方の貢献、或いは珍味有れば、輒ち先ず使を遣わして太廟に薦め、然る後に敢えて食す。至正十八年、京城大いに饑え、后は官を命じて粥を為し之を食わしむ。又、金銀粟帛を出し、資正院使朴不花を命じて京都十一門に冢を置き、死者の遺骼十余万を葬らしめ、復た僧を命じて水陸大会を建てて之を度す。時に帝は頗る政治に怠り、后は皇太子愛猷識理達臘と遽かに内禅を謀り、朴不花を遣わして意を丞相太平に諭すも、太平答えず。復た太平を召して宮に至らしめ、酒を挙げて之を賜い、自ら前の請を申すも、太平は依違するのみ。是より后と太子之を銜む。而して帝も亦た后の意を知り、怒って之を疎んじ、両月見えず。朴不花は后に因りて寵幸を受け、既に劾せられて黜せらるるも、后は御史大夫佛家奴に諷して之が弁明を為さしむ。佛家奴乃ち謀りて再び朴不花を劾せんとす。后之を知り、反って御史を嗾して佛家奴を劾せしめ、潮河に謫居せしむ。
初め、奇氏の族の高麗に在る者は、勢いに怙って驕横し、高麗王怒り、尽く之を殺す。二十三年、后は皇太子に謂いて曰く、「汝何ぞ我が為に讎を復せざるや?」遂に高麗王の族の京師に留まる者を立てて王と為し、奇族の子三宝奴を元子と為す。同知枢密院事崔帖木兒を遣わして丞相と為し、兵一万を用い、并せて倭兵を招き、共に往きて之を納れんとす。鴨緑水を過ぎるに、伏兵四起し、乃ち大いに敗れ、余ること十七騎にして還る。后大いに慚じ。
二十四年七月、孛羅帖木兒兵を称して闕を犯し、皇太子は出奔して冀寧に至り、令を下して孛羅帖木兒を討たしむ。孛羅帖木兒怒り、監察御史武起宗を嗾して言わしむ、后は外に国政を撓すと。帝に奏して宜しく后を外に出して遷すべしとすも、帝答えず。二十五年三月、遂に制を矯って諸色総管府に幽し、其の党姚伯顏不花をして之を守らしむ。四月庚寅、孛羅帖木兒后を逼って宮に還らしめ、印章を取り、偽りて后の書として太子を召す。后は仍って幽所に回り、後又た数え美女を孛羅帖木兒に納む。百日に至り、始めて宮に還る。及んで孛羅帖木兒死し、皇太子を召して京師に還らしむ。后は旨を伝えて廓擴帖木兒に命じ、兵を以て皇太子を擁して城に入らしめ、帝を脅して禅位せんと欲す。廓擴帖木兒其の意を知り、京城三十里外に至りて、即ち軍を遣わして営に還らしむ。皇太子復た之を銜む。事は擴廓帖木兒伝に見ゆ。
伯顏忽都皇后が崩御した際、十二月、中書省の臣が奏上して言うには、后は中宮に正位すべきであると、帝は答えなかった。また、資正院を崇政院に改めるよう奏上し、中政院も兼ねてこれを管轄することとしたので、帝はついに冊宝を授けた。その冊文は次のとおりである。「坤は乾元を承け、人道は夫婦に先んずるは莫し。后は天下を母とし、王化は実に家邦に始まる。典礼の常、古今の重んずる所なり。咨うるに爾しき肅良合氏、篤く名族に生まれ、来たりて朕躬に事う。儆戒相成し、毎に夙夜に勤め、恭儉下に率い、多く歳月を歴たり。既に元子を儲闈に発祥し、復た孫枝を甲観に流慶す。中宮の位を眷みみれば、允に淑配の賢に宜しきなり。宗戚大臣、況んや僉言して敷請し、掖庭の諸御、咸な傾望して推尊す。乃ち屡たび辞を遜り、尤も嘉尚す可し。今、摂太尉某を遣わし、節を持たせて玉冊玉宝を授け、爾を皇后と命ず。嗚呼!壼政を慎み修め、益々爾が輔佐の心を勉めよ。徽音を昭かに嗣ぎ、同じく我が延洪の福を保て。其れ寵命を欽み、以て寿祺を衍べよ。」二十八年、帝に従って北へ奔った。