三國志さんごくし

吳書十八 吳範劉惇趙達傳 吳范 劉惇 趙達

吳範は字を文則といい、會稽郡上虞県の人である。暦法や気象を研究し、その知識で郡内に名を知られた。有道に推挙され、都へ赴くことになったが、世が乱れていたため行かなかった。ちょうど孫権が東南で勢力を挙げると、吳範は身を委ねて仕え、災害や吉兆があるたびに、その術数に基づいて状況を推測して述べた。その占いは多く的中し、やがて名声を高めた。

原文吳範字文則,會稽上虞人也。以治曆數知風氣聞於郡中。舉有道,詣京都,世亂不行。會孫權起於東南,範委身服事,每有災祥,輒推數言狀。其術多效,遂以顯名。

初め、孫権が呉にいた時、黃祖を討伐しようとした。吳範が言った。「今年は少ししか利益がなく、来年の方が良いでしょう。来年は戊子の年で、荊州の劉表も身を亡ぼし国が滅びます。」孫権は結局黃祖を征討したが、ついに打ち破ることはできなかった。翌年、軍を出して尋陽まで進んだ時、吳範が気象を見て、船に乗り込んで祝賀し、兵を急がせて進軍するよう促した。到着するとすぐに黃祖を破り、黃祖は夜逃げした。孫権が捕え損なうのを恐れると、吳範は言った。「まだ遠くへは行っておらず、必ず生きて黃祖を捕えるでしょう。」五更(明け方)のうちに、果たして彼を捕えた。劉表は結局死に、荊州は分割された。

原文初,權在吳,欲討黃祖。範曰:「今茲少利,不如明年。明年戊子,荊州劉表亦身死國亡。」權遂征祖,卒不能克。明年,軍出,行及尋陽,範見風氣,因詣船賀,催兵急行,至即破祖,祖得夜亡。權恐失之,範曰:「未遠,必生禽祖。」至五更中,果得之。劉表竟死,荊州分割。

壬辰の年になると、吳範はまた言上した。「甲午の年には、劉備が益州を手に入れるでしょう。」後に呂岱が蜀しょくから帰還し、白帝で劉備に会ったが、劉備の軍勢が離散し、死者が半分ほどになっていると報告し、劉備の計画は必ず成功しないと言った。孫権が吳範を詰問すると、吳範は言った。「私が申し上げたのは天道であり、呂岱が見たのは人事に過ぎません。」劉備はついに蜀を得た。

原文及壬辰歲,範又白言:「歲在甲午,劉備當得益州。」後呂岱從蜀還,遇之白帝,說備部衆離落,死亡且半,事必不克。權以難範,範曰:「臣所言者天道也,而岱所見者人事耳。」備卒得蜀。

孫権が呂蒙と謀って關羽を急襲しようとし、側近たちと議論したが、多くが反対した。孫権が吳範に尋ねると、吳範は言った。「捕えることができます。」後に關羽が麥城にいて、使者を遣わして降伏を請うた。孫権が吳範に「結局降伏するのか」と尋ねると、吳範は言った。「彼には逃走の気配があり、降伏と言うのは偽りです。」孫権は潘璋に道を遮らせた。偵察者が戻り、關羽が既に去ったと報告した。吳範は言った。「逃げたとしても免れません。」時期を尋ねられると、「明日の日中です」と答えた。孫権は日時計を立て、漏刻を置いて待った。日中になっても来ないので、孫権がその理由を尋ねると、吳範は言った。「時はまだ正午になっていません。」しばらくして、風が帷を揺らした。吳範は手を打って言った。「關羽が来ました。」間もなく、外で万歳の声が上がり、關羽を捕えたと伝えられた。

原文權與呂蒙謀襲關羽,議之近臣,多曰不可。權以問範,範曰:「得之。」後羽在麥城,使使請降。權問範曰:「竟當降否?」範曰:「彼有走氣,言降詐耳。」權使潘璋邀其徑路,覘候者還,白羽已去。範曰:「雖去不免。」問其期,曰:「明日日中。」權立表下漏以待之。及中不至,權問其故,範曰:「時尚未正中也。」頃之,有風動帷,範拊手曰:「羽至矣。」須臾,外稱萬歲,傳言得羽。

後に孫権が魏と友好関係を結ぼうとすると、吳範は言った。「気象から言えば、彼らは表面上は来ますが、実は謀略があり、備えをすべきです。」劉備が西陵に大軍を集めると、吳範は言った。「後には和親するでしょう。」結局、いずれも彼の言う通りになった。その占いはこのように明らかで詳細であった。

原文後權與魏爲好,範曰:「以風氣言之,彼以貌來,其實有謀,宜爲之備。」劉備盛兵西陵,範曰:「後當和親。」終皆如言。其占驗明審如此。

孫権は吳範を騎都尉とし、太史令を兼任させた。何度も彼を訪ねて意見を求め、その判断の根拠を知ろうとした。吳範は自分の術を秘密にし、肝心なことを孫権に話さなかった。孫権はこのことで彼を恨んだ。(『呉録』に曰く:呉範は独り心に計らい、重用される所以は術であり、術が亡べば身は棄てられるので、終に語らなかった。)

原文權以範爲騎都尉,領太史令,數從訪問,欲知其決。範祕惜其術,不以至要語權。權由是恨之。〈《吳錄》曰:範獨心計,所以見重者術,術亡則身棄矣,故終不言。〉

初め、孫権が将軍だった時、吳範がかつて「江南に王気があり、亥と子の年の間に大きな福慶がある」と言上したことがあった。孫権は言った。「もし最終的にその通りになったら、あなたを侯にしよう。」呉王に即位した時、吳範は宴会に侍っていたが、言った。「昔、呉にいた時、このことを申し上げましたが、大王は覚えておられますか。」孫権は「あったな」と言い、左右の者を呼んで侯の綬を吳範に帯びさせようとした。吳範は孫権が以前の発言を帳消しにしようとしていると悟り、手で押しのけて受け取らなかった。後に功績を論じて封を行う時、吳範を都亭侯にしようとしたが、詔書を発する直前になって、孫権は彼が自分に術を教えようとしなかったことを怒り、その名を削除した。

原文初,權爲將軍時,範嘗白言江南有王氣,亥子之間有大福慶。權曰:「若終如言,以君爲侯。」及立爲吳王,範時侍宴,曰:「昔在吳中,嘗言此事,大王識之邪?」權曰:「有之。」因呼左右,以侯綬帶範。範知權欲以厭當前言,輒手推不受。及後論功行封,以範爲都亭侯,詔臨當出,權恚其愛道於己也,削除其名。

吳範は人となりが剛直で、やや自負するところがあったが、親戚や旧友との付き合いは終始変わらなかった。元々、同郷の魏滕と仲が良かった。魏滕が罪を犯した時、孫権は非常に厳しく責め怒り、諫める者は死罪と宣告した。吳範は魏滕に言った。「お前と一緒に死のう。」魏滕が「死んでも益がないのに、どうして死ぬ必要があるのか」と言うと、吳範は「どうしてそんなことを考えて、座ってお前を見ていられようか」と言った。そこで髪を剃り、自ら縛られて門の下に行き、門番に取り次ぐよう頼んだ。門番は恐れて「必ず死罪になります。申し上げられません」と言った。吳範は「お前に子はいるか」と尋ね、「います」と答えると、「お前が吳範のために死んだら、その子は私が面倒を見よう」と言った。門番は「承知しました」と言い、門を押し開けて入った。話が終わらないうちに、孫権は激怒し、すぐに戟を投げつけようとした。門番が躊躇しながら走り出ると、吳範が突入し、頭を地面に叩きつけて血を流し、言葉と涙を共にした。しばらくして、孫権の怒りが解け、魏滕を赦免した。魏滕は吳範に会って謝し言った。「父母は私を生み育てることはできても、死から免れることはできなかった。男同士の知己として、お前のような者で十分だ。多くを必要としない。」(『会稽典録』に曰く:魏滕の字は周林、祖父は河内太守の魏朗、字は少英で、八俊に列した。魏滕は性格が剛直で、行いは苟くも合わず、困迫に遭っても終に屈しなかった。初め孫策に逆らい、危うく死にそうになったが、太妃の救いによって免れた。事は『妃嬪伝』に見える。歴山・潘陽・山陰の三県の令、鄱陽太守を歴任した。)

原文範爲人剛直,頗好自稱,然與親故交接有終始。素與魏滕同邑相善。滕嘗有罪,權責怒甚嚴,敢有諫者死,範謂滕曰:「與汝偕死。」滕曰:「死而無益,何用死爲?」範曰:「安能慮此坐觀汝邪?」乃髡頭自縛詣門下,使鈴下以聞。鈴下不敢,曰:「必死,不敢白。」範曰:「汝有子邪?」曰:「有。」曰:「使汝爲吳範死,子以屬我。」鈴下曰:「諾。」乃排閤入。言未卒,權大怒,欲便投以戟。逡巡走出,範因突入,叩頭流血,言與涕並。良久,權意釋,乃免滕。滕見範謝曰:「父母能生長我,不能免我於死。丈夫相知,如汝足矣,何用多爲!」〈《會稽典錄》曰:滕字周林,祖父河內太守朗,字少英,列在八俊。滕性剛直,行不苟合,雖遭困偪,終不迴撓。初亦迕策,幾殆,賴太妃救得免,語見《妃嬪傳》。歷歷山、潘陽、山陰三縣令,鄱陽太守。〉

黃武五年、吳範は病死した。長男は既に死んでおり、末の子はまだ幼かったため、彼の術は絶えた。孫権は彼を追慕し、三州の中で吳範や趙達のように術数を知る者を推挙できる者に千戸侯の爵位を与えると募ったが、結局見つからなかった。(『呉録』に曰く、呉範はあらかじめ自分の死ぬ日を知っており、孫権に「陛下はある日に軍師を失います」と言った。孫権が「私には軍師などいない。どうして失うことがあろうか」と言うと、呉範は「陛下が軍を出して敵に臨む際、臣の言葉を待ってから行うならば、臣は陛下の軍師であります」と答えた。その日、果たして死んだ。臣裴松之が案ずるに、呉範が死んだ時、孫権はまだ帝を称していなかった。ここで「陛下」と言うのは誤りである。)

原文黃武五年,範病卒。長子先死,少子尚幼,於是業絕。權追思之,募三州有能舉知術數如吳範、趙達者,封千戶侯,卒無所得。〈《吳錄》曰:範先知其死日,謂權曰:「陛下某日當喪軍師。」權曰:「吾無軍師,焉得喪之?」範曰:「陛下出軍臨敵,須臣言而後行,臣乃陛下之軍師也。」至其日果卒。臣松之案,範死時,權未稱帝,此云陛下,非也。〉

劉惇は字を子仁といい、平原郡の人である。乱を避けて移住し、廬陵に客として遊学し、孫輔に仕えた。天文に通じ、占術に達者であることで南方で名声を博した。水害、旱魃、賊の襲来があるたびに、事前に時期を言い当て、外れることがなかった。孫輔はこれを奇異とし、軍師として遇した。軍中では皆、彼を敬い、神明と呼んだ。

原文劉惇字子仁,平原人也。遭亂避地,客游廬陵,事孫輔。以明天官達占數顯於南土。每有水旱寇賊,皆先時處期,無不中者。輔異焉,以爲軍師,軍中咸敬事之,號曰神明。

建安年間、孫権が豫よ章にいた時、星の異変があった。孫権が劉惇に尋ねると、劉惇は言った。「災いは丹楊にあります。」孫権が「どうなるか」と尋ねると、「客が主人に勝ち、ある日に知らせが届くでしょう」と答えた。その時、邊鴻が乱を起こし、結局劉惇の言う通りになった。

原文建安中,孫權在豫章,時有星變,以問惇,惇曰:「災在丹楊。」權曰:「何如?」曰:「客勝主人,到某日當得問。」是時邊鴻作亂,卒如惇言。

劉惇はあらゆる術に精通していたが、特に太乙に明るく、その事象を推し演じ、奥義を極めることができた。百篇余りの書を著し、名儒の刁玄はこれを奇と称賛した。劉惇もまた自分の術を大切にし、人に教えなかったため、世間では理解する者がいなかった。

原文惇於諸術皆善,尤明太乙,皆能推演其事,窮盡要妙,著書百餘篇,名儒刁玄稱以爲奇。惇亦寶愛其術,不以告人,故世莫得而明也。

趙達は河南郡の人である。若い頃、漢の侍中・單甫に師事して学び、思考は緻密であった。東南に王者の気があると言い、難を避けられると考えたため、身一つで長江を渡った。九宮一算の術を修め、その微妙な主旨を究めたため、機に応じて即座に答えを出すことができた。質問に答えるのは神のようであり、飛ぶ蝗の数を数えたり、隠されたものを言い当てたり、効果が現れないことはなかった。ある者が趙達を難じて言った。「飛ぶものはそもそも数えられない。誰がそんなことがわかるというのか。これはたぶんでたらめだろう。」趙達はその人に数斗の小豆を持って来させ、敷物の上に撒かせ、すぐにその数を言い当て、検証すると果たしてその通りだった。かつて旧知の家を訪れた時、旧知が食事を用意してくれた。食べ終わると、旧知が言った。「急なことで酒がなく、良い料理もない。気持ちを伝えるものがないが、どうしようか。」趙達はそこで膳の上の箸一本を取り、何度も縦横に動かしてから言った。「あなたの東の壁の下に美酒一斛と、鹿の肉三斤があるのに、どうしてないなどと言うのですか。」その時、座には他の客もおり、主人の本心を見抜かれた。主人は恥じて言った。「あなたが有無を言い当てるのが上手だと聞き、試してみたかっただけです。ついにこのように当てられてしまいました。」そこで酒を出して共に飲んだ。また、書簡に千万という数字を書き、空の倉庫に封をして入れ、趙達に計算させた。趙達はその数を言い当て、「ただ名目だけで実体はありません」と言った。その精妙さはこのようなものであった。

原文趙達,河南人也。少從漢侍中單甫受學,用思精密。謂東南有王者氣,可以避難,故脫身渡江。治九宮一算之術,究其微旨,是以能應機立成。對問若神,至計飛蝗,射隱伏,無不中效。或難達曰:「飛者固不可校,誰知其然,此殆妄耳。」達使其人取小豆數斗,播之席上,立處其數,驗覆果信。嘗過知故,知故爲之具食。食畢,謂曰:「倉卒乏酒,又無嘉肴,無以敘意,如何?」達因取盤中隻箸,再三從橫之,乃言:「卿東壁下有美酒一斛,又有鹿肉三斤,何以辭無?」時坐有他賓,內得主人情。主人慚曰:「以卿善射有無,欲相試耳,竟效如此。」遂出酒酣飲。又有書簡上作千萬數,著空倉中封之,令達算之。達處如數,云:「但有名無實。」其精微若是。

達寶はその術を大切にし、闞澤や殷禮のような名儒や善士であっても、自ら身分を低くして学ぼうとしても、達は秘密にして教えず、太史丞の公孫滕は若い頃から達に師事し、何年も苦労して学んだが、達が教えると約束したのは数年も経ってからで、いざ教えようとする直前になるとまた止めてしまった。滕はある日、酒肴を用意し、達の機嫌をうかがい、跪いて拝礼して請うた。達は言った。「私の先祖はこの術を得て、帝王の師となろうと図ったが、仕官してから三代を経ても、太史郎を超えることはなかった。本当にこれ以上伝えたくはない。しかもこの術は微妙で、頭で掛け尾で割る、一つの計算の方法でさえ、父子であっても互いに語らないものだ。しかし、あなたが篤く好んで倦まないので、今こそ本当に授けよう。」酒を数巡した後、達は立ち上がって素書二巻を取った。それは指ほどの大きさで、達は言った。「これを書き写して読めば、自然に理解できる。私は長く廃れていて、もう省みない。今、一度考えて論じようと思うので、数日後にあなたに渡そう。」滕は約束の日に赴いたが、達はわざと書物を探し求め、驚いて紛失したと言い、「婿が昨日来たので、きっと彼が盗んだのだ」と言った。それ以来、絶えてしまった。

原文達寶惜其術,自闞澤、殷禮皆名儒善士,親屈節就學,達祕而不告,太史丞公孫滕少師事達,勤苦累年,達許敎之者有年數矣,臨當喻語而輒復止。滕他日齎酒具,候顏色,拜跪而請。達曰:「吾先人得此術,欲圖爲帝王師,至仕來三世,不過太史郎,誠不欲復傳之。且此術微妙,頭乘尾除,一算之法,父子不相語。然以子篤好不倦,今真以相授矣。」飲酒數行,達起取素書兩眷,大如手指,達曰:「當寫讀此,則自解也。吾久廢,不復省之。今欲思論一過,數日當以相與。」滕如期往,至乃陽求索書,驚言失之,云:「女婿昨來,必是渠所竊。」遂從此絕。

初め、孫権が軍を率いて征伐する際、常に達に推歩(天文・暦法による占い)を命じると、その言葉の通りになった。権がその方法を尋ねても、達は終に語らず、これによって疎んじられ、禄位は上がらなかった。〈《呉書》によると、初め、権が皇帝の位についた時、達に天子となった後、あと何年あるかを計算させた。達は言った。「高祖こうそ(劉邦りゅうほう)は建元して十二年、陛下はその倍です。」権は大いに喜び、左右の者が万歳を称えた。果たして達の言う通りになった。〉

原文初,孫權行師征伐,每令達有所推步,皆如其言。權問其法,達終不語,由此見薄,祿位不至。〈《吳書》曰:初,權即尊號,令達算作天子之後,當復幾年?達曰:「高祖建元十二年,陛下倍之。」權大喜,左右稱萬歲。果如達言。〉

達は常に諸々の星気風術の者を笑って言った。「計算を帷幄の中で回し、戸や窓から出ずとも天道を知ることができるのに、反って昼夜を問わず外に曝されて気象の吉兆を望むのは、難しいことではないか!」閑居して何もせず、計算を引き出して自ら検証し、嘆いて言った。「私の計算はある年月日で尽き、そこで終わる。」達の妻は何度も達の効験を見ており、それを聞いて泣いた。達は妻の気持ちを和らげようと、さらに歩算(計算)をし直し、言った。「先ほどの話は誤りで、まだ終わりではない。」後に約束の通りに死んだ。権は達に書物があると聞き、それを求めても得られず、その娘を尋問して記録させ、また棺を開けても何も得られず、法術は絶えた。〈《呉録》によると、皇象は字を休明といい、広陵郡江都県の人である。幼い頃から書に巧みであった。当時、張子並と陳梁甫が書を能くした。甫は逋(達?)を恨み、並は峻を恨んだが、象はその間を斟酌し、その妙を得て、中国の書に優れた者も及ばなかった。厳武は字を子卿といい、衞えい尉の畯の再従子はとこである。囲碁では彼と肩を並べる者はいなかった。宋壽は夢占いをし、十回中一回も外さなかった。曹不興は絵画に優れ、権が屏風を描かせた時、誤って筆が落ちて素地に点がついたが、それに因って蠅を描いた。御前に進上すると、権は生きている蠅だと思い、手を挙げて弾いた。孤城の鄭嫗は人相を見ることができ、範、惇、達ら八人は、世に皆その妙を称え、八絶と言った。《晉陽秋》によると、呉に葛衡という者がおり、字は思真、天官(天文)に明達し、機巧を能くし、渾天儀を作り、地を中央に置き、機械で動かすと、天が回転し地は止まり、これによって日影の度合いに応じた。〉

原文達常笑謂諸星氣風術者曰:「當迴算帷幕,不出戶牖以知天道,而反晝夜暴露以望氣祥,不亦難乎!」閒居無爲,引算自校,乃歎曰:「吾算訖盡某年月日,其終矣。」達妻數見達效,聞而哭泣。達欲弭妻意,乃更步算,言:「向者謬誤耳,尚未也。」後如期死。權聞達有書,求之不得,乃錄問其女,及發棺無所得,法術絕焉。〈《吳錄》曰:皇象字休明,廣陵江都人。幼工書。時有張子並、陳梁甫能書。甫恨逋,並恨峻,象斟酌其間,甚得其妙,中國善書者不能及也。嚴武字子卿,衞尉畯再從子也,圍棊莫與爲輩。宋壽占夢,十不失一。曹不興善畫,權使畫屏风,誤落筆點素,因就以作蠅。既進御,權以爲生蠅,舉手彈之。孤城鄭嫗能相人,及範、惇、達八人,世皆稱妙,謂之八絕云。《晉陽秋》曰:吳有葛衡字思真,明達天官,能爲機巧,作渾天,使地居于中,以機動之,天轉而地止,以上應晷度。〉

評者は言う。三人の子はそれぞれその術において精妙であり、その思考の用い方は巧妙である。しかし君子は心と精神を役立てるにあたり、大きなこと遠いことに適しているべきである。ゆえに識見ある士は、あれを捨ててこれを取るのである。(孫盛は曰く、そもそも深く未然を観察し、将来の事を逆に鑑みることは、裨竈や梓慎でさえなお困難としたところである。ましてや術がこれより劣る者においてはなおさらである。呉の史書は趙達が東南に王気があることを知り、それゆえ軽々しく挙兵して江を渡ったと記す。魏は漢の統を承け、中畿において天命を受けたが、趙達は兆しの萌すのをあらかじめ見ることができず、呉越の地に流竄した。また術を惜しむ卑しさを知らず、時に軽んじられたが、どこに天道を逆に観察し帝王の符瑞を審らかにすることができようか。昔、聖王は天地の文を観て八卦の象を画した。ゆえに蓍策に勤勉に成し、変化は六爻に形われた。それゆえ三易は異なれども、卦と繇の理は一である。どうして一籌を回転させるだけで、深きを鉤り隠れたるを測り、意に対し逆に占い、よく来物を知ることができようか。世俗は異を好み、妄りに神奇を設けるが、不幸の中にあり、仲尼が棄てたところである。それゆえ君子は大なるを志し、取るところがないのである。臣裴松之は思うに、孫盛が「君子は大なるを志し、取るところがない」と言うのは、評家の趣旨であり、新しい説ではない。その余の譏るところは、皆理に非ず。中原の酷乱より建安に至るまで、数十年の間、生民は殆ど尽き、小康に比するに至っては、皆百死の余りである。江左には兵革あれども、中国の甚だしきには如かず。どうして趙達がその安危を算し、禍の多少を知り、利は東南にあり、もってその身を全うすることを知らなかったと言えようか。しかるに魏氏の将に興らんとするを知らず、呉越に流播したと責めるのは、京房の籌においてさえなお自ら刑戮を免れなかった。まして趙達はただ秘術をもって軽んじられ、悔吝の間にあったにすぎない。古の道術は蓋し一方に非ず、賾を探る功は豈に惟六爻のみならんや。苟くもその要を得れば、則ち易をもってこれを知ることができる。一籌を回転させること、何ぞ怪しむに足らんや。趙達の推算は、その要妙を窮めて幽を知り隠を測る。何ぞ古に愧じんや。しかるに裨・梓をもってこれを限り、趙達を妄と謂うは、篤論に非ず。『抱朴子』に曰く、時に葛仙公なる者がいた。酒を飲んで酔うごとに、常に人家の門前の陂水中に入りて臥し、竟日にして乃ち出づ。曾て呉主に別れに従い、洌州に到り、還るに大風に遇い、百官の船多く没し、仙公の船も亦沈淪せり。呉主甚だ悵恨す。明日、人をして公の船を鉤求せしめ、高きに登りて以て望ましむ。久しくして、公の水上を歩み来たるを見る。衣履沾れず、而して酒色あり。既に見えて言いて曰く、「臣昨侍従せしが伍子胥見請あり、暫く過ぎて酒を設く、忽忽として得ず、即ちこれを委す」と。又姚光なる者有り、火術あり。呉主身ら臨みてこれを試み、荻を数千束積み、光をして其の上に坐らせ、又数千束の荻をもってこれを裹み、猛風に因りてこれを燔す。荻了く尽き、光は当に化して燼と為るべしと謂うに、光は端坐して灰中にあり、衣を振いて起ち、一卷の書を把る。呉主其の書を取りてこれを視るに、解くこと能わず。又曰く、呉の景帝疾あり、覡を求めて視る者を得たり。景帝これを試みんと欲し、乃ち鵝を殺して苑中に埋め、小屋を架け、牀几を施し、婦人の屐履服物をもって其の上に著け、乃ち覡をしてこれを視しむ。告げて曰く、「若し能く此の冢中の鬼婦人の形状を説く者あらば、当に賞を加え而して即ち信ずべし」と。竟日尽夕言無し。帝推問すること急なるに、乃ち曰く、「実に鬼有るを見ず、但だ一頭の白鵝の墓上に立つを見るのみ。所以に即ち白さざるは、是れ鬼神変化して此の相と作るかと疑い、当に其の真形を候して定むべし。復た移易すること無く、何の故なるかを知らず、敢えて実をもって上聞せざるはなし」と。景帝乃ち厚くこれを賜う。然らば則ち鵝死するも亦た鬼あり。葛洪『神仙伝』に曰く、仙人介象、字は元則、会稽の人、諸の方術あり。呉主これを聞き、象を徴して武昌に到り、甚だ敬貴し、称して介君と為し、宅を起て、御帳をもってこれを給し、賜遺前後累千金、象に従いて蔽形の術を学ぶ。試みに後宮に還り、及び殿門を出づるに、見る者有ること莫し。又象をして変化を作さしめ、瓜菜百果を種うるに、皆立ちどころに生じて食すべし。呉主共に鱠魚の何れか最も美なるかを論ず。象曰く、「鯔魚を上と為す」と。呉主曰く、「近道の魚を論ずるのみ、此れ海中に出づ、安んぞ得べけんや」と。象曰く、「得べし」と。乃ち人をして殿庭中に方埳を作らしめ、水を汲みてこれを満たし、并せて鈎を求む。象起ちてこれを餌し、綸を埳中に垂る。須臾にして、果たして鯔魚を得たり。呉主驚喜し、象に問いて曰く、「食すべきか」と。象曰く、「故に陛下の為に取りて以て生鱠を作る、安んぞ敢えて食すべからざるの物を取らんや」と。乃ち厨下をしてこれを切らしむ。呉主曰く、「蜀使来るを聞く、蜀薑を得て韲を作る甚だ好し、恨むらくは爾の時に此れ無きを」と。象曰く、「蜀薑豈に得易からざらんや、願わくは差す所の使者をして、并せて直を付せん」と。呉主左右の一人を指し、銭五十をもってこれを付す。象一符を書し、もって青竹杖の中に著け、行人をして目を閉じて杖に騎らしむ。杖止まらば、便ち薑を買い訖り、復た目を閉じよ。此の人其の言を承けて杖に騎るに、須臾にして止まり、已に成都に至る。何れの処なるかを知らず、人に問うに、人は是れ蜀の市の中と言う。乃ち薑を買う。時に呉使張温先ず蜀に在り、既に市の中で相識り、甚だ驚き、便ち書を作りて其の家に寄す。此の人薑を買い畢り、書を捉え薑を負い、杖に騎り目を閉ず。須臾にして已に呉に還り到る。厨下鱠を切ること適に了る。臣裴松之は思うに、葛洪の記すところは、近く衆を惑わす。其の書の文頗る世に行わる、故に数事を撮取し、これを篇末に載するなり。神仙の術は、詎に測量すべけんや。臣の臆断、以て衆を惑わすと為すは、所謂夏虫の冷冰を知らざるのみ。)

原文評曰:三子各於其術精矣,其用思妙矣,然君子等役心神,宜於大者遠者,是以有識之士,舍彼而取此也。〈孫盛曰:夫玄覽未然,逆鑒來事,雖裨竈、梓慎其猶病諸,況術之下此者乎?吳史書達知東南當有王氣,故輕舉濟江。魏承漢緒,受命中畿,達不能豫覩兆萌,而流竄吳越。又不知吝術之鄙,見薄於時,安在其能逆覩天道而審帝王之符瑞哉?昔聖王觀天地之文,以畫八卦之象,故亹亹成於蓍策,變化形乎六爻,是以三易雖殊,卦繇理一,安有迴轉一籌,可以鈎深測隱,意對逆占,而能遂知來物者乎?流俗好異,妄設神奇,不幸之中,仲尼所棄,是以君子志其大者,無所取諸。臣松之以爲盛云「君子志其大者,無所取諸」,故評家之旨,非新聲也。其餘所譏,則皆爲非理。自中原酷亂,至于建安,數十年間,生民殆盡,比至小康,皆百死之餘耳。江左雖有兵革,不能如中國之甚也,焉知達不算其安危,知禍有多少,利在東南,以全其身乎?而責不知魏氏將興,流播吳越,在京房之籌,猶不能自免刑戮,況達但以祕術見薄,在悔吝之間乎!古之道術,蓋非一方,探賾之功,豈惟六爻,苟得其要,則可以易而知之矣,迴轉一籌,胡足怪哉?達之推算,窮其要妙以知幽測隱,何愧于古!而以裨、梓限之,謂達爲妄,非篤論也。《抱樸子》曰:時有葛仙公者,每飲酒醉,常入人家門前陂水中臥,竟日乃出。曾從吳主別,到洌州,還遇大風,百官船多沒,仙公船亦沉淪,吳主甚悵恨。明日使人鈎求公船,而登高以望焉。久之,見公步從水上來,衣履不沾,而有酒色。既見而言曰:「臣昨侍從而伍子胥見請,暫過設酒,忽忽不得,即委之。」又有姚光者,有火術。吳主身臨試之,積荻數千束,使光坐其上,又以數千束荻裹之,因猛風而燔之。荻了盡,謂光當以化爲燼,而光端坐灰中,振衣而起,把一卷書。吳主取其書視之,不能解也。又曰:吳景帝有疾,求覡視者,得一人。景帝欲試之,乃殺鵝而埋於苑中,架小屋,施牀几,以婦人屐履服物著其上,乃使覡視之。告曰:「若能說此冢中鬼婦人形狀者,當加賞而即信矣。」竟日盡夕無言,帝推問之急,乃曰:「實不見有鬼,但見一頭白鵝立墓上,所以不即白之,疑是鬼神變化作此相,當候其真形而定。無復移易,不知何故,不敢不以實上聞。」景帝乃厚賜之。然則鵝死亦有鬼也。葛洪《神仙傳》曰:仙人介象,字元則,會稽人,有諸方術。吳主聞之,徵象到武昌,甚敬貴之,稱爲介君,爲起宅,以御帳給之,賜遺前後累千金,從象學蔽形之術。試還後宮,及出殿門,莫有見者。又使象作變化,種瓜菜百果,皆立生可食。吳主共論鱠魚何者最美,象曰:「鯔魚爲上。」吳主曰:「論近道魚耳,此出海中,安可得邪?」象曰:「可得耳。」乃令人於殿庭中作方埳,汲水滿之,幷求鈎。象起餌之,垂綸於埳中。須臾,果得鯔魚。吳主驚喜,問象曰:「可食不?」象曰:「故爲陛下取以作生鱠,安敢取不可食之物!」乃使厨下切之。吳主曰:「聞蜀使來,得蜀薑作韲甚好,恨爾時無此。」象曰:「蜀薑豈不易得,願差所使者,幷付直。」吳主指左右一人,以錢五十付之。象書一符,以著青竹杖中,使行人閉目騎杖,杖止,便買薑訖,復閉目。此人承其言騎杖,須臾止,已至成都,不知是何處,問人,人言是蜀市中,乃買薑。于時吳使張溫先在蜀,既於市中相識,甚驚,便作書寄其家。此人買薑畢,捉書負薑,騎杖閉目,須臾已還到吳,厨下切鱠適了。臣松之以爲葛洪所記,近爲惑衆,其書文頗行世,故撮取數事,載之篇末也。神仙之術,詎可測量,臣之臆斷,以爲惑衆,所謂夏蟲不知冷冰耳。〉

この作品は全世界において公有領域に属する。なぜなら作者の没後100年以上が経過し、かつ作品が1931年1月1日以前に出版されているからである。

原文※ 対応する原文行を特定できませんでした。