巻53 呉書・張厳程闞薛伝

三國志

呉書・張厳程闞薛伝

張紘は 字 を子綱といい、広陵の人である。若い頃に都で遊学し、〈呉書によると、張紘は太学に入り、博士の韓宗に師事して京氏易と欧陽尚書を学び、また外黄で濮陽闓から『韓詩』および『礼記』、『左氏春秋』を受けた。〉故郷の郡に戻り、茂才に推挙され、公府から召し出されたが、いずれも就任しなかった。〈呉書によると、大将軍何進、 太尉 たいい 朱儁、 司空 しくう 荀爽の三府が掾に辟召したが、皆病気と称して就任しなかった。〉難を避けて江東に移った。孫策が創業すると、ついに身を委ねて仕えた。孫策は彼を正議 校尉 こうい に上表した。〈呉書によると、張紘と張昭はともに参謀となり、常に一人を居守させ、一人を征討に従わせた。後に 呂布 が 徐州 を襲撃して奪い取り、そのため州牧となり、張紘が孫策に仕えることを望まなかった。茂才に推挙するよう迫り、文書を送って張紘を発遣させようとした。張紘は内心呂布を憎み、彼に屈することを恥じた。孫策もまた張紘を重んじ惜しみ、自らを補佐させようとした。返答の文書を送って発遣させず、「海は明珠を産出し、所在するところが宝となる。楚に才能ある者がいても、晋が実際に用いる。英偉な君子は、遊歴する所で珍重される。どうして必ずしも本州でなければならないだろうか」と言った。〉丹揚討伐に従軍した時、孫策自ら戦陣に臨もうとした。張紘は諫めて言った。「主将は謀略の出所であり、三軍の命運がかかっている者です。軽率に身をさらすべきではありません。敵は小賊です。どうか将軍は天から授かった資質を重んじ、天下の期待に応えられ、国内の上下が危惧する事態を招かないよう願います。」

建安四年、孫策は張紘を遣わして上奏文を許都の宮廷に奉じさせ、留めて侍御史とした。少府の孔融らは皆、彼と親しくした。〈呉書によると、張紘が到着すると、朝廷の公卿や旧知に対し孫策の才略が並外れていること、三郡を平定し風が草をなびかせるように従わせたこと、忠敬と誠実さを加え、心は王室に向いていることを述べた。当時曹公( 曹操 )は 司空 しくう であり、遠方の者を喜ばせるために恩恵を厚く加えようとし、優れた文書で褒め称え、称号を改め封を加え、張紘を掾に辟召し、高い成績で推挙し、侍御史に補任した。後に張紘を九江太守に任じようとした。張紘は旧主の恩を慕い、返命して戻ることを思い、病気を理由に固辞した。〉曹公は孫策の死を聞き、喪に乗じて呉を討伐しようとした。張紘は諫め、人の喪に乗じることは古い義に合わず、もし成功しなければ仇敵となり友好を捨てることになるとし、むしろこの機会に厚遇すべきだと説いた。曹公はその意見に従い、すぐに 孫権 を討虜将軍に上表し、会稽太守を兼任させた。曹公は張紘に孫権を補佐させて内附させようと、張紘を会稽東部都尉に出した。〈『呉書』によると、孫権が初めて後を継いだ時、年はまだ若く、太夫人は外に多くの難事があることを深く憂い労わり、たびたび優しい言葉で辞退し、補佐する大義を付託された。張紘はすぐに書簡を捧げて答礼し、補佐と監察について考えを巡らせた。異なる事柄や密計、および章表や書記、四方との交渉がある時は、常に張紘と張昭に起草・作成させた。張紘は、破虜将軍(孫堅)が 董卓 を破り追い払い、漢室を扶持した功績があり、討逆将軍(孫策)が江外を平定し、大業を打ち立てたので、その公義を明らかにするために紀頌を設けるべきだと考えた。完成して孫権に呈上すると、孫権は読み返して悲しみ感慨し、「君はまことに我が家門の功績を識っている」と言い、張紘を任地に派遣した。ある者は張紘が本来北方の任を受けていたので、その志趣がこれだけに止まらないことを嫌ったが、孫権は気に留めなかった。初め、琅邪の趙昱が広陵太守であった時、張紘を 孝廉 に察挙した。趙昱は後に笮融に殺され、張紘は非常に傷心し憤慨したが、討伐する力がなかった。趙昱の家門が絶滅したので、張紘が東部にいた時、主簿を琅邪に遣わして祭祀を行わせ、併せて親戚を求めて後継ぎとし、書簡で琅邪相の臧宣に依頼した。臧宣は趙氏の宗族の中から五歳の男子を選んで趙昱の祭祀を奉じさせた。孫権はこれを聞いて賞賛した。江夏討伐の時、東部は事が少ないとして、張紘に居守を命じ、遠くから職務を統轄させた。孔融は張紘に書簡を送って言った。「大軍が西征し、足下が留まって鎮守されると聞く。居留する者がいなければ、誰が 社稷 しゃしょく を守るのか。深く固く守り敵を撃退することも、大きな功績である。李広の気概のように、倉卒に発してますます怒り、単于に一騎打ちを挑み、残りの憤りを晴らしたいということはないか?南北ともに平定され、世の中に事がなくなり、孫叔が戈を投げ入れ、絳侯(周勃)や灌嬰が俎豆にまつられるのも、今日のことである。ただ離れ離れになっているため、面会する機会がなく、愁嘆しているだけだ。道は真っ直ぐで途は清らかである。再会するのがどうして難しいだろうか?」孫権は張紘に鎮守の功労があるとして、論功行賞を加えようとした。張紘は深く自らを控えめにし、寵愛を受けることを敢えてせず、孫権はその志を奪わなかった。いつも从容として宴席に侍し、微言や密かな示唆によって、常に規諫と諷諫を行った。『江表伝』によると、初め、孫権は群臣を多くその字で呼んだが、ただ張昭だけを張公と呼び、張紘を東部と呼んだ。これによって二人を重んじたのである。〉後に孫権は張紘を長史とし、合肥征伐に従軍させた。〈呉書によると、合肥城が長く陥落しないので、張紘は進言して計略を述べた。「昔の城囲みは、一面を開けて、衆心に疑念を抱かせた。今は包囲が非常に密で、攻撃も急である。確かに敵が命を共にして力を合わせ、死戦することを恐れる。死戦する敵は、固より急に陥落させるのは難しく、救援が到着する前に、少し緩めてその変化を見るのがよい。」議論する者は意見が異なった。ちょうど救援の騎兵が到着し、たびたび包囲陣の下まで来て、馳せ回って挑戦した。〉孫権は軽騎を率いて敵陣に突撃しようとした。張紘は諫めて言った。「兵は凶器であり、戦いは危険な事柄です。今、将軍は盛んな気勢を頼みにし、強暴な敵虜を軽視しておられます。三軍の兵衆は、寒心しない者はおりません。たとえ敵将を斬り旗を奪い、敵陣に威を震わせても、これは偏将の任務であって、主将のなすべきことではありません。どうか孟賁や夏育のような勇を抑え、霸王の計略を懐かれるよう願います。」孫権は張紘の言葉を受け入れて止めた。帰還後、翌年また出兵しようとした。張紘はまた諫めて言った。「古来、帝王の天命を受けた君主は、上には皇霊の佐けがあり、下には文徳を広めても、やはり武功によってその勲を明らかにすることを頼りとします。しかし、時機に応じて行動することが貴ばれ、その後で威を示すのです。今、将軍は四百年の厄運に直面し、危機を救う功績があります。しばらく軍勢を休め潜伏させ、広く耕作殖産を開き、賢者を任用し能ある者を使い、寛大な恵みを尊ぶことに務め、天命に順って誅罰を行えば、労せずして平定できます。」そこで遂に出兵を止めて行わなかった。

張紘は都を秣陵に移すべきだという計画を立て、孫権はそれに従った。〈『江表伝』によると、張紘は孫権に言った。「秣陵は、楚の武王が設置し、金陵と名付けた地です。地勢は岡阜が石頭に連なり、古老に尋ねると、昔、秦の始皇帝が東巡して会稽に行く際にこの県を通り、望気者が『金陵の地形には王者の都邑の気がある』と言ったため、連なる岡を掘り断って、秣陵と改名したといいます。今もその場所は残っており、地にはその気があり、天の命ずるところです。都邑とするのが適当です。」孫権はその意見を良しとしたが、従うことはできなかった。後に 劉備 が東に来て、秣陵に宿泊し、地形をくまなく見て回り、孫権に都を置くよう勧めた。孫権は「智者は意を同じくするものだ」と言い、ついに都を置いた。『献帝春秋』によると、劉備が京に至り、孫権に言った。「呉はここから数百里離れており、急な警報があれば救援に駆けつけるのが難しい。将軍は京に駐屯する考えはないのか?」孫権は「秣陵には百余里の小江があり、大船を停泊させることができる。私は今、水軍を整備しているので、移って拠点とすべきだ」と言った。劉備は「蕪湖は濡須に近く、これも良い」と言った。孫権は「私は徐州を図りたいので、近くに下るのがよい」と言った。臣の松之は考えるに、秣陵と蕪湖は距離の差はほとんどなく、北方侵攻の利便性においても、何の違いがあるだろうか。それなのに徐州を窺うため、秣陵が近く下流にあることを貪るなどというのは、道理に合わない。諸書は皆、劉備が秣陵に都を置くよう勧めたとしているが、ここだけは孫権が自ら都にしたいと言ったとし、また虚偽の誤りである。〉孫権は彼に命じて呉に戻り家族を迎えさせたが、道中で病気になり死去した。臨終の際、子の張靖に遺書を授けて言った。「古来、国や家を持つ者は皆、徳政を修めて盛世に並び栄えようとするが、その治績は、多くの場合、芳しいものではない。忠臣や賢明な補佐役が治国の根本に暗いからではなく、主君が私情に打ち勝てず、それを用いることができないからである。人の常情は困難を恐れ易きに趨き、同調を好み異論を嫌う。これは治国の道理に反する。『伝』に『善に従うことは登るが如く、悪に従うことは崩れるが如し』とある。善を行うことの難しさを言ったものである。君主は代々の基業を継ぎ、自然の勢いに拠り、八柄の威を操り、易き同調の歓びに甘んじている。〈『周礼』太宰職に曰く、八柄をもって王に 詔 し群臣を馭す。一に爵と曰い、以て其の貴を馭す。二に禄と曰い、以て其の富を馭す。三に予と曰い、以て其の幸を馭す。四に置と曰い、以て其の行を馭す。五に生と曰い、以て其の福を馭す。六に奪と曰い、以て其の貧を馭す。七に廃と曰い、以て其の罪を馭す。八に誅と曰い、以て其の過を馭す。〉他人から借りる必要はない。しかし忠臣は、実行困難で受け入れにくい方策を抱き、耳に逆らう言葉を吐く。それで主君と合わないのは、当然ではないか。(たとえ)隙があれば、巧みな弁舌が間に入り、小さな忠節に目をくらまされ、恩愛に執着し、賢愚が入り混じり、長幼の順序が失われる。その由来は、情が乱れるからである。故に明君はこれを悟り、賢者を求めることを飢え渇きのごとくする。諫言を受け入れて飽きることなく、情を抑え欲を減らし、義によって恩を断ち切り、上には偏り誤った授けがなく、下には不当な望みがないようにする。よくよく考え、恥辱を忍び欠点を隠し、仁徳が広く覆う大業を成し遂げるべきである。」時に六十歳で死去した。孫権はその書を見て涙を流した。

張紘は詩・賦・銘・誄を十余篇著した。〈『呉書』によると、張紘は柟榴枕を見て、その文様を愛で、賦を作った。陳琳が北方でこれを見て、人に示して言った。「これは我が郷里の張子綱の作ったものだ。」後に張紘は陳琳の作った『武庫賦』『応機論』を見て、陳琳に手紙を送り深く賞賛した。陳琳は答えて言った。「私が河北にいて、天下と隔たっているため、この辺りは概して文章が少なく、雄伯となるのが容易なので、私がこの過分な称賛を受けているのであり、実力ではない。今、景興(王朗)がここにおり、足下と子布(張昭)があそこにおられる。いわゆる小巫が大巫を見るが如く、神気は尽きてしまいます。」張紘は文学を好むだけでなく、楷書や篆書にも優れ、孔融に手紙を書く時は自ら筆を執った。孔融は張紘に手紙を送って言った。「先日はご親筆をいただき、多くは篆書であった。篇を開いて字を見るたびに、嬉しさのあまり一人笑い、まるでまたその人に会ったようだ。」〉子の張玄は、南郡太守・尚書まで昇進した。〈『江表伝』によると、張玄は清廉で節操高い行いがあったが、才能は張紘に及ばなかった。〉張玄の子の張尚は、〈『江表伝』は張尚に俊才があったと称している。〉孫皓の時代に侍 郎 となり、言葉の弁舌敏捷さで知られ、侍中・中書令に抜擢された。孫皓が張尚に琴を弾くよう命じると、張尚は「元々できません」と答えた。孫皓は命じて学ばせた。後の宴会で琴の精妙さについて話している時、張尚は「晋の平公が師曠に清角を演奏させようとしたが、師曠は『我が君の徳が薄く、これを聴くに足りない』と言った」という故事を述べた。孫皓は張尚がこの故事をもって自分を喩えていると思い、不愉快になった。後に他の事柄が積み重なり、張尚は投獄され、皆この件を追及して詰問した。〈環氏の『呉紀』によると、孫皓はかつて「詩に『汎彼栢舟』とあるが、柏だけが舟に適しているのか?」と尋ねた。張尚は「詩に『檜楫松舟』とありますから、松も舟に適しています」と答えた。また「鳥で大きいのは鶴だけか、小さいのは雀だけか?」と尋ねると、張尚は「大きいものには禿鶖がおり、小さいものには鷦鷯がおります」と答えた。孫皓は自分より優れた者を妬む性格で、張尚の議論は常に彼の上を行くものだったため、恨みが積もった。後に「孤の酒量を誰に例えようか?」と尋ねると、張尚は「陛下には百觚の量があります」と答えた。孫皓は「張尚は孔丘が王になれなかったことを知っていながら、孤をそれに例えるのか!」と言い、これにより怒って張尚を捕らえた。尚書の岑昬が公卿以下百余人を率いて宮殿に赴き、頭を地に叩きつけて請願したため、張尚の罪は死刑を減じられた。〉建安に送られて船作りをさせられた。しばらくして、さらに誅殺された。初め、張紘と同じ郡の秦松(字は文表)、陳端(字は子正)は、共に張紘と孫策に厚遇され、謀議に参与した。それぞれ早くに死去した。

厳畯は字を曼才といい、彭城の人である。若い頃から学問に耽り、『詩経』『書経』、三『礼』に通じ、また『説文解字』を好んだ。乱を避けて江東に移り、諸葛瑾・歩騭と並び称され親しく交わった。性質は質直で純朴篤実であり、人物に対しては忠告して善く導き、補い益することを志した。張昭が孫権に推薦し、孫権は彼を騎都尉・従事中郎に任じた。横江将軍魯肅が亡くなると、孫権は厳畯を魯肅の後任とし、兵一万人を督率させ、陸口に鎮守させようとした。人々は皆、厳畯を喜んだ。しかし厳畯は前後して固辞し、「質素な書生に過ぎず、軍事に通じておらず、才能もないのにその地位に就けば、必ず過ちと後悔が訪れるでしょう」と言い、発言は慷慨として涙を流すほどであった。〈『志林』によると、孫権はまた厳畯に乗馬を試させたが、馬に上がると鞍から落ちた。〉孫権はついに彼の意見を聞き入れ、世間は彼が実直に譲ったことを称賛した。孫権が呉王となり、さらに皇帝を称した時、厳畯は衛尉を務め、蜀に使者として赴き、蜀の丞相 諸葛亮 から大変好意を持たれた。俸禄や賞賜を蓄えず、全て親戚や旧知に分け与えたため、家計は常に豊かではなかった。広陵の劉穎は厳畯と旧知であり、劉穎は学問に精励して家に閉じこもっていた。孫権が彼を召し出そうと聞くと、病気を理由に応じなかった。劉穎の弟の劉略が零陵太守となり、任地で死去したので、劉穎は喪に赴いた。孫権は彼が病気を偽ったと知り、急ぎ駅伝で捕らえさせた。厳畯も急いで劉穎に知らせ、孫権のもとに戻って謝罪するよう伝えた。孫権は怒って厳畯を免職にしたが、劉穎は罪を免れた。しばらくして、厳畯を 尚書令 しょうしょれい に任じ、後に死去した。〈『呉書』によると、厳畯は七十八歳で亡くなり、二人の子、厳凱と厳爽がいた。厳凱は昇平少府まで昇進した。〉厳畯は『孝経伝』『潮水論』を著し、また裴玄・張承と管仲・季路について論じた。これらは皆、世に伝わった。

裴玄は字を彦黄といい、下邳の人である。学問と品行を備え、太中大夫まで昇進した。子の裴欽に、斉の桓公・晋の文公・伯夷・柳下恵の四人の優劣を問うた。裴欽が答えた見解は、裴玄のそれと反復論争し、それぞれに文理があった。裴欽は太子の孫登と交遊し、孫登はその文才を称えた。

程秉は字を徳樞といい、汝南郡南頓県の人である。鄭玄に師事し、後に戦乱を避けて交州に移り、劉熙と経典の大義を考究・論議し、ついに五経に広く通じた。士燮は彼を長史に任命した。孫権は彼が名儒であると聞き、礼を尽くして招聘し、程秉が到着すると、太子太傅に任命した。黄武四年、孫権が太子の孫登のために 周瑜 の娘を娶る際、程秉は太常を代行し、呉に赴いて妃を迎えた。孫権は自ら程秉の船に臨み、厚く礼遇した。帰還後、程秉はゆったりと進み出て孫登に説いて言った。「婚姻は人倫の始まりであり、王者の教化の基礎です。それゆえ聖王はこれを重んじ、民衆の先頭に立って模範を示し、天下を教化するのです。故に『詩経』は『関雎』を称え、これを筆頭としています。願わくば太子には閨房において礼教を尊び、『周南』が詠うところを心に留められれば、上には道化が盛んとなり、下には頌声が起こるでしょう。」孫登は笑って言った。「その美を助け、その悪を正すのは、まさに傅君に頼るところです。」病のため官に在ったまま死去した。『周易摘』『尚書駁』『論語弼』を著し、合わせて三万余字に及んだ。

程秉が傅であった時、率更令の河南郡の徴崇もまた学問に篤実で品行を確立していたという。〈『呉録』によると、崇は字を子和といい、『易』『春秋左氏伝』を研究し、併せて方術にも通じていた。本来の姓は李であったが、戦乱に遭って姓を改め、会稽に隠れ住み、自ら耕作して志を貫いた。彼を慕う者が学びに来たが、教えるのは数人で必ず止め、その学業が必ず成就するようにした。交際した者には丞相の歩騭などがおり、皆親しくした。厳畯は、崇の行いは風俗を励ますに足り、学問は師となるに足ると推薦した。初めて太子の孫登に拝謁した時、病気のため拝礼を免除された。東宮の官僚は皆彼に諮問した。太子はしばしば珍しい話を訪ねた。七十歳で死去した。〉

闞沢は字を徳潤といい、会稽郡山陰県の人である。家は代々農夫であったが、闞沢に至って学問を好み、貧しく資金がなかったため、常に人に雇われて書写し、紙筆の費用を賄った。書き写し終わると、読み誦むことも一通り済ませた。師を追って論議講義し、群書を究め広く読み、暦数にも通じ、これによって名声が知られるようになった。孝廉に察挙され、銭唐県長に任命され、郴県令に転任した。孫権が驃騎将軍であった時、召し出されて西曹掾に補任された。孫権が帝号を称すると、闞沢を尚書とした。嘉禾年間、中書令となり、侍中を加官された。赤烏五年、太子太傅に任命され、中書令を兼任するのは以前の通りであった。闞沢は経書と伝注の文章が多く、全てを用いるのは難しいと考え、諸家の説を斟酌し、『礼』の本文と諸注釈を削減・簡約して二宮(太子と魯王)に授け、行動や出入りの規定および賓客との面会儀礼を制定し、また『乾象暦注』を著して時日の誤りを正した。朝廷で重大な議論があり、経典について疑義がある時は、常に彼に諮問した。儒学への貢献と勤労により、都郷侯に封じられた。性格は謙虚で恭しく、篤実で慎重であり、宮中や官府の下級官吏を呼び出して問い対する時も、皆対等の礼で接した。他人の欠点や過失については、口にすることはなく、容貌は物足りないように見えたが、彼が聞き及ぶことは滅多に尽きることがなかった。孫権が常に尋ねた。「書伝や篇賦の中で、どれが優れているか。」闞沢は治乱を明らかにするよう諷諭したいと思い、答えて賈誼の『過秦論』が最も優れていると言った。孫権はそれを読んだ。初め、呂壹の奸悪な罪が発覚し、担当官が徹底的に取り調べ、大辟(死刑)を上奏した。ある者は焚刑や車裂きの刑を加えるべきだと考え、元凶の悪を明らかにすべきだとした。孫権が闞沢に意見を求めたところ、闞沢は言った。「盛んな明るい世の中では、再びこのような刑罰を行うべきではありません。」孫権はこれに従った。また、諸官庁が何か問題を抱え、規制を強化して臣下を検束・統制しようとする時、闞沢は常に言った。「礼と律に依るべきです。」彼が和やかでありながら正しいことを言うのは、皆このような類いであった。〈『呉録』によると、虞翻は闞沢を評して言った。「闞生は傑出した人物で、蜀の揚雄のようなものだ。」また言った。「闞子の儒術と德行は、今の董仲舒でもある。」初め、魏の文帝が即位した時、孫権は群臣にゆったりと尋ねた。「曹丕は盛んな年齢で即位した。私は彼に及ばないのではないかと恐れるが、諸卿はどう思うか。」群臣が答えない中、闞沢が言った。「十年も経たないうちに、丕は亡くなるでしょう。大王はご心配なさるには及びません。」孫権が「どうしてそれが分かるのか」と尋ねると、闞沢は言った。「その字から言えば、『不』と『十』で『丕』となります。これがその数です。」文帝は果たして七年後に崩御した。臣の松之が考えるに、孫権の年齢は文帝より五歳年上であり、その長幼の差は僅かである。〉六年の冬に死去した。孫権は痛惜し悼み、数日間食事を摂らなかった。

闞沢の同郷の先輩で丹楊郡の唐固もまた身を修め学問を積み、儒者と称され、『国語』『公羊伝』『穀梁伝』の注を著し、講義には常に数十人が受講した。孫権が呉王であった時、唐固を 議郎 に任命し、 陸遜 、張温、駱統なども皆彼に師事した。黄武四年に尚書 僕射 ぼくや となり、死去した。〈『呉録』によると、固は字を子正といい、死去した時は七十余歳であった。〉

薛綜は字を敬文といい、沛郡竹邑県の人である。〈『呉録』によると、その先祖は斉の孟嘗君で薛に封じられた。秦が六国を滅ぼし、その祭祀が絶えたため、子孫は散り散りになった。漢の高祖が天下を平定し、斉を通った時、孟嘗君の 後裔 を求め、その孫の陵と国の二人を得て、その封を復活させようとした。陵と国は兄弟で互いに譲り合い、どちらも受けようとしなかったため、竹邑に去り、そこに家を定めたので、薛を氏とした。国から綜に至るまで、代々州郡を治め、著名な氏族となった。綜は若くして経書に明るく、文章をよくし、秀才であった。〉若くして一族の者に従って交州に避難し、劉熙に師事した。士燮が孫権に帰順すると、薛綜を召し出して五官中郎将とし、合浦太守、交阯太守を兼任させた。

当時、交州の地は開拓が始まったばかりで、 刺史 しし の呂岱が軍を率いて討伐に向かい、薛綜も共に行き、海を越えて南征し、九真にまで至った。任務を終えて都に戻り、謁者 僕射 ぼくや を代行した。蜀の使者の張奉が孫権の面前で尚書の闞沢の姓名を挙げて闞沢を嘲笑したが、闞沢は答えられなかった。薛綜が席を下りて酒を勧め、酒を勧めながら言った。「蜀とは何か?犬があれば獨(独)、犬がなければ蜀。横に目を配り、身を屈め、虫がその腹に入る。」〈臣の松之が見た諸書の版本では、「苟身」を「句身」としているものもあり、「横目」と言っている以上、「句身」とすべきだと考えられる。〉張奉が言った。「君の呉もまた列挙すべきではないのか?」薛綜は即座に答えた。「口がなければ天、口があれば呉。万邦に君臨し、天子の都。」そこで座中の者は皆喜んで笑ったが、張奉は返す言葉がなかった。その機転の速さは、皆このような類いであった。〈『江表伝』によると、費禕が呉に聘問した時、宮殿で拝謁し、公卿や侍臣が皆同席していた。酒が酣になった時、費禕と諸葛恪が互いに嘲り難問を出し合い、話は呉と蜀に及んだ。費禕が尋ねた。「蜀の字はどういう意味か。」諸葛恪は言った。「水があれば濁、水がなければ蜀。横に目を配り、身を屈め、虫がその腹に入る。」費禕がまた尋ねた。「呉の字はどういう意味か。」諸葛恪は言った。「口がなければ天、口があれば呉。下には滄海に臨み、天子の帝都。」本伝とは異なる。〉呂岱が交州から召還されることになり、薛綜は呂岱の後任が適任でないことを恐れ、上疏して言った。

昔、帝舜が南巡し、蒼梧で亡くなった。秦は桂林、南海、象郡を設置した。そうすると、この四郡が内属したのは、由来があるのである。趙佗が番禺で起こり、百越の君長を懐柔服属させたのは、珠宮の南である。漢の武帝が呂嘉を誅し、九郡を開き、交阯 刺史 しし を設置して鎮撫監察した。山川は遠く長く、習俗は統一されず、言語は同じであったり異なったりし、幾重にも通訳してようやく意思が通じた。民は禽獣のようで、長幼の区別がなく、髪を椎の髻に結び、裸足で歩き、頭から布を通して着る貫頭衣を着て、左前に衽を合わせ、長吏が設置されていても、あってもないようなものであった。それ以来、中国の罪人をかなり移住させてその地に雑居させ、少しずつ文字を学ばせ、言語を大まかに理解させ、駅伝を往来させ、礼儀と教化を見せた。その後、錫光が交阯太守となり、任延が九真太守となると、彼らに耕作を教え、冠や履を着用させた。媒官を設置し、初めて聘娶の礼を知らせた。学校を設立し、経書の義理を導いた。これ以降、四百余年を経て、かなり似通ってきた。私が以前、客として初めて到着した時、珠崖では州県の嫁娶は、皆八月に戸籍を引き、人民が集会する時に、男女が自ら互いに気に入れば、夫婦となり、父母も止めることができなかった。

交阯郡の糜泠県と九真郡の都龐県では、いずれも兄が死ぬと弟がその嫂を妻とする風習があり、世間ではこれを慣習としている。長官たちは勝手に聞き入れ、禁止することができない。日南郡では男女が裸体でいることを恥とも思わない。このことから言えば、彼らは虫けらのようなもので、顔があるだけと言える。しかし土地は広く人口も多く、険阻な地形と毒気に阻まれ、容易に反乱を起こしやすく、従順に治めるのは難しい。朝廷は彼らを繋ぎ止めておき、威を示して服従させ、田畑からの租税はわずかに取り立てて供給を整え、遠方の珍しい名珠、香薬、象牙、犀角、玳瑁、珊瑚、琉璃、鸚鵡、翡翠、孔雀、珍奇な物を求めさせ、宝物や玩物を満たし備えるのであり、必ずしも彼らの租税収入に頼って、中国を豊かにする必要はない。しかし九服の外にあり、長官の選任は概して精査されていない。漢の時代は法が寛大で、多くは自ら放縦であり、たびたび法に背いて反乱を起こした。珠崖郡が廃止されたのは、長官が彼らの髪が美しいのを見て、髪を剃り取って鬘にしたことから始まった。そして私が見聞きしたところでは、南海郡の 黄蓋 が日南太守に就任した時、赴任して供応が豊かでないことを理由に、主簿を鞭打ち殺し、結局追放された。九真太守の儋萌が妻の父である周京のために主人役を務め、大官たちを招いて酒宴を開き、酒が酣になって音楽を奏でた。功曹の番歆が立ち上がって舞い、周京に舞を勧めたが、周京は起きようとせず、番歆がなおも強引に迫ったので、儋萌は怒って番歆を杖で打ち、番歆は郡内から逃亡した。番歆の弟の苗が兵を率いて官府を攻撃し、毒矢で儋萌を射て、儋萌は死亡した。交阯太守の士燮が兵を派遣して討伐したが、ついに平定できなかった。また以前の 刺史 しし である会稽の朱符は、多くは同郷の虞褒、劉彦の者たちを長官に任命し、百姓を侵害虐待し、民から強制的に黄魚一匹ごとに稲一斛を徴収したため、百姓は怨んで反乱を起こし、山賊が一斉に現れ、州や郡を攻撃した。朱符は海へ逃げ込み、流浪して死んだ。次に南陽の張津を得たが、 荊州 牧の劉表と対立し、兵力は弱く敵は強く、毎年軍を起こしたため、諸将は厭きて憂い、去るも留まるも自由勝手であった。

張津はわずかに統制を加えたが、威厳と武力が足りず、陵辱され、ついに殺害された。後に零陵の頼恭を得たが、彼は先輩で仁厚で謹厳であり、時勢に通じていなかった。劉表はまた長沙の呉巨を蒼梧太守として派遣した。呉巨は武夫で軽率で凶暴であり、頼恭に服従しなかった。(頼恭が取るもの)(呉巨が取るもの)は互いに恨みを抱き、呉巨は頼恭を追い出し、歩騭を求めた。この時、張津の旧将である夷廖、銭博の徒がまだ多くいたが、歩騭は順次討伐平定し、綱紀がようやく定まったところで、召し出されて任を離れた。呂岱が到着すると、士氏の変乱があった。呉軍が南征し、平定討伐した日、長官を改めて任命し、王朝の綱紀を明らかにし、威を万里に加え、大小の者たちが風に従った。このことから言えば、辺境を安定させ遠方を撫でるには、確かに適任者がいる。州牧のような重任には、清廉で有能な者がふさわしく、荒れた辺境の地では、禍福が特に甚だしい。今日の交州は一応安定したとは名ばかりで、まだ高涼に宿賊がいる。その南海、蒼梧、鬱林、珠官の四郡の境界は未だ安定せず、賊徒に依って寇盗を働き、逃亡者の巣窟となっている。もし呂岱が再び南へ行かなければ、新しい 刺史 しし は精密な人物を得て、八郡を統制し、方策と智謀を持ち、徐々に高涼を治めることができる者でなければならず、その威光と寵愛を仮借し、その勢力を借りて、成果を責め求めれば、おそらく補い回復することができるだろう。もしただ平凡な人物で、常法を守るだけで、奇策や異術を持たない者ならば、悪党たちは日々増長し、長い目で見れば害となる。故に国の安危は、任ずる人物にかかっており、よく考察しなければならない。私はひそかに朝廷が軽率に人選することを恐れるので、あえて愚かな考えを尽くして、聖なる思慮を広げたい。

黄龍三年、建昌侯の孫慮が鎮軍大将軍となり、半州に駐屯し、胡綜を長史とし、外では諸事を掌り、内では書籍を教授した。孫慮が死去すると、胡綜は賊曹尚書を代行し、尚書 僕射 ぼくや に昇進した。当時、公孫淵が降伏してまた反逆したため、孫権は大いに怒り、自ら親征しようとした。胡綜が上疏して諫めて言った。

帝王というものは、万国の元首であり、天下の命運がかかっている。それゆえ、平時には重門を閉ざし柝を打って不測の事態に備え、外出時には道を清め節度を整えて威厳を養う。これは万全の福を保ち、四海の人心を鎮めるためである。昔、孔子は時勢を憂えて、筏に乗って海に浮かぶという言葉を仮託したが、子路はそれを喜び、材木がないことを理由に拒んだ。漢の元帝が楼船に乗ろうとした時、薛広徳は首を刎ねて血で車を染めると請願した。なぜか?水や火の危険は極めて危険であり、帝王が関わるべきではないからである。諺に言う:『千金の子は、堂の端に座らず。』ましてや万乗の尊き身であろうか?今、遼東の戎貊の小国は、城壁の堅固さもなく、防御の術もなく、武器は鈍く、犬や羊のように政治がなく、行けば必ず捕らえ勝利できることは、確かに 詔 の通りである。しかしその土地は寒冷で痩せており、穀物は育たず、民は鞍馬に慣れ、移住して定住しない。突然大軍が来ると聞けば、自分では敵わないと判断し、鳥が驚き獣が駆けるように、長駆して逃げ散り、一人の兵も一匹の馬も見つけられない。たとえ空地を獲得しても、守っても益はなく、これが一つの不可である。加えて大河が広々と流れ、成山の難所があり、海上航行は定まらず、風波は避けられず、瞬く間に人と船は別々の状況になる。堯や舜の徳があっても、智を施す場所がなく、孟賁や夏育の勇があっても、力を発揮する場がない。これが二つの不可である。さらに濃霧が上を覆い、塩水が下から蒸し、腫れ物が生じ、互いに伝染する。海を行く者は、まれにこの患いがない者はない。これが三つの不可である。天は神聖を生み、符瑞をもって顕示し、平らかに喪乱に乗じ、この民と万物を安んずべきである。嘉祥が日々集まり、海内は安定に向かい、逆賊の凶暴な虐待は、滅亡が目前にある。中国が一旦平定されれば、遼東は自ら滅びる。ただ拱手して待つだけでよい。今、必然の計画に背き、極めて危険な障害を求め、九州の堅固さを軽んじ、一時の憤りをほしいままにするのは、既に国家の重要な計略ではなく、また天地開闢以来かつてなかったことであり、これはまさに群臣が身をかがめ息をひそめ、食事も美味しくなく、寝ても安らかでない理由である。どうか陛下には雷霆の威を抑え、激しい怒りを忍び、橋を渡る安泰に従い、氷を踏む危険を遠ざけられれば、臣下は福を頼り、天下は大いに幸いである。

当時、群臣の多くが諫めたため、孫権は遂に行かなかった。

正月乙未、孫権は胡綜に命じて、祝祷の文に常套文句を用いてはならないとした。胡綜は 詔 を受け、ついに文義を創造し、言葉は誠実で鮮やかであった。孫権は言った:「もう一度両端を作れ。三つ満たすように。」胡綜は再び祝祷を二度作り、言葉はすべて新しく、皆が称賛した。赤烏三年、選曹尚書に転任した。五年、太子少傅となり、選挙の職務は以前のまま兼任した。〈『呉書』によると、後に孫権は胡綜に紫綬の袋を賜ったが、胡綜は紫色は身に着けるのにふさわしくないと辞退した。孫権は言った:「太子は年少で、道を歩み始めたばかりである。君は文をもって博く教え、礼をもって約すべきである。茅土の封は、君以外に誰がふさわしいだろうか?」この時、胡綜は名儒として師傅の位にあり、なお選挙を兼ね、非常に優遇され重んじられた。〉六年の春、死去した。著した詩賦や論難は数万言に及び、『私載』と名付け、また『五宗図述』『二京解』を定め、いずれも世に伝わった。

子の胡珝は、威南将軍まで昇進し、交阯征討から帰還する途中、病気で死去した。〈『漢 しん 春秋』によると、孫休の時代、胡珝は五宮中郎将となり、蜀に遣わされて馬を求めた。帰還すると、孫休が蜀の政治の得失を尋ねた。胡珝は答えて言った:「主君は暗愚で自分の過ちを知らず、臣下は身を保って罪を免れようとし、その朝廷に入っても正しい言葉を聞かず、その野を行けば民は皆菜色である。私が聞くところでは、燕雀が堂に巣くい、子と母が楽しみ合い、自ら安泰だと思っているが、煙突が壊れ棟が燃えても、燕雀は平然として災いが迫っていることを知らない。まさにこのことを言うのでしょう!」〉

胡珝の弟の胡瑩は、字を道言といい、初め秘府中書郎となり、孫休が即位すると、散騎 中常侍 となった。数年後、病気で官を辞した。孫皓の初め、左執法となり、選曹尚書に昇進し、太子が立てられると、また少傅を兼任した。建衡三年、孫皓は胡瑩の父である胡綜の遺文を追慕して嘆き、かつ胡瑩に継いで作るよう命じた。胡瑩が詩を献上して言った。

私の祖先は、かつて漢に仕え、代々連綿と続き、かなり台閣に携わってきました。私の父の綜の時代には、時勢の難に遭い、劉氏(卯金)が統御を失い、国家は破壊され混乱しました。この楽土に至り、わずかに生き残りを保ち、天がその心を開き、東南の地に帰属することとなりました。初めは流民の身分で、辺境の地に困窮していましたが、大皇帝(孫権)が基業を開き、恩徳を遠くまで施されました。特に招きの命を蒙り、泥濘から救い上げられ、庶民の衣服から解放され、官職と符節を授かりました。合浦の太守として赴任し、海の隅にありましたが、都に召し出され、遂に枢機の職に昇進しました。枯れ衰えたものが再び栄え、絶えた家系が再び継がれ、微賤から顕赫へと至りましたが、これは元々望んでいたことではありませんでした。また、寵遇を受けるにつれ、心は満足し足ることを知りました。重ねて文皇帝(孫和)に値遇し、東宮が建てられると、少傅となり、光栄はますます盛んになりました。聡明な皇太子は、至高の徳と謙虚さを尊び、礼遇を加えられ、厚く豊かでした。哀れな先臣(父の薛綜)は、その忠を尽くすことを念じていましたが、大恩に報いることなく、世を去りました。嘆かわしいことに、私のような卑賤な者、兄弟ともに、幸いにも生まれ育ち、父綜の遺体を託されました。父の教えを受けましたが、頑なで愚かであり、啓発されることは困難でした。家業を継ぐこともできず、田を耕すことだけを志していました。どうして聖なる朝廷が、仁沢を流れ溢れさせ、先臣の功績を追録し、その未達成を哀れみ、救い上げ、抜擢し、特別な栄誉を授けてくださることを悟ることができたでしょうか。私は千里の地を辱うけ、南征の命を受け、旌旗や器物を整え、軍楽の音を響かせました。そして私のような卑陋な者、実に暗愚で微賤な者が、先人の軌跡を顕彰し、人物評価の機会を得ました。さらに東宮の傅となり、代々の輝きを継ぎましたが、才能は先人に及ばず、これもまた辱めであり、背くことです。陛下の広大な徳は博く善を好まれ、文雅を貴ばれ、亡き臣を追悼され、その遺族を存続させようとされます。どうしてこの愚かな子孫が、少しも似ていないのでしょうか!あの昔の寵愛を仰ぎ見、この頑なで空虚な自分を顧みて、誰が恥を忍ぶことができましょうか、私こそがそれと共に生きているのです。朝夕寝返りを打ち、心を砕いて自らを省みます。父子兄弟、累世にわたって恩寵を蒙り、死しては結草して報い、生きては身を殺して誓います。たとえ灰となり滅びても、万分の一にも報いることはできません。

この年、何定が聖谿を開鑿して長江と淮水を結ぶことを提案し、孫皓は薛瑩に命じて一万人を監督して行かせたが、多くの盤石があって工事が困難であったため、中止して帰還し、武昌左部督に左遷された。後に何定が誅殺されると、孫皓は聖谿の件を追及し、薛瑩を投獄し、広州に流した。右国史の華覈が上疏して言った。

臣は聞きます。五帝三王はいずれも史官を立て、功績や美事を記録し、後世に伝えました。漢の時代には司馬遷や班固がおり、いずれも世に名高い大才で、その撰述は精妙であり、六経とともに伝わっています。大呉が天命を受け、南方に建国しました。大皇帝(孫権)の末年、太史令の丁孚と郎中の項峻に命じて『呉書』の撰述を始めさせました。しかし、丁孚と項峻はともに史才に欠け、その撰述は記録に値するものではありませんでした。少帝(孫亮)の時代になると、韋曜、周昭、薛瑩、梁広および臣の五人が選ばれ、往事を訪ね求め、共同で撰述に当たり、事の本末を備えました。周昭と梁広は先に亡くなり、韋曜は恩に背き罪を犯し、薛瑩は将軍として出向し、さらに過失で流罪となり、その書は遂に放置され、今に至るも奏上されていません。臣は愚かで才能劣り、せいぜい薛瑩らの記録を注記する程度であり、もし撰述を統合させれば、必ずや丁孚や項峻の轍を踏み、大皇帝の偉大な功績を墜とし、当代の盛美を損なうことを恐れます。薛瑩は学問が広博であり、文章は特に優れ、同僚の中でも薛瑩が筆頭です。今、官吏を見るに、経学に通じた者は多いですが、記述の才能において薛瑩のような者は少なく、心から国のために惜しんでいます。実に、完成間近の功績を、前史の末尾に編纂して後世に伝えたいのです。奏上した後は、溝壑に埋もれても、何の遺恨もありません。

孫皓は遂に薛瑩を召還し、左国史とした。ほどなく、選曹尚書で同郡の繆禕が、自らの意志を貫いて譲らなかったため、小人たちに憎まれ、衡陽太守に左遷された。任に就いた後、さらに職務上のことで詰問責められ、上表して陳謝した。その際、薛瑩を訪ねたことがまた人に告発され、繆禕は罪を恐れず、多くの賓客を引き連れて薛瑩のもとに会合したと言われたため、繆禕を捕らえて投獄し、桂陽に流し、薛瑩は広州に戻された。広州に着く前に、薛瑩は召還され、復職した。この時、法令や政治に多くの誤りがあり、施策は煩雑で苛酷であった。薛瑩はたびたび適切な建議を上奏し、刑罰を緩め、労役を簡素化して、民衆を救済し養育することを陳べ、その事柄のいくつかは施行された。光禄勲に昇進した。

天紀四年、督軍が孫皓を征討すると、孫皓は司馬伷、王渾、王濬に降伏を請う文書を奉ったが、その文章は薛瑩が作成したものであった。薛瑩が 洛陽 に到着すると、特に先んじて叙任され、 散騎常侍 さんきじょうじ となった。質問への応答や事柄の処理は、すべて条理整然としていた。(干宝の『晋紀』によると、武帝(司馬炎)がゆったりと薛瑩に尋ねた。「孫皓が滅びた理由は何か。」薛瑩は答えた。「帰命侯たる臣皓が呉を治めた時、小人に近づき、刑罰を妄りに加え、大臣や大将軍を親信せず、人はみな憂い恐れ、各自が自らの保身に努め、危亡の兆しは、実にこれに由来します。」帝はさらに、呉の士で存命している者の賢愚について尋ね、薛瑩はそれぞれの状況に応じて答えた。)太康三年に死去した。著書八篇があり、『新議』と名付けられた。(王隠の『晋書』によると、薛瑩の子の薛兼は、字を令長といい、清らかで素朴であり器量が大きく、資質や声望はかつての大国のようで、呉の人とは似ていなかった。二宮(太子宮と魯王宮)の丞相長史を歴任した。元帝( 司馬睿 しばえい )が即位すると、累進して丹楊尹、尚書となり、また太子少傅となった。薛綜から薛兼まで、三代にわたって東宮の傅を務めた。)

評するに、張紘は文章の筋道が正しく、世の優れた人物であり、孫策が彼を張昭に次いで遇したのは、確かに理由がある。厳畯、程秉、闞沢の生は、一時の儒林である。薛綜に至っては、栄誉を辞して旧友を救済したのは、まさに長者の行いではないか。薛綜は学識と規諫に優れ、呉の良臣であった。そして薛瑩がその跡を継いだのは、確かに先人の風があり、しかし暴虐で残酷な朝廷において、たびたび顕職に登ったことについて、君子は危ぶむであろう。

この作品は全世界において公有領域に属します。なぜなら、作者の没後100年以上が経過し、かつ作品は1931年1月1日以前に出版されたからです。