三国志

吳書六 宗室傳 孫靜子:瑜 皎 奐 孫贲 孫輔 孫翊 孫匡 孫韶 孫桓

孫静は字を幼臺といい、孫堅の末弟である。孫堅が挙兵した当初、孫静は郷里や宗族の者五六百人を糾合して守りを固め、人々は皆これに従った。孫策が劉繇を破り、諸県を平定した。会稽を攻撃するにあたり、人を遣わして孫静を招くと、孫静は家族を率いて孫策と銭唐で合流した。この時、太守の王朗が固陵で孫策を防ぎ、孫策は何度も川を渡って戦ったが、攻略できなかった。孫静は孫策に進言した。「王朗は城の守りを頼みにしていて、急には落とせません。査瀆はここから南へ数十里のところにあり、〈査の音は祖加の反切。〉道の要衝です。あちらから中に入り込んで占拠すべきです。いわゆる『備えなきを攻め、意表に出る』というものです。私が自ら兵を率いて軍の先鋒となりましょう。必ず破れます。」孫策は「よかろう」と言った。そこで軍中に偽りの命令を下した。「近頃雨が続いて水が濁り、兵士が飲むと腹痛を起こす者が多い。急いで数百個の甕や壺を用意して水を澄ませよ。」日が暮れると、火を焚いて王朗を欺き、すぐに軍を分けて夜陰に乗じて査瀆道に向かい、高遷屯を襲撃した。〈臣松之が調べたところ、今の永興県に高遷橋がある。〉王朗は大いに驚いた。元丹楊太守の周昕らを派遣して兵を率いて前進させ戦わせた。孫策は周昕らを破り、これを斬り、ついに会稽を平定した。〈『会稽典録』によると、周昕は字を大明という。若くして都に遊学し、太傅の陳蕃に師事し、広く書物を読み、風角に明るく、災異の推測を得意とした。太尉府に召され、高い成績で推挙され、やがて丹楊太守に昇進した。曹操が義兵を起こすと、周昕は前後して一万余りの兵を派遣して曹操の征伐を助けた。袁術が淮南にいた時、周昕はその淫虐を憎み、一切通交を断った。『献帝春秋』によると、袁術が呉景を派遣して周昕を攻めたが、落とせなかったので、呉景は「周昕に従う百姓は赦さずに死罪とする」と布告した。周昕は「私に徳がなければともかく、百姓に何の罪があろうか」と言い、兵を解散させて本郡に帰った。〉孫策は上表して孫静を奮武校尉こういに任命し、重任を任せようとしたが、孫静は祖先の墓や宗族を恋しがり、官職に就くことを好まず、留まって鎮守することを求めた。孫策はこれに従った。孫権が政務を統括すると、そのまま昭義中郎将に昇進し、家で亡くなった。五人の子がいた。孫暠、孫瑜、孫皎、孫奐、孫謙である。孫暠には三人の子がいた。孫綽、孫超、孫恭である。孫超は偏将軍となった。孫恭の子が孫峻である。孫綽の子が孫綝である。

原文孫靜字幼臺,堅季弟也。堅始舉事,靜糾合鄉曲及宗室五六百人以為保障,眾咸附焉。策破劉繇,定諸縣。進攻會稽,遣人請靜,靜將家屬與策會於錢唐。是時太守王朗拒策於固陵,策數渡水戰,不能克。靜說策曰:「朗負阻城守,難可卒拔。查瀆南去此數十里,〈查音祖加反。〉而道之要徑也,宜從彼據其內,所謂攻其無備、出其不意者也。吾當自帥眾為軍前隊,破之必矣。」策曰:「善。」乃詐令軍中曰:「頃連雨水濁,兵飲之多腹痛,令促具罌缶數百口澄水。」至昏暮,羅以然火誑朗,便分軍夜投查瀆道,襲高遷屯。〈臣松之案:今永興縣有高遷橋。〉朗大驚。遣故丹楊太守周昕等帥兵前戰。策破昕等,斬之,遂定會稽。〈《會稽典錄》曰:昕字大明。少游京師,師事太傅陳蕃,博覽群書,明於風角,善推災異。辟太尉府,舉高第,稍遷丹楊太守。曹公起義兵,昕前後遣兵萬餘人助公征伐。袁術之在淮南也,昕惡其淫虐,絕不與通。《獻帝春秋》曰:袁術遣吳景攻昕,未拔,景乃募百姓敢從周昕者死不赦。昕曰:「我則不德,百姓何罪?」遂散兵,還本郡。〉表拜靜為奮武校尉,欲授之重任,靜戀墳墓宗族,不樂出仕,求留鎮守。策從之。權統事,就遷昭義中郎將,終於家。有五子,暠、瑜、皎、奐、謙。暠三子:綽、超、恭。超為偏將軍。恭生峻。綽生綝。

孫瑜は字を仲異といい、恭義校尉として初めて兵士を率いた。この時、賓客や諸将の多くは江西の出身者であり、孫瑜は虚心に慰撫し、彼らの歓心を得た。建安九年、丹楊太守を兼任し、人々に慕われ、一万余人にまでなった。綏遠将軍を加えられた。十一年、周瑜と共に麻屯・保屯の二つの屯を討伐し、これを破った。後に孫権に従って濡須で曹操を防ぎ、孫権が交戦しようとした時、孫瑜は慎重を期すよう孫権に説いたが、孫権は聞き入れず、軍は果たして功績を挙げられなかった。奮威将軍に昇進し、太守としての兼任は変わらず、溧陽から牛渚に駐屯地を移した。孫瑜は永安出身の饒助を襄安県長に、無錫出身の顔連を居巣県長に任じ、廬江郡の二県を招き寄せて降伏・帰附させた。済陰出身の馬普は学問を篤く好み古事を愛したので、孫瑜は手厚く礼遇し、二つの府の将吏の子弟数百人に就学させ、学官を設置し、自ら臨んで講義と学習を行わせた。この時、諸将は皆軍務に専念していたが、孫瑜は経典を好み、軍旅の中にあっても読書の声が絶えなかった。三十九歳、建安二十年に死去した。孫瑜には五人の子がいた。孫弥、孫熙、孫耀、孫曼、孫紘である。孫曼は将軍にまでなり、侯に封じられた。

原文瑜字仲異,以恭義校尉始領兵眾。是時賓客諸將多江西人,瑜虛心綏撫,得其歡心。建安九年,領丹楊太守,為眾所附,至萬餘人。加綏遠將軍。十一年,與周瑜共討麻、保二屯,破之。後從權拒曹公於濡須,權欲交戰,瑜說權持重,權不從,軍果無功。遷奮威將軍,領郡如故,自溧陽徙屯牛渚。瑜以永安人饒助為襄安長,無錫人顏連為居巢長,使招納廬江二郡,各得降附。濟陰人馬普篤學好古,瑜厚禮之,使二府將吏子弟數百人就受業,遂立學官,臨饗講肄。是時諸將皆以軍務為事,而瑜好樂墳典,雖在戎旅,誦聲不絕。年三十九,建安二十年卒。瑜五子:彌、熙、耀、曼、紘。曼至將軍,封侯。

孫皎は字を叔朗といい、初め護軍校尉に任命され、二千余りの兵士を率いた。この時、曹操はたびたび濡須に出撃したが、孫皎は毎回これに赴いて防ぎ、精鋭と称された。都護・征虜将軍に昇進し、程普に代わって夏口を督した。黄蓋と兄の孫瑜が死去すると、その軍勢も併せて統率した。沙羨・雲杜・南新市・竟陵を賜り、奉邑とした。自ら長吏を任命した。財を軽んじて施しを好み、交際を得意とし、諸葛瑾とは非常に親密であった。廬江の劉靖には得失を、江夏の李允には民衆の事を、広陵の呉碩と河南の張梁には軍旅の事を任せ、心を傾けて親しく待遇したので、彼らは力を尽くさない者はなかった。孫皎がかつて斥候の兵を派遣して捕らえた魏の辺境の将吏の美女を孫皎に献上したことがあったが、孫皎は彼女の衣服を着替えさせて送り返し、命令を下した。「今誅するべきは曹氏であって、その百姓に何の罪があろうか。今後は、老人や弱者を攻撃してはならない。」これにより、江淮の間で孫皎に帰附する者が多かった。

原文孫皎字叔朗,始拜護軍校尉,領眾二千餘人。是時曹公數出濡須,皎每赴拒,號為精銳。遷都護征虜將軍,代程普督夏口。黃蓋及兄瑜卒,又並其軍。賜沙羨、雲杜、南新市、竟陵為奉邑。自置長吏。輕財能施,善於交結,與諸葛瑾至厚。委廬江劉靖以得失,江夏李允以眾事,廣陵吳碩、河南張梁以軍旅,而傾心親待,莫不自盡。皎嘗遣兵候獲魏邊將吏美女以進皎,皎更其衣服送還之,下令曰:「今所誅者曹氏,其百姓何罪?自今以往,不得擊其老弱。」由是江淮間多歸附者。

かつて些細なことで甘寧と激しく争ったことがあり、ある人が甘寧を諫めると、甘寧は言った。「臣下と子は同じ扱いだ。征虜将軍(孫皎)は公子であっても、どうして勝手に人を侮辱していいものか。私は明主に仕えているのだから、ただ力を尽くし命を捧げて、天(主君)に報いるべきであり、本当に世俗に従って道理を曲げることはできない。」孫権はこれを聞き、手紙を送って孫皎を責めた。

原文嘗以小故與甘寧忿爭,或以諫寧,寧曰:「臣子一例,征虜雖公子,何可專行侮人邪!吾值明主,但當輸效力命,以報所天,誠不能隨俗屈典矣。」權聞之,以書讓皎曰:

私が北方と敵対して以来、十年が経った。初めに対峙した時はまだ若かったが、今では三十に近づいている。孔子は『三十にして立つ』と言ったが、それは五経の学問だけを指すのではない。卿に精兵を授け、大任を委ね、千里の外で諸将を都護させたのは、楚が昭奚恤を任用して北境に威を揚げさせたようにさせたいためだ。ただ私的な思いを遂げさせるためではない。近頃聞くところによると、卿は甘興霸は(甘寧)と酒を飲み、酒の勢いで発作的に、彼を侵害し陵辱したという。彼は呂蒙の督の中に所属することを求めた。この人物は確かに粗野で豪快であり、時に人意に沿わないところもあるが、その概略は大丈夫である。私が彼を親しくするのは、私情によるものではない。私が親愛する者を、卿は疎んじ憎む。卿の行いはしばしば私と食い違う。これで長くやっていけるだろうか。敬虔な心を持ちながら行いは簡素であれば、民を治めることができる。人を愛し多くを受け入れれば、衆を得ることができる。この二つさえまだ理解できないのに、どうして遠方で督として任に当たり、敵を防ぎ難を救うことができようか。卿は成長し、特に重任を受けた。上には遠方から見守る目があり、下には部曲が朝夕に事に従っている。どうして気ままに激怒することができようか。誰に過ちがないというのか、貴いのは改められることだ。以前の過ちを悔い、深く自らを責めるべきである。今、わざわざ諸葛子瑜(諸葛瑾)に重ねて私の意を伝えさせる。手紙を前にして心は打ちひしがれ、悲しみの涙が流れる。

原文自吾與北方為敵,中間十年,初時相持年小,今者且三十矣。孔子言「三十而立」,非但謂五經也。授卿以精兵,委卿以大任,都護諸將於千里之外,欲使如楚任昭奚恤,揚威於北境。非徒相使逞私志而已。近聞卿與甘興霸飲,因酒發作,侵陵其人,其人求屬呂蒙督中。此人雖粗豪,有不如人意時,然其較略大丈夫也。吾親之者,非私之也。我親愛之,卿疏憎之。卿所為每與吾違,其可久乎?夫居敬而行簡,可以臨民;愛人多容,可以得眾。二者尚不能知,安可董督在遠,禦寇濟難乎?卿行長大,特受重任,上有遠方瞻望之視,下有部曲朝夕從事,何可恣意有盛怒邪?人誰無過,貴其能改,宜追前愆,深自咎責。今故煩諸葛子瑜重宣吾意。臨書摧愴,心悲淚下。

孫皎は手紙を受け取り、上疏して陳謝し、ついに甘寧と厚く結んだ。後に呂蒙が南郡を襲撃することになった時、孫権は孫皎と呂蒙を左右の部の大督としようとした。呂蒙が孫権に説いた。「もし至尊(孫権)が征虜将軍(孫皎)に能力があるとお考えなら、彼をお使いください。私に能力があるとお考えなら、私をお使いください。昔、周瑜と程普が左右部督となり、共に江陵を攻めた時、事は周瑜によって決せられたが、程普は古参の将軍としての自負から、共に督であるにもかかわらず、遂に不和になり、国の大事を危うくしそうになりました。これは眼前の戒めです。」孫権は悟り、呂蒙に謝って言った。「卿を大督とし、孫皎には後続を命じよう。」関羽を捕らえ、荊州を平定したのは、孫皎の力によるものがあった。建安二十四年に死去した。孫権はその功績を追録し、子の孫胤を丹楊侯に封じた。孫胤が死去し、子がなかった。弟の孫晞が後を継いだ。兵を率いたが、罪を犯して自殺し、封国は除かれた。弟の孫咨、孫弥、孫儀は皆、将軍となり、侯に封じられた。孫咨は羽林督、孫儀は無難督となった。孫咨は滕胤に殺され、孫儀は孫峻に害された。

原文皎得書,上疏陳謝,遂與寧結厚。後呂蒙當襲南郡,權欲令皎與蒙為左右部大督。蒙說權曰:「若至尊以征虜能,宜用之。以蒙能,宜用蒙。昔周瑜、程普為左右部督,共攻匯陵,雖事決於瑜,普自恃久將,且俱是督,遂共不睦,幾敗國事,此目前之戒也。」權寤,謝蒙曰:「以卿為大督,命皎為後繼。」禽關羽,定荊州,皖有力焉。建安二十四年卒。權追錄其功,封子胤為丹楊侯。胤卒,無子。弟晞嗣。領兵,有罪自殺,國除。弟咨、彌、儀,皆將軍,封侯。咨羽林督,儀無難督。咨為滕胤所殺,儀為孫峻所害。

孫奐は字を季明といった。兄の孫皎が死去すると、その配下を引き継ぎ、揚武中郎将として江夏太守を兼任した。在任一年の間、孫皎のやり方を踏襲し、劉靖、李允、吳碩、張梁および江夏の閭挙らを礼遇し、彼らの良き意見を採用した。孫奐は慌ただしい場面では口数が少なかったが、職務には敏速で、軍民から称賛された。黄武五年、孫権が石陽を攻撃した際、孫奐はその地の責任者として、配下の将軍鮮于丹に五千の兵を率いさせて先に淮水の道を遮断させた。自らは吳碩、張梁と五千の兵を率いて軍の先鋒となり、高城を降伏させ、三人の将を捕らえた。大軍が引き揚げる際、孫権は詔を下して孫奐を先頭に留まらせ、自らの車駕がその軍の前を通ると、孫奐の軍の陣容が整然としているのを見て、孫権は嘆じて言った。「最初は彼の鈍重さを心配していたが、今、軍を統率する様子を見ると、諸将の中で彼に及ぶ者はほとんどいない。もはや心配はない。」揚威将軍に任じられ、沙羨侯に封じられた。吳碩、張梁はいずれも裨将軍となり、関内侯の爵位を賜った。(『江表伝』に曰く、初め孫権は武昌に在り、建業に都を戻そうとしたが、水路が上流へ二千里あり、一朝警報があれば互いに救援に赴けないことを慮り、これによって疑念を抱いた。夏口に至ると、塢中で百官を大いに集めてこれを議し、詔して曰く、「諸将吏は官位や任務に拘らず、計略のある者は国のために述べよ」と。諸将はあるいは夏口に柵を立てるのがよいと述べ、あるいは鉄鎖を重ねて設けるのがよいと言ったが、孫権はいずれも良計でないとした。時に張梁は小将で、まだ名を知られていなかったが、席を越えて進み出て曰く、「臣は聞きますに、香餌は泉の魚を引き、重い幣は勇士を募ると。今は明らかに賞罰の信を示し、将を沔水に入れて敵と利を争わせ、形勢が既に成れば、彼らは敢えて干渉してこないでしょう。武昌に精兵一万人を置き、智略ある者に将として任せ、常に厳整にさせておけば、一朝警報があれば声に応じて赴きます。甘水城を築き、軽艦数千、諸々の必要なものをすべて備えさせれば、このように門を開いて敵を招いても、敵は自ら来ないでしょう」と。孫権は張梁の計を最も得たとし、即座に張梁の位を超えて上げた。後にしだいに功によって沔中督に進んだ。)

原文孫奐字季明。兄皎既卒,代統其眾,以揚武中郎將領江夏太守。在事一年,遵皎舊跡,禮劉靖、李允、吳碩、張梁及江夏閭舉等,並納其善。奐訥於造次而敏於當宮,軍民稱之。黃武五年,權攻石陽,奐以地主,使所部將軍鮮于丹帥五千人先斷淮道。自帥吳碩、張梁五千人為軍前鋒,降高城,得三將。大軍引還,權詔使在前住,駕過其軍,見奐軍陳整齊,權歎曰:「初吾憂其遲鈍,今治軍,諸將少能及者,吾無憂矣。」拜揚威將軍,封沙羨侯。吳碩、張梁皆裨將軍,賜爵關內侯。〈《江表傳》曰:初權在武昌,欲還都建業,而慮水道溯流二千里,一旦有警,不相赴及,以此懷疑。及至夏口,於塢中大會百官議之,詔曰:「諸將吏勿拘位任,其有計者,為國言之。」諸將或陳宜立柵柵夏口,或言宜重設鐵鎖者,權皆以為非計。時梁為小將,未有知名,乃越席而進曰:「臣聞香餌引泉魚,重幣購勇士,今宜明樹賞罰之信,遣將入沔,與敵爭利,形勢既成,彼不敢干也。使武昌有精兵萬人,付智略者任將,常使嚴整。一旦有警,應聲相赴。作甘水城,輕艦數千,諸所宜用,皆使備具。如此開門延敵,敵自不來矣。」權以梁計為最得,即超增梁位。後稍以功進至沔中督。〉

孫奐はまた儒生を愛し、配下の子弟に学業につかせ、後に朝廷に仕えて進んだ者は数十人にのぼった。四十歳で、嘉禾三年に死去した。子の孫承が後を継ぎ、昭武中郎将として兵を引き継ぎ、郡の統治を兼任した。赤烏六年に死去し、子がなかったため、孫承の庶弟の孫壹に孫奐の祭祀を継がせ、将軍としての家業を襲わせた。孫峻が諸葛恪を誅殺した時、孫壹は全熙、施績とともに諸葛恪の弟で公安督の諸葛融を攻撃し、諸葛融は自殺した。孫壹は鎮南将軍から鎮軍将軍に転じ、仮節を与えられ夏口を都督ととくした。孫綝が滕胤、呂據を誅殺した時、呂據と滕胤はともに孫壹の妹婿であった。孫壹の弟の孫封はまた滕胤と呂據の謀議を知り、自殺した。孫綝は朱異を遣わして密かに孫壹を襲撃させた。朱異が武昌に到着すると、孫壹は自分を攻撃しようとしていることを知り、配下一千余家を率いて滕胤の妻を連れて魏に奔った。魏は孫壹を車騎将軍、儀同三司とし、呉侯に封じ、かつての主君である斉王芳の貴人邢氏を妻として与えた。邢氏は美しいが嫉妬深く、下々はその命令に耐えられず、ついに共謀して孫壹と邢氏を殺害した。孫壹が魏に入ってから三年で死んだ。

原文奐亦愛樂儒生,覆命部曲子弟就業,後仕進朝廷者數十人。年四十,嘉禾三年卒。子承嗣,以昭武中郎將代統兵,領郡。赤烏六年卒,無子,封承庶弟壹奉奐後,襲業為將。孫峻之誅諸葛恪也,壹與全熙、施績攻恪弟公安督融,融自殺。壹從鎮南遷鎮軍,假節督夏口。及孫綝誅滕胤、呂據,據、胤皆壹皆之妹夫也,壹弟封又知胤、據謀,自殺。綝遣朱異潛襲壹。異至武昌,壹知其攻己,率部曲千餘口過將胤妻奔魏。魏以壹為車騎將軍、儀同三司,封吳侯,以故主芳貴人邢氏妻子。邢美色妒忌,下不堪命,遂共殺壹及邢氏。壹入魏三年死。

孫賁は字を伯陽といった。父の孫羌は字を聖〔臺〕といい、孫堅の同母兄である。孫賁は早くに両親を失い、弟の孫輔は幼かったが、孫賁が自ら養育し、兄弟愛は非常に篤かった。郡の督郵・守長を務めた。孫堅が長沙で義兵を挙げると、孫賁は官吏の職を離れて従軍した。孫堅が没すると、孫賁は残った兵を率いて、霊柩を護送した。後に袁術が寿春に移ると、孫賁はまた彼に身を寄せた。袁術の従兄の袁紹が会稽の周昂を九江太守に任用したが、袁紹と袁術は不仲であったため、袁術は孫賁を派遣して陰陵で周昂を撃破させた。袁術は孫賁を豫よ州刺史に上表し、転じて丹楊都尉、行征虜将軍とし、山越を討伐平定させた。揚州刺史劉繇に追い詰められ、兵士たちを率いて歴陽に戻って駐屯した。しばらくして、袁術は再び孫賁と呉景に樊能、張英らを共同で攻撃させたが、攻略できなかった。孫策が東に渡江すると、孫賁と呉景を助けて張英、樊能らを撃破し、ついで劉繇を攻撃した。劉繇は豫章に逃れた。孫策は孫賁と呉景を寿春に戻らせて袁術に報告させたが、ちょうど袁術が帝位を僭称し、百官を任命していた時であった。孫賁を九江太守に任命したが、孫賁は就任せず、妻子を捨てて江南に戻った。その時、孫策はすでに呉郡、会稽郡を平定しており、孫賁は孫策とともに廬江太守劉勳、江夏太守黄祖を征討し、軍が帰還する途中、劉繇が病死したと聞き、豫章を平定するために立ち寄り、孫賁を太守に推薦して上奏した。後に都亭侯に封じられた。建安十三年、使者の劉隠が詔を奉じて孫賁を征虜将軍に任命し、太守の職は以前の通り兼任させた。在官十一年で死去した。子の孫鄰が後を継いだ。(『江表伝』に曰く、袁術は呉景に広陵を守らせ、孫策の族兄の孫香もまた袁術に用いられて汝南太守となり、孫賁を将軍として寿春で兵を率いさせた。孫策は呉景らに書を送って言った。「今、江東を征するが、諸君の意向はどうか。」呉景はすぐに守を棄てて帰り、孫賁は追い詰められてからようやく免れ、孫香は道が遠いため独り帰れなかった。『呉書』に曰く、孫香は字を文陽といい、父の孫孺は字を仲孺といい、孫堅の再従弟で、郡の主簿・功曹を務めた。孫香は孫堅に従って征伐し功があり、郎中に任じられた。後に袁術のために奔走し、征南将軍を加えられ、寿春で死んだ。『江表伝』に曰く、当時丹楊の僮芝が自ら廬陵太守を名乗っており、孫策は孫賁の弟の孫輔を留めて南昌に駐屯させ、孫策は孫賁に言った。「兄は今豫章を拠っており、これで僮芝の咽喉を扼しその門戸を守ることになる。ただその隙を伺い、国儀(孫輔)に兵を進めさせ、公瑾(周瑜)に勢援とならせれば、一挙に平定できる。」後に孫賁は僮芝が病んだと聞き、すぐに孫策の計に従った。周瑜が巴丘に到着すると、孫輔はついに進んで廬陵を占拠した。)

原文孫賁字伯陽;父羌字聖〔臺〕,堅同產兄也,賁早失二親,弟輔嬰孩,賁自贍育,友愛甚篤。為郡督郵守長。堅於長沙舉義兵,賁去吏從征伐。堅薨,賁攝帥餘眾,扶送靈柩。後袁術徙壽春,賁又依之。術從兄紹用會稽周昂為九江太守,紹與術不協,術遣賁攻破昂於陰陵。術表賁領豫州刺史,轉丹楊都尉,行征虜將軍,討平山越。為楊州刺史劉繇所迫逐,因將士眾還住歷陽。頃之,術復使賁與吳景共擊樊能、張英等,未能拔。及策東渡,助賁、景破英、能等,遂進擊劉繇。繇走豫章。策遣賁、景還壽春報術,值術僭號,署置百官。除賁九江太守。賁不就,棄妻孥還江南。〈《江表傳》曰:袁術以吳景守廣陵,策族兄香亦為術所用,作汝南太守,而令賁為將軍,領兵在壽春。策與景等書曰:「今征江東,未知二三君意云何耳?」景即棄守歸,賁困而後免,香以道遠獨不得還。《吳書》曰:香字文陽。父孺,字仲孺,堅再從弟也,仕郡主簿功曹。香從堅征伐有功,拜郎中。後為袁術驅馳,加征南將軍,死於壽春。〉〉時策已平吳、會二郡,賁與策征廬江太守劉勳、江夏太守黃祖,軍旋,聞繇病死,過定豫章,上賁領太守,〈《江表傳》曰:時丹楊僮芝自署廬陵太守,策留賁弟輔領兵住南昌,策謂賁曰:「兄今據豫章,是扼僮芝咽喉而守其門戶矣。但當伺其形便,因令國儀杖兵而進,使公瑾為作勢援,一舉可定也。」後賁聞芝病,即如策計。周瑜到巴兵,輔遂得進據廬陵。〉〉後封都亭侯。建安十三年,使者劉隱奉詔拜賁為征虜將軍,領郡如故。在官十一年卒。子鄰嗣。

孫鄰が九歳の時、豫章を代行して治め、都郷侯に封ぜられた。郡に在ること約二十年、反乱した賊を討伐平定し、功績を挙げ統治を整えた。武昌に召還され、繞帳督となった。当時、太常の潘濬が荊州の事務を掌り、重安県長の陳留郡出身の舒燮が罪を犯して獄に下されていた。潘濬はかつて舒燮を失脚させ、法に照らして処断しようとした。議論する者たちは多くが弁護の言葉を述べたが、潘濬はなお釈放しなかった。孫鄰は潘濬に言った。「舒伯膺兄弟は互いに死を争い、天下の人はその義を称え、美談としており、仲膺もまた国家の旧恩に報いております。今、あなたがその子弟を殺すならば、もし天下一統となり、天子の青蓋の車が北を巡幸する時、中原の士人たちは必ず仲膺の後継ぎについて尋ねるでしょう。その時、答える者が『潘承明(潘濬)が舒燮を殺した』と言えば、事態はどうなりますか。」潘濬の心はたちまち解け、舒燮は助けられることができた。(『呉書』に曰く、孫鄰は字を公達といい、性情は精敏で、幼い頃から良い評判があった。『博物志』に曰く、仲膺の名は邵。初め、伯膺の親友が人に殺され、仲膺が仇を討った。事が発覚し、兄弟が互いに死を争い、いずれも免れた。袁術の時、邵は阜陵長を務めた。『江表伝』にも見える。『呉歴』に曰く、孫鄰にはまた子の孫述がおり、武昌督・荊州事を平らかにした。孫震は無難督。孫諧は城門校尉。孫歆は楽郷督。孫震は後に晋軍を防ぎ、張悌とともに死んだ。孫賁の曾孫の孫恵は字を徳施といった。『孫恵別伝』に曰く、孫恵は学を好み才智があり、晋の永寧元年、斉王司馬冏の義挙に赴き、功により晋興侯に封じられ、大司馬賊曹属に召された。司馬冏が驕慢で僭侈であったため、天下の人は失望した。孫恵は司馬冏に進言し、五難・四不可を諷し、万機を委ねて青岱の藩に帰るよう勧め、その辞は非常に深切であった。司馬冏は聞き入れず、しばらくして果たして敗れた。成都王司馬穎は孫恵を大将軍参軍に召した。この時、司馬穎は長沙に事を起こそうとし、陸機を前鋒都督とした。孫恵は陸機と同郷で親しく、その災いを招くことを憂え、彼に言った。「都督を王粹に譲ってはどうか。」陸機は言った。「私が賊を避けて首鼠両端だと謂われ、かえって害を速めることになろう。」陸機はまもなく殺され、弟の陸雲・陸耽も殺され、孫恵は非常に傷恨んだ。永興元年、天子が鄴に行幸し、司空東海王司馬越が下邳で兵を治めた。孫恵は書を以て司馬越に干謁し、姓名を偽って南嶽逸民秦祕之と自称し、勤王匡世の略を勉め、辞義は非常に美しかった。司馬越はその書を読み、道の衢に榜題してその人を求めさせた。孫恵はそこで出て会い、司馬越はすぐに記室参軍とし、専ら文疏を掌らせ、参謀議に預からせた。書檄を作るたびに、司馬越が駅馬で催促しても、命に応じて即座に成し、いずれも辞旨があった。累遷して顕職に至り、後に広武将軍・安豊内史となった。年四十七で死んだ。孫恵の文翰は凡そ数十首。)

原文鄰年九歲,代領豫章,近封都鄉侯。〈《吳書》曰:鄰字公達,雅性精敏,幼有令譽。〉在郡垂二十年,討平叛賊,功績修理。召還武昌,為繞帳督。時太常潘浚掌荊州事,重安長陳留舒燮有罪下獄,浚嘗失燮,欲置之於法。論者多為有言,浚猶不釋。鄰謂浚曰:"舒伯膺兄弟爭死,海內義之,以為美談,仲膺又奉國舊意。今君殺其子弟,若天下一統,青蓋北巡,中州士人必問仲膺繼嗣,答者雲潘承明殺燮,於事何如?"浚意即解,燮用得濟。〈《博物志》曰:仲膺名邵。初,伯膺親友為人所殺,仲膺為報怨。事覺,兄弟爭死,皆得免。袁術時,邵為阜陵長。亦見《江表傳》。〉〉鄰遷夏口沔中督、威遠將軍,所居任職。赤烏十二年卒。子苗嗣。苗弟旅及叔父安、熙、績,皆歷列位。〈《吳歷》曰:鄰又有子曰述,為武昌督,平荊州事。震,無難督。諧,城門校尉。歆,樂鄉督。震後御晉軍,與張悌俱死。賁曾孫惠,字德施。《惠別傳》曰:惠好學有才智,晉永寧元年,赴齊王冏義,以功封晉興侯,辟大司馬賊曹屬。冏驕矜僭侈,天下失望。惠獻言於冏,諷以五難、四不可,勸令委讓萬機,歸籓青岱,辭甚深切。冏不能納,頃之果敗。成都王穎召為大將軍參軍。是時穎將有事於長沙,以陸機為前鋒都督。惠與機鄉里親厚,憂其致禍,謂之曰:「子盍讓都督於王粹乎?」機曰:「將謂吾避賊首鼠,更速其害。」機尋被戮,二弟雲、耽亦見殺,惠甚傷恨之。永興元年,乘輿幸鄴,司空東海王越治兵下邳,惠以書干越,詭其姓名,自稱南嶽逸民秦祕之,勉以勤王匡世之略,辭義甚美。越省其書,榜題道衢,招求其人。惠乃出見,越即以為記室參軍,專掌文疏,豫參謀議。每造書檄,越或驛馬催之,應命立成,皆有辭旨。累遷顯職,後為廣武將軍、安豐內史。年四十七卒。惠文翰凡數十首。〉

孫輔は字を国儀といい、孫賁の弟である。揚武校尉として孫策を補佐し三郡を平定した。孫策が丹陽郡七県を討伐した時、孫輔を西の歴陽に駐屯させて袁術を防がせ、併せて残った民衆を招き誘い、散り散りになった者を集めさせた。また孫策に従って陵陽を討伐し、祖郎らを生け捕りにした。孫策が西の廬江太守劉勳を急襲した時、孫輔は従軍し、自ら兵卒の先頭に立ち、功績を挙げた。孫策は孫輔を廬陵太守に任じ、管轄する城邑を鎮撫平定し、長吏を配置した。平南将軍に昇進し、仮節を与えられ交州刺史を兼任した。使者を遣わして曹操と連絡を取ったが、事が発覚し、孫権は彼を幽閉した。数年後に死去した。子の孫興、孫昭、孫偉、孫昕はいずれも様々な官位を歴任した。(『江表伝』に曰く、孫策は江東を平定した後、袁胤を追放した。袁術は孫策を深く怨み、ひそかに間使を遣わして印綬を丹楊の宗帥である陵陽の祖郎らに与え、山越を激動させて大いに衆を合わせ、ともに孫策を攻めようと図った。孫策は自ら将士を率いて祖郎を討ち、生け捕りにした。孫策は祖郎に言った。「お前は昔、私を襲撃し、私の馬鞍を斫った。今、軍を創め事を立てるにあたり、宿恨を除き捨て、ただ能用の者を取るのみで、天下と通じるだけだ。汝だけでなく、汝も恐れるな。」祖郎は叩頭して謝罪した。すぐに械を解き、衣服を賜い、門下賊曹に署した。軍が帰還する時、祖郎は太史慈とともに軍の先導を務め、人々はこれを栄とした。『典略』に曰く、孫輔は孫権が江東を保つことができないと恐れ、孫権が東冶に行った際に、人を遣わして書を携えて曹操を呼んだ。行人がこれを告げ、孫権はそこで戻り、知らないふりをして、張昭とともに孫輔に会い、孫権は孫輔に言った。「兄は楽しみに飽きたのか、なぜ他人を呼ぶのか。」孫輔はそのようなことはないと言った。孫権はそこで書を張昭に投げ与え、張昭が孫輔に示すと、孫輔は恥じて言葉がなかった。そこで孫輔の近親を悉く斬り、その部曲を分け、孫輔を東に徙した。)

原文孫輔字國儀,賁弟也,以揚武校尉佐孫策平三郡。策討丹楊七縣,使輔西屯歷陽以拒袁術,並招誘余民,鳩合遺散。又從策討陵陽,生得祖郎等。〈《江表传》曰:策既平定江东,逐袁胤。袁术深怨策,乃阴遣间使赍印绶与丹杨宗帅陵阳祖郎等,使激动山越,大合众,图共攻策。策自率将士讨郎,生获之。策谓郎曰:“尔昔袭击孤,斫孤马鞍,今创军立事,除弃宿恨,惟取能用,与天下通耳。非但汝,汝莫恐怖。”郎叩头谢罪。即破械,赐衣服,署门下贼曹。及军还,郎与太史慈俱在前导军,人以为荣。〉策西襲廬江太守劉勳,輔隨從,身先士卒,有功。策立輔為廬陵太守,撫定屬城,分置長吏。遷平南將軍,假節領交州刺史。遣使與曹公相聞,事覺,權幽系之。〈《典略》曰:辅恐权不能保守江东,因权出行东冶,乃遣人赍书呼曹公。行人以告,权乃还,伪若不知,与张昭共见辅,权谓辅曰:“兄厌乐邪,何为呼他人?”辅云无是。权因投书与昭,昭示辅,辅惭无辞。乃悉斩辅亲近,分其部曲,徒辅置东。〉數歲卒。子興、昭、偉、昕,皆歷列位。

孫翊は字を叔弼といい、孫権の弟である。勇猛で果断剛烈、兄の孫策の風格があった。太守の朱治が孝廉に推挙し、司空しくうが招聘した。建安八年、偏将軍として丹陽太守を兼任し、その時二十歳であった。後に左右の辺鴻に殺害され、辺鴻も直ちに誅殺された。子の孫松は射声校尉・都郷侯となった。黄龍三年に死去した。蜀しょくの丞相諸葛亮は兄の諸葛瑾に手紙を書いて言った。「既に東朝(呉)の厚遇を受け、子弟のように懇ろにしてもらっている。また子喬(孫松)は優れた器量で、彼のため心を痛めている。彼が亮に与えた器物を見るにつけ、感じ入って涙が流れる。」このように孫松を悼んだのは、諸葛亮の養子の諸葛喬が孫松のことを語ったからである。(『典略』に曰く、孫翊の名は儼といい、性格は孫策に似ていた。孫策が臨終の際、張昭らは孫策が兵を孫儼に属すべきだと言ったが、孫策は孫権を呼び、印綬を佩びさせた。『呉歴』は孫翊の妻徐氏の節行を載せており、妫覧らとの事と相次ぐべきであるため、後に〈孫韶伝〉の中に列ねた。『呉録』に曰く、孫松は人と交わるのを善くし、財を軽んじ施しを好んだ。巴丘を鎮め、しばしば陸遜に得失を咨問した。かつて小さな過ちがあり、陸遜が面と向かって孫松を責めると、孫松は意色穏やかでなかった。陸遜は彼が少し心を解いたのを見て、言った。「君は過ちを聞き入れて私を鄙としないから、しばしば訪ねてくる。それゆえ来意を承けて尽く言を進めたのに、すぐに色を変えるのはなぜか。」孫松は笑って言った。「先ほども自ら行事にこのようなことがあったのを忿っただけで、どうして恨みがあろうか。)

原文孫翊字叔弼,權弟也,驍悍果烈,有兄策風。太守朱治舉孝廉,司空辟。〈《典略》曰:翊名俨,性似策。策临卒,张昭等谓策当以兵属俨,而策呼权,佩以印绶。〉建安八年,以偏將軍領丹楊太守,時年二十。後卒為左右邊鴻所殺,鴻亦即誅。〈《吴历》载翊妻徐节行,宜与妫览等事相次,故列於后〈孙韶传〉中。〉子松為射聲校尉、都鄉侯。〈《吴录》曰:松善与人交,轻财好施。镇巴丘,数咨陆逊以得失。尝有小过,逊面责松,松意色不平,逊观其少释,谓曰:“君过听不以某鄙,数见访及,是以承来意进尽言,便变色,何也?”松笑曰:“属亦自忿行事有此,岂有望邪!”〉黃龍三年卒。蜀丞相諸葛亮與兄瑾書曰:“既受東朝厚遇,依依於子弟。又子喬良器,為之惻愴。見其所與亮器物,感用流涕。”其悼松如此,由亮養子喬咨述故雲。

孫匡は字を季佐といい、孫翊の弟である。孝廉・茂才に推挙されたが、任用される前に死去した。当時二十余歳であった。子の孫泰は、曹氏の甥にあたり、長水校尉となった。嘉禾三年、孫権に従って新城を包囲した際、流れ矢に当たって戦死した。孫泰の子の孫秀は前将軍・夏口督となった。孫秀は王室の至親であり、外で兵権を握っていたため、孫皓は心中穏やかでなかった。建衡二年、孫皓は何定に五千の兵を率いさせて夏口で狩りを行わせた。以前から、民間では孫秀が謀略の対象となるだろうという噂が広まっており、何定が遠くまで狩りに出たため、孫秀は驚き、夜に妻子と親兵数百人を率いて晋に奔った。晋は孫秀を驃騎将軍・儀同三司に任じ、会稽公に封じた。(『江表伝』に曰く、曹休が洞口に出兵した時、呂範が軍を率いてこれを防いだ。当時孫匡は定武将軍であり、呂範に命じて火を放たせ、茅や芒を焼き払って軍用を乏しくさせたので、呂範はすぐに孫匡を呉に送り返すよう上奏した。孫権は彼の一族を別けて丁氏とし、終身禁錮とした。臣松之が案ずるに、本伝には「孫匡は任用される前に死去し、当時二十余歳であった」とある。しかし『江表伝』には呂範が洞口にいた時、孫匡が定武将軍であったとある。すでに定武将軍であるならば、任用されていないわけではない。また孫堅は初平二年に死去し、洞口の役は黄初三年にあり、孫堅の死からこの時まで合わせて三十一年となる。孫匡がもしその時なお存命であったなら、本伝に死去の時二十余歳と記すはずがない。これはおそらく孫権の別の弟の孫朗のことであり、『江表伝』が誤って孫匡としたのであろう。孫朗の名と位は『三朝録』および虞喜の『志林』に見える。『江表伝』に曰く、孫皓は大いに怒り、追って孫秀の姓を厲と改めさせた。干宝『晋紀』に曰く、孫秀は晋朝にあり、初め孫皓の降伏を聞いた時、群臣は皆祝賀したが、孫秀は病と称して参加せず、南を向いて涙を流して言った。「昔、討逆将軍(孫策)は弱冠にして一校尉で創業し、今、後主(孫皓)は江南を挙げてこれを棄てた。宗廟と山陵は、ここで墟となった。悠悠たる蒼天よ、これは何たる人か。」朝廷はこれを美とした。『晋諸公賛』に曰く、呉が平定されると、伏波将軍に降格されたが、開府はもとのままだった。永寧中に死去し、驃騎将軍・開府を追贈された。子の孫倹は字を仲節といい、給事中となった。)

原文孫匡字季佐,翊弟也。舉孝廉茂才,未試用,卒。時年二十餘。〈《江表传》曰:曹休出洞口,吕范率军御之。时匡为定武中郎将,(遣)范令放火,烧损茅芒,以乏军用,范即启送匡还吴。权别其族为丁氏,禁固终身。臣松之案本传曰:“匡未试用卒,时年二十餘。”而《江表传》云吕范在洞口,匡为定武中郎将。既为定武,非为未试用。且孙坚以初平二年卒,洞口之役在黃初三年,坚卒至此合三十一年,匡时若尚在,本传不得云卒时年二十餘也。此盖权别生弟朗,《江表传》误以为匡也。朗之名位见《三朝录》及虞喜《志林》也。〉子泰,曹氏之甥也,為長水校尉。嘉禾三年,從權圍新城,中流矢死。泰子秀為前將軍、夏口督。秀公室至親,握兵在外,皓意不能平。建衡二年,皓遣何定將五千人至夏口獵。先是,民間歛言秀當見圖,而定遠獵,秀遂驚,夜將妻子親兵數百人奔晉。晉以秀為驃騎將軍、儀同三司,封會稽公。〈《江表传》曰:皓大怒,追改秀姓曰厉。干宝《晋纪》曰:秀在晋朝,初闻皓降,群臣毕贺,秀称疾不与,南向流涕曰:“昔讨逆弱冠以一校尉创业,今后主举江南而弃之,宗庙山陵,於此为墟。悠悠苍天,此何人哉!”朝廷美之。《晋诸公赞》曰:吴平,降为伏波将军,开府如故。永宁中卒,追赠骠骑、开府。子俭,字仲节,给事中。〉

孫韶は字を公禮という。伯父の孫河は字を伯海といい、もとは俞姓であったが、これも呉の人である。孫策に気に入られ、孫姓を賜り、一族の籍に列せられた。後に将軍となり、京城に駐屯した。(『呉書』に曰く、孫河は孫堅の族子であり、姑の俞氏の後を継いだが、後に姓を孫に戻した。孫河は性格が忠直で、言葉は寡黙だが行動は敏速であり、気概と才幹を備え、勤労に耐えた。若い頃から孫堅に従って征討し、常に先鋒を務め、後に左右の兵を領し、内事を司り、腹心の任を託された。また孫策に従って呉・会稽を平定し、孫権に従って李術を討ち、李術が破れると威寇中郎将に任じられ、廬江太守を領した。)

原文孫韶字公禮。伯父河,字伯海,本姓俞氏,亦吳人也。孫策愛之,賜姓為孫,列之屬籍,〈《吴书》曰:河,坚族子也,出后姑俞氏,后复姓为孙。河质性忠直,讷言敏行,有气幹,能服勤。少从坚征讨,常为前驱,后领左右兵,典知内事,待以腹心之任。又从策平定吴、会,从权讨李术,术破,拜威寇中郎将,领庐江太守。〉後為將軍,屯京城。

初め、孫権が呉郡太守の盛憲を殺害したとき、盛憲の元の孝廉であった媯覧と戴員は山中に逃れて身を隠していた。孫翊が丹楊太守となると、二人を礼を尽くして招き寄せた。媯覧は大都督として兵を監督し、戴員は郡丞となった。(『会稽典録』に曰く、盛憲は字を孝章といい、器量は雅で偉大であり、孝廉に推挙され、尚書郎に補され、ややして呉郡太守に昇進したが、病により官を去った。孫策が呉・会稽を平定し、その英豪を誅したが、盛憲はかねてより高い名声があったため、孫策は深くこれを忌み嫌った。初め、盛憲は少府の孔融と親しく、孔融は彼が禍を免れないことを憂い、そこで曹公(曹操)に書を送って言った。「歳月は留まらず、時節は流れるように過ぎ、五十の年が忽ちにしてすでに至りました。公はちょうど満たれ、融はまた二つ過ぎました。海内の知人知己は、零落してほとんど尽き、ただ会稽の盛孝章だけがなお存命です。その人は孫氏に困窮し、妻子は湮没し、単身孤立し、孤危愁苦の状態にあります。もし憂いが人を傷つけることがあるならば、この者はもはや長命を得られないでしょう。春秋伝に曰く、『諸侯に相滅ぼす者があれば、桓公が救えなければ、桓公はこれを恥じた』と。今、孝章は実に丈夫の雄であり、天下の談士は彼に依って声を揚げていますが、身は幽執を免れず、命は旦夕に期しません。これは我が祖がもはや損益の友を論ずべきでなく、硃穆が交を絶った所以です。公が誠に一介の使者を馳せ、咫尺の書を加えるならば、孝章を招致でき、友道を弘めることができます。今の少年は、先輩を謗ることを好み、あるいは孝章を皮柄反と評する者もいますが、孝章は要するに天下の大名を有し、九牧の民が共に称嘆する所です。燕の君が駿馬の骨を買ったのは、道里を馳せるためではなく、まさに絶足を招くためでした。惟だ公は漢室を匡復し、宗社は将に絶えようとし、またこれを正すことができます。正すの術は、実に賢を得るにあります。珠玉が脚なくして自ら至るのは、人がこれを好むからです。まして賢者の足がある場合はなおさらです。昭王が台を築いて郭隗を尊んだところ、隗は小才でありながら大いなる遇に逢い、竟に明主の至心を発明しました。故に楽毅は魏から、劇辛は趙から、鄒衍は斉から赴きました。郷使、郭隗が倒懸されても王が解かず、溺れに臨んでも王が救わなければ、士もまた高翔遠引し、北首して燕路に向かう者はないでしょう。凡そ称引する所は、公の知る所ですが、云う所以は、公にこの義を崇篤せんことを欲するためです。因って表し悉さず。」これにより騎都尉に徴された。制命が至らないうちに、果たして孫権に害された。子の盛匡は魏に奔り、位は征東司馬に至った。)

原文初,孫權殺吳郡太守盛憲,〈《会稽典录》曰:宪字孝章,器量雅伟,举孝廉,补尚书郎,稍迁吴郡太守,以疾去官。孙策平定吴、会,诛其英豪,宪素有高名,策深忌之。初,宪与少府孔融善,融忧其不免祸,乃与曹公书曰:“岁月不居,时节如流,五十之年,忽焉已至。公为始满,融又过二,海内知识,零落殆尽,惟会稽盛孝章尚存。其人困於孙氏,妻孥湮没,单孑独立,孤危愁苦,若使忧能伤人,此子不得复永年矣。春秋传曰:‘诸侯有相灭亡者,桓公不能救,则桓公耻之。’今孝章实丈夫之雄也,天下谭士依以扬声,而身不免於幽执,命不期於旦夕,是吾祖不当复论损益之友,而硃穆所以绝交也。公诚能驰一介之使,加咫尺之书,则孝章可致,友道可弘也。今之少年,喜谤前辈,或能讥平皮柄反。孝章;孝章要为有天下大名,九牧之民所共称叹。燕君市骏马之骨,非欲以骋道里,乃当以招绝足也。惟公匡复汉室,宗社将绝,又能正之,正之之术,实须得贤。珠玉无胫而自至者,以人好之也,况贤者之有足乎?昭王筑台以尊郭隗,隗虽小才,而逢大遇,竟能发明主之至心,故乐毅自魏往,剧辛自赵往,邹衍自齐往。乡使郭隗倒县而王不解,临溺而王不拯,则士亦将高翔远引,莫有北首燕路者矣。凡所称引,自公所知,而有云者,欲公崇笃斯义也,因表不悉。”由是徵为骑都尉。制命未至,果为权所害。子匡奔魏,位至征东司马。〉憲故孝廉媯覽、戴員亡匿山中,孫翊為丹楊,皆禮致之。覽為大都督督兵,員為郡丞。

孫翊が殺害された時、孫河は宛陵に急行し、妫覧と戴員を責め立て、孫翊を守り切れず、奸計が実行されるに至ったことを咎めた。二人は謀議して言った。「孫河は将軍(孫翊)と疎遠なのに、我々をここまで責めるとは。孫権(討虜将軍)が来たら、我々は一人残らず滅ぼされてしまうだろう。」そこで孫河を殺し、使いを北に派遣して揚州刺史劉馥を迎え、歴陽に駐屯させ、丹陽郡で呼応しようとした。ちょうどその時、孫翊の配下の徐元、孫高、傅嬰らが妫覧と戴員を殺した。(『呉暦』に曰く、妫覧と戴員は辺洪らと親近し、しばしば孫翊に困迫され、常に叛逆を欲し、呉主(孫権)の出征に乗じて、その奸計を遂げた。時に諸県の令長は皆孫翊に会見し、孫翊は妻の徐氏がよく卜を暁るので、孫翊が入って徐に語った。「吾は明日長吏のために主人を務めようと思う。卿試みにこれを卜せよ。」徐は言った。「卦は佳ならず、異日を須つべきです。」孫翊は長吏が来て久しいので、速やかに送るべきと思い、乃ち大いに賓客を請した。孫翊は出入に常に刀を持っていたが、その時酒色があり、空手で客を送り、辺洪が後ろから孫翊を斫り、郡中は擾乱し、孫翊を救う者はなく、遂に辺洪に殺され、辺洪は山に迸走した。徐氏は購募して追捕し、中宿にして乃ち得、妫覧と戴員は罪を辺洪に帰してこれを殺した。諸将は皆妫覧と戴員の所為を知っていたが、力が討つに及ばなかった。妫覧は軍府中に入居し、悉く孫翊の嬪妾および左右の侍御を取って、さらに徐を取ろうとした。逆らえば害されることを恐れ、乃ちこれを欺いて言った。「晦日に設祭して服を除くを須いんことを乞う。」時に月は垂んとして竟わろうとし、妫覧は祭畢を須つことを聴した。徐は密かに親信の者をして孫翊の親近の旧将孫高・傅嬰らに語らせ、説いて言った。「妫覧はすでに婢妾を虜略し、今また我を偪さんと欲す。外にこれを許す所以は、その意を安んじて以て禍を免れんと欲するのみ。微計を立てんと欲す。願わくは二君の哀救を。」高と嬰は涕泣して答えて言った。「府君の恩遇を受け、即死しなかった所以は、死して益なしと考え、事計を思惟せんと欲し、事計未だ立たず、未だ敢えて夫人に啓さなかったのみ。今日の事は、実に夙夜に懐く所なり。」乃ち密かに孫翊の時に侍養した者二十余人を呼び、徐の意を以てこれを語り、共に盟誓し、合謀した。晦日に到り、祭を設け、徐氏は哭泣して哀を尽くし畢り、乃ち服を除き、香を薫じ沐浴し、更に他室に於いて、安んじて帷帳を施し、言笑歓悦し、戚容なきを示した。大小は凄愴し、その如此なるを怪しんだ。妫覧は密かに覘視し、復た疑意はなかった。徐は高・嬰と諸婢を呼び羅って戸内に住まわせ、人をして妫覧に報ぜしめ、説いて「すでに凶を除き吉に即き、惟だ府君の敕命を須つ」と言った。妫覧は盛意で入り、徐は戸を出て拝した。妫覧は適に一拝を得たところで、徐は便ち大呼した。「二君起つべし!」高と嬰は俱に出で、共に妫覧を殺すを得、余人は即ち外に就いて戴員を殺した。夫人は乃ち縗絰に還り、妫覧と戴員の首を奉って以て孫翊の墓に祭った。挙軍震駭し、神異と為した。呉主は続いて至り、悉く妫覧と戴員の余党を族誅し、高と嬰を抜擢して牙門と為し、其余は皆金帛を加賜し、その門戸を殊にした。)

原文及翊遇害,河馳赴宛陵,責怒覽、員,以不能全權,令使奸變得施。二人議曰:"伯海與將軍疏遠,而責我乃耳。討虜若來,吾屬無遺矣。"遂殺河,使人北迎揚州刺史劉馥,令住歷陽,以丹陽應之。會翊帳下徐元、孫高、傅嬰等殺覽、員。〈《吴历》曰:妫览、戴员亲近边洪等,数为翊所困,常欲叛逆,因吴主出征,遂其奸计。时诸县令长并会见翊,翊以妻徐氏颇晓卜,翊入语徐:“吾明日欲为长吏作主人,卿试卜之。”徐言:“卦不能佳,可须异日。”翊以长吏来久,宜速遣,乃大请宾客。翊出入常持刀,尔时有酒色,空手送客,洪从后斫翊,郡中扰乱,无救翊者,遂为洪所杀,迸走入山。徐氏购募追捕,中宿乃得,览、员归罪杀洪。诸将皆知览、员所为,而力不能讨。览入居军府中,悉取翊嫔妾及左右侍御,欲复取徐。恐逆之见害,乃绐之曰:“乞须晦日设祭除服。”时月垂竟,览听须祭毕。徐潜使所亲信语翊亲近旧将孙高、傅婴等,说:“览已虏略婢妾,今又欲见偪,所以外许之者,欲安其意以免祸耳。欲立微计,原二君哀救。”高、婴涕泣答言:“受府君恩遇,所以不即死难者,以死无益,欲思惟事计,事计未立,未敢启夫人耳。今日之事,实夙夜所怀也。”乃密呼翊时侍养者二十餘人,以徐意语之,共盟誓,合谋。到晦日,设祭,徐氏哭泣尽哀毕,乃除服,薰香沐浴,更於他室,安施帏帐,言笑欢悦,示无戚容。大小凄怆,怪其如此。览密觇视,无复疑意。徐呼高、婴与诸婢罗住户内,使人报览,说已除凶即吉,惟府君敕命。览盛意入,徐出户拜。览適得一拜,徐便大呼:“二君可起!”高、婴俱出,共得杀览,餘人即就外杀员。夫人乃还缞绖,奉览、员首以祭翊墓。举军震骇,以为神异。吴主续至,悉族诛览、员餘党,擢高、婴为牙门,其餘皆加赐金帛,殊其门户。〉

孫韶は十七歳で、孫河の残った兵を収容し、京城(京口)を修繕した。望楼を築き、兵器を整備して敵の防御を議論した。孫権は乱の報を聞き、椒丘から帰還する途中で丹楊を平定し、軍を率いて呉に帰った。夜に京城に到着して陣を敷き、試しに攻撃して驚かせると、兵士は皆城壁に登り、檄を伝えて警戒に当たり、歓声が地を震わせ、城外の者に向かって盛んに矢を射かけた。孫権が説得してようやく止めた。翌日、孫韶に会うと、非常に高く評価した。すぐに承烈校尉に任じ、孫河の配下の私兵を統率させ、曲阿と丹徒の二県を食邑とし、自ら長吏を置くことを許し、すべて孫河の旧例の通りとした。後に広陵太守、偏将軍となった。孫権が呉王となると、揚威将軍に昇進し、建徳侯に封じられた。孫権が皇帝を称すると、鎮北将軍となった。孫韶は辺境の将として数十年、兵士をよく養い、彼らの死力を得た。常に国境の警備と遠くまで斥候を出すことを務めとし、敵の動静を事前に察知して備えたので、敗北することはほとんどなかった。青州、徐州、汝南、沛はいの者たちが多く帰順し、淮南の長江沿いの屯戍の斥候は皆兵を引き払って遠くに移り、徐州、泗水、長江、淮水の地域には、人が住まない地帯がそれぞれ数百里に及んだ。孫権が西征してから、都を武昌に戻した後、孫韶は十数年も謁見しなかった。孫権が建業に戻ると、ようやく朝見することができた。孫権が青州、徐州の諸屯の要害、遠近の人馬の数、魏の将帥の姓名を尋ねると、すべて詳細に覚えており、問われることには全て答えた。身長八尺、容姿は優雅で立派であった。孫権は喜んで言った。「私は久しく公礼(孫韶)に会っていなかったが、このように進歩しているとは思わなかった。」幽州牧を兼任させ、仮節を与えた。赤烏四年に死去した。子の孫越が後を継ぎ、右将軍まで昇った。孫越の兄の孫楷は武衛大将軍、臨成侯となり、孫越に代わって京下督となった。孫楷の弟の孫異は領軍将軍まで、孫奕は宗正卿、孫恢は武陵太守となった。天璽元年、孫楷は宮下鎮驃騎将軍として召し出された。かつて永安の賊の施但らが孫皓の弟の孫謙を拉致し、建業を襲撃した時、孫楷が態度を曖昧にしてすぐに討伐に向かわなかったと告げる者がおり、孫皓はたびたび孫楷を詰問した。孫楷は常に恐れおののいていたが、ついに召喚されると、妻子と親兵数百人を率いて晋に帰順した。晋は彼を車騎将軍とし、丹楊侯に封じた。(『晋諸公賛』にいう。呉が平定されると、渡遼将軍に降格され、永安元年に死去した。『呉録』にいう。孫楷は事の処理の厳格さでは孫秀に及ばないが、世間での知名度は孫秀を超えていた。)

原文韶年十七,收河餘眾,繕治京城。起樓櫓,修器備議禦敵。權聞亂,從椒丘還,過定丹楊,引軍歸吳。夜至京城下營,試攻驚之,兵皆乘城傳檄備警,歡聲動地,頗射外人,權使曉喻乃止。明日見韶,甚器之。即拜承烈校尉,統河部曲,食曲阿、丹徒二縣,自置長吏,一如河舊。後為廣陵太守、偏將軍。權為吳王,遷揚威將軍,封建德侯。權稱尊號,為鎮北將軍。韶為邊將數十年,善養士卒,得其死力。常以警疆場遠斥候為務,先知動靜而為之備,故鮮有負敗。青、徐、汝、沛頗來歸附,淮南濱江屯候皆徹兵遠徙,徐、泗、江、淮之地,不居者各數百里。自權西征,還都武昌,韶不進見者十餘年。權還建業,乃得朝覲。權問青、徐諸屯要害,遠近人馬眾寡,魏將帥姓名,盡具識之,有問鹹對。身長八尺,儀貌都雅。權歡悅曰:"吾久不見公禮,不圖進益乃爾。"加領幽州牧、假節。赤烏四年卒。子越嗣,至右將軍,越兄楷武衛大將軍、臨成侯,代越為京下督。楷弟異至領軍將軍,奕宗正卿,恢武陵太守。天璽元年,征楷為宮下鎮驃騎將軍。初永安賊施但等劫皓弟謙,襲建業,或白楷二端不即赴討者,皓數遣詰楷。楷常惶怖,而卒被召,遂將妻子親兵數百人歸晉,晉以為車騎將軍,封丹楊侯。〈《晋诸公赞》曰:吴平,降为渡辽将军,永安元年卒。《吴录》曰:楷处事严整不如孙秀,而人间知名,过也。〉

孫桓は字を叔武といい、孫河の子である。二十五歳で安東中郎将に任じられ、陸遜と共に劉備を防いだ。劉備の軍勢は非常に多く、山野に満ちていたが、孫桓は力を尽くして奮戦した。陸遜と力を合わせた結果、劉備は敗走した。孫桓は夔道で上り口を遮断し、その要路を断った。劉備は山を越え険を越え、かろうじて逃れることができたが、憤慨して嘆いて言った。「私が以前初めて京城に来た時、孫桓はまだ子供だった。それが今、私をここまで追い詰めるとは!」孫桓は功績により建武将軍に任じられ、丹徒侯に封じられ、牛渚を管轄し、横江塢を築いたが、そのうちに死去した。(『呉書』にいう。孫河には四人の子がいた。長男の孫助は曲阿の長となった。次男の孫誼は海塩の長となった。いずれも早くに死去した。次男の孫桓は、容姿が端正で、器量と心は聡明明朗、博学で強記、議論や応対ができ、孫権は常に宗室の顔淵と称し、武衛都尉に抜擢した。華容で関羽討伐に従い、関羽の残党を誘い、五千人と牛馬・器械を多く得た。『呉書』にいう。孫桓の弟の孫俊は字を叔英といい、性格と度量は広く大きく、才は文武に経り、定武中郎将となり、薄落に屯戍し、赤烏十三年に死去した。長男の孫建が爵位を継ぎ、平虜将軍となった。末子の孫慎は鎮南将軍となった。孫慎の子の孫丞は字を顕世といった。『文士伝』にいう。孫丞は学問を好み、文章があり、『蛍火賦』を作って世に行われた。黄門侍郎となり、顧栄とともに侍臣となった。帰命侯(孫皓)の世には内侍の多くが罪を得たが、顧栄と孫丞だけが特に身を全うした。常に二人に事を記録させ、孫丞が顧問に答えると、詔を下して言った。「今後、侍郎を用いる際は皆、今の宗室の孫丞、顧栄のような者を用いるべきである」。呉が平定されると洛陽に赴き、范陽の涿の令となり、非常に称賛される功績があった。永安年間、陸機が成都王の大都督となると、孫丞を司馬として招請し、陸機とともに害された。)

原文孫桓字叔武,河之子也。〈《吴书》曰:河有四子。长助,曲阿长。次谊,海盐长。并早卒。次桓,仪容端正,器怀聪朗,博学强记,能论议应对,权常称为宗室颜渊,擢为武卫都尉。从讨关羽於华容,诱羽餘党,得五千人,牛马器械甚众。〉年二十五,拜安東中郎將,與陸遜共拒劉備。備軍眾甚盛,彌山盈谷,桓投力奮命。與遜戮力,備遂敗走。桓斬上(兜)(夔)道,截其徑要。備逾山越險,僅乃得免,忿恚歎曰:“吾昔初至京城,桓尚小兒,而今迫孤乃至此也!”桓以功拜建武將軍,封丹徒侯,下督牛港,作橫江塢,會卒。〈《吴书》曰:桓弟俊,字叔英,性度恢弘,才经文武,为定武中郎将,屯戍薄落,赤烏十三年卒。长子建袭爵,平虏将军。少子慎,镇南将军。慎子丞,字显世。《文士传》曰:丞好学,有文章,作萤火赋行於世。为黄门侍郎,与顾荣俱为侍臣。归命世内侍多得罪尤,惟荣、丞独获全。常使二人记事,丞答顾问,乃下诏曰:“自今已后,用侍郎皆当如今宗室丞、顾荣畴也。”吴平赴洛,为范阳涿令,甚有称绩。永安中,陆机为成都王大都督,请丞为司马,与机俱被害。〉

評して言う。親族を親しみ恩義を重んじることは、古今の常道である。宗族の子弟は城壁の如しとは、詩人が称えたところである。ましてやこれらの孫氏一族は、ある者は創業の基盤を助け、ある者は辺境を鎮守し、その任に堪え、その栄誉に恥じない者ではなかったか。よって詳細に記した。

原文評曰:夫親親恩義,古今之常。宗子維城,詩人所稱。況此諸孫,或贊興初基,或鎮據邊陲,克堪厥任,不忝其榮者乎!故詳著雲。

この作品は全世界において公有領域に属する。なぜなら、作者の没後100年以上が経過しており、かつ作品は1931年1月1日以前に出版されたからである。

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