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三国志
吳書二 吳主傳
孫権は字を仲謀という。兄の孫策が諸郡を平定した時、孫権は十五歳で、陽羨県の長に任じられた。郡から孝廉に推挙され、州から茂才に推挙され、奉義校尉を代行した。漢朝廷は孫策が遠方から職貢を修めたことを認め、使者の劉琬を派遣して加錫の命を下した。劉琬は人に語って言った。「私は孫氏の兄弟を見たが、それぞれ才能に優れ明達ではあるが、皆、禄と寿命が長くはない。ただ、中弟の孝廉(孫権)だけは、形貌が奇抜で雄偉、骨格が普通ではなく、大貴の相があり、年も最も長寿である。あなたも覚えておきなさい。」(『江表伝』に曰く、孫堅が下邳丞であった時、孫権が生まれた。方形の頤に大きな口、目には精光があり、孫堅はこれを異とし、貴い象があると考えた。孫堅が亡くなると、孫策が江東で挙兵し、孫権は常に従った。性格と度量は弘朗、仁にして多く断じ、侠を好み士を養い、初めから知名があり、父兄に匹敵した。ともに計謀に参ずるごとに、孫策はこれを甚だ奇とし、自ら及ばないと思った。賓客を招いて会するごとに、常に孫権を顧みて「この諸君は、汝の将である」と言った。)
原文孫權,字仲謀。兄策旣定諸郡,時權年十五,以爲陽羨長。〈《江表傳》曰:堅爲下邳丞時,權生,方頤大口,目有精光,堅異之,以爲有貴象。及堅亡,策起事江東,權常隨從。性度弘朗,仁而多斷,好俠養士,始有知名,侔於父兄矣。每參同計謀,策甚奇之,自以爲不及也。每請會賓客,常顧權曰:「此諸君,汝之將也。」〉郡察孝廉,州舉茂才,行奉義校尉。漢以策遠修職貢,遣使者劉琬加錫命。琬語人曰:「吾觀孫氏兄弟雖各才秀明達,然皆祿祚不終。惟中弟孝廉,形貌奇偉,骨體不恆,有大貴之表,年又最壽。爾試識之。」
建安四年、孫権は孫策に従って廬江太守の劉勳を征討した。劉勳が破れると、沙羨において黄祖を討伐するために進軍した。五年、孫策が薨去し、後事を孫権に託した。孫権は泣きやむ間もなかった。孫策の長史であった張昭が孫権に言った。「孝廉、これはまさに泣いている時でしょうか。かつて周公が礼法を定めても伯禽はそれに従わなかったが、父の意志に背こうとしたのではなく、時勢が許さなかったからです。ましてや今は奸宄が競い合い、豺狼が道に満ちているのに、親族を哀悼し、礼制にこだわろうとするのは、門を開けて盗賊を招き入れるようなもので、仁とは言えません。」そこで孫権の喪服を改めさせ、馬に乗せて軍を巡視させた。この時、支配下にあったのは会稽・呉郡・丹楊・豫章・廬陵だけであったが、険阻な地域はまだ完全には従っておらず、天下の英豪が州郡に散在し、客将として寄寓している者たちは安危や去就を気にかけており、君臣の固い結びつきはなかった。張昭・周瑜らは孫権と共に大業を成し遂げられると考え、心を寄せて仕えた。曹操は孫権を討虜将軍に表奏し、会稽太守を兼任させ、呉に駐屯させ、郡の丞に文書事務を行わせた。孫権は張昭を師傅の礼で遇し、周瑜・程普・呂範らを将帥とした。俊秀を招き、名士を招聘し、魯粛・諸葛瑾らが初めて賓客となった。諸将を分派して山越を鎮撫し、命令に従わない者を討伐した。(臣松之が按ずるに、『礼記』曾子問で子夏が曰く、「三年の喪、金革の事は避くること無き者は、礼か。初め司有りしか」と。孔子が曰く、「吾は諸を老摐に聞けり。昔者魯公伯禽に為にする所ありて之を為せり」と。鄭玄の注に曰く、「周人は卒哭して致事す。時に徐戎の難作るあり、伯禽は卒哭して之を徴す、王事を急とすればなり」と。張昭の云う「伯禽師せず」とは、蓋し此れを謂うなり。『江表伝』に曰く、初め孫策は李術を表して廬江太守と為した。孫策が亡くなった後、李術は孫権に事えようとせず、多くの亡叛する者を納れた。孫権が書を移して求索すると、李術は報じて曰く、「徳ある者は帰し、徳なき者は叛す、復た還すべからず」と。孫権は大いに怒り、状を以て曹公に白して曰く、「厳刺史は昔公の用いる所、また州の挙将たり。しかるに李術は凶悪にして、軽んじて漢制を犯し、州司を残害し、その無道を肆にす。速やかに誅滅し、以て醜類を懲らすべし。今之を討たんと欲し、進んでは国朝の為に鯨鯢を掃除し、退いては挙将の為に怨仇を報塞せんとす。これ天下の達義、夙夜甘心する所なり。李術は必ず誅を懼れ、復た詭説して救を求めん。明公の居る所は阿衡の任、海内の瞻仰する所なり。願わくは執事に敕し、復た聴受せざらしめん」と。是歳、兵を挙げて李術を皖城に攻めた。李術は門を閉じて自守し、曹公に救を求めた。曹公は救わず。糧食乏尽し、婦女は或いは泥を丸めて之を吞んだ。遂にその城を屠り、李術の首を梟し、その部曲三万余を徙した。)
原文建安四年,從策征廬江太守劉勳。勳破,進討黃祖於沙羨。五年。策薨,以事授權,權哭未及息。策長史張昭謂權曰:「孝廉,此寧哭時邪?且周公立法而伯禽不師,非欲違父,時不得行也。〈臣松之按《禮記》曾子問子夏曰:『三年之喪,金革之事無避也者,禮與?初有司與?』孔子曰:『吾聞諸老摐曰,昔者魯公伯禽有爲爲之也。』鄭玄注曰:『周人卒哭而致事。時有徐戎作難,伯禽卒哭而徵之,急王事也。』昭所云『伯禽不師』,蓋謂此也。〉況今奸宄競逐,豺狼滿道,乃欲哀親戚,顧禮制,是猶開門而揖盜,未可以爲仁也。」乃改易權服,扶令上馬,使出巡軍。是時,惟有會稽、吳郡、丹楊、豫章、廬陵,然深險之地猶未盡從,而天下英豪布在州郡,賓旅寄寓之士以安危去就爲意,未有君臣之固。張昭、周瑜等謂權可與共成大業,故委心而服事焉。曹公表權爲討虜將軍,領會稽太守,屯吳,使丞之郡行文書事。待張昭以師傅之禮,而周瑜、程普、呂範等爲將率。招延俊秀,聘求名士,魯肅、諸葛瑾等始爲賓客。分部諸將,鎮撫山越,討不從命。〈《江表傳》曰:初策表用李術爲廬江太守,策亡之後,術不肯事權,而多納其亡叛。權移書求索,術報曰:「有德見歸,無德見叛,不應復還。」權大怒,乃以狀白曹公曰:「嚴刺史昔爲公所用,又是州舉將,而李術兇惡,輕犯漢制,殘害州司,肆其無道,宜速誅滅,以懲醜類。今欲討之,進爲國朝掃除鯨鯢,退爲舉將報塞怨仇,此天下達義,夙夜所甘心。術必懼誅,復詭説求救。明公所居,阿衡之任,海內所瞻,原敕執事,勿復聽受。」是歳舉兵攻術於皖城。術閉門自守,求救於曹公。曹公不救。糧食乏盡,婦女或丸泥而吞之。遂屠其城,梟術首,徙其部曲三萬餘人。〉
七年、孫権の母の呉氏が薨去した。
原文七年,權母吳氏薨。
八年、孫権は西進して黄祖を討伐し、その水軍を破ったが、城だけは陥落させず、山賊が再び動き出した。帰途、豫章を通過し、呂範に鄱陽を平定させ、(会稽の)程普に楽安を討伐させた。太史慈に海昏を統治させ、韓当・周泰・呂蒙らを難治県の県令・県長とした。
原文八年,權西伐黃祖,破其舟軍,惟城未克,而山寇復動。還過豫章,使呂範平鄱陽,(會稽)程普討樂安。太史慈領海昏,韓當、周泰、呂蒙等爲劇縣令長。
九年、孫権の弟で丹楊太守の孫翊が側近に害され、従兄の孫瑜が孫翊に代わった。(『呉録』に曰く、この時孫権は官寮を大会した。沈友に是非する所があり、人に扶け出ださせて謂って曰く、「人言う、卿反せんと欲すと」。沈友は脱れ得ざるを知り、乃ち曰く、「主上は許に在り、君を無みするの心有る者は、反に非ずと謂うべきか」と。遂に之を殺した。沈友は字を子正、呉郡の人。年十一の時、華歆が風俗を巡行し、見て之を異とし、因りて呼んで曰く、「沈郎、車に登りて語るべけんか」と。沈友は逡巡して却き、曰く、「君子は好を講じ、宴に会するに礼を以てす。今仁義陵遅し、聖道漸く壊れんとす。先生は命を銜み、将に以て先王の教を裨補し、風俗を整斉せんとす。しかるに軽く威儀を脱するは、猶お薪を負いて火を救うがごとし、乃ち更にその熾を崇くするに非ずや」と。華歆は慚じて曰く、「桓・霊以来、英彦多しと雖も、未だ此くのごとき幼童有らず」と。弱冠にして博学、貫綜する所多く、属文辞を善くす。兼ねて武事を好み、孫子兵法に注す。また口に弁じ、至る所ごとに、衆人は皆黙然として、与に對する莫し。咸な言う、その筆の妙、舌の妙、刀の妙、三者皆人に過絶すと。孫権は礼を以て聘し、既に至り、王覇の略、当時の務を論じ、孫権は容を斂めて敬した。荊州は宜しく幷すべきの計を陳べ、之を納れた。正色して朝に立ち、清議峻厲、庸臣の譖む所と為り、謀反を以て誣いられた。孫権もまた終に己が用と為らざるを以て、故に之を害した。時に年二十九。)
原文九年,權弟丹楊太守翊爲左右所害,以從兄瑜代翊。〈吳錄曰:是時權大會官寮,沈友有所是非,令人扶出,謂曰:「人言卿欲反。」友知不得脫,乃曰:「主上在許,有無君之心者,可謂非反乎?」遂殺之。友字子正,吳郡人。年十一,華歆行風俗,見而異之,因呼曰:「沈郎,可登車語乎?」友逡巡卻曰:「君子講好,會宴以禮,今仁義陵遲,聖道漸壞,先生銜命,將以裨補先王之教,整齊風俗,而輕脫威儀,猶負薪救火,無乃更崇其熾乎!」歆慚曰:「自桓、靈以來,雖多英彥,未有幼童若此者。」弱冠博學,多所貫綜,善屬文辭。兼好武事,注孫子兵法。又辯於口,每所至,眾人皆默然,莫與爲對,咸言其筆之妙,舌之妙,刀之妙,三者皆過絶於人。權以禮聘,旣至,論王霸之略,當時之務,權斂容敬焉。陳荆州宜幷之計,納之。正色立朝,清議峻厲,爲庸臣所譖,誣以謀反。權亦以終不爲己用,故害之,時年二十九。〉
十年、孫権は賀斉に上饒を討伐させ、建平県を分置した。
原文十年,權使賀齊討上饒,分爲建平縣。
十二年、西征して黄祖を討ち、その人民を捕虜として帰還した。
原文十二年,西征黃祖。虜其人民而還。
十三年の春、孫権は再び黄祖を征伐し、黄祖は先に舟兵を派遣して軍を防がせたが、都尉の呂蒙がその前鋒を破った。そして淩統、董襲らが全力で攻撃し、ついにその城を屠った。黄祖は身一つで逃走したが、騎士の馮則が追ってその首を斬り、男女数万口を捕虜とした。この年、賀斉を派遣して黟、歙を討伐し、歙を分割して始新、新定、犂陽、休陽県とし、六県をもって新都郡とした。荊州牧の劉表が死に、魯粛は命を請うて劉表の二人の子を弔問し、かつ情勢の変化を観察しようとした。魯粛が到着する前に、曹操がすでにその境に臨み、劉表の子の劉琮が衆を挙げて降伏した。劉備は南へ長江を渡ろうとしたが、魯粛がこれと会見し、孫権の意向を伝えて、成敗の道理を説いた。劉備は夏口に進んで駐屯し、諸葛亮を孫権のもとに派遣した。孫権は周瑜、程普らを行かせた。この時、曹操は新たに劉表の衆を得て、形勢が非常に盛んであった。議論する者たちは皆、風聞に恐れをなし、多くが孫権に降伏を勧めた。ただ周瑜、魯粛のみが拒絶の意見を固執し、その考えは孫権と同じであった。周瑜、程普が左右の督となり、それぞれ一万人を率いて劉備とともに進軍し、赤壁で遭遇して曹操の軍を大破した。曹操は残りの船を焼いて退却し、兵士は飢えと疫病で、死者が大半を占めた。劉備、周瑜らはさらに追撃して南郡に至った。曹操はついに北へ帰還し、曹仁、徐晃を江陵に残し、楽進に襄陽を守らせた。この時、甘寧が夷陵におり、曹仁の仲間に包囲されていたが、呂蒙の計略を用い、淩統を残して曹仁を防がせ、その半分の軍勢で甘寧を救援し、軍は勝利して帰還した。孫権は自ら衆を率いて合肥を包囲し、張昭に九江郡の当塗を攻撃させた。張昭の軍は不利で、孫権は城を攻めて一ヶ月余り経っても陥落させられなかった。曹操が荊州から帰還し、張喜に騎兵を率いて合肥へ向かわせた。到着する前に、孫権は撤退した。(黟は「伊」と読み、歙は「摂」と読む。『呉録』にいう:晋は新定を遂安と改めた。『呉録』にいう:晋は休陽を海寧と改めた。『江表伝』に曹操が孫権に送った書簡を載せており、「近ごろ天子の命を奉じて罪を討ち、軍旗を南に向ければ劉琮は手を縛して降った。今、水軍八十万の大軍を整え、まさに将軍と呉の地で狩りを共にしようとしている」とある。孫権がこの書簡を群臣に示すと、皆驚愕して顔色を失わない者はなかった。)
原文十三年春,權復征黃祖,祖先遣舟兵拒軍,都尉呂蒙破其前鋒。而淩統、董襲等盡銳攻之,遂屠其城。祖挺身亡走,騎士馮則追梟其首,虜其男女數萬口。是歳,使賀齊討黟、歙,〈黟音伊。歙音攝。〉分歙爲始新、新定、〈吳錄曰:晉改新定爲遂安。〉犂陽、休陽縣,〈吳錄曰:晉改休陽爲海寧。〉以六縣爲新都郡。荊州牧劉表死,魯肅乞奉命弔表二子,且以觀變。肅未到,而曹公已臨其境,表子琮舉眾以降。劉備欲南濟江,肅與相見,因傳權旨,爲陳成敗。備進住夏口,使諸葛亮詣權,權遣周瑜、程普等行。是時曹公新得表眾,形勢甚盛。諸議者皆望風畏懼,多勸權迎之。〈《江表傳》載曹公與權書曰:「近者奉辭伐罪,旄麾南指,劉琮束手。今治水軍八十萬眾,方與將軍會獵於吳。」權得書以示群臣,莫不鄉震失色。〉惟瑜、肅執拒之儀,意與權同。瑜、普爲左右督,各領萬人,與備俱進,遇於赤壁,大破曹公軍。公燒其餘船引退,士卒饑疫,死者大半。備、瑜等復追至南郡。曹公遂北還,留曹仁、徐晃於江陵,使樂進守襄陽。時甘寧在夷陵,爲仁黨所圍,用呂蒙計,留淩統以拒仁,以其半救寧,軍以勝反。權自率眾圍合肥,使張昭攻九江之當塗。昭兵不利,權攻城逾月不能下。曹公自荊州還,遣張喜將騎赴合肥。未至,權退。
十四年、周瑜と曹仁が一年余り対峙し、殺傷した者は非常に多かった。曹仁は城を捨てて逃走した。孫権は周瑜を南郡太守とした。劉備は孫権を行車騎将軍とし、徐州牧を兼任させると上表した。劉備は荊州牧を兼任し、公安に駐屯した。
原文十四年,瑜、仁相守歳餘,所殺傷甚眾。仁委城走。權以瑜爲南郡太守。劉備表權行車騎將軍,領徐州牧。備領荊州牧,屯公安。
十五年、豫章郡を分割して鄱陽郡とし、長沙郡を分割して漢昌郡とした。魯粛を太守として陸口に駐屯させた。
原文十五年,分豫章爲鄱陽郡;分長沙爲漢昌郡。以魯肅爲太守,屯陸口。
十六年、孫権は治所を秣陵に移した。翌年、石頭城を築き、秣陵を建業と改称した。曹操が侵攻してくると聞き、濡須塢を築いた。
原文十六年,權徙治秣陵。明年,城石頭,改秣陵爲建業。聞曹公將來侵,作濡須塢。
十八年正月、曹操が濡須を攻撃し、孫権はこれと一ヶ月余り対峙した。曹操が孫権の軍を見て、その整然とした様子に感嘆し、ついに撤退した。初め、曹操は長江沿岸の郡県が孫権に略奪されるのを恐れ、内陸への移住を命じた。民衆は互いに驚き、廬江、九江、蘄春、広陵の戸十余万が皆、東へ長江を渡った。江西はこれにより空虚となり、合肥以南ではただ皖城だけが残った。(『呉暦』にいう:曹操は濡須に出て油船を作り、夜に洲の上へ渡った。孫権は水軍でこれを包囲して三千余人を捕らえ、溺死者もまた数千人に及んだ。孫権はしばしば挑戦したが、曹操は堅く守って出なかった。そこで孫権は自ら軽船に乗り、濡須口から曹操の軍中に入った。諸将は皆これを挑戦者だと思い、攻撃しようとした。曹操は「これはきっと孫権が自らわが軍の隊伍を見ようとしているのだ」と言い、軍中に命じて皆精鋭厳粛にし、弓弩をみだりに放ってはならぬとした。孫権は五六里進んでから引き返し、太鼓を鳴らした。曹操は舟船・兵器・軍の隊伍が整然としているのを見て、しみじみと嘆いて「子を生むなら孫仲謀のようでありたい。劉景升の子らは豚や犬のようなものだ」と言った。孫権は曹操に書簡を送り、「春の水がまさに増えようとしている。公は速やかに去るべきだ」と述べ、別紙には「足下が死ななければ、孤は安んじられない」とあった。曹操は諸将に「孫権は孤を欺かない」と言い、軍を撤収して帰った。『魏略』にいう:孫権が大船に乗って軍を視察しに来たので、曹操は弓弩を乱射させた。矢が船に突き刺さり、船が片側に傾いて覆りそうになったので、孫権は船を回し、再び反対側で矢を受けると、矢が均等になって船が平らになり、それから帰った。)
原文十八年正月,曹公攻濡須,權與相拒月餘。曹公望權軍,歎其齊肅,乃退。〈《吳歷》曰:曹公出濡須,作油船,夜渡洲上。權以水軍圍取,得三千餘人,其沒溺者亦數千人。權數挑戰,公堅守不出。權乃自來,乘輕船,從灞須口入公軍。諸將皆以爲是挑戰者,欲擊之。公曰:「此必孫權欲身見吾軍部伍也。」敕軍中皆精嚴,弓弩不得妄發。權行五六里,回還作鼓吹。公見舟船器仗軍伍整肅,喟然嘆曰:「生子當如孫仲謀,劉景升兒子若豚犬耳!」權爲箋與曹公,説:「春水方生,公宜速去。」別紙言:「足下不死,孤不得安。」曹公語諸將曰:「孫權不欺孤。」乃徹軍還。魏略曰:權乘大船來觀軍,公使弓弩亂發,箭著其船,船偏重將覆,權因回船,復以一面受箭,箭均船平,乃還。〉初,曹公恐江濱郡縣爲權所略,徵令內移。民轉相驚,自廬江、九江、蘄春、廣陵戸十餘萬皆東渡江。江西遂虛,合肥以南惟有皖城。
十九年五月、孫権は皖城を征伐した。閏月、これを攻略した。廬江太守の朱光と参軍の董和を捕らえ、男女数万口を得た。この年、劉備が蜀を平定した。孫権は劉備がすでに益州を得たと考え、諸葛瑾を派遣して荊州の諸郡を要求させた。劉備は許さず、「私は今、涼州を図っている。涼州が定まったら、初めて荊州を全て呉に与えよう」と言った。孫権は「これは借りたまま返さず、空虚な言葉で年月を引き延ばそうとしているのだ」と言い、ついに南方三郡の長吏を任命したが、関羽がことごとくこれを追い出した。孫権は大いに怒り、呂蒙に鮮於丹、徐忠、孫規らの兵二万を督させて長沙、零陵、桂陽の三郡を奪取させ、魯粛に一万人を率いて巴丘に駐屯させて関羽を防がせた。孫権は陸口に留まり、諸軍の指揮をとった。呂蒙が到着すると、二郡は皆服従したが、ただ零陵太守の郝普だけが降らなかった。ちょうど劉備が公安に到着し、関羽に三万の兵を率いて益陽に至らせたので、孫権は呂蒙らを召還して魯粛を助けさせた。呂蒙は人を遣わして郝普を誘い、郝普は降伏し、三郡の将軍と太守をことごとく得た。そこで軍を引き返し、孫皎、潘璋および魯粛の軍とともに進軍し、益陽で関羽を防いだ。戦わないうちに、曹操が漢中に入ったため、劉備は益州を失うことを恐れ、使者を派遣して和を請うた。孫権は諸葛瑾に返答させ、改めて同盟の友好を求めた。ついに荊州を分割し、長沙、江夏、桂陽以東を孫権に属させ、南郡、零陵、武陵以西を劉備に属させた。劉備が帰還すると、曹操はすでに引き返していた。孫権は陸口から帰還し、ついに合肥を征伐した。合肥は陥落せず、軍を引き返した。兵士が皆、帰路についた時、孫権は淩統、甘寧らと津の北で魏の将軍張遼に襲撃され、淩統らが命をかけて孫権を守った。孫権は駿馬に乗って津橋を越えて逃げ去った。(巴丘は今は巴陵という。『献帝春秋』にいう:張遼が呉の降伏者に「さきほど紫髯の将軍がいたが、上は長く下は短く、馬に巧みで射に優れていた。あれは誰か」と尋ねた。降伏者は「孫会稽です」と答えた。張遼は楽進と出会い、早く知らなかったために急いで追えば捕らえられたはずだと語り、全軍が嘆き恨んだ。『江表伝』にいう:孫権は駿馬に乗って津橋に上ったが、橋の南はすでに撤去されており、一丈余りに板がなかった。谷利が馬の後ろにいて、孫権に鞍を持って手綱を緩めるよう促し、谷利は後ろから鞭を打って馬の勢いを助け、こうして飛び越えることができた。孫権は逃れた後、ただちに谷利を都亭侯に任じた。谷利とはもともと左右の給使であり、謹直さによって親近監となり、性格は忠実果敢で高潔、言葉はいい加減にせず、孫権は彼を愛し信頼した。)
原文十九年五月,權征皖城。閏月,克之。獲廬江太守朱光及參軍董和,男女數萬口。是歳劉備定蜀。權以備已得益州,令諸葛瑾從求荊州諸郡。備不許,曰:「吾方圖涼州,涼州定,乃盡以荊州與吳耳。」權曰:「此假而不反,而欲以虛辭引歳。」遂置南三郡長吏,關羽盡逐之。權大怒,乃遣呂蒙督鮮於丹、徐忠、孫規等兵二萬取長沙、零陵、桂陽三郡;使魯肅以萬人屯巴丘〈巴丘今曰巴陵。〉以御關羽。權住陸口,爲諸軍節度。蒙到,二郡皆服,惟零陵太守郝普未下。會備到公安,使關羽將三萬兵至益陽,權乃召蒙等使還助肅。蒙使人誘普,普降,盡得三郡將守。因引軍還,與孫皎、潘璋並魯肅兵並進,拒羽於益陽。未戰,會曹公入漢中,備懼失益州,使使求和。權令諸葛瑾報,更尋盟好。遂分荊州、長沙、江夏、桂陽以東屬權,南郡、零陵、武陵以西屬備。備歸,而曹公已還。權反自陸口,遂征合肥。合肥未下,徹軍還。兵皆就路,權與淩統、甘寧等在津北爲魏將張遼所襲,統等以死扞權。權乘駿馬越津橋得去。〈《獻帝春秋》曰:張遼問吳降人:「向有紫髥將軍,長上短下,便馬善射,是誰?」降人答曰:「是孫會稽。」遼及樂進相遇,言不早知之,急追自得,舉軍嘆恨。《江表傳》曰:權乘駿馬上津橋,橋南已見徹,丈餘無版。谷利在馬後,使權持鞍緩控,利於後著鞭,以助馬勢,遂得超度。權旣得免,即拜利都亭侯。谷利者,本左右給使也,以謹直爲親近監,性忠果亮烈,言不苟且,權愛信之。〉
二十一年の冬、曹操は居巢に駐屯し、ついで濡須を攻撃した。
原文二十一年冬,曹公次於居巢,遂攻濡須。
二十二年の春、孫権は都尉の徐詳を曹操のもとに派遣して降伏を請わせた。曹操は使者を返して友好を修め、誓って婚姻を重ねた。
原文二十二年春,權令都尉徐詳詣曹公請降,公報使修好,誓重結婚。
二十三年十月、孫権が呉へ向かおうとした時、自ら馬に乗って庱亭で虎を射た。馬が虎に傷つけられたが、孫権は双戟を投げつけ、虎は退いて動けなくなった。常に従っていた張世が戈で撃って、これを捕らえた。
原文二十三年十月,權將如吳,親乘馬射虎於庱亭。〈庱音攄陵反。〉馬爲虎所傷,權投以雙戟,虎卻廢。常從張世擊以戈,獲之。
建安二十四年、関羽が曹仁を襄陽に包囲した。曹操は左将軍于禁を派遣して救援させた。ちょうど漢水が急激に増水し、関羽は水軍を用いて于禁らの歩兵・騎兵三万をことごとく生け捕りにして江陵へ送ったが、城だけは陥落しなかった。孫権は内心関羽を恐れ、外見上は自らの功績にしようと考え、曹操に書簡を送り、関羽を討伐して自らの忠誠を示すことを請うた。曹操は関羽と孫権を対立させて争わせようと考え、駅伝で孫権の書簡を届けさせ、曹仁に弩で射て関羽に見せさせた。関羽はためらって撤退しなかった。閏月、孫権は関羽を征討し、先に呂蒙を派遣して公安を襲撃させ、将軍の士仁を捕らえた。呂蒙が南郡に到着すると、南郡太守の糜芳は城を挙げて降伏し、呂蒙は江陵を占拠し、その地の老人や弱者を慰撫し、于禁の捕虜を釈放した。陸遜は別働隊で宜都を攻略し、秭帰・枝江・夷道を獲得し、帰還して夷陵に駐屯し、峡口を守って蜀に備えた。関羽は当陽に戻り、西の麦城を守った。孫権は人を遣わして彼を誘い出そうとした。関羽は偽って降伏し、城上に幡旗を立てて人形を置き、その隙に逃走したが、兵士は皆離散し、まだ十余騎が残っていた。孫権は先に朱然と潘璋に彼の退路を断たせた。十二月、潘璋の司馬である馬忠が章郷で関羽とその子の関平、都督の趙累らを捕らえ、こうして荊州を平定した。この年は大きな疫病が流行ったため、荊州の民の租税をすべて免除した。曹操は孫権を驃騎将軍に上表し、節を与えて荊州牧を兼任させ、南昌侯に封じた。孫権は校尉の梁寓を派遣して漢に貢物を献上した。また王惇に命じて馬を買わせ、さらに朱光らを帰還させた。(『魏略』にいう:梁寓は字を孔儒といい、呉の人である。孫権は梁寓を派遣して曹操の様子をうかがわせたところ、曹操はそのまま彼を掾に任じ、ほどなく南へ帰らせた。)
原文二十四年,關羽圍曹仁於襄陽,曹公遣左將軍于禁救之。會漢水暴起,羽以舟兵盡生虜禁等步騎三萬送江陵,惟城未拔。權內憚羽,外欲以爲己功,箋與曹公,乞以討羽自效。曹公且欲使羽與權相持以鬬之,驛傳權書,使曹仁以弩射示羽。羽猶豫不能去。閏月,權征羽,先遣呂蒙襲公安,獲將軍士仁。蒙到南郡,南郡太守糜芳以城降,蒙據江陵,撫其老弱,釋於禁之囚。陸遜別取宜都,獲秭歸、枝江、夷道,還屯夷陵,守峽口以備蜀。關羽還當陽,西保麥城。權使誘之。羽偽降,立幡旗爲像人於城上,因遁走,兵皆解散,尚十餘騎。權先使朱然、潘璋斷其徑路。十二月,璋司馬馬忠獲羽及其子平、都督趙累等於章鄉,遂定荊州。是歳大疫,盡除荊州民租稅。曹公表權爲驃騎將軍,假節領荊州牧,封南昌侯。權遣校尉梁寓奉貢於漢。及令王惇市馬,又遣朱光等歸。〈《魏略》曰:梁寓字孔儒,吳人也。權遣寓觀望曹公,曹公因以爲掾,尋遣還南。〉
建安二十五年春正月、曹操が死去した。太子の曹丕が丞相・魏王の地位を継ぎ、年号を延康と改めた。秋、魏の将軍の梅敷が張儉を使者として派遣し、懐柔と帰順を受け入れることを求めてきた。南陽郡の陰・酇・築陽・山都・中廬の五県の民五千家が来て帰順した。冬、魏の嗣王(曹丕)が皇帝の称号を称し、元号を黄初と改めた。
原文二十五年春正月,曹公薨。太子丕代爲丞相魏王,改年爲延康。秋,魏將梅敷使張儉求見撫納。南陽陰、酇築陽、〈築音逐。〉山都、中廬五縣民五千家來附。冬,魏嗣王稱尊號,改元爲黃初。
黄初二年四月、劉備が蜀で皇帝を称した。孫権は公安から鄂に都を移し、地名を武昌と改め、武昌・下雉・尋陽・陽新・柴桑・沙羨の六県を武昌郡とした。五月、建業で甘露が降ったと報告があった。八月、武昌に城を築き、諸将に命令を下した。「生きている時に滅亡を忘れず、安泰の時には必ず危険を考慮するのは、古来の優れた教えである。昔、雋不疑は漢の名臣であったが、太平の世にあっても刀剣を身から離さなかった。君子が武備を怠ってはならないからである。ましてや今、我々は国境に身を置き、豺狼のような敵と接しているのに、軽視して変難を考えないなどありえようか。近頃聞くところによると、諸将が出入りする際、それぞれ謙虚で質素を尊び、護衛の兵を従えないというが、これは備えを考え、身を大切にするという意味では全くない。己の身を保ち名を後世に残し、君主と親を安んじるのと、危険と恥辱とではどちらがよいか。深く警戒し、大義を重んじることに務め、孤の意に副うようにせよ。」魏の文帝(曹丕)が即位して以来、孫権は使者を派遣して藩国として称し、于禁らを送還した。十一月、(文帝は)孫権に策命を下した。「そもそも聖王の法は、徳によって爵を設け、功績によって禄を定める。労苦が大きい者は禄が厚く、徳が盛んな者は礼が豊かである。ゆえに周公旦には補佐の勲功があり、太公望には鷹揚の功績があり、ともに領土を開き、ともに礼器を受けた。これは大功を顕彰し、賢哲を特別に遇するためである。近くは漢の高祖が天命を受けた初め、肥沃な地を分けて八姓を王とした。これこそ前世の美事であり、後世の君主の手本である。朕は不徳ながら、天命を受け革命を承け、万国に君臨し、天下の機務を統べている。先代に並ぼうと思い、座して夜明けを待つ。ただ君は天性忠誠で明るく、世に命ぜられて補佐となり、歴数の道理を深く見極め、興廃の理を達観した。遠く使者を遣わし、潜・漢の水を渡らせて来朝させた。風の便りを聞いて影のように付き従い、上疏を捧げて藩国と称し、さらに南方の貢物である細かい葛布を納め、諸将をことごとく派遣して本朝に帰還させた。忠誠と謹みの心が内から発し、真心が外に明らかになり、信義は金石に刻まれ、節義は山河を覆う。朕は大いにこれを嘉する。今、君を呉王に封じ、使持節の太常・高平侯の邢貞を使者として、君に璽綬・策書、金虎符第一から第五、左竹使符第一から第十を授け、大将軍として使持節で交州を監督し、荊州牧の事務を兼任させる。君に青土を賜い、白茅で包んで、朕の命に応えて東方を治めよ。以前の驃騎将軍・南昌侯の印綬・符策は返上せよ。今さらに君に九錫を加える。後の命を敬って聴け。君が東南を安んじ、江外を統治し、民と夷狄が安らかに生業に従い、離反する者がいない。よって君に大輅と戎輅を各一台、黒い雄馬八頭を賜う。君が財を務め農を勧め、倉庫が満ち積もっている。よって君に袞冕の礼服を賜い、赤い舄を副える。君が徳をもって民を教化し、礼教が盛んに行われている。よって君に軒懸の楽を賜う。君が善政の風を宣揚し、百越を懐柔している。よって君に朱戸を賜って住まわせる。君がその才謀を働かせ、官職を正しくして賢者を任用している。よって君に納陛を賜って昇殿させる。君が忠勇をともに奮い起こし、奸悪を清除している。よって君に虎賁の士百人を賜う。君が威を振るって遠くまで及び、荊南で力を尽くし、凶悪な者を滅ぼし、罪人を捕らえている。よって君に鈇と鉞を各一つ賜う。君が内では文を和らげ、外では武に信を示している。よって君に彤弓一つ、彤矢百本、玈弓十張、玈矢千本を賜う。君が忠誠と謹みを基とし、恭しみと倹約を徳としている。よって君に秬鬯一卣を賜い、圭瓚を副える。敬えよ。訓戒と典法を広く敷き、朕の命に服し、我が国家を補佐することを勧め、永遠にその輝かしい功績を終わらせるな。」(『魏略』にいう。孫権は魏の文帝が禅を受けて劉備が帝を称したと聞き、すなわち星を知る者を呼んで問うた。自分の分野の星気はどうかと。そこで僭号の意を抱いた。しかし位次はまだ少なく、衆を威するに由なく、またまず卑しみて後に踞えようと欲した。卑しめば寵を仮ることができ、後に踞えれば必ず討を致し、討を致してから衆を怒らせ、衆が怒ってから自ら大いなることができる。ゆえに深く蜀を絶って専ら魏に事えた。『禹貢』にいう。沱・潜すでに道あり。注にいう。水、江より出づるを沱と為し、漢を潜と為す。『江表伝』にいう。孫権の群臣が議し、上将軍・九州伯と称すべきで、魏の封を受けるべきでないとした。孫権は言った。『九州伯は古に聞かぬ。昔、沛公も項羽に拝されて漢王となった。これも時宜であり、何の損があろうか。』そこでこれを受けた。孫盛にいう。昔、伯夷・叔斉は周に屈せず、魯仲連は秦の民とならなかった。匹夫の志でもなお義として辱しめを受けぬ。まして列国の君として天下を三分しながら、その節を二三にし、あるいは臣となりあるいは否となろうか。余は呉・蜀を観るに、皆漢に奉ずると称したが、漢代に至っては固く臣節を守ることができなかった。君子はこれによってその後に克く昌えることができず、ついに大国に吞まれたことを知る。もし孫権が群臣の議に従い、終身漢の将と称していたならば、どうして義は六合を悲しませ、仁は百世を感じさせずに済んだであろうか。)
原文二年四月,劉備稱帝於蜀。〈《魏略》曰:權聞魏文帝受禪而劉備稱帝,乃呼問知星者,己分野中星氣何如,遂有僭意。而以位次尚少,無以威眾,又欲先卑而後踞之,爲卑則可以假寵,後踞則必致討,致討然後可以怒眾,眾怒然後可以自大,故深絶蜀而專事魏。〉權自公安都鄂,改名武昌,以武昌、下雉、尋陽、陽新、柴桑、沙羨六縣爲武昌郡。五月,建業言甘露降。八月,城武昌,下令諸將曰:「夫存不忘亡,安必慮危,古之善教。昔雋不疑漢之名臣,於安平之世刀劍不離於身,蓋君子之於武備,不可以已。況今處身疆畔,豺狼交接,而可輕忽不思變難哉?頃聞諸將出入,各尚謙約,不從人兵,甚非備慮愛身之謂。夫保己遺名,以安君親,孰與危辱?宜深警戒,務祟其大,副孤意焉。」自魏文帝踐阼,權使命稱藩,及遣于禁等還。十一月,策命權曰:「蓋聖王之法,以德設爵,以功制祿;勞大者祿厚,德盛者禮豐。故叔旦有夾輔之勳,太公有鷹揚之功,並啟土宇,並受備物,所以表章元功,殊異賢哲也。近漢髙祖受命之初,分裂膏腴以王八姓。斯則前世之懿事,后王之元龜也。朕以不德,承運革命,君臨萬國,秉統天機。思齊先代,坐而待旦。惟君天資忠亮,命世作佐,深睹歷數,達見廢興。遠遣行人,浮於潛漢。〈禹貢曰:沱、潛旣道,注曰:「水自江出爲沱,漢爲潛。」〉望風影附,抗疏稱藩,兼納纖絺南方之貢,普遣諸將來還本朝。忠肅內發,款誠外昭,信著金石,義蓋山河。朕甚嘉焉。今封君爲吳王,使使持節太常髙平侯貞,授君璽綬策書、金虎符第一至第五、左竹使符第一至第十,以大將軍使持節督交州,領荊州牧事,錫君靑土,苴以白茅,對揚朕命,以尹東夏。其上故驃騎將軍南昌侯印綬符策。今又加君九錫,其敬聽後命。以君綏安東南,綱紀江外,民夷安業,無或攜貳。是用錫尹大輅、戎輅各一,玄牡二駟。君務財勸農,倉庫盈積,是用錫君袞冕之服,赤舄副焉。君化民以德,禮教興行,是用錫君軒縣之樂。君宣導休風,懷柔百越,是用錫君朱戸以居。君運其才謀,官方任賢,是用錫君納陛以登。君忠勇並奮,清除姦慝,是用錫君虎賁之士百人。君振威陵邁,宣力荊南,梟滅兇醜,罪人斯得。是用錫君鈇鉞各一,君文和於內,武信於外,是用錫君彤弓一、彤矢百、玈弓十、玈矢千。君以忠肅爲基,恭儉爲德,是用錫君秬鬯一卣,圭瓚副焉。欽哉!敬敷訓典,以服朕命,以勖相我國家,永終爾顯烈。」〈《江表傳》曰:權群臣議,以爲宜稱上將軍九州伯,不應受魏封。權曰:「九州伯,於古未聞也。昔沛公亦受項羽拜爲漢王,此蓋時宜耳,復何損邪?」遂受之。孫盛曰:「昔伯夷、叔齊不屈有周,魯仲連不爲秦民。夫以匹夫之志,猶義不辱,況列國之君三分天下,而可二三其節,或臣或否乎?餘觀吳、蜀,咸稱奉漢,至於漢代,莫能固秉臣節,君子是以知其不能克昌厥後,卒見吞於大國也。曏使權從群臣之議,終身稱漢將,豈不義悲六合,仁感百世哉!」〉
この年、劉備は軍を率いて来攻し、巫山・秭帰に至り、使者を遣わして武陵の蛮夷を誘導し、印綬を仮に与え、封賞を約束した。そこで諸県及び五谿の民は皆、蜀に反した。孫権は陸遜を督とし、朱然・潘璋らを督いてこれを防がせた。都尉の趙咨を魏に遣わした。魏の皇帝(文帝)が問うて言った、「呉王はどのような君主か」。趙咨が答えて言った、「聡明で仁智、雄略の主です」。帝がその様子を問うと、趙咨は言った、「魯粛を凡品の中から取り立てたのは、その聡明さです。呂蒙を行陣の中から抜擢したのは、その明察さです。于禁を捕らえながら害さなかったのは、その仁愛です。荊州を取ったのに兵に血を刃に染めさせなかったのは、その知恵です。三州を占拠して天下を虎視眈々と見据えているのは、その雄大さです。陛下に身を屈しているのは、その謀略です」。帝は孫権の子の孫登を封じようとしたが、孫権は孫登が幼いことを理由に、上書して封を辞退し、重ねて西曹掾の沈珩を遣わして陳謝させ、方物を献上した。(『呉書』にいう。趙咨は字を徳度といい、南陽の人である。博聞多識で、応対は弁捷であった。孫権が呉王となると、中大夫に抜擢し、魏に遣わした。魏の文帝はこれを善しとし、趙咨を嘲って言った。『呉王はかなり学問を知っているか。』答えて言った。『呉王は江に浮かぶ万艘、甲を帯びる百万、賢を任じ能を用い、志は経略に存します。余暇があれば、書伝歴史を博覧し、奇異を採り、諸生のように章を尋ね句を摘むのみには倣いません。』帝が言った。『呉は征すべきか。』趙咨は答えて言った。『大国には征伐の兵があり、小国には備御の固があります。』また言った。『呉は魏を難とするか。』趙咨は言った。『甲を帯びる百万、江・漢を池とします。何の難がありましょうか。』また言った。『呉に大夫のような者は何人いるか。』趙咨は言った。『聡明特達の者は八九十人、臣のような者は車に載せ斗で量るほどで、数え切れません。』趙咨はしばしば北に使いし、人は敬い異とした。孫権は聞いてこれを嘉し、騎都尉に拝した。趙咨が言った。『北方を観るに終に盟を守ることはできません。今日の計としては、朝廷は漢四百年の際を承け、東南の運に応ずべきです。年号を改め、服色を正し、天に応じ民に順ずべきです。』孫権はこれを用いた。『呉書』にいう。沈珩は字を仲山といい、呉郡の人である。少くして経芸を綜べ、特に春秋の内・外伝を善くした。孫権は沈珩に智謀があり、専対できるとして、魏に遣わした。魏の文帝が問うて言った。『呉は魏が東に向かうことを嫌うか。』沈珩は言った。『嫌いません。』『なぜか。』『信をもって旧盟を恃み、和に帰すと言われているので、それゆえ嫌いません。もし魏が盟を渝めれば、自ずから予備があります。』また問うた。『太子が来ると聞くが、果たしてそうか。』沈珩は言った。『臣は東朝にあり、朝に坐せず、宴に与らず、このような議は聞いておりません。』文帝はこれを善しとし、沈珩を引き寄せて近づけ、終日談語した。沈珩は事に随って響応し、屈服するところがなかった。沈珩は還って言った。『臣は密かに侍中の劉曄に参じましたが、しばしば賊のために奸計を設け、終に久しく愨くはありません。臣は兵家の旧論を聞きますに、敵の我を犯さぬを恃まず、我の犯すべからざるを恃むと。今、朝廷のためにこれを慮ります。まさに他の役を省息し、ただ農桑に務めて軍資を広め、舟車を修繕し、戦具を増作して皆兼ね盈たせ、兵民を撫養して各々其所を得させ、英俊を攬延し、将士を奨励すれば、天下は図るべきです。』奉使に称ありとして、永安郷侯に封じられ、官は少府に至った。『江表伝』にいう。この年、魏の文帝は使者を遣わして雀頭香・大貝・明珠・象牙・犀角・玳瑁・孔雀・翡翠・闘鴨・長鳴鶏を求めた。群臣が奏して言った。『荊・揚二州の貢には常典があります。魏の求める珍玩の物は礼に非ず、与えるべきではありません。』孫権は言った。『昔、恵施は斉を尊んで王と為した。客がこれを難じて言った。「公の学は尊を去る。今、斉を王と為すのは、何と倒れていることか。」恵子が言った。「ここに人あり、その愛子の頭を撃たんと欲し、石もてこれに代えることができる。子の頭は重んずるところ、石は軽んずるところである。軽をもって重に代えて、何ぞ不可ならんや。」まさに西北に事あらんとし、江表の元元は主を恃みて命と為す。これ我が愛子に非ずや。彼の求むるものは、我にとって瓦石に過ぎぬ。孤は何をか惜しまん。彼は諒闇の中にありながら、求むるところこのごとし。どうして礼を言うことができようか。』皆具に与えた。)
原文是歳,劉備師軍來伐,至巫山、秭歸,使使誘導武陵蠻夷,假與印傳,許之封賞。於是諸縣及五谿民皆反爲蜀。權以陸遜爲督,督朱然、潘璋等以拒之。遣都尉趙咨使魏。魏帝問曰:「吳王何等主也?」咨對曰:「聰明仁智,雄略之主也。」帝問其狀,咨曰:「納魯肅於凡品,是其聰也;拔呂蒙於行陳,是其明也;獲於禁而不害,是其仁也;取荊州而兵不血刃,是其智也;據三州虎視於天下,是其雄也;屈身於陛下,是其略也。」〈吳書曰:咨字德度,南陽人,博聞多識,應對辯捷,權爲吳王,擢中大夫,使魏。魏文帝善之,嘲咨曰:「吳王頗知學乎?」答曰:「吳王浮江萬艘,帶甲百萬,任賢使能,志存經略,雖有餘間,博覽書傳歷史,藉采奇異,不效諸生尋章摘句而已。」帝曰:「吳可征不?」咨對曰:「大國有征伐之兵,小國有備御之固。」又曰:「吳難魏不?」咨曰:「帶甲百萬,江、漢爲池,何難之有?」又曰:「吳如大夫者幾人?」咨曰:「聰明特達者八九十人,如臣之比,車載斗量,不可勝數。」咨頻載使北,人敬異。權聞而嘉之,拜騎都尉。咨言曰:「觀北方終不能守盟,今日之計,朝廷承漢四百之際,應東南之運,宜改年號,正服色,以應天順民。」權納之。〉帝欲封權子登,權以登年幼,上書辭封,重遣西曹掾沈珩陳謝,並獻方物。〈吳書曰:珩字仲山,吳郡人,少綜經藝,尤善春秋內、外傳。權以珩有智謀,能專對,乃使至魏。魏文帝問曰:「吳嫌魏東向乎?」珩曰:「不嫌。」曰:「何以?」曰:「信恃舊盟,言歸於好,是以不嫌。若魏渝盟,自有豫備。」又問:「聞太子當來,寧然乎?」珩曰:「臣在東朝,朝不坐,宴不與,若此之議,無所聞也。」文帝善之,乃引珩自近,談語終日。珩隨事響應,無所屈服。珩還言曰:「臣密參侍中劉曄,數爲賊設奸計,終不久愨。臣聞兵家舊論,不恃敵之不我犯,恃我之不可犯,今爲朝廷慮之。且當省息他役,惟務農桑以廣軍資;脩繕舟車,增作戰具,令皆兼盈;撫養兵民,使各得其所;攬延英俊,奬勵將士,則天下可圖矣。」以奉使有稱,封永安鄉侯,官至少府。〉立登爲王太子。〈《江表傳》曰:是歳魏文帝遣使求雀頭香、大貝、明珠、象牙、犀角、玳瑁、孔雀、翡翠、鬬鴨、長鳴雞。群臣奏曰:「荆、揚二州,貢有常典,魏所求珍玩之物非禮也,宜勿與。」權曰:「昔惠施尊齊爲王,客難之曰:『公之學去尊,今王齊,何其倒也?』惠子曰:『有人於此,欲擊其愛子之頭,而石可以代之,子頭所重而石所輕也,以輕代重,何爲不可乎?』方有事於西北,江表元元,恃主爲命,非我愛子邪?彼所求者,於我瓦石耳,孤何惜焉?彼在諒闇之中,而所求若此,寧可與言禮哉!」皆具以與之。〉
黄武元年春正月、陸遜の部将の宋謙らが蜀の五つの屯を攻撃し、皆これを破り、その将を斬った。三月、鄱陽で黄龍が現れたと報告があった。蜀軍は険阻な地に分かれて拠り、前後五十余りの営を築いた。陸遜は軽重に応じて兵で対応し、正月から閏月にかけて、これを大破した。陣前で斬った者および武器を捨て降伏した者の首は数万人に上った。劉備は逃走し、辛うじて身一つで逃れた。(『呉歴』にいう。孫権は使者を遣わして魏に聘し、劉備を破り印綬および首級・所得の土地を具に上し、併せて将吏の功勤に爵賞を加うべきの意を表した。文帝は報使を遣わし、鼲子裘・明光鎧・騑馬を致し、また素書で作った典論および詩賦を孫権に与えた。『魏書』に詔答を載せて言う。『老虜は辺窟にあり、険を越えて深入りし、日を曠うして持久し、内は罷弊に迫られ、外は智力に困しみ、ゆえに鶏頭に身を見わし、兵を分かって西陵を擬した。その計はただ足を転じて前跡とし江東を揺動できるというに過ぎぬ。根いまだ地に著かぬうちに、その支を摧折した。未だ備の五臓を刳らず、身首を分離せしめずといえども、その降誅するところは、また虜の部衆をして兇懼せしむるに足る。昔、呉漢はまず荊門を焼き、後に夷陵を発し、子陽はその死を逃れるところがなかった。来歙は始め略陽を襲い、文叔はこれを喜び、隗囂の巧を施すところなきを知った。今この虜を討つは、まさにその事に似ている。将軍は勉めて方略を建て、務めて独克を全うせよ。』)
原文黃武元年春正月,陸遜部將軍宋謙等攻蜀五屯,皆破之,斬其將。三月,鄱陽言黃龍見。蜀軍分據險地,前後五十餘營。遜隨輕重以兵應拒,自正月至閏月,大破之。臨陳所斬及投兵降首數萬人。劉備奔走,僅以身免。〈《吳歷》曰:權以使聘魏,具上破備獲印綬及首級、所得土地,幷表將吏功勤宜加爵賞之意。文帝報使,致鼲子裘、明光鎧、騑馬,又以素書所作《典論》及詩賦與權。《魏書》載詔答曰:「老虜邊窟,越險深入,曠日持久,內迫罷弊,外困智力,故見身於雞頭,分兵擬西陵,其計不過謂可轉足前迹以搖動江東。根未著地,摧折其支,雖未刳備五臟,使身首分離,其所降誅,亦足使虜部眾兇懼。昔吳漢先燒荆門,後發夷陵,而子陽無所逃其死;來歙始襲略陽,文叔喜之,而知隗囂無所施其巧。今討此虜,正似其事,將軍勉建方略,務全獨克。」〉
当初、孫権は表面上は魏に事えると称していたが、誠心は伴わなかった。魏は侍中の辛毗・尚書の桓階を遣わして盟誓を結ばせ、併せて任子(人質)を徴発しようとしたが、孫権は辞退して受けなかった。秋九月、魏はついに曹休・張遼・臧霸に洞口から出撃させ、曹仁に濡須から出撃させ、曹真・夏侯尚・張郃・徐晃に南郡を包囲させた。孫権は呂範らに五軍を督させ、水軍をもって曹休らを防がせ、諸葛瑾・潘璋・楊粲に南郡を救援させ、朱桓を濡須督として曹仁を防がせた。当時、揚州・越の蛮夷は多くまだ平定・帰順しておらず、内難も収まっていなかったので、孫権はへりくだった言葉で上書し、自ら改心・奮励することを求め、「もし罪が除き難いものであれば、必ずお許しはいただけないでしょうから、土地と民人をお返し申し上げます。どうか交州に命を預け、余生を終えさせてください」と述べた。
原文初權外託事魏,而誠心不款。魏欲遣待中辛毗、尚書桓階往與盟誓,並征任子,權辭讓不受。秋九月,魏乃命曹休、張遼、臧霸出洞口,曹仁出濡須,曹眞、夏侯尚、張郃、徐晃圍南郡。權遣呂範等督五軍,以舟軍拒休等,諸葛瑾、潘璋、楊粲救南郡,朱桓以濡須督拒仁。時揚、越蠻夷多未平集,內難未弭,故權卑辭上書,求自改厲,「若罪在難除,必不見置,當奉還土地民人。乞寄命交州,以終餘年。」
文帝は返答して言った。「あなたは乱世に生まれ、もともと縦横に活躍する志を持ちながら、身を低くして国に仕え、この福禄を享受してきた。あなたが名を挙げて以来、貢ぎ物は道を満たしている。劉備を討つ功績は、朝廷が仰ぎ頼るところとなった。埋めて掘り返すのは、古人が恥じたことだ。朕とあなたの間では、大義はすでに定まっている。どうしてわざわざ軍を労して遠く江漢に臨むことを喜ぼうか。朝廷の議論は、王者といえども専断できない。三公があなたの過失を上奏したが、いずれも根拠がある。朕は明らかでないが、曾母が機を投げ出したような疑いがあっても、なお言う者が信じられず、国にとっての福となることを願っていた。そこでまず使者を派遣して労い、さらに尚書と侍中を遣わして前言を履行し、任子を定めようとした。ところがあなたは言い訳を設け、使者の進むことを望まなかったので、議論する者は怪しんだ。また以前、都尉の浩周があなたに子を遣わすよう勧めたのは、実は朝廷の臣たちが共に謀ったことであり、それによってあなたの心を占おうとしたのだ。あなたは果たして言い訳をし、外には隗囂が子を遣わしても結局は裏切ったことを引き合いに出し、内には竇融が忠義を守ったことを例えとした。世は異なり時は移り、人それぞれに心がある。浩周が戻って口で述べ、手振りで示したことで、かえって議論する者たちが多くの疑念を明らかにし、終始一貫した根本的な拠り所がなかったので、ついに朕は群臣の議論に従った。今、上奏された文書を省みると、誠意が深く厚く、心が感慨に満ち、悲しみで表情が動かされる。即日に詔を下し、諸軍にただ深く溝を掘り高く塁を築くだけで、妄りに進軍しないよう命じた。もしあなたが必ず忠節を尽くして疑念を解こうとするなら、孫登が朝廷に到着するその日に、夕方には軍を召し返そう。この言葉の誠実さは、大河のようである。」(『国語』に曰く、狸が埋めて狸が掘り返す、それゆえ成功しないのである。『魏略』に魏の三公の奏上を載せて曰く、「臣は聞く、枝の大きいものは心を裂き、尾の大きいものは振れない、これは国と家を持つ者の慎むべきところである。昔、漢は秦の弊害を承り、天下は新たに定まり、大国の王たちは臣節を尽くさず、蕭・張の謀をもってしても備え記すことができず、ついに六王が前後して反叛し、すでにこれを討ったが、兵車は止まらなかった。また文帝・景帝の守成の世、戦を忘れ役を止め、呉・楚を驕り放縦にし、虺を養って蛇と成し、すでに社稷の大いなる憂いとなった。前の事を忘れなければ、後の事の師となる。呉王孫権は幼い小童で、寸尺の功もなく、兵乱に遭遇し、父兄の緒に因り、幼くして翼卵昫伏の恩を蒙り、長じて鴟梟反逆の性を含み、天施を背棄し、罪悪積みて大なり。また関羽と互いに覘伺し、利を逐い便を見て、卑辞を挟んだ。先帝は権が奸をもって用いられんことを求むるを知り、時に于禁が水災に敗れたるにより、等しく羽を討つべきところ、因りて権に委ねた。先帝が裘を委ね席を下りてのち、権は心を尽くさず、誠に惻怛に在りて、大喪に因り、王室を寡弱にせんと欲し、董桃に託して先帝の令を伝えんと希い、未だ報許を得ざるに乗じ、擅に襄陽を取る。駆逐を見るに及び、乃ち更に折節す。邪辟の態、巧言流るるが如く、重ねて駅し累ねて使を遣わし、禁等を発遣するも、内に隗囂の顧望の姦を包み、外に誅を緩めんと欲し、蜀賊を支仰す。聖朝は含弘し、既に不忍を加え、優してこれを赦し、これと更始し、猥に乃ち地を割きて王とし、南面して孤と称せしめ、官を兼ね位を累ね、礼は九命に備わり、名馬百駟、もってその勢いを成し、光寵顕赫、古今に二つなし。権は犬羊の姿にして、横に虎豹の文を被り、靖力致死の節を思いて、無量不世の恩に報いんことを思わず。臣は毎に下されたる権の前後の章表を見、また愚意をもって権の旨を采察するに、自ら江湖の阻帯をもって、固きに負いて服せず、累世に狃𢗗し、詐偽もって功を成し、上には尉佗・英布の計あり、下には伍被屈強の辞を誦し、終に侵さず叛かざるの臣に非ず。晁錯が削弱王侯の謀を発せざれば、七国は同衡し、禍は久しくして大ならん。蒯通が歴下を襲うの策を決せざれば、田横は自ら慮り、罪深く変重からん。臣は謹んで周礼九伐の法を考うるに、権の凶悪を平らげんに、逆節萌生し、罪を見ること十五。昔九黎徳を乱し、黄帝誅を加え、項羽の罪十にして、漢祖捨てず。権の犯せる罪釁明白にして、仁恩の養うところ、宇宙の容るるところに非ず。臣は権の官を免じ、鴻臚に爵土を削らせ、捕らえて罪を治めんことを請う。敢えて従わざるあれば、兵を移して進討し、もって国典の好悪の常を明らかにし、もって三州元元の苦しみを静めん。」その十五条は、文多きにより載せず。また先に都尉浩周が君に子を遣わすことを勧めたるは、実に朝臣交謀にして、これをもって君を卜したるに、君は果たして辞あり、外には隗囂が子を遣わして終わらざるを引き、内には竇融が忠を守りしのみを喩えたり。世殊なり時異なり、人それぞれ心あり。浩周の還るや、口に指麾を陳べ、益々議者をして衆嫌を発明せしめ、終始の本、拠杖するところなく、故に遂に俛仰して群臣の議に従えり。今、上事を省みるに、款誠深至にして、心用に慨然たり、凄愴として容を動かす。即日詔を下し、諸軍に敕してただ深く溝を掘り高く塁を築き、妄りに進むを得ざらしめよ。もし君必ず忠節を效さんと欲し、もって疑議を解かんとせば、登が身朝に到らば、夕に兵を召し還さん。この言の誠、大江の如くならん。」『魏略』に曰く、浩周は字を孔異、上党の人なり。建安中に仕えて蕭令となり、徐州刺史に至る。後に于禁の軍を領護し、軍没して関羽の得るところとなる。権が羽を襲い、併せて周を得、甚だこれを礼す。文帝が王位に即くに及び、権は乃ち周を遣わし、箋をもって魏王に曰く、「昔関羽を討ち、于将軍を獲、即ち先王に白し、まさにこれを発遣すべしと。これすなわち款を奉ずるの心、言わずして発す。先王未だ深く留意せず、しかも権が中間に復た異図ありと謂い、愚情慺慺として、用いて未だ果決せず。遂に先王が国祚を委離するに値し、殿下統を承け、下情始めて通ず。公私契闊し、未だ備挙を獲ず、これ本誓をして即ち昭顕せしめざらんとす。梁寓命を伝え、委曲周至にして、深く殿下もって意望と為すを知る。権の赤心、敢えて他あることなし、願わくは明恕を垂れ、権の執るところを保たん。謹んで浩周・東裏衮を遣わす。至情至実、皆周等の具する所なり。」また曰く、「権は本性空薄、文武昭らかならず、昔父兄の成軍の緒を承け、先王の見る所の奨飾を得、遂に国恩に因り、東土を撫綏す。しかるに中間に寡慮にして、庶事明らかならず、威を畏れ徳を忘れ、もって重戾を取る。先王恩仁にして、遐棄するに忍びず、既にその宿罪を釈き、かつ明信を開く。虜廷に致命し、梟として関羽を獲るも、功效浅薄にして、万一を報いず。事業未だ究まらざるに、先王即世す。殿下阼を践み、威仁流邁し、私かに情原の未だ昭察を蒙らざるを懼る。梁寓来たり到り、具に殿下遂に疏遠せず、必ず撫録せんと欲し、先緒を追本するを知る。権のこれを得るや、欣然踊躍し、心開け目明らかに、その慶びに勝えず。権は世々寵遇を受け、分義深篤にして、今日の事、永く一心を執らん。惟れ慺慺を察し、重ねて含覆を垂れんことを。」また曰く、「先王は権の誠を推すこと已に験あり、軍まさに引き還すべしとして、故に合肥の守を除き、南北の信を著し、権をして長駆して復た後顧せざらしめんとす。近ごろ守将周泰・全琮等の白事を得るに、月六日を過ぎ、馬歩七百あり、径ちに横江に到り、また督将馬和復た四百人を将いて進みて居巣に到る。琮等兵馬の江を渡るを聞き、これを視るに、兵馬の撃つ所となり、臨時に鋒を交え、大いに相殺傷す。卒かにこの問いを得、情用に恐懼す。権は実に遠く在り、予め聞知せず、約敕素よりなし、敢えてその罪を謝す。また張征東・朱横海今復た合肥に還ると聞く。先王の盟要、由より未だ久しからず、しかも権自ら度るに未だ罪釁を獲ず、今者何をもってか発起し、軍を牽いて遠く次するを審らかにせず。事業未だ訖らず、まさに国に為に賊備を討除すべく、重ねてこの問いを聞き、深く図を失わしむ。凡そ遠人の恃むところは、明信に在り。願わくは殿下前分を克卒し、坦然として開示し、権をして誓命し、本規を卒えしめんことを。凡そ原言する所は、周等のまさに伝うべき所なり。」初め東裏衮は于禁の軍司馬たりしが、前に周と俱に没し、また俱に還り到る。詔ありて皆これを見る。帝周等に問うに、周は権必ず臣服すと為し、東裏衮はその必ずしも服すべからずと謂う。帝周の言を悦び、もってこれを知るに由ありと為す。この歳の冬、魏王漢の禅を受く。使を遣わし権を呉王と為し、詔して周をして使者と俱に往かしむ。周既に詔命を致し、時に権と私宴し、権に謂いて曰く、「陛下王の子を遣わして入侍せしむるを信ぜざるなり。周闔門百口をもってこれを明らかにせん。」権は因りて字をもって周に謂いて曰く、「浩孔異、卿乃ち挙家百口をもって我を保つ、我まさに何をか言わんや。」遂に流涕襟を沾す。周と別るるに及び、また天を指して誓う。周の還りし後、権子を遣わさずして辞を設け、帝乃ちその使を久しく留む。八月に到り、権書を上りて謝し、また周に書して曰く、「道路開通するより、脩意を忘れず。既に新たに国命を奉じ、加えて起居を知り、仮りに河北に帰るにより、故に情問をして果たして至るを獲ざらしむ。望想の労、曷ぞその已むことを云わん。孤空闇をもって、分信昭らかならず、中間に罪を招き、もって棄絶を取る。幸いに国恩を蒙り、復た赦宥を見る。喜ばしくは君と本図を克卒せんことなり。伝に云わずや、始めを善くする能わずとも、終わりを善くするは可なりと。」また曰く、「昔君の来たりし時、子を遣わして入侍せしめんと欲し、時に心を傾け歓んで命を承けんとせしも、ただ登の年幼きをもって、年歳の間を仮らんと欲するのみ。しかるに赤情未だ昭信を蒙らず、遂に討責を見る。常に慚怖を用う。この頃国恩、復た開導を加え、その前愆を忘れ、その後效を取る。喜びてこれに因り本誓を尋ぎ竟えんことを得ん。前に已に表ありて具に子を遣わすの意を説けり、君の仮りに還りしを想うに、已にこれを知れり。」また曰く、「今子まさに入侍すべくして、未だ妃耦あらず。昔君これを念い、上は宗室あるいは夏侯氏に連綴すべしと為し、中間に自ら棄つるも、常に戢みて心に奉ず。まさに宿念を垂れ、これが為に先後し、攀龍附驥するを得て、永く自ら固定せしむべし。その分恵たる、豈に量あらんや。かくの如くんば孫長緒と小児とを遣わして俱に入らしめ、礼聘を奉行せんと欲す。これを成すは君に在り。」また曰く、「小児年弱く、加えて教訓足らず、まさに別るべしと念うに、これが為に緬然たり。父子の恩情、豈に已むことあらんや。また張子布を遣わして追いてこれを輔護せしめんと欲す。孤性に余なく、凡そ為さんと欲する所、今尽く宣露す。惟れ赤心の先ず暢達せざらんを恐る。これをもって具に君が為にこれを説く、宜しくもって明らかにすべし。」ここにおいて詔して曰く、「権前に対し浩周に、自ら遠きを敢えてせず、委質して長く外臣たるを楽しむと陳べ、また前後の辞旨、頭尾地を撃つ。これ鼠子自ら爾許の地を保つこと能わざるを知るなり。また今周に書し、十二月に子を遣わさんことを請い、復た孫長緒・張子布を遣わして子と俱に来たらしめんと欲す。彼の二人は皆権の股肱心腹なり。また子の為に京師において婦を求めんと欲す。これ権に異心なきの明效なり。」帝既に権の甘言を信じ、かつ周を以てその真を得たりと為す。しかるに権はただ華僞にして、竟に子を遣わすの意なし。これよりの後、帝既に権の罪を彰かにし、周もまた疏遠を見、終身用いられず。)
原文文帝報曰:「君生於擾攘之際,本有從橫之志,降身奉國,以享茲祚。自君策名已來,貢獻盈路。討備之功,國朝仰成。埋而掘之,古人之所恥。〈《國語曰:狸埋之,狸掘之,是以無成功。〉朕之與君,大義已定,豈樂勞師遠臨江漢?廊廟之議,王者所不得專;三公上君過失,皆有本末、朕以不明。雖有曾母投杼之疑,猶冀言者不信,以爲國福。故先遣使者犒勞,又遣尚書、侍中踐修前言,以定任子。君遂設辭,不欲使進,議者怪之。〈《魏略》載魏三公奏曰:「臣聞枝大者披心,尾大者不掉,有國有家之所愼也。昔漢承秦弊,天下新定,大國之王,臣節未盡,以蕭、張之謀不備錄之,至使六王前後反叛,已而伐之,戎車不輟。又文、景守成,忘戰戢役,驕縱吳、楚,養虺成蛇,旣爲社稷大憂,蓋前事之不忘,後事之師也。吳王孫權,幼竪小子,無尺寸之功,遭遇兵亂,因父兄之緒,少蒙翼卵昫伏之恩,長含鴟梟反逆之性,背棄天施,罪惡積大。復與關羽更相覘伺,逐利見便,挾爲卑辭。先帝知權奸以求用,時以于禁敗於水災,等當討羽,因以委權。先帝委裘下席,權不盡心,誠在惻怛,欲因大喪,寡弱王室,希託董桃傳先帝令,乘未得報許,擅取襄陽,及見驅逐,乃更折節。邪辟之態,巧言如流,雖重驛累使,發遣禁等,內包隗囂顧望之姦,外欲緩誅,支仰蜀賊。聖朝含弘,旣加不忍,優而赦之,與之更始,猥乃割地王之,使南面稱孤,兼官累位,禮備九命,名馬百駟,以成其勢,光寵顯赫,古今無二。權爲犬羊之姿,橫被虎豹之文,不思靖力致死之節,以報無量不世之恩。臣每見所下權前後章表,又以愚意采察權旨,自以阻帶江湖,負固不服,狃𢗗累世,詐僞成功,上有尉佗、英布之計,下誦伍被屈強之辭,終非不侵不叛之臣。以爲晁錯不發削弱王侯之謀,則七國同衡,禍久而大;蒯通不決襲歷下之策,則田橫自慮,罪深變重。臣謹考之周禮九伐之法,平權兇惡,逆節萌生,見罪十五。昔九黎亂德,黃帝加誅;項羽罪十,漢祖不捨。權所犯罪衅明白,非仁恩所養,宇宙所容。臣請免權官,鴻臚削爵土,捕治罪。敢有不從,移兵進討,以明國典好惡之常,以靜三州元元之苦。」其十五條,文多不載。〉又前都尉浩周勸君遣子,乃實朝臣交謀,以此卜君,君果有辭,外引隗囂遣子不終,內喩竇融守忠而已。世殊時異,人各有心。浩周之還,口陳指麾,益令議者發明眾嫌,終始之本,無所據杖,故遂俛仰從群臣議。今省上事,款誠深至,心用慨然,淒愴動容。即日下詔,敕諸軍但深溝髙壘,不得妄進。若君必效忠節,以解疑議,登身朝到,夕召兵還。此言之誠,有如大江!」〈《魏略》曰:浩周字孔異,上黨人。建安中仕爲蕭令,至徐州刺史。後領護於禁軍,軍沒,爲關羽所得。權襲羽,幷得周,甚禮之。及文帝即王位,權乃遣周,爲箋魏王曰:「昔討關羽,獲於將軍,即白先王,當發遣之。此乃奉款之心,不言而發。先王未深留意,而謂權中間復有異圖,愚情慺慺,用未果決。遂値先王委離國祚,殿下承統,下情始通。公私契闊,未獲備舉,是令本誓未即昭顯。梁寓傳命,委曲周至,深知殿下以爲意望。權之赤心,不敢有他,原垂明恕,保權所執。謹遣浩周、東裏衮,至情至實,皆周等所具。」又曰:「權本性空薄,文武不昭,昔承父兄成軍之緒,得爲先王所見奬飾,遂因國恩,撫綏東土。而中間寡慮,庶事不明,畏威忘德,以取重戾。先王恩仁,不忍遐棄,旣釋其宿罪,且開明信。雖致命虜廷,梟獲關羽,功效淺薄,未報萬一。事業未究,先王即世。殿下踐阼,威仁流邁,私懼情原未蒙昭察。梁寓來到,具知殿下不遂疏遠,必欲撫錄,追本先緒。權之得此,欣然踊躍,心開目明,不勝其慶。權世受寵遇,分義深篤,今日之事,永執一心,惟察慺慺,重垂含覆。」又曰:「先王以權推誠已驗,軍當引還,故除合肥之守,著南北之信,令權長驅不復後顧。近得守將周泰、全琮等白事,過月六日,有馬步七百,徑到橫江,又督將馬和復將四百人進到居巢,琮等聞有兵馬渡江,視之,爲兵馬所擊,臨時交鋒,大相殺傷。卒得此問,情用恐懼。權實在遠,不豫聞知,約敕無素,敢謝其罪。又聞張征東、朱橫海今復還合肥,先王盟要,由來未久,且權自度未獲罪衅,不審今者何以發起,牽軍遠次?事業未訖,甫當爲國討除賊備,重聞斯問,深使失圖。凡遠人所恃,在於明信,原殿下克卒前分,開示坦然,使權誓命,得卒本規。凡所原言,周等所當傳也。」初東裏衮爲于禁軍司馬,前與周俱沒,又俱還到,有詔皆見之。帝問周等,周以爲權必臣服,而東裏衮謂其不可必服。帝悅周言,以爲有以知之。是歳冬,魏王受漢禪,遣使以權爲吳王,詔使周與使者俱往。周旣致詔命,時與權私宴,謂權曰:「陛下未信王遣子入侍也,周以闔門百口明之。」權因字謂周曰:「浩孔異,卿乃以舉家百口保我,我當何言邪?」遂流涕沾襟。及與周別,又指天爲誓。周還之後,權不遣子而設辭,帝乃久留其使。到八月,權上書謝,又與周書曰:「自道路開通,不忘脩意。旣新奉國命,加知起居,假歸河北,故使情問不獲果至。望想之勞,曷雲其已。孤以空闇,分信不昭,中間招罪,以取棄絶,幸蒙國恩,復見赦宥,喜乎與君克卒本圖。傳不云乎,雖不能始,善終可也。」又曰:「昔君之來,欲令遣子入侍,於時傾心歡以承命,徒以登年幼,欲假年歳之間耳。而赤情未蒙昭信,遂見討責,常用慚怖。自頃國恩,復加開導,忘其前愆,取其後效,喜得因此尋竟本誓。前已有表具説遣子之意,想君假還,已知之也。」又曰:「今子當入侍,而未有妃耦,昔君念之,以爲可上連綴宗室若夏侯氏,雖中間自棄,常奉戢在心。當垂宿念,爲之先後,使獲攀龍附驥,永自固定。其爲分惠,豈有量哉!如是欲遣孫長緒與小兒俱入,奉行禮聘,成之在君。」又曰:「小兒年弱,加教訓不足,念當與別,爲之緬然,父子恩情,豈有已邪!又欲遣張子布追輔護之。孤性無餘,凡所欲爲,今盡宣露。惟恐赤心不先暢達,是以具爲君説之,宜明所以。」於是詔曰:「權前對浩周,自陳不敢自遠,樂委質長爲外臣,又前後辭旨,頭尾擊地,此鼠子自知不能保爾許地也。又今與周書,請以十二月遣子,復欲遣孫長緒、張子布隨子俱來,彼二人皆權股肱心腹也。又欲爲子於京師求婦,此權無異心之明效也。」帝旣信權甘言,且謂周爲得其眞,而權但華僞,竟無遣子意。自是之後,帝旣彰權罪,周亦見疏遠,終身不用。〉
孫権は年号を改め、長江に臨んで防備を固めた。冬十一月、大風が吹いた。呂範らの軍勢で溺死した者は数千に上り、残りの軍は江南に引き返した。曹休は臧霸に軽船五百隻と決死隊一万人を率いさせ、徐陵を急襲して攻撃させ、攻城車を焼き払い、数千人を殺害・略奪した。将軍の全琮と徐盛が追撃して魏の将軍尹盧を斬り、数百人を殺害・捕虜にした。十二月、孫権は太中大夫の鄭泉を白帝に派遣して劉備のもとを訪れさせ、ようやく再び通交を回復した。しかし、依然として魏の文帝と往来を続け、後年になってようやく絶交した。この年、夷陵を西陵と改称した。(『江表伝』に曰く、孫権が言うには「近ごろ玄徳(劉備)の書簡を得たが、すでに深く自らの過ちを認め、旧好を復したいと求めている。以前、西方を蜀と名づけたのは、漢の皇帝がまだ存命であったからである。今、漢はすでに廃されたので、自ら漢中王と名乗ってよい」。『呉書』に曰く、鄭泉は字を文淵といい、陳郡の人である。博学で奇志を抱き、酒を好んだ。閑居の折にはいつも「美酒を五百斛積んだ船を得て、四季の美味を両端に置き、繰り返し飲み沈み、疲れたら止まって肴を食らう。酒が一斗一升減ればすぐに補充する、なんと愉快ではないか」と言った。孫権は彼を郎中とした。あるとき孫権が彼に「卿は人前で面と向かって諫めるのを好み、礼敬を失うことがあるが、龍の鱗を畏れないのか」と問うと、答えて「臣は、君が明ならば臣は直であると聞きます。今、朝廷の上下に忌憚がなく、実に洪恩に恃んでおり、龍鱗を畏れません」と言った。後に宴に侍したとき、孫権は彼を怖がらせようとして、引き出させて有司に付し、罪を急いで治めさせようとした。鄭泉は退出の際にしばしば振り返ったので、孫権は呼び戻して笑って「卿は龍鱗を畏れないと言ったのに、なぜ退出の際に振り返ったのか」と問うと、答えて「実は恩の覆いを恃み、死の憂いがないことを知っておりますが、まさに閣を出ようとするとき、威霊を感じ、振り返らずにはいられなかったのです」と言った。蜀に使者として赴いたとき、劉備が問うて「呉王はなぜ私の書に答えないのか、まさか私の正名を宜しとしないからではあるまいな」と言うと、鄭泉は「曹操父子は漢室を凌辱し、ついにその位を奪いました。殿下は宗室として城を維する責を負いながら、戈を荷い殳を執って天下に率先せず、ここで自ら名乗るのは、天下の議に合いません。それゆえ寡君は返書をしなかったのです」と言った。劉備は非常に恥じ入った。鄭泉は臨終に際し、同僚に「必ず私を陶家の側に葬ってくれ。百年の後、土に化して幸いにも酒壺として取られるなら、まさに私の心を得るであろう」と言った。)
原文權遂改年,臨江拒守。冬十一月,大風。呂範等兵溺死者數千,餘軍還江南。曹休使臧霸以輕船五百、敢死萬人襲攻徐陵,燒攻城車,殺略數千人。將軍全琮、徐盛追斬魏將尹盧。殺獲數百。十二月,權使太中大夫鄭泉聘劉備於白帝,始復通也。〈《江表傳》曰:權云:「近得玄德書,已深引咎,求復舊好。前所以名西爲蜀者,以漢帝尚存故耳,今漢已廢,自可名爲漢中王也。」吳書曰:鄭泉字文淵,陳郡人。博學有奇志,而性嗜酒,其間居每曰:「原得美酒滿五百斛船,以四時甘脆置兩頭,反覆沒飲之,憊即住而啖肴膳。酒有斗升減,隨即益之,不亦快乎!」權以爲郎中。嘗與之言:「卿好於眾中面諫,或失禮敬,寧畏龍鱗乎?」對曰:「臣聞君明臣直,今値朝廷上下無諱,實恃洪恩,不畏龍鱗。」後侍宴,權乃怖之,使提出付有司促治罪。泉臨出屢顧,權呼還,笑曰:「卿言不畏龍鱗,何以臨出而顧乎?」對曰:「實侍恩覆,知無死憂,至當出閤,感惟威靈,不能不顧耳。」使蜀,劉備問曰:「吳王何以不答吾書,得無以吾正名不宜乎?」泉曰:「曹操父子陵轢漢室,終奪其位。殿下旣爲宗室,有維城之責,不荷戈執殳爲海內率先,而於是自名,未合天下之議,是以寡君未復書耳。」備甚慚恧。泉臨卒,謂同類曰:「必葬我陶家之側,庶百歳之後化而成土,幸見取爲酒壺,實獲我心矣。」〉然猶與魏文帝相往來,至後年乃絶。是歳,改夷陵爲西陵。
二年春正月、曹真が軍を分けて江陵の中州を占拠した。この月、江夏山に城を築いた。四分暧を改め、『乾象暦』を用いた。三月、曹仁が将軍の常彫らに兵五千を率いさせ、油船に乗り、早朝に濡須の中州を渡河させた。曹仁の子の曹泰がこれに乗じて軍を率いて急襲し朱桓を攻撃したが、朱桓の兵がこれを防いだ。将軍の厳圭らを派遣して常彫らを撃破した。この月、魏軍はすべて撤退した。夏四月、孫権の群臣が皇帝の位に即くよう勧めたが、孫権は許さなかった。劉備が白帝で死去した。五月、曲阿で甘露が降ったとの報告があった。これに先立ち、戯口の守将であった晋宗が将軍の王直を殺害し、配下を率いて魏に投降し、魏は彼を蘄春太守に任じたが、彼はたびたび国境を侵犯した。六月、孫権は将軍の賀斉・糜芳・劉邵らに蘄春を襲撃させ、劉邵らは晋宗を生け捕りにした。冬十一月、蜀が中郎将の鄧芝を派遣して来訪した。(『江表伝』に曰く、孫権は五徳の運を推し、土行をもってし、未を祖とし辰を臘とした。『志林』に曰く、土行は辰を臘とするのはその数を得ている。土は戌に盛んであるのに、未を祖とするのは、その義は正しくない。土は未に生まれる、ゆえに未は坤の初である。それゆえ『月令』に、未の月を建てるの月、黃精を郊に祀り、祖はその盛んなるを用いる。今、祖はその始めを用いる、どうして運に応じられようか。『江表伝』に曰く、孫権は辞譲して「漢家は堙替し、存救すること能わず、また何の心があってか競おうか」と言った。群臣は天命符瑞を称え、固く重ねて請うた。孫権はまだ許さず、将相に「往年、孤は玄徳が西方の鄙に向かうと考えたので、まず陸遜に衆を選ばせてこれを待たせた。北部が分かれて孤を助けようとすると聞き、孤は内にその挟みを嫌った。もしその拝を受けなければ、これは相手を辱めて速やかな発向を促すことになり、まさに西とともに至り、二処に敵を受けることになり、孤にとって厳しいので、自ら抑え按じて、その封王に就いた。低屈の趣は、諸君はまだ尽くしておらぬようだ。今ゆえにこれをもって相解くのみ」と言った。『呉書』に曰く、孫権は立信都尉の馮熙を遣わして蜀に聘し、劉備の喪を弔わせた。熙は字を子柔といい、潁川の人で、馮異の後裔である。孫権が車騎となったとき、熙は東曹掾を歴任し、蜀に使いして還り、中大夫となった。後に魏に使いしたとき、文帝が問うて「呉王がもし宿好を修めようと欲するなら、まさに江関に兵を励まし、巴蜀に旌を懸けるべきであるのに、また修好の使者を遣わすと聞く、必ず変故があるであろう」と言うと、熙は「臣は、西の使いは直ちに問報し、かつ衅を観るためで、謀はないと聞いております」と言った。また「呉国は近年災旱が続き、人物は彫損していると聞く、大夫の明をもってこれを観てどうか」と問うと、熙は答えて「呉王は体量聡明で、任使に善く、政を賦し役を施すに、毎事必ず咨り、賓旅を教養し、賢を親しみ士を愛し、賞は怨仇を選ばず、罰は必ず罪ある者に加える。臣下は皆恩を感じ徳を懐き、ただ忠と義のみである。甲を帯びる者百万、穀帛は山のごとく、稻田は沃野で、民に饑歳なし。いわゆる金城湯池、強富の国である。臣の観るところ、軽重の分は、いまだ量るべからず」と言った。帝は不悦で、陳群が熙と同じ郡であることから、群に誘わせ、重利を啗わせた。熙は回らなかった。摩陂に送り、困苦させようとした。後また召還したが、至らぬうちに、熙は迫られて従わなければ必ず身を危うくし命を辱めることを懼れ、乃ち刀を引いて自刺した。御者が気づき、死ななかった。孫権はこれを聞き、涙を垂れて「これは蘇武と何の異なるところがあろうか」と言った。ついに魏で死んだ。『呉歴』に曰く、蜀は馬二百匹、錦千端、および方物を致した。これより後、聘使の往来は常となった。呉もまた方土の産する所を致し、その厚意に答えようとした。)
原文二年春正月,曹眞分軍據江陵中州。是月,城江夏山。改四分,用《乾象歷》。〈《江表傳》曰:權推五德之運,以爲土行用未祖辰臘。志林曰:土行以辰臘,得其數矣。土盛於戌,而以未祖,其義非也。土生於未,故未爲坤初。是以月令:建未之月,祀黃精於郊,祖用其盛。今祖用其始,豈應運乎?〉三月,曹仁遣將軍常彫等,以兵五千,乘油船,晨渡濡須中州。仁子泰因引軍急攻朱桓,桓兵拒之。遣將軍嚴圭等擊破彫等。是月,魏軍皆退。夏四月,權群臣勸即尊號,權不許。〈《江表傳》曰:權辭讓曰:「漢家堙替,不能存救,亦何心而競乎?」群臣稱天命符瑞,固重以請。權未之許,而謂將相曰:「往年孤以玄德方嚮西鄙,故先命陸遜選眾以待之。聞北部分,欲以助孤,孤內嫌其有挾,若不受其拜,是相折辱而趣其速發,便當與西俱至,二處受敵,於孤爲劇,故自抑按,就其封王。低屈之趣,諸君似未之盡,今故以此相解耳。」〉劉備薨於白帝。〈吳書曰:權遣立信都尉馮熙聘於蜀,弔備喪也。熙字子柔,潁川人,馮異之後也。權之爲車騎,熙歷東曹掾,使蜀還,爲中大夫。後使於魏,文帝問曰:「吳王若欲脩宿好,宜當厲兵江關,縣旍巴蜀,而聞復遣脩好,必有變故。」熙曰:「臣聞西使直報問,且以觀衅,非有謀也。」又曰:「聞吳國比年災旱,人物彫損,以大夫之明,觀之何如?」熙對曰:「吳王體量聰明,善於任使,賦政施役,每事必咨,教養賓旅,親賢愛士,賞不擇怨仇,而罰必加有罪,臣下皆感恩懷德,惟忠與義。帶甲百萬,穀帛如山,稻田沃野,民無饑歳,所謂金城湯池,強富之國也。以臣觀之,輕重之分,未可量也。」帝不悅,以陳群與熙同郡,使群誘之,啗以重利。熙不爲回。送至摩陂,欲困苦之。後又召還,未至,熙懼見迫不從,必危身辱命,乃引刀自刺。御者覺之,不得死。權聞之,垂涕曰:「此與蘇武何異?」竟死於魏。〉五月,曲阿言甘露降。先是戲口守將晉宗殺將王直,以眾叛如魏,魏以爲蘄春太守,數犯邊境。六月,權令將軍賀齊、糜芳、劉邵等襲蘄春,邵等生虜宗。冬十一月,蜀使中郎將鄧芝來聘。〈《吳歷》曰:蜀致馬二百匹,錦千端,及方物。自是之後,聘使往來以爲常。吳亦致方土所出,以答其厚意焉。〉
三年夏、輔義中郎将の張温を蜀に派遣して訪れさせた。秋八月、死刑囚を赦免した。九月、魏の文帝が広陵に出向き、大江を望んで『あそこには人物がいる。図ることはできない』と言い、引き返した。(干宝『晋紀』に曰く、魏の文帝が広陵に在るや、呉人は大いに駭き、乃ち江に臨んで疑城を作り、石頭より江乗に至るまで、車は木楨をもってし、葦席を衣せ、采飾を加え、一夕にして成った。魏人は江西より望み、甚だこれを憚り、遂に軍を退いた。孫権は趙達にこれを算させ、曰く「曹丕は走った。しかしながら、呉は庚子の歳に衰える」と。孫権が「幾何」と問うと、達は指を屈してこれを計り、曰く「五十八年」と。孫権が曰く「今日の憂いは、遠きに暇あらず、これは子孫の事である」と。『呉録』に曰く、この歳、蜀主はまた鄧芝を遣わして来聘し、重ねて盟好を結んだ。孫権は芝に謂いて曰く「山民が乱を作し、江辺の守兵は多く徹せられ、曹丕が空に乗じて態を弄することを慮り、反って和を求めた。議者は内に暇あらず、幸いに和を求めんとし、我に利あり、まさに通じるべきであるとし、もって自ら辨定せんとした。西州が孤の赤心を明らかにせず、嫌疑を致すことを恐れる。孤の土地は辺外にあり、間隙は万端にして、長江巨海は皆防守すべきである。丕が衅を観て動き、便を見ずして、どうしてこれを忘れ、また他図があろうか」と言った。)
原文三年夏,遣輔義中郎將張溫聘於蜀。秋八月,赦死罪。九月,魏文帝出廣陵,望大江,曰「彼有人焉,未可圖也」,乃還。〈干寶《晉紀》曰:魏文帝之在廣陵,吳人大駭,乃臨江爲疑城,自石頭至於江乘,車以木楨,衣以葦席,加采飾焉,一夕而成。魏人自江西望,甚憚之,遂退軍。權令趙達算之,曰:「曹丕走矣,雖然,吳衰庚子歳。」權曰:「幾何?」達屈指而計之,曰:「五十八年。」權曰:「今日之憂,不暇及遠,此子孫事也。」吳錄曰:是歳蜀主又遣鄧芝來聘,重結盟好。權謂芝曰:「山民作亂,江邊守兵多徹,慮曹丕乘空弄態,而反求和。議者以爲內有不暇,幸來求和,於我有利,宜當與通,以自辨定。恐西州不能明孤赤心,用致嫌疑。孤土地邊外,間隙萬端,而長江巨海,皆當防守。丕觀衅而動,惟不見便,寧得忘此,復有他圖。」〉
四年(黄武四年)夏五月、丞相の孫邵が死去した。六月、太常の顧雍を丞相とした。皖口で木が連理となったと報告された。冬十二月、鄱陽の賊の彭綺が自ら将軍を称し、諸県を攻め落とし、その勢力は数万人に及んだ。この年、地震が連続して発生した。(『呉録』に曰く、邵は字を長緒といい、北海の人で、長さ八尺。孔融の功曹となり、融は「廊廟の才なり」と称した。劉繇に従って江東に在った。孫権が事を統べるに及び、しばしば便宜を陳べ、貢聘を納むべきを以てし、孫権は即ちこれに従った。廬江太守に拝され、車騎長史に遷った。黄武の初めに丞相、威遠将軍となり、陽羨侯に封ぜられた。張温・曁艶がその事を奏し、邵は位を辞し罪を請うたが、孫権は釈して復職させ、年六十三で卒した。『志林』に曰く、呉の創基に、邵は首相となり、史にその伝なし、窃かに常にこれを怪しんだ。嘗て劉声叔に問うた。声叔は博物の君子である。云く「その名位を推すに、自ら伝を立つべきである。項竣・丁孚の時すでに注記があり、ここに張恵恕と能わずと云う。後に韋氏が史を作り、蓋し恵恕の党なるがゆえに、書に見えず」と。『呉書』に曰く、尚書令の陳化を太常とした。化は字を元耀といい、汝南の人で、衆書を博覧し、気幹は剛毅、長さ七尺九寸、雅に威容あり。郎中令となり魏に使いしとき、魏の文帝は酒酣に因り、嘲問して曰く「呉・魏は峙立し、誰か将に海内を平一せんとするか」と。化は答えて曰く「易に帝は震より出づと称し、加えて先哲の命を知るを聞く。旧説に紫蓋黄旗、運は東南に在りと」と。帝が曰く「昔、文王は西伯をもって天下に王たり、豈にまた東に在らんや」と。化が曰く「周の初基は、太伯は東に在り、これをもって文王は西に興ることを能くした」と。帝は笑い、もって難ずるなく、心にその辞を奇とした。使を畢えてまさに還らんとするに、礼送甚だ厚かった。孫権は化が命を奉じて国を光らせたとして、犍為太守に拝し、官属を置いた。しばらくして太常に遷り、尚書令を兼ねた。正色にして朝に立ち、子弟に敕して田業を廃し、治産を絶ち、官廩禄を仰ぎ、百姓と利を争わしめなかった。妻は早く亡くなり、化は古事を鑑み、乃ち復娶らなかった。孫権は聞いてこれを貴び、その年壮なるをもって、宗正に敕して宗室の女を妻とさせたが、化は固く辞して疾を以てし、孫権はその志に違わなかった。年七十を出でて、乃ち上疏して骸骨を乞い、遂に章安に爰居し、家で卒した。長子の熾は、字を公熙といい、少にして志操あり、計算を能くした。衛将軍の全琮が表して熾は大将軍に任ずと称し、召に赴き、道で卒した。『呉録』に曰く、この冬、魏の文帝は広陵に至り、江に臨んで兵を観た。兵は十余万あり、旌旗は数百里に弥り、江を渡るの志があった。孫権は厳しく固守を設けた。時に大寒にして氷り、舟は江に入るを得ず。帝は波濤の洶涌たるを見て、嘆じて曰く「嗟乎、固に天の南北を隔つる所以なり」と。遂に帰った。孫韶はまた将の高寿らを遣わし、敢死の士五百人を率いて径路において夜にこれを要せしめ、帝は大いに驚き、寿らは副車羽蓋を獲て還った。)
原文四年夏五月,丞相孫邵卒。〈吳錄曰:邵字長緒,北海人,長八尺。爲孔融功曹,融稱曰「廊廟才也」。從劉繇於江東。及權統事,數陳便宜,以爲應納貢聘,權即從之。拜廬江太守,遷車騎長史。黃武初爲丞相,威遠將軍,封陽羨侯。張温、暨艷奏其事,邵辭位請罪,權釋令復職,年六十三卒。志林曰:吳之創基,邵爲首相,史無其傳,竊常怪之。嘗問劉聲叔。聲叔,博物君子也,云:「推其名位,自應立傳。項竣、(吳孚)〔丁孚〕時已有注記,此云與張惠恕不能。後韋氏作史,蓋惠恕之黨,故不見書。」〉六月,以太常顧雍爲丞相。〈吳書曰:以尚書令陳化爲太常。化字元耀,汝南人,博覽眾書,氣幹剛毅,長七尺九寸,雅有威容。爲郎中令使魏,魏文帝因酒酣,嘲問曰:「吳、魏峙立,誰將平一海內者乎?」化對曰:「易稱帝出乎震,加聞先哲知命,舊説紫蓋黃旗,運在東南。」帝曰:「昔文王以西伯王天下,豈復在東乎?」化曰:「周之初基,太伯在東,是以文王能興於西。」帝笑,無以難,心奇其辭。使畢當還,禮送甚厚。權以化奉命光國,拜犍爲太守,置官屬。頃之,遷太常,兼尚書令。正色立朝,敕子弟廢田業,絶治産,仰官廩祿,不與百姓爭利。妻早亡,化以古事爲鑑,乃不復娶。權聞而貴之,以其年壯,敕宗正妻以宗室女,化固辭以疾,權不違其志。年出七十,乃上疏乞骸骨,遂爰居章安,卒於家。長子熾,字公熙,少有志操,能計算。衞將軍全琮表稱熾任大將軍,赴召,道卒。〉皖口言木連理。冬十二月,鄱陽賊彭綺自稱將軍,攻沒諸縣,眾數萬人。是歳地連震。〈吳錄曰;是冬魏文帝至廣陵,臨江觀兵,兵有十餘萬,旌旗彌數百里,有渡江之志。權嚴設固守。時大寒冰,舟不得入江。帝見波濤洶涌,嘆曰:「嗟乎!固天所以隔南北也!」遂歸。孫韶又遣將髙壽等率敢死之士五百人於徑路夜要之,帝大驚,壽等獲副車羽蓋以還。〉
五年春、命令を下した。「軍事が長く続き、民は農地を離れ、父子夫婦が互いに労わり合うこともできない。私はこれを非常に哀れに思う。今、北方の敵は縮こまって逃げ隠れ、国外には事変もない。州郡に対しては、寛大にし休養させるようにせよ」。この時、陸遜は任地で穀物が少ないことを理由に、諸将に農地を増やすよう上表して命じた。孫権は答えて言った。「大変結構だ。今、私と子は自ら田を受け、車中の八頭の牛を四組の犂とし、古人には及ばないが、衆と共に労苦を等しく分かち合いたい」。秋七月、孫権は魏の文帝が崩御したと聞き、江夏を征伐し、石陽を包囲したが、攻略できずに帰還した。蒼梧で鳳凰が現れたと報告された。三郡の悪地十県を分けて東安郡を設置し、全琮を太守として山越を討伐平定させた。冬十月、陸遜が時宜に適った意見を述べ、徳を施し刑罰を緩め、賦役を軽くし徴発を休めるよう勧めた。また言った。「忠直な言葉を、極限まで陳述することができず、小臣が容れられることを求め、しばしば利益になることばかりを上聞している」。孫権は答えて言った。
原文五年春,令曰:「軍興日久,民離農畔,父子夫婦,不聽相卹,孤甚愍之。今北虜縮竄,方外無事,其下州郡,有以寬息。」是時,陸遜以所在少谷,表令諸將增廣農畝。權報曰:「甚善。今孤父子親自受田,車中八牛以爲四耦,雖未及古人,亦欲與眾均等其勞也。」秋七月,權聞魏文帝崩,征江夏,圍石陽,不克而還。蒼梧言鳳凰見。分三郡惡地十縣置東安郡,〈吳錄曰:郡治富春也。〉以全琮爲太守,平討山越。冬十月,陸遜陳便宜,勸以施德緩刑,寬賦息調。又云:「忠讜之言,不能極陳,求容小臣,數以利聞」。權報曰:
そもそも法令を設けるのは、悪を抑え邪を防ぎ、未然に戒めるためである。どうして刑罰がなくて、小人を威圧することができようか。これはまず命令し、後に誅罰するもので、違反者を出さないようにしたいだけである。君が重すぎると考えるなら、私もどうしてそのようにすることを利とするだろうか、ただやむを得ずそうしているだけだ。今、君の意見を受けて、重ねて諮詢し、その妥当なところに従うよう務めよう。かつ近臣には規諫を尽くす諫言があり、親戚には補い察する箴言がある。これらは君主を補正し忠信を明らかにするためである。『書経』に『私に違うことがあれば、汝は補い正せ。汝は面と向かって従ってはならない』とある。私がどうして忠言を喜んで自らを補い正すことを楽しまないことがあろうか。それなのに『極限まで陳述することができない』というのは、どうして忠直と言えようか。もし小臣の中に採用すべき者がいるなら、どうして人を理由に言葉を廃して採択しないことがあろうか。ただ諂媚して受け入れられようとするのは、たとえ愚かであっても明らかに識別できる。徴発について言えば、ただ天下が未だ定まらず、事は衆によって成し遂げられるからだ。もしただ江東を守るだけであれば、寛大な政治を修め崇めれば、兵は自ずから用に足りる。どうして多くを用いようか。ただ座して自守するのは浅はかだと思われるだけだ。もし予め徴発しなければ、いざという時にすぐには使えない恐れがある。また、私と君の間の分義は特に異なり、栄誉と憂いは実に同じである。来たる上表に『衆に随って身を容れ、苟も免れようとはしない』とあるが、これは実に私が君に望むところで、甘んじて受け入れることである。
原文夫法令之設,欲以遏惡防邪,儆戒未然也。焉得不有刑罰以威小人乎?此爲先令後誅,不欲使有犯者耳。君以爲太重者,孤亦何利其然,但不得已而爲之耳。今承來意,當重咨謀,務從其可。且近臣有盡規之諫,親戚有補察之箴,所以匡君正主明忠信也。《書》載『予違汝弼,汝無面從』,孤豈不樂忠言以自裨補邪?而云『不敢極陳』,何得爲忠讜哉?若小臣之中,有可納用者,寧得以人廢言而不采擇乎?但諂媚取容,雖闇亦所明識也。至於發調者,徒以天下未定,事以眾濟。若徒守江東,修崇寬政,兵自足用,復用多爲?顧坐自守可陋耳。若不豫調,恐臨時未可便用也。又孤與君分義特異,榮戚實同,來表雲不敢隨眾容身苟免,此實甘心所望於君也。
そこで役人に命じて法令条文を全て書き写させ、郎中の褚逢に持たせて陸遜と諸葛瑾の下に赴かせ、不都合な点があれば、削除追加させることにした。この年、交州を分けて広州を設置した。まもなく元に戻した。(『江表伝』に曰く、孫権は武昌で新たに大型船を建造し、長安と名づけ、釣台圻で試しに浮かべた。時に風が非常に強く、谷利は舵取りに樊口へ向かうよう命じた。孫権は「舳先を張って羅州へ向かうべきだ」と言った。谷利は刀を抜いて舵取りに「樊口へ向かわなければ斬る」と言った。舵取りはすぐに舵を転じて樊口へ入り、風はますます激しくなって航行できなくなり、そこで引き返した。孫権は「阿利は水を恐れてどうしてそんなに怯えるのか」と言った。谷利は跪いて「大王は万乗の主でありながら、測り知れぬ淵を軽んじ、猛浪の中で戯れ、船楼は高く装備されており、もし転覆の危険に遭われたら、国家はどうなるのでしょうか。それゆえ私はあえて死を賭して争ったのです」と言った。孫権はそこで彼を貴重な存在とし、以後は名で呼ばず、常に「谷」と呼んだ。)
原文於是令有司盡寫科條,使郎中褚逢齎以就遜及諸葛瑾,意所不安,令損益之。是歳,分交州置廣州。俄復舊。〈《江表傳》曰:權於武昌新裝大船,名爲長安,試泛之釣臺圻。時風大盛,谷利令柂工取樊口。權曰:「當張頭取羅州。」利拔刀向柂工曰:「不取樊口者斬。」工即轉柂入樊口,風遂猛不可行,乃還。權曰:「阿利畏水何怯也?」利跪曰:「大王萬乘之主,輕於不測之淵,戲於猛浪之中,船樓裝髙,邂逅顛危,奈社稷何?是以利輒敢以死爭。」權於是貴重之,自此後不復名之,常呼曰谷。〉
六年春正月、諸将が彭綺を捕らえた。閏月、韓当の子の韓綜がその配下を率いて魏に降伏した。
原文六年春正月,諸將獲彭綺。閏月,韓當子綜以其眾降魏。
七年三月、子の孫慮を建昌侯に封じ、東安郡を廃止した。夏五月、鄱陽太守の周魴が偽って叛き、魏の将軍曹休を誘い出した。秋八月、孫権は皖口に至り、将軍陸遜に諸将を督させて石亭で曹休を大破させた。大司馬の呂範が死去した。この年、合浦を珠官郡と改称した。(『江表伝』に曰く、この年、将軍の翟丹が叛いて魏に奔った。孫権は諸将が罪を恐れて逃亡するのを心配し、そこで令を下して「今後、諸将に重罪が三つあってから、はじめて議する」と言った。)
原文七年三月,封子慮爲建昌侯,罷東安郡。夏五月,鄱陽太守周魴偽叛,誘魏將曹休。秋八月,權至皖口,使將軍陸遜督諸將大破休於石亭。大司馬呂範卒。是歳,改合浦爲珠官郡。〈《江表傳》曰:是歳將軍翟丹叛如魏。權恐諸將畏罪而亡,乃下令曰:「自今諸將有重罪三,然後議。」〉
黄龍元年の春、公卿百官は皆、孫権に正式な皇帝の称号を称えるよう勧めた。夏四月、夏口と武昌で同時に黄龍と鳳凰が現れたと報告があった。丙申の日、南郊で皇帝の位に即いた。この日、大赦を行った。年号を改め、父の破虜将軍孫堅を武烈皇帝と追尊し、母の呉氏を武烈皇后と追尊し、兄の討逆将軍孫策を長沙桓王と追尊した。呉王の太子孫登を皇太子とした。将軍や官吏たちは皆、爵位を加増され賞賜を受けた。(『呉録』に孫権の告天文が載せられている。「皇帝臣孫権はあえて黒い雄牛を用いて、皇々后帝に明らかに告げる。漢は国を享けること二十四世、歴年四百三十四年、五行の気運は終わり、禄と祚の運は尽き、天下は弛緩絶え、率土は分崩した。孼臣曹丕はついに神器を奪い、丕の子叡は世を継いで悪を行い、名を淫し制を乱している。孫権は東南に生まれ、期運に遭い、乾を承けて戎を執り、志は平世にあり、辞を奉じて罰を行い、挙足は民のためである。群臣将相、州郡百城、執事の人は、皆、天意はすでに漢を去り、漢氏はすでに天の祀を絶ち、皇帝の位は虚しく、郊祀に主がないと考えている。休徴嘉瑞は前後に入り混じり、暦数は我が身にあり、受けざるを得ない。孫権は天命を畏れ、敢えて従わないわけにはいかない。謹んで元日を選び、壇に登り燎祭し、皇帝の位に即く。思うに爾の神々はこれを饗けよ。左右は呉を有し、永く天禄を終えよ。)
原文黃龍元年春,公卿百司皆勸權正尊號。夏四月,夏口、武昌並言黃龍、鳳凰見。丙申,南郊即皇帝位。〈《吳錄》載權告天文曰:「皇帝臣權敢用玄牡昭告於皇皇后帝:漢享國二十有四世,歷年四百三十有四,行氣數終,祿祚運盡,普天弛絶,率土分崩。孼臣曹丕遂奪神器,丕子叡繼世作慝,淫名亂制。權生於東南,遭値期運,承乾秉戎,志在平世,奉辭行罰,舉足爲民。群臣將相,州郡百城,執事之人,咸以爲天意已去於漢,漢氏已絶祀於天,皇帝位虛,郊祀無主。休徵嘉瑞,前後雜沓,歷數在躬,不得不受。權畏天命,不敢不從,謹擇元日,登壇燎祭,即皇帝位。惟爾有神饗之,左右有吳,永終天祿。」〉是日大赦。改年,追尊父破虜將軍堅爲武烈皇帝,母吳氏爲武烈皇后,兄討逆將軍策爲長沙桓王。吳王太子登爲皇太子。將吏皆近爵加賞。
初めに、興平年間(194-195年)に、呉の地で童謡が歌われた。「黄金の車、斑爛の耳、昌門を開き、天子を出す。」五月、校尉の張剛と管篤を遼東に派遣した。六月、蜀は衛尉の陳震を派遣し、孫権の即位を祝賀した。孫権は天下を三分し、豫州、青州、徐州、幽州を呉に属させ、兗州、冀州、并州、涼州を蜀に属させた。司州の土地は函谷関を境界とし、盟約を作成した。
原文初,興平中,吳中童謠曰:「黃金車,班蘭耳,闓昌門,出天子。」〈昌門,吳西郭門,夫差所作。〉五月,使校尉張剛、管篤之遼東。六月,蜀遣衞尉陳震慶權踐位。權乃參分天下,豫、靑、徐、幽屬吳,兗,冀,并,涼屬蜀。其司州之土,以函谷關爲界,造爲盟曰:
天が喪乱を降し、皇室の綱紀が秩序を失い、逆臣が隙に乗じて、国家の権柄を奪い、董卓に始まり、曹操に終わり、極悪非道の限りを尽くし、天下を覆した。今に至って九州は分裂し、天下に統一がなく、民も神も痛み怨み、その止むところを知らない。そして曹操の子の曹丕は、凶逆な残党であり、重ねて奸悪を働き、天の位を盗み取った。そして曹叡は小者であり、曹丕の凶悪な跡を継ぎ、兵力を頼みに土地を盗み、その誅罰を受けていない。昔、共工が乱を起こして高辛が軍を起こし、三苗が法度を犯して虞舜が征伐した。今日、曹氏を滅ぼし、その徒党を捕らえるのは、蜀漢と東吳以外に、誰がその任に当たるだろうか。悪を討ち暴を除くには、必ずその罪を声高に言い立てるべきである。まず分割し、その土地を奪い、士民の心をして、それぞれ帰すべきところを知らしめるべきである。それゆえ『春秋』に晋の侯が衛を伐つとき、先にその田を分けて宋の人に与えた。これがその道理である。かつて古より大事を建てるには、必ずまず盟誓を行う。それゆえ『周礼』には司盟の官があり、『尚書』には告誓の文がある。漢と呉は、信義が内心から出るものではあるが、土地を分け境界を裂くには、盟約を結ぶのが適切である。諸葛亮は徳威が遠くに著しく、本国を輔け戴き、軍務を外で司り、信義が陰陽に感応する。誠実さが天地を動かし、重ねて盟約を結び、誠意を広く約束し誓い、東西の士民が皆共に聞き知るようにする。それゆえ壇を築き犠牲を殺し、神明に明らかに告げ、再び血をすすり文書を加え、その副本を天府に納める。天は高く聴き下し、霊威は深く助け、司慎と司盟、群神と群祀、これに臨まないものはない。今日より漢と呉が盟約を結んだ後は、力を合わせ心を一つにして、共に魏の賊を討ち、危険を救い患いを憂い、災いを分かち慶びを共にし、好悪を同じくし、離反する者があってはならない。もし漢を害する者がいれば、呉がこれを討つ。もし呉を害する者がいれば、漢がこれを討つ。それぞれ分封された土地を守り、互いに侵犯しない。後世に伝え、終わりを始めの如く全うする。およそ百の約束は、皆盟書に記載された通りであり、信実の言葉は飾らず、実に友好に存する。この盟約に背き、禍を創り先に乱を起こし、離反して協力せず、天命を侮り慢る者は、明神上帝がこれを討ち督し、山川百神がこれを糾し殛ち、その軍を墜とし、国を保つことができないようにする。爾ら大神よ、これを明らかに照覧されたい。
原文天降喪亂,皇綱失敘,逆臣乘釁,劫奪國柄,始於董卓,終於曹操,窮兇極惡,以覆四海。至令九州幅裂,普天無統,民神痛怨,靡所戾止。及操子丕,桀逆遺醜,薦作奸回,偷取天位。而睿麽麼,尋丕兇跡,阻兵盜土,未伏厥誅。昔共工亂象而髙辛行師,三苗干度虞舜征焉。今日滅曹,禽其徒黨,非蜀漢與東吳,將復誰任?夫討惡翦暴,必聲其罪。宜先分裂,奪其土地,使士民之心,各知所歸。是以《春秋》晉侯伐衞。先分其田以畀宋人,斯其義也。且古建大事,必先盟誓,故《周禮》有司盟之官,《尚書》有告誓之文,漢之與吳,雖信由中。然分土裂境,宜有盟約。諸葛亮德威遠著,翼戴本國,典戎在外,信感陰陽。誠動天地,重復結盟,廣誠約誓,使東西士民咸共聞知。故立壇殺牲,昭告神明,再歃加書,副之天府,天髙聽下,靈威棐湛,司愼司盟,群神群祀,莫不臨之。自今日漢、吳旣盟之後,戮力一心,同討魏賊,救危恤患,分災共慶,好惡齊之,無或攜貳。若有害漢,則吳伐之;若有害吳,則漢伐之。各守分士,無相侵犯。傳之後葉,克終若始。凡百之約,皆如載書,信言不艷,實居於好。有渝此盟,創禍先亂,違貳不協,慆慢天命,明神上帝是討是督,山川百神是糾是殛,俾墜其師,無克祚國。於爾大神,其明鑒之!
秋九月、孫権は都を建業に遷した。もとの府邸を固くして館を改めず、上大将軍の陸遜を召し出して太子の孫登を補佐させ、武昌の留守の事務を執掌させた。
原文秋九月,權遷都建業,因固府不改館,徵上大將軍陸遜輔太子登,掌武昌留事。
二年春正月、魏は合肥に新城を築いた。詔を下して都講祭酒を立て、諸子を教え学ばせた。将軍の衛溫と諸葛直に甲士一万人を率いさせ、海を渡って夷洲と亶洲を求めて行かせた。亶洲は海中にあり、古老の伝えによると、秦の始皇帝が方士の徐福に童男童女数千人を率いさせて海に入り、蓬莱の神山と仙薬を求めたが、この洲に留まって帰らなかったという。代々受け継がれて数万家があり、その上の人民は、時に会稽に来て布を交易することがあり、会稽の東の県の人が海を行く者にも、風に遭って流され亶洲に移った者がある。所在は非常に遠く、ついに到達することはできず、ただ夷洲から数千人を得て帰っただけだった。
原文二年春正月,魏作合肥新城。詔立都講祭酒,以教學諸子。遣將軍衞溫、諸葛直將甲士萬人,浮海求夷洲及亶洲。亶洲在海中,長老傳言:秦始皇帝遣方士徐福將童男童女數千人入海,求蓬萊神山及仙藥,止此洲不還。世相承有數萬家,其上人民。時有至會稽貨布,會稽東縣人海行,亦有遭風流移至亶洲者。所在絶遠,卒不可得至,但得夷洲數千人還。
三年春二月、太常の潘濬に兵五万を率いさせ、武陵の蛮夷を討伐させた。衛溫と諸葛直は皆、詔に背き功績がなかったとして、獄に下され誅殺された。夏に野蚕が繭を作り、卵のように大きかった。由拳で野生の稲が自然に生え、禾興県と改称した。中郎将の孫布が偽って降伏し、魏の将軍の王淩を誘い出そうとした。王淩は軍を率いて孫布を迎えようとした。冬十月、孫権は大軍を阜陵に潜ませて待ち伏せしたが、王淩は気づいて逃げた。会稽の南始平で嘉禾が生えたと報告があった。十二月丁卯の日、大赦を行い、年号を明と改めた。
原文三年春二月,遣太常潘濬率眾五萬,討武陵蠻夷。衞溫、諸葛直皆以違詔無功,下獄誅。夏有野蠶成繭,大如卵。由拳野稻自生,改爲禾興縣。中郎將孫布詐降以誘魏將王淩,淩以軍迎布。冬十月,權以大兵潛伏於阜陵俟之,淩覺而走。會稽南始平言嘉禾生。十二月丁卯,大赦,改明元年也。
嘉禾元年(232年)春正月、建昌侯の孫慮が死去した。三月、将軍の周賀と校尉の裴潛を派遣し、海路で遼東へ向かわせた。秋九月、魏の将軍田豫が待ち伏せて攻撃し、成山で周賀を斬った。冬十月、魏の遼東太守公孫淵が校尉の宿舒と郎中令の孫綜を派遣し、孫権に臣従を称し、貂の毛皮と馬を献上した。孫権は大いに喜び、公孫淵に爵位を加えた。(『江表伝』に曰く、この冬、群臣は孫権がまだ郊祀を行っていないとして、奏議して「近ごろ嘉瑞がしばしば至り、遠国が義を慕い、天意人事は前後して備わっています。郊祀を修め、天意を承けるべきです」と言った。孫権は「郊祀は土中で行うべきであり、今はその場所ではない。ここでどうしてこれを行えようか」と言った。重ねて奏して「普天の下、王土ならざるはなく、王者は天下を家とします。昔、周の文王・武王は酆・鎬で郊祀し、必ずしも土中ではありませんでした」と言った。孫権は「武王は紂を伐ち、鎬京で即位し、その所で郊祀した。文王はまだ天子ではなかったが、酆で郊祀を立てたのは、どの経典に見えるのか」と言った。また書して「伏して漢書郊祀志を見ますに、匡衡は甘泉・河東を移し、長安で郊祀するよう奏し、文王が酆で郊祀したと言っています」と言った。孫権は「文王は性来謙譲であり、諸侯の位にあったのだから、郊祀しなかったことは明らかである。経伝に明文はなく、匡衡は俗儒の意説であり、典籍の正義ではない。用いることはできない」と言った。志林に曰く、呉王は郊祀の奏を糾弾し、匡衡を追貶して俗儒と呼んだ。見る者は皆、慨然として統べ尽くして物理に合い、事宜に達していると感じた。典籍を稽えるに至っては、かえって通じない。毛氏の説に「堯は天が邰に因って后稷を生んだのを見たので、邰に国を立て、天に事えるよう命じた」という。それゆえ詩に「后稷肇めて祀る、庶くは罪悔なく、以て今に迄る」という。后稷以来皆天を祭ることができた、ちょうど魯人が郊祀したようなものである。それゆえ棫樸の作には、積み重ねた燎の薪がある。文王が酆で郊祀したことは、経に明文があり、匡衡がどうして俗でありえようか、これを曲げるとは。文王はまだ天子ではなかったが、天下を三分してその二を有し、崇を伐ち黎を戡し、祖伊が奔告した。天はすでに殷を棄て、そこで西を眷顧し、太伯は三たび譲り、以て天下を有した。文王が王であったことに、義において何の疑いがあろうか。そうであれば匡衡の奏には、尽くされていないところがある。世宗が甘泉・汾陰の祠を立てたのは、皆方士の言に出て、経典に拠ったものではない。方士は甘泉・汾陰を黄帝が天地を祭った所とし、それゆえ孝武はこれに因り、ついに二畤を立てた。漢は長安を治め、甘泉は北にあり、乾位に就くと言い、匡衡は「武帝は甘泉に居り、南宮で祭った」と言うが、これはすでに誤りである。汾陰を祭るのは水の脽にあり、澤中と呼び、匡衡は「東のかた少陽」と言うが、本意を失している。これは呉の事であり、伝においては非ではないが、弁正の辞がないのを恨み、ゆえにこれを矯めて云う。脽は音は誰、漢書音義に見える。)
原文嘉禾元年春正月,建昌侯慮卒。三月,遣將軍周賀、校尉裴潛乘海之遼東。秋九月,魏將田豫要擊,斬賀於成山。冬十月,魏遼東太守公孫淵遣校尉宿舒、郎中令孫綜稱藩於權,並獻貂馬。權大悅,加淵爵位。〈《江表傳》曰:是冬,群臣以權未郊祀,奏議曰:「頃者嘉瑞屢臻,遠國慕義,天意人事,前後備集,宜脩郊祀,以承天意。」權曰:「郊祀當於土中,今非其所,於何施此?」重奏曰:「普天之下,莫非王土;王者以天下爲家。昔周文、武郊於酆、鎬,非必土中。」權曰:「武王伐紂,即阼於鎬京,而郊其所也。文王未爲天子,立郊於酆,見何經典?」復書曰:「伏見漢書郊祀志,匡衡奏徙甘泉河東,郊於長安,言文王郊於酆。」權曰:「文王性謙讓,處諸侯之位,明未郊也。經傳無明文,匡衡俗儒意説,非典籍正義,不可用也。」志林曰:吳王糾駮郊祀之奏,追貶匡衡,謂之俗儒。凡在見者,莫不慨然以爲統盡物理,達於事宜。至於稽之典籍,乃更不通。毛氏之説云:「堯見天因邰而生後稷,故國之於邰,命使事天。」故詩曰:「后稷肇祀,庶無罪悔,以迄於今。」言自后稷以來皆得祭天,猶魯人郊祀也。是以棫樸之作,有積燎之薪。文王郊酆,經有明文,匡衡豈俗,而枉之哉?文王雖未爲天子,然三分天下而有其二,伐崇戡黎,祖伊奔告。天旣棄殷,乃眷西顧,太伯三讓,以有天下。文王爲王,於義何疑?然則匡衡之奏,有所未盡。按世宗立甘泉、汾陰之祠,皆出方士之言,非據經典者也。方士以甘泉、汾陰黃帝祭天地之處,故孝武因之,遂立二畤。漢治長安,而甘泉在北,謂就乾位,而衡云「武帝居甘泉,祭於南宮」,此旣誤矣。祭汾陰在水之脽,呼爲澤中,而衡云「東之少陽」,失其本意。此自吳事,於傳無非,恨無辨正之辭,故矯之云。脽,音誰,見漢書音義。〉
二年の春正月、詔を下して言った。「朕は不徳をもって、天命を受け継ぎ、日夜戦々兢々として、ゆっくり寝る暇もない。世の難を平らげ、民衆を救済し、上は神々に応え、下は民の望みを慰めたいと思っている。それゆえに心を込めて、優れた人材を求め、力を合わせて、共に天下を平定しようとしている。もし心を同じくするならば、共に老いるまで付き合おう。今、使持節・幽州を監督し、青州牧・遼東太守・燕王(公孫淵)は、長く賊虜に脅かされ、一方に隔てられているが、心は国にあるものの、その道はない。今、天命に従い、遠く二名の使者を遣わし、誠意を明らかにし、上表文は丁寧で、朕がこれを得たことは、何と喜ばしいことか。たとえ湯王が伊尹に出会い、周が呂望を得たとしても、世祖(光武帝)が未だ平定していない時に河右を得たとしても、今日と比べても、これに勝るものがあろうか。天下が統一されることは、これで定まったのだ。『書経』に言わないか、『一人に慶事あれば、兆民これに頼る』と。天下を大赦し、新たな出発をさせ、州郡に明らかに下し、皆に知らしめよ。特に燕国に下し、詔の恩恵を奉り宣べ、今、天下の隅々までこの慶事を聞かせよ。」三月、孫舒と張綜を帰らせ、太常の張弥、執金吾の許晏、将軍の賀達らに兵一万人を率いさせ、金銀財宝、珍しい品々、九錫の備品を携え、海路で公孫淵に授けさせた。朝廷の大臣たちは、丞相の顧雍以下皆が諫めて、公孫淵は信用できず、寵遇が厚すぎると考えた。ただ官吏と兵士数百人を派遣して孫舒と張綜を護送するだけでよいとしたが、孫権は結局聞き入れなかった。公孫淵は果たして張弥らを斬り、その首を魏に送り、兵士と物資を没収した。孫権は大いに怒り、自ら公孫淵を征伐しようとしたが、尚書僕射の薛綜らが強く諫めたので止めた。この年、孫権は合肥新城に向かい、将軍の全琮を派遣して六安を征伐させたが、いずれも勝てずに帰還した。(『江表伝』に孫権の詔が載る。「かつて魏の使持節車騎将軍・遼東太守・平楽侯であった者よ。天地の秩序が乱れ、皇極が建てられず、大悪人が民を害し、天下は分崩し、民衆は滅び、周の残した民でさえ一人も残らなかったと言われるが、今日と比べれば、乱れはさらに甚だしい。朕は暦数を受け、万国を君臨し、日夜戦々恐々として、難を止めることを念じ、深い水を渡るように、どうすれば済むのか分からない。それゆえ旗を掲げ鉞を執り、凶悪な者を除き、東から西へと、安んじて過ごす暇もなく、力の及ぶ限り、民に災害なからしめた。賊虜の残した種がまだ罪を伏して誅されずとも、なお枯れ木に繋がれた囚人のように、時を待って滅びるであろう。惟うに将軍は天資特達にして文武を兼ね備え、時を見、変を察し、去就を審らかにし、険阻を越え、遠く赤心を致し、大計を肇め建て、天下の先となった。元勲巨績は古人に匹敵する。昔、竇融が隴右を背き捨て、ついに河西を占めて光武帝を定めたが、その休名美実も、これに勝るものであろうか。雅尚を欽嘉し、朕は実に欣ぶ。古より聖帝明王は、化を建て統を垂れ、爵をもって徳を褒め、禄をもって功に報いた。功大なる者は禄厚く、徳盛んなる者は礼崇い。ゆえに周公有夾輔の労あり、太師に鷹揚の功あり、ともに土宇を啓き、兼ねて備物を受けた。今、将軍は万年の計を規り、不世の略を建て、僭逆の虜を絶ち、天人の粛を順じ、洪業を済成し、功は比ぶものなく、斉魯の事など、何ぞ言うに足らんか。詩に云わぬか、『言として讎なきはなく、徳として報なきはなし』と。今、幽・青二州十七郡七十県をもって、君を燕王に封じ、使持節守太常張弥に君の璽綬策書、金虎符第一至第五、竹使符第一至第十を授けさせる。君に玄土を錫り、白茅を苴し、爾の亀を爰契し、冢社を錫る。方に戎事あり、兵馬を典統し、大将軍曲蓋麾幢をもって、幽州・青州牧・遼東太守を督すること故の如くせよ。今、君に九錫を加う。その後命を敬聴せよ。君は三世相承し、一方を保綏し、四郡を寧集し、訓えは異俗に及び、民夷安業し、或るいは携貳することなし。ここをもって君に大輅・戎輅、玄牡二駟を錫る。君は務め農を勧め、人を嗇み成功し、倉庫盈積し、官民俱に豊かなり。ここをもって君に衮冕の服、赤舄を副えて錫る。君は徳をもって正化し、礼をもって下を敬し、義を敦くし謙を崇び、内外咸な和す。ここをもって君に軒県の楽を錫る。君は休風を宣導し、辺遠を懐保し、遠人面を回らし、影のごとく附かざるはなし。ここをもって君に硃戸をもって居し、君その才略を運らし、官方賢を任じ、直を顕し枉を錯き、群善必ず挙がる。ここをもって君に虎賁の士百人を錫る。君は戎馬整斉し、威は遐方に震い、天刑を糾虔し、その罪あるを彰す。ここをもって君に鈇鉞各一を錫る。君は文は内に和し、武は外に信あり、逆節を禽討し、衝を折り難を掩う。ここをもって君に彤弓一、彤矢百、玈弓十、玈矢千を錫る。君は忠勤効あり、温恭を徳とし、明允篤誠、朕が心に感ず。ここをもって君に秬鬯一卣、珪瓚を副えて錫る。欽哉。この訓典を敬し、天工を寅亮し、我が国家を相け、永く爾の休を終えよ。」臣松之は考える。孫権は諫めに背き衆に違え、公孫淵の心を信じ切って、攻伐の規もなく、重複の慮もなかった。錫命を宣達するのに、なんと一万人を用いた。これは何とその民を愛さず、昏虐の甚だしいことか。この役は、ただ闇塞なだけでなく、実に無道である。)
原文二年春正月,詔曰:「朕以不德,肇受元命,夙夜兢兢,不遑假寢。思平世難,救濟黎庶,上答神祗,下慰民望;是以眷眷,勤求俊傑,將與戮力,共定海內。苟在同心,與之偕老。今使持節督幽州領靑州牧遼東太守燕王,久脅賊虜,隔在一方,雖乃心於國,其路靡緣。今因天命。遠遣二使,款誠顯露,章表殷勤,朕之得此,何喜如之!雖湯遇伊尹,周獲呂望,世祖未定而得河右,方之今日。豈復是過?普天一統,於是定矣。《書》不云乎。『一人有慶,兆民賴之』。其大赦天下,與之更始,其明下州郡,咸使聞知。特下燕國,奉宣詔恩,今普天率土備聞斯慶。」三月,遣舒、綜還,使太常張彌、執金吾許晏、將軍賀達等將兵萬人,金寶珍貨,九錫備物,乘海授淵。〈《江表傳》載權詔曰:「故魏使持節車騎將軍遼東太守平樂侯:天地失序,皇極不建,元惡大憝,作害於民,海內分崩,群生堙滅,雖周餘黎民,靡有孑遺,方之今日,亂有甚焉。朕受歷數,君臨萬國,夙夜戰戰,念在弭難,若涉淵水,罔知攸濟。是以把旄仗鉞,翦除凶虐,自東徂西,靡遑寧處,苟力所及,民無災害。雖賊虜遺種,未伏辜誅,猶繫囚枯木,待時而斃。惟將軍天姿特達,兼包文武,觀時睹變,審於去就,逾越險阻,顯致赤心,肇建大計,爲天下先,元勛巨績,侔於古人。雖昔竇融背棄隴右,卒佔河西,以定光武,休名美實,豈復是過?欽嘉雅尚,朕實欣之。自古聖帝明王,建化垂統,以爵褒德,以祿報功;功大者祿厚,德盛者禮崇。故周公有夾輔之勞,太師有鷹揚之功,幷啓土宇,兼受備物。今將軍規萬年之計,建不世之略,絶僭逆之虜,順天人之肅,濟成洪業,功無與比,齊魯之事,奚足言哉!詩不云乎,『無言不讎,無德不報』。今以幽、靑二州十七郡七十縣,封君爲燕王,使持節守太常張彌授君璽綬策書、金虎符第一至第五、竹使符第一至第十。錫君玄土,苴以白茅,爰契爾龜,用錫冢社。方有戎事,典統兵馬,以大將軍曲蓋麾幢,督幽州、靑州牧遼東太守如故。今加君九錫,其敬聽後命。以君三世相承,保綏一方,寧集四郡,訓及異俗,民夷安業,無或攜貳,是用錫君大輅、戎輅、玄牡二駟。君務在勸農,嗇人成功,倉庫盈積,官民俱豐,是用錫君衮冕之服,赤舄副焉。君正化以德,敬下以禮,敦義崇謙,內外咸和,是用錫君軒縣之樂。君宣導休風,懷保邊遠,遠人回面,莫不影附,是用錫君硃戸以居,君運其才略,官方任賢,顯直錯枉,群善必舉,是用錫君虎賁之士百人。君戎馬整齊,威震遐方,糾虔天刑,彰厥有罪,是用錫君鈇鉞各一。君文和於內,武信於外,禽討逆節,折衝掩難,是用錫君彤弓一、彤矢百、玈弓十、玈矢千。君忠勤有效,温恭爲德,明允篤誠,感於朕心,是用錫君秬鬯一卣,珪瓚副焉。欽哉!敬茲訓典,寅亮天工,相我國家,永終爾休。」〉舉朝大臣,自丞相雍已下皆諫,以爲淵未可信,而寵待太厚。但可遣吏兵數百護送舒、綜,權終不聽。〈臣松以爲權愎諫違眾,信淵意了,非有攻伐之規,重複之慮。宣達錫命,乃用萬人,是何不愛其民,昏虐之甚乎?此役也,非惟闇塞,實爲無道。〉淵果斬彌等,送其首於魏,沒其兵資。權大怒,欲自征淵,〈《江表傳》載權怒曰:「朕年六十,世事難易,靡所不嘗,近爲鼠子所前卻,令人氣涌如山。不自載鼠子頭以擲於海,無顔復臨萬國。就令顛沛,不以爲恨。」〉尚書僕射薛綜等切諫乃止。是歳,權嚮合肥新城,遣將軍全瓊征六安,皆不克還。〈吳書曰:初,張彌、許晏等俱到襄平,官屬從者四百許人。淵欲圖彌、晏,先分其人眾,置遼東諸縣,以中使秦旦、張群、杜德、黃疆等及吏兵六十人,置玄菟郡。玄菟郡在遼東北,相去二百里,太守王贊領戸二百,兼重可三四百人。旦等皆舍於民家,仰其飲食。積四十許日,旦與疆等議曰:「吾人遠辱國命,自棄於此,與死亡何異?今觀此郡,形勢甚弱。若一旦同心,焚燒城郭,殺其長吏,爲國報恥,然後伏死,足以無恨。孰與偷生苟活長爲囚虜乎?」疆等然之。於是陰相約結,當用八月十九日夜發。其日中時,爲部中張松所告,贊便會士眾閉城門。旦、群、德、疆等皆逾城得走。時群病疽創著膝,不及輩旅,德常扶接與俱,崎嶇山谷。行六七百里,創益困,不復能前,臥草中,相守悲泣。群曰:「吾不幸創甚,死亡無日,卿諸人宜速進道,冀有所達。空相守,俱死於窮谷之中,何益也?」德曰:「萬里流離,死生共之,不忍相委。」於是推旦、疆使前,德獨留守群,捕菜果食之。旦、疆別數日,得達句驪(王宮),因宣詔於句驪王宮及其主簿,詔言有賜爲遼東所攻奪。宮等大喜,即受詔,命使人隨旦還迎群、德。其年,宮遣皁衣二十五人送旦等還,奉表稱臣,貢貂皮千枚,鶡雞皮十具。旦等見權,悲喜不能自勝。權義之,皆拜校尉。間一年,遣使者謝宏、中書陳恂拜宮爲單於,加賜衣物珍寶。恂等到安平口,先遣校尉陳奉前見宮,而宮受魏幽州刺史諷旨,令以吳使自效。奉聞之,倒還。宮遣主簿笮咨、帶固等出安平,與宏相見。宏即縛得三十餘人質之,宮於是謝罪,上馬數百匹。宏乃遣咨、固奉詔書賜物與宮。是時宏船小,載馬八十匹而還。〉
三年(234年)春正月、詔を下して言った。「兵は長く絶えず、民は労役に苦しみ、年穀は時に実らない。諸々の未納分を寛大にし、再び督促して徴収しないこと。」夏五月、孫権は陸遜と諸葛瑾らを江夏と沔口に駐屯させ、孫韶と張承らを広陵と淮陽に向かわせ、自らは大軍を率いて合肥新城を包囲した。この時、蜀の丞相諸葛亮が武功に出撃したので、孫権は魏の明帝が遠征できないと考えたが、明帝は兵を派遣して司馬宣王(司馬懿)を助け諸葛亮を防がせ、自らは水軍を率いて東征した。孫権は寿春に至らないうちに撤退し、孫韶も兵を引いた。秋八月、諸葛恪を丹楊太守とし、山越を討伐させた。九月朔日(一日)、霜が降りて穀物を傷つけた。冬十一月、太常の潘濬が武陵の蛮夷を平定し、事が終わると武昌に帰還した。詔を下して曲阿を雲陽に、丹徒を武進に復した。廬陵の賊の李桓と羅厲らが乱を起こした。
原文三年春正月,詔曰:「兵久不輟,民困於役,歳或不登。其寬諸逋,勿復督課。」夏五月,權遣陸遜、諸葛瑾等屯江夏、沔口,孫韶、張承等嚮廣陵、淮陽,權率大眾圍合肥新城。是時蜀相諸葛亮出武功,權謂魏明帝不能遠出,而帝遣兵助司馬宣王拒亮。自率水軍東徵。未至壽春,權退還,孫韶亦罷。秋八月,以諸葛恪爲丹楊太守,討山越。九月朔,隕霜傷穀。冬十一月,太常潘濬平武陵蠻夷,事畢,還武昌。詔復曲阿爲雲陽,丹徒爲武進。廬陵賊李桓、羅厲等爲亂。
四年(235年)夏、呂岱を派遣して李桓らを討伐させた。秋七月、雹が降った。魏の使者が馬をもって珠璣、翡翠、瑇瑁との交換を求めてきた。孫権は言った。「これらは皆、私が用いないものであり、馬を得ることができる。どうして苦労して彼らの交易を聞き入れないことがあろうか。」
原文四年夏,遣呂岱討桓等。秋七月,有雹。魏使以馬求易珠璣、翡翠、瑇瑁,權曰:「此皆孤所不用,而可得馬。何苦而不聽其交易?」
五年(236年)春、大銭を鋳造し、一枚が五百銭に相当するものとした。詔を下して官吏や民に銅を納めさせ、銅の量に応じて代価を支払った。盗鋳を禁ずる法令を設けた。二月、武昌から礼賓殿に甘露が降ったと報告があった。輔呉将軍の張昭が死去した。中郎将の吾粲が李桓を捕らえ、将軍の唐咨が羅厲らを捕らえた。十月から雨が降らず、夏まで続いた。冬十月、東方に彗星が現れた。鄱陽の賊の彭旦らが乱を起こした。
原文五年春,鑄大錢,一當五百。詔使吏民輸銅,計銅畀直。設盜鑄之科。二月,武昌言甘露降於禮賓殿。輔吳將軍張昭卒。中郎將吾粲獲李桓,將軍唐咨獲羅厲等。自十月不雨,至於夏。冬十月,彗星見於東方。鄱陽賊彭旦等爲亂。
六年(237年)春正月、詔を下して言った。
原文六年春正月,詔曰:
三年の喪は、天下の通りの制度であり、人情の極めて痛むところである。賢者は哀しみを断ち切って礼に従い、不肖な者も努めてそれを行う。世が治まり道が平穏で、上下に事がなければ、君子は人情を奪わない。だから三年の間は孝子の門を訪ねない。事変がある時には、礼を減らして時宜に従い、喪服の帯を締めて事に当たる。だから聖人は制度を定める。礼があっても時宜がなければ行われない。喪に遭っても駆けつけないのは古の道ではなく、時宜に応じて、義をもって恩を断つのである。以前、故意に法令を設け、長官が在任中に交代しなければならないのに、故意にそれを犯す者を処罰した。たとえ随時糾弾して罪に問うても、すでに職務は廃れている。今、事が多忙で、国家は多難である。役所にいる者は皆、それぞれ節義を尽くし、公を先にして私を後にするべきである。それなのに恭しく承らないのは、まったくもって言うに足りない。朝廷内外の官僚たちは、改めて公平に議論し、必ず適切な結論を得て、詳細に規則を定めるように。
原文夫三年之喪,天下之達制,人情之極痛也。賢者割哀以從禮,不肖者勉而致之。世治道泰,上下無事,君子不奪人情。故三年不逮孝子之門。至於有事,則殺禮以從宜,要絰而處事。故聖人製法;有禮無時則不行。遭喪不奔非古也,蓋隨時之宜,以義斷恩也。前故設科,長吏在官,當須交代,而故犯之。雖隨糾坐,猶已廢曠。方事之殷,國家多難,凡在官司,宜各盡節,先公後私,而不恭承,甚非謂也。中外群僚,其更平議,務令得中,詳爲節度。
顧譚が議論し、「喪に駆けつけることについて法令を立てるのは、軽ければ孝子の心情を禁じるのに足りず、重ければ本来死罪に値しない罪である。たとえ厳しい刑罰をさらに設けても、違反して強行する者は少ないだろう。もし偶然にも犯す者がいれば、刑罰を加えるのは恩情に忍びず、減刑すれば法は廃れて行われなくなる。愚考では、長官が遠方にいて、もし告げ知らせなければ、状況を知る由もない。交代の選任期間中に、もし伝える者がいれば、必ず死刑を加えるべきである。そうすれば長官には職務を怠る負い目がなく、孝子には重い刑罰を犯すことがない。」と述べた。将軍の胡綜が議論し、「喪の礼には典拠となる制度があるが、もしその時がなければ、行うことはできない。今は軍事と国政の状況が異なり、長官が喪に遭った時、禁令があると知りながら、公然と干犯するのは、憂いを知って駆けつけない恥を思うだけで、臣下として禁令を犯す罪を考えないからである。これは禁令の根本が軽いために起こる。忠節は国にあり、孝道は家に立つ。身を出して臣下となれば、どうして両方を兼ねることができようか。だから忠臣は孝子にはなれない。条文を定め、死刑を示すべきである。もし故意に違反するなら、罪は赦さない。殺すことで殺しを止め、一人に実行すれば、その後は必ず絶える。」と述べた。丞相の顧雍は死刑に従うよう上奏した。
原文顧譚議,以爲「奔喪立科,輕則不足以禁孝子之情,重則本非應死之罪,雖嚴刑益設,違奪必少。若偶有犯者,加其刑則恩所不忍,有減則法廢不行。愚以爲長吏在遠,苟不告語,勢不得知。比選代之間,若有傳者,必加大辟,則長吏無廢職之負,孝子無犯重之刑。」將軍胡綜議,以爲「喪紀之禮,雖有典制,苟無其時,所不得行。方今戎事軍國異容,而長吏遭喪,知有科禁,公敢干突,苟念聞憂不奔之恥,不計爲臣犯禁之罪,此由科防本輕所致。忠節在國,孝道立家,出身爲臣,焉得兼之?故爲忠臣不得爲孝子。宜定科文,示以大辟。若故違犯,有罪無赦。以殺止殺,行之一人,其後必絶。」丞相雍奏從大辟。
その後、呉県令の孟宗が母の喪に駆けつけ、その後自ら武昌に出頭して刑罰を待った。陸遜が彼の平素の行いを述べて、彼のために請願したので、孫権は孟宗の罪を一等減じたが、以後これを先例としないこととし、これによって(奔喪の禁令は)絶えた。二月、陸遜が彭旦らを討伐し、その年、皆これを撃破した。冬十月、衛将軍の全琮を派遣して六安を襲撃させたが、陥落しなかった。諸葛恪が山越を平定し、事が終わると北に進んで廬江に駐屯した。
原文其後吳令孟宗喪母奔赴,已而自拘於武昌以聽刑。陸遜陳其素行,因爲之請,權乃減宗一等,後不得以爲比,因此遂絶。二月,陸遜討彭旦等,其年,皆破之。冬十月,遣衞將軍全琮襲六安,不克。諸葛恪平山越事畢,北屯廬江。
赤烏元年(238年)春、千銭に相当する大銭を鋳造した。夏、呂岱が廬陵の賊を討伐し、終わると陸口に帰還した。秋八月、武昌から麒麟が現れたと報告があった。役人が上奏して言うには、麒麟は太平の兆しであるので、年号を改めるべきであるという。詔を下して言った。「近ごろ赤烏(赤いカラス)が殿前に集まったのを、朕が自ら目撃した。もし神霊がこれを嘉祥とするなら、年号を改めるには赤烏を元年とすべきである。」群臣が上奏して言った。「昔、武王が紂を討伐した時、赤烏の祥瑞があり、君臣がこれを見て、遂に天下を得ました。聖人の書物に記述が最も詳しいのは、近い事柄がすでに嘉く、自ら目撃したことがまた明らかだからです。」そこで年号を改めた。歩夫人が死去し、皇后を追贈した。初め、孫権は校事の呂壹を信任していた。呂壹の性格は苛酷で残忍、法の適用は厳しく深刻であった。太子の孫登がたびたび諫めたが、孫権は聞き入れず、大臣たちはこれによって敢えて言う者がいなかった。後に呂壹の奸悪な罪が発覚して誅殺されると、孫権は自らを責め、中書郎の袁礼を使者として諸大将に謝罪を告げさせ、同時に時事について増減すべきことを問うた。袁礼が帰還すると、さらに詔を下して諸葛瑾、歩騭、朱然、呂岱らを責めて言った。
原文赤烏元年春,鑄當千大錢。夏,呂岱討盧陵賊,畢,還陸口。秋八月,武昌言麒麟見。有司奏言麒麟者太平之應,宜改年號。詔曰:「間者赤烏集於殿前,朕所親見。若神靈以爲嘉祥者,改年宜以赤烏爲元。」群臣奏曰:「昔武王伐紂,有赤烏之祥,君臣觀之,遂有天下,聖人書策載述最詳者,以爲近事旣嘉,親見又明也。」於是改年。步夫人卒,追贈皇后。初,權信任校事呂壹,壹性苛慘,用法深刻。太子登數諫,權不納,大臣由是莫敢言。後壹姦罪發露伏誅,權引咎責躬,乃使中書郎袁禮告謝諸大將,因問時事所當損益。禮還,復有詔責數諸葛瑾、步騭、朱然,呂岱等曰:
袁礼が帰還し、子瑜(諸葛瑾)、子山(歩騭)、義封(朱然)、定公(呂岱)と会い、皆、時事について先後すべきことがあるが、各自が民事を掌理していないので、すぐには陳述をしようとせず、すべて伯言(陸遜)と承明(潘濬)に推したという。伯言と承明が袁礼に会うと、涙を流して痛切に、言葉の趣旨は苦渋に満ち、危惧を抱き恐怖し、自ら安んじられない心があるほどであった。これを聞いて私は失望し、深く自らを責め怪しんだ。なぜか。聖人だけが過ちのない行いができ、明らかな者だけが自らを見ることができるのだ。人の行動が、どうしてすべて適中できようか。ただ自分だけが衆人の意を傷つけ拒んでいることに、ふと気づかないだけである。だから諸君は嫌疑をかけられ難儀しているのだ。そうでなければ、どうしてここまで至るだろうか。私が軍を興してから五十年、徴発した賦役のすべては民から出ている。天下は未だ定まらず、悪党はまだ存在し、士民は勤労苦労している。誠に知り抜いている。しかし百姓を労するのは、事やむを得ないからである。諸君と事に従事してから、少年から年をとり、髪に二色(白髪)が生じるまで、表裏は十分に明らかで、公私の区別と計算は、十分に互いを保証できるものと思っていた。思いのままを言い直言して諫めることを、諸君に望み、遺漏を拾い欠点を補うことを、私も望んでいた。昔、衛武公は年老いても志は壮んで、輔弼を勤めて求め、常に独りで嘆き責めた。(『江表伝』によると、孫権はまた言った。「天下に純白の狐はいないが、純白の裘(皮衣)はある。それは多くのものが積み重なったものだ。雑色から純白を得ることができるのは、積み重ねによるのではないか。だから衆人の力を用いれば、天下に敵なく、衆人の智恵を用いれば、聖人をも恐れない。」)また、布衣に革帯の庶民同士が交際し、分かち合い仲良くする時でさえ、汚れや垢を異としない。今日、諸君が私と事に従事するのは、君臣の義は存在するが、なお骨肉以上の関係と言える。栄光と幸福、喜びと悲しみを共にする。忠は真情を隠さず、智は計略を遺さず、事の是非を統べる。諸君はどうして悠長にしているだけでよいだろうか。同じ船で川を渡る時、誰と代わることができようか。斉の桓公は諸侯の覇者に過ぎないが、善があれば管仲は必ず嘆賞し、過ちがあれば必ず諫め、諫めて聞き入れられなくても、最後まで諫めて止まなかった。今、私が自ら省みるに桓公の徳はないが、諸君の諫言は口から出ず、依然として嫌疑と難しさを抱いている。この点から言えば、私は斉の桓公より優れているが、諸君が管仲と比べてどうかは分からない。長く会わないので、事に因って笑うことになる。共に大業を定め、天下を整えようとする時、他に誰がいるだろうか。およそ百の事柄で増減すべきこと、異なる計略を聞くことを楽しみ、及ばないところを正してほしい。
原文袁禮還,雲與子瑜、子山、義封、定公相見,並以時事當有所先後,各自以不掌民事,不肯便有所陳,悉推之伯言、承明。伯言、承明見禮,泣涕懇惻,辭旨辛苦,至乃懷執危怖,有不自安之心。聞此悵然,深自刻怪。何者?夫惟聖人能無過行,明者能自見耳。人之舉措,何能悉中,獨當己有傷拒眾意,忽不自覺,故諸君有嫌難耳。不爾,何緣乃至於此乎?自孤興軍五十年,所役賦凡百皆出於民。天下未定,孼類猶存,士民勤苦,誠所貫知。然勞百姓,事不得已耳。與諸君從事,自少至長,發有二色,以謂表裡足以明露,公私分計,足用相保。盡言直諫,所望諸君,拾遺補闕,孤亦望之。昔衞武公年過志壯,勤求輔弼,每獨歎責。〈《江表傳》曰:權又云:「天下無粹白之狐,而有粹白之裘,眾之所積也。夫能以駮致純,不惟積乎?故能用眾力,則無敵於天下矣;能用眾智,則無畏於聖人矣。」〉且布衣韋帶,相與交結,分成好合,尚污垢不異。今日諸君與孤從事,雖君臣義存,猶謂骨肉不復是過。榮福喜戚,相與共之。忠不匿情,智無遺計,事統是非,諸君豈得從容而已哉?同船濟水,將誰與易?齊桓諸侯之霸者耳,有善管子未嘗不歎,有過未嘗不諫,諫而不得,終諫不止。今孤自省無桓公之德,而諸君諫諍未出於口,仍執嫌難。以此言之,孤於齊桓良優,未知諸君於管子何如耳?久不相見,因事當笑。共定大業,整齊天下,當復有誰?凡百事要所當損益,樂聞異計,匡所不逮。
二年の春(『江表伝』に、権が正月に詔を下して言うには、「郎吏は宿衛の臣であり、古の命士である。近頃用いられる者はかなりその人に非ず。今後は三署を選ぶには皆四科に依拠し、虚辞をもって飾り合うことを得ず」とある)。三月、使者の羊衜、鄭冑、将軍の孫怡を遼東に派遣した。魏の守将の張持、高慮らを撃ち、男女を捕虜として得た(『文士伝』に言う。胄は字を敬先といい、沛国の人である。父の札は才学が博達で、権が驃騎将軍であった時、札を從事中郎とし、張昭、孫邵と共に朝儀を定めた。胄はその末子で、文武の姿局があり、若くして名を知られ、賢良に挙げられ、次第に建安太守に昇進した。呂壹の賓客が郡で法を犯したので、胄はこれを収監して獄に付け、拷問して死に至らしめた。壹は恨みを抱き、後に密かに胄を讒言した。権は大いに怒り、胄を召還しようとしたが、潘濬、陳表が共に請願し、釈放された。後に宣信校尉に拝され、公孫淵を救援に向かったが、既に魏に破られていたため、帰還して執金吾に遷った。子の豊は字を曼季といい、文学と操行があり、陸雲と親しく、雲と詩をやり取りした。司空の張華が召し出したが、就任せずに死去した。臣の松之が聞くところでは、孫怡は東州の人で、権の宗族ではないという)。零陵で甘露が降ったと報告があった。夏五月、沙羨に城を築いた。冬十月、将軍の蔣秘が南方の夷賊を討伐した。秘が統率する都督の廖式が臨賀太守の厳綱らを殺害し、自ら平南将軍と称し、弟の潛と共に零陵、桂陽を攻め、さらに交州の蒼梧、鬱林の諸郡を揺るがし、数万人の兵を集めた。将軍の呂岱、唐咨を派遣してこれを討伐し、一年余りで皆破った。
原文二年春〈《江表傳》載權正月詔曰:「郎吏者,宿衞之臣,古之命士也。間者所用頗非其人。自今選三署皆依四科,不得以虛辭相飾。」〉三月,遣使者羊衜、鄭冑、將軍孫怡之遼東。擊魏守將張持、髙慮等,虜得男女。〈文士傳曰:胄字敬先,沛國人。父札,才學博達,權爲驃騎將軍,以札爲從事中郎,與張昭、孫邵共定朝儀。胄其少子,有文武姿局,少知名,舉賢良,稍遷建安太守。呂壹賓客於郡犯法,胄收付獄,考竟。壹懷恨,後密譖胄。權大怒,召胄還,潘濬、陳表幷爲請,得釋。後拜宣信校尉,往救公孫淵,已爲魏所破,還遷執金吾。子豐,字曼季,有文學操行,與陸雲善,與雲詩相往反。司空張華辟,未就,卒。臣松之聞孫怡者,東州人,非權之宗也。〉零陵言甘露降。夏五月,城沙羨。冬十月,將軍蔣秘南討夷賊。秘所領都督廖式殺臨賀太守嚴綱等,自稱平南將軍,與弟潛共攻零陵、桂陽,及搖動交州蒼梧、鬱林諸都,眾數萬人。遣將軍呂岱、唐咨討之,歳餘皆破。
三年の春正月、詔を下して言う。「そもそも君主は民なくして立たず、民は穀物なくして生きられない。近頃以来、民は多くの徴役に苦しみ、年にはまた水害や旱魃があり、穀物の収穫が損なわれている。しかるに官吏の中には不良の者もおり、民の農時を侵奪して、飢えと困窮を招いている。今後より、督軍や郡守は、法に非ざることを謹んで察し、農桑の時期に、役事をもって民を煩わせる者があれば、正しく挙げて報告せよ」。夏四月、大赦を行い、諸郡県に城郭を修築し、譙楼を建て、塹壕を穿ち、水路を開いて、盗賊に備えるよう詔を下した。冬十一月、民が飢えたため、詔を下して倉庫を開き、貧窮な者を救済した。
原文三年春正月,詔曰:「蓋君非民不立,民非谷不生。頃者以來。民多徵役,歳又水旱,年谷有損,而吏或不良,侵奪民時,以致饑困。自今以來,督軍郡守,其謹察非法,當農桑時,以役事擾民者,舉正以聞。」夏四月,大赦,詔諸郡縣治城郭,起譙樓,穿塹發渠,以備盜賊。冬十一月,民饑,詔開倉廩以賑貧窮。
四年の春正月、大雪が平地に三尺の深さで積もり、鳥獣の死者が大半を占めた。夏四月、衛将軍の全琮を派遣して淮南を攻略させた。芍陂を決壊させ、安城の邸閣を焼き、その人民を収奪した。威北将軍の諸葛恪が六安を攻撃した。琮は魏の将軍の王淩と芍陂で戦い、中即将の秦晃ら十余人が戦死した。車騎将軍の朱然が樊を包囲し、大将軍の諸葛瑾が柤中を奪取した(『漢晉春秋』に言う。零陵太守の殷禮が権に言うには、「今、天は曹氏を見捨て、喪と誅殺が累々と現れ、虎が争う際に幼童が事に臨んでいる。陛下自ら戎を御し、乱を取って亡を侮るべく、荊州、揚州の地を洗い清め、強き者と弱き者の数を挙げ、強者には戟を執らせ、弱者には転運させ、西では益州に命じて軍を隴右に置き、諸葛瑾、朱然に大衆を授けて襄陽を指させ、陸遜、朱桓に別に寿春を征伐させ、大駕は淮陽に入り、青州、徐州を経由するのがよい。襄陽、寿春は敵を受けて困窮し、長安以西は蜀軍に対処するのに忙しく、許、洛の衆は勢い分離するであろう。掎角の勢いは瓦解し、民は必ず内応し、将帥が相対すれば、あるいは便宜を失うこともあろう。一軍が敗れれば、三軍は離心し、その時こそ馬に秣をやり、車に脂を塗り、城邑を陵ぎ踏みにじり、勝ちに乗って敗走する敵を追い、華夏を平定すべきである。もし軍を悉く動かし衆を挙げず、以前の軽挙を繰り返すならば、大用に足らず、容易に退却を繰り返すことになる。民は疲弊し威勢は消え、時は過ぎ力は尽き、出兵の策ではない」と。権はこれを用いることができなかった)。五月、太子の登が卒去した。この月、魏の太傅の司馬宣王が樊を救援した。六月、軍は帰還した。閏月、大将軍の瑾が卒去した。秋八月、陸遜が邾に城を築いた。
原文四年春正月,大雪平地深三尺,鳥獸死者大半。夏四月,遣衞將軍全琮略淮南。決芍陂,燒安城邸閣,收其人民。威北將軍諸葛恪攻六安。琮與魏將王淩戰於芍陂,中即將秦晃等十餘人戰死。車騎將軍朱然圍樊,大將軍諸葛瑾取柤中。〈《漢晉春秋》曰:零陵太守殷禮言於權曰:「今天棄曹氏,喪誅累見,虎爭之際而幼童莅事。陛下身自御戎,取亂侮亡,宜滌荆、揚之地,舉強羸之數,使強者執戟,羸者轉運,西命益州軍於隴右,授諸葛瑾、朱然大眾,指事襄陽、陸遜、朱桓別征壽春,大駕入淮陽,歷靑、徐。襄陽、壽春困於受敵,長安以西務對蜀軍,許、洛之眾勢必分離;掎角瓦解,民必內應,將帥對嚮,或失便宜;一軍敗績,則三軍離心,便當秣馬脂車,陵蹈城邑,乘勝逐北,以定華夏。若不悉軍動眾,循前輕舉,則不足大用,易於屢退。民疲威消,時往力竭,非出兵之策也。」權弗能用之。〉五月,太子登卒。是月,魏太傅司馬宣王救樊。六月,軍還。閏月,大將軍瑾卒。秋八月,陸遜城邾。
五年の春正月、子和を太子に立て、大赦を行った。禾興を嘉興と改称した。百官が皇后と四王の立后を奏上したが、詔を下して言う。「今、天下は未だ定まらず、民と物は労瘁しており、かつ功ある者の中にはまだ記録されていない者もおり、飢寒の者にはまだ恤れみが及んでいない。みだりに土地を割いて子弟を豊かにし、爵位を崇めて妃妾を寵愛することは、孤は甚だ取らない。この議論はやめよ」。三月、海塩県で黄龍が現れたと報告があった。夏四月、御物への進献を禁じ、太官の膳を減らした。秋七月、将軍の聶友、校尉の陸凱に兵三万を率いさせて珠崖、儋耳を討伐させた。この年、大疫が流行し、有司がまた皇后と諸王の立后を奏上した。八月、子の霸を魯王に立てた。
原文五年春正月,立子和爲太子,大赦。改禾興爲嘉興。百官奏立皇后及四王,詔曰:「今天下未定,民物勞瘁,且有功者或未錄,饑寒者尚未恤,猥割土壤以豐子弟,祟爵位以寵妃妾,孤甚不取。其釋此議。」三月,海鹽縣言黃龍見。夏四月,禁進獻御,減太官膳。秋七月,遣將軍聶友、校尉陸凱以兵三萬討珠崖、儋耳。是歳,大疫,有司又奏立后及諸王。八月,立子霸爲魯王。
六年の春正月、新都で白虎が現れたと報告があった。諸葛恪が六安を征伐し、魏の将軍の謝順の陣営を破り、その民人を収奪した。冬十一月、丞相の顧雍が卒去した。十二月、扶南王の范旃が使者を遣わして楽人と方物を献上した。この年、司馬宣王が軍を率いて舒に入り、諸葛恪は皖から柴桑に移った。
原文六年春正月,新都言白虎見。諸葛恪征六安,破魏將謝順營,收其民人。冬十一月,丞相顧雍卒。十二月,扶南王范旃遣使獻樂人及方物。是歳,司馬宣王率軍入舒,諸葛恪自皖遷於柴桑。
七年の春正月、上大将軍の陸遜を丞相とした。秋、宛陵で嘉禾が生えたと報告があった。この年、歩騭、朱然らがそれぞれ上疏して言うには、「蜀から帰還した者は皆、蜀が盟約を背いて魏と通交しようとしており、多くの舟船を作り、城郭を修繕し治め、また蔣琬が漢中を守っていると語る。司馬懿が南に向かっていると聞きながら、虚に乗じて出兵して掎角の勢いとせず、かえって漢中を委ねて、近くの成都に帰還している。事は既に明らかで、再び疑う余地はなく、備えをなすべきである」。権はそれがそうではないと推し量り、言う。「我は蜀を薄く扱っておらず、聘問や饗応、盟誓において、何ら負うところはない。どうしてこのようなことになるのか。また、司馬懿が以前に舒に入った時は、十日ほどで退却した。蜀は万里の彼方にあり、どうして緩急を知ってすぐに出兵できようか。昔、魏が漢川に入ろうとした時、こちらでは警戒を始めたが、まだ挙動には出さず、ちょうど魏が帰還したと聞いて止めた。蜀がどうしてまたこれをもって疑うことがあろうか。また、人が国を治めるのに、舟船や城郭をどうして護らないことがあろうか。今、こちらで軍を治めているのは、まさか蜀を防ごうとしているわけではない。人の言うことは苦しくて信じられない。朕は諸君のために家を破ってこれを保証する」。蜀は結局、謀略がなく、権が籌策した通りであった(『江表伝』に権の詔を載せる。「督将が逃亡・反逆したからといてその妻子を殺すのは、妻をして夫を去らせ、子をして父を棄てさせることであり、義教を甚だしく傷つける。今後は殺すな」)。
原文七年春正月,以上大將軍陸遜爲丞相。秋,宛陵言嘉禾生。是歳,步騭、朱然等各上疏云:「自蜀還者,咸言欲背盟與魏交通,多作舟船,繕治城郭,又蔣琬守漢中。聞司馬懿南向,不出兵乘虛以掎角之,反委漢中,還近成都。事已彰灼,無所復疑,宜爲之備。」權揆其不然,曰:「吾待蜀不薄,聘享盟誓,無所負之。何以致此?又司馬懿前來入舒,旬日便退,蜀在萬裏,何知緩急而便出兵乎?昔魏欲入漢川,此間始嚴,亦未舉動,會聞魏還而止。蜀寧可復以此有疑邪?又人家治國,舟船城郭,何得不護?今此間治軍,寧復欲以御蜀邪?人言苦不可信,朕爲諸君破家保之。」蜀競自無謀,如權所籌。〈《江表傳》載權詔曰:「督將亡叛而殺其妻子,是使妻去夫,子棄父,甚傷義教,自今勿殺也。」〉
八年の春二月、丞相の陸遜が卒去した。夏、雷が宮門の柱を犯し、また南津の大橋の楹を撃った。茶陵県で洪水が溢れ出し、二百余家の住民が流された。秋七月、将軍の馬茂らが逆謀を図り、三族に誅された。八月、大赦を行った。校尉の陳勳に屯田兵と作士三万人を率いさせて句容の中道を開鑿させ、小其から雲陽西城に至り、市が集まる所に通じ、邸閣を造らせた(『呉歴』に言う。茂は元は淮南の鍾離長であったが、王凌に見失われ、反逆して呉に帰順した。呉は彼を征西将軍、九江太守、外部督とし、侯に封じ、千兵を領させた。権はしばしば苑中に出て、公卿諸将と射をした。茂は兼符節令の朱貞、無難督の虞欽、牙門将の朱志らと共謀し、権が苑中にいる時、公卿諸将が門にあってまだ入らないうちに、貞に節を持たせて詔と称し、皆を縛り捕らえさせようとした。茂は兵を率いて苑中に入り権を撃ち、宮中と石頭塢を分かち占拠し、人を遣わして魏に報告しようとした。事が発覚し、皆、族誅された)。
原文八年春二月,丞相陸遜卒。夏,雷霆犯宮門柱,又擊南津大橋楹。茶陵縣鴻水溢出,流漂居民二百餘家。秋七月,將軍馬茂等圖逆,夷三族。八月,大赦。遣校尉陳勳將屯田及作士三萬人鑿句容中道,自小其至雲陽西城,通會市,作邸閣。〈《吳歷》曰:茂本淮南鍾離長,而爲王凌所失,叛歸吳,吳以爲征西將軍、九江太守、外部督,封侯,領千兵。權數出苑中,與公卿諸將射。茂與兼符節令朱貞、無難督虞欽、牙門將朱志等合計,伺權在苑中,公卿諸將在門未入,令貞持節稱詔,悉收縛之;茂引兵入苑擊權,分據宮中及石頭塢,遣人報魏。事覺,皆族之。〉
九年(赤烏九年)の春二月、車騎将軍の朱然が魏の柤中を征伐し、千余りを斬り捕らえた。夏四月、武昌で甘露が降ったと報告された。秋九月、驃騎将軍の歩騭を丞相とし、車騎将軍の朱然を左大司馬とし、衛将軍の全琮を右大司馬とし、鎮南将軍の呂岱を上大将軍とし、威北将軍の諸葛恪を大将軍とした。(『江表伝』に曰く、この年、孫権の詔。「謝宏は先日大銭を鋳ることを陳べ、もって貨を広めんと言ったので、これを聴した。今、民の意が便としないと聞く。これを省息し、器物に鋳てよ。官は復た出だすこと勿れ。私家に有る者は、敕して輸蔵せしめ、その直を計り畀い、枉あること勿れ。)
原文九年春二月,車騎將軍朱然征魏柤中,斬獲千餘。夏四月,武昌言甘露降。秋九月,以驃騎步騭爲丞相,車騎朱然爲左大司馬,衞將軍全琮爲右大司馬,鎮南呂岱爲上大將軍,威北將軍諸葛恪爲大將軍。〈《江表傳》曰:是歳,權詔曰:「謝宏往日陳鑄大錢,云以廣貨,故聽之。今聞民意不以爲便,其省息之,鑄爲器物,官勿復出也。私家有者,敕以輸藏,計畀其直,勿有所枉也。」〉
十年の春正月、右大司馬の全琮が死去した。二月、孫権は南宮に行幸した。三月、太初宮の改築が行われ、諸将や州郡の長官たちがみな義捐工事に参加した。夏五月、丞相の歩騭が死去した。冬十月、死罪を赦免した。(『江表伝』に曰く、この年、孫権は諸葛壱を遣わし偽って叛かせて諸葛誕を誘わせた。諸葛誕は歩騎一万をもって高山で壱を迎えた。孫権は塗中に出で、ついに高山に至り、軍を潜めてこれを持った。諸葛誕は覚って退いた。『江表伝』に孫権の詔を載せる。「建業宮はすなわち朕が京より来たりて作った将軍府寺のみ。材柱は率いて細く、皆腐朽し、常に損壊を恐れる。今未だ西に復らず、武昌宮の材瓦を徙し、更に繕治すべし。」有司が奏して言う。「武昌宮はすでに二十八歳、用に堪えざるを恐る。所在に下して通じて更に伐ち致すべし。」孫権が曰く。「大禹は卑宮をもって美とす。今、軍事未だ已まず、所在多く賦あり。もし更に通じて伐たば、農桑を妨損せん。武昌の材瓦を徙す、自ら用うべし。)
原文十年春正月,右大司馬全琮卒。〈《江表傳》曰:是歳權遣諸葛壹僞叛以誘諸葛誕,誕以步騎一萬迎壹於髙山。權出塗中,遂至髙山,潛軍以待之。誕覺而退。〉二月,權適南宮。三月,改作太初宮,諸將及州郡皆義作。〈《江表傳》載權詔曰:「建業宮乃朕從京來所作將軍府寺耳,材柱率細,皆以腐朽,常恐損壞。今未復西,可徙武昌宮材瓦,更繕治之。」有司奏言曰:「武昌宮已二十八歳,恐不堪用,宜下所在通更伐致。」權曰:「大禹以卑宮爲美,今軍事未已,所在多賦,若更通伐,妨損農桑。徙武昌材瓦,自可用也。」〉夏五月,丞相步騭卒。冬十月,赦死罪。
十一年の春正月、朱然が江陵に城を築いた。二月、また地震があった。三月、宮殿が完成した。夏四月、雹が降り、雲陽で黄龍が現れたと報告された。五月、鄱陽で白虎が仁を示したと報告された。詔を下して言った。「昔の聖王は善行を積み重ね、身を修め道を行い、天下を所有した。それゆえ符瑞がそれに応じ、その徳を表したのである。朕は明らかでないのに、どうしてこのような祥瑞に至ることができようか。『尚書』に『たとえ善くても休むな』とある。公卿百官は、それぞれその職務に励み、朕の及ばないところを補佐せよ。」(『江表伝』に孫権の詔を載せる。「朕は寡徳をもって、過って先祀を奉じ、事に莅むも聡ならず、霊祇の譴を得、日夜祗戒し、終日もあらざるがごとし。群僚はそれ各々精を厲み、朕が過失を思い、諱むところ勿れ。」『瑞応図』に曰く、白虎仁とは、王者暴虐ならざれば、仁虎害さざるなり。)
原文十一年春正月,朱然城江陵。二月,地仍震。〈《江表傳》載權詔曰:「朕以寡德,過奉先祀,莅事不聰,獲譴靈祇,夙夜祗戒,若不終日。群僚其各厲精,思朕過失,勿有所諱。」〉三月,宮成。夏四月,雨雹,雲陽言黃龍見。五月,鄱陽言白虎仁。〈瑞應圖曰:白虎仁者,王者不暴虐,則仁虎不害也。〉詔曰:「古者聖王積行累善,修身行道,以有天下。故符瑞應之,所以表德也。朕以不明,何以臻茲?《尚書》雲『雖休勿休』,公卿百司,其勉修所職,以匡不逮。」
十二年の春三月、左大司馬の朱然が死去した。四月、二羽の烏が鵲をくわえて東館に落とした。丙寅の日、驃騎将軍の朱據が丞相を兼任し、鵲を焼いて祭祀を行った。(『呉録』に曰く、六月の戊戌の日、宝鼎が臨平湖から出現した。八月の癸丑の日、白鳩が章安に現れた。)
原文十二年春三月,左大司馬朱然卒。四月,有兩烏銜鵲墮東館。丙寅,驃騎將軍朱據領丞相,燎鵲以祭。〈吳錄曰:六月戊戌,寶鼎出臨平湖。八月癸丑,白鳩見於章安。〉
十三年の夏五月、夏至の日、熒惑(火星)が南斗に入った。秋七月、魁の第二星を犯して東へ進んだ。八月、丹陽、句容および故鄣、寧国の諸山が崩れ、洪水が溢れた。詔を下して未納の税を免除し、種子や食糧を貸し与えた。太子の孫和を廃し、故鄣に住まわせた。魯王の孫覇に死を賜った。冬十月、魏の将軍の文欽が偽って反乱し、朱異を誘い出そうとした。孫権は呂據を朱異のもとに派遣して文欽を迎えさせた。朱異らは軍勢が厚かったので、文欽は進むことができなかった。十一月、子の孫亮を立てて太子とした。十万の軍を派遣し、堂邑に塗塘を築いて北道を水没させた。十二月、魏の大将軍の王昶が南郡を包囲し、荊州刺史の王基が西陵を攻撃した。孫権は将軍の戴烈と陸凱を派遣してこれを防がせ、両者とも引き返した。この年、神人が書を授け、年号を改め皇后を立てるよう告げた。(庾闡『揚都賦』の注に曰く、烽火は炬を孤山の頂に置き、いずれも江に沿って互いに見渡せるようにし、あるいは百里、あるいは五十里・三十里の間隔を置いた。敵が来れば火を挙げて互いに知らせ、一晩で万里を伝えることができた。孫権の時、日暮れに西陵で火を挙げ、太鼓を三度打ち終えるうちに呉郡の南沙まで達した。)
原文十三年夏五月,日至,熒惑入南斗。秋七月,犯魁第二星而東。八月,丹陽、句容及故鄣、寧國諸山崩,鴻水溢。詔原通責,給貸種食。廢太子和,處故鄣。魯王霸賜死。冬十月,魏將文欽偽叛以誘朱異,權遣呂據就異以迎欽。異等待重,欽不敢進。十一月,立子亮爲太子。遣軍十萬,作堂邑塗塘以淹北道。十二月,魏大將軍王昶圍南郡,荊州刺史王基攻西陵,遣將軍戴烈、陸凱往拒之,皆引還。〈庾闡《揚都賦》注曰:烽火以炬置孤山頭,皆緣江相望,或百里,或五十、三十里,寇至則舉以相告,一夕可行萬里。孫權時合暮舉火於西陵,鼓三竟,達吳郡南沙。〉是歳,神人授書,告以改年、立后。
太元元年の夏五月、皇后潘氏を立て、大赦を行い、年号を改めた。初め、臨海郡羅陽県に神人がおり、自ら王表と名乗っていた。民間を巡り歩き、言葉や飲食は人と変わらなかったが、その姿は見えなかった。また一人の婢がおり、名を紡績といった。この月、中書郎の李崇を派遣し、輔国将軍羅陽王の印綬を持たせて王表を迎えさせた。王表は李崇とともに出てきて、李崇やその地の郡守・県令らと談論し、李崇らはそれに反論できなかった。通る山川ごとに、いつも婢を遣わしてその神と連絡を取った。秋七月、李崇と王表が到着した。孫権は蒼龍門の外に邸宅を建ててやり、しばしば近臣に酒食を持たせて訪ねさせた。王表が水害や旱害の小事を言うと、しばしば的中した。秋八月の朔日、大風が吹いた。江や海の水が湧き上がり溢れ、平地の深さは八尺に及び、呉の高陵の松柏が根こそぎ引き抜かれ、郡城の南門が飛んで落ちた。冬十一月、大赦を行った。孫権が南郊で祭祀を行って帰還した後、病に臥した。十二月、駅伝で大将軍の諸葛恪を召し寄せ、太子太傅に任命した。詔を下して徭役を減らし、租税を軽減し、民衆が苦しむものを取り除くよう命じた。(『呉録』に曰く、羅陽は現在の安固県である。孫盛は曰く、国が興ろうとする時は民の声を聴き、国が亡びようとする時は神の声を聴くという。孫権は年老いて志が衰え、讒臣が側にあり、嫡子を廃して庶子を立て、妾を妻とした。まさに徳の薄さが多かったと言えよう。しかも偽って符命を設け、妖邪に福を求めた。亡国の兆しが顕著ではないか。『呉録』に曰く、孫権は風疾を得た。)
原文太元元年夏五月,立皇后潘氏,大赦,改年。初臨海羅陽縣有神,自稱王表。〈吳錄曰:羅陽今安固縣。〉周旋民間,語言飲食,與人無異,然不見其形。又有一婢,名紡績。是月,遣中書郎李祟齎輔國將軍羅陽王印綬迎表。表隨崇俱出,與祟及所在郡守令長談論,祟等無以易。所歷山川,輒遣婢與其神相聞。秋七月,祟與表至,權於蒼龍門外爲立第舍,數使近臣齎酒食往。表說水旱小事,往往有驗。〈孫盛曰:盛聞國將興,聽於民;國將亡,聽於神。權年老志衰,讒臣在側,廢適立庶,以妾爲妻,可謂多凉德矣。而僞設符命,求福妖邪,將亡之兆,不亦顯乎!〉秋八月朔,大風。江海湧溢,平地深八尺,吳髙陵松柏斯拔,郡城南門飛落。冬十一月,大赦。權祭南郊還,寢疾。〈吳錄曰:權得風疾。〉十二月,驛徵大將軍恪,拜爲太子太傅。詔省徭役,減徵賦,除民所患苦。
二年の春正月、元太子の孫和を南陽王に立て、長沙に住まわせた。子の孫奮を斉王に立て、武昌に住まわせた。子の孫休を琅邪王に立て、虎林に住まわせた。二月、大赦を行い、元号を神鳳と改めた。皇后の潘氏が薨去した。諸将や官吏たちがたびたび王表のもとを訪れて福を請うたが、王表は逃げ去った。夏四月、孫権が崩御した。時に七十一歳。諡して大皇帝といった。秋七月、蔣陵に葬られた。(『傅子』に曰く、孫策は人となり明敏果断で独断し、勇気は天下を覆った。父の孫堅が戦死したため、若くしてその兵を合わせて仇を報いようとし、千里を転戦して江南の地をことごとく領有し、名門の豪族を誅し、威は隣国に及んだ。孫権がその業を継ぐと、張子布を腹心とし、陸議・諸葛瑾・歩騭を股肱とし、呂範・朱然を爪牙とし、職務を分けて任せ、隙を伺って兵を妄りに動かさなかった。ゆえに戦いは敗れることが少なく、江南は安定した。)
原文二年春正月,立故太子和爲南陽王,居長沙。子奮爲齊王,居武昌。子休爲琅邪王,居虎林。二月,大赦,改元爲神鳳。皇后潘氏薨。諸將吏數詣王表請福,表亡去。夏四月,權薨,時年七十一,謚曰大皇帝。秋七月,葬蔣陵。〈《傅子》曰:孫策爲人明果獨斷,勇蓋天下,以父堅戰死,少而合其兵將以報讎,轉鬬千里,盡有江南之地,誅其名豪,威行鄰國。及權繼其業,有張子布以爲腹心,有陸議、諸葛瑾、步騭以爲股肱,有呂範、朱然以爲爪牙,分任授職,乘間伺隙,兵不妄動,故戰少敗而江南安。〉
評して言う。「孫権は身を屈して辱めを忍び、才能を任用し計略を重んじ、勾践のような奇才、英雄の中の傑出した人物であった。それゆえ江南を自ら支配し、鼎立の業を成し遂げることができた。しかし性質として猜疑心が強く、殺戮に果断であり、末年になるにつれて、ますますその傾向がひどくなった。讒言や君子の行いを絶つこと、後継者を廃して死に至らしめることについては、まさに『子孫に謀を与えて安らかにする』と言えるだろうか。その後の世は衰微し、ついに国を覆すに至ったが、必ずしもこのことによらないわけではない。」(馬融は『尚書』の注で「殄は絶つこと、君子の行いを絶つこと」と述べている。臣松之は考える。孫権が無罪の子を勝手に廃したことは乱の兆しとなったが、国の転覆は暴君の孫皓によるものである。もし孫権が孫和を廃さず、孫皓が世継ぎとなっても、結局滅亡したことに変わりはない。国の滅亡は昏虐によるもので、廃嫡によるものではない。仮に孫亮が在位し続け、孫休が早死にしなければ、孫皓は即位できず、呉は滅亡しなかったであろう。)
原文評曰:「孫權屈身忍辱,任才尚計,有勾踐之奇,英人之傑矣。故能自擅江表,成鼎峙之業。然性多嫌忌,果於殺戮,暨臻末年,彌以滋甚。至於讒說殄行,胤嗣廢斃,〈馬融注《尚書》曰:殄,絶也,絶君子之行。〉豈所謂賜厥孫謀以燕冀於者哉?其後葉陵遲,遂致覆國,未必不由此也。〈臣松之以爲孫權橫廢無罪之子,雖爲兆亂,然國之傾覆,自由暴皓。若權不廢和,皓爲世適,終至滅亡,有何異哉?此則喪國由於昏虐,不在於廢黜也。設使亮保國祚,休不早死,則皓不得立。皓不得立,則吳不亡矣。〉」
この作品は全世界において公有領域に属します。なぜなら、作者の没後100年以上が経過しており、かつ作品が1931年1月1日より前に出版されたからです。
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