三国志

蜀しょく書十五 鄧張宗楊伝

鄧芝は字を伯苗といい、義陽郡新野県の人で、漢の司徒しと鄧禹の末裔である。漢末に蜀に入ったが、まだ知遇を得ていなかった。当時、益州の従事張裕は人相見が上手で、鄧芝は彼のもとを訪れた。張裕は鄧芝に言った。「あなたは七十歳を過ぎて、大将軍の位に至り、侯に封ぜられるでしょう。」鄧芝は、巴西太守の龐羲が士人を好むと聞き、そのもとに身を寄せた。先主(劉備)が益州を平定すると、鄧芝は郫の邸閣督となった。先主が郫に出向いた時、鄧芝と話し、大いにその才能を認め、郫県令に抜擢し、後に広漢太守に転任させた。任地では清廉厳格で治績があり、中央に入って尚書となった。

原文鄧芝字伯苗,義陽新野人,漢司徒禹之後也。漢末入蜀,未見知待。時益州從事張裕善相,芝往從之,裕謂芝曰:「君年過七十,位至大將軍,封侯。」芝聞巴西太守龐羲好士,往依焉。先主定益州,芝為郫邸閣督。先主出至郫,與語,大奇之,擢為郫令,遷廣漢太守。所在清嚴有治績,入為尚書。

先主が永安で崩御した。この前、呉王孫権が和睦を求めてきたので、先主はたびたび宋瑋や費禕らを派遣して返答させていた。丞相諸葛亮は、孫権が先主の崩御を聞いて異心を抱くのではないかと深く憂慮し、どうすべきかわからなかった。鄧芝が諸葛亮に面会して言った。「今、主上は幼弱で即位したばかりです。大使を派遣して呉との友好関係を改めて確認すべきです。」諸葛亮は答えて言った。「私は長く考えていたが、適任者が見つからなかった。今日ようやく見つけた。」鄧芝がその人物は誰かと尋ねると、諸葛亮は言った。「まさにあなたです。」そこで鄧芝を派遣して孫権との友好関係を修復させた。孫権はやはり疑心暗鬼で、すぐには鄧芝に会おうとしなかった。鄧芝は自ら上表して孫権に面会を請い、言った。「私が今来たのは、蜀のためだけでなく、呉のためでもあります。」孫権はようやく彼に会い、鄧芝に言った。「私は誠に蜀と和睦親善したいと思う。しかし、蜀の主君が幼弱で、国は小さく、勢力も逼迫しており、魏に乗ぜられて自らを保全できないのではないかと心配し、このため躊躇しているのだ。」鄧芝は答えて言った。「呉と蜀の二国は四州の地を有し、大王は世に名高い英傑、諸葛亮もまた当代の傑物です。蜀には険しい要害の堅固さがあり、呉には三江の天険があります。この二つの長所を合わせ、互いに唇歯の関係となれば、進んで天下を併合し、退いて鼎足の勢いをなすことができます。これは道理の当然です。大王が今もし魏に臣従すれば、魏は上は大王の入朝を望み、下は太子の内侍(人質としての仕え)を求めるでしょう。もし従わなければ、大義名分を掲げて反逆を討伐し、蜀もまた長江の流れに乗じて機会を見て進軍するでしょう。そうなれば、江南の地はもはや大王のものではなくなります。」孫権はしばらく黙った後、言った。「あなたの言う通りだ。」そこで魏との関係を断ち切り、蜀と連合し、張温を派遣して蜀に返礼の使者として赴かせた。蜀もまた鄧芝を再び派遣した。孫権は鄧芝に言った。「もし天下が太平になり、二主が分かれて治めることができれば、これもまた楽しいことではないか。」鄧芝は答えて言った。「天に二つの太陽はなく、地に二人の王はいません。もし魏を併せた後、大王が天命を深く認識されなければ、君主はそれぞれその徳を高め、臣下はそれぞれその忠を尽くし、やがて戦鼓を打ち鳴らして戦争が始まることになるでしょう。」孫権は大笑いして言った。「あなたの誠実さは、まさにこのようなものか。」孫権は諸葛亮に手紙を送り、言った。「丁厷は言葉が誇張で浮ついており、陰化は誠意が足りない。二国を和合させたのは、ただ鄧芝だけである。」諸葛亮が北の漢中に駐屯した時、鄧芝を中監軍・揚武将軍に任じた。諸葛亮が没すると、前軍師・前将軍に転任し、袞州刺史を兼任し、陽武亭侯に封ぜられた。まもなく江州都督ととくとなった。孫権はたびたび鄧芝と音信を通じ、贈り物を厚くした。(掞」の音は夷念の反切で、あるいは「艶」に作る。臣松之が案ずるに、『漢書礼楽志』に「長離前掞光耀明」とあり、左思の『蜀都賦』に「摛藻掞天庭」とある。孫権はおそらく丁厷の言葉が浮ついて艶かしいことを言ったのであろう。)

原文先主薨於永安。先是,吳王孫權請和,先主累遣宋瑋、費禕等與相報答。丞相諸葛亮深慮權聞先主殂隕,恐有異計,未知所如。芝見亮曰:「今主上幼弱,初在位,宜遣大使重申吳好。」亮答之曰:「吾思之久矣,未得其人耳,今日始得之。」芝問其人為誰?亮曰:「即使君也。」乃遣芝脩好於權。權果狐疑,不時見芝,芝乃自表請見權曰:「臣今來亦欲為吳,非但為蜀也。」權乃見之,語芝曰:「孤誠原與蜀和親,然恐蜀主幼弱,國小勢偪,為魏所乘,不自保全,以此猶豫耳。」芝對曰:「吳、蜀二國四州之地,大王命世之英,諸葛亮亦一時之傑也。蜀有重險之固,吳有三江之阻,合此二長,共為脣齒,進可並兼天下,退可鼎足而立,此理之自然也。大王今若委質於魏,魏必上望大王之入朝,下求太子之內侍,若不從命,則奉辭伐叛,蜀必順流見可而進,如此,江南之地非複大王之有也。」權默然良久曰:「君言是也。」遂自絕魏,與蜀連和,遣張溫報聘於蜀。蜀復令芝重往,權謂芝曰:「若天下太平,二主分治,不亦樂乎!」芝對曰:「夫天無二日,土無二王,如並魏之後,大王未深識天命者也,君各茂其德,臣各盡其忠,將提枹鼓,則戰爭方始耳。」權大笑曰:「君之誠款,乃當爾邪!」權與亮書曰:「丁厷掞張,〈掞音夷念反,或作艷。臣松之案《漢書禮樂志》曰「長離前掞光耀明」。左思《蜀都賦》「摛藻掞天庭」。孫權蓋謂丁厷之言多浮艷也。 〉陰化不盡;和合二國,唯有鄧芝。」及亮北住漢中,以芝為中監軍、揚武將軍。亮卒,遷前軍師前將軍,領袞州刺史,封陽武亭侯,頃之為督江州。權數與芝相聞,饋遺優渥。

延熙六年、そのまま車騎将軍に昇進し、後に仮節の権を与えられた。十一年、涪陵国の住民が都尉を殺して反乱を起こした。鄧芝は軍を率いて征討し、ただちにその首謀者を斬り、民衆は平穏に暮らした。十四年に死去した。(『華陽国志』に曰く、鄧芝が涪陵を征討したとき、黒い猿が山を伝って登るのを見た。鄧芝は弩を好み、自ら猿を射て命中させた。猿は矢を抜き、木の葉を巻いて傷口を塞いだ。鄧芝は「ああ、私は生き物の性に背いた。死ぬであろう」と言った。別の伝えでは、鄧芝が猿が子を抱いて木の上にいるのを見て、弩を引いて射て母猿に命中させたところ、その子が矢を抜き、木の葉で傷口を塞いだ。鄧芝はそこで嘆息し、弩を水中に投げ入れ、自分が死ぬべきことを悟ったという。)

原文延熙六年,就遷為車騎將軍,後假節。十一年,涪陵國人殺都尉反叛,芝率軍征討,即梟其渠帥,百姓安堵,〈《華陽國志》曰:芝徵涪陵,見玄猿緣山。芝性好弩,手自射猿,中之。猿拔其箭,卷木葉塞其創。芝曰:「嘻,吾違物之性,其將死矣!」一曰:芝見猿抱子在樹上,引弩射之,中猿母,其子為拔箭,以木葉塞創。芝乃嘆息,投弩水中,自知當死。 〉十四年卒。

鄧芝は大将軍となって二十余年、賞罰は明快果断で、兵卒をよく慈しんだ。自身の衣食の費用は官に仰ぎ、質素倹約にこだわらず、しかし終始私財を蓄えようとせず、妻子も飢え寒さを免れず、死んだ日には家に余財がなかった。性格は剛直で簡素、気位を飾らず、士人たちの和を得ることができなかった。当時の人々から敬われ重んじられることは少なかったが、ただ姜維だけを特に高く評価していた。子の鄧良が爵位を継ぎ、景耀年間に尚書左選郎となり、晋朝では広漢太守となった。

原文芝為(大)將軍二十餘年,賞罰明斷,善卹卒伍。身之衣食資仰於官,不苟素儉,然終不治私產,妻子不免飢寒,死之日家無餘財。性剛簡,不飾意氣,不得士類之和。於時人少所敬貴,唯器異姜維雲。子良,襲爵,景耀中為尚書左選郎,晉朝廣漢太守。

張翼は字を伯恭といい、犍為郡武陽県の人である。高祖こうそ父の司空しくう張浩、曾祖父の広陵太守張綱はいずれも名声と事績があった。(『益部耆旧伝』に曰く、張浩は字を叔明といい、律と春秋を修め、京師に遊学し、広漢の鐔粲、漢中の李郃、蜀郡の張霸とともに交友を結んだ。大将軍の鄧騭が張浩を召し、しだいに尚書僕射に昇進し、出て彭城相となり、隠士の閭丘邈らを推薦し、徴されて廷尉に任じられた。延光三年、安帝が太子を廃することを議したとき、張浩と太常の桓焉、太僕の来歴だけが不可とした。順帝が初めて即位すると、張浩を司空に任じ、八十三歳で死去した。『続漢書』に曰く、張綱は字を文紀といい、若くして三公子として経明行脩により孝廉に挙げられたが応じず、司徒の召しにも応じず、高第で侍御史となった。漢安元年、光禄大夫に任じられ、侍中の杜喬ら八人と同日に詔を受け、節を持って分かれて天下の貪廉を巡察し、墨綬の者に罪があれば直ちに収監し、刺史・二千石は駅伝で上表して報告した。威恵清忠で名は郡国に響き、八雋と称された。このとき大将軍の梁冀が百姓を侵擾していたので、杜喬ら七人は皆命を受けて四方に出たが、張綱だけは車輪を洛陽の都亭に埋めて去らず、「豺狼路に当たれば、何ぞ狐狸を問わん」と言い、上書して「大将軍梁冀、河南尹不疑は外戚の援けを蒙り、国の厚恩を荷ない、芻蕘の姿をもって安らかに阿保に居り、五教を敷き揚げ日月を翼賛することができず、専ら封豕長蛇となってその貪饕を肆にし、貨を好むに甘心し、縦恣にして厭くことなく、多く諂諛を樹てて忠良を害し、誠に天威の赦さざる所、大辟を加うべき所なり。謹んでその無君の心十五事を左に条列す、皆忠臣の切歯する所なり」と述べた。書が奏上されると京師は震悚した。時に梁冀の妹は皇后であり、内寵は方に盛んで、梁冀兄弟の権は人主よりも重く、順帝は張綱の言が誣いでないことを知りながらも、梁冀を治める心がなかった。梁冀は張綱を深く恨んだ。広陵の賊張嬰ら数万人が刺史・二千石を殺すと、梁冀は張綱を陥れようと、尚書を諷して張綱を広陵太守とした。もし張嬰に殺されなければ、法で陥れようとした。前任の太守は赴任のたびに多く兵を請うたが、張綱が拝命すると、詔で兵馬幾何を得べきか問われ、張綱は兵馬は無用と答え、単車で官に赴き、まっすぐ張嬰の塁門に至り、禍福を示した。張嬰は大いに驚懼し、走って門を閉じようとした。張綱はまた門外で吏兵を罷め遣り、親しい者十余人を留め、書をもって張嬰が素より信じる長老に語り、相見を請い、本変を問い、詔恩を示し、還って張嬰に請わせた。張嬰は張綱の意の誠なるを見て、即ち出て張綱に会った。張綱は延いて上坐に置き、その疾苦を問い、礼畢わってからこれに謂って「前後の二千石は多く其人に非ず、国の恩を杜塞し、その私求を肆にした。郷郡は遠く、天子は朝夕に聞くことができないので、民人は相聚して害を避けた。二千石は信に罪あり、これを行う者は乃ち義に非ず。忠臣は君を欺いて自ら栄えず、孝子は父を損じて福を求まず。天子は聖人にして、文徳をもって来たらんと欲し、故に太守を遣わし、爵禄をもって相栄えんと欲し、刑をもってせんとは願わない。今誠に禍を転じて福となすの時なり。もし義を聞いて服さなければ、天子赫然として怒りを発し、大兵雲合すれば、豈に危うからずや。宜しく深くその利害を計るべし」と言った。張嬰は聞いて泣いて「荒裔の愚人、数々二千石に侵枉され、その困に堪えず、故に遂に相聚して偷生した。明府の仁は草木に及び、乃ち嬰らの更生の沢なり。ただ兵を投ずるの日、孥戮を免れざることを恐る」と言った。張綱は「豈に其れ然らんや。これを天地に要し、これを日月に誓う。方に当に爵位をもって相顕さんとす、何の禍か之れ有らん」と言った。張嬰は「苟くも其の罪を赦し、首領を全うして農畝に就くを得ば、則ち抱戴して歯を没するも、爵禄は望む所に非ず」と言った。張嬰は大賊たりといえども、狂暴より起こり、自ら必死と思っていたが、張綱の言を得て、曠然として開明し、乃ち辞して営に還った。明日、遂に所部万余人を将い、妻子と面縛して張綱に詣でて降った。張綱は悉く縛を解いて慰納し、張嬰に謂って「卿の諸人、一旦解散すれば、方に垂れて蕩然たらんとす。当に名を条べて上之し、必ず封賞を受くべし」と言った。張嬰は「故業に帰らんことを乞う。穢名をもって明時を汚さんことを願わず」と言った。張綱はその至誠をもって、乃ち各々その意に従い、親しく安処の居宅を為した。子弟で吏とならんと欲する者は才に随いて職に任じ、民とならんと欲する者は農桑を勧め、田業並びに豊かに、南州は晏然たり。功を論ずるに、張綱は当に封ぜらるべきも、梁冀の遏絶する所となり、故に侯たるを得ず。天子はその功を美とし、徴して用いんと欲した。張嬰らは上書し、郡に留まること二歳を乞うた。建康元年、官に病卒し、時年三十六。張嬰ら三百余人は、皆衰杖して張綱の喪を洛陽に送り、葬訖わって、塚を起て祠を立て、四時奉祭し、考妣を喪うが如く思慕した。天子は追念已まず、詔を下して褒揚し、一子を郎に除した。)

原文張翼字伯恭,犍為武陽人也。高祖父司空浩,曾祖父廣陵太守綱,皆有名跡。 〈《益部耆舊傳》曰:浩字叔明,治律、春秋,遊學京師,與廣漢鐔粲、漢中李郃、蜀郡張霸共結為友善。大將軍鄧騭闢浩,稍遷尚書僕射,出為彭城相,薦隱士閭丘邈等,徵拜廷尉。延光三年,安帝議廢太子,唯浩與太常桓焉、太僕來歷議以為不可。順帝初立,拜浩司空,年八十三卒。《續漢書》曰:綱字文紀,少以三公子經明行脩舉孝廉,不就司徒闢,以高第為侍御史。漢安元年,拜光祿大夫,與侍中杜喬等八人同日受詔,持節分出,案行天下貪廉,墨綬有罪便收,刺史二千石以驛表聞,威惠清忠,名振郡國,號曰八雋。是時,大將軍梁冀侵擾百姓,喬等七人皆奉命四出,唯綱獨埋車輪於洛陽都亭不去,曰:「豺狼當路,安問狐狸?」遂上書曰:「大將軍梁冀、河南尹不疑,蒙外戚之援,荷國厚恩,以芻蕘之姿,安居阿保,不能敷揚五教,翼贊日月,而專為封豕長蛇,肆其貪饕,甘心好貨,縱恣無厭,多樹諂諛以害忠良,誠天威所不赦,大辟所宜加也。謹條其無君之心十五事於左,皆忠臣之所切齒也。」書奏禦,京師震悚。時冀妹為皇后,內寵方盛,冀兄弟權重於人主,順帝雖知綱言不誣,然無心治冀。冀深恨綱。會廣陵賊張嬰等眾數万人殺刺史二千石,冀欲陷綱,乃諷尚書以綱為廣陵太守;若不為嬰所殺,則欲以法中之。前太守往,輒多請兵,及綱受拜,詔問當得兵馬幾何,綱對曰無用兵馬,遂單車之官,徑詣嬰壘門,示以禍福。嬰大驚懼,走欲閉門。綱又於門外罷遣吏兵,留所親者十餘人,以書語其長老素為嬰所信者,請與相見,問以本變,因示以詔恩,使還請嬰。嬰見綱意誠,即出見綱。綱延置上坐,問其疾苦,禮畢,乃謂之曰:「前後二千石,多非其人,杜塞國恩,肆其私求。鄉郡遠,天子不能朝夕聞也,故民人相聚以避害。二千石信有罪矣;為之者乃非義也。忠臣不欺君以自榮,孝子不損父以求福,天子聖(人),欲文德以來之,故使太守來,思以爵祿相榮,不原以刑也。今誠轉禍為福之時也;若聞義不服,天子赫然發怒,大兵雲合,豈不危乎!宜深計其利害。 」嬰聞,泣曰:「荒裔愚人,數為二千石所侵枉,不堪其困,故遂相聚偷生。明府仁及草木,乃嬰等更生之澤,但恐投兵之日,不免孥戮耳。」綱曰:「豈其然乎!要之以天地,誓之以日月,方當相顯以爵位,何禍之有乎?」嬰曰:「苟赦其罪,得全首領以就農畝,則抱戴沒齒,爵祿非所望也。」嬰雖為大賊,起於狂暴,自以為必死,及得綱言,曠然開明,乃辭還營。明日,遂將所部萬餘人,與妻子麵縛詣綱降。綱悉釋縛慰納,謂嬰曰:「卿諸人一旦解散,方垂蕩然,當條名上之,必受封賞。」嬰曰:「乞歸故業,不原以穢名汙明時也。」綱以其至誠,乃各從其意,親為安處居宅。子弟欲為吏者,隨才任職,欲為民者,勸以農桑,田業並豐,南州晏然。論功,綱當封,為冀所遏絕,故不得侯。天子美其功,徵欲用之。嬰等上書,乞留在郡二歲。建康元年,病卒官,時年三十六。嬰等三百餘人,皆衰杖送綱喪至洛陽,葬訖,為起塚立祠,四時奉祭,思慕如喪考妣。天子追念不已,下詔褒揚,除一子為郎。〉

先主(劉備)が益州を平定し、州牧を兼任すると、張翼は書佐となった。建安の末年、孝廉に推挙され、江陽県長となり、涪陵県令に転じ、梓潼太守に昇進し、累進して広漢太守・蜀郡太守となった。建興九年、庲降都督・綏南中郎将となった。張翼の性格は法を厳格に守り、異なる風俗の者たちの歓心を得ることができなかった。長老の首領劉冑が背いて反乱を起こすと、張翼は兵を挙げて劉冑を討伐した。劉冑がまだ破られないうちに、召還されて帰還することになったが、配下の者たちはみな、すぐに馬を走らせて罪に服すべきだと考えた。張翼は言った。「そうではない。私は蛮夷が騒動を起こしたのに、職務にふさわしくなかったために帰るのであって、しかし後任の者がまだ到着していない。私は今まさに戦場に臨んでいるのだから、食糧を運び穀物を蓄積し、賊を滅ぼすための資材とすべきである。どうして左遷されたという理由で公務を放棄できようか」。そこで統率を怠らず、後任が到着してから出発した。馬忠は彼の築いた基盤を利用して劉冑を殲滅した。丞相諸葛亮はこれを聞いて善しとした。諸葛亮が武功に出撃したとき、張翼を前軍都督とし、扶風太守を兼任させた。諸葛亮が没すると、前領軍に任命され、劉冑討伐の功績を追認して関内侯の爵位を賜った。延熙元年、中央に入って尚書となり、やがて建威督に昇進し、仮節を与えられ、都亭侯に進封され、征西大将軍となった。

原文先主定益州,領牧,翼為書佐。建安末,舉孝廉,為江陽長,徙涪陵令,遷梓潼太守,累遷至廣漢、蜀郡太守。建興九年,為庲降都督、綏南中郎將。翼性持法嚴,不得殊俗之歡心。耆率劉冑背叛作亂,翼舉兵討冑。冑未破,會被徵當還,群下咸以為宜便馳騎即罪,翼曰:「不然。吾以蠻夷蠢動,不稱職故還耳,然代人未至,吾方臨戰場,當運糧積穀,為滅賊之資,豈可以黜退之故而廢公家之務乎?」於是統攝不懈,代到乃發。馬忠因其成基以破殄冑,丞相亮聞而善之。亮出武功,以翼為前軍都督,領扶風太守。亮卒,拜前領軍,追論討劉冑功,賜爵關內侯。延熙元年,入為尚書,稍遷督建威,假節,進封都亭侯,征西大將軍。

十八年、衛将軍姜維とともに成都に帰還した。姜維が再度出兵することを議論したが、張翼だけが朝廷で反対し、国は小さく民は疲れているのだから、みだりに武力を用いるべきではないと主張した。姜維は聞き入れず、張翼らを率いて出発し、張翼の位を鎮南大将軍に進めた。姜維が狄道に至ると、魏の雍州刺史王経を大破し、王経の軍勢で洮水で死んだ者は万単位にのぼった。張翼は言った。「ここで止めるべきです。さらに進むのは適切ではなく、進めばこの大功を台無しにするかもしれません」。姜維は大いに怒り、「蛇に足を描くようなものだ」と言った。姜維はついに王経を狄道に包囲したが、城を陥とすことはできなかった。張翼が異論を唱えて以来、姜維の心は張翼と不和であったが、常に引き連れて同行し、張翼もやむを得ず従った。景耀二年、左車騎将軍に昇進し、冀州刺史を兼任した。六年、姜維とともに剣閣におり、ともに涪で鍾会に降伏した。翌年正月、鍾会に従って成都に至り、乱兵に殺害された。(『華陽国志』に曰く、張翼の子の微は、志を篤くして学を好み、官は広漢太守に至った。)

原文十八年,與衛將軍姜維俱還成都。維議復出軍,唯翼廷爭,以為國小民勞,不宜黷武。維不聽,將翼等行,進翼位鎮南大將軍。維至狄道,大破魏雍州刺史王經,經眾死於洮水者以萬計。翼曰:「可止矣,不宜復進,進或毀此大功。」維大怒。曰:「為蛇畫足。」維竟圍經於狄道,城不能克。自翼建異論,維心與翼不善,然常牽率同行,翼亦不得已而往。景耀二年,遷左車騎將軍,領冀州刺史。六年,與維咸在劍閣,共詣降鍾會於涪。明年正月,隨會至成都,為亂兵所殺。 〈《華陽國志》曰:翼子微,篤志好學,官至廣漢太守。〉

宗預は字を德艷といい、南陽郡安衆県の人である。建安年間に張飛に従って蜀に入った。建興初年、丞相の諸葛亮は彼を主簿に任命し、後に参軍右中郎将に昇進させた。諸葛亮が没すると、呉は魏が蜀の衰退に乗じて攻め取ることを懸念し、巴丘の守備兵を一万人増やした。一つには救援のため、二つには事態に応じて分割を図るためであった。蜀はこれを聞き、やはり永安の守備を増強し、非常事態に備えた。宗預が使命を帯びて呉に使いしたとき、孫権は宗預に尋ねた。「東(呉)と西(蜀)は、あたかも一家のようなものだ。それなのに、西がさらに白帝の守備を増やしたと聞くが、どういうことか?」宗預は答えた。「臣は、東が巴丘の守備を増やし、西が白帝の守備を増やすのは、いずれも情勢上当然のことであり、互いに問いただすほどのことではないと考えます。」孫権は大笑いし、彼の率直さを賞賛し、非常に厚く遇した。その尊敬の度合いは鄧芝や費禕に次ぐものであった。侍中に昇進し、後に尚書に転任した。

原文宗預字德艷,南陽安眾人也。建安中,隨張飛入蜀。建興初,丞相亮以為主簿,遷參軍右中郎將。及亮卒,吳慮魏或承衰取蜀,增巴丘守兵萬人,一欲以為救援,二欲以事分割也。蜀聞之,亦益永安之守,以防非常。預將命使吳,孫權問預曰:「東之與西,譬猶一家,而聞西更增白帝之守,何也?」預對曰:「臣以為東益巴丘之戍,西增白帝之守,皆事勢宜然,俱不足以相問也。」權大笑,嘉其抗直,甚愛待之,見敬亞於鄧芝、費禕。遷為侍中,徙尚書。

延熙十年、屯騎校尉こういとなった。時、車騎将軍の鄧芝が江州から帰還し、朝廷に参内し、宗預に言った。「礼によれば、六十歳になれば兵役に服さない。それなのに卿は今まさに兵権を受けた。どういうことか?」宗預は答えた。「卿は七十歳になっても兵権を返上しないではないか。私が六十歳でどうして受けられないことがあろうか?」(臣の松之は考える。鄧芝が年齢をもって宗預をからかったのは、自らを顧みない行為である。しかし宗預のこの返答は、人の忌むところに触れる。これを記録に載せるのは、ほぼ煩雑な文章である。)鄧芝は性格が傲慢で、大将軍の費禕らですら皆、彼を避けて下座にいたが、宗預だけは屈しなかった。宗預は再び東の呉に聘問した。孫権は宗預の手を握り、涙を流して別れを告げた。「君は常に使命を帯びて二国の友好を結んできた。今、君も年をとり、孤もまた老い衰えた。もう再び会うことはないのではないかと恐れる!」宗預に大珠一斛を贈った。(『呉歴』によると、宗預は別れ際に孫権に言った。「蜀の地は辺鄙で小国ですが、隣国とはいえ、東西は互いに頼りあっています。呉は蜀なくしてはならず、蜀は呉なくしてはなりません。君臣ともに頼りにしているのは、陛下の深いご配慮だけです。」また自ら「年老いて病が多いので、もう聖顔(陛下のお顔)を拝することはできないでしょう」と言った。孫盛は言う。帝王が保つべきものは、ただ道と義である。道義が確立すれば、たとえ小さくても大きく成し遂げられる。殷や周がそうである。もし詐術と武力に任せれば、たとえ強くても必ず敗れる。秦や項羽こううがそうである。ましてや辺鄙な城に居を構え、山水の険固を頼みとして、万里を連衡し、永遠に互いに頼りあおうとするなどできるだろうか?昔、九カ国が合従の計を建てたが、秦人はついに天下を併合した。隗囂と公孫述が輔車の謀を営んだが、光武帝はついに隴と蜀を併合した。九カ国の強さ、隴や漢の大きさをもってしても、互いに救うことができず、座して滅亡を見守ったのはなぜか?道徳の基礎が固まらず、強弱の心が一つになり難いからである。それなのに「呉は蜀なくしてはならず、蜀は呉なくしてはならない」と言うのは、なんと諂うことではないか!)こうして帰還した。後将軍に昇進し、永安を都督し、そのまま征西大将軍に任命され、関内侯の爵位を賜った。景耀元年、病気のため成都に召還された。後に鎮軍大将軍となり、兗州刺史を兼任した。時、都護の諸葛瞻が初めて朝政を統括し、廖化が宗預を訪れ、共に諸葛瞻の許を訪れようとした。宗預は言った。「我々は七十歳を超え、すでに生きすぎている。ただ死ぬだけが残っているのだ。どうして若い連中のところへわざわざ出向く必要があろうか?」結局行かなかった。

原文延熙十年,為屯騎校尉。時車騎將軍鄧芝自江州還,來朝,謂預曰:「禮,六十不服戎,而卿甫受兵,何也?」預答曰:「卿七十不還兵,我六十何為不受邪?」〈臣松之以為芝以年啁預,是不自顧。然預之此答,觸人所忌。載之記牒,近為煩文。〉芝性驕傲,自大將軍費禕等皆避下之,而預獨不為屈。預復東聘吳,孫權捉預手,涕泣而別曰:「君每銜命結二國之好。今君年長,孤亦衰老,恐不復相見!」遺預大珠一斛, 〈吳歷曰:預臨別,謂孫權曰:「蜀土僻小,雖云鄰國,東西相賴,吳不可無蜀,蜀不可無吳,君臣憑恃,唯陛下重垂神慮。」又自說「年老多病,恐不復得奉聖顏」。孫盛曰:夫帝王之保,唯道與義,道義既建,雖小可大,殷、周是也。苟任詐力,雖強必敗,秦、項是也。況乎居偏鄙之城,恃山水之固,而欲連橫萬里,永相資賴哉?昔九國建合從之計,而秦人卒並六合;囂、述營輔車之謀,而光武終兼隴、蜀。夫以九國之強,隴、漢之大,莫能相救,坐觀屠覆。何者?道德之基不固,而強弱之心難一故也。而云「吳不可無蜀,蜀不可無吳」,豈不諂哉!〉乃還。遷後將軍,督永安,就拜征西大將軍,賜爵關內侯。景耀元年,以疾徵還成都。後為鎮軍大將軍,領兗州刺史。時都護諸葛瞻初統朝事,廖化過預,欲與預共詣瞻許。預曰:「吾等年逾七十,所竊已過,但少一死耳,何求於年少輩而屑屑造門邪?」遂不往。

廖化は字を元儉といい、本名は淳で、襄陽の人である。前将軍の関羽の主簿となり、関羽が敗れると、呉に属した。先主(劉備)のもとに帰りたいと思い、偽って死んだふりをした。当時の人々は本当に死んだと思い、そこで老母を連れて昼夜を問わず西へ向かった。先主が東征した時、秭帰で出会った。先主は大いに喜び、廖化を宜都太守に任命した。先主が崩御すると、丞相参軍となり、後に広武を都督し、次第に昇進して右車騎将軍となり、仮節を与えられ、并へい州刺史を兼任し、中郷侯に封じられ、果断で烈々たる性格で知られた。官位は張翼と同等で、宗預より上であった。(『漢晉春秋』によると、景耀五年、姜維が軍を率いて狄道に出た時、廖化は言った。「『兵を収めなければ、必ず自らを焼くことになる』とは、伯約(姜維)のことを言うのだ。智謀は敵に及ばず、兵力は敵より少ないのに、飽くことなく用いれば、どうして立っていられようか。詩に『我が先にもなく、我が後にもなく』とあるが、今日の事態はまさにそれだ。」)

原文廖化字元儉,本名淳,襄陽人也。為前將軍關羽主簿,羽敗,屬吳。思歸先主,乃詐死,時人謂為信然,因攜持老母晝夜西行。會先主東征,遇於秭歸。先主大悅,以化為宜都太守。先主薨,為丞相參軍,後為督廣武,稍遷至右車騎將軍,假節,領并州刺史,封中鄉侯,以果烈稱。官位與張翼齊,而在宗預之右。 〈《漢晉春秋》曰:景耀五年,姜維率眾出狄道,廖化曰:「‘兵不戢,必自焚’,伯約之謂也。智不出敵,而力少於寇,用之無厭,何以能立?詩云‘不自我先,不自我後’,今日之事也。」〉

咸熙元年春、廖化と宗預はともに内陸の洛陽らくように移され、途中で病死した。

原文咸熙元年春,化、預俱內徙洛陽,道病卒。

楊戯は字を文然といい、犍為郡武陽県の人である。若い頃、巴西郡の程祁(字は公弘)、巴郡の楊汰(字は季儒)、蜀郡の張表(字は伯達)とともに知名であった。楊戯は常に程祁を筆頭に推挙し、丞相の諸葛亮は彼を深く認めた。楊戯は二十歳余りで、州の書佐から督軍従事となり、職務は刑獄を管轄し、法を論じて疑案を決断し、公平妥当と称された。府が彼を属主簿に辟召した。諸葛亮が没すると、尚書右選部郎となり、刺史の蔣琬が彼を治中従事史に請うた。蔣琬が大将軍として開府すると、また彼を東曹掾に辟召し、南中郎参軍に昇進し、庲降都督の副武となり、建寧太守を兼任した。病気のため成都に召還され、護軍監軍に任命され、出向して梓潼太守を兼任し、入朝して射声校尉となった。どこにいても清廉で簡素であり煩わしさがなかった。延熙二十年、大将軍の姜維に従って軍を率いて芒水に出た。楊戯はもともと内心で姜維に服しておらず、酒後の談笑で、しばしば傲慢で弄ぶような言葉があった。姜維は外見は寛大だが内心は猜疑心が強く、我慢できなかった。軍が帰還すると、役人が姜維の意を受けて楊戯を弾劾し、庶人に免じた。後に景耀四年に没した。

原文楊戲字文然,犍為武陽人也。少與巴西程祁公弘、巴郡楊汰季儒、蜀郡張表伯達並知名。戲每推祁以為冠首,丞相亮深識之。戲年二十餘,從州書佐為督軍從事,職典刑獄,論法決疑,號為平當,府闢為屬主簿。亮卒,為尚書右選部郎,刺史蔣琬請為治中從事史。琬以大將軍開府,又闢為東曹掾,遷南中郎參軍,副貳庲降都督,領建寧太守。以疾徵還成都,拜護軍監軍,出領梓潼太守,入為射聲校尉,所在清約不煩。延熙二十年,隨大將軍姜維出軍至芒水。戲素心不服維,酒後言笑,每有傲弄之辭。維外寬內忌,意不能堪,軍還,有司承旨奏戲,免為庶人。後景耀四年卒。

楊戯の性格は簡素で怠惰、物事を省略する傾向があったが、甘い言葉で人に取り入ったり、実情を超えて人と交わることはなかった。書状や指示は、紙面いっぱいに書くことは稀であった。しかし旧友には誠実で、誠意をもって厚く接した。巴西郡の韓儼、黎韜とは幼少の頃から親しくしていたが、後に韓儼は重病で廃人同然となり、黎韜は品行が悪く見捨てられた。楊戯は彼らの世話をし、救済し、恩情と友好は以前のままだった。また、当時の人々は譙周に当世の才がないと言い、敬う者は少なかったが、楊戯だけは彼を重んじ、かつて称えて言った。「我々の後世は、結局この長身の男児(譙周)には及ばないだろう。」識者はこれをもって楊戯を貴んだ。

原文戲性雖簡惰省略,未嘗以甘言加人,過情接物。書符指事,希有盈紙。然篤於舊故,居誠存厚。與巴西韓儼、黎韜童幼相親厚,後儼痼疾廢頓,韜無行見捐,戲經紀振卹,恩好如初。又時人謂譙周無當世才,少歸敬者,唯戲重之,嘗稱曰:「吾等後世,終自不如此長兒也。」有識以此貴戲。

張表は威儀と風格があり、当初の名声と地位は楊戯と同等であったが、後に尚書に至り、庲降都督・後将軍となり、楊戯より先に没した。祁と汰はそれぞれ早世した。〈楊戯と同じ県の後輩に李密という者がおり、字は令伯である。《華陽国志》によると、李密の祖父の李光は、朱提太守であった。父は早くに亡くなった。母の何氏は再婚した。李密は祖母に養育された。春秋左氏伝を学び、広く書物を読み通し、機知に富み弁舌が鋭かった。祖母に仕えて孝行で知られ、看病の際には涙を流して息をひそめ、昼夜帯を解かず、食事や湯薬は必ず自ら口に含んで味見した。本郡の礼聘には応じず、州からは従事・尚書郎、大将軍主簿、太子洗馬に召され、呉への使者を務めた。呉の主君が蜀の馬の数を尋ねると、答えて言った。「官用には余裕があり、民間でも自足しています。」呉の主君が群臣と道義について広く論じ、「むしろ人の弟となる方がよい」と言うと、李密は言った。「私は人の兄になりたいと思います。」呉の主君が「どうして兄なのか」と問うと、李密は答えた。「兄ならば、親を養う期間が長いからです。」呉の主君と群臣は皆、その言葉を称賛した。蜀平定後、征西将軍の鄧艾がその名を聞き、主簿に請い、手紙を送って会おうとしたが、李密はどちらにも行かなかった。祖母が年老いており、心を込めて養うことを考えていたからである。晋の武帝が太子を立てると、太子洗馬に召され、詔書が繰り返し下り、郡県が迫って派遣させようとしたため、李密は上書して言った。「臣は不幸な生まれで、幼くして憂き目に遭い、生後六か月で慈父に背かれ、四歳の時に母は舅の意向で再嫁しました。祖母の劉氏は、臣が孤児で弱いのを哀れみ、自ら養育してくれました。臣は幼少時から病気が多く、九歳になっても歩けず、孤独で苦労しながら成長し、伯父や叔父もなく、兄弟もほとんどおらず、家門は衰え福も薄く、遅くになってようやく子ができました。外には期功の近い親族もなく、内には応対する五尺の童もおらず、孤独で身一つ、形と影が互いに慰め合うのみです。そして劉氏は早くから病気に苦しみ、常に床に臥せっており、臣が湯薬を給仕し、一度も離れたことはありませんでした。聖なる朝廷に仕えるようになり、清らかな教化を浴びてから、前の太守の逵が臣を孝廉に推挙し、後の刺史の栄が臣を秀才に推挙しましたが、臣は祖母の供養を任せる者がいないため、辞退して赴任しませんでした。詔書が特に下り、臣を郎中に任命し、間もなく国恩を蒙り、洗馬に任じられました。卑賤な身分でありながら、東宮に侍る役目に当たり、臣が命を懸けても報いることはできません。臣は上表して事情を申し上げ、就任を辞退しました。詔書は厳しく、臣の怠慢を責め、郡県は逼迫し、臣に出発を促し、州の役人が門に臨み、星火よりも急を告げました。臣は詔に従って駆けつけたいのですが、劉氏の病状は日増しに重く、私情に従えば、訴えても許されず、臣の進退はまさに狼狽しています。伏して思うに、聖朝は孝をもって天下を治め、すべての古老でさえも哀れみを受けるのに、まして臣のような孤苦な者は、特にその度合いが甚だしいのです。かつて臣は偽朝に仕え、郎署の職を歴任し、もともと官途での出世を図り、名節を誇るつもりはありませんでした。今や臣は亡国の卑しい捕虜で、最も微賤で陋劣な身でありながら、辱くも抜擢され、寵命は厚く、どうしてためらい、望みを持つことができましょうか。ただ、劉氏が日が西に傾くように衰え、息も絶え絶えで、命は危うく、朝には夕を慮れない状態です。臣に祖母がなければ今日まで至れず、祖母に臣がなければ残りの年を全うできず、母と孫の二人は互いに命を支え合っているため、わずかな思いで養育を放棄して遠ざかることはできません。臣は今年四十四歳、祖母の劉氏は今年九十六歳で、臣が陛下に尽くす日は長く、劉氏に報いて養う日は短いのです。烏鳥の私情により、どうか終生養うことをお許しください。臣の苦労は、蜀の人々や二州の牧伯が目にし明らかに知っているだけでなく、天地の神々も実際にご覧になっています。どうか陛下が愚かな誠心を哀れみ、臣の微かな志をお聞き入れくださり、劉氏が幸運にも残りの年を全うできますよう。臣は生きている間は命を懸けて尽くし、死んだ後も恩に報いることを誓い、犬馬のような恐れ多い気持ちでいっぱいです!」武帝は上表文を読んで言った。「李密は虚名ではない。」その誠実さを賞賛し、奴婢二人を賜い、郡県に命じて祖母に食事を供えさせた。祖母が亡くなり、喪が明けると、尚書郎から河内郡温県令となり、政治は厳明であった。中山の諸王が温県を通るたびに、必ず供給を要求し、温県の官吏や民衆はこれを苦にしていた。李密が着任すると、中山王が県を通り、飼料や薪を求めようとしたが、李密は手紙を送り、高祖が沛はいを通った時に老人や子供を賓客として礼遇し、故郷の供給を一切煩わせなかった故事を引き、「伏して思うに、明王は孝の思いを規範とし、行動には先人の戒めを識り、本国は風を望んで歌い舞い、細かい要求など聞いたことがありません。」と述べた。その後、諸王が通っても煩わせることはなくなった。隴西王の司馬子舒は深く李密を敬愛し親しんだが、権勢のある家柄はその公正さを恐れた。李密は官を去り、州の大中正となったが、性格は方正で正直であり、権勢に迎合しなかった。後に荀勗と張華の意に逆らい、左遷されて漢中太守となり、諸王の多くは冤罪だと考えた。一年で官を去り、六十四歳で没した。著述として理論十篇があり、安東将軍の胡熊と皇甫士安はともにこれを高く評価した。〉

原文張表有威儀風觀,始名位與戲齊,後至尚書,督庲降後將軍,先戲沒。祁、汰各早死。〈戲同縣後進有李密者,字令伯。《華陽國志》曰:密祖父光,硃提太守。父早亡。母何氏,更適人。密見養於祖母。治春秋左氏傳,博覽多所通涉,機警辯捷。事祖母以孝聞,其侍疾則泣涕側息,日夜不解帶,膳飲湯藥,必自口嘗。本郡禮命不應,州闢從事尚書郎,大將軍主簿,太子洗馬,奉使聘吳。吳主問蜀馬多少,對曰:「官用有餘,人間自足。」吳主與群臣汎論道義,謂寧為人弟,密曰:「原為人兄矣。」吳主曰:「何以為兄?」密曰:「為兄供養之日長。」吳主及群臣皆稱善。蜀平後,征西將軍鄧艾聞其名,請為主簿,及書招,欲與相見,皆不往。以祖母年老,心在色養。晉武帝立太子,徵為太子洗馬,詔書累下,郡縣偪遣,於是密上書曰:「臣以險釁,夙遭閔兇,生孩六月,慈父見背,行年四歲,舅奪母志。祖母劉,愍臣孤弱,躬見撫養。臣少多疾病,九歲不行,零丁孤苦,至於成立,既無伯叔,終鮮兄弟,門衰祚薄,晚有兒息。外無期功強近之親,內無應門五尺之童,煢煢孑立,形影相吊。而劉早嬰疾病,常在床蓐,臣侍湯藥,未曾廢離。逮奉聖朝,沐浴清化,前太守臣逵察臣孝廉,後刺史臣榮舉臣秀才,臣以供養無主,辭不赴命。詔書特下,拜臣郎中,尋蒙國恩,除臣洗馬,猥以微賤,當侍東宮,非臣隕首所能上報。臣具表聞,辭不就職。詔書切峻,責臣逋慢,郡縣偪迫,催臣上道,州司臨門,急於星火。臣欲奉詔奔馳,則劉病日篤,苟順私情,則告訴不許,臣之進退,實為狼狽。伏惟聖朝以孝治天下,凡在故老,猶蒙矜愍,況臣孤苦,特為尤甚。且臣少仕偽朝,歷職郎署,本圖宦達,不矜名節。今臣亡國賤俘,至微至陋,猥蒙拔擢,寵命優渥,豈敢盤桓,有所希冀?但以劉日薄西山,氣息奄奄,人命危淺,朝不慮夕。臣無祖母,無以至今日,祖母無臣,亦無以終餘年,母孫二人,更相為命,是以區區不敢廢遠。臣今年四十有四,祖母劉今年九十有六,是臣盡節於陛下之日長,報養劉之日短也。烏鳥私情,原乞終養。臣之辛苦,非徒蜀之人士及二州牧伯所見明知,皇天后土,實所共鑑。原陛下矜愍愚誠,聽臣微志,庶劉僥倖,保卒餘年。臣生當隕首,死當結草,臣不勝犬馬怖懼之情!」武帝覽表曰:「密不空有名也。」嘉其誠款,賜奴婢二人,下郡縣供養其祖母奉膳。及祖母卒,服終,從尚書郎為河內溫縣令,政化嚴明。中山諸王每過溫縣,必責求供給,溫吏民患之。及密至,中山王過縣,欲求芻茭薪蒸,密箋引高祖過沛,賓禮老幼,桑梓之供,一無煩擾,「伏惟明王孝思惟則,動識先戒,本國望風,式歌且舞,誅求之碎,所未聞命。」自後諸王過,不敢有煩。隴西王司馬子舒深敬友密,而貴勢之家憚其公直。密去官,為州大中正,性方直,不曲意勢位。後失荀勖、張華指,左遷漢中太守,諸王多以為冤。一年去官,年六十四卒。著述理論十篇,安東將軍胡熊與皇甫士安並善之。 〉

楊戯は延熙四年に『季漢輔臣賛』を著し、その中で称賛叙述した人物は、今多く蜀書に載せられているので、ここに記しておく。この後で亡くなった者は、追諡を行わなかったため、称賛されるべきでありながらこの篇に含まれていない者もいる。楊戯が賛を述べたが今は伝のない者については、私はその言葉の下に本末を注記し、おおよその様子を知ることができるようにした。

原文戲以延熙四年著《季漢輔臣贊》,其所頌述,今多載於蜀書,是以記之於左。自此之後卒者,則不追諡,故或有應見稱紀而不在乎篇者也。其戲之所贊而今不作傳者,餘皆注疏本末於其辭下,可以觕知其彷彿云爾。

昔、文王は徳を歌い、武王は興隆を歌った。世を治める君主は、身を立て道を行い、ただ一時のためだけでなく、基を開き緒を植え、来世に光を及ぼすものである。我が中漢の末年以来、王綱は柄を失い、雄豪が並び起こり、戦役は頻繁で結末がつかず、民衆は塗炭の苦しみを味わった。そこで世の主は感じて慮り、初めは燕や代から仁の声が広く著しく響き、行いは斉や魯から英風が伝わり流れ、事業を荊や郢に託せば臣下と主君が心を寄せ、顧みて呉や越を援ければ賢者も愚者もその風に頼り、威を奮って巴や蜀に臨めば万里が厳粛に震え、師を励まして庸や漢に臨めば大敵が跡を潜めた。それゆえに高祖の始めの兆しを継ぎ、再び皇漢の宗廟の祭祀を行うことができたのである。しかし、奸兇な者は険しく恨み、天罰はまだ加わらず、孟津で軍を集めたように、再び鳴条で戦う必要があった。天の禄には終わりがあり、突然に不豫よとなった。一時的に統一され、万国が合従したのは、当時の俊傑たちが支え助け戴いたからであり、明徳が人々を懐かしみ招き寄せた結果であり、まさに盛んな様子が見られた。そこで、その美しい風を併せて述べ、後世の聴く者を動かす。その言葉は次のとおりである:

原文昔文王歌德,武王歌興,夫命世之主,樹身行道,非唯一時,亦由開基植緒,光於來世者也。自我中漢之末,王綱棄柄,雄豪並起,役殷難結,生人塗地。於是世主感而慮之,初自燕、代則仁聲洽著,行自齊、魯則英風播流,寄業荊、郢則臣主歸心,顧援吳、越則賢愚賴風,奮威巴、蜀則萬里肅震,厲師庸、漢則元寇斂跡,故能承高祖之始兆,复皇漢之宗祀也。然而姦兇懟險,天徵未加,猶孟津之翔師,复須戰於鳴條也。天祿有終,奄忽不豫。雖攝歸一統,萬國合從者,當時俊乂扶攜翼戴,明德之所懷致也,蓋濟濟有可觀焉。遂乃並述休風,動於後聽。其辭曰:

孔山、名は方、南郡の人である。荊州従事として先主に従い蜀に入った。蜀が平定されると、犍為属国都尉となり、郡名が変わったため、朱提太守となり、選ばれて安遠将軍・庲降都督となり、南昌県に駐屯した。章武二年に没した。その事跡が失われているため、伝は作られていない。

原文孔山名方,南郡人也。以荊州從事隨先主入蜀。蜀既定,為犍為屬國都尉,因易郡名,為硃提太守,選為安遠將軍、庲降都督,住南昌縣。章武二年卒。失其行事,故不為傳。

賓伯、名は観、江夏郡鄳県の人である。劉璋の母は、何観の一族の姑であり、劉璋はまた娘を何観に嫁がせた。何観は建安十八年に李厳の軍に加わり、綿竹で先主を防ぎ、李厳とともに降伏した。先主が益州を平定すると、裨将軍に任じられ、後に巴郡太守・江州都督となり、建興元年に都亭侯に封じられ、振威将軍を加えられた。何観は人付き合いが上手かった。都護の李厳は性格が傲慢で、護軍の輔匡らは年齢と地位が李厳とほぼ同じであったが、李厳は親しくしなかった。何観は李厳より二十歳余り年下であったが、李厳とは同年輩のように親しく交わったという。三十七歳で没した。その事跡が失われているため、伝は作られていない。

原文賓伯名觀,江夏鄳人也。劉璋母,觀之族姑,璋又以女妻觀。觀建安十八年參李嚴軍,拒先主於綿竹,與嚴俱降,先主既定益州,拜為裨將軍,後為巴郡太守、江州都督,建興元年封都亭侯,加振威將軍。觀為人善於交接。都護李嚴性自矜高,護軍輔匡等年位與嚴相次,而嚴不與親褻;觀年少嚴二十餘歲,而與嚴通狎如時輩雲。年三十七卒。失其行事,故不為傳。

王元泰は名を謀といい、漢嘉の人である。容貌や立ち居振る舞い、操行に優れていた。劉璋の時代に巴郡太守となり、後に州の治中従事に戻った。先主(劉備)が益州を平定し、州牧を兼任すると、彼を別駕に任じた。先主が漢中王となった時、荊楚の古参の士である零陵の頼恭を太常に、南陽の黄柱を光禄勲に、王謀を少府に任用した。建興初年、関内侯の爵位を賜り、後に頼恭に代わって太常となった。頼恭、黄柱、王謀は皆、その事績が失われているため、伝は立てられていない。頼恭の子の厷は丞相西曹令史となり、諸葛亮に従って漢中に赴いたが、若くして亡くなった。諸葛亮は大変惜しみ、留府長史参軍の張裔と蔣琬に手紙を送って言った。「令史に頼厷を失い、掾属に楊顒を喪ったことは、朝廷にとっての損益は大きい。」楊顒もまた荊州の人であった。後に大将軍蔣琬が張休に尋ねた。「漢嘉の先輩に王元泰がいたが、今は誰が後を継いでいるのか?」張休は答えて言った。「元泰に至っては、州内でも後継者がおらず、ましてやこの鄙びた郡においてはなおさらです!」彼がこのように重んじられていたのである。(『襄陽記』に曰く、楊顒は字を子昭といい、楊儀の同族である。蜀に入り、巴郡太守、丞相諸葛亮の主簿となった。諸葛亮がかつて自ら簿書を校閲していると、楊顒はまっすぐに入って諫めて言った。「政治を行うには体制があり、上下が互いに侵してはなりません。どうか明公のために家を治めることに譬えて申し上げます。今、ある人が奴隷に耕作をさせ、婢に炊事をさせ、鶏に時を告げさせ、犬に盗賊を吠えさせ、牛に重い荷を負わせ、馬に遠路を歩ませ、私的な仕事に怠りがなく、求めるものは皆足りて、ゆったりと枕を高くして寝て、飲食するだけでした。ところが突然ある日、すべてを自らその役に当たろうとして、もはや任に委ねず、その体力を労して、このような細かい仕事をし、体は疲れ心は困憊して、結局一つも成し遂げられませんでした。どうしてその知恵が奴婢や鶏犬に劣るのでしょうか。家を治める主の法を失ったのです。それゆえ古人は、座して道を論じる者を三公といい、行ってこれを実行する者を士大夫といったのです。だから邴吉は道端の死人を問わずに牛の喘ぎを憂い、陳平は銭穀の数を知ることを肯んじず、自ら主る者があると言いました。彼らはまことに位と分の体制に通じていたのです。今、明公が政治を行うのに、自ら簿書を校閲し、汗を流して一日を終えるのは、あまりに労しくはないでしょうか。」諸葛亮は彼に謝した。後に東曹属となり選挙を司った。楊顒が死ぬと、諸葛亮は涙を流して三日間泣いた。)

原文王元泰名謀,漢嘉人也。有容止操行。劉璋時,為巴郡太守,還為州治中從事。先主定益州,領牧,以為別駕。先主為漢中王,用荊楚宿士零陵賴恭為太常,南陽黃柱為光祿勳,謀為少府;建興初,賜爵關內侯,後代賴恭為太常。恭、柱、謀皆失其行事,故不為傳。恭子厷,為丞相西曹令史,隨諸葛亮於漢中,早夭,亮甚惜之,與留府長史參軍張裔、蔣琬書曰:「令史失賴厷,掾屬喪楊顒,為朝中損益多矣。」顒亦荊州人也。後大將軍蔣琬問張休曰:「漢嘉前輩有王元泰,今誰繼者?」休對曰:「至於元泰,州里無繼,況鄙郡乎!」其見重如此。〈《襄陽記》曰:楊顒字子昭,楊儀宗人也。入蜀,為巴郡太守,丞相諸葛亮主簿。亮嘗自校簿書,顒直入諫曰:「為治有體,上下不可相侵,請為明公以作家譬之。今有人使奴執耕稼,婢典炊爨,雞主司晨,犬主吠盜,牛負重載,馬涉遠路,私業無曠,所求皆足,雍容高枕,飲食而已,忽一旦盡欲以身親其役,不復付任,勞其體力,為此碎務,形疲神困,終無一成。豈其智之不如奴婢雞狗哉?失為家主之法也。是故古人稱坐而論道謂之三公,作而行之謂之士大夫。故邴吉不問橫道死人而憂牛喘,陳平不肯知錢穀之數,云自有主者,彼誠達於位分之體也。今明公為治,乃躬自校簿書,流汗竟日,不亦勞乎!」亮謝之。後為東曹屬典選舉。顒死,亮垂泣三日。〉

何彦英は名を宗といい、蜀郡郫県の人である。広漢の任安に師事して学問し、任安の学術を精緻に究め、杜瓊とは同じ師に学んだが名声は彼を上回った。劉璋の時代に犍為太守となった。先主が益州を平定し、州牧を兼任すると、彼を召し出して従事祭酒とした。後に図讖を援用し、先主が皇帝の位に即くよう勧めた。即位した後、大鴻臚に昇進した。建興年間に死去した。その事績が失われているため、伝は立てられていない。子の双は字を漢偶といい、滑稽で談笑に富み、淳于髡や東方朔の風があった。双柏県の長となったが、早くに亡くなった。

原文何彥英名宗,蜀郡郫人也。事廣漢任安學,精究安術,與杜瓊同師而名問過之。劉璋時,為犍為太守。先主定益州,領牧,闢為從事祭酒。後援引圖、讖,勸先主即尊號。踐阼之後,遷為大鴻臚。建興中卒。失其行事,故不為傳。子雙,字漢偶。滑稽談笑,有淳于髡、東方朔之風。為雙柏長。早卒。

子遠は名を壹といい、陳留の人である。劉焉に従って蜀に入った。劉璋の時代に中郎将となり、兵を率いて先主を涪で防ぎ、降伏を申し出た。先主が益州を平定すると、呉壹を護軍討逆将軍とし、その妹を夫人として娶った。章武元年、関中都督となった。建興八年、魏延と共に南安の境界に入り、魏の将軍費瑤を破り、亭侯に封じられ、さらに高陽郷侯に進封され、左将軍に昇進した。十二年、丞相諸葛亮が没すると、呉壹を漢中を都督する車騎将軍とし、仮節を与え、雍州刺史を兼任させ、済陽侯に進封した。十五年、死去した。その事績が失われているため、伝は立てられていない。

原文子遠名壹,陳留人也。隨劉焉入蜀。劉璋時,為中郎將,將兵拒先主於涪,詣降。先主定益州,以壹為護軍討逆將軍,納壹妹為夫人。章武元年,為關中都督。建興八年,與魏延入南安界,破魏將費瑤,徙亭侯,進封高陽鄉侯,遷左將軍。十二年,丞相亮卒,以壹督漢中,車騎將軍,假節,領雍州刺史,進封濟陽侯。十五年卒。失其行事,故不為傳。

呉壹の同族の弟の班は字を元雄といい、大将軍何進の官属であった呉匡の子である。豪侠として知られ、官位は常に呉壹に次いだ。先主の時代に領軍となった。後主の世になって、次第に昇進して驃騎将軍となり、仮節を与えられ、綿竹侯に封じられた。

原文壹族弟班,字元雄,大將軍何進官屬吳匡之子也。以豪俠稱,官位常與壹相亞。先主時,為領軍。後主世,稍遷至驃騎將軍,假節,封綿竹侯。

叔至は名を到といい、汝南の人である。豫州から先主に従い、名声と地位は常に趙雲に次ぎ、共に忠勇をもって称えられた。建興初年、永安都督・征西将軍に至り、亭侯に封じられた。

原文叔至名到,汝南人也。自豫州隨先主,名位常亞趙雲,俱以忠勇稱。建興初,官至永安都督、征西將軍,封亭侯。

輔元弼は名を匡といい、襄陽の人である。先主に従って蜀に入った。益州が平定されると、巴郡太守となった。建興年間、鎮南に移り、右将軍となり、中郷侯に封じられた。劉南和は名を邕といい、義陽の人である。先主に従って蜀に入った。益州が平定されると、江陽太守となった。建興年間、次第に昇進して監軍後将軍となり、関内侯の爵位を賜り、死去した。子の式が後を継いだ。末子の武は文才があり、樊建と並び称され、官位も尚書に至った。

原文輔元弼名匡,襄陽人也。隨先主入蜀。益州既定,為巴郡太守。建興中,徙鎮南,為右將軍,封中鄉侯。  劉南和名邕,義陽人也。隨先主入蜀。益州既定,為江陽太守。建興中,稍遷至監軍後將軍,賜爵關內侯,卒。子式嗣。少子武,有文,與樊建齊名,官亦至尚書。

文経と士元は、いずれもその名実、事績、郡県が失われている。処仁は本名を存といい、南陽の人である。荊州従事として先主に従って蜀に入り、南進して雒に至り、広漢太守に任じられた。習存はもともと龐統に心服しておらず、龐統が矢に当たって死んだ時、先主が言葉を発して賞賛し嘆いたところ、習存は言った。「龐統は忠を尽くしたのは惜しいが、しかし大雅の義に背いています。」先主は怒って言った。「龐統は身を殺して仁を成したのに、それでもなお間違っているというのか?」習存の官を免じた。間もなく、病気で死去した。その事績が失われているため、伝は立てられていない。孔休は名を観といい、荊州主簿別駕従事となり、『先主伝』に見える。その郡県は失われている。文祥は名を禎といい、襄陽の人である。先主に従って蜀に入り、雒県令、郫県令、(南)広漢太守を歴任した。その事績は失われている。子の忠は、官位は尚書郎に至った。(『襄陽記』に曰く、習禎は風流があり、談論を善くし、その名は龐統に次ぎ、馬良より上であった。子の忠もまた名があった。忠の子の隆は、歩兵校尉となり、秘書の校訂を掌った。)

原文文經、士元,皆失其名實、行事、郡縣。  處仁本名存,南陽人也。以荊州從事隨先主入蜀,南次至雒,以為廣漢太守。存素不服龐統,統中矢卒,先主發言嘉嘆,存曰:「統雖盡忠可惜,然違大雅之義。」先主怒曰:「統殺身成仁,更為非也?」免存官。頃之,病卒。失其行事,故不為傳。  孔休名觀,為荊州主簿別駕從事,見《先主傳》。失其郡縣。  文祥名禎,襄陽人也。隨先主入蜀,歷雒、郫令,(南)廣漢太守。失其行事。子忠,官至尚書郎。 〈《襄陽記》曰:習禎有風流,善談論,名亞龐統,而在馬良之右。子忠,亦有名。忠子隆,為步兵校尉,掌校秘書。〉

国山は名を甫といい、広漢郪県の人である。人の評判や議論を好んだ。劉璋の時代に州の書佐となった。先主が蜀を平定した後、綿竹県令となり、後に荊州議曹従事に戻った。先主に従って呉を征伐し、秭帰で軍が敗れた時、害に遭った。子の祐は父の風があり、官位は尚書右選郎に至った。永南は名を邵といい、広漢郪県の人である。先主が蜀を平定した後、州の書佐部従事となった。建興元年、丞相諸葛亮が彼を召し出して西曹掾とした。諸葛亮が南征した時、習邵を留めて治中従事とし、その年に死去した。(『華陽国志』に曰く、邵の兄の邈は、字を漢南といい、劉璋の時代に牛鞞の長となった。先主が州牧を領すると、従事となった。元日の宴で酒を巡らせる役を命じられ、進み出て拝謁し、先主を責めて言った。「振威将軍(劉璋)は将軍が宗室の肺腑であるとして、賊を討つことを委ねましたが、大功はまだ挙がらず、先に寇に滅ぼされました。邈は将軍がこの鄙州を取ったことを、まことに宜しくないと考えます。」先主が言った。「宜しくないと知っているなら、なぜ助けなかったのか。」邈が言った。「敢えてしなかったのではありません。力が足りなかっただけです。」有司が彼を殺そうとしたが、諸葛亮が請願したため、免れることができた。久しくして、犍為太守、丞相参軍、安漢将軍となった。建興六年、諸葛亮が西征した。馬謖が前線で敗績し、諸葛亮が彼を殺そうとすると、邈は「秦は孟明を赦して西戎に覇を唱え、楚は子玉を誅して二代にわたり競わなかった」と諫めたが、諸葛亮の意に逆らい、蜀に帰された。十二年、諸葛亮が卒すると、後主は喪服を着て三日間哀悼を発した。邈は上疏して言った。「呂禄や霍禹は必ずしも反逆の心を抱いていたわけではなく、孝宣帝も臣を殺す君となることを好まなかったのですが、ただ臣がその圧迫を恐れ、主がその威を畏れたために、姦心が生じたのです。諸葛亮は身に強兵を杖き、狼顧虎視し、五大は辺に在らず、臣は常にこれを危ぶんでいました。今、諸葛亮が没したことで、宗族は全うを得、西戎は静まり、大小の者は慶びとしています。」後主は怒り、彼を獄に下して誅殺した。)

原文國山名甫,廣漢郪人也。好人流言議。劉璋時,為州書佐。先主定蜀後,為綿竹令,還為荊州議曹從事。隨先主徵吳,軍敗於秭歸,遇害。子祐,有父風,官至尚書右選郎。  永南名邵,廣漢郪人也。先主定蜀後,為州書佐部從事。建興元年,丞相亮闢為西曹掾。亮南征,留邵為治中從事,是歲卒。 〈《華陽國志》曰:邵兄邈,字漢南,劉璋時為牛鞞長。先主領牧,為從事,正旦命行酒,得進見,讓先主曰:「振威以將軍宗室肺腑,委以討賊,元功未效,先寇而滅;邈以將軍之取鄙州,甚為不宜也。」先主曰:「知其不宜,何以不助之?」邈曰:「匪不敢也,力不足耳。」有司將殺之,諸葛亮為請,得免。久之,為犍為太守、丞相參軍、安漢將軍。建興六年,亮西征。馬謖在前敗績,亮將殺之,邈諫以「秦赦孟明,用伯西戎,楚誅子玉,二世不競」,失亮意,還蜀。十二年,亮卒,後主素服發哀三日,邈上疏曰:「呂祿、霍禹未必懷反叛之心,孝宣不好為殺臣之君,直以臣懼其偪,主畏其威,故姦萌生。亮身杖強兵,狼顧虎視,五大不在邊,臣常危之。今亮殞沒,蓋宗族得全,西戎靜息,大小為慶。」後主怒,下獄誅之。 〉

盛衡は名を勳といい、承伯は名を齊といい、ともに巴西郡閬中の人である。勳は劉璋の時代に州の書佐となり、先主(劉備)が蜀を平定すると、左將軍の属官に召し出され、後に州の別駕從事に転じ、死去した。齊は太守張飛の功曹となった。張飛が先主に彼を推挙し、尚書郎となった。建興年間、丞相掾として仕え、広漢太守に昇進し、さらに(張飛の)参軍となった。諸葛亮の死後、尚書となった。勳と齊はともに才能と幹略によって自らを顕わにしたが、州内の同郷からの信頼という点では、姚伷には及ばなかった。  伷は字を子緒といい、これも閬中の人である。先主が益州を平定した後、功曹書佐となった。建興元年、広漢太守となった。丞相諸葛亮が北進して漢中に駐屯すると、掾に召し出された。文武の士を併せて推挙したところ、諸葛亮は称えて言った。「忠義と益をもたらすことは、人材を推挙することに勝るものはない。人材を推挙する者は、それぞれ自分が重んじる分野の人を推すものだ。今、姚掾は剛と柔を併せ持ち、文武の用いるべき道を広めている。まさに博雅と言えよう。諸掾も皆、このことに心を寄せ、人々の期待に応えてほしい。」参軍に昇進した。諸葛亮の死後、次第に昇進して尚書僕射となった。当時の人々はその真摯で誠実で純粋な人柄に敬服した。延熙五年に死去した。『季漢輔臣賛』を著した後のことである。

原文盛衡名勳,承伯名齊,皆巴西閬中人也。勳,劉璋時為州書佐,先主定蜀,闢為左將軍屬,後轉州別駕從事,卒。齊為太守張飛功曹。飛貢之先主,為尚書郎。建興中,從事丞相掾,遷廣漢太守,復為(飛)參軍。亮卒,為尚書。勳、齊皆以才幹自顯見;歸信於州黨,不如姚伷。  伷字子緒,亦閬中人。先主定益州後,為功曹書佐。建興元年,為廣漢太守。丞相亮北駐漢中,闢為掾。並進文武之士,亮稱曰:「忠益者莫大於進人,進人者各務其所尚;今姚掾並存剛柔,以廣文武之用,可謂博雅矣,原諸掾各希此事,以屬其望。」遷為參軍。亮卒,稍遷為尚書僕射。時人服其真誠篤粹。延熙五年卒,在作讚之後。

孫德は名を福といい、梓潼郡涪県の人である。先主が益州を平定した後、書佐、西充国長、成都令となった。建興元年、巴西太守に転任し、江州督、楊威將軍となり、中央に入って尚書僕射となり、平陽亭侯に封じられた。延熙初年、大将軍蔣琬が漢中に出征した際、福は以前の監軍として司馬を兼任し、その任地で死去した。〈『益部耆舊雜記』によると、諸葛亮が武功で病が重くなったとき、後主(劉禅)は福を使者として見舞いに行かせ、ついでに国家の大計について諮問させた。福は行って聖旨を詳しく伝え、諸葛亮の言葉を聞いた。別れて数日後、急に考えが駆け巡り、まだ言い尽くせていないことがあると思い、馬を引き返して諸葛亮に会いに行った。諸葛亮は福に言った。「君が戻ってきた理由はわかっている。この前の話は、一日中話してもまだ言い尽くせなかったから、もう一度来て決着をつけようというのだろう。君が尋ねたいのは、公琰(蔣琬)が適任だということだ。」福は謝罪して言った。「確かに前に、公あなたにご相談しなかったのは過ちでした。もし公が百年の後、誰が大事を任せられるか?それで戻って参りました。もう一度お尋ねします。蔣琬の次は、誰が任に堪えますか?」諸葛亮は言った。「文偉(費禕)がその後を継ぐことができる。」さらにその次を尋ねると、諸葛亮は答えなかった。福は帰還し、使命を果たしたことを称えられた。福は人となり、識見が鋭く決断力に富み、政務に敏速であった。子の驤は字を叔龍といい、これも名を知られ、官は尚書郎、広漢太守まで昇った。〉(『益部耆舊雜記』の記述。)

原文孫德名福,梓潼涪人也。先主定益州後,為書佐、西充國長、成都令。建興元年,徙巴西太守,為江州督、楊威將軍,入為尚書僕射,封平陽亭侯。延熙初,大將軍蔣琬出征漢中,福以前監軍領司馬,卒。 〈益部耆舊雜記曰:諸葛亮於武功病篤,後主遣福省侍,遂因諮以國家大計。福往具宣聖旨,聽亮所言,至別去數日,忽馳思未盡其意,遂卻騎馳還見亮。亮語福曰:「孤知君還意。近日言語,雖彌日有所不盡,更來一決耳。君所問者,公琰其宜也。」福謝:「前實失不諮請公,如公百年後,誰可任大事者?故輒還耳。乞復請,蔣琬之後,誰可任者?」亮曰:「文偉可以繼之。」又復問其次,亮不答。福還,奉使稱旨。福為人精識果銳,敏於從政。子驤,字叔龍,亦有名,官至尚書郎、廣漢太守。〉

偉南は名を朝といい、永南(李邵)の兄である。郡の功曹となり、孝廉に推挙され、臨邛県令となり、中央に入って別駕從事となった。先主に従って東征して呉を討ち、章武二年に永安で死去した。〈『益部耆舊雜記』によると、朝にはまた一人の弟がいたが、早世した。それぞれ才能と声望があり、当時の人々は彼らを李氏の三龍と呼んだ。『華陽国志』によると、群臣が先主に上奏して漢中王とする文書は、朝が起草したものである。臣の松之が案ずるに、耆舊の記録によれば、朝、邵および早世した者を三龍としている。邈(李邈)の狂直さは、この数には入らない。〉  德緒は名を祿といい、巴西郡安漢県の人である。先主が益州を平定すると、郡の從事牙門將となった。建興三年、越巂太守となり、丞相諸葛亮に従って南征し、蛮夷に殺害された。時に三十一歳。弟の衡は、景耀年間に領軍となった。  義強は名を士といい、広漢郡郪県の人で、国山(王甫)の従兄である。先主に従って蜀に入った後、孝廉に推挙され、符節長となり、牙門將に昇進し、地方に出て宕渠太守となり、さらに犍為郡に転任した。ちょうど丞相諸葛亮が南征する際、益州太守に転任し、南行しようとしたところ、蛮夷に殺害された。

原文偉南名朝,永南兄。郡功曹,舉孝廉,臨邛令,入為別駕從事。隨先主東征吳,章武二年卒於永安。 〈《益部耆舊雜記》曰:朝又有一弟,早亡,各有才望,時人號之李氏三龍。《華陽國志》曰:群下上先主為漢中王;其文,朝所造也。臣松之案耆舊所記,以朝、邵及早亡者為三龍。邈之狂直,不得在此數。 〉  德緒名祿,巴西安漢人也。先主定益州,為郡從事牙門將。建興三年,為越巂太守,隨丞相亮南征,為蠻夷所害,時年三十一。弟衡,景耀中為領軍。  義強名士,廣漢郪人,國山從兄也。從先主入蜀後,舉孝廉,為符節長,遷牙門將,出為宕渠太守,徙在犍為。會丞相亮南征,轉為益州太守,將南行,為蠻夷所害。

休元は名を習といい、南郡の人である。先主に従って蜀に入った。先主が東征して呉を討つとき、習は領軍となり、諸軍を統率したが、猇亭で大敗した。文進は名を南といい、これも荊州から先主に従って蜀に入り、兵を率いて先主に従い呉を征伐し、習とともに戦死した。  当時また義陽の傅肜がいた。先主が退軍する際、後衛を務めて敵を防ぎ戦い、兵士が死に尽きた。呉の将が傅肜に降伏を勧めると、傅肜は罵って言った。「呉の犬め!漢の將軍が降伏するものか!」そして戦死した。その子の僉を左中郎に任じ、後に關中都督とした。景耀六年、また危機に臨んで命を捧げた。論者はその父子二代にわたる忠義を称えた。〈『蜀記』には晉の武帝の詔が載せられている。「蜀の將軍傅僉は、以前に関城において、自ら官軍を防ぎ、死を顧みずに戦った。僉の父の肜は、また劉備のために戦死した。天下の善は一つである。どうして敵味方によって異なることがあろうか?」僉の息子の著と募は、後に没収されて奚官(官奴婢を管理する役所)に属し、後に赦免されて庶人となった。〉

原文休元名習,南郡人。隨先主入蜀。先主東征吳,習為領軍,統諸軍,大敗於猇亭。文進名南,亦自荊州隨先主入蜀,領兵從先主徵吳,與習俱死。  時又有義陽傅肜,先主退軍,斷後拒戰,兵人死盡,吳將語肜令降,肜罵曰:「吳狗!何有漢將軍降者!」遂戰死。拜子僉為左中郎,後為關中都督,景耀六年,又臨危授命。論者嘉其父子奕世忠義。 〈《蜀記》載晉武帝詔曰:「蜀將軍傅僉,前在關城,身拒官軍,致死不顧。僉父肜,復為劉備戰亡。天下之善一也,豈由彼此以為異?」僉息著、募,後沒入奚官,免為庶人。〉

季然は名を畿といい、巴西郡閬中の人である。劉璋の時代に漢昌県長となった。県には賨人がおり、その種族は剛猛で、昔、高祖(劉邦りゅうほう)が彼らを用いて関中を平定した。巴西太守の龐羲は、天下が乱れていることを理由に、郡には武衛が必要だとして、かなり部曲を招集した。劉璋に讒言する者がいて、龐羲が反逆を企てていると告げたので、劉璋は内心疑った。龐羲はこれを聞き、非常に恐れ、自衛の策を講じようとし、畿の子の鬱を使者として派遣し、旨を伝えさせ、兵士を求めて援助を求めた。畿は返答して言った。「郡が部曲を集めるのは、もともと反逆のためではなく、たとえ離間工作があっても、肝心なのは誠意を尽くすことだ。もし必ず恐れるというのであれば、異心を抱くことになり、それは私の聞くところではありません。」また鬱に命じて言った。「私は州の恩を受けており、州牧のために節を尽くすべきだ。お前は郡の吏であり、太守のために力を尽くすべきで、私のためだとして異心を抱いてはならない。」龐羲は人をやって畿に告げさせた。「お前の子は郡におり、太守に従わなければ、家族に災いが及ぶぞ!」畿は言った。「昔、楽羊が将軍として、自分の子の羹あつものを飲んだ。父子の情がなかったわけではなく、大義がそうさせたのだ。今、たとえまた子の羹が出されようとも、私は必ずそれを飲むだろう。」龐羲は畿が決して自分のためにはならないと知り、劉璋に厚く陳謝して罪を免れた。劉璋はこれを聞き、畿を江陽太守に転任させた。先主が益州牧を兼任すると、從事祭酒に召し出された。後に先主に従って呉を征伐し、大軍の大敗に遭い、長江を遡って帰還する途中、ある者が告げて言った。「後ろから追撃が迫っています。船を軽くして速やかに去れば、難を免れられます。」畿は言った。「私は軍中にあって、かつて敵から逃げたことはない。ましてや天子に従っていて危険を見逃すことがあろうか!」追撃の兵は遂に畿の船に追いつき、畿は自ら戟を執って戦い、敵船を転覆させる者もいた。大軍が押し寄せ、共に攻撃し、そこで戦死した。

原文季然名畿,巴西閬中人也。劉璋時為漢昌長。縣有賨人,種類剛猛,昔高祖以定關中。巴西太守龐羲以天下擾亂,郡宜有武衛,頗招合部曲。有讒於璋,說羲欲叛者,璋陰疑之。羲聞,甚懼,將謀自守,遣畿子鬱宣旨,索兵自助。畿報曰:「郡合部曲,本不為叛,雖有交構,要在盡誠;若必以懼,遂懷異志,非畿之所聞。」並敕鬱曰:「我受州恩,當為州牧盡節。汝為郡吏,當為太守效力,不得以吾故有異志也。」羲使人告畿曰:「爾子在郡,不從太守,家將及禍!」畿曰:「昔樂羊為將,飲子之羹,非父子無恩,大義然也。今雖復羹子,吾必飲之。」羲知畿必不為己,厚陳謝於璋以致無咎。璋聞之,遷畿江陽太守。先主領益州牧,闢為從事祭酒。後隨先主徵吳,遇大軍敗績,溯江而還,或告之曰:「後追已至,解船輕去,乃可以免。」畿曰:「吾在軍,未曾為敵走,況從天子而見危哉!」追人遂及畿船,畿身執戟戰,敵船有覆者。眾大至,共擊之,乃死。

公弘は名を祁といい、季然(程畿)の子である。

原文公弘,名祁,季然之子也。

糜芳は字を子方といい、東海郡の人である。南郡太守となった。士仁は字を君義といい、広陽郡の人である。將軍となり、公安に駐屯し、関羽の指揮下に属した。関羽と不和になり、叛いて孫権を迎えた。郝普は字を子太といい、義陽郡の人である。先主が荊州から蜀に入るとき、普を零陵太守とした。呉の将呂蒙に欺かれて、城門を開いて呂蒙のもとに赴いた。潘濬は字を承明といい、武陵郡の人である。先主が蜀に入ると、荊州治中とし、州の留守を司らせたが、これも関羽と和合しなかった。孫権が関羽を襲撃すると、呉に入った。普は廷尉まで昇り、濬は太常まで昇り、侯に封じられた。

原文糜芳字子方,東海人也,為南郡太守。士仁字君義,廣陽人也,為將軍,住公安,統屬關羽;與羽有隙,叛迎孫權。郝普字子太,義陽人。先主自荊州入蜀,以普為零陵太守。為吳將呂蒙所譎,開城詣蒙。潘濬字承明,武陵人也。先主入蜀,以為荊州治中,典留州事,亦與關羽不穆。孫權襲羽,遂入吳。普至廷尉,濬至太常,封侯。

評して言う。鄧芝は堅貞で簡潔で明るく、官職に臨むと家を忘れ、張翼は姜維の鋭鋒に抗し、宗預は孫権の厳しい要求を防ぎ、いずれも称えるべき点があった。楊戲の人物評議は、群を抜かんとする意図があったが、しかし知略と度量に欠けるところがあり、危うく世の難に遭いそうになったと言えよう。

原文評曰:鄧芝堅貞簡亮,臨官忘家,張翼亢姜維之銳,宗預禦孫權之嚴,咸有可稱。楊戲商略,意在不群,然智度有短,殆罹世難雲。