三國志
蜀書十 劉彭廖李劉魏楊伝
劉封は、もともと羅侯寇氏の子で、長沙劉氏の甥である。先主が 荊州 に至ったとき、後継ぎがいなかったため、封を 養子 とした。先主が蜀に入り、葭萌から引き返して劉璋を攻めたとき、封は二十歳余りで、武芸に優れ、気力は人に勝り、兵を率いて 諸葛亮 や 張飛 らとともに川を遡って西上し、行く先々で戦いに勝利した。 益州 が平定された後、封を副軍中 郎 将に任じた。
初め、劉璋は扶風の孟達を法正の副将とし、それぞれ兵二千人を率いて先主を迎えさせた。先主はそこで達にその兵を統率させ、江陵に駐屯させた。蜀平定後、達を宜都太守に任じた。建安二十四年、達に命じて秭帰から北進して房陵を攻めさせた。房陵太守の蒯祺は達の兵に殺害された。達が上庸を攻めようとしたとき、先主はひそかに達だけでは任務を果たせないのではないかと恐れ、封を漢中から沔水を下らせて達の軍を統率させ、達と上庸で合流させた。上庸太守の申耽は配下を率いて降伏し、妻子と一族を成都に送った。先主は耽に征北将軍を加官し、従来通り上庸太守・員郷侯を兼任させ、耽の弟の儀を建信将軍・西城太守とし、封を副軍将軍に昇進させた。 関羽 が樊城と襄陽を包囲したとき、たびたび封と達を呼び寄せ、兵を出して援護するよう命じた。封と達は、山間の郡が降伏したばかりで動揺させられないと断り、羽の命令に従わなかった。ちょうど関羽が敗北したため、先主は彼らを恨んだ。また、封と達は争って仲が悪くなり、封はまもなく達の鼓吹を奪った。達は罪を恐れるとともに、封に憤慨したため、先主に上表して辞任を申し出て、配下を率いて魏に降伏した。〈『魏略』に達が先主に宛てた辞任の上表文が載っている。それには「伏して考えるに、殿下は伊尹・呂尚の事業を起こし、桓公・文公の功績を追い求められようとしておられます。大事業は草創期にあり、呉・楚の勢力を借りておられるため、有為の士は深く帰趨を見極めております。臣が身を委ねて以来、過失は山のように積もっており、臣自身が知っているのに、まして君主においておやでございましょうか。今、王朝が興り、英俊が鱗のように集まっております。臣は内には輔佐の器がなく、外には将領の才がなく、功臣の列に加えられては、まことに自ら恥じ入るばかりです。臣は聞きます。范蠡は微かな兆しを見抜き、五湖に浮かび去りました。咎犯は罪を謝し、黄河のほとりでためらいました。君臣の機会に臨んで、命を請い、身を退くのです。なぜでしょうか。去就の分け目を清く保とうとするからです。まして臣は卑賤で、大功も巨勲もなく、時勢に身を置きながら、ひそかに前賢を慕い、早くから遠く恥辱を避けたいと願っておりました。昔、申生は至孝でありながら親に疑われ、子胥は至忠でありながら君に誅殺され、蒙恬は国境を開拓しながら大刑に処せられ、楽毅は斉を破りながら讒言に遭いました。臣がその書を読むたび、慷慨して涙を流さずにはおられませんでしたが、自らその事に当たることになれば、いっそう悲嘆に暮れることでしょう。なぜでしょうか。荊州が敗北し、大臣は節を失い、百人いて一人も帰還しませんでした。ただ臣だけが事を起こし、自ら房陵・上庸に至りましたが、再び身を退き、外に放逐されることを願い出るのです。伏して考えるに、殿下の聖恩が心に響き、臣の心情を哀れみ、臣の行動を悼んでくださることを。臣はまことに小人であり、終始一貫できず、知りながら行ったのですから、罪ではないと言えましょうか。臣は常々、交わりが絶えても悪声を残さず、臣下が去っても怨みの言葉を残さないと聞いております。臣はかつて君子の教えを受けました。どうか君王が努められますように」とある。〉魏の文帝は達の風采・才能・容姿を高く評価し、 散騎常侍 ・建武将軍とし、平陽亭侯に封じた。房陵・上庸・西城の三郡を合わせて新城郡とし、達に新城太守を兼任させた。征南将軍の夏侯尚と右将軍の 徐晃 を派遣し、達とともに封を襲撃させた。達は封に手紙を送った。
古人に言う。『疎遠な者は親しい者の間に入らず、新しい者は古い者に加わらない』と。これは上に明君、下に直臣があれば、讒言や悪事が行われないことを言うのである。もし権謀を用いる君主や、賢父慈親であっても、なお忠臣が功績を立てて禍いに遭い、孝子が仁を抱いて難儀に陥ることがある。文種・商鞅・白起・孝己・伯奇らは皆その類である。そうなる所以は、骨肉が離れたいとか、親族が災難を喜ぶからではない。あるいは恩愛が移り変わることもあり、またその間に讒言が入ることもある。たとえ忠臣でも君心を動かせず、孝子でも父心を変えられないのである。勢利が加われば、親しい者を仇敵に変える。まして親族でない者ならなおさらである。だから申生・衛の伋・禦寇・楚の建らは、天地の気を受けて生まれ、後継ぎとして立つべき正統な立場にありながら、なおこのような目に遭ったのである。今、足下と漢中王とは、道で出会う他人に過ぎない。親族でもないのに権勢を握り、君臣の義もないのに上位にいる。出征すれば偏任の威権を持ち、在任すれば副軍の称号がある。これは遠近に知れ渡っている。阿斗を太子に立てて以来、識者は互いに寒心している。もし申生が子輿の言葉に従っていたなら、必ずや太伯のようになっていたであろう。衛の伋が弟の謀略を聞き入れていたなら、父に非難されるようなことはなかったであろう。また小白は出奔したが、帰国して覇者となった。重耳は城壁を越えて逃れたが、ついに国を取り戻した。これは古来からあることで、今に限ったことではない。智恵は禍いを免れることを貴び、明察は早く道理に達することを尊ぶ。私が推測するに、漢中王は内心では考えを固め、外に対しては疑念を生じている。考えが固まれば心は堅固になり、疑念が生じれば心は恐れる。乱や禍いが起こるのは、廃立の間柄からでないことはない。私的な怨みや人情は、必ず表に出るものであり、側近の中に必ず漢中王に讒言する者がいることであろう。そうなれば疑念が固まり怨みが知れ渡り、その発動は機を踏むようなものである。今、足下は遠方にいるので、まだ一時的に息をつくことができる。もし大軍が進撃してくれば、足下は拠り所を失って帰還することになり、ひそかに危険を感じている。昔、微子は殷を去り、智果は一族から別れた。災難に背き禍いを避けることは、皆このようなものである。〈『国語』にいう。智宣子が瑤を後継ぎにしようとしたとき、智果は「霄の方がよい」と言った。宣子は「霄は頑固だ」と言うと、智果は答えて「霄の頑固さは顔つきに表れていますが、瑤が人より優れている点は五つ、及ばない点は一つです。美しいひげで背が高いのは優れ、弓馬に力があるのは優れ、技芸にすべて通じているのは優れ、巧みな文才と弁舌に恵まれているのは優れ、強く果断であるのは優れていますが、このように優れていながら非常に不仁なのです。五つの優れた点で人を圧倒し、不仁な行いをするなら、誰が彼に仕えられましょうか。もし瑤を立てれば、智氏の宗族は必ず滅びます」と言った。聞き入れられなかったため、智果は太史氏の下で別族となり輔氏を称した。智氏が滅んだとき、ただ輔果だけが生き残った。〉今、足下は父母を捨てて他人の後継ぎとなった。これは礼に反する。禍いが来ると知りながら留まる。これは智ではない。正しい道を見ながら従わずに疑う。これは義ではない。自ら大丈夫と称しながら、この三つを行うことに何の価値があろうか。足下の才能をもって、身を棄てて東に来られれば、羅侯の後継ぎとなる。これは親に背くことではない。北面して君に仕え、綱紀を正す。これは旧主を棄てることではない。怒りに任せて乱を起こさず、危亡を免れる。これは無駄な行動ではない。加えて陛下は新たに禅譲を受けたばかりで、虚心に側席を設け、徳をもって遠方を懐柔しておられる。もし足下が翻然として内に向かえば、ただ私と同列となり、三百戸の封邑を受け、羅国の後継ぎとなるだけでなく、さらに大きな国に割符を授けられ、初代の封君となられるであろう。陛下の大軍は、金鼓を震わせて進撃し、やがて都を宛や鄧に移すであろう。もし二つの敵(呉・蜀)が平定されなければ、軍は帰還の期日がない。足下はこの時機に乗じて早く良策を定められるべきである。易に『大人に会うは利あり』とあり、詩に『自ら多福を求めよ』とある。行け。今、足下は努められよ。狐突が門を閉じて出てこないようなことがあってはならない。
封は達の言葉に従わなかった。
申儀が封に背き、封は敗走して成都に戻った。申耽は魏に降伏し、魏は耽に仮の懐集将軍を授け、南陽に移住させ、儀を魏興太守とし、員郷侯に封じ、洵口に駐屯させた。
達は本来の 字 は子敬であったが、先主の叔父の敬を避 諱 して、これを改めた。〈封の子の林は牙門将となり、咸熙元年に河東へ内移した。達の子の興は議督軍となり、この年に扶風へ移された。〉
彭羕は字を永年といい、広漢の人である。身長は八尺あり、容貌は非常に立派であった。性格は傲慢で、多くのことを軽んじていたが、同郡の秦子敕だけは敬愛し、太守の許靖に彼を推薦して言った。
昔、高宗は傅説を夢に見、周の文王は呂尚を求め、漢の高祖に至っては、食其を布衣の身分から取り立てた。これこそ帝王が業を起こし統を垂れ、その功績を輝かせる所以である。今、明府は古の皇極を考察し、神霊のごとく公正に執り行い、公劉の徳を体現し、伐らずに済む恵みを行い、清廟の事業はここから始まり、褒貶の意義はここから興るが、しかし六つの羽根はまだ備わっていない。伏して見るに、処士の綿竹の秦宓は、山甫の徳を胸に抱き、雋生の直を履み、石を枕に流れで口を漱ぎ、綿入れの袍を吟詠し、仁義の道に身を横たえて休息し、浩然の境域に淡泊であり、高い志操と節行を持ち、真実を守って損なうことがなく、古人の潜遁と比べても、これに勝るものはない。もし明府がこの人物を招き寄せることができれば、必ずや忠直で堂々とした評判を得て、豊かな功績と厚い利益をもたらし、業績を立て勲功を立て、その後、王府に功績を記録し、来世に名声を轟かせることは、また美しいことではないか!」
彭羕は州に仕えたが、書佐に過ぎず、後にまた州の人々から州牧の劉璋に誹謗中傷され、劉璋は彭羕の髪を剃り首枷をはめて徒刑囚とした。ちょうど先主( 劉備 )が蜀に入り、川を遡って北上した時であった。彭羕は先主に献策しようと思い、龐統に会いに行った。龐統は彭羕と旧知の仲ではなく、またたまたま賓客がいたが、彭羕はまっすぐに龐統の寝台に上がって寝そべり、龐統に言った。「客が帰ったら、あなたとじっくり話をしよう。」龐統の客が帰ると、龐統は彭羕のところに座りに行ったが、彭羕はまた先に龐統に食事を用意するよう求め、それから共に語り合い、そのまま二晩泊まり、一日中に及んだ。龐統は彼を大いに気に入り、一方で法正は以前から彭羕を知っていたので、二人して先主に推薦した。先主も彼を異才と認め、しばしば彭羕に軍事の宣伝を命じ、諸将に指示を与えさせ、使者としての任務も意にかなうもので、認識と待遇は日増しに良くなった。成都が平定されると、先主は益州牧を兼任し、彭羕を抜擢して治中従事とした。彭羕は徒歩の身分から、一朝にして州の人々の上に立つ身となり、態度や表情が傲慢で、自分が優遇されていることをひどく誇っていた。諸葛亮は表面上は彭羕をもてなしたが、内心では良しとしなかった。たびたひ密かに先主に言上し、彭羕は野心が大きく志が広すぎて、安泰に保つのは難しいと述べた。先主は諸葛亮を敬い信頼していたので、さらに彭羕の行いを観察し、次第に疎遠にする意向を持ち、彭羕を左遷して江陽太守とした。
彭羕は遠方へ出向くことになったと聞き、内心快く思わず、 馬超 を訪ねた。馬超が彭羕に尋ねた。「あなたは才能が抜きん出ており、主公(劉備)のご待遇も非常に厚い。あなたは孔明や孝直らと肩を並べて活躍すべき方だと聞いていたのに、どうして外の小郡に任じられ、人々の本来の期待を裏切ることになったのか?」彭羕は言った。「あの老兵めは道理をわきまえぬ。また言うまでもないことだ!」また馬超に言った。「あなたが外で働き、私が内で働けば、天下を平定するのは造作もないことだ。」馬超は他国から帰順した身であり、常に危惧を抱いていたので、彭羕の言葉を聞いて大いに驚き、黙って答えなかった。彭羕が退出した後、馬超は彭羕の言葉を詳細に上表した。そこで彭羕は逮捕され、役所に引き渡された。
彭羕は獄中で諸葛亮に書簡を送り、次のように述べた。
私はかつて諸侯に仕え、 曹操 は暴虐であり、 孫権 は無道であり、振威将軍(劉璋)は暗愚で弱いと考え、ただ主公(劉備)だけが覇王の器量を持ち、事業を興し治世を成し遂げることができると信じたので、思い切って軽挙の志を抱いた。ちょうど公が西に来られた時、私は法孝直(法正)を通じて自らを売り込み、龐統がその間を取り持ってくれたので、葭萌で公にお目にかかり、手のひらを指しながら談じ、治世の務めを論じ、覇王の大義を講じ、益州を取る策を建てた。公も以前から考えが明確で定まっておられ、すぐに同意し賛同され、そこで挙兵された。私はかつての州(益州)では凡庸を免れず、罪に陥ることを憂いていたが、風雲が激しく矢が飛び交う中に遭遇し、求める君主を得て君主に仕え、志を遂げ名声を顕わし、布衣の身から抜擢されて国士となり、茂才の名をいただいた。子分としての厚遇は、これ以上に誰が過ぎようか。私は一度狂って道理に背き、自ら塩漬けや肉の刻み身を求めて、不忠不義の鬼となろうか!昔の人は言った、左手で天下の地図を押さえながら、右手で自分の喉を刎ねることは、愚かな者でもしない、と。ましてや私が豆と麦くらいは区別できる者であるのに!私が不満の意を持った理由は、自分を顧みず、ただ自分が最初に事業を興したのに、江陽に投げ込むような議論があり、主公の真意を理解できず、ついに感激して、かなり酒に酔い、軽率に『老い』という言葉を失言したことである。これは私の愚かで浅はかな考えによるものであり、主公は実は老いてなどいらっしゃらない。そもそも事業を立てるのに、老いも若きも関係があろうか、西伯(周の文王)は九十歳でも、どうして志が衰えようか、私の慈父に背き、罪は百死に値する。内外の言葉については、ただ孟起(馬超)に北州で功を立てさせ、力を合わせて主公に仕え、共に曹操を討とうとしただけであり、どうして他の志があろうか?孟起がそう言ったのは正しいが、ただその間の事情を区別せず、人の心を痛めつけただけだ。かつては毎度龐統と共に誓約を交わし、あなたの末席に連なることを願い、主公の事業に心を尽くし、古人に名を追い、竹帛に勲功を載せようとした。龐統は不幸にも死に、私は失敗して禍を招いた。自ら堕落させたのだから、誰を怨もうか!あなたは当代の伊尹、呂尚である。どうか善く主公と計らい、その大いなる謀略を成就させてほしい。天は明らかに地は察し、神々が霊験あらたかであるならば、また何を言おうか!貴方に私の本心を明らかにさせて頂きたいだけだ。行け、努力せよ、自愛せよ、自愛せよ!
楊儀は結局誅殺され、その時三十七歳であった。
廖立(廖の音は理救の反切)は字を公淵といい、武陵郡臨沅県の人である。先主(劉備)が荊州牧を領有したとき、彼を召し出して従事とし、三十歳に満たないうちに長沙太守に抜擢した。先主が蜀に入ると、諸葛亮が荊州を鎮守した。孫権が使者を遣わして諸葛亮に友好を通じさせた際、ついでに「士人の中で誰が政務を担うのに適しているか」と尋ねた。諸葛亮は答えて言った。「龐統と廖立は、楚の優れた人材であり、世の事業を盛んにするのを補佐すべき者です。」建安二十年、孫権が 呂蒙 を遣わして南方三郡を急襲したとき、廖立は身一つで逃げ出し、自ら先主のもとに帰った。先主はもともと彼を知って遇していたので、深く責めることはせず、巴郡太守に任じた。二十四年、先主が漢中王となると、廖立を召し出して侍中とした。後主が位を継ぐと、長水 校尉 に転任させた。
彼は本来の志を立て、自ら才能と名声は諸葛亮の次にふさわしいと自負していたが、かえって遊び暮らして李厳らの下位に甘んじ、常に不満を抱いていた。後に丞相掾の李邵と蔣琬が到着すると、廖立は策を講じて言った。
「軍は遠征に出るはずだ、諸君はよくその事を検討せよ。かつて先主は漢中を取らず、走って呉と南三郡を争い、結局三郡を呉に与え、役人と兵士を徒労させ、何の益もなく帰還した。漢中を失った後、 夏侯淵 と 張郃 を巴の地深く侵入させ、一州を危うく喪失しかけた。その後漢中に至り、関羽をして身を滅ぼし子孫すら残さず、上庸は敗北し、一方の地を徒に失った。これは関羽が勇名を恃み、軍を統率する法がなく、ただ思いのままに突進しただけだからで、それゆえ前後して数度にわたり軍勢を喪失したのだ。向朗や文恭などは、ただの凡俗の人間に過ぎない。文恭は治中となったが綱紀がなく、向朗はかつて馬良兄弟を奉じて聖人と称したが、今は長史となり、もともと道理に合うことができた。中郎の郭演長は、他人に従うだけの人物で、大事を経営するに足らず、それなのに侍中となった。今は弱い世の中であり、この三人を任用しようとするのは、正しくない。王連は世俗に流され、むやみに重税を課し、百姓を疲弊させ、今日の状況を招いた。」
李邵と蔣琬は彼の言葉をことごとく諸葛亮に報告した。諸葛亮は上表して廖立について言った。「長水 校尉 廖立は、自らを尊大に思い、群士を批評し、公然と国家は賢達を任用せず俗吏を任用すると言い、また万人を率いる者は皆小人物だと言った。先帝を誹謗し、衆臣をそしり毀った。人が国家の兵衆は精練され、部隊は整然としていると言うと、廖立は頭を上げて屋根を見つめ、憤慨して顔色を変えて『言うに足らぬ!』と言った。このようなことは数えきれない。羊が群れを乱しても害をなすことができるのに、まして廖立が高位に託され、中人以下の者が真偽を見分けられようか。」(諸葛亮集に諸葛亮の上表があり、それには「廖立は先帝に奉仕して忠孝の心がなく、長沙を守れば門を開いて敵に就き、巴郡を領すれば暗昧で卑劣なことを行い、大将軍に従えば誹謗し譏り、梓宮に侍すれば刃を帯びて梓宮の傍らで人の首を断った。陛下が即位された後、職号を広く増やされ、廖立はそれに従って将軍となったが、面と向かって臣に『私はどうして諸将軍の中にいるべきか!私を卿に上表せず、上なら五校にいるべきだ!』と言った。臣は答えて『将軍というのは、大いなる比較に従うだけです。卿となることについては、李正方もまだ卿となっておりません。しばらく五校に処せられるのがよろしいでしょう。』と言った。この後以来、彼は不満を抱き恨みを抱いている。」とある。 詔 して言った。「三苗が政を乱した時、有虞氏は流刑に処して宥した。廖立は狂惑しているが、朕は刑に処すに忍びず、急いで不毛の地に移す。」)そこで廖立を廃して庶民とし、汶山郡に移した。廖立は自ら妻子を率いて耕作し自活し、諸葛亮の死を聞くと、涙を流して嘆いて言った。「私はついに左衽(夷狄)となるのだ!」後に監軍の姜維が偏軍を率いて汶山を経由し、廖立を訪ねたが、廖立の意気は衰えず、言論は平然としていたと称した。廖立はついに移住地で生涯を終えた。妻子は蜀に帰った。
李厳は字を正方といい、南陽の人である。若い時から郡の職吏となり、才幹をもって称された。荊州牧の劉表は彼に諸郡県を歴任させた。曹操が荊州に入った時、李厳は秭帰の長官であり、そこで西へ向かって蜀に入り、劉璋は彼を成都令とし、また才能のある名声を得た。建安十八年、李厳を護軍に任命し、綿竹で先主を防がせた。李厳は衆を率いて先主に降伏し、先主は李厳を裨将軍に任じた。成都が平定されると、犍為太守・興業将軍となった。二十三年、盗賊の馬秦・高勝らが郪で蜂起し、(音は淒。)部伍数万人を集結させ、資中県に至った。当時先主は漢中におり、李厳はさらに兵を発することなく、ただ郡の兵士五千人を率いて討伐し、馬秦・高勝らの首を斬った。枝党は星散し、すべて民籍に復した。また越巂の夷帥の高定が軍を派遣して新道県を包囲したので、李厳は急行して救援に赴き、賊はすべて撃破されて敗走した。輔漢将軍を加えられ、郡を領するのはもと通りであった。
章武二年、先主は李厳を永安宮に召し寄せ、 尚書令 に任じた。三年、先主が病に倒れると、李厳は諸葛亮とともに遺 詔 を受けて少主を補佐することとなった。李厳を中都護とし、内外の軍事を統率させ、永安に留まって鎮守させた。建興元年、都郷侯に封じられ、節を仮授され、光禄勲を加えられた。四年、前将軍に転じた。諸葛亮が漢中に出軍しようとしたため、李厳は後方のことを知るべきとして、江州に移駐し、護軍の陳到を永安に駐留させ、すべて李厳の統属とした。李厳は孟達に手紙を送って言った。「私は孔明とともに寄託を受け、憂いは深く責務は重く、良き伴侶を得たいと思っている。」諸葛亮もまた孟達に手紙を送って言った。「部署分掌は流れるように円滑で、進退に滞りがないのは、正方の本性である。」彼がこのように重んじられていた。(諸葛亮集に李厳が諸葛亮に送った手紙があり、諸葛亮に九錫を受けるべきことと、爵を進めて王と称することを勧めている。諸葛亮は返書で答えて言った。「私は足下と相知って久しく、もはや互いに理解し合う必要はない!足下は今、国を光栄させることを教え、拘泥しない道を戒めているので、黙っているわけにはいかない。私はもともと東方の下士であり、先帝に誤って用いられ、人臣の位の極みに至り、禄賜は百億に及ぶ。今、賊を討伐して効果がなく、知己に報いていないのに、方や斉や晋のように寵遇され、自ら尊大に振る舞うのは、その義ではない。もし魏を滅ぼし曹叡を斬り、帝が故郷に還り、諸子とともに昇進するならば、たとえ十命でも受けることができよう、まして九錫など問題ではない!」)八年、驃騎将軍に遷った。曹真が三方向から漢川に向かおうとしたため、諸葛亮は李厳に二万人を率いて漢中に赴かせた。諸葛亮は上表して李厳の子の李豊を江州 都督 督軍とし、李厳の後方のことを主管させた。諸葛亮は翌年出軍する予定であったため、李厳に中都護として府の事務を執り行わせた。李厳は名を平と改めた。
建興九年の春、諸葛亮は祁山に軍を進め、李平は物資輸送の監督を急がせた。夏から秋にかけての時期、長雨に見舞われ、食糧の輸送が途絶えたため、李平は参軍の狐忠と督軍の成籓を派遣して意図を伝えさせ、諸葛亮に帰還を促した。諸葛亮はこれを受けて軍を退いた。李平は軍が退いたと聞くと、今さらのように驚いたふりをして、「軍糧は豊富に足りているのに、どうしてすぐに帰ってきたのか」と言い、自分が任務を果たせなかった責任を免れ、諸葛亮が進軍しなかった過失を顕わにしようとした。また後主に上表して、「軍は偽って退却し、賊を誘い出して戦おうとしている」と述べた。諸葛亮は李平の前後の手紙や上奏文の経緯をすべて明らかにし、李平の過ちと矛盾が明白になった。李平は言い訳が尽き、心情も窮して、ひれ伏して罪を謝した。そこで諸葛亮は李平について上表して言った。「先帝が崩御されて以来、李平は任地で家のことを治め、小さい恩恵を施すことに専念し、身の安全を図って名声を求め、国を憂えることはありませんでした。臣が北方に出撃しようとした時、李平の兵を得て漢中を鎮守させようとしましたが、李平は窮屈で難しいことを言い、来る気はなく、代わりに五郡を与えて巴州 刺史 とするよう求めました。去年、臣が西征しようとした時、李平に漢中の総督を任せようとしましたが、李平は 司馬懿 などが開府して人材を召し抱えていると言いました。臣は李平の卑しい心情を知り、この機会に臣を脅して利益を得ようとしているのだと思い、そこで李平の子の李豊に江州を監督させ、待遇を高くして、一時の用務に当たらせました。李平が到着した日、すべての事柄を委ねましたが、群臣上下は皆、臣が李平を厚遇するのを怪しみました。ただ大事が未だ定まらず、漢王室が傾き危ういため、李平の短所を責めるよりも褒めた方が良いと考えたからです。しかし、李平の心情は栄誉と利益にあるだけだと思っていましたが、その心がここまで倒錯しているとは思いませんでした。もし事が遅滞すれば、禍いと敗北を招くでしょう。これは臣が不敏であり、言葉が多いことでかえって咎を増やしてしまいます。」(諸葛亮が尚書に上った公文書にはこうある。「李平は大臣として、過分な恩恵を受けながら、忠誠をもって報いることを考えず、根拠なく事をでっち上げ、危険や恥辱を省みず、上下を惑わせ、訴訟を論じて法規を捨て、人を導いて奸悪を行わせ、心情は狭く志は狂っており、天地もないかのようです。自らの奸計が露見したと思い、猜疑心が生じ、軍が迫って来ると聞くと、西の方向を向いて病気と称して沮と漳に戻り、軍が沮に迫ると、また江陽に戻りましたが、李平の参軍狐忠が熱心に諫めてやっと止まりました。今、 簒奪 の賊は未だ滅びず、 社稷 は多くの困難に直面しており、国事は和合によってのみ勝利を得ることができ、包容して大業を危うくすることはできません。ここに、行中軍師車騎將軍都郷侯の臣劉琰、使持節前軍師征西大將軍領涼州 刺史 南鄭侯の臣魏延、前將軍都亭侯の臣袁綝、左將軍領荊州 刺史 高陽郷侯の臣呉壹、督前部右將軍玄郷侯の臣高翔、督後部後將軍安樂亭侯の臣呉班、領長史綏軍將軍の臣楊儀、督左部行中監軍揚武將軍の臣鄧芝、行前監軍征南將軍の臣劉巴、行中護軍偏將軍の臣費禕、行前護軍偏將軍漢成亭侯の臣許允、行左護軍篤信中郎將の臣丁咸、行右護軍偏將軍の臣劉敏、行護軍征南將軍當陽亭侯の臣姜維、行中典軍討虜將軍の臣上官雝、行中參軍昭武中郎將の臣胡濟、行參軍建義將軍の臣閻晏、行參軍偏將軍の臣爨習、行參軍裨將軍の臣杜義、行參軍武略中郎將の臣杜祺、行參軍綏戎都尉の盛勃、領從事中郎武略中郎將の臣樊岐らと協議し、直ちに李平の任を解き、官職・俸禄・節伝・印綬・符策を免じ、その爵位と封土を削除する。」)そこで李平を庶人に落とし、梓潼郡に移住させた。(諸葛亮はまた李平の子の李豊に教書を送って言った。「私はあなたの父子と力を合わせて漢王室を助けてきました。これは神明が聞き知るところであり、ただ人が知るだけではありません。都護に漢中を統轄させ、あなたを東関に任じたのは、人と相談したことではありません。真心が感動させ、終始保つことができると思っていましたが、どうして途中で乖離することになろうとは。昔、楚の卿はたびたび罷免されましたが、やがて復帰しました。道理を思えば福が来る、これは自然の理数に応じたものです。どうか都護を慰め、以前の過ちを悔い改めるよう努めてください。今は任を解かれ、地位と家業を失いましたが、奴婢や賓客は百数十人おり、あなたは中郎参軍として府に仕え、同類と比べても、まだ上流の家柄です。もし都護が過ちを悔い一意に努めるなら、あなたと公琰(蒋琬)が心を開いて事に当たれば、否もまた通じ、去ったものもまた戻ってくるでしょう。この戒めを詳しく考え、私の心遣いを理解してください。手紙を前にため息をつき、ただ涙を流すばかりです。」)
建興十二年、李平は諸葛亮の死を聞くと、発病して死んだ。李平は常に、諸葛亮が自ら自分の地位を回復させてくれるだろうと期待し、後任の者にはそれができないと考えていたので、激しい憤りを抱いていたのである。(習鑿歯が言う。昔、管仲が伯氏から駢邑三百を奪ったが、伯氏は死ぬまで怨み言を言わなかった。聖人ですらこれを難しいことと考えた。諸葛亮が廖立をして涙を流させ、李平をして死に至らしめたのは、ただ怨み言がないだけではない。水は極めて平らで、邪な者もこれを手本とし、鏡は極めて明らかで、醜い者も怒らない。水や鏡が物事を究明しても怨まれないのは、私心がないからである。水や鏡のような私心さえなければ、誹謗を免れることができる。ましてや大人君子が生きることを喜ぶ心を持ち、哀れみと寛恕の徳を流布し、法を行わざるを得ない時にのみ行い、刑罰を自ら犯した罪に加え、爵位を与えても私心でなく、誅殺しても怒らせず、天下に服さない者がいるだろうか。諸葛亮はここにおいて刑罰を用いることができると言えよう。秦、漢以来、このような者はなかった。)李豊の官位は朱提太守に至った。(蘇林の『漢書音義』によると、朱は銖と発音し、提は北方で匙を提と呼ぶように発音する。)
劉琰は字を威碩といい、魯国の人である。先主が 豫 州にいた時、従事として召し抱えられ、同姓であること、風流があり、談論が巧みなことから、厚く親しく遇され、その後も付き従い、常に賓客として仕えた。先主が益州を平定すると、劉琰を固陵太守とした。後主が即位すると、都郷侯に封じられ、序列は常に李厳に次ぎ、衛尉中軍師後將軍となり、車騎將軍に昇進した。しかし国政には関与せず、ただ千余りの兵を率いて、丞相諸葛亮に付き従い、諷諫や議論をするだけだった。車や衣服、飲食は贅沢で豪華と評され、侍女は数十人いて、皆音楽ができ、さらに全員に魯霊光殿賦を誦読するよう教えた。建興十年、前軍師の魏延と不和になり、言葉が虚偽で誇大であったため、諸葛亮に責められた。劉琰は諸葛亮に手紙を送って謝罪して言った。「劉琰は生まれつき中身がなく、もともと操行が浅薄で、加えて酒に溺れる病があり、先帝以来、さまざまな議論が起こり、ほとんど身が滅びそうになりました。明公は私が一心に国に尽くしていることをご理解くださり、私の身の中の穢れや汚れを許し、支え助けて全うさせ、禄と地位を与えて、今日に至らせてくださいました。近ごろは迷い酔い、言葉に誤りがありましたが、慈愛の恩情で忍耐し、法に問うことなく、私を全うさせ、生命を保ち育ててくださいました。必ずや己を克し、自らを責め、過ちを改めて死をもって神霊に誓いますが、もし命を用いることがなければ、面目も立ちません。」そこで諸葛亮は劉琰を成都に帰還させたが、官位は元のままだった。
劉琰は失意してぼんやりしていた。建興十二年正月、劉琰の妻の胡氏が太后に祝賀の挨拶に入ると、太后は特に胡氏を留めさせ、一ヶ月経ってから出した。胡氏は美しい容姿を持っており、劉琰は彼女が後主と私通しているのではないかと疑い、(兵卒)五百人を呼んで胡氏を殴打させ、さらに履で顔を打ち据え、その後追い出した。胡氏はことごとく劉琰のことを告発したため、劉琰は罪に問われて獄に下された。役人の議決はこうだった。「兵卒は妻を殴打する者ではなく、顔は履を受ける場所ではない。」劉琰はついに市で処刑された。これ以降、大臣の妻や母が朝賀に参加することは絶えた。
魏延は字を文長といい、義陽の人である。部曲として先主(劉備)に従い蜀に入り、幾度も戦功を立て、牙門将軍に昇進した。先主が漢中王となると、本拠を成都に移したが、重将を得て漢川を鎮守させる必要があり、衆論は必ず張飛がなるだろうとし、張飛も内心そうなるだろうと自認していた。先主はそこで魏延を抜擢して督漢中鎮遠将軍とし、漢中太守を兼任させたので、全軍がみな驚いた。先主は群臣を大いに集め、魏延に問うて言った。「今、卿に重任を委ねるが、卿はこれに臨んでどうしたいか」。魏延は答えて言った。「もし曹操が天下の兵を挙げて来るなら、大王のためにこれを防ぎます。偏将が十万の軍勢を率いて来るなら、大王のためにこれを呑み込みます」。先主は善しとし、衆人もみなその言葉に勇気づけられた。先主が帝位に即くと、鎮北将軍に進んだ。建興元年、都亭侯に封ぜられた。五年、諸葛亮が漢中に駐屯すると、さらに魏延を督前部とし、丞相司馬・涼州 刺史 を兼任させた。八年、魏延を西進させて 羌 中に入らせると、魏の後将軍費瑤・雍州 刺史 郭淮が魏延と陽谿で戦い、魏延は郭淮らを大破し、前軍師・征西大将軍に昇進し、仮節を与えられ、南鄭侯に進封された。
魏延は諸葛亮に従って出陣するたびに、常に兵一万を請い、諸葛亮と別道を進んで潼関で合流し、韓信の故事のようになりたいと願ったが、諸葛亮は制して許さなかった。魏延は常に諸葛亮を臆病だと言い、自分の才能が十分に活用されないことを嘆き恨んだ。魏延は兵士をよく養い、勇猛で人に勝り、また性格が傲慢で高ぶっていたため、当時の人々はみな彼を避けて譲った。ただ楊儀だけが魏延に遠慮せず、魏延はこれを非常に憤り、水と火のようになった。十二年、諸葛亮が北谷口から出陣すると、魏延は前鋒となった。諸葛亮の本営から十里出たところで、魏延は夢に頭に角が生えるのを見た。占夢の趙直に問うと、趙直は魏延を欺いて言った。「麒麟には角があるが用いません。これは戦わずして賊が自ら敗れる兆しです」。退いて人に告げて言った。「角という字は、刀の下に用いるもの。頭の上に刀を用いるとは、その凶事は甚だしい」。
秋、諸葛亮が病に倒れ、密かに長史楊儀・司馬費禕・護軍姜維らと、自分が死んだ後の退軍の手順について計画し、魏延に後衛を務めさせ、姜維をその次とし、もし魏延が命令に従わないようなことがあれば、軍は自ら出発するように命じた。諸葛亮がちょうど亡くなると、喪を秘して発せず、楊儀は費禕を遣わして魏延の意向を探らせた。魏延は言った。「丞相は亡くなられたが、私はまだ生きている。丞相府の親官属は喪を奉じて帰還し埋葬すればよい。私は自ら諸軍を率いて賊を撃つ。どうして一人の死によって天下の大事を廃止できようか。かつて魏延は何者か、楊儀に統率され、後衛の将となるべきか」。そこで費禕と共に行軍と残留の部署分けをし、費禕に手紙を書かせて自分と連名とし、諸将に告げ知らせた。費禕は魏延を欺いて言った。「あなたのために戻って楊長史を説得しましょう。長史は文官で、軍事に慣れておらず、必ず命令に背くことはありません」。費禕は門を出て馬を駆って去り、魏延はすぐに後悔したが、追いかけてももう及ばなかった。魏延は人を遣わして楊儀らの様子を窺わせると、彼らが諸葛亮の定めた規程に従って、諸営が相次いで軍を返そうとしていることを知った。魏延は大いに怒り、楊儀がまだ出発しないうちに、率いる兵を連れて真っ先に南へ帰還し、通過する場所の閣道を焼き断った。魏延と楊儀は互いに叛逆を上奏し、一日のうちに緊急の檄文が交錯した。後主は侍中董允・留府長史蔣琬に問うと、蔣琬と董允はともに楊儀を保証し魏延を疑った。楊儀らは山を切り開いて道を通し、昼夜兼行で進み、魏延の後を追った。魏延が先に到着し、南谷口を占拠し、兵を遣わして楊儀らを迎え撃った。楊儀らは何平を前に出して魏延を防がせた。何平は魏延を前にして叱りつけて言った。「公(諸葛亮)が亡くなり、その身もまだ冷たくないのに、お前たちはどうしてこのようなことをするのか」。魏延の兵士たちは理が魏延にないことを知り、誰も命を懸けて戦おうとせず、軍はみな散り散りになった。魏延はただその子数人と逃亡し、漢中へ奔った。楊儀は馬岱を遣わして追撃させ斬らせ、その首を楊儀のもとに届けた。楊儀は立ち上がって自らそれを踏みつけ、言った。「愚かな奴め、また悪事を働けるか」。そこで魏延の三族を誅滅した。初め、蔣琬は宿衛の諸営を率いて難に赴くため北へ向かい、数十里進んだところで、魏延の死の知らせが届き、そこで引き返した。もとより魏延の意図は北へ降って魏に付くのではなく南へ帰還したのは、ただ楊儀らを除き殺そうとしただけである。平素から諸将とは意見が合わず、当時の議論が必ず自分が諸葛亮の後継となるだろうと期待していた。本来の意図はこのようなものであり、容易に背叛したわけではない。
楊儀は字を威公といい、襄陽の人である。建安年間、荊州 刺史 傅群の主簿となり、傅群を裏切って襄陽太守関羽のもとに赴いた。関羽は彼を功曹に任命し、使者として西の先主のもとに赴かせた。先主が彼と軍国計策や政治の得失について語り合うと、大いに喜び、左将軍兵曹掾に任用した。先主が漢中王となると、楊儀を抜擢して尚書とした。先主が帝号を称し、呉を東征するとき、楊儀は 尚書令 劉巴と不仲になり、左遷されて遥かに弘農太守に任命された。建興三年、丞相諸葛亮は彼を参軍とし、丞相府の事務を担当させ、南征に従軍させた。五年、諸葛亮に従って漢中に入った。八年、長史に昇進し、綏軍将軍を加えられた。諸葛亮が幾度も軍を出すとき、楊儀は常に部署の計画を立て、兵糧を計算し、考え悩むことなく、たちまちに処理した。軍の規律や手配は、楊儀によって整えられた。諸葛亮は楊儀の才幹を深く惜しみ、魏延の勇猛を頼りとし、常に二人が仲違いしていることを残念に思い、どちらかを疎かにすることを忍びなかった。十二年、諸葛亮に従って谷口に出て駐屯した。諸葛亮が敵地で亡くなると、楊儀は軍を率いて帰還し、さらに魏延を誅討した後、自ら功勳が極めて大きいと考え、当然諸葛亮に代わって政権を執るべきだと思い、都尉趙正に周易で占わせたところ、家人の卦を得て、黙然として喜ばなかった。諸葛亮は平生密かに、楊儀の性格が偏狭であることを指摘し、蔣琬を後継に意を注いでいたので、蔣琬は 尚書令 ・益州 刺史 となった。楊儀が到着すると、中軍師に任命されたが、統率する部隊はなく、閑職に過ぎなかった。
初め、楊儀は先主(劉備)の尚書となり、蔣琬は尚書郎となった。後に二人とも丞相(諸葛亮)の参軍長史となったが、楊儀は諸葛亮に従って出征するたびに、労苦の多い任務を担当し、自分は蔣琬より年功が上で才能も彼を超えていると思い、それゆえに怨憤の色を声や表情に表し、嘆き悔やむ声を内から発していた。当時の人々は彼の言葉遣いが節度を欠くのを恐れ、敢えて近づく者はいなかったが、ただ後軍師の費禕だけが彼を慰めに訪れた。楊儀は費禕に対し恨みと不満を述べ、前後してさまざまなことを言い、また費禕に言った。「かつて丞相(諸葛亮)が亡くなった時、私が全軍を率いて魏に帰順していたならば、世を処することどうしてこのように落ちぶれたものになっていただろうか!今となっては後悔しても取り返しがつかない。」費禕は密かにこの言葉を上奏した。建興十三年(235年)、楊儀は庶民に落とされ、漢嘉郡に流された。楊儀が流刑地に到着すると、再び上書して誹謗の言葉を述べ、その内容は激しく痛烈であったため、ついに郡に命じて楊儀を逮捕させた。楊儀は自殺し、その妻子は蜀に帰った。〈『楚國先賢傳』によると、楊儀の兄の楊慮は字を威方といい、若い頃から徳行があり、江南で最も優れた人物とされた。州郡が礼を尽くして召し出し、諸公が辟召を請うたが、いずれも彼を屈伏させることはできなかった。十七歳で夭折し、郷里の人々は彼を「徳行の楊君」と称したという。〉
評するに、劉封は嫌疑を受ける立場にありながら、身を守るための思慮と防備が十分ではなかった。彭羕と廖立は才能によって抜擢され、李厳はその才幹と器量によって出世し、魏延は勇略によって重任を担い、楊儀は職務に適任であることで顕著となり、劉琰は以前からの仕官で、皆、重んじられ地位も高かった。彼らの行動を観察し、その行いの跡を辿れば、禍を招き咎を取ったのは、いずれも自ら招いたものである。