三国志

蜀しょく書七 龐統法正傳

龐統は字を士元といい、襄陽の人である。幼い頃は朴訥で、彼を認める者はなかった。潁川の司馬徽は清雅で人を見抜く眼力があり、龐統が弱冠で彼を訪ねると、徽は桑の木の上で桑を摘み、龐統を木の下に座らせ、昼から夜まで語り合った。徽は彼を大いに異才と認め、龐統は南州の士の筆頭であると称賛した。これにより次第に名声が知られるようになった。後に郡から功曹に任命された。性格は人倫を好み、人材の育成に励んだ。彼が称賛する人物は、しばしばその才能を過大評価していたため、当時の人々は怪しんで尋ねた。龐統は答えて言った。「今、天下は大乱し、正道は廃れ、善人は少なく悪人が多い。風俗を興し、道義の業を伸ばそうとするならば、その評判を良くしなければ名声は慕われるに足らず、慕われなければ善を行う者は少なくなる。今、十人を抜擢して五人を見誤っても、なお半数は得られる。それで世の教化を高め、志ある者を自ら奮い立たせることができるなら、それでよいではないか。」呉の将軍周瑜が先主(劉備)を助けて荊州を取った時、龐統は南郡太守を兼任した。周瑜が亡くなると、龐統は喪に服して呉まで行き、呉の人々の多くは彼の名声を聞いていた。西へ帰る時、昌門で一同が集まり、陸績、顧劭、全琮も皆訪れた。龐統は言った。「陸子は駑馬ながらも速く走る力があると言え、顧子は駑牛ながら重荷を背負って遠くまで行けると言えよう。」全琮に対しては言った。「あなたは施しを好み名声を慕う点で、汝南の樊子昭に似ている。知力は多くないが、これもまた一時の優れた人物である。」陸績と顧劭は龐統に言った。「もし天下が太平になったなら、あなたと共に天下の士を評価しよう。」深く龐統と結び付いて帰った。(『襄陽記』に曰く、諸葛孔明は臥龍、龐士元は鳳雛、司馬徳操は水鏡と呼ばれ、いずれも龐徳公の言葉である。徳公は襄陽の人。孔明は毎回その家に至り、独り床下に拝したが、徳公は初め止めさせなかった。徳操はかつて徳公を訪ねたが、ちょうど徳公が沔水を渡り、先祖の墓を祀りに行くところであった。徳操はまっすぐその室に入り、徳公の妻子を呼び、急いで黍を作るよう命じ、「徐元直が先ほど、客が私と龐公のところに来ると言っていた」と言った。その妻子は皆堂下に列んで拝し、奔走して供設した。しばらくして徳公が戻り、まっすぐ入って相対したが、どちらが客かわからなかった。徳操は徳公より十歳年下で、兄として仕え、龐公と呼んだ。それゆえ世の人は龐公が徳公の名だと言うが、そうではない。徳公の子の山民もまた令名があり、諸葛孔明の姉を娶り、魏の黄門吏部郎となったが、早くに卒した。子の渙は字を世文といい、晋の太康中に牂牁太守となった。龐統は徳公の従子で、若い頃は認める者がなく、ただ徳公だけが彼を重んじ、十八歳の時、徳操に会いに行かせた。徳操は彼と語り、やがて嘆いて「徳公は誠に人を知る。これは実に盛徳である」と言った。張勃『呉録』に曰く、ある人が龐統に「あなたの評価によれば、陸子の方が勝っているのか」と問うた。龐統は「駑馬は精であっても、致すところ一人のみ。駑牛は一日に三百里を行き、致すところはどうして一人の重さだけであろうか」と言った。顧劭は龐統の宿に赴き、語らい、そこで問うた。「卿は人を知る名があるが、私と卿とどちらが優れているか。」龐統は「世俗を陶冶し、人物を甄綜することは、私は卿に及ばない。帝王の秘策を論じ、倚伏の要最を攬ることでは、私は一日の長があるようだ」と言った。顧劭はその言葉を安んじて彼に親しんだ。蔣済『万機論』に曰く、許子将は褒貶が公平でなく、樊子昭を抜擢して許文休を抑えた。劉曄は「子昭は賈豎から抜擢され、年は耳順に至り、退いては静を守り、進んでは苟くせず」と言った。蔣済は答えて「子昭は誠に長幼完潔であるが、その歯牙を臿き、頬胲を樹て、脣吻を吐く様を見れば、文休の敵ではない」と言った。胲の音は改。)

原文龐統字士元,襄陽人也。少時樸鈍,未有識者。潁川司馬徽清雅有知人鑒,統弱冠往見徽,徽採桑於樹上,坐統在樹下,共語自晝至夜。徽甚異之,稱統當南州士之冠冕,由是漸顯。〈《襄陽記》曰:諸葛孔明為臥龍,龐士元為鳳雛,司馬德操為水鏡,皆龐德公語也。德公,襄陽人。孔明每至其家,獨拜床下,德公初不令止。德操嘗造德公,值其渡沔,上祀先人墓,德操徑入其室,呼德公妻子,使速作黍,「徐元直向云有客當來就我與龐公譚。」其妻子皆羅列拜於堂下,奔走供設。須臾,德公還,直入相就,不知何者是客也。德操年小德公十歲,兄事之,呼作龐公,故世人遂謂龐公是德公名,非也。德公子山民,亦有令名,娶諸葛孔明小姊,為魏黃門吏部郎,早卒。子渙,字世文,晉太康中為牂牁太守。統,德公從子也,少未有識者,惟德公重之,年十八,使往見德操。德操與語,既而嘆曰:「德公誠知人,此實盛德也。」〉後郡命為功曹。性好人倫,勤於長養。每所稱述,多過其才,時人怪而問之,統答曰:「當今天下大亂,雅道陵遲,善人少而惡人多。方欲興風俗,長道業,不美其譚即聲名不足慕企,不足慕企而為善者少矣。今拔十失五,猶得其半,而可以崇邁世教,使有志者自勵,不亦可乎?」吳將周瑜助先主取荊州,因領南郡太守。瑜卒,統送喪至吳,吳人多聞其名。及當西還,並會昌門,陸勣、顧劭、全琮皆往。統曰:「陸子可謂駑馬有逸足之力,顧子可謂駑牛能負重致遠也。」〈張勃吳錄曰:或問統曰:「如所目,陸子為勝乎?」統曰:「駑馬雖精,所致一人耳。駑牛一日行三百里,所致豈一人之重哉!」劭就統宿,語,因問:「卿名知人,吾與卿孰愈?」統曰:「陶冶世俗,甄綜人物,吾不及卿;論帝王之秘策,攬倚伏之要最,吾似有一日之長。」劭安其言而親之。〉謂全琮曰:「卿好施慕名,有似汝南樊子昭。〈蔣濟《萬機論》云許子將褒貶不平,以拔樊子昭而抑許文休。劉曄曰:「子昭拔自賈豎,年至耳順,退能守靜,進能不苟。」濟答曰:「子昭誠自長幼完潔,然觀其臿齒牙,樹頰胲,吐脣吻,自非文休敵也。」胲音改。〉雖智力不多,亦一時之佳也。」績、劭謂統曰:「使天下太平,當與卿共料四海之士。」深與統相結而還。

先主が荊州を領有すると、龐統は従事として耒陽県令を代行したが、県を治めず、免官された。呉の将軍魯肅が先主に手紙を送って言った。「龐士元は百里(小さな県)を治める才ではありません。治中や別駕の任に就かせて初めて、その驥足(優れた才能)を発揮させるでしょう。」諸葛亮も先主に彼のことを言上し、先主は龐統と会って良く語り合い、大いに重用し、治中従事とした。諸葛亮に次いで親しく遇され、ついに諸葛亮と共に軍師中郎将となった。諸葛亮は荊州に留まって鎮守し、龐統は従って蜀に入った。(『江表伝』に曰く、先主は龐統とゆったりと宴語し、問うて言った。「卿は周公瑾の功曹であったが、私が呉に到った時、この人(周瑜)が密かに白事し、仲謀(孫権)に私を留めるよう勧めたと聞いたが、あったか。君のために君に仕えるのだから、隠すことはない。」龐統は答えて「ありました」と言った。劉備は嘆息して言った。「私は時に危急で、求めるべきものがあったため、どうしても行かねばならず、危うく周瑜の手を免れなかった。天下の智謀の士は、見るところがほぼ同じである。その時孔明は私に行くなと諫め、その意は特に篤く、またこれを慮っていた。私は仲謀が防ぐところは北にあり、私を頼って援とするはずだから、決意して疑わなかった。これは誠に険しい道に出たもので、万全の計ではない。」『九州春秋』に曰く、龐統は劉備を説いて言った。「荊州は荒残し、人物は殫尽し、東に呉の孫、北に曹氏があり、鼎足の計では志を得るのは難しい。今、益州は国富み民強く、戸口は百万、四部の兵馬、出ずるところ必ず具わり、宝貨は外に求めることなく、今、権に藉って大事を定めるべきです。」劉備は言った。「今、私と水火を指す者は曹操である。操は急をもってし、私は寛をもってす。操は暴をもってし、私は仁をもってす。操は譎をもってし、私は忠をもってす。毎に操と反する時、事は乃ち成る。今、小さな故をもって天下に信義を失うことは、私の取らないところである。」龐統は言った。「権変の時は、固より一道で定めることはできない。弱を兼ね昧を攻めるは、五伯の事である。逆取順守し、義をもってこれに報い、事定まった後、大国に封ずることは、何が信に負うところがあろうか。今日取らなければ、終に人の利となるのみである。」劉備は遂に行った。)

原文先主領荊州,統以從事守耒陽令,在縣不治,免官。吳將魯肅遺先主書曰:「龐士元非百里才也,使處治中、別駕之任,始當展其驥足耳。」諸葛亮亦言之於先主,先主見與善譚,大器之,以為治中從事。〈江表傳曰:先主與統從容宴語,問曰:「卿為周公瑾功曹,孤到吳,聞此人密有白事,勸仲謀相留,有之乎?在君為君,卿其無隱。」統對曰:「有之。」備嘆息曰:「孤時危急,當有所求,故不得不往,殆不免周瑜之手!天下智謀之士,所見略同耳。時孔明諫孤莫行,其意獨篤,亦慮此也。孤以仲謀所防在北,當賴孤為援,故決意不疑。此誠出於險塗,非萬全之計也。」〉親待亞於諸葛亮,遂與亮併為軍師中郎將。〈《九州春秋》曰:統說備曰:「荊州荒殘,人物殫盡,東有吳孫,北有曹氏,鼎足之計,難以得志。今益州國富民強,戶口百萬,四部兵馬,所出必具,寶貨無求於外,今可權藉以定大事。」備曰:「今指與吾為水火者,曹操也,操以急,吾以寬;操以暴,吾以仁;操以譎,吾以忠;每與操反,事乃可成耳。今以小故而失信義於天下者,吾所不取也。」統曰:「權變之時,固非一道所能定也。兼弱攻昧,五伯之事。逆取順守,報之以義,事定之後,封以大國,何負於信?今日不取,終為人利耳。」備遂行。〉亮留鎮荊州。統隨從入蜀。

益州牧の劉璋が先主(劉備)と涪で会見したとき、龐統は進言して策を述べた。「今この会見の機に乗じて、ただちに彼を捕らえれば、将軍は兵を用いる労苦なくして一州を平定できます。」先主は言った。「他国に入ったばかりで、恩信はまだ明らかでない。これはできないことだ。」劉璋が成都に帰った後、先主は劉璋のために北進して漢中を征討しようとしたとき、龐統はまた説いた。「ひそかに精兵を選び、昼夜兼行で道を急ぎ、まっすぐ成都を襲撃する。劉璋は武勇に優れず、また平素から備えがないので、大軍が突然到着すれば、一挙に平定できる。これが上計である。楊懐と高沛はいは、劉璋の名将で、それぞれ強兵を頼みとして関所を守っている。彼らがたびたび書簡で劉璋を諫め、将軍を荊州に帰還させるよう勧めたと聞いている。将軍が(成都に)到着する前に、彼らに連絡をとり、荊州に急事があり帰還して救援したいと伝え、同時に装備を整え、外見上は帰還する様子を見せる。この二人は将軍の英名に敬服しており、また将軍が去ることを喜ぶので、必ず軽騎で乗り出して会いに来るだろう。将軍はその機に乗じて彼らを捕らえ、その兵を奪い取り、それから成都に向かう。これが中計である。白帝に退き、荊州と連絡をとり、ゆっくりと図る。これが下計である。もしぐずぐずして去らずにいれば、大きな窮地に陥り、長くは保てないだろう。」先主はその中計をよしとし、ただちに楊懐と高沛を斬り、成都に向かって進軍し、通過する地をことごとく攻略した。涪で盛大な宴会を開き、酒を設けて音楽を奏で、龐統に言った。「今日の宴会は、楽しいと言えるだろう。」龐統は言った。「人の国を討伐しておいて楽しむとは、仁者の兵とは言えません。」先主は酔って怒り、「武王が紂を討ったとき、前では歌い後ろでは舞ったが、それは仁者ではないのか? 卿の言は正しくない。さっさと立ち去れ!」そこで龐統はためらいながら退席した。先主はまもなく後悔し、彼を呼び戻した。龐統は元の席に戻ったが、最初から謝罪するそぶりも見せず、飲食は普段と変わらなかった。先主が言った。「さきほどの議論では、どちらが間違っていたのか?」龐統は答えた。「君臣ともに間違っておりました。」先主は大笑いし、宴会は以前と同じように楽しく続いた。(習鑿歯が言う。覇王たる者は、必ず仁義を根本とし、信義と順理を依り所とすべきである。一つでも欠ければ、その道は損なわれる。今、劉備は劉璋の土地を襲って奪い、権謀によって業を成そうとしている。信義に背き情理に反し、徳義ともに欠けている。功績はこれによって大きくなったが、その失敗を大いに傷むべきである。たとえ手を切って体を全うしたとしても、何の楽しみがあろうか? 龐統はこの言葉が漏れることを恐れ、主君が必ず悟ることを知っていたので、大勢の前でその過ちを正し、常套の謙譲の道をとらず、あえて堂々と正しいことを行い、その率直な諫言の風格を尽くしたのである。主君が過ちを犯しても正すことができれば、それは臣下がいる証である。正しい意見を受け入れても固執しなければ、それは道理に従うことである。臣下がいれば朝廷は高く栄え、道理に従えば群臣の策はすべて用いられる。一言で三つの善がともに明らかになり、一時の諫言で正義が百代に輝く。まさに大要をわきまえていると言えよう。もし小さな過失を惜しんで大きな利益を廃し、この過言を誇って自ら正しい意見から遠ざかるならば、業を成し務めを済ませることができる者はいない。臣の松之は考える。劉璋を襲撃する謀略は、龐統の出した計略ではあるが、正義に背いて成功したのは、もともと詭道によるものである。心にやましさがあれば、楽しむ気持ちも自然に収まる。だから劉備が楽しみを称える言葉を聞くと、思わず軽率に答えてしまったのである。劉備は宴会に酔って時宜を失い、楽禍と同様のことをし、自ら武王に比べて少しも恥じる色がなかった。これは劉備に非があり龐統に過失はない。彼が「君臣ともに間違っていた」と言ったのは、おそらく非難を分かち合う言葉であろう。習氏の論は、大旨は間違っていないが、推演した言葉は、やや流れに任せすぎている。)

原文益州牧劉璋與先主會涪,統進策曰:「今因此會,便可執之,則將軍無用兵之勞而坐定一州也。」先主曰:「初入他國,恩信未著,此不可也。」璋既還成都,先主當為璋北征漢中,統復說曰:「陰選精兵,晝夜兼道,徑襲成都;璋既不武,又素無預備,大軍卒至,一舉便定,此上計也。楊懷、高沛,璋之名將,各仗強兵,據守關頭,聞數有箋諫璋,使發遣將軍還荊州。將軍未至,遣與相聞,說荊州有急,欲還救之,並使裝束,外作歸形;此二子既服將軍英名,又喜將軍之去,計必乘輕騎來見,將軍因此執之,進取其兵,乃向成都,此中計也。退還白帝,連引荊州,徐還圖之,此下計也。若沈吟不去,將致大困,不可久矣。」先主然其中計,即斬懷、沛,還向成都,所過輒克。於涪大會,置酒作樂,謂統曰:「今日之會,可謂樂矣。」統曰:「伐人之國而以為歡,非仁者之兵也。」先主醉,怒曰:「武王伐紂,前歌后舞,非仁者邪?卿言不當,宜速起出!」於是統逡巡引退。先主尋悔,請還。統復故位,初不顧謝,飲食自若。先主謂曰:「向者之論,阿誰為失?」統對曰:「君臣俱失。」先主大笑,宴樂如初。〈習鑿齒曰:夫霸王者,必體仁義以為本,仗信順以為宗,一物不具,則其道乖矣。今劉備襲奪璋土,權以濟業,負信違情,德義俱愆,雖功由是隆,宜大傷其敗,譬斷手全軀,何樂之有?龐統懼斯言之泄宣,知其君之必悟,故眾中匡其失,而不脩常謙之道,矯然太當,盡其蹇諤之風。夫上失而能正,是有臣也,納勝而無執,是從理也;有臣則陛隆堂高,從理則群策畢舉;一言而三善兼明,暫諫而義彰百代,可謂達乎大體矣。若惜其小失而廢其大益,矜此過言,自絕遠讜,能成業濟務者,未之有也。臣松之以為謀襲劉璋,計雖出於統,然違義成功,本由詭道,心既內疚,則歡情自戢,故聞備稱樂之言,不覺率爾而對也。備宴酣失時,事同樂禍,自比武王,曾無愧色,此備有非而統無失,其云「君臣俱失」,蓋分謗之言耳。習氏所論,雖大旨無乖,然推演之辭,近為流宕也。〉

(劉備軍は)雒県を包囲して攻撃し、龐統は兵を率いて城を攻めたが、流れ矢に当たって戦死した。時に三十六歳であった。先主は痛惜し、言うたびに涙を流した。龐統の父を議郎に任命し、後に諫議大夫に昇進させた。諸葛亮が自ら彼に拝礼した。龐統に追って関内侯の爵位を賜り、諡を靖侯とした。龐統の子の龐宏は、字を巨師といい、剛直で簡潔、人物評に優れていたが、尚書令しょうしょれいの陳祗を軽んじ傲慢であったため、陳祗に抑えられ、涪陵太守の任で死去した。龐統の弟の龐林は、荊州治中従事として鎮北将軍の黄権に従い呉を征討したが、軍が敗北したため、黄権に従って魏に入った。魏で列侯に封じられ、鉅鹿太守に至った。(『襄陽記』に言う。龐林の妻は、同郡の習禎の妹である。習禎の事績は楊戯の『輔臣賛』にある。曹公が荊州を破ったとき、龐林の妻は龐林と離れ離れになり、幼い娘を養い守ること十余年、後に龐林が黄権に従って魏に降ったとき、ようやく再び集まることができた。魏の文帝はこれを聞いて彼女を賢女とし、寝台の帳や衣服を賜り、その節義を顕彰した。)

原文進圍雒縣,統率眾攻城,為流矢所中,卒,時年三十六。先主痛惜,言則流涕。拜統父議郎,遷諫議大夫,諸葛亮親為之拜。追賜統爵關內侯,諡曰靖侯。統子宏,字巨師,剛簡有臧否,輕傲尚書令陳袛,為袛所抑,卒於涪陵太守。統弟林,以荊州治中從事參鎮北將軍黃權征吳,值軍敗,隨權入魏,魏封列侯,至鉅鹿太守。〈《襄陽記》曰:林婦,同郡習禎妺。禎事在楊戲《輔臣贊》。曹公之破荊州,林婦與林分隔,守養弱女十有餘年,後林隨黃權降魏,始復集聚。魏文帝聞而賢之,賜床帳衣服,以顯其義節。〉

法正は字を孝直といい、(右)扶風郡郿県の人である。祖父の法真は、清い節操と高い名声があった。(『三輔決録注』に言う。法真は字を高卿といい、若くして五経に明るく、讖緯にも通じ、学ぶのに常師はなく、高い才能で名を知られた。常に幅巾をかぶって扶風太守に会いに行くと、太守は言った。「哀公は不肖ではあるが、なお仲尼を臣とし、柳下恵は父母の国を去らなかった。あなたを功曹に任じたいと思うがどうか?」法真は言った。「明府が礼をもって遇してくださるので、四季の折に参上しているのです。もし役人として使おうとなさるなら、私は北山の北、南山の南に行くつもりです。」扶風太守はついに彼を役人にしようとはしなかった。初め、法真がまだ弱冠に達しない頃、父が南郡におり、歩いて父を訪ねた。すでに帰ろうとしたとき、父が彼を留めて正月の朝まで待たせ、役人たちの朝会を見させた。会する者は数百人に及んだ。法真は窓から彼らが父と話すのを覗いていた。終わってから、父が「誰が賢者か?」と尋ねると、法真は言った。「曹掾の胡広に公卿の器量があります。」その後、胡広は果たして九卿・三公の地位を歴任し、世間は法真の人物眼に敬服した。前後して招聘されたが、いずれも就かず、友人郭正らは彼を称え、玄徳先生と号した。八十九歳で、中平五年に死去した。法正の父の法衍は、字を季謀といい、司徒しと掾・廷尉左監を務めた。)建安の初め、天下が飢饉に見舞われたとき、法正は同郡の孟達とともに蜀に入り劉璋に身を寄せた。しばらくして新都県令となり、後に召し出されて軍議校尉こういに任命された。しかし重用されず、また同じ州や郷里から来た寄寓の客たちから無行であると誹謗されたため、志を得ることができなかった。益州別駕の張松は法正と親しく、劉璋は共に事を為すに足りないと推し量り、常にひそかに嘆息していた。張松が荊州で曹公(曹操)に会って帰還した後、劉璋に曹公と絶交して先主(劉備)と結ぶよう勧めた。劉璋が「誰を使者にすべきか?」と言うと、張松は法正を推挙した。法正は辞退したが、やむを得ず行った。法正が帰還すると、張松に先主には雄大な謀略があると称賛して話し、密かに謀り協力して計画を立て、共に戴き奉りたいと願ったが、機会がなかった。後に劉璋が、曹公が将を遣わして張魯を征討しようとしていると聞いて恐れをなしたため、張松はついに劉璋に先主を迎え入れ、彼に張魯を討たせるべきだと説き、再び法正に命を伝えさせた。法正は旨を伝えた後、ひそかに先主に献策して言った。「明将軍の英才をもって、劉牧(劉璋)の懦弱に乗じ、張松は州の股肱の臣として内で呼応します。そのうえで益州の豊かさを頼りとし、天府の険阻な地勢を依り所として、これによって業を成すのは、手のひらを返すようなものです。」先主はこれをよしとし、長江を遡って西進し、劉璋と涪で会見した。北は葭萌まで進み、南に引き返して劉璋を攻め取った。

原文法正字孝直,(右)扶風郿人也。祖父真,有清節高名。〈三輔決錄注曰:真字高卿,少明五經,兼通讖緯,學無常師,名有高才。常幅巾見扶風守,守曰:「哀公雖不肖,猶臣仲尼,柳下惠不去父母之邦,欲相屈為功曹何如?」真曰:「以明府見待有禮,故四時朝覲,若欲吏使之,真將在北山之北南山之南矣。」扶風守遂不敢以為吏。初,真年未弱冠,父在南郡,步往候父,已欲去,父留之待正旦,使觀朝吏會。會者數百人,真於窗中闚其與父語。畢,問真「孰賢」?真曰:「曹掾胡廣有公卿之量。」其後廣果歷九卿三公之位,世以服真之知人。前後徵辟,皆不就,友人郭正等美之,號曰玄德先生。年八十九,中平五年卒。正父衍,字季謀,司徒掾、廷尉左監。〉建安初,天下饑荒,正與同郡孟達俱入蜀依劉璋,久之為新都令,後召署軍議校尉。既不任用,又為其州邑俱僑客者所謗無行,志意不得。益州別駕張松與正相善,忖璋不足與有為,常竊嘆息。松於荊州見曹公還,勸璋絕曹公而自結先主。璋曰:「誰可使者?」松乃舉正,正辭讓,不得已而往。正既還,為松稱說先主有雄略,密謀協規,原共戴奉,而未有緣。後因璋聞曹公欲遣將征張魯之有懼心也,松遂說璋宜迎先主,使之討魯,復令正銜命。正既宣旨,陰獻策於先主曰:「以明將軍之英才,乘劉牧之懦弱;張松,州之股肱,以響應於內;然後資益州之殷富,馮天府之險阻,以此成業,猶反掌也。」先主然之,溯江而西,與璋會涪。北至葭萌,南還取璋。

鄭度が劉璋に言った(『華陽国志』によると、鄭度は広漢の人で、州の従事であった)。「左将軍(劉備)は遠征軍で我が国を襲ってきたが、兵は一万に満たず、兵士たちはまだ心服しておらず、野原の穀物を頼りにし、軍には輜重がない。その対策としては、巴西・梓潼の民衆をすべて涪水以西に追いやり、その倉庫や野原の穀物をすべて焼き払い、高い塁壁と深い堀を築き、静かに待つことです。彼らが来て戦いを求めても、許してはならない。長く物資が得られなければ、百日も経たないうちに、必ず自ら退却するでしょう。退却したところを撃てば、必ず捕らえることができます。」先主(劉備)はこれを聞いて嫌がり、法正に尋ねた。法正は言った。「(劉璋は)結局これを用いることはできません。心配する必要はありません。」劉璋は果たして法正の言う通りで、配下の者たちに言った。「私は民を安んじて敵を防ぐとは聞いているが、民を動かして敵を避けるとは聞いていない。」そこで鄭度を罷免し、その計略を用いなかった。そして軍が雒城を包囲したとき、法正は劉璋に手紙を送って言った。「法正は生まれつき無能で、盟約を損ねてしまい、左右の者が事情を理解せず、必ずすべて私のせいにして、恥辱を負って身を滅ぼし、あなたにまで辱めが及ぶことを恐れ、そのため外に身を置き、敢えて戻って報告することができませんでした。あなたの耳が私の声を汚らわしく思うことを恐れ、その間は手紙を差し上げませんでしたが、かつての待遇を顧み、あなたを仰ぎ見ては心を痛めておりました。しかし前後して心の内を明かし、最初から終わりまで、実情を隠すことなく、言い尽くさなかったことはありませんが、ただ愚かで策が浅く、誠意が通じず、このような事態に至ってしまったのです。今、国事はすでに危険に瀕し、禍害はすぐそこに迫っています。私は外に追放されている身ですが、言葉は憎まれるだけでしょうが、それでもなお思いを極限まで述べて、残りの忠誠を尽くしたいと思います。明将軍(劉璋)の本心は、法正が知っている通りで、実はわずかながらも左将軍(劉備)の意に背きたくないと思っていたのに、ついにこのようになってしまったのは、左右の者が英雄と付き合う道を理解せず、信義に背き誓いを汚しても、気性で相手を引き寄せられると考え、月日が経つにつれ、耳に快く目に楽しいことだけを求め、へつらい従うだけで、遠い将来を考え国家の深い計略を図らなかったからです。事態が既に成ってしまった今、また強弱の勢いを量りもせず、左将軍が遠方から来た軍勢で、食糧の備蓄がなく、多勢で寡勢を撃とうと、長く対峙しようとしています。しかし(劉備軍は)関(葭萌関)からここまで来る途中、遭遇したところをすべて破り、離宮や別の屯営は日々零落しています。雒城には一万の兵がいますが、皆、敗れた陣の兵士、破られた軍の将であり、もし一朝の戦いを争おうとするなら、兵と将の勢力は、実は互いに見合いません。(劉璋軍の)各将が遠い将来を期して食糧を計算している今、この(劉備の)陣営はすでに堅固に守られ、穀物はすでに蓄積されており、明将軍の土地は日々削られ、百姓は日々困窮し、敵対する勢力は次第に増え、供給する範囲は遠く広くなっています。私の考えでは、(劉璋軍の食糧は)必ず先に尽き、もはや持久戦はできなくなるでしょう。何もせずに守っているだけでも、まだ耐えられないのに、今や張益徳(張飛)の数万の軍勢は、すでに巴東を平定し、犍為の境界に入り、資中・徳陽を分けて平定し、三方向から侵攻してきています。どうやって防ぐというのでしょうか。もともと明将軍のために策を立てる者は、必ずこの軍(劉備軍)は遠方から来て食糧がなく、補給が追いつかず、兵が少なくて援軍がないと言っていたでしょう。今、荊州への道は通じ、兵数は数十倍に増え、さらに孫車騎(孫権)が弟と李異・甘寧らを後続として派遣しています。もし客と主の勢いを争い、土地をもって勝敗を決しようとするなら、今や(劉備は)巴東を完全に領有し、広漢・犍為は半分以上が平定され、巴西一郡も、もはや明将軍のものではありません。考えてみれば、益州が頼りにしているのは蜀だけですが、蜀も破壊されました。三分の二を失い、役人や民衆は疲弊困窮し、乱を起こそうと思う者は十軒に八軒です。もし敵が遠ければ百姓は労役に耐えられず、敵が近ければ一朝にして主が変わってしまうでしょう。広漢の諸県が、その明白な例です。また魚復と関頭(白水関)は実に益州の福と禍の門であり、今や二つの門はすべて開かれ、堅固な城はすべて陥落し、諸軍はともに破られ、兵と将はともに尽き、敵方は数方向から同時に進軍し、すでに心腹の地に入り込み、成都や雒城に座して守るだけでは、存亡の勢いは明らかに見えています。これは大まかなところで、外に現れた比較できる事柄に過ぎず、その他の曲折した事情は、言葉で極めるのは難しいです。法正のような愚か者でさえ、この事態がもう挽回できないと知っているのに、ましてや明将軍の左右の明智で謀略を用いる士たちが、この道理を見ないはずがありませんか。彼らは日々一時の幸せを貪り、受け入れられ媚びを求め、遠大な計画を考えず、誰も真心を尽くして良策を献上しようとはしません。もし事態が行き詰まり勢いが迫れば、彼らはそれぞれ生き延びる道を求め、自分の家門を救おうとし、あれこれと裏切り、今の計画とは異なり、明将軍のために死ぬのは難しいでしょう。そしてあなたの家門はなおもその憂いを受けることになります。法正は不忠の誹りを受けるかもしれませんが、心の中では聖徳(劉璋の恩徳)に背いていないと思っており、ただ君臣の分と義理を顧みれば、実にひそかに心痛んでいます。左将軍(劉備)は本来の目的(益州救援)に従って来られ、以前の心は変わらず、実に薄情な意図はありません。愚かながら、変化を図り、あなたの家門を守ることができると考えます。」(孫盛は曰く、賢を礼し徳を崇ぶことは、邦の要道であり、墓を封じ閭に式することは、先王の令軌である。ゆえに必ず体行英邈、高義蓋世の者でなければ、四海を視、群黎を振服することはできない。もしその人でなければ、道は虚しく行われない。許靖は家に処しては友に睦まず、出でては位を受くる所非ず、信を語れば夷険に心を易え、識を論じれば殆ど釁首たり。どこに寵先すべきで感致ある所以があろうか。もし浮虚を崇び、偷薄を栄とすれば、直を秉り義を仗つ士は、何をもってこれを礼しようか。法正は眩惑の術に務め、貴尚の風に違う。これを郭隗に譬えるのは、その倫ではない。臣松之は思うに、郭隗は賢でないが、なお権計をもって寵を蒙った。まして文休は名声夙に著しく、天下これを英偉と謂い、末年には瑕があっても、事は彰徹せず、もし礼を加えなければ、何をもって遠近の惑いを解こうか。法正が靖を隗に方えるのは、未だ不当とは言えない。しかるに孫盛が墓を封じ閭に式することをもって難とするのは、何と迂かなことか。それならば燕昭もまた非であり、ただ劉翁だけではあるまい。友に睦まぬに至っては、失は子将に由る。蔣済の論を尋ねれば、文休の尤ではないと知る。孫盛はまたその任を受くる所非ずと譏り、董卓に仕えたことを謂う。卓が初め政を秉った時、賢俊を顕擢し、その策爵を受けた者は森然として皆是れであった。文休は選官となった。卓が至る前にあり、後に中丞に遷ったが、超越ではない。これをもって貶とすれば、荀爽、陳紀の類は皆世に擯棄されるべきである。孫盛は曰く、威福が下より出るのは、家を亡ぼし国を害する道であり、刑が寵に縦たるのは、政を毀ち理を乱す源である。どうして功臣をもってその陵肆を極め、嬖幸をもってその国柄を藉ましめることができようか。ゆえに顛頡は勤あっても、違命の刑を免れず、楊干は親であっても、なお乱行の戮を加えられた。どうして愛さないことがあろうか、王憲の故である。諸葛氏の言は、ここにおいて政刑を失した。)

原文鄭度說璋曰:〈《華陽國志》曰:度,廣漢人,為州從事。〉「左將軍縣軍襲我,兵不滿萬,士眾未附,野谷是資,軍無輜重。其計莫若盡驅巴西、梓潼民內涪水以西,其倉廩野谷,一皆燒除,高壘深溝,靜以待之。彼至,請戰,勿許,久無所資,不過百日,必將自走。走而擊之,則必禽耳。」先主聞而惡之,以問正。正曰:「終不能用,無可憂也。」璋果如正言,謂其群下曰:「吾聞拒敵以安民,未聞動民以避敵也。」於是黜度,不用其計。及軍圍雒城,正箋與璋曰:「正受性無術,盟好違損,懼左右不明本末,必並歸咎,蒙恥沒身,辱及執事,是以損身於外,不敢反命。恐聖聽穢惡其聲,故中間不有箋敬,顧念宿遇,瞻望悢々。然惟前後披露腹心,自從始初以至於終,實不藏情,有所不盡,但愚闇策薄,精誠不感,以致於此耳。今國事已危,禍害在速,雖捐放於外,言足憎尤,猶貪極所懷,以盡餘忠。明將軍本心,正之所知也,實為區區不欲失左將軍之意,而卒至於是者,左右不達英雄從事之道,謂可違信黷誓,而以意氣相致,日月相遷,趨求順耳悅目,隨阿遂指,不圖遠慮為國深計故也。事變既成,又不量強弱之勢,以為左將軍縣遠之眾,糧谷無儲,欲得以多擊少,曠日相持。而從關至此,所歷輒破,離宮別屯,日自零落。雒下雖有萬兵,皆壞陳之卒,破軍之將,若欲爭一旦之戰,則兵將勢力,實不相當。各欲遠期計糧者,今此營守已固,谷米已積,而明將軍土地日削,百姓日困,敵對遂多,所供遠曠。愚意計之,謂必先竭,將不復以持久也。空爾相守,猶不相堪,今張益德數萬之眾,已定巴東,入犍為界,分平資中、德陽,三邈道侵,將何以御之?本為明將軍計者,必謂此軍縣遠無糧,饋運不及,兵少無繼。今荊州道通,眾數十倍,加孫車騎遣弟及李異、甘寧等為其後繼。若爭客主之勢,以土地相勝者,今此全有巴東,廣漢、犍為,過半已定,巴西一郡,復非明將軍之有也。計益州所仰惟蜀,蜀亦破壞;三分亡二,吏民疲睏,思為亂者十戶而八;若敵遠則百姓不能堪役,敵近則一旦易主矣。廣漢諸縣,是明比也。又魚復與關頭實為益州福禍之門,今二門悉開,堅城皆下,諸軍並破,兵將俱盡,而敵家數道併進,已入心腹,坐守都、雒,存亡之勢,昭然可見。斯乃大略,其外較耳,其餘屈曲,難以辭極也。以正下愚,猶知此事不可覆成,況明將軍左右明智用謀之士,豈當不見此數哉?旦夕偷幸,求容取媚,不慮遠圖,莫肯盡心獻良計耳。若事窮勢迫,將各索生,求濟門戶,展轉反覆,與今計異,不為明將軍盡死難也。而尊門猶當受其憂。正雖獲不忠之謗,然心自謂不負聖德,顧惟分義,實竊痛心。左將軍從本舉來,舊心依依,實無薄意。愚以為可圖變化,以保尊門。」十九年,進圍成都,璋蜀郡太守許靖將逾城降,事覺,不果。璋以危亡在近,故不誅靖。璋既稽服,先主以此薄靖不用也。正說曰:「天下有獲虛譽而無其實者,許靖是也。然今主公始創大業,天下之人不可戶說,靖之浮稱,播流四海,若其不禮,天下之人以是謂主公為賤賢也。宜加敬重,以眩遠近,追昔燕王之待郭隗。」先主於是乃厚待靖。〈孫盛曰:夫禮賢崇德,為邦之要道,封墓式閭,先王之令軌,故必以體行英邈,高義蓋世,然後可以延視四海,振服群黎。苟非其人,道不虛行。靖處室則友於不穆,出身則受位非所,語信則夷險易心,論識則殆為釁首,安在其可寵先而有以感致者乎?若乃浮虛是崇,偷薄斯榮,則秉直仗義之士,將何以禮之?正務眩惑之術,違貴尚之風,譬之郭隗,非其倫矣。臣松之以為郭隗非賢,猶以權計蒙寵,況文休名聲夙著,天下謂之英偉,雖末年有瑕,而事不彰徹,若不加禮,何以釋遠近之惑乎?法正以靖方隗,未為不當,而盛以封墓式閭為難,何其迂哉!然則燕昭亦非,豈唯劉翁?至於友於不穆,失由子將,尋蔣濟之論,知非文休之尤。盛又譏其受(任)非所,將謂仕於董卓。卓初秉政,顯擢賢俊,受其策爵者森然皆是。文休為選官。在卓未至之前,後遷中丞,不為超越。以此為貶,則荀爽、陳紀之儔皆應擯棄於世矣。〉以正為蜀郡太守、揚武將軍,外統都畿,內為謀主。一餐之德,睚眥之怨,無不報復,擅殺毀傷己者數人。或謂諸葛亮曰:「法正於蜀郡太縱橫,將軍宜啟主公,抑其威福。」亮答曰:「主公之在公安也,北畏曹公之強,東憚孫權之逼,近則懼孫夫人生變於肘腋之下;當斯之時,進退狼跋,法孝直為之輔翼,令翻然翱翔,不可復制,如何禁止法正使不得行其意邪!」初,孫權以妹妻先主,妹才捷剛猛,有諸兄之風,侍婢百餘人,皆親執刀侍立,先主每入,衷心常凜凜;亮又知先主雅愛信正,故言如此。〈孫盛曰:夫威福自下,亡家害國之道,刑縱於寵,毀政亂理之源,安可以功臣而極其陵肆,嬖幸而藉其國柄者哉?故顛頡雖勤,不免違命之刑,楊干雖親,猶加亂行之戮,夫豈不愛,王憲故也。諸葛氏之言,於是乎失政刑矣。〉

二十二年、法正は先主に進言した。「曹操は一挙に張魯を降伏させ、漢中を平定しましたが、この勢いに乗じて巴・蜀を攻略せず、夏侯淵と張郃を留めて守備させ、自身は急いで北へ帰還しました。これは彼の知恵が及ばず、力が足りないからではなく、必ずや内部に憂いや逼迫する事情があるからです。今、淵と郃の才略を考えれば、わが国の将帥に勝るものではなく、軍勢を挙げて討伐に向かえば、必ずや打ち破ることができます。これを打ち破った日には、農業を広め穀物を蓄え、隙をうかがい機会を窺います。上策としては敵を覆滅し、王室を尊び助けることができ、中策としては雍州・涼州を蚕食し、境土を広く開拓することができ、下策としては要害を固守し、持久の計を図ることができます。これはまさに天が我々に与えたものであり、時を逃すべきではありません。」先主はその策を良しとし、諸将を率いて漢中に進軍した。法正も従軍した。二十四年、先主は陽平から南へ沔水を渡り、山に沿って少しずつ前進し、定軍・興勢に陣営を築いた。淵が兵を率いてその地を争おうとした。法正が言った。「攻撃できます。」先主は黄忠に命じて高所から鬨の声を上げて攻撃させ、淵の軍を大破し、淵らは首を斬られた。曹公が西征し、法正の策を聞いて言った。「私は劉玄德にこれほどのことができないと知っていた。必ずや人に教えられたのだ。」(臣松之は思う。蜀にとって漢中はちょうど唇と歯のような関係である。劉先主の知恵がこれに及ばないはずがあろうか。ただ計略を展開する前に、法正が先に発言しただけのことである。優れた計略を聞き入れて功業を成し遂げることは、覇王の主でそうでない者がいるだろうか。魏武が人に教えられたと言ったのは、なんと劣った見方であろうか。これはおそらく恥じ恨むあまりの言葉であり、実情を推し量った適切な発言ではない。)

原文二十二年,正說先主曰:「曹操一舉而降張魯,定漢中,不因此勢以圖巴、蜀,而留夏侯淵、張郃屯守,身遽北還,此非其智不逮而力不足也,必將內有憂偪故耳。今策淵、郃才略,不勝國之將帥,舉眾往討,則必可克。之克〔克之〕之日,廣農積谷,觀釁伺隙,上可以傾覆寇敵,尊獎王室,中可以蠶食雍、涼,廣拓境土,下可以固守要害,為持久之計。此蓋天以與我,時不可失也。」先主善其策,乃率諸將進兵漢中,正亦從行。二十四年,先主自陽平南渡沔水,緣山稍前,於定軍、興勢作營。淵將兵來爭其地。正曰:「可擊矣。」先主命黃忠乘高鼓譟攻之,大破淵軍,淵等授首。曹公西征,聞正之策,曰:「吾故知玄德不辦有此,必為人所教也。」〈臣松之以為蜀與漢中,其由脣齒也。劉主之智,豈不及此?將計略未展,正先發之耳。夫聽用嘉謀以成功業,霸王之主,誰不皆然?魏武以為人所教,亦豈劣哉!此蓋恥恨之餘辭,非測實之當言也。〉

先主が漢中王に即位すると、法正を尚書令・護軍将軍に任じた。翌年に死去した。四十五歳であった。先主は何日も涙を流した。諡は翼侯。子の法邈に関内侯の爵位を賜り、官は奉車都尉・漢陽太守まで至った。諸葛亮と法正は、好みや志向は異なるが、公の義によって互いに認め合った。亮は常に法正の知略と術策を非凡なものと評価した。先主が皇帝の位につくと、関羽の恥をそそぐために孫権を東征しようとした。群臣の多くが諫めたが、一人として聞き入れられなかった。章武二年、大軍は大敗し、白帝に戻って駐屯した。亮は嘆いて言った。「法孝直がもし生きていれば、主上を制止して東征させずに済んだだろう。仮に東征したとしても、必ずやこのような危険な事態にはならなかっただろう。」(先主が曹公と争ったとき、形勢が不利で退くべきであったが、先主は大いに怒って退こうとせず、諫める者もいなかった。矢が雨のように降り注ぐ中、法正は先主の前に進み出た。先主が「孝直、矢を避けよ」と言うと、法正は「明公が自ら矢石に当たられるのに、ましてや小人である私が避けましょうか」と答えた。そこで先主は「孝直、お前と一緒に退こう」と言って、ついに退却した。)

原文先主立為漢中王,以正為尚書令、護軍將軍。明年卒,時年四十五。先主為之流涕者累日。諡曰翼侯。賜子邈爵關內侯,官至奉車都尉、漢陽太守。諸葛亮與正,雖好尚不同,以公義相取。亮每奇正智術。先主既即尊號,將東征孫權以復關羽之恥,群臣多諫,一不從。章武二年,大軍敗績,還住白帝。亮嘆曰:「法孝直若在,則能制主上,令不東行;就復東行,必不傾危矣。」〈先主與曹公爭,勢有不便,宜退,而先主大怒不肯退,無敢諫者。矢下如雨,正乃往當先主前,先主云:「孝直避箭。」正曰:「明公親當矢石,況小人乎?」先主乃曰:「孝直,吾與汝俱去。」遂退。〉

評するに、龐統は人材を好み、経学を学び思慮と謀略に長け、当時の荊州・楚の地で高潔な俊才と称された。法正は成敗の道理を見抜き、非凡な計画と策略を立てたが、徳行や素養をもって称えられることはなかった。これを魏の臣下に比べれば、龐統は荀彧の仲間、法正は程昱や郭嘉の同類であろうか。

原文評曰:龐統雅好人流,經學思謀,于時荊﹑楚謂之高俊.法正著見成敗,有奇畫策算,然不以德素稱也.儗之魏臣,統其荀彧之仲叔,正其程﹑郭之儔儷邪?

この作品は全世界において公有領域に属します。なぜなら、作者の没後100年以上が経過し、かつ作品が1931年1月1日以前に出版されたからです。

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