三國志
蜀書六 関羽 ・ 張飛 ・ 馬超 ・ 黄忠 ・ 趙雲 伝
関羽は 字 を雲長といい、本来の字は長生、河東郡解県の人である。逃亡して涿郡に身を寄せた。先主( 劉備 )が郷里で徒党を集めると、関羽と張飛はその身を守って侮りを受けぬようにした。先主が平原国の相となると、関羽と張飛を別部司馬とし、それぞれ部曲を統率させた。先主はこの二人と寝るときは同じ床に寝て、恩情は兄弟のようであった。しかし大勢の人がいる広間では、終日控え立って先主に仕え、先主についてあちこち動き回り、艱難や危険を避けなかった。先主が 徐州 刺史 の車冑を襲撃して殺したとき、関羽を下邳城の守備に当たらせ、太守の職務を代行させた。一方で自身は小沛に戻った。
建安五年、曹公( 曹操 )が東征すると、先主は 袁紹 のもとに逃れた。曹公は関羽を捕らえて帰還し、偏将軍に任じ、礼遇は非常に厚かった。袁紹が大将軍の顔良を派遣して白馬で東郡太守の劉延を攻撃すると、曹公は 張遼 と関羽を先鋒としてこれを迎撃させた。関羽は顔良の指揮する傘蓋を見ると、馬を駆って万軍の中から顔良を突き刺し、その首を斬って帰還した。袁紹の諸将でこれに立ち向かえる者はおらず、こうして白馬の包囲は解かれた。曹公はただちに関羽を漢寿亭侯に封じるよう上表した。初め、曹公は関羽の人物を立派だと思いながらも、その心中に長く留まる意志がないことを察知し、張遼に言った。「そなた、情を以て彼に尋ねてみよ。」やがて張遼が関羽に尋ねると、関羽は嘆息して言った。「私は曹公が私を厚遇してくださっていることを十分に承知している。しかし私は劉将軍(劉備)の厚い恩を受け、共に死ぬことを誓ったので、彼を裏切ることはできない。私は結局ここには留まらない。必ず功績を立てて曹公に報いてから去ろうと思う。」張遼が関羽の言葉を曹公に報告すると、曹公はその義を称えた。関羽が顔良を殺すと、曹公は彼が必ず去ることを知り、重ねて賞賜を与えた。関羽は賜ったものをすべて封印し、手紙を奉って告別し、袁紹軍中の先主のもとに奔った。左右の者が追おうとしたが、曹公は言った。「彼はそれぞれその主のために尽くしているのだ。追うな。」
先主に従って劉表のもとに身を寄せた。劉表が没すると、曹公が 荊州 を平定した。先主は樊城から南へ長江を渡ろうとし、別に関羽に数百艘の船を率いて江陵で合流するよう命じた。曹公が当陽の長阪まで追撃してくると、先主は斜めに漢津へ向かい、ちょうど関羽の船と出会い、共に夏口に至った。 孫権 が兵を派遣して先主を助け曹公を防がせると、曹公は軍を引き退いて帰還した。先主は江南の諸郡を収め、元勲を封じて任官し、関羽を襄陽太守・蕩寇将軍とし、江北に駐屯させた。先主が西進して 益州 を平定すると、関羽に荊州の事務を監督統括することを命じた。関羽は馬超が降伏して来たと聞き、以前からの知り合いではなかったので、 諸葛亮 に手紙を送り、馬超の才能は誰と比べられるかと尋ねた。諸葛亮は関羽が負けず嫌いなのを知っていたので、答えて言った。「孟起(馬超)は文武の才を兼ね備え、雄壮で烈しく人並み外れており、一世の傑物で、黥布や彭越のような人物です。益徳(張飛)と並んで先を争うべきですが、まだあの髯公(関羽)の群を抜いて卓越したほどのものではありません。」関羽は立派なひげを生やしていたので、諸葛亮は彼を「髯」と呼んだのである。関羽は手紙を読んで大いに喜び、賓客に見せた。
関羽はかつて流れ矢に当たり、左腕を貫通した。後になって傷は癒えたが、雨や曇りの日になるたびに、骨が常に痛んだ。医者が言うには、「矢じりに毒が付いており、毒が骨に入り込んでいます。腕を切り開いて傷を作り、骨を削って毒を取り除かなければ、この患いは治りません。」関羽はすぐに腕を伸ばして医者に切り開かせた。その時、関羽はちょうど諸将を招いて飲食を共にしており、腕から流れる血が滴り落ちて盆や器に溢れたが、関羽は焼肉を切り分け酒を飲み、談笑して平然としていた。
建安二十四年、先主が漢中王となると、関羽を前将軍に任じ、節鉞を仮授した。この年、関羽は軍勢を率いて樊城の 曹仁 を攻撃した。曹操は 于禁 を派遣して曹仁を援助させた。秋、大雨が長く降り続き、漢水が氾濫して、于禁が監督していた七軍はすべて水没した。于禁は関羽に降伏し、関羽はさらに将軍の 龐徳 を斬った。梁・郟・陸渾の各地の群盗の中には、遠くから関羽の印綬と称号を受け、その支党となった者もあり、関羽の威勢は華夏に震動した。曹操は許都を移してその鋭鋒を避けることを議したが、司馬宣王( 司馬懿 )と蒋済は、関羽が志を得れば孫権は必ず本意ではないだろうと考えた。人を派遣して孫権にその背後を襲わせるよう勧め、江南の地を割いて孫権に封じることを約束すれば、樊城の包囲は自然に解けるだろうと進言した。曹操はこれに従った。これより先、孫権は使者を遣わして自分の子のために関羽の娘を求めさせたが、関羽はその使者を罵り辱めて、婚姻を許さなかったので、孫権は大いに怒った。また、南郡太守の麋芳が江陵におり、将軍の士仁が公安に駐屯していたが、ふたりは平素から関羽が自分たちを軽んじていることを恨んでいた。関羽が軍を出したとき、麋芳と士仁は軍資を供給したが、十分に救援しなかった。関羽が「帰還したら必ず処罰する」と言ったので、麋芳と士仁はみな恐れ不安を抱いた。そこで孫権はひそかに麋芳と士仁を誘い、ふたりは人をやって孫権を迎え入れた。一方、曹操は 徐晃 を派遣して曹仁を救援させた。関羽は勝利できず、軍を引き返して退却した。孫権はすでに江陵を占拠し、関羽の軍勢の妻子をことごとく捕虜にしたので、関羽の軍はついに散り散りになった。孫権は将軍を派遣して関羽を迎え撃ち、臨沮で関羽とその子の関平を斬った。
関羽に壮繆侯と追諡した。子の関興が後を嗣いだ。関興は字を安国といい、若いときから良い評判があり、丞相の諸葛亮は彼を深く器量が優れていると認めた。弱冠で侍中・中監軍となり、数年で死去した。子の関統が後を嗣ぎ、公主(皇女)を娶り、官は虎賁中 郎 将に至った。死去し、子がなかったので、関興の庶子の関彝が封を継いだ。
張飛は字を益徳といい、涿郡の人である。若いときに関羽とともに先主に仕えた。関羽は数歳年長であったので、張飛は兄として仕えた。先主が曹操に従って 呂布 を破り、許都に帰還したとき、曹操は張飛を中郎将に任じた。先主が曹操に背いて袁紹・劉表に頼った。劉表が死去すると、曹操が荊州に入り、先主は江南に逃れた。曹操が追撃し、一日一夜で当陽の長阪に追いついた。先主は曹操の軍が突然来たと聞き、妻子を捨てて逃げ、張飛に二十騎を率いて後方を防がせた。張飛は川岸に陣取り橋を断ち切って、目を怒らせ矛を横たえて言った。「この身は張益徳である。かかってきて共に死闘をしようではないか!」敵はみな近づく者もなく、こうして先主は難を逃れることができた。先主が江南を平定すると、張飛を宜都太守・征虜将軍とし、新亭侯に封じ、後に南郡に転任させた。先主が益州に入り、劉璋を攻撃したとき、張飛は諸葛亮らとともに川を遡上し、郡県を分けて平定した。江州に至り、劉璋の将で巴郡太守の厳顔を破り、生け捕りにした。張飛が厳顔を叱責して言った。「我が大軍が来たのに、なぜ降伏せずに敢えて抵抗するのか。」厳顔が答えて言った。「あなたがたは道理をわきまえず、我が州を侵奪する。我が州には断頭将軍はいても、降伏将軍はいない。」張飛は怒り、左右の者に引き出して首を斬らせようとしたが、厳顔の顔色は変わらず、「首を斬るなら斬ればよい。なぜ怒るのか」と言った。張飛はその剛胆さに感じ入って彼を釈放し、賓客として招いた。張飛は通過した地で戦いに勝利し、先主と成都で合流した。益州が平定されると、諸葛亮・法正・張飛および関羽にそれぞれ金五百斤、銀千斤、銭五千万、錦千匹を賜り、その他にもそれぞれ差等をつけて賜物を与え、張飛に巴西太守を兼任させた。
曹操が張魯を破り、 夏侯淵 と 張郃 を留めて漢川を守らせた。張郃は別に諸軍を監督して巴西に下り、その民を漢中に移住させようとし、宕渠・蒙頭・蕩石に進軍し、張飛と五十余日対峙した。張飛は精兵一万余人を率い、別の道から張郃軍を遮って交戦し、山道が狭く、前後の軍が互いに救援できなかったので、張飛はついに張郃を破った。張郃は馬を捨てて山を伝い、麾下の十余人だけとともに間道から退却し、軍を率いて南鄭に帰還した。こうして巴の地は安泰を得た。先主が漢中王となると、張飛を右将軍に任じ、節を仮授した。章武元年、車騎将軍に昇進し、司隷 校尉 を兼任し、西郷侯に進封された。策命には次のようにあった。「朕は天の順序を承け、大業を嗣ぎ奉る。残賊を除き乱を靖めるが、まだその道理を明らかにしていない。今、寇虜が害をなし、民は苦しみに遭っている。漢を思う士は、首を長くして鶴のように待ち望んでいる。朕はこれにより憂い、座に安からず、食も味わわず、軍を整え誓いを告げ、天罰を行おうとしている。そなたの忠義と剛毅は、召公や虎(召穆公)に並び、名声は遠近に響き渡っている。故に特に顕命を下し、高い城壁(高位)に進め爵位を授け、京師の職務を兼ねさせる。そなたは天威を大いに発揮し、徳をもって人々を柔和に従わせ、刑罰をもって反逆を討伐し、朕の意にかなうようにせよ。詩に云わないか、『疚しからず棘からず、王国に来たり極まれ。敏かに戎功を肇め、用て爾に祉を錫う』と。努めよ、どうして努められないことがあろうか。」
初め、張飛は雄壮で威猛であり、関羽に次ぐものであった。魏の謀臣の 程昱 らはみな、関羽・張飛は万人の敵であると称した。関羽は兵卒を大切にしたが士大夫には傲慢であり、張飛は君子を愛敬したが小人(下卒)を思いやらなかった。先主は常に戒めて言った。「そなたは刑罰や殺戮がすでに過度である上に、毎日のように健児(兵士)を鞭打ちながら、彼らを左右に置いている。これは禍を招く道である。」張飛はなおも改めなかった。先主が呉を討伐するとき、張飛は一万の兵を率いて、閬中から江州で合流することになっていた。出発に際し、その帳下の将の張達と范彊が張飛を殺害し、その首を持って流れに沿って孫権のもとに奔った。張飛の営の 都督 が上表して先主に報告すると、先主は張飛の 都督 からの上表があると聞いて言った。「ああ、張飛が死んだのだ。」張飛に桓侯と追諡した。長子の張苞は早世した。次子の張紹が後を嗣ぎ、官は侍中尚書 僕射 に至った。張苞の子の張遵は尚書となり、諸葛瞻に従って綿竹におり、鄧艾と戦って戦死した。
馬超は字を孟起といい、右扶風茂陵の人である。父の騰は、霊帝の末年に辺章・韓遂らとともに西州で挙兵した。初平三年、韓遂と馬騰は兵を率いて長安に赴いた。漢朝廷は韓遂を鎮西将軍に任じて金城に帰還させ、馬騰を征西将軍に任じて郿に駐屯させた。後に馬騰は長安を襲撃したが敗走し、涼州に退いた。 司隸 校尉 の鍾繇が関中を鎮守し、韓遂と馬騰に文書を送り、利害を説いた。馬騰は馬超を鍾繇に従わせて平陽で郭援と高幹を討伐させ、馬超の部将の龐徳が郭援の首を自ら斬った。後に馬騰は韓遂と不和になり、京畿への帰還を求めた。そこで朝廷は馬騰を召し出して衛尉とし、馬超を偏将軍に任じて都亭侯に封じ、馬騰の配下の兵を統率させた。
馬超が兵を統率すると、韓遂と連合し、楊秋・李堪・成宜らと結託して、軍を進めて潼関に至った。曹操は韓遂と馬超と単騎で会談した。馬超は自分の怪力を恃みに、密かに前に躍り出て曹操を捕らえようとしたが、曹操の側近の将である 許褚 が睨みつけたので、馬超は敢えて動けなかった。曹操は 賈詡 の計略を用いて馬超と韓遂を離間させ、互いに猜疑心を抱かせたため、軍は大敗した。馬超は逃走して諸戎を頼りにし、曹操は安定まで追撃したが、北方に事変が起こったため、軍を率いて東へ帰還した。楊阜が曹操に言った。「馬超は韓信や英布のような勇猛さを持ち、 羌 や胡の心を大いに得ています。もし大軍が帰還し、厳重に備えなければ、隴上の諸郡は国家のものではなくなります。」馬超は果たして諸戎を率いて隴上の郡県を攻撃し、隴上の郡県はすべてこれに呼応し、涼州 刺史 の韋康を殺し、冀城を占拠してその兵衆を手中に収めた。馬超は自ら征西将軍を称し、 并 州牧を兼ね、涼州の軍事を監督した。韋康の旧臣や民である楊阜・姜叙・梁寛・趙衢らは、共謀して馬超を攻撃した。楊阜と姜叙は鹵城で挙兵し、馬超は出撃してこれを攻めたが落とせなかった。梁寛と趙衢は冀城の門を閉ざしたので、馬超は入城できなかった。進退窮まり、狼狽した馬超は漢中に逃れて張魯を頼った。張魯は共に大事を計るに足らず、内心鬱屈していた馬超は、先主(劉備)が劉璋を成都で包囲していると聞き、密かに書簡を送って降伏を請うた。
先主は人を遣わして馬超を迎え入れ、馬超は兵を率いて直接城下に至った。城中は震え上がり、劉璋はすぐに降伏した。先主は馬超を平西将軍に任じ、臨沮を監督させ、前の都亭侯の爵位をそのまま継承させた。
先主(劉備)が漢中王となると、馬超を左将軍に任命し、節を与えた。章武元年(221年)、驃騎将軍に昇進し、涼州牧を兼任し、斄郷侯に封ぜられた。策命にはこうある。「朕は不徳の身でありながら、至尊の位を継ぎ、宗廟を奉じている。曹操父子は代々その罪を積み重ね、朕は心を痛め、頭痛の病のようである。海内は怨み憤り、正道に帰り本に反する。 氐 や 羌 に至るまで服従し、獯鬻(匈奴)も義を慕う。そなたは北方で信義が顕著で、武威もともに輝いている。そこでそなたに委任し、虓虎(猛虎)のように奮い立たせ、万里を統轄させ、民の苦しみを救おう。朝廷の教化を明らかに宣べ、遠近を懐かしみ保ち、賞罰を厳かに慎み、漢の福を厚くし、天下に応えよ。」
二年(222年)に死去。享年四十七歳。臨終に際して上疏した。「臣の一門二百余りは、孟徳(曹操)によってほとんど誅殺され尽くしました。ただ従弟の馬岱だけが、かろうじて宗族の祭祀を継ぐ者となります。深く陛下にお託し申し上げます。他に言うことはありません。」馬超を追贈して威侯と諡し、子の馬承が後を嗣いだ。馬岱は平北将軍の位に至り、陳倉侯に爵位を進めた。馬超の娘は安平王劉理に嫁いだ。〈『典略』によると、初め馬超が蜀に入った時、その庶妻の董氏と子の馬秋は、張魯のもとに留まり頼っていた。張魯が敗れると、曹公(曹操)は彼らを得て、董氏を閻圃に賜い、馬秋を張魯に引き渡した。張魯は自ら手ずから馬秋を殺した。〉
黄忠、字は漢升、南陽の人である。荊州牧劉表は彼を中郎将とし、劉表の従子の劉磐と共に長沙郡攸県を守備させた。曹公(曹操)が荊州を平定すると、仮の裨将軍の任を与え、以前の任務に就かせ、長沙太守韓玄の統属とした。先主(劉備)が南方の諸郡を平定すると、黄忠は帰順し、従って蜀に入った。葭萌で任務を受けてから、引き返して劉璋を攻撃した時、黄忠は常に先頭に立って敵陣に突入し、その勇猛果敢さは三軍の冠であった。益州が平定されると、討虜将軍に任命された。建安二十四年(219年)、漢中の定軍山で夏侯淵を攻撃した。夏侯淵の軍勢は非常に精強であったが、黄忠は鋭鋒を推し進めて必ず前進し、士卒を励まし率い、金鼓の音は天を震わし、歓声は谷を揺るがせ、一戦で夏侯淵を斬り、淵軍は大敗した。征西将軍に昇進した。この年、先主が漢中王となると、黄忠を後将軍に用いようとした。諸葛亮が先主に言った。「黄忠の名声は、もともと関羽・馬超の仲間とは言えません。今すぐに同列とされますと、馬超・張飛が近くにいて、その功績を目の当たりにしているので、まだ説明がつくかもしれませんが、関羽は遠くでこれを聞けば、必ずや喜ばないでしょう。それはまずいことではありませんか。」先主は言った。「私が自ら納得させる。」こうして関羽らと同等の位とし、関内侯の爵を賜った。翌年、死去。追贈して剛侯と諡した。子の黄敘は早くに亡くなり、後継ぎはなかった。
趙雲、字は子龍、常山郡真定県の人である。もともと公孫瓚に属していた。公孫瓚が先主(劉備)を田楷の下に派遣して袁紹を防がせた時、趙雲は従い、先主の主騎(騎兵の主管)となった。〈『雲別伝』によると、趙雲は身長八尺、姿形は雄偉で、本郡から推挙され、義勇兵と吏兵を率いて公孫瓚のもとに赴いた。当時袁紹は 冀州 牧を称しており、公孫瓚は州の者が袁紹に従うことを深く憂いていたので、趙雲が来て付いたことを喜び、趙雲をからかって言った。「そなたの州の人は皆、袁氏を望んでいるそうだが、そなたはどうしてひとり心を翻し、迷いながらも戻って来たのか。」趙雲は答えた。「天下は騒然として、どちらが正しいか分かりません。民衆は逆さに吊るされたような苦難にあります。私の州の議論では、仁政のあるところに従うのであって、袁氏を軽んじ私的に明将軍(公孫瓚)を重んじるわけではありません。」こうして公孫瓚と共に征討した。当時先主もまた公孫瓚に身を寄せており、趙雲を迎え入れるたびに、趙雲は深く心を通わせることができた。趙雲は兄の喪のため、公孫瓚に辞して一時帰郷した。先主は彼が戻らないことを知り、手を握って別れた。趙雲は辞して言った。「決して徳に背きません。」先主が袁紹のもとに身を寄せた時、趙雲は鄴で面会した。先主は趙雲と同床して眠り、密かに趙雲に命じて数百人を募らせた。皆、劉左将軍(劉備)の部曲と称し、袁紹には知られなかった。こうして先主に従って荊州に至った。〉先主が曹公(曹操)に追われて当陽の長阪にいた時、妻子を捨てて南へ逃走した。趙雲は自ら幼子(後の後主劉禅)を抱き、甘夫人(後の後主の母)を保護し、ともに難を免れた。牙門将軍に昇進した。先主が蜀に入った時、趙雲は荊州に留まった。〈『雲別伝』によると、初め、先主が敗れた時、趙雲が北へ去ったという者がいた。先主は手戟を投げつけて言った。「子龍は私を見捨てて逃げたりしない。」しばらくして趙雲が到着した。江南平定に従い、偏将軍とし、桂陽太守を兼任させ、趙範の後任とした。趙範の寡婦の兄嫁を樊氏といい、国色の持ち主であった。趙範は彼女を趙雲に娶わせようとした。趙雲は辞して言った。「あなたと私は同姓です。あなたの兄は私の兄と同じです。」固辞して許さなかった。当時、趙雲に娶るよう勧める者がいたが、趙雲は言った。「趙範は追い詰められて降伏しただけで、心は測りかねる。天下に女は少なくない。」遂に娶らなかった。趙範は果たして逃走し、趙雲には微塵の関わりもなかった。以前、 夏侯惇 と博望で戦った時、夏侯蘭を生け捕りにした。夏侯蘭は趙雲の同郷で、幼少の頃からの知り合いであった。趙雲は先主に彼を助命するよう申し出、夏侯蘭が法律に明るいことを推薦し、軍正に任じた。趙雲は自分に近づけようとはせず、その慎重な考え方はこのようなものであった。先主が益州に入った時、趙雲は留営司馬を兼任した。この時、先主の孫夫人(孫権の妹)は権勢を誇り豪勢で、多くの呉の吏兵を率い、勝手気ままに法を無視していた。先主は趙雲が厳格で重厚であることから、必ずや整えられるだろうと考え、特に内事(宮中の事)を掌ることを任せた。孫権は劉備が西征したと聞き、大いに舟船を派遣して妹を迎えさせた。そして夫人は内密に後主を連れて呉に帰ろうとした。趙雲と張飛は兵を率いて長江を遮断し、ようやく後主を取り戻した。〉
先主(劉備)は葭萌から引き返して劉璋を攻撃し、諸葛亮を召し寄せた。諸葛亮は趙雲と張飛らを率いてともに長江を遡って西上し、郡県を平定した。江州に至り、趙雲を外水から江陽へ向かわせ、諸葛亮と成都で合流するよう分遣した。成都が平定されると、趙雲を翊軍将軍に任じた。〈趙雲別伝によると、益州が平定されたとき、議論では成都の家屋や城外の園地・桑田を諸将に分け与えようとした。趙雲は反論して言った。「霍去病は匈奴が滅んでいないので、家を持つ必要はないと言った。今、国賊は匈奴だけでなく、安泰を求めることはできない。天下がすべて平定され、それぞれ故郷に帰り、本来の土地で耕作に戻ってからが適切である。益州の人民は、初めて戦乱に遭い、田畑や家屋はすべて返還できる。今、安心して住み、旧業に戻らせてから、ようやく租税や労役を課し、その歓心を得ることができる。」先主はただちにこれに従った。夏侯淵が敗れたとき、曹操は漢中の地を争い、北山の下に数千万袋の米を運んだ。黄忠はこれを奪取できると考え、趙雲の兵は黄忠に従って米を奪取しようとした。黄忠が期限を過ぎても戻らないので、趙雲は数十騎を率いて軽装で包囲を出て、黄忠らを迎えに行き様子を見た。ちょうど曹操が大軍を繰り出してきたところで、趙雲は曹操軍の先鋒に攻撃され、戦っているうちに敵の大軍が到着し、勢いが迫ったので、前進して敵の陣を突破し、戦いながら退却した。曹操軍は散り散りになったが、やがて再び集結し、趙雲は敵中に陥り、包囲陣に戻ろうとした。部将の張著が負傷したので、趙雲は再び馬を走らせて陣営に戻り張著を迎え入れた。曹操軍が包囲陣まで追撃してきた。このとき沔陽県長の張翼が趙雲の包囲陣内にいた。張翼は門を閉じて守ろうとしたが、趙雲は陣営に入ると、かえって門を大きく開け放ち、旗を伏せ、太鼓を鳴らさなかった。曹操軍は趙雲に伏兵があるのではないかと疑い、引き揚げた。趙雲は太鼓を雷のように鳴り響かせ、ただ弓兵を後方に配置して曹操軍を射た。曹操軍は驚き恐れ、自ら踏みつけ合い、漢水に落ちて死んだ者は非常に多かった。先主は翌朝自ら趙雲の陣営に来て、昨日の戦場を見回り、言った。「子龍(趙雲の字)は全身がすべて胆である。」音楽を奏でて宴会を開き、日暮れまで続け、軍中では趙雲を虎威将軍と呼んだ。孫権が荊州を襲撃すると、先主は大いに怒り、孫権を討伐しようとした。趙雲は諫めて言った。「国賊は曹操であって、孫権ではない。まず魏を滅ぼせば、呉は自然に服従する。曹操自身は死んだが、その子の曹丕が 簒奪 した。民衆の心に乗じて、早く関中を図り、黄河・渭水の上流に拠って凶逆を討てば、関東の義士は必ず食糧を携え馬を駆って王師を迎えるだろう。魏を放置して、先に呉と戦うべきではない。いったん戦端が開かれると、すぐには解決できない。」先主は聞き入れず、東征し、趙雲に江州を監督させて残した。先主が秭帰で敗れると、趙雲は進軍して永安に至ったが、呉軍はすでに撤退していた。〉建興元年、中護軍・征南将軍となり、永昌亭侯に封ぜられ、鎮東将軍に昇進した。五年、諸葛亮に従って漢中に駐屯した。翌年、諸葛亮が軍を出し、斜谷道から進むと宣伝したので、曹真が大軍を派遣してこれを防がせた。諸葛亮は趙雲と鄧芝に進んで防がせ、自身は祁山を攻撃した。趙雲と鄧芝の軍は弱く敵は強く、箕谷で敗れたが、兵をまとめて堅く守り、大敗には至らなかった。軍が退却した後、鎮軍将軍に降格された。〈趙雲別伝によると、諸葛亮は言った。「街亭の軍が退却したときは、兵と将が互いに連絡を取らなくなったが、箕谷の軍が退却したときは、兵と将が最初から離れ離れにならなかった。なぜか。」鄧芝は答えて言った。「趙雲自身が後衛を務め、軍需物資や雑具をほとんど捨てず、兵と将が離れ離れになる理由がなかった。」趙雲には軍需物資の余った絹があった。諸葛亮が将士に分け与えるよう命じると、趙雲は言った。「軍事で利益を得ていないのに、どうして賜り物があるのか。その物資はすべて赤岸の府庫に入れ、十月の冬の賜与に備えてください。」諸葛亮は大いにこれを良しとした。〉七年に死去し、順平侯と追諡された。初め、先主の時代には、法正だけが諡号を得た。後主の時代には、諸葛亮は功徳が世に並ぶものなく、蔣琬と費禕は国の重責を担い、やはり諡号を得た。陳祗は寵愛を受け厚遇され、特別に殊勲の賞を加えられ、夏侯霸は遠くから帰順したので、やはり諡号を得た。そこで関羽、張飛、馬超、龐統、黄忠および趙雲に追諡が行われ、当時の論評では栄誉とされた。〈趙雲別伝には後主の 詔 が載せられている。「趙雲はかつて先帝に従い、功績はすでに顕著である。朕は幼少であり、艱難の道を歩んできたが、忠順に頼り恃み、危険を乗り越えてきた。諡は元勲を顕彰するものであり、外の議論では趙雲に諡を贈るのが適当である。」大将軍の姜維らが議論し、趙雲はかつて先帝に従い、功労はすでに顕著であり、天下を経営し、法度を遵守し、功績は記録すべきであると考えた。当陽の戦いでは、義は金石を貫き、忠をもって主君を守り、君はその賞を思い、礼をもって臣下を厚く遇し、臣は死を忘れた。死者に知があれば、不朽に足りる。生きている者は恩に感じ、身を捧げるに足る。謹んで諡法を按ずるに、柔賢慈恵を順と曰い、執事に班有るを平と曰い、禍乱を克定するを平と曰う。趙雲に順平侯と諡するのが相応しい。〉趙雲の子の趙統が後を継ぎ、官は虎賁中郎将に至り、行領軍を監督した。次子の趙広は牙門将となり、姜維に従って沓中に至り、戦場で戦死した。
評するに、関羽と張飛はいずれも万人の敵と称され、世の虎臣であった。関羽は曹操に恩義に報い、張飛は義をもって厳顔を釈放し、ともに国士の風があった。しかし関羽は剛直で自らを誇り、張飛は暴虐で恩情がなく、短所によって敗北を招いたのは、道理の常である。馬超は戎族を頼み勇を恃んで、その一族を滅ぼしたのは惜しいことだ。窮地から泰平を招くことができたなら、なおまさっていたのではないか。黄忠と趙雲は強靭で雄壮勇猛であり、ともに爪牙として働き、それは灌嬰や滕公の類であろうか。
この作品は全世界で公有領域に属します。著者の没後100年以上が経過し、作品は1931年1月1日以前に出版されたためです。