三国志

蜀しょく書六 関羽・張飛・馬超・黄忠・趙雲伝

関羽は字を雲長といい、本来の字は長生、河東郡解県の人である。逃亡して涿郡に身を寄せた。先主(劉備)が郷里で徒党を集めると、関羽と張飛はその身を守って侮りを受けぬようにした。先主が平原国の相となると、関羽と張飛を別部司馬とし、それぞれ部曲を統率させた。先主はこの二人と寝るときは同じ床に寝て、恩情は兄弟のようであった。しかし大勢の人がいる広間では、終日控え立って先主に仕え、先主についてあちこち動き回り、艱難や危険を避けなかった。先主が徐州刺史の車冑を襲撃して殺したとき、関羽を下邳城の守備に当たらせ、太守の職務を代行させた。一方で自身は小沛はいに戻った。(『蜀記』にいう。曹公と劉備が下邳で呂布を包囲したとき、関羽は曹公に、呂布が秦宜禄を派遣して援軍を求めに行かせているので、その妻を娶りたいと願い出た。曹公は許した。城が陥落する直前、関羽はまたたびたび曹公に願い出た。曹公はその女に並々ならぬ色があるのを疑い、まず人を遣わして迎えさせて見せ、そのまま自分が留め置いた。関羽は心中安んじなかった。これは『魏氏春秋』の説と異なるところはない。『魏書』にいう。関羽に徐州を領させた、と。)

原文關羽字雲長,本字長生,河東解人也。亡命奔涿郡。先主於鄉里合徒眾,而羽與張飛為之禦侮。先主為平原相,以羽、飛為別部司馬,分統部曲。先主與二人寢則同床,恩若兄弟。而稠人廣坐,侍立終日,隨先主周旋,不避艱險。〈蜀記曰:曹公與劉備圍呂布於下邳,關羽啟公,布使秦宜祿行求救,乞娶其妻,公許之。臨破,又屢啟於公。公疑其有異色,先遣迎看,因自留之,羽心不自安。此與魏氏春秋所說無異也。〉先主之襲殺徐州刺史車胄,使羽守下邳城,行太守事,〈《魏書》云:以羽領徐州。〉而身還小沛。

建安五年、曹公(曹操)が東征すると、先主は袁紹のもとに逃れた。曹公は関羽を捕らえて帰還し、偏将軍に任じ、礼遇は非常に厚かった。袁紹が大将軍の顔良を派遣して白馬で東郡太守の劉延を攻撃すると、曹公は張遼と関羽を先鋒としてこれを迎撃させた。関羽は顔良の指揮する傘蓋を見ると、馬を駆って万軍の中から顔良を突き刺し、その首を斬って帰還した。袁紹の諸将でこれに立ち向かえる者はおらず、こうして白馬の包囲は解かれた。曹公はただちに関羽を漢寿亭侯に封じるよう上表した。初め、曹公は関羽の人物を立派だと思いながらも、その心中に長く留まる意志がないことを察知し、張遼に言った。「そなた、情を以て彼に尋ねてみよ。」やがて張遼が関羽に尋ねると、関羽は嘆息して言った。「私は曹公が私を厚遇してくださっていることを十分に承知している。しかし私は劉将軍(劉備)の厚い恩を受け、共に死ぬことを誓ったので、彼を裏切ることはできない。私は結局ここには留まらない。必ず功績を立てて曹公に報いてから去ろうと思う。」張遼が関羽の言葉を曹公に報告すると、曹公はその義を称えた。関羽が顔良を殺すと、曹公は彼が必ず去ることを知り、重ねて賞賜を与えた。関羽は賜ったものをすべて封印し、手紙を奉って告別し、袁紹軍中の先主のもとに奔った。左右の者が追おうとしたが、曹公は言った。「彼はそれぞれその主のために尽くしているのだ。追うな。」(『傅子』にいう。張遼は太祖(曹操)に報告しようとしたが、太祖が関羽を殺すことを恐れた。報告しなければ君主に仕える道に背くことになるので、嘆息して言った。「曹公は君主であり父のようなものです。関羽は兄弟のようなものです。」そこでついに報告した。太祖は言った。「君主に仕えてその本を忘れないとは、天下の義士である。いつ去るか見計らおう。」張遼が言った。「関羽は曹公の恩を受けているので、必ず功績を立てて曹公に報いてから去るでしょう。」臣松之は考える。曹公は関羽が留まらないことを知りながら、その志を心から嘉し、去るにあたって追手を遣わさずその義を成就させた。そもそも王覇の度量がなければ、どうしてここまでできようか。これは実に曹公の美徳である。)

原文建安五年,曹公東征,先主奔袁紹。曹公禽羽以歸,拜為偏將軍,禮之甚厚。紹遣大將軍顏良攻東郡太守劉延於白馬,曹公使張遼及羽為先鋒擊之。羽望見良麾蓋,策馬刺良於萬眾之中,斬其首還,紹諸將莫能當者,遂解白馬圍。曹公即表封羽為漢壽亭侯。初,曹公壯羽為人,而察其心神無久留之意,謂張遼曰:「卿試以情問之。」既而遼以問羽,羽歎曰:「吾極知曹公待我厚,然吾受劉將軍厚恩,誓以共死,不可背之。吾終不留,吾要當立效以報曹公乃去。」遼以羽言報曹公,曹公義之。〈《傅子》曰:遼欲白太祖,恐太祖殺羽,不白,非事君之道,乃歎曰:「公,君父也;羽,兄弟耳。」遂白之。太祖曰:「事君不忘其本,天下義士也。度何時能去?」遼曰:「羽受公恩,必立效報公而後去也。」〉及羽殺顏良,曹公知其必去,重加賞賜。羽盡封其所賜,拜書告辭,而奔先主於袁軍。左右欲追之,曹公曰:「彼各為其主,勿追也。」〈臣松之以為曹公知羽不留而心嘉其志,去不遣追以成其義,自非有王霸之度,孰能至於此乎?斯實曹公之休美。〉

先主に従って劉表のもとに身を寄せた。劉表が没すると、曹公が荊州を平定した。先主は樊城から南へ長江を渡ろうとし、別に関羽に数百艘の船を率いて江陵で合流するよう命じた。曹公が当陽の長阪まで追撃してくると、先主は斜めに漢津へ向かい、ちょうど関羽の船と出会い、共に夏口に至った。孫権が兵を派遣して先主を助け曹公を防がせると、曹公は軍を引き退いて帰還した。先主は江南の諸郡を収め、元勲を封じて任官し、関羽を襄陽太守・蕩寇将軍とし、江北に駐屯させた。先主が西進して益州を平定すると、関羽に荊州の事務を監督統括することを命じた。関羽は馬超が降伏して来たと聞き、以前からの知り合いではなかったので、諸葛亮に手紙を送り、馬超の才能は誰と比べられるかと尋ねた。諸葛亮は関羽が負けず嫌いなのを知っていたので、答えて言った。「孟起(馬超)は文武の才を兼ね備え、雄壮で烈しく人並み外れており、一世の傑物で、黥げい布や彭越のような人物です。益徳(張飛)と並んで先を争うべきですが、まだあの髯公(関羽)の群を抜いて卓越したほどのものではありません。」関羽は立派なひげを生やしていたので、諸葛亮は彼を「髯」と呼んだのである。関羽は手紙を読んで大いに喜び、賓客に見せた。(『蜀記』にいう。初め、劉備が許にいたとき、曹公と共に狩りをした。狩りの最中に人々が散ると、関羽は劉備に曹公を殺すよう勧めたが、劉備は従わなかった。夏口にいたとき、江の洲に漂う中で、関羽は怒って言った。「昔の狩りのとき、私の言葉に従っていれば、今日の苦境はなかったでしょう。」劉備は言った。「あの時は国のために彼を惜しんだのだ。もし天道が正しきを助けるなら、これが福とならないとどうして分かろうか。」臣松之は考える。劉備は後に董承らと謀を結んだが、事が漏れて成し遂げられなかっただけである。もし国のために曹公を惜しんだのなら、どうしてこのような言葉を言えようか。関羽がもし本当にこの勧めをし、劉備が従わなかったのなら、それは曹公の腹心や親戚が実に多く、事を前もって準備しなければ、にわかに行えることではないからである。曹公は殺せても、自分は必ず免れないので、計をもって止めたのであり、何を惜しむことがあろうか。過ぎ去った事なので、もっともらしい言葉に託しただけである。)

原文從先主就劉表。表卒,曹公定荊州,先主自樊將南渡江,別遣羽乘船數百艘會江陵。曹公追至當陽長阪,先主斜趣漢津,適與羽船相值,共至夏口。〈蜀記曰:初,劉備在許,與曹公共獵。獵中,眾散,羽勸備殺公,備不從。及在夏口,飄颻江渚,羽怒曰:「往日獵中,若從羽言,可無今日之困。」備曰:「是時亦為國家惜之耳;若天道輔正,安知此不為福邪!」臣松之以為備後與董承等結謀,但事泄不克諧耳,若為國家惜曹公,其如此言何!羽若果有此勸而備不肯從者,將以曹公腹心親戚,實繁有徒,事不宿構,非造次所行;曹雖可殺,身必不免,故以計而止,何惜之有乎!既往之事,故讬為雅言耳。〉孫權遣兵佐先主拒曹公,曹公引軍退歸。先主收江南諸郡,乃封拜元勳,以羽為襄陽太守、蕩寇將軍,駐江北。先主西定益州,拜羽董督荊州事。羽聞馬超來降,舊非故人,羽書與諸葛亮,問超人才可誰比類。亮知羽護前,乃答之曰:「孟起兼資文武,雄烈過人,一世之傑,黥、彭之徒,當與益德並驅爭先,猶未及髯之絕倫逸群也。」羽美鬚髯,故亮謂之髯。羽省書大悅,以示賓客。

関羽はかつて流れ矢に当たり、左腕を貫通した。後になって傷は癒えたが、雨や曇りの日になるたびに、骨が常に痛んだ。医者が言うには、「矢じりに毒が付いており、毒が骨に入り込んでいます。腕を切り開いて傷を作り、骨を削って毒を取り除かなければ、この患いは治りません。」関羽はすぐに腕を伸ばして医者に切り開かせた。その時、関羽はちょうど諸将を招いて飲食を共にしており、腕から流れる血が滴り落ちて盆や器に溢れたが、関羽は焼肉を切り分け酒を飲み、談笑して平然としていた。

原文羽嘗為流矢所中,貫其左臂,後創雖愈,每至陰雨,骨常疼痛,醫曰:「矢鏃有毒,毒入於骨,當破臂作創,刮骨去毒,然後此患乃除耳。」羽便伸臂令醫劈之。時羽適請諸將飲食相對,臂血流離,盈於盤器,而羽割炙引酒,言笑自若。

建安二十四年、先主が漢中王となると、関羽を前将軍に任じ、節鉞を仮授した。この年、関羽は軍勢を率いて樊城の曹仁を攻撃した。曹操は于禁を派遣して曹仁を援助させた。秋、大雨が長く降り続き、漢水が氾濫して、于禁が監督していた七軍はすべて水没した。于禁は関羽に降伏し、関羽はさらに将軍の龐徳を斬った。梁・郟・陸渾の各地の群盗の中には、遠くから関羽の印綬と称号を受け、その支党となった者もあり、関羽の威勢は華夏に震動した。曹操は許都を移してその鋭鋒を避けることを議したが、司馬宣王(司馬懿)と蒋済は、関羽が志を得れば孫権は必ず本意ではないだろうと考えた。人を派遣して孫権にその背後を襲わせるよう勧め、江南の地を割いて孫権に封じることを約束すれば、樊城の包囲は自然に解けるだろうと進言した。曹操はこれに従った。これより先、孫権は使者を遣わして自分の子のために関羽の娘を求めさせたが、関羽はその使者を罵り辱めて、婚姻を許さなかったので、孫権は大いに怒った。また、南郡太守の麋芳が江陵におり、将軍の士仁が公安に駐屯していたが、ふたりは平素から関羽が自分たちを軽んじていることを恨んでいた。関羽が軍を出したとき、麋芳と士仁は軍資を供給したが、十分に救援しなかった。関羽が「帰還したら必ず処罰する」と言ったので、麋芳と士仁はみな恐れ不安を抱いた。そこで孫権はひそかに麋芳と士仁を誘い、ふたりは人をやって孫権を迎え入れた。一方、曹操は徐晃を派遣して曹仁を救援させた。関羽は勝利できず、軍を引き返して退却した。孫権はすでに江陵を占拠し、関羽の軍勢の妻子をことごとく捕虜にしたので、関羽の軍はついに散り散りになった。孫権は将軍を派遣して関羽を迎え撃ち、臨沮で関羽とその子の関平を斬った。(『典略』にいう。関羽が樊城を包囲すると、孫権は使者を遣わして援助を求めた。使者には速やかに進むなと命じ、また主簿を遣わして先に関羽に意を伝えさせた。関羽はその遅滞に怒り、またすでに自分が于禁らを捕らえたので、罵って言った。「小僧め、よくもそんなことを。樊城を攻め落とせば、汝を滅ぼせないことがあろうか。」孫権はこれを聞き、関羽が自分を軽んじているのを知り、偽って手紙を書いて関羽に謝し、自ら赴くことを約束した。臣松之は考える。荊州と呉は外見上和睦していても、内では互いに猜疑し警戒していた。ゆえに孫権が関羽を襲ったとき、軍を潜ませ密かに発したのである。『呂蒙伝』によれば、「精兵を船の中に伏せ、白衣の者に櫓を漕がせ、商人の服をさせた」とある。これから言えば、関羽が孫権に援助を求めなかったなら、孫権が関羽に自分が赴くと言うはずもない。もし援助を約束したのなら、なぜその形跡を隠すのか。また、南郡太守の麋芳が江陵に、将軍の士仁が公安に駐屯していたが、ふたりは平素から関羽が自分を軽んじていることを恨んでいた。関羽が出軍したとき、麋芳と士仁は軍資を供給したが、十分に救援しなかった。関羽が「帰還したら必ず処罰する」と言ったので、麋芳と士仁はみな恐れ不安を抱いた。そこで孫権はひそかに麋芳と士仁を誘い、ふたりは人をやって孫権を迎え入れた。一方、曹操は徐晃を派遣して曹仁を救援させた。『蜀記』にいう。関羽と徐晃はかねてから互いに親愛の情があり、遠くから共に語り合ったが、ただ平生のことだけを話し、軍事には及ばなかった。しばらくして、徐晃は馬を下りて令を宣した。「関雲長の首を得た者には金千斤を賞する。」関羽は驚き恐れて徐晃に言った。「大兄、それは何ということを。」徐晃は言った。「これは国の事である。」関羽は勝つことができず、軍を引き返して退却した。孫権はすでに江陵を占拠し、関羽の軍勢の妻子をことごとく捕虜にしたので、関羽の軍はついに散り散りになった。孫権は将軍を派遣して関羽を迎え撃ち、臨沮で関羽とその子の関平を斬った。『蜀記』にいう。孫権は将軍を遣わして関羽を撃たせ、関羽とその子の関平を捕らえた。孫権は関羽を生かして劉備と曹操に対抗させようとしたが、左右の者が言った。「狼の子は飼いならすことはできず、後には必ず害となる。曹公はすぐに除かなかったので、自ら大いなる禍を招き、都を移すことまで議した。今どうして生かしておけようか。」そこで斬った。臣松之は『呉書』を按じる。孫権は将軍の潘璋を遣わして関羽の逃走路を迎え撃たせ、関羽が至るとすぐに斬った。しかも臨沮は江陵から二三百里離れており、どうしてすぐに殺さず、その生死を議することがあろうか。また「孫権は関羽を生かして劉備と曹操に対抗させようとした」というが、これはそうではない。これで智者たちの口を封じることができよう。『呉暦』にいう。孫権は関羽の首を曹公に送り、諸侯の礼をもってその屍骸を葬った。)

原文二十四年,先主為漢中王,拜羽為前將軍,假節鉞。是歲,羽率眾攻曹仁於樊。曹公遣于禁助仁。秋,大霖雨,漢水汎溢,禁所督七軍皆沒。禁降羽,羽又斬將軍龐德。梁、郟、陸渾群盜或遙受羽印號,為之支黨,羽威震華夏。曹公議徙許都以避其銳,司馬宣王、蔣濟以為關羽得志,孫權必不原也。可遣人勸權躡其後,許割江南以封權,則樊圍自解。曹公從之。先是,權遣使為子索羽女,羽罵辱其使,不許婚,權大怒。〈《典略》曰:羽圍樊,權遣使求助之,敕使莫速進,又遣主簿先致命於羽。羽忿其淹遲,又自已得於禁等,乃罵曰:「鰂子敢爾,如使樊城拔,吾不能滅汝邪!」權聞之,知其輕己,偽手書以謝羽,許以自往。臣松之以為荊、吳雖外睦,而內相猜防,故權之襲羽,潛師密發。按呂蒙傳云:「伏精兵於𦩷𦪇之中,使白衣搖櫓,作商賈服。」以此言之,羽不求助於權,權必不語羽當往也。若許相援助,何故匿其形跡乎?〉又南郡太守麋芳在江陵,將軍士仁屯公安,素皆嫌羽輕己。羽之出軍,芳、仁供給軍資,不悉相救。羽言「還當治之」,芳、仁咸懷懼不安。於是權陰誘芳、仁,芳、仁使人迎權。而曹公遣徐晃救曹仁,〈蜀記曰:羽與晃宿相愛,遙共語,但說平生,不及軍事。須臾,晃下馬宣令:「得關雲長頭,賞金千斤。」羽驚怖,謂晃曰:「大兄,是何言邪!」晃曰:「此國之事耳。」〉羽不能克,引軍退還。權已據江陵,盡虜羽士眾妻子,羽軍遂散。權遣將逆擊羽,斬羽及子平於臨沮。〈蜀記曰:權遣將軍擊羽,獲羽及子平。權欲活羽以敵劉、曹,左右曰:「狼子不可養,後必為害。曹公不即除之,自取大患,乃議徙都。今豈可生!」乃斬之。臣松之按吳書:孫權遣將潘璋逆斷羽走路,羽至即斬,且臨沮去江陵二三百里,豈容不時殺羽,方議其生死乎?又云「權欲活羽以敵劉、曹」,此之不然,可以絕智者之口。吳曆曰:權送羽首於曹公,以諸侯禮葬其屍骸。〉

関羽に壮繆侯と追諡した。子の関興が後を嗣いだ。関興は字を安国といい、若いときから良い評判があり、丞相の諸葛亮は彼を深く器量が優れていると認めた。弱冠で侍中・中監軍となり、数年で死去した。子の関統が後を嗣ぎ、公主(皇女)を娶り、官は虎賁中郎将に至った。死去し、子がなかったので、関興の庶子の関彝が封を継いだ。(『蜀記』にいう。関羽が初めて軍を出して樊城を包囲したとき、夢に猪がその足を噛むのを見て、子の関平に語って言った。「わしは今年衰えた。しかし帰ることはできないであろう!」『江表伝』にいう。関羽は左氏伝を好み、諳んじて誦することはおおむね口をついて出た。『蜀記』にいう。龐徳の子の龐会は、鍾会・鄧艾に従って蜀を伐ち、蜀が破れると、関氏の一家をことごとく滅ぼした。)

原文追諡羽曰壯繆侯。〈蜀記曰:羽初出軍圍樊,夢豬齧其足,語子平曰:「吾今年衰矣,然不得還!」江表傳曰:羽好左氏傳,諷誦略皆上口。〉子興嗣。興字安國,少有令問,丞相諸葛亮深器異之。弱冠為侍中、中監軍,數歲卒。子統嗣,尚公主,官至虎賁中郎將。卒,無子,以興庶子彝續封。〈蜀記曰:龐德子會,隨鍾、鄧伐蜀,蜀破,盡滅關氏家。〉

張飛は字を益徳といい、涿郡の人である。若いときに関羽とともに先主に仕えた。関羽は数歳年長であったので、張飛は兄として仕えた。先主が曹操に従って呂布を破り、許都に帰還したとき、曹操は張飛を中郎将に任じた。先主が曹操に背いて袁紹・劉表に頼った。劉表が死去すると、曹操が荊州に入り、先主は江南に逃れた。曹操が追撃し、一日一夜で当陽の長阪に追いついた。先主は曹操の軍が突然来たと聞き、妻子を捨てて逃げ、張飛に二十騎を率いて後方を防がせた。張飛は川岸に陣取り橋を断ち切って、目を怒らせ矛を横たえて言った。「この身は張益徳である。かかってきて共に死闘をしようではないか!」敵はみな近づく者もなく、こうして先主は難を逃れることができた。先主が江南を平定すると、張飛を宜都太守・征虜将軍とし、新亭侯に封じ、後に南郡に転任させた。先主が益州に入り、劉璋を攻撃したとき、張飛は諸葛亮らとともに川を遡上し、郡県を分けて平定した。江州に至り、劉璋の将で巴郡太守の厳顔を破り、生け捕りにした。張飛が厳顔を叱責して言った。「我が大軍が来たのに、なぜ降伏せずに敢えて抵抗するのか。」厳顔が答えて言った。「あなたがたは道理をわきまえず、我が州を侵奪する。我が州には断頭将軍はいても、降伏将軍はいない。」張飛は怒り、左右の者に引き出して首を斬らせようとしたが、厳顔の顔色は変わらず、「首を斬るなら斬ればよい。なぜ怒るのか」と言った。張飛はその剛胆さに感じ入って彼を釈放し、賓客として招いた。張飛は通過した地で戦いに勝利し、先主と成都で合流した。益州が平定されると、諸葛亮・法正・張飛および関羽にそれぞれ金五百斤、銀千斤、銭五千万、錦千匹を賜り、その他にもそれぞれ差等をつけて賜物を与え、張飛に巴西太守を兼任させた。(『華陽国志』にいう。初め、先主が蜀に入り、巴郡に至ったとき、厳顔は胸を打って嘆いて言った。「これが世にいう、ただ独り窮山に坐し、虎を放って自らを衛らせるというものだ!)

原文張飛字益德,涿郡人也,少與關羽俱事先主。羽年長數歲,飛兄事之。先主從曹公破呂布,隨還計,曹公拜飛為中郎將。先主背曹公依袁紹、劉表。表卒,曹公入荊州,先主奔江南。曹公追之,一日一夜,及於當陽之長阪。先主聞曹公卒至,棄妻子走,使飛將二十騎拒後。飛據水斷橋,瞋目橫矛曰:「身是張益德也,可來共決死!」敵皆無敢近者,故遂得免。先主既定江南,以飛為宜都太守、征虜將軍,封新亭侯,後轉在南郡。先主入益州,還攻劉璋,飛與諸葛亮等溯流而上,分定郡縣。至江州,破璋將巴郡太守嚴顏,生獲顏。飛呵顏曰:「大軍至,何以不降而敢拒戰?」顏答曰:「卿等無狀,侵奪我州,我州但有斷頭將軍,無有降將軍也。」飛怒,令左右牽去斫頭,顏色不變,曰:「斫頭便斫頭,何為怒邪!」飛壯而釋之,引為賓客。〈《華陽國志》曰:初,先主入蜀,至巴郡,顏拊心歎曰:「此所謂獨坐窮山,放虎自衛也!」〉飛所過戰克,與先主會於成都。益州既平,賜諸葛亮、法正、飛及關羽金各五百斤,銀千斤,錢五千萬,錦千匹,其餘頒賜各有差,以飛領巴西太守。

曹操が張魯を破り、夏侯淵と張郃を留めて漢川を守らせた。張郃は別に諸軍を監督して巴西に下り、その民を漢中に移住させようとし、宕渠・蒙頭・蕩石に進軍し、張飛と五十余日対峙した。張飛は精兵一万余人を率い、別の道から張郃軍を遮って交戦し、山道が狭く、前後の軍が互いに救援できなかったので、張飛はついに張郃を破った。張郃は馬を捨てて山を伝い、麾下の十余人だけとともに間道から退却し、軍を率いて南鄭に帰還した。こうして巴の地は安泰を得た。先主が漢中王となると、張飛を右将軍に任じ、節を仮授した。章武元年、車騎将軍に昇進し、司隷校尉こういを兼任し、西郷侯に進封された。策命には次のようにあった。「朕は天の順序を承け、大業を嗣ぎ奉る。残賊を除き乱を靖めるが、まだその道理を明らかにしていない。今、寇虜が害をなし、民は苦しみに遭っている。漢を思う士は、首を長くして鶴のように待ち望んでいる。朕はこれにより憂い、座に安からず、食も味わわず、軍を整え誓いを告げ、天罰を行おうとしている。そなたの忠義と剛毅は、召公や虎(召穆公)に並び、名声は遠近に響き渡っている。故に特に顕命を下し、高い城壁(高位)に進め爵位を授け、京師の職務を兼ねさせる。そなたは天威を大いに発揮し、徳をもって人々を柔和に従わせ、刑罰をもって反逆を討伐し、朕の意にかなうようにせよ。詩に云わないか、『疚しからず棘からず、王国に来たり極まれ。敏かに戎功を肇め、用て爾に祉を錫う』と。努めよ、どうして努められないことがあろうか。」

原文曹公破張魯,留夏侯淵、張郃守漢川。郃別督諸軍下巴西,欲徙其民於漢中,進軍宕渠、蒙頭、蕩石,與飛相拒五十餘日。飛率精卒萬餘人,從他道邀郃軍交戰,山道迮狹,前後不得相救,飛遂破郃。郃棄馬緣山,獨與麾下十餘人從間道退,引軍還南鄭,巴土獲安。先主為漢中王,拜飛為右將軍、假節。章武元年,遷車騎將軍,領司隸校尉,進封西鄉侯,策曰:「朕承天序,嗣奉洪業,除殘靖亂,未燭厥理。今寇虜作害,民被荼毒,思漢之士,延頸鶴望。朕用怛然,坐不安席,食不甘味,整軍誥誓,將行天罰。以君忠毅,侔蹤召、虎,名宣遐邇,故特顯命,高墉進爵,兼司於京。其誕將天威,柔服以德,伐叛以刑,稱朕意焉。詩不云乎,『匪疚匪棘,王國來極。肇敏戎功,用錫爾祉』。可不勉歟!」

初め、張飛は雄壮で威猛であり、関羽に次ぐものであった。魏の謀臣の程昱らはみな、関羽・張飛は万人の敵であると称した。関羽は兵卒を大切にしたが士大夫には傲慢であり、張飛は君子を愛敬したが小人(下卒)を思いやらなかった。先主は常に戒めて言った。「そなたは刑罰や殺戮がすでに過度である上に、毎日のように健児(兵士)を鞭打ちながら、彼らを左右に置いている。これは禍を招く道である。」張飛はなおも改めなかった。先主が呉を討伐するとき、張飛は一万の兵を率いて、閬中から江州で合流することになっていた。出発に際し、その帳下の将の張達と范彊が張飛を殺害し、その首を持って流れに沿って孫権のもとに奔った。張飛の営の都督ととくが上表して先主に報告すると、先主は張飛の都督からの上表があると聞いて言った。「ああ、張飛が死んだのだ。」張飛に桓侯と追諡した。長子の張苞は早世した。次子の張紹が後を嗣ぎ、官は侍中尚書僕射に至った。張苞の子の張遵は尚書となり、諸葛瞻に従って綿竹におり、鄧艾と戦って戦死した。

原文初,飛雄壯威猛,亞於關羽,魏謀臣程昱等咸稱羽、飛萬人之敵也。羽善待卒伍而驕於士大夫,飛愛敬君子而不恤小人。先主常戒之曰:「卿刑殺既過差,又日鞭撾健兒,而令在左右,此取禍之道也。」飛猶不悛。先主伐吳,飛當率兵萬人,自閬中會江州。臨發,其帳下將張達、范彊殺飛,持其首,順流而奔孫權。飛營都督表報先主,先主聞飛都督之有表也,曰:「噫!飛死矣。」追諡飛曰桓侯。長子苞,早夭。次子紹嗣,官至侍中尙書僕射。苞子遵爲尙書,隨諸葛瞻於緜竹,與鄧艾戰,死。

馬超は字を孟起といい、右扶風茂陵の人である。父の騰は、霊帝の末年に辺章・韓遂らとともに西州で挙兵した。初平三年、韓遂と馬騰は兵を率いて長安ちょうあんに赴いた。漢朝廷は韓遂を鎮西将軍に任じて金城に帰還させ、馬騰を征西将軍に任じて郿に駐屯させた。後に馬騰は長安を襲撃したが敗走し、涼州に退いた。司隸校尉の鍾繇が関中を鎮守し、韓遂と馬騰に文書を送り、利害を説いた。馬騰は馬超を鍾繇に従わせて平陽で郭援と高幹を討伐させ、馬超の部将の龐徳が郭援の首を自ら斬った。後に馬騰は韓遂と不和になり、京畿への帰還を求めた。そこで朝廷は馬騰を召し出して衛尉とし、馬超を偏将軍に任じて都亭侯に封じ、馬騰の配下の兵を統率させた。(『典略』にいう。馬騰は字を寿成といい、馬援の後裔である。桓帝のとき、その父は字を子碩といい、かつて天水の蘭幹尉を務めた。後に官を失い、そのまま隴西に留まり、羌と入り混じって暮らした。家は貧しく妻もいなかったので、羌の女を娶って馬騰を生んだ。馬騰は若いとき貧しく産業もなく、常に彰山で材木を切り、背負って城市に売りに行き、自らを養った。馬騰は人となり身長八尺余り、体は大きく、顔や鼻は雄々しく異相であったが、性質は賢く厚かったので、人々は多く彼を敬った。霊帝の末、涼州刺史の耿鄙が奸吏を信任したため、民の王国らおよび氐・羌が反叛した。州郡は民の中で勇力のある者を募ってこれを討とうとし、馬騰は募兵の中にあった。州郡は彼を異才と見て軍従事に任じ、部衆を統率させた。賊を討って功があり、軍司馬に任じられ、後に功によって偏将軍に遷り、さらに征西将軍に遷って、常に汧・隴の間に駐屯した。初平中、征東将軍に任じられた。このとき西州は穀物が少なく、馬騰は自ら軍人が多く食糧に乏しいと上表し、池陽で穀物を得ることを求めて、長平の岸頭に移って駐屯した。ところが将の王承らは馬騰が自分たちの害になると恐れ、馬騰の陣営を攻撃した。このとき馬騰は近くに出かけていて備えがなく、破られて逃走し、西へ上った。折しも三輔が乱れ、再び東へ来ることはなく、鎮西将軍の韓遂と異姓の兄弟の契りを結び、初めは非常に親しくしていたが、後には次第に部曲をもって互いに侵し合い、かえって仇敵となった。馬騰が韓遂を攻めると、韓遂は逃走し、兵を集めて戻って馬騰を攻め、馬騰の妻子を殺し、兵を連ねて和解しなかった。建安の初め、国家の綱紀はほぼ緩み、そこで司隸校尉の鍾繇・涼州牧の韋端に命じてこれを和解させた。馬騰は召されて槐里に戻って駐屯し、前将軍に転任し、節を仮され、槐里侯に封じられた。北は胡寇に備え、東は白騎に備え、士を待遇し賢を進め、民の命をあわれみ救ったので、三輔は非常に安んじて彼を愛した。十五年、召されて衛尉となり、馬騰は自ら年老いたと見て、そのまま宿衛に入った。初め、曹操が丞相となったとき、馬騰の長子の馬超を召し出したが、応じなかった。馬超は後に司隸校尉督軍従事となり、郭援を討ち、飛矢に当たったが、袋でその足を包んで戦い、郭援を破ってその首を斬った。詔により徐州刺史に任じられ、後に諫議大夫に任じられた。馬騰が入朝すると、詔により偏将軍に任じられ、馬騰の陣営を統率させられた。また馬超の弟の馬休を奉車都尉に、馬休の弟を鉄騎都尉に任じ、その家族をすべて鄴に移したが、ただ馬超だけが留まった。)

原文馬超字孟起,右扶風茂陵人也。父騰,靈帝末與邊章、韓遂等俱起事於西州。初平三年,遂、騰率眾詣長安。漢朝以遂為鎮西將軍,遣還金城,騰為征西將軍,遣屯郿。後騰襲長安,敗走,退還涼州。司隸校尉鍾繇鎮關中,移書遂、騰,為陳禍福。騰遣超隨繇討郭援、高幹於平陽,超將龐德親斬援首。後騰與韓遂不和,求還京畿。於是徵為衛尉,以超為偏將軍,封都亭侯,領騰部曲。〈《典略》曰:騰字壽成,馬援後也。桓帝時,其父字子碩,嘗為天水蘭幹尉。後失官,因留隴西,與羌錯居。家貧無妻,遂娶羌女,生騰。騰少貧無產業,常從彰山中斫材木,負販詣城市,以自供給。騰為人長八尺餘,身體洪大,面鼻雄異,而性賢厚,人多敬之。靈帝末,涼州刺史耿鄙任信奸吏,民王國等及氐、羌反叛。州郡募發民中有勇力者,欲討之,騰在募中。州郡異之,署為軍從事,典領部眾。討賊有功,拜軍司馬,後以功遷偏將軍,又遷征西將軍,常屯汧、隴之間。初平中,拜征東將軍。是時,西州少穀,騰自表軍人多乏,求就谷於池陽,遂移屯長平岸頭。而將王承等恐騰為己害,乃攻騰營。時騰近出無備,遂破走,西上。會三輔亂,不復來東,而與鎮西將軍韓遂結為異姓兄弟,始甚相親,後轉以部曲相侵入,更為讎敵。騰攻遂,遂走,合眾還攻騰,殺騰妻子,連兵不解。建安之初,國家綱紀殆弛,乃使司隸校尉鍾繇、涼州牧韋端和解之。徵騰還屯槐裏,轉拜為前將軍,假節,封槐裏侯。北備胡寇,東備白騎,待士進賢,矜救民命,三輔甚安愛之。十(五)年,徵為衛尉,騰自見年老,遂入宿衛。初,曹公為丞相,辟騰長子超,不就。超後為司隸校尉督軍從事,討郭援,為飛矢所中,乃以囊囊其足而戰,破斬援首。詔拜徐州刺史,後拜諫議大夫。及騰之入,因詔拜為偏將軍,使領騰營。又拜超弟休奉車都尉,休弟鐵騎都尉,徙其家屬皆詣鄴,惟超獨留。〉

馬超が兵を統率すると、韓遂と連合し、楊秋・李堪・成宜らと結託して、軍を進めて潼関に至った。曹操は韓遂と馬超と単騎で会談した。馬超は自分の怪力を恃みに、密かに前に躍り出て曹操を捕らえようとしたが、曹操の側近の将である許褚が睨みつけたので、馬超は敢えて動けなかった。曹操は賈詡の計略を用いて馬超と韓遂を離間させ、互いに猜疑心を抱かせたため、軍は大敗した。馬超は逃走して諸戎を頼りにし、曹操は安定まで追撃したが、北方に事変が起こったため、軍を率いて東へ帰還した。楊阜が曹操に言った。「馬超は韓信かんしんや英布のような勇猛さを持ち、羌や胡の心を大いに得ています。もし大軍が帰還し、厳重に備えなければ、隴上の諸郡は国家のものではなくなります。」馬超は果たして諸戎を率いて隴上の郡県を攻撃し、隴上の郡県はすべてこれに呼応し、涼州刺史の韋康を殺し、冀城を占拠してその兵衆を手中に収めた。馬超は自ら征西将軍を称し、并へい州牧を兼ね、涼州の軍事を監督した。韋康の旧臣や民である楊阜・姜叙・梁寛・趙衢らは、共謀して馬超を攻撃した。楊阜と姜叙は鹵城で挙兵し、馬超は出撃してこれを攻めたが落とせなかった。梁寛と趙衢は冀城の門を閉ざしたので、馬超は入城できなかった。進退窮まり、狼狽した馬超は漢中に逃れて張魯を頼った。張魯は共に大事を計るに足らず、内心鬱屈していた馬超は、先主(劉備)が劉璋を成都で包囲していると聞き、密かに書簡を送って降伏を請うた。(『山陽公載記』にいう。初め、曹操の軍が蒲阪にあり、西へ渡ろうとしたとき、馬超は韓遂に言った。「渭水の北でこれを防ぐべきです。二十日も経たなければ、河東の穀物は尽き、彼らは必ず逃げるでしょう。」韓遂は言った。「渡らせてやり、河中で追い詰めるのが、なんと痛快ではないか!」馬超の計は行われなかった。曹操はこれを聞いて言った。「馬児が死ななければ、わしに葬られる土地はない。」『典略』にいう。建安十六年、馬超は関中の諸将である侯選・程銀・李堪・張横・梁興・成宜・馬玩・楊秋・韓遂ら、合わせて十部とともに皆反し、その兵は十万で、ともに河・潼を拠り、陣営を並べて陣を張った。この年、曹操が西征し、馬超らと河・渭の交わるところで戦い、馬超らは敗走した。馬超は安定に至り、そのまま涼州へ奔った。詔により馬超の家族を捕らえて滅ぼした。馬超はまた隴上で敗れた。後に漢中へ奔り、張魯は彼を都講祭酒とし、娘を娶わせようとしたが、ある者が張魯を諫めて言った。「これほどの者で自分の親を愛さない者が、どうして人を愛せましょうか。」張魯はそこで止めた。初め、馬超がまだ反していなかったとき、その妾の弟の種が三輔に留まっていたが、馬超が敗れると、種は先に漢中に入った。元日の朝、種が馬超に寿を祝うと、馬超は胸を打って血を吐いて言った。「一家百口が一朝にして同じ命を絶たれたのに、今二人で賀し合うのか。」後にしばしば張魯に兵を求めて、北のかた涼州を取ろうとし、張魯は遣わしたが利はなかった。また張魯の将の楊白らがその才能を害そうとしたので、馬超は武都から氐の中へ逃げ入り、転じて蜀へ奔った。この年は建安十九年である。)

原文超既統眾,遂與韓遂合從,及楊秋、李堪、成宜等相結,進軍至潼關。曹公與遂、超單馬會語,超負其多力,陰欲突前捉曹公,曹公左右將許褚瞋目盻之,超乃不敢動。曹公用賈詡謀,離間超、遂,更相猜疑,軍以大敗。〈山陽公載記曰:初,曹公軍在蒲阪,欲西渡,超謂韓遂曰:「宜於渭北拒之,不過二十日,河東穀盡,彼必走矣。」遂曰:「可聽令渡,蹙於河中,顧不快耶!」超計不得施。曹公聞之曰:「馬兒不死,吾無葬地也。」〉超走保諸戎,曹公追至安定,會北方有事,引軍東還。楊阜說曹公曰:「超有信、布之勇,甚得羌、胡心。若大軍還,不嚴為其備,隴上諸郡非國家之有也。」超果率諸戎以擊隴上郡縣,隴上郡縣皆應之,殺涼州刺史韋康,據冀城,有其眾。超自稱征西將軍,領并州牧,督涼州軍事。康故吏民楊阜、姜敘、梁寬、趙衢等,合謀擊超。阜、敘起於鹵城,超出攻之,不能下;寬、衢閉冀城門,超不得入。進退狼狽,乃奔漢中依張魯。魯不足與計事,內懷於邑,聞先主圍劉璋於成都,密書請降。〈《典略》曰:建安十六年,超與關中諸將侯選、程銀、李堪、張橫、梁興、成宜、馬玩、楊秋、韓遂等,凡十部,俱反,其眾十萬,同據河、潼,建列營陳。是歲,曹公西征,與超等戰於河、渭之交,超等敗走。超至安定,遂奔涼州。詔收滅超家屬。超復敗於隴上。後奔漢中,張魯以為都講祭酒,欲妻之以女,或諫魯曰:「有人若此不愛其親,焉能愛人?」魯乃止。初,超未反時,其小婦弟種留三輔,及超敗,種先入漢中。正旦,種上壽於超,超搥胸吐血曰:「闔門百口,一旦同命,今二人相賀邪?」後數從魯求兵,欲北取涼州,魯遣往,無利。又魯將楊白等欲害其能,超遂從武都逃入氐中,轉奔往蜀。是歲建安十九年也。〉

先主は人を遣わして馬超を迎え入れ、馬超は兵を率いて直接城下に至った。城中は震え上がり、劉璋はすぐに降伏した。先主は馬超を平西将軍に任じ、臨沮を監督させ、前の都亭侯の爵位をそのまま継承させた。(『典略』に曰く、劉備は馬超が到着したと聞き、喜んで「私は益州を得た」と言った。そこで人を遣わして馬超を止め、密かに兵を送ってこれを支援した。馬超が到着すると、軍を率いて城北に屯させ、馬超が到着してから十日も経たないうちに成都は崩壊した。『山陽公載記』に曰く、馬超は劉備の厚遇を見て、劉備と話す時、常に劉備の字を呼んだ。関羽は怒り、殺すことを請うた。劉備は「人は困窮して私に帰順してきた。卿らが怒って、私の字を呼んだという理由で殺したなら、どうやって天下に示すのか」と言った。張飛は「それならば、礼をもって示すべきです」と言った。翌日、大会を開き、馬超を招き入れた。関羽と張飛は刀を杖にして直立していた。馬超は座席を見回したが、関羽と張飛が見えず、彼らが直立しているのを見て、大いに驚き、それ以来二度と劉備の字を呼ばなかった。翌日、嘆いて「私は今、自分が敗れた理由を知った。人の主の字を呼んだため、危うく関羽と張飛に殺されるところだった」と言った。以後は劉備を尊んで仕えた。臣松之は按ずるに、馬超は困窮して劉備に帰順し、その爵位を受けたのに、どうして傲慢に劉備の字を呼ぶことがあろうか。また劉備が蜀に入った時、関羽を留めて荊州を鎮守させ、関羽はかつて益州の地にいなかった。それゆえ関羽は馬超が帰降したと聞き、手紙で諸葛亮に「馬超の才能は誰に比類できるか」と尋ねたが、書に云うようなことはありえない。関羽がどうして張飛と直立できようか。およそ人が事を行う時は、皆それが可能だと言い、不可と知れば行わない。馬超がもし本当に劉備の字を呼んだなら、それも理において当然だと言ったのであろう。仮に関羽が馬超を殺すことを請うたとしても、馬超は聞くはずもなく、ただ二人が直立しているのを見ただけで、どうしてすぐに字を呼んだためだと知り、危うく関羽と張飛に殺されるところだったと言えようか。言葉が道理に合わず、深く憤るべきである。袁暐、楽資ら諸家の記載は、汚雑で虚偽が多く、この類はほとんど数えきれない。)

原文先主遣人迎超,超將兵徑到城下。城中震怖,璋即稽首,〈典略曰:備聞超至,喜曰:「我得益州矣。」乃使人止超,而潛以兵資之。超到,令引軍屯城北,超至未一旬而成都潰。〉以超為平西將軍,督臨沮,因為前都亭侯。〈山陽公載記曰:超因見備待之厚,與備言,常呼備字,關羽怒,請殺之。備曰:「人窮來歸我,卿等怒,以呼我字故而殺之,何以示於天下也!」張飛曰:「如是,當示之以禮。」明日大會,請超入,羽、飛並杖刀立直,超顧坐席,不見羽、飛,見其直也,乃大驚,遂一不復呼備字。明日歎曰:「我今乃知其所以敗。為呼人主字,幾為關羽、張飛所殺。」自後乃尊事備。臣松之按以為超以窮歸備,受其爵位,何容傲慢而呼備字?且備之入蜀,留關羽鎮荊州,羽未嘗在益土也。故羽聞馬超歸降,以書問諸葛亮「超人才可誰比類」,不得如書所云。羽焉得與張飛立直乎?凡人行事,皆謂其可也,知其不可,則不行之矣。超若果呼備字,亦謂於理宜爾也。就令羽請殺超,超不應聞,但見二子立直,何由便知以呼字之故,云幾為關、張所殺乎?言不經理,深可忿疾也。袁暐、樂資等諸所記載,穢雜虛謬,若此之類,殆不可勝言也。〉

先主(劉備)が漢中王となると、馬超を左将軍に任命し、節を与えた。章武元年(221年)、驃騎将軍に昇進し、涼州牧を兼任し、斄郷侯に封ぜられた。策命にはこうある。「朕は不徳の身でありながら、至尊の位を継ぎ、宗廟を奉じている。曹操父子は代々その罪を積み重ね、朕は心を痛め、頭痛の病のようである。海内は怨み憤り、正道に帰り本に反する。氐や羌に至るまで服従し、獯鬻(匈奴)も義を慕う。そなたは北方で信義が顕著で、武威もともに輝いている。そこでそなたに委任し、虓虎(猛虎)のように奮い立たせ、万里を統轄させ、民の苦しみを救おう。朝廷の教化を明らかに宣べ、遠近を懐かしみ保ち、賞罰を厳かに慎み、漢の福を厚くし、天下に応えよ。」

原文先主為漢中王,拜超為左將軍,假節。章武元年,遷驃騎將軍,領涼州牧,進封斄鄉侯,策曰:「朕以不德,獲繼至尊,奉承宗廟。曹操父子,世載其罪,朕用慘怛,疢如疾首。海內怨憤,歸正反本,暨於氐、羌率服,獯鬻慕義。以君信著北土,威武並昭,是以委任授君,抗颺虓虎,兼董萬里,求民之瘼。其明宣朝化,懷保遠邇,肅慎賞罰,以篤漢祜,以對於天下。」

二年(222年)に死去。享年四十七歳。臨終に際して上疏した。「臣の一門二百余りは、孟徳(曹操)によってほとんど誅殺され尽くしました。ただ従弟の馬岱だけが、かろうじて宗族の祭祀を継ぐ者となります。深く陛下にお託し申し上げます。他に言うことはありません。」馬超を追贈して威侯と諡し、子の馬承が後を嗣いだ。馬岱は平北将軍の位に至り、陳倉侯に爵位を進めた。馬超の娘は安平王劉理に嫁いだ。〈『典略』によると、初め馬超が蜀に入った時、その庶妻の董氏と子の馬秋は、張魯のもとに留まり頼っていた。張魯が敗れると、曹公(曹操)は彼らを得て、董氏を閻圃に賜い、馬秋を張魯に引き渡した。張魯は自ら手ずから馬秋を殺した。〉

原文二年卒,時年四十七。臨沒上疏曰:「臣門宗二百餘口,為孟德所誅略盡,惟有從弟岱,當為微宗血食之繼,深讬陛下,餘無複言。」追諡超曰威侯,子承嗣。岱位至平北將軍,進爵陳倉侯。超女配安平王理。〈典略曰:初超之入蜀,其庶妻董及子秋,留依張魯。魯敗,曹公得之,以董賜閻圃,以秋付魯,魯自手殺之。〉

黄忠、字は漢升、南陽の人である。荊州牧劉表は彼を中郎将とし、劉表の従子の劉磐と共に長沙郡攸県を守備させた。曹公(曹操)が荊州を平定すると、仮の裨将軍の任を与え、以前の任務に就かせ、長沙太守韓玄の統属とした。先主(劉備)が南方の諸郡を平定すると、黄忠は帰順し、従って蜀に入った。葭萌で任務を受けてから、引き返して劉璋を攻撃した時、黄忠は常に先頭に立って敵陣に突入し、その勇猛果敢さは三軍の冠であった。益州が平定されると、討虜将軍に任命された。建安二十四年(219年)、漢中の定軍山で夏侯淵を攻撃した。夏侯淵の軍勢は非常に精強であったが、黄忠は鋭鋒を推し進めて必ず前進し、士卒を励まし率い、金鼓の音は天を震わし、歓声は谷を揺るがせ、一戦で夏侯淵を斬り、淵軍は大敗した。征西将軍に昇進した。この年、先主が漢中王となると、黄忠を後将軍に用いようとした。諸葛亮が先主に言った。「黄忠の名声は、もともと関羽・馬超の仲間とは言えません。今すぐに同列とされますと、馬超・張飛が近くにいて、その功績を目の当たりにしているので、まだ説明がつくかもしれませんが、関羽は遠くでこれを聞けば、必ずや喜ばないでしょう。それはまずいことではありませんか。」先主は言った。「私が自ら納得させる。」こうして関羽らと同等の位とし、関内侯の爵を賜った。翌年、死去。追贈して剛侯と諡した。子の黄敘は早くに亡くなり、後継ぎはなかった。

原文黃忠字漢升,南陽人也。荊州牧劉表以為中郎將,與表從子磐共守長沙攸縣。及曹公克荊州,假行裨將軍,仍就故任,統屬長沙守韓玄。先主南定諸郡,忠遂委質,隨從入蜀。自葭萌受任,還攻劉璋,忠常先登陷陣,勇毅冠三軍。益州既定,拜為討虜將軍。建安二十四年,於漢中定軍山擊夏侯淵。淵眾甚精,忠推鋒必進,勸率士卒,金鼓振天,歡聲動谷,一戰斬淵,淵軍大敗。遷征西將軍。是歲,先主為漢中王,欲用忠為後將軍,諸葛亮說先主曰:「忠之名望,素非關、馬之倫也。而今便令同列。馬、張在近,親見其功,尚可喻指;關遙聞之,恐必不悅,得無不可乎!」先主曰:「吾自當解之。」遂與羽等齊位,賜爵關內侯。明年卒,追諡剛侯。子敘,早沒,無後。

趙雲、字は子龍、常山郡真定県の人である。もともと公孫瓚に属していた。公孫瓚が先主(劉備)を田楷の下に派遣して袁紹を防がせた時、趙雲は従い、先主の主騎(騎兵の主管)となった。〈『雲別伝』によると、趙雲は身長八尺、姿形は雄偉で、本郡から推挙され、義勇兵と吏兵を率いて公孫瓚のもとに赴いた。当時袁紹は冀州牧を称しており、公孫瓚は州の者が袁紹に従うことを深く憂いていたので、趙雲が来て付いたことを喜び、趙雲をからかって言った。「そなたの州の人は皆、袁氏を望んでいるそうだが、そなたはどうしてひとり心を翻し、迷いながらも戻って来たのか。」趙雲は答えた。「天下は騒然として、どちらが正しいか分かりません。民衆は逆さに吊るされたような苦難にあります。私の州の議論では、仁政のあるところに従うのであって、袁氏を軽んじ私的に明将軍(公孫瓚)を重んじるわけではありません。」こうして公孫瓚と共に征討した。当時先主もまた公孫瓚に身を寄せており、趙雲を迎え入れるたびに、趙雲は深く心を通わせることができた。趙雲は兄の喪のため、公孫瓚に辞して一時帰郷した。先主は彼が戻らないことを知り、手を握って別れた。趙雲は辞して言った。「決して徳に背きません。」先主が袁紹のもとに身を寄せた時、趙雲は鄴で面会した。先主は趙雲と同床して眠り、密かに趙雲に命じて数百人を募らせた。皆、劉左将軍(劉備)の部曲と称し、袁紹には知られなかった。こうして先主に従って荊州に至った。〉先主が曹公(曹操)に追われて当陽の長阪にいた時、妻子を捨てて南へ逃走した。趙雲は自ら幼子(後の後主劉禅)を抱き、甘夫人(後の後主の母)を保護し、ともに難を免れた。牙門将軍に昇進した。先主が蜀に入った時、趙雲は荊州に留まった。〈『雲別伝』によると、初め、先主が敗れた時、趙雲が北へ去ったという者がいた。先主は手戟を投げつけて言った。「子龍は私を見捨てて逃げたりしない。」しばらくして趙雲が到着した。江南平定に従い、偏将軍とし、桂陽太守を兼任させ、趙範の後任とした。趙範の寡婦の兄嫁を樊氏といい、国色の持ち主であった。趙範は彼女を趙雲に娶わせようとした。趙雲は辞して言った。「あなたと私は同姓です。あなたの兄は私の兄と同じです。」固辞して許さなかった。当時、趙雲に娶るよう勧める者がいたが、趙雲は言った。「趙範は追い詰められて降伏しただけで、心は測りかねる。天下に女は少なくない。」遂に娶らなかった。趙範は果たして逃走し、趙雲には微塵の関わりもなかった。以前、夏侯惇と博望で戦った時、夏侯蘭を生け捕りにした。夏侯蘭は趙雲の同郷で、幼少の頃からの知り合いであった。趙雲は先主に彼を助命するよう申し出、夏侯蘭が法律に明るいことを推薦し、軍正に任じた。趙雲は自分に近づけようとはせず、その慎重な考え方はこのようなものであった。先主が益州に入った時、趙雲は留営司馬を兼任した。この時、先主の孫夫人(孫権の妹)は権勢を誇り豪勢で、多くの呉の吏兵を率い、勝手気ままに法を無視していた。先主は趙雲が厳格で重厚であることから、必ずや整えられるだろうと考え、特に内事(宮中の事)を掌ることを任せた。孫権は劉備が西征したと聞き、大いに舟船を派遣して妹を迎えさせた。そして夫人は内密に後主を連れて呉に帰ろうとした。趙雲と張飛は兵を率いて長江を遮断し、ようやく後主を取り戻した。〉

原文趙雲字子龍,常山真定人也。本屬公孫瓚,瓚遣先主為田楷拒袁紹,雲遂隨從,為先主主騎。〈雲別傳曰:雲身長八尺,姿顏雄偉,為本郡所舉,將義從吏兵詣公孫瓚。時袁紹稱冀州牧,瓚深憂州人之從紹也,善雲來附,嘲雲曰:「聞貴州人皆原袁氏,君何獨回心,迷而能反乎?」雲答曰:「天下訩訩,未知孰是,民有倒縣之厄,鄙州論議,從仁政所在,不為忽袁公私明將軍也。」遂與瓚征討。時先主亦依讬瓚,每接納雲,雲得深自結讬。雲以兄喪,辭瓚暫歸,先主知其不反,捉手而別,雲辭曰:「終不背德也。」先主就袁紹,雲見於鄴。先主與雲同床眠臥,密遣雲合募得數百人,皆稱劉左將軍部曲,紹不能知。遂隨先主至荊州。〉及先主為曹公所追於當陽長阪,棄妻子南走,雲身抱弱子,即後主也,保護甘夫人,即後主母也,皆得免難。遷為牙門將軍。先主入蜀,雲留荊州。〈雲別傳曰:初,先主之敗,有人言雲已北去者,先主以手戟擿之曰:「子龍不棄我走也。」頃之,雲至。從平江南,以為偏將軍,領桂陽太守,代趙範。範寡嫂曰樊氏,有國色,範欲以配雲。雲辭曰:「相與同姓,卿兄猶我兄。」固辭不許。時有人勸雲納之,雲曰:「範迫降耳,心未可測;天下女不少。」遂不取。範果逃走,雲無纖介。先是,與夏侯惇戰於博望,生獲夏侯蘭。蘭是雲鄉里人,少小相知,雲白先主活之,薦蘭明於法律,以為軍正。雲不用自近,其慎慮類如此。先主入益州,雲領留營司馬。此時先主孫夫人以權妹驕豪,多將吳吏兵,縱橫不法。先主以雲嚴重,必能整齊,特任掌內事。權聞備西徵,大遣舟船迎妹,而夫人內欲將後主還吳,雲與張飛勒兵截江,乃得後主還。〉

先主(劉備)は葭萌から引き返して劉璋を攻撃し、諸葛亮を召し寄せた。諸葛亮は趙雲と張飛らを率いてともに長江を遡って西上し、郡県を平定した。江州に至り、趙雲を外水から江陽へ向かわせ、諸葛亮と成都で合流するよう分遣した。成都が平定されると、趙雲を翊軍将軍に任じた。〈趙雲別伝によると、益州が平定されたとき、議論では成都の家屋や城外の園地・桑田を諸将に分け与えようとした。趙雲は反論して言った。「霍去病は匈奴が滅んでいないので、家を持つ必要はないと言った。今、国賊は匈奴だけでなく、安泰を求めることはできない。天下がすべて平定され、それぞれ故郷に帰り、本来の土地で耕作に戻ってからが適切である。益州の人民は、初めて戦乱に遭い、田畑や家屋はすべて返還できる。今、安心して住み、旧業に戻らせてから、ようやく租税や労役を課し、その歓心を得ることができる。」先主はただちにこれに従った。夏侯淵が敗れたとき、曹操は漢中の地を争い、北山の下に数千万袋の米を運んだ。黄忠はこれを奪取できると考え、趙雲の兵は黄忠に従って米を奪取しようとした。黄忠が期限を過ぎても戻らないので、趙雲は数十騎を率いて軽装で包囲を出て、黄忠らを迎えに行き様子を見た。ちょうど曹操が大軍を繰り出してきたところで、趙雲は曹操軍の先鋒に攻撃され、戦っているうちに敵の大軍が到着し、勢いが迫ったので、前進して敵の陣を突破し、戦いながら退却した。曹操軍は散り散りになったが、やがて再び集結し、趙雲は敵中に陥り、包囲陣に戻ろうとした。部将の張著が負傷したので、趙雲は再び馬を走らせて陣営に戻り張著を迎え入れた。曹操軍が包囲陣まで追撃してきた。このとき沔陽県長の張翼が趙雲の包囲陣内にいた。張翼は門を閉じて守ろうとしたが、趙雲は陣営に入ると、かえって門を大きく開け放ち、旗を伏せ、太鼓を鳴らさなかった。曹操軍は趙雲に伏兵があるのではないかと疑い、引き揚げた。趙雲は太鼓を雷のように鳴り響かせ、ただ弓兵を後方に配置して曹操軍を射た。曹操軍は驚き恐れ、自ら踏みつけ合い、漢水に落ちて死んだ者は非常に多かった。先主は翌朝自ら趙雲の陣営に来て、昨日の戦場を見回り、言った。「子龍(趙雲の字)は全身がすべて胆である。」音楽を奏でて宴会を開き、日暮れまで続け、軍中では趙雲を虎威将軍と呼んだ。孫権が荊州を襲撃すると、先主は大いに怒り、孫権を討伐しようとした。趙雲は諫めて言った。「国賊は曹操であって、孫権ではない。まず魏を滅ぼせば、呉は自然に服従する。曹操自身は死んだが、その子の曹丕が簒さん奪さんだつした。民衆の心に乗じて、早く関中を図り、黄河・渭水の上流に拠って凶逆を討てば、関東の義士は必ず食糧を携え馬を駆って王師を迎えるだろう。魏を放置して、先に呉と戦うべきではない。いったん戦端が開かれると、すぐには解決できない。」先主は聞き入れず、東征し、趙雲に江州を監督させて残した。先主が秭帰で敗れると、趙雲は進軍して永安に至ったが、呉軍はすでに撤退していた。〉建興元年、中護軍・征南将軍となり、永昌亭侯に封ぜられ、鎮東将軍に昇進した。五年、諸葛亮に従って漢中に駐屯した。翌年、諸葛亮が軍を出し、斜谷道から進むと宣伝したので、曹真が大軍を派遣してこれを防がせた。諸葛亮は趙雲と鄧芝に進んで防がせ、自身は祁山を攻撃した。趙雲と鄧芝の軍は弱く敵は強く、箕谷で敗れたが、兵をまとめて堅く守り、大敗には至らなかった。軍が退却した後、鎮軍将軍に降格された。〈趙雲別伝によると、諸葛亮は言った。「街亭の軍が退却したときは、兵と将が互いに連絡を取らなくなったが、箕谷の軍が退却したときは、兵と将が最初から離れ離れにならなかった。なぜか。」鄧芝は答えて言った。「趙雲自身が後衛を務め、軍需物資や雑具をほとんど捨てず、兵と将が離れ離れになる理由がなかった。」趙雲には軍需物資の余った絹があった。諸葛亮が将士に分け与えるよう命じると、趙雲は言った。「軍事で利益を得ていないのに、どうして賜り物があるのか。その物資はすべて赤岸の府庫に入れ、十月の冬の賜与に備えてください。」諸葛亮は大いにこれを良しとした。〉七年に死去し、順平侯と追諡された。初め、先主の時代には、法正だけが諡号を得た。後主の時代には、諸葛亮は功徳が世に並ぶものなく、蔣琬と費禕は国の重責を担い、やはり諡号を得た。陳祗は寵愛を受け厚遇され、特別に殊勲の賞を加えられ、夏侯霸はは遠くから帰順したので、やはり諡号を得た。そこで関羽、張飛、馬超、龐統、黄忠および趙雲に追諡が行われ、当時の論評では栄誉とされた。〈趙雲別伝には後主の詔が載せられている。「趙雲はかつて先帝に従い、功績はすでに顕著である。朕は幼少であり、艱難の道を歩んできたが、忠順に頼り恃み、危険を乗り越えてきた。諡は元勲を顕彰するものであり、外の議論では趙雲に諡を贈るのが適当である。」大将軍の姜維らが議論し、趙雲はかつて先帝に従い、功労はすでに顕著であり、天下を経営し、法度を遵守し、功績は記録すべきであると考えた。当陽の戦いでは、義は金石を貫き、忠をもって主君を守り、君はその賞を思い、礼をもって臣下を厚く遇し、臣は死を忘れた。死者に知があれば、不朽に足りる。生きている者は恩に感じ、身を捧げるに足る。謹んで諡法を按ずるに、柔賢慈恵を順と曰い、執事に班有るを平と曰い、禍乱を克定するを平と曰う。趙雲に順平侯と諡するのが相応しい。〉趙雲の子の趙統が後を継ぎ、官は虎賁中郎将に至り、行領軍を監督した。次子の趙広は牙門将となり、姜維に従って沓中に至り、戦場で戦死した。

原文先主自葭萌還攻劉璋,召諸葛亮。亮率雲與張飛等俱溯江西上,平定郡縣。至江州,分遣雲從外水上江陽,與亮會於成都。成都既定,以雲為翊軍將軍。〈雲別傳曰:益州既定,時議欲以成都中屋舍及城外園地桑田分賜諸將。雲駮之曰:「霍去病以匈奴未滅,無用家為,令國賊非但匈奴,未可求安也。須天下都定,各反桑梓,歸耕本土,乃其宜耳。益州人民,初罹兵革,田宅皆可歸還,今安居複業,然後可役調,得其歡心。」先主即從之。夏侯淵敗,曹公爭漢中地,運米北山下,數千萬囊。黃忠以為可取,雲兵隨忠取米。忠過期不還,雲將數十騎輕行出圍,迎視忠等。值曹公揚兵大出,雲為公前鋒所擊,方戰,其大眾至,勢偪,遂前突其陳,且鬥且卻。公軍散,已復合,雲陷敵,還趣圍。將張著被創,雲復馳馬還營迎著。公軍追至圍,此時沔陽長張翼在雲圍內,翼欲閉門拒守,而雲入營,更大開門,偃旗息鼓。公軍疑雲有伏兵,引去。雲雷鼓震天,惟以戎弩於後射公軍,公軍驚駭,自相蹂踐,墮漢水中死者甚多。先主明旦自來至雲營圍視昨戰處,曰:「子龍一身都是膽也。」作樂飲宴至暝,軍中號雲為虎威將軍。孫權襲荊州,先主大怒,欲討權。雲諫曰:「國賊是曹操,非孫權也,且先滅魏,則吳自服。操身雖斃,子丕篡盜,當因眾心,早圖關中,居河、渭上流以討凶逆,關東義士必裹糧策馬以迎王師。不應置魏,先與吳戰;兵勢一交,不得卒解。」先主不聽,遂東征,留雲督江州。先主失利於秭歸,雲進兵至永安,吳軍已退。〉建興元年,為中護軍、征南將軍,封永昌亭侯,遷鎮東將軍。五年,隨諸葛亮駐漢中。明年,亮出軍,揚聲由斜谷道,曹真遣大眾當之。亮令雲與鄧芝往拒,而身攻祁山。雲、芝兵弱敵強,失利於箕谷,然斂眾固守,不至大敗。軍退,貶為鎮軍將軍。〈雲別傳曰:亮曰:「街亭軍退,兵將不復相錄,箕穀軍退,兵將初不相失,何故?」芝答曰:「雲身自斷後,軍資什物,略無所棄,兵將無緣相失。」雲有軍資餘絹,亮使分賜將士,雲曰:「軍事無利,何為有賜?其物請悉入赤岸府庫,須十月為冬賜。」亮大善之。〉七年卒,追諡順平侯。初,先主時,惟法正見諡;後主時,諸葛亮功德蓋世,蔣琬、費禕荷國之重,亦見諡;陳祗寵待,特加殊獎,夏侯霸遠來歸國,故複得諡;於是關羽、張飛、馬超、龐統、黃忠及雲乃追諡,時論以為榮。〈雲別傳載後主詔曰:「雲昔從先帝,功積既著。朕以幼沖,涉塗艱難,賴恃忠順,濟於危險。夫諡所以敘元勳也,外議雲宜諡。」大將軍姜維等議,以為雲昔從先帝,勞績既著,經營天下,遵奉法度,功效可書。當陽之役,義貫金石,忠以衛上,君念其賞,禮以厚下,臣忘其死。死者有知,足以不朽;生者感恩,足以殞身。謹按諡法,柔賢慈惠曰順,執事有班曰平,克定禍亂曰平,應諡雲曰順平侯。〉雲子統嗣,官至虎賁中郎,督行領軍。次子廣,牙門將,隨姜維遝中,臨陳戰死。

評するに、関羽と張飛はいずれも万人の敵と称され、世の虎臣であった。関羽は曹操に恩義に報い、張飛は義をもって厳顔を釈放し、ともに国士の風があった。しかし関羽は剛直で自らを誇り、張飛は暴虐で恩情がなく、短所によって敗北を招いたのは、道理の常である。馬超は戎族を頼み勇を恃んで、その一族を滅ぼしたのは惜しいことだ。窮地から泰平を招くことができたなら、なおまさっていたのではないか。黄忠と趙雲は強靭で雄壮勇猛であり、ともに爪牙として働き、それは灌嬰や滕公の類であろうか。

原文評曰:關羽、張飛皆稱萬人之敵,為世虎臣。羽報效曹公,飛義釋嚴顏,並有國士之風。然羽剛而自矜,飛暴而無恩,以短取敗,理數之常也。馬超阻戎負勇,以覆其族,惜哉!能因窮致泰,不猶愈乎!黃忠、趙雲強摯壯猛,並作爪牙,其灌、滕之徒歟?

この作品は全世界で公有領域に属します。著者の没後100年以上が経過し、作品は1931年1月1日以前に出版されたためです。

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