三國志
魏書・任城陳蕭王伝
任城威王曹彰は、 字 を子文という。若い頃から弓馬に優れ、膂力は人並み外れ、素手で猛獣と格闘し、険阻な場所も恐れなかった。幾度も征伐に従軍し、志は雄々しかった。太祖( 曹操 )はかつて彼を戒めて言った。『お前は学問に励み聖人の道を慕うことを考えず、馬を駆り剣を振るうことを好む。これは一介の武夫の役割に過ぎず、何の貴ぶところがあろうか』。曹彰に『詩経』『書経』を読むよう課したが、曹彰は側近に言った。『大丈夫たるもの、衛青・霍去病のように十万の騎兵を率いて沙漠を駆け、戎狄を駆逐し、功を立て名声を上げるべきだ。どうして博士ごときになれようか』。太祖がかつて息子たちの好みを尋ね、それぞれ志を言わせた。曹彰は言った。『将軍になることを好みます』。太祖が『将軍になるにはどうするか』と問うと、答えて言った。『堅い鎧を着て鋭い武器を執り、難局に臨んでも顧みず、兵卒の先頭に立ち、賞は必ず行い、罰は必ず信を守ります』。太祖は大笑いした。建安二十一年、鄢陵侯に封じられた。
二十三年、代郡の烏丸が反乱した。曹彰を北中 郎 将とし、 驍 騎将軍を代行させた。出発に際し、太祖は曹彰を戒めて言った。『家では父子、公務では君臣である。行動はすべて王法に従って行え。よく戒めよ』。曹彰が北征し、涿郡の境界に入ると、反乱した胡の数千騎が突然到来した。当時、兵馬はまだ集まっておらず、歩兵千人、騎兵数百騎しかいなかった。田 豫 の計略を用い、要害を固守したので、敵は退散した。曹彰はこれを追撃し、自ら戦闘に加わり、胡の騎兵を射て、弦に応じて倒れる者が前後相連なった。戦いは半日を過ぎ、曹彰の鎧には数本の矢が刺さったが、意気はますます奮い、勝ちに乗じて敗走する敵を追撃し、桑乾に至った。(臣の松之が案ずるに、桑乾県は代郡に属し、今は北方の虜が居住し、索干の都と号している。)代から二百余里の地点である。長史や諸将は皆、新たに遠征し、兵馬が疲弊していること、また命令を受けて代を越えてはならない制約があることから、深く進軍すべきでなく、命令に背き敵を軽視するのは良くないと考えた。曹彰は言った。『軍を率いて進むのは、ただ利益のあるところに向かうのであって、何の制約があろうか。胡はまだ遠くへ逃げておらず、追えば必ず撃破できる。命令に従って敵を逃がすのは、良将ではない』。そこで馬に乗り、軍中に令した。『後に出る者は斬る』。一日一夜で敵に追いつき、攻撃して大破し、斬首と捕虜は数千に上った。曹彰は通常の倍の恩賞を将兵に賜り、将兵は皆喜んだ。当時、鮮卑の大人(部族長)軻比能が数万騎を率いて強弱を観望していたが、曹彰が奮戦し向かうところ全てを撃破するのを見て、降伏を請うた。北方はすべて平定された。当時、太祖は長安におり、曹彰を行在所に召し出した。曹彰は代から鄴を通る時、太子(曹丕)が曹彰に言った。『卿は新たに功績を立てた。今、西へ上(皇帝)に会いに行くのだから、自ら功を誇ることはせず、応対は常に不足しているかのようにすべきだ』。曹彰が到着すると、太子の言う通りにし、功績を諸将に帰した。太祖は喜び、曹彰のひげを握って言った。『黄ひげの児(若者)は、ついに大いに非凡であったな』。(『魏略』によると、太祖が漢中にいた時、 劉備 が山頭に陣取り、劉封を下して挑戦させた。太祖は罵って言った。『履売りの小僧め、いつまで 養子 にわしを防がせるつもりか。我が黄ひげを呼んで、奴を撃たせよう』。そこで曹彰を召し出した。曹彰は昼夜を分かたず進軍し、西の長安に到着した時には太祖はすでに帰還し、漢中から戻っていた。曹彰のひげは黄色かったので、そう呼んだのである。)
太祖が東へ帰還すると、曹彰を行越騎将軍とし、長安に留め置いた。太祖が 洛陽 に到着し、病気になり、駅伝で曹彰を召し出したが、到着する前に太祖は崩御した。(『魏略』によると、曹彰が到着し、臨菑侯曹植に言った。『先王が私を召し出したのは、お前を立てようとしたからだ』。曹植は言った。『いけない。袁氏兄弟の例を見ないのか』。)文帝(曹丕)が王位に即くと、曹彰は諸侯と共に封国へ赴いた。(『魏略』によると、太子が後を継ぎ、葬儀が終わると、曹彰を封国へ派遣した。初め曹彰は、先王に任用され功績があったことを自負し、これによって任用されることを期待していたが、定例に従うと聞き、非常に不満で、派遣を待たずに出発した。当時、鄢陵は土地が痩せていたため、中牟を治めさせた。帝が禅譲を受けると、これにより中牟王に封じられた。その後、天子の車駕が許昌に行幸した時、北方の州の諸侯や上下の者は皆、曹彰の剛直で厳格なことを恐れ、中牟を通るたびに、速やかに通過せざるを得なかった。) 詔 が下った。『先王の道は、功績を評価し親族を親しみ、同母弟を立てて国を開き家を継がせ、それによって大宗(皇室)を守り、外侮を防ぎ難を鎮めるのである。曹彰は以前、命を受けて北伐し、北方の地を平定した。その功績は大きい。五千戸を加増し、以前の分と合わせて一万戸とする』。黄初二年、爵位を公に進めた。三年、任城王に立てられた。四年、京都に朝見し、邸で病気により 薨去 した。諡は威という。(『魏氏春秋』によると、初め、曹彰が 璽綬 (帝位の印)について問い、異心を抱こうとしたので、朝見してもすぐには会えなかった。曹彰は憤慨して急死した。)葬儀に際し、鑾輅(皇帝の車)・龍旂(龍の旗)、虎賁(近衛兵)百人を賜り、漢の東平王の故事に倣った。子の曹楷が後を継ぎ、中牟に転封された。五年、任城県に改封された。太和六年、再び任城国に改封され、五県二千五百戸を食邑とした。青龍三年、曹楷は私的に官属を中尚方に派遣して禁制品を作らせた罪により、県二千戸を削られた。正始七年、済南に転封され、三千戸。正元・景元の初め、相次いで食邑を加増され、合わせて四千四百戸となった。(曹楷は、泰始の初めに崇化少府となり、『百官名』に見える。)
陳思王曹植は、字を子建という。十歳余りの時、『詩経』『論語』および辞賦数十万言を誦読し、文章を作るのが得意だった。太祖がかつて彼の文章を見て、曹植に言った。『お前は人に代筆させたのか』。曹植は跪いて言った。『口に出せば議論となり、筆を下せば文章となります。どうかその場で試させてください。どうして人に代筆させましょうか』。当時、鄴の銅爵台が新たに完成した。太祖はすべての息子たちを連れて台に登り、それぞれに賦を作らせた。曹植は筆を取ってすぐに書き上げ、見るべきものがあり、太祖は非常に驚いた。(陰澹の『魏紀』に載せる曹植の賦は『明后(英明な君主)に従って遊び戯れ、層台に登って心を楽しませる。太府(宮殿)の広く開かれるのを見、聖徳の営まれるところを観る。高門のそびえ立つを建て、双闕を太清(天空)に浮かべる。中天の華観を立て、飛閣を西城に連ねる。漳水の長く流れるに臨み、園果の栄えるのを望む。春風の和やかなるを仰ぎ、百鳥の悲鳴を聴く。天の雲が垣のように既に立ち、家の願い得て成就せん。仁化を宇内に揚げ、上京(都)に尽くして恭しくする。桓公・文公の盛んなるを思うも、どうして聖明に比べられようか。休(美)しいかな、美しいかな。恵みの沢は遠くに揚がる。我が皇家を翼佐し、四方を安んず。天地の規量に同じくし、日月の輝光に並ぶ。永遠に尊くして極まりなく、年寿を東王(長寿の神)に等しくせん』などである。太祖は深く驚いた。)性格は質素で飾り気がなく、威儀を整えようとしなかった。車馬や服飾も華美を好まなかった。進見して難しい質問を受けるたびに、声に応じて答え、特に寵愛を受けた。
建安十六年、平原侯に封じられた。十九年、臨菑侯に転封された。太祖が 孫権 を征伐する時、曹植に鄴を留守させ、戒めて言った。『私はかつて頓邱の県令だった時、二十三歳だった。当時の行いを思うと、今も後悔はない。今、お前も二十三歳だ。努めよ』。曹植はすでに才能によって異例の扱いを受け、丁儀・丁廙・楊脩らがその補佐をした。太祖はためらい、幾度か太子に立てようとした。しかし曹植はわがままに振る舞い、自らを磨き励ますこともなく、酒を節制しなかった。文帝(曹丕)は術を用いて対処し、感情を偽って自らを飾り立て、宮中の者や側近も皆、彼のために説得したので、ついに後継者に定められた。
二十二年、封邑を五千戸増やし、以前の分と合わせて一万戸となった。曹植がかつて車に乗って馳道の中を行き、司馬門を開けて出たことがあった。太祖は大いに怒り、公車令は死罪に処せられた。これにより諸侯に対する禁令が厳しくなり、曹植の寵愛は日ごとに衰えていった。『魏武故事』に載せる令に言う。『初めは子建(曹植)を、子供の中で最も大事を定められる者だと思っていた』。また令に言う。『臨菑侯曹植が私的に外出し、司馬門から金門まで開けて以来、私はこの子を見る目が変わってしまった』。また令に言う。『諸侯の長史や帳下の吏は、私が出るとすぐに諸侯を連れて行こうとする意図を知っているのか?曹植が私的に司馬門を開けて以来、私はもはや諸侯を全く信じていない。私がちょうど外出した隙に、また私的に外出するのではないかと恐れるので、連行して行くのだ。常に私が誰を心腹とすればよいのか分からなくなるのは良くない!』太祖はすでに後継ぎをめぐる変事を憂慮し、楊脩がかなり才策に富み、しかも袁氏の甥であったため、罪を以て楊脩を誅殺した。曹植はますます内心安らかでなくなった。『典略』に言う。楊脩は字を徳祖といい、 太尉 楊彪の子である。謙虚で恭しく、才知に富み博識であった。建安年間、 孝廉 に推挙され、郎中に任じられ、丞相(曹操)は彼を倉曹属主簿に任命した。この時、軍国多事であり、楊脩は内外のことを総括して知り、事柄はすべて意にかなった。魏の太子(曹丕)以下、みな争って彼と交際を結ぼうとした。またこの時、臨菑侯曹植は才気の鋭さで寵愛を受けており、楊脩に心を寄せて接近し、たびたび楊脩に手紙を送った。その手紙に言う。
数日会わないと、あなたを思って苦しくなる。あなたも同じように思っていることだろう。私は幼い頃から詞賦を好み、今に至るまで二十五年になる。しかし今世の作者について、おおよそ言うことができる。かつて王粲(仲宣)は漢南で独歩し、陳琳(孔璋)は河朔で鷹揚し、徐幹(偉長)は青土で名声を独占し、劉楨(公幹)は海辺で文藻を振るい、応瑒(徳璉)は大魏で頭角を現し、あなた(楊脩)は上京で高く評価されている。この時、人はみな自分が霊蛇の珠を握り、家々はみな自分が荊山の玉を抱いていると思い込んでいた。我が王(曹操)はそこで天網を張って彼らを網羅し、八方の綱を整えて彼らを包み込み、今やみなこの国に集まっている。しかしこの数人でも、まだ飛翔して跡を絶ち、一挙に千里を行くことはできない。陳琳の才能をもってしても、辞賦に熟達せず、しばしば自分は司馬相如(長卿)と同じ風格だと言っているのは、虎を描いて成らずかえって狗になるようなものだ。以前手紙で彼をからかったが、返事で論を述べて盛んに私が彼の文章を褒めたと言っている。鍾子期は聞き誤ることがなく、今も称えられている。私もやみくもに感嘆することはできない。後世の人に嘲笑われるのが怖いからだ。世の人の著述には、欠点がないわけではない。私は常に人が自分の文章を批評するのを好み、良くないところがあれば、すぐに改め定める。かつて丁廙(敬礼)が小文を作り、私に潤色させようとしたことがあった。私は自分の才能がその人に及ばないと思い、辞退してしなかった。丁廙は言った。『あなたは何をためらっているのですか!文章の佳麗さは、私自身が得るものです。後世に誰が私の文章を定めた者を知るでしょうか?』私は常にこの達観した言葉に感嘆し、美談だと思っている。かつて孔子(尼父)の文章は、人と共通して流布していたが、『春秋』を制作するに至っては、子游・子夏の徒でも一字も加減することができなかった。これを超えて文章に欠点がないと言う者を、私は見たことがない。南威のような容貌があって初めて淑女について論じることができ、龍淵のような鋭利さがあって初めて切断について議論することができる。劉季緒の才能は作者に及ばないのに、文章を誹謗し、その得失を指摘するのが好きだ。かつて田巴が五帝を毀り、三王を罪し、稷下で五覇を非難し、一日で千人を屈服させたが、魯仲連の一説で、終身口を閉ざさせられた。劉生の弁舌は田氏ほどではないが、今の仲連を求めるのは難しくない。嘆息せずにいられようか!人にはそれぞれ好みがある。蘭や茝、蓀や蕙の芳香は、多くの人が好むものだが、海辺には臭いを追う者もいる。『咸池』『六英』の演奏は、多くの人が楽しむものだが、墨翟にはそれを非難する論がある。どうして同じにできようか!今、私が幼少時に書いた詞賦一通を送る。街談巷説にも必ず採るべきものがあり、車轅を打つ歌にも風雅に応じるものがある。一介の者の考えも、軽々しく棄てるべきではない。辞賦は小道に過ぎず、もとより大義を宣揚し、来世に示すには足りない。かつて揚雄(子雲)は、前朝の執戟の臣に過ぎなかったが、それでも『壮夫は為さず』と称した。私は徳が薄いとはいえ、藩侯の位にあり、なおも国に力を尽くし、恵みを下民に流し、永世の業を建て、金石に刻まれる功績を残したいと思っている。どうしてただ筆墨で勲績とし、辞頌で君子たることを願おうか。もし私の志が成就せず、私の道が行われなければ、史官の実録を採り、時俗の得失を弁じ、仁義の中心を定め、一家の言を成そう。名山に蔵することはできなくとも、同じ好みの者に伝えよう。これは白髪になるまでかかることであり、どうして今日論じることができようか!この言葉に恥じないのは、恵子(恵施)が私を知っていることを頼りにしているからだ。明朝お迎えに上がる。手紙では思いを尽くせない。
楊脩は答えて言った。
数日お仕えしないだけで、まるで何年も経ったように感じます。これはただ寵愛顧慮の厚さだけでなく、慕い仰ぐ気持ちを深くさせているからでしょうか!お手紙をいただき、その文は豊かに美しい。繰り返し誦読しますが、『風』『雅』『頌』でも、これを超えるものはありません。王粲が江表で名声を独占し、陳琳が 冀州 の地に跨り、徐幹・劉楨が 青州 ・ 豫 州で顕れ、応瑒が魏国で頭角を現したのは、すべてその通りです。私のような者に至っては、風声を聞き採り、徳を仰ぎ見るのに暇がなく、目はあちこち見回して省覧するのに忙しく、どうして高く評価されることに慌て恐れようでしょうか?伏して思うに、君侯(曹植)は幼少より貴盛であり、周公旦や武王発の資質を持ち、聖人のような善き教えを受けられました。遠近の見る者は、ただ懿徳を宣揚し、大業を光輝あるものに賛えることができると思っているだけで、さらに伝記を兼ねて覧み、文章に思いを留められるとは思っていませんでした。今や王粲を包含し陳琳を超越し、この数人を度外れています。見る者は驚いて目を見張り、聞く者は首を傾けて耳をそばだてます。天性を通達させ、自然から授かったものでなければ、誰がここまで至ることができましょうか?またかつて執事(曹植)が簡札を握り筆を持ち、何かを作られるのを親しく見ましたが、まるで心の中で暗誦しているかのように、手が借りて書いているようで、少しも思慮を留める間もありませんでした。孔子の日月にも、越えることはできません。私の仰ぎ望むことは、まさにこのようなものです。そのため鶡(勇鳥)に対して辞し、『暑賦』を作っても一日中献上せず、西施の容貌を見て、帰って自分の容貌を憎むようなものです。伏して思うに、執事はそのような事情をご存知ないので、辱くも顧み賜り、刊定するようお教えくださったのでしょう。『春秋』が完成すれば、誰も増減できません。『呂氏春秋』『淮南子』は、一字千金と言われます。しかし弟子は口を閉ざし、市人は拱手するのは、聖賢が卓越し、もとより凡庸と異なるからです。今の賦頌は、古詩の流れをくみ、孔子のごときでなければ、風雅と区別がつきません。私の一族の揚雄は、年老いても物事をわきまえず、無理に一書を著し、若い時の作品を後悔しました。もしこれがそうなら、仲山甫や周公旦の徒も、みな過ちがあることになります!君侯は聖賢の顕著な事跡をお忘れになり、私の一族の過言を述べられるのは、思慮が足りないとひそかに思います。もし経国の大いなる美しさを忘れず、千年の英声を流し、功績を景鐘に銘じ、名を竹帛に書くなら、これはもとより雅量に蓄えられていることであり、どうして文章と妨げ合うことがありましょうか?ただちに恵みを受けたものを、ひそかに朦瞍(盲目の楽人)の誦歌に備えるだけです。どうして恵施の恵みを忘れ、荘子に辱めを与えましょうか!劉季緒のような取るに足らない者など、何と申し上げられましょう。
彼らが互いに往来するのは、このように非常に頻繁であった。曹植は後に驕慢で勝手な振る舞いによって疎遠されたが、曹植は依然として楊脩との関係を断たず、楊脩もまた自ら関係を絶つことはできなかった。建安二十四年の秋、曹操は楊脩が前後して言葉や教えを漏らし、諸侯と交際したことを理由に、彼を捕らえて処刑した。楊脩は死に臨んで、旧友に言った。『私はもともと死ぬのが遅すぎたと思っていた。』その意味は、曹植に連座したことによるものだと考えていた。楊脩が死んでから百余日後に太祖(曹操)が崩御し、太子(曹丕)が立ち、ついに天下を有することとなった。初め、楊脩は手に入れた王髦の剣を太子に献上し、太子は常にそれを佩用していた。帝位に即いた後、洛陽で、ゆったりと宮殿を出て、楊脩の過失が軽かったことを思い返し、その剣を撫でながら、車を止めて左右の者を見回して言った。『これは楊徳祖(楊脩)がかつて称賛した王髦の剣である。王髦は今どこにいるのか?』そこで王髦を召し出して会い、穀物と絹を賜った。◎摯虞の『文章志』に言う。劉季緒は名を脩といい、劉表の子である。官は東安太守に至った。詩、賦、頌六篇を著した。◎臣の松之が考えるに、『呂氏春秋』に言う。『体臭のひどい者がいた。その兄弟妻子も皆、彼と一緒に住むことができず、その人は自ら苦しんで海上に住んだ。海上の人でその臭いを好む者がいて、昼夜彼に付き従って離れようとしなかった。』これが曹植の言う『臭いを追う者』である。田巴の事は『魯連子』に出ており、『皇覧』にも見えるが、文が多いのでここには載せない。◎『世語』に言う。楊脩は二十五歳の時、名高い公子として才能があり、太祖に重んじられ、丁儀兄弟と共に、曹植を後継者にしようとした。太子(曹丕)はこれを憂い、車に空の籠を載せ、朝歌県令の呉質を中に入れて謀議した。楊脩はこれを太祖に報告したが、追及調査する前に、太子は恐れて呉質に告げた。呉質は言った。『何を憂うることがあろうか。明日また籠に絹を入れて車内に受け入れ、彼を惑わせよ。楊脩は必ずまた重ねて報告するだろう。重ねて報告すれば必ず追及調査があり、証拠がなければ、彼は罪を受けることになる。』世子はこれに従い、楊脩は果たして報告したが、中には誰もおらず、太祖はこれによって疑うようになった。楊脩は賈逵、王淩と共に主簿を務め、曹植の友であった。毎回曹植のもとに行く時、事柄に不備がないか慮り、太祖の意を推し量って、あらかじめ十数条の回答例を作り、門下に命じて、命令が出されたら順番に答えさせた。命令がようやく出ると、回答はすでに入ってきており、太祖はその速さを怪しみ、問い詰めて初めて漏れたことを知った。太祖は太子と曹植をそれぞれ 鄴城 の一つの門から出させ、密かに門衛に出させないように命じ、彼らの行動を観察した。太子は門に至り、出ることができずに戻った。楊脩は事前に曹植に戒めて言った。『もし門が出させないなら、侯(曹植)は王の命令を受けており、守衛を斬ることができる。』曹植はこれに従った。それ故に楊脩は交際して結託した罪で死を賜ることとなった。楊脩の子は楊囂、楊囂の子は楊準で、皆晋の時代に名を知られた。楊囂は泰始初年に典軍将軍となり、心腹の任を受け、早くに亡くなった。楊準は字を始丘といい、恵帝の末年に冀州 刺史 となった。◎荀綽の『冀州記』に言う。楊準は朝廷の綱紀が振るわないのを見て、酒に耽り、官事を意に介さず、悠々と歳月を過ごしただけだった。成都王(司馬穎)は楊準が政治を行わないと知りながらも、彼が名士であることを惜しんで責めず、軍謀祭酒に召し出した。府が解散して家に留まり、関東の諸侯は楊準を三公(三事)に補任して、賢者を懐かしみ徳を尊ぶ挙を示そうと議した。事は実行されないうちに楊準は亡くなった。楊準の子、楊嶠は字を国彦、楊髦は字を士彦といい、共に後世に出た俊英である。楊準は裴頠、楽広と親しく、二人の子を行かせて会わせた。裴頠の性格は寛大で方正であり、楊嶠の高い風格を愛して、楊準に言った。『楊嶠はあなたに及ぶだろうが、楊髦は少し劣る。』楽広の性格は清らかで純朴であり、楊髦の優れた品性を愛して、楊準に言った。『楊嶠は自ずとあなたに及ぶが、楊髦は特に優れている。』楊準は嘆じて言った。『私の二人の子の優劣は、裴頠と楽広の優劣である。』評する者は、楊嶠には高い風格があるが、品性は及ばず、楽広の言うことが正しいと考えた。傅暢は言う。『楊嶠は楊準に似ているが粗雑である。』楊嶠の弟の楊俊は字を惠彦といい、最も清らかで優れていた。楊嶠、楊髦は共に二千石の官に就いた。楊俊は太傅掾となった。
建安二十四年、 曹仁 が 関羽 に包囲された。太祖(曹操)は曹植を南中郎将、行征虜将軍とし、曹仁を救援させようとして呼び出し、戒めの言葉を与えようとした。曹植は酔って命令を受けることができず、そこで後悔して取りやめた。〈『魏氏春秋』に言う。曹植が行こうとした時、太子(曹丕)が酒を勧め、強いて酔わせた。魏王(曹操)が曹植を召し出したが、曹植は王命を受けることができず、故に王は怒った。〉
文帝(曹丕)が魏王の位に即くと、丁儀、丁廙とその男子を誅殺した。〈『魏略』に言う。◎丁儀は字を正礼といい、沛郡の人である。父の丁沖は、以前から太祖と親しく、当時天子の車に随行していた。国家が未だ安定していないのを見て、太祖に手紙を書いた。『あなたは平生、常に匡弼輔佐の志を慨嘆しておられましたが、今がその時です。』この時、張楊がちょうど河内に帰還したところで、太祖はその手紙を得て、軍を率いて天子を迎え、東の許へ行き、丁沖を司隷 校尉 とした。後に何度も諸将のもとを訪れて酒を飲み、酒が美味しくて止められず、酔って腸が爛れて死んだ。太祖は丁沖が以前に導き開いたことを、常に恩徳と感じていた。丁儀が優れた士であると聞き、まだ会っていなかったが、愛娘を娶らせようと考え、五官将(曹丕)に尋ねた。五官将は言った。『女性は容貌を見るものです。正礼(丁儀)は目が不自由ですから、愛娘が必ずしも喜ばないかもしれません。伏波将軍( 夏侯惇 )の子の夏侯楙と結婚させる方が良いと思います。』太祖はこれに従った。やがて丁儀を掾に辟召し、会って議論すると、その才能の明るさを賞賛し、言った。『丁掾は立派な士だ。たとえ両目が見えなくても、なお娘をやるべきだ。ましてやただ片目が悪いだけではないか。我が子が私を誤らせた。』当時、丁儀もまた公主を娶ることができなかったことを恨み、臨菑侯(曹植)と親しく、しばしばその奇才を称えた。太祖が既に曹植を立てようと考えていた時、丁儀もまた共にこれを支持した。太子が立つと、丁儀を罪に治めようとし、丁儀を右刺奸掾に転任させ、丁儀に自決するよう望んだが、丁儀はできなかった。そこで中領軍の夏侯尚に叩頭して哀願したが、夏侯尚は涙を流すだけで救うことができなかった。後に職務上の事柄を理由に捕らえて獄に下し、殺した。◎丁廙は字を敬礼といい、丁儀の弟である。『文士伝』に言う。丁廙は若い時から才能と風采があり、博学で見聞が広かった。初め公府に辟召され、建安年間に黄門侍郎となった。丁廙はかつてゆったりと太祖に言った。『臨菑侯は天性仁孝で、自然に発露し、聡明で知恵が通じ、ほとんど完璧に近い。博学で識見が深く、文章は比類ない。当今天下の賢才君子は、年齢を問わず、皆彼に従って遊び、彼のために死ぬことを願っています。これは実に天が大魏に福を集め、永遠に尽きることのない国運を授けようとされているのです。』太祖を動かそうとした。太祖は答えた。『曹植は、私が愛している。どうしてあなたの言うようになれようか!彼を後継者に立てようと思うが、どうか?』丁廙は言った。『これは国家の興衰、天下の存亡に関わることであり、愚かで劣った瑣末な卑賤な者が敢えて関与できることではありません。臣下を知るのは君主に如くなく、子を知るのは父に如かないと聞いております。君主が明暗を問わず、父が賢愚を問わず、常にその臣下や子を知ることができるのはなぜでしょうか?それは互いに知り合うことが一事一物によるのではなく、互いに尽くすことが一朝一夕によるのではないからです。ましてや明公は聖哲を加え、人としての子としての道を習熟させておられます。今、明達なご命令を発し、永遠の安泰をお言葉にされました。これは上は天命に応じ、下は人心に合い、一瞬のうちに得て、万世に垂れるものと言えます。私は斧鉞の誅罰を避けず、敢えて言い尽くさないわけには参りません!』太祖は深くこれを受け入れた。〉曹植は諸侯と共に封国に赴いた。
黄初二年、監国謁者の灌均が上意を忖度し、『曹植が酒に酔って道理に背き傲慢であり、使者を脅迫した』と上奏した。有司が罪を治めるよう請うたが、帝(曹丕)は太后(卞氏)の故に、爵位を貶めて安郷侯とした。〈『魏書』に 詔 を載せる。『曹植は朕の同母弟である。朕は天下に容れないものはない。ましてや曹植をや。骨肉の親である。誅殺を免じて、曹植を改封せよ。』〉その年、鄄城侯に改封された。三年、鄄城王に立てられ、邑二千五百戸を与えられた。
四年、雍丘王に転封された。その年、京都に朝貢した。上疏して言った。
帝はその文辞と意味を称賛し、丁重な 詔 書で答えて激励した。〈《魏略》によると、初め曹植が関に到着する前に、自ら過ちがあったと思い、帝に謝罪すべきだと考えた。そこで従官を関東に留め置き、わずか二、三人を連れて微行し、清河長公主に会い、公主を通じて謝罪しようとした。しかし関吏がこれを報告したため、帝は人を遣わして迎えさせたが、会うことはできなかった。太后は曹植が自殺したと思い、帝に向かって泣いた。ちょうど曹植が髪を結わず、斧と鉄の台を背負い、裸足で宮闕の下に詣でたので、帝と太后は喜んだ。会見したとき、帝はなお厳しい表情で、曹植と話さず、冠や履き物も着けさせなかった。曹植は地に伏して涙を流し、太后は不愉快であった。 詔 によってようやく王の服を着ることを許された。《魏氏春秋》によると、この時、諸侯国に対する待遇は法が厳しかった。任城王が急死した。諸王はすでに兄弟愛の痛みを抱いていた。曹植と白馬王曹彪が国に帰る際、同じ道を通って東へ帰り、隔たりの思いを語り合おうとしたが、監国使者が許さなかった。曹植は憤慨して別れを告げ、詩を作った。『帝に謁見して承明廬にて、去って旧き疆に帰らんとす。清晨に皇邑を発ち、日夕に首陽を過ぐ。伊洛は曠くして且つ深く、渡らんと欲すれば川に梁なし。舟を泛して洪濤を越え、怨む彼の東路の長きを。回顧して城闕を恋い、領を引いて情内に傷む。大谷何ぞ寥廓なる、山樹鬱蒼蒼たり。霖雨我が塗を泥み、流潦浩として従横す。中逵軌を絶えて無く、轍を改めて高岡に登る。修坂雲日に造り、我が馬玄にして以て黄なり。玄黄猶よく進むべく、我が思ひ鬱として以て紆す。鬱紆将に何をか念はん、親愛離居に在り。本図相与に偕らんとし、中更に克く俱にせず。鴟梟衡軛に鳴き、豺狼路衢に当たる。蒼蠅白黒を間し、讒巧親疏を反す。還らんと欲すれば蹊を絶えて無く、轡を攬めて踟躕を止む。踟躕亦何をか留めん、相思終極無し。秋風微涼を発し、寒蟬我が側に鳴く。原野何ぞ蕭條なる、白日忽ち西に匿る。孤獣走りて群を索め、草を銜えて食ふに遑あらず。帰鳥高林に赴き、翩翩として羽翼を厲す。物に感じて我が懐を傷み、心を撫して長く嘆息す。嘆息亦何をか為さん、天命我に違ふ。奈何ぞ同生を念ふ、一往して形帰らず。孤魂故域に翔り、霊柩京師に寄す。存者は復た過ぐること莫れ、亡没は身自ら衰ふ。人生一世に処る、忽ち朝露の晞くるが若し。年桑榆の間に在り、影響追ふ能はず。自ら顧みるに金石に非ず、咄嗟して心を悲しませむ。心悲しみ我が神を動かし、棄置して復た陳べること莫れ。丈夫志四海に在り、万里猶ほ比隣の如し。恩愛苟も虧けずば、遠きに在りて分日々に親し。何ぞ必ずしも同衾幬を同じくして、然る後に殷勤を展べん。倉卒骨肉の情、能く苦辛を懐かざらんや。苦辛何をか慮り思はん、天命信に疑ふべし。虚無列仙を求め、松子久しく吾を欺く。変故斯須に在り、百年誰か能く持たん。離別永く会無くんば、手を執る将に何の時か有らん。王其れ玉体を愛し、俱に黄髪の期を享けよ。涕を収めて即ち長塗に就き、筆を援りて此れより辞す。』〉
六年、帝が東征し、帰途に雍丘を通り、曹植の宮殿に臨幸し、五百戸を増やした。
太和元年、浚儀に封を移した。二年、再び雍丘に戻った。曹植は常に憤慨し怨み、優れた才能を持ちながら用いられず、上疏して自ら試用を求めた。
臣は聞く、士が世に生まれるや、内にあっては父に仕え、外にあっては君に仕える。父に仕えることは親を栄えさせることを尊び、君に仕えることは国を興すことを貴ぶ。故に慈父といえども益なき子を愛すること能わず、仁君といえども用なき臣を養うこと能わない。徳を論じて官を授ける者は、成功した君主である。能力を量って爵を受ける者は、命を尽くす臣下である。故に君は虚しく授けることなく、臣は虚しく受けることない。虚しく授けることを謬挙といい、虚しく受けることを屍祿といい、詩の「素餐」はこれによって作られたのである。昔、二虢(虢仲・虢叔)は両国の任を辞さず、その徳が厚かったからである。旦(周公旦)・奭(召公奭)は燕・魯の封を譲らず、その功が大きかったからである。今、臣は国の重恩を蒙り、三世に至っている。正に陛下の昇平の世に値し、聖なる恩沢に浴し、徳教に潜かに潤されている。厚幸というべきである。しかるに東の藩国に位を窃み、爵は上列にあり、身には軽暖を被り、口には百味に飽き、目には華靡を極め、耳には絲竹に倦むのは、爵が重く禄が厚いことによるのである。退いて古の爵禄を授けた者を思うに、これとは異なり、皆功労をもって国を助け、主を補佐して民を恵んだ。今、臣に述べるべき徳なく、記すべき功なく、このまま年を終えて国朝に益なきならば、風人の「彼其」の譏りを受けることになろう。これにより上は玄冕を慚じ、俯いては朱紱を愧いる。今、天下は一統し、九州は晏如たるに、顧みれば西には命に違う蜀があり、東には臣とならぬ呉があり、辺境は甲を脱ぐを得ず、謀士は高枕するを得ないのは、誠に宇内を混同して太和を致さんがためである。故に啓(夏の啓王)は有扈を滅ぼして夏の功は顕れ、成(周の成王)は商・奄を克って周の徳は著しい。今、陛下は聖明をもって世を統べ、文王・武王の功を終え、成王・康王の隆盛を継ごうとし、賢を簡び能に授け、方叔・召虎のような臣をもって四境を鎮め御し、国の爪牙たらしめようとされるのは、まさに適切というべきである。しかし、高鳥がまだ軽い繳に掛からず、淵魚がまだ鉤餌に懸からないのは、釣射の術がまだ尽きていないのではないかと恐れるのである。昔、耿弇は光武帝を待たず、急いで張歩を撃ち、「賊を君父に遺さない」と言った。故に車右は鳴く轂に伏して剣に伏し、雍門狄は斉の境で首を刎ねた。この二士は、どうして生を厭い死を尚んだであろうか。誠にその主を侮り君を陵ぐことに憤ったのである。君の寵臣たるは、患いを除き利を興さんがためである。臣の君に事えるは、必ず身を殺して乱を靖め、功をもって主に報いるためである。昔、賈誼は弱冠にして属国への試用を求め、単于の頸を繋いでその命を制せんことを請うた。終軍は妙年にして越に使い、長い纓を得てその王を繋ぎ、北闕に連れ帰らんとした。この二臣は、どうして主を誇り世に耀かんことを好んだであろうか。志が鬱結し、その才力を逞しくし、能を明君に輸さんがためである。昔、漢武帝が霍去病のために邸宅を造ろうとすると、辞して言った。「匈奴未だ滅びず、臣家を為す無し」。国を憂え家を忘れ、躯を捐てて難を済すは、忠臣の志である。今、臣が外に居るのは、厚くないわけではないが、寝ても席に安からず、食っても味を遑わないのは、二方(呉・蜀)が未だ克たれぬことを念うためである。伏して見るに、先の武皇帝(曹操)の武臣宿将で、年老いて世を去った者が聞こえている。賢人は世に乏しくないが、宿将旧卒はなお戦陣に習熟している。窃かに自ら量らず、命を効さんことを志し、毛髪ほどの功を立て、受けた恩に報いたい。もし陛下が不世の 詔 を出し、臣の錐刀の用を効させ、西は大将軍に属して一校の隊を担当させ、あるいは東は大司馬に属して偏舟の任を統べさせれば、必ず危険に乗り険に蹈み、舟を駆り驪(黒馬)を奮い、刃を突き鋒に触れ、士卒に先んじるであろう。権(孫権)を擒にし亮( 諸葛亮 )を 馘 ことはできなくとも、その雄率を虜にし、その醜類を殲滅し、須臾の捷を必ず効し、終身の愧を滅ぼし、名を史筆に掛け、事を朝策に列せしめたい。たとえ身は蜀の境に分かれ、首は呉の闕に懸かるとも、生きている年と思われるであろう。もし微才が試されず、世を没して聞こえず、ただその躯を栄えさせ体を豊かにし、生きて事に益なく、死んで数に損なきならば、虚しく上位を荷い重禄を忝くし、禽獣のように息づき鳥のように視て、白首に終わるのは、これはただ囲いや牢屋で飼われる物であり、臣の志すところではない。流聞によれば、東軍(対呉軍)が備えを失い、軍勢が小敗したという。食を輟み餐を棄て、袂を奮い衽を攘ぎ、剣を撫でて東を顧みれば、心はすでに呉会に馳せっている。臣は昔、先武皇帝に従って南は赤岸の極みに至り、東は滄海に臨み、西は玉門を望み、北は玄塞に出で、行軍用兵の勢いを見たが、神妙というべきであった。故に兵は予め言うべからず、難に臨んで変を制するものである。志は明時に自ら効し、聖世に功を立てんことにある。史籍を覧むごとに、古の忠臣義士が一朝の命を出だし、国家の難に殉じ、身は屠裂されても、功は鼎鐘に銘記され、名称は竹帛に垂れるのを見て、心を撫でて嘆息しないことはなかった。臣は聞く、明主は臣を使うに、罪ある者を廃さない。故に敗走した敗軍の将を用いて、秦・魯はその功を成した。絶纓(冠の紐を切られる)・盗馬の臣を赦して、楚・趙はその難を済した。臣は窃かに先帝(曹丕)の早崩、威王(曹彰)の棄世を感じ、臣ただ一人、どうして長く堪えられようか。常に朝露に先んじ、溝壑に填らんことを恐れ、墳土未だ乾かぬうちに、身も名も共に滅びることを。臣は聞く、騏驥が長く鳴けば、伯楽はその能を照らす。盧狗が悲しく号すれば、南韓はその才を知る。故に斉・楚の路に効させ、千里の任を逞しくし、狡兔の敏捷さで試し、搏噬の用を験すのである。今、臣は狗馬の微功を志すが、窃かに自ら惟度するに、終に伯楽・南韓の挙げる所とならないであろう。これにより於邑(憂い悶えるさま)として窃かに自ら痛むのである。博打に臨んで身を竦ませ、楽を聞いて窃かに手を打つ者がいるのは、あるいは賞音して道を知る者がいるからである。昔、毛遂は趙の陪隸(下僕)でありながら、なお錐囊の譬えを借りて、主を悟らせ功を立てた。まして巍巍たる大魏の多士の朝に、慷慨として死難する臣がいないことがあろうか。自ら衒い自ら媒するは、士女の醜行である。時に干渉して進みを求めるは、道家の明らかな忌みである。しかるに臣が敢えて陛下に陳べて聞かせるのは、誠に国と形を分かち気を同じくし、憂患を共にする者だからである。塵霧の微をもって山海を補益し、螢燭の末光をもって日月を増輝せんことを冀い、敢えてその醜を冒してその忠を献ずるのである。
《魏略》によると、曹植はこの上表文を提出したが、それでも用いられないのではないかと疑い、こう言ったという。『人が生命を尊ぶのは、身体を養い良い衣服を着て、天寿を全うすることを尊ぶのではなく、天に代わって万物を治めることを尊ぶのである。爵位と俸禄は、虚しく張り上げるものではなく、功績と徳行があって初めてそれに応じるものであり、それが当然である。功績がないのに爵位が厚く、徳行がないのに俸禄が重いのは、ある人は栄誉と思うが、壮士は恥じるところである。だから最も上なるものは徳を立て、次は功を立てる。およそ功徳というものは、名を後世に残すためのものである。名は滅びない。士が求める利益である。だから孔子には「夕べに死すとも可なり」という論があり、孟子には生を棄てる義がある。あの一聖一賢は、どうして長く生きることを願わなかっただろうか。志が果たせないことがあるからである。だから私は嘆息して試みを求め、必ず功を立てようとするのだ。ああ、言葉が用いられない。後世の君子に私の意を知らせたいだけである。』
三年(太和三年)、東阿に封を移された。五年(太和五年)、再び上疏して親族への慰問を求め、その意を述べて言った。
臣は聞く。天がその高さを称えられるのは、覆わないものがないからであり、地がその広さを称えられるのは、載せないものがないからであり、日月がその明るさを称えられるのは、照らさないものがないからであり、江海がその大きさを称えられるのは、容れないものがないからである。故に孔子は言われた。『大なるかな、堯の君たること!天のみが大なり、堯のみがこれに則る。』天の徳が万物に対して及ぼすことは、まことに広大であると言えよう。およそ堯の教化は、親しい者を先にし、疎遠な者を後にする。近い者から遠い者へと及ぶ。その伝に言う。『明らかに峻徳を克くし、以て九族を親しむ。九族既に睦び、百姓を平章す。』周の文王もまたその教化を尊んだ。その詩に言う。『寡妻に刑し、兄弟に至り、以て家邦を御す。』それゆえに和やかで美しく、風人がこれを詠んだ。昔、周公は管叔・蔡叔が和合しないことを憂い、良き親族を広く封じて王室の藩屏とした。伝に言う。『周の宗盟、異姓は後と為す。』まことに骨肉の恩愛は疎遠になっても離れず、親族を親しむ義は実に厚く固くあるべきで、義があってその君を後回しにし、仁があってその親族を遺棄するようなことはない。伏して考えるに、陛下は帝堯の敬い明らかな徳を備え、文王の慎み深い仁を体現され、恩恵は后妃の宮殿にまで行き渡り、恩寵は九族に明らかである。諸侯や百官は順番に休み、交代で朝廷に出仕し、政務は公の場で廃れることなく、下情は私的な場で述べることができ、親族との道理は通じ、慶弔の情は表される。まことに己を恕して人を治め、恵みを推し広げ恩を施す者と言えよう。臣に至っては、人としての道は絶え、この明るい時代に禁錮されている。臣はひそかに自らを傷んでいる。気の合う者と交わりを深め、人としての務めを修め、人倫の関係を語り合うことなど、過度に望むことはできない。近頃では婚姻さえ通じず、兄弟は絶縁状態で、吉凶の問い合わせは塞がれ、慶弔の礼は廃れ、恩愛の絆が断たれることは、通りすがりの他人よりもひどく、隔たりの違いは、胡と越のようにかけ離れている。今、臣は一律の制度によって、永遠に朝覲の望みはなく、心を皇極(天子)に注ぎ、情を紫闥(宮門)に結ぶことは、神と明らかに知っている。しかし天が実際にそうさせたのだから、どうしようもない。退いて思うに、諸王は常に兄弟仲睦まじくありたいと願っている。願わくは陛下が盛んに 詔 を垂れ、諸侯国が慶賀と慰問を行い、四季の折々に情を表すことができ、骨肉の歓びと恩愛を語り合い、和やかで篤い義を全うさせてください。妃や妾の実家にも、化粧料などの贈り物を年に二度は届けさせ、貴族の宗族と同等の義を、百官と同等の恵みを与えてください。このようにすれば、古人が嘆き、風雅が詠んだことが、聖なる世に再び現れるでしょう。臣は伏して自らを省みるに、錐や刀のような微細な用もない。しかし陛下が抜擢任用されるのを見ると、もし臣が異姓であったなら、ひそかに推し量るに、朝廷の士に遅れを取ることはないでしょう。もし遠方への遊歴を辞し、武官の冠を戴き、朱の組を解き、青の綬を佩き、駙馬都尉や奉車都尉となり、一つ官号を得て、京師の邸宅に安住し、鞭を執り筆を耳に挟み、出では華蓋の下に従い、入っては輦轂に侍り、聖なるお尋ねに答え、左右で遺漏を拾い集めることができれば、これこそ臣の丹誠の極みなる願いで、夢の中からも離れません。遠くには『鹿鳴』の君臣の宴を慕い、中には『常棣』の「匪他(他人ではない)」の戒めを詠じ、下には『伐木』の友生の義を思い、終いには『蓼莪』の尽きることなき哀しみを懐く。毎度、四季の節会の折には、塊然として独り居り、左右にいるのは僕隷ばかり、向き合うのは妻子だけである。高談闊論する相手もなく、義理を発揮する場もない。音楽を聞くたびに胸を打ち、杯に臨んでは嘆息せずにはいられない。臣は伏して考える。犬馬の誠実ささえ人を動かさないなら、譬えれば人の誠実さが天を動かさないようなものである。城壁が崩れ、霜が降りるという話は、臣も初めは信じたが、臣の心に照らすと、ただの空言に過ぎない。葵や藿の葉が太陽に向かって傾くように、太陽はそのために光を返さないが、それに向かうのは誠実だからである。ひそかに自らを葵や藿に譬える。もし天地の恵みを降らせ、三光(日月星)の明かりを垂れるとすれば、それはまさに陛下にある。臣は聞く。文子が言う。『福の始めとならず、禍の先とならず。』今の隔絶状態は、兄弟たちも皆憂いているが、臣だけが声を上げて言うのは、ひそかに聖世において施しを受けられない者がいることを望まないからである。施しを受けられない者がいれば、必ず惨毒の思いを抱く。だから『柏舟』には「天只」の怨みがあり、『穀風』には「我を棄つ」の嘆きがある。だから伊尹はその君が堯舜とならないことを恥じ、孟子は言う。『舜が堯に仕えた方法でその君に仕えない者は、その君を敬わない者である。』臣の愚かさと蔽われた心は、もとより虞舜や伊尹ではないが、陛下に光輝が広く行き渡り時世が和らぐ美しさを崇められ、明るく輝き章明なる徳を宣揚されることを願うのは、臣の慺々たる誠実さであり、ひそかに独り守り、実に鶴のように立って待ち侘びる心を抱いている。敢えて再び陳べて聞かせるのは、陛下がもし天の聡明を発揮され神のごとき聴覚を垂れてくださることを冀うからである。 詔 で答えて言われた。『およそ教化の由来は、それぞれ盛んなり衰えたりの違いがあり、皆が善く始めて悪く終わるわけではない。事態がそうさせるのである。だから忠厚仁愛が草木にまで極まれば、『行葦』の詩が作られ、恩沢が衰え薄くなり九族を親しまなければ、『角弓』の章が諷刺する。今、諸侯国の兄弟は、情理が疎かで怠り、妃妾の実家への化粧料なども疎かになっている。朕はたとえこれを厚く睦まじくさせることができなくとも、王が古を引き義に譬えて詳しく述べられた。どうして精誠が感応を通じさせられないと言えようか。貴賤を明らかにし、親族を尊び、賢良を礼遇し、少長の順序に従うことは、国の綱紀である。もともと諸侯国が通問することを禁じる 詔 などない。矯枉過正で、下吏が譴責を恐れて、このようになってしまっただけである。すでに有司に命じた。王の訴えの通りにするように。』
曹植は再び上疏して、人材の推挙審査についての道理を述べて言った。
臣は聞く、天地が気を合わせて万物が生まれ、君臣が徳を合わせて諸々の政務が成る。五帝の時代がすべて智に満ちていたわけではなく、三季(夏・殷・周の末期)の末がすべて愚であったわけでもない。用いられるか否か、知られるか否かの違いである。すでに時に賢人を挙げる名目はあっても、賢人を得る実がなければ、必ずや各自が自分の同類を引き立てて推挙することになる。諺に言う、『宰相の家には宰相が生まれ、将軍の家には将軍が生まれる』と。そもそも宰相とは、文徳が輝く者である。将軍とは、武功が盛んな者である。文徳が輝けば、国政を正し、平和な世を導くことができ、稷・契・夔・龍がそれである。武功が盛んであれば、服従しない者を征伐し、四方の異民族を威圧することができ、南仲・方叔がそれである。昔、伊尹が嫁入りの従者であった時は、最も卑賤であり、呂尚が屠殺や釣りをしていた時は、最も卑陋であった。しかし、彼らが湯王・武王、周の文王に見出されて挙用された時、誠に道が合い志を同じくし、深遠な謀略が神のごとく通じた。どうして近習の推薦を借りたり、側近の仲介を頼ったりする必要があろうか。書経に言う、『世に並ぶ者のない君主がいるならば、必ず世に並ぶ者のない臣を用いることができ、世に並ぶ者のない臣を用いるならば、必ず世に並ぶ者のない功績を立てることができる』と。殷の湯王と周の武王がこれである。もし、狭量で近視眼的に、常道を守り古いやり方に固執するだけなら、どうして陛下に申し上げる価値があろうか。ゆえに陰陽が調和せず、日月星の光が明るくなく、官職が空位で人がおらず、諸々の政務が整わないのは、三司(三公)の責任である。国境が騒動し、四方の辺境が内に侵食され、軍隊が滅び兵士を失い、戦争が止まないのは、辺境の将軍の憂いである。どうして空しく国の寵愛を受けながらその職務にふさわしくないことがあろうか。ゆえに任務が重くなるほど負担は重くなり、地位が高くなるほど責任は深くなる。書経に『官職を空しくするな』と言い、詩経に『その職務の憂いを思え』とある。これがその意味である。陛下は天の真実の淑やかで聖なるお方として、神妙な機微を極めて統治を継承され、『康哉』の歌を聞き、武力を収め文教を行う美政を期待しておられる。しかし数年このかた、水害や旱害が時を失い、民は衣食に困窮し、軍隊の派遣は年々増え、徴発も加わり、東には敗北した軍隊があり、西には戦死した将軍がいて、ついには蚌や蛤が淮水や泗水に浮かんで泳ぎ、貂や鼬が林の中で騒ぎ立てる有様である。臣はこれを思うたびに、食事を中断して箸を投げ、杯を前にして手首を握りしめずにはいられない。昔、漢の文帝が代国から出発する時、朝廷に変事があるのではと疑ったが、宋昌が言った、『内には朱虚侯・東牟侯のような親族がおり、外には斉・楚・淮南・琅邪の諸侯がいます。これらは盤石のように堅固な宗族です。王よ、疑わないでください』と。臣はひそかに考えるに、陛下には遠く周の文王が虢仲・虢叔を頼りにしたことをご覧になり、中には周の成王が召公・畢公の補佐を得たことをご考慮され、下には宋昌の言う盤石のごとき固さをお保ちください。昔、駿馬が呉の坂道にいた時は、困窮していたと言えよう。しかし伯楽がそれを見抜き、孫郵がそれを御するようになると、体を労せずして千里を走った。およそ伯楽は馬を御するのが巧みであり、明君は臣下を御するのが巧みである。伯楽が千里を走らせ、明君が太平を導く。誠に賢人を用い能ある者を使うことの明らかな効果である。もし朝廷の役人が優れていれば、万機は内で治まり、武将が軍を率いれば、四方の災難は必ず鎮められる。陛下は都城中でゆったりとされればよく、どうして鑾駕を動かし、辺境に身をさらされる必要があろうか。臣は聞く、羊の質に虎の皮をかぶせたものは、草を見れば喜び、豺を見れば震え上がり、自分が虎の皮をかぶっていることを忘れる、と。今、将軍を配置しても良将でなければ、これに似ている。ゆえに言葉に言う、『患いは、それを行う者が知らず、知っている者が行うことができないことにある』と。昔、楽毅が趙に奔ったが、心は燕を忘れず、廉頗が楚にいても、趙の将軍となることを思った。臣は乱世に生まれ、軍中で育ち、また武皇帝(曹操)から数々のご教示を賜った。ひそかに行軍や用兵の要諦を見るに、必ずしも孫子や呉子を学ばなくても、暗黙のうちにそれらと合致する。ひそかに心の中で推し量ると、常に朝廷に参内し、金門を押し開き、玉の階段を踏み、職務を持つ臣下の列に加わり、わずかな時間のご質問を賜り、臣が胸に抱く思いを述べ、積もった思いを吐露させていただき、死んでも恨みはありません。鴻臚から下された兵士の子弟(士息)を徴発する文書を受け取り、期日は非常に急である。また聞くところによれば、豹尾(皇帝の行列の旗)がすでに立てられ、兵車が急ぎ駆けている。陛下はまたもご自身を労され、神慮を煩わされることになろう。臣は誠に恐れおののき、安んじておられない。どうか馬を駆り鞭を執り、先頭に立って塵や露にまみれ、風后の奇策を学び取り、孫子・呉子の要諦を受け継ぎ、卜商(子夏)が孔子を啓発したことを追慕し、陛下の左右に仕え、先駆けとして命を尽くし、車輪や 轂 として命を終えたい。大いに益するところはなくとも、少しは補えることを願う。しかし天は高く聴くところ遠く、私の思いは上に通じず、ただ青雲を望んで胸を打ち、高い天を仰いで嘆息するのみである。屈原は言った、『国に駿馬があるのに乗ることを知らず、どうしてあわてて別のものを探すのか』と。昔、管叔・蔡叔が追放・誅殺された時、周公・召公が補佐となった。叔魚が刑に陥った時、叔向が国を正した。三監(管叔・蔡叔・霍叔)のような罪は、臣が自ら引き受ける。二南(周公・召公)のような補佐は、求めれば必ず遠くない。華やかな宗族や貴族、藩王の中に、必ずこの推挙に応える者がいる。ゆえに伝に言う、『周公のような親族でなければ、周公のようなことを行うことはできない』と。どうか陛下に少しご留意いただきたい。近ごろ漢王朝は広く藩王を建て、豊かであれば数十の城を連ね、貧しければ祖先の祭祀を行うだけの食禄しか与えず、周王朝が国を建て、五等の爵制で統治したようにはしていない。扶蘇が始皇帝を諫めたこと、淳于越が周青臣を難じたことは、時勢の変化を知っていたと言えよう。天下の人の耳を傾けさせ目を注がせるものは、権力を握る者である。ゆえに謀略は主君を動かし、威勢は下の者を恐れさせる。豪族が政権を執る時は、親戚に任せない。権力が存在するところでは、疎遠な者でも必ず重んじられ、勢いが去ったところでは、親しい者でも必ず軽んじられる。およそ斉を取ったのは田氏の一族であって、呂氏の宗族ではない。晋を分けたのは趙氏・魏氏であって、姫姓ではない。どうか陛下にご明察いただきたい。もし吉事があればその地位を独占し、凶事があればその災いから離れる者は、異姓の臣下である。国の安泰を願い、家の栄達を祈り、生きている時は共に栄え、死ぬ時は同じ災いに遭おうとする者は、公族(皇族)の臣下である。今、かえって公族は疎遠にされ、異姓は親密にされている。臣はひそかに惑っている。臣は孟子の言葉を聞く、『君子は窮すれば独りその身を善くし、達すれば天下を善くする』と。今、臣は陛下と共に氷を踏み炭火を踏み、山に登り谷を渡り、寒さ温かさ乾き湿り、高低を共にしてきた。どうして陛下から離れられようか。憤懣の思いに耐えかね、表を捧げて心情を陳べる。もし合わないところがあれば、どうかしばらく書府に蔵し、すぐに棄て去ることなく、臣が死んだ後、事態を考える材料にしていただきたい。もしほんのわずかでも聖意にかかるものがあれば、どうか朝廷に出し、博古の士に、臣の表の中で義に合わないところを糾弾させてください。そうすれば、臣の願いは十分です。
皇帝はいつも丁寧な文書で返答した。〈《魏略》によると、その後、大規模に士息(兵士の子弟)を徴発し、諸国の士人を徴用した。曹植は、近隣の諸国の士息がすでに徴発され、孤児や幼弱な者が多く、残っている者はほとんどいないのに、さらに徴用されることになったため、上書して言った。『臣は聞く、古代の聖君は、日月とその明るさを同じくし、四季とその信頼を等しくした。それゆえに凶悪を罰するのに重すぎることはなく、善を賞するのに軽すぎることはなく、怒りは雷霆のごとく、喜びは時雨のごとく、恩恵は中途で絶えることなく、教えは二つの道がない。このようにして朝廷に臨めば、臣下は死すべきところを知るのである。万里の外に任を受ける者は、主君が授けた官職をよく考え、必ず自分が命を投げ出す理由をわきまえる。たとえ讒言する者がいても、淡々として恐れないのは、君臣が信頼し合っている明らかな証拠である。昔、章子が斉の将軍であったとき、人が彼が謀反を企てていると告げた。威王は「そうではない」と言った。左右の者が「王はどうしてそれがわかるのですか」と尋ねると、王は「章子が死んだ母を改葬したと聞いた。彼は死んだ父さえ欺かないのに、まして生きている君主に背くことがあろうか」と言った。これが君主が臣下を信じる例である。昔、管仲は自ら桓公を射たが、後に幽閉され、魯から檻車に載せられ、若者に引かせて斉に送られた。管仲は桓公が必ず自分を用いると知り、魯が後悔することを恐れて、若者に言った。「私が歌うから、お前はそれに合わせてくれ。声と声が合えば、走るのがよい」。そこで管仲が歌い始めると、若者は走りながらそれに合わせ、一日に数百里を行き、一夜で到着した。到着すると斉の宰相となった。これが臣下が君主を信じる例である。臣が初めて封を受けたとき、策書に『曹植はこの青社を受け、東土に封ぜられ、皇家を屏翰し、魏の藩輔となれ』とあった。しかし与えられた兵士は百五十人で、皆、耳順の年(六十歳)か、あるいは矩を越えず(七十歳)、虎賁・官騎および親事合わせて二百余人である。たとえ老いていなくても、皆が壮年であれば、不測の事態に備え、城を巡視するにも、自分を守るのにさえ十分でないのに、まして皆がみな耄耋で疲れ果てているとしたらどうか。しかも名目は魏の東の藩屏として王室を守護するという。臣はひそかに恥ずかしく思う。諸国を見ると、国にいる士子は合わせても五百人に満たない。伏して考えるに、三軍の増減は、もはやこれに頼ることはない。国外が平定されず、必ず準備が必要なときは、臣は配下の部曲を率いて倍速で駆けつけ、夫婦は子供を背負い、子弟は食糧を抱え、刃を踏みしめて国難に殉じたい。どうしてただ習業の小児だけを頼りにしようか。愚かながらも、涙を揮って河を増し、鼷鼠が海を飲むようなもので、朝廷には万に一つも損益がなく、臣の家計には甚だしい損害がある。また、臣の士息は前後三回送られ、兼ねる人材はすでに尽きている。ただまだ小児が、七八歳以上、十六七歳以下で三十余人いる。今、部曲は皆年老いて床に臥し、粥でなければ食べられず、目が見えず、かろうじて息をしている者が三十七人いる。疲れ病み、風に靡き、いぼ、盲目、耳が聞こえない者が二十三人いる。ただ、この小児たちが必要で、大きい者は宿衛に備えられ、寇を防ぐには足りないが、小盗を警戒するには大体役立つ。小さい者は大きな使いはできないが、雑草を鋤き、鳥雀を追い払うことはできる。休みの侯人なら一つの仕事が廃れ、一日狩りをすれば多くの仕事が散り、自ら経営しなければ功績はまとまらない。常に自ら躬親し、下吏に委ねないだけである。陛下は聖仁で、恩 詔 が三度も下り、士子は国に給され、長く再び徴発されない。明らかな 詔 が下れば、それは白日のように明らかで、金石のような恩を保ち、必ず明神のような信があり、はっきりと自ら固め、天や地のようである。定習業者もまた送り返されると聞き、暗く昼が晦むようで、茫然として計画を失う。伏して考えるに、陛下はすでに臣を百官の上位に爵位を与え、藩国の任に居らせ、卿士を置き、屋を宮と名付け、塚を陵と名付け、危険な状態で孤立させず、凡庶と異ならないようにされた。もし柏成が野耕を喜び、子仲が灌園を楽しむように、蓬戸茅牖は原憲の宅であり、陋巷簞瓢は顔子の居である。臣の才能は用いられず、常に慨然としてこの志を抱いている。もし陛下が臣の部曲をすべて返し、官属を罷め、監官を省き、璽を解き紱を釋かせ、柏成・子仲の業を追い、顔淵・原憲の事を営み、子臧の廬に居り、延陵の室に宅することをお許しくだされば、このように、進んでも成功がなくとも、退いて守るべきものがあり、身が死ぬ日には、なお松・喬のようであろう。しかし、伏して考えるに、国朝は終に臣がこのようになることをお許しにならないだろう。固より世の縄に羈絆され、禄位に維繫され、屑屑たる小さな憂いを懐き、已むことのない百の念を執り、どうして蕩然として志を肆にし、宇宙の外に逍遥することができようか。この願いが従わなければ、陛下が必ず親親を崇め、骨肉を篤くし、白骨を潤し枯木を栄えさせようとされるなら、ただ仁徳を遂げて前の恩 詔 に副うことである。』結局、すべて返還された。〉
その年の冬、 詔 して諸王に六年正月に朝見することを命じた。
その二月、陳の四県をもって曹植を陳王に封じ、邑三千五百戸を与えた。曹植はたびたび別に会って独りで話し、時政について論じ、試用されることを願い望んだが、ついに叶わなかった。帰還後、茫然として絶望した。当時の法制では、藩国に対する扱いは厳しく逼迫しており、僚属は皆、商人や下級の者ばかりで、兵士には残った老人を与え、大体二百人を超えなかった。また曹植は以前の過ちのため、何事もまた半減され、十一年の間に三度も都を移し、常に汲々として楽しみがなく、ついに発病して 薨去 した。時に四十一歳であった。〈曹植は常に琴瑟の調べに歌を作り、その詞は『ああ、この転蓬よ、世に住むこと何ぞ独り然らんや!長く本根を去りて逝き、夙夜休む間なし。東西七陌を経、南北九阡を越え、卒然として迴風に遇い起こり、我を吹きて雲間に入らしむ。自ら終に天路と謂うも、忽焉として沈淵に下る。驚飈我を接ぎ出だし、故に彼の中田に帰す。南に当たるべくして更に北し、東と謂うべくして反って西す。宕宕として何に依るべき、忽ち亡びて復た存す。飄颻として八澤を周り、連翩として五山を歴る。流転して恒の処無く、誰か吾が苦艱を知らん?願わくは中林の草と為り、秋に野火に随いて燔かれん。糜滅せんこと豈に痛まざらんや、願わくは根荄と連ならん。』孫盛は言う。異なることよ、魏氏の封建は!先王の典を度らず、藩屏の術を思わず、敦睦の風に違い、維城の義に背く。漢初の封建は、あるいは権力が人主に等しく、度を越しているとは言え、時勢がそうさせたのである。魏氏の諸侯は、匹夫と同じように陋しく、七国の乱を懲らしめたとはいえ、矯枉過正である。かつ魏が漢に代わったのは、積徳によるものではなく、風沢はすでに微かで、六合は未だ一つにならず、枝幹を彫翦し、権を異族に委ね、勢いは瘣木のようで、危うさは幕に巣くうようであり、後継が絶えるのは、天が喪わせたのではない。五等の制は、万世不易の典である。六代の興亡は、曹冏が詳しく論じている。〉遺言で薄葬を命じた。末子の曹志は家を保つ主であるとして、彼を立てようとした。初め、曹植は魚山に登り、東阿に臨み、慨然としてここに終わろうという心を持ち、ついに墓を営んだ。
曹志が後を継ぎ、封地を移されて済北王となった。景初年間に 詔 が下された。『陳思王(曹植)はかつて過失があったが、すでに己を克し行いを慎み、以前の欠点を補った。また幼少から終わりまで、書物を手から離さず、誠に難能なことである。黄初年間に曹植の罪状を奏上した諸々の文書、公卿以下が尚書・秘書・中書の三府や大鴻臚で議論したものは、すべて削除せよ。曹植が前後に著した賦・頌・詩・銘・雑論など百余篇を撰録し、副本を宮廷内外に蔵せよ。』曹志は累次にわたり封邑を増やされ、合わせて以前の分と合わせて九百九十戸となった。
蕭懐王曹熊は早世した。黄初二年に追封されて蕭懐公と諡された。太和三年、さらに追封されて王の爵位となった。青龍二年、子の哀王曹炳が後を継ぎ、二千五百戸を食邑とした。六年に 薨去 し、子がなく、封国は除かれた。
評するに、任城王(曹彰)は武芸に優れ壮猛で、将領の気概があった。陳思王(曹植)は文才が豊かで華麗であり、後世に名を伝えるに足るものであったが、譲り遠くを防ぐことができず、ついに隙間を生じるに至った。伝に『楚はすでに誤りを犯したが、斉もまた得策とは言えない』とあるが、まさにこのことを言うのであろうか。
この作品は全世界において公有領域に属する。なぜなら、作者の没後100年以上が経過しており、かつ作品は1931年1月1日より前に出版されたからである。