三国志

魏書・任城陳蕭王伝

任城威王曹彰は、字を子文という。若い頃から弓馬に優れ、膂力は人並み外れ、素手で猛獣と格闘し、険阻な場所も恐れなかった。幾度も征伐に従軍し、志は雄々しかった。太祖(曹操)はかつて彼を戒めて言った。『お前は学問に励み聖人の道を慕うことを考えず、馬を駆り剣を振るうことを好む。これは一介の武夫の役割に過ぎず、何の貴ぶところがあろうか』。曹彰に『詩経』『書経』を読むよう課したが、曹彰は側近に言った。『大丈夫たるもの、衛青・霍去病のように十万の騎兵を率いて沙漠を駆け、戎狄を駆逐し、功を立て名声を上げるべきだ。どうして博士ごときになれようか』。太祖がかつて息子たちの好みを尋ね、それぞれ志を言わせた。曹彰は言った。『将軍になることを好みます』。太祖が『将軍になるにはどうするか』と問うと、答えて言った。『堅い鎧を着て鋭い武器を執り、難局に臨んでも顧みず、兵卒の先頭に立ち、賞は必ず行い、罰は必ず信を守ります』。太祖は大笑いした。建安二十一年、鄢陵侯に封じられた。

原文任城威王彰,字子文。少善射御,膂力過人,手格猛獸,不避險阻。數從征伐,志意慷慨。太祖嘗抑之曰:『汝不念讀書慕聖道,而好乘汗馬擊劍,此一夫之用,何足貴也!』課彰讀《詩》《書》,彰謂左右曰:『丈夫一為衛、霍,將十萬騎馳沙漠,驅戎狄,立功建號耳,何能作博士邪?』太祖嘗問諸子所好,使各言其志。彰曰:『好為將。』太祖曰:『為將柰何?』對曰:『被堅執銳,臨難不顧,為士卒先;賞必行,罰必信。』太祖大笑。建安二十一年,封鄢陵侯。

二十三年、代郡の烏丸が反乱した。曹彰を北中郎将とし、驍ぎょう騎将軍を代行させた。出発に際し、太祖は曹彰を戒めて言った。『家では父子、公務では君臣である。行動はすべて王法に従って行え。よく戒めよ』。曹彰が北征し、涿郡の境界に入ると、反乱した胡の数千騎が突然到来した。当時、兵馬はまだ集まっておらず、歩兵千人、騎兵数百騎しかいなかった。田豫よの計略を用い、要害を固守したので、敵は退散した。曹彰はこれを追撃し、自ら戦闘に加わり、胡の騎兵を射て、弦に応じて倒れる者が前後相連なった。戦いは半日を過ぎ、曹彰の鎧には数本の矢が刺さったが、意気はますます奮い、勝ちに乗じて敗走する敵を追撃し、桑乾に至った。(臣の松之が案ずるに、桑乾県は代郡に属し、今は北方の虜が居住し、索干の都と号している。)代から二百余里の地点である。長史や諸将は皆、新たに遠征し、兵馬が疲弊していること、また命令を受けて代を越えてはならない制約があることから、深く進軍すべきでなく、命令に背き敵を軽視するのは良くないと考えた。曹彰は言った。『軍を率いて進むのは、ただ利益のあるところに向かうのであって、何の制約があろうか。胡はまだ遠くへ逃げておらず、追えば必ず撃破できる。命令に従って敵を逃がすのは、良将ではない』。そこで馬に乗り、軍中に令した。『後に出る者は斬る』。一日一夜で敵に追いつき、攻撃して大破し、斬首と捕虜は数千に上った。曹彰は通常の倍の恩賞を将兵に賜り、将兵は皆喜んだ。当時、鮮卑の大人(部族長)軻比能が数万騎を率いて強弱を観望していたが、曹彰が奮戦し向かうところ全てを撃破するのを見て、降伏を請うた。北方はすべて平定された。当時、太祖は長安ちょうあんにおり、曹彰を行在所に召し出した。曹彰は代から鄴を通る時、太子(曹丕)が曹彰に言った。『卿は新たに功績を立てた。今、西へ上(皇帝)に会いに行くのだから、自ら功を誇ることはせず、応対は常に不足しているかのようにすべきだ』。曹彰が到着すると、太子の言う通りにし、功績を諸将に帰した。太祖は喜び、曹彰のひげを握って言った。『黄ひげの児(若者)は、ついに大いに非凡であったな』。(『魏略』によると、太祖が漢中にいた時、劉備が山頭に陣取り、劉封を下して挑戦させた。太祖は罵って言った。『履売りの小僧め、いつまで養子にわしを防がせるつもりか。我が黄ひげを呼んで、奴を撃たせよう』。そこで曹彰を召し出した。曹彰は昼夜を分かたず進軍し、西の長安に到着した時には太祖はすでに帰還し、漢中から戻っていた。曹彰のひげは黄色かったので、そう呼んだのである。)

原文二十三年,代郡烏丸反,以彰為北中郎將,行驍騎將軍。臨發,太祖戒彰曰:『居家為父子,受事為君臣,動以王法從事,爾其戒之!』彰北征,入涿郡界,叛胡數千騎卒至。時兵馬未集,唯有步卒千人,騎數百匹。用田豫計,固守要隙,虜乃退散。彰追之,身自搏戰,射胡騎,應弦而倒者前後相屬。戰過半日,彰鎧中數箭,意氣益厲,乘勝逐北,至于桑乾,〈臣松之案桑乾縣屬代郡,今北虜居之,號為索干之都。〉去代二百餘里。長史諸將皆以為新涉遠,士馬疲頓,又受節度,不得過代,不可深進,違令輕敵。彰曰:『率師而行,唯利所在,何節度乎?胡走未遠,追之必破。從令縱敵,非良將也。』遂上馬,令軍中:『後出者斬。』一日一夜與虜相及,擊,大破之,斬首獲生以千數。彰乃倍常科大賜將士,將士無不悅喜。時鮮卑大人軻比能將數萬騎觀望彊弱,見彰力戰,所向皆破,乃請服。北方悉平。時太祖在長安,召彰詣行在所。彰自代過鄴,太子謂彰曰:『卿新有功,今西見上,宜勿自伐,應對常若不足者。』彰到,如太子言,歸功諸將。太祖喜,持彰鬚曰:『黃鬚兒竟大奇也!』〈《魏略》曰:太祖在漢中,而劉備栖於山頭,使劉封下挑戰。太祖罵曰:『賣履舍兒,長使假子拒汝公乎!待呼我黃鬚來,令擊之。』乃召彰。彰晨夜進道,西到長安而太祖已還,從漢中而歸。彰鬚黃,故以呼之。〉

太祖が東へ帰還すると、曹彰を行越騎将軍とし、長安に留め置いた。太祖が洛陽らくように到着し、病気になり、駅伝で曹彰を召し出したが、到着する前に太祖は崩御した。(『魏略』によると、曹彰が到着し、臨菑侯曹植に言った。『先王が私を召し出したのは、お前を立てようとしたからだ』。曹植は言った。『いけない。袁氏兄弟の例を見ないのか』。)文帝(曹丕)が王位に即くと、曹彰は諸侯と共に封国へ赴いた。(『魏略』によると、太子が後を継ぎ、葬儀が終わると、曹彰を封国へ派遣した。初め曹彰は、先王に任用され功績があったことを自負し、これによって任用されることを期待していたが、定例に従うと聞き、非常に不満で、派遣を待たずに出発した。当時、鄢陵は土地が痩せていたため、中牟を治めさせた。帝が禅譲を受けると、これにより中牟王に封じられた。その後、天子の車駕が許昌に行幸した時、北方の州の諸侯や上下の者は皆、曹彰の剛直で厳格なことを恐れ、中牟を通るたびに、速やかに通過せざるを得なかった。)詔が下った。『先王の道は、功績を評価し親族を親しみ、同母弟を立てて国を開き家を継がせ、それによって大宗(皇室)を守り、外侮を防ぎ難を鎮めるのである。曹彰は以前、命を受けて北伐し、北方の地を平定した。その功績は大きい。五千戸を加増し、以前の分と合わせて一万戸とする』。黄初二年、爵位を公に進めた。三年、任城王に立てられた。四年、京都に朝見し、邸で病気により薨去した。諡は威という。(『魏氏春秋』によると、初め、曹彰が璽綬(帝位の印)について問い、異心を抱こうとしたので、朝見してもすぐには会えなかった。曹彰は憤慨して急死した。)葬儀に際し、鑾輅(皇帝の車)・龍旂(龍の旗)、虎賁(近衛兵)百人を賜り、漢の東平王の故事に倣った。子の曹楷が後を継ぎ、中牟に転封された。五年、任城県に改封された。太和六年、再び任城国に改封され、五県二千五百戸を食邑とした。青龍三年、曹楷は私的に官属を中尚方に派遣して禁制品を作らせた罪により、県二千戸を削られた。正始七年、済南に転封され、三千戸。正元・景元の初め、相次いで食邑を加増され、合わせて四千四百戸となった。(曹楷は、泰始の初めに崇化少府となり、『百官名』に見える。)

原文太祖東還,以彰行越騎將軍,留長安。太祖至洛陽,得疾,驛召彰,未至,太祖崩。〈《魏略》曰:彰至,謂臨菑侯植曰:『先王召我者,欲立汝也。』植曰:『不可。不見袁氏兄弟乎!』〉文帝即王位,彰與諸侯就國。〈《魏略》曰:太子嗣立,既葬,遣彰之國。始彰自以先王見任有功,冀因此遂見授用,而聞當隨例,意甚不悅,不待遣而去。時以鄢陵塉薄,使治中牟。及帝受禪,因封為中牟王。是後大駕幸許昌,北州諸侯上下,皆畏彰之剛嚴;每過中牟,不敢不速。〉詔曰:『先王之道,庸勳親親,並建母弟,開國承家,故能藩屏大宗,禦侮厭難。彰前受命北伐,清定朔土,厥功茂焉。增邑五千,并前萬戶。』黃初二年,進爵為公。三年,立為任城王。四年,朝京都,疾薨於邸,謚曰威。〈《魏氏春秋》曰:初,彰問璽綬,將有異志,故來朝不即得見。彰忿怒暴薨。〉至葬,賜鑾輅、龍旂,虎賁百人,如漢東平王故事。子楷嗣,徙封中牟。五年,改封任城縣。太和六年,復改封任城國,食五縣二千五百戶。青龍三年,楷坐私遣官屬詣中尚方作禁物,削縣二千戶。正始七年,徙封濟南,三千戶。正元、景元初,連增邑,凡四千四百戶。〈楷,泰始初為崇化少府,見《百官名》。〉

陳思王曹植は、字を子建という。十歳余りの時、『詩経』『論語』および辞賦数十万言を誦読し、文章を作るのが得意だった。太祖がかつて彼の文章を見て、曹植に言った。『お前は人に代筆させたのか』。曹植は跪いて言った。『口に出せば議論となり、筆を下せば文章となります。どうかその場で試させてください。どうして人に代筆させましょうか』。当時、鄴の銅爵台が新たに完成した。太祖はすべての息子たちを連れて台に登り、それぞれに賦を作らせた。曹植は筆を取ってすぐに書き上げ、見るべきものがあり、太祖は非常に驚いた。(陰澹の『魏紀』に載せる曹植の賦は『明后(英明な君主)に従って遊び戯れ、層台に登って心を楽しませる。太府(宮殿)の広く開かれるのを見、聖徳の営まれるところを観る。高門のそびえ立つを建て、双闕を太清(天空)に浮かべる。中天の華観を立て、飛閣を西城に連ねる。漳水の長く流れるに臨み、園果の栄えるのを望む。春風の和やかなるを仰ぎ、百鳥の悲鳴を聴く。天の雲が垣のように既に立ち、家の願い得て成就せん。仁化を宇内に揚げ、上京(都)に尽くして恭しくする。桓公・文公の盛んなるを思うも、どうして聖明に比べられようか。休(美)しいかな、美しいかな。恵みの沢は遠くに揚がる。我が皇家を翼佐し、四方を安んず。天地の規量に同じくし、日月の輝光に並ぶ。永遠に尊くして極まりなく、年寿を東王(長寿の神)に等しくせん』などである。太祖は深く驚いた。)性格は質素で飾り気がなく、威儀を整えようとしなかった。車馬や服飾も華美を好まなかった。進見して難しい質問を受けるたびに、声に応じて答え、特に寵愛を受けた。

原文陳思王植字子建。年十歲餘,誦讀《詩》《論》及辭賦數十萬言,善屬文。太祖嘗視其文,謂植曰:『汝倩人邪?』植跪曰:『言出為論,下筆成章,顧當面試,奈何倩人?』時鄴銅爵臺新成,太祖悉將諸子登臺,使各為賦。植援筆立成,可觀,太祖甚異之。〈陰澹《魏紀》載植賦曰『從明后而嬉游兮,登層台以娛情。見太府之廣開兮,觀聖德之所營。建高門之嵯峨兮,浮雙闕乎太清。立中天之華觀兮,連飛閣乎西城。臨漳水之長流兮,望園果之滋榮。仰春風之和穆兮,聽百鳥之悲鳴。天雲垣其既立兮,家願得而獲逞。揚仁化於宇內兮,盡肅恭於上京。惟桓文之為盛兮,豈足方乎聖明!休矣美矣!惠澤遠揚。翼佐我皇家兮,寧彼四方。同天地之規量兮,齊日月之暉光。永貴尊而無極兮,等年壽於東王』云云。太祖深異之。〉性簡易,不治威儀。輿馬服飾,不尚華麗。每進見難問,應聲而對,特見寵愛。

建安十六年、平原侯に封じられた。十九年、臨菑侯に転封された。太祖が孫権を征伐する時、曹植に鄴を留守させ、戒めて言った。『私はかつて頓邱の県令だった時、二十三歳だった。当時の行いを思うと、今も後悔はない。今、お前も二十三歳だ。努めよ』。曹植はすでに才能によって異例の扱いを受け、丁儀・丁廙・楊脩らがその補佐をした。太祖はためらい、幾度か太子に立てようとした。しかし曹植はわがままに振る舞い、自らを磨き励ますこともなく、酒を節制しなかった。文帝(曹丕)は術を用いて対処し、感情を偽って自らを飾り立て、宮中の者や側近も皆、彼のために説得したので、ついに後継者に定められた。

原文建安十六年,封平原侯。十九年,徙封臨菑侯。太祖征孫權,使植留守鄴,戒之曰:『吾昔為頓邱令,年二十三。思此時所行,無悔於今。今汝年亦二十三矣,可不勉與!』植既以才見異,而丁儀、丁廙、楊脩等為之羽翼。太祖狐疑,幾為太子者數矣。而植任性而行,不自彫勵,飲酒不節。文帝御之以術,矯情自飾,宮人左右,併為之說,故遂定為嗣。

二十二年、封邑を五千戸増やし、以前の分と合わせて一万戸となった。曹植がかつて車に乗って馳道の中を行き、司馬門を開けて出たことがあった。太祖は大いに怒り、公車令は死罪に処せられた。これにより諸侯に対する禁令が厳しくなり、曹植の寵愛は日ごとに衰えていった。『魏武故事』に載せる令に言う。『初めは子建(曹植)を、子供の中で最も大事を定められる者だと思っていた』。また令に言う。『臨菑侯曹植が私的に外出し、司馬門から金門まで開けて以来、私はこの子を見る目が変わってしまった』。また令に言う。『諸侯の長史や帳下の吏は、私が出るとすぐに諸侯を連れて行こうとする意図を知っているのか?曹植が私的に司馬門を開けて以来、私はもはや諸侯を全く信じていない。私がちょうど外出した隙に、また私的に外出するのではないかと恐れるので、連行して行くのだ。常に私が誰を心腹とすればよいのか分からなくなるのは良くない!』太祖はすでに後継ぎをめぐる変事を憂慮し、楊脩がかなり才策に富み、しかも袁氏の甥であったため、罪を以て楊脩を誅殺した。曹植はますます内心安らかでなくなった。『典略』に言う。楊脩は字を徳祖といい、太尉楊彪の子である。謙虚で恭しく、才知に富み博識であった。建安年間、孝廉に推挙され、郎中に任じられ、丞相(曹操)は彼を倉曹属主簿に任命した。この時、軍国多事であり、楊脩は内外のことを総括して知り、事柄はすべて意にかなった。魏の太子(曹丕)以下、みな争って彼と交際を結ぼうとした。またこの時、臨菑侯曹植は才気の鋭さで寵愛を受けており、楊脩に心を寄せて接近し、たびたび楊脩に手紙を送った。その手紙に言う。

原文二十二年,增置邑五千,並前萬戶。植嘗乘車行馳道中,開司馬門出。太祖大怒,公車令坐死。由是重諸侯科禁,而植寵日衰。《魏武故事》載令曰:『始者謂子建,兒中最可定大事。』又令曰:『自臨菑侯植私出,開司馬門至金門,令吾異目視此兒矣。』又令曰:『諸侯長史及帳下吏,知吾出輒將諸侯行意否?從子建私開司馬門來,吾都不覆信諸侯也。恐吾適出,便復私出,故攝將行。不可恆使吾(爾)〔以〕誰為心腹也!』太祖既慮終始之變,以楊脩頗有才策,而又袁氏之甥也,於是以罪誅脩。植益內不自安。《典略》曰:楊脩字德祖,太尉彪子也。謙恭才博。建安中,舉孝廉,除郎中,丞相請署倉曹屬主簿。是時,軍國多事,脩總知外內,事皆稱意。自魏太子已下,並爭與交好。又是時臨菑侯植以才捷愛幸,來意投脩,數與脩書,書曰:

数日会わないと、あなたを思って苦しくなる。あなたも同じように思っていることだろう。私は幼い頃から詞賦を好み、今に至るまで二十五年になる。しかし今世の作者について、おおよそ言うことができる。かつて王粲(仲宣)は漢南で独歩し、陳琳(孔璋)は河朔で鷹揚し、徐幹(偉長)は青土で名声を独占し、劉楨(公幹)は海辺で文藻を振るい、応瑒(徳璉)は大魏で頭角を現し、あなた(楊脩)は上京で高く評価されている。この時、人はみな自分が霊蛇の珠を握り、家々はみな自分が荊山の玉を抱いていると思い込んでいた。我が王(曹操)はそこで天網を張って彼らを網羅し、八方の綱を整えて彼らを包み込み、今やみなこの国に集まっている。しかしこの数人でも、まだ飛翔して跡を絶ち、一挙に千里を行くことはできない。陳琳の才能をもってしても、辞賦に熟達せず、しばしば自分は司馬相如(長卿)と同じ風格だと言っているのは、虎を描いて成らずかえって狗になるようなものだ。以前手紙で彼をからかったが、返事で論を述べて盛んに私が彼の文章を褒めたと言っている。鍾子期は聞き誤ることがなく、今も称えられている。私もやみくもに感嘆することはできない。後世の人に嘲笑われるのが怖いからだ。世の人の著述には、欠点がないわけではない。私は常に人が自分の文章を批評するのを好み、良くないところがあれば、すぐに改め定める。かつて丁廙(敬礼)が小文を作り、私に潤色させようとしたことがあった。私は自分の才能がその人に及ばないと思い、辞退してしなかった。丁廙は言った。『あなたは何をためらっているのですか!文章の佳麗さは、私自身が得るものです。後世に誰が私の文章を定めた者を知るでしょうか?』私は常にこの達観した言葉に感嘆し、美談だと思っている。かつて孔子(尼父)の文章は、人と共通して流布していたが、『春秋』を制作するに至っては、子游・子夏の徒でも一字も加減することができなかった。これを超えて文章に欠点がないと言う者を、私は見たことがない。南威のような容貌があって初めて淑女について論じることができ、龍淵のような鋭利さがあって初めて切断について議論することができる。劉季緒の才能は作者に及ばないのに、文章を誹謗し、その得失を指摘するのが好きだ。かつて田巴が五帝を毀り、三王を罪し、稷下で五覇を非難し、一日で千人を屈服させたが、魯仲連の一説で、終身口を閉ざさせられた。劉生の弁舌は田氏ほどではないが、今の仲連を求めるのは難しくない。嘆息せずにいられようか!人にはそれぞれ好みがある。蘭や茝、蓀や蕙の芳香は、多くの人が好むものだが、海辺には臭いを追う者もいる。『咸池』『六英』の演奏は、多くの人が楽しむものだが、墨翟にはそれを非難する論がある。どうして同じにできようか!今、私が幼少時に書いた詞賦一通を送る。街談巷説にも必ず採るべきものがあり、車轅を打つ歌にも風雅に応じるものがある。一介の者の考えも、軽々しく棄てるべきではない。辞賦は小道に過ぎず、もとより大義を宣揚し、来世に示すには足りない。かつて揚雄(子雲)は、前朝の執戟の臣に過ぎなかったが、それでも『壮夫は為さず』と称した。私は徳が薄いとはいえ、藩侯の位にあり、なおも国に力を尽くし、恵みを下民に流し、永世の業を建て、金石に刻まれる功績を残したいと思っている。どうしてただ筆墨で勲績とし、辞頌で君子たることを願おうか。もし私の志が成就せず、私の道が行われなければ、史官の実録を採り、時俗の得失を弁じ、仁義の中心を定め、一家の言を成そう。名山に蔵することはできなくとも、同じ好みの者に伝えよう。これは白髪になるまでかかることであり、どうして今日論じることができようか!この言葉に恥じないのは、恵子(恵施)が私を知っていることを頼りにしているからだ。明朝お迎えに上がる。手紙では思いを尽くせない。

原文數日不見,思子為勞;想同之也。僕少好詞賦,迄至于今二十有五年矣。然今世作者,可略而言也。昔仲宣獨步於漢南,孔璋鷹揚於河朔,偉長擅名於青土,公幹振藻於海隅,德璉發跡於大魏,足下高視於上京。當此之時,人人自謂握靈蛇之珠,家家自謂抱荊山之玉也。吾王於是設天網以該之,頓八紘以掩之,今盡集茲國矣。然此數子,猶不能飛翰絕跡,一舉千里也。以孔璋之才,不閑辭賦,而多自謂與司馬長卿同風,譬畫虎不成還為狗者也。前為書啁之,反作論盛道僕贊其文。夫鍾期不失聽,于今稱之。吾亦不敢妄歎者,畏後之嗤余也。世人著述,不能無病。僕常好人譏彈其文;有不善者,應時改定。昔丁敬禮嘗作小文,使僕潤飾之,僕自以才不能過若人,辭不為也。敬禮云:「卿何所疑難乎!文之佳麗,吾自得之。後世誰相知定吾文者邪?」吾常嘆此達言,以為美談。昔尼父之文辭,與人通流;至於制《春秋》,游、夏之徒不能錯一字。過此而言不病者,吾未之見也。蓋有南威之容,乃可以論於淑媛;有龍淵之利,乃可以議於割斷。劉季緒才不逮於作者,而好詆呵文章,掎摭利病。昔田巴毀五帝,罪三王,呰五伯於稷下,一旦而服千人,魯連一說,使終身杜口。劉生之辯未若田氏,今之仲連求之不難,可無嘆息乎!人各有所好尚。蘭茝蓀蕙之芳,眾人之所好,而海畔有逐臭之夫;《咸池》《六英》之發,眾人所樂,而墨翟有非之之論:豈可同哉!今往僕少小所著詞賦一通相與。夫街談巷說,必有可采,擊轅之歌,有應風雅,匹夫之思,未易輕棄也。辭賦小道,固未足以揄揚大義,彰示來世也。昔揚子雲,先朝執戟之臣耳,猶稱「壯夫不為」也;吾雖薄德,位為藩侯,猶庶幾戮力上國,流惠下民,建永世之業,流金石之功,豈徒以翰墨為勳績,辭頌為君子哉?若吾志不果,吾道不行,亦將採史官之實錄,辯時俗之得失,定仁義之衷,成一家之言,雖未能藏之名山,將以傳之同好,此要之白首,豈可以今日論乎!其言之不怍,恃惠子之知我也。明早相迎,書不盡懷。

楊脩は答えて言った。

原文脩答曰:

数日お仕えしないだけで、まるで何年も経ったように感じます。これはただ寵愛顧慮の厚さだけでなく、慕い仰ぐ気持ちを深くさせているからでしょうか!お手紙をいただき、その文は豊かに美しい。繰り返し誦読しますが、『風』『雅』『頌』でも、これを超えるものはありません。王粲が江表で名声を独占し、陳琳が冀州の地に跨り、徐幹・劉楨が青州・豫州で顕れ、応瑒が魏国で頭角を現したのは、すべてその通りです。私のような者に至っては、風声を聞き採り、徳を仰ぎ見るのに暇がなく、目はあちこち見回して省覧するのに忙しく、どうして高く評価されることに慌て恐れようでしょうか?伏して思うに、君侯(曹植)は幼少より貴盛であり、周公旦や武王発の資質を持ち、聖人のような善き教えを受けられました。遠近の見る者は、ただ懿徳を宣揚し、大業を光輝あるものに賛えることができると思っているだけで、さらに伝記を兼ねて覧み、文章に思いを留められるとは思っていませんでした。今や王粲を包含し陳琳を超越し、この数人を度外れています。見る者は驚いて目を見張り、聞く者は首を傾けて耳をそばだてます。天性を通達させ、自然から授かったものでなければ、誰がここまで至ることができましょうか?またかつて執事(曹植)が簡札を握り筆を持ち、何かを作られるのを親しく見ましたが、まるで心の中で暗誦しているかのように、手が借りて書いているようで、少しも思慮を留める間もありませんでした。孔子の日月にも、越えることはできません。私の仰ぎ望むことは、まさにこのようなものです。そのため鶡(勇鳥)に対して辞し、『暑賦』を作っても一日中献上せず、西施の容貌を見て、帰って自分の容貌を憎むようなものです。伏して思うに、執事はそのような事情をご存知ないので、辱くも顧み賜り、刊定するようお教えくださったのでしょう。『春秋』が完成すれば、誰も増減できません。『呂氏春秋』『淮南子』は、一字千金と言われます。しかし弟子は口を閉ざし、市人は拱手するのは、聖賢が卓越し、もとより凡庸と異なるからです。今の賦頌は、古詩の流れをくみ、孔子のごときでなければ、風雅と区別がつきません。私の一族の揚雄は、年老いても物事をわきまえず、無理に一書を著し、若い時の作品を後悔しました。もしこれがそうなら、仲山甫や周公旦の徒も、みな過ちがあることになります!君侯は聖賢の顕著な事跡をお忘れになり、私の一族の過言を述べられるのは、思慮が足りないとひそかに思います。もし経国の大いなる美しさを忘れず、千年の英声を流し、功績を景鐘に銘じ、名を竹帛に書くなら、これはもとより雅量に蓄えられていることであり、どうして文章と妨げ合うことがありましょうか?ただちに恵みを受けたものを、ひそかに朦瞍(盲目の楽人)の誦歌に備えるだけです。どうして恵施の恵みを忘れ、荘子に辱めを与えましょうか!劉季緒のような取るに足らない者など、何と申し上げられましょう。

原文不侍數日,若彌年載,豈獨愛顧之隆,使係仰之情深邪!損辱來命,蔚矣其文。誦讀反覆,雖《風》《雅》《頌》,不復過也。若仲宣之擅江表,陳氏之跨冀域,徐、劉之顯青、豫,應生之發魏國,斯皆然矣。至如脩者,聽采風聲,仰德不暇,目周章於省覽,何惶駭於高視哉?伏惟君侯,少長貴盛,體旦、發之質,有聖善之教。遠近觀者,徒謂能宣昭懿德,光贊大業而已,不謂復能兼覽傳記,留思文章。今乃含王超陳,度越數子;觀者駭視而拭目,聽者傾首而聳耳;非夫體通性達,受之自然,其誰能至於此乎?又嘗親見執事握牘持筆,有所造作,若成誦在心,借書於手,曾不斯須少留思慮。仲尼日月,無得逾焉。脩之仰望,殆如此矣。是以對鶡而辭,作《暑賦》彌日而不獻,見西施之容,歸憎其貌者也。伏想執事不知其然,猥受顧賜,教使刊定。《春秋》之成,莫能損益。《呂氏》《淮南》,字直千金;然而弟子鉗口,市人拱手者,聖賢卓犖,固所以殊絕凡庸也。今之賦頌,古詩之流,不更孔公,風雅無別耳。脩家子雲,老不曉事,彊著一書,悔其少作。若此,仲山、周旦之徒,則皆有愆乎!君侯忘聖賢之顯跡,述鄙宗之過言,竊以為未之思也。若乃不忘經國之大美,流千載之英聲,銘功景鍾,書名竹帛,此自雅量素所蓄也,豈與文章相妨害哉?輒受所惠,竊備矇瞍誦歌而已。敢忘惠施,以忝莊氏!季緒瑣瑣,何足以云。

彼らが互いに往来するのは、このように非常に頻繁であった。曹植は後に驕慢で勝手な振る舞いによって疎遠されたが、曹植は依然として楊脩との関係を断たず、楊脩もまた自ら関係を絶つことはできなかった。建安二十四年の秋、曹操は楊脩が前後して言葉や教えを漏らし、諸侯と交際したことを理由に、彼を捕らえて処刑した。楊脩は死に臨んで、旧友に言った。『私はもともと死ぬのが遅すぎたと思っていた。』その意味は、曹植に連座したことによるものだと考えていた。楊脩が死んでから百余日後に太祖(曹操)が崩御し、太子(曹丕)が立ち、ついに天下を有することとなった。初め、楊脩は手に入れた王髦の剣を太子に献上し、太子は常にそれを佩用していた。帝位に即いた後、洛陽で、ゆったりと宮殿を出て、楊脩の過失が軽かったことを思い返し、その剣を撫でながら、車を止めて左右の者を見回して言った。『これは楊徳祖(楊脩)がかつて称賛した王髦の剣である。王髦は今どこにいるのか?』そこで王髦を召し出して会い、穀物と絹を賜った。◎摯虞の『文章志』に言う。劉季緒は名を脩といい、劉表の子である。官は東安太守に至った。詩、賦、頌六篇を著した。◎臣の松之が考えるに、『呂氏春秋』に言う。『体臭のひどい者がいた。その兄弟妻子も皆、彼と一緒に住むことができず、その人は自ら苦しんで海上に住んだ。海上の人でその臭いを好む者がいて、昼夜彼に付き従って離れようとしなかった。』これが曹植の言う『臭いを追う者』である。田巴の事は『魯連子』に出ており、『皇覧』にも見えるが、文が多いのでここには載せない。◎『世語』に言う。楊脩は二十五歳の時、名高い公子として才能があり、太祖に重んじられ、丁儀兄弟と共に、曹植を後継者にしようとした。太子(曹丕)はこれを憂い、車に空の籠を載せ、朝歌県令の呉質を中に入れて謀議した。楊脩はこれを太祖に報告したが、追及調査する前に、太子は恐れて呉質に告げた。呉質は言った。『何を憂うることがあろうか。明日また籠に絹を入れて車内に受け入れ、彼を惑わせよ。楊脩は必ずまた重ねて報告するだろう。重ねて報告すれば必ず追及調査があり、証拠がなければ、彼は罪を受けることになる。』世子はこれに従い、楊脩は果たして報告したが、中には誰もおらず、太祖はこれによって疑うようになった。楊脩は賈逵、王淩と共に主簿を務め、曹植の友であった。毎回曹植のもとに行く時、事柄に不備がないか慮り、太祖の意を推し量って、あらかじめ十数条の回答例を作り、門下に命じて、命令が出されたら順番に答えさせた。命令がようやく出ると、回答はすでに入ってきており、太祖はその速さを怪しみ、問い詰めて初めて漏れたことを知った。太祖は太子と曹植をそれぞれ鄴城ぎょうじょうの一つの門から出させ、密かに門衛に出させないように命じ、彼らの行動を観察した。太子は門に至り、出ることができずに戻った。楊脩は事前に曹植に戒めて言った。『もし門が出させないなら、侯(曹植)は王の命令を受けており、守衛を斬ることができる。』曹植はこれに従った。それ故に楊脩は交際して結託した罪で死を賜ることとなった。楊脩の子は楊囂、楊囂の子は楊準で、皆晋の時代に名を知られた。楊囂は泰始初年に典軍将軍となり、心腹の任を受け、早くに亡くなった。楊準は字を始丘といい、恵帝の末年に冀州刺史となった。◎荀綽の『冀州記』に言う。楊準は朝廷の綱紀が振るわないのを見て、酒に耽り、官事を意に介さず、悠々と歳月を過ごしただけだった。成都王(司馬穎)は楊準が政治を行わないと知りながらも、彼が名士であることを惜しんで責めず、軍謀祭酒に召し出した。府が解散して家に留まり、関東の諸侯は楊準を三公(三事)に補任して、賢者を懐かしみ徳を尊ぶ挙を示そうと議した。事は実行されないうちに楊準は亡くなった。楊準の子、楊嶠は字を国彦、楊髦は字を士彦といい、共に後世に出た俊英である。楊準は裴頠、楽広と親しく、二人の子を行かせて会わせた。裴頠の性格は寛大で方正であり、楊嶠の高い風格を愛して、楊準に言った。『楊嶠はあなたに及ぶだろうが、楊髦は少し劣る。』楽広の性格は清らかで純朴であり、楊髦の優れた品性を愛して、楊準に言った。『楊嶠は自ずとあなたに及ぶが、楊髦は特に優れている。』楊準は嘆じて言った。『私の二人の子の優劣は、裴頠と楽広の優劣である。』評する者は、楊嶠には高い風格があるが、品性は及ばず、楽広の言うことが正しいと考えた。傅暢は言う。『楊嶠は楊準に似ているが粗雑である。』楊嶠の弟の楊俊は字を惠彦といい、最も清らかで優れていた。楊嶠、楊髦は共に二千石の官に就いた。楊俊は太傅掾となった。

原文其相往來,如此甚數。植後以驕縱見疏,而植故連綴脩不止,脩亦不敢自絕。至二十四年秋,公以脩前後漏泄言教,交關諸侯,乃收殺之。脩臨死,謂故人曰:『我固自以死之晚也。』其意以為坐曹植也。脩死後百餘日而太祖薨,太子立,遂有天下。初,脩以所得王髦劍奉太子,太子常服之。及即尊位,在洛陽,從容出宮,追思脩之過薄也,撫其劍,駐車顧左右曰:『此楊德祖昔所說王髦劍也。髦今焉在?』及召見之,賜髦谷帛。◎摯虞《文章志》曰:劉季緒名脩,劉表子。官至東安太守。著詩、賦、頌六篇。◎臣松之案《呂氏春秋》曰:『人有臭者,其兄弟妻子皆莫能與居,其人自苦而居海上。海上人有悅其臭者,晝夜隨之而不能去。』此植所云『逐臭之夫』也。田巴事出《魯連子》,亦見《皇覽》,文多故不載。◎《世語》曰:脩年二十五,以名公子有才能,為太祖所器,與丁儀兄弟,皆欲以植為嗣。太子患之,以車載廢簏,內朝歌長吳質與謀。脩以白太祖,未及推驗。太子懼,告質,質曰:『何患?明日復以簏受絹車內以惑之,脩必復重白,重白必推,而無驗,則彼受罪矣。』世子從之,脩果白,而無人,太祖由是疑焉。脩與賈逵、王淩並為主簿,而為植所友。每當就植,慮事有闕,忖度太祖意,豫作答教十餘條,敕門下,教出以次答。教裁出,答已入,太祖怪其捷,推問始泄。太祖遣太子及植各出鄴城一門,密敕門不得出,以觀其所為。太子至門,不得出而還。脩先戒植:『若門不出侯,侯受王命,可斬守者。』植從之。故脩遂以交搆賜死。脩子囂,囂子準,皆知名於晉世。囂,泰始初為典軍將軍,受心膂之任,早卒。準字始丘,惠帝末為冀州刺史。◎荀綽《冀州記》曰:準見王綱不振,遂縱酒,不以官事為意,逍遙卒歲而已。成都王知準不治,猶以其為名士,惜而不責,召以為軍謀祭酒。府散停家,關東諸侯議欲以準補三事,以示懷賢尚德之舉。事未施行而卒。準子嶠字國彥,髦字士彥,並為後出之俊。準與裴頠、樂廣善,遣往見之。頠性弘方,愛嶠之有高韻,謂準曰:『嶠當及卿,然髦小減也。』廣性清淳,愛髦之有神檢,謂準曰:『嶠自及卿,然髦尤精出。』準歎曰:『我二兒之優劣,乃裴、樂之優劣也。』評者以為嶠雖有高韻,而神檢不逮,廣言為得。傅暢云:『嶠似準而疎。』嶠弟俊,字惠彥,最清出。嶠、髦皆為二千石。俊,太傅掾。

建安二十四年、曹仁が関羽に包囲された。太祖(曹操)は曹植を南中郎将、行征虜将軍とし、曹仁を救援させようとして呼び出し、戒めの言葉を与えようとした。曹植は酔って命令を受けることができず、そこで後悔して取りやめた。〈『魏氏春秋』に言う。曹植が行こうとした時、太子(曹丕)が酒を勧め、強いて酔わせた。魏王(曹操)が曹植を召し出したが、曹植は王命を受けることができず、故に王は怒った。〉

原文二十四年,曹仁為關羽所圍。太祖以植為南中郎將,行征虜將軍,欲遣救仁,呼有所敕戒。植醉不能受命,於是悔而罷之。〈《魏氏春秋》曰:植將行,太子飲焉,偪而醉之。王召植,植不能受王命,故王怒也。〉

文帝(曹丕)が魏王の位に即くと、丁儀、丁廙とその男子を誅殺した。〈『魏略』に言う。◎丁儀は字を正礼といい、沛はい郡の人である。父の丁沖は、以前から太祖と親しく、当時天子の車に随行していた。国家が未だ安定していないのを見て、太祖に手紙を書いた。『あなたは平生、常に匡弼輔佐の志を慨嘆しておられましたが、今がその時です。』この時、張楊がちょうど河内に帰還したところで、太祖はその手紙を得て、軍を率いて天子を迎え、東の許へ行き、丁沖を司隷校尉こういとした。後に何度も諸将のもとを訪れて酒を飲み、酒が美味しくて止められず、酔って腸が爛れて死んだ。太祖は丁沖が以前に導き開いたことを、常に恩徳と感じていた。丁儀が優れた士であると聞き、まだ会っていなかったが、愛娘を娶らせようと考え、五官将(曹丕)に尋ねた。五官将は言った。『女性は容貌を見るものです。正礼(丁儀)は目が不自由ですから、愛娘が必ずしも喜ばないかもしれません。伏波将軍(夏侯惇)の子の夏侯楙と結婚させる方が良いと思います。』太祖はこれに従った。やがて丁儀を掾に辟召し、会って議論すると、その才能の明るさを賞賛し、言った。『丁掾は立派な士だ。たとえ両目が見えなくても、なお娘をやるべきだ。ましてやただ片目が悪いだけではないか。我が子が私を誤らせた。』当時、丁儀もまた公主を娶ることができなかったことを恨み、臨菑侯(曹植)と親しく、しばしばその奇才を称えた。太祖が既に曹植を立てようと考えていた時、丁儀もまた共にこれを支持した。太子が立つと、丁儀を罪に治めようとし、丁儀を右刺奸掾に転任させ、丁儀に自決するよう望んだが、丁儀はできなかった。そこで中領軍の夏侯尚に叩頭して哀願したが、夏侯尚は涙を流すだけで救うことができなかった。後に職務上の事柄を理由に捕らえて獄に下し、殺した。◎丁廙は字を敬礼といい、丁儀の弟である。『文士伝』に言う。丁廙は若い時から才能と風采があり、博学で見聞が広かった。初め公府に辟召され、建安年間に黄門侍郎となった。丁廙はかつてゆったりと太祖に言った。『臨菑侯は天性仁孝で、自然に発露し、聡明で知恵が通じ、ほとんど完璧に近い。博学で識見が深く、文章は比類ない。当今天下の賢才君子は、年齢を問わず、皆彼に従って遊び、彼のために死ぬことを願っています。これは実に天が大魏に福を集め、永遠に尽きることのない国運を授けようとされているのです。』太祖を動かそうとした。太祖は答えた。『曹植は、私が愛している。どうしてあなたの言うようになれようか!彼を後継者に立てようと思うが、どうか?』丁廙は言った。『これは国家の興衰、天下の存亡に関わることであり、愚かで劣った瑣末な卑賤な者が敢えて関与できることではありません。臣下を知るのは君主に如くなく、子を知るのは父に如かないと聞いております。君主が明暗を問わず、父が賢愚を問わず、常にその臣下や子を知ることができるのはなぜでしょうか?それは互いに知り合うことが一事一物によるのではなく、互いに尽くすことが一朝一夕によるのではないからです。ましてや明公は聖哲を加え、人としての子としての道を習熟させておられます。今、明達なご命令を発し、永遠の安泰をお言葉にされました。これは上は天命に応じ、下は人心に合い、一瞬のうちに得て、万世に垂れるものと言えます。私は斧鉞の誅罰を避けず、敢えて言い尽くさないわけには参りません!』太祖は深くこれを受け入れた。〉曹植は諸侯と共に封国に赴いた。

原文文帝即王位,誅丁儀、丁廙并其男口。〈《魏略》曰:◎丁儀字正禮,沛郡人也。父沖,宿與太祖親善,時隨乘輿。見國家未定,乃與太祖書曰:『足下平生常喟然有匡佐之志,今其時矣。』是時張楊適還河內,太祖得其書,乃引軍迎天子東詣許,以沖為司隸校尉。後數來過諸將飲,酒美不能止,醉爛腸死。太祖以沖前見開導,常德之。聞儀為令士,雖未見,欲以愛女妻之,以問五官將。五官將曰:『女人觀貌,而正禮目不便,誠恐愛女未必悅也。以為不如與伏波子楙。』太祖從之。尋闢儀為掾,到與論議,嘉其才朗,曰:『丁掾,好士也,即使其兩目盲,尚當與女,何況但眇?是吾兒誤我。』時儀亦恨不得尚公主,而與臨菑侯親善,數稱其奇才。太祖既有意欲立植,而儀又共贊之。及太子立,欲治儀罪,轉儀為右刺奸掾,欲儀自裁而儀不能。乃對中領軍夏侯尚叩頭求哀,尚為涕泣而不能救。後遂因職事收付獄,殺之。◎廙字敬禮,儀之弟也。《文士傳》曰:廙少有才姿,博學洽聞。初闢公府,建安中為黃門侍郎。廙嘗從容謂太祖曰:『臨菑侯天性仁孝,發於自然,而聰明智達,其殆庶幾。至於博學淵識,文章絕倫。當今天下之賢才君子,不問少長,皆願從其游而為之死,實天所以鍾福於大魏,而永授無窮之祚也。』欲以勸動太祖。太祖答曰:『植,吾愛之,安能若卿言!吾欲立之為嗣,何如?』廙曰:『此國家之所以興衰,天下之所以存亡,非愚劣瑣賤者所敢與及。廙聞知臣莫若於君,知子莫若於父。至於君不論明闇,父不問賢愚,而能常知其臣子者何?蓋由相知非一事一物,相盡非一旦一夕。況明公加之以聖哲,習之以人子。今發明達之命,吐永安之言,可謂上應天命,下合人心,得之於須臾,垂之於萬世者也。廙不避斧鉞之誅,敢不盡言!』太祖深納之。〉植與諸侯並就國。

黄初二年、監国謁者の灌均が上意を忖度し、『曹植が酒に酔って道理に背き傲慢であり、使者を脅迫した』と上奏した。有司が罪を治めるよう請うたが、帝(曹丕)は太后(卞氏)の故に、爵位を貶めて安郷侯とした。〈『魏書』に詔を載せる。『曹植は朕の同母弟である。朕は天下に容れないものはない。ましてや曹植をや。骨肉の親である。誅殺を免じて、曹植を改封せよ。』〉その年、鄄城侯に改封された。三年、鄄城王に立てられ、邑二千五百戸を与えられた。

原文黃初二年,監國謁者灌均希指,奏『植醉酒悖慢,劫脅使者』。有司請治罪,帝以太后故,貶爵安鄉侯。〈《魏書》載詔曰:『植,朕之同母弟。朕於天下無所不容,而況植乎?骨肉之親,舍而不誅,其改封植。』〉其年改封鄄城侯。三年,立為鄄城王,邑二千五百戶。

四年、雍丘王に転封された。その年、京都に朝貢した。上疏して言った。

原文四年,徙封雍丘王。其年,朝京都。上疏曰:

帝はその文辞と意味を称賛し、丁重な詔書で答えて激励した。〈《魏略》によると、初め曹植が関に到着する前に、自ら過ちがあったと思い、帝に謝罪すべきだと考えた。そこで従官を関東に留め置き、わずか二、三人を連れて微行し、清河長公主に会い、公主を通じて謝罪しようとした。しかし関吏がこれを報告したため、帝は人を遣わして迎えさせたが、会うことはできなかった。太后は曹植が自殺したと思い、帝に向かって泣いた。ちょうど曹植が髪を結わず、斧と鉄の台を背負い、裸足で宮闕の下に詣でたので、帝と太后は喜んだ。会見したとき、帝はなお厳しい表情で、曹植と話さず、冠や履き物も着けさせなかった。曹植は地に伏して涙を流し、太后は不愉快であった。詔によってようやく王の服を着ることを許された。《魏氏春秋》によると、この時、諸侯国に対する待遇は法が厳しかった。任城王が急死した。諸王はすでに兄弟愛の痛みを抱いていた。曹植と白馬王曹彪が国に帰る際、同じ道を通って東へ帰り、隔たりの思いを語り合おうとしたが、監国使者が許さなかった。曹植は憤慨して別れを告げ、詩を作った。『帝に謁見して承明廬にて、去って旧き疆に帰らんとす。清晨に皇邑を発ち、日夕に首陽を過ぐ。伊洛は曠くして且つ深く、渡らんと欲すれば川に梁なし。舟を泛して洪濤を越え、怨む彼の東路の長きを。回顧して城闕を恋い、領を引いて情内に傷む。大谷何ぞ寥廓なる、山樹鬱蒼蒼たり。霖雨我が塗を泥み、流潦浩として従横す。中逵軌を絶えて無く、轍を改めて高岡に登る。修坂雲日に造り、我が馬玄にして以て黄なり。玄黄猶よく進むべく、我が思ひ鬱として以て紆す。鬱紆将に何をか念はん、親愛離居に在り。本図相与に偕らんとし、中更に克く俱にせず。鴟梟衡軛に鳴き、豺狼路衢に当たる。蒼蠅白黒を間し、讒巧親疏を反す。還らんと欲すれば蹊を絶えて無く、轡を攬めて踟躕を止む。踟躕亦何をか留めん、相思終極無し。秋風微涼を発し、寒蟬我が側に鳴く。原野何ぞ蕭條なる、白日忽ち西に匿る。孤獣走りて群を索め、草を銜えて食ふに遑あらず。帰鳥高林に赴き、翩翩として羽翼を厲す。物に感じて我が懐を傷み、心を撫して長く嘆息す。嘆息亦何をか為さん、天命我に違ふ。奈何ぞ同生を念ふ、一往して形帰らず。孤魂故域に翔り、霊柩京師に寄す。存者は復た過ぐること莫れ、亡没は身自ら衰ふ。人生一世に処る、忽ち朝露の晞くるが若し。年桑榆の間に在り、影響追ふ能はず。自ら顧みるに金石に非ず、咄嗟して心を悲しませむ。心悲しみ我が神を動かし、棄置して復た陳べること莫れ。丈夫志四海に在り、万里猶ほ比隣の如し。恩愛苟も虧けずば、遠きに在りて分日々に親し。何ぞ必ずしも同衾幬を同じくして、然る後に殷勤を展べん。倉卒骨肉の情、能く苦辛を懐かざらんや。苦辛何をか慮り思はん、天命信に疑ふべし。虚無列仙を求め、松子久しく吾を欺く。変故斯須に在り、百年誰か能く持たん。離別永く会無くんば、手を執る将に何の時か有らん。王其れ玉体を愛し、俱に黄髪の期を享けよ。涕を収めて即ち長塗に就き、筆を援りて此れより辞す。』〉

原文帝嘉其辭義,優詔答勉之。〈《魏略》曰:初植未到關,自念有過,宜當謝帝。乃留其從官著關東,單將兩三人微行,入見清河長公主,欲因主謝。而關吏以聞,帝使人逆之,不得見。太後以為自殺也,對帝泣。會植科頭負鈇鑕,徒跣詣闕下,帝及太後乃喜。及見之,帝猶嚴顏色,不與語,又不使冠履。植伏地泣涕,太後為不樂。詔乃聽復王服。《魏氏春秋》曰:是時待遇諸國法峻。任城王暴薨。諸王既懷友於之痛。植及白馬王彪還國,欲同路東歸,以敘隔闊之思,而監國使者不聽。植髮憤告離而作詩曰:『謁帝承明廬,逝將歸舊疆。清晨發皇邑,日夕過首陽。伊洛曠且深,欲濟川無梁。汎舟越洪濤,怨彼東路長。回顧戀城闕,引領情內傷。大谷何寥廓,山樹鬱蒼蒼。霖雨泥我塗,流潦浩從橫。中逵絕無軌,改轍登高岡。修阪造雲日,我馬玄以黃。玄黃猶能進,我思鬱以紆。鬱紆將何念?親愛在離居。本圖相與偕,中更不克俱。鴟梟鳴衡軛,豺狼當路衢;蒼蠅間白黑,讒巧反親疏。欲還絕無蹊,攬轡止踟躕。踟躕亦何留,相思無終極。秋風發微涼,寒蟬鳴我側。原野何蕭條,白日忽西匿。孤獸走索群,銜草不遑食。歸鳥赴高林,翩翩厲羽翼。感物傷我懷,撫心長嘆息。嘆息亦何為,天命與我違。奈何念同生,一往形不歸!孤魂翔故域,靈柩寄京師。存者勿復過,亡沒身自衰。人生處一世,忽若朝露晞。年在桑榆間,影響不能追。自顧非金石,咄吒令心悲。心悲動我神,棄置莫復陳。丈夫志四海,萬里猶比鄰。恩愛苟不虧,在遠分日親。何必同衾幬,然後展殷勤。倉卒骨肉情,能不懷苦辛?苦辛何慮思,天命信可疑。虛無求列仙,松子久吾欺。變故在斯須,百年誰能持?離別永無會,執手將何時?王其愛玉體,俱享黃髮期。收涕即長塗,援筆從此辭。』〉

六年、帝が東征し、帰途に雍丘を通り、曹植の宮殿に臨幸し、五百戸を増やした。

原文六年,帝東征,還過雍丘,幸植宮,增戶五百。

太和元年、浚儀に封を移した。二年、再び雍丘に戻った。曹植は常に憤慨し怨み、優れた才能を持ちながら用いられず、上疏して自ら試用を求めた。

原文太和元年,徙封浚儀。二年,復還雍丘。植常自憤怨,抱利器而無所施,上疏求自試曰:

臣は聞く、士が世に生まれるや、内にあっては父に仕え、外にあっては君に仕える。父に仕えることは親を栄えさせることを尊び、君に仕えることは国を興すことを貴ぶ。故に慈父といえども益なき子を愛すること能わず、仁君といえども用なき臣を養うこと能わない。徳を論じて官を授ける者は、成功した君主である。能力を量って爵を受ける者は、命を尽くす臣下である。故に君は虚しく授けることなく、臣は虚しく受けることない。虚しく授けることを謬挙といい、虚しく受けることを屍祿といい、詩の「素餐」はこれによって作られたのである。昔、二虢(虢仲・虢叔)は両国の任を辞さず、その徳が厚かったからである。旦(周公旦)・奭(召公奭)は燕・魯の封を譲らず、その功が大きかったからである。今、臣は国の重恩を蒙り、三世に至っている。正に陛下の昇平の世に値し、聖なる恩沢に浴し、徳教に潜かに潤されている。厚幸というべきである。しかるに東の藩国に位を窃み、爵は上列にあり、身には軽暖を被り、口には百味に飽き、目には華靡を極め、耳には絲竹に倦むのは、爵が重く禄が厚いことによるのである。退いて古の爵禄を授けた者を思うに、これとは異なり、皆功労をもって国を助け、主を補佐して民を恵んだ。今、臣に述べるべき徳なく、記すべき功なく、このまま年を終えて国朝に益なきならば、風人の「彼其」の譏りを受けることになろう。これにより上は玄冕を慚じ、俯いては朱紱を愧いる。今、天下は一統し、九州は晏如たるに、顧みれば西には命に違う蜀しょくがあり、東には臣とならぬ呉があり、辺境は甲を脱ぐを得ず、謀士は高枕するを得ないのは、誠に宇内を混同して太和を致さんがためである。故に啓(夏の啓王)は有扈を滅ぼして夏の功は顕れ、成(周の成王)は商・奄を克って周の徳は著しい。今、陛下は聖明をもって世を統べ、文王・武王の功を終え、成王・康王の隆盛を継ごうとし、賢を簡び能に授け、方叔・召虎のような臣をもって四境を鎮め御し、国の爪牙たらしめようとされるのは、まさに適切というべきである。しかし、高鳥がまだ軽い繳に掛からず、淵魚がまだ鉤餌に懸からないのは、釣射の術がまだ尽きていないのではないかと恐れるのである。昔、耿弇は光武帝を待たず、急いで張歩を撃ち、「賊を君父に遺さない」と言った。故に車右は鳴く轂に伏して剣に伏し、雍門狄は斉の境で首を刎ねた。この二士は、どうして生を厭い死を尚んだであろうか。誠にその主を侮り君を陵ぐことに憤ったのである。君の寵臣たるは、患いを除き利を興さんがためである。臣の君に事えるは、必ず身を殺して乱を靖め、功をもって主に報いるためである。昔、賈誼は弱冠にして属国への試用を求め、単于の頸を繋いでその命を制せんことを請うた。終軍は妙年にして越に使い、長い纓を得てその王を繋ぎ、北闕に連れ帰らんとした。この二臣は、どうして主を誇り世に耀かんことを好んだであろうか。志が鬱結し、その才力を逞しくし、能を明君に輸さんがためである。昔、漢武帝が霍去病のために邸宅を造ろうとすると、辞して言った。「匈奴未だ滅びず、臣家を為す無し」。国を憂え家を忘れ、躯を捐てて難を済すは、忠臣の志である。今、臣が外に居るのは、厚くないわけではないが、寝ても席に安からず、食っても味を遑わないのは、二方(呉・蜀)が未だ克たれぬことを念うためである。伏して見るに、先の武皇帝(曹操)の武臣宿将で、年老いて世を去った者が聞こえている。賢人は世に乏しくないが、宿将旧卒はなお戦陣に習熟している。窃かに自ら量らず、命を効さんことを志し、毛髪ほどの功を立て、受けた恩に報いたい。もし陛下が不世の詔を出し、臣の錐刀の用を効させ、西は大将軍に属して一校の隊を担当させ、あるいは東は大司馬に属して偏舟の任を統べさせれば、必ず危険に乗り険に蹈み、舟を駆り驪り(黒馬)を奮い、刃を突き鋒に触れ、士卒に先んじるであろう。権(孫権)を擒にし亮(諸葛亮)を馘くびきることはできなくとも、その雄率を虜にし、その醜類を殲滅し、須臾の捷を必ず効し、終身の愧を滅ぼし、名を史筆に掛け、事を朝策に列せしめたい。たとえ身は蜀の境に分かれ、首は呉の闕に懸かるとも、生きている年と思われるであろう。もし微才が試されず、世を没して聞こえず、ただその躯を栄えさせ体を豊かにし、生きて事に益なく、死んで数に損なきならば、虚しく上位を荷い重禄を忝くし、禽獣のように息づき鳥のように視て、白首に終わるのは、これはただ囲いや牢屋で飼われる物であり、臣の志すところではない。流聞によれば、東軍(対呉軍)が備えを失い、軍勢が小敗したという。食を輟み餐を棄て、袂を奮い衽を攘ぎ、剣を撫でて東を顧みれば、心はすでに呉会に馳せっている。臣は昔、先武皇帝に従って南は赤岸の極みに至り、東は滄海に臨み、西は玉門を望み、北は玄塞に出で、行軍用兵の勢いを見たが、神妙というべきであった。故に兵は予め言うべからず、難に臨んで変を制するものである。志は明時に自ら効し、聖世に功を立てんことにある。史籍を覧むごとに、古の忠臣義士が一朝の命を出だし、国家の難に殉じ、身は屠裂されても、功は鼎鐘に銘記され、名称は竹帛に垂れるのを見て、心を撫でて嘆息しないことはなかった。臣は聞く、明主は臣を使うに、罪ある者を廃さない。故に敗走した敗軍の将を用いて、秦・魯はその功を成した。絶纓(冠の紐を切られる)・盗馬の臣を赦して、楚・趙はその難を済した。臣は窃かに先帝(曹丕)の早崩、威王(曹彰)の棄世を感じ、臣ただ一人、どうして長く堪えられようか。常に朝露に先んじ、溝壑に填らんことを恐れ、墳土未だ乾かぬうちに、身も名も共に滅びることを。臣は聞く、騏驥が長く鳴けば、伯楽はその能を照らす。盧狗が悲しく号すれば、南韓はその才を知る。故に斉・楚の路に効させ、千里の任を逞しくし、狡兔の敏捷さで試し、搏噬ぜいの用を験すのである。今、臣は狗馬の微功を志すが、窃かに自ら惟度するに、終に伯楽・南韓の挙げる所とならないであろう。これにより於邑(憂い悶えるさま)として窃かに自ら痛むのである。博打に臨んで身を竦ませ、楽を聞いて窃かに手を打つ者がいるのは、あるいは賞音して道を知る者がいるからである。昔、毛遂は趙の陪隸(下僕)でありながら、なお錐囊の譬えを借りて、主を悟らせ功を立てた。まして巍巍たる大魏の多士の朝に、慷慨として死難する臣がいないことがあろうか。自ら衒い自ら媒するは、士女の醜行である。時に干渉して進みを求めるは、道家の明らかな忌みである。しかるに臣が敢えて陛下に陳べて聞かせるのは、誠に国と形を分かち気を同じくし、憂患を共にする者だからである。塵霧の微をもって山海を補益し、螢燭の末光をもって日月を増輝せんことを冀い、敢えてその醜を冒してその忠を献ずるのである。(劉向『説苑』に曰く、越の甲兵が斉に至ると、雍門狄は死を請うた。斉王が「鼓鐸の音もまだ聞かず、矢石もまだ交わらず、長兵もまだ接していないのに、お前は何のために死のうとするのか。人臣の礼を知っているのか」と言うと、雍門狄は答えた。「臣は聞いております。昔、王が苑で狩りをされたとき、左の轂が鳴ったので、車右が死を請うた。王が『お前は何のために死ぬのか』と問うと、車右は『わが君を鳴らしたからです』と答えた。王が『左の轂が鳴ったのは工匠の罪である。お前に何の関係があろうか』と言うと、車右は『私は工匠の車を見たのではなく、わが君を鳴らすのを見たのです』と言って、ついに首を刎ねて死んだ。このようなことがありましたか』。王は『あった』と言った。雍門狄は言った。『今、越の甲兵が至り、わが君を鳴らすこと、どうして左の轂の下と比べられましょうか。車右は左の轂のために死ぬことができたのに、臣だけが越の甲兵のために死ぬことができないのでしょうか』。そこで首を刎ねて死んだ。この日、越人は軍を引き上げて七十里退き、『斉王には雍門狄のような臣がいる。越の社稷が血食を受けられなくなることを疑う』と言って帰った。斉王は雍門狄を上卿の礼をもって葬った。臣松之が案ずるに、秦が敗軍の将を用いたことは事績が明らかなので注さない。魯連が燕将に与えた書に曰く、曹子は魯の将として三戦三敗し、地五百里を失った。もし曹子が計を顧みず、義として踵を旋らさず、首を刎ねて死んでいたならば、敗軍の将を免れなかったであろう。曹子は三敗の恥を棄てて退き、魯君と計った。桓公が天子に朝し諸侯に会したとき、曹子は一剣の任をもって、壇坫の上で桓公の心を披き、顔色変えず、辞気悖らず。三戦で失った地を一朝にして復した。天下震動し、諸侯驚駭し、威は呉・越に加わった。この二士は、小廉を成し小節を行うことができなかったのではない。臣松之が案ずるに、楚荘王が絶纓の罪を掩ったことも事績が明らかなので書かない。秦穆公に盗馬を赦したことがあり、趙については聞かない。おそらく秦もまた趙姓なので、互文にして上の「秦」の字を避けたのであろう。)

原文臣聞士之生世,入則事父,出則事君;事父尚於榮親,事君貴於興國。故慈父不能愛無益之子,仁君不能畜無用之臣。夫論德而授官者,成功之君也;量能而受爵者,畢命之臣也。故君無虛授,臣無虛受;虛授謂之謬舉,虛受謂之屍祿,詩之『素餐』所由作也。昔二虢不辭兩國之任,其德厚也;旦、奭不讓燕、魯之封,其功大也。今臣蒙國重恩,三世於今矣。正值陛下升平之際,沐浴聖澤,潛潤德教,可謂厚幸矣。而竊位東藩,爵在上列,身被輕暖,口厭百味,目極華靡,耳倦絲竹者,爵重祿厚之所致也。退念古之授爵祿者,有異於此,皆以功勤濟國,輔主惠民。今臣無德可述,無功可紀,若此終年無益國朝,將掛風人『彼其』之譏。是以上慚玄冕,俯愧朱紱。方今天下一統,九州晏如,而顧西有違命之蜀,東有不臣之吳,使邊境未得脫甲,謀士未得高枕者,誠欲混同宇內以致太和也。故啟滅有扈而夏功昭,成克商、奄而周德著。今陛下以聖明統世,將欲卒文、武之功,繼成、康之隆,簡賢授能,以方叔、召虎之臣鎮御四境,為國爪牙者,可謂當矣。然而高鳥未掛於輕繳,淵魚未縣於鉤餌者,恐釣射之術或未盡也。昔耿弇不俟光武,亟擊張步,言不以賊遺於君父。故車右伏劍於鳴轂,雍門刎首於齊境,若此二士,豈惡生而尚死哉?誠忿其慢主而陵君也。〈劉向《說苑》曰:越甲至齊,雍門狄請死之。齊王曰:『鼓鐸之聲未聞,矢石未交,長兵未接,子何務死?知為人臣之禮邪?』雍門狄對曰:『臣聞之,昔者王田於囿,左轂鳴,車右請死之,王曰:「子何為死?」車右曰:「為其鳴吾君也。」王曰:「左轂鳴者,此工師之罪也。子何事之有焉?」車右對曰:「吾不見工師之乘,而見其鳴吾君也。」遂刎頸而死。有是乎?』王曰:『有之。』雍門狄曰:『今越甲至,其鳴吾君,豈左轂之下哉?車右可以死左轂,而臣獨不可以死越甲邪?』遂刎頸而死。是日,越人引軍而退七十里,曰:『齊王有臣,鈞如雍門狄,疑使越社稷不血食。』遂歸。齊王葬雍門狄以上卿之禮。〉夫君之寵臣,欲以除患興利;臣之事君,必以殺身靖亂,以功報主也。昔賈誼弱冠,求試屬國,請系單於之頸而制其命;終軍以妙年使越,欲得長纓纓其王,羈致北闕。此二臣,豈好為誇主而耀世哉?志或鬱結,欲逞其才力,輸能於明君也。昔漢武為霍去病治第,辭曰:『匈奴未滅,臣無以家為!』〈固〉夫憂國忘家,捐軀濟難,忠臣之志也。今臣居外,非不厚也,而寢不安席,食不遑味者,伏以二方未克為念。伏見先武皇帝武臣宿將,年耆即世者有聞矣。雖賢不乏世,宿將舊卒,猶習戰陳,竊不自量,志在效命,庶立毛髮之功,以報所受之恩。若使陛下出不世之詔,效臣錐刀之用,使得西屬大將軍,當一校之隊,若東屬大司馬,統偏舟之任,必乘危蹈險,騁舟奮驪,突刃觸鋒,為士卒先。雖未能禽權馘亮,庶將虜其雄率,殲其醜類,必效須臾之捷,以滅終身之愧,使名掛史筆,事列朝策。雖身分蜀境,首縣吳闕,猶生之年也。如微才弗試,沒世無聞,徒榮其軀而豐其體,生無益於事,死無損於數,虛荷上位而忝重祿,禽息鳥視,終於白首,此徒圈牢之養物,非臣之所志也。流聞東軍失備,師徒小衄,輟食棄餐,奮袂攘衽,撫劍東顧,而心已馳於吳會矣。臣昔從先武皇帝南極赤岸,東臨滄海,西望玉門,北出玄塞,伏見所以行軍用兵之勢,可謂神妙矣。故兵者不可豫言,臨難而制變者也。志欲自效於明時,立功於聖世。每覽史籍,觀古忠臣義士,出一朝之命,以徇國家之難,身雖屠裂,而功銘著於鼎鍾,名稱垂於竹帛,未嘗不拊心而嘆息也。臣聞明主使臣,不廢有罪。故奔北敗軍之將用,秦、魯以成其功;〈臣松之案:秦用敗軍之將,事顯,故不註。魯連與燕將書曰:『曹子為魯將,三戰三北而亡地五百裡,向使曹子計不反顧,義不旋踵,刎頸而死,則亦不免為敗軍之將矣。曹子棄三北之恥,而退與魯君計。桓公朝天子,會諸侯,曹子以一劍之任,披桓公之心於壇坫之上,顏色不變,辭氣不悖。三戰之所亡,一朝而復之。天下震動,諸侯驚駭,威加吳、越。』若此二士者,非不能成小廉而行小節也。〉絕纓盜馬之臣赦,楚、趙以濟其難。〈臣松之案:楚莊掩絕纓之罪,事亦顯,故不書。秦穆公有赦盜馬事,趙則未聞。蓋以秦亦趙姓,故互文以避上『秦』字也。〉臣竊感先帝早崩,威王棄世,臣獨何人,以堪長久!常恐先朝露,填溝壑,墳土未乾,而身名並滅。臣聞騏驥長鳴,則伯樂照其能;盧狗悲號,則南韓知其才。是以效之齊、楚之路,以逞千里之任;試之狡兔之捷,以驗搏噬之用。今臣志狗馬之微功,竊自惟度,終無伯樂、南韓之舉,是以於邑而竊自痛者也。夫臨搏而企竦,聞樂而竊抃者,或有賞音而識道也。昔毛遂,趙之陪隸,猶假錐囊之喻,以寤主立功,何況巍巍大魏多士之朝,而無慷慨死難之臣乎!夫自衒自媒者,士女之醜行也。干時求進者,道家之明忌也。而臣敢陳聞於陛下者,誠與國分形同氣,憂患共之者也。冀以塵霧之微補益山海,熒燭末光增輝日月,是以敢冒其醜而獻其忠。

《魏略》によると、曹植はこの上表文を提出したが、それでも用いられないのではないかと疑い、こう言ったという。『人が生命を尊ぶのは、身体を養い良い衣服を着て、天寿を全うすることを尊ぶのではなく、天に代わって万物を治めることを尊ぶのである。爵位と俸禄は、虚しく張り上げるものではなく、功績と徳行があって初めてそれに応じるものであり、それが当然である。功績がないのに爵位が厚く、徳行がないのに俸禄が重いのは、ある人は栄誉と思うが、壮士は恥じるところである。だから最も上なるものは徳を立て、次は功を立てる。およそ功徳というものは、名を後世に残すためのものである。名は滅びない。士が求める利益である。だから孔子には「夕べに死すとも可なり」という論があり、孟子には生を棄てる義がある。あの一聖一賢は、どうして長く生きることを願わなかっただろうか。志が果たせないことがあるからである。だから私は嘆息して試みを求め、必ず功を立てようとするのだ。ああ、言葉が用いられない。後世の君子に私の意を知らせたいだけである。』

原文〈《魏略》曰:植雖上此表,猶疑不見用,故曰『夫人貴生者,非貴其養體好服,終竟年壽也,貴在其代天而理物也。夫爵祿者,非虛張者也,有功德然後應之,當矣。無功而爵厚,無德而祿重,或人以為榮,而壯夫以為恥。故太上立德,其次立功,蓋功德者所以垂名也。名者不滅,士之所利,故孔子有夕死之論,孟軻有棄生之義。彼一聖一賢,豈不願久生哉?志或有不展也。是用喟然求試,必立功也。嗚呼!言之未用,欲使後之君子知吾意者也。〉

三年(太和三年)、東阿に封を移された。五年(太和五年)、再び上疏して親族への慰問を求め、その意を述べて言った。

原文三年,徙封東阿。五年,覆上疏求存問親戚,因致其意曰:

臣は聞く。天がその高さを称えられるのは、覆わないものがないからであり、地がその広さを称えられるのは、載せないものがないからであり、日月がその明るさを称えられるのは、照らさないものがないからであり、江海がその大きさを称えられるのは、容れないものがないからである。故に孔子は言われた。『大なるかな、堯の君たること!天のみが大なり、堯のみがこれに則る。』天の徳が万物に対して及ぼすことは、まことに広大であると言えよう。およそ堯の教化は、親しい者を先にし、疎遠な者を後にする。近い者から遠い者へと及ぶ。その伝に言う。『明らかに峻徳を克くし、以て九族を親しむ。九族既に睦び、百姓を平章す。』周の文王もまたその教化を尊んだ。その詩に言う。『寡妻に刑し、兄弟に至り、以て家邦を御す。』それゆえに和やかで美しく、風人がこれを詠んだ。昔、周公は管叔・蔡叔が和合しないことを憂い、良き親族を広く封じて王室の藩屏とした。伝に言う。『周の宗盟、異姓は後と為す。』まことに骨肉の恩愛は疎遠になっても離れず、親族を親しむ義は実に厚く固くあるべきで、義があってその君を後回しにし、仁があってその親族を遺棄するようなことはない。伏して考えるに、陛下は帝堯の敬い明らかな徳を備え、文王の慎み深い仁を体現され、恩恵は后妃の宮殿にまで行き渡り、恩寵は九族に明らかである。諸侯や百官は順番に休み、交代で朝廷に出仕し、政務は公の場で廃れることなく、下情は私的な場で述べることができ、親族との道理は通じ、慶弔の情は表される。まことに己を恕して人を治め、恵みを推し広げ恩を施す者と言えよう。臣に至っては、人としての道は絶え、この明るい時代に禁錮されている。臣はひそかに自らを傷んでいる。気の合う者と交わりを深め、人としての務めを修め、人倫の関係を語り合うことなど、過度に望むことはできない。近頃では婚姻さえ通じず、兄弟は絶縁状態で、吉凶の問い合わせは塞がれ、慶弔の礼は廃れ、恩愛の絆が断たれることは、通りすがりの他人よりもひどく、隔たりの違いは、胡と越のようにかけ離れている。今、臣は一律の制度によって、永遠に朝覲の望みはなく、心を皇極(天子)に注ぎ、情を紫闥(宮門)に結ぶことは、神と明らかに知っている。しかし天が実際にそうさせたのだから、どうしようもない。退いて思うに、諸王は常に兄弟仲睦まじくありたいと願っている。願わくは陛下が盛んに詔を垂れ、諸侯国が慶賀と慰問を行い、四季の折々に情を表すことができ、骨肉の歓びと恩愛を語り合い、和やかで篤い義を全うさせてください。妃や妾の実家にも、化粧料などの贈り物を年に二度は届けさせ、貴族の宗族と同等の義を、百官と同等の恵みを与えてください。このようにすれば、古人が嘆き、風雅が詠んだことが、聖なる世に再び現れるでしょう。臣は伏して自らを省みるに、錐や刀のような微細な用もない。しかし陛下が抜擢任用されるのを見ると、もし臣が異姓であったなら、ひそかに推し量るに、朝廷の士に遅れを取ることはないでしょう。もし遠方への遊歴を辞し、武官の冠を戴き、朱の組を解き、青の綬を佩き、駙馬都尉や奉車都尉となり、一つ官号を得て、京師の邸宅に安住し、鞭を執り筆を耳に挟み、出では華蓋の下に従い、入っては輦轂に侍り、聖なるお尋ねに答え、左右で遺漏を拾い集めることができれば、これこそ臣の丹誠の極みなる願いで、夢の中からも離れません。遠くには『鹿鳴』の君臣の宴を慕い、中には『常棣』の「匪他(他人ではない)」の戒めを詠じ、下には『伐木』の友生の義を思い、終いには『蓼莪』の尽きることなき哀しみを懐く。毎度、四季の節会の折には、塊然として独り居り、左右にいるのは僕隷ばかり、向き合うのは妻子だけである。高談闊論する相手もなく、義理を発揮する場もない。音楽を聞くたびに胸を打ち、杯に臨んでは嘆息せずにはいられない。臣は伏して考える。犬馬の誠実ささえ人を動かさないなら、譬えれば人の誠実さが天を動かさないようなものである。城壁が崩れ、霜が降りるという話は、臣も初めは信じたが、臣の心に照らすと、ただの空言に過ぎない。葵や藿の葉が太陽に向かって傾くように、太陽はそのために光を返さないが、それに向かうのは誠実だからである。ひそかに自らを葵や藿に譬える。もし天地の恵みを降らせ、三光(日月星)の明かりを垂れるとすれば、それはまさに陛下にある。臣は聞く。文子が言う。『福の始めとならず、禍の先とならず。』今の隔絶状態は、兄弟たちも皆憂いているが、臣だけが声を上げて言うのは、ひそかに聖世において施しを受けられない者がいることを望まないからである。施しを受けられない者がいれば、必ず惨毒の思いを抱く。だから『柏舟』には「天只」の怨みがあり、『穀風』には「我を棄つ」の嘆きがある。だから伊尹はその君が堯舜とならないことを恥じ、孟子は言う。『舜が堯に仕えた方法でその君に仕えない者は、その君を敬わない者である。』臣の愚かさと蔽われた心は、もとより虞舜や伊尹ではないが、陛下に光輝が広く行き渡り時世が和らぐ美しさを崇められ、明るく輝き章明なる徳を宣揚されることを願うのは、臣の慺々たる誠実さであり、ひそかに独り守り、実に鶴のように立って待ち侘びる心を抱いている。敢えて再び陳べて聞かせるのは、陛下がもし天の聡明を発揮され神のごとき聴覚を垂れてくださることを冀うからである。詔で答えて言われた。『およそ教化の由来は、それぞれ盛んなり衰えたりの違いがあり、皆が善く始めて悪く終わるわけではない。事態がそうさせるのである。だから忠厚仁愛が草木にまで極まれば、『行葦』の詩が作られ、恩沢が衰え薄くなり九族を親しまなければ、『角弓』の章が諷刺する。今、諸侯国の兄弟は、情理が疎かで怠り、妃妾の実家への化粧料なども疎かになっている。朕はたとえこれを厚く睦まじくさせることができなくとも、王が古を引き義に譬えて詳しく述べられた。どうして精誠が感応を通じさせられないと言えようか。貴賤を明らかにし、親族を尊び、賢良を礼遇し、少長の順序に従うことは、国の綱紀である。もともと諸侯国が通問することを禁じる詔などない。矯枉過正で、下吏が譴責を恐れて、このようになってしまっただけである。すでに有司に命じた。王の訴えの通りにするように。』

原文臣聞天稱其高者,以無不覆;地稱其廣者,以無不載;日月稱其明者,以無不照;江海稱其大者,以無不容。故孔子曰:『大哉堯之為君!惟天為大,惟堯則之。』夫天德之於萬物,可謂弘廣矣。蓋堯之為教,先親後疏,自近及遠。其傳曰:『克明峻德,以親九族;九族既睦,平章百姓。』及周之文王亦崇厥化,其詩曰:『刑於寡妻,至於兄弟,以御於家邦。』是以雍雍穆穆。風人詠之。昔周公弔管、蔡之不咸,廣封懿親以藩屏王室,傳曰:『周之宗盟,異姓為後。』誠骨肉之恩爽而不離,親親之義實在敦固,未有義而後其君,仁而遺其親者也。伏惟陛下資帝唐欽明之德,體文王翼翼之仁,惠洽椒房,恩昭九族,群後百寮,番休遞上,執政不廢於公朝,下情得展於私室,親理之路通,慶弔之情展,誠可謂恕己治人,推惠施恩者矣。至於臣者,人道絕緒,禁錮明時,臣竊自傷也。不敢過望交氣類,脩人事,敘人倫。近且婚媾不通,兄弟乖絕,吉凶之問塞,慶弔之禮廢,恩紀之違,甚於路人,隔閡之異,殊於胡越。今臣以一切之制,永無朝覲之望,至於註心皇極,結情紫闥,神明知之矣。然天實為之,謂之何哉!退唯諸王常有戚戚具爾之心,願陛下沛然垂詔,使諸國慶問,四節得展,以敘骨肉之歡恩。全怡怡之篤義。妃妾之家,膏沐之遺,歲得再通,齊義於貴宗,等惠於百司,如此,則古人之所嘆,風雅之所詠,復存於聖世矣。臣伏自惟省,無錐刀之用。及觀陛下之所拔授,若以臣為異姓,竊自料度,不後於朝士矣。若得辭遠游,戴武弁,解朱組,佩青紱,駙馬、奉車,趣得一號,安宅京室,執鞭珥筆,出從華蓋,入侍輦轂,承答聖問,拾遺左右,乃臣丹誠之至願,不離於夢想者也。遠慕鹿鳴君臣之宴,中詠常棣匪他之誡,下思伐木友生之義,終懷蓼莪罔極之哀;每四節之會,塊然獨處,左右惟僕隸,所對惟妻子,高談無所與陳,發義無所與展,未嘗不聞樂而拊心,臨觴而嘆息也。臣伏以為犬馬之誠不能動人,譬人之誠不能動天。崩城、隕霜,臣初信之,以臣心況,徒虛語耳。若葵藿之傾葉,太陽雖不為之回光,然向之者誠也。竊自比於葵藿,若降天地之施,垂三光之明者,實在陛下。臣聞文子曰:『不為福始,不為禍先。』今之否隔,友於同憂,而臣獨倡言者,竊不願於聖世使有不蒙施之物。有不蒙施之物,必有慘毒之懷,故柏舟有『天只』之怨,穀風有『棄予』之嘆。故伊尹恥其君不為堯舜,孟子曰:『不以舜之所以事堯事其君者,不敬其君者也。』臣之愚蔽,固非虞、伊,至於欲使陛下崇光被時雍之美,宣緝熙章明之德者,是臣慺慺之誠,竊所獨守,實懷鶴立企佇之心。敢復陳聞者,冀陛下儻發天聰而垂神聽也。詔報曰:『蓋教化所由,各有隆弊,非皆善始而惡終也,事使之然。故夫忠厚仁極草木,則行葦之詩作;恩澤衰薄,不親九族,則角弓之章刺。今令諸國兄弟,情理簡怠,妃妾之家,膏沐疏略,朕縱不能敦而睦之,王援古喻義備悉矣,何言精誠不足以感通哉?夫明貴賤,崇親親,禮賢良,順少長,國之綱紀,本無禁固諸國通問之詔也,矯枉過正,下吏懼譴,以至於此耳。已敕有司,如王所訴。』

曹植は再び上疏して、人材の推挙審査についての道理を述べて言った。

原文植覆上疏陳審舉之義,曰:

臣は聞く、天地が気を合わせて万物が生まれ、君臣が徳を合わせて諸々の政務が成る。五帝の時代がすべて智に満ちていたわけではなく、三季(夏・殷・周の末期)の末がすべて愚であったわけでもない。用いられるか否か、知られるか否かの違いである。すでに時に賢人を挙げる名目はあっても、賢人を得る実がなければ、必ずや各自が自分の同類を引き立てて推挙することになる。諺に言う、『宰相の家には宰相が生まれ、将軍の家には将軍が生まれる』と。そもそも宰相とは、文徳が輝く者である。将軍とは、武功が盛んな者である。文徳が輝けば、国政を正し、平和な世を導くことができ、稷・契・夔・龍がそれである。武功が盛んであれば、服従しない者を征伐し、四方の異民族を威圧することができ、南仲・方叔がそれである。昔、伊尹が嫁入りの従者であった時は、最も卑賤であり、呂尚が屠殺や釣りをしていた時は、最も卑陋であった。しかし、彼らが湯王・武王、周の文王に見出されて挙用された時、誠に道が合い志を同じくし、深遠な謀略が神のごとく通じた。どうして近習の推薦を借りたり、側近の仲介を頼ったりする必要があろうか。書経に言う、『世に並ぶ者のない君主がいるならば、必ず世に並ぶ者のない臣を用いることができ、世に並ぶ者のない臣を用いるならば、必ず世に並ぶ者のない功績を立てることができる』と。殷の湯王と周の武王がこれである。もし、狭量で近視眼的に、常道を守り古いやり方に固執するだけなら、どうして陛下に申し上げる価値があろうか。ゆえに陰陽が調和せず、日月星の光が明るくなく、官職が空位で人がおらず、諸々の政務が整わないのは、三司(三公)の責任である。国境が騒動し、四方の辺境が内に侵食され、軍隊が滅び兵士を失い、戦争が止まないのは、辺境の将軍の憂いである。どうして空しく国の寵愛を受けながらその職務にふさわしくないことがあろうか。ゆえに任務が重くなるほど負担は重くなり、地位が高くなるほど責任は深くなる。書経に『官職を空しくするな』と言い、詩経に『その職務の憂いを思え』とある。これがその意味である。陛下は天の真実の淑やかで聖なるお方として、神妙な機微を極めて統治を継承され、『康哉』の歌を聞き、武力を収め文教を行う美政を期待しておられる。しかし数年このかた、水害や旱害が時を失い、民は衣食に困窮し、軍隊の派遣は年々増え、徴発も加わり、東には敗北した軍隊があり、西には戦死した将軍がいて、ついには蚌や蛤が淮水や泗水に浮かんで泳ぎ、貂や鼬が林の中で騒ぎ立てる有様である。臣はこれを思うたびに、食事を中断して箸を投げ、杯を前にして手首を握りしめずにはいられない。昔、漢の文帝が代国から出発する時、朝廷に変事があるのではと疑ったが、宋昌が言った、『内には朱虚侯・東牟侯のような親族がおり、外には斉・楚・淮南・琅邪の諸侯がいます。これらは盤石のように堅固な宗族です。王よ、疑わないでください』と。臣はひそかに考えるに、陛下には遠く周の文王が虢仲・虢叔を頼りにしたことをご覧になり、中には周の成王が召公・畢公の補佐を得たことをご考慮され、下には宋昌の言う盤石のごとき固さをお保ちください。昔、駿馬が呉の坂道にいた時は、困窮していたと言えよう。しかし伯楽がそれを見抜き、孫郵がそれを御するようになると、体を労せずして千里を走った。およそ伯楽は馬を御するのが巧みであり、明君は臣下を御するのが巧みである。伯楽が千里を走らせ、明君が太平を導く。誠に賢人を用い能ある者を使うことの明らかな効果である。もし朝廷の役人が優れていれば、万機は内で治まり、武将が軍を率いれば、四方の災難は必ず鎮められる。陛下は都城中でゆったりとされればよく、どうして鑾駕を動かし、辺境に身をさらされる必要があろうか。臣は聞く、羊の質に虎の皮をかぶせたものは、草を見れば喜び、豺を見れば震え上がり、自分が虎の皮をかぶっていることを忘れる、と。今、将軍を配置しても良将でなければ、これに似ている。ゆえに言葉に言う、『患いは、それを行う者が知らず、知っている者が行うことができないことにある』と。昔、楽毅が趙に奔ったが、心は燕を忘れず、廉頗が楚にいても、趙の将軍となることを思った。臣は乱世に生まれ、軍中で育ち、また武皇帝(曹操)から数々のご教示を賜った。ひそかに行軍や用兵の要諦を見るに、必ずしも孫子や呉子を学ばなくても、暗黙のうちにそれらと合致する。ひそかに心の中で推し量ると、常に朝廷に参内し、金門を押し開き、玉の階段を踏み、職務を持つ臣下の列に加わり、わずかな時間のご質問を賜り、臣が胸に抱く思いを述べ、積もった思いを吐露させていただき、死んでも恨みはありません。鴻臚から下された兵士の子弟(士息)を徴発する文書を受け取り、期日は非常に急である。また聞くところによれば、豹尾(皇帝の行列の旗)がすでに立てられ、兵車が急ぎ駆けている。陛下はまたもご自身を労され、神慮を煩わされることになろう。臣は誠に恐れおののき、安んじておられない。どうか馬を駆り鞭を執り、先頭に立って塵や露にまみれ、風后の奇策を学び取り、孫子・呉子の要諦を受け継ぎ、卜商(子夏)が孔子を啓発したことを追慕し、陛下の左右に仕え、先駆けとして命を尽くし、車輪や轂こしきとして命を終えたい。大いに益するところはなくとも、少しは補えることを願う。しかし天は高く聴くところ遠く、私の思いは上に通じず、ただ青雲を望んで胸を打ち、高い天を仰いで嘆息するのみである。屈原は言った、『国に駿馬があるのに乗ることを知らず、どうしてあわてて別のものを探すのか』と。昔、管叔・蔡叔が追放・誅殺された時、周公・召公が補佐となった。叔魚が刑に陥った時、叔向が国を正した。三監(管叔・蔡叔・霍叔)のような罪は、臣が自ら引き受ける。二南(周公・召公)のような補佐は、求めれば必ず遠くない。華やかな宗族や貴族、藩王の中に、必ずこの推挙に応える者がいる。ゆえに伝に言う、『周公のような親族でなければ、周公のようなことを行うことはできない』と。どうか陛下に少しご留意いただきたい。近ごろ漢王朝は広く藩王を建て、豊かであれば数十の城を連ね、貧しければ祖先の祭祀を行うだけの食禄しか与えず、周王朝が国を建て、五等の爵制で統治したようにはしていない。扶蘇が始皇帝しこうていを諫めたこと、淳于越が周青臣を難じたことは、時勢の変化を知っていたと言えよう。天下の人の耳を傾けさせ目を注がせるものは、権力を握る者である。ゆえに謀略は主君を動かし、威勢は下の者を恐れさせる。豪族が政権を執る時は、親戚に任せない。権力が存在するところでは、疎遠な者でも必ず重んじられ、勢いが去ったところでは、親しい者でも必ず軽んじられる。およそ斉を取ったのは田氏の一族であって、呂氏の宗族ではない。晋を分けたのは趙氏・魏氏であって、姫姓ではない。どうか陛下にご明察いただきたい。もし吉事があればその地位を独占し、凶事があればその災いから離れる者は、異姓の臣下である。国の安泰を願い、家の栄達を祈り、生きている時は共に栄え、死ぬ時は同じ災いに遭おうとする者は、公族(皇族)の臣下である。今、かえって公族は疎遠にされ、異姓は親密にされている。臣はひそかに惑っている。臣は孟子の言葉を聞く、『君子は窮すれば独りその身を善くし、達すれば天下を善くする』と。今、臣は陛下と共に氷を踏み炭火を踏み、山に登り谷を渡り、寒さ温かさ乾き湿り、高低を共にしてきた。どうして陛下から離れられようか。憤懣の思いに耐えかね、表を捧げて心情を陳べる。もし合わないところがあれば、どうかしばらく書府に蔵し、すぐに棄て去ることなく、臣が死んだ後、事態を考える材料にしていただきたい。もしほんのわずかでも聖意にかかるものがあれば、どうか朝廷に出し、博古の士に、臣の表の中で義に合わないところを糾弾させてください。そうすれば、臣の願いは十分です。

原文臣聞天地協氣而萬物生,君臣合德而庶政成;五帝之世非皆智,三季之末非皆愚,用與不用,知與不知也。既時有舉賢之名,而無得賢之實,必各援其類而進矣。諺曰:『相門有相,將門有將。』夫相者,文德昭者也;將者,武功烈者也。文德昭,則可以匡國朝,致雍熙,稷、契、夔、龍是也;武功烈,則所以征不庭,威四夷,南仲、方叔是矣。昔伊尹之為媵臣,至賤也,呂尚之處屠釣,至陋也,及其見舉於湯武、周文,誠道合志同,玄謨神通,豈復假近習之薦,因左右之介哉。書曰:『有不世之君,必能用不世之臣;用不世之臣,必能立不世之功。』殷周二王是矣。若夫齷齪近步,遵常守故,安足為陛下言哉?故陰陽不和,三光不暢,官曠無人,庶政不整者,三司之責也。疆埸騷動,方隅內侵,沒軍喪眾,干戈不息者,邊將之憂也。豈可虛荷國寵而不稱其任哉?故任益隆者負益重,位益高者責益深,書稱『無曠庶官』,詩有『職思其憂』,此其義也。陛下體天真之淑聖,登神機以繼統,冀聞康哉之歌,偃武行文之美。而數年以來,水旱不時,民困衣食,師徒之發,歲歲增調,加東有覆敗之軍,西有殪沒之將,至使蚌蛤浮翔於淮、泗,鼲鼬讙嘩於林木。臣每念之,未嘗不輟食而揮餐,臨觴而搤腕矣。昔漢文發代,疑朝有變,宋昌曰:『內有朱虛、東牟之親,外有齊、楚、淮南、琅邪,此則磐石之宗,願王勿疑。』臣伏惟陛下遠覽姬文二虢之援,中慮周成召、畢之輔,下存宋昌磐石之固。昔騏驥之於吳阪,可謂困矣,及其伯樂相之,孫郵御之,形體不勞而坐取千里。蓋伯樂善御馬,明君善御臣;伯樂馳千里,明君致太平;誠任賢使能之明效也。若朝司惟良,萬機內理,武將行師,方難克弭。陛下可得雍容都城,何事勞動鑾駕,暴露於邊境哉?臣聞羊質虎皮,見草則悅,見豺則戰,忘其皮之虎也。今置將不良,有似於此。故語曰:『患為之者不知,知之者不得為也。』昔樂毅奔趙,心不忘燕;廉頗在楚,思為趙將。臣生乎亂,長乎軍,又數承教於武皇帝,伏見行師用兵之要,不必取孫、吳而闇與之合。竊揆之於心,常願得一奉朝覲,排金門,蹈玉陛,列有職之臣,賜須臾之問,使臣得一散所懷,攄舒蘊積,死不恨矣。被鴻臚所下發士息書,期會甚急。又聞豹尾已建,戎軒騖駕,陛下將復勞玉躬,擾掛神思。臣誠竦息,不遑寧處。願得策馬執鞭,首當塵露,撮風後之奇,接孫、吳之要,追慕卜商起予左右,效命先驅,畢命輪轂,雖無大益,冀有小補。然天高聽遠,情不上通,徒獨望青雲而拊心,仰高天而嘆息耳。屈平曰:『國有驥而不知乘,焉皇皇而更索!』昔管、蔡放誅,周、召作弼;叔魚陷刑,叔向匡國。三監之釁,臣自當之;二南之輔,求必不遠。華宗貴族,藩王之中,必有應斯舉者。故傳曰:『無周公之親,不得行周公之事。』唯陛下少留意焉。近者漢氏廣建藩王,豐則連城數十,約則饗食祖祭而已,未若姬周之樹國,五等之品制之。若扶蘇之諫始皇,淳于越之難周青臣,可謂知時變矣。夫能使天下傾耳註目者,當權者是矣,故謀能移主,威能懾下。豪右執政,不在親戚;權之所在,雖疏必重,勢之所去,雖親必輕,蓋取齊者田族,非呂宗也。分晉者趙、魏,非姬姓也。唯陛下察之。苟吉專其位,凶離其患者,異姓之臣也。欲國之安,祈家之貴,存共其榮,沒同其禍者,公族之臣也。今反公族疏而異姓親,臣竊惑焉。臣聞孟子曰:『君子窮則獨善其身,達則兼善天下。』今臣與陛下踐冰履炭,登山浮澗,寒溫燥濕,高下共之,豈得離陛下哉?不勝憤懣,拜表陳情。若有不合,乞且藏之書府,不便滅棄,臣死之後,事或可思。若有豪釐少掛聖意者,乞出之朝堂,使夫博古之士,糾臣表之不合義者。如是,則臣願足矣。

皇帝はいつも丁寧な文書で返答した。〈《魏略》によると、その後、大規模に士息(兵士の子弟)を徴発し、諸国の士人を徴用した。曹植は、近隣の諸国の士息がすでに徴発され、孤児や幼弱な者が多く、残っている者はほとんどいないのに、さらに徴用されることになったため、上書して言った。『臣は聞く、古代の聖君は、日月とその明るさを同じくし、四季とその信頼を等しくした。それゆえに凶悪を罰するのに重すぎることはなく、善を賞するのに軽すぎることはなく、怒りは雷霆のごとく、喜びは時雨のごとく、恩恵は中途で絶えることなく、教えは二つの道がない。このようにして朝廷に臨めば、臣下は死すべきところを知るのである。万里の外に任を受ける者は、主君が授けた官職をよく考え、必ず自分が命を投げ出す理由をわきまえる。たとえ讒言する者がいても、淡々として恐れないのは、君臣が信頼し合っている明らかな証拠である。昔、章子が斉の将軍であったとき、人が彼が謀反を企てていると告げた。威王は「そうではない」と言った。左右の者が「王はどうしてそれがわかるのですか」と尋ねると、王は「章子が死んだ母を改葬したと聞いた。彼は死んだ父さえ欺かないのに、まして生きている君主に背くことがあろうか」と言った。これが君主が臣下を信じる例である。昔、管仲は自ら桓公を射たが、後に幽閉され、魯から檻車に載せられ、若者に引かせて斉に送られた。管仲は桓公が必ず自分を用いると知り、魯が後悔することを恐れて、若者に言った。「私が歌うから、お前はそれに合わせてくれ。声と声が合えば、走るのがよい」。そこで管仲が歌い始めると、若者は走りながらそれに合わせ、一日に数百里を行き、一夜で到着した。到着すると斉の宰相となった。これが臣下が君主を信じる例である。臣が初めて封を受けたとき、策書に『曹植はこの青社を受け、東土に封ぜられ、皇家を屏翰し、魏の藩輔となれ』とあった。しかし与えられた兵士は百五十人で、皆、耳順の年(六十歳)か、あるいは矩を越えず(七十歳)、虎賁・官騎および親事合わせて二百余人である。たとえ老いていなくても、皆が壮年であれば、不測の事態に備え、城を巡視するにも、自分を守るのにさえ十分でないのに、まして皆がみな耄耋で疲れ果てているとしたらどうか。しかも名目は魏の東の藩屏として王室を守護するという。臣はひそかに恥ずかしく思う。諸国を見ると、国にいる士子は合わせても五百人に満たない。伏して考えるに、三軍の増減は、もはやこれに頼ることはない。国外が平定されず、必ず準備が必要なときは、臣は配下の部曲を率いて倍速で駆けつけ、夫婦は子供を背負い、子弟は食糧を抱え、刃を踏みしめて国難に殉じたい。どうしてただ習業の小児だけを頼りにしようか。愚かながらも、涙を揮って河を増し、鼷鼠が海を飲むようなもので、朝廷には万に一つも損益がなく、臣の家計には甚だしい損害がある。また、臣の士息は前後三回送られ、兼ねる人材はすでに尽きている。ただまだ小児が、七八歳以上、十六七歳以下で三十余人いる。今、部曲は皆年老いて床に臥し、粥でなければ食べられず、目が見えず、かろうじて息をしている者が三十七人いる。疲れ病み、風に靡き、いぼ、盲目、耳が聞こえない者が二十三人いる。ただ、この小児たちが必要で、大きい者は宿衛に備えられ、寇を防ぐには足りないが、小盗を警戒するには大体役立つ。小さい者は大きな使いはできないが、雑草を鋤き、鳥雀を追い払うことはできる。休みの侯人なら一つの仕事が廃れ、一日狩りをすれば多くの仕事が散り、自ら経営しなければ功績はまとまらない。常に自ら躬親し、下吏に委ねないだけである。陛下は聖仁で、恩詔が三度も下り、士子は国に給され、長く再び徴発されない。明らかな詔が下れば、それは白日のように明らかで、金石のような恩を保ち、必ず明神のような信があり、はっきりと自ら固め、天や地のようである。定習業者もまた送り返されると聞き、暗く昼が晦むようで、茫然として計画を失う。伏して考えるに、陛下はすでに臣を百官の上位に爵位を与え、藩国の任に居らせ、卿士を置き、屋を宮と名付け、塚を陵と名付け、危険な状態で孤立させず、凡庶と異ならないようにされた。もし柏成が野耕を喜び、子仲が灌園を楽しむように、蓬戸茅牖は原憲の宅であり、陋巷簞瓢は顔子の居である。臣の才能は用いられず、常に慨然としてこの志を抱いている。もし陛下が臣の部曲をすべて返し、官属を罷め、監官を省き、璽を解き紱を釋かせ、柏成・子仲の業を追い、顔淵・原憲の事を営み、子臧の廬に居り、延陵の室に宅することをお許しくだされば、このように、進んでも成功がなくとも、退いて守るべきものがあり、身が死ぬ日には、なお松・喬のようであろう。しかし、伏して考えるに、国朝は終に臣がこのようになることをお許しにならないだろう。固より世の縄に羈絆され、禄位に維繫され、屑屑たる小さな憂いを懐き、已むことのない百の念を執り、どうして蕩然として志を肆にし、宇宙の外に逍遥することができようか。この願いが従わなければ、陛下が必ず親親を崇め、骨肉を篤くし、白骨を潤し枯木を栄えさせようとされるなら、ただ仁徳を遂げて前の恩詔に副うことである。』結局、すべて返還された。〉

原文帝輒優文答報。〈《魏略》曰:是後大發士息,及取諸國士。植以近前諸國士息已見發,孤稚弱,在者無幾,而復被取,乃上書曰:『臣聞古者聖君,與日月齊其明,四時等其信,是以戮凶無重,賞善無輕,怒若驚霆,喜若時雨,恩不中絕,教無二可,以此臨朝,則臣下知所死矣。受任在萬里之外,審主之所授官,必己之所以投命,雖有構會之徒,泊然不以為懼者,蓋君臣相信之明效也。昔章子為齊將,人有告之反者,威王曰:「不然。」左右曰:「王何以明之?」王曰:「聞章子改葬死母;彼尚不欺死父,顧當叛生君乎?」此君之信臣也。昔管仲親射桓公,後幽囚從魯檻車載,使少年輓而送齊。管仲知桓公之必用己,懼魯之悔,謂少年曰:「吾為汝唱,汝為和,聲和聲,宜走。」於是管仲唱之,少年走而和之,日行數百裡,宿昔而至。至則相齊,此臣之信君也。臣初受封,策書曰:「植受茲青社,封於東土,以屏翰皇家,為魏藩輔。」而所得兵百五十人,皆年在耳順,或不逾矩,虎賁官騎及親事凡二百餘人。正復不老,皆使年壯,備有不虞,檢校乘城,顧不足以自救,況皆復耄耋罷曳乎?而名為魏東藩,使屏翰王室,臣竊自羞矣。就之諸國,國有士子,合不過五百人。伏以為三軍益損,不復賴此。方外不定,必當須辦者,臣願將部曲倍道奔赴,夫妻負襁,子弟懷糧,蹈鋒履刃,以徇國難,何但習業小兒哉?愚誠以揮涕增河,鼷鼠飲海,於朝萬無損益,於臣家計甚有廢損。又臣士息前後三送,兼人已竭。惟尚有小兒,七八歲已上,十六七已還,三十餘人。今部曲皆年耆,卧在床席,非糜不食,眼不能視,氣息裁屬者,凡三十七人;疲瘵風靡,疣盲聾聵者,二十三人。惟正須此小兒,大者可備宿衛,雖不足以禦寇,粗可以警小盜;小者未堪大使,為可使耘鉏穢草,驅護鳥雀。休侯人則一事廢,一日獵則眾業散,不親自經營則功不攝;常自躬親,不委下吏而已。陛下聖仁,恩詔三至,士子給國,長不複發。明詔之下,有若皦日,保金石之恩,必明神之信,畫然自固,如天如地。定習業者並復見送,晻若晝晦,悵然失圖。伏以為陛下既爵臣百寮之右,居藩國之任,為置卿士,屋名為宮,冢名為陵,不使其危居獨立,無異於凡庶。若柏成欣於野耕,子仲樂於灌園;蓬戶茅牖,原憲之宅也;陋巷簞瓢,顏子之居也:臣才不見效用,常慨然執斯志焉。若陛下聽臣悉還部曲,罷官屬,省監官,使解璽釋紱,追柏成、子仲之業,營顏淵、原憲之事,居子臧之廬,宅延陵之室。如此,雖進無成功,退有可守,身死之日,猶松、喬也。然伏度國朝終未肯聽臣之若是,固當羈絆於世繩,維繫於祿位,懷屑屑之小憂,執無已之百念,安得蕩然肆志,逍遙於宇宙之外哉?此願未從,陛下必欲崇親親,篤骨肉,潤白骨而榮枯木者,惟遂仁德以副前恩詔。』皆遂還之。〉

その年の冬、詔して諸王に六年正月に朝見することを命じた。

原文其年冬,詔諸王朝六年正月。

その二月、陳の四県をもって曹植を陳王に封じ、邑三千五百戸を与えた。曹植はたびたび別に会って独りで話し、時政について論じ、試用されることを願い望んだが、ついに叶わなかった。帰還後、茫然として絶望した。当時の法制では、藩国に対する扱いは厳しく逼迫しており、僚属は皆、商人や下級の者ばかりで、兵士には残った老人を与え、大体二百人を超えなかった。また曹植は以前の過ちのため、何事もまた半減され、十一年の間に三度も都を移し、常に汲々として楽しみがなく、ついに発病して薨去した。時に四十一歳であった。〈曹植は常に琴瑟の調べに歌を作り、その詞は『ああ、この転蓬よ、世に住むこと何ぞ独り然らんや!長く本根を去りて逝き、夙夜休む間なし。東西七陌を経、南北九阡を越え、卒然として迴風に遇い起こり、我を吹きて雲間に入らしむ。自ら終に天路と謂うも、忽焉として沈淵に下る。驚飈我を接ぎ出だし、故に彼の中田に帰す。南に当たるべくして更に北し、東と謂うべくして反って西す。宕宕として何に依るべき、忽ち亡びて復た存す。飄颻として八澤を周り、連翩として五山を歴る。流転して恒の処無く、誰か吾が苦艱を知らん?願わくは中林の草と為り、秋に野火に随いて燔かれん。糜滅せんこと豈に痛まざらんや、願わくは根荄と連ならん。』孫盛は言う。異なることよ、魏氏の封建は!先王の典を度らず、藩屏の術を思わず、敦睦の風に違い、維城の義に背く。漢初の封建は、あるいは権力が人主に等しく、度を越しているとは言え、時勢がそうさせたのである。魏氏の諸侯は、匹夫と同じように陋しく、七国の乱を懲らしめたとはいえ、矯枉過正である。かつ魏が漢に代わったのは、積徳によるものではなく、風沢はすでに微かで、六合は未だ一つにならず、枝幹を彫翦し、権を異族に委ね、勢いは瘣木のようで、危うさは幕に巣くうようであり、後継が絶えるのは、天が喪わせたのではない。五等の制は、万世不易の典である。六代の興亡は、曹冏が詳しく論じている。〉遺言で薄葬を命じた。末子の曹志は家を保つ主であるとして、彼を立てようとした。初め、曹植は魚山に登り、東阿に臨み、慨然としてここに終わろうという心を持ち、ついに墓を営んだ。

原文其二月,以陳四縣封植為陳王,邑三千五百戶。植每欲求別見獨談,論及時政,幸冀試用,終不能得。既還,悵然絕望。時法制,待藩國既自峻迫,寮屬皆賈豎下才,兵人給其殘老,大數不過二百人。又植以前過,事事復減半,十一年中而三徙都,常汲汲無歡,遂發疾薨,時年四十一。〈植常為琴瑟調歌,辭曰:『吁嗟此轉蓬,居世何獨然!長去本根逝,夙夜無休間。東西經七陌,南北越九阡,卒遇迴風起,吹我入雲間。自謂終天路,忽焉下沉淵。驚飈接我出,故歸彼中田。當南而更北,謂東而反西,宕宕當何依,忽亡而復存。飄颻周八澤,連翩歷五山,流轉無恆處,誰知吾苦艱?願為中林草,秋隨野火燔,糜滅豈不痛,願與根荄連。』孫盛曰:異哉,魏氏之封建也!不度先王之典,不思藩屏之術,違敦睦之風,背維城之義。漢初之封,或權侔人主,雖雲不度,時勢然也。魏氏諸侯,陋同匹夫,雖懲七國,矯枉過也。且魏之代漢,非積德之由,風澤既微,六合未一,而彫翦枝幹,委權異族,勢同瘣木,危若巢幕,不嗣忽諸,非天喪也。五等之制,萬世不易之典。六代興亡,曹冏論之詳矣。〉遺令薄葬。以小子志,保家之主也,欲立之。初,植登魚山,臨東阿,喟然有終焉之心,遂營為墓。

曹志が後を継ぎ、封地を移されて済北王となった。景初年間に詔が下された。『陳思王(曹植)はかつて過失があったが、すでに己を克し行いを慎み、以前の欠点を補った。また幼少から終わりまで、書物を手から離さず、誠に難能なことである。黄初年間に曹植の罪状を奏上した諸々の文書、公卿以下が尚書・秘書・中書の三府や大鴻臚で議論したものは、すべて削除せよ。曹植が前後に著した賦・頌・詩・銘・雑論など百余篇を撰録し、副本を宮廷内外に蔵せよ。』曹志は累次にわたり封邑を増やされ、合わせて以前の分と合わせて九百九十戸となった。(『曹志別伝』にいう。曹志は字を允恭といい、学問を好み才幹と品行を備えていた。晋の武帝が中撫軍であったとき、常道郷公(曹奐)を鄴に迎え、曹志は夜に武帝と会見し、武帝が彼と語り合うと、夕暮れから夜明けまで続き、非常に高く評価した。禅譲を受けると、鄄城公に改封された。詔を発して曹志を楽平太守とし、章武・趙郡を歴任し、散騎常侍・国子博士に遷り、後に博士祭酒に転じた。斉王攸が藩に赴くことになると、礼官に崇錫の典を議させたが、曹志は嘆いて言った。『どうしてこのような才、このような親でありながら、本を立てて教化を助けることができず、遠く海隅に出て行くことがありえようか。』そこで建議して諫めたが、言辞は非常に切実であった。帝は大いに怒り、曹志の官を免じた。後に再び散騎常侍となった。曹志は母の喪に遭い、喪に服して哀を尽くし、そのために病を得て、喜怒が常を失い、太康九年に卒し、謚して定公といった。)

原文子志嗣,徙封濟北王。景初中詔曰:『陳思王昔雖有過失,既克己慎行,以補前闕,且自少至終,篇籍不離於手,誠難能也。其收黃初中諸奏植罪狀,公卿已下議尚書、秘書、中書三府、大鴻臚者皆削除之。撰錄植前後所著賦頌詩銘雜論凡百餘篇,副藏內外。』志累增邑,並前九百九十戶。〈《志別傳》曰:志字允恭,好學有才行。晉武帝為中撫軍,迎常道鄉公於鄴,志夜與帝相見,帝與語,從暮至旦,甚器之。及受禪,改封鄄城公。發詔以志為樂平太守,歷章武、趙郡,遷散騎常侍、國子博士,後轉博士祭酒。及齊王攸當之藩,下禮官議崇錫之典,志嘆曰:『安有如此之才,如此之親,而不得樹本助化,而遠出海隅者乎?』乃建議以諫,辭旨甚切。帝大怒,免志官。後復為散騎常侍。志遭母憂,居喪盡哀,因得疾病,喜怒失常,太康九年卒,謚曰定公。〉

蕭懐王曹熊は早世した。黄初二年に追封されて蕭懐公と諡された。太和三年、さらに追封されて王の爵位となった。青龍二年、子の哀王曹炳が後を継ぎ、二千五百戸を食邑とした。六年に薨去し、子がなく、封国は除かれた。

原文蕭懷王熊,早薨。黃初二年追封謚蕭懷公。太和三年,又追封爵為王。青龍二年,子哀王炳嗣,食邑二千五百戶。六年薨,無子,國除。

評するに、任城王(曹彰)は武芸に優れ壮猛で、将領の気概があった。陳思王(曹植)は文才が豊かで華麗であり、後世に名を伝えるに足るものであったが、譲り遠くを防ぐことができず、ついに隙間を生じるに至った。伝に『楚はすでに誤りを犯したが、斉もまた得策とは言えない』とあるが、まさにこのことを言うのであろうか。(魚豢がいう。諺に『貧は倹を学ばず、卑は恭を学ばず』というが、これは人性の分ではなく、勢いがそうさせるのである。これは実に当然の勢いであり、まことに虚ではない。仮に太祖が曹植らを防ぎ止めるのが昔にあれば、この賢者の心に、どうして窺い望むことがあろうか。曹彰の恨みを抱くことすら、まだ至らなかった。曹植に至っては、どうして難を起こせようか。それなのに楊脩を倚註のことで害に遇わせ、丁儀を意に迎合したことで族滅させた、哀しいかな。私は常に曹植の華采を覧るに、思わず神があるかのようだ。これをもって推すに、太祖の心を動かしたのも、またまことに理由があったのである。)

原文評曰:任城武藝壯猛,有將領之氣。陳思文才富艷,足以自通後葉,然不能克讓遠防,終致攜隙。傳曰『楚則失之矣。而齊亦未為得也』,其此之謂歟!〈魚豢曰:諺言『貧不學儉,卑不學恭』,非人性分也,勢使然耳。此實然之勢,信不虛矣。假令太祖防遏植等,在於疇昔,此賢之心,何緣有窺望乎?彰之挾恨,尚無所至。至於植者,豈能興難?乃令楊脩以倚註遇害,丁儀以希意族滅,哀夫!餘每覽植之華採,思若有神。以此推之,太祖之動心,亦良有以也。〉

この作品は全世界において公有領域に属する。なぜなら、作者の没後100年以上が経過しており、かつ作品は1931年1月1日より前に出版されたからである。

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