三国志

魏書・劉司馬梁張溫賈伝

劉馥は字を元穎といい、沛はい国相の人である。揚州に避乱し、建安初め、袁術の部将であった戚寄と秦翊を説得し、彼らに兵を率いて共に太祖(曹操)のもとに赴かせた。太祖はこれを喜び、司徒しとが彼を掾に任命した。後に孫策が任命した廬江太守の李述が揚州刺史の厳象を攻め殺し、廬江の梅乾、雷緒、陳蘭らが数万の兵を集めて長江と淮水の間に割拠し、郡県は荒廃した。太祖はちょうど袁紹との戦いに直面していたが、劉馥を東南の任に当たらせることができると考え、彼を揚州刺史に上表した。

原文劉馥字元穎,沛國相人也。避亂揚州,建安初,說袁術將戚寄、秦翊,使率衆與俱詣太祖。太祖恱之,司徒辟為掾。後孫策所置廬江太守李述攻殺揚州刺史嚴象,廬江梅乾、雷緒、陳蘭等聚衆數萬在江、淮間,郡縣殘破。太祖方有袁紹之難,謂馥可任以東南之事,遂表為揚州刺史。

劉馥は任命を受けると、単騎で合肥の空城に赴き、州の治所を建てた。南方の雷緒らを懐柔し、皆を安んじて集め、貢ぎ物は絶え間なく続いた。数年のうちに恩恵と教化が大いに広まり、民衆はその政治を喜び、流民が山河を越えて帰ってくる者は万単位に上った。そこで諸生を集めて学校を設立し、屯田を広め、芍陂や茹陂、七門、呉塘などの堤防を整備して稲田を灌漑し、官民ともに蓄えができた。また城塁を高く築き、木材や石材を多く蓄積し、草で編んだ蓑を数千万枚作り、さらに魚油を数千斛貯蔵して、戦いと守備の準備とした。

原文馥旣受命,單馬造合肥空城,建立州治,南懷緒等,皆安集之,貢獻相繼。數年中恩化大行,百姓樂其政,流民越江山而歸者以萬數。於是聚諸生,立學校,廣屯田,興治芍陂及茹陂、七門、吳塘諸堨以溉稻田,官民有畜。又高為城壘,多積木石,編作草苫數千萬枚,益貯魚膏數千斛,為戰守備。

建安十三年に死去した。孫権が十万の兵を率いて合肥城を百余日にわたって包囲攻撃した時、天候が長雨続きで城は崩壊しそうになった。そこで蓑で城を覆い、夜には油脂を燃やして城外を照らし、敵の動きを見て備えをしたため、敵は敗走した。揚州の士民はますます彼を追慕し、董安于が晋陽を守ったとしても、これを超えることはできないだろうと考えた。また、彼が整備した堤防の利点は、今日まで利用されている。

原文建安十三年卒。孫權率十萬衆攻圍合肥城百餘日,時天連雨,城欲崩,於是以苫蓑覆之,夜然脂照城外,視賊所作而為備,賊以破走。揚州士民益追思之,以為雖董安于之守晉陽,不能過也。及陂塘之利,至今為用。

劉馥の子の靖は、黄初年間に黄門侍郎から廬江太守に転じた。詔勅に「卿の父はかつてあの州(揚州)を治め、今卿はこの郡(廬江)を治める。まさにその任に堪える者と言えよう」とあった。河内に転任し、尚書に昇進し、関内侯の爵位を賜り、河南尹として出向した。散騎常侍さんきじょうじの応璩が劉靖に書簡を送り、「朝廷では納言(尚書)を務め、地方では京師の要職(河南尹)を担当する。民を豊かにする方法は、日々月々に進展している。境界の防備は高く険しく、盗賊の侵入を断つ心構えがある。五穀は別々に収穫され、水害や火災から遠ざけられている。農具は必ず整えられ、農期を失うことはない。養蚕と麦作には蓑の備えがあり、雨や湿気の心配はない。公文書の発行は期日通りで、滞りがちな役人はいない。寡婦や孤児、独り身の者は、倉からの救済の実を受ける。さらに明らかに微細な点まで摘発し、法を堅持して曲げないことを重んじる。役人は王命を奉じて職務を果たし、百里四方の民は手をこまねいてその裁断を仰ぐ。かつての趙広漢、張敞、王尊、王章、王駿らの治世でも、これに比べることはできないだろう」と記した。劉靖の政治は概ねこのようなものであった。当初は細かく煩雑に見えたが、最終的には民衆に便利であり、父の劉馥の遺風があった。母の喪で官を辞した後、大司農・衛尉となり、広陸亭侯に進封され、三百戸を領した。儒学教育の根本について上疏して述べた。「学問は、治乱の規範であり、聖人の大いなる教えである。黄初以来、太学を設立して二十余年になるが、成果を上げた者は少ない。これは博士の選抜が軽んじられ、諸生が労役を避け、名門の子弟が自分たちと同列ではないことを恥じるため、学ぶ者がいないからである。その名はあっても実体がなく、その教えは設けられても効果がない。博士を厳選し、行いが人の模範となり、経学に通じて人師となる者を選び、国子(高官の子弟)の教育を担当させるべきである。古法に従い、二千石以上の子孫で、年齢が十五歳に達した者は、皆太学に入れよ。昇進と降格、栄誉と恥辱の道を明らかにせよ。経学に明るく品行の優れた者は、その徳を尊ぶために進用せよ。教えを疎かにし学業を廃する者は、悪を懲らしめるために退けよ。善を推挙して能力なき者を教えれば、人々は励まされる。虚飾や交際遊びは、禁じなくても自然に止むだろう。大いなる教化を広め、未だ帰順しない者を安んぜよ。天下がその風教を受け入れ、遠方の人々が来朝する。これが聖人の教えであり、政治を成し遂げる根本である」。後に鎮北将軍に昇進し、仮節を与えられ河北諸軍事を都督ととくした。劉靖は「恒常的な大法は、防衛を固めることに勝るものはなく、民と夷狄を区別させることだ」と考えた。そこで辺境の守備を開拓し、険要の地に駐屯して占拠した。また戾陵渠の大堤を拡張修築し、水を引いて薊の南北を灌漑した。三度にわたって稲作を行い、辺境の民はその利益を得た。嘉平六年に死去し、征北将軍を追贈され、建成郷侯に進封され、景侯と諡された。子の熙が後を継いだ。

原文馥子靖,黃初中從黃門侍郎遷廬江太守,詔曰:「卿父昔為彼州,今卿復據此郡,可謂克負荷者也。」轉在河內,遷尚書,賜爵關內侯,出為河南尹。散騎常侍應璩書與靖曰:「入作納言,出臨京任。富民之術,日引月長。藩落高峻,絕穿窬之心。五種別出,遠水火之災。農器必具,無失時之闕。蠶麥有苫備之用,無雨濕之虞。封符指期,無流連之吏。鰥寡孤獨,蒙廩振之實。加之以明擿幽微,重之以秉憲不撓;有司供承王命,百里垂拱仰辨。雖昔趙、張、三王之治,未足以方也。」靖為政類如此。初雖如碎密,終於百姓便之,有馥遺風。母喪去官,後為大司農衞尉,進封廣陸亭侯,邑三百戶。上疏陳儒訓之本曰:「夫學者,治亂之軌儀,聖人之大教也。自黃初以來,崇立太學二十餘年,而寡有成者,蓋由愽士選輕,諸生避役,高門子弟,恥非其倫,故無學者。雖有其名而無其人,雖設其教而無其功。宜高選博士,取行為人表,經任人師者,掌教國子。依遵古法,使二千石以上子孫,年從十五,皆入太學。明制黜陟榮辱之路;其經明行脩者,則進之以崇德;荒教廢業者,則退之以懲惡;舉善而教不能則勸,浮華交游,不禁自息矣。闡弘大化,以綏未賔;六合承風,遠人來格。此聖人之教,致治之本也。」後遷鎮北將軍,假節都督河北諸軍事。靖以為「經常之大法,莫善於守防,使民夷有別」。遂開拓邊守,屯據險要。又脩廣戾陵渠大堨,水溉灌薊南北;三更種稻,邊民利之。嘉平六年薨,追贈征北將軍,進封建成鄉侯,謚曰景侯。子熙嗣。

《晋陽秋》によると、劉弘は字を叔和といい、劉熙の弟である。劉弘は晋の世祖(武帝司馬炎)と同年で、同じ里に住み、旧恩によりたびたび高位に登った。劉靖から劉弘に至るまで、代々名声が途絶えることなく、政治の才能があった。晋の西朝(西晋)の末期、劉弘は車騎大将軍・開府、荊州刺史となり、仮節を与えられ荊州・交州・広州諸軍事を都督し、新城郡公に封じられた。彼が江漢の地にいた時、王室は多難であり、一方の任を専断してその器量と能力を発揮した。臣下に誠意を示し、公義をもって励まし、刑獄を簡素化し、農桑に努めた。何か事業を起こすたびに、自ら郡国に手紙を書き、丁寧に細かく指示したので、誰もが感激し、我先にと駆けつけた。皆「劉公の一通の手紙は、十人の従事官よりも優れている」と言った。当時、皇帝(懐帝)は長安ちょうあんにおり、劉弘に太守・県令の選任を許した。隠士の武陵の伍朝はその志操が高潔であり、牙門将の皮初は江漢で功績があった。劉弘は伍朝を零陵太守に、皮初を襄陽太守に推挙した。詔書は襄陽が重要な郡であるため、皮初の経歴と名声が軽く浅いとして、劉弘の女婿である夏侯陟を襄陽太守に任命した。劉弘は言った。「天下を統治する者は天下と心を一つにすべきであり、一国を治める者は一国と誠実を推し進めるべきだ。私が荊州十郡を統治するのに、十人の女婿が必要だというのか、それで政治が成り立つというのか」。そこで「夏侯陟は姻戚であり、旧制では互いに監督する立場になってはならない。皮初の功績は報いられるべきである」と上表した。許可され、人々はますますその公正さに感服した。広漢太守の辛冉は天子が難に遭い、四方が乱れているのを見て、劉弘に縦横の策(機会主義的な策)を進言した。劉弘は怒って彼を斬り、当時の人々は皆これを称賛した。《晋諸公贊》によると、当時天下は乱れていたが、荊州は安全であった。劉弘には劉景升(劉表)が江漢を保有したような志があり、太傅の司馬越に従わなかった。司馬越はこれを非常に恨んだ。ちょうど劉弘が病死した。子の劉璠は北中郎将となった。

原文〈《晉陽秋》曰:劉弘字叔和,熙之弟也。弘與晉世祖同年,居同里,以舊恩屢登顯位。自靖至弘,世不曠名,而有政事才。晉西朝之末,弘為車騎大將軍開府,荊州刺史,假節都督荊、交、廣州諸軍事,封新城郡公。其在江、漢,值王室多難,得專命一方,盡其器能。推誠羣下,厲以公義,簡刑獄,務農桑。每有興發,手書郡國,丁寧款密,故莫不感恱,顛倒奔赴,咸曰「得劉公一紙書,賢於十部從事也」。時帝在長安,命弘得選用宰守。徵士武陵伍朝高尚其事,牙門將皮初有勳江漢,弘上朝為零陵太守,初為襄陽太守。詔書以襄陽顯郡,初資名輕淺,以弘壻夏侯陟為襄陽。弘曰:「夫統天下者當與天下同心,治一國者當與一國推實。吾統荊州十郡,安得十女壻,然後為治哉!」乃表「陟姻親,舊制不得相監臨事,初勳宜見酬」。報聽之,衆益服其公當。廣漢太守辛冉以天子蒙塵,四方雲擾,進從橫計於弘。弘怒斬之,時人莫不稱善。《晉諸公贊》曰:于時天下雖亂,荊州安全。弘有劉景升保有江漢之志,不附太傅司馬越。越甚銜之。會弘病卒。子璠,北中郎將。〉

司馬朗は字を伯達といい、河内郡温県の人である。司馬彪の序伝によると、司馬朗の祖父の雋は字を元異といい、博学で古を好み、風采が上がり大度量を持っていた。身長八尺三寸、腰回り十囲、姿形が魁偉で、衆人と異なり、郷里や宗族の人々は皆彼を慕い従った。穎川太守の位に至った。父の防は字を建公といい、性質は質直で公正であり、暇な時や宴席でも威儀が乱れることがなかった。特に『漢書かんじょ』の名臣列伝を好み、暗誦したものは数十万字に及んだ。若くして州郡に仕え、洛陽らくよう令、京兆尹を歴任し、年老いて騎都尉に転任した。里巷で志を養い、門を閉じて自らを守った。子供たちは成人して冠を着けても、進めと言われなければ進まず、座れと言われなければ座らず、指し示して問わなければ口を開かず、父子の間は厳然としていた。七十一歳で、建安二十四年に亡くなった。八人の子があり、司馬朗が最年長で、次が晋の宣皇帝(司馬懿)である。九歳の時、ある人が彼の父の字を口にした。司馬朗は言った。「他人の親を軽んじる者は、自分の親を敬わない者である」。客は謝罪した。十二歳で、経書の試験を受けて童子郎となったが、監試官は彼の体が大きく立派なのを見て、年齢を偽っているのではないかと疑い、詰問した。司馬朗は言った。「私の家系は代々体が大きく、私は幼く弱いながらも、年齢を偽って早く出世しようとするような、高い志を持たない風潮には染まっていません。年齢を減らして早く成し遂げようとするのは、私の志すところではありません」。監試官はこれを異とし、感心した。後に函谷関以東で兵乱が起こり、元冀州刺史の李邵が野王に住んでいたが、山が険しい土地に近かったため、温県に移住しようとした。司馬朗は李邵に言った。「唇と歯のたとえは、虞と虢だけのことではなく、温と野王もそうである。今、あちらを去ってこちらに住むのは、朝に亡びる運命を避けるようなものです。しかも貴方は国中の人々の期待を集める方です。今、敵がまだ来ないうちに先に移住すれば、山に接する県の民は必ず動揺し、民衆の心を揺るがし、悪事の根源を開くことになります。ひそかに郡内の憂いと存じます」。李邵は従わなかった。山沿いの民は果たして乱を起こし、内陸に移住し、ある者は略奪を行った。

原文司馬朗字伯達,河内溫人也。〈司馬彪序傳曰:朗祖父雋,字元異,博學好古,倜儻有大度。長八尺三寸,腰帶十圍,儀狀魁岸,與眾有異,鄉黨宗族咸景附焉。位至穎川太守。父防,字建公,性質直公方,雖閑居宴處,威儀不忒。雅好《漢書名臣列傳》,所諷誦者數十萬言。少仕州郡,歷官洛陽令、京兆尹,以年老轉拜骑都尉。養志閭巷,闔門自守。諸子雖冠成人,不命曰進不敢進,不命曰坐不敢坐,不指有所問不敢言,父子之間肅如也。年七十一,建安二十四年終。有子八人,朗最長,次即晉宣皇帝也。〉九歲,人有道其父字者,朗曰:「慢人親者,不敬其親者也。」客謝之。十二,試經爲童子郎,監試者以其身體壮大,疑朗匿年,劾問。朗曰:「朗之内外,累世長大,朗雖穉弱,無仰高之風,損年以求早成,非志所爲也。」監試者異之。後關東兵起,故冀州刺史李邵家居野王,近山險,欲徙居溫。朗謂邵曰:「脣齒之喻,豈唯虞、虢,溫與野王即是也;今去彼而居此,是爲避朝亡之期耳。且君,國人之望也,今寇未至而先徙,帶山之縣必駭,是摇動民之心而開姦宄之原也,竊爲郡内憂之。」邵不從。邊山之民果亂,内徙,或爲寇鈔。

この時、董卓が天子を長安に遷都させ、董卓自身は洛陽に留まっていた。王朗の父の王防は治書御史であり、西に移るはずであったが、四方が騒乱しているため、王朗に家族を連れて故郷の県に帰らせた。ある者が王朗が逃亡しようとしていると告げたため、捕らえて董卓のもとに連れて行くと、董卓は王朗に言った。「卿は我が亡き子と同い年だ。ほとんど大きく背負っている!」王朗は言った。「明公は世に高い徳を持ち、陽九の厄会に遭いながら、群がる穢れを清め除き、広く賢士を挙げられました。これは誠に虚心に慮りを垂れ、至治を興そうとされていることです。威徳はすでに高まり、功業はすでに顕著ですが、兵難が日々起こり、州郡は沸き立ち、郊境の内では民が安んじて生業に就けず、住居と財産を捨て、流亡し隠れ潜んでいます。四つの関所に禁令を設け、重く刑戮を加えても、まだ絶えやみません。これが私が憂鬱に思うところです。願わくば明公には往事を監察し観察され、少し三思を加えられれば、栄名は日月と並び、伊尹や周公も及ばないでしょう。」董卓は言った。「私も悟っている。卿の言葉には意味がある!」(臣裴松之は案ずるに、王朗のこの答弁はただ董卓の功徳を称述しただけで、いまだ箴め諫めるには至っていない。少しも自ら申し開きをしていないのに、董卓がすぐに「私も悟った、卿の言葉には意味がある」と言った。客と主の言葉は、まるで噛み合っていないようである。)

原文是時董卓遷天子都長安,卓因留洛陽。朗父防爲治書御史,當徙西,以四方雲擾,乃遣朗將家屬還本縣。或有告朗欲逃亡者,執以詣卓,卓謂朗曰:「卿與吾亡兒同歲,幾大相負!」朗因曰:「明公以高世之德,遭陽九之會,清除羣穢,廣舉賢士,此誠虚心垂慮,將興至治也。威德以隆,功業以著,而兵難日起,州郡鼎沸,郊境之内,民不安業,捐棄居產,流亡藏竄,雖四關設禁,重加刑戮,猶不絕息,此朗之所以於邑也。願明公監觀往事,少加三思,即榮名並於日月,伊、周不足侔也。」卓曰:「吾亦悟之,卿言有意!」〈臣松之案:朗此對,但爲稱述卓功德,未相箴誨而已。了不自申釋,而卓便云「吾亦悟之,卿言有意」!客主之辭如爲不相酬塞也。〉

王朗は董卓が必ず滅びると知り、留められることを恐れ、すぐに財物をばらまいて董卓の権力者に賄賂を贈り、故郷に帰ることを求めた。故郷に着くと父老たちに言った。「董卓は道理に逆らい、天下の仇となっています。これは忠臣義士が奮い立つ時です。我が郡は都と境を接し、洛陽の東には成皋があり、北は大河(黄河)を境としています。天下で義兵を起こす者がもし進軍できなければ、その勢いは必ずここで停まるでしょう。ここは四分五裂の戦争の地であり、自ら安泰であることは難しい。道路がまだ通じているうちに、一族を挙げて東の黎陽に行く方が良い。黎陽には営兵がおり、趙威孫(趙咨)は郷里の旧縁で婚姻関係があり、監営謁者として兵馬を統率しており、主となるに足ります。もし後に変事があっても、ゆっくりと情勢を見守るのに遅くはありません。」父老たちは旧きを恋しがり、従う者は誰もいなかった。ただ同県の趙咨だけが、家族を連れて王朗と共に行った。数か月後、関東の諸州郡が兵を起こし、その数は数十万に及び、皆、滎陽けいよう及び河内に集結した。諸将は統一できず、兵を放って略奪し、民の死者はほぼ半数に及んだ。長い時が経ち、関東の兵は散り、太祖(曹操)が呂布と濮陽で相対したので、王朗は家族を連れて温に帰った。その年は大飢饉で、人々は互いに食い合い、王朗は宗族を収容し救恤し、諸弟を教え導き、衰えた世の中でも学業を怠らなかった。

原文朗知卓必亡,恐見留,即散財物以賂遺卓用事者,求歸鄉里。到謂父老曰;「董卓悖逆,爲天下所讎,此忠臣義士奮發之時也。郡與京都境壤相接,洛東有成皋,北界大河,天下興義兵者若未得進,其勢必停於此。此乃四分五裂戰爭之地,難以自安,不如及道路尚通,舉宗東到黎陽。黎陽有營兵,趙威孫鄉里舊婚,爲監營謁者,統兵馬,足以爲主。若後有變,徐復觀望未晚也。」父老戀舊,莫有從者,惟同縣趙咨,將家屬俱與朗往焉。後數月,關東諸州郡起兵,眾數十萬,皆集滎陽及河内。諸將不能相一,縱兵鈔略,民人死者且半。久之,關東兵散,太祖與呂布相持於濮陽,朗乃將家還溫。時歲大饑,人相食,朗收恤宗族,教訓諸弟,不爲衰世解業。

二十二歳の時、太祖に召し出されて司空しくう掾属となり、成皋令に任命されたが、病気で辞任し、再び堂陽長となった。その統治は寛大で恵みを行い、鞭や杖を用いず、民は禁令を犯さなかった。以前、民の中に都内に移住した者がいたが、後に県が船を作るよう徴発した時、移住民たちはそれがうまくいかないのを恐れ、互いに率いて密かに戻ってそれを助けた。彼がこのように愛されたのである。元城令に転任し、入朝して丞相主簿となった。王朗は、天下が土崩する勢いは、秦が五等爵の制度を滅ぼし、郡国に狩猟や戦いの訓練の備えがなかったためであると考えた。今、五等制は復活させられないとしても、州郡に兵を置き、外には四夷に備え、内には不軌の徒を威圧するのが、策としては優れていると考えた。また、井田制を復活させるべきだとも考えた。以前は民がそれぞれ累代の産業を持っていたため、中途で奪うのは難しく、そのため今日まで至っている。今、大乱の後を承けて、民は分散し、土地と産業には主がなく、皆が公田となっている。この時に復活させるべきである。この議論は施行されなかったが、州郡が兵を領有することは、王朗の本来の意図であった。兗州刺史に転任し、政治と教化が大いに行われ、百姓に称賛された。軍旅の中にあっても、常に粗末な衣服と粗悪な食事で、倹約をもって下を率いた。人倫と典籍を特に好み、郷里の李覿らが盛んに名誉を得ていたが、王朗は常に彼らを顕わに貶した。後に李覿らが失敗すると、当時の人々は王朗に敬服した。鍾繇と王粲が論を著して「聖人でなければ太平をもたらすことはできない」と言った。王朗は「伊尹や顔回の徒は聖人ではないが、数世代にわたって相承させれば、太平をもたらすことができる」と考えた。(『魏書』に曰く、文帝は王朗の論を善しとし、秘書に命じてその文を記録させた。孫盛は曰く、鍾繇はすでに誤りであり、王朗もまた得ているとは言えない。昔「湯が伊尹を挙用すると、不仁者は遠ざかった」。『易』に「顔氏の子は、ほとんど聖に近いか!不善があれば未だかつて知らなかったことがなく、知れば未だかつて再び行わなかった」と称する。これから言えば、聖人と大賢とは、出処進退の道は一つであり、伸縮も同じであり、世を治め風を垂れるのに、理として異なることはない。太平を昇る美は、どうして数世代を待つことがあろうか。「善人が国を為めれば百年、また残虐を勝ち殺戮を去るべし」ともいう。また「跡を践まなければ、また室に入らず」ともいう。数世代の論は、まさにここにあるか!大賢に比べれば、もとより隔たりがある。)

原文年二十二,太祖辟爲司空掾屬,除成皋令,以病去,復爲堂陽長。其治務寬惠,不行鞭杖,而民不犯禁。先時,民有徙充都内者,後縣調當作船,徙民恐其不辦,乃相率私還助之,其見愛如此。遷元城令,入爲丞相主簿。朗以爲天下土崩之勢,由秦滅五等之制,而郡國無蒐狩習戰之備故也。今雖五等未可復行,可令州郡並置兵,外備四夷,内威不軌,於策爲長。又以爲宜復井田。往者以民各有累世之業,難中奪之,是以至今。今承大亂之後,民人分散,土業無主,皆爲公田,宜及此時復之。議雖未施行,然州郡领兵,朗本意也。遷兗州刺史,政化大行,百姓稱之。雖在軍旅,常粗衣恶食,俭以率下。雅好人伦典籍,鄉人李觌等盛得名誉,朗常显贬下之;後觌等敗,時人服焉。锺繇、王粲著论云:「非圣人不能致太平。」朗以爲「伊、颜之徒雖非圣人,使得數世相承,太平可致」。〈魏書曰:文帝善朗论,命秘書录其文。孫盛曰:繇既失之,朗亦未爲得也。昔「汤舉伊尹,而不仁者远矣」。易稱「颜氏之子,其殆庶幾乎!有不善未尝不知,知之未尝復行」。由此而言,圣人之與大賢,行藏道一,舒卷斯同,御世垂風,理無降異;升泰之美,豈俟积世哉?「善人爲邦百年,亦可以胜残去杀」。又曰「不践迹,亦不入于室」。數世之论,其在斯乎!方之大賢,固有間矣。〉

建安二十二年、夏侯惇、臧霸はらと共に呉を征伐した。居巣に到着すると、軍士に大疫病が流行し、王朗は自ら巡視し、医薬を届けた。病気にかかって死去した。享年四十七歳。遺言で布衣と幅巾を着け、その時の服で埋葬するよう命じた。州の人は彼を追慕した。(『魏書』に曰く、王朗は臨終に際し、将士に言った。「刺史は国の厚恩を蒙り、万里を督司しながら、微功もいまだ効なく、この疫病に遭った。すでに自ら救うこともできず、国の恩に背いてしまった。身没の後は、布衣幅巾を着け、時の服で埋葬し、私の志に違えるな。)

原文(段落全体)建安二十二年,與夏侯惇、臧霸等征吳。到居巢,軍士大疫,朗躬巡视,致医药。遇疾卒,時年四十七。遺命布衣幅巾,敛以時服,州人追思之。〈魏書曰:朗临卒,謂將士曰;「刺史蒙國厚恩,督司萬里,微功未效,而遭此疫疠,既不能自救,辜負國恩。身没之後,其布衣幅巾,敛以時服,勿违吾志也。」〉明帝即位,封朗子遺昌武亭侯,邑百户。朗弟孚又以子望继朗後。遺薨,望子洪嗣。〈晉諸公赞曰:望字子初,孚之長子。有才识,早知名。咸熙中位至司徒,入晉封義陽王,遷太尉、大司馬。時孚爲太宰,父子居上公位,自中代以来未之有也。洪字孔業,封河間王。〉

明帝が即位すると、王朗の子の王遺に昌武亭侯を封じ、邑百戸を与えた。王朗の弟の王孚はまた子の王望を王朗の後継ぎとした。王遺が没すると、王望の子の王洪が後を嗣いだ。(『晋諸公賛』に曰く、王望は字を子初といい、王孚の長子である。才識があり、早くから名を知られた。咸熙年間に位は司徒に至り、晋に入って義陽王に封じられ、太尉・大司馬に遷った。時に王孚は太宰であり、父子が上公の位に居るのは、中代以来いまだかつてなかったことである。王洪は字を孔業といい、河間王に封じられた。)

原文(段落全体)建安二十二年,與夏侯惇、臧霸等征吳。到居巢,軍士大疫,朗躬巡视,致医药。遇疾卒,時年四十七。遺命布衣幅巾,敛以時服,州人追思之。〈魏書曰:朗临卒,謂將士曰;「刺史蒙國厚恩,督司萬里,微功未效,而遭此疫疠,既不能自救,辜負國恩。身没之後,其布衣幅巾,敛以時服,勿违吾志也。」〉明帝即位,封朗子遺昌武亭侯,邑百户。朗弟孚又以子望继朗後。遺薨,望子洪嗣。〈晉諸公赞曰:望字子初,孚之長子。有才识,早知名。咸熙中位至司徒,入晉封義陽王,遷太尉、大司馬。時孚爲太宰,父子居上公位,自中代以来未之有也。洪字孔業,封河間王。〉

初めに王朗と共に移住した趙咨は、官は太常に至り、世に良い士として知られた。(趙咨は字を君初といい、子の趙酆は字を子といい、晋の驃騎将軍となり、東平陵公に封じられた。いずれも『百官名志』に見える。)

原文初朗所與俱徙趙咨,官至太常,爲世好士。〈咨字君初。子酆字子,晉骠骑將軍,封東平陵公。並見百官名(志)。〉

太祖は彼を称賛し、関内侯の爵位を賜り、さらに正式に任命した。長老たちは称賛し、自分がこれまで見聞きした限り、刺史で習に及ぶ者はいないと思った。建安十八年、州は冀州に併合され、習は議郎・西部都督従事に任命され、冀州に属し、以前の部曲を統率した。また上党で大材を採取し、鄴の宮殿の用材に供給させた。習は上表して屯田都尉二人を置き、客六百人を率いさせ、道沿いで豆や粟を耕作させ、人と牛の費用を賄わせた。後に単于が入朝して侍従すると、西北に憂いがなくなったが、これは習の功績である。〈『魏略』によると、鮮卑の大人の育延は、常に州から恐れられていたが、ある日、その部落の五千余騎を率いて習のもとを訪れ、互市を求めた。習は、聞き入れなければ彼の恨みを買う恐れがあり、州の城下で行えば略奪される恐れがあると考え、そこで空城で会って交易を行うことを許した。そして郡県に命じ、自ら治中以下の軍勢を率いて赴いた。交易がまだ終わらないうちに、市吏が一人の胡人を捕縛した。育延の騎兵たちは皆驚き、馬に乗って弓を引き、習を数重に包囲した。役人や民衆は恐れおののき、どうしてよいかわからなかった。習はゆっくりと市吏を呼び、胡人を縛った理由を尋ねたところ、その胡人は実際に人を侵害していた。習は通訳を呼んで育延を呼び寄せ、育延が到着すると、習は彼を責めて言った。「お前の胡人が自ら法を犯したのだ。役人がお前を侵害したわけではない。なぜお前は騎兵たちを驚かせたのか。」そして彼を斬った。残りの胡人たちは肝をつぶして動けなかった。この後、賊寇は現れなかった。二十二年、太祖が漢中を攻略し、諸軍が長安に戻ると、騎督の太原烏桓王魯昔を留め置き、池陽に駐屯させて盧水胡に備えさせた。魯昔には愛妻がおり、晉陽に住んでいた。魯昔は妻を恋しく思うとともに、帰れなくなることを恐れ、配下の五百騎を率いて并へい州に叛いて戻り、残りの騎兵を山谷に置き去りにし、単騎で晉陽に入り、ひそかに妻を奪い取った。すでに城を出た後、州郡は気づいた。役人や民衆はまた魯昔の弓の腕を恐れ、追跡しようとしなかった。習は従事の張景に命じ、鮮卑を募って魯昔を追跡させた。魯昔の馬は妻を背負っていたため、重くて行軍が遅く、配下と合流する前に鮮卑に射殺された。初め太祖は魯昔の反乱を聞き、北辺で乱を起こすことを恐れたが、すでに殺されたと聞き、大いに喜び、習が前後して策略を有していたとして、関内侯に封じた。〉文帝が即位すると、再び并州が置かれ、習は刺史に復帰し、申門亭侯に進封され、邑百戸を賜った。政治は常に天下で最も優れていた。太和二年、大司農に任命された。習は州に二十余年いたが、住居は貧しく、地方の珍しい物はなかった。明帝はこれを異とし、礼遇と賜り物を厚くした。四年、死去し、子の施が後を嗣いだ。

原文太祖嘉之,赐爵關内侯,更拜爲真。長老稱咏,以爲自所聞识,刺史未有及習者。建安十八年,州並屬冀州,更拜議郎、西部都督從事,統屬冀州,總故部曲。又使於上黨取大材供鄴宫室。習表置屯田都尉二人,领客六百夫,於道次耕种菽粟,以给人牛之费。後单于入侍,西北無虞,習之绩也。〈魏略曰:鲜卑大人育延,常爲州所畏,而一旦將其部落五千餘骑詣習,求互市。習念不听則恐其怨,若听到州下,又恐爲所略,於是乃许之往與會空城中交市。遂敕郡縣,自將治中以下軍往就之。市易未毕,市吏收缚一胡。延骑皆惊,上馬弯弓圍習數重,吏民惶怖不知所施。習乃徐呼市吏,問缚胡意,而胡實侵犯人。習乃使译呼延,延到,習责延曰:「汝胡自犯法,吏不侵汝,汝何爲使諸骑惊駭邪?」遂斩之,餘胡破胆不敢動。是後無寇虏。至二十二年,太祖拔漢中,諸軍還到長安,因留骑督太原乌丸王鲁昔,使屯池陽,以備卢水。昔有愛妻,住在晉陽。昔既思之,又恐遂不得歸,乃以其部五百骑叛還并州,留其餘骑置山谷間,而单骑独入晉陽,盗取其妻。已出城,州郡乃觉;吏民又畏昔善射,不敢追。習乃令從事張景,募鲜卑使逐昔。昔馬負其妻,重骑行迟,未及與其眾合,而爲鲜卑所射死。始太祖聞昔叛,恐其爲亂於北邊;會聞已杀之,大喜,以習前後有策略,封爲關内侯。〉文帝践阼,復置并州,復爲刺史,進封申門亭侯,邑百户;政治常爲天下最。太和二年,徵拜大司农。習在州二十餘年,而居處贫窮,無方面珍物,明帝異之,礼赐甚厚。四年,薨,子施嗣。

初め、済陰の王思と習はともに西曹令史であった。王思が当直の日に事を上申したが、太祖の意に背いた。太祖は大いに怒り、主事者を召し出して重い刑罰を加えようとした。その時、王思は近くに出ており、習が代わりに対応に行き、すでに捕らえられていた。王思は駆け戻り、自らの罪を陳べ、死罪を受けるべきであると言った。太祖は習が言わなかったこと、王思が分をわきまえたことを嘆じ、「どうして我が軍中に二人の義士がいるのか」と言った。〈臣の松之は考えるに、習と王思は同僚に過ぎず、親族でもなく、刎頸の交わりでもないのに、身を以て王思に代わり、測り知れぬ災禍を受けた。これを義とするのは、先哲の雅なる趣旨に背くのではないか。司馬遷は「死には泰山より重いものもあり、鴻毛より軽いものもある」と言う。故に君子はみだりに生きることをせず、みだりに死ぬこともない。もし王思が分を引き受けず、主君が寛大にしなければ、いわゆる溝渎で自ら首をくくっても誰も知らないようなものである。習が義のために死んだというのは、果たしてそうだろうか。〉後に同時に刺史に抜擢され、王思は豫よ州を管轄した。王思も有能な官吏であったが、細かく煩わしく大體を欠き、官位は九卿に至り、列侯に封じられた。〈『魏略苛吏傳』によると、王思は薛悌、郤嘉とともに微賤から出発し、官位はほぼ等しかった。三人の中では、薛悌はやや儒術を帯びており、在任地では簡素で倹約な名があった。郤嘉と王思の事績は似ていた。文帝は詔して言った。「薛悌は駁吏(議論好きな吏)であり、王思、郤嘉は純吏(純粋な吏)である。それぞれに関内侯を賜り、その勤労に報いる。」王思は人となり煩わしく細かいが、文書に精通し、賢者を敬い士を礼遇し、情勢に心を傾けたため、これによっても名声を顕わにした。正始年間、大司農となったが、年老いて目がかすみ、怒りに限度がなく、下僚は声をあげて何を根拠にしているかわからなかった。性格は信用することが少なく、ある時、役人の父が重病で、近くの外舎にいたため、自ら休暇を求めた。王思はそれが真実でないと疑い、怒って言った。「世に夫を思い病む母がいるというが、まさにこのことか!」そして休暇を与えなかった。役人の父は翌日死んだが、王思に悔いの色はなかった。その刻薄さはこのようなものであった。王思はまた性急で、かつて筆を執って文書を作成していた時、蝿が筆の先に集まり、追い払ってもまた来ることを再三繰り返した。王思は憤慨し、自ら立ち上がって蝿を追ったが捕えられず、戻って筆を取って地面に投げつけ、踏み壊した。当時、丹陽の施畏、魯郡の倪顗、南陽の胡業も刺史・郡守となり、当時の人々は彼らを苛暴と呼んだ。◎また高陽の劉類は、宰守の地位を歴任し、苛酷さが特にひどく、人事を巧みに取り繕うことで、世に廃されることはなかった。嘉平年間、弘農太守となった。役人二百余人に休暇を与えず、専ら不急の用事をさせた。過失の軽重を問わず、すぐにその頭を掴み、また乱暴に杖で打ち、引き出してはまた入らせ、これを数回繰り返した。また人を遣わして地面を掘って銭を探させ、所在の市や里には全て穴が開いていた。また外見は簡素を装い、出行するたびに、表向きは督郵に命じて官属に礼敬を修めさせないようにしたが、内密に来ない者を覚えておき、怒りを発して中傷した。性格はまた信用することが少なく、大吏を派遣するたびに、必ず小吏をつけて監察させ、昼間は自ら壁の隙間からこっそり覗き、夜は幹事に命じて諸曹を監察させ、また幹事も信用できないと、鈴下や奴婢を遣わして互いに検証させた。かつて巡行し、民家に宿泊した。民家の二匹の犬が豚を追いかけ、豚は驚いて走り出し、頭を柵の間に挟み、長い間号叫した。劉類は、外の役人が勝手に飲食を共にしたと思い、さらに調査することもなく、すぐに伍百に命じて五官掾の孫弼を引きずり入れ、頭を地面に叩きつけて責めた。孫弼が事実を答えると、劉類は自ら詳しく調べなかったことを恥じ、他の事を尋ねることに託けた。民の尹昌は、年齢が百歳に近く、劉類の出行が通りかかると聞き、息子に言った。「私を支えて府君を迎えなさい。恩を陳べたい。」息子が尹昌を道の左に支えていると、劉類はそれを見て、息子を叱責して言った。「この死人を使って、私に会わせに来るのか。」彼が人を無礼に見ることは、皆このようなものであった。旧来の風習で、民が官長を誹謗するのに三不肯(三つの承諾しないこと)があり、それは転任、免職、死であると言った。劉類が弘農にいた時、役人や民衆は彼を苦しめ、その門に「劉府君に三不肯あり」と題した。劉類はこれを聞いても、なお自ら改めることができなかった。その後、安東将軍司馬文王が西征し、道中弘農を通った時、弘農の人々が劉類が老耄で郡を治めるに任じないと告げたため、召し入れて五官中郎将とした。〉

原文初,济阴王思與習俱爲西曹令史。思因直日白事,失太祖指。太祖大怒,教召主者,將加重辟。時思近出,習代往對,已被收執矣,思乃驰還,自陳己罪,罪应受死。太祖叹習之不言,思之识分,曰:「何意吾軍中有二義士乎?」〈臣松之以爲習與王思,同寮而已,親非骨肉,義非刎颈,而以身代思,受不测之祸。以之爲義,無乃乖先哲之雅旨乎!史遷云「死有重於太山,有轻於鸿毛」,故君子不爲苟存,不爲苟亡。若使思不引分,主不加恕,則所謂自經於沟渎而莫之知也。習之死義者,豈其然哉!〉後同時擢爲刺史,思领豫州。思亦能吏,然苛碎無大體,官至九卿,封列侯。〈《魏略苛吏傳》曰:思與薛悌、郤嘉俱從微起,官位略等。三人中,悌差挟儒术,所在名爲間省。嘉與思事行相似。文帝詔曰:「薛悌驳吏,王思、郤嘉纯吏也,各赐關内侯,以报其勤。」思爲人雖烦碎,而晓练文書,敬賢礼士,倾意形勢,亦以是显名。正始中,爲大司农,年老目瞑,瞋怒無度,下吏嗷然不知何据。性少信,時有吏父病笃,近在外舍,自白求假。思疑其不實,发怒曰:「世有思妇病母者,豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。其爲刻薄类如此。思又性急,尝執笔作書,蝇集笔端,驱去復来,如是再三。思恚怒,自起逐蝇不能得,還取笔掷地,蹋坏之。時有丹陽施畏、鲁郡倪顗、南陽胡業亦爲刺史、郡守,時人謂之苛暴。◎又有高陽刘类,歷位宰守,苛慝尤其,以善修人事,不废於世。嘉平中,爲弘农太守。吏二百餘人,不與休假,专使爲不急。过無轻重,辄捽其头,又亂杖挝之,牵出復入,如是數四。乃使人掘地求钱,所在市里,皆有孔穴。又外讬简省,每出行,陽敕督邮不得使官屬曲修礼敬,而阴识不来者,辄发怒中伤之。性又少信,每遣大吏出,辄使小吏随覆察之,白日常自於墙壁間闚闪,夜使幹廉察諸曹,復以幹不足信,又遣铃下及奴婢使轉相检验。尝案行,宿止民家。民家二狗逐猪,猪惊走,头插栅間,号呼良久。类以爲外之吏擅共饮食,不復徵察,便使伍百曳五官掾孫弼入,顿头责之。弼以實對,类自愧不详,因讬問以他事。民尹昌,年垂百歲,聞类出行,當經过,謂其兒曰:「扶我迎府君,我欲陳恩。」兒扶昌在道左,类望見,呵其兒曰:「用是死人,使来見我。」其视人無礼,皆此类也。舊俗,民谤官長者有三不肯,謂遷、免與死也。类在弘农,吏民患之,乃题其門曰:「刘府君有三不肯。」类雖聞之,猶不能自改。其後安東將軍司馬文王西征,路經弘农,弘农人告类荒耄不任宰郡,乃召入爲五官中郎將。〉

張旣は字を徳容といい、馮翊高陵の人である。十六歳の時、郡の小吏となった。

原文張旣字德容,馮翊高陵人也。年十六,為郡小吏。

《魏略》によると、張既は代々単なる家柄で富んでおり、人となりは容姿や立ち居振る舞いが良かった。幼い頃から文書や手紙を書くのが巧みで、郡の門下の小役人となったが、家は裕福であった。自ら家柄が低いことを思い、どうやって自分を出世させようかと考え、常に良い筆記用具や上奏文の板を蓄え、大役人たちで不足している者がいればすぐに与えたので、これによって知られるようになった。その後、要職を歴任し、孝廉に推挙されたが、応じなかった。太祖(曹操)が司空となった時、召し出したが、まだ到着しないうちに、茂才に推挙され、新豊県令に任命され、その治績は三輔(京兆尹・左馮翊・右扶風)で第一となった。袁尚が黎陽で太祖に抵抗し、配下の河東太守郭援と并州刺史高幹、および匈奴の単于を派遣して平陽を奪取させ、使者を西に送って関中の諸将と連合しようとした。司隷校尉こういの鍾繇が張既を派遣して将軍馬騰らを説得させると、張既は利害を説き、馬騰らはこれに従った。馬騰は息子の馬超に一万余りの兵を率いさせ、鍾繇と合流して高幹と郭援を攻撃し、大破して郭援の首を斬った。高幹と単于はともに降伏した。その後、高幹が再び并州で反乱を起こした。河内の張晟が一万余りの兵を率いて帰属する所がなく、崤山と澠池の間を荒らし、河東の衞えい固と弘農の張琰がそれぞれ兵を起こしてこれに呼応した。太祖は張既を議郎とし、鍾繇の軍事に参与させ、西の諸将馬騰らに命じて出兵させ、皆で兵を率いて張晟らを攻撃させ、これを破った。張琰と衞固の首を斬り、高幹は荊州に逃げた。張既は武始亭侯に封じられた。

原文〈《魏略》曰:旣世單家富,為人有容儀。少小工書疏,為郡門下小吏,而家富。自惟門寒,念無以自達,乃常畜好刀筆及版奏,伺諸大吏有乏者輒給與,以是見識焉。〉後歷右職,舉孝廉,不行。太祖為司空,辟,未至,舉茂才,除新豐令,治為三輔第一。袁尚拒太祖於黎陽,遣所置河東太守郭援、並州刺史高幹及匈奴單于取平陽,發使西與關中諸將合從。司隷校尉鍾繇遣旣說將軍馬騰等,旣為言利害,騰等從之。騰遣子超將兵萬餘人,與繇會擊幹、援,大破之,斬援首。幹及單于皆降。其後幹復舉並州反。河內張晟衆萬餘人無所屬,冦崤、澠閒,河東衞固、弘農張琰各起兵以應之。太祖以旣為議郎,參繇軍事,使西徵諸將馬騰等,皆引兵會擊晟等,破之。斬琰、固首,幹奔荊州。封旣武始亭侯。

太祖が荊州征討をしようとした時、馬騰らは関中を分割占拠していた。太祖は再び張既を派遣して馬騰らを諭し、配下の兵を手放して帰還するよう命じた。馬騰はすでに承諾したが、さらにためらいを見せたので、張既は変事が起こることを恐れ、諸県に移文して食糧の備蓄を急がせ、太守(二千石)に郊外で出迎えさせた。馬騰はやむなく東に向けて出発した。太祖は馬騰を衛尉に、息子の馬超を将軍に上表し、その兵を統率させた。後に馬超が反乱を起こすと、張既は太祖に従って華陰で馬超を破り、西の関右を平定した。張既を京兆尹とし、流民を招き慰撫し、廃れた県邑を復興させたので、民衆は彼を慕った。魏国が建てられると、尚書となり、外任して雍州刺史となった。太祖は張既に言った。「あなたを故郷の州に戻すのは、昼に刺繡の衣を着て歩くようなものだ(栄耀を故郷で誇る)。」張魯征討に従軍し、別働隊として散関から入り、反乱した氐族を討伐し、その麦を収穫して軍糧に充てた。張魯が降伏すると、張既は太祖に進言して漢中の民数万戸を移住させ、長安と三輔を充実させた。その後、曹洪とともに下弁で呉蘭を破り、また夏侯淵とともに宋建を討伐し、別働隊で臨洮と狄道を攻撃し、平定した。

原文太祖將征荊州,而騰等分據關中。太祖復遣旣喻騰等,令釋部曲求還。騰已許之而更猶豫,旣恐為變,乃移諸縣促儲偫,二千石郊迎。騰不得已,發東。太祖表騰為衞尉,子超為將軍,統其衆。後超反,旣從太祖破超於華陰,西定關右。以旣為京兆尹,招懷流民,興復縣邑,百姓懷之。魏國旣建,為尚書,出為雍州刺史。太祖謂旣曰:「還君本州,可謂衣繡晝行矣。」從征張魯,別從散關入討叛氐,收其麥以給軍食。魯降,旣說太祖拔漢中民數萬戶以實長安及三輔。其後與曹洪破吳蘭於下辯,又與夏侯淵討宋建,別攻臨洮、狄道,平之。

この時、太祖が民を移住させて河北を充実させようとしたため、隴西・天水・南安の民衆は動揺し、不安定で騒然となった。張既はこの三郡の出身で将吏となっている者に課役を免除し、家屋を建てさせ、水碓を作らせたので、民心はようやく落ち着いた。太祖が漢中の守備を引き上げようとした時、劉備が北進して武都の氐族を手中に収め、関中を脅かすことを恐れ、張既に意見を求めた。張既は言った。「(氐族を)勧めて北に出て穀物を求めて賊(劉備軍)を避けさせ、先に来た者には手厚く恩賞を与えれば、先に来た者が利益を得たことを知り、後から来る者は必ずそれを羨むでしょう。」太祖はその策に従い、自ら漢中に出向いて諸軍を引き連れ出し、張既を武都に派遣して、氐族五万余りの集落を移住させ、扶風と天水の境界に住まわせた。《三輔決録注》によると、張既が子供の頃、郡の功曹である游殷が彼の非凡さを見抜き、張既を家に招いた。張既は丁重に承諾した。游殷は先に帰宅し、家人に命じて賓客用の食事を準備させた。張既が到着すると、游殷の妻は笑って言った。「あなたはおかしくなったの?張德容(張既)は幼い子供ですよ、どうして特別な客扱いする必要があるの?」游殷は言った。「君は怪しむな。彼は方伯(地方長官)の器だ。」游殷は張既と覇王の謀略について論じた。食事が終わると、游殷は息子の楚を張既に託した。張既は謙遜して受け入れなかったが、游殷は固く託したので、張既は游殷が国中で重んじられている宿望であるため、その意向に逆らい難く、承諾した。游殷は以前から司隷校尉の胡軫と不和で、胡軫は罪をでっち上げて游殷を殺した。游殷が死んで一ヶ月余り後、胡軫は病気にかかり、自ら「罪を認める、罪を認める、游功曹が鬼を連れて来た」と言い続けた。そして遂に死んだ。当時、関中ではこう言われた。「生きては人を見抜く明があり、死しては貴い神の霊となる。」息子の楚は字を仲允といい、蒲阪県令となった。太祖が関中を平定した時、漢興郡の太守が欠員となり、太祖が張既に意見を求めたところ、張既は楚の文武両道の才能を称え、そこで楚を漢興太守に任命した。後に隴西太守に転任した。《魏略》によると、楚は人となりが豪快で、太守の職を歴任し、任地では恩徳をもって政治を行い、刑罰や殺戮を好まなかった。太和年間(227-233年)、諸葛亮が隴右に出撃すると、役人や民衆は動揺した。天水太守と南安太守はそれぞれ郡を捨てて東へ逃げたが、楚だけが隴西に拠り、役人や民衆を集めて言った。「太守(私)には恩徳がない。今、蜀しょくの兵が来たので、諸郡の役人や民衆は皆すでにこれに呼応している。これはまた、諸君が富貴を得る好機でもある。太守は本来、国家のために郡を守る者であり、義として必ず死ぬ覚悟だ。諸君は私の首を取って持って行ってもよい。」役人や民衆は皆涙を流し、「生死を共にし、明府(太守)と心を一つにします。二心はありません」と言った。楚はまた言った。「諸君がそうしたくないなら、私が一計を授けよう。今、東の二郡(天水・南安)はすでに陥落し、賊が必ず攻めて来るだろう。ただ共に堅く守るだけだ。もし国家の救援が到着すれば、賊は必ず去る。これが一郡が義を守ることであり、一人一人が爵位や恩寵を得ることになる。もし官軍の救援が来ず、蜀軍の攻撃が日に日に激しくなったなら、その時に太守を殺して降伏しても遅くはない。」役人や民衆はそこで城を守った。果たして南安郡から蜀軍がやって来て、隴西を攻撃した。楚は賊が来たと聞くと、長史の馬顒を派遣して城外に陣を敷かせ、自らは城の上で蜀軍の将帥に明け方に呼びかけて言った。「あなたが隴(隴山)を遮断し、東からの兵(魏の援軍)を上がらせないようにできれば、一月のうちに、隴西の役人や民衆は攻めなくても自ら降伏するだろう。もしあなたにそれができないなら、無駄に疲弊するだけだ。」馬顒に命じて太鼓を鳴らして攻撃させると、蜀軍は去った。十数日後、諸軍が隴山を上り、諸葛亮は破られて敗走した。南安と天水は諸葛亮に呼応した罪で破滅し、両郡の太守はそれぞれ重い刑罰を受けたが、楚は功績により列侯に封じられ、長史や属官たちも皆官位を賜った。皇帝(明帝)はその治績を称え、詔を下して特に朝参を許し、殿上に引き上げた。楚は背が低いが声が大きく、役人になって以来、一度も朝見したことがなかったので、詔によって階段を登ったが、儀式の作法を知らなかった。皇帝は侍中に命じて案内させ、「隴西太守、前に進め」と呼びかけると、楚は「はい」と言うべきところを、大声で「承知しました」と答えた。皇帝は彼を見て笑い、労いと激励の言葉をかけた。朝会が終わると、楚は自ら上表して宿衛に留まることを願い出て、駙馬都尉に任命された。楚は学問を好まず、遊興や音楽を好んだ。そこで歌い手を養い、琵琶・箏・簫を、いつも外出する時には従えさせた。任地では樗蒲や投壺をして、楽しみ自らを慰めた。数年後、再び外任して北地太守となり、七十余歳で亡くなった。

原文是時,太祖徙民以充河北,隴西、天水、南安民相恐動,擾擾不安,旣假三郡人為將吏者休課,使治屋宅,作水碓,民心遂安。太祖將拔漢中守,恐劉備北取武都氐以逼關中,問旣。旣曰:「可勸使北出就穀以避賊,前至者厚其寵賞,則先者知利,後必慕之。」太祖從其策,乃自到漢中引出諸軍,令旣之武都,徙氐五萬餘落出居扶風、天水界。〈《三輔決錄注》曰:旣為兒童,為郡功曹游殷察異之,引旣過家,旣敬諾。殷先歸,勑家具設賔饌。及旣至,殷妻笑曰:「君其悖乎!張德容童昏小兒,何異客哉!」殷曰:「卿勿怪,乃方伯之器也。」殷遂與旣論霸王之略。饗訖,以子楚託之;旣謙不受,殷固託之,旣以殷邦之宿望,難違其旨,乃許之。殷先與司隷校尉胡軫有隙,軫誣搆殺殷。殷死月餘,軫得疾患,自說但言「伏罪,伏罪,游功曹將鬼來」。於是遂死。于時關中稱曰:「生有知人之明,死有貴神之靈。」子楚字仲允,為蒲阪令。太祖定關中時,漢興郡缺,太祖以問旣,旣稱楚才兼文武,遂以為漢興太守。後轉隴西。《魏略》曰:楚為人慷慨,歷位宰守,所在以恩德為治,不好刑殺。太和中,諸葛亮出隴右,吏民騷動。天水、南安太守各棄郡東下,楚獨據隴西,召會吏民,謂之曰:「太守無恩德。今蜀兵至,諸郡吏民皆已應之,此亦諸卿富貴之秋也。太守本為國家守郡,義在必死,卿諸人便可取太守頭持往。」吏民皆涕淚,言「死生當與明府同,無有二心」。楚復言:「卿曹若不願,我為卿畫一計。今東二郡已去,必將寇來,但可共堅守。若國家救到,寇必去,是為一郡守義,人人獲爵寵也。若官救不到,蜀攻日急,爾乃取太守以降,未為晚也。」吏民遂城守。而南安果將蜀兵,就攻隴西。楚聞賊到,乃遣長史馬顒出門設陣,而自於城上曉謂蜀帥,言:「卿能斷隴,使東兵不上,一月之中,則隴西吏人不攻自服;卿若不能,虛自疲弊耳。」使顒鳴鼓擊之,蜀人乃去。後十餘日,諸軍上隴,諸葛亮破走。南安、天水皆坐應亮破滅,兩郡守各獲重刑,而楚以功封列侯,長史掾屬皆賜拜。帝嘉其治,詔特聽朝,引上殿。楚為人短小而大聲,自為吏,初不朝覲,被詔登階,不知儀式。帝令侍中贊引,呼「隴西太守前」,楚當言「唯」,而大應稱「諾」。帝顧之而笑,遂勞勉之。罷會,自表乞留宿衞,拜駙馬都尉。楚不學問,而性好遊遨音樂。乃畜歌者,琵琶、箏、簫,每行來將以自隨。所在樗蒲、投壺,歡欣自娛。數歲,復出為北地太守,年七十餘卒。〉

この時、武威の顔雋、張掖の和鸞、酒泉の黄華、西平の麴演らがそれぞれ郡を挙げて反乱し、自ら将軍を号し、互いに攻撃し合った。顔雋は使者を送って母と子を太祖(曹操)のもとに人質として届け、援助を求めた。太祖が蘇則に意見を尋ねると、蘇則は言った。「顔雋らは外では国の威光を借り、内では傲慢で背き、計画が定まり勢力が十分になれば、後になって必ず反逆します。今はちょうど蜀を平定しようとしている時ですから、両者を存続させて争わせ、卞荘子が虎を刺したように、座してその滅亡を待つのがよいでしょう。」太祖は「よろしい」と言った。一年余り後、和鸞は顔雋を殺し、武威の王祕がまた和鸞を殺した。この時は涼州を設置しておらず、三輔から西域に至るまで、すべて雍州に属していた。文帝(曹丕)が王位に即くと、初めて涼州を設置し、安定太守の鄒岐を刺史とした。張掖の張進が郡守を捕らえて兵を挙げ鄒岐に抵抗し、黄華と麴演はそれぞれ元の太守を追い出し、兵を挙げてこれに呼応した。蘇則は進軍して護羌校尉蘇則の勢威を助けたので、蘇則は功績を立てることができた。蘇則は都郷侯に爵位を進められた。涼州の盧水胡の伊健妓妾、治元多らが反乱し、河西は大いに乱れた。帝はこれを憂い、「蘇則でなければ涼州を安定させることはできない」と言い、鄒岐を召還し、蘇則を代わりに任じた。詔書に言う。「昔、賈復が郾の賊を討つことを請うた時、光武帝は笑って言った。『執金吾が郾を討つなら、私は何を憂えようか』と。卿の謀略は人に優れている。今がその時である。適宜に事を処理せよ。改めて事前に請う必要はない。」護軍の夏侯儒、将軍の費曜らを派遣し、その後を継がせた。蘇則が金城に到着し、黄河を渡ろうとした時、諸将は「兵は少なく道は険しいので、深く入るべきではない」と主張した。蘇則は言った。「道は険しいが、井陘の険しさではない。夷狄は烏合の衆で、李左車のような計略はない。今、武威が危急である。急いで救援に向かうべきだ。」そこで黄河を渡った。賊七千余騎が鸇陰口で軍を迎え撃った。蘇則は軍が鸇陰から進むと声を張り上げ、密かに且次から出て武威に至った。胡人は神のごとく思い、引き返して顕美に戻った。蘇則がすでに武威を占拠すると、費曜がようやく到着し、夏侯儒らはまだ到着していなかった。蘇則は将士を労い賜物を与え、進軍して胡を撃とうとした。諸将は皆言った。「士卒は疲れ、敵の勢いは鋭い。鋒を争うのは難しい。」蘇則は言った。「今、軍には現存の食糧がない。敵を頼りに資糧とすべきだ。もし敵が我が軍が合流するのを見て、退いて深山に依れば、追えば道は険しく食糧は尽き、兵を返せば出てきて寇掠する。このようでは、兵を解くことができない。いわゆる『一日敵を放てば、患いは数世に及ぶ』である。」そこで軍を進めて顕美に至った。胡の騎兵数千が、大風に乗じて火を放ち陣営を焼こうとした。将士は皆恐れた。蘇則は夜に精兵三千を隠して伏兵とし、参軍の成公英に千余騎を督させて挑戦させ、偽って退却するよう命じた。胡兵は果たして争って追いかけた。そこで伏兵を起こしてその背後を断ち、首尾から進撃し、大いにこれを破り、斬首と捕虜は万を数えた。(『魏略』によると、成公英は金城の人である。中平末年、韓約(韓遂)に従って腹心となった。建安年間、韓約が華陰で破れて逃走し、湟中に戻ると、部党は散り散りになったが、成公英だけが従った。『典略』によると、韓遂が湟中にいた時、婿の閻行が韓遂を殺して降伏しようとし、夜に韓遂を攻めたが、攻め落とせなかった。韓遂は嘆息して言った。「丈夫が困厄に陥る時、禍は婚姻から起こるのか!」そして成公英に言った。「今、親戚は離反し、人衆は次第に少なくなった。羌の中から西南へ向かい蜀に行くべきだろう。」成公英は言った。「軍を興して数十年、今は敗れたとはいえ、どうしてその門を捨てて人に依拠することがありましょうか!」韓遂は言った。「私は年老いた。お前はどうするつもりだ?」成公英は言った。「曹公は遠くから来ることはできず、ただ夏侯(夏侯淵)だけです。夏侯の軍勢は我々を追うには足りず、また長く留まることもできません。しばらく羌の中で肩を休め、彼の去るのを待ちましょう。旧友を呼び集め、羌・胡をなだめ集めれば、なお為すところがあるでしょう。」韓遂はその計に従った。当時、従う者は男女合わせてなお数千人いた。韓遂はかねてから羌に恩があったので、羌は彼を護衛した。夏侯淵が帰還すると、閻行を留めて後事を任せた。そこで羌・胡数万を合わせて閻行を攻めようとしたが、閻行が逃げようとした時、ちょうど韓遂が死に、成公英は太祖(曹操)に降伏した。太祖は成公英を見て非常に喜び、軍師とし、列侯に封じた。狩りに従った時、三頭の鹿が目の前を走り過ぎたので、公(曹操)は成公英に射るよう命じ、三発三中、皆弦に応じて倒れた。公は手を打って彼に言った。「ただ韓文約(韓遂)には節を尽くすことができるのに、孤(私)にはできないのか?」成公英はそこで馬を下りて跪いて言った。「明公を欺きはしません。仮に英の本来の主人が生きていれば、実にここには来なかったでしょう。」そして涙を流しむせび泣いた。公は彼の旧交を重んじる厚情を嘉し、親しく敬った。延康・黄初の頃、河西に逆謀があった。詔を下して成公英を派遣し涼州を佐けて隴右を平定させたが、病で卒した。『魏略』によると、閻行は金城の人で、後に名を艶と改め、字を彦明といった。若い頃から健名があり、初めは小将として韓約に従った。建安初年、韓約と馬騰が互いに攻撃し合った。馬騰の子の馬超もまた健と号されていた。閻行はかつて馬超を刺し、矛が折れたので、折れた矛で馬超の首を打ち、あやうく殺しかけた。建安十四年、韓約に使わされて太祖のもとへ行き、太祖は手厚く遇し、上表して犍為太守に任命した。閻行はそこで自分の父を宿衛に入らせることを請い、西に戻って韓約に会い、太祖の教えを宣べた。「文約(韓遂)に謝す。卿が兵を起こした当初、自らやむを得ない事情があったことは、私がよく承知している。早く来て共に国朝を匡輔すべきである。」閻行はそこで韓約に言った。「行もまた将軍として軍を興して以来三十余年、民も兵も疲弊し、拠る所も狭くなっています。早く自ら帰順すべきです。それゆえ以前鄴にいた時、自ら老父を京師に遣わすべきことを申し上げました。まことに将軍もまた一子を遣わして丹誠を示すべきです。」韓約は言った。「しばらく数年のうちに復た様子を見よう!」後に遂にその子を遣わし、閻行の父母と共に東へ行かせた。ちょうど韓約が西に張猛を討ち、閻行を留めて旧営を守らせたが、馬超らが反謀を結び、韓約を都督に推した。韓約が戻ると、馬超は韓約に言った。「先に鍾司隷(鍾繇)は超に将軍を取らせようと任じたが、関東の人はもはや信じられない。今、超は父を捨て、将軍を父とし、将軍もまた子を捨て、超を子とすべきです。」閻行は韓約に諫め、馬超と合するのを望まなかった。韓約は閻行に言った。「今、諸将は謀らずして同じくしており、天数のようだ。」そこで東のかた華陰へ向かった。太祖が韓約と馬を交えて語った時、閻行はその後にいた。太祖は遠くから閻行に言った。「孝子となることを念うべきだ。」馬超らが破れて逃走すると、閻行は韓約に従って金城に戻った。太祖は閻行の以前の意向を聞いていたので、わざと京師にいる韓約の子孫だけを誅した。そこで手書を閻行に与えて言った。「文約の所為を見ると、人を笑わせる。私が前後して彼に書を送り、説かないことはなかった。これではどうして再び忍ぶことができようか!卿の父の諫議は、自ら平安である。そうではあるが、牢獄の中は親を養う所ではなく、また官家も長く人のために老を養うことはできない。」韓約は閻行の父が独りいることを聞き、共に害に遭わせてその心を一つにしようとし、そこで強いて少女を閻行の妻とした。閻行はやむを得なかった。太祖は果たして閻行を疑った。ちょうど韓約が閻行をして別に西平郡を領させたので、遂にその部曲を率いて韓約と攻撃し合った。閻行は勝てず、そこで家人を連れて東のかた太祖のもとへ行った。太祖は上表して列侯に任命した。)

原文是時,武威顏雋、張掖和鸞、酒泉黃華、西平麴演等並舉郡反,自號將軍,更相攻擊。雋遣使送母及子詣太祖為質,求助。太祖問旣,旣曰:「雋等外假國威,內生傲悖,計定勢足,後即反耳。今方事定蜀,且宜兩存而鬬之,猶卞莊子之刺虎,坐收其斃也。」太祖曰:「善。」歲餘,鸞遂殺雋,武威王祕又殺鸞。是時不置涼州,自三輔拒西域,皆屬雍州。文帝即王位,初置涼州,以安定太守鄒岐為刺史。張掖張進執郡守舉兵拒岐,黃華、麴演各逐故太守,舉兵以應之。旣進兵為護羌校尉蘇則聲勢,故則得以有功。旣進爵都鄉侯。涼州盧水胡伊健妓妾、治元多等反,河西大擾。帝憂之,曰:「非旣莫能安涼州。」乃召鄒岐,以旣代之。詔曰:「昔賈復請擊郾賊,光武笑曰:『執金吾擊郾,吾復何憂?』卿謀略過人,今則其時。以便宜從事,勿復先請。」遣護軍夏侯儒、將軍費曜等繼其後。旣至金城,欲渡河,諸將守以為「兵少道險,未可深入」。旣曰:「道雖險,非井陘之隘,夷狄烏合,無左車之計,今武威危急,赴之宜速。」遂渡河。賊七千餘騎逆拒軍於鸇陰口,旣揚聲軍從鸇陰,乃潛由且次出至武威。胡以為神,引還顯美。旣已據武威,曜乃至,儒等猶未達。旣勞賜將士,欲進軍擊胡。諸將皆曰:「士卒疲倦,虜衆氣銳,難與爭鋒。」旣曰:「今軍無見糧,當因敵為資。若虜見兵合,退依深山,追之則道險窮餓,兵還則出候寇鈔。如此,兵不得解,所謂『一日縱敵,患在數世』也。」遂前軍顯美。胡騎數千,因大風欲放火燒營,將士皆恐。旣夜藏精卒三千人為伏,使參軍成公英督千餘騎挑戰,勑使陽退。胡果爭奔之,因發伏截其後,首尾進擊,大破之,斬首獲生以萬數。〈《魏略》曰:成公英,金城人也。中平末,隨韓約為腹心。建安中,約從華陰破走,還湟中,部黨散去,唯英獨從。《典略》曰:韓遂在湟中,其壻閻行欲殺遂以降,夜攻遂,不下。遂歎息曰:「丈夫困厄,禍起婚姻乎!」謂英曰:「今親戚離叛,人衆轉少,當從羌中西南詣蜀耳。」英曰:「興軍數十年,今雖罷敗,何有棄其門而依於人乎!」遂曰:「吾年老矣,子欲何施?」英曰:「曹公不能遠來,獨夏侯爾。夏侯之衆,不足以追我,又不能乆留;且息肩於羌中,以須其去。招呼故人,綏會羌、胡,猶可以有為也。」遂從其計,時隨從者男女尚數千人。遂宿有恩於羌,羌衞護之。及夏侯淵還,使閻行留後。乃合羌、胡數萬將攻行,行欲走,會遂死,英降太祖。太祖見英甚喜,以為軍師,封列侯。從行出獵,有三鹿走過前,公命英射之,三發三中,皆應弦而倒。公抵掌謂之曰:「但韓文約可為盡節,而孤獨不可乎?」英乃下馬而跪曰:「不欺明公。假使英本主人在,實不來此也。」遂流涕哽咽。公嘉其敦舊,遂親敬之。延康、黃初之際,河西有逆謀。詔遣英佐涼州平隴右,病卒。《魏略》曰:閻行,金城人也,後名艷,字彥明。少有健名,始為小將,隨韓約。建安初,約與馬騰相攻擊。騰子超亦號為健。行嘗刺超,矛折,因以折矛撾超項,幾殺之。至十四年,為約所使詣太祖,太祖厚遇之,表拜犍為太守。行因請令其父入宿衞,西還見約,宣太祖教云:「謝文約:卿始起兵時,自有所逼,我所具明也。當早來,共匡輔國朝。」行因謂約曰:「行亦為將軍,興軍以來三十餘年,民兵疲瘁,所處又狹,宜早自附。是以前在鄴,自啟當令老父詣京師,誠謂將軍亦宜遣一子,以示丹赤。」約曰:「且可復觀望數歲中!」後遂遣其子,與行父母俱東。會約西討張猛,留行守舊營,而馬超等結反謀,舉約為都督。及約還,超謂約曰:「前鍾司隷任超使取將軍,關東人不可復信也。今超棄父,以將軍為父,將軍亦當棄子,以超為子。」行諫約,不欲令與超合。約謂行曰:「今諸將不謀而同,似有天數。」乃東詣華陰。及太祖與約交馬語,行在其後,太祖望謂行曰:「當念作孝子。」及超等破走,行隨約還金城。太祖聞行前意,故但誅約子孫在京師者。乃手書與行曰:「觀文約所為,使人笑來。吾前後與之書,無所不說,如此何可復忍!卿父諫議,自平安也。雖然,牢獄之中,非養親之處,且又官家亦不能乆為人養老也。」約聞行父獨在,欲使並遇害,以一其心,乃彊以少女妻行,行不獲已。太祖果疑行。會約使行別領西平郡。遂勒其部曲,與約相攻擊。行不勝,乃將家人東詣太祖。太祖表拜列侯。〉帝甚恱,詔曰:「卿踰河歷險,以勞擊逸,以寡勝衆,功過南仲,勤踰吉甫。此勳非但破胡,乃永寧河右,使吾長無西顧之念矣。」徙封西鄉侯,增邑二百,並前四百戶。

酒泉の蘇衡が反乱を起こし、羌の豪族である隣戴および丁令の胡族一万余騎とともに辺境の県を攻撃した。張既は夏侯儒とともにこれを撃破し、蘇衡と隣戴らは皆降伏した。そこで上疏して夏侯儒とともに左城を治め、堡塁を築き、烽火台や邸閣を設置して胡族に備えることを請うた。西羌は恐れ、二万余りの部落を率いて降伏した。その後、西平の麴光らがその郡守を殺害した。諸将はこれを討伐しようとしたが、張既は言った。「麴光らだけが造反したのであって、郡の民は皆同じ考えとは限らない。もしすぐに軍を進めて臨めば、官吏や民、羌や胡は必ず国家が是非を区別しないと思い、さらに皆が結束してしまう。これは虎に翼を添えるようなものだ。光らは羌や胡を頼りにしようとしている。今、まず羌や胡に襲撃させ、褒賞を厚くし、捕虜や戦利品は全て彼らに与える。外ではその勢いを阻み、内ではその結びつきを離間すれば、戦わずして平定できるだろう。」そこで檄を発して諸羌に告諭し、光らに欺かれた者は許すこと、賊の首領を斬って首を送れば封賞を加えることを伝えた。すると光の配下が光の首を斬って送り、その他は皆以前のように平穏であった。(『魏略』に曰く、夏侯儒の字は俊林で、夏侯尚の従弟である。初め鄢陵侯曹彰の驍騎司馬となり、宣王(司馬懿)が征南将軍として荊州・豫州を都督した。正始二年、朱然が樊城を包囲し、城中の守将乙脩らは救援を切に求めた。夏侯儒は鄧塞に進んで屯したが、兵が少ないため敢えて進まず、ただ鼓吹を鳴らし、導従を設け、朱然から六七里離れて、ゆっくりと行き巡っては戻り、乙脩らに遠くから見えるようにし、たびたびこれを繰り返した。一月余りして、太傅(司馬懿)が到着すると、そこでともに進み、朱然らは退却した。当時、夏侯儒は臆病だと評され、あるいは少ない兵で敵を疑わせ、声援を得るのに適切だと考える者もいた。夏侯儒はなおこのことで召還され、太僕となった。)

原文酒泉蘇衡反,與羌豪鄰戴及丁令胡萬餘騎攻邊縣。旣與夏侯儒擊破之,衡及鄰戴等皆降。遂上疏請與儒治左城,築鄣塞,置烽候、邸閣以備胡。〈《魏略》曰:儒字俊林,夏侯尚從弟。初為鄢陵侯彰驍騎司馬,宣王為征南將軍,都督荊、豫州。正始二年,朱然圍樊城,城中守將乙脩等求救甚急。儒進屯鄧塞,以兵少不敢進,但作鼓吹,設導從,去然六七里,翱翔而還,使脩等遙見之,數數如是。月餘,及太傅到,乃俱進,然等走。時謂儒為怯,或以為曉以少疑衆,得聲救之宜。儒猶以此召還,為太僕。〉西羌恐,率衆二萬餘落降。其後西平麴光等殺其郡守,諸將欲擊之,旣曰:「唯光等造反,郡人未必悉同。若便以軍臨之,吏民羌胡必謂國家不別是非,更使皆相持著,此為虎傅翼也。光等欲以羌胡為援,今先使羌胡鈔擊,重其賞募,所虜獲者皆以畀之。外沮其勢,內離其交,必不戰而定。」乃檄告諭諸羌,為光等所詿誤者原之;能斬賊帥送首者當加封賞。於是光部黨斬送光首,其餘咸安堵如故。

張既は二州を治めて十余年、善政と恩恵が広く知られ、彼が礼を尽くして招いた扶風の龐延、天水の楊阜、安定の胡遵、酒泉の龐淯、燉煌の張恭、周生烈らは、皆最終的に名声と地位を得た。黄初四年に死去した。詔勅が下された。「昔、荀桓子は翟の地で功績を立て、晋侯は千室の邑を賞賜した。馮異は漢朝に力を尽くし、光武帝はその二人の子を封じた。故涼州刺史の張既は、民を包容し衆を養い、群羌を故郷の地に帰らせた。まさに国の良臣と言えよう。不幸にも死去したことを朕は深く哀れむ。その末子の翁帰に関内侯の爵位を賜う。」明帝が即位すると、追って肅侯と諡された。子の張緝が後を継いだ。(『魏略』に曰く、初め張既は郡の小吏であったが、功曹の徐英がかつて自ら張既を三十回鞭打った。徐英の字は伯済で、馮翊の名族であり、建安初年に蒲阪令となった。徐英は性格が剛直で、自分の一族が張既より勝っており、郷里での名声や品行も張既より上であると自負し、さらに以前に張既を辱めたこともあって、張既が貴顕になったと知っていても、ついに張既に頼ろうとしなかった。張既も志を得た後、もとのことを顧みず、むしろ徐英と和解しようとした。かつて酔った機会に徐英に親しく近づこうとしたが、徐英は頑なに意を張って応じなかった。徐英はこれによって再び登用されることがなかった。それゆえ当時の人は張既が旧怨を抱かないことを善しとし、徐英が屈しないことを壮とした。)

原文旣臨二州十餘年,政惠著聞,其所禮辟扶風龐延、天水楊阜、安定胡遵、酒泉龐淯、燉煌張恭、周生烈等,終皆有名位。〈《魏略》曰:初,旣為郡小吏,功曹徐英嘗自鞭旣三十。英字伯濟,馮翊著姓,建安初為蒲阪令。英性剛爽,自見族氏勝旣,於鄉里名行在前,加以前辱旣,雖知旣貴顯,終不肯求於旣。旣雖得志,亦不顧計本原,猶欲與英和。嘗因醉欲親狎英,英故抗意不納。英由此遂不復進用。故時人善旣不挾舊怨,而壯英之不撓。〉黃初四年薨。詔曰:「昔荀桓子立勳翟土,晉侯賞以千室之邑;馮異輸力漢朝,光武封其二子。故涼州刺史張旣,能容民畜衆,使羣羌歸土,可謂國之良臣。不幸薨隕,朕甚愍之,其賜小子翁歸爵關內侯。」明帝即位,追謚曰肅侯。子緝嗣。

張緝は中書郎から次第に昇進して東莞太守となった。嘉平年間、娘が皇后となったため、光禄大夫に任命され、位は特進、妻の向氏は安城郷君に封じられた。張緝は中書令の李豊と共謀し、誅殺された。詳細は『夏侯玄伝』にある。(『魏略』に曰く、張緝の字は敬仲で、太和年間に温令となり、治績の才能で名があった。ちょうど諸葛亮が出兵した際、張緝は便宜を上奏し、詔により中書令の孫資に諮問されたところ、孫資は張緝に籌略があると考え、そこで召し出して騎都尉に任じ、征蜀軍に参じるよう派遣した。軍が解散すると、入って尚書郎となり、職務に適っていることで明帝に認められた。明帝は張緝の才能が多くの任に堪えうると考え、試しに相工を呼んで張緝を相させた。相工は「二千石を超えることはない」と言った。明帝は「どうしてこれほどの才能がありながら位が二千石で止まるのか」と言った。東莞に在っては、数千の兵を領した。張緝は財を吝しみ勢を誇る性格で、ある日娘が皇后となったことで郡を去り、里舎に戻ってからは、悒悒として躁擾した。たびたび国家に呉・蜀を撃つ形勢を陳べ、またかつて司馬大将軍に対して、諸葛恪は辺境で勝利を得たとはいえ、間もなく誅殺されるだろうと予測した。大将軍がその理由を問うと、張緝は「その主を威震し、功は一国を蓋う、死なずにいられようか」と言った。恪が合肥から戻ると、呉は果たして彼を殺した。大将軍は恪の死を聞いて、衆人に「諸葛恪は並の者にすぎない。近ごろ張敬仲が県で恪を論じ、必ず殺されると言ったが、今まさにそのとおりだ。敬仲の知は恪に勝っている」と言った。張緝は李豊と通家の間柄で、また住まいも近かった。李豊がしばしば急用で外出すると、その子の李藐が張緝を訪ね、咨問することがあった。李豊が収監されると、事は張緝に連なり、そこで収めて廷尉に送られ、獄中で死を賜り、その諸子も皆誅殺された。張緝の孫の張殷は、晋の永興年間に梁州刺史となり、『晋書』に見える。)

原文緝以中書郎稍遷東莞太守。嘉平中,女為皇后,徵拜光祿大夫,位特進,封妻向為安城鄉君。緝與中書令李豐同謀,誅。語在《夏侯玄傳》。〈《魏略》曰:緝字敬仲,太和中為溫令,名有治能。會諸葛亮出,緝上便宜,詔以問中書令孫資,資以為有籌略,遂召拜騎都尉,遣參征蜀軍。軍罷,入為尚書郎,以稱職為明帝所識。帝以為緝之材能,多所堪任,試呼相工相之。相者云:「不過二千石。」帝曰:「何材如是而位止二千石乎?」及在東莞,領兵數千人。緝性吝於財而矜於勢,一旦以女徵去郡,還坐里舍,悒悒躁擾。數為國家陳擊吳、蜀形勢,又嘗對司馬大將軍料諸葛恪雖得勝於邊土,見誅不乆。大將軍問其故,緝云:「威震其主,功蓋一國,欲不死可得乎?」及恪從合肥還,吳果殺之。大將軍聞恪死,謂衆人曰:「諸葛恪多輩耳!近張敬仲縣論恪,以為必見殺,今果然如此。敬仲之智為勝恪也。」緝與李豐通家,又居相側近。豐時取急出,子藐往見之,有所咨道。豐被收,事與緝連,遂收送廷尉,賜死獄中,其諸子皆並誅。緝孫殷,晉永興中為梁州刺史,見《晉書》。〉

温恢は曼基と字し、太原郡祁県の人である。父の温恕は涿郡太守となり、死去した。温恢は十五歳の時、喪を送って郷里に帰ったが、家は財産に恵まれていた。温恢は言った。「世は乱れようとしている。どうして富を保てようか。」一朝にして財産を全て散らし、宗族に施し与えた。州里の人々はこれを高く評価し、郇越に比した。孝廉に推挙され、廩丘長、鄢陵・広川の県令、彭城・魯の国相となり、赴任先で称賛された。中央に入って丞相主簿となり、地方に出て揚州刺史となった。太祖(曹操)は言った。「卿を側近に置きたいのは山々だが、この州の事が重要だと考えている。故に書経に『股肱良きかな、庶事康きかな』とある。蒋済を治中として得ることはできないか?」当時蒋済は丹陽太守であったが、蒋済を州に戻させた。また張遼・楽進らに語った。「揚州刺史(温恢)は軍事に通暁しており、動静は共に相談せよ。」

原文溫恢字曼基,太原祁人也。父恕,爲涿郡太守,卒。恢年十五,送丧還歸鄉里,内足於財。恢曰:「世方亂,安以富爲?」一朝尽散,振施宗族。州里高之,比之郇越。舉孝廉,爲廪丘長,鄢陵、廣川令,彭城、鲁相,所在見稱。入爲丞相主簿,出爲扬州刺史。太祖曰:「甚欲使卿在親近,顾以爲不如此州事大。故書云:『股肱良哉!庶事康哉!』得無當得蒋济爲治中邪?」時济見爲丹杨太守,乃遣济還州。又语張辽、乐進等曰:「扬州刺史晓達軍事,動静與共咨議。」

建安二十四年、孫権が合肥を攻撃した。この時、諸州は皆屯戍していた。温恢は兗州刺史の裴潜に言った。「ここには賊がいるが心配するに足らず、征南軍の方に異変が起こることを恐れる。今、水が増水し、子孝(曹仁)は孤軍を懸けているが、遠くへの備えがない。関羽は勇猛で鋭く、有利に乗じて進軍すれば、必ず禍いとなるだろう。」ここに樊城の事変が起こった。詔書が裴潜と豫州刺史の呂貢らを召還しようとしたが、裴潜らはゆっくりとしていた。温恢は密かに裴潜に語った。「これは必ず襄陽の急を救おうとするものだ。急いで会合しないのは、遠方の兵衆を驚かせたくないからだ。一両日中に必ず密書があって卿の進軍を促し、張遼らもまた召還されるだろう。張遼らは元より王(曹操)の意を理解している。後で召されても先に到着すれば、卿はその責めを負うことになる!」裴潜はその言葉を受け入れ、輜重を置き、軽装に改めて速やかに出発した。果たして促す命令が下された。張遼らも間もなくそれぞれ召還され、温恢の予測通りとなった。

原文建安二十四年,孫权攻合肥,是時諸州皆屯戍。恢謂兗州刺史裴潜曰:「此間雖有贼,不足憂,而畏征南方有變。今水生而子孝縣軍,無有远備。關羽骁锐,乘利而進,必將爲患。」於是有樊城之事。詔書召潜及豫州刺史呂贡等,潜等缓之。恢密语潜曰:「此必襄陽之急欲赴之也。所以不爲急會者,不欲惊動远眾。一二日必有密書促卿進道,張辽等又將被召。辽等素知王意,後召前至,卿受其责矣!」潜受其言,置辎重,更爲轻装速发,果被促令。辽等寻各見召,如恢所策。

文帝(曹丕)が即位すると、温恢を侍中とし、地方に出して魏郡太守とした。数年後、涼州刺史に転じ、節を持ち護羌校尉を兼任した。道中で病死し、時に四十五歳であった。詔勅が下された。「温恢には柱石の資質があり、先帝に仕え、功労は明らかで顕著であった。また朕に仕えては王室に忠誠を尽くした。故に万里の任を授け、一方の事を任せた。どうして志を遂げられずに逝ったのか、朕は甚だ哀れむ。」温恢の子の温生に関内侯の爵位を賜った。温生は早世し、爵位は絶えた。

原文文帝践阼,以恢爲侍中,出爲魏郡太守。數年,遷凉州刺史,持节领护羌校尉。道病卒,時年四十五。詔曰:「恢有柱石之質,服事先帝,功勤明著。及爲朕執事,忠於王室,故授之以萬里之任,任之以一方之事。如何不遂,吾甚愍之!」赐恢子生爵關内侯。生早卒,爵絕。

温恢の死後、汝南の孟建が涼州刺史となり、治績の名声があり、官は征東将軍まで至った。(『魏略』に曰く、孟建の字は公威で、若い頃諸葛亮とともに遊学した。諸葛亮が後に祁山に出た際、司馬宣王に書を答えて、杜子緒に公威への意を伝えさせた。)

原文恢卒後,汝南孟建爲凉州刺史,有治名,官至征東將軍。〈《魏略》曰:建字公威,少與諸葛亮俱游學。亮後出祁山,答司馬宣王書,使杜子绪宣意於公威也。〉

賈逵は字を梁道といい、河東郡襄陵県の人である。幼い頃から、遊びで常に軍勢を配置し、祖父の賈習はこれを異様に思い、「お前は大きくなったら必ず将軍になるだろう」と言った。口で兵法を数万字も授けた。〈『魏略』によると、賈逵の家は代々名門であったが、幼くして孤児となり家は貧しく、冬にはよく袴がなく、妻の兄の柳孚の家に泊まった時、翌朝何も言わずに柳孚の袴をはいて去ったので、当時の人々は彼を通健(ずる賢い)と呼んだという。〉初めは郡の役人となり、絳邑県の長を代行した。郭援が河東を攻撃した時、通過する城邑はすべて陥落したが、賈逵は堅く守り、郭援が攻め落とせず、ついに単于を呼び寄せて軍を合わせて急攻した。城が陥落しそうになると、絳の父老たちは郭援と約束し、賈逵を害さないようにした。絳の人々が敗れた後、郭援は賈逵の名を聞き、彼を将軍にしようと兵で脅したが、賈逵は動じなかった。側近が賈逵を引っ張って頭を地に付けさせようとすると、賈逵は叱りつけて言った。「どうして国家の長官が賊のために頭を下げることがあろうか!」郭援は怒り、彼を斬ろうとした。絳の役人や民衆は賈逵が殺されると聞き、皆城壁に登って叫んだ。「約束を破って我が賢君を殺すなら、いっそ共に死のう!」側近たちは賈逵の義に感じ、多くが取りなしたので、ついに免れることができた。〈『魏略』によると、郭援は賈逵を捕らえたが、賈逵は拝礼しようとせず、郭援に言った。「王府君(王邑)がこの郡を治めて長年になるが、あなたが何者か知らない。」郭援は怒って「早く斬れ」と言った。諸将がかばい守ったので、壺関に監禁し、土の穴倉に閉じ込め、車輪で蓋をして、人を置いて固く守らせた。まさに殺そうとした時、賈逵は穴倉の中から看守に言った。「ここには健児はいないのか、どうして義士をここで死なせようとするのか。」ちょうど祝公道という者がおり、賈逵とは旧知の仲ではなかったが、たまたまその言葉を聞き、彼が正義を守って危難に陥っているのを哀れに思い、夜に盗み出して連れ出し、枷を壊して逃がし、自分の姓名を告げなかった。〉初め、賈逵は皮氏県を通った時、「争う土地は先に占拠した者が勝つ」と言った。包囲された時、免れられないと知り、人を遣わして密かに印綬を郡に送り返し、さらに「急いで皮氏を占拠せよ」と言った。郭援はすでに絳の兵衆を併せ、進軍しようとしていた。賈逵は彼が先に皮氏を得るのを恐れ、別の計略で郭援の謀臣である祝奥を疑わせ、郭援はこれによって七日間留まった。郡は賈逵の言葉に従ったので、敗北を免れた。〈『孫資別伝』によると、孫資は河東の計吏に推挙され、許都に到着し、丞相府に推薦して言った。「賈逵は絳邑において、役人や民衆を率い励まし、賊の郭援と交戦し、力尽きて敗れ、賊の捕虜となったが、毅然とした志を保ち、顔色も言葉も屈しなかった。忠言は大衆に聞こえ、烈しい節操は当時に顕著であった。古の直躬や鼎を抱いた者でも、これ以上ではあるまい。その才能は文武を兼ね、誠に時の役に立つ人物である。」『魏略』によると、郭援が破られた後、賈逵は以前に自分を助け出した者が祝公道であることを知った。公道は河南の人である。後にある事件に連座し、法に伏すべきところであった。賈逵は彼を救おうとしたが、力及ばず、そのために喪服を着たという。〉

原文贾逵字梁道,河東襄陵人也。自爲兒童,戲弄常設部伍,祖父習異之,曰:「汝大必爲將率。」口授兵法數萬言。〈《魏略》曰:逵世爲著姓,少孤家贫,冬常無袴,过其妻兄柳孚宿,其明無何,著孚袴去,故時人謂之通健。〉初爲郡吏,守絳邑長。郭援之攻河東,所經城邑皆下,逵堅守,援攻之不拔,乃召單于並軍急攻之。城將潰,絳父老與援要,不害逵。絳人既潰,援聞逵名,欲使爲將,以兵劫之,逵不動。左右引逵使叩头,逵叱之曰:「安有國家長吏爲賊叩頭!」援怒,將斬之。絳吏民聞將殺逵,皆乘城呼曰:「負要殺我賢君,寧俱死耳!」左右義逵,多爲請,遂得免。〈《魏略》曰:援捕得逵,逵不肯拜,謂援曰:「王府君臨郡積年,不知足下曷爲者也?」援怒曰:「促斬之。」諸將覆護,乃囚於壶關,闭著土窖中,以车轮盖上,使人固守。方將杀之,逵從窖中謂守者曰:「此間無健兒邪,而當使義士死此中乎?」時有祝公道者,與逵非故人,而適聞其言,怜其守正危厄,乃夜盗往引出,折械遣去,不语其姓名。〉初,逵过皮氏,曰:「爭地先据者胜。」及圍怎,知不免,乃使人間行送印绶歸郡,且曰「急据皮氏」。援既並绛眾,將進兵。逵恐其先得皮氏,乃以他计疑援谋人祝奥,援由是留七日。郡從逵言,故得無敗。〈《孫资别傳》曰:资舉河東计吏,到许,荐於相府曰:「逵在绛邑,帅厉吏民,與贼郭援交戰,力尽而敗,爲贼所俘,挺然直志,颜辭不屈;忠言聞於大眾,烈节显於當時,雖古之直发、据鼎,罔以加也。其才兼文武,誠時之利用。」魏略曰:郭援破後,逵乃知前出己者爲祝公道。公道,河南人也。後坐他事,當伏法。逵救之,力不能解,爲之改服焉。〉

後に茂才に推挙され、澠池県令に任じられた。高幹が反乱を起こすと、張琰が兵を挙げてこれに応じようとした。賈逵はその謀略を知らず、張琰に会いに行った。変事が起こったと聞き、帰りたかったが、捕らえられるのを恐れ、張琰のために計略を立て、まるで共謀している者のように振る舞い、張琰はこれを信じた。当時、県の役所は蠡城に仮置きされており、城の堀は堅固ではなかった。賈逵は張琰に兵を求めて城を修築した。乱を起こそうとする者たちは皆、その謀略を隠さなかったので、賈逵はことごとく彼らを誅殺することができた。こうして城を修築して張琰に抵抗した。張琰が敗れると、賈逵は祖父の喪に服すため官を去り、司徒府から掾に招聘され、議郎として司隷校尉の軍事に参与した。太祖(曹操)が馬超を征伐した時、弘農に至り、「これは西の道の要衝である」と言い、賈逵に弘農太守を兼任させた。召し出して事を計ると、大いに喜び、側近に言った。「天下の二千石(太守)が皆賈逵のようであれば、私は何を憂えようか。」その後、兵を動員した時、賈逵は屯田都尉が逃亡民を隠しているのではないかと疑った。都尉は自分が郡に属していないと思い、言葉が従順でなかった。賈逵は怒り、彼を逮捕し、罪状を数え上げて、足の骨を折るほどに打ち据え、これにより免官された。しかし太祖は内心賈逵を良しとし、丞相主簿に任じた。〈『魏略』によると、太祖が呉を征伐しようとした時、大雨が降り続き、三軍の多くは行きたがらなかった。太祖はその事情を知っていたが、外に諫める者がいるのを恐れ、命令を出した。「今、孤は戒厳令を敷いたが、どこへ向かうかは知らせない。諫める者は死罪とする。」賈逵は命令を受け、同僚の三主簿に言った。「今は本当に出陣すべき時ではないが、命令はこのようである。諫めないわけにはいかない。」そこで諫言の草稿を作って三人に見せた。三人はやむを得ず、皆署名し、事を上奏した。太祖は怒り、賈逵らを逮捕した。獄に送られる時、首謀者を尋ねると、賈逵はすぐに「私が首謀です」と言い、すぐに獄へ向かった。獄吏は賈逵が主簿であるため、すぐに枷をはめなかった。賈逵は獄吏に言った。「早く私に枷をはめてくれ。上の者は私が近くの職にいるので、あなたに緩めてもらおうとしているのではないかと疑っている。今に人が来て私を調べに来るだろう。」賈逵が枷をはめ終わると、果たして太祖が家来を獄に遣わして賈逵の様子を見に来た。その後、命令が出た。「賈逵に悪意はない。元の職に復帰させよ。」初め、賈逵が諸生(学生)の時、大義を大まかに読み、その中で使えるものを取った。最も『春秋左氏伝』を好み、州牧や太守となってからも、常に自ら課して読み、月に一度は通読した。賈逵は以前弘農にいた時、典農校尉と公事を争い、道理が通らず、憤慨して瘿(首の瘤)ができた。後にその病気が少し大きくなり、自ら医者に切ってほしいと願い出た。太祖は賈逵の忠誠を惜しみ、生きられないのではないかと恐れ、「謝主簿(賈逵)に伝えよ。『十人が瘿を切れば九人は死ぬ』と聞いている」と命じた。賈逵はなおも自分の考えを実行し、瘿はますます大きくなった。賈逵は本名を衢といったが、後に逵と改めた。〉太祖が劉備を征伐した時、先に賈逵を斜谷に遣わして形勢を観察させた。道中で水衡都尉の役人に出会い、囚人数十車を載せていた。賈逵は軍事が急を要するため、ただちに最も重罪の者一人だけを残し、残りは皆釈放した。太祖はこれを良しとし、諫議大夫に任じ、夏侯尚と共に軍の計画を執り行った。太祖が洛陽で崩御すると、賈逵が喪事を主管した。〈『魏略』によると、当時太子(曹丕)は鄴におり、鄢陵侯(曹彰)はまだ到着しておらず、士民は労役にかなり苦しみ、また疫病もあったため、軍中が騒動した。群臣は天下に変事が起こるのを恐れ、喪を発しないでおこうとした。賈逵は秘密にすべきではないと建議し、ついに喪を発し、内外の者を皆参列させ、拝礼が終わったら、それぞれ安堵させて動かさないようにした。すると青州軍が勝手に太鼓を打ち鳴らして引き揚げていった。人々はこれを制止し、従わない者は討伐すべきだと考えた。賈逵は「ちょうど大喪が柩にある時で、嗣王もまだ立てられていない。むしろこれに乗じて慰撫すべきだ」と考えた。そこで長い檄文を作り、所在の地で食糧を支給するよう告げた。〉当時、鄢陵侯曹彰が越騎将軍として長安から駆けつけ、賈逵に先王(曹操)の璽綬がどこにあるかと尋ねた。賈逵は厳しい顔色で言った。「太子は鄴におられます。国には儲君がおられます。先王の璽綬は、君侯がお尋ねになるべきものではありません。」こうして梓宮(皇帝の棺)を奉じて鄴に戻った。

原文後舉茂才,除渑池令。高幹之反,張琰將舉兵以应之。逵不知其谋,往見琰。聞變起,欲還,恐見執,乃爲琰画计,如與同谋者,琰信之。時縣寄治蠡城,城堑不固,逵從琰求兵脩城。諸欲爲亂者皆不隐其谋,故逵得尽诛之。遂脩城拒琰。琰敗,逵以丧祖父去官,司徒辟爲掾,以議郎参司隶軍事。太祖征馬超,至弘农,曰「此西道之要」,以逵领弘农太守。召見计事,大悦之,謂左右曰:「使天下二千石悉如贾逵,吾何憂?」其後发兵,逵疑屯田都尉藏亡民。都尉自以不屬郡,言语不顺。逵怒,收之,數以罪,挝折脚,坐免。然太祖心善逵,以爲丞相主簿。〈《魏略》曰:太祖欲征吳而大霖雨,三軍多不原行。太祖知其然,恐外有谏者,教曰:「今孤戒严,未知所之,有谏者死。」逵受教,謂其同寮三主簿曰:「今實不可出,而教如此,不可不谏也。」乃建谏草以示三人,三人不获已,皆署名,入白事。太祖怒,收逵等。當送狱,取造意者,逵即言「我造意」,遂走詣狱。狱吏以逵主簿也,不即著械。謂狱吏曰:「促械我。尊者且疑我在近职,求缓於卿,今將遣人来察我。」逵著械適讫,而太祖果遣家中人就狱视逵。既而教曰:「逵無恶意,原復其职。」始,逵爲諸生,略览大義,取其可用。最好春秋左傳,及爲牧守,常自课读之,月常一遍。逵前在弘农,與典农校尉爭公事,不得理,乃发愤生瘿,後所病稍大,自启原欲令医割之。太祖惜逵忠,恐其不活,教「謝主簿,吾聞『十人割瘿九人死』」。逵猶行其意,而瘿愈大。逵本名衢,後改爲逵。〉太祖征刘備,先遣逵至斜谷觀形勢。道逢水衡,载囚人數十车,逵以軍事急,辄竟重者一人,皆放其餘。太祖善之,拜谏議大夫,與夏侯尚並掌軍计。太祖崩洛陽,逵典丧事。〈《魏略》曰:時太子在鄴,鄢陵侯未到,士民颇苦劳役,又有疾疠,於是軍中骚動。羣寮恐天下有變,欲不发丧。逵建議爲不可秘,乃发哀,令内外皆入临,临讫,各安叙不得動。而青州軍擅击鼓相引去。眾人以爲宜禁止之,不從者讨之。逵以爲「方大丧在殡,嗣王未立,宜因而抚之」。乃爲作長檄,告所在给其廪食。〉時鄢陵侯彰行越骑將軍,從長安来赴,問逵先王玺绶所在。逵正色曰:「太子在鄴,國有储副。先王玺绶,非君侯所宜問也。」遂奉梓宫還鄴。

文帝が王位に即くと、鄴県の戸数が数万で都の近くにあり、不法なことが多いため、賈逵を鄴の県令とした。一か月余りで、魏郡太守に転任した。大軍が出征する際には、また丞相主簿祭酒となった。賈逵はかつて他人の罪に連座して処罰されそうになったが、王(文帝)は言った。「叔向でさえ十代にわたって罪を許されたのに、まして賈逵の功績と徳は彼自身にあるではないか。」黎陽に従軍した時、渡し場で人々が乱れて通行していたので、賈逵がこれを斬ると、秩序が整った。譙に至り、賈逵を豫州刺史とした。この時、天下はようやく回復したばかりで、州郡の多くは統制がとれていなかった。賈逵は言った。「州は本来、御史を派遣して諸郡を監察させ、六条の詔書によって二千石以下の長吏を糾察するものであった。だからその評判は皆、厳格で有能で威勢があり監督糾察の才があると言われ、静かで寛大仁慈で和やかな徳があるとは言わなかった。今、長吏が法を軽んじ、盗賊が公然と横行しているのに、州が知りながら糾弾しないなら、天下はまた何を規範とすればよいのか。」兵曹従事は前任の刺史の休暇を引き継いでいたが、賈逵が着任して数か月後にようやく戻った。賈逵は二千石以下で法に従わずに甘やかしたり不正を行った者をことごとく取り調べて上奏し、免職にした。帝は言った。「賈逵は真の刺史である。」これを天下に布告し、豫州を手本とすべきとした。関内侯の爵位を賜った。(『魏略』にいう。初め、魏郡の官属は公務の期日が迫っていることでしばしば気をもんでいたが、賈逵が郡の長官になると聞くと、役所の者たちは皆県の門の外に赴いた。辞令が届くと、賈逵は門を出たが、郡の官属は皆門の前に居並び、車の下で賈逵に謁見した。賈逵は手を打って笑いながら言った。「役所に来るのに、どうしてこのようなことをするのか。」『魏略』にいう。賈逵が豫州刺史となった時、賈逵が進み出て言った。「臣は天門を守ること六年、天門がようやく開いたのに、臣は外にいます。どうか殿下は万民のために計らい、天と人の望みに背かないでください。)

原文文帝即王位,以鄴縣户數萬在都下,多不法,乃以逵爲鄴令。月餘,遷魏郡太守。〈《魏略》曰:初,魏郡官屬颇以公事期會有所急切,會聞逵當爲郡,舉府皆詣縣門外。及遷書到,逵出門,而郡官屬悉當門,謁逵於车下。逵抵掌曰:「詣治所,何宜如是!」〉大軍出征,復爲丞相主簿祭酒。逵尝坐人爲罪,王曰:「叔向猶十世宥之,况逵功德親在其身乎?」從至黎陽,津渡者亂行,逵斩之,乃整。至谯,以逵爲豫州刺史。〈《魏略》曰:逵爲豫州。逵進曰:「臣守天門,出入六年,天門始開,而臣在外。唯殿下爲兆民计,無违天人之望。」〉是時天下初復,州郡多不摄。逵曰:「州本以御史出監諸郡,以六条詔書察長吏二千石已下,故其狀皆言严能鹰扬有督察之才,不言安静寬仁有恺悌之德也。今長吏慢法,盗贼公行,州知而不纠,天下復何取正乎?」兵曹從事受前刺史假,逵到官數月,乃還;考竟其二千石以下阿縱不如法者,皆舉奏免之。帝曰:「逵真刺史矣。」布告天下,當以豫州爲法。赐爵關内侯。

州の南は呉と接しており、賈逵は斥候を厳重にし、甲冑と兵器を整え、守戦の準備をしたので、賊は侵犯しようとしなかった。外では軍備を整え、内では民事を治め、鄢水と汝水をせき止め、新しい堤防を築き、また山の急流である長谿の水を堰き止めて小弋陽陂を造り、さらに二百余里に及ぶ運河を通した。いわゆる賈侯渠である。黄初年間、諸将とともに呉を征伐し、洞浦で呂范を破り、陽里亭侯に進封され、建威将軍の位を加えられた。明帝が即位すると、封邑二百戸を加増され、前の分と合わせて四百戸となった。当時、孫権は東関におり、豫州の南に当たり、長江から四百余里離れていた。出兵して寇掠するたびに、西は江夏から、東は廬江から侵攻した。国家が征伐する時も、淮水と沔水を経由した。この時、州軍は項にあり、汝南、弋陽の諸郡は、ただ国境を守るだけであった。孫権には北方の憂いがなく、東西に急変があれば、軍を合わせて互いに救援したので、常に敗れることが少なかった。賈逵は、直ちに長江に臨む直道を開くべきだと考えた。もし孫権が自ら守備するなら、東西の二方面は救援を得られず、東西の二方面が救援を得られなければ、東関を奪取できると考えた。そこで潦口に駐屯地を移し、攻め取る計略を上奏すると、帝はこれを良しとした。

原文州南與吳接,逵明斥候,缮甲兵,爲守戰之備,贼不敢犯。外修軍旅,内治民事,遏鄢、汝,造新陂,又断山溜長谿水,造小弋陽陂,又通运渠二百餘里,所謂贾侯渠者也。黄初中,與諸將並征吳,破呂范於洞浦,進封陽里亭侯,加建威將軍。明帝即位,增邑二百户,並前四百户。時孫权在東關,當豫州南,去江四百餘里。每出兵爲寇,辄西從江夏,東從庐江。國家征伐,亦由淮、沔。是時州軍在项,汝南、弋陽諸郡,守境而已。权無北方之虞,東西有急,並軍相救,故常少敗。逵以爲宜開直道临江,若权自守,則二方無救;若二方無救,則東關可取。乃移屯潦口,陳攻取之计,帝善之。

呉の将軍張嬰と王崇が軍勢を率いて降伏した。太和二年、帝は賈逵に前将軍満寵、東莞太守胡質ら四軍を督させ、西陽から直ちに東関に向かわせ、曹休は皖から、司馬宣王は江陵から進軍させた。賈逵が五将山に到着すると、曹休がさらに上表し、賊に降伏を請う者がいるので、深く進軍してこれに応じたいと求めた。詔により宣王は軍を駐留させ、賈逵は東進して曹休と合流して進軍することになった。賈逵は、賊が東関の守備をしていないと推測し、必ず軍を合わせて皖に集中させると考えた。曹休が深く進軍して賊と戦えば、必ず敗れるだろう。そこで諸将を配置し、水陸両方から進軍し、二百里進んだところで、生き残った賊を捕らえ、曹休が戦いに敗れ、孫権が兵を派遣して夾石を遮断したと聞いた。諸将はどうすればよいかわからず、ある者は後続の軍を待とうとした。賈逵は言った。「曹休の軍は外で敗れ、退路は内で絶たれ、進んでも戦えず、退いても戻れない。安危の分かれ目は一日も待てない。賊は我が軍に後続がないと思って、ここまで来たのだ。今急いで進軍し、その不意を突けば、これこそ先んじて敵の心を奪うというものだ。賊は我が軍を見れば必ず退却する。もし後続軍を待てば、賊はすでに険阻な地を遮断しており、兵が多くても何の益もない。」そこで道を倍加して進軍し、多くの旗や太鼓を設けて疑兵とし、賊は賈逵の軍を見ると、遂に退却した。賈逵は夾石を占拠し、兵糧を曹休に供給したので、曹休の軍はようやく奮い立った。初め、賈逵と曹休は仲が良くなかった。黄初年間、文帝が賈逵に節を与えようとした時、曹休は言った。「賈逵は性格が剛直で、普段から諸将を侮り軽んじているので、督とすべきではありません。」帝はやめた。夾石での敗戦の時、賈逵がいなければ、曹休の軍はほとんど救われなかっただろう。(『魏略』にいう。曹休は賈逵の進軍が遅いことを怨み、賈逵を叱責し、ついには主管の者に命じて豫州刺史を派遣し、捨てられた武器を拾い集めさせた。賈逵は心が正直であることを恃み、曹休に言った。「もともと国のために豫州刺史となったのであって、あなたのために捨てられた武器を拾いに来たのではない。」そこで軍を引き揚げて戻った。ついに曹休と互いに上表して奏聞し合ったが、朝廷は賈逵が正直であることを知っていながらも、曹休が宗室で重任を負っているとして、双方ともとがめなかった。『魏書』にいう。曹休はなお以前の恨みを抱き、期日に遅れたことを理由に賈逵を罪に陥れようとしたが、賈逵はついに何も言わず、当時の人はますますこれによって賈逵を称賛した。習鑿歯にいう。賢人とは、身を外に置き己を虚しくし、内に在っては他者にへりくだるものである。嫉み嫌う名声がどうして生じようか。嫉み嫌う名声がある者は、必ず他者と対立し、勝ち負けを己の中に存する者である。もし私的な恨みによって国を敗り民を滅ぼすなら、彼がたとえ倒れても、我に何の利益があろうか。我に利益がないのに、それに乗じて何をしようか。これを称賛するのは、下賤の者の心である。今、私的な怒りを堪え、彼の憂いを急ぎ、難を冒し危険を犯して害から免れさせ、功を明君の前に顕し、恵みを百姓に施し、身を君子の道に登らせ、義によって敵の心を愧じさせたなら、豺虎でさえなお復讐を覚らないであろう、まして曹休においてはなおさらである。そうであるなら、彼の危難を救うことは、我が勝利を成す所以であり、宿怨を計らないことは、彼の心を服させる所以である。公義が既に成り、私利もまた大きい。これは善く争う者と言える。勝つことを忘れ得ない類の者で、これによらずして勝ちを成し遂げられる者は、未だかつてなかった。)

原文吳將張婴、王崇率眾降。太和二年,帝使逵督前將軍满宠、東莞太守胡質等四軍,從西陽直向東關,曹休從皖,司馬宣王從江陵。逵至五將山,休更表贼有请降者,求深入应之。詔宣王驻軍,逵東與休合進。逵度贼無東關之備,必並軍於皖;休深入與贼戰,必敗。乃部署諸將,水陆並進,行二百里,得生贼,言休戰敗,权遣兵断夹石。諸將不知所出,或欲待後軍。逵曰:「休兵敗於外,路絕於内,進不能戰,退不得還,安危之機,不及終日。贼以軍無後继,故至此;今疾進,出其不意,此所謂先人以奪其心也,贼見吾兵必走。若待後軍,贼已断險,兵雖多何益!」乃兼道進軍,多設旗鼓爲疑兵,贼見逵軍,遂退。逵据夹石,以兵粮给休,休軍乃振。初,逵與休不善。黄初中,文帝欲假逵节,休曰:「逵性刚,素侮易諸將,不可爲督。」帝乃止。及夹石之敗,微逵,休軍幾無救也。〈《魏略》曰:休怨逵進迟,乃呵责逵,遂使主者敕豫州刺史往拾棄仗。逵恃心直,謂休曰:「本爲國家作豫州刺史,不来相爲拾棄仗也。」乃引軍還。遂與休更相表奏,朝廷雖知逵直,猶以休爲宗室任重,两無所非也。魏書云:休猶挟前意,欲以後期罪逵,逵終無言,時人益以此多逵。習凿齒曰:夫賢人者,外身虚己,内以下物,嫌忌之名,何由而生乎?有嫌忌之名者,必與物爲對,存胜負於己身者也。若以其私憾敗國殄民,彼雖倾覆,於我何利?我苟無利,乘之曷爲?以是稱说,臧获之心耳。今忍其私忿而急彼之憂,冒難犯危而免之於害,使功显於明君,惠施於百姓,身登於君子之涂,義愧於敌人之心,雖豺虎猶將不觉所復,而况於曹休乎?然則济彼之危,所以成我之胜,不计宿憾,所以服彼之心,公義既成,私利亦弘,可謂善爭矣。在於未能忘胜之流,不由於此而能济胜者,未之有也。〉

病が重くなると、左右の者に言った。「国の厚恩を受けたが、孫権を斬って先帝にお目にかけられないことを恨む。葬儀については一切、何も飾り立ててはならない。」死去し、諡を肅侯といった。子の賈充が後を継いだ。豫州の官吏や民衆は彼を追慕し、石碑を刻み祠堂を建てた。青龍年間、帝が東征した時、輦に乗って賈逵の祠に入り、詔を下して言った。「昨日項を通り過ぎ、賈逵の碑像を見て、思い出し悲しんだ。古人の言葉に、名が立たないことを憂え、年が長くないことを憂えない、というのがある。賈逵は生きて忠勲があり、死んで慕われるとは、死して朽ちずというものだ。これを天下に布告し、将来を励ますように。」(『魏書』にいう。賈逵はこの時五十五歳であった。『魏略』にいう。甘露二年、天子が東征し、項に駐屯し、再び賈逵の祠に入り、詔を下して言った。「賈逵の死後、遺愛が残り、代を経て祠られている。その風烈を追い聞き、朕は甚だこれを嘉する。昔、先帝が東征した時も、またここに幸し、自ら徳の音を発し、賈逵の美を褒揚した。その徘徊する心は、ますます慨然たるものがあった。それ賢を礼するの義は、あるいはその墳墓を掃き、あるいはその門閭を修める、これ崇敬の所以である。その祠堂を掃除し、漏れ破れた所があれば補修せよ。)

原文會病笃,謂左右曰:「受國厚恩,恨不斩孫权以下見先帝。丧事一不得有所脩作。」薨,諡曰肅侯。〈《魏書》曰:逵時年五十五。〉子充嗣。豫州吏民追思之,爲刻石立祠。青龙中,帝東征,乘辇入逵祠,詔曰:「昨过项,見贾逵碑像,念之怆然。古人有言,患名之不立,不患年之不長。逵存有忠勋,没而見思,可謂死而不朽者矣。其布告天下,以勸將来。」〈《魏略》曰:甘露二年,车驾東征,屯项,復入逵祠下,詔曰:「逵没有遺愛,歷世見祠。追聞風烈,朕甚嘉之。昔先帝東征,亦幸于此,親发德音,褒扬逵美,徘徊之心,益有慨然!夫礼賢之義,或扫其坟墓,或脩其門閭,所以崇敬也。其扫除祠堂,有穿漏者补治之。」〉

賈充は、咸熙年間に中護軍となった。

原文充,咸熙中爲中护軍。〈《晉諸公赞》曰:充字公閭,甘露中爲大將軍長史。高贵鄉公之難,司馬文王赖充以免。爲晉室元功之臣,位至太宰,封鲁公。諡曰武公。《魏略列傳》以逵及李孚、杨沛三人爲一卷,今列孚、沛二人继逵後耳。

評して言う。漢の末年以来、刺史は諸郡を統括し、外で政務を行い、昔のように監察するだけのものではなかった。太祖が基業を創始し、魏の事業が終わるまで、これらは皆、その流れをくみ称賛され名実ともに備わった者たちである。皆、事の機微に精通し、威厳と恩恵を兼ね備えていたので、万里を整然と統治することができ、後世に述べられるのである。

原文评曰:自漢季以来,刺史總統諸郡,賦政于外,非若曩時司察之而已。太祖創基,迄終魏業,此皆其流稱誉有名實者也。咸精達事機,威恩兼著,故能肅齊萬里,見述於後也。