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三国志
魏書・鍾繇華歆王朗伝
鍾繇は字を元常といい、頴川郡長社県の人である。かつて同族の父である鍾瑜とともに洛陽へ行った時、道中で人相見に会い、「この子は貴い相を持っているが、水難に遭うであろう。気をつけるように」と言われた。十里も行かないうちに、橋を渡ろうとして馬が驚き、落ちて溺れ死にそうになった。鍾瑜は人相見の言葉が的中したので、ますます鍾繇を重んじ、学資を供給して専心学問に励ませた。孝廉に推挙され、尚書郎・陽陵県令に任命されたが、病気のため辞任した。三府に招聘され、廷尉正・黄門侍郎となった。この時、漢の皇帝は西京(長安)におり、李傕・郭汜らが長安で乱を起こし、関東との連絡を断っていた。太祖(曹操)が兗州牧を兼任し、初めて使者を遣わして上書した。李傕・郭汜らは「関東では天子を立てようとしている。今、曹操が使者を遣わしてきたが、本心ではない」と考え、太祖の使者を留め置き、その意向を拒絶しようと議した。鍾繇は李傕・郭汜らを説得して言った。「今、英雄が一斉に立ち上がり、それぞれが命令を偽って専権をふるっている中で、ただ曹兗州だけが王室に真心を寄せています。その忠誠を拒むことは、将来を担う者の期待に応えることにはなりません。」李傕・郭汜らは鍾繇の言葉を用い、厚く返礼したので、太祖の使者はようやく通じるようになった。太祖はすでに荀彧が鍾繇を称賛するのを幾度も聞き、さらに彼が李傕・郭汜を説得したことを知って、ますます心を寄せるようになった。後に李傕が天子を脅迫した時、鍾繇は尚書郎の韓斌とともに策を謀った。天子が長安を脱出できたのは、鍾繇の力によるものであった。御史中丞に任命され、侍中尚書僕射に昇進し、併せて以前の功績を記録して東武亭侯に封ぜられた。(『先賢行状』に曰く、鍾皓は字を季明といい、温良篤慎で、詩律を博学し、門生千余人を教授し、郡の功曹となった。当時、太丘長の陳寔は西門亭長であり、鍾皓は深く彼だけを敬い異とした。陳寔は鍾皓より十七歳年少であったが、常に礼をもって遇し、分義を同じくした。ちょうど公府に辟され、辞するに臨み、太守が問うた。「誰か君に代わり得る者は。」鍾皓は言った。「明府が必ずその人を得たいと望まれるなら、西門亭長が用いられましょう。」陳寔は言った。「鍾君は人を察することを意としないようだが、どうしてただ私だけを識っているのか。」鍾皓は司徒掾となり、公が出ると、道路が泥濘み、導従はその泥の跳ねるのを嫌い、公車から遠く離れた。公は車の軾を槌って言った。「司徒は今日独行するのみ。」府に還り閤に向かうと、鈴下は扶けず、掾属に揖させようとしたが、公は手を奮って顧みなかった。時に府の掾属は皆、劾を投じて出て行ったが、鍾皓は西曹掾であり、すぐに府門を開いて、すでに出た者たちに分布して告げて言った。「臣下が君に対して自ら直を得ることができないなら、もし司隷が縄墨を挙げて、公が宰相の礼を失し、また勝任しないとすれば、諸君は終身どこに任ぜられようか。」掾属はこの故に皆止まった。都官は果たして西曹掾を移し、空府の去る意を問うたが、鍾皓は都官の吏を召し、掾属の名を見せて示したので、乃ち止んだ。前後九たび三府に辟され、南郷・林慮の長に遷されたが、官に赴かなかった。当時、郡中で先輩として海内の帰するところとなった者は、蒼梧太守の定陵の陳稚叔、故黎陽令の潁陰の荀淑および鍾皓であった。少府の李膺は常にこの三人を宗とし、言った。「荀君は清識尚び難く、陳・鍾は至徳師とすべし。」李膺の姑は鍾皓の兄の妻であり、子の覲を生み、李膺と年が斉しく、ともに令名があった。覲はまた学を好み古を慕い、退譲の行があった。童幼の時、李膺の祖の太尉李脩が言った。「覲は我が家の性に似ており、国に道あれば廃されず、国に道なければ刑戮を免れる者である。」さらに李膺の妹を彼に妻わせた。覲は州宰に辟されたが、未だかつて屈して就かなかった。李膺は覲に言った。「孟軻は人の好悪是非の心なきは人に非ずとした。弟は人に対して何ぞ太だ皂白なきや。」覲はかつて李膺の言葉を鍾皓に白した。鍾皓は言った。「元礼は、祖公が位に在り、諸父並びに盛んで、韓公の甥であるから、故に然るを得たのだ。国武子は人の過ちを昭かにするを好み、以て怨の本としたが、今豈にその時か。身を保ち家を全うするは、汝の道これ是れなり。」覲は早く亡くなり、李膺は功名を荷い、位は卿佐に至ったが、ついに身を世の禍に隕した。鍾皓は年六十九で家に終わった。鍾皓の二子の迪・敷は、ともに党錮により仕えなかった。鍾繇はすなわち迪の孫である。謝承『漢書』に曰く、南陽の陰脩が潁川太守となり、賢を旌し俊を擢すを務めとし、五官掾の張仲を方正に挙げ、功曹の鍾繇、主簿の荀彧、主記掾の張礼、賊曹掾の杜祐、孝廉の荀攸、計吏の郭図を察して吏とし、以て国朝を光らせた。『世語』に曰く、太祖は従事の王必を遣わして天子に命を致さしめた。)
原文鍾繇字元常,頴川長社人也。〈《先賢行狀》曰:鍾皓字季明,溫良篤慎,博學詩律,教授門生千有餘人,爲郡功曹。時太丘長陳寔爲西門亭長,皓深獨敬異。寔少皓十七歲,常禮待與同分義。會辟公府,臨辭,太守問:「誰可代君?」皓曰:「明府欲必得其人,西門亭長可用。」寔曰:「鍾君似不察人爲意,不知何獨識我?」皓爲司徒掾,公出,道路泥濘,導從惡其相灑,去公車絕遠。公椎軾言:「司徒今日爲獨行耳!」還府向閤,鈴下不扶,令揖掾屬,公奮手不顧。時舉府掾屬皆投劾出,皓爲西曹掾,即開府門分布曉語已出者,曰:「臣下不能得自直於君,若司隷舉繩墨,以公失宰相之禮,又不勝任,諸君終身何所任邪?」掾屬以故皆止。都官果移西曹掾,問空府去意,皓召都官吏,以見掾屬名示之,乃止。前後九辟三府,遷南鄉、林慮長,不之官。時郡中先輩爲海內所歸者,蒼梧太守定陵陳稚叔、故黎陽令潁陰荀淑及皓。少府李膺常宗此三人,曰:「荀君清識難尚,陳、鍾至德可師。」膺之姑爲皓兄之妻,生子覲,與膺年齊,並有令名。覲又好學慕古,有退讓之行。爲童幼時,膺祖太尉脩言:「覲似我家性,國有道不廢,國無道免於刑戮者也。」復以膺妹妻之。覲辟州宰,未甞屈就。膺謂覲曰:「孟軻以爲人無好惡是非之心,非人也。弟於人何太無皂白邪!」覲甞以膺之言白皓,皓曰:「元禮,祖公在位,諸父並盛,韓公之甥,故得然耳。國武子好昭人過,以爲怨本,今豈其時!保身全家,汝道是也。」覲早亡,膺雖荷功名,位至卿佐,而卒隕身世禍。皓年六十九,終於家。皓二子迪、敷,並以黨錮不仕。繇則迪之孫。〉甞與族父瑜俱至洛陽,道遇相者,曰:「此童有貴相,然當厄於水,努力慎之!」行未十里,度橋,馬驚,墯水幾死。瑜以相者言中,益貴繇,而供給資費,使得專學。舉孝廉,〈謝承《漢書》曰:南陽陰脩爲潁川太守,以旌賢擢俊爲務,舉五官掾張仲方正,察功曹鍾繇、主簿荀彧、主記掾張禮、賊曹掾杜祐、孝廉荀攸、計吏郭圖爲吏,以光國朝。〉除尚書郎、陽陵令,以疾去。辟三府,爲廷尉正、黃門侍郎。是時,漢帝在西京,李傕、郭汜等亂長安中,與關東斷絕。太祖領兖州牧,始遣使上書。〈《世語》曰:太祖遣使從事王必致命天子。〉傕、汜等以爲「關東欲自立天子,今曹操雖有使命,非其至實」,議留太祖使,拒絕其意。繇說傕、汜等曰:「方今英雄並起,各矯命專制,唯曹兖州乃心王室,而逆其忠款,非所以副將來之望也。」傕、汜等用繇言,厚加荅報,由是太祖使命遂得通。太祖旣數聽荀彧之稱繇,又聞其說傕、汜,益虛心。後傕脅天子,繇與尚書郎韓斌同策謀。天子得出長安,繇有力焉。拜御史中丞,遷侍中尚書僕射,并錄前功封東武亭侯。
その時、関中の諸将である馬騰や韓遂らは、それぞれ強力な兵力を擁してお互いに争っていた。太祖(曹操)はちょうど山東(太行山以東)で戦事を抱えており、関右(関中以西)のことを憂慮していた。そこで上表して鍾繇を侍中とし、司隷校尉を守らせ、節を持たせて関中の諸軍を監督させ、後方の事を委ね、特に科制(通常の規則)に拘束されないことを許した。鍾繇が長安に到着すると、馬騰や韓遂らに文書を送り、禍福の道理を説いたので、馬騰と韓遂はそれぞれ息子を人質として送った。太祖が官渡におり、袁紹と対峙していた時、鍾繇は二千余頭の馬を軍に送った。太祖は鍾繇に手紙を送って言った。「送ってくれた馬を受け取ったが、まさに急を救うものだった。関右が平定され、朝廷が西を顧みる憂いがなくなったのは、あなたの功績である。昔、蕭何が関中を鎮守し、食糧を十分に供給して軍を成したのも、ちょうどこれと同じことだ。」その後、匈奴の単于が平陽で反乱を起こしたので、鍾繇は諸軍を率いて包囲したが、陥落させられなかった。その間に、袁尚が任命した河東太守の郭援が河東に到着し、その軍勢は非常に盛んだった。諸将は包囲を解いて撤退しようと議論したが、鍾繇は言った。「袁氏は今まさに強勢であり、郭援が来たことで、関中の者たちは密かに彼と通じている。まだ全てが反乱しないのは、私の威名を顧みているからだ。もし捨てて去れば、弱さを見せることになり、各地の民は誰でも敵となるだろう。たとえ私が帰ろうとしても、果たして帰り着けるだろうか。これは戦わずして自ら敗北するようなものだ。それに郭援は剛愎で勝ち気だから、必ずや我が軍を軽んじるだろう。もし汾水を渡って陣営を築こうとするなら、渡りきらないうちに攻撃すれば、大いに打ち破ることができる。」張既が馬騰を説得して郭援を挟撃させると、馬騰は息子の馬超に精兵を率いて迎撃させた。郭援が到着すると、案の定軽率に汾水を渡ろうとし、部下が止めても聞き入れなかった。渡河中、まだ半分も渡りきらないうちに攻撃し、大いに打ち破った。郭援を斬り、単于を降伏させた。この話は『張既伝』にある。その後、河東の衛固が反乱を起こし、張晟、張琰および高幹らとともに賊となり、鍾繇はまた諸将を率いて討伐し、打ち破った。天子が西遷して以来、洛陽の人民は極めて少なくなっていたが、鍾繇は関中の民を移住させ、さらに逃亡者や反乱者を招き入れて補充し、数年で民戸は次第に充実した。太祖が関中を征伐した時、これを資とすることができ、鍾繇を前軍師に上表した。(司馬彪『戦略』に曰く、袁尚は高幹・郭援を遣わして兵数万人を率い、匈奴単于とともに河東に寇し、使者を遣わして馬騰・韓遂らと連和し、馬騰らは密かにこれを許した。傅幹は馬騰を説いて言った。「古人に言うあり、『道に順う者は昌え、徳に逆らう者は亡ぶ』と。曹公は天子を奉じて暴乱を誅し、法は明らかで国は治まり、上下命を用い、義あれば必ず賞し、義なきは必ず罰し、まさに道に順うと謂うべきである。袁氏は王命に背き、胡虜を駆って以て中国を陵し、寛にして多く忌み、仁にして断なく、兵は強しといえども、実に天下の心を失い、まさに徳に逆らうと謂うべきである。今、将軍はすでに有道に事えながら、その力を尽くさず、密かに両端を懐き、坐して成敗を観んと欲するが、吾は成敗がすでに定まった後、辞を奉じて罪を責められれば、将軍が先ず誅首となることを恐れる。」そこで馬騰は懼れた。傅幹は言った。「智者は禍を転じて福と為す。今、曹公は袁氏と相持し、高幹・郭援は独り河東を制し、曹公は万全の計ありといえども、河東の危うからざるを禁じ得ない。将軍が誠に兵を引いて援を討ち、内外からこれを撃てば、その勢いは必ず挙がる。これ将軍の一挙にして、袁氏の臂を断ち、一方の急を解けば、曹公は必ず将軍の徳を重んじよう。将軍の功名は、竹帛も尽く載せることができないであろう。ただ将軍、審らかに選ぶべし。」馬騰は言った。「敬んで教えに従う。」そこで子の超を遣わし、精兵万余人を率い、併せて韓遂らの兵を将いて、鍾繇と会して援らを撃ち、大いにこれを破った。『魏略』に曰く、詔して河東太守の王邑を徴した。王邑は天下未だ定まらずとして、心に徴されるを願わず、しかも吏民もまた王邑を恋い、郡掾の衛固および中郎将の范先らは各々鍾繇のところに詣でて王邑を乞い求めた。しかし詔はすでに杜畿を太守に拝しており、杜畿はすでに界に入っていた。鍾繇は范先らの言を聴かず、王邑に符を交えるよう促した。王邑は印綬を佩いて、径ち河北から許に詣でて自ら帰した。鍾繇は時に洛陽に治めており、自ら威禁をもって督司の法を失したとして、乃ち上書して自劾して言った。「臣は前に上言して、故鎮北将軍・河東太守を領する安陽亭侯の王邑が巧みに治官を辟し、科条を犯突し、事は推劾に当たり、実を検べれば姦詐であるとしました。詔書を被れば糾すところに如くべきでしたが、その罪に帰したるをもって、故に寛赦を加えました。また臣は上言して、吏民大小、各々顧望を懐き、王邑がまさに還るべきと謂い、太守の杜畿を拒んだが、今は皆反悔し、ともに杜畿を迎えて官に之かせるとしました。謹んで文書を按ずるに、臣は空虛をもって、抜擢を蒙り、入って近侍を充し、兼ねて機衡を典り、忝くも重任を膺け、偏方を総統しました。すでに徳政をもって民物を恵むなく、また威刑をもって不恪を検ぶるなく、邑をして詔書に違犯せしめ、郡掾の衛固が吏民を誑迫し、訟訴の言、道路に交驛し、漸くその礼を失し、王命を虔まざるに至らしめました。今は反悔すといえども、醜声流聞し、咎は皆鍾繇の威刑摂らざるに由ります。臣はまた疾病あり、前後年を歴て、気力日々に微になり、素に尸して重禄を食み、職任を曠廃し、罪明らかで法正し。謹んで侍中・司隷校尉を守る東武亭侯の鍾繇を按ずるに、幸いに恩を蒙り、斗筲の才をもって、仍ち抜擢を見、顕かに近密に従い、命を銜んで督使しました。明らかに詔書が長吏の政教寛弱にして、下を検ぶるに刑なく、久病淹滞し、衆職荒頓し、法令張るを失するを深く疾むことを知りながら、邑は科に違うといえども、必ず法を縄正すべく、すでに文書を挙げ、弾を操って礼を失し、乃ち邑をして遠く闕廷に詣でしむるに至りました。使命を隳忝し、爪牙を挫傷しました。しかるに衛固が吏民を誑迫し、杜畿を拒むこと連月、今は反悔すといえども、順に犯し正を失い、海内兇赫し、罪は一に鍾繇の威刑闇弱に由ります。また鍾繇は久病にして、職に任えず、鍾繇の大臣としてまさに為すべきところに非ず。鍾繇は憲度を軽慢し、詔令を畏れず、国と心を同じくせず、臣として忠ならず、畏忌するところなく、大いに不敬たり。また詔書を承用せず、詔を奉ずるに謹ならず。また聡明蔽塞し、下の欺くところとなり、弱くして勝任せず。数罪謹んで以て劾し、臣は法車をもって廷尉に徴詣し鍾繇の罪を治め、大鴻臚は爵土を削らんことを請う。臣は久しく篤疾を嬰り、夏の盛劇に涉り、命は呼吸に県かり、部官に任えず。輒ち文書を功曹従事の馬適に付して議し、冠を免じ跣を徒にして、伏して罪誅を須たん。」詔は聴さず。)
原文時關中諸將馬騰、韓遂等,各擁彊兵相與爭。太祖方有事山東,以關右爲憂。乃表繇以侍中守司隷校尉,持節督關中諸軍,委之以後事,特使不拘科制。繇至長安,移書騰、遂等,爲陳禍福,騰、遂各遣子入侍。太祖在官渡,與袁紹相持,繇送馬二千餘匹給軍。太祖與繇書曰:「得所送馬,甚應其急。關右平定,朝廷無西顧之憂,足下之勳也。昔蕭何鎮守關中,足食成軍,亦適當爾。」其後匈奴單于作亂平陽,繇帥諸軍圍之,未拔;而袁尚所置河東太守郭援到河東,衆甚盛。諸將議欲釋之去,繇曰:「袁氏方彊,援之來,關中陰與之通,所以未悉叛者,顧吾威名故耳。若棄而去,示之以弱,所在之民,誰非寇讎?縱吾欲歸,其得至乎!此爲未戰先自敗也。且援剛愎好勝,必易吾軍,若渡汾爲營,及其未濟擊之,可大克也。」張旣說馬騰會擊援,騰遣子超將精兵逆之。援至,果輕渡汾,衆止之,不從。濟水未半,擊,大破之,〈司馬彪《戰略》曰:袁尚遣高幹、郭援將兵數萬人,與匈奴單于寇河東,遣使與馬騰、韓遂等連和,騰等陰許之。傅幹說騰曰:「古人有言『順道者昌,逆德者亡』。曹公奉天子誅暴亂,法明國治,上下用命,有義必賞,無義必罰,可謂順道矣。袁氏背王命,驅胡虜以陵中國,寬而多忌,仁而無斷,兵雖彊,實失天下心,可謂逆德矣。今將軍旣事有道,不盡其力,陰懷兩端,欲以坐觀成敗,吾恐成敗旣定,奉辭責罪,將軍先爲誅首矣。」於是騰懼。幹曰:「智者轉禍爲福。今曹公與袁氏相持,而高幹、郭援獨制河東,曹公雖有萬全之計,不能禁河東之不危也。將軍誠能引兵討援,內外擊之,其勢必舉。是將軍一舉,斷袁氏之臂,解一方之急,曹公必重德將軍。將軍功名,竹帛不能盡載也。唯將軍審所擇!」騰曰:「敬從教。」於是遣子超將精兵萬餘人,并將遂等兵,與繇會擊援等,大破之。〉斬援,降單于。語在《旣傳》。其後河東衞固作亂,與張晟、張琰及高幹等並爲寇,繇又率諸將討破之。〈《魏略》曰:詔徵河東太守王邑。邑以天下未定,心不願徵,而吏民亦戀邑,郡掾衞固及中郎將范先等各詣繇求乞邑。而詔已拜杜畿爲太守,畿已入界。繇不聽先等,促邑交符。邑佩印綬,徑從河北詣許自歸。繇時治在洛陽,自以威禁失督司之法,乃上書自劾曰:「臣前上言故鎮北將軍領河東太守安陽亭侯王邑巧辟治官,犯突科條,事當推劾,檢實姦詐。被詔書當如所糾。以其歸罪,故加寬赦。又臣上言吏民大小,各懷顧望,謂邑當還,拒太守杜畿,今皆反悔,共迎畿之官。謹按文書,臣以空虛,被蒙拔擢,入充近侍,兼典機衡,忝膺重任,總統偏方。旣無德政以惠民物,又無威刑以檢不恪,至使邑違犯詔書,郡掾衞固誑迫吏民,訟訴之言,交驛道路,漸失其禮,不虔王命。今雖反悔,醜聲流聞,咎皆由繇威刑不攝。臣又疾病,前後歷年,氣力日微,尸素重祿,曠廢職任,罪明法正。謹按侍中守司隷校尉東武亭侯鍾繇,幸得蒙恩,以斗筲之才,仍見拔擢,顯從近密,銜命督使。明知詔書深疾長吏政教寬弱,檢下無刑,乆病淹滯,衆職荒頓,法令失張。邑雖違科,當必繩正法,旣舉文書,操彈失禮,至乃使邑遠詣闕廷。隳忝使命,挫傷爪牙。而固誑迫吏民,拒畿連月,今雖反悔,犯順失正,海內兇赫,罪一由繇威刑闇弱。又繇乆病,不任所職,非繇大臣當所宜爲。繇輕慢憲度,不畏詔令,不與國同心,爲臣不忠,無所畏忌,大爲不敬。又不承用詔書,奉詔不謹。又聦明蔽塞,爲下所欺,弱不勝任。數罪謹以劾,臣請法車徵詣廷尉治繇罪,大鴻臚削爵土。臣乆嬰篤疾,涉夏盛劇,命縣呼吸,不任部官。輙以文書付功曹從事馬適議,免冠徒跣,伏須罪誅。」詔不聽。〉自天子西遷,洛陽人民單盡,繇徙關中民,又招納亡叛以充之,數年間民戶稍實。太祖征關中,得以爲資,表繇爲前軍師。
魏国が初めて建てられた時、鍾繇は大理となり、相国に昇進した。文帝が東宮にいた時、鍾繇に五熟釜を賜り、それに銘文を刻んで言った。「ああ、赫々たる魏よ、漢の藩屏となり補佐する。その宰相は鍾繇、まことに心膂の臣である。日夜恭しく務め、安穏に過ごす暇もない。百官はみな彼を師とし、この規範を手本とする。」〈《魏略》によると、鍾繇が相国であった時、五熟釜の鼎の鋳型を太子のために作らせ、釜が完成すると、太子は鍾繇に手紙を書いて言った。「昔には黄帝の三鼎、周の九宝があったが、皆一つの器で一つの味を調えるものであった。どうしてこの釜のように五味が時に芳香を放つものがあろうか。そもそも鼎で煮炊きするのは、上帝を饗応し、聖賢を養い、徳を明らかにし福を祈るためであり、これに優る美はない。故に大人でなければ造ることができず、この器でなければ盛んな徳にふさわしくない。今の嘉なる釜は、この美を超えている。周の尸臣、宋の考父、衛の孔悝、晋の魏顆、あの四人の臣は、皆功績と徳行によって名を鍾鼎に刻んだ。今、執事(鍾繇)は大魏を敬い助け、聖なる教化を盛んにしている。堂堂たる徳は、ここに至って盛んである。誠に太常が銘を刻むにふさわしく、彝器に刻むにふさわしい。故にこの銘文を作り、釜の口に刻む。どうか洪大な美を賛揚し、不朽に伝えることができますように。」 臣の松之が考えるに、《漢書・郊祀志》によれば、孝宣帝の時、美陽で鼎が発見され、京兆尹の張敞が上議して言った。「鼎に刻まれた文字を調べると、『王が尸臣に命じ、この栒邑を治めさせた。尸は、主として事を司る臣である。栒は荀と読み、幽州の地である。汝に鸞旂、黼黻、琱戈を賜う。尸臣は頭を下げ、額を地につけて言う。敢えて天子の大いなる輝かしい美しい命に応え、称揚します!』とある。これはおそらく周が大臣の子孫を褒め賜ったもので、大臣の子孫が先祖の功績を銘文に刻み、宮廟に蔵したのであろう。」考父の銘は《左氏傳》に見え、孔悝の銘は《礼記》にある。事柄が明らかなのでここには載せない。《国語》に言う。「昔、潞を平定した戦いの後、秦が来て晋の功績を覆そうとした時、魏顆は自ら秦軍を輔氏まで追撃し、自ら杜囬を捕らえた。その功績が景鍾に銘文として刻まれ、今に至るまでその類いを見ない。その子孫を興さなければならない。」これが太子の言う四つの銘である。 《魏略》によると、後に太祖(曹操)が漢中を征伐した時、太子(曹丕)は孟津におり、鍾繇が玉玦を持っていると聞き、それを欲したが言い出しにくかった。曹操は密かに臨菑侯(曹植)に頼み、人を介してそれとなく言わせると、鍾繇はすぐに送った。太子は鍾繇に手紙を書いて言った。「玉は君子の徳に比べられ、詩人にその美を称えられる。晋の垂棘、魯の璵璠、宋の結緑、楚の和璞は、その価値は万金を超え、都城中で貴重とされ、昔から称えられ、その名声は将来にまで流れる。それ故に垂棘が晋から出ると、虞と虢の両国が手に入れ、和氏の璧が秦に入ると、藺相如が節を守って抗った。ひそかに玉についての書物を見ると、美玉は白いものは脂肪を切り取ったようで、黒いものは純粋な漆に譬え、赤いものは鶏冠に擬し、黄色いものは蒸した栗に等しいと称えている。かすかにこの言葉を聞いたが、その形状を見たことはない。私の徳は君子ではなく、義も詩人のようではないが、高い山と大きな道を、私心から慕い仰いでいる。しかし、この四つの宝は遥か遠く、秦や漢の時代にも優れた匹敵するものは聞いたことがない。それ故に長年探し求めたが、その真のものに出会えず、私の願いは果たされず、飢え渇きは満たされなかった。近ごろ南陽の宗恵叔が、君侯が昔美しい玦をお持ちだったと称するのを聞き、驚き喜び、笑いと手を打つ喜びが共に起こった。自ら手紙を書こうとしたが、伝言が不確かであることを恐れ、それで弟の子建に荀仲茂を通じて私の粗末な意向を伝えさせた。思いがけず見捨てず、厚くも丁寧な言葉を賜り、鄴からの騎馬が到着し、宝の玦が初めて届いた。捧げて跪き箱を開けると、爛然と目に満ちた。取るに足らない蒙昧な身でありながら、希世の宝を見ることができ、一人の使者を煩わせることなく、連城の価値を損なうこともなかった。秦の昭王が章台で(璧を)見たことはあっても、藺相如が欺いて奪い返すような欺きはなかった。嘉なる賜り物はますます厚く、どうして謹んで受けないことがあろうか!」鍾繇が返書を出して言った。「昔、近侍の任に辱くもあり、共に玦を賜ったことがある。尚方の古老は、よく昔の物を識別する。その符采(玉の光沢や文様)に名をつけ、必ずその出所を知っている。執事(太子)がこれを珍重される方がおられると考えたので、それを粗末に扱い、まだ献上しておりませんでした。幸いにもお心をかけてくださり、実に喜ばしいことです。昔の和氏が忠篤に情を注いだように、私も命令を待っていますが、これは恥ずかしい思いです。」〉数年後、西曹掾の魏諷が謀反を企てた事件に連座し、策書により官を罷免され邸宅に戻った。〈《魏略》によると、孫権が臣下として称し、関羽を斬って首を送ってきた。太子が手紙で鍾繇に報せると、鍾繇は返書を出して言った。「臣の同郡の故司空荀爽が言いました。『人は情理に従うべきで、私を愛する者はなんと愛すべきか!私を憎む者はなんと憎むべきか!』孫権のことを考えると、まったく侮り媚びている。」太子はまた手紙を書いて言った。『返信を得て、南方(の関羽討伐)を喜んでおられることを知りました。荀公(荀爽)の清談、孫権の侮媚について、手紙を持って大笑いし、手から離せません。もし孫権がまた狡賢くなったら、汝南の許邵の月旦評で折伏すべきです。孫権が魏と呉の二国を優游し、荀爽や許邵に俯仰するのも、もう十分でしょう。』〉文帝が王位に即くと、再び大理となった。帝位に即くと、廷尉に改められ、崇高郷侯に進封された。太尉に昇進し、平陽郷侯に転封された。当時、司徒の華歆、司空の王朗は、共に前代からの名臣であった。文帝は朝議を終えると、側近に言った。「この三公は、一代の偉人である。後世ではおそらく継ぐ者は難しいだろう!」〈陸氏の《異林》によると、鍾繇はかつて数か月も朝会に出席せず、気性が異常であった。ある人がその理由を尋ねると、言った。「いつも美しい婦人が来るが、並外れて美しい。」尋ねた人は言った。「きっと鬼物に違いない。殺すべきだ。」後日、婦人が来たが、すぐには前に進まず、戸口の外で止まった。鍾繇がなぜかと尋ねると、婦人は言った。「貴公には私を殺そうというお考えがある。」鍾繇は言った。「そんなことはない。」そして熱心に呼びかけると、やっと中に入った。鍾繇は恨めしい気持ちがあり、殺すに忍びない心もあったが、それでも彼女を斬りつけて太ももに傷を負わせた。婦人はすぐに出て行き、新しい綿で血を拭いながら道を去った。翌日、人をやって跡を追わせると、大きな塚に至り、木の中に美しい婦人がいて、体は生きている人のようで、白い練絹の衫を着て、丹色の刺繍を施した裲襠を付け、左太ももに傷を負い、裲襠の中の綿で血を拭っていた。叔父の清河太守(陸雲)がこのように語った。〉明帝が即位すると、定陵侯に進封され、封邑五百戸を加増され、以前の分と合わせて千八百戸となり、太傅に昇進した。鍾繇は膝の病気があり、跪拝や起立が不便であった。当時、華歆も高齢で病気であり、朝見の際には皆、輿車に乗せ、虎賁(近衛兵)が殿上に担ぎ上げて座らせた。この後、三公に病気がある時は、これが故事となった。
原文魏國初建,爲大理,遷相國。文帝在東宮,賜繇五熟釜,爲之銘曰:「於赫有魏,作漢藩輔。厥相惟鍾,寔幹心膂。靖恭夙夜,匪遑安處。百寮師師,楷茲度矩。」〈《魏略》曰:繇爲相國,以五熟釜鼎範因太子鑄之,釜成,太子與繇書曰:「昔有黃三鼎,周之九寶,咸以一體使調一味,豈若斯釜五味時芳?蓋鼎之烹餁,以饗上帝,以養聖賢,昭德祈福,莫斯之美。故非大人,莫之能造;故非斯器,莫宜盛德。今之嘉釜,有逾茲美。夫周之尸臣,宋之考父,衞之孔悝,晉之魏顆,彼四臣者,並以功德勒名鍾鼎。今執事寅亮大魏,以隆聖化。堂堂之德,於斯爲盛。誠太常之所宜銘,彝器之所宜勒。故作斯銘,勒之釜口,庶可贊揚洪美,垂之不朽。」 臣松之按《漢書·郊祀志》,孝宣時,美陽得鼎,京兆尹張敞上議曰:「按鼎有刻書曰:『王命尸臣,宕此栒邑。尸,主事之臣也;栒音荀,幽地。賜尔鸞旂,黼黻琱戈。尸臣拜首,稽首曰,敢對揚天子,丕顯休命!』此殆周之所以襃賜大臣子孫,大臣子孫刻銘其先功,藏之于宮廟也。」考父銘見《左氏傳》,孔悝銘在《禮記》,事顯故不載。《國語》曰:「昔克潞之役,秦來圖敗晉功,魏顆以其身追秦師于輔氏,親止杜囬;其勒銘于景鍾,至于今不遺類,其子孫不可不興也。」太子所稱四銘者也。 《魏略》曰:後太祖征漢中,太子在孟津,聞繇有玉玦,欲得之而難。公密使臨菑侯轉因人說之,繇即送之。太子與繇書曰:「夫玉以比德君子,見美詩人。晉之垂棘,魯之璵璠,宋之結綠,楚之和璞,價越萬金,貴重都城,有稱疇昔,流聲將來。是以垂棘出晉,虞、虢雙禽;和璧入秦,相如抗節。竊見玉書,稱美玉白若截肪,黑譬純漆,赤擬雞冠,黃侔蒸栗。側聞斯語,未覩厥狀。雖德非君子,義無詩人,高山景行,私所慕仰。然四寶邈焉以遠,秦、漢未聞有良匹。是以求之曠年,未遇厥真,私願不果,饑渴未副。近見南陽宗惠叔稱君侯昔有美玦,聞之驚喜,笑與抃俱。當自白書,恐傳言未審,是以令舍弟子建因荀仲茂轉言鄙旨。乃不忽遺,厚見周稱,鄴騎旣到,寶玦初至,捧跪發匣,爛然滿目。猥以矇鄙之姿,得觀希世之寶,不煩一介之使,不損連城之價,旣有秦昭章臺之觀,而無藺生詭奪之誑。嘉貺益腆,敢不欽承!」繇報書曰:「昔忝近任,并得賜玦。尚方耆老,頗識舊物。名其符采。必得處所。以爲執事有珍此者,是以鄙之,用未奉貢。幸而紆意,實以恱懌。在昔和氏,殷勤忠篤,而繇待命,是懷愧恥。」〉數年,坐西曹掾魏諷謀反,策罷就第。〈《魏略》曰:孫權稱臣,斬送關羽。太子書報繇,繇荅書曰:「臣同郡故司空荀爽言:『人當道情,愛我者一何可愛!憎我者一何可憎!』顧念孫權,了更侮媚。」太子又書曰:「得報,知喜南方。至於荀公之清談,孫權之侮媚,執書嗢噱,不能離手。若權復黠,當折以汝南許邵月旦之評。權優游二國,俯仰荀、許,亦已足矣。」〉文帝即王位,復爲大理。及踐阼,改爲廷尉,進封崇高鄉侯。遷太尉,轉封平陽鄉侯。時司徒華歆、司空王朗,並先世名臣。文帝罷朝,謂左右曰:「此三公者,乃一代之偉人也,後世殆難繼矣!」〈陸氏《異林》曰:繇嘗數月不朝會,意性異常,或問其故,云:「常有好婦來,美麗非凡。」問者曰:「必是鬼物,可殺之。」婦人後往,不即前,止戶外。繇問何以,曰:「公有相殺意。」繇曰:「無此。」乃勤勤呼之,乃入。繇意恨,有不忍之心,然猶斫之傷髀。婦人即出,以新緜拭血竟路。明日使人尋跡之,至一大冢,木中有好婦人,形體如生人,著白練衫,丹繡裲襠,傷左髀,以裲襠中緜拭血。叔父清河太守說如此。清河,陸雲也。〉明帝即位,進封定陵侯,增邑五百,并前千八百戶,遷太傅。繇有膝疾,拜起不便。時華歆亦以高年疾病,朝見皆使載輿車,虎賁舁上殿就坐。是後三公有疾,遂以爲故事。
初めに、太祖(曹操)が命令を下し、死刑を宮刑(去勢)に切り替えることについて審議させた。鍾繇は「古代の肉刑は、聖人たちの時代を経てきたものであり、復活させて死刑に代えるべきである」と考えた。審議者たちは民衆を喜ばせる道ではないとして、結局見送られた。文帝(曹丕)が群臣を前に宴会を開いた時、詔を下して「大理(鍾繇)が肉刑を復活させようとしているが、これはまさに聖王の法である。公卿たちはよく共に議論すべきである」と言った。議論が決まらないうちに軍事行動が起こり、またも見送られた。太和年間(227-233年)、鍾繇は上疏して言った。「大魏は天命を受け、虞(舜)・夏(禹)の跡を継いでいる。孝文帝(漢の文帝)が法を改めたのは、古道に合わない。先帝(曹操)の聖徳は、天が授けたものであり、古典の事業を一貫して継承された。それゆえ後継者(文帝)も、明詔を発して古い刑罰を復活させ、一代の法としようとされた。連続して軍事行動があったため、遂に施行されなかった。陛下(明帝)は遠く二祖(太祖・文帝)の遺志を追い、足を斬る刑で悪を禁じられることを惜しみ、罪のない者が死に至ることを恨み、律令に明るい者に命じて群臣と共に議論させられた。本来右足を斬る刑(刖刑)に当たる者が死刑(大辟)になる場合、この刑(肉刑)を再施行すべきである。書経に『皇帝(堯)は下民に詳しく問い、鰥夫や寡婦が苗(三苗)に対して訴えを持った』とある。これは堯が蚩尤や有苗の刑を除くに当たり、まず訴えを持つ下民に審問したことを言うのである。今、獄を裁く時に、三槐(三公)・九棘(九卿)・群吏・万民に訊問し、孝景帝の法令のように、棄市(公開処刑)に当たる者が、右足を斬ることを望むならばそれを許す。黥(入れ墨)・劓(鼻削ぎ)・左趾(左足切断)・宮刑については、孝文帝の時と同じく、髠(髪を剃る)・笞(むち打ち)に替える。姦悪を行う者は、おおむね二十歳から四、五十歳であり、たとえ足を斬られても、まだ生殖能力は保たれる。現在、天下の人口は孝文帝の時代より少ない。下々の計算で救われる者は、年間三千人である。張蒼が肉刑を廃止した時、殺される者は年間万単位で数えられた。臣が肉刑を復活させれば、年間三千人を生かすことができる。子貢が『民を救えることを仁と言えるか』と問うた。孔子は『どうして仁の域にとどまろうか、必ずや聖の域である。堯や舜でさえそれに悩んだのだ!』と言われた。また『仁は遠いのか? 私が仁を欲すれば、この仁は至るのである』と言われた。もし誠実に行えば、この民は永久に救われるであろう。」上疏が奏上されると、詔が下った。「太傅(鍾繇)は学問に優れ才能が高く、政事に心を留め、また刑罰の道理にも深遠である。これは大事である。公卿群僚はよく共に審議せよ。」司徒の王朗が議論し、次のように考えた。「鍾繇は死刑の条文を軽減し、刖刑の数を増やそうとしている。これは倒れた者を起こし、屍を人に変えるようなものである。しかし臣の愚見では、まだわずかに合わない点がある。五刑の種類は科律に明記されており、死刑を一等減ずる法が既にある。死なないことがすなわち減刑である。施行されて久しく、遠くあの肉刑に斧や鑿を借りるまでもなく、既に罪の等級は存在する。前世の仁者は、肉刑の惨酷さに忍びず、それゆえ廃止して用いなかった。用いられなくなって以来、数百年を経ている。今また施行すれば、減刑された条文がまだ万民の目に明らかにならないうちに、肉刑の話が既に敵国(寇讎)の耳に宣伝されてしまう。遠方の人々を招来する方策ではない。今、鍾繇が軽減しようとする死罪について、死刑を減じて髠・刖刑とすることを認め、それでも軽すぎると考えるならば、居作(労役)の年数を倍にすればよい。内には死を生に替える計り知れない恩恵があり、外には刖刑が釱(足枷)に替わるという耳障りな評判はない。」議論する者百余人のうち、王朗と同じ意見の者が多かった。皇帝(明帝)は呉・蜀が未だ平定されていないことを理由に、しばらく見送った。(袁宏が言う。民心は完全を喜ぶが常に完全でいられるわけではない。利用すべき物が外に懸けられ、嗜欲の情が内に動くからである。そこで進取貪競の行いが生じ、放恣な事を希求する。進取が止まず、その嗜欲を満たせなければ、苟且僥倖の心が生まれる。希求が飽くことなく、その欲望を満たす術がなければ、姦偽忿怒が興る。先王はこのようであることを知り、その弊害を救おうとし、あるいはまず徳化でその心を陶冶した。その心が化さなければ、その後刑辟を加えたのである。書経に「百姓親しまず、五品遜らず。汝は司徒として五教を敬って敷け。蛮夷夏を猾え、寇賊姦宄あり。汝は士として五刑を用いよ」とある。然らば徳と刑の設置は、参酌して用いるものである。三代は相い因み、その義は詳しい。周礼に「墨者に門を守らせ、劓者に関を守らせ、宮者に内を守らせ、刖者に囿を守らせる」とある。これが肉刑の制度について論じ得るところである。荀卿もまた言う。人を殺せば死罪、人を傷つければ刑罰。百王に共通することで、その由来を知る者はない。人を殺せば死罪だが、互いに殺し合うことは止まない。これは大辟が未だ殺さない者を懲らしめることはできても、天下に殺人を無くすことはできないからである。人を傷つければ刑罰だが、物を害する者は止まない。これは黥・劓が未だ刑を受けない者を恐れさせることはできても、天下に刑罰を無くすことはできないからである。故にそれを止めようとするならば、まず徳化によるに如くはない。罪過が明らかになって、その後刑辟に入れる。これは人を殺そうとする者を必ずしも死なせず、人を傷つけようとする者に必ずしも刑罰を科さないということである。放任して化さなければ、刑辟に陥る。故に刑が制する所は、動かし難い境地にある。礼教はそうではない。その善悪を明らかにし、その情を潜かに勧めて、未だ殺さないうちに消すのである。恥辱を示し、その心に内愧を生じさせ、未だ傷つけないうちに治めるのである。故に過ちは微細で顕著に至らず、罪は軽薄で刑罰に及ばない。最終的に罪辟に入る者は、教化の及ぶ所ではない。故にたとえ一物の生を損ない、一人の身体を刑しても、それは天下の害を除くのであって、何の傷みがあろうか!この道に従えば、風化は次第に淳厚になり、刑罰は次第に少なくなる。その道理はそうである。もしその心を化することができず、専ら刑罰に任せれば、民は義方を失い、動くごとに刑網にかかり、世の休和を求めることなど、どうして得られようか?周の成王・康王は、果たして三千の条文に照らして刑措の美を致したのだろうか?徳化が漸く染み渡り、これに至る由縁があったのである。漢初は酷刑の弊害を戒め、寛厚の論を務め、公卿大夫は互いに人の過ちを言うことを恥じた。文帝が朝に登ると、さらに玄默(沈黙)を加えた。張武が賄賂を受け取れば、金を賜ってその心を愧じさせた。呉王が朝貢しなければ、礼を崇めてその過失を訓えた。それゆえ吏民は業を楽しみ、風流は篤厚となり、断獄は四百件で、ほとんど刑措に至った。これこそ徳刑を兼用した既に然る効験ではないか?世の中で刑罰の用を言おうとする者が、まず徳教の益を論じないのは、大きく誤っている。今、大辟の罪は、古と制度を同じくする。免死以下は、五年を超えず、既に鉗鎖(首枷・足枷)を解かれ、再び人倫の列に加わる。それゆえ民は恥悪の心がなく、しばしば姦盗を行い、故に刑徒は多いが乱は治まらない。もし教えによって除かれるべき者に、罰がその罪に相当し、一旦刀鋸を離れれば、生涯人として数えられず、隣里でさえ恥じるならば、ましてや郷党ではどうか?ましてや朝廷ではどうか?このようであれば、夙沙・趙高の類は、その悪を施す術がない。古ではその言を察し、その行いを観て、善悪が明らかになった。然らば君子が刑辟から離れることは、固より遠い。過誤による不幸は、八議によって宥される。卞和や司馬遷の冤罪は、淫刑の及ぶ所である。もしその道を失えば、あるいは大辟を免れないこともあり、ましてや肉刑であろうか!漢書に「右趾を斬る及び人を殺す者は先ず自ら言上し、吏は賄賂を受け取って坐し、官物を守りながら即座にこれを盗む者は、皆棄市とする」とある。これは班固の言う「生くべき者をして死なしめる」ものである。今、刻截の惨さに忍びず、勦絶の悲しみに安んじている。これは最も治体において優先すべきことで、国を持つ者が改めるべき所である。)
原文初,太祖下令,使平議死刑可宮割者。繇以爲「古之肉刑,更歷聖人,宜復施行,以代死刑。」議者以爲非恱民之道,遂寢。及文帝臨饗群臣,詔謂「大理欲復肉刑,此誠聖王之法。公卿當善共議。」議未定,會有軍事,復寢。太和中,繇上疏曰:「大魏受命,繼蹤虞、夏。孝文革法,不合古道。先帝聖德,固天所縱,墳典之業,一以貫之。是以繼世,仍發明詔,思復古刑,爲一代法。連有軍事,遂未施行。陛下遠追二祖遺意,惜斬趾可以禁惡,恨入死之無辜,使明習律令,與群臣共議。出本當右趾而入大辟者,復行此刑。書云:『皇帝清問下民,鰥寡有辭于苗。』此言堯當除蚩尤、有苗之刑,先審問於下民之有辭者也。若今蔽獄之時,訊問三槐、九棘、群吏、萬民,使如孝景之令,其當棄巿,欲斬右趾者許之。其黥、劓、左趾、宮刑者,自如孝文,易以髠、笞。能有姦者,率年二十至四五十,雖斬其足,猶任生育。今天下人少於孝文之世,下計所全,歲三千人。張蒼除肉刑,所殺歲以萬計。臣欲復肉刑,歲生三千人。子貢問能濟民可謂仁乎?子曰:『何事於仁,必也聖乎,堯、舜其猶病諸!』又曰:『仁遠乎哉?我欲仁,斯仁至矣。』若誠行之,斯民永濟。」書奏,詔曰:「太傅學優才高,留心政事,又於刑理深遠。此大事,公卿羣寮善共平議。」司徒王朗議,以爲「繇欲輕減大辟之條,以增益刖刑之數,此即起偃爲豎,化屍爲人矣。然臣之愚,猶有未合微異之意。夫五刑之屬,著在科律,自有減死一等之法,不死即爲減。施行已乆,不待遠假斧鑿於彼肉刑,然後有罪次也。前世仁者,不忍肉刑之慘酷,是以廢而不用。不用已來,歷年數百。今復行之,恐所減之文未彰於萬民之目,而肉刑之問已宣於寇讎之耳,非所以來遠人也。今可按繇所欲輕之死罪,使減死之髠、刖。嫌其輕者,可倍其居作之歲數。內有以生易死不訾之恩,外無以刖易釱駭耳之聲。」議者百餘人,與朗同者多。帝以吳、蜀未平,且寢。〈袁宏曰:夫民心樂全而不能常全,蓋利用之物懸於外,而嗜慾之情動於內也。於是有進取貪競之行,希求放肆之事。進取不已,不能充其嗜慾,則苟且儌倖之所生也;希求無饜,無以愜其慾,則姦僞忿怒之所興也。先王知其如此,而欲救其弊,或先德化以陶其心;其心不化,然後加以刑辟。《書》曰:「百姓不親,五品不遜。汝作司徒而敬敷五教。蠻夷猾夏,寇賊姦宄。汝作士,五刑有服。」然則德、刑之設,參而用之者也。三代相因,其義詳焉。《周禮》:「使墨者守門,劓者守關,宮者守內,刖者守囿。」此肉刑之制可得而論者也。荀卿亦云,殺人者死,傷人者刑,百王之所同,未有知其所由來者也。夫殺人者死,而相殺者不已,是大辟可以懲未殺,不能使天下無殺也。傷人者刑,而害物者不息,是黥、劓可以懼未刑,不能使天下無刑也。故將欲止之,莫若先以德化。夫罪過彰著,然後入于刑辟,是將殺人者不必死,欲傷人者不必刑。縱而弗化,則陷於刑辟。故刑之所制,在於不可移之地。禮教則不然,明其善惡,所以潛勸其情,消之於未殺也;示之恥辱,所以內愧其心,治之於未傷也。故過微而不至於著,罪薄而不及於刑。終入罪辟者,非教化之所得也,故雖殘一物之生,刑一人之體,是除天下之害,夫何傷哉!率斯道也,風化可以漸淳,刑罰可以漸少,其理然也。苟不能化其心,而專任刑罰,民失義方,動罹刑網,求世休和,焉可得哉?周之成、康,豈按三千之文而致刑錯之美乎?蓋德化漸漬,致斯有由也。漢初懲酷刑之弊,務寬厚之論,公卿大夫,相與恥言人過。文帝登朝,加以玄默。張武受賂,賜金以愧其心;吳王不朝,崇禮以訓其失。是以吏民樂業,風流篤厚,斷獄四百,幾致刑錯,豈非德刑兼用已然之効哉?世之欲言刑罰之用,不先德教之益,失之遠矣。今大辟之罪,與古同制。免死已下,不過五歲,旣釋鉗鎖,復得齒于人倫。是以民無恥惡,數爲姦盜,故刑徒多而亂不治也。苟教之所去,罰當其罪,一離刀鋸,沒身不齒,鄰里且猶恥之,而況于鄉黨乎?而況朝廷乎?如此,則夙沙、趙高之儔,無施其惡矣。古者察其言,觀其行,而善惡彰焉。然則君子之去刑辟,固已遠矣。過誤不幸,則八議之所宥也。若夫卞和、史遷之冤,淫刑之所及也。苟失其道,或不免于大辟,而況肉刑哉!《漢書》:「斬右趾及殺人先自言告,吏坐受賕,守官物而即盜之,皆棄巿。」此班固所謂當生而令死者也。今不忍刻截之慘,而安勦絕之悲,此最治體之所先,有國所宜改者也。〉
太和四年(230年)、鍾繇が死去した。皇帝(明帝)は喪服を着て臨弔し、諡を成侯と贈った。(魏書に言う。有司が諡を議論し、鍾繇が昔廷尉であった時、刑獄を弁理し、疑わしい点を決し明らかにし、民に怨む者がなかったのは、漢の于定国・張釈之のような存在であったと考えた。詔が下った。「太傅は功高く徳茂り、師保の位にある。行いを論じて諡を賜うには、常にまずこの点に依るべきであり、兼ねて廷尉于定国・張釈之の徳を叙述したのである。」そこで策諡して成侯とした。)子の鍾毓が後を嗣いだ。初め、文帝(曹丕)は鍾毓の戸邑を分け、鍾繇の弟の鍾演と子の鍾劭、孫の鍾豫を列侯に封じた。
原文太和四年,繇薨。帝素服臨弔,謚曰成侯。〈《魏書》曰:有司議謚,以爲繇昔爲廷尉,辨理刑獄,決嫌明疑,民無怨者,由于、張之在漢也。詔曰:「太傅功高德茂,位爲師保,論行賜謚,常先依此,兼叙廷尉于、張之德耳。」乃策謚曰成侯。〉子毓嗣。初,文帝分毓戶邑,封繇弟演及子劭、孫豫列侯。
盧毓は字を稚叔という。十四歳の時に散騎侍郎となり、機知に富み談笑に長け、父の風格があった。太和の初め、蜀の丞相諸葛亮が祁山を包囲したとき、明帝は西征しようとしたが、盧毓は上疏して言った。「策は廟堂での勝利を貴び、功は帷幄の中に重んじられるもので、殿堂の上から下りずに、千里の外で勝利を決するものです。車駕は中土を鎮守し、四方の威勢の援けとすべきです。今、大軍を西征させれば、百倍の威勢はあっても、関中の費用において損なわれるものは一つや二つではありません。しかも盛暑に行軍することは、詩人が重んじるところであり、まことに至尊が車を動かすべき時ではありません」。黄門侍郎に転じた。当時、洛陽の宮殿を大々的に造営し、車駕は許昌に行幸し、天下の朝正は許昌で行われることになった。許昌は狭く、城南に氈で殿舎を造り、魚龍曼延の見世物を設け、民は労役に疲弊した。盧毓は諫めて、「水害や旱害が時を選ばず起こり、国庫が空虚であるのに、このようなことは豊年を待つべきです」と考えた。また、「関内の荒地を開墾し、民に農業に力を尽くさせるべきです」と上奏した。事は遂に施行された。正始年間、散騎常侍となった。大将軍曹爽が盛夏に軍を起こして蜀を討伐したが、蜀は守りを固め、軍は進めなかった。曹爽がちょうど増兵しようとしたとき、盧毓は手紙を送って言った。「ひそかに考えるに、廟勝の策は矢石に臨むものではなく、王者の兵は征討はあっても戦闘はありません。まことに干戚(盾と斧)で有苗を服従させ、退却して原寇を迎え入れることができ、必ずしも呉漢を江関に放ち、韓信を井陘で駆け巡らせる必要はありません。可能と見れば進み、困難と知れば退くのは、古来からの政治のあり方です。どうか公侯(曹爽)が詳しくお考えください」。曹爽は功績なく帰還した。後に曹爽の意に背いたため、侍中に転じ、外に出て魏郡太守となった。曹爽が誅殺された後、内に入って御史中丞、侍中廷尉となった。君主や父が亡くなった後、臣下や子が誹謗を理めることができ、また士が侯となった場合、その妻は再婚させないというのは、盧毓が創始したものである。
原文毓字稚叔。年十四爲散騎侍郎,機捷談笑,有父風。太和初,蜀相諸葛亮圍祁山,明帝欲西征,毓上疏曰:「夫策貴廟勝,功尚帷幄,不下殿堂之上,而決勝千里之外。車駕宜鎮守中土,以爲四方威勢之援。今大軍西征,雖有百倍之威,於關中之費,所損非一。且盛暑行師,詩人所重,實非至尊動軔之時也。」遷黃門侍郎。時大興洛陽宮室,車駕便幸許昌,天下當朝正許昌。許昌偪狹,於城南以氊爲殿,備設魚龍曼延,民罷勞役。毓諫,以爲「水旱不時,帑藏空虛,凡此之類,可須豐年。」又上「宜復關內開荒地,使民肆力於農。」事遂施行。正始中,爲散騎常侍。大將軍曹爽盛夏興軍伐蜀,蜀拒守,軍不得進。爽方欲增兵,毓與書曰:「竊以爲廟勝之策,不臨矢石;王者之兵,有征無戰。誠以干戚可以服有苗,退舍足以納原寇,不必縱吳漢於江關,騁韓信於井陘也。見可而進,知難而退,蓋自古之政。惟公侯詳之!」爽無功而還。後以失爽意,徙侍中,出爲魏郡太守。爽旣誅,入爲御史中丞、侍中廷尉。聽君父已沒,臣子得爲理謗,及士爲侯,其妻不復配嫁,毓所創也。
正元年間、毌丘儉と文欽が反乱を起こしたとき、盧毓は節を持って揚州・豫州に行き赦令を公布し、士民に告諭し、帰還して尚書となった。諸葛誕が反乱を起こしたとき、大将軍司馬文王(司馬昭)は自ら寿春に行って諸葛誕を討伐することを議した。ちょうど呉の大将孫壹が軍勢を率いて降伏したので、ある者は「呉は新たに内紛があり、必ずや再び軍を出すことはできないだろう。東方の兵はすでに多いので、後の情報を待つべきだ」と言った。盧毓は「事を論じ敵を推し量るには、己をもって人を推し量るべきです。今、諸葛誕は淮南の地を挙げて呉国に与えようとしています。孫壹が率いたのは、人口は千に至らず、兵は三百を超えません。呉が失ったものは、ほとんどないと言えます。もし寿春の包囲が解けず、呉国内がかえって安定すれば、彼らが出軍しないと必ずしも言えません」と言った。大将軍は「よろしい」と言い、遂に盧毓を連れて行った。(臣の松之は考えるに、諸葛誕が淮南を挙げて呉に与え、孫壹が三百人を率いて魏に帰順したことをもって、呉に内紛があると言うのは、本来理にかなった言葉ではない。盧毓のこの議論は、まことに称賛に足るものではない!)淮南が平定された後、青州刺史となり、後将軍を加えられ、都督徐州諸軍事に転じ、仮節を与えられ、さらに都督荊州に転じた。景元四年に死去し、車騎将軍を追贈され、諡を恵侯といった。子の盧駿が後を嗣いだ。盧毓の弟の盧会は、独自に伝がある。
原文正元中,毌丘儉、文欽反,毓持節至揚、豫州班行赦令,告諭士民,還爲尚書。諸葛誕反,大將軍司馬文王議自詣壽春討誕。會吳大將孫壹率衆降,或以爲「吳新有釁,必不能復出軍。東兵已多,可須後問」。毓以爲「夫論事料敵,當以己度人。今誕舉淮南之地以與吳國,孫壹所率,口不至千,兵不過三百。吳之所失,蓋爲無幾。若壽春之圍未解,而吳國之內轉安,未可必其不出也。」大將軍曰:「善。」遂將毓行。〈臣松之以爲諸葛誕舉淮南以與吳,孫壹率三百人以歸魏,謂吳有釁,本非有理之言。毓之此議,蓋何足稱耳!〉淮南旣平,爲青州刺史,加後將軍,遷都督徐州諸軍事,假節,又轉都督荊州。景元四年薨,追贈車騎將軍,謚曰惠侯。子駿嗣。毓弟會,自有傳。
華歆は字を子魚といい、平原郡高唐県の人である。高唐は斉の有名な都邑であり、士大夫たちは皆、市や里を行き来していた。華歆が役人となったとき、休暇で役所を出ると、家に帰って門を閉ざした。議論は公平を旨とし、決して人を傷つけることはなかった。〈『魏略』によると、華歆は北海の邴原や管寧とともに学問をし、三人は仲が良く、当時の人々は三人を「一龍」と呼び、華歆を龍頭、邴原を龍腹、管寧を龍尾とした。臣の松之は考えるに、邴根矩(邴原)の優れた徳望は、必ずしも華公に劣るものではなく、管幼安(管寧)は徳を内に秘めて高く隠棲しているので、むしろ尾とされるのは不適当かもしれない。『魏略』のこの言葉は、彼らの優劣を定めることはできない。〉同郡の陶丘洪もまた名を知られており、自らは明察の才が華歆に勝ると考えていた。当時、王芬が豪傑たちと謀って霊帝を廃そうとしていた。詳細は『武帝紀』にある。〈『魏書』は、王芬が天下に大いなる名声があったと称している。〉王芬は密かに華歆と陶丘洪を呼び、計画を共に定めようとした。陶丘洪は行こうとしたが、華歆は彼を止めて言った。「廃立という大事は、伊尹や霍光でさえ難しいことだ。王芬の性格は粗略で武勇に欠ける。これは必ず成功せず、かえって一族に禍が及ぶだろう。君は行かないほうがよい。」陶丘洪は華歆の言葉に従って止めた。後に王芬は果たして失敗し、陶丘洪は華歆に敬服した。孝廉に推挙され、郎中に任じられたが、病気のため官を去った。霊帝が崩御し、何進が政務を補佐すると、河南の鄭泰、潁川の荀攸および華歆らを招聘した。華歆が到着すると、尚書郎に任じられた。董卓が天子を長安に遷都させたとき、華歆は外任を願い出て下邽県令となったが、病気で赴任できず、藍田から南陽へと向かった。〈華嶠の『譜叙』によると、華歆は若い頃から高い行いで名声を顕した。西京(長安)の乱を避け、志を同じくする鄭泰ら六七人と共に、隙を見て武関から出た。道中で一人の男が独りで歩いているのに出会い、一緒に連れて行ってほしいと願った。皆は哀れに思い承諾しようとしたが、華歆だけが言った。「いけない。今我々はすでに危険の中にいる。禍福や患害は、義においては一つである。理由もなく他人を受け入れるのは、その人の義がわからない。いったん受け入れた以上、もし進退の際があっても、途中で見捨てることができようか!」一同は忍びず、結局その男と一緒に行くことにした。この男は途中で井戸に落ちてしまい、皆は彼を見捨てようとした。華歆は言った。「すでに一緒になったのだから、見捨てるのは不義だ。」そこで互いに引き連れて戻り、彼を井戸から救い出した後、別れた。一同は大いに華歆の義を称えた。〉当時、袁術が穣にいて、華歆を引き留めた。華歆は袁術に進軍して董卓を討つよう説いたが、袁術は用いなかった。華歆は去ろうとしたが、ちょうど天子が太傅の馬日磾に関東を安んじ集めるよう命じ、馬日磾が華歆を掾に辟召した。東へ行って徐州に至ると、詔により直ちに華歆を豫章太守に任命した。華歆は政治を清静にして煩わしさを加えず、官吏や民衆は感心して彼を敬愛した。〈『魏略』によると、揚州刺史の劉繇が死ぬと、その配下は華歆を主君として奉じたいと願った。華歆は、時勢に乗じて勝手に命令を出すのは、人臣としてふさわしくないと考えた。配下は数ヶ月にわたって華歆を守り続けたが、華歆はついに辞退して彼らを送り返し、従わなかった。〉孫策が江東の地を攻略すると、華歆は孫策が兵を用いるのに巧みであることを知り、幅巾(一般人の頭巾)をかぶって出迎えた。孫策は華歆を年長者として、上賓の礼をもって遇した。〈胡冲の『呉歴』によると、孫策が豫章を攻撃する際、まず虞翻を遣わして華歆を説得させた。華歆は答えて言った。「長く江南にいて、常に北へ帰りたいと思っていた。孫会稽(孫策)が来れば、私はすぐに去るつもりだ。」虞翻が戻って報告すると、孫策は進軍した。華歆は葛巾をかぶって孫策を迎え、孫策は華歆に言った。「府君(華歆)は年齢も徳も名望も高く、遠近から慕われている。私は年が若く、子弟の礼を取るべきである。」そしてすぐに華歆に拝礼した。華嶠の『譜叙』によると、孫策が揚州をほぼ手中にし、大軍を率いて豫章に迫ると、郡中は大いに恐れた。役人たちは郊外に出て迎えるよう請うたが、華歆は「その必要はない」と教示した。孫策が少し進軍すると、また兵を出すよう進言したが、聞き入れなかった。孫策が到着すると、役所の者たちは皆、閣に集まり、出て避けるよう請うた。華歆は笑って言った。「今、自ら来ようとしているのに、どうして急いで避けなければならないのか?」しばらくして、門番が「孫将軍が到着されました」と告げた。面会を請うと、孫策は前に進んで華歆と共に座り、長い間談議し、夜になってようやく別れた。義士たちはこれを聞き、皆、長く嘆息し、心から敬服した。孫策はついに自ら子孫の礼を執り、華歆を上賓として礼遇した。この時、四方の賢士や大夫で江南に避難した者は非常に多く、皆、華歆の下に身を寄せ、人々はその風采を仰ぎ見た。孫策が大宴会を開くたびに、座席では誰も先に発言しようとせず、華歆が時折席を立って用を足しに行くと、議論がにぎやかになった。華歆は大酒飲みで、一石以上飲んでも乱れず、人々が密かに観察すると、常に整った衣冠を異とし、江南では彼を「華独坐」と呼んだ。虞溥の『江表伝』によると、孫策が椒丘にいたとき、虞翻を遣わして華歆を説得させた。虞翻が去った後、華歆は功曹の劉壹を呼び入れて相談した。劉壹は華歆に城に留まり、檄文を送って軍を迎えるよう勧めた。華歆は言った。「私は劉刺史(劉繇)によって任命されたとはいえ、上(朝廷)に用いられており、やはり符節を割って任じられた官吏である。今、卿の計略に従えば、死んでも責めを免れないだろう。」劉壹は言った。「王景興(王朗)は漢朝に用いられていたが、あの時は会稽の人々も多く力が強かったのに、なお許された。明府(華歆)は何を心配なさるのですか?」そこで夜のうちに密かに檄文を作り、翌朝城を出て、役人に持たせて迎えさせた。孫策はすぐに進軍し、華歆と会見し、上賓として遇し、朋友の礼をもって接した。孫盛は言う。大雅の君子が世に処するには、必ずまず隠れる時と顕れる時をよく見極め、出仕するか隠棲するかの分け目を定める。そうでなければ、口を閉じて身を保ち、時が良ければ義を行ってその道を貫く。華歆は、伯夷や四皓のような高遠な風采もなく、また王臣として己を顧みず尽くす節操も失い、邪な儒者の説に心を乱され、横暴な徒党と手を結び、地位を一介の小僧(孫策)に奪われ、節操を当時に堕とした。昔、許や蔡がその地位を失い、諸侯の列に加えられず、州公が実際に来訪したが、魯人はこれを卑しみ恥じた。華歆と比べてみれば、どちらの過ちが大きいと言えようか!〉後に孫策が死んだ。太祖(曹操)が官渡にいたとき、天子に上表して華歆を招聘した。孫権は送り出したくなかったが、華歆は孫権に言った。「将軍は王命を奉じて、初めて曹公と友好を結ばれたばかりで、分義(君臣の義)はまだ固まっていません。私めが将軍のために心を尽くすことができれば、それは有益ではないでしょうか?今、私を空しく留めておくのは、無用の物を養うようなもので、将軍の良策とは言えません。」孫権は喜び、華歆を送り出した。賓客や旧知の者で見送りに来た者は千余人に上り、数百金の贈り物をした。華歆はすべて拒まず、密かにそれぞれに目印を付けておき、出発する時が来ると、すべての物を集め、賓客たちに言った。「もともと諸君の心を拒むつもりはなかったが、受け取ったものが多くなってしまった。ただ一車で遠くへ行くのに、璧を懐いて罪を得る(財宝を持って災いを招く)ことになりかねない。どうか賓客の皆さんが私のために考えてほしい。」一同はそれぞれ贈り物を取り戻し、華歆の徳に敬服した。
原文華歆字子魚,平原高唐人也。高唐爲齊名都,衣冠無不游行市里。歆爲吏,休沐出府,則歸家闔門。議論持平,終不毀傷人。〈《魏略》曰:歆與北海邴原、管寧俱游學,三人相善,時人號三人爲「一龍」,歆爲龍頭,原爲龍腹,寧爲龍尾。 臣松之以爲邴根矩之徽猷懿望,不必有愧華公,管幼安含德高蹈,又恐弗當爲尾。《魏略》此言,未可以定其先後也。〉同郡陶丘洪亦知名,自以明見過歆。時王芬與豪傑謀廢靈帝。語在《武紀》。〈《魏書》稱芬有大名於天下。〉芬陰呼歆、洪共定計,洪欲行,歆止之曰:「夫廢立大事,伊、霍之所難。芬性踈而不武,此必無成,而禍將及族。子其無往!」洪從歆言而止。後芬果敗,洪乃服。舉孝廉,除郎中,病,去官。靈帝崩,何進輔政,徵河南鄭泰、潁川荀攸及歆等。歆到,爲尚書郎。董卓遷天子長安,歆求出爲下邽令,病不行,遂從藍田至南陽。〈華嶠《譜叙》曰:歆少以高行顯名。避西京之亂,與同志鄭泰等六七人,間步出武關。道遇一丈夫獨行,願得俱,皆哀欲許之。歆獨曰:「不可。今已在危險之中,禍福患害,義猶一也。無故受人,不知其義。旣以受之,若有進退,可中棄乎!」衆不忍,卒與俱行。此丈夫中道墮井,皆欲棄之。歆曰:「已與俱矣,棄之不義。」相率共還出之,而後別去。衆乃大義之。〉時袁術在穰,留歆。歆說術使進軍討卓,術不能用。歆欲棄去,會天子使太傅馬日磾安集關東,日磾辟歆爲掾。東至徐州,詔即拜歆豫章太守,以爲政清靜不煩,吏民感而愛之。〈《魏略》曰:揚州刺史劉繇死,其衆願奉歆爲主。歆以爲因時擅命,非人臣之宜。衆守之連月,卒謝遣之,不從。〉孫策略地江東,歆知策善用兵,乃幅巾奉迎。策以其長者,待以上賔之禮。〈胡冲《吳歷》曰:孫策擊豫章,先遣虞翻說歆。歆荅曰:「乆在江表,常欲北歸;孫會稽來,吾便去也。」翻還報策,策乃進軍。歆葛巾迎策,策謂歆曰:「府君年德名望,遠近所歸;策年幼稚,宜脩子弟之禮。」便向歆拜。華嶠譜叙曰:孫策略有揚州,盛兵徇豫章,一郡大恐。官屬請出郊迎,教曰:「無然。」策稍進,復白發兵,又不聽。及策至,一府皆造閤,請出避之。乃笑曰:「今將自來,何遽避之?」有頃,門下白曰:「孫將軍至。」請見,乃前與歆共坐,談議良乆,夜乃別去。義士聞之,皆長歎息而心自服也。策遂親執子孫之禮,禮爲上賔。是時四方賢士大夫避地江南者甚衆,皆出其下,人人望風。每策大會,坐上莫敢先發言,歆時起更衣,則論議讙譁。歆能劇飲,至石餘不亂,衆人微察,常以其整衣冠爲異,江南號之曰「華獨坐」。虞溥《江表傳》曰:孫策在椒丘,遣虞翻說歆。翻旣去,歆請功曹劉壹入議。壹勸歆住城,遣檄迎軍。歆曰:「吾雖劉刺史所置,上用,猶是剖符吏也。今從卿計,恐死有餘責矣。」壹曰:「王景興旣漢朝所用,且爾時會稽人衆盛彊,猶見原恕,明府何慮?」於是夜逆作檄,明旦出城,遣吏齎迎。策便進軍,與歆相見,待以上賔,接以朋友之禮。孫盛曰:夫大雅之處世也,必先審隱顯之期,以定出處之分,否則括囊以保其身,泰則行義以達其道。歆旣無夷、皓韜邈之風,又失王臣匪躬之操,故撓心於邪儒之說,交臂於陵肆之徒,位奪於一豎,節墯於當時。昔許、蔡失位,不得列於諸侯;州公寔來,魯人以爲賤恥。方之於歆,咎孰大焉!〉後策死。太祖在官渡,表天子徵歆。孫權欲不遣,歆謂權曰:「將軍奉王命,始交好曹公,分義未固,使僕得爲將軍效心,豈不有益乎?今空留僕,是爲養無用之物,非將軍之良計也。」權恱,乃遣歆。賔客舊人送之者千餘人,贈遺數百金。歆皆無所拒,密各題識,至臨去,悉聚諸物,謂諸賔客曰:「本無拒諸君之心,而所受遂多。念單車遠行,將以懷璧爲罪,願賔客爲之計。」衆乃各留所贈,而服其德。
華歆が到着すると、議郎に任命され、司空の軍事に参与し、宮中に入って尚書となり、侍中に転じ、荀彧に代わって尚書令となった。太祖が孫権を征討する際、上表して華歆を軍師とした。魏国が建てられると、御史大夫となった。文帝が王位につくと、相国に任命され、安楽郷侯に封じられた。帝位につくと、司徒に改められた。(『魏書』によると、文帝が禅譲を受ける際、華歆は壇に登って儀礼を補佐し、皇帝の璽綬を奉じて、天命を受ける礼を成し遂げた。華嶠の『譜叙』によると、文帝が禅譲を受けた時、朝臣の三公以下は皆爵位を受けたが、華歆は表情が時勢に逆らったため、司徒に移されただけで爵位は進められなかった。魏文帝は長く不機嫌で、尚書令の陳羣に尋ねた。「私は天に応じて禅譲を受け、百官諸侯は皆、声や表情に喜びを表しているのに、相国とあなただけが喜ばないのはなぜか。」陳羣は席を離れて長跪し、「臣と相国はかつて漢朝に仕えた者です。心の中では喜んでいますが、その気持ちが表情に表れているのです。また、陛下が本当は内心で憎んでいるのではないかと恐れているのです。」帝は大いに喜び、彼らを重んじることとなった。)華歆は元来清廉で貧しく、俸禄や賜物を親戚や旧友に施し与えたため、家には一石ほどの蓄えもなかった。公卿たちが皆、没収された奴婢を賜った時、華歆だけは彼女たちを外に出して嫁がせた。帝は嘆息し、(孫盛は言う。慶賞と威刑は必ず君主に由来し、臨機の赦免や怒りは人君から出るものだと聞いている。子路が私的に贈り物をした時、仲尼はその食器を壊した。田氏が盗んで施した時、春秋はそれを記して批判した。これらは褒貶の定説であり、すでに明らかな道理である。妻子を殺戮された家は、国の刑罰によって粛清されるべきであり、恩賜を受けた家は、天の施しが加えられるべきである。もし哀れみをかけるなら、道理として偏った赦免はあり得ない。華歆は股肱の重任にあり、元首と同じ重みを持つ立場なら、公に皇朝のために発言し、天の恩沢を明らかにすべきであった。黙って嘉なる賜物を受け、独り君子であろうとしたのは、すでに福を作る嫌疑を犯し、また必ず去るべき道理にも背いている。これは匹夫の仁と言え、道を踏み行ったとは言えない。『魏書』によると、華歆の性格は周密で、行動は詳細で慎重であった。常に人臣が事を述べるには、風諫して道理に合うことを貴ぶべきだと考え、たとえ発言があっても、敢えて露骨に表さなかったので、その事績の多くは記録されなかった。華嶠の『譜叙』によると、華歆は財欲に淡泊で、前後の寵愛と恩賜は諸公に及ぶ者がなかったが、終に産業を増やそうとはしなかった。陳羣は常に嘆いて言った。「華公のような方は、通達していながら驕らず、清廉でありながら偏狭でないと言えるだろう。」『傅子』によると、今の君子について敢えて尋ねると、「袁郎中(袁渙)は徳を積み行いを倹約し、華太尉(華歆)は徳を積み順境に居る。その知恵は及ぶかもしれないが、その清廉さは及ばない。上に仕えては忠誠を尽くし、下を救っては仁愛を施す。晏嬰や季孫行父でさえ、これ以上に何を加えられようか。」)詔を下して言った。「司徒は国の俊老であり、陰陽を調和し庶事を治める者である。今、大官は重い膳を備えているのに、司徒が粗食をとるのは、全く道理に合わない。」特に御衣を賜り、またその妻子男女のため皆衣服を作らせた。(『魏書』によると、さらに奴婢五十人を賜った。)
原文歆至,拜議郎,參司空軍事,入爲尚書,轉侍中,代荀彧爲尚書令。太祖征孫權,表歆爲軍師。魏國旣建,爲御史大夫。文帝即王位,拜相國,封安樂鄉侯。及踐阼,改爲司徒。〈《魏書》曰:文帝受禪,歆登壇相儀,奉皇帝璽綬,以成受命之禮。華嶠譜叙曰:文帝受禪,朝臣三公已下並受爵位;歆以形色忤時,徙爲司徒,而不進爵。魏文帝乆不懌,以問尚書令陳羣曰:「我應天受禪,百辟群后,莫不人人恱喜,形于聲色,而相國及公獨有不怡者,何也?」羣起離席長跪曰:「臣與相國曾臣漢朝,心雖恱喜,義形其色,亦懼陛下實應且憎。」帝大恱,遂重異之。〉歆素清貧,祿賜以振施親戚故人,家無擔石之儲。公卿嘗並賜沒入生口,唯歆出而嫁之。帝歎息,〈孫盛曰:盛聞慶賞威刑,必宗於主,權宜宥怒,出自人君。子路私饋,仲尼毀其食器;田氏盜施,春秋著以爲譏。斯襃貶之成言,已然之顯義也。孥戮之家,國刑所肅,受賜之室,乾施所加,若在哀矜,理無偏宥。歆居股肱之任。同元首之重,則當公言皇朝,以彰天澤,而默受嘉賜,獨爲君子,旣犯作福之嫌,又違必去之義,可謂匹夫之仁,蹈道則未也。 《魏書》曰:歆性周密,舉動詳慎。常以爲人臣陳事,務以諷諫合道爲貴,就有所言,不敢顯露,故其事多不見載。 華嶠《譜叙》曰:歆淡於財欲,前後寵賜,諸公莫及,然終不殖產業。陳羣常歎曰:「若華公,可謂通而不泰,清而不介者矣。」 《傅子》曰:敢問今之君子?曰:「袁郎中積德行儉,華太尉積德居順,其智可及也,其清不可及也。事上以忠,濟下以仁,晏嬰、行父何以加諸?」〉下詔曰:「司徒,國之儁老,所與和陰陽理庶事也。今大官重膳,而司徒蔬食,甚無謂也。」特賜御衣,及爲其妻子男女皆作衣服。〈《魏書》曰:又賜奴婢五十人。〉
三府が議論した。「孝廉を推挙するのは本来、德行によるものであり、経書の試験で制限すべきではない。」華歆は「喪乱以来、六経が廃れているので、これを保存確立させ、王道を尊ぶことに努めるべきだと考えた。制度を作る者は、盛衰を経営するためである。今、孝廉に経書の試験を課さないとすれば、学業はこれによって廃れる恐れがある。もし優れた人物がいれば、特別に召し用いることができる。そのような人物がいないことを憂うべきであり、どうして得られないことを憂う必要があろうか。」帝は彼の意見に従った。
原文三府議:「舉孝廉,本以德行,不復限以試經。」歆以爲「喪亂以來,六籍墮廢,當務存立,以崇王道。夫制法者,所以經盛衰。今聽孝廉不以經試,恐學業遂從此而廢。若有秀異,可特徵用。患於無其人,何患不得哉?」帝從其言。
黄初年間、詔を下して公卿に独行の君子を推挙させた。華歆は管寧を推挙し、帝は安車で彼を招聘した。明帝が即位すると、博平侯に進封され、封邑五百戸を増やし、以前の分と合わせて千三百戸となり、太尉に転任した。(『列異伝』によると、華歆が諸生だった時、ある人の門の外に宿泊したことがあった。主人の妻が夜中に出産した。しばらくして、二人の役人が門に来たが、すぐに避けて退き、互いに言った。「公がここにいらっしゃる。」しばらく躊躇した後、一人の役人が言った。「籍は決めなければならない。どうして留まっていられようか。」そこで前に進んで華歆に拝礼し、一緒に入っていった。出てきて並んで歩きながら、共に話した。「何歳を与えるべきか。」一人が言った。「三歳だ。」夜が明け、華歆は去った。後でそのことを確かめようと、三歳になった時、わざわざ子供の消息を尋ねに行くと、果たしてすでに死んでいた。華歆はそこで自分が公になることを自ら悟った。臣の松之は考えるに、『晋陽秋』が魏舒の若い時の寄宿の話を述べているのもこれと同じである。道理として二人とも同じ事があったとは考えられず、伝える者が違うためであろう。今は『列異伝』を信じる。)華歆は病気を理由に退任を願い出て、管寧に地位を譲ろうとした。帝は許さなかった。ちょうど大会が開かれる時になって、散騎常侍の繆襲に詔を持たせて趣旨を伝えさせた。「朕は新たに庶事に臨み、一日に万機を処理し、聴断が明らかでないことを恐れている。徳のある臣が朕の左右にいて頼りにしているのに、卿はたびたび病気を理由に地位を辞そうとする。主君を量り、君を選び、その朝に居らず、栄誉を捨て俸禄を棄て、その位を究めないのは、古人にも確かにいた。しかし、周公や伊尹はそうではなかったと考えている。身を清くして節に殉じるのは、常人ならばするが、君には望まない。卿はどうか力を振り絞って参内し、朕一人を恵んでほしい。席と机と莚を設け、百官に朕を補佐させ、卿が到着するのを待ち、朕はその後で御座につくつもりだ。」また繆襲に詔して、「華歆が必ず起き上がるのを待って、それから帰還せよ。」と言った。華歆はやむなく、起き上がった。
原文黃初中,詔公卿舉獨行君子,歆舉管寧,帝以安車徵之。明帝即位,進封博平侯,增邑五百戶,并前千三百戶,轉拜太尉。〈《列異傳》曰:歆爲諸生時,嘗宿人門外。主人婦夜產。有頃,兩吏詣門,便辟易却,相謂曰:「公在此。」躊躇良乆,一吏曰:「籍當定,柰何得住?」乃前向歆拜,相將入。出並行,共語曰:「當與幾歲?」一人曰:「當三歲。」天明,歆去。後欲驗其事,至三歲,故往問兒消息,果已死。歆乃自知當爲公。 臣松之按《晉陽秋》說魏舒少時寄宿事,亦如之。以爲理無二人俱有此事,將由傳者不同。今寧信列異。〉歆稱病乞退,讓位於寧。帝不許。臨當大會,乃遣散騎常侍繆襲奉詔喻指曰:「朕新莅庶事,一日萬機,懼聽斷之不明。賴有德之臣,左右朕躬,而君屢以疾辭位。夫量主擇君,不居其朝,委榮棄祿,不究其位,古人固有之矣,顧以爲周公、伊尹則不然。絜身徇節,常人爲之,不望之於君。君其力疾就會,以惠予一人。將立席机莚,命百官緫己,以須君到,朕然後御坐。」又詔襲:「須歆必起,乃還。」歆不得已,乃起。
太和年間、曹真を子午道から派遣して蜀を討伐させ、車駕は東の許昌に行幸した。華歆は上疏して言った。「兵乱以来、二十四年を過ぎました。大魏は天を受け命を承け、陛下は聖徳をもって周の成王・康王のような隆盛を成し遂げられるべきです。一代の治世を広め、三王の業績を継ぐべきです。二賊(蜀・呉)が険阻な地に拠って命を長らえているとしても、もし聖なる教化が日々進み、遠方の人々が徳を慕えば、やがて背負子を背負って来るでしょう。兵はやむを得ない時に用いるもので、平時は収めて時機に応じて動かすものです。臣は誠に願います。陛下にはまず治道に心を留め、征伐を後回しにされることを。しかも千里の糧食運搬は、用兵の利ではなく、険阻を越えて深く入るのは、独力で勝利する功績はありません。聞くところによると、今年の徴役は農桑の業をかなり損なっているようです。国を治める者は民を基盤とし、民は衣食を根本とします。中国に飢え寒さの憂いがなく、百姓が土地を離れる心がなければ、天下は大いに幸いであり、二賊の隙は座して待つだけで到来するでしょう。臣は宰相の地位にありながら、老病が日々重くなり、犬馬の命も尽きようとしており、恐らく再び鑾蓋(天子の車)を拝することはできないでしょう。臣子としての思いを尽くさずにはいられず、どうか陛下にご裁察いただきますよう。」帝は答えて言った。「卿は深く国策を慮り、朕は大いに賞賛する。賊は山川を頼りにし、二祖(武帝・文帝)も前世で労したが、まだ平定できなかった。朕はどうして自ら多くを望み、必ず滅ぼせると言えようか。諸将は一撃を加えなければ、自ら疲弊する機会がないと考え、そこで兵を観閲してその隙を窺っているのだ。もし天の時が至らなければ、周の武王が軍を返したように、これは前事の鑑であり、朕は敬って戒めを忘れない。」その時、秋の大雨により、詔を下して曹真に軍を引き返させた。
原文太和中,遣曹真從子午道伐蜀,車駕東幸許昌。歆上疏曰:「兵亂以來,過踰二紀。大魏承天受命,陛下以聖德當成康之隆,宜弘一代之治,紹三王之迹。雖有二賊負險延命,苟聖化日躋,遠人懷德,將襁負而至。夫兵不得已而用之,故戢而時動。臣誠願陛下先留心於治道,以征伐爲後事。且千里運糧,非用兵之利;越險深入,無獨克之功。如聞今年徵役,頗失農桑之業。爲國者以民爲基,民以衣食爲本。使中國無饑寒之患,百姓無離土之心,則天下幸甚,二賊之釁,可坐而待也。臣備位宰相,老病日篤,犬馬之命將盡,恐不復奉望鑾蓋,不敢不竭臣子之懷,唯陛下裁察!」帝報曰:「君深慮國計,朕甚嘉之。賊憑恃山川,二祖勞於前世,猶不克平,朕豈敢自多,謂必滅之哉!諸將以爲不一探取,無由自弊,是以觀兵以闚其釁。若天時未至,周武還師,乃前事之鑒,朕敬不忘所戒。」時秋大雨,詔真引軍還。
太和五年、華歆が死去し、敬侯と諡された。子の華表が後を継いだ。初め、文帝は華歆の戸邑を分け、華歆の弟の華緝を列侯に封じた。華表は、咸煕年間に尚書となった。(『魏書』に云う、華歆は時に年七十五。華嶠『譜叙』に曰く、華歆には三子あり。華表は字を偉容といい、年二十余で散騎侍郎となった。時に同僚の諸郎はともに尚書の事を平らげ、年少で、並びに鋒気を兼厲し、名誉を召すを要とした。尚書の事が至り、あるいは不便なれば、故に遺漏して視ず、伝書の者が去るに及び、即ち入って深文に論駮した。ただ華表のみは然らず、事が来たりて不便なれば、輒ち尚書とともに論じてその意を尽くし、主者が固執し、已むを得ざる後、ともに奏議した。司空の陳羣らはこれによって彼を称した。晋に仕え、太子少傅・太常を歴た。疾を称して致仕し、光禄大夫に拝された。性は清淡で、常に天下の退理を慮った。司徒の李胤、司隷の王弘らは常に称して言った。「この人のごときは、貴ぶを得べからず、賤しむを得べからず、親しむを得べからず、疎んずるを得べからず。」中子の華博は、三県の内史を歴、治に名跡あり。少子の華周は、黄門侍郎・常山太守となり、博学で文思あり。中年に疾に遇い、家に終わった。華表には三子あり。長子の華廙は、字を長駿という。『晋諸公賛』に曰く、華廙は文翰あり、尚書令・太子少傅を歴位し、光禄大夫開府を追贈された。華嶠は字を叔駿といい、才学あり、『後漢書』を撰し、世は良史と称した。秘書監・尚書となった。華澹は字を玄駿といい、最も知名で、河南尹となった。華廙には三子あり。華昆は字を敬倫といい、清粋で検あり、尚書となった。華薈は字を敬叔という。『世語』は華薈の貴正を称した。華恒は字を敬則といい、通理をもって称された。華昆は尚書、華薈は河南尹、華恒は左光禄大夫開府となった。華澹の子の華軼は、字を彦夏といい、当世の才志あり、江州刺史となった。)
原文太和五年,歆薨,謚曰敬侯。〈《魏書》云:歆時年七十五。〉子表嗣。初,文帝分歆戶邑,封歆弟緝列侯。表,咸熈中爲尚書。〈華嶠《譜叙》曰:歆有三子。表字偉容,年二十餘爲散騎侍郎。時同寮諸郎共平尚書事,年少,並兼厲鋒氣,要召名譽。尚書事至,或有不便,故遺漏不視,及傳書者去,即入深文論駮。惟表不然,事來有不便,輒與尚書共論盡其意,主者固執,不得已,然後共奏議。司空陳羣等以此稱之。仕晉,歷太子少傅、太常。稱疾致仕,拜光祿大夫。性清淡,常慮天下退理。司徒李胤、司隷王弘等常稱曰:「若此人者,不可得而貴,不可得而賤,不可得而親,不可得而踈。」中子博,歷三縣內史,治有名跡。少子周,黃門侍郎、常山太守,博學有文思。中年遇疾,終于家。表有三子。長子廙,字長駿。 《晉諸公贊》曰:廙有文翰,歷位尚書令、太子少傅,追贈光祿大夫開府。 嶠字叔駿,有才學,撰《後漢書》,世稱爲良史。爲祕書監、尚書。澹字玄駿,最知名,爲河南尹。廙三子。昆字敬倫,清粹有檢,爲尚書。薈字敬叔。世語稱薈貴正。恒字敬則,以通理稱。昆,尚書;薈,河南尹;恒,左光祿大夫開府。澹子軼,字彥夏。有當世才志,爲江州刺史。〉
王朗は字を景興といい、東海郡の人である。経書に通じていたため郎中に任じられ、菑丘長に任命された。太尉の楊賜に師事し、楊賜が死去すると官を棄てて喪に服した。孝廉に推挙され、公府に招聘されたが応じなかった。徐州刺史の陶謙は王朗を茂才として察挙した。当時、漢の皇帝は長安におり、関東で兵が起こると、王朗は陶謙の治中となり、別駕の趙昱らと共に陶謙を説得して言った。「春秋の義によれば、諸侯を求めるには勤王に及ぶものはない。今、天子は西京に遠くいらっしゃる。使者を遣わして王命を奉じるべきです。」陶謙はそこで趙昱に上奏文を持たせて長安に赴かせた。天子はその志を嘉し、陶謙を安東将軍に任命した。趙昱を広陵太守とし、王朗を会稽太守とした。孫策が長江を渡って土地を攻略した。王朗の功曹である虞翻は、力で防ぐことはできないと考え、避けるのがよいと主張した。王朗は自らが漢の官吏である身として、城邑を守るべきだと考え、兵を挙げて孫策と戦ったが敗北し、海路で東冶に逃れた。孫策がさらに追撃し、大いにこれを破った。王朗はついに孫策のもとに赴いた。孫策は王朗が儒雅の士であるとして、詰問譴責したが害は加えなかった。流離して窮乏し、明日のこともわからない境遇にあっても、親族や旧知を収容し救済し、多く持っていれば分け与え、少なくても分かち合い、義を行なうことが非常に顕著であった。(『朗家伝』に曰く、会稽では昔、秦始皇を祀って木像を刻み、夏禹と同じ廟に置いていた。王朗が着任すると、徳のない君主は祀られるべきではないとして、これを除いた。郡に在ること四年、その恵愛は民に及んだ。『献帝春秋』に曰く、孫策は軍を率いて閩・越に向かい王朗を討った。王朗は舟を浮かべて海に出、交州へ逃れようとしたが、兵に迫られて軍に赴き降伏した。孫策は使者に王朗を詰問させて言った。「逆賊の元会稽太守王朗に問う。お前は国の恩を受けて官に就きながら、どうして徳に報いることを思わず、兵を恃んで残忍を安んじたのか。大軍の征討により、梟夷を免れたのは幸いであったのに、自ら掃き清めて退くことなく、再び党衆を集めて郡境に屯住した。遠く王の誅伐を労させ、ついに順に悟らなかった。捕らえて降伏と称したのは、詐欺をもって首領を全うしようとするものか。許されるか否か、事の次第を具に答えよ。」王朗は禽虜と称し、使者に答えて言った。「私は瑣才をもって誤って朝廷の私恩を窃み、爵を受けても譲らず、罪の網に遭いました。先に征討を見て、死を畏れて苟も免れようとしました。人を治め物を整えることに因り、須臾の命を寄せました。また大兵に迫られ、惶怖して北へ引きました。従者は疾患し、死亡してほとんど尽きました。ただ老母と共に一つの櫂に乗り、流矢が交わり始めると、すぐに櫂を棄てて俘虜となり、征役の中で額を地につけて自首しました。私は惶惑して達せず、自ら降虜と称しました。前の迷謬に縁り、詰問されて慙懼しています。私は愚浅駑怯で、威を畏れて自ら驚きました。また良き紹介もなく、早く自ら帰順しませんでした。破亡の中において、その後で命を下隷に委ねました。身は軽く罪は重く、死しても余辜があります。首を伸ばして鞅に就き、足を蹴って絆に入り、叱咤して声を聴き、東西ただ命に従います。)
原文王朗字景興,東海郡人也。以通經,拜郎中,除菑丘長。師太尉楊賜,賜薨,棄官行服。舉孝廉,辟公府,不應。徐州刺史陶謙察朗茂才。時漢帝在長安,關東兵起,朗爲謙治中,與別駕趙昱等說謙曰:「春秋之義,求諸侯莫如勤王。今天子越在西京,宜遣使奉承王命。」謙乃遣昱奉章至長安。天子嘉其意,拜謙安東將軍。以昱爲廣陵太守,朗會稽太守。〈《朗家傳》曰:會稽舊祀秦始皇,刻木爲像,與夏禹同廟。朗到官,以爲無德之君不應見祀,於是除之。居郡四年,惠愛在民。〉孫策渡江略地。朗功曹虞翻以爲力不能拒,不如避之。朗自以身爲漢吏,宜保城邑,遂舉兵與策戰,敗績,浮海至東冶。策又追擊,大破之。朗乃詣策。策以朗儒雅,詰讓而不害。〈《獻帝春秋》曰:孫策率軍如閩、越討朗。朗泛舟浮海,欲走交州,爲兵所逼,遂詣軍降。策令使者詰朗曰:「問逆賊故會稽太守王朗:朗受國恩當官,云何不惟報德,而阻兵安忍?大軍征討,幸免梟夷,不自埽屏,復聚黨衆,屯住郡境。遠勞王誅,卒不悟順。捕得云降,庶以欺詐,用全首領,得爾與不,具以狀對。」朗稱禽虜,對使者曰:「朗以瑣才,誤竊朝私,受爵不讓,以遘罪網。前見征討,畏死苟免。因治人物,寄命須臾。又迫大兵,惶怖北引。從者疾患,死亡略盡。獨與老母共乘一欐,流矢始交,便棄欐就俘,稽顙自首於征役之中。朗惶惑不達,自稱降虜。緣前迷謬,被詰慙懼。朗愚淺駑怯,畏威自驚。又無良介,不早自歸。於破亡之中,然後委命下隷。身輕罪重,死有餘辜。申脰就鞅,蹴足入絆,叱咤聽聲,東西惟命。」〉雖流移窮困,朝不謀夕,而收卹親舊,分多割少,行義甚著。
太祖は上表して王朗を招聘した。王朗は曲阿から江海を転々とし、数年かかってようやく到着した。諫議大夫に任命され、司空軍事に参与した。魏国が初めて建てられた時、軍祭酒を兼ねて魏郡太守となり、少府、奉常、大理に転じた。寛容と恕しみを旨とし、罪が疑わしい場合は軽く処した。鍾繇は明察で法に適い、ともに訴訟処理で称えられた。(王朗は招聘されたがまだ至らなかった。孔融が王朗に書を送って言った。「世路は隔塞し、情問は断絶し、感懐して思を増す。前に章表を見て、湯武が己を罪する跡を尋ね、自ら東裔に投じて鯀の罰と同じくするを知り、覧省し終わらぬうちに、涙が潸然と落ちた。主上は寛仁にして徳を貴び過ちを宥める。曹公は政を輔け、賢を思いて並び立つ。策書は屡々下り、殷勤款至である。櫂舟して海を浮かび、広陵に息駕するを知り、意わぬに黄能が羽淵に突出するとは。談笑の期あり、勉めて行き自愛せよ!」『漢晋春秋』に曰く、孫策が初めて王朗を得た時、譴責した。張昭をして私かに王朗に問わせたが、王朗は誓って屈せず、孫策は忿ったが害するに敢えず、曲阿に留置した。建安三年、太祖は上表して王朗を招聘し、孫策はこれを遣わした。太祖が問うて言った。「孫策は何を以てここに至ることができたのか。」王朗は言った。「孫策は勇が一世に冠たり、儁才大志がある。張子布は民の望であり、北面してこれを相とした。周公瑾は江淮の傑であり、臂を攘ってその将となった。謀して成る所あり、規る所は細かからず、終には天下の大賊となるであろう、徒なる狗盗のみではない。)
原文太祖表徵之,朗自曲阿展轉江海,積年乃至。〈朗被徵未至。孔融與朗書曰:「世路隔塞,情問斷絕,感懷增思。前見章表,知尋湯武罪己之迹,自投東裔同鯀之罰,覽省未周,涕隕潸然。主上寬仁,貴德宥過。曹公輔政,思賢並立。策書屢下,殷勤款至。知櫂舟浮海,息駕廣陵,不意黃能突出羽淵也。談笑有期,勉行自愛!」 《漢晉春秋》曰:孫策之始得朗也,譴讓之。使張昭私問朗,朗誓不屈,策忿而不敢害也,留置曲阿。建安三年,太祖表徵朗,策遣之。太祖問曰:「孫策何以得至此邪?」朗曰:「策勇冠一世,有儁才大志。張子布,民之望也,北面而相之。周公瑾,江淮之傑,攘臂而爲其將。謀而有成,所規不細,終爲天下大賊,非徒狗盜而已。」〉拜諫議大夫,參司空軍事。〈《朗家傳》曰:朗少與沛國名士劉陽交友。陽爲莒令,年三十而卒,故後世鮮聞。初,陽以漢室漸衰,知太祖有雄才,恐爲漢累,意欲除之而事不會。及太祖貴,求其嗣子甚急。其子惶窘,走伏無所。陽親舊雖多,莫敢藏者。朗乃納受積年,及從會稽還,又數開解。太祖乆乃赦之,陽門戶由是得全。〉魏國初建,以軍祭酒領魏郡太守,遷少府、奉常、大理。務在寬恕,罪疑從輕。鍾繇明察當法,俱以治獄見稱。〈《魏略》曰:太祖請同會,啁朗曰:「不能效君昔在會稽折秔米飯也。」朗仰而歎曰:「宜適難值!」太祖問:「云何?」朗曰:「如朗昔者,未可折而折;如明公今日,可折而不折也。」太祖以孫權稱臣遣貢諮朗,朗荅曰:「孫權前牋,自詭躬討虜以補前愆,後疏稱臣,以明無二。牙獸屈膝,言鳥告歡,明珠、南金,遠珍必至。情見乎辭,效著乎功。三江五湖,爲沼于魏,西吳東越,化爲國民。鄢、郢旣拔,荊門自開。席卷巴、蜀,形勢已成。重休累慶,雜沓相隨。承旨之日,撫掌擊節。情之畜者,辭不能宣。」〉
文帝が王位に即くと、王朗は御史大夫に昇進し、安陵亭侯に封ぜられた。上疏して民を養い刑罰を減らすよう勧めて言った。「兵乱が起こってから三十余年、天下は揺れ動き、諸国は疲弊しきっている。先王が賊を討ち除き、孤児や弱者を養い育てられたおかげで、ようやく華夏に秩序が戻った。億万の民を集めてこの魏の地に住まわせ、国境の内では鶏が鳴き犬が吠える声が四方の境にまで届き、民衆は喜び楽しみ、太平の世に巡り会えたことを喜んでいる。今、遠方の賊はまだ帰順せず、戦争はまだ終わっていない。もしも租税の免除が十分に行われて遠方の民の心を引きつけ、優れた地方官が十分に徳沢を広め、田畑の道がすべて整備され、四民が豊かで活気に満ちれば、必ずや昔よりも豊かで、平時よりも富んだ状態になるでしょう。易は法を整えることを称え、書経は慎み深い刑罰を記している。一人の君主に慶事があれば、億万の民がそれに頼るというのは、法と刑獄を慎むことを言うのです。昔、曹参相国は刑獄と市場を任せたものとし、路温舒は刑獄を扱う官吏を憎んだ。刑獄を扱う者が実情を把握すれば、冤罪で死ぬ囚人はいなくなる。壮年者が地力を十分に発揮すれば、飢饉に苦しむ民はいなくなる。貧しい老人が倉庫の食糧を頼りにできれば、飢え死にする者は出ない。嫁娶が時節にかなえば、男女に恨みや不満は生じない。胎児の養育が必ず完全であれば、妊婦に自らを傷つける悲しみはない。新生児が必ず保護されれば、幼児が育てられないという負担はない。壮年になってから労役に就けば、幼い者が家を離れる思いをすることはない。白髪交じりの年齢になっても兵役に就かなければ、老人が倒れ伏す心配はない。医薬で病気を治療し、労役を緩めてその生業を楽しませ、威罰で強者を抑え、恩恵と仁愛で弱者を助け、救済貸付で困窮者を養う。十年後には、成人した女性が巷に満ちるでしょう。二十年後には、兵役に耐える者が野に満ちるでしょう。」
原文文帝即王位,遷御史大夫,封安陵亭侯。上疏勸育民省刑曰:「兵起已來三十餘年,四海盪覆,萬國殄瘁。賴先王芟除寇賊,扶育孤弱,遂令華夏復有綱紀。鳩集兆民,于茲魏土,使封鄙之內,雞鳴狗吠達於四境,蒸庶欣欣,喜遇升平。今遠方之寇未賔,兵戎之役未息,誠令復除足以懷遠人,良宰足以宣德澤,阡陌咸脩,四民殷熾,必復過於曩時而富於平日矣。易稱勑法,書著祥刑,一人有慶,兆民賴之,慎法獄之謂也。昔曹相國以獄市爲寄,路溫舒疾治獄之吏。夫治獄者得其情,則無冤死之囚;丁壯者得盡地力,則無饑饉之民;窮老者得仰食倉廩,則無餧餓之殍;嫁娶以時,則男女無怨曠之恨;胎養必全,則孕者無自傷之哀;新生必復,則孩者無不育之累;壯而後役,則幼者無離家之思;二毛不戎,則老者無頓伏之患。醫藥以療其疾,寬繇以樂其業,威罰以抑其彊,恩仁以濟其弱,振貸以贍其乏。十年之後,旣笄者必盈巷。二十年之後,勝兵者必滿野矣。」
文帝が即位すると、王朗は司空に改められ、楽平郷侯に進封された。〈『魏名臣奏』に王朗の節約に関する上奏を載せている。「詔問で減らすべきことについて尋ねられたが、必ずや後漢のことを指しているのでしょう。前漢の雲陽・汾陰での大祭のような、千五百もの群れによる祭祀、通天台での祭祀、阿房宮への入場、百日に及ぶ斎戒、五年間の犠牲の飼育、牛三千頭、重い玉器七千点、その器物は文様の綺麗な敷物で飾られ、童女が舞い踊り、酒造りは三季を経てようやく完成し、楽人は三千四百人揃えて初めて整う。内宮の美人は数千人に近く、学官の博士は七千余人。宮中の厩舎には副馬・駙馬など六万余頭、外部の牧場には飼育係三万とその十倍の馬。執金吾の従騎六百、歩卒はその倍。太常が陵墓を巡る赤い車千台、太官に賜わる官奴婢六千、長安城内で民政を執る者三千、中二千石が罪を裁き刑を決する二十五の獄。政務は充実し事柄は煩雑、威儀は豊かで盛大、三代以上に隆盛で、礼の適中をはるかに超えている。このような極度の奢侈は、多くが秦の遺制を受け継いだものです。すでに質素誠実の根本に背き、簡易を旨とする趣旨を損ない、また質実を捨てて文飾に走り、倹約を避けて奢侈に従う傾向を失っています。まさか当今の隆盛で明るい時代、堯舜を祖述するこの時に、奢侈を断ち倹約に努める政治、煩雑を除き簡素を尊ぶ法令、刑罰を詳らかに慎む教えを、慕うべきだとは言えないでしょう。また、宗廟で毎日太牢を供える祭祀、郡国に宗廟を並立する制度、丞相・御史大夫の官属や吏従の数など、この類のものは、すでに哀帝・平帝の前から何度も改められ、光武帝の後には行われていません。謹んで図牒を調べると、秦が改めた天地・五帝・六宗・宗廟・社稷の祭祀は、すでに前代の兆域を踏襲しています。天地は地面を掃いて祭祀し、その他はすべて壇を築き囲いを設けました。明堂は上帝を祀るため、霊台は天文を観測するため、辟雍は礼楽を修めるため、太学は儒林を集めるため、高禖は吉祥を祈るため、また時務を察し教化を広めるためです。古を考察し先民に学び、慶福の基を開いた旧制では、すべて都の南に位置し、高い棟の大きな建物で、饗宴や射礼を行うのに十分であり、雲や物の気を望むことができました。七郊の祭祀は尊厳で質素を尚びますが、やはり門や建物、便座があり、風雨を避けるのに十分です。軍が終わり豊作の年を待って、徐々に修復すべきです。旧来の虎賁・羽林・五営の兵、および衛士を合わせても、たかだか一万人で、その中には商人や堕落した遊び人の子弟、あるいは田舎の朴訥な者がいます。陣形を定める場所はあっても、戦陣の訓練はせず、練度も低く、敵との交戦経験も乏しい。名実相伴わず、急を備えるのは難しい。警報があってから兵を募り、軍が動いてから糧食を運ぶ。あるいは兵が長く駐屯していても、営農に努めず、兵器を整えず、蓄えもない。一隅で羽檄が飛べば、三方が荒れ乱れる。これも漢の近世の過失であり、模範とすべきではありません。当今、諸夏はすでに安定し、巴蜀だけが版図の外にあります。まだ武を収め甲をしまい、馬を放ち兵を収めるわけにはいきませんが、豊作の年を機に、軍政を農事に託すべきです。官吏・兵士の大小にかかわらず、ともに農耕に励み、平時には広野に村落を形成し、戦時には六軍に校隊を形成し、過酷な労役を減らし、衣食を豊かにする。易に『喜ばせて民を使えば、民はその労苦を忘れる。喜ばせて危難に当たらせれば、民はその死を忘れる』とありますが、今こそそれです。食糧は食に蓄えられ、勇気は勢いに蓄えられる。威光を輝かせて座しているだけで兵衆が動かなくても、版図外の蛮族は必ずや額を地につけて、過去を改めて効力を尽くそうと求めてくるでしょう。もし威を畏れて効力し、戦わずして平定するなら、兵を交えてから威を立て、刃を接してから功を成すよりも、はるかに優れています。もし奸凶が改めず、遂に迷って戻らず、なおも自分たちが虐げ使っている民をもって、大魏が命を投げ出して報恩養育する兵士に対抗しようとするなら、その時はゆっくりと前に歌い後ろで舞う楽しい征伐の衆をもって、向こうの戟を倒し矢を折って喜んで服従する群れに臨み、腐ったものを伐ち枯れたものを摧くことになり、比喩するまでもありません。」〉この頃、文帝はしばしば外出して狩猟し、あるいは日暮れや夜に宮殿に戻ることがあった。王朗は上疏して言った。「帝王の住まいは、外には周囲の警備を整え、内には門の禁を重くし、出発する時は兵を配置してから帷幄を出、警戒を告げてから階段を踏み、弓を張ってから車に乗り、道を清めてから先導し、列を遮ってから車輪を回し、静かな部屋に至ってから車を止める。これらはすべて至尊を顕わし、戒め慎むことに務め、法と教えを後世に伝えるためです。近ごろ車駕が虎狩りに出られ、日が傾いてから出発し、日暮れになって戻られるのは、警蹕の常法に背き、万乗の君主の最も慎むべきことではありません。」帝は答えて言った。「上表を読んだ。魏絳が虞の箴を引いて晋の悼公を諫め、司馬相如が猛獣の話をして漢の武帝を戒めたとしても、この上表には及ばない。今、二つの賊(呉・蜀)がまだ滅んでおらず、将帥は遠征している。だから時々原野に入って軍備を訓練しているのだ。夜に戻る際の戒めについては、すでに役所に施行するよう詔を下した。」〈『王朗集』に王朗が大理の時に上奏した主簿趙郡の張登についての文を載せている。「以前、本県の主簿であった時、黒山賊が郡を包囲した。張登は県長の王儁とともに吏兵七十二人を率いて直ちに救援に向かい、賊と交戦したが、吏兵は散り散りになった。王儁は危うく害されそうになったが、張登は手ずから二賊を撃ち倒し、王儁の命を全うさせた。また、県長の夏逸が督郵に冤罪を着せられた時、張登は自ら拷問を受け、夏逸の無罪を主張した。二人の君のために義を尽くした。顕彰すべきである。」太祖は急ぐことが多く、抜擢する暇がなかった。黄初の初め、王朗は太尉の鍾繇と連名で上表し、張登が職務に勤勉であることを併せて称えた。詔して言った。「張登の忠義は顕著で、職務には功労と勤勉がある。名位は低いが、正直で明るく顕彰すべきである。饔膳の近い職務に、このような吏を得るべきだ。今、張登を太官令とする。」〉
原文及文帝踐阼,改爲司空,進封樂平鄉侯。〈《魏名臣奏》載朗節省奏曰:「詔問所宜損益,必謂東京之事也。若夫西京雲陽、汾陰之大祭,千有五百之羣,祀通天之臺,入阿房之宮,齋必百日,養犧五載,牛則三千,其重玉則七千;其器,文綺以飾重席,童女以蹈舞綴;釀酎必貫三時而後成,樂人必三千四百而後備;內宮美人數至近千,學官博士七千餘人;中廄則騑騄駙馬六萬餘匹,外牧則扈養三萬而馬十之;執金吾從騎六百,走卒倍焉;太常行陵赤車千乘,太官賜官奴婢六千,長安城內治民爲政者三千,中二千石蔽罪斷刑者二十有五獄。政充事猥,威儀繁富,隆於三代,近過禮中。夫所以極奢吝,大抵多受之於秦餘。旣違繭栗愨誠之本,埽地簡易之指,又失替質而損文、避泰而從約之趣。豈夫當今隆興盛明之時,祖述堯舜之際,割奢務儉之政,除繁崇省之令,詳刑慎罰之教,所宜希慕哉?及夫寢廟日一太牢之祀,郡國並立宗廟之法,丞相御史大夫官屬吏從之數,若此之輩,旣已屢改於哀、平之前,不行光武之後矣。謹按圖牒,所改秦在天地及五帝、六宗、宗廟、社稷,旣已因前代之兆域矣。夫天地則埽地而祭,其餘則皆壇而埒之矣。明堂所以祀上帝,靈臺所以觀天文,辟雍所以脩禮樂,太學所以集儒林,高禖所以祈休祥,又所以察時務,揚教化。稽古先民,開誕慶祚,舊時皆在國之陽,並高棟夏屋,足以肆饗射,望雲物。七郊雖尊祀尚質,猶皆有門宇便坐,足以避風雨。可須軍罷年豐,以漸脩治。舊時虎賁羽林五營兵,及衞士并合,雖且萬人,或商賈墯游子弟,或農野謹鈍之人;雖有乘制之處,不講戎陣,旣不簡練,又希更寇,雖名實不副,難以備急。有警而後募兵,軍行而後運粮,或乃兵旣乆屯,而不務營佃,不脩器械,無有貯聚,一隅馳羽檄,則三靣並荒擾,此亦漢氏近世之失而不可式者也。當今諸夏已安,而巴蜀在畫外。雖未得偃武而弢甲,放馬而戢兵,宜因年之大豐,遂寄軍政於農事。吏士小大,並勤稼穡,止則成井里於廣野,動則成校隊於六軍,省其暴繇,贍其衣食。易稱『恱以使民,民忘其勞;恱以犯難,民忘其死』,今之謂矣。粮畜於食,勇畜於勢,雖坐曜烈威而衆未動,畫外之蠻,必復稽顙以求改往而效用矣。若畏威效用,不戰而定,則賢於交兵而後威立,接刃而後功成遠矣。若姦凶不革,遂迷不反,猶欲以其所虐用之民,待大魏投命報養之士,然後徐以前歌後舞樂征之衆,臨彼倒戟折矢樂服之羣,伐腐摧枯,未足以爲喻也。」〉時帝頗出游獵,或昏夜還宮。朗上疏曰:「夫帝王之居,外則飾周衞,內則重禁門,將行則設兵而後出幄,稱警而後踐墀,張弧而後登輿,清道而後奉引,遮列而後轉轂,靜室而後息駕,皆所以顯至尊,務戒慎,垂法教也。近日車駕出臨捕虎,日昃而行,及昏而反,違警蹕之常法,非萬乘之至慎也。」帝報曰:「覽表,雖魏絳稱虞箴以諷晉悼,相如陳猛獸以戒漢武,未足以喻。方今二寇未殄,將帥遠征,故時入原野以習戎備。至於夜還之戒,已詔有司施行。」〈《王朗集》載朗爲大理時上主簿趙郡張登:「昔爲本縣主簿,值黑山賊圍郡,登與縣長王儁帥吏兵七十二人直往赴救,與賊交戰,吏兵散走。儁殆見害,登手格二賊,以全儁命。又守長夏逸,爲督郵所枉,登身受考掠,理逸之罪。義濟二君。宜加顯異。」太祖以所急者多,未遑擢叙。至黃初初,朗又與太尉鍾繇連名表聞,兼稱登在職勤勞。詔曰:「登忠義彰著,在職功勤。名位雖卑,直亮宜顯。饔膳近任,當得此吏。今以登爲太官令。」〉
初めに、建安の末、孫権が初めて使者を遣わして藩国を称し、劉備と交戦した。詔を下して「軍を興して呉と共に蜀を取るべきか否か」を議させた。王朗が議して言った。「天子の軍は、華山や泰山よりも重く、誠に天威を坐して輝かせ、山のように動かざるべきである。仮に孫権が自ら蜀の賊と相対峙し、長日にわたって戦い、智謀も力も互角で、兵が速やかに決着せず、軍を興してその勢いを成す必要があるならば、その後にこそ慎重な将を選び、寇賊の要衝を受け、時機を見て後に動き、地を選んで後に進み、一挙に残る事なきを得るべきである。今、孫権の軍は未だ動かず、則ち呉を助ける軍は先に征く理由がない。しかも雨水がちょうど盛んであり、軍を動かし衆を動かす時ではない。」帝はその計を採用した。黄初の中頃、鵜鶘が霊芝池に集まった。詔して公卿に独行の君子を推挙させた。王朗は光禄大夫の楊彪を推薦し、かつ病気を称して、楊彪に位を譲った。帝はそこで楊彪のために吏卒を置き、位は三公の次とした。詔して言った。「朕は君に賢を求めたが得られず、君はかえって病気を称する。ただ賢を得られないだけでなく、さらに賢を失う道を開き、玉鉉(三公の位)の傾くのを増す。まさかその室に居てその言を出すに善からず、君子に違われることがあるのではないか!君は後日の辞を有することなかれ。」王朗はそこで起った。
原文初,建安末,孫權始遣使稱藩,而與劉備交兵。詔議「當興師與吳并取蜀不」?朗議曰:「天子之軍,重於華、岱,誠宜坐曜天威,不動若山。假使權親與蜀賊相持,搏戰曠日,智均力敵,兵不速決,當須軍興以成其勢者,然後宜選持重之將,承寇賊之要,相時而後動,擇地而後行,一舉可無餘事。今權之師未動,則助吳之軍無爲先征。且雨水方盛,非行軍動衆之時。」帝納其計。黃初中,鵜鶘集靈芝池,詔公卿舉獨行君子。朗薦光祿大夫楊彪,且稱疾,讓位於彪。帝乃爲彪置吏卒,位次三公。詔曰:「朕求賢於君而未得,君乃翻然稱疾,非徒不得賢,更開失賢之路,增玉鉉之傾。無乃居其室出其言不善,見違於君子乎!君其勿有後辭。」朗乃起。
孫権が子の孫登を入朝させ侍従させようとしたが、至らなかった。この時、車駕(天子の行列)は許昌に移り、大いに屯田を興し、軍を挙げて東征しようとした。王朗が上疏して言った。「昔、南越は善を守り、嬰斉が入朝して侍従したので、遂に冢嗣(世子)となり、その国に戻って君となった。康居は驕慢で狡猾で、心情が言辞に副わず、都護が奏議して侍子を遣わすべきとし、無礼を退けた。かつて呉の劉濞の禍は、子が入朝することから芽生え、隗嚻の反逆もまた子を顧みなかった。以前、孫権に子を遣わすとの言葉があったが未だ至らず、今、六軍が戒厳している。臣は恐れるが、輿人(衆人)が聖旨を十分に理解せず、国家が孫登の滞留に憤っているので、このために軍を興すのだと謂うであろう。仮に軍が行く間に孫登が至れば、則ち動かされるものが極めて大きく、致すところが極めて細かいので、未だ慶賀とするに足りない。仮に彼が傲慢で頑なで、全く入朝の志がなければ、未だ聖旨を十分に理解していない彼らの輿論が、皆不満を抱くことを恐れる。臣の愚見では、別に征する諸将に命じて、それぞれ禁令を奉じて明らかにし、以てその管轄を慎んで守らせるべきである。外には烈威を輝かせ、内には耕稼を広め、山のように泰然とし、淵のように淡泊として、その勢いは動かせず、その計は測り難からしめるべきである。」この時、帝は既に軍を成して遂に行こうとしたが、孫権の子は至らず、車駕は長江に臨んで還った。(『魏書』に曰く、車駕が既に還ると、三公に詔して言った。「三世将たるは道家の忌む所。窮兵黷武は古に成戒あり。況んや連年の水旱、士民は損耗し、しかるに功作は前に倍し、労役は昔に兼ね、進んでも賊を滅ぼさず、退いても民を和さず。それ屋漏は上にあり、之を知るは下にあり、然れど迷いて反るを知れば、道を失うこと遠からず、過ちて能く改むるは之を過ちと謂わず。今まさに休息し、高山に棲備し、権を九淵に沈め、割除擯棄し、之を画外に投げんとす。車駕は今月中旬に譙に到り、淮・漢の衆軍も亦各々還反し、臘ならずして西帰せん。)
原文孫權欲遣子登入侍,不至。是時車駕徙許昌,大興屯田,欲舉軍東征。朗上疏曰:「昔南越守善,嬰齊入侍,遂爲冢嗣,還君其國。康居驕黠,情不副辭,都護奏議以爲宜遣侍子,以黜無禮。且吳濞之禍,萌於子入,隗嚻之叛,亦不顧子。往者聞權有遣子之言而未至,今六軍戒嚴,臣恐輿人未暢聖旨,當謂國家慍於登之逋留,是以爲之興師。設師行而登乃至,則爲所動者至大,所致者至細,猶未足以爲慶。設其傲很,殊無入志,懼彼輿論之未暢者,並懷伊邑。臣愚以爲宜勑別征諸將,各明奉禁令,以慎守所部。外曜烈威,內廣耕稼,使泊然若山,澹然若淵,勢不可動,計不可測。」是時,帝以成軍遂行,權子不至,車駕臨江而還。〈《魏書》曰:車駕旣還,詔三公曰:「三世爲將,道家所忌。窮兵黷武,古有成戒。況連年水旱,士民損耗,而功作倍於前,勞役兼於昔,進不滅賊,退不和民。夫屋漏在上,知之在下,然迷而知反,失道不遠,過而能改,謂之不過。今將休息,棲備高山,沈權九淵,割除擯棄,投之畫外。車駕當以今月中旬到譙,淮、漢衆軍,亦各還反,不臘西歸矣。」〉
明帝が即位すると、蘭陵侯に進封され、邑五百戸を増やされ、前の分と合わせて千二百戸となった。鄴に使いして文昭皇后の陵を省み、百姓に不足する者がいるのを見た。この時、ちょうど宮室の営繕をしていたので、王朗が上疏して言った。「陛下が即位されて以来、恩詔が屡々布告され、百姓万民は皆欣々としている。臣は先頃使いを奉じて北行し、往復の道路で、多くの徭役を聞いたが、その蠲除・省減できるものは甚だ多い。願わくは陛下が日昃(夕方、転じて勤勉な聴政)の聴きを重んじ、計略をもって寇を制せられんことを。昔、大禹は天下の大患を救おうと欲したので、故に先ずその宮室を卑くし、その衣食を倹約し、以て能く九州を尽く有し、五服を輔けて成した。句践はその禦児の疆(国境)を広めようと欲し、姑蘇で夫差を馘り、故にまたその身を約して家に及び、その家を倹約して国に施し、以て能く五湖を囊括し、三江を席卷し、中国に威を取り、華夏に覇を定めた。漢の文帝・景帝もまた祖業を恢弘し、洪緒(大業)を増崇しようと欲したので、故に百金の台(露台)の意を断ち切り、弋綈(粗末な服)の服に倹を明らかにし、内には太官を減じて貢献を受けず、外には徭賦を省いて農桑に務め、以て能く昇平と称され、ほとんど刑措(刑罰を措く)に至った。孝武帝がその軍勢を奮い起こし、その外境を拓くことができたのは、誠に祖考の蓄積が元より足りていたからであり、故に能く大功を遂げたのである。霍去病は中才の将であるが、なお匈奴が滅びていないので、第宅を治めなかった。遠きを明らかに恤う者は近きを略にし、外の事に専念する者は内を簡素にする。漢の初めからその中興に至るまで、皆、金革(戦争)がほぼ止んだ後に、初めて鳳闕が猥に閌き、徳陽宮などが並び起った。今、建始殿の前は朝会を列ねるに足り、崇華殿の後は内官を序するに足り、華林園・天淵池は游宴を展べるに足りる。もし暫く先に閶闔門の象魏(闕)を成し、遠人の朝貢者を列ねるに足らしめ、城池を修め、以て踰越を絶つに足らしめ、国の険要を成すならば、その余の一切は、且つ豊年を待つべきである。一に勤めて農耕を務めとし、戎備を習うことを事とすれば、則ち国に怨み(男女の不遇)や空き(戸口の不足)がなく、戸口は増え息(繁)え、民は充実し兵は強く、しかも寇戎が賓服せず、光明が足りないことは、未だ之有らざる所である。」司徒に転じた。
原文明帝即位,進封蘭陵侯,增邑五百,并前千二百戶。使至鄴省文昭皇后陵,見百姓或有不足。是時方營脩宮室,朗上疏曰:「陛下即位已來,恩詔屢布,百姓萬民莫不欣欣。臣頃奉使北行,往反道路,聞衆傜役,其可得蠲除省減者甚多。願陛下重留日昃之聽,以計制寇。昔大禹將欲拯天下之大患,故乃先卑其宮室,儉其衣食,用能盡有九州,弼成五服。句踐欲廣其禦兒之疆,〈禦兒,吳界邊戍之地名。〉馘夫差於姑蘇,故亦約其身以及家,儉其家以施國,用能囊括五湖,席卷三江,取威中國,定霸華夏。漢之文、景亦欲恢弘祖業,增崇洪緒,故能割意於百金之臺,昭儉於弋綈之服,內減太官而不受貢獻,外省傜賦而務農桑,用能號稱升平,幾致刑錯。孝武之所以能奮其軍勢,拓其外境,誠因祖考畜積素足,故能遂成大功。霍去病,中才之將,猶以匈奴未滅,不治第宅。明卹遠者略近,事外者簡內。自漢之初及其中興,皆於金革略寢之後,然後鳳闕猥閌,德陽並起。今當建始之前足用列朝會,崇華之後足用序內官,華林、天淵足用展游宴,若且先成閶闔之象魏,使足用列遠人之朝貢者,脩城池,使足用絕踰越,成國險,其餘一切,且須豐年。一以勤耕農爲務,習戎備爲事,則國無怨曠,戶口滋息,民充兵彊,而寇戎不賔,緝熙不足,未之有也。」轉爲司徒。
時に屡々皇子を失い、後宮で館(産屋)に入る者が少なかったので、王朗が上疏して言った。「昔、周の文王は十五歳で武王を持ち、遂に十子の福を享け、以て諸姫の胤を広めた。武王は既に老いて成王を生んだので、成王は兄弟が少なかった。この二王は、各々聖徳を樹て、以て相過つところなく、その子孫の福を比べれば、則ち相如(等)しからなかった。蓋し生育には早晚があり、産む所には衆寡があるからである。陛下は既に徳と福を兼ねて彼の二聖に並び、春秋(年齢)は姫文(文王)が武王を育てた時よりも高い。しかるに子の姫発(武王)が椒蘭の奥房(后妃の部屋)に挙げられず、藩王が掖庭の衆室に繁っていない。成王を譬えに取れば、未だ遅くはないが、伯邑考を譬えに取れば、則ち早くはない。周礼では六宮の内官は百二十人であるが、諸経の常説は、皆十二人を限りとし、秦漢の末に至っては、或いは千百を数えた。しかし、たとえ猥(多く)であっても、吉館(産屋)に時に就く者は甚だ鮮(少)ない。『百斯男』(百人の男子)の本は、誠に一意(専心)にあるのであって、ただ務めて広くすることだけにあるのではない。老臣慺慺(忠実な思い)として、国家が軒轅(黄帝)の五五(二十五子)と同じ福にあずからんことを願うが、周の文王の二五(十子)に及ばず、以て憂慮とする。かつて幼少の時は常に被褥が甚だ温かすぎることを苦しみ、甚だ温かすぎると則ち柔膚弱体に便ならず、以て防護し難く、感概(病気)し易い。もし常に幼少の者の縕袍(綿入れ)を甚だ厚くしないようにすれば、則ち必ず皆、金石の性を保ち、南山に比寿するであろう。」帝が答えて言った。「忠の至る者は言辞篤く、愛の重き者は言深し。君は既に思慮を労し、また手筆を以て順わせ、徳音を三復(繰り返し読)し、欣然として量り無し。朕は継嗣が未だ立たず、君の憂いと為す。至言を欽んで納れ、良規を聞かんと思う。」王朗は易、春秋、孝経、周官の伝を著し、奏議論記は、皆世に伝わった。太和二年に薨じ、謚して成侯と言った。子の王粛が嗣いだ。初め、文帝は王朗の戸邑を分け、一子を列侯に封じようとしたが、王朗は兄の子の王詳に封じることを乞うた。
原文時屢失皇子,而後宮就館者少,朗上疏曰:「昔周文十五而有武王,遂享十子之祚,以廣諸姬之胤。武王旣老而生成王,成王是以鮮於兄弟。此二王者,各樹聖德,無以相過,比其子孫之祚,則不相如。蓋生育有早晚,所產有衆寡也。陛下旣德祚兼彼二聖,春秋高於姬文育武之時矣,而子發未舉於椒蘭之奧房,藩王未繁於掖庭之衆室。以成王爲喻,雖未爲晚,取譬伯邑,則不爲夙。周禮六宮內官百二十人,而諸經常說,咸以十二爲限,至於秦漢之末,或以千百爲數矣。然雖彌猥,而就時於吉館者或甚鮮,明『百斯男』之本,誠在於一意,不但在於務廣也。老臣慺慺,願國家同祚於軒轅之五五,而未及周文之二五,用爲伊邑。且少小常苦被褥泰溫,泰溫則不能便柔膚弱體,是以難可防護,而易用感慨。若常令少小之縕袍,不至於甚厚,則必咸保金石之性,而比壽於南山矣。」帝報曰:「夫忠至者辭篤,愛重者言深。君旣勞思慮,又手筆將順,三復德音,欣然無量。朕繼嗣未立,以爲君憂,欽納至言,思聞良規。」朗著易、春秋、孝經、周官傳,奏議論記,咸傳於世。〈《魏略》曰:朗本名嚴,後改爲朗。《魏書》曰:朗高才博雅,而性嚴整慷慨,多威儀,恭儉節約,自婚姻中表禮贄無所受。常譏世俗有好施之名,而不卹窮賤,故用財以周急爲先。〉太和二年薨,謚曰成侯。子肅嗣。初,文帝分朗戶邑,封一子列侯,朗乞封兄子詳。
王肅は字を子雍という。十八歳の時、宋忠に従って『太玄』を読み、さらに自ら解釈を加えた。(王肅の父の王朗が許靖に送った手紙によると、王肅は会稽で生まれたという。)黄初年間、散騎黄門侍郎となった。太和三年、散騎常侍に任じられた。四年、大司馬曹真が蜀を征討しようとした時、王肅は上疏して言った。「以前の書物に『千里の糧を饋れば、士に饑色あり、樵蘇して後に爨けば、師宿飽せず』とあります。これは平坦な道を行軍する場合のことです。ましてや険阻な地に深く入り、道を切り開きながら前進するならば、その労苦は必ず百倍にもなります。今さらに長雨が加わり、山坂は険しく滑りやすく、兵士は密集して身動きが取れず、食糧は遠く離れて補給が難しく、これはまさに行軍の大忌です。曹真が出発してすでに一月を過ぎたのに、進んだのは谷の半分ほどであり、道を整備する工事に兵士が総動員されていると聞きます。これは賊が安逸を保ち、我が軍の疲労を待つことになり、兵家が恐れるところです。昔の例を言えば、武王が紂を討つ時、関を出てまた戻りました。近い事例を論じれば、武帝(曹操)と文帝(曹丕)が孫権を征討した時、長江に臨みながら渡河しませんでした。これこそ天に順い時を知り、権変に通じたものと言うべきではありませんか。民衆は聖上が水雨による困難のため、軍を休めて息をつけ、後日に隙があれば乗じて用いられることを知れば、いわゆる『悦んで難に赴き、民はその死を忘れる』状態となるでしょう。」そこで征討は中止された。また上疏して言った。「旧礼に従い、大臣の喪に際して哀悼の意を示し、宗廟に果物を供えるべきです。」これらの事柄はすべて実施された。さらに上疏して政治の根本を述べた。「無用の官位を除き、不急の俸禄を減らし、徒食の費用を止め、閑職の官を統合すべきです。官には必ず職務があり、職務にはその仕事が任され、仕事には必ず俸禄を受け、俸禄は耕作に代わるものとする。これは上古の常法であり、当今においても適切なことです。官が少なく俸禄が厚ければ、公家の費用は少なくなり、官途を志す心が励まされます。官途を志す心が励まされれば、各自が才力を発揮し、互いに頼り合うことがなくなります。言葉で上奏し、功績によって明らかに試し、能力の有無は天子の心に留められます。このようにして唐・虞の時代には官職を設けて分け、公卿に命を下し、各自がその職務に当たらせ、その上でただ龍(ある人物)を納言(の職)とし、それは今の尚書のようなもので、帝命の出納を行うだけでした。夏・殷の詳細は分かりません。『甘誓』に『六事の人』とあるのは、六卿もまた職務を司っていたことを明らかにしています。周の官制は完備しており、五日ごとに朝見し、公卿大夫がともに進み出て、司士がその位を定めました。その記録に『座って道を論ずるのを王公と謂い、行ってそれを行うのを士大夫と謂う』とあります。漢の初めには、前代にならって、公卿は皆、実際の職務をもって朝廷に昇りました。故に高祖は自ら逃げ戻る周昌を追いかけ、武帝は遠くから汲黯の上奏を許可し、宣帝は公卿に五日ごとの朝見を行わせ、成帝は初めて尚書五人を置きました。それ以降は衰え、朝礼は遂に欠けるようになりました。五日ごとの朝見の儀礼を復活させ、公卿尚書がそれぞれ職務をもって進み出るようにすべきです。廃れた礼が再び興り、聖なる統緒が輝き宣べられるなら、まさに名声が美しく実質が厚いと言うべきです。」
原文肅字子雍。年十八,從宋忠讀太玄,而更爲之解。〈肅父朗與許靖書云:肅生於會稽。〉黃初中,爲散騎黃門侍郎。太和三年,拜散騎常侍。四年,大司馬曹真征蜀,肅上疏曰:「前志有之,『千里饋糧,士有饑色,樵蘇後爨,師不宿飽』,此謂平塗之行軍者也。又況於深入阻險,鑿路而前,則其爲勞必相百也。今又加之以霖雨,山坂峻滑,衆逼而不展,糧縣而難繼,實行軍者之大忌也。聞曹真發已踰月而行裁半谷,治道功夫,戰士悉作。是賊偏得以逸而待勞,乃兵家之所憚也。言之前代,則武王伐紂,出關而復還;論之近事,則武、文征權,臨江而不濟。豈非所謂順天知時,通於權變者哉!兆民知聖上以水雨艱劇之故,休而息之,後日有釁,乘而用之,則所謂恱以犯難,民忘其死者矣。」於是遂罷。又上疏:「宜遵舊禮,爲大臣發哀,薦果宗廟。」事皆施行。又上疏陳政本曰:「除無事之位,損不急之祿,止因食之費,并從容之官;使官必有職,職任其事,事必受祿,祿代其耕,乃往古之常式,當今之所宜也。官寡而祿厚,則公家之費鮮,進仕之志勸。進仕之志勸,各展才力,莫相倚仗。敷奏以言,明試以功,能之與否,簡在帝心。是以唐、虞之設官分職,申命公卿,各以其事,然後惟龍爲納言,猶今尚書也,以出內帝命而已。夏、殷不可得而詳。甘誓曰『六事之人』,明六卿亦典事者也。周官則備矣,五日視朝,公卿大夫並進,而司士辨其位焉。其記曰:『坐而論道,謂之王公;作而行之,謂之士大夫。』及漢之初,依擬前代,公卿皆親以事升朝。故高祖躬追反走之周昌,武帝遙可奉奏之汲黯,宣帝使公卿五日一朝,成帝始置尚書五人。自是陵遲,朝禮遂闕。可復五日視朝之儀,使公卿尚書各以事進。廢禮復興,光宣聖緒,誠所謂名美而實厚者也。」
青龍年間、山陽公(劉協)が薨去した。彼は漢の主である。王肅は上疏して言った。「昔、唐(堯)が虞(舜)に禅譲し、虞が夏(禹)に禅譲した時は、皆、三年の喪に服した後で天子の尊位に就きました。それ故に帝号は損なわれず、君主の礼はなお存続しました。今、山陽公は天命に順い、民の望みに応え、進んで大魏に禅譲し、退いて賓客の位に処しています。公が魏に仕えるに当たっては、節義を尽くさないことはありませんでした。魏が公を待遇するに当たっては、優遇し尊崇して臣下とはしませんでした。その薨去に際しては、棺や殯の制度、車や従者の装飾は、すべて王者と同じとされました。それ故に遠近の人々は仁に帰し、盛大な美事としました。また、漢は帝と皇の称号を総称し、皇帝と号しました。区別して言えば、帝と称することはあっても、皇と単独で称することはなく、皇はその中で比較的軽い称号です。故に高祖(劉邦)の時代、天下に二王はおらず、その父(劉太公)が存命中に皇と称させたのは、二王の嫌疑がないことを明らかにするためでした。ましてや今、終わりを贈るに当たっては、その諡に合わせて皇と称させることができるでしょう。」明帝(曹叡)は皇と称させることに従わず、漢孝献皇帝と追諡した。(孫盛が言う:神と化合する者を皇とし、天と徳を合わせる者を帝とする。それ故に三皇が称号を創始し、五帝がそれに次ぐ。すると皇という称号は帝よりも優れている。王肅が軽いと言うのは、誤りではないか。臣の松之(裴松之)が考えるに、上古では皇皇后帝と言い、次に三皇・五帝と言い、先に皇、後に帝であるから、確かに孫盛の言う通りである。しかし漢の諸帝は、父を尊んで皇としたが、実際には貴くても位がなく、高くても民がおらず、帝と比べれば軽いと言えないだろうか。魏は漢の礼制に因り、名号を改めなかった。孝献帝の崩御に際し、どうして遠く古義を考証できようか。王肅の言うことは、漢の制度に基づいて述べたに過ぎない。それを誤りとするのは、漢を批判するのであって、王肅を難じるものではない。)
原文青龍中,山陽公薨,漢主也。肅上疏曰:「昔唐禪虞,虞禪夏,皆終三年之喪,然後踐天子之尊。是以帝號無虧,君禮猶存。今山陽公承順天命,允荅民望,進禪大魏,退處賔位。公之奉魏,不敢不盡節。魏之待公,優崇而不臣。旣至其薨,櫬斂之制,輿徒之飾,皆同之於王者,是故遠近歸仁,以爲盛美。且漢緫帝皇之號,號曰皇帝。有別稱帝,無別稱皇,則皇是其差輕者也。故當高祖之時,土無二王,其父見在而使稱皇,明非二王之嫌也。況今以贈終,可使稱皇以配其謚。」明帝不從使稱皇,乃追謚曰漢孝獻皇帝。〈孫盛曰:化合神者曰皇,德合天者曰帝。是故三皇創號,五帝次之。然則皇之爲稱,妙於帝矣。肅謂爲輕,不亦謬乎! 臣松之以爲上古謂皇皇后帝,次言三、五,先皇後帝,誠如盛言。然漢氏諸帝,雖尊父爲皇,其實則貴而無位,高而無民,比之於帝,得不謂之輕乎!魏因漢禮,名號無改。孝獻之崩,豈得遠考古義?肅之所云,蓋就漢制而爲言耳。謂之爲謬,乃是譏漢,非難肅也。〉
その後、王肅は常侍の職を帯びて秘書監を兼任し、崇文観祭酒を兼ねた。景初年間(237-239年)、宮殿の造営が盛んに行われ、民衆は農業を失い、約束は守られず、刑罰や処刑が軽率に行われた。王肅は上疏して言った。「大魏は歴代の帝王の極みを継承し、人民はわずかで、戦乱はまだ収まっていません。まさに民を休ませ、遠近に恩恵を施して安寧な時を迎えるべきです。蓄積に努め疲弊した民を休ませるには、徭役を減らし農耕に励むことです。今、宮殿はまだ完成せず、事業は終わらず、物資の輸送や徴発が転々と供給されています。そのため、壮丁は力仕事に疲れ、農民は田畑を離れ、穀物を育てる者は少なく、穀物を食べる者は多く、古い穀物はすでに尽き、新しい穀物は続きません。これは国家の大きな憂いであり、備えとしての長期的な策ではありません。今、工事に従事する者は三四万人、九龍殿は聖体を安んじることができ、その内部は六宮を並べるのに十分です。顕陽殿もまたまさに完成しようとしています。ただ泰極殿以前の工事はまだ規模が大きく、ちょうど厳寒の時期に向かい、疫病が発生するかもしれません。誠に願わくは陛下が仁徳の言葉を発し、明らかな詔を下し、役夫の疲労を深く憐れみ、万民の不足を厚く哀れんで、常に食糧を受け取る兵士のうち、緊急でない用途の者を取り、その壮丁を選び、一万人を選んで残し、一期ごとに交代させ、皆が交代の日があることを知れば、喜んで仕事に就き、労苦を厭っても怨みを持たないでしょう。計算すると一年に三百六十万の夫役も少なくありません。一年で完成する予定のものは、三年かけることを許してください。残りを分けて派遣し、皆を農業に就かせれば、無限の計略です。倉庫には余剰の穀物があり、民には余力がある。これをもって事業を興せば、どんな事業も成し遂げられないことがあろうか。これをもって教化を行えば、どんな教化も成し遂げられないことがあろうか。信義を民に示すことは、国家の大切な宝です。仲尼(孔子)は言いました。『昔から人は皆死ぬが、民は信がなければ立つことができない。』小さな晋国、取るに足らない重耳(晋の文公)でさえ、その民を使おうとする時、まず信義を示しました。そのため原の民は降伏しようとしていたが、信義を顧みて帰順し、これによって一戦で覇者となり、今も称賛されています。以前、車駕が洛陽に行幸される時、民を徴発して陣営を作らせ、役所は陣営が完成したら解散するよう命じました。完成した後、またその労力を利用し、時期を定めずに帰しませんでした。役所はただ目の前の利益を図り、国家経営の根本を顧みませんでした。臣の愚見では、今後もし再び民を使うなら、その命令を明らかにし、必ず期日通りに行うべきです。もし順番に事があれば、むしろ再び徴発する方が良いでしょう。決して信を失ってはなりません。凡そ陛下が臨時に執行される刑罰は、皆罪ある官吏、死すべき人です。しかし民衆は知らず、軽率なものと思っています。故に願わくは陛下がそれを役人に下してその罪を明らかにしてください。その死を公平に扱い、宮中で汚されることなく、遠近に疑念を持たれないようにしてください。しかも人命は最も重く、生むのは難しく殺すのは易しく、気が絶えて続かないものです。そのため聖賢はこれを重んじます。孟軻(孟子)は、一人の無辜を殺して天下を取ることは、仁者はしないと言いました。漢の時、御道を犯して乗輿の馬を驚かせた者がおり、廷尉の張釈之は罰金を科すよう上奏しました。文帝はその軽さを怪しみましたが、張釈之は言いました。『あの時、陛下が誅殺なさればそれで終わりでした。今、廷尉に下されました。廷尉は天下の公平です。一度傾けば、天下の法の運用が全て軽重を誤り、民はどこに手足を置けばよいでしょうか。』臣はこれが大いに道理を失っており、忠臣が述べるべきことではないと考えます。廷尉は天子の官吏ですら、公平を失ってはならないのに、天子ご自身がかえって誤りや過ちを犯してよいのでしょうか。これは自分自身を重んじ、君主を軽んじることで、不忠の極みです。周公は言いました。『天子に戯れ言はない。言えば史官が書き、楽師が誦し、士が称える。』言葉でさえ戯れないのに、まして行動においてでしょうか。故に張釈之の言葉はよく考察せねばならず、周公の戒めは手本にせねばなりません。」また、「諸々の鳥獣など無用の物で、飼料や穀物、人夫の費用がかかるものは、全て廃止できる」と述べた。
原文後肅以常侍領祕書監,兼崇文觀祭酒。景初間,宮室盛興,民失農業,期信不敦,刑殺倉卒。肅以疏曰:「大魏承百王之極,生民無幾,干戈未戢,誠宜息民而惠之以安靜遐邇之時也。夫務畜積而息疲民,在於省傜役而勤稼穡。今宮室未就,功業未訖,運漕調發,轉相供奉。是以丁夫疲於力作,農者離其南畒,種穀者寡,食穀者衆,舊穀旣沒,新穀莫繼。斯則有國之大患,而非備豫之長策也。今見作者三四萬人,九龍可以安聖體,其內足以列六宮,顯陽之殿,又向將畢,惟泰極已前,功夫尚大,方向盛寒,疾疢或作。誠願陛下發德音,下明詔,深愍役夫之疲勞,厚矜兆民之不贍,取常食廩之士,非急要者之用,選其丁壯,擇留萬人,使一朞而更之,咸知息代有日,則莫不恱以即事,勞而不怨矣。計一歲有三百六十萬夫,亦不爲少。當一歲成者,聽且三年。分遣其餘,使皆即農,無窮之計也。倉有溢粟,民有餘力:以此興功,何功不立?以此行化,何化不成?夫信之於民,國家大寶也。仲尼曰:『自古皆有死,民非信不立。』夫區區之晉國,微微之重耳,欲用其民,先示以信,是故原雖將降,顧信而歸,用能一戰而霸,于今見稱。前車駕當幸洛陽,發民爲營,有司命以營成而罷。旣成,又利其功力,不以時遣。有司徒營其目前之利,不顧經國之體。臣愚以爲自今已後,儻復使民,宜明其令,使必如期。若有事以次,寧復更發,無或失信。凡陛下臨時之所行刑,皆有罪之吏,宜死之人也。然衆庶不知,謂爲倉卒。故願陛下下之於吏而暴其罪。鈞其死也,無使汙于宮掖而爲遠近所疑。且人命至重,難生易殺,氣絕而不續者也,是以聖賢重之。孟軻稱殺一無辜以取天下,仁者不爲也。漢時有犯蹕驚乘輿馬者,廷尉張釋之奏使罰金,文帝恠其輕,而釋之曰:『方其時,上使誅之則已。今下廷尉。廷尉,天下之平也,一傾之,天下用法皆爲輕重,民安所措其手足?』臣以爲大失其義,非忠臣所宜陳也。廷尉者,天子之吏也,猶不可以失平,而天子之身,反可以惑謬乎?斯重於爲己,而輕於爲君,不忠之甚也。周公曰:『天子無戲言;言則史書之,工誦之,士稱之。』言猶不戲,而况行之乎?故釋之之言不可不察,周公之戒不可不法也。」又陳「諸鳥獸無用之物,而有芻穀人徒之費,皆可蠲除。」
帝(曹叡)がかつて尋ねた。「漢の桓帝の時、白馬県令の李雲が上書して言った。『帝とは、諦(詳しく見る)ことである。これは帝が諦めようとしないことだ。』どうして死を免れられなかったのか?」王肅は答えた。「ただ言葉が順逆の節度を失ったためです。その本意を推し量れば、皆心を尽くし、国を補い存続させようと念じていたのです。しかも帝の威光は雷霆よりも強く、一人の平民を殺すことは蟻塚を潰すのと変わりません。寛大に赦せば、率直な意見を受け容れる度量を示し、天下に徳の広がりを見せることができます。故に臣は、彼を殺すことが必ずしも正しいとは思いません。」帝はまた尋ねた。「司馬遷は刑罰を受けたため、内心に恨みを抱き、『史記』を著して孝武帝(武帝)を非難貶損したので、人に歯ぎしりさせる。」答えて言った。「司馬遷は事実を記録し、虚偽の賛美をせず、悪を隠しませんでした。劉向と揚雄はその叙事の巧みさに感服し、優れた史官の才能があるとし、実録と呼びました。漢の武帝は彼が『史記』を述べたと聞き、孝景帝と自分自身の本紀を取って閲覧し、そこで大いに怒り、削除して投げ捨てました。今、この二つの本紀には目録はあっても本文がありません。後に李陵の事件に遭い、ついに司馬遷を蚕室に下しました。これは恨みが孝武帝にあり、史遷(司馬遷)にはないのです。」
原文帝嘗問曰:「漢桓帝時,白馬令李雲上書言:『帝者,諦也。是帝欲不諦。』當何得不死?」肅對曰:「但爲言失逆順之節。原其本意,皆欲盡心,念存補國。且帝者之威,過於雷霆,殺一匹夫,無異螻蟻。寬而宥之,可以示容受切言,廣德宇於天下。故臣以爲殺之未必爲是也。」帝又問:「司馬遷以受刑之故,內懷隱切,著《史記》非貶孝武,令人切齒。」對曰:「司馬遷記事,不虛美,不隱惡。劉向、揚雄服其善叙事,有良史之才,謂之實錄。漢武帝聞其述《史記》,取孝景及己本紀覽之,於是大怒,削而投之。於今此兩紀有錄無書。後遭李陵事,遂下遷蠶室。此爲隱切在孝武,而不在於史遷也。」
正始元年(240年)、地方に出て広平太守となった。公務で召還され、議郎に任じられた。まもなく、侍中となり、太常に昇進した。当時、大将軍の曹爽が権力を専断し、何晏や鄧颺らを任用していた。王肅は太尉の蔣済、司農の桓範と時政について論じ、厳しい表情で言った。「この連中はまさに弘恭や石顯の類であり、また称賛するなどと!」曹爽はこれを聞き、何晏らに戒めて言った。「共に慎むべきだ!公卿たちは諸君を前世の悪人に例えたぞ。」宗廟に関する事で連座して免職された。後に光禄勲となった。時に二匹の長さ一尺の魚が武庫の屋根に集まり、役人は吉祥と考えた。王肅は言った。「魚は淵に生まれ屋根に上がる、甲や鱗を持つものがその場所を失ったのだ。辺境の将軍に鎧を棄てる変事があるのでは?」その後、果たして東関での敗戦があった。河南尹に転任した。
原文正始元年,出爲廣平太守。公事徵還,拜議郎。頃之,爲侍中,遷太常。時大將軍曹爽專權,任用何晏、鄧颺等。肅與太尉蔣濟、司農桓範論及時政,肅正色曰:「此輩即弘恭、石顯之屬,復稱說邪!」爽聞之,戒何晏等曰:「當共慎之!公卿已比諸君前世惡人矣。」坐宗廟事免。後爲光祿勳。時有二魚長尺,集于武庫之屋,有司以爲吉祥。肅曰:「魚生於淵而亢於屋,介鱗之物失其所也。邊將其殆有棄甲之變乎?」其後果有東關之敗。徙爲河南尹。
嘉平六年、節を持ち太常を兼ね、法駕を奉じて元城で高貴郷公を迎えた。この年、白気が天を横切り、大将軍司馬景王が王粛にその原因を尋ねると、王粛は答えて言った、「これは蚩尤の旗です。東南の方角に乱があるのでしょうか。もしあなたが自らを修めて百姓を安んじれば、天下で安楽を喜ぶ者は徳に帰し、乱を唱える者は先に滅びるでしょう」。翌年の春、鎮東将軍毌丘倹と揚州刺史文欽が反乱を起こした。景王は王粛に言った、「霍光が夏侯勝の言葉に感じて、初めて儒学の士を重んじたのは、確かに理由があることだ。国を安んじ主君を寧らげる方法は、どこにあるのか」。王粛は言った、「昔、関羽が荊州の軍勢を率いて、漢水のほとりで于禁を降伏させ、ついに北に向かって天下を争おうとする志を持った。後に孫権がその将兵の家族を襲撃して奪い取ると、関羽の軍勢は一朝にして瓦解した。今、淮南の将兵の父母妻子は皆、内州にいる。ただ急いで防衛に向かい、彼らを前進させないようにすれば、必ず関羽のような土崩の勢いが起こるでしょう」。景王はこれに従い、ついに毌丘倹と文欽を打ち破った。後に中領軍に昇進し、散騎常侍を加えられ、封邑三百戸を増やされ、以前の分と合わせて二千二百戸となった。甘露元年に死去した。門人で喪服を着て喪に服した者は数百人に及んだ。衛将軍を追贈され、諡は景侯といった。子の王惲が後を継いだ。王惲が死去し、子がなかったため、封国は絶えた。景元四年、王粛の子の王恂を蘭陵侯に封じた。咸煕年間に五等爵制が開設されると、王粛が前朝で功績を顕著にしたことを理由に、王恂を氶子に改封した。(『世語』に曰く、王恂は字を良夫といい、通識あり、朝に在って忠正であった。河南尹・侍中を歴任し、居る所に称あり。乃ち心を公に存し、匪躬の節あり。鬲令の袁毅が駿馬を餽ったが、その財を貪るを知り、受けなかった。袁毅は竟に黷貨を以て敗れた。二学を建立し、五経を崇明したのは、皆王恂の建てた所である。卒した時年四十余、車騎将軍を贈られた。王粛の女は司馬文王に適し、即ち文明皇后であり、晋武帝・斉献王攸を生んだ。『晋諸公賛』に曰く、王恂の兄弟は八人。その達したる者、王虔は字を恭祖といい、功幹を以て称せられ、位は尚書に至った。弟の王愷は字を君夫といい、少くして才力ありしも行検なく、衛尉石崇と友善にして、俱に豪侈を以て世に競い、後将軍に終わった。王虔の子の王康・王隆は、仕えて亦た宦達し、後世の重んずる所となった。)
原文嘉平六年,持節兼太常,奉法駕,迎高貴鄉公于元城。是歲,白氣經天,大將軍司馬景王問肅其故,肅荅曰:「此蚩尤之旗也,東南其有亂乎?君若脩己以安百姓,則天下樂安者歸德,唱亂者先亡矣。」明年春,鎮東將軍毌丘儉、揚州刺史文欽反,景王謂肅曰:「霍光感夏侯勝之言,始重儒學之士,良有以也。安國寧主,其術焉在?」肅曰:「昔關羽率荊州之衆,降于禁於漢濵,遂有北向爭天下之志。後孫權襲取其將士家屬,羽士衆一旦瓦解。今淮南將士父母妻子皆在內州,但急往禦衞,使不得前,必有關羽土崩之勢矣。」景王從之,遂破儉、欽。後遷中領軍,加散騎常侍,增邑三百,并前二千二百戶。甘露元年薨,門生縗絰者以百數。追贈衞將軍,謚曰景侯。子惲嗣。惲薨,無子,國絕。景元四年,封肅子恂爲蘭陵侯。咸熈中,開建五等,以肅著勳前朝,改封恂爲氶子。〈《世語》曰:恂字良夫,有通識,在朝忠正。歷河南尹、侍中,所居有稱。乃心存公,有匪躬之節。鬲令袁毅餽以駿馬,知其貪財,不受。毅竟以黷貨而敗。建立二學,崇明五經,皆恂所建。卒時年四十餘,贈車騎將軍。肅女適司馬文王,即文明皇后,生晉武帝、齊獻王攸。 《晉諸公贊》曰:恂兄弟八人。其達者,虔字恭祖,以功幹見稱,位至尚書。弟愷,字君夫,少有才力而無行檢,與衞尉石崇友善,俱以豪侈競於世,終於後將軍。虔子康、隆,仕亦宦達,爲後世所重。〉
初め、王粛は賈逵と馬融の学問に通じていたが、鄭玄の学説を好まず、諸説の異同を採り合わせて『尚書』、『詩経』、『論語』、三礼、『左氏伝』の解釈を著し、また父の王朗が作った易伝を撰定して、いずれも学官に列せられた。彼が朝廷の典制、郊祀、宗廟、喪紀、軽重について論駁したものは、合わせて百余篇に及んだ。当時、楽安の孫叔然は、鄭玄の門下で学問を授けられ、人々は東州の大儒と称した。秘書監に招聘されたが、就任しなかった。王粛は『聖証論』を集めて鄭玄を批判し、孫叔然はこれに反駁して釈明し、また『周易』、『春秋例』、『毛詩』、『礼記』、春秋三伝、『国語』、『爾雅』の諸注を作り、さらに十余篇の書を著した。魏の初め以来、招聘された士である敦煌の周生烈、明帝の時の大司農弘農の董遇らも、経伝に注釈を加え、広く世に伝わった。(臣裴松之は、叔然が晋の武帝と同名であるため、字で称したと按ずる。周生烈について、臣裴松之は、この人物の姓は周生、名は烈であると按ずる。何晏の『論語集解』に烈の『義例』があり、その他の著述は晋武帝の『中経簿』に見える。『魏略』に言う。董遇は字を季直といい、性質は朴訥で学問を好んだ。興平年間、関中が乱れると、兄の季中と共に将軍段煨に依った。梠を採り、荷を負って売り歩きながら、常に経書を携え、暇を見つけては習い読んだ。兄はこれを笑ったが、董遇は改めなかった。建安の初め、王綱がわずかに整うと、郡が孝廉に挙げ、やがて黄門侍郎に遷った。この時、漢帝は政を太祖(曹操)に委ねており、董遇は朝夕に侍講し、天子に愛信された。二十二年に至り、許の百官が詔を偽ったが、董遇は謀に加わらなかったものの、なお連座して鄴に送られ、冗散の職に転じた。常に太祖の西征に従い、道は孟津を経て、弘農王の墓に立ち寄った。太祖は拝謁しようかと疑い、左右を顧みて問うたが、誰も答えなかった。董遇はそこで列を越えて進み出て言った。「春秋の義では、国君が即位して一年を経ずに卒した場合、君として成っていないとされます。弘農王は即位して間もなく、また暴臣に制されて藩国に降されました。拝謁すべきではありません。」太祖はそこで通過した。黄初年間、郡守として出された。明帝の時、入朝して侍中・大司農となった。数年後、病死した。初め、董遇は『老子』をよく治め、『老子』に訓注を作った。また『左氏伝』に優れ、さらに朱墨で異同を区別した注を作った。学ぼうとする者があったが、董遇は教えようとせず、言った。「必ずまず百遍読むべきだ。」「書を百遍読めば義は自ずから見える」と言った。学ぼうとする者が言った。「苦しく渇しても日がありません。」董遇は言った。「三余を用いるべきだ。」ある人が三余の意味を問うと、董遇は言った。「冬は歳の余り、夜は日の余り、陰雨は時の余りである。」これにより諸生は董遇に学ぶ者が少なく、その朱墨の注を伝える者はいなかった。『世語』に言う。董遇の子の綏は、位は秘書監に至り、また才学があった。斉王冏の功臣董艾は、すなわち綏の子である。)
原文初,肅善賈、馬之學,而不好鄭氏,采會同異,爲《尚書》、《詩》、《論語》、三禮、《左氏解》,及撰定父朗所作易傳,皆列於學官。其所論駮朝廷典制、郊祀、宗廟、喪紀、輕重,凡百餘篇。時樂安孫叔然,〈臣松之按叔然與晉武帝同名,故稱其字。〉授學鄭玄之門,人稱東州大儒。徵爲秘書監,不就。肅集聖證論以譏短玄,叔然駮而釋之,及作《周易》、《春秋例》,《毛詩》、《禮記》、《春秋》三傳、《國語》、《爾雅》諸注,又著書十餘篇。自魏初徵士燉煌周生烈,〈臣松之按此人姓周生,名烈。何晏《論語集解》有烈《義例》,餘所著述,見晉武帝《中經簿》。〉明帝時大司農弘農董遇等,亦歷注經傳,頗傳於世。〈《魏略》曰:遇字季直,性質訥而好學。興平中,關中擾亂,與兄季中依將軍段煨。采梠負販,而常挾持經書,投閑習讀。其兄笑之而遇不改。及建安初,王綱小設,郡舉孝廉,稍遷黃門侍郎。是時,漢帝委政太祖,遇旦夕侍講,爲天子所愛信。至二十二年,許中百官矯制,遇雖不與謀,猶被錄詣鄴,轉爲冗散。常從太祖西征,道由孟津,過弘農王冢。太祖疑欲謁,顧問左右,左右莫對,遇乃越第進曰:「春秋之義,國君即位未踰年而卒,未成爲君。弘農王即阼旣淺,又爲暴臣所制,降在藩國,不應謁。」太祖乃過。黃初中,出爲郡守。明帝時,入爲侍中、大司農。數年,病亡。初,遇善治《老子》,爲《老子》作訓注。又善《左氏傳》,更爲作朱墨別異。人有從學者,遇不肯教,而云:「必當先讀百徧」。言「讀書百徧而義自見」。從學者云:「苦渴無日。」遇言:「當以三餘」。或問三餘之意,遇言:「冬者,歲之餘;夜者,日之餘,陰雨者,時之餘也」。由是諸生少從遇學,無傳其朱墨者。 《世語》曰:遇子綏,位至祕書監,亦有才學。齊王冏功臣董艾,即綏之子也。〉
《魏略》は、董遇と賈洪、邯鄲淳、薛夏、隗禧、蘇林、楽詳の七人を儒宗としており、その序文に次のようにある。「初平の元年から建安の末年に至るまで、天下は分崩離れ、人々は苟且の思いを抱き、綱紀はすでに衰え、儒道は特に甚だしかった。黄初元年の後、新たな君主がようやく立ち、初めて太学の灰炭を掃除し、旧石碑の欠損を補修し、博士の員数を整え、漢代の甲乙の制に依拠して考課を行った。州郡に告げて、学びたい者は皆、太学に派遣させた。太学が開講すると、弟子は数百人いた。太和・青龍年間になると、内外に多くの事変があり、人々は避難や就職を考えた。学問を解する性質でなくとも、多くは太学に赴くことを求めた。太学の諸生は数千人いたが、諸博士は概ね粗略で、弟子を教える術がなかった。弟子たちも本来は労役を避けるためであり、結局学び習うことはできず、冬に来て春に去ることを、年年このようであった。また、優れた者もいたが、台閣の挙格が高すぎ、さらに大義を統べることを考えず、字の指し示すところや墨法・点注の間を問うため、百人が同じ試験を受けても、合格者は十人に満たなかった。このため、志を学問に置く士人はついにまた衰微し、末流の浮虚を求める者がそれぞれ競い合うようになった。正始年間、詔を下して圜丘を議し、広く学士を招いた。当時、郎官および司徒が管轄する吏は二万人余りで、分布していたとはいえ、京師にいる者はなお一万人ほどであり、書に応じて議する者はほとんどいなかった。またこの時、朝堂の公卿以下四百余人のうち、筆を執ることができる者は十人もおらず、多くは皆、互いに従って飽食して退いた。ああ、学業が沈み落ちること、ここに至ったとは。このため、私心は常にひそかにこの数公を貴ぶのである。それぞれが荒乱の際にありながら、志を守り一層篤くしたからである。」 賈洪は字を叔業といい、京兆新豊の人である。学問を好み才能があり、特に『春秋左伝』に精通していた。建安初年、郡に出仕し、計掾に挙げられ、州の辟召に応じた。当時、州中の参軍事以下百余人のうち、ただ賈洪と馮翊の厳苞だけが交わり、才能学問が最も高かった。賈洪は三県の県令を歴任し、任地では常に厄舎を開き、自ら諸生に教授した。後に馬超が反乱を起こし、馬超は賈洪を脅迫し、華陰に連れて行き、露布を作らせた。賈洪はやむを得ず、それを作った。司隷の鍾繇が東方におり、その文を見て言った。「これは賈洪の作だ。」馬超が敗走した後、太祖(曹操)は賈洪を召し出して軍謀掾に任命した。しかし以前に馬超のために露布の文を作ったことを理由に、すぐには叙任しなかった。晩年に至って陰泉長として出された。延康年間、白馬王の相に転じた。談笑や戯れを巧みにこなした。王彪もまた風雅に文学を好み、常に彼を師と仰ぎ、三卿を超えるほどであった。数年後に病死し、亡くなった時は五十余歳で、当時の人は、二千石に至らなかったことを残念がった。厳苞もまた二県の県令を歴任し、黄初年間、高い才能により秘書丞に召された。数度にわたり文賦を奏上し、文帝(曹丕)は彼を異才と認めた。西平太守として出向し、任地で死去した。 薛夏は字を宣声といい、天水の人である。博学で才能があった。天水には旧来、姜・閻・任・趙の四姓があり、常に郡中で推されていたが、薛夏は単家(寒門)であり、屈服しなかった。四姓は共に彼を懲らしめようとしたため、薛夏は遊学し、東方の京師に赴いた。太祖はかねてよりその名を聞いており、非常に礼遇した。後に四姓がまた囚人を使って遠くから薛夏を引き合いに出させ、関移で潁川に送り、捕らえて獄につないだ。当時、太祖はすでに冀州におり、薛夏が本郡から人質に取られたと聞き、手を打って言った。「薛夏に罪はない。漢陽の連中がただ彼を殺したいだけだ!」そこで潁川に告げて理屈を立てて釈放させ、召し出して軍謀掾に任命した。文帝もまたその才能を称え、黄初年間に秘書丞とした。帝は常に薛夏と書伝を推論し、終日を過ごさないことはなかった。常に名で呼ばず、薛君と呼んだ。薛夏の生活は非常に貧しく、帝はまたその衣が薄いのを顧みて、自ら着ていた服の袍を解いて賜った。その後、征東将軍曹休が来朝した時、帝はちょうど薛夏と何かを諮問議論しており、外から曹休の到着が告げられると、帝は彼を引き入れた。着席すると、帝は薛夏を見て曹休に言った。「この方は、秘書丞の天水薛宣声です。共に語るがよい。」このように遇された。まもなく任用しようとしたが、文帝が崩御した。太和年間に至り、公事で蘭台に文書を送ったことがあった。蘭台は自らを台(中央官署)であるとし、秘書はただの署に過ぎないとして、薛夏は文書を送る資格がないとし、責任を負うべき者を推し出そうとした。薛夏はこれに答えて言った。「蘭台は外台、秘書は内閣であり、台と閣は同じものです。どうして文書を送れないことがありましょうか。」蘭台は屈して反論できなかった。この後以来、これが常例となった。数年後に病死し、その子に天水に戻らないよう命じた。 隗禧は字を子牙といい、京兆の人である。代々単家であった。若くして学問を好んだ。初平年間、三輔が乱れると、隗禧は南方の荊州に客寓したが、荒廃と騒擾にもかかわらず、経書を担いで持ち歩き、常に梠を採る余暇に、それを誦習した。太祖が荊州を平定すると、召し出して軍謀掾に任命した。黄初年間、譙王の郎中となった。王はかねてより彼が儒者であると聞き、常に虚心に学び従った。隗禧もまた恭しく敬って王に授け、これにより多くの賜与を得た。病気で帰還し、郎中に任じられた。八十余歳で、老いて家に居ると、彼に学ぼうとする者が非常に多かった。隗禧は経書に明るいだけでなく、星官にも詳しく、常に天文を仰ぎ見て、魚豢に嘆息して言った。「天下の兵戈がまだ止まない。どうしたものか。」魚豢がまたかつて『左氏伝』について尋ねると、隗禧は答えて言った。「幽微を知りたければ易に如くはなく、人倫の紀を知りたければ礼に如くはなく、山川草木の名を多く識りたければ詩に如くはない。左氏はただの戦記書に過ぎず、精意に足るものではない。」魚豢がそこで詩について尋ねると、隗禧は斉・韓・魯・毛の四家の義を説き、もはや文に執着せず、あたかも暗誦するかのようであった。また諸経の解釈を数十万字にわたって撰述したが、清書する前に耳が聞こえなくなり、数年後に病死した。邯鄲淳の事績は〈王粲伝〉に、蘇林の事績は〈劉邵〉〈高堂隆伝〉に、楽詳の事績は〈杜畿伝〉にある。 魚豢が言う。学問が人に資するのは、藍が素絹を染めるのと同じではないか!故にたとえ仲尼でも、なお「私は生まれながらにして知る者ではない」と言うのであり、まして凡庸な品々においてはなおさらである。また世の人が学問を貴ばないのは、必ず「詩三百を誦しても四方に対して専対できない」者を見るからである。私はこれこそ下等な科に過ぎないと考え、中庸以上の者を顧みるべきではなく、材質が適切に等しく、それに文を加えるべきではないか!今この数賢者は、私が知る所の概略である。その事績と能力を検べれば、誠に多くはない。ただ学問を守って絶やさなかったため、上は帝王に称賛され、下は国家の名儒となった。学問によらないでどうしてなれようか。これによって見れば、学問はどうして止めることができようか!
原文〈《魏略》以遇及賈洪、邯鄲淳、薛夏、隗禧、蘇林、樂詳等七人爲儒宗,其序曰:「從初平之元,至建安之末,天下分崩,人懷苟且,綱紀旣衰,儒道尤甚。至黃初元年之後,新主乃復,始掃除太學之灰炭,補舊石碑之缺壞,備博士之員錄,依漢甲乙以考課。申告州郡,有欲學者,皆遣詣太學。太學始開,有弟子數百人。至太和、青龍中,中外多事,人懷避就。雖性非解學,多求詣太學。太學諸生有千數,而諸博士率皆麄踈,無以教弟子。弟子本亦避役,竟無能習學,冬來春去,歲歲如是。又雖有精者,而臺閣舉格太高,加不念統其大義,而問字指墨法點注之間,百人同試,度者未十。是以志學之士遂復陵遲,而末求浮虛者各競逐也。正始中,有詔議圜丘,普延學士。時郎官及司徒領吏二萬餘人,雖復分布,見在京師者尚且萬人,而應書與議者略無幾人。又是時朝堂公卿以下四百餘人,其能操筆者未有十人,多皆相從飽食而退。嗟夫!學業沈隕,乃至於此。是以私心常區區貴乎數公者,各處荒亂之際,而能守志彌敦者也。」 賈洪字叔業,京兆新豐人也。好學有才,而特精於春秋左傳。建安初,仕郡,舉計掾,應州辟。時州中自參軍事以下百餘人,唯洪與馮翊嚴苞交通,材學最高。洪歷守三縣令,所在輒開除廄舍,親授諸生。後馬超反,超劫洪,將詣華陰,使作露布。洪不獲已,爲作之。司隷鍾繇在東,識其文,曰:「此賈洪作也。」及超破走,太祖召洪署軍謀掾。猶以其前爲超作露布文,故不即叙。晚乃出爲陰泉長。延康中,轉爲白馬王相。善能談戲。王彪亦雅好文學,常師宗之,過於三卿。數歲病亡,亡時年五十餘,時人爲之恨仕不至二千石。而嚴苞亦歷守二縣,黃初中,以高才入爲秘書丞,數奏文賦,文帝異之。出爲西平太守,卒官。 薛夏字宣聲,天水人也。博學有才。天水舊有姜、閻、任、趙四姓,常推於郡中,而夏爲單家,不爲降屈。四姓欲共治之,夏乃游逸,東詣京師。太祖宿聞其名,甚禮遇之。後四姓又使囚遙引夏,關移潁川,收捕繫獄。時太祖已在兾州,聞夏爲本郡所質,撫掌曰:「夏無罪也。漢陽兒輩直欲殺之耳!」乃告潁川使理出之,召署軍謀掾。文帝又嘉其才,黃初中爲祕書丞,帝每與夏推論書傳,未嘗不終日也。每呼之不名,而謂之薛君。夏居甚貧,帝又顧其衣薄,解所御服袍賜之。其後征東將軍曹休來朝,時帝方與夏有所咨論,而外啟休到,帝引入。坐定,帝顧夏言之於休曰:「此君,祕書丞天水薛宣聲也,宜共談。」其見遇如此。尋欲用之,會文帝崩。至太和中,嘗以公事移蘭臺。蘭臺自以臺也,而祕書署耳,謂夏爲不得移也,推使當有坐者。夏報之曰:「蘭臺爲外臺,祕書爲內閣,臺、閣,一也,何不相移之有?」蘭臺屈無以折。自是之後,遂以爲常。後數歲病亡,勑其子無還天水。 隗禧字子牙,京兆人也。世單家。少好學。初平中,三輔亂,禧南客荊州,不以荒擾,擔負經書,每以採梠餘日,則誦習之。太祖定荊州,召署軍謀掾。黃初中,爲譙王郎中。王宿聞其儒者,常虛心從學。禧亦敬恭以授王,由是大得賜遺。以病還,拜郎中。年八十餘,以老處家,就之學者甚多。禧旣明經,又善星官,常仰瞻天文,歎息謂魚豢曰:「天下兵戈尚猶未息,如之何?」豢又嘗從問《左氏傳》,禧荅曰:「欲知幽微莫若易,人倫之紀莫若禮,多識山川草木之名莫若詩,左氏直相斫書耳,不足精意也。」豢因從問詩,禧說齊、韓、魯、毛四家義,不復執文,有如諷誦。又撰作諸經解數十萬言,未及繕寫而得聾,後數歲病亡也。其邯鄲淳事在〈王粲傳〉,蘇林事在〈劉邵〉〈高堂隆傳〉,樂詳事在〈杜畿傳〉。 魚豢曰:學之資於人也,其猶藍之染於素乎!故雖仲尼,猶曰「吾非生而知之者」,況凡品哉!且世人所以不貴學者,必見夫有「誦詩三百而不能專對於四方」故也。余以爲是則下科耳,不當顧中庸以上,材質適等,而加之以文乎!今此數賢者,略余之所識也。檢其事能,誠不多也。但以守學不輟,乃上爲帝王所嘉,下爲國家名儒,非由學乎?由是觀之,學其胡可以已哉!〉
評するに、鍾繇は開達で理に通じ、華歆は清純で徳が素朴であり、王朗は文が博く富み贍かにして、誠に皆、一時の俊偉であった。魏氏が初めて帝位についた時、三司に登ったのは、盛んなことである!王肅は亮直で見聞が広く、薪を析くことができた(=事理を明らかにできた)。〈劉寔は、王肅は上に仕えることは方正だが下に対しては自分に諂う者を好む、これが一つの矛盾である。性質は栄貴を嗜むが苟も合うことを求めない、これが二つ目の矛盾である。財物を吝しむが身を治めることは穢れていない、これが三つ目の矛盾である、と考える。〉
原文評曰:鍾繇開達理幹,華歆清純德素,王朗文博富贍,誠皆一時之俊偉也。魏氏初祚,肇登三司,盛矣夫!王肅亮直多聞,能析薪哉!〈劉寔以爲肅方於事上而好下佞己,此一反也。性嗜榮貴而不求苟合,此二反也。吝惜財物而治身不穢,此三反也。〉