三国志

魏書・袁張涼國田王邴管伝

袁渙は字を曜卿といい、陳郡扶楽県の人である。父の滂は、漢の司徒しととなった。

原文袁渙字曜卿,陳郡扶樂人也。父滂,為漢司徒。

当時、諸公子の多くは法度を越えていたが、袁渙は清静で、挙動は必ず礼に基づいた。郡から功曹に任命されたが、郡中の姦吏はみな自ら去った。後に公府に辟召され、高第に挙げられて侍御史に遷った。譙県令に任じられたが、就任しなかった。劉備が豫よ州牧となったとき、袁渙を茂才に推挙した。後に江・淮の地に避難し、袁術に任命された。術が何か諮問するたびに、袁渙は常に正論を述べ、術は抗しきれなかったが、敬って礼を欠かさなかった。ほどなく、呂布が阜陵で袁術を攻撃すると、袁渙は彼のもとに赴き、やがてまた呂布に拘留された。呂布は初め劉備と和親していたが、後に不和となった。呂布は袁渙に書簡を作らせて劉備を罵り辱めようとしたが、袁渙は承知せず、再三強要されても許さなかった。呂布は大いに怒り、兵で袁渙を脅して言った。「やれば生きられ、やらなければ死ぬぞ。」袁渙は顔色一つ変えず、笑って応じた。「袁渙は聞きます。ただ徳だけが人を辱めうるのであって、罵ることでは辱められないと。仮に相手が真の君子ならば、将軍の言葉を恥じることもないでしょう。もし本当に小人ならば、将軍の意に従い返すでしょう。そうなれば辱めはこちらのものであって、相手にあるのではありません。かつて袁渙が劉将軍に仕えたのは、今将軍に仕えているのと同じことです。もし一日ここを去った後、また将軍を罵るようなことがあってよいでしょうか。」呂布は恥じてやめた。(袁宏の『漢紀』に曰く、滂は字を公熈といい、純素で寡欲、人の短所を終と言わなかった。権寵の盛んなるに当たり、或いは同異をもって禍を致す者もあったが、滂は独り朝に中立したので、愛憎は及ばなかった。)

原文〈袁宏《漢紀》曰:滂字公熈,純素寡欲,終不言人之短。當權寵之盛,或以同異致禍,滂獨中立於朝,故愛憎不及焉。〉當時諸公子多越法度,而渙清靜,舉動必以禮。郡命為功曹,郡中姧吏皆自引去。後辟公府,舉高第,遷侍御史。除譙令,不就。劉備之為豫州,舉渙茂才。後避地江、淮間,為袁術所命。術每有所咨訪,渙常正議,術不能抗,然敬之不敢不禮也。頃之,呂布擊術於阜陵,渙往從之,遂復為布所拘留。布初與劉備和親,後離隙。布欲使渙作書詈辱備,渙不可,再三彊之,不許。布大怒,以兵脅渙曰:「為之則生,不為則死。」渙顏色不變,笑而應之曰:「渙聞唯德可以辱人,不聞以罵。使彼固君子邪,且不恥將軍之言,彼誠小人邪,將復將軍之意,則辱在此不在於彼。且渙他日之事劉將軍,猶今日之事將軍也,如一旦去此,復罵將軍,可乎?」布慙而止。

呂布が誅殺されると、ようやく太祖(曹操)のもとに帰ることができた。袁渙は言った。「兵というものは凶器であり、やむを得ずこれを用いるのです。道徳によって鼓舞し、仁義によって征伐し、併せてその民を撫でて害を除く。そうしてこそ、民と生死を共にすることができるのです。大乱以来十数年、民が安寧を欲する気持ちは、逆さに吊るされるより切実です。それなのに暴乱が止まないのは、なぜでしょうか。おそらくは政治がその道を失っているからでしょう。袁渙は聞きます。明君は世を救うことに長けていると。だから世が乱れれば義によって整え、時が偽りに満ちれば質朴によって鎮める。世が異なれば事も変わり、国を治める方法も同じではないので、よく考察しなければなりません。制度の損益は、古今で必ずしも同じでないものです。しかし、天下を兼ね愛して正に戻し、武力で乱を平定しても徳をもって補うことは、まさに百王も変えることのできない道です。公(曹操)は明哲で世を超え、古の君主が民を得た方法は、公はすでに努めておられます。今の世が民を失う原因は、公はすでに戒めておられます。海内は公のおかげで危亡の禍を免れることができました。しかし民はまだ義を知りません。どうか公がこれを教え導かれますように。そうすれば天下は幸いです。」太祖は深く受け入れた。沛はい南部都尉に任命された。(『袁氏世紀』に曰く、呂布が破れた時、陳羣父子も当時呂布の軍にあり、太祖に会うと皆拝した。袁渙だけは高揖して礼を為さず、太祖は甚だ厳憚した。時に太祖はまた衆官に車を各数乗給し、呂布軍中の物を取らせ、欲するままにさせた。衆人は皆重く積んだが、袁渙だけは書数百巻と資糧を取るのみで、衆人はこれを聞き大いに恥じた。袁渙は親しい者に言った。「もし私が行陳にあったなら、軍が発するに足る行糧を取るだけで、これを我が有とすることはない。これによって名を励ますことは、大いに悔恨する。」太祖はますますこれによって彼を重んじた。)

原文布誅,乃得歸太祖。〈《袁氏世紀》曰:布之破也,陳羣父子時亦在布之軍,見太祖皆拜。渙獨高揖不為禮,太祖甚嚴憚之。時太祖又給衆官車各數乘,使取布軍中物,唯其所欲。衆人皆重載,唯渙取書數百卷,資糧而已,衆人聞之,大慙。渙謂所親曰:「脫我以行陳,令軍發足以為行糧而已,不以此為我有。由是厲名也,大悔恨之。」太祖益以此重焉。〉渙言曰:「夫兵者,凶器也,不得已而用之。鼓之以道德,征之以仁義,兼撫其民而除其害。夫然,故可與之死而可與之生。自大亂以來十數年矣,民之欲安,甚於倒縣,然而暴亂未息者,何也?意者政失其道歟!渙聞明君善於救世,故世亂則齊之以義,時偽則鎮之以樸;世異事變,治國不同,不可不察也。夫制度損益,此古今之不必同者也。若夫兼愛天下而反之於正,雖以武平亂而濟之以德,誠百王不易之道也。公明哲超世,古之所以得其民者,公旣勤之矣,今之所以失其民者,公旣戒之矣,海內賴公,得免於危亡之禍,然而民未知義,其唯公所以訓之,則天下幸甚!」太祖深納焉。拜為沛南部都尉。

この時、新たに民を募って屯田を開いたが、民は喜ばず、多くが逃亡した。袁渙は太祖に申し上げた。「民は郷土を安んじ移住を重んじるので、急に変えることはできません。順調に行うのは易しく、逆らって動かすのは難しい。その意向に従い、喜ぶ者だけを採用し、欲しない者には強制すべきではありません。」太祖はこれに従い、百姓は大いに喜んだ。梁の相に遷った。袁渙はいつも諸県に命じた。「必ず鰥寡(やもめと寡婦)と高齢者を保護し、孝子と貞婦を表彰して顕彰せよ。常談に『世が治まれば礼は詳しく、世が乱れれば礼は簡略になる』という。すべては斟酌の間にある。今は騒乱の時で、礼による教化は難しいが、それは我々がどう為すかによるのだ。」政治を行うにあたっては教化を重んじ、思いやりをもって考えた上で実行し、外見は温和だが内には決断力があった。病気のため官を去ると、百姓は彼を慕った。後に諫議大夫・丞相軍祭酒に徴された。前後して賜与を多く受けたが、すべて散財してしまい、家に蓄えはなく、終始産業を問わず、不足すれば人から取ることもあったが、潔癖を装う行いはせず、それでも当時の人々はその清廉さに敬服した。(王沈の『魏書』に曰く、穀熟長の呂岐は朱淵・爰津を善しとし、使者を学に遣わして還らせ、召して用い、相見して淵を師友祭酒に署し、津を決疑祭酒に署した。淵らは各々家に帰り、署を受けなかった。岐は大いに怒り、吏民を率いて淵らを収め、皆杖殺した。議者は多くこれを非とした。袁渙は教えて劾さなかった。主簿の孫徽らは「淵らの罪は死に足らず、長吏に専殺の義なし。孔子は『唯器と名は、以て人に仮すべからず』と称した。これを師友と謂いて大戮を加えるは、刑名相伐ち、以て訓とすべからず」と考えた。袁渙の教えに曰く、「主簿は請わざるを罪とするが、これは則ち然り。淵らの罪は死に足らずと謂うは、則ち非なり。師友の名は、古今に之れ有り。然れども君の師友有り、士大夫の師友有り。君が師友の官を置く者は、其の臣を敬する所以なり。罪有れば刑を加うるは、国の法なり。今其の罪を論ぜずして之を戮師友と謂うは、斯れ失するなり。主簿は弟子戮師の名を取り、君誅臣の実を加うるは、其の類に非ざるなり。夫れ聖哲の治は、時を観て動く、故に必ずしも常に循わず、将に権有らんとす。間者世乱れ、民其の上を陵ぐ、尊君卑臣を務むと雖も、猶お或いは未だせず、而るに反って世の過ちを長ずるは、亦た謬ならずや」と。遂に劾さず。)

原文是時新募民開屯田,民不樂,多逃亡。渙白太祖曰:「夫民安土重遷,不可卒變,易以順行,難以逆動,宜順其意,樂之者乃取,不欲者勿彊。」太祖從之,百姓大恱。遷為梁相。渙每勑諸縣:「務存鰥寡高年,表異孝子貞婦。常談曰『世治則禮詳,世亂則禮簡』,全在斟酌之間耳。方今雖擾攘,難以禮化,然在吾所以為之。」為政崇教訓,恕思而後行,外溫柔而內能斷。〈王沈《魏書》曰:穀熟長呂岐善朱淵、爰津,遣使行學還,召用之,與相見,出署淵師友祭酒,津決疑祭酒。淵等因各歸家,不受署。岐大怒,將吏民收淵等,皆杖殺之,議者多非焉。渙教勿劾,主簿孫徽等以為「淵等罪不足死,長吏無專殺之義,孔子稱『唯器與名,不可以假人』。謂之師友而加大戮,刑名相伐,不可以訓。」渙教曰:「主簿以不請為罪,此則然矣。謂淵等罪不足死,則非也。夫師友之名,古今有之。然有君之師友,有士大夫之師友。夫君置師友之官者,所以敬其臣也;有罪加於刑焉,國之法也。今不論其罪而謂之戮師友,斯失之矣。主簿取弟子戮師之名,而加君誅臣之實,非其類也。夫聖哲之治,觀時而動,故不必循常,將有權也。間者世亂,民陵其上,雖務尊君卑臣,猶或未也,而反長世之過,不亦謬乎!」遂不劾。〉以病去官,百姓思之。後徵為諫議大夫、丞相軍祭酒。前後得賜甚多,皆散盡之,家無所儲,終不問產業,乏則取之於人,不為皦察之行,然時人服其清。

魏国が初めて建てられた時、郎中令となり、御史大夫の職務を代行した。袁渙は太祖(曹操)に言った。「今、天下の大難は既に除かれ、文武を併用することこそが長久の道です。大いに典籍を収集し、先聖の教えを明らかにして、民衆の見聞を改めさせ、海内を美しく風化させれば、遠方の服さない者も文徳をもって招くことができます。」太祖はその言葉を良しとした。時に劉備が死んだという噂が流れ、群臣は皆祝賀したが、袁渙はかつて劉備に官吏として推挙されたことがあったので、一人だけ祝賀しなかった。官に就いて数年で亡くなると、太祖はそのために涙を流し、穀物二千斛を賜った。一つは「太倉の穀千斛を郎中令の家に賜う」という教令、もう一つは「垣下の穀千斛を曜卿(袁渙の字)の家に与える」という教令であり、外はその意図を理解しなかった。教令に言う。「太倉の穀によるのは官法によるものだ。垣下の穀によるのは親旧によるものだ。」また、帝(曹丕)は袁渙がかつて呂布を拒んだことを聞き、袁渙の従弟の袁敏に「袁渙の勇怯はどうか」と尋ねた。袁敏は答えて言った。「袁渙は外見は柔和ですが、大節に臨み、危難に処するその様は、孟賁や夏育でも及ばないでしょう。」袁渙の子の袁侃もまた清らかで純粋、閑雅で質素であり、父の風があり、郡守・尚書の官位を歴任した。〈《袁氏世紀》によると、袁渙には四人の子がいた。袁侃、袁㝢、袁奧、袁準である。袁侃は字を公然といい、議論は清く妥当で、柔和だが侵犯されず、人と交わることを善くした。興廃の間において、人々が奔走するようなことには、常に謙遜して退き行わなかった。当時の人はこれをもって彼を称えた。黄門選部郎の官位を歴任し、清平と号された。次第に昇進して尚書となったが、早世した。袁㝢は字を宣厚といい、精緻な弁論と機微に通じ、道家の言説を好んだ。若くして病に罹り、官に就かずして亡くなった。袁奧は字を公榮といい、行いは風俗を励ますに足り、言葉は簡約で道理に適い、光禄勲で終わった。袁準は字を孝尼といい、忠信公正で、下問を恥とせず、ただ人が己に及ばないことを恐れた。世の事が険しいことが多いため、常に退治して敢えて進取を求めなかった。十余万言の書を著し、治世の務めを論じ、易、周官、詩伝、及び五経の滞った義、聖人の微言について論じ、これを世に伝えた。これは袁準の自序である。荀綽の《九州記》は袁準に俊才があると称え、泰始年間に給事中となった。袁氏の子孫は代々名声と官位があり、貴顕は今日に至っている。〉

原文魏國初建,為郎中令,行御史大夫事。渙言於太祖曰:「今天下大難已除,文武並用,長久之道也。以為可大收篇籍,明先聖之教,以易民視聽,使海內斐然向風,則遠人不服可以文德來之。」太祖善其言。時有傳劉備死者,羣臣皆賀;渙以甞為備舉吏,獨不賀。居官數年卒,太祖為之流涕,賜穀二千斛,一教「以太倉穀千斛賜郎中令之家」,一教「以垣下穀千斛與曜卿家」,外不解其意。教曰:「以太倉穀者,官法也;以垣下穀者,親舊也。」又帝聞渙昔拒呂布之事,問渙從弟敏:「渙勇怯何如?」敏對曰:「渙貌似和柔,然其臨大節,處危難,雖賁、育不過也。」渙子侃,亦清粹閑素,有父風,歷位郡守尚書。〈《袁氏世紀》曰:渙有四子,侃、㝢、奧、準。侃字公然,論議清當,柔而不犯,善與人交。在廢興之間,人之所趣務者,常謙退不為也。時人以是稱之。歷位黃門選部郎,號為清平。稍遷至尚書,早卒。㝢字宣厚,精辯有機理,好道家之言,少被病,未官而卒,奧字公榮,行足以厲俗,言約而理當,終於光祿勳。準字孝尼,忠信公正,不恥下問,唯恐人之不勝己。以世事多險,故常治退而不敢求進。著書十餘萬言,論治世之務,為易、周官、詩傳,及論五經滯義,聖人之微言,以傳於世。此準之自序也。荀綽《九州記》稱準有儁才,泰始中為給事中。袁氏子孫世有名位,貴達至今。〉

初めに、袁渙の従弟の袁霸はは、公に慎み深く功績と才幹があり、魏の初めに大司農となり、同じ郡の何夔と共に当時に知名であった。そして袁霸の子の袁亮、何夔の子の何曾は、袁侃とまた名声を同じくし親しくした。袁亮は貞固で学問と行いがあり、何晏や鄧颺らを憎み、論を著して彼らを痛烈に批判し、河南尹・尚書の官位に至った。〈《晉諸公贊》によると、袁亮の子の袁粲えんさんは字を儀祖といい、文学に博識で、累ねて儒官となり、尚書に至った。〉袁霸の弟の袁徽は、儒者の素養で称えられた。天下の乱に遭い、交州に避難した。司徒が召し出したが、赴かなかった。〈袁宏の《漢紀》によると、初め、天下が乱れようとした時、袁渙は慨然として嘆いて言った。「漢室は衰え、乱は日ならずして起こるだろう。もし天下が擾乱すれば、逃げてどこに安んじられようか。もし天が道を喪わず、民が義によって存続するなら、強くて礼ある者のみが身を庇えるのではないか!」袁徽は言った。「古人に言う、『機を知るは其れ神ならんか』と。機を見て行動する、これが君子が大いに吉である所以だ。天理に盛衰あり、漢はまさに滅びようとしている。大功があれば必ず大事がある。これまた君子が深く認識し、密かに退き蔵すべきことだ。かつ兵革が既に興り、外患は必ず多い。私は遠く山海の跡を求めて、身の免れを図ろう。」乱が起こると、それぞれその志を行った。〉袁徽の弟の袁敏は、武芸に優れ水利を好み、河隄謁者の官に至った。

原文初,渙從弟霸,公恪有功幹,魏初為大司農,及同郡何夔並知名於時。而霸子亮,夔子曾,與侃復齊聲友善。亮貞固有學行,疾何晏、鄧颺等,著論以譏切之,位至河南尹、尚書。〈《晉諸公贊》曰:亮子粲,字儀祖,文學博識,累為儒官,至尚書。〉霸弟徽,以儒素稱。遭天下亂,避難交州。司徒辟,不至。〈袁宏《漢紀》曰:初,天下將亂,渙慨然歎曰:「漢室陵遲,亂無日矣。苟天下擾攘,逃將安之?若天未喪道,民以義存,唯彊而有禮,可以庇身乎!」徽曰:「古人有言:『知機其神乎』!見機而作,君子所以元吉也。天理盛衰,漢其亡矣!夫有大功必有大事,此又君子之所深識,退藏於密者也。且兵革旣興,外患必衆,徽將遠迹山海,以求免身。」及亂作,各行其志。〉徽弟敏,有武藝而好水功,官至河隄謁者。

張範は、字を公儀といい、河内郡脩武県の人である。祖父の張歆は、漢の司徒となった。父の張延は、太尉となった。太傅の袁隗は娘を張範に娶せようとしたが、張範は辞して受けなかった。性格は恬静で道を楽しみ、栄利を顧みず、徴命に応じて就くことはなかった。弟の張承は、字を公先といい、また知名で、方正として徴され、議郎に拝され、伊闕都尉に遷った。董卓が乱を起こすと、張承は徒衆を集めて天下と共に董卓を誅しようとした。張承の弟の張昭は当時議郎で、丁度長安ちょうあんから来て、張承に言った。「今、董卓を誅そうとしても、衆寡敵せず、かつ一朝の謀を起こし、田舎の民を戦わせ、士は普段から慰撫されず、兵は訓練されていないので、成功は難しい。董卓は兵力を恃んで義がなく、固より長くは続かない。帰附すべき所を選び、時を待って動く方が良い。そうして後に志を遂げることができる。」張承はこれを認め、印綬を解き、間道を行って帰郷し、張範と揚州に避難した。袁術は礼を備えて招請したが、張範は病と称して行かず、袁術も強いて屈させなかった。張承を遣わして会わせると、袁術は問うて言った。「昔、周室が衰えると、桓公・文公の覇があり、秦がその政を失うと、漢がこれを受け継いで用いた。今、孤は土地の広さ、士民の衆多をもって、斉桓公の福を求め、高祖こうその跡を擬しようと思うが、どうか。」張承は答えて言った。「それは徳にあって強さにはありません。徳を用いて天下の欲を同じくすることができれば、たとえ匹夫の資質からでも、覇王の功を興すことは難しくありません。もし僭越に擬え、時に逆らって動けば、衆に棄てられ、誰がこれを興せましょうか。」袁術は喜ばなかった。この時、太祖(曹操)が冀州を征討しようとすると、袁術はまた問うて言った。「今、曹公は疲弊した兵数千で、十万の衆に敵対しようとしている。力を量らないと言えよう。あなたはどう思うか。」張承は言った。「漢の徳は衰えても、天命は改まっていません。今、曹公は天子を奉じて天下に令し、たとえ百万の衆に敵しても可能です。」袁術は顔色を変えて不機嫌になり、張承は去った。

原文張範,字公儀,河內脩武人也。祖父歆,為漢司徒。父延,為太尉。太傅袁隗欲以女妻範,範辭不受。性恬靜樂道,忽於榮利,徵命無所就。弟承,字公先,亦知名,以方正徵,拜議郎,遷伊闕都尉。董卓作亂,承欲合徒衆與天下共誅卓。承弟昭時為議郎,適從長安來,謂承曰:「今欲誅卓,衆寡不敵,且起一朝之謀,戰阡陌之民,士不素撫,兵不練習,難以成功。卓阻兵而無義,固不能久;不若擇所歸附,待時而動,然後可以如志。」承然之,乃解印綬間行歸家,與範避地揚州。袁術備禮招請,範稱疾不往,術不彊屈也。遣承與相見,術問曰:「昔周室陵遲,則有桓、文之霸;秦失其政,漢接而用之。今孤以土地之廣,士民之衆,欲徼福齊桓,擬迹高祖,何如?」承對曰:「在德不在彊。夫能用德以同天下之欲,雖由匹夫之資,而興霸王之功,不足為難。若苟僭擬,干時而動,衆之所棄,誰能興之?」術不恱。是時,太祖將征冀州,術復問曰:「今曹公欲以弊兵數千,敵十萬之衆,可謂不量力矣!子以為何如?」承乃曰:「漢德雖衰,天命未改,今曹公挾天子以令天下,雖敵百萬之衆可也。」術作色不懌,承去之。

太祖が冀州を平定すると、使者を遣わして張範を迎えた。張範は病気で彭城に留まり、張承を太祖のもとに遣わした。太祖は上表して諫議大夫とした。張範の子の張陵と張承の子の張戩が山東の賊に捕らえられた。張範は直ちに賊のもとに赴いて二人の子を請うた。賊は張陵を張範に返した。張範は謝して言った。「諸君が子供を返してくださるのは厚情です。人の情として子を愛するのは当然ですが、私は張戩の幼さを憐れみます。張陵と交換させてください。」賊はその言葉を義として、二人とも張範に返した。太祖が荊州から帰還すると、張範は陳で謁見し、議郎とされ、丞相軍事に参じ、非常に敬重された。太祖が征伐する時は、常に張範と邴原を留め置き、世子(曹丕)と共に居守させた。太祖は文帝(曹丕)に「挙動は必ずこの二人に諮問せよ」と言った。世子は子孫の礼を執った。窮乏を救済し恤れみ、家には余るものなく、内外の孤寡は皆彼のもとに帰した。贈り物は拒まず受け取ったが、結局用いることもなく、去る時には皆返した。建安十七年に亡くなった。魏国が初めて建てられた時、張承は丞相参軍祭酒を兼ねて趙郡太守となり、政教と化育が大いに行われた。太祖が西征しようとすると、張承を徴して軍事に参じさせ、長安に至った時、病で亡くなった。

原文太祖平冀州,遣使迎範。範以疾留彭城,遣承詣太祖,太祖表以為諫議大夫。範子陵及承子戩為山東賊所得,範直詣賊請二子,賊以陵還範。範謝曰:「諸君相還兒厚矣。夫人情雖愛其子,然吾憐戩之小,請以陵易之。」賊義其言,悉以還範。太祖自荊州還,範得見於陳,以為議郎,參丞相軍事,甚見敬重。太祖征伐,常令範及邴原留,與世子居守。太祖謂文帝:「舉動必諮此二人。」世子執子孫禮。救恤窮乏,家無所餘,中外孤寡皆歸焉。贈遺無所逆,亦終不用,及去,皆以還之。建安十七年卒。魏國初建,承以丞相參軍祭酒領趙郡太守,政化大行。太祖將西征,徵承參軍事,至長安,病卒。
原文〈王沈《魏書》曰:文帝即位,以範子參為郎中。承孫邵,晉中護軍,與舅楊駿俱被誅。事見《晉書》。〉

涼茂は字を伯方といい、山陽郡昌邑県の人である。若い頃から学問を好み、議論する際には常に経典を根拠として、是非を判断した。太祖(曹操)は彼を司空しくう掾に召し出し、高い成績で推挙され、侍御史に補任された。当時、泰山郡には多くの盗賊がおり、茂を泰山太守に任命すると、一か月ほどの間に、幼児を背負ってやって来る者が千余家に及んだ。楽浪太守に転任した。公孫度が遼東にいた時、茂を勝手に引き留めて赴任させず、しかし茂は終始屈しなかった。度は茂と諸将に向かって言った。「曹公が遠征し、鄴に守備がないと聞く。今、私は歩兵三万、騎兵一万騎を率いて、まっすぐ鄴を目指そうと思うが、誰がこれを防げるだろうか。」諸将は皆、「その通りです」と言った。また振り返って茂に言った。「あなたのご意見はどうか。」茂は答えた。「近ごろ海内は大いに乱れ、社稷(国家)が傾こうとしている。将軍は十万の兵を擁しながら、安座して成敗を見守っている。人臣たる者が、果たしてこのようなことがあってよいのか。曹公は国家の危難を憂い、百姓の苦しみを哀れみ、義兵を率いて天下のために残虐な賊を誅伐し、功績は高く徳は広く、二つとないと言える。海内がようやく平定され、民が初めて安らかに集まり始めたので、まだ将軍の罪を問わないだけである。将軍がまさに兵を挙げて西に向かおうとするなら、存亡の結果は、朝のうちに決するだろう。将軍、どうかよく考えてください。」諸将は茂の言葉を聞いて、皆震撼した。しばらくして、度は言った。「涼君の言う通りだ。」後に召し出されて魏郡太守・甘陵相に転任し、任地ごとに実績を上げた。文帝(曹丕)が五官中郎将であった時、茂は選ばれて長史となり、左軍師に昇進した。魏国が初めて建てられた時、尚書僕射に昇進し、後に中尉奉常となった。文帝が東宮(皇太子)にいた時、茂は再び太子太傅となり、非常に尊敬され礼遇された。官職のまま死去した。(『博物記』に曰く、襁は織縷を以て之を為り、広さ八寸、長さ一尺二寸、以て小児を背上に約め、之を負いて行く。臣松之案ずるに、此の伝に公孫度が曹公の遠征を聞き、鄴に守備なしと云うは、則ち太祖が鄴を定めた後なり。〈度伝〉を案ずるに、度は建安九年を以て卒し、太祖も亦た此の年を以て鄴を定め、自後遠征は、唯だ北のかた柳城を征するのみ。柳城を征するの年、度は已に復た在らず。『英雄記』に曰く、茂の名は八友の中に在り。)

原文涼茂字伯方,山陽昌邑人也。少好學,論議常據經典,以處是非。太祖辟為司空掾,舉高第,補侍御史。時泰山多盜賊,以茂為泰山太守,旬月之閒,襁負而至者千餘家。〈《博物記》曰:襁,織縷為之,廣八寸,長尺二,以約小兒於背上,負之而行。〉轉為樂浪太守。公孫度在遼東,擅留茂,不遣之官,然茂終不為屈。度謂茂及諸將曰:「聞曹公遠征,鄴無守備,今吾欲以步卒三萬,騎萬匹,直指鄴,誰能禦之?」諸將皆曰:「然。」〈臣松之案此傳云公孫度聞曹公遠征,鄴無守備,則太祖定鄴後也。案〈度傳〉,度以建安九年卒,太祖亦以此年定鄴,自後遠征,唯有北征柳城耳。征柳城之年,度已不復在矣。〉又顧謂茂曰:「於君意何如?」茂荅曰:「比者海內大亂,社稷將傾,將軍擁十萬之衆,安坐而觀成敗,夫為人臣者,固若是邪!曹公憂國家之危敗,愍百姓之苦毒,率義兵為天下誅殘賊,功高而德廣,可謂無二矣。以海內初定,民始安集,故未責將軍之罪耳!而將軍乃欲稱兵西向,則存亡之效,不崇朝而決。將軍其勉之!」諸將聞茂言,皆震動。良久,度曰:「涼君言是也。」後徵遷為魏郡太守、甘陵相,所在有績。文帝為五官將,茂以選為長史,遷左軍師。魏國初建,遷尚書僕射,後為中尉奉常。文帝在東宮,茂復為太子太傅,甚見敬禮。卒官。〈《英雄記》曰:茂名在八友中。〉

国淵は字を子尼といい、楽安郡蓋県の人である。鄭玄に師事した。後に邴原・管寧らとともに遼東に避乱した。旧地に戻ると、太祖は彼を司空掾属に召し出した。公の場での議論では常に直言し顔色を正し、退いてから私的なことはなかった。太祖が屯田を広く設置しようとした時、淵にその事務を主管させた。淵はたびたび利害得失を述べ、土地を調べて民を配置し、民の数に合わせて官吏を置き、功績を査定する法を明らかにし、五年のうちに倉庫は豊かになり、百姓は競って励み職業を楽しんだ。太祖が関中を征伐した時、淵を居府長史とし、留守の事務を統括させた。田銀・蘇伯が河間で反乱を起こし、銀らが敗れた後、残党がいて、皆処刑されるはずであった。淵は首謀者ではないとして、刑の執行を控えるよう請願した。太祖はこれに従い、淵のおかげで命が助かった者は千余人に及んだ。賊を討伐した文書は、従来は一を十と報告していたが、淵が首級を報告した時は、実際の数通りであった。太祖がその理由を尋ねると、淵は言った。「外敵を征討する時、斬獲の数を多く報告するのは、大いなる武功を示し、また民衆に聞かせるためです。河間は我が封域の内にあり、銀らの叛逆は、たとえ勝利して功績があっても、私は密かに恥ずかしく思います。」太祖は大いに喜び、魏郡太守に昇進させた。(『玄別伝』に曰く、国淵は最初は名を知られていなかったが、鄭玄が彼を称えて「国子尼は優れた才能の持ち主である。私がその人を見るに、必ず国の器となるであろう」と言った。王沈『魏書』に曰く、国淵は学問に篤く古を好み、遼東に在っては常に山岩で講学し、士人の多くが彼を推慕した。これによって名を知られるようになった。)

原文國淵字子尼,樂安蓋人也。師事鄭玄。〈《玄別傳》曰:淵始未知名,玄稱之曰:「國子尼,美才也,吾觀其人,必為國器。」〉後與邴原、管寧等避亂遼東。〈王沈《魏書》曰:淵篤學好古,在遼東,常講學於山巖,士人多推慕之,由此知名。〉旣還舊土,太祖辟為司空掾屬,每於公朝論議,常直言正色,退無私焉。太祖欲廣置屯田,使淵典其事。淵屢陳損益,相土處民,計民置吏,明功課之法,五年中倉廩豐實,百姓競勸樂業。太祖征關中,以淵為居府長史,統留事。田銀、蘇伯反河閒,銀等旣破,後有餘黨,皆應伏法。淵以為非首惡,請不行刑。太祖從之,賴淵得生者千餘人。破賊文書,舊以一為十,及淵上首級,如其實數。太祖問其故,淵曰:「夫征討外寇,多其斬獲之數者,欲以大武功,且示民聽也。河閒在封域之內,銀等叛逆,雖克捷有功,淵竊恥之。」太祖大恱,遷魏郡太守。

当時、誹謗の投書をする者がおり、太祖はこれを憎み、必ず主犯を知りたいと思った。淵はその原本を留め置き、公開しないよう請願した。その手紙には『二京賦』(張衡の『西京賦』『東京賦』)の引用が多かった。淵は功曹に命じて言った。「この郡は大きく、今は都の近くにあるが、学問をする者が少ない。若くて理解力のある者を選び、師匠につかせたい。」功曹が三人を選び、派遣前に引見して、「学んだことがまだ及ばない。『二京賦』は博識の書であるが、世間では軽視され、師匠となる者が少ない。読める者を求めて師事させよ」と訓示した。また密かに意図を伝えた。十日ほどで読める者を見つけ、そこで師事させた。役人はその者に手紙を書かせ、その筆跡を投書と比較すると、投書人と同じ筆跡であった。逮捕して取り調べると、事情をことごとく明らかにした。太僕に昇進した。列卿の地位にありながら、布衣と粗食に甘んじ、俸禄や賜物は旧知や宗族に分け与え、恭倹を自ら守り、官職のまま死去した。

原文時有投書誹謗者,太祖疾之,欲必知其主。淵請留其本書,而不宣露。其書多引二京賦,淵勑功曹曰:「此郡旣大,今在都輦,而少學問者。其簡開解年少,欲遣就師。」功曹差三人,臨遣引見,訓以「所學未及,二京賦,博物之書也,世人忽略,少有其師,可求能讀者從受之。」又密喻旨。旬日得能讀者,遂往受業。吏因請使作箋,比方其書,與投書人同手。收攝案問,具得情理。遷太僕。居列卿位,布衣蔬食,祿賜散之舊故宗族,以恭儉自守,卒官。〈王沈《魏書》曰:太祖以其子泰為郎。〉

田疇は字を子泰といい、右北平郡無終県の人である。読書と剣術を好んだ。初平元年、義兵が起こり、董卓が皇帝を長安に遷都した。幽州牧の劉虞は嘆いて言った。「賊臣が乱を起こし、朝廷は流浪し、四海はたちまち動揺し、固い志を持つ者はいない。私は宗室の遺老として、衆人と同じようにはできない。今、使者を立てて臣下の節を尽くそうと思うが、使命を辱めない士はいないものか。」衆議は皆、「田疇は若年ではあるが、多くの者がその非凡さを称えています」と言った。疇は当時二十二歳であった。虞は礼を尽くして面会を求め、大いに喜び、遂に従事に任命し、車騎を整えさせた。出発しようとする時、疇は言った。「今、道路は遮断され、賊や虜が横行しています。官名を称えて使者を務めれば、衆人の目に留まります。私的な旅として行き、到達を期したいだけです。」虞はこれに従った。疇は帰宅し、自ら家来の客と若くて勇壮で従いたいと慕う者二十騎を選び、ともに出発した。虞は自ら出て餞別をして送り出した。

原文田疇字子泰,右北平無終人也。好讀書、擊劒。初平元年,義兵起,董卓遷帝于長安。幽州牧劉虞歎曰:「賊臣作亂,朝廷播蕩,四海俄然,莫有固志。身備宗室遺老,不得自同於衆。今欲奉使展效臣節,安得不辱命之士乎?」衆議咸曰:「田疇雖年少,多稱其奇。」疇時年二十二矣。虞乃備禮請與相見,大恱之,遂署為從事,具其車騎。將行,疇曰:「今道路阻絕,寇虜縱橫,稱官奉使,為衆所指名。願以私行,期於得達而已。」虞從之。疇乃歸,自選其家客與年少之勇壯慕從者二十騎俱往。虞自出祖而遣之。

道を取ると、疇はさらに西関を越え、塞を出て、北方に沿い、まっすぐ朔方に向かい、間道を進んで、遂に長安に到着して使命を果たした。詔により騎都尉に任命された。疇は天子がまだ蒙塵(難を避けて流浪)して安らかでないのに、栄誉の官位を受けることはできないとして、固辞して受けなかった。朝廷はその義を高く評価した。三府(太尉・司徒・司空の府)がともに召し出したが、いずれも就任しなかった。返答を得て、駆け戻ったが、到着する前に、虞はすでに公孫瓚に殺害されていた。疇は到着すると、虞の墓を拝謁し祭り、上奏文を開封して読み、泣きながら去った。瓚はこれを聞いて激怒し、賞金をかけて疇を捕らえ、言った。「お前はどうして自ら劉虞の墓で泣き、私に上奏文を報告しなかったのか。」疇は答えた。「漢室は衰え、人は異心を抱いています。ただ劉公だけが忠節を失いませんでした。上奏文の内容は、将軍にとって美しいものではなく、お聞きになりたくないだろうと思い、進呈しませんでした。また将軍はまさに大事を挙げてご所望のものを求めようとしています。無罪の君を滅ぼし、さらに義を守る臣に仇をなす。もし本当にこのことを行えば、燕・趙の士は皆、東海に身を投げて死ぬでしょう。どうして将軍に従う者がありましょうか。」瓚はその答えを立派だと思い、誅殺せずに釈放した。軍中に拘束し、旧知の者との接触を禁じた。ある者が瓚に言った。「田疇は義士です。君は礼を尽くせないばかりか、囚禁すれば、衆人の心を失う恐れがあります。」瓚はそこで疇を釈放して帰らせた。(『先賢行状』に曰く、田疇が行こうとした時、劉虞を引き寄せて密かに議した。田疇はそこで劉虞を説いて「今、皇帝は幼弱で、姦臣が命を専らにしている。上表しても返答を待たねばならず、事機を失うことが恐れられます。また公孫瓚は兵に頼って安んじて忍び、早く図らなければ、必ず後悔があるでしょう」と言ったが、劉虞は聞き入れなかった。)

原文〈《先賢行狀》曰:疇將行,引虞密與議。疇因說虞曰:「今帝主幼弱,姧臣擅命,表上須報,懼失事機。且公孫瓚阻兵安忍,不早圖之,必有後悔。」虞不聽。〉旣取道,疇乃更上西關,出塞,傍北方,直趣朔方,循閒徑去,遂至長安致命。詔拜騎都尉。疇以為天子方蒙塵未安,不可以荷佩榮寵,固辭不受。朝廷高其義。三府並辟,皆不就。得報,馳還,未至,虞已為公孫瓚所害。疇至,謁祭虞墓,陳發章表,哭泣而去。瓚聞之大怒,購求獲疇,謂曰:「汝何自哭劉虞墓,而不送章報於我也?」疇荅曰:「漢室衰穨,人懷異心,唯劉公不失忠節。章報所言,於將軍未美,恐非所樂聞,故不進也。且將軍方舉大事以求所欲,旣滅無罪之君,又讎守義之臣,誠行此事,則燕、趙之士將皆蹈東海而死耳,豈忍有從將軍者乎!」瓚壯其對,釋不誅也。拘之軍下,禁其故人莫得與通。或說瓚曰:「田疇義士,君弗能禮,而又囚之,恐失衆心。」瓚乃縱遣疇。

田疇は北へ帰ることができ、一族郎党や他の付き従う者数百人を率い、地面を掃いて盟約を結び、言った。「君主の仇を報いなければ、私はこの世に立つことができない!」そこで徐無山に入り、険しくも平らで広い土地に営地を構えて住み、自ら耕作して父母を養った。民衆が彼のもとに集まり、数年で五千戸余りにまでなった。田疇は父老たちに言った。「皆様は私が愚かであるにもかかわらず、遠くから来て私のもとに集まってくださった。多くの人が集まって都邑のようになったが、誰も統率する者がおらず、長く安泰でいる道ではないと恐れます。どうか賢明で年長の者を推挙して主としましょう。」皆が言った。「よろしい。」一同は田疇を推挙した。田疇は言った。「今ここに来たのは、ただ安穏に過ごすためではなく、大事を図り、怨みを晴らし恥を雪ごうとするためです。私は志を達成する前に、軽薄な者たちが互いに侵害し侮り、一時の快楽にふけり、深い計略や遠い考えを持たないことを恐れています。私に愚かな考えがありますが、皆様と共にそれを実行したいと思います。よろしいでしょうか。」皆が言った。「よろしい。」田疇はそこで、殺傷、盗み、争訟に関する法規を定め、法で重いものは死罪に至り、次は罪に相当する罰とし、二十余条に及んだ。また婚姻嫁娶の礼を制定し、学校を興して講授の業を行い、人々に公布して実行させた。人々は皆それを便利とし、道に落ちているものを拾わないほどになった。北方の辺境は彼の威信に服し、烏丸、鮮卑はそれぞれ通訳の使者を遣わして貢物を贈ったが、田疇はすべて慰撫して受け入れ、寇掠を行わないようにさせた。袁紹はたびたび使者を遣わして招き任官しようとし、またすぐに将軍の印綬を授けて、統治する地域を安んじ集めさせようとしたが、田疇はすべて拒絶して受けなかった。袁紹が死ぬと、その子の袁尚もまた彼を召し出したが、田疇は結局行かなかった。

原文疇得北歸,率舉宗族他附從數百人,埽地而盟曰:「君仇不報,吾不可以立於世!」遂入徐無山中,營深險平敞地而居,躬耕以養父母。百姓歸之,數年閒至五千餘家。疇謂其父老曰:「諸君不以疇不肖,遠來相就。衆成都邑,而莫相統一,恐非久安之道,願推擇其賢長者以為之主。」皆曰:「善。」同僉推疇。疇曰:「今來在此,非苟安而已,將圖大事,復怨雪恥。竊恐未得其志,而輕薄之徒自相侵侮,偷快一時,無深計遠慮。疇有愚計,願與諸君共施之,可乎?」皆曰:「可。」疇乃為約束相殺傷、犯盜、諍訟之法,法重者至死,其次抵罪,二十餘條。又制為婚姻嫁娶之禮,興舉學校講授之業,班行其衆,衆皆便之,至道不拾遺。北邊翕然服其威信,烏丸、鮮卑並各遣譯使致貢遺,疇悉撫納,令不為寇。袁紹數遣使招命,又即授將軍印,因安輯所統,疇皆拒不受。紹死,其子尚又辟焉,疇終不行。

田疇は常に、烏丸がかつて多く彼の郡の官吏を殺害したことを憤り、討伐したいと考えていたが、力が及ばなかった。建安十二年、太祖(曹操)が烏丸を北征したが、到着する前に先に使者を遣わして田疇を召し出し、また田預に命じて意図を伝えさせた。田疇は門下の者に急いで旅装を整えるよう戒めた。門人が言った。「かつて袁公(袁紹)はあなたを慕い、礼と命令が五度も届きましたが、あなたは義を守って屈しませんでした。今、曹公の使者が一度来ただけで、あなたは間に合わないのではないかと恐れているようですが、なぜですか。」田疇は笑って答えた。「これはあなたが理解できることではない。」そこで使者に従って軍営に到着し、司空戸曹掾に任命され、引見されて諮問を受けた。翌日、太祖は命令を出して言った。「田子泰(田疇)は私が官吏として扱うべき者ではない。」すぐに茂才に推挙し、蓨県令に任命したが、彼は任地に赴かず、軍に従って無終に駐屯した。時はちょうど夏で雨が降り、海辺は低湿地でぬかるみがひどく通行できず、敵もまた小道や要所を遮って守っていたため、軍は進むことができなかった。太祖はこれを憂い、田疇に尋ねた。田疇は言った。「この道は、秋と夏には常に水が多く、浅いところでは車馬が通れず、深いところでは舟船が浮かばず、困難な状態が長く続いています。かつての北平郡の役所は平岡にあり、道は盧龍から出て柳城に至っていました。建武以来、陥没・破損して途絶え、ほぼ二百年になりますが、まだ細い小道が通じています。今、敵軍は大軍が無終から来ると考えており、進めずに退却すれば、警戒が緩み無防備になります。もし黙って軍を返し、盧龍口から白檀の険しい地を越え、空虚な地に出れば、道は近くて便利で、その不意を襲えば、蹋頓の首を戦わずして捕らえることができます。」太祖は言った。「よろしい。」そこで軍を引き返し、水辺の道端に大きな木の標識を立てて言った。「今は暑い夏で、道路が通じない。しばらく秋冬を待って、再び進軍しよう。」敵の偵察騎兵がこれを見て、確かに大軍が去ったと思い込んだ。太祖は田疇に命じてその配下を率いて先導させ、徐無山を登り、盧龍を出て、平岡を経由し、白狼堆に登った。柳城から二百余里のところで、敵はようやく驚いて気づいた。単于自ら陣頭に立ち、太祖と交戦したが、遂に大いに斬り獲り、敗走する敵を追撃して柳城に至った。軍が塞内に帰還すると、功績を論じて封賞を行い、田疇を亭侯に封じ、邑五百戸を与えた。(『先賢行状』には、太祖が田疇の功績を論じた上表文を載せている。「文雅に優れ、忠武もまた顕著で、下を撫でることに和やかであり、上に仕えることに慎み深く、時を量り理を度し、進退は義に合っている。幽州が乱れ始めた時、胡と漢が入り乱れ、離散して住み、頼るべきものがなかった。田疇は一族を率いて無終山に避難し、北は盧龍を拒み、南は要害を守り、清く静かに隠れ住み、耕してから食し、人民は感化されて従い、皆共に物資を奉った。袁紹父子の威力が北方の野に加わり、遠く烏丸と結び、首尾を合わせて、前後して田疇を召し出したが、終に屈服させることができなかった。後に臣(私)が命を受け、軍を易県に駐屯させると、田疇は長駆して自ら到着し、胡を討つ勢いを述べたのは、あたかも広武君が燕の策を建てたようであり、薛公が淮南を推し量ったようであった。また配下の者に臣の露布を持たせて出させ、胡の衆を誘い出し、漢民はそれに乗じて逃亡して来る者もあり、烏丸はそれを聞いて震動した。王師が塞外に出る時、道は山中を九百余里通り、田疇は兵五百を率いて山谷を先導し、遂に烏丸を威圧し、塞外を平定した。田疇の文武の功績は効果があり、節義は賞賛すべきもので、誠に寵賞を与え、その美を顕彰すべきである。」)田疇は、自分が最初に難を避け、衆を率いて逃げ隠れしたのに、志義を立てず、逆に利益を得るのは本意ではないと考え、固辞した。太祖は彼の真心を知り、許して強要しなかった。(『魏書』には太祖の令を載せている。「昔、伯成が国を棄てた時、夏后(禹)は奪わなかった。これは高尚な士と優れた賢主を、一世に止まらせないためである。田疇の執るところを聞き入れよ。」)

原文疇常忿烏丸昔多賊殺其郡冠蓋,有欲討之意而力未能。建安十二年,太祖北征烏丸,未至,先遣使辟疇,又命田預喻指。疇戒其門下趣治嚴。門人謂曰:「昔袁公慕君,禮命五至,君義不屈;今曹公使一來而君若恐弗及者,何也?」疇笑而應之曰:「此非君所識也。」遂隨使者到軍,署司空戶曹掾,引見諮議。明日出令曰:「田子泰非吾所宜吏者。」即舉茂才,拜為蓨令,不之官,隨軍次無終。時方夏水雨,而濵海洿下,濘滯不通,虜亦遮守蹊要,軍不得進。太祖患之,以問疇。疇曰:「此道,秋夏每常有水,淺不通車馬,深不載舟船,為難久矣。舊北平郡治在平岡,道出盧龍,達于柳城;自建武以來,陷壞斷絕,垂二百載,而尚有微徑可從。今虜將以大軍當由無終,不得進而退,懈弛無備。若嘿回軍,從盧龍口越白檀之險,出空虛之地,路近而便,掩其不備,蹋頓之首可不戰而禽也。」太祖曰:「善。」乃引軍還,而署大木表於水側路傍曰:「方今暑夏,道路不通,且俟秋冬,乃復進軍。」虜候騎見之,誠以為大軍去也。太祖令疇將其衆為鄉導,上徐無山,出盧龍,歷平岡,登白狼堆,去柳城二百餘里,虜乃驚覺。單于身自臨陣,太祖與交戰,遂大斬獲,追奔逐北,至柳城。軍還入塞,論功行封,封疇亭侯,邑五百戶。〈《先賢行狀》載太祖表論疇功曰:「文雅優備,忠武又著,和於撫下,慎於事上,量時度理,進退合義。幽州始擾,胡、漢交萃,蕩析離居,靡所依懷。疇率宗人避難於無終山,北拒盧龍,南守要害,清靜隱約,耕而後食,人民化從,咸共資奉。及袁紹父子威力加於朔野,遠結烏丸,與為首尾,前後召疇,終不陷撓。後臣奉命,軍次易縣,疇長驅自到,陳討胡之勢,猶廣武之建燕策,薛公之度淮南。又使部曲持臣露布,出誘胡衆,漢民或因亡來,烏丸聞之震蕩。王旅出塞,塗由山中九百餘里,疇帥兵五百,啟導山谷,遂威烏丸,蕩平塞表。疇文武有效,節義可嘉,誠應寵賞,以旌其美。」〉疇自以始為居難,率衆循逃,志義不立,反以為利,非本意也,固讓。太祖知其至心,許而不奪。〈《魏書》載太祖令曰:「昔伯成棄國,夏后不奪,將欲使高尚之士,優賢之主,不止於一世也。其聽疇所執。」〉

遼東で袁尚の首級が斬られて送られてきた時、曹操は「三軍の中で敢えて彼のために泣く者があれば斬る」と命じた。田疇はかつて袁尚に召し出されたことがあったため、弔問と祭祀を行った。曹操も咎めなかった。田疇は一族と同族三百余家を引き連れて鄴に住んだ。曹操は田疇に車馬や穀物・絹を賜ったが、彼はそれをすべて宗族や旧知に分け与えた。荊州征伐から帰還した後、曹操は田疇の功績が特に優れていることを思い返し、以前に田疇の辞退を聞き入れたことを悔やみ、「これは一人の志を成し遂げさせたが、王法の大制度を損なったことになる」と言った。そこで以前の爵位で田疇を封じようとした。田疇は上疏して誠意を述べ、死をもって誓った。曹操は聞き入れず、官職に就かせようと、四度に及んでも、田疇はついに受けなかった。役人が田疇を潔癖すぎて道理に背き、小さな節義を立てているだけだと弾劾し、官を免じて刑を加えるべきだと上奏した。曹操はこの件を重く見て、しばらく決断をためらった。そこで世子と大臣たちに広く議論させた。世子は、田疇は子文が俸禄を辞退し、申胥が賞賜を逃れたのと同じであり、その節義を尊重して奪うべきではないと論じた。尚書令しょうしょれいの荀彧と司隷校尉こういの鍾繇もそれに従うべきだと考えた。曹操はなおも侯に封じようとした。田疇は平素から夏侯惇と親しかったので、曹操は夏侯惇に「まず行って、情をもって諭してみよ。君の言葉として話し、私の意図を告げてはならない」と命じた。夏侯惇は田疇の宿舎を訪れ、曹操の戒めの通りに話した。田疇はその意図を察し、それ以上は何も言わなかった。夏侯惇が帰ろうとする時、田疇の背中を叩いて言った。「田君よ、主君の情け深いお気持ちを、顧みられないのか」。田疇は答えた。「なんという過ったお言葉でしょう。私は、義に背いて逃げ隠れした者です。恩恵を受けて命を全うできたことは、すでに幸運の極みです。どうして盧龍の塞ぎを売り、賞禄と交換できましょうか。たとえ国が私を特別に遇したとしても、私は心に恥じないでしょうか。将軍は私をよくご存知の方ですら、なおこのようにおっしゃるのです。もしどうしてもというのであれば、どうかこの場で死をもって、首を刎ねてお詫び申し上げさせてください」。言葉が終わらないうちに、涙が流れ落ちた。夏侯惇はその様子を曹操に詳しく報告した。曹操は慨嘆し、彼を屈させられないと悟り、議郎に任命した。四十六歳で亡くなった。子も早くに死んだ。文帝が即位すると、田疇の徳義を高く評価し、田疇の従孫の田続に関内侯の爵位を賜り、その祭祀を継がせた。(臣松之は思うに、田疇が袁紹父子の命に応じなかったのは、それが正しくないからである。ゆえに魏祖に対してことごとく諫め、盧龍の策を建てた。袁尚をして奔迸させ、遼東で首を授けさせたのは、皆田疇によるものである。すでに彼を賊と明言したのに、どうしてまたその首を弔祭するのか。もしかつて辟命を受けたことをもって義がそこにあるとするなら、人のために謀を設けてこのような事態に至らせるべきではない。田疇のこの挙止は、まことに進退当を得ず、王脩が袁譚を哭したのと、貌は同じでも心は異なる。『先賢行状』に太祖の令を載せる。『魏書』に世子の議を載せる。『魏略』に教を載せる。『魏書』に荀彧の議を載せる。臣松之は『呂氏春秋』を案ずる。この語は鍾繇の引くものと対応せず、詳らかでない。)

原文遼東斬送袁尚首,令「三軍敢有哭之者斬」。疇以甞為尚所辟,乃往弔祭。太祖亦不問。〈臣松之以為田疇不應袁紹父子之命,以其非正也。故盡規魏祖,建盧龍之策。致使袁尚奔迸,授首遼東,皆疇之由也。旣已明其為賊,胡為復弔祭其首乎?若以甞被辟命,義在其中,則不應為人設謀,使其至此也。疇此舉止,良為進退無當,與王脩哭袁譚,貌同而心異也。〉疇盡將其家屬及宗人三百餘家居鄴。太祖賜疇車馬穀帛,皆散之宗族知舊。從征荊州還,太祖追念疇功殊美,恨前聽疇之讓,曰:「是成一人之志,而虧王法大制也。」於是乃復以前爵封疇。〈《先賢行狀》載太祖令曰:「蓨令田疇,志節高尚,遭值州里戎夏交亂,引身深山,研精味道,百姓從之,以成都邑。袁賊之盛,命召不屈。慷慨守志,以徼真主。及孤奉詔征定河北,遂服幽都,將定胡寇,特加禮命。疇即受署,陳建攻胡蹊路所由,率齊山民,一時向化,開塞導道,供承使役,路近而便,令虜不意。斬蹋頓於白狼,遂長驅於柳城,疇有力焉。及軍入塞,將圖其功,表封亭侯,食邑五百,而疇懇惻,前後辭賞。出入三載,歷年未賜,此為成一人之高,甚違王典,失之多矣。宜從表封,無久留吾過。」〉疇上疏陳誠,以死自誓。太祖不聽,欲引拜之,至于數四,終不受。有司劾疇狷介違道,苟立小節,宜免官加刑。太祖重其事,依違者久之。乃下世子及大臣博議,世子以疇同於子文辭祿,申胥逃賞,宜勿奪以優其節。尚書令荀彧、司隷校尉鍾繇亦以為可聽。〈《魏書》載世子議曰:「昔薳敖逃祿,傳載其美,所以激濁世,勵貪夫,賢於尸祿素餐飡之人也。故可得而小,不可得而毀。至於田疇,方斯近矣。免官加刑,於法為重。」《魏略》載教曰:「昔夷、齊棄爵而譏武王,可謂愚闇,孔子猶以為『求仁得仁』。疇之所守,雖不合道,但欲清高耳。使天下悉如疇志,即墨翟兼愛尚同之事,而老聃使民結繩之道也。外議欲為復使令司隷決之。」魏書載荀彧議,以為「君子之道,或出或處,期於為善而已。故匹夫守志,聖人各因而成之」。鍾繇以為「原思辭粟,仲尼不與,子路拒牛,謂之止善,雖可以激清勵濁,猶不足多也。疇雖不合大義,有益推讓之風,宜如世子議。」臣松之案《呂氏春秋》:「魯國之法,魯人有為臣妾於諸侯,有能贖之者取其金於府。子貢贖人而辭不受金,孔子曰:『賜失之矣。自今以來魯人不贖矣。』子路拯溺者,其人拜之以牛,子路受之。孔子曰:『魯人必拯溺矣。』」案此語不與繇所引者相應,未詳為繇之事誤邪,而事將別有所出?〉太祖猶欲侯之。疇素與夏侯惇善,太祖語惇曰:「且往以情喻之,自從君所言,無告吾意也。」惇就疇宿,如太祖所戒。疇揣知其指,不復發言。惇臨去,乃拊疇背曰:「田君,主意殷勤,曾不能顧乎!」疇荅曰:「是何言之過也!疇,負義逃竄之人耳,蒙恩全活,為幸多矣。豈可賣盧龍之塞,以易賞祿哉?縱國私疇,疇獨不愧於心乎?將軍雅知疇者,猶復如此,若必不得已,請願效死刎首於前。」言未卒,涕泣橫流。惇具荅太祖。太祖喟然知不可屈,乃拜為議郎。年四十六卒。子又早死。文帝踐阼,高疇德義,賜疇從孫續爵關內侯,以奉其嗣。

王脩は字を叔治といい、北海郡営陵県の人である。七歳の時に母を亡くした。母が社の祭りの日に亡くなったため、翌年、近隣で社の祭りが行われると、王脩は母を思い出して非常に悲しんだ。近隣の人々はそれを聞き、彼のために社の祭りを中止した。二十歳の時、南陽に遊学し、張奉の家に滞在した。張奉の家族全員が病気にかかり、世話をする者がいなかったので、王脩は自ら看病し、病気が治ってから去った。初平年間(190-193年)、北海の孔融が彼を主簿に召し出し、高密県令を代行させた。高密の孫氏は代々豪侠で、その食客がたびたび法を犯していた。民衆が強奪される事件があり、賊が孫氏の屋敷に逃げ込んだが、役人は捕らえることができなかった。王脩は役人と民衆を率いて屋敷を包囲したが、孫氏は抵抗して守りを固め、役人と民衆は恐れて近づこうとしなかった。王脩は役人と民衆に「敢えて攻めない者は同罪とする」と命じた。孫氏は恐れて、賊を引き渡した。これにより豪族は畏服した。孝廉に推挙されたが、王脩は邴原に譲ろうとした。孔融は聞き入れなかった。当時、天下は乱れており、結局赴任しなかった。ほどなくして、郡内に反乱が起こった。王脩は孔融が危険にさらされていると聞き、夜に駆けつけた。賊が起こった時、孔融は側近に「危難を冒して来られるのは、王脩だけだろう」と言い、その言葉が終わると王脩が到着した。再び功曹に任命した。当時、膠東には賊が多かったため、再び王脩を膠東県令代行に任命した。膠東の公沙盧は一族が強力で、自ら塹壕を築き、徴発や租税の応じようとしなかった。王脩は単身で数騎を率いて直接その門に入り、公沙盧の兄弟を斬った。公沙氏は驚愕して誰も動けなかった。王脩は残りの者を慰撫し、これにより賊の活動は少し収まった。孔融が難事に遭遇するたび、王脩は休暇で家に帰っていても、必ず駆けつけた。孔融は常に王脩のおかげで難を逃れた。(『融集』に孔融が王脩に答えた教を載せる。孔融は「邴原の賢なることは、私はすでに知っている。昔、高陽氏に才子八人があり、堯は用いることができず、舜が実にこれを挙げた。邴原は位無きを患えない士と言える。後賢に遺すのも、また可ならないか」と言った。王脩が重ねて辞すると、孔融は「掾は身を清くし己を潔くし、諸難を歴試し、謀って過少なく、恵訓倦まず。余は乃ちの勲を嘉し、乃ちの懿徳に応じ、爾を王庭に升せんとする。なんぞ辞するを得んか」と答えた。)

原文王脩字叔治,北海營陵人也。年七歲喪母。母以社日亡,來歲鄰里社,脩感念母,哀甚。鄰里聞之,為之罷社。年二十,游學南陽,止張奉舍。奉舉家得疾病,無相視者,脩親隱恤之,病愈乃去。初平中,北海孔融召以為主簿,守高密令。高密孫氏素豪俠,人客數犯法。民有相劫者,賊入孫氏,吏不能執。脩將吏民圍之,孫氏拒守,吏民畏憚不敢近。脩令吏民:「敢有不攻者與同罪。」孫氏懼,乃出賊。由是豪彊懾服。舉孝廉,脩讓邴原,融不聽。〈融集有融荅脩教曰:「原之賢也,吾已知之矣。昔高陽氏有才子八人,堯不能用,舜實舉之。原可謂不患無位之士。以遺後賢,不亦可乎!」脩重辭,融荅曰:「掾清身絜己,歷試諸難,謀而鮮過,惠訓不倦。余嘉乃勳,應乃懿德,用升爾于王庭,其可辭乎!」〉時天下亂,遂不行。頃之,郡中有反者。脩聞融有難,夜往奔融。賊初發,融謂左右曰:「能冒難來,唯王脩耳!」言終而脩至。復署功曹。時膠東多賊寇,復令脩守膠東令。膠東人公沙盧宗彊,自為營塹,不肯應發調。脩獨將數騎徑入其門,斬盧兄弟,公沙氏驚愕莫敢動。脩撫慰其餘,由是寇少止。融每有難,脩雖休歸在家,無不至。融常賴脩以免。

袁譚が青州にいた時、王脩を召し出して治中従事とし、別駕の劉献がたびたび王脩を誹謗した。後に劉献は罪を犯して死罪に当たることになったが、王脩が彼のために取り計らって、死罪を免れた。当時の人々はこのことでますます王脩を称賛した。袁紹もまた王脩を召し出して即墨県令に任命し、後に再び袁譚の別駕とした。袁紹が死ぬと、袁譚と袁尚の間に不和が生じた。袁尚が袁譚を攻撃し、袁譚の軍は敗れた。王脩は役人と民衆を率いて袁譚を救援に向かった。袁譚は喜んで言った。「わが軍を成り立たせてくれたのは、王別駕だ。」袁譚が敗れた時、劉詢が漯陰で兵を挙げ、諸城が皆これに呼応した。袁譚は嘆息して言った。「今、州全体が背くのは、私に徳がないからなのか。」王脩は言った。「東萊太守の管統は海辺の地にいますが、この人は反乱しません。必ずやって来ます。」十数日後、管統は果たして妻子を捨てて袁譚のもとに駆けつけた。妻子は賊に殺された。袁譚は管統を楽安太守に改めて任命した。袁譚が再び袁尚を攻撃しようとすると、王脩は諫めて言った。「兄弟が互いに攻撃し合うのは、敗亡への道です。」袁譚は喜ばなかったが、彼の忠節を知っていた。後にまた王脩に尋ねた。「どうすればよいか。」王脩は言った。「兄弟というものは、左右の手のようなものです。人が戦おうとして自分の右手を切り落とし、『私は必ず勝つ』と言うようなもので、これでよいでしょうか。兄弟を捨てて親しまないなら、天下にいったい誰を親しむというのでしょう。讒言する者がいて、互いに争わせて一時の利益を得ようとしているのです。どうか明使君には耳を塞いでお聞きにならないでください。佞臣数人を斬り、再び親しく睦み合って四方に備えれば、天下を横行することができます。」袁譚は聞き入れず、袁尚と攻撃し合い、太祖に救援を求めた。太祖が冀州を破った後、袁譚はまた背いた。太祖は軍を率いて南皮で袁譚を攻撃した。王脩はその時、楽安で食糧を輸送中であり、袁譚の危急を聞くと、配下の兵と諸従事数十人を率いて袁譚のもとへ向かった。高密に到着した時、袁譚の死を聞き、馬から下りて号泣して言った。「主君なくしてどこに帰ろうか。」そして太祖のもとに行き、袁譚の遺体を葬ることを乞うた。太祖は王脩の本心を見ようと、黙って答えなかった。王脩は再び言った。「袁氏の厚恩を受けました。もし袁譚の遺体を収葬することができたなら、その後で処刑されても恨みはありません。」太祖はその義を称え、許した。(『傅子』によると、太祖が袁譚を誅し、その首をさらした後、命令を下した。「敢えてこれを哭する者は妻子まで処刑する。」そこで王叔治(王脩)と田子泰(田疇)が互いに言った。「生きて辟命を受け、死んで哭さないのは義ではない。死を恐れて義を忘れるなら、どうして世に立つことができようか。」そしてその首の前に赴いて哭し、その哀しみは三軍を動かした。軍正が処刑を執行しようと申し出ると、太祖は言った。「義士である。」赦した。臣の松之が案ずるに、『田疇伝』によれば、田疇は袁尚に召し出されており、袁譚の命令を受けていない。傅子が合わせて述べているのは、事実に反する。)王脩を督軍糧に任じて楽安に帰らせた。袁譚が破れた後、諸城は皆服従したが、ただ管統だけが楽安で命令に従わなかった。太祖は王脩に管統の首を取るよう命じた。王脩は管統が亡国の忠臣であると考え、その縄を解き、太祖のもとに行かせた。太祖は喜んで彼を赦した。袁氏の政治は寛大で、職権のある者は多く財貨を蓄えていた。太祖が鄴を破り、審配らの家の財物を没収した時、その資産は万単位に上った。南皮を破った時、王脩の家を調べると、穀物は十斛にも満たず、書物が数百巻あった。太祖は嘆じて言った。「士はむやみに名を得るものではない。」そして礼を尽くして司空掾に召し出し、司金中郎将を兼務させ、魏郡太守に昇進させた。政治を行うにあたり、強きを抑え弱きを助け、賞罰を明らかにしたので、民衆は彼を称えた。(『魏略』によると、王脩が司金中郎将であった時、黄白の異議について述べ、上奏文を提出して言った。「王脩が聞くところによれば、枳棘の林には梁柱となる材質がなく、細い流れの水には大きな波の勢いはありません。そのため在職七年、忠直な言葉が時に明らかにならず、功績事業が事柄として現れず、受けている恩恵を喜びながらも、報いることができず恥じ入り、長夜に起き上がり坐し、昼食を取るのも忘れることがありませんでした。なぜでしょうか。力が少なく任が重く、耐えられず恐れるからです。謹んで意見を左のように述べます。」太祖は大いにこれを認め、王脩に手紙を書いて言った。「あなたは身を清め徳を磨き、名声を本州に広め、忠誠を尽くして功績を上げ、世の美談となり、名実相伴い、人よりはるかに優れている。私は心であなたを知り、極めて深く熟している。単に耳目によるだけではない。先賢の論を観察すると、多くは塩鉄の利益が軍国の費用を十分に賄えるとしている。かつて私が初めて司金の官を設けた時、あなたを任じるほか適任者はないと考えた。そこであなたに教えを授けて言った。『昔、遏父が陶正となり、民はその器物に頼り、その子の媯満は陳に封ぜられた。近くは桑弘羊が三公の位に至った。これがあなたの大いなる兆しの先触れである』と。これは私があなたを用いる根本の言葉であり、あるいは人々がこの意を理解していないかもしれない。それ以来、朝廷の士で、顕職に選ばれる時は、常にあなたを筆頭に挙げてきた。また袁軍師(袁渙)や多くの賢者の議論を聞くと、あなたを越えて任じるのは適当でないという。しかし私は心を固めてある結論に至った。軍師の職は司金よりも閑職であり、功績を立てる点では、軍師よりも重要である。私の誠意は、あなたに十分に通じるはずだ。あなたが私を察するなら、疑うことはないはずだ。ただ傍らの者の浅はかな見解を恐れる。ひしゃくで海を測り、蛇に足を描き、前後百回選んでも用いられず、この方を冶官に沈滞させたと言い、張甲や李乙のような者さえも優先した、これは主人が待遇を良くしていない証拠だ、などと。私はこのような空虚な声が実態を冒し、騒がしい蛙が耳を乱すことを恐れる。もしそのようなことがあったとしても、鍾子期が聞き誤らなかったように願う。もしないなら、過剰に備えても害はない。昔、宣帝は少府の蕭望之に宰相の才能があると見て、あえて外に出し、馮翊とさせた。正卿から赴任するのは左遷のようである。上は侍中に命じて意を伝えさせた。『あなたが平原を守った期間は短かったので、三輔であなたを試すのであり、疎遠にしているわけではない』と。私は先主中宗(宣帝)の意を推し量り、まさにこのことを考えていた。どうかあなたは勲業を重んじて私の意に応えてほしい。公叔文子が家臣とともに昇進した。あなたはどうして特別な存在だろうか。」その後間もなく魏郡太守に昇進した。)

原文袁譚在青州,辟脩為治中從事,別駕劉獻數毀短脩。後獻以事當死,脩理之,得免。時人益以此多焉。袁紹又辟脩除即墨令,後復為譚別駕。紹死,譚、尚有隙。尚攻譚,譚軍敗,脩率吏民往救譚。譚喜曰:「成吾軍者,王別駕也。」譚之敗,劉詢起兵漯陰,諸城皆應。譚歎息曰:「今舉州背叛,豈孤之不德邪!」脩曰:「東萊太守管統雖在海表,此人不反。必來。」後十餘日,統果棄其妻子來赴譚,妻子為賊所殺,譚更以統為樂安太守。譚復欲攻尚,脩諫曰:「兄弟還相攻擊,是敗亡之道也。」譚不恱,然知其忠節。後又問脩:「計安出?」脩曰:「夫兄弟者,左右手也。譬人將鬬而斷其右手,而曰『我必勝』,若是者可乎?夫棄兄弟而不親,天下其誰親之!屬有讒人,固將交鬬其間,以求一朝之利,願明使君塞耳勿聽也。若斬佞臣數人,復相親睦,以禦四方,可以橫行天下。」譚不聽,遂與尚相攻擊,請救於太祖。太祖旣破冀州,譚又叛。太祖遂引軍攻譚於南皮。脩時運糧在樂安,聞譚急,將所領兵及諸從事數十人往赴譚。至高密,聞譚死,下馬號哭曰:「無君焉歸?」遂詣太祖,乞收葬譚屍。太祖欲觀脩意,默然不應。脩復曰:「受袁氏厚恩,若得收歛譚屍,然後就戮,無所恨。」太祖嘉其義,聽之。〈《傅子》曰:太祖旣誅袁譚,梟其首,令曰:「敢哭之者戮及妻子。」於是王叔治、田子泰相謂曰:「生受辟命,亡而不哭,非義也。畏死忘義,何以立世?」遂造其首而哭之,哀動三軍。軍正白行其戮,太祖曰:「義士也。」赦之。臣松之案《田疇傳》,疇為袁尚所辟,不被譚命。傅子合而言之,有違事實。〉以脩為督軍糧,還樂安。譚之破,諸城皆服,唯管統以樂安不從命。太祖命脩取統首,脩以統亡國之忠臣,因解其縛,使詣太祖。太祖恱而赦之。袁氏政寬,在職勢者多畜聚。太祖破鄴,籍沒審配等家財物貲以萬數。及破南皮,閱脩家,穀不滿十斛,有書數百卷。太祖歎曰:「士不妄有名。」乃禮辟為司空掾,行司金中郎將,遷魏郡太守。為治,抑彊扶弱,明賞罰,百姓稱之。〈《魏略》曰:脩為司金中郎將,陳黃白異議,因奏記曰:「脩聞枳棘之林,無梁柱之質;涓流之水,無洪波之勢。是以在職七年,忠讜不昭於時,功業不見於事,欣於所受,俯慙不報,未嘗不長夜起坐,中飯釋餐。何者?力少任重,不堪而懼也。謹貢所議如左。」太祖甚然之,乃與脩書曰:「君澡身浴德,流聲本州,忠能成績,為世美談,名實相副,過人甚遠。孤以心知君,至深至孰,非徒耳目而已也。察觀先賢之論,多以鹽鐵之利,足贍軍國之用。昔孤初立司金之官,念非屈君,餘無可者。故與君教曰:『昔遏父陶正,民賴其器用,及子媯滿,建侯于陳;近桑弘羊,位至三公。此君元龜之兆先告者也』,是孤用君之本言也,或恐衆人未曉此意。自是以來,在朝之士,每得一顯選,常舉君為首,及聞袁軍師衆賢之議,以為不宜越君。然孤執心將有所厎,以軍師之職,閑於司金,至於建功,重於軍師。孤之精誠,足以達君;君之察孤,足以不疑。但恐傍人淺見,以蠡測海,為蛇畫足,將言前後百選,輙不用之,而使此君沈滯冶官。張甲李乙,尚猶先之,此主人意待之不優之效也。孤懼有此空聲冒實,淫鼃亂耳。假有斯事,亦庶鍾期不失聽也;若其無也,過備何害?昔宣帝察少府蕭望之才任宰相,故復出之,令為馮翊。從正卿往,似於左遷。上使侍中宣意曰:『君守平原日淺,故復試君三輔,非有所閒也。』孤揆先主中宗之意,誠備此事。旣君崇勳業以副孤意。公叔文子與臣俱升,獨何人哉!」後無幾而遷魏郡太守。〉

魏国が建てられると、大司農郎中令となった。太祖が肉刑の施行を議論した時、王脩は時機がまだ熟していないと考え、太祖はその意見を採用した。奉常に転任した。その後、厳才が反乱を起こし、配下数十人とともに掖門を攻撃した。王脩は変事を聞き、車馬が到着するのを待たず、すぐに官属を率いて歩いて宮門まで行った。太祖が銅雀台からこれを見て言った。「あれは必ず王叔治だ。」相国の鍾繇が王脩に言った。「旧例では、京城に変事があれば、九卿はそれぞれ自分の役所にいるものだ。」王脩は言った。「その禄を食む者が、どうして難を避けることができようか。役所にいるのは旧例であっても、難に赴く義ではない。」ほどなくして、病気で在官中に死去した。子の王忠は、東萊太守、散騎常侍さんきじょうじまで昇進した。

原文魏國旣建,為大司農郎中令。太祖議行肉刑,脩以為時未可行,太祖採其議。徙為奉常。其後嚴才反,與其徒屬數十人攻掖門。脩聞變,召車馬未至,便將官屬步至宮門。太祖在銅爵臺望見之,曰:「彼來者必王叔治也。」相國鍾繇謂脩:「舊,京城有變,九卿各居其府。」脩曰:「食其祿,焉避其離?居府雖舊,非赴難之義。」頃之,病卒官。子忠,官至東萊太守、散騎常侍。

初めに、王脩は高柔を弱冠の時に見抜き、王基を幼少の時に異才と認めたが、二人は結局遠大な地位に至り、世間は彼の人物を見抜く眼力を称えた。(『王隠晋書』に曰く、王脩には一人の子があり、名は儀、字は朱表といい、高潔で雅直であった。司馬文王(司馬昭)が安東将軍であった時、王儀は司馬であった。東関の敗戦の際、文王が「近ごろの事は、誰がその責めを負うべきか」と言うと、王儀は「責めは軍師にあります」と答えた。文王は怒って「司馬が私に罪をなすりつけようとするのか」と言い、遂に彼を殺した。子の王襃は字を偉元といい、若くして操守を立て、礼に非ざれば動かなかった。身長八尺四寸で、容貌は並外れていた。父が天命によって終わらなかったことを痛み、世を絶って仕えなかった。墓の側に家を建て、教授を務めとした。朝夕常に墓前に至って拝し、そのたびに悲号して気絶するほどであった。墓前に一本の柏樹があり、王襃が常に攀じ登り、涙がかかったので、樹の色は凡庸な樹と異なっていた。詩経を読み「哀哀たる父母、我を生みて労悴す」に至るたびに、必ず反復して流涕し、涙が襟を濡らした。家は貧しく自ら耕し、口に応じて田をなし、身を量って蚕をなした。門弟の中に密かに王襃のために麦を刈る者がいたが、王襃は遂にそれを捨てた。これ以降、敢えて刈るのを助ける者はなかった。王襃の門人が本県の労役に服することになり、王襃に属吏として取り立ててくれるよう求めた。王襃は言った。「卿の学は身を庇うに足らず、我が徳は薄く卿を蔭するに足らず、属吏にして何の益があろうか。また私は筆を執ること既に四十年になる」。そこで歩いて乾飯を担ぎ、子が塩豉を負い、門徒の従う者は千余人であった。安丘の令は自分に会いに来たと思い、衣を整えて門で迎えた。王襃は道を下りて土牛の所に至り、磬折して立った。そして「門生が県の労役に服するので、別れを告げに来た」と言った。手を執って涕泣して去った。令は即座に諸生を放免し、一県はこれを恥とした。同県の管彦は、若くして才力があり、まだ名を知られていなかったが、王襃だけは彼が自ら達するだろうと考え、常に友愛した。男女がそれぞれ生まれたばかりの時、共に婚を約した。管彦は果たして西夷校尉となった。王襃は後に娘を他の人に嫁がせた。管彦の弟の管馥が王襃に問うと、王襃は言った。「私は薄志で願いを畢え、山藪に自ら処し、姉妹は皆遠く、吉凶は断絶して、これをもって自ら誓った。賢兄の子は父を帝都に葬った。これはすなわち洛陽の人である。どうして私が婚を望む本旨であろうか」。管馥が言った。「嫂は斉の人である。臨菑に帰るべきである」。王襃は言った。「どうして父を河南に葬り、妻に随って斉に帰ることがあろうか。用意がこのようであるのに、何の婚があろうか」。遂に婚しなかった。邴春は根矩(邴原)の後裔である。若くして志操を立て、寒苦に自ら処し、書箱を負って遊学し、身は家に留まらなかった。郷邑は翕然として、その先人の跡を継ぐことができると考えた。王襃は邴春の性が険狭で、名を慕う意が多く、終には必ず成し遂げられないと考えた。後に邴春は果たして学業なく、遠く外に流離した。有識者はこれによって王襃を帰服した。王襃は常に人の行いは善道に帰すべきであり、自分のできることで人のできないことを責めてはならないと考えた。贈り物を致す者があっても、皆受け取らなかった。洛都が傾覆し、寇賊が蜂起すると、王襃の宗親は皆江東に移ろうとしたが、王襃は墳壠を恋った。賊が大いに盛んになると、南して泰山郡に達した。王襃は土を思って去ることを肯じず、賊が彼を害した。『漢晋春秋』に曰く、王襃と済南の劉兆(字は延世)は、共に仕えずして名を顕した。王襃は父が文王に濫殺されたため、終身徴聘に応じず、未だ嘗て西向きに座らず、晋に臣としないことを示した。)

原文初,脩識高柔於弱冠,異王基於幼童,終皆遠至,世稱其知人。〈王隱《晉書》曰:脩一子,名儀,字朱表,高亮雅直。司馬文王為安東,儀為司馬。東關之敗,文王曰:「近日之事,誰任其咎?」儀曰:「責在軍師。」文王怒曰:「司馬欲委罪於孤邪?」遂殺之。子襃,字偉元。少立操尚,非禮不動。身長八尺四寸,容貌絕異。痛父不以命終,絕世不仕。立屋墓側,以教授為務。旦夕常至墓前拜,輙悲號斷絕。墓前有一柏樹,襃常所攀援,涕泣所著,樹色與凡樹不同。讀詩至「哀哀父母,生我勞悴」,未曾不反覆流涕,泣下沾衿。家貧躬耕,計口而田,度身而蠶。諸生有密為襃刈麥者,襃遂棄之;自是莫敢復佐刈者。襃門人為本縣所役,求襃為屬,襃曰:「卿學不足以庇身,吾德薄不足以蔭卿,屬之何益?且吾不捉筆已四十年。」乃步擔乾飯,兒負鹽豉,門徒從者千餘人。安丘令以為見己,整衣出迎之於門。襃乃下道至土牛,磬折而立。云:「門生為縣所役,故來送別。」執手涕泣而去。令即放遣諸生,一縣以為恥。同縣管彥,少有才力,未知名,襃獨以為當自達,常友愛之;男女各始生,共許為婚。彥果為西夷校尉。襃後更以女嫁人,彥弟馥問襃,襃曰:「吾薄志畢願,山藪自處,姊妹皆遠,吉凶斷絕,以此自誓。賢兄子葬父於帝都,此則洛陽之人也,豈吾欲婚之本指邪?」馥曰:「嫂,齊人也。當還臨菑。」襃曰:「安有葬父河南,隨妻還齊!用意如此,何婚之有?」遂不婚。邴春者,根矩之後也。少立志操,寒苦自居,負笈遊學,身不停家,鄉邑翕然,以為能係其先也。襃以為春性險狹,慕名意多,終必不成,及後春果無學業,流離遠外,有識以此歸之。襃常以為人所行,其當歸於善道,不可以己所能而責人所不能也。有致遺者,皆不受。及洛都傾覆,寇賊蠭起,襃宗親悉欲移江東,襃戀墳壠。賊大盛,乃南達泰山郡。襃思土不肯去,賊害之。《漢晉春秋》曰:襃與濟南劉兆字延世,俱以不仕顯名。襃以父為文王所濫殺,終身不應徵聘,未甞西向坐,以示不臣於晉也。〉

脂習は字を元升といい、京兆の人である。中平年間に郡に仕え、公府に召され、高い成績で推挙され、太醫令に任じられた。天子が西遷し、また許昌に赴いた時、習は常に従った。少府の孔融と親しくしていた。太祖が司空となり、威徳が日に日に盛んになると、融は以前のままの態度で、書簡を傲慢に書いた。習は常に融を責め、節操を改めさせようとしたが、融は従わなかった。ちょうど融が誅殺された時、当時許中の百官で以前融と親しかった者は、誰も敢えて遺体を収容し弔問する者がいなかったが、習だけが一人で赴き、撫でて泣きながら言った。「文挙よ、あなたが私を捨てて死ぬなら、私はこれから誰と語ればよいのか。」と哀歎してやまなかった。太祖はこれを聞き、習を捕らえ、処罰しようとしたが、すぐにその事が正しかったとして赦され、許の東の土橋の下に移された。習は後に太祖に会い、以前の過ちを陳謝した。太祖は彼の字を呼んで言った。「元升よ、あなたはやはり気概がある。」そこで彼の住居を尋ね、新たに移転したばかりであるとして、穀物百斛を賜った。黄初年間に、詔によって任用しようとしたが、彼が年老いているため、しかしその旧友を大切にする態度を賞し、欒布のような節操があるとして、中散大夫の官位を賜って拝命させた。家に帰り、八十余歳で亡くなった。郭憲は字を幼簡といい、西平の人で、その郡の右姓であった。建安年間に郡の功曹となり、州から召されたが応じず、仁厚篤実で郡中の信望を集めた。十七年、韓約が衆を失い、羌の中から帰還し、憲を頼った。多くの人々が約を捕らえて功を求めようとしたが、憲は皆を責め怒り、「人が困窮して私に帰ってきたのに、どうして危険にさらそうとするのか。」と言った。そこで擁護して厚く遇した。その後、約が病死し、田楽、陽逵らが約の首を斬り、それを送ることになった。逵らは憲の名を列記しようとしたが、憲は名簿に載ることを肯まず、「私は生きている彼を図るのも忍びないのに、どうして死人を利用して功を求められようか。」と言った。逵らはやめた。当時、太祖はちょうど漢中を攻めており、武都におり、逵らが約の首を届けた。太祖は以前から憲の名を聞いており、列記された名簿を見て、彼の名がないのを怪しみ、逵らに尋ねた。逵は詳しく事情を答えた。太祖はその志義を歎賞し、逵らとともに表に列記して関内侯の爵位を賜り、これによって名は隴右に響き渡った。黄初元年に病死した。正始初年、朝廷はその事績を追って賞し、再びその子に関内侯の爵位を賜った。

原文〈《魏略純固傳》以脂習、王脩、龐淯、文聘、成公英、郭憲、單固七人為一傳。其脩、淯、聘三人自各有傳,成公英別見〈張旣傳〉,單固見〈王淩傳〉,餘習、憲二人列於脩傳後也。脂習字元升,京兆人也。中平中仕郡,公府辟,舉高第,除太醫令。天子西遷及東詣許昌,習常隨從。與少府孔融親善。太祖為司空,威德日盛,而融故以舊意,書疏倨傲。習常責融,欲令改節,融不從。會融被誅,當時許中百官先與融親善者,莫敢收恤,而習獨往撫而哭之曰:「文舉,卿捨我死,我當復與誰語者?」哀歎無已。太祖聞之,收習,欲理之,尋以其事直見原,徙許東土橋下。習後見太祖,陳謝前愆。太祖呼其字曰:「元升,卿故慷慨!」因問其居處,以新移徙,賜穀百斛。至黃初,詔欲用之,以其年老,然嘉其敦舊,有欒布之節,賜拜中散大夫。還家,年八十餘卒。郭憲字幼簡,西平人,為其郡右姓。建安中為郡功曹,州辟不就,以仁篤為一郡所歸。至十七年,韓約失衆,從羌中還,依憲。衆人多欲取約以徼功,而憲皆責怒之,言:「人窮來歸我,云何欲危之?」遂擁護厚遇之。其後約病死,而田樂、陽逵等就斬約頭,當送之。逵等欲條疏憲名,憲不肯在名中,言我尚不忍生圖之,豈忍取死人以要功乎?逵等乃止。時太祖方攻漢中,在武都,而逵等送約首到。太祖宿聞憲名,及視條疏,怪不在中,以問逵等,逵具以情對。太祖歎其志義,乃并表列與逵等並賜爵關內侯,由是名震隴右。黃初元年病亡。正始初,國家追嘉其事,復賜其子爵關內侯。〉

邴原は字を根矩といい、北海国朱虚県の人である。若い時から管寧とともに操行と志尚で称えられ、州や府からの召しや任命にはいずれも応じなかった。黄巾の乱が起こると、原は家族を連れて海に入り、鬱洲山の中に住んだ。当時、孔融が北海国の相となっており、原を有道として推挙した。原は黄巾がちょうど盛んなため、遂に遼東に至り、同郡の劉政とともに勇略と雄気を備えていた。遼東太守の公孫度は彼らを畏れ憎んで殺そうとし、その家族をことごとく捕らえたが、政は脱出した。度は諸県に告げた。「敢えて政を匿う者は同罪とする。」と。政は窮地に陥り、原のもとに投じようとした。

原文邴原字根矩,北海朱虛人也。少與管寧俱以操尚稱,州府辟命皆不就。黃巾起,原將家屬入海,住鬱洲山中。時孔融為北海相,舉原有道。原以黃巾方盛,遂至遼東,與同郡劉政俱有勇略雄氣。遼東太守公孫度畏惡欲殺之,盡收捕其家,政得脫。度告諸縣:「敢有藏政者與同罪。」政窘急,往投原,

原は彼を一月余り匿い、当時東莱郡の太史慈が帰郷しようとしていたので、原は政を彼に託した。その後、度に言った。「将軍は先日劉政を殺そうとされましたが、それは彼があなたの害となるからです。今、政は既に去りました。あなたの害は除かれたのではないですか。」度は言った。「その通りだ。」原は言った。「あなたが政を恐れるのは、彼に知恵があるからです。今、政は免れました。その知恵がこれから用いられるでしょう。それなのにどうしてまだ政の家族を拘束するのですか。赦す方が良くないですか。怨みを重ねないために。」度は遂に彼らを釈放した。原はさらに政の家族の帰郷の費用を援助し、皆が故郷の郡に帰ることができた。原が遼東にいた時、一年のうちに原のもとに帰って来て住む者が数百軒もあり、遊学の士や教授の声が絶えなかった。(『魏氏春秋』に曰く、劉政が邴原に投じて「窮鳥懐に入る」と言うと、原は「どうしてこの懐に入るべきことを知ろうか」と言った。)

原文〈《魏氏春秋》曰:政投原曰:「窮鳥入懷。」原曰:「安知此懷之可入邪?」〉原匿之月餘,時東萊太史慈當歸,原因以政付之。旣而謂度曰:「將軍前日欲殺劉政,以其為己害。今政已去,君之害豈不除哉!」度曰:「然。」原曰:「君之畏政者,以其有智也。今政已免,智將用矣,尚奚拘政之家?不若赦之,無重怨。」度乃出之。原又資送政家,皆得歸故郡。原在遼東,一年中往歸原居者數百家,游學之士,教授之聲,不絕。

後に帰還すると、太祖(曹操)は彼を司空掾に任命した。邴原の娘は早くに亡くなっていたが、その時、太祖の愛子である倉舒(曹沖)も亡くなった。太祖は合葬させようとしたが、邴原は辞退して言った。「合葬は礼に適いません。私が明公(曹操)に受け入れられ、明公が私を遇してくださるのは、私が訓典を守って変えないからです。もし明公のご命令に従えば、それは凡庸な者となってしまいます。明公はどうしてそのような者を認められましょうか。」太祖はそこでやめ、彼を丞相徵事に転任させた。〈『献帝起居注』によると、建安十五年、初めて徵事二人を設置し、邴原と平原の王烈がともに選ばれて補任された。〉崔琰が東曹掾であった時、推薦の辞を記して言った。「徵事の邴原、議郎の張範は、皆、徳を守り純粋で美しく、志操と行いは忠実で方正であり、清静さは風俗を励ますに足り、堅固さは事を成すに足ります。いわゆる龍の羽根、鳳凰の翼であり、国の重宝です。彼らを推挙して用いれば、不仁な者は遠ざかるでしょう。」彼は涼茂に代わって五官将長史となったが、門を閉じて自らを守り、公事でなければ出なかった。

原文後得歸,太祖辟為司空掾。原女早亡,時太祖愛子倉舒亦沒,太祖欲求合葬,原辭曰:「合葬,非禮也。原之所以自容於明公,公之所以待原者,以能守訓典而不易也。若聽明公之命,則是凡庸也,明公焉以為哉?」太祖乃止,徙署丞相徵事。〈《獻帝起居注》曰:建安十五年,初置徵事二人,原與平原王烈俱以選補。〉崔琰為東曹掾,記讓曰:「徵事邴原、議郎張範,皆秉德純懿,志行忠方,清靜足以厲俗,貞固足以幹事,所謂龍翰鳳翼,國之重寶。舉而用之,不仁者遠。」代涼茂為五官將長史,閉門自守,非公事不出。

太祖が呉を征伐した際、邴原は従軍し、その地で死去した。〈『邴原別伝』によると、邴原は十一歳で父を亡くし、家は貧しく、早くに孤児となった。隣に書舎があり、邴原がその傍を通り過ぎるときに泣いた。師が尋ねて言った。「童子よ、何を悲しんでいるのか」。邴原は答えた。「孤児は傷つきやすく、貧しい者は感慨を催しやすいのです。書を学んでいる者は皆、必ず父や兄がいる者ばかりです。一つには、彼らが孤児でないことを羨み、二つには、彼らが学問を得ていることを羨むのです。心中に哀れみを感じて涙が零れるのです」。師もまた邴原の言葉を哀れに思い、泣きながら言った。「書を学びたいなら、それもよい」。邴原は答えた。「お金がありません」。師は言った。「童子よ、もし志があるなら、私はただ教えるだけで、報酬は求めない」。そこで邴原は書を学び始めた。一冬の間に、孝経と論語を暗誦した。幼少の頃から、聡明で並外れていた。成長すると、その行いは金玉のようであった。遠くへ遊学しようと思い、安丘の孫崧を訪ねた。孫崧は辞退して言った。「あなたの郷里の鄭君(鄭玄)をご存知ですか」。邴原は答えた。「はい」。孫崧は言った。「鄭君は古今の学問に通暁し、博識で記憶力が強く、深遠な道理を探求しておられます。まさに学者の師表です。あなたは彼をおいて、千里の道を草鞋で歩むとは、いわゆる鄭君を東家の丘(身近な賢人を軽視すること)と見なすようなものです。あなたは知らないふりをして『はい』と言うのですか、どういうことですか」。邴原は言った。「先生のお話は、まさに苦い薬であり良き鍼と言えましょう。しかし、まだ私の微かな志趣にはお気づきでないようです。人にはそれぞれ志があり、目指すところは異なります。だからこそ、山に登って玉を採る者もいれば、海に入って珠を採る者もいるのです。山に登る者が海の深さを知らないと言えましょうか、海に入る者が山の高さを知らないと言えましょうか。先生は私が鄭君を東家の丘と見なしているとおっしゃいますが、先生は私を西家の愚か者とお思いですか」。孫崧は謝罪した。また言った。「兗州、豫州の士人で、私が知っている者は多いが、あなたのような者はいない。手紙を託して紹介しよう」。邴原はその厚意を重んじ、断りにくく、手紙を受け取って別れた。邴原は内心、師を求めて学問を開くことは、志の高い者が通じ合うものであり、交遊のように紹介を待って成り立つものではないと考えた。手紙など何の役に立とうか。そこで手紙を家に隠して出発した。邴原はもともと酒を飲むことができたが、旅立ってから八、九年の間、口に酒をつけなかった。徒歩で書箱を背負い、身を苦しめて体力を保ち、陳留では韓子助を師とし、潁川では陳仲弓を宗とし、汝南では范孟博と交わり、涿郡では盧子幹に親しんだ。別れの際、師や友人が邴原が酒を飲まないことを知り、米と肉を集めて邴原に贈った。邴原は言った。「本来は酒を飲めますが、ただ放縦な考えで学業を廃するのを恐れ、断ったのです。今、遠く別れるにあたり、餞別をいただきましたので、一度宴を開きましょう」。そこで共に座って酒を飲み、一日中酔わなかった。帰郷後、手紙を孫崧に返し、手紙を届けなかった理由を説明した。後に郡から召し出され、功曹主簿に任命された。当時、魯国の孔融が郡にいて、計吏(上計の官吏)を選ぶにあたり公卿の任に堪える人材を求め、鄭玄を計掾に、彭璆を計吏に、邴原を計佐に任命した。孔融には寵愛する者が一人おり、常に大いに賞賛していた。後にあることから恨みを抱き、その者を殺そうとした。役人たちは皆、赦免を請うた。当時、その者も座っており、頭を地面に叩きつけて血を流したが、孔融の考えは変わらなかった。邴原だけは請願しなかった。孔融が邴原に言った。「皆は請願するのに、あなただけはなぜしないのか」。邴原は答えた。「明府(太守である孔融)はその者に対して、もともと薄くはありませんでした。常に年末には推挙するとおっしゃっていました。これこそ『我が一子』と言うべきものです。このように、役人の中で彼ほど恩恵を受けた者はおりません。それなのに今、殺そうとされています。明府が彼を愛する時は、引き立てて我が子のようにし、憎む時は、押しのけて身を危険にさらそうとされる。私は愚かで、明府が何をもって彼を愛し、何をもって彼を憎まれるのか分かりません」。孔融は言った。「彼は微賤な家の生まれだ。私は彼の兄弟を成就させ、抜擢して用いた。ところが彼は今、恩に背いた。善であれば進め、悪であれば誅するのは、固より君主の道である。以前、応仲遠(応劭)が泰山太守の時、一人の孝廉を推挙したが、一ヶ月もしないうちに殺した。人君たる者、厚薄に常などあろうか」。邴原は答えた。「仲遠が孝廉を推挙し、殺した。その道理はどこにあるのでしょうか。孝廉は国の俊選です。推挙したのが正しいなら、殺すのは間違いです。殺すのが正しいなら、推挙したのが間違いです。詩経に『彼己の子、其の媾に遂がず』とあります。これはそれを讒けたものです。論語に『之を愛すれば其の生くことを欲し、之を悪すれば其の死することを欲す。既に其の生くことを欲し、又其の死することを欲すれば、是れ惑いなり』とあります。仲遠の惑いは甚だしい。明府は何を学ばれるのですか」。孔融は大笑いして言った。「私はただ戯れに言っただけだ」。邴原はまた言った。「君子はその言葉を、自ら発して民に及ぼします。言行は君子の枢機(要)です。人を殺そうとすることを戯れとすることができましょうか」。孔融は答える言葉がなかった。この時、漢朝は衰微し、政治は賄賂によって成り立っていた。邴原は家族を連れて鬱洲山中に入った。郡が有道に推挙すると、孔融は手紙を送って邴原を諭した。「本性を修め貞節を保ち、清虚を守り高潔を保ち、危険な国には入らず、長く楽土に潜んでいる。王室は多難で、西の鎬京に遷都した。聖朝(朝廷)は労をねぎらい謙虚に、俊乂(優れた人材)を求めている。私は安定を求めて行き、策命は懇切である。国が滅びようとする時、婦人でさえも機織りの糸を惜しまず(国事を憂える)、家が滅びようとする時、緹縈は跋渉した(父を救うため奔走した)。あの一婦人でさえ、この義を執った。実に根矩(邴原の字)に望むのは、仁を己の任とし、手を差し伸べて溺れる者を救い、民を難から救い上げることである。それなのに安らかに居息し、我を顧みようとしない。君子とは、固よりこのようなものなのか。根矩よ、根矩よ、来ることができる」。邴原は遂に遼東に到着した。遼東には虎が多かったが、邴原が住む村落だけは虎の害がなかった。邴原がかつて歩いていて落とし銭を見つけ、拾って木の枝に結びつけた。この銭は誰にも取られず、かえって銭を結びつける者がますます増えた。その理由を尋ねると、答える者は神木だと言った。邴原は、自分が原因で淫祀(不当な祭祀)が生じるのを嫌い、そのわけを説明した。そこで里の人々はその銭を集めて社(土地神)の供え物とした。後、邴原は郷里に帰ろうと思い、三山に滞在した。孔融が手紙を送って言った。「随会(士会)は秦に、賈季(狐射姑)は翟にいた。諮詢し仰ぐべき所がなく、嘆息して懐かしみが増す。近ごろあなたが来られ、三山の近くにいると聞いた。詩経に云わないか、『鎬より来たり帰る、我が行き永久なり』と。今、五官掾を遣わし、船頭の舟を漕ぐ労をねぎらい、禍福動静を告げて慰める。乱の階梯は未だ止まず、兵を阻む雄は、まるで碁や双六で梟(勝負の要)を争うようだ」。邴原はそこで再び引き返した。十数年を経て、後になって遁走して帰還した。南へ数日行った後、公孫度はようやく気づいた。公孫度は邴原を再び追いかけることができないと知り、言った。「邴君はまさに雲中の白鶴と言うべきで、鶉や鷃(小鳥)を捕らえる網で捕えられるものではない。また、私自ら彼を遣わしたのだ。再び求めてはならない」。こうして危難を免れた。故国に戻ってから、邴原は礼楽を講述し、詩書を吟詠し、門徒は数百人、道を服する者は数十人に及んだ。当時、鄭玄は博学で見聞が広く、典籍に注解を加えたので、儒雅の士が集まった。邴原もまた自ら高遠で清白であり、志を養って澹泊であり、口に選ぶ言葉がなく、身に選ぶ行いがなかったので、英偉の士が彼に向かった。この時、世間の清議では、青州には邴原と鄭玄の学があると言われた。魏の太祖(曹操)が司空の時、邴原を召し出して東閤祭酒に任命した。太祖が三郡の単于を北伐し、昌国に戻って駐屯し、士大夫を饗宴した。酒が酣になった時、太祖は言った。「私が戻れば、鄴を守る諸君は必ず迎えに来るだろう。今日の明け方までには、皆来るだろう。来ない者は、邴祭酒だけだろう」。言葉が終わって間もなく、邴原が先に到着した。門下が取り次ぎを告げると、太祖は大いに驚き喜び、履を掴んで立ち上がり、遠くまで出迎えて邴原に言った。「賢者は誠に測り難い。私は君が来られないだろうと思っていたのに、遠くからご足労いただき、誠に飢え渇く心に応えてくれた」。謁見が終わって退出すると、軍中の士大夫で邴原を訪ねた者は数百人に及んだ。太祖は怪しんで尋ねた。その時、荀文若(荀彧)が同席しており、答えて言った。「ただ邴原にだけは省みて尋ねるべきです」。太祖は言った。「この方は名声が高いが、それほどまでに士大夫の心を傾けさせるのか」。文若は言った。「これは一世の異人であり、士の中の精華です。公は礼を尽くして遇されるべきです」。太祖は言った。「固より私の宿願である」。この後から、尊敬はますます厚くなった。邴原は軍中で官職に就いていたが、常に病気を理由に、里巷で高枕して過ごし、終始実務に当たらず、また会合にも滅多に出席しなかった。河内の張範は、名公の子であり、その志操行いは邴原と符合し、大いに親しみ敬った。曹操は令を下して言った。「邴原は名声高く徳が大きく、清い規矩は世に超然とし、魁然としてそびえ立ち、孤(私)に用いられようとしない。聞くところによると、張子(張範)は大いに彼に学ぼうとしている。私は、先駆ける者は富み、追随する者は貧しくなることを恐れる」。魏の太子(曹丕)が五官中郎将となった時、天下は慕い向かい、賓客は雲のようであったが、邴原だけは道を守り常を保ち、公事でない限り安易に行動しなかった。太祖は密かに人を遣わして穏やかに尋ねさせると、邴原は言った。「国が危うい時には冢宰(宰相)に仕えず、君主が不在の時には世子に奉じない。これは典制です」。そこで五官長史に転任させ、令を下して言った。「子(曹丕)は弱く不才であり、正しく導くのが難しいことを恐れる。欲を貪って君を屈させ、これを匡め励ましたい。賢者を利するとは言え、恥ずかしくないわけではない」。太子が宴会を開いた時、賓客は百数十人に及んだ。太子が議を提起して言った。「君と父がそれぞれ重い病気にかかり、薬一丸で一人を救えるとしたら、君を救うべきか、父を救うべきか」。人々は紛糾し、父だと言う者もいれば君だと言う者もいた。その時、邴原は同席していたが、この議論に加わらなかった。太子が邴原に諮詢すると、邴原は憤然として答えた。「父です」。太子もまたそれ以上詰問しなかった。〉

原文太祖征吳,原從行,卒。〈《原別傳》曰:原十一而喪父,家貧,早孤。鄰有書舍,原過其傍而泣。師問曰:「童子何悲?」原曰:「孤者易傷,貧者易感。夫書者,必皆具有父兄者,一則羨其不孤,二則羨其得學,心中惻然而為涕零也。」師亦哀原之言而為之泣曰:「欲書可耳!」荅曰:「無錢資。」師曰:「童子苟有志,我徒相教,不求資也。」於是遂就書。一冬之間,誦孝經、論語。自在童齓之中,嶷然有異。及長,金玉其行。欲遠游學,詣安丘孫崧。崧辭曰:「君鄉里鄭君,君知之乎?」原荅曰:「然。」崧曰:「鄭君學覽古今,博聞彊識,鉤深致遠,誠學者之師模也。君乃舍之,躡屣千里,所謂以鄭為東家丘者也。君似不知而曰然者,何?」原曰:「先生之說,誠可謂苦藥良鍼矣;然猶未達僕之微趣也。人各有志,所規不同,故乃有登山而採玉者,有入海而採珠者,豈可謂登山者不知海之深,入海者不知山之高哉!君謂僕以鄭為東家丘,君以僕為西家愚夫邪?」崧辭謝焉。又曰:「兖、豫之士,吾多所識,未有若君者;當以書相分。」原重其意,難辭之,持書而別。原心以為求師啟學,志高者通,非若交游待分而成也。書何為哉?乃藏書於家而行。原舊能飲酒,自行之後,八九年間,酒不向口。單步負笈,苦身持力,至陳留則師韓子助,潁川則宗陳仲弓,汝南則交范孟博,涿郡則親盧子幹。臨別,師友以原不飲酒,會米肉送原。原曰:「本能飲酒,但以荒思廢業,故斷之耳。今當遠別,因見貺餞,可一飲燕。」於是共坐飲酒,終日不醉。歸以書還孫崧,解不致書之意。後為郡所召,署功曹主簿。時魯國孔融在郡,教選計當任公卿之才,乃以鄭玄為計掾,彭璆為計吏,原為計佐。融有所愛一人,常盛嗟嘆之。後恚望,欲殺之,朝吏皆請。時其人亦在坐,叩頭流血,而融意不解。原獨不為請。融謂原曰:「衆皆請而君何獨不?」原對曰:「明府於某,本不薄也,常言歲終當舉之,此所謂『吾一子』也。如是,朝吏受恩未有在某前者矣,而今乃欲殺之。明府愛之,則引而方之於子,憎之,則推之欲危其身。原愚,不知明府以何愛之?以何惡之?」融曰:「某生於微門,吾成就其兄弟,拔擢而用之;某今孤負恩施。夫善則進之,惡則誅之,固君道也。往者應仲遠為泰山太守,舉一孝廉,旬月之間而殺之。夫君人者,厚薄何常之有!」原對曰:「仲遠舉孝廉,殺之,其義焉在?夫孝廉,國之俊選也。舉之若是,則殺之非也;若殺之是,則舉之非也。詩云:『彼己之子,不遂其媾。』蓋譏之也。語云:『愛之欲其生,惡之欲其死。旣欲其生,又欲其死,是惑也。』仲遠之惑甚矣。明府奚取焉?」融乃大笑曰:「吾但戲耳!」原又曰:「君子於其言,出乎身,加乎民;言行,君子之樞機也。安有欲殺人而可以為戲者哉?」融無以荅。是時漢朝陵遲,政以賄成,原乃將家人入鬱洲山中。郡舉有道,融書喻原曰:「脩性保貞,清虛守高,危邦不入,久潛樂土。王室多難,西遷鎬京。聖朝勞謙,疇咨儁乂。我徂求定,策命懇惻。國之將隕,釐不恤緯,家之將亡,緹縈跋涉,彼匹婦也,猶執此義。實望根矩,仁為己任,授手援溺,振民於難。乃或晏晏居息,莫我肯顧,謂之君子,固如此乎!根矩,根矩,可以來矣!」原遂到遼東。遼東多虎,原之邑落獨無虎患。原甞行而得遺錢,拾以繫樹枝,此錢旣不見取,而繫錢者愈多。問其故,荅者謂之神樹。原惡其由己而成淫祀,乃辨之,於是里中遂斂其錢以為社供。後原欲歸鄉里,止於三山。孔融書曰:「隨會在秦,賈季在翟,諮仰靡所,歎息增懷。頃知來至,近在三山。詩不云乎,『來歸自鎬,我行永久』。今遣五官掾,奉問榜人舟楫之勞,禍福動靜告慰。亂階未已,阻兵之雄,若棊奕爭梟。」原於是遂復反還。積十餘年,後乃遁還。南行已數日,而度甫覺。度知原之不可復追也,因曰:「邴君所謂雲中白鶴,非鶉鷃之網所能羅矣。又吾自遣之,勿復求也。」遂免危難。自反國土,原於是講述禮樂,吟詠詩書,門徒數百,服道數十。時鄭玄博學洽聞,注解典籍,故儒雅之士集焉。原亦自以高遠清白,頤志澹泊,口無擇言,身無擇行,故英偉之士向焉。是時海內清議,云青州有邴、鄭之學。魏太祖為司空,辟原署東閤祭酒。太祖北伐三郡單于,還住昌國,燕士大夫。酒酣,太祖曰:「孤反,鄴守諸君必將來迎,今日明旦,度皆至矣。其不來者,獨有邴祭酒耳!」言訖未久,而原先至。門下通謁,太祖大驚喜,擥履而起,遠出迎原曰:「賢者誠難測度!孤謂君將不能來,而遠自屈,誠副饑虛之心。」謁訖而出,軍中士大夫詣原者數百人。太祖怪而問之,時荀文若在坐,對曰:「獨可省問邴原耳!」太祖曰:「此君名重,乃亦傾士大夫心?」文若曰:「此一世異人,士之精藻,公宜盡禮以待之。」太祖曰:「固孤之宿心也。」自是之後,見敬益重。原雖在軍歷署,常以病疾,高枕里巷,終不當事,又希會見。河內張範,名公之子也,其志行有與原符,甚相親敬。令曰:「邴原名高德大,清規邈世,魁然而峙,不為孤用。聞張子頗欲學之,吾恐造之者富,隨之者貧也。」魏太子為五官中郎將,天下向慕,賔客如雲,而原獨守道持常,自非公事不妄舉動。太祖微使人從容問之,原曰:「吾聞國危不事冢宰,君去不奉世子,此典制也。」於是乃轉五官長史,令曰:「子弱不才,懼其難正,貪欲相屈,以匡勵之。雖云利賢,能不恧恧!」太子燕會,衆賔百數十人,太子建議曰:「君父各有篤疾,有藥一丸,可救一人,當救君邪,父邪?」衆人紛紜,或父或君。時原在坐,不與此論。太子諮之於原,原悖然對曰:「父也。」太子亦不復難之。〉

その後、大鴻臚の鉅鹿郡の張泰、河南尹の扶風郡の龐辿は清廉で賢明と称され、永寧太僕の東郡の張閣は質素で誠実と知られた。杜恕は家戒を著し、張閣についてこう称している。「張子臺(張閣)を見ると、鄙陋で朴訥な人のようだが、その心中には天地の間に何が美しく、何が良いのかを知らず、篤実として陰陽の徳に合致しているかのようだ。このような人物であれば、自ずと富貴にはならないが、しかし患禍はどこから来るというのか。世に張子臺のように高潔で明らかな者がいるが、皆多くは彼を慕い、その体現には及ばない。」(荀綽『冀州記』に曰く、鉅鹿の張貔は字を邵虎といい、祖父の泰は字を伯陽といい魏で名があった。父の邈は字を叔遼といい遼東太守であった。『自然好学論』を著し、嵇康の文集に収められている。人となりは広く深く遠識があり、ゆったりとして、彼を求める者も測り知ることができなかった。二宮に仕え、元康初年に城陽太守となったが、赴任せずに卒した。)

原文是後大鴻臚鉅鹿張泰、河南尹扶風龐辿以清賢稱,〈荀綽《冀州記》曰:鉅鹿張貔,字邵虎。祖父泰,字伯陽,有名於魏。父邈,字叔遼,遼東太守。著名自然好學論,在嵇康集。為人弘深有遠識,恢恢然,使求之者莫之能測也。宦歷二宮,元康初為城陽太守,未行而卒。〉永寧太僕東郡張閣以簡質聞。杜恕著家戒稱閣曰:「張子臺,視之似鄙樸人,然其心中不知天地間何者為美,何者為好,敦然似如與陰陽合德者。作人如此,自可不富貴,然而患禍當何從而來?世有高亮如子臺者,皆多力慕,體之不如也。」

管寧は字を幼安といい、北海国朱虚県の人である。十六歳の時に父を亡くし、親族たちは彼の孤貧を哀れみ、皆こぞって葬儀の贈り物をしたが、全て辞退して受け取らず、財産に応じて葬儀を行った。身長は八尺あり、鬚と眉が美しかった。平原郡の華歆、同県の邴原と親友となり、共に他国に遊学し、ともに陳仲弓(陳寔)を敬い親しんだ。天下が大乱となると、公孫度の命令が海外で行われていると聞き、邴原および平原郡の王烈らと共に遼東に赴いた。公孫度は空いた館を用意して彼らを待った。公孫度に会った後、管寧は山谷に庵を結んだ。当時、避難する者は多く郡の南部に住んだが、管寧は北部に住み、移る意志がないことを示した。後に次第に人々が彼に従ってきた。太祖(曹操)が司空となった時、管寧を召し出そうとしたが、公孫度の子の康が命令を伝えなかった。(『傅子』に曰く、斉の宰相管仲の子孫である。昔、田氏が斉を有すると管氏は去り、ある者は魯へ、ある者は楚へ赴いた。漢が興ると管少卿という者が燕の令となり、初めて朱虚に家を構え、代々名節があった。九世を経て寧が生まれた。『傅子』に曰く、寧が公孫度に会いに行くと、語るのは経典のみで世事には及ばなかった。帰ると山に因って廬を造り、壁を穿って室とした。海を越えて避難する者は皆来て彼のもとに住み、旬月にして邑を成した。そこで詩・書を講じ、俎豆を陳べ、威儀を飾り、礼譲を明らかにし、学者でなければ会うことがなかった。これにより公孫度はその賢を安んじ、民はその徳に化された。邴原は性格が剛直で、清議によって人を糾したので、公孫度以下の者は心に安んじなかった。寧は原に「潜龍は見えざるをもって徳を成すという。時でないのに語るのは、皆禍を招く道である」と言い、密かに西へ帰るよう命じた。公孫度の庶子康が代わって郡に居り、外は将軍太守と号したが、内実は王の心があり、自らを卑しめて礼を崇め、寧を官にして自らを鎮輔しようとしたが、ついに敢えて発言する者はなかった。その敬憚はこのようであった。皇甫謐『高士伝』に曰く、寧の住む村落で井戸に水を汲む者が集まると、男女が入り混じったり、井戸を争って闘ったりした。寧はこれを患い、多くの器を買い、井戸の傍らに分け置き、汲んで待ったが、また知らせなかった。来た者は得て怪しみ、問うて寧の所为と知ると、各々互いに責め、再び闘訟しなかった。隣に寧の田に牛を暴れさせる者がいたが、寧は牛を引いて涼しい所に繋ぎ、自ら飲食を与え、牛の主よりも過ぎるほどにした。牛の主は牛を得て大いに恥じ、厳刑に犯したかのようであった。これにより左右に闘訟の声はなく、礼譲が海表に及んだ。)

原文管寧字幼安,北海朱虛人也。〈《傅子》曰:齊相管仲之後也。昔田氏有齊而管氏去之,或適魯,或適楚。漢興有管少卿為燕令,始家朱虛,世有名節,九世而生寧。〉年十六喪父,中表愍其孤貧,咸共贈賵,悉辭不受,稱財以送終。長八尺,美鬚眉。與平原華歆、同縣邴原相友,俱游學於異國,並敬善陳仲弓。天下大亂,聞公孫度令行於海外,遂與原及平原王烈等至于遼東。度虛館以候之。旣往見度,乃廬於山谷。時避難者多居郡南,而寧居北,示無遷志,後漸來從之。太祖為司空,辟寧,度子康絕命不宣。〈《傅子》曰:寧往見度,語唯經典,不及世事。還乃因山為廬,鑿坏為室。越海避難者,皆來就之而居,旬月而成邑。遂講詩、書,陳俎豆,飾威儀,明禮讓,非學者無見也。由是度安其賢,民化其德。邴原性剛直,清議以格物,度已下心不安之。寧謂原曰:「潛龍以不見成德,言非其時,皆招禍之道也。」密遣令西還。度庶子康代居郡,外以將軍太守為號,而內實有王心,卑己崇禮,欲官寧以自鎮輔,而終莫敢發言,其敬憚如此。皇甫謐《高士傳》曰:寧所居屯落,會井汲者,或男女雜錯,或爭井鬬鬩。寧患之,乃多買器,分置井傍,汲以待之,又不使知。來者得而怪之,問知寧所為,乃各相責,不復鬬訟。鄰有牛暴寧田者,寧為牽牛著涼處,自為飲食,過於牛主。牛主得牛,大慙,若犯嚴刑。是以左右無鬬訟之聲,禮讓移於海表。〉

王烈は、字を彥方といい、当時の名声は邴原や管寧よりも上であった。公孫度の長史の職を辞し、商人となって自らを穢れたものとした。太祖は彼を丞相掾、徵事に任命したが、着任前に海辺の地で亡くなった。(『先賢行状』に曰く、烈は通識達道にして義を秉り回わさず。潁川の陳太丘を師とし、二子を友とした。当時潁川の荀慈明、賈偉節、李元禮、韓元長は皆陳君のもとで学び、烈の器業が人に過ぐるを見て、その履む所を歎服し、また互いに親しんだ。これにより英名が海内に著された。道成り徳立ち、旧廬に帰ると、父の喪に遭い、三年泣涙した。歳饑饉に遇い、路に餓殍があると、烈は釜庚の蓄えを分け、邑里の命を救った。これにより宗族は孝と称し、郷党は仁に帰した。典籍をもって心を娯しみ、人を育むを務めとし、学校を建て、庠序を敦崇した。その人を誘うや、皆その性気に因らず、道をもって誨え、善に従い悪を遠ざけさせた。益する者は自ら覚らず、大化隆行し、皆宝器と成った。門人の出入りは容止観るべく、時に市井にあっても行歩に異があり、人皆別った。州閭に風を成し、咸な善を競った。時に国中に牛を盗む者がおり、牛の主がこれを得た。盗者は「我は邂逅迷惑し、今より以後改過しよう。子は既に赦宥したので、幸いに王烈に聞かせないでほしい」と言った。人に烈に告げる者がおり、烈は布一端をこれに遺った。或る者が問う「この人は既に盗を為し、君が聞くを畏れたのに、反って布を与えるのは何故か」と。烈は曰く「昔秦穆公の時、人あり其の駿馬を盗み食したが、乃ち酒を賜った。盗者は其の死を愛しまず、以て穆公の難を救った。今この盗人は其の過を悔い、吾が聞くを懼れるのは、恥悪を知るのである。恥悪を知れば、則ち善心将に生じんとす。故に布を与え善を為すを勧めるのである」。間年の中、路を行く老父が重きを担ぎ、人代わって担ぎ数十里を行き、家に至らんとして置き去り、姓名を問うたが告げなかった。頃之、老父復た行き、路に剣を失った。人有り行きてこれに遇い、置き去りにせんとしたが、後の人がこれを得て剣主が永く失うことを懼れ、取りて購募せんとすれば或いは差錯を恐れ、遂にこれを守った。暮に至り、剣主還りてこれを見れば、前の代わりに担いだ人であった。老父其の袂を攫み、問うて曰く「子は前に吾が担ぎを代わり、姓名を得なかった。今子復た吾が剣を路に守る。子の如き仁は未だ有らず。請う子吾に姓名を告げよ、吾将に以て王烈に告げん」と。乃ち之に語りて去った。老父以て烈に告げ、烈曰く「世に仁人あり、吾未だ之を見ず」。遂に人をして之を推さしめれば、乃ち昔時に牛を盗んだ人であった。烈歎じて曰く「韶楽九成にして、虞賓以て和す。人能く感有るは、乃ち斯に至るか」。遂に国人をして其の閭を表し之を異とせしめた。時に人或いは曲直を訟え、将に烈に質せんとし、或いは塗に至りて反り、或いは廬を望みて還り、皆相推して直と為し、敢えて烈に聞かせなかった。時に国主は皆親しく驂乗して烈の私館に適き、政令を疇諮した。孝廉に察せられ、三府並びに辟したが、皆就かなかった。董卓作乱に会い、地を遼東に避け、躬ら農器を秉り、四民に編し、布衣蔬食にして其の楽を改めなかった。東域の人は之を奉ずること君の如くした。時に衰世弊れ、真を知る者少なく、朋党の人は互いに讒謗した。世を避けて東国に在る者は多く人の害する所と為ったが、烈は之に居ること歴年、未だ嘗て患い有らず。遼東をして彊は弱を淩まず、衆は寡を暴まず、商賈の人は市に二価無からしめた。太祖累ねて徵召したが、遼東が解いて遣らなかった。建安二十三年に寝疾し、年七十八にして終わった。)

原文王烈者,字彥方,於時名聞在原、寧之右。辭公孫度長史,商賈自穢。太祖命為丞相掾,徵事,未至,卒於海表。〈《先賢行狀》曰:烈通識達道,秉義不回。以潁川陳太丘為師,二子為友。時潁川荀慈明、賈偉節、李元禮、韓元長皆就陳君學,見烈器業過人,歎服所履,亦與相親。由是英名著於海內。道成德立,還歸舊廬,遂遭父喪,泣淚三年。遇歲饑饉,路有餓殍,烈乃分釜庚之儲,以救邑里之命。是以宗族稱孝,鄉黨歸仁。以典籍娛心,育人為務,遂建學校,敦崇庠序。其誘人也,皆不因其性氣,誨之以道,使之從善遠惡。益者不自覺,而大化隆行,皆成寶器。門人出入,容止可觀,時在市井,行步有異,人皆別之。州閭成風,咸競為善。時國中有盜牛者,牛主得之。盜者曰:「我邂逅迷惑,從今已後將為改過。子旣已赦宥,幸無使王烈聞之。」人有以告烈者,烈以布一端遺之。或問:「此人旣為盜,畏君聞之,反與之布,何也?」烈曰:「昔秦穆公,人盜其駿馬食之,乃賜之酒。盜者不愛其死,以救穆公之難。今此盜人能悔其過,懼吾聞之,是知恥惡。知恥惡,則善心將生,故與布勸為善也。」間年之中,行路老父擔重,人代擔行數十里,欲至家,置而去,問姓名,不以告。頃之,老父復行,失劒於路。有人行而遇之,欲置而去,懼後人得之,劒主於是永失,欲取而購募,或恐差錯,遂守之。至暮,劒主還見之,前者代擔人也。老父擥其袂,問曰:「子前者代吾擔,不得姓名,今子復守吾劒于路,未有若子之仁,請子告吾姓名,吾將以告王烈。」乃語之而去。老父以告烈,烈曰:「世有仁人,吾未之見。」遂使人推之,乃昔時盜牛人也。烈歎曰:「韶樂九成,虞賔以和:人能有感,乃至於斯也!」遂使國人表其閭而異之。時人或訟曲直,將質於烈,或至塗而反,或望廬而還,皆相推以直,不敢使烈聞之。時國主皆親驂乘適烈私館,疇諮政令。察孝廉,三府並辟,皆不就。會董卓作亂,避地遼東,躬秉農器,編於四民,布衣蔬食,不改其樂。東域之人,奉之若君。時衰世弊,識真者少,朋黨之人,互相讒謗。自避世在東國者,多為人所害,烈居之歷年,未甞有患。使遼東彊不淩弱,衆不暴寡,商賈之人,市不二價。太祖累徵召,遼東為解而不遣。以建安二十三年寢疾,年七十八而終。〉

中国が少し安定すると、客たちは皆帰っていったが、ただ管寧だけは泰然としてまるでそこで生涯を終えるかのようであった。黄初四年(223年)、詔によって公卿に独行の君子を推挙させたところ、司徒の華歆が管寧を推薦した。文帝が即位すると、管寧を徴召し、そこで管寧は家族を連れて海を渡って郡に帰った。公孫恭は彼を南郊まで見送り、衣服や物品を贈り物として加えた。管寧が東へ行って以来、公孫度、公孫康、公孫恭が前後して与えた物資は、すべて受け取ってはいたがそれらをしまっておいた。西へ渡った後、それらをすべて封印して返還した。詔によって管寧を太中大夫としたが、固辞して受けなかった。(『傅子』に曰く、この時康はまた既に死に、嫡子は立たずして弟の恭が立ち、恭は懦弱であったが、康の孽子の淵は儁才があった。寧は曰く「嫡を廃して庶を立てれば、下に異心あり、乱の起る所由なり」と。乃ち家族を将いて海に乗り即ち徴を受けた。寧は遼東に在ること積三十七年にして乃ち帰り、その後淵は果たして恭の位を襲奪し、国家に叛き南のかた呉に連なり、僭号して王と称し、明帝は相国宣文侯をして之を征滅せしめた。遼東の死者は万を以て計え、寧の籌る所の如くであった。寧の帰るや、海中に暴風に遇い、船は皆没したが、唯寧の乗る船は自若であった。時に夜風晦冥し、船人尽く惑い、泊る所を知らなかった。望み見るに火光有り、輒ち之に趣き、島を得た。島に居人無く、又火燼も無く、行人咸な之を異とし、神光の祐と為した。皇甫謐は曰く「積善の応なり」と。詔して寧を太中大夫と為したが、固辞して受けなかった。『傅子』に曰く、寧は天子に上書し、且つ疾を以て辞して曰く「臣聞く、傅説は夢に発して以て殷宗を感ぜしめ、呂尚は兆を啓きて以て周文を動かし、神を通ずるの才を以て聖主に悟り、用て能く帝業を匡佐し、克く大勳を成せり。臣の器は朽ち、実に其の人に非ず。清時を貪ると雖も、体を釈て蝉蛻せん。内に頑病を省みれば、日は西の山に薄し。唯陛下、野人山藪の願を聴き、一の老者をして微命を尽さしめよ」と。書奏すると、帝親しく之を覧た。司空陳羣また寧を薦めて曰く「臣聞く、王者は善を顕して以て悪を消す。故に湯は伊尹を挙げて、不仁の者遠ざかる。伏して見るに、徴士北海の管寧は、行は世の表と為り、学は人の師に任じ、清倹は以て濁を激するに足り、貞正は以て時を矯むるに足る。前は徴命と雖も、礼未だ優備せず。昔司空荀爽は、家に光禄を拝し、先儒鄭玄は、即ち司農を授けられた。若し備礼を加えれば、庶くは必ず致すべし。西序に延き、坐して道を論ぜば、必ず能く古今を昭明し、大化に益有らん」と。遂に詔を下して曰く「太中大夫管寧は、道徳を耽懐し、六芸を服膺し、清虚は以て古に侔するに足り、廉白は以て世に当るべし。曩に王道衰缺に遭い、海を浮かび遁居せり。大魏命を受くるに及びては、則ち襁負して至る。斯れ蓋し応龍潜升の道、聖賢用舎の義なり。而るに黄初以来、徴命屢しば下るも、毎に輒ち疾を辞し、拒違して至らず。豈に朝廷の政、生と趣を殊にし、将に山林に安楽して、往きて能く反らざらんとするか。夫れ姫公の聖を以てするも、耇徳降らざれば、則ち鳴鳥聞こえず。秦穆の賢を以てするも、猶お黄髪に詢うを思えり。況んや朕寡徳、曷ぞ能く子大夫に道を聞くを願わざらんや。今寧を以て光禄勳と為す。礼に大倫あり、君臣の道、廃すべからざるなり。望むらくは必ず速やかに至り、朕が意に称えよ」と。又青州刺史に詔して曰く「寧は道を抱き貞を懐き、海隅に潜翳し、比ごろ徴書を下すも、命に違いて至らず、盤桓利居し、其の事を高尚す。素履幽人の貞有りと雖も、考父茲恭の義を失い、朕をして虚心引領すること歴年ならしむ。其れ何の謂ぞや。徒に安を懐かんと欲し、必ず其の志を肆にせば、古人も亦翻然として節を改め以て斯民を隆からしむる者有るを惟わざるか。日逝き月除き、時方に已に過ぎんとす。身を澡い徳を浴み、将に以て曷をか為さん。仲尼言有り『吾斯の人に非ずして誰と与にせんや』と。其れ別駕従事郡丞掾に命じ、詔を奉じて礼を以て寧を発遣し行在所に詣らしめよ。安車、吏従、茵蓐、道上の厨食を給し、道に上るに先ず奏せよ」と。寧は「草莽臣」と称して上疏して曰く「臣は海浜の孤微、罷農伍無く、禄運幸に厚し。横に陛下の洪緒を纂承し、徳は三皇に侔し、化は有唐に溢るるを蒙る。久しく渥沢を荷い、祀を積むこと一紀、仰ぎて陛下恩養の福に荅うること能わず。篤痾に沈委し、寝疾弥留し、臣隷顛倒の節に逋違し、夙宵戦怖し、地自ら厝く無し。臣元年十一月に公車司馬令の下す所の州郡に被り、八月甲申の詔書を以て臣を徴し、更に安車、衣被、茵蓐を賜い、礼を以て発遣せらる。光寵並びに臻り、優命屢しば至り、怔営竦息し、悼心図を失う。思うに自ら陳聞し、愚情を申展せんとすれども、明詔抑割し、稍く章表を脩めしめず、是を以て鬱滞し、今日に訖る。誠に乾覆の恩に紀極有るを謂えども、意わず霊潤、弥よ隆赫なり。今年二月に州郡の下す所の三年十二月辛酉の詔書に被り、重ねて安車、衣服を賜い、別駕従事と郡功曹と礼を以て発遣し、又特に璽書を被り、臣を以て光禄勳と為し、躬ら労謙を秉り、周・秦を引喩し、上を損じ下を益す。詔を受くるの日、精魄飛散し、死を投ずる所無し。臣重ねて自ら省揆するに、徳は園・綺に非ずして安車の栄を蒙り、功は竇融に無くして璽封の寵を蒙る。楶梲駑下にして棟梁の任を荷い、垂没の命にして九棘の位を獲、朱博鼓妖の眚有るを懼る。又年疾日々に侵し、加有りて損無く、扶輿して進路し元責を塞ぐに任えず。閶闔を望慕し、闕庭に徘徊し、謹んで章を拝し情を陳べ、哀省を蒙り、恩を抑え放聴せられ、骸骨を衢路に填めしめざらんことを乞う」と。)

原文(段落全体)中國少安,客人皆還,唯寧晏然若將終焉。黃初四年,詔公卿舉獨行君子,司徒華歆薦寧。文帝即位,徵寧,遂將家屬浮海還郡,公孫恭送之南郊,加贈服物。自寧之東也,度、康、恭前後所資遺,皆受而藏諸。旣已西渡,盡封還之。〈《傅子》曰:是時康又已死,嫡子不立而立弟恭,恭懦弱,而康孽子淵有儁才。寧曰:「廢嫡立庶,下有異心,亂之所由起也。」乃將家屬乘海即受徵。寧在遼東,積三十七年乃歸,其後淵果襲奪恭位,叛國家而南連吳,僭號稱王,明帝使相國宣文侯征滅之。遼東之死者以萬計,如寧所籌。寧之歸也,海中遇暴風,船皆沒,唯寧乘船自若。時夜風晦冥,船人盡惑,莫知所泊。望見有火光,輒趣之,得島。島無居人,又無火燼,行人咸異焉,以為神光之祐也。皇甫謐曰:「積善之應也。」〉詔以寧為太中大夫,固辭不受。〈《傅子》曰:寧上書天子,且以疾辭,曰:「臣聞傅說發夢,以感殷宗,呂尚啟兆,以動周文,以通神之才悟於聖主,用能匡佐帝業,克成大勳。臣之器朽,實非其人。雖貪清時,釋體蟬蛻。內省頑病,日薄西山。唯陛下聽野人山藪之願,使一老者得盡微命。」書奏,帝親覽焉。〉明帝即位,太尉華歆遜位讓寧,〈《傅子》曰:司空陳羣又薦寧曰:「臣聞王者顯善以消惡,故湯舉伊尹,不仁者遠。伏見徵士北海管寧,行為世表,學任人師,清儉足以激濁,貞正足以矯時。前雖徵命,禮未優備。昔司空荀爽,家拜光祿,先儒鄭玄,即授司農,若加備禮,庶必可致。至延西序,坐而論道,必能昭明古今,有益大化。」〉遂下詔曰:「太中大夫管寧,耽懷道德,服膺六藝,清虛足以侔古,廉白可以當世。曩遭王道衰缺,浮海遁居,大魏受命,則襁負而至,斯蓋應龍潛升之道,聖賢用舍之義。而黃初以來,徵命屢下,每輙辭疾,拒違不至。豈朝廷之政,與生殊趣,將安樂山林,往而不能反乎!夫以姬公之聖,而耇德不降,則鳴鳥弗聞。〈《尚書·君奭》曰:「耇造德不降,我則鳴鳥不聞,矧曰其有能格。」鄭玄曰:「耇,老也。造,成也。詩云:『小子有造。』老成德之人,不降志與我並在位,則鳴鳥之聲不得聞,況乃曰有能德格於天者乎!言必無也。鳴鳥謂鳳也。」〉以秦穆之賢,猶思詢乎黃髮。況朕寡德,曷能不願聞道于子大夫哉!今以寧為光祿勳。禮有大倫,君臣之道,不可廢也。望必速至,稱朕意焉。」又詔青州刺史曰:「寧抱道懷貞,潛翳海隅,比下徵書,違命不至,盤桓利居,高尚其事。雖有素履幽人之貞,而失考父茲恭之義,使朕虛心引領歷年,其何謂邪?徒欲懷安,必肆其志,不惟古人亦有翻然改節以隆斯民乎!日逝月除,時方已過,澡身浴德,將以曷為?仲尼有言:『吾非斯人之徒與而誰與哉!』其命別駕從事郡丞掾,奉詔以禮發遣寧詣行在所,給安車、吏從、茵蓐、道上廚食,上道先奏。」寧稱「草莽臣」上疏曰:「臣海濵孤微,罷農無伍,祿運幸厚。橫蒙陛下纂承洪緒,德侔三皇。化溢有唐。乆荷渥澤,積祀一紀,不能仰荅陛下恩養之福。沈委篤痾,寢疾彌留,逋違臣隷顛倒之節,夙宵戰怖,無地自厝。臣元年十一月被公車司馬令所下州郡,八月甲申詔書徵臣,更賜安車、衣被、茵蓐,以禮發遣,光寵並臻,優命屢至,怔營竦息,悼心失圖。思自陳聞,申展愚情,而明詔抑割,不令稍脩章表,是以鬱滯,訖于今日。誠謂乾覆,恩有紀極,不意靈潤,彌以隆赫。奉今年二月被州郡所下三年十二月辛酉詔書,重賜安車、衣服,別駕從事與郡功曹以禮發遣,又特被璽書,以臣為光祿勳,躬秉勞謙,引喻周、秦,損上益下。受詔之日,精魄飛散,靡所投死。臣重自省揆,德非園、綺而蒙安車之榮,功無竇融而蒙璽封之寵,楶梲駑下,荷棟梁之任,垂沒之命,獲九棘之位,懼有朱博鼓妖之眚。又年疾日侵,有加無損,不任扶輿進路以塞元責。望慕閶闔,徘徊闕庭,謹拜章陳情,乞蒙哀省,抑恩聽放,無令骸骨填於衢路。」

明帝が即位すると、太尉の華歆が退いて管寧に譲ろうとした。そこで詔を下して言った。「太中大夫の管寧は、道徳を心に深く留め、六芸を胸に抱き、清虚は古人に匹敵し、廉白は当世にふさわしい。かつて王道が衰え欠けた時、海を渡って隠遁して住んだが、大魏が天命を受けると、赤子を背負ってやって来た。これは応龍が潜み昇る道理であり、聖賢が用いられたり捨てられたりする意義である。ところが黄初以来、徴命がたびたび下されたが、毎度病気を理由に辞退し、拒んで違え、来ようとしなかった。はたして朝廷の政治が、生き方と趣を異にするからなのか、それとも山林の安楽に往ってしまい、帰ることができなくなったのか。周公のような聖人であっても、老いた徳が降りて来なければ、鳴く鳥の声も聞こえない。秦の穆公のような賢人であっても、なお白髪の老人に諮問しようと思った。まして朕のような徳の薄い者が、どうして子大夫から道を聞くことを願わないでいられようか。今、管寧を光禄勲とする。礼には大いなる倫があり、君臣の道は廃してはならない。必ず速やかに来て、朕の意に応えることを望む。」また青州刺史に詔して言った。「管寧は道を抱き貞を懐き、海辺に隠れ潜んでいる。これまで徴書を下したが、命令に背いて来ず、利ある住処に滞在し、その事を高尚としている。確かに素履の幽人の貞節はあるが、考父のますます恭しいという意義を失っている。朕が虚心に首を長くして何年も待ったが、これはどういうことか。ただ安楽を懐かしむばかりで、必ずその志をほしいままにしようとするのか。古人にも翻然と節を改めて民を隆盛させた者がいることを考えないのか。日は過ぎ月は除かれ、時はすでに過ぎ去った。身を洗い徳に浴するのは、いったい何のためか。仲尼に言がある。『われ斯の人の徒とせずして誰とせんや』。別駕従事・郡丞・掾に命じ、詔によって礼をもって管寧を行在所に発遣させよ。安車・吏の従者・茵蓐・道上の厨食を与え、出発する前に上奏せよ。」管寧は「草莽の臣」と称して上疏して言った。「臣は海辺の孤微な者で、農をやめて仲間もおらず、禄運は幸いにも厚い。横にも陛下が洪大な統緒を継承され、徳は三皇に等しく、教化は有唐(堯)に溢れている。長く湿った恩沢を被り、積もること一紀(12年)、陛下の恩養の福に仰いで答えることができない。重い病に沈み臥せり、病床に伏して長く留まり、臣下としての節を誤り逆らい、朝夕戦慄し恐れ、身の置き所がない。臣は元年十一月に公車司馬令から下された州郡の命令、八月甲申の詔書で臣を徴召し、さらに安車・衣被・茵蓐を賜り、礼をもって発遣され、光栄と寵愛がともに至り、優れた命令がたびたび下った。驚き恐れて息をひそめ、心を痛めて方策を失った。自ら陳べて聞かせ、愚かな心情を伸べ述べようと思ったが、明詔が抑え止め、少しも章表を整えることを許さなかった。そのため鬱滞し、今日に至った。誠に天の覆い、恩には極まりがあると思っていたが、思いがけず霊妙な潤いはますます盛大で赫かである。今年二月に州郡から下された三年十二月辛酉の詔書を奉じ、重ねて安車・衣服を賜り、別駕従事と郡功曹が礼をもって発遣し、また特に璽書を被り、臣を光禄勳とし、自ら労謙の徳をとり、周・秦を引き合いに出し、上を損ねて下を益することを説かれた。詔を受けた日、精神は飛び散り、死に場所もない。臣は重ねて自ら省み考えるに、徳は園公・綺里季(商山四皓の二人)ではなくながら安車の栄誉を蒙り、功は竇融ではないながら璽封の寵愛を蒙り、梁の斗栱のように駑鈍で下劣でありながら棟梁の任を荷い、滅びゆく命でありながら九棘(九卿)の位を得た。朱博の鼓妖の災いがあることを恐れる。また年の病は日々侵し、増すことはあっても減ることはなく、車に乗って進み路を行き、重大な責めを塞ぐに堪えない。宮門を仰ぎ慕い、宮廷の前を徘徊し、謹んで章を捧げて心情を陳べ、哀れみ省みられることを乞い、恩を抑えて放免を聴き入れられ、骸骨が大路に埋もれないようにしてください。」(《傅子》に曰く、この時康はすでに死に、嫡子を立てずに弟の恭を立てたが、恭は懦弱で、康の庶子の淵には俊才があった。寧は言った。「嫡を廃して庶を立てれば、下に異心が生じ、乱の起こる原因となる。」そこで家族を連れて海に乗り、徴召を受けた。寧は遼東にいて、積むこと三十七年にして帰った。その後、淵は果たして恭の位を襲奪し、国家に叛いて南のかた呉と連なり、僭号して王と称した。明帝は相国宣文侯に命じて征滅させた。遼東の死者は万を以て数え、寧の計った通りであった。寧の帰る時、海中で暴風に遭い、船は皆没したが、寧の乗る船だけは自若としていた。時に夜で風は暗く、船人は皆惑い、どこに泊まるか知らなかった。火光が見えるのを望み、すぐにそこへ向かい、島を得た。島には住む人もなく、また火の燃え殻もなく、行く人は皆怪しみ、神光の祐護と考えた。皇甫謐は言った。「積善の応報である。」詔して寧を太中大夫としたが、固く辞して受けなかった。《傅子》に曰く、寧は天子に上書し、また病を以て辞して言った。「臣は聞く、傅説は夢に発して殷の宗を感得し、呂尚は兆を啓いて周の文を動かし、神に通じる才を以て聖主に悟られ、よく帝業を匡佐し、大勲を成し遂げたと。臣の器は朽ちて、実にその人ではない。清き時を貪り、体を解いて蝉蜕するといえども、内に頑病を省みれば、日は西山に薄い。ただ陛下が野人山藪の願いを聴き、一老の者が微命を尽くすことを得させられんことを。」書が奏されると、帝は自らこれを覧た。司空の陳羣また寧を薦めて言った。「臣は聞く、王者は善を顕して以て悪を消す、故に湯は伊尹を挙げ、不仁の者は遠ざかったと。伏して見るに、徴士北海の管寧は、行いは世の表となり、学は人の師に任じ、清倹は以て濁を激するに足り、貞正は以て時を矯めるに足る。前には徴命あったといえども、礼は未だ優備せず。昔、司空荀爽は家に光禄を拝し、先儒鄭玄は即ち司農を授けられた。もし礼を備えて加えれば、庶くは必ず致すことができよう。西序に延き、坐して道を論じるに至っては、必ず能く古今を昭明し、大化に益あらん。)

原文(段落全体)中國少安,客人皆還,唯寧晏然若將終焉。黃初四年,詔公卿舉獨行君子,司徒華歆薦寧。文帝即位,徵寧,遂將家屬浮海還郡,公孫恭送之南郊,加贈服物。自寧之東也,度、康、恭前後所資遺,皆受而藏諸。旣已西渡,盡封還之。〈《傅子》曰:是時康又已死,嫡子不立而立弟恭,恭懦弱,而康孽子淵有儁才。寧曰:「廢嫡立庶,下有異心,亂之所由起也。」乃將家屬乘海即受徵。寧在遼東,積三十七年乃歸,其後淵果襲奪恭位,叛國家而南連吳,僭號稱王,明帝使相國宣文侯征滅之。遼東之死者以萬計,如寧所籌。寧之歸也,海中遇暴風,船皆沒,唯寧乘船自若。時夜風晦冥,船人盡惑,莫知所泊。望見有火光,輒趣之,得島。島無居人,又無火燼,行人咸異焉,以為神光之祐也。皇甫謐曰:「積善之應也。」〉詔以寧為太中大夫,固辭不受。〈《傅子》曰:寧上書天子,且以疾辭,曰:「臣聞傅說發夢,以感殷宗,呂尚啟兆,以動周文,以通神之才悟於聖主,用能匡佐帝業,克成大勳。臣之器朽,實非其人。雖貪清時,釋體蟬蛻。內省頑病,日薄西山。唯陛下聽野人山藪之願,使一老者得盡微命。」書奏,帝親覽焉。〉明帝即位,太尉華歆遜位讓寧,〈《傅子》曰:司空陳羣又薦寧曰:「臣聞王者顯善以消惡,故湯舉伊尹,不仁者遠。伏見徵士北海管寧,行為世表,學任人師,清儉足以激濁,貞正足以矯時。前雖徵命,禮未優備。昔司空荀爽,家拜光祿,先儒鄭玄,即授司農,若加備禮,庶必可致。至延西序,坐而論道,必能昭明古今,有益大化。」〉遂下詔曰:「太中大夫管寧,耽懷道德,服膺六藝,清虛足以侔古,廉白可以當世。曩遭王道衰缺,浮海遁居,大魏受命,則襁負而至,斯蓋應龍潛升之道,聖賢用舍之義。而黃初以來,徵命屢下,每輙辭疾,拒違不至。豈朝廷之政,與生殊趣,將安樂山林,往而不能反乎!夫以姬公之聖,而耇德不降,則鳴鳥弗聞。〈《尚書·君奭》曰:「耇造德不降,我則鳴鳥不聞,矧曰其有能格。」鄭玄曰:「耇,老也。造,成也。詩云:『小子有造。』老成德之人,不降志與我並在位,則鳴鳥之聲不得聞,況乃曰有能德格於天者乎!言必無也。鳴鳥謂鳳也。」〉以秦穆之賢,猶思詢乎黃髮。況朕寡德,曷能不願聞道于子大夫哉!今以寧為光祿勳。禮有大倫,君臣之道,不可廢也。望必速至,稱朕意焉。」又詔青州刺史曰:「寧抱道懷貞,潛翳海隅,比下徵書,違命不至,盤桓利居,高尚其事。雖有素履幽人之貞,而失考父茲恭之義,使朕虛心引領歷年,其何謂邪?徒欲懷安,必肆其志,不惟古人亦有翻然改節以隆斯民乎!日逝月除,時方已過,澡身浴德,將以曷為?仲尼有言:『吾非斯人之徒與而誰與哉!』其命別駕從事郡丞掾,奉詔以禮發遣寧詣行在所,給安車、吏從、茵蓐、道上廚食,上道先奏。」寧稱「草莽臣」上疏曰:「臣海濵孤微,罷農無伍,祿運幸厚。橫蒙陛下纂承洪緒,德侔三皇。化溢有唐。乆荷渥澤,積祀一紀,不能仰荅陛下恩養之福。沈委篤痾,寢疾彌留,逋違臣隷顛倒之節,夙宵戰怖,無地自厝。臣元年十一月被公車司馬令所下州郡,八月甲申詔書徵臣,更賜安車、衣被、茵蓐,以禮發遣,光寵並臻,優命屢至,怔營竦息,悼心失圖。思自陳聞,申展愚情,而明詔抑割,不令稍脩章表,是以鬱滯,訖于今日。誠謂乾覆,恩有紀極,不意靈潤,彌以隆赫。奉今年二月被州郡所下三年十二月辛酉詔書,重賜安車、衣服,別駕從事與郡功曹以禮發遣,又特被璽書,以臣為光祿勳,躬秉勞謙,引喻周、秦,損上益下。受詔之日,精魄飛散,靡所投死。臣重自省揆,德非園、綺而蒙安車之榮,功無竇融而蒙璽封之寵,楶梲駑下,荷棟梁之任,垂沒之命,獲九棘之位,懼有朱博鼓妖之眚。又年疾日侵,有加無損,不任扶輿進路以塞元責。望慕閶闔,徘徊闕庭,謹拜章陳情,乞蒙哀省,抑恩聽放,無令骸骨填於衢路。」

黄初から青龍に至るまで、徴命が相次ぎ、常に八月に牛と酒を賜った。詔書で青州刺史の程喜に問うた。「管寧は節を守って高尚なのか、それとも本当に老いて病み衰弱しているのか。」程喜が上言して言った。「管寧には一族の管貢という者が州の吏となっており、管寧と隣り合って住んでいます。臣は常に彼を使って消息を探らせました。管貢は言います。『管寧は常に黒い帽子、布の短い上着と袴、布の裾を着て、季節に応じて単衣や袷衣とし、家の門や庭を出入りし、自ら杖を頼りにすることができ、扶持を必要としません。四季の祠祭には、いつも自力で努め、衣服を改め、綿入れの巾を着け、かつて遼東にいた時の白布の単衣を着て、自ら饌饋を捧げ、跪拝して礼を成します。管寧は幼くして母を亡くし、その姿形を知らないので、常に特に杯を加え、涙を流して泣きます。また住居は水から七八十歩離れており、夏の時には水の中に行って手足を洗い、園圃を覗きます。』臣が管寧の前後の辞退の意を推し量りますに、ただ自らが成長して潜み隠逸し、年老いて知恵が衰えたため、このように遅滞し、毎度謙退を執っているのです。これは管寧の志と行いが必ず全うしようと欲するもので、高尚を守ろうとしているのではありません。」(《高士傳》に曰く、管寧は海を越えてから帰るまで、常に一つの木榻に坐し、積むこと五十余年、未だ嘗て箕股(足を投げ出すこと)せず、その榻の膝に当たる所は皆穿った。)

原文自黃初至于青龍,徵命相仍,常以八月賜牛酒。詔書問青州刺史程喜:「寧為守節高乎,審老疾尪頓邪?」喜上言:「寧有族人管貢為州吏,與寧鄰比,臣常使經營消息。貢說:『寧常著皁帽、布襦袴、布裠,隨時單複,出入閨庭,能自任杖,不須扶持。四時祠祭,輙自力彊,改加衣服,著絮巾,故在遼東所有白布單衣,親薦饌饋,跪拜成禮。寧少而喪母,不識形象,常特加觴,泫然流涕。又居宅離水七八十步,夏時詣水中澡灑手足,闚於園圃。』臣揆寧前後辭讓之意,獨自以生長潛逸,耆艾智衰,是以栖遲,每執謙退。此寧志行所欲必全,不為守高。」〈《高士傳》曰:管寧自越海及歸,常坐一木榻,積五十餘年,未甞箕股,其榻上當膝處皆穿。〉

臣は聞く、龍や鳳はその輝きを隠し、徳に応じて現れ、明哲な者は潜み身を隠し、時を待って動く。それゆえ、鸞や鷟が岐山で鳴き、周の道は隆盛し、四皓が補佐となり、漢の皇帝は安泰を得た。伏して見るに、太中大夫の管寧は、天地の調和に応じ、九徳の純粋な美質を備え、内に文彩を秘め、素朴な本質を持ち、氷のように清く淵のように澄み、玄虚で淡泊であり、道とともに逍遥し、心を黄老の学に楽しませ、志を六芸に遊ばせ、学問の奥義を究め、古今を胸中に収め、道徳の機微を包み込んでいる。中平の頃、黄巾が暴れ、華夏は揺らぎ、朝廷の綱紀は緩み廃れた。そこで彼は時の難を避け、筏に乗って海を渡り、遼東に旅寓すること三十余年。乾の姤の卦のように、その姿を隠し光を潜め、隠遁して浩然の気を養い、儒学と墨家の教えを内に秘め、ひそかに教化を広め、異なる風俗の地にもその道を暢やかにした。

原文臣聞龍鳳隱耀,應德而臻,明哲潛遁,俟時而動。是以鸞鷟鳴岐,周道隆興,四皓為佐,漢帝用康。伏見太中大夫管寧,應二儀之中和,總九德之純懿,含章素質,冰絜淵清,玄虛澹泊,與道逍遙;娛心黃老,游志六藝,升堂入室,究其閫奧,韜古今於胷懷,包道德之機要。中平之際,黃巾陸梁,華夏傾蕩,王綱弛頓。遂避時難,乘桴越海,羈旅遼東三十餘年。在乾之姤,匿景藏光,嘉遁養浩,韜韞儒墨,潛化傍流,暢於殊俗。

黄初四年、高祖文皇帝は群臣に諮り、俊才を求められた。かつての司徒華歆が管寧を推挙し、公車が特別に招聘した。彼は遠方の地から翼を振るい、翻然と飛来した。途中で困難に遭い、病にかかったため、すぐに太中大夫に任命された。烈祖明皇帝はその徳を称え、光禄勲に登用された。管寧の病は重く、朝廷に出仕することはできなかった。今、管寧の旧疾はすでに癒え、齢八十に至っても志は衰えず倦むことがない。粗末な家に住み、貧しい巷に身を置き、粥で口を糊し、二日に一度の食事で、詩書を吟詠し、その楽しみを変えない。困窮にあっても道を貫き、難に遭えば必ず乗り越え、危険を経てもその節操を変えず、金の音色、玉の輝きのように、時が経つほどにいっそう明らかになる。その終始を推し量れば、天が与えた福であろう。大魏を賛え、太平の世を補佐し輝かせるべきである。天子の職に欠けるところがあれば、臣下たちは期待を寄せる。昔、高宗は像を刻んで賢哲を求め、周の文王は亀甲を開いて良き補佐を占った。まして管寧は前朝から顕彰され、名声と徳行はすでに顕著でありながら、長く隠遁し、まだ招き寄せられていないのは、明らかな教訓を奉じ、前の志を継ぎ成すことにはならない。陛下が即位され、大業を継承された。聖なる敬虔は日々高まり、周の成王を超えている。徳のある言葉を発せられるたびに、師傅に諮問される。もし二祖の賢者招致の故事を継ぎ、俊才を賓礼をもって遇し、光明を広く集めれば、盛んな教化は前代に匹敵するであろう。

原文黃初四年,高祖文皇帝疇咨羣公,思求儁乂,故司徒華歆舉寧應選,公車特徵,振翼遐裔,翻然來翔。行遇屯厄,遭罹疾病,即拜太中大夫。烈祖明皇帝嘉美其德,登為光祿勳。寧疾彌留,未能進道。今寧舊疾已瘳,行年八十,志無衰倦。環堵篳門,偃息窮巷,飯鬻餬口,并日而食,吟詠詩書,不改其樂。困而能通,遭難必濟,經危蹈險,不易其節,金聲玉色,乆而彌彰。揆其終始,殆天所祚,當贊大魏,輔亮雍熙。袞職有闕,羣下屬望。昔高宗刻象,營求賢哲,周文啟龜,以卜良佐。況寧前朝所表,名德已著,而乆栖遲,未時引致,非所以奉遵明訓,繼成前志也。陛下踐阼,纂承洪緒。聖敬日躋,超越周成。每發德音,動諮師傅。若繼二祖招賢故典,賔禮儁邁,以廣緝熙,濟濟之化,侔於前代。

管寧は清高で恬淡であり、前人の軌跡に倣い、徳行は卓絶して、天下に比類がない。歴代の詔書で招聘された申公、枚乗、周党、樊英の類を見るに、その淵源を測り、その清濁を観ても、世俗を励ますような孤高の行いで管寧のような者はまだいない。誠に絹と璧を備え、礼を尽くして招聘し、さらに几杖を授け、東序に招き入れ、古典を講じさせ、座って道を論じさせ、上は天の運行を正し、皇極を調和させ、下は民衆を豊かにし、人倫の秩序を整えさせれば、必ず見るべきものがあり、大いなる教化を光り輝かせるであろう。もし管寧が石のように固く志を守り、箕山の許由の跡を追い、洪崖や巣父・許由の道に参じるとしても、それも聖朝が唐・虞の世と符合し、賢者を優遇してその経歴を顕彰し、名声を千年に伝えることになる。(『今文尚書』に「優賢揚歴」とあり、それはその経てきた試練を顕彰することをいう。左思の『魏都賦』に「優賢著於揚歴」とある。)出仕と隠遁は道は異なり、姿勢も違うが、治世を興し風俗を美しくする点では、その道理は同じである。

原文寧清高恬泊,擬跡前軌,德行卓絕,海內無偶。歷觀前世玉帛所命,申公、枚乘、周黨、樊英之儔,測其淵源,覽其清濁,未有厲俗獨行若寧者也。誠宜束帛加璧,備禮徵聘,仍授几杖,延登東序,敷陳墳素,坐而論道,上正璇璣,恊和皇極,下阜羣生,彝倫攸叙,必有可觀,光益大化。若寧固執匪石,守志箕山,追迹洪崖,參蹤巢、許。斯亦聖朝同符唐、虞,優賢揚歷,垂聲千載。〈《今文尚書》曰「優賢揚歷」,謂揚其所歷試。左思《魏都賦》曰:「優賢著於揚歷」也。〉雖出處殊塗,俯仰異體,至於興治美俗,其揆一也。

そこで特別に安車に蒲輪を付け、絹と璧を添えて招聘した。ちょうど管寧が死去した。時に八十四歳。その子の管邈を郎中に任命し、後に博士とした。初め、管寧の妻が先に亡くなり、旧知が再婚を勧めたが、管寧は言った。「曾子や王駿の言葉を省みるたびに、その心を常に褒め称える。どうして自分がその境遇に遭って本心に背くことができようか。」(『傅子』によると、管寧は衰乱の世に、世の多くが妄りに氏族を変える者がおり、聖人の制度に背き、礼に基づく姓の本意ではないとして、『氏姓論』を著して世系の本源を明らかにしたが、文章は多く掲載されない。住む所では、姻戚、旧知、隣人で困窮する者がいれば、家の蓄えが一担にも満たなくても、必ず分けて救済した。人の子には孝を教え、人の弟には悌を訓え、人臣について言えば忠を諭した。容貌は甚だ恭しく、言葉は甚だ順で、その行いを見ると、はるかに及ばないように思われるが、近づけば和やかで、甚だ柔和で温かく、その事柄に応じて善へと導いたので、次第に感化されない者はなかった。管寧の死に、天下の知る者も知らぬ者も、聞いて嘆息しなかった者はない。醇厚な徳の感化がこのようである。これほど至らないことがあろうか。)

原文於是特具安車蒲輪,束帛加璧聘焉。會寧卒,時年八十四。拜子邈郎中,後為博士。初,寧妻先卒,知故勸更娶,寧曰:「每省曾子、王駿之言,意常嘉之,豈自遭之而違本心哉?」〈《傅子》曰:寧以衰亂之時,世多妄變氏族者,違聖人之制,非禮命姓之意,故著《氏姓論》以原本世系,文多不載。每所居姻親、知舊、鄰里有困窮者,家儲雖不盈擔石,必分以贍救之。與人子言,教以孝;與人弟言,訓以悌;言及人臣,誨以忠。貌甚恭,言甚順,觀其行,邈然若不可及,即之熈熈然,甚柔而溫,因其事而導之於善,是以漸之者無不化焉。寧之亡,天下知與不知,聞之無不嗟歎。醇德之所感若此,不亦至乎!〉

その時、鉅鹿の張臶(字は子明)、頴川の胡昭(字は孔明)もまた志を養って仕官しなかった。張臶は若くして太学に遊学し、内外の学を兼ね修め、後に郷里に帰った。袁紹が前後して招聘したが応じず、上党に移り住んだ。并へい州牧の高幹が上表して楽平県令に任命しようとしたが就かず、常山に逃れ隠遁し、門徒は数百人に及び、任県に移り住んだ。太祖が丞相となった時、招聘したが赴かなかった。太和年間、災異を消し復する能力のある隠逸の学問を持つ士を求める詔が下り、郡が繰り返し張臶を推薦し、派遣を命じられたが、老病で行けなかった。広平太守の盧毓が着任して三日目、綱紀が以前の例に従って名刺を持って張臶を訪問すべきと申し出た。盧毓は教令を出して言った。「張先生は、上は天子に仕えず、下は諸侯と友としないという者である。これが名刺による訪問で光り飾ることができようか。」ただ主簿を遣わして書簡と羊・酒の礼を贈らせた。青龍四年辛亥の詔書に「張掖郡の玄川が溢れ涌き、激しい波が奮い立ち、宝石が図を負い、霊亀の形を成し、川の西に鎮まり、高くそびえて盤石のように峙り、青色の地に白い文様、麒麟、鳳凰、龍馬が鮮やかに形を成し、文字による告命が明らかに現れた。太史令の高堂隆が上言した。古代の皇王聖帝も未だかつて蒙ったことがない。まさに魏の吉祥の兆し、東序に伝わる世の宝である。」(『尚書・顧命篇』に「大玉、夷玉、天球、河図は東序にある。」注に「河図は、河から出た図で、帝王聖者が受けるものである。」)事は天下に公布された。任県令の于綽が続けて(そのことについて)尋ねた。張臶は密かに于綽に言った。「神は未来を知るもので、過去を追うものではない。吉祥の兆しが先に現れ、その後で興廃が従う。漢はすでに久しく亡び、魏はすでに天下を得た。何を追って吉祥の兆しを求めようか。この石は、当今の変異であって将来の吉祥の瑞祥である。」正始元年、戴鵀という鳥が張臶の家の門の陰に巣を作った。張臶は門人に告げて言った。「戴鵀は陽の鳥であるのに、門の陰に巣を作る。これは凶兆である。」そして琴を引き歌を詠み、詩二篇を作り、十日後に死去した。時に百五歳。この年、広平太守の王肅が着任し、県に教令を下して言った。「以前、京都にいた時、張子明のことを聞き、来て尋ねたが、ちょうど彼はすでに亡くなっており、痛惜の念を禁じ得ない。この方は篤学で隠居し、時流と競わず、道をもって身を楽しませた。昔、絳県の老人が泥塗に屈していたのを、趙孟が引き上げ、諸侯はこれによって和睦した。その老いても道を好む勤めを哀れみ、栄誉と寵愛を受けなかったことを考える。この書が到着次第、役人を遣わしてその家を慰問し、門戸に顕彰の題字を掲げ、特に異なる扱いを加え、過去を慰め、将来を勧めるようにせよ。」

原文時鉅鹿張臶,字子明,頴川胡昭,字孔明,亦養志不仕。臶少游太學,學兼內外,後歸鄉里。袁紹前後辟命,不應,移居上黨。并州牧高幹表除樂平令,不就,徙遁常山,門徒且數百人,遷居任縣。太祖為丞相,辟,不詣。太和中,詔求隱學之士能消災復異者,郡累上臶,發遣,老病不行。廣平太守盧毓到官三日,綱紀白承前致版謁臶。毓教曰:「張先生所謂上不事天子,下不友諸侯者也。此豈版謁所可光飾哉!」但遣主簿奉書致羊酒之禮。青龍四年辛亥詔書:「張掖郡玄川溢涌,激波奮蕩,寶石負圖,狀像靈龜,宅于川西,嶷然磐峙,倉質素章,麟鳳龍馬,煥炳成形,文字告命,粲然著明。太史令高堂隆上言:古皇聖帝所未甞蒙,實有魏之禎命,東序之世寶。」〈《尚書·顧命篇》曰:「大玉、夷玉、天球、河圖在東序。」注曰:「河圖,圖出於河,帝王聖者之所受。」〉事班天下。任令于綽連齎以問臶,臶密謂綽曰:「夫神以知來,不追已往,禎祥先見而後廢興從之。漢已乆亡,魏已得之,何所追興徵祥乎!此石,當今之變異而將來之禎瑞也。」正始元年,戴鵀之鳥,巢臶門陰。臶告門人曰:「夫戴鵀陽鳥,而巢門陰,此凶祥也。」乃援琴歌詠,作詩二篇,旬日而卒,時年一百五歲。是歲,廣平太守王肅至官,教下縣曰:「前在京都,聞張子明,來至問之,會其已亡,致痛惜之。此君篤學隱居,不與時競,以道樂身。昔絳縣老人屈在泥塗,趙孟升之,諸侯用睦。愍其耄勤好道,而不蒙榮寵,書到,遣吏勞問其家,顯題門戶,務加殊異,以慰旣往,以勸將來。」

胡昭は初め冀州に避難し、袁紹の招聘も辞退して故郷に逃げ帰った。太祖(曹操)が司空・丞相となると、たびたび礼を尽くして招聘した。胡昭は招聘に応じて赴いたが、到着すると、自分は一介の野人に過ぎず、軍国に役立つ才能はないと述べ、誠意をもって帰去を願い出た。太祖は言った。「人はそれぞれ志があり、出処進退の趣きは異なる。どうかその高雅な志を全うされるよう。義をもって強制はしない。」胡昭はそこで陸渾山中に移り住み、自ら耕作して道を楽しみ、経書典籍をもって自らを楽しませた。郷里の人々は彼を敬い愛した。建安二十三年、陸渾県令の張固が文書を受け取り、丁夫を徴発して漢中に送ることになった。民衆は遠方での役務を嫌い恐れ、皆動揺した。民の孫狼らはこれに乗じて兵を起こし県の主簿を殺害し、叛乱を起こしたため、県の町は破壊された。張固は十数人の吏卒を率いて胡昭の住まいに身を寄せ、残った民衆を招集し、社会秩序を回復させた。孫狼らは南の関羽に帰順した。関羽は印綬と兵を与え、賊として戻ってきたが、陸渾の南の長楽亭に至り、互いに誓約を結び、「胡居士は賢者である。決してその部落を犯してはならない」と言った。一帯は胡昭のおかげで、皆恐れることなく済んだ。天下が平定されると、宜陽に移り住んだ。正始年間、驃騎将軍の趙儼、尚書の黄休、郭彝、散騎常侍の荀顗、鍾毓、太僕の庾嶷、弘農太守の何楨らが次々と胡昭を推薦して言った。「天性が高潔で、老いてますます篤実である。玄虚で静素であり、伯夷や四皓のような節操がある。詔命を受けるにふさわしく、風俗を励ますべきである。」嘉平二年に至り、公車が特に招聘したが、ちょうど死去した。八十九歳であった。その子の胡纂に郎中の官が授けられた。(《高士傳》に曰く、初め、晉の宣帝(司馬懿)が布衣であった時、昭と旧交があった。同郡の周生らが帝を害そうと謀った時、昭は聞いて歩いて険を陟り、生を崤・澠の間で邀え、生を止めたが、生は肯じなかった。昭は泣いて誠を結び、生はその義に感じて乃ち止んだ。昭は因りて共に棗樹を斫りて盟い、別れた。昭は帝に対して陰徳があったといえども、口に終に言わず、人知る者なかった。信行は郷党に著しかった。建安十六年、百姓は馬超の叛を聞き、兵を避けて山に入る者千余家、飢えて乏しく、漸く相劫略した。昭は常に遜辞を以てこれを解き、是を以て寇難は消息し、衆は咸く宗とした。故にその居る所の部落の中、三百里に相侵暴する者なかった。《高士傳》に曰く、幽州刺史杜恕は嘗て昭の居る草廬の中を過ぎ、事を言い理を論じ、辞義は謙敬で、恕は甚だこれを重んじた。太尉蔣濟が辟したが、就かなかった。《案ずるに《庾氏譜》に、嶷の字は劭然、頴川の人。子の䨹の字は玄默、晉の尚書、陽翟子。嶷の弟の遁の字は徳先、太中大夫。遁の胤嗣は克く昌え、世の盛門となった。侍中の峻、河南尹の純は、皆遁の子、豫州牧長史の顗は遁の孫、太尉文康公の亮、司空の冰は皆遁の曾孫で、貴達は今に至る。《文士傳》に曰く、楨の字は元幹、廬江の人、文学器幹あり、容貌は甚だ偉かった。幽州刺史・廷尉を歴て、晉に入り尚書光祿大夫となった。楨の子の龕は後将軍、勗は車騎将軍、惲は豫州刺史、その余は多く大官に至った。後より累世昌阜し、司空文穆公の充は、惲の孫で、貴達は今に至る。《高士傳》に曰く、朝廷は戎車未だ息まざるを以て、徴命の事は且く後に須んとし、昭は故に即ち徴されなかった。後に顗・休が復び庾嶷と共に昭を薦め、詔ありて本州に訪いて評議させた。侍中韋誕が駮して曰く。「賢を礼し士を徴するは、王政の重んずる所なり。古者は郷に行を考う。今、顗らは位皆常伯納言、嶷は卿佐たり、以て信を取るに足る。下に附き上を罔するは、忠臣の行わざる所なり。昭は宿徳耆艾、山林に遺逸し、誠に宜しく異を加うべし。」乃ち誕の議に従った。)

原文胡昭始避地冀州,亦辭袁紹之命,遁還鄉里。太祖為司空丞相,頻加禮辟。昭往應命,旣至,自陳一介野生,無軍國之用,歸誠求去。太祖曰:「人各有志,出處異趣,勉卒雅尚,義不相屈。」昭乃轉居陸渾山中,躬耕樂道,以經籍自娛。閭里敬而愛之。〈《高士傳》曰:初,晉宣帝為布衣時,與昭有舊。同郡周生等謀害帝,昭聞而步陟險,邀生於崤、澠之間,止生,生不肯。昭泣與結誠,生感其義,乃止。昭因與斫棗樹共盟而別。昭雖有陰德於帝,口終不言,人莫知之。信行著於鄉黨。建安十六年,百姓聞馬超叛,避兵入山者千餘家,飢乏,漸相劫略,昭常遜辭以解之,是以寇難消息,衆咸宗焉。故其所居部落中,三百里無相侵暴者。〉建安二十三年,陸渾長張固被書調丁夫,當給漢中。百姓惡憚遠役,並懷擾擾。民孫狼等因興兵殺縣主簿,作為叛亂,縣邑殘破。固率將十餘吏卒,依昭住止,招集遺民,安復社稷。狼等遂南附關羽。羽授印給兵,還為寇賊,到陸渾南長樂亭,自相約誓,言:「胡居士賢者也,一不得犯其部落。」一川賴昭,咸無怵惕。天下安輯,徙宅宜陽。〈《高士傳》曰:幽州刺史杜恕甞過昭所居草廬之中,言事論理,辭義謙敬,恕甚重焉。太尉蔣濟辟,不就。〉正始中,驃騎將軍趙儼、尚書黃休、郭彝、散騎常侍荀顗、鍾毓、太僕庾嶷、〈案《庾氏譜》:嶷字劭然,頴川人。子䨹字玄默,晉尚書、陽翟子。嶷弟遁,字德先,太中大夫。遁胤嗣克昌,為世盛門。侍中峻、河南尹純,皆遁之子,豫州牧長史顗,遁之孫,太尉文康公亮、司空冰皆遁之曾孫,貴達至今。〉弘農太守何楨等〈《文士傳》曰:楨字元幹,廬江人,有文學器幹,容貌甚偉。歷幽州刺史、廷尉,入晉為尚書光祿大夫。楨子龕,後將軍;勗,車騎將軍;惲,豫州刺史;其餘多至大官。自後累世昌阜,司空文穆公充,惲之孫也,貴達至今。〉遞薦昭曰:「天真高絜,老而彌篤。玄虛靜素,有夷、皓之節。宜蒙徵命,以勵風俗。」〈《高士傳》曰:朝廷以戎車未息,徵命之事,且須後之,昭以故不即徵。後顗、休復與庾嶷薦昭,有詔訪於本州評議。侍中韋誕駮曰:「禮賢徵士,王政之所重也,古者考行於鄉。今顗等位皆常伯納言,嶷為卿佐,足以取信。附下罔上,忠臣之所不行也。昭宿德耆艾,遺逸山林,誠宜加異。」乃從誕議也。〉至嘉平二年,公車特徵,會卒,年八十九。拜子纂郎中。

初めに、胡昭は史書に通じ、鍾繇・邯鄲淳・衞えい覬・韋誕と共に名声があり、書簡の筆跡は、見る人が模範とするものであった。(《傅子》に曰く、胡徴君は怡怡として愛さざるなく、僕隷といえども必ず礼を加えた。外は俗に同じくし、内は純絜を秉り、心にその好まざる所は、王公も屈する能わず、年八十にして書籍に倦まざる者は、吾は胡徴君に見た。時に隠者の焦先あり、河東の人であった。《魏略》に曰く、先の字は孝然。中平の末、白波賊が起こった。時に先は年二十余、同郡の侯武陽と相随った。武陽は年小さく、母があり、先は与に相扶接し、白波を避け、東のかた揚州に客し婦を取った。建安の初に西に還り来たり、武陽は大陽に詣りて戸を占め、先は陝の界に留まった。十六年に至り、関中乱れた。先は家属を失い、独り河渚の間に竄れ、草を食らい水を飲み、衣履なかった。時に大陽長の朱南が望み見て、亡士と謂い、船を遣わして捕取しようとした。武陽は県に語って言った。「これは狂癡の人である。」遂にその籍に注した。廩を給すること日五升。後に疫病あり、人多く死し、県は常に使って埋蔵させ、童児豎子も皆これを軽易した。然るにその行は邪径を践まず、必ず阡陌に循った。その捃拾に及びては、大穗を取らず、飢えても苟くも食せず、寒くても苟くも衣せず、草を結びて裳と為し、科頭徒跣であった。毎に出でては、婦人を見れば則ち隠翳し、去るを須ちて乃ち出た。自ら一つの瓜牛廬を作り、その中を浄く埽った。木を営みて牀と為し、草蓐を布いてその上にした。天寒の時に至れば、火を搆えて以て自ら炙り、呻吟して独り語った。飢えれば則ち出でて人の為に客作し、飽食するのみで、その直を取らなかった。また道中に出で、邂逅人と相遇えば、輙ち道を下りて蔵匿した。或る人その故を問えば、常に「草茅の人は、狐兔と群を同じくす」と言った。妄語を肯じなかった。太和・青龍の中、嘗て一つの杖を持ち南のかた浅河水を渡り、輙ち独り未だ可ならずと云い、是に由り人頗るその狂せざるを疑った。嘉平の中に至り、太守賈穆が初めて官に之き、故にその廬を過ぎた。先は穆を見て再拝した。穆は与に語れども応ぜず、食を与うれども食せず。穆はこれを謂って曰く。「国家は我をして来たりて卿の為に君たらしむ。我卿に食せども、卿は肯じて食せず、我卿と語れども、卿は我に応ぜず。是の如くんば、我は卿の為に君たるに中らず、当に去るべし。」先は乃ち曰く。「寧んぞ是れ有らんや。」遂に復び語らなかった。その明年、大いに卒を発して将に呉を伐たんとした。窃かに先に問う者有りて「今呉を討つは何如」と。先は肯じて応ぜず、而も謬りて歌いて曰く。「祝衂祝衂、魚に非ず肉に非ず、更相追逐す、本心は当に牂羊を殺すべきに、更にその羖䍽を殺すか。」郡人はその謂う所を知らなかった。会々諸軍敗れ、好事の者は乃ちその意を推し、牂羊は呉を謂い、羖䍽は魏を謂うと疑い、是に於て後人は僉くこれを隠者と謂った。議郎河東の董経は特に異節を嘉し、先と故人に非ざるも、密かに往きてこれを見た。経が到ると、乃ちその白鬚を奮い、之と旧き有る者の如く為し、謂って曰く。「阿先闊乎、共に白波を避けたる時を念うや否や。」先は熟視して言わなかった。経は素よりその昔武陽の恩を受けたるを知り、因りて復び曰く。「武陽を念うや否や。」先は乃ち曰く。「已にこれを報いたり。」経は又復び挑みて与に語らんと欲したが、遂に肯じて復び応ぜなかった。後歳余にして病み亡くなり、時に年八十九であった。《高士傳》に曰く、世は先の出づる所を知る莫し。或いは言う、漢の末に生まれ、陝より大陽に居り、父母兄弟妻子なしと。漢室の衰うるを見て、乃ち自ら絶ちて言わず。魏の禅を受くるに及びて、常に草を結びて廬と為し河の湄に於き、独りその中に止まった。冬夏恒に衣を著けず、臥すに席を設けず、また草蓐なく、身を以て土に親しみ、その体の垢汙は皆泥漆の如く、五形は尽く露われ、人間を行わなかった。或いは数日に一食し、食わんと欲すれば則ち人の為に賃作し、人以て衣をこれに衣せ、乃ち限功して直を受くることを使い、一食を得るに足れば輙ち去り、人多く与えんと欲するも、終に肯じて取らず、また数日食せざる時もあった。行は邪径に由らず、目は女子と逆視せず。口は未だ嘗て言わず、驚急ありといえども、人と語らず。食物を遺るも皆受けず。河東太守杜恕は嘗て衣服を以て迎え見えんとしたが、与に語らなかった。司馬景王は聞きて安定太守董経を使い事に因りて過視させたが、又肯じて語らず、経は以て大賢と為した。その後野火その廬を焼き、先は因りて露寝した。冬雪大いに至るに遭い、先は袒卧して移らず、人は以て死せりと為し、就きて視るに故の如く、以て病と為さず、人その意を審らかにする能わず。年を度るに百歳余にして乃ち卒した。或る人皇甫謐に問うて曰く。「焦先は何人か。」曰く。「吾は以てこれを知るに足らず。これを表に考うるに、略ぼ言うべし。夫れ世の常に趣く所の者は栄味なり、形の釈つべからざる所の者は衣裳なり、身の離るべからざる所の者は室宅なり、口の已む能わざる所の者は言語なり、心の絶つべからざる所の者は親戚なり。今焦先は栄味を棄て、衣服を釈て、室宅を離れ、親戚を絶ち、口を閉じて言わず、曠然として天地を以て棟宇と為し、闇然として至道の前に合し、群形の表に出で、玄寂の幽に入り、一世の人は以てその意を挂くに足らず、四海の広きも以てその顧を回す能わず、妙なるかな三皇の先なる者と同じきや。結縄已来、未だその至に及ばず、豈に群言の髣髴する所、常心の測量する所ならんや。彼は人の行う能わざる所を行い、人の堪うる能わざる所に堪え、寒暑を犯すも以てその性を傷らず、曠野に居るも以てその形を恐れず、驚急に遭うも以てその慮を迫らず、栄愛を離るるも以てその心を累わさず、視聴を損ずるも以てその耳目を汙さず、足を不損の地に舎き、身を独立の処に居き、年を延べて百を歴、寿は期頤を越え、上識といえども尚うる能わず。羲皇已来、一人のみ。」《魏氏春秋》に曰く、故梁州刺史耿黼は先を以て「仙人」と為し、北海の傅玄はこれを「性禽獣と同じ」と謂い、並びにこれが伝を作ったが、これを測る能わず。)

原文初,昭善史書,與鍾繇、邯鄲淳、衞覬、韋誕並有名,尺牘之迹,動見模楷焉。〈《傅子》曰:胡徵君怡怡無不愛也,雖僕隷,必加禮焉。外同乎俗,內秉純絜,心非其好,王公不能屈,年八十而不倦於書籍者,吾於胡徵君見之矣。時有隱者焦先,河東人也。《魏略》曰:先字孝然。中平末,白波賊起。時先年二十餘,與同郡侯武陽相隨。武陽年小,有母,先與相扶接,避白波,東客揚州取婦。建安初來西還,武陽詣大陽占戶,先留陝界。至十六年,關中亂。先失家屬,獨竄於河渚間,食草飲水,無衣履。時大陽長朱南望見之,謂為亡士,欲遣船捕取。武陽語縣:「此狂癡人耳!」遂注其籍。給廩,日五升。後有疫病,人多死者,縣常使埋藏,童兒豎子皆輕易之。然其行不踐邪徑,必循阡陌;及其捃拾,不取大穗;饑不苟食,寒不苟衣,結草以為裳,科頭徒跣。每出,見婦人則隱翳,須去乃出。自作一瓜牛廬,淨埽其中。營木為牀,布草蓐其上。至天寒時,搆火以自炙,呻吟獨語。饑則出為人客作,飽食而已,不取其直。又出於道中,邂逅與人相遇,輙下道藏匿。或問其故,常言「草茅之人,與狐兔同羣」。不肯妄語。太和、青龍中,甞持一杖南渡淺河水,輙獨云未可也,由是人頗疑其不狂。至嘉平中,太守賈穆初之官,故過其廬。先見穆再拜。穆與語,不應;與食,不食。穆謂之曰:「國家使我來為卿作君,我食卿,卿不肯食,我與卿語,卿不應我,如是,我不中為卿作君,當去耳!」先乃曰:「寧有是邪?」遂不復語。其明年,大發卒將伐吳。有竊問先:「今討吳何如?」先不肯應,而謬歌曰:「祝衂祝衂,非魚非肉,更相追逐,本心為當殺牂羊,更殺其羖䍽邪!」郡人不知其謂。會諸軍敗,好事者乃推其意,疑牂羊謂吳,羖䍽謂魏,於是後人僉謂之隱者也。議郎河東董經特嘉異節,與先非故人,密往觀之。經到,乃奮其白鬚,為如與之有舊者,謂曰:「阿先闊乎!念共避白波時不?」先熟視而不言。經素知其昔受武陽恩,因復曰:「念武陽不邪?」先乃曰:「已報之矣。」經又復挑欲與語,遂不肯復應。後歲餘病亡,時年八十九矣。《高士傳》曰:世莫知先所出。或言生乎漢末,自陝居大陽,無父母兄弟妻子。見漢室衰,乃自絕不言。及魏受禪,常結草為廬於河之湄,獨止其中。冬夏恒不著衣,卧不設席,又無草蓐,以身親土,其體垢汙皆如泥漆,五形盡露,不行人間。或數日一食,欲食則為人賃作,人以衣衣之,乃使限功受直,足得一食輙去,人欲多與,終不肯取,亦有數日不食時。行不由邪徑,目不與女子逆視。口未甞言,雖有驚急,不與人語。遺以食物皆不受。河東太守杜恕甞以衣服迎見,而不與語。司馬景王聞而使安定太守董經因事過視,又不肯語,經以為大賢。其後野火燒其廬,先因露寢。遭冬雪大至,先袒卧不移,人以為死,就視如故,不以為病,人莫能審其意。度年可百歲餘乃卒。或問皇甫謐曰:「焦先何人?」曰:「吾不足以知之也。考之於表,可略而言矣。夫世之所常趣者榮味也,形之所不可釋者衣裳也,身之所不可離者室宅也,口之所不能已者言語也,心之不可絕者親戚也。今焦先棄榮味,釋衣服,離室宅,絕親戚,閉口不言,曠然以天地為棟宇,闇然合至道之前,出羣形之表,入玄寂之幽,一世之人不足以挂其意,四海之廣不能以回其顧,妙乎與夫三皇之先者同矣。結繩已來,未及其至也,豈羣言之所能髣髴,常心之所得測量哉!彼行人所不能行,堪人所不能堪,犯寒暑不以傷其性,居曠野不以恐其形,遭驚急不以迫其慮,離榮愛不以累其心,損視聽不以汙其耳目,舍足於不損之地,居身於獨立之處,延年歷百,壽越期頤,雖上識不能尚也。自羲皇已來,一人而已矣!」《魏氏春秋》曰:故梁州刺史耿黼以先為「仙人」也,北海傅玄謂之「性同禽獸」,並為之傳,而莫能測之。〉

《魏略》にはまた扈累と寒貧という者を載せている。扈累は字を伯重といい、京兆の人である。初平年間(190-193年)、山東に青牛先生という者がいた。字は正方で、三輔に客居していた。星暦・風角・鳥情に通暁し、常に青葙や芫華を食べていた。年齢は五六十歳のように見えたが、親しく知る者の中には、彼がすでに百余歳であると言う者もいた。初め、扈累は四十余歳の時、正方に従って遊学し、人々は彼がその術を得たと言った。妻はいたが子はいなかった。建安十六年(211年)、三輔が乱れると、また正方に従って南の漢中に入った。漢中が陥落すると、正方は蜀しょくに入り、扈累は彼とはぐれ、移住する民とともに鄴へ行き、疫病に遭って妻を失った。黄初元年(220年)にはまた洛陽らくようへ移住し、その後は再び妻を娶らなかった。道端に独り住み、煉瓦を積んで囲いを作り、一つの厨と寝台を設け、その中で食事と寝起きをした。昼は深く思索にふけり、夜は星宿を仰ぎ見て、内書を吟詠した。人が尋ねても、口を閉ざして言おうとしなかった。嘉平年間(249-254年)には、年齢は八九十歳であったが、外見は四五十歳ほどにしか見えなかった。県の役人は彼が孤独で年老いているとして、一日に五升の食糧を支給した。五升では足りず、時々雇われ仕事をして食糧を補い、食糧が尽きるとまた出て行き、人から与えられても取らなかった。食べ物は美味を求めず、衣服は古びた綿入れを着て、一二年後に病死した。寒貧という者は、本来の姓は石、字は徳林といい、安定の人である。建安初年(196年頃)、三輔に客居した。当時長安には欒文博という老いた儒者がおり、門徒数千人を抱えていたが、徳林も彼に就いて学び、初めは詩経・書経に精通した。後に内事(神仙方術)を好み、同輩の中で最も沈黙を守った。十六年(211年)、関中が乱れると、南の漢中に入った。初めから産業を営まず、妻子も養わず、常に老子五千文や諸々の内書を読み、昼夜を問わず吟詠していた。二十五年(220年)、漢中が陥落すると、人々に従って長安に戻り、その後は愚かになって人を識別できなくなった。食べ物は味を求めず、冬夏を問わず常にぼろ布をつなぎ合わせた衣服を着ていた。体は何も感じないようであり、目は何も見えないようであった。貧しい路地の小さな家に独り住み、親族や近所づきあいもなかった。人が衣服や食糧を与えても、受け取ろうとしなかった。郡県は彼が独身で貧しいとして、一日に五升の食糧を支給したが、食糧が足りず、時々物乞いをし、乞うても多くは取らなかった。人が姓や字を尋ねても、口を閉ざして言わなかったため、人々は彼を「寒貧」と呼んだ。以前から彼と知り合いだった者が、訪ねて慰めようとすると、跪いて拝礼したので、人々は彼が愚かではないと言った。車騎将軍の郭淮が意気に感じて彼を呼び、何が欲しいか尋ねたが、やはり言わなかった。郭淮が干し肉と干し飯と衣服を与えると、衣服は取らず、干し肉一筋と干し飯一升だけを受け取った。臣の松之が案ずるに《魏略》には、焦先と楊沛がともに瓜牛廬を作り、その中に住んでいたとある。瓜は蝸とすべきである。蝸牛とは、角のある巻貝のことで、俗に黄犢と呼ぶこともある。焦先らが作った円形の小屋は、形が蝸牛の殻に似ているため、蝸牛廬と呼んだのである。《荘子》に「蝸牛の左角に国を構える者を触氏といい、右角に国を構える者を蛮氏といい、時に地を争って戦い、伏した屍は数万に及び、敗走する者を追って十五日間もかけて戻ってきた」とあるのは、この物を指している。

原文〈《魏略》又載扈累及寒貧者。累字伯重,京兆人也。初平中,山東人有青牛先生者,字正方,客三輔。曉知星曆、風角、鳥情。常食青葙芫華。年似如五六十者,人或親識之,謂其已百餘歲矣。初,累年四十餘,隨正方游學,人謂之得其術。有婦,無子。建安十六年,三輔亂,又隨正方南入漢中。漢中壞,正方入蜀,累與相失,隨徙民詣鄴,遭疾疫喪其婦。至黃初元年,又徙詣洛陽,遂不復娶婦。獨居道側,以㼾甎為障,施一廚牀,食宿其中。晝日潛思,夜則仰視星宿,吟詠內書。人或問之,閉口不肯言。至嘉平中,年八九十,裁若四五十者。縣官以其孤老,給廩日五升。五升不足食,頗行傭作以裨糧,糧盡復出,人與不取。食不求美,衣弊縕故,後一二年病亡。寒貧者,本姓石,字德林,安定人也。建安初,客三輔。是時長安有宿儒欒文博者,門徒數千,德林亦就學,始精詩、書。後好內事,於衆輩中最玄默。至十六年,關中亂,南入漢中。初不治產業,不畜妻孥,常讀老子五千文及諸內書,晝夜吟詠。到二十五年,漢中破,隨衆還長安,遂癡愚不復識人。食不求味,冬夏常衣弊布連結衣。體如無所勝,目如無所見。獨居窮巷小屋,無親里。人與之衣食,不肯取。郡縣以其鰥窮,給廩日五升,食不足,頗行乞,乞不取多。人問其姓字,口不肯言,故因號之曰「寒貧」也。或素有與相知者,往存恤之,輙拜跪,由是人謂其不癡。車騎將軍郭淮以意氣呼之,問其所欲,亦不肯言。淮因與脯糒及衣,不取其衣,取其脯一朐、糒一升而止。臣松之案《魏略》云:焦先及楊沛,並作瓜牛廬,止其中。以為瓜當作蝸;蝸牛,螺蟲之有角者也,俗或呼為黃犢。先等作圜舍,形如蝸牛蔽,故謂之蝸牛廬。《莊子》曰:「有國於蝸之左角者曰觸氏,有國於右角者曰蠻氏,時相與爭地而戰,伏尸數萬,逐北旬有五日而後反。」謂此物也。〉

評するに、袁渙・邴原・張範は自ら清廉な行いを実践し、進退は道に従った。臣の松之は考えるに、蹈は履と同じ意味であり、「躬履清蹈」という表現は言葉として適切ではない。彼らはおそらく貢禹や両龔(龔勝・龔舎)に匹敵する人物であろう。涼茂と国淵もまたそれに次ぐ者である。張承の名声と行いは張範に次ぎ、立派な弟と言える。田疇は節を守り、王脩は忠貞であり、俗を正すに足る。管寧は深みがあり優雅で高尚、確固として動かない。張臶と胡昭は家に閉じこもって静かに過ごし、当世の栄達を求めなかった。それゆえに併せて記録したのである。

原文評曰:袁渙、邴原、張範躬履清蹈,進退以道,〈臣松之以為蹈猶履也,「躬履清蹈」,近非言乎!〉蓋是貢禹、兩龔之匹。涼茂、國淵亦其次也。張承名行亞範,可謂能弟矣。田疇抗節,王脩忠貞,足以矯俗;管寧淵雅高尚,確然不拔;張臶、胡昭闔門守靜,不營當世:故并錄焉。