三國志さんごくし

魏書・二公孫陶四張伝

公孫瓚は字を伯珪といい、遼西郡令支県の人である。郡の門下書佐となった。容姿が美しく、声が大きく響いたため、侯太守は彼を重んじて娘を娶らせた。涿郡の盧植のもとへ派遣されて経書を学ばせた。後に再び郡吏となった。劉太守が罪に問われて廷尉に召喚されたとき、公孫瓚は車を御し、自ら雑役を務めた。劉太守が日南郡に流刑となると、公孫瓚は米と肉を用意し、北芒山で先祖を祭り、杯を挙げて祈った。「かつては人の子でありましたが、今は人の臣下となり、日南に向かわねばなりません。日南には瘴気があり、おそらく帰ってこられないかもしれません。ここで先祖とお別れいたします。」再拝して慷慨として立ち上がった。これを見た者は誰もが涙を流した。劉太守は途中で赦免されて帰還した。公孫瓚は孝廉に推挙されて郎となり、遼東属国長史に任命された。かつて数十騎を従えて辺境に出たとき、鮮卑の数百騎と遭遇した。公孫瓚は空の亭舎に退き、従騎たちに約束した。「今、突撃しなければ、全滅してしまう。」公孫瓚は自ら矛を執り、両端に刃を付け、駆け出して胡人を突き刺し、数十人を殺傷したが、従騎の半数も失い、ようやく逃れることができた。鮮卑はこの教訓を忘れず、その後は二度と塞内に入らなくなった。涿県令に転任した。光和年間、涼州で賊が蜂起すると、幽州の突騎三千人を徴発し、公孫瓚に都督ととく行事伝を仮授け、彼に率いさせた。軍が薊中に到着すると、漁陽郡の張純が遼西郡の烏丸族の丘力居らを誘って反乱を起こし、薊中を略奪し、自ら将軍と号した。右北平郡、遼西属国の諸城を攻め落とし、吏民を略奪し、至るところで破壊した。公孫瓚は配下の兵を率いて張純らを追討し、功績を挙げて騎都尉に昇進した。属国の烏丸族の貪至王が配下の民を率いて公孫瓚に降伏した。中郎将に昇進し、都亭侯に封ぜられ、属国に進軍して駐屯し、胡族と互いに攻撃し合うこと五、六年に及んだ。丘力居らは青州、徐州、幽州、冀州を略奪し、四州はその被害を受け、公孫瓚は防ぐことができなかった。(令は郎定の反、支は其児の反。『典略』に曰く、公孫瓚は性質が弁慧で、事を報告するたびに少しずつ入ることを肯んぜず、常に数曹の事をまとめて説き、忘れ誤ることがなかった。太守はその才能を奇とした。『九州春秋』に曰く、張純は自ら弥天将軍・安定王と号した。)

原文公孫瓚字伯珪,遼西令支人也。〈令音郎定反。支音其兒反。〉為郡門下書佐。有姿儀,大音聲,侯太守器之,以女妻焉,〈《典略》曰:瓚性辯慧,每白事不肯梢入,常總說數曹事,無有忘誤,太守奇其才。〉遣詣涿郡盧植讀經。後復為郡吏。劉太守坐事徵詣廷尉,瓚為御車,身執徒養。及劉徙日南,瓚具米肉,於北芒上祭先人,舉觴祝曰:「昔為人子,今為人臣,當詣日南。日南瘴氣,或恐不還,與先人辭於此。」再拜慷慨而起,時見者莫不歔欷。劉道得赦還。瓚以孝廉為郎,除遼東屬國長史。嘗從數十騎出行塞,見鮮卑數百騎,瓚乃退入空亭中,約其從騎曰:「今不沖之,則死盡矣。」瓚乃自持矛,兩頭施刃,馳出刺胡,殺傷數十人,亦亡其從騎半,遂得免。鮮卑懲艾,後不敢復入塞。遷為涿令。光和中,涼州賊起,發幽州突騎三千人,假瓚都督行事傳,使將之。軍到薊中,漁陽張純誘遼西烏丸丘力居等叛,劫略薊中,自號將軍,〈《九州春秋》曰:純自號彌天將軍、安定王。〉略吏民攻右北平、遼西屬國諸城,所至殘破。瓚將所領,追討純等有功,遷騎都尉。屬國烏丸貪至王率種人詣瓚降。遷中郎將,封都亭侯,進屯屬國,與胡相攻擊五六年。丘力居等鈔略青、徐、幽、冀,四州被其害,瓚不能禦。

朝廷の議論では、宗正の東海の劉伯安(劉虞)が既に徳義を備え、かつて幽州刺史であったとき、恩信が広く知れ渡り、戎狄が帰服したことを考慮し、もし彼を鎮撫に当たらせれば、大軍を動かさずに平定できるだろうと考え、劉虞を幽州牧に任命した。劉虞が到着すると、使者を胡の中に派遣し、利害を説き、張純の首を送るよう要求した。丘力居らは劉虞が来たと聞いて喜び、それぞれ通訳を派遣して帰順を申し出た。公孫瓚は劉虞の功績を妬み、密かに人を遣わして胡の使者を途中で殺害させた。胡はその事情を知り、密かに行動して劉虞のもとに赴いた。劉虞は上奏して諸屯兵を撤収させ、公孫瓚に歩兵・騎兵一万人を率いさせて右北平に駐屯させるだけに留めた。張純は妻子を捨てて鮮卑に逃げ込んだが、その食客の王政に殺され、首は劉虞のもとに送られた。王政は列侯に封ぜられた。劉虞は功績により即座に太尉に任命され、襄賁侯に封ぜられた。丁度その時、董卓が洛陽らくように到着し、劉虞を大司馬に、公孫瓚を奮武将軍に昇進させ、薊侯に封じた。(『呉書』によると、劉虞は東海恭王の子孫である。世の衰乱に遭い、また時の君主から疎遠にされ、県で戸曹吏となった。身を治め職務に励む才能により郡吏に召され、孝廉として郎となり、累進して幽州刺史に至り、甘陵相に転じ、東土の戎狄の心をよく得た。後に病により帰郷し、常に身を低くして質素に暮らし、邑の仲間や州里の人々と楽しみを共にし苦しみを分かち合い、有無を等しくし、名位によって自らを特別扱いせず、郷里の人々は皆彼を尊んだ。時に郷里で訴訟があると、役人に赴かず自ら劉虞のもとに出向いて裁きを求めた。劉虞は情理に基づいて判決を下し、老若を問わず皆敬服して従い、恨みに思う者はいなかった。かつて牛を失った者がいて、骨格や毛色が劉虞の牛と似ていたため、それを自分の牛だと言い張ると、劉虞はそのまま譲り渡した。後にその持ち主が自分の牛を見つけ、返して謝罪した。甘陵が再び乱れると、吏民は劉虞の治績を慕い、再び甘陵相に任じられ、甘陵は大いに治まった。召されて尚書令・光禄勲に任じられ、公族として礼を備えていたため宗正に改められた。『英雄記』によると、劉虞は博平令となり、政治は公正で公平を重んじ、高尚で純朴であり、管内に盗賊はなく災害も起こらなかった。時に隣県が境を接し、蝗虫が害をなしたが、博平の境に至ると飛び越えて入らなかった。『魏書』によると、劉虞は幽州にあって清静倹約を旨とし、礼義をもって民を教化した。霊帝の時、南宮が火災に遭い、州郡に転任補充される吏は皆宮殿修復のための銭を納めるよう求められ、あるいは千万、あるいは二千万とされた。富者は私財で弁じ、あるいは民の銭を徴発して備えたが、貧しく清廉な者は納める術がなく、自殺する者さえあった。霊帝は劉虞が清廉貧乏であることから、特に銭を出させなかった。『英雄記』によると、劉虞は太尉を辞退し、その際に衛尉趙謨、益州牧劉焉、豫州牧黄琬、南陽太守羊続を推薦し、皆公に任じられた。)

原文朝議以宗正東海劉伯安既有德義,昔為幽州刺史,恩信流著,戎狄附之,若使鎮撫,可不勞眾而定,乃以劉虞為幽州牧。〈《吳書》曰:虞,東海恭王之後也。遭世衰亂,又與時主疏遠,仕縣為戶曹吏。以能治身奉職,召為郡吏,以孝廉為郎,累遷至幽州刺史,轉甘陵相,甚得東土戎狄之心。後以疾歸家,常降身隱約,與邑黨州閭同樂共卹,等齊有無,不以名位自殊,鄉曲咸共宗之。時鄉曲有所訴訟,不以詣吏,自投虞平之;虞以情理為之論判,皆大小敬從,不以為恨。嘗有失牛者,骨體毛色,與虞牛相似,因以為是,虞便推與之;後主自得本牛,乃還謝罪。會甘陵复亂,吏民思虞治行,復以為甘陵相,甘陵大治。徵拜尚書令、光祿勳,以公族有禮,更為宗正。《英雄記》曰:虞為博平令,治正推平,高尚純樸,境內無盜賊,災害不生。時鄰縣接壤,蝗蟲為害,至博平界,飛過不入。《魏書》曰:虞在幽州,清靜儉約,以禮義化民。靈帝時,南宮災,吏遷補州郡者,皆責助治宮錢,或一千萬,或二千萬,富者以私財辨,或發民錢以備之,貧而清慎者,無以充調,或至自殺。靈帝以虞清貧,特不使出錢。〉虞到,遣使至胡中,告以利害,責使送純首。丘力居等聞虞至,喜,各遣譯自歸。瓚害虞有功,乃陰使人徼殺胡使。胡知其情,間行詣虞。虞上罷諸屯兵,但留瓚將步騎萬人屯右北平。純乃棄妻子,逃入鮮卑,為其客王政所殺,送首詣虞。封政為列侯。虞以功即拜太尉,封襄賁侯。〈《英雄記》曰:虞讓太尉,因薦衛尉趙謨、益州牧劉焉、豫州牧黃琬、南陽太守羊續,並任為公。〉會董卓至洛陽,遷虞大司馬,瓚奮武將軍,封薊侯。

関東で義兵が起こると、董卓はついに皇帝を脅して西遷させ、劉虞を太傅に召し出したが、道路が遮断され、命令は届かなかった。袁紹と韓馥は議論し、少帝が奸臣に制されているため、天下には帰服する心がないと考えた。劉虞は宗室で名が知られ、民衆の期待を集めている人物であるとして、ついに劉虞を皇帝に推戴した。使者を劉虞のもとに派遣したが、劉虞は終始受け入れようとしなかった。袁紹らはさらに劉虞に尚書事を兼任させ、皇帝に代わって封爵・任命を行うよう勧めたが、劉虞はまたも聞き入れず、それでも袁紹らと連合関係を保った。劉虞の子の劉和は侍中として長安ちょうあんにいた。天子(献帝)は東帰を望み、劉和に董卓から偽って逃げ出させ、密かに武関を出て劉虞のもとに赴き、兵を率いて迎えに来るよう命じた。劉和は途中で袁術の地を通過し、天子の意向を説明した。袁術は劉虞を援軍として利用することを考え、劉和を引き留めて帰さず、兵が到着し次第ともに西進すると約束し、劉和に劉虞への手紙を書かせた。劉虞は劉和の手紙を得て、数千騎を劉和のもとに派遣した。公孫瓚は袁術に異心があることを知り、兵を派遣することを望まず、劉虞を止めようとしたが、劉虞は聞き入れなかった。公孫瓚は袁術がこのことを聞いて恨むことを恐れ、また従弟の公孫越に千騎を率いさせて袁術のもとに赴かせて関係を結びつつ、密かに袁術に劉和を捕らえ、その兵を奪うよう教唆した。これにより劉虞と公孫瓚の間の溝はさらに深まった。劉和は袁術から逃れて北へ向かったが、今度は袁紹に引き留められた。(『九州春秋』によると、袁紹と韓馥は元楽浪太守の甘陵の張岐に議を携えさせて劉虞のもとに赴かせ、尊号に即くよう促した。劉虞は声を厲くして張岐を叱り、「卿はよくもそのようなことを言えるものだな!忠孝の道を既に全うできないでいる。孤は国の恩を受けながら、天下が擾乱し、命を竭くして国恥を除くことができず、諸州郡の烈義の士が力を合わせて西に向かい幼主を迎え援けることを望んでいるのに、かえって妄りに逆謀を造り、忠臣を汚そうとするのか!」と言った。『呉書』によると、韓馥は袁術に書を送り、帝は孝霊帝の子ではないとし、絳侯・灌嬰が少主を誅廃し代王を迎え立てた故事に倣い、劉虞の功徳と治績は華夏に並ぶ者が少なく、当今の公室の枝属で及ぶ者はいないと称した。また「昔、光武帝は定王から五代目で、大司馬として河北を領し、耿弇・馮異が尊号に即くよう勧め、ついに更始に代わった。今、劉公は恭王から枝別れしてその数もまた五代目であり、大司馬として幽州牧を領している。これは光武帝と同じである」と言った。この時、四星が箕尾に集まり、韓馥は讖に神人が燕の分野に現れるとあると称した。また済陰の男子王定が玉印を得て、その文に「虞為天子」とあったと言い、さらに代郡に二つの太陽が現れたのを見て、劉虞が代わって立つべきだと言った。袁紹もまた別に書を送って袁術に報じた。この時、袁術は密かに不臣の心を抱き、国家に長主ができることを好まず、外には公義を託して答え拒絶した。袁紹もまた人を遣わして密かに劉虞に報じたが、劉虞は国に正統があり、人臣の言うべきことではないとして固く辞して許さず、匈奴に奔って自ら絶とうと図ったが、袁紹らがこれを止めた。劉虞はこれにより職務に励み貢物を修め、ますます恭粛になった。外国の羌・胡が貢献するものがあっても道路が通じない時は、皆ために伝送して京師に届けた。)

原文關東義兵起,卓遂劫帝西遷,徵虞為太傅,道路隔塞,信命不得至。袁紹、韓馥議,以為少帝制於奸臣,天下無所歸心。虞,宗室知名,民之望也,遂推虞為帝。遣使詣虞,虞終不肯受。紹等復勸虞領尚書事,承製封拜,虞又不聽,然猶與紹等連和。〈《九州春秋》曰:紹、馥使故樂浪太守甘陵張岐齎議詣虞,使即尊號。虞厲聲呵岐曰:「卿敢出此言乎!忠孝之道,既不能濟。孤受國恩,天下擾亂,未能竭命以除國恥,望諸州郡烈義之士戮力西面,援迎幼主,而乃妄造逆謀,欲塗污忠臣邪!」《吳書》曰:馥以書與袁術,云帝非孝靈子,欲依絳、灌誅廢少主,迎立代王故事;稱虞功德治行,華夏少二,當今公室枝屬,皆莫能及。又云:「昔光武去定王五世,以大司馬領河北,耿弇、馮異勸即尊號,卒代更始。今劉公自恭王枝別,其數亦五,以大司馬領幽州牧,此其與光武同。」是時有四星會於箕尾,馥稱讖云神人將在燕分。又言濟陰男子王定得玉印,文曰「虞為天子」。又見兩日出於代郡,謂虞當代立。紹又別書報術。是時術陰有不臣之心,不利國家有長主,外託公義以答拒之。紹亦使人私報虞,虞以國有正統,非人臣所宜言,固辭不許;乃欲圖奔匈奴以自絕,紹等乃止。虞於是奉職脩貢,愈益恭肅;諸外國羌、胡有所貢獻,道路不通,皆為傳送,致之京師。〉虞子和為侍中,在長安。天子思東歸,使和偽逃卓,潛出武關詣虞,令將兵來迎。和道經袁術,為說天子意。術利虞為援,留和不遣,許兵至俱西,令和為書與虞。虞得和書,乃遣數千騎詣和。瓚知術有異志,不欲遣兵,止虞,虞不可。瓚懼術聞而怨之,亦遣其從弟越將千騎詣術以自結,而陰教術執和,奪其兵。由是虞、瓚益有隙。和逃術來北,復為紹所留。

この時、袁術は孫堅を派遣して陽城に駐屯させ董卓を防がせたが、袁紹は周昂を派遣してその地を奪わせた。袁術は公孫越と孫堅を派遣して周昂を攻撃させたが、勝てず、公孫越は流れ矢に当たって死んだ。公孫瓚は怒って言った。「我が弟が死んだのは、袁紹が災いを起こしたからだ。」そこで軍を出して磐河に駐屯し、袁紹に報復しようとした。袁紹は恐れ、自分が佩いていた勃海太守の印綬を公孫瓚の従弟である公孫範に授け、彼をその郡に派遣し、公孫瓚と結んで支援を得ようとした。公孫範は勃海の兵を率いて公孫瓚を助け、青州と徐州の黄巾賊を破り、兵力はますます盛んになった。そして界橋に進軍した。

原文是時,術遣孫堅屯陽城拒卓,紹使周昂奪其處。術遣越與堅攻昂,不勝,越為流矢所中死。瓚怒曰:「余弟死,禍起於紹。」遂出軍屯磐河,將以報紹。紹懼,以所佩勃海太守印綬授瓚從弟範,遣之郡,欲以結援。範遂以勃海兵助瓚,破青、徐黃巾,兵益盛;進軍界橋。〈《典略》載瓚表紹罪狀曰:〉

臣が聞くところによれば、伏羲氏以来、初めて君臣上下の秩序が始まり、教化を広めて民を導き、刑罰を用いて暴行を禁じてきた。今、車騎将軍袁紹は、その祖先の軌跡に寄りかかり、人の爵位を盗み取り、生来暴虐で、その行いは淫らで汚れている。かつて司隸校尉こういであった時、ちょうど国家に喪と災いがあった時期で、太后が摂政となり、何氏が政務を補佐していたが、袁紹はひたすら邪悪で媚びへつらうことばかりし、正直な者を推挙できず、ついには丁原に孟津を焼き払わせ、董卓を招き寄せ、乱の根源を作り上げた。これが袁紹の第一の罪である。董卓が洛陽に入り君主が人質となった時、袁紹は権謀術数を用いて君主と父を救うことができず、節と伝を捨て置き、逃げ散り逃亡し、爵位と命令を辱め、主君に背いて不忠となった。これが袁紹の第二の罪である。袁紹は勃海太守として、ひそかに軍馬を選び、董卓を攻撃しようとしたが、父や兄に告げず、ついには太傅の一家や太僕の母子を、一朝にして滅ぼさせた。仁でも孝でもない。これが袁紹の第三の罪である。袁紹は兵を起こしてから二年を経過したが、国の難儀を顧みず、広く自ら富を蓄え、多くの資財と食糧を不急のことに専念させ、富家から搾り取り、取り立てて責め立てて金銭を徴収し、百姓は嘆き、誰もが痛み怨んでいない者はいない。これが袁紹の第四の罪である。韓馥を追い詰め、その空虚な地位を盗み取り、詔命を偽って恩を施し、金印と玉璽を刻み、文書を下すごとに、黒い袋に封を施し、文に『詔書一封、邟郷侯印』と書いた。邟は、口浪の反切である。かつて新室の乱の時、次第に真の天子となったが、今の袁紹の行いは、それに擬えて方策を立てている。これが袁紹の第五の罪である。袁紹は崔巨業に命じて星と日を観測させ、財貨を贈り賄賂を送り、共に飲食し、期日を定めて合流し、郡県を攻撃し略奪した。これはまさに大臣としてなすべきことなのか。これが袁紹の第六の罪である。袁紹はかつての虎牙都尉劉勲と最初に共に兵を起こし、劉勲は功績を挙げ、さらに張楊を降伏させたが、小さな恨みで劉勲を不当に害し、讒言と邪悪な者を信用し、功績のある者を殺害した。これが袁紹の第七の罪である。袁紹はまた、かつての上谷太守高焉と、かつての甘陵相姚貢を上奏し、横暴に彼らから金銭を責め立て、金銭が十分に揃わないと、二人とも命を絶たせた。これが袁紹の第八の罪である。春秋の義によれば、子は母によって貴くなる。袁紹の母は婢として使われていたので、袁紹は実に微賤であり、人の後継ぎとなることはできず、義によって相応しくない。それなのに豊かで高い重任に就き、王爵を汚し、袁氏の宗族を辱めた。これが袁紹の第九の罪である。また、長沙太守孫堅は、以前豫よ州刺史を兼任し、董卓を駆逐し、陵廟を掃討した。その功績は大きい。袁紹は周昂に命じてその地位を盗ませ、孫堅の兵糧を断ち、入らせないようにし、董卓が誅殺されないようにした。これが袁紹の第十の罪である。臣はまた、たびたび後将軍袁術からの書簡を得て、袁紹は袁術の同類ではないと聞いている。袁紹の罪悪は、南山の竹をもってしても書き尽くせない。かつて周王室の政治が弱まり、王道が衰え、天子が都を遷し、諸侯が背いた時、斉の桓公は柯亭の盟を立て、晋の文公は践土の会盟を行い、荊楚を討伐して菁茅を貢がせ、曹と衛を誅して無礼を明らかにした。臣は卑小ではあるが、名は先賢ではないが、朝廷の恩恵を蒙り、この重任に当たり、職は斧鉞にあり、言葉を奉じて罪を伐つ。ただちに諸将と州郡の兵を率いて袁紹らを討伐する。もし事が成功し、罪人が捕らえられれば、桓公や文公の忠誠の効験を継ぐことができよう。攻戦の状況は、前後にわたって続けて上奏する。

原文臣聞皇、羲以來,始有君臣上下之事,張化以導民,刑罰以禁暴。今行車騎將軍袁紹,託其先軌,寇竊人爵,既性暴亂,厥行淫穢。昔為司隸校尉,會值國家喪禍之際,太后承攝,何氏輔政,紹專為邪媚,不能舉直,至令丁原焚燒孟津,招來董卓,造為亂根,紹罪一也。卓既入雒而主見質,紹不能權譎以濟君父,而棄置節傳,迸竄逃亡,忝辱爵命,背上不忠,紹罪二也。紹為勃海太守,默選戎馬,當攻董卓,不告父兄,至使太傅門戶,太僕母子,一旦而斃,不仁不孝,紹罪三也。紹既興兵,涉歷二年,不恤國難,廣自封殖,乃多以資糧專為不急,割剝富室,收考責錢,百姓吁嗟,莫不痛怨,紹罪四也。韓馥之迫,竊其虛位,矯命詔恩,刻金印玉璽,每下文書,皁囊施檢,文曰『詔書一封,邟鄉侯印』。邟,口浪反。昔新室之亂,漸以即真,今紹所施,擬而方之,紹罪五也。紹令崔巨業候視星日,財貨賂遺,與共飲食,剋期會合,攻鈔郡縣,此豈大臣所當宜為?紹罪六也。紹與故虎牙都尉劉勛首共造兵,勳仍有效,又降伏張楊,而以小忿枉害於勳,信用讒慝,殺害有功,紹罪七也。紹又上故上谷太守高焉、故甘陵相姚貢,橫責其錢,錢不備畢,二人並命,紹罪八也。春秋之義,子以母貴。紹母親為婢使,紹實微賤,不可以為人後,以義不宜,乃據豐隆之重任,忝污王爵,損辱袁宗,紹罪九也。又長沙太守孫堅,前領豫州刺史,驅走董卓,掃除陵廟,其功莫大;紹令周昂盜居其位,斷絕堅糧,令不得入,使卓不被誅,紹罪十也。臣又每得後將軍袁術書,云紹非術類也。紹之罪戾,雖南山之竹不能載。昔姬周政弱,王道陵遲,天子遷都,諸侯背叛,於是齊桓立柯亭之,晉文為踐土之會,伐荊楚以致菁茅,誅曹、衛以彰無禮。臣雖闒茸,名非先賢,蒙被朝恩,當此重任,職在鈇鉞,奉辭伐罪,輒與諸將州郡兵討紹等。若事克捷,罪人斯得,庶續桓、文忠誠之效,攻戰形狀,前後續上。

こうして兵を挙げて袁紹と対戦し、袁紹は勝てなかった。公孫瓚は厳綱を冀州に、田楷を青州に、単経を兗州に任じ、諸郡県を設置した。袁紹の軍は広川にあり、将の麴義に先鋒を命じて公孫瓚と戦わせ、厳綱を生け捕りにした。公孫瓚の軍は敗走して勃海に退き、公孫範と共に薊に戻り、大城の東南に小城を築き、劉虞の近くに住んだが、次第に互いに恨みを抱くようになった。

原文〈遂舉兵與紹對戰,紹不勝。〉以嚴綱為冀州,田楷為青州,單經為兗州,置諸郡縣。紹軍廣川,令將麴義先登與瓚戰,生禽綱。瓚軍敗走勃海,與範俱還薊,於大城東南築小城,與虞相近,稍相恨望。

虞は瓚が変事を起こすことを恐れ、ついに兵を挙げて瓚を襲撃した。虞は瓚に敗れ、居庸に逃亡した。瓚は居庸を攻め落とし、虞を生け捕りにし、虞を捕らえて薊に連れ戻した。ちょうど董卓が死に、天子が使者の段訓を遣わして虞の封邑を増やし、六州を監督させた。瓚は前将軍に昇進し、易侯に封ぜられた。瓚は虞が尊号を称しようとしていると誣告し、段訓を脅して虞を斬らせた。瓚は段訓を幽州刺史に推薦した。瓚はやがて驕り高ぶり、過失を記録して善行を忘れ、多くの者を害した。虞の配下で漁陽の鮮于輔、斉周、騎都尉の鮮于銀らは、州兵を率いて瓚に報復しようとし、燕国の閻柔が日頃から恩信があるとして、共に閻柔を推して烏丸司馬とした。閻柔は烏丸、鮮卑を招き誘い、胡人、漢人合わせて数万人を得て、瓚が置いた漁陽太守の鄒丹と潞の北で戦い、大いにこれを破り、鄒丹を斬った。袁紹もまた麴義と虞の子の劉和を遣わし、兵を率いて鮮于輔と合流して瓚を攻撃した。瓚軍は幾度も敗れ、ついに易京に逃げ戻って固守した。十重の堀を巡らし、堀の中に高台を築き、いずれも高さ五六丈とし、その上に楼閣を建てた。中央の堀の高台は特に高さ十丈あり、自らそこに居住し、穀物三百万斛を蓄積した。瓚は言った。「昔は天下の事は指を揮うだけで定まると言ったが、今日これを見ると、私が決めることではない。兵を休め、農業に力を入れ穀物を蓄える方がよい。兵法に、百の楼閣は攻め難いとある。今、私の楼櫓は千重もある。この穀物を食い尽くすまでに、天下の事は十分にわかるだろう。」彼はこれをもって袁紹を疲弊させようとした。袁紹は将を遣わして攻撃したが、連年攻め落とすことができなかった。(『魏氏春秋』によると、初め劉虞は戎狄と和睦したが、公孫瓚は胡夷は御し難く、服従しない者を討つべきだと考え、今財貨を賞与すれば必ず漢を軽んじるようになり、一時の名を取るだけで長久の深慮ではないとした。そのため劉虞が賞賜したものは、公孫瓚がしばしば掠め奪った。劉虞はしばしば会合を請うたが、公孫瓚は病と称して赴かなかった。この時戦敗し、劉虞は公孫瓚を討とうとして東曹掾の右北平の魏攸に告げた。魏攸は「今天下は首を延ばして公を帰依の先として仰いでいます。謀臣や爪牙はなくてはなりません。公孫瓚は文武の才力が頼りになる人物で、小さな悪があっても当然容忍すべきです」と言ったので、劉虞は止めた。一年後、魏攸が病死した。劉虞はまた官属と議し、密かに衆に命じて公孫瓚を襲わせた。公孫瓚の部曲は外に散在しており、自ら敗れることを恐れ、東城門を掘って逃げようとした。劉虞の兵は部隊編成がなく戦いに慣れず、また民家を愛して焼くことを禁じた。そのため公孫瓚は放火することができ、精鋭をもって突撃した。劉虞の衆は大いに潰走し、居庸城に奔った。公孫瓚は攻めてその家族も連れ戻し、州府を殺害し、衣冠の善士はほとんど尽きた。『典略』によると、公孫瓚は劉虞を市中に晒して「もし天子となるべき者ならば、天は雨を降らせて救うであろう」と祝った。時に盛暑であったが、一日中雨は降らず、ついに劉虞を殺した。『英雄記』によると、劉虞が殺された時、元常山相の孫瑾、掾の張逸・張瓚らは忠義に憤激し、共に劉虞のもとに赴き、口を極めて公孫瓚を罵り、その後共に死んだ。『英雄記』によると、公孫瓚は内外を統べ、衣冠の子弟で才能秀でた者があれば、必ず抑えて窮苦の地に困しませた。ある人がその理由を問うと、「今、衣冠の家の子弟や善士を富貴にすれば、皆自分は職として当然得たもので、人の善に謝さない」と答えた。寵遇して驕恣にした者は、多く凡庸な者たちで、元卜数師の劉緯台、絹売りの李移子、商人の楽何当ら三人と兄弟の誓いを定め、自ら伯と号し、三人を仲叔季と呼び、富は皆巨億に及び、あるいはその娘を取って自分の子に配し、常に古の曲周・灌嬰の類を称して譬えた。『英雄記』によると、先に童謡があり「燕南垂、趙北際、中央不合大如礪、惟有此中可避世」とあった。公孫瓚は易がこれに当たるとし、京を築いて固守した。公孫瓚の別将が敵に囲まれても、義として救わなかった。その言は「一人を救えば、後の将は救いを恃んで力戦しなくなる。今これを救わなければ、後の将は自ら勉めることを念じるであろう」というものであった。そのため袁紹が初めて北撃した時、公孫瓚の南界の別営は守っても自ら固められないと察し、また必ず救われないことを知っていたため、あるいは自らその将帥を殺し、あるいは袁紹の兵に破られ、ついに袁紹軍をその門にまで至らせた。臣松之は思うに、童謡の言は皆験わないものはないが、この記のようなものは証がないようである。謡言の作は、おそらく公孫瓚を終始易に保たせ、遠略を事とさせないためであろう。しかし公孫瓚は黄巾を破った威に乗じて意志を張り遠くを図り、ついに三州刺史を置き袁氏を滅ぼそうと図った。これが敗れた所以である。『英雄記』によると、公孫瓚の諸将は家家に高楼を作り、楼は千を以て数えた。公孫瓚は鉄門を作り、楼上に居て左右を退け、婢妾を側に侍らせ、文書を引き上げさせた。『漢晋春秋』によると、袁紹が公孫瓚に書を送った。)

原文虞懼瓚為變,遂舉兵襲瓚。虞為瓚所敗,出奔居庸。瓚攻拔居庸,生獲虞,執虞還薊。會卓死,天子遣使者段訓增虞邑,督六州;瓚遷前將軍,封易侯。瓚誣虞欲稱尊號,脅訓斬虞。〈《魏氏春秋》曰:初,劉虞和輯戎狄,瓚以胡夷難禦,當因不賓而討之,今加財賞,必益輕漢,效一時之名,非久長深慮。故虞所賞賜,瓚輒鈔奪。虞數請會,稱疾不往。至是戰敗,虞欲討之,告東曹掾右北平人魏攸。攸曰:「今天下引領,以公為歸,謀臣爪牙,不可無也。瓚,文武才力足恃,雖有小惡,固宜容忍。」乃止。後一年,攸病死。虞又與官屬議,密令眾襲瓚。瓚部曲放散在外,自懼敗,掘東城門欲走。虞兵無部伍,不習戰,又愛民屋,敕令勿燒。故瓚得放火,因以精銳衝突。虞眾大潰,奔居庸城。瓚攻及家屬以還,殺害州府,衣冠善士殆盡。《典略》曰:瓚曝虞於市而祝曰:「若應為天子者,天當降雨救之。」時盛暑,竟日不雨,遂殺虞。《英雄記》曰:虞之見殺,故常山相孫瑾、掾張逸、張瓚等忠義憤發,相與就虞,罵瓚極口,然後同死。〉瓚上訓為幽州刺史。瓚遂驕矜,記過忘善,多所賊害。〈《英雄記》曰:瓚統內外,衣冠子弟有材秀者,必抑使困在窮苦之地。或問其故,答曰:「今取衣冠家子弟及善士富貴之,皆自以為職當得之,不謝人善也。」所寵遇驕恣者,類多庸兒,若故卜數師劉緯台、販繒李移子、賈人樂何當等三人,與之定兄弟之誓,自號為伯,謂三人者為仲叔季,富皆巨億,或取其女以配己子,常稱古者曲周、灌嬰之屬以譬也。〉虞從事漁陽鮮于輔、齊周、騎都尉鮮于銀等,率州兵欲報瓚,以燕國閻柔素有恩信,共推柔為烏丸司馬。柔招誘烏丸、鮮卑,得胡、漢數万人,與瓚所置漁陽太守鄒丹戰於潞北,大破之,斬丹。袁紹又遣麴義及虞子和,將兵與輔合擊瓚。瓚軍數敗,乃走還易京固守。〈《英雄記》曰:先是有童謠曰:「燕南垂,趙北際,中央不合大如礪,惟有此中可避世。」瓚以易當之,乃築京固守。瓚別將有為敵所圍,義不救也。其言曰:「救一人,使後將恃救不力戰;今不救此,後將當念在自勉。」是以袁紹始北擊之時,瓚南界上別營自度守則不能自固,又知必不見救,是以或自殺其將帥,或為紹兵所破,遂令紹軍徑至其門。臣松之以為童謠之言,無不皆驗;至如此記,似若無徵。謠言之作,蓋令瓚終始保易,無事遠略。而瓚因破黃巾之威,意志張遠,遂置三州刺史,圖滅袁氏,所以致敗也。〉為圍塹十重,於塹裡築京,皆高五六丈,為樓其上;中塹為京,特高十丈,自居焉,積穀三百萬斛。〈《英雄記》曰:瓚諸將家家各作高樓,樓以千計。瓚作鐵門,居樓上,屏去左右,婢妾侍側,汲上文書。〉瓚曰:「昔謂天下事可指麾而定,今日視之,非我所決,不如休兵,力田畜谷。兵法,百樓不攻。今吾樓櫓千重,食盡此谷,足知天下之事矣。」欲以此弊紹。紹遣將攻之,連年不能拔。〈《漢晉春秋》曰:袁紹與瓚書曰:〉

私は貴殿と、かつて盟約を結び旧交を重ね、乱を討つ誓いを交わし、その親愛は伯夷と叔斉を超え、その情は史書に記されるほどであった。互いの力を合わせて同じ道を進み、斉や晋のような覇業を成し遂げられると考えたので、私は印綬を解き官職を辞し、北を帯びて南を従え、肥沃な土地を分割して貴殿に奉じた。これこそが私の誠心が明らかな証拠ではなかったか。まさか貴殿が烈士の高義を捨て、禍いと滅亡への危険な道を辿り、考えを翻して改め、友好を怨みに変え、ひそかに兵馬を派遣して豫州を侵犯暴虐するとは思わなかった。初めに貴軍が南方にいることを聞き、自ら戦陣に臨み、飛び交う矢や迸る流れ、狂ったように襲いかかる刃を恐れ、貴殿の禍いを重くし、ただ私の罪過を増すだけだと憂い、手紙をしたためて懇ろに諫め、悔い改めることを期待した。しかし貴殿は超然として安逸を貪り、その威詐を誇り、天の網も呑み込め、豪雄も滅ぼせると考え、ついに貴殿の弟を鋒刃の先で失わせた。この言葉がまだ耳に残っているのに、貴殿は一度も禍の根源を探り討ち、心を込めて己を罪することをせず、ただその果てしない怒りを逞しくし、順逆の道理を顧みず、怨みを隠して民を害し、私に向かって暴威を振るった。そして馬を躍らせ弓を引き、我が疆土に居座り、毒を生民に遍く及ぼし、罪を白骨にまで延ばした。私は辞退することができず、界橋の戦いに臨んだ。その時、貴軍の兵気は雷霆のように震え、駿馬は電光のように発した。我が軍は初めて集結し、戦具も整わず、強弱は格段に違い、多寡についても意見が分かれていたが、天の助けを借りて、小戦で大勝し、ついに敗走する敵を蹂躙し、その陣営を占拠して兵糧を奪った。これは天の威厳が誠実を助け、礼を重んじる者に福が豊かであることの表れではなかったか。貴殿はまだ志が飽き足らず、再び残り火を糾合し、我が害虫を率いて、勃海を焼き払った。私はまた安寧を得られず、龍河の戦いをすることになった。疲弊した兵を前に誘い出し、大軍はまだ渡河していないのに、貴殿は胆を破られ兵は散り、鼓を打たずして敗れ、兵衆は擾乱し、君臣ともに奔った。これもまた貴殿の所業であり、私の過失ではない。この後、禍いの隙間はますます深まり、我が軍旅はその憤りに耐えかね、ついに屍を積み上げて塚とし、頭顱が野に満ちた。あの罪なき者を哀れみ、慨然として涙を流さないことはなかった。後に貴殿からの手紙を受け取ると、言葉や意味は婉曲で、過ちを改め将来を修めるという文言があった。私は旧好が回復することを喜び、かつ億兆の民が安寧でないことを哀れみ、たびたび軍を率いて南進し、命令書に従った。一時も満たないうちに、北辺からの羽檄の文が届かないことはなかった。私はこれにより痛心疾首し、どう対処してよいか分からなかった。三軍の帥たる位置にあり、列将の任に当たる者は、怒りは厳しい霜の如く、喜びは時雨の如くあるべきで、善悪好悪は坦然として見えるべきである。しかし貴殿はその徳を二転三転させ、強弱によって謀を変え、急な時は身を屈し、緩やかな時は放逸に流れ、行動に定まった方針がなく、言葉に確かな要点がなく、壮士たる者は果たしてこのようなものか。さらに老弱を残虐に殺害し、幽州の民は怨み、衆は叛き親は離れ、孤独で党もない。また烏丸や濊貊は、皆貴殿と同じ州の者である。私は彼らとは風俗が異なるが、彼らはそれぞれ奮迅して激怒し、争って鋒鋭となった。また東西の鮮卑も、踵を挙げて来て帰附した。これは私の徳が招いたのではなく、貴殿が追いやって来させたのである。荒廃した危険な世に当たり、干戈の険しきに処し、内では同盟の誓いに背き、外では戎狄の心を失い、兵を州内に興し、禍いを蕭牆(内部)から発し、これで覇を定めようとするのは、難しいことではないか。以前、西山の者が暴れ回ったので、出兵して平定討伐しようとした時、ちょうど麴義の残党が誅殺を恐れて逃げたので、大軍を留め置き、兵を分けて掃討した。この兵は私の前衛部隊であり、界橋で旗を奪い陣営を抜き、先登して敵を制した者たちである。初め貴殿が金印紫綬を授かり、元帥に任じられたと聞き、これによって奮発し、孟明の恥を報いるだろうと考えたので、戦士たちは首を長くして、旌旆を仰ぎ望んでいたのに、不思議なことに貴殿は光を包み影を隠し、静かで音沙汰なく、ついに屠滅に至ったので、互いに惜しんだ。天下を平らげる志を持ち、長世の功を望みながら、兵士を統御し、軍馬を養いながら、叛く者を討たず、服する者を受け入れず、威厳と懐柔の両方を失って、どうして名を立てられようか。今、旧都は回復し、天の網は雲のように補われ、罪人は滅び、忠良な幹部が教化を助け、華夏は整然として、穆(周の穆王)のような治世を望んでいる。干戈を収め、牛馬を放散しようとしているのに、貴殿だけがなぜわずかな土地を守り、内側の広さを保ち、悪名を甘んじて朽ち果てることを早め、長く続く令徳を失おうとするのか。壮年の者としてこれを考えてみよ、良策ではない。恨みを解き嫌疑を除き、我が旧好を厚くすべきである。もしこの言葉に瑕があれば、皇天がお聞きになるだろう。

原文孤與足下,既有前盟舊要,申以討亂之誓,愛過夷、叔,分著丹青,謂為旅力同軌,足踵齊、晉,故解印釋紱,以北帶南,分割膏腴,以奉執事,此非孤赤情之明驗邪?豈寤足下棄烈士之高義,尋禍亡之險踪,輟而改慮,以好易怨,盜遣士馬,犯暴豫州。始聞甲卒在南,親臨戰陳,懼於飛矢迸流,狂刃橫集,以重足下之禍,徒增孤(子)之咎釁也,故為薦書懇惻,冀可改悔。而足下超然自逸,矜其威詐,謂天罔可吞,豪雄可滅,果令貴弟殞於鋒刃之端。斯言猶在於耳,而足下曾不尋討禍源,克心罪己,苟欲逞其無疆之怒,不顧逆順之津,匿怨害民,聘於餘躬。遂躍馬控弦,處我疆土,毒遍生民,辜延白骨。孤辭不獲已,以登界橋之役。是時足下兵氣霆震,駿馬電發;僕師徒肇合,機械不嚴,強弱殊科,眾寡異論,假天之助,小戰大克,遂陵躡奔背,因壘館谷,此非天威棐諶,福豐有禮之符表乎?足下志猶未厭,乃復糾合餘燼,率我蛑賊,以焚爇勃海。孤又不獲寧,用及龍河之師。羸兵前誘,大軍未濟,而足下膽破眾散,不鼓而敗,兵眾擾亂,君臣並奔。此又足下之為,非孤之咎也。自此以後,禍隙彌深,孤之師旅,不勝其忿,遂至積尸為京,頭顱滿野,愍彼無辜,未嘗不慨然失涕也。後比得足下書,辭意婉約,有改往脩來之言。僕既欣於舊好克復,且愍兆民之不寧,每輒引師南駕,以順簡書。弗盈一時,而北邊羽檄之文,未嘗不至。孤是用痛心疾首,靡所錯情。夫處三軍之帥,當列將之任,宜令怒如嚴霜,喜如時雨,臧否好惡,坦然可觀。而足下二三其德,強弱易謀,急則曲躬,緩則放逸,行無定端,言無質要,為壯士者固若此乎!既乃殘殺老弱,幽土怨,眾叛親離,孑然無黨。又烏丸、濊貊,皆足下同州,僕與之殊俗,各奮迅激怒,爭為鋒銳;又東西鮮卑,舉踵來附。此非孤德所能招,乃足下驅而致之也。夫當荒危之世,處干戈之險,內違同盟之誓,外失戎狄之心,兵興州壤,禍發蕭牆,將以定霸,不亦難乎!前以西山陸梁,出兵平討,會麴義餘殘,畏誅逃命,故遂住大軍,分兵撲盪,此兵孤之前行,乃界橋搴旗拔壘,先登制敵者也。始聞足下鐫金紆紫,命以元帥,謂當因茲奮發,以報孟明之恥,是故戰夫引領,竦望旌旆,怪遂含光匿影,寂爾無聞,卒臻屠滅,相為惜之。夫有平天下之怒,希長世之功,權禦師徒,帶養戎馬,叛者無討,服者不收,威懷並喪,何以立名?今舊京克復,天罔雲補,罪人斯亡,忠幹翼化,華夏儼然,望於穆之作,將戢干戈,放散牛馬,足下獨何守區區之士,保內之廣,甘惡名以速朽,亡令德之久長?壯而籌之,非良策也。宜釋憾除嫌,敦我舊好。若斯言之玷,皇天是聞。

(公孫瓚は返答せず、かえって軍備を増強し整備した。関靖に言った。「当今、四方で虎のように争っており、わが城下に座して一年も守り続けられる者などいないことは明らかだ。袁本初が私をどうすることもできまい。」)

原文〈瓚不答,而增脩戎備。謂關靖曰:「當今四方虎爭,無有能坐吾城下相守經年者明矣。袁本初其若我何!」〉

建安四年、袁紹は全軍で包囲した。公孫瓚は子を遣わして黒山賊に救援を求め、また自ら突騎を率いて直ちに出撃し、西南の山に沿って進み、黒山の衆を擁して冀州で暴れ、袁紹の背後を遮断しようとした。長史の関靖が公孫瓚を諫めて言った。「今、将軍の将士は皆、すでに土崩瓦解しており、まだ持ちこたえているのは、居処や妻子老幼を顧み恋い慕い、将軍を主としているからです。将軍が堅守して日を長引かせれば、袁紹は必ず自ら退くでしょう。自ら退いた後、四方の衆は再び集まることができるでしょう。もし将軍が今これを捨てて去れば、軍に鎮める重しがなくなり、易京の危険はすぐに待ち受けることになります。将軍が根本を失い、草野に孤立して、何を成しえましょうか。」公孫瓚は遂に出撃するのを止めた。(『英雄記』によると、関靖は字を士起といい、太原の人である。もともと酷吏で、諂うだけで大した謀略がなく、特に公孫瓚に信頼され寵愛された。)救援が到着し、内外から袁紹を撃とうとした。使いの者を子に遣わし、期日を定めて兵が到着したら、烽火を挙げて応じるように伝えた。(『典略』によると、公孫瓚は使者の文則を使い、子の公孫続に書を送って告げた。「袁氏の攻撃は、神鬼のようだ。鼓角が地中で鳴り、雲梯や衝車が我が楼閣の上で舞う。日も月も窮屈で、頼るものがない。お前は張燕の下で首を砕き、速やかに軽騎を送れ。到着したら北で烽火を挙げよ。私は内から出撃する。そうでなければ、私が死んだ後、天下は広くとも、お前が安住の地を求めようとしても、どうして得られようか。」『献帝春秋』によると、公孫瓚は薊城が崩れる夢を見て、必ず敗れると知り、密使を遣わして公孫続に書を送った。袁紹の斥候がこれを捕らえ、陳琳にその書を書き換えさせた。「かつて衰えた周の世に、屍が倒れ血が流れたと聞いていたが、そうではないと思っていた。まさか今日、自らその衝に当たろうとは。」その他の言葉は『典略』の記載と同じである。)袁紹の斥候がその書を手に入れ、期日通りに烽火を挙げた。公孫瓚は救援軍が来たと思い、出撃して戦おうとした。袁紹は伏兵を設けて撃ち、大破し、公孫瓚はまた守りに戻った。袁紹は地下道を掘り、その楼閣を突き崩し、次第に中京に迫った。(『英雄記』によると、袁紹は攻撃部隊を分けて地面を掘り道とし、その楼閣の下に穴を穿ち、少しずつ木材の柱を立て、足場が半分ほど達したところで、立てた柱を焼き、楼閣はたちまち傾き倒れた。)公孫瓚は必ず敗れると悟り、妻子を皆殺しにし、そして自殺した。(『漢晉春秋』によると、関靖は言った。「私は聞く、君子が人を危険に陥れたならば、必ずその難に同ずるものであり、どうして独り生きられようか。」そして馬を駆って袁紹の軍に赴き、戦死した。袁紹はその首をすべて許都に送った。)

原文建安四年,紹悉軍圍之。瓚遣子求救於黑山賊,复欲自將突騎直出,傍西南山,擁黑山之眾,陸梁冀州,橫斷紹後。長史關靖說瓚曰:「今將軍將士,皆已土崩瓦解,其所以能相守持者,顧戀其居處老小,以將軍為主耳。將軍堅守曠日,袁紹要當自退;自退之後,四方之眾必復可合也。若將軍今舍之而去,軍無鎮重,易京之危,可立待也。將軍失本,孤在草野,何所成邪!」瓚遂止不出。〈《英雄記》曰:關靖字士起,太原人。本酷吏也,諂而無大謀,特為瓚所信幸。〉救至,欲內外擊紹。遣人與子書,刻期兵至,舉火為應。〈《典略》曰:瓚遣行人文則齎書告子續曰:「袁氏之攻,似若神鬼,鼓角鳴於地中,梯衝舞吾樓上。日窮月蹴,無所聊賴。汝當碎首於張燕,速致輕騎,到者當起烽火於北,吾當從內出。不然,吾亡之後,天下雖廣,汝欲求安足之地,其可得乎!」《獻帝春秋》曰:瓚夢薊城崩,知必敗,乃遣間使與續書。紹候者得之,使陳琳更其書曰:「蓋聞在昔衰周之世,僵戶流血,以為不然,豈意今日身當其衝!」其餘語與《典略》所載同。〉紹侯者得其書,如期舉火。瓚以為救兵至,遂出欲戰。紹設伏擊,大破之,復還守。紹為地道,突壞其樓,稍至中京。〈《英雄記》曰:袁紹分部攻者掘地為道,穿穴其樓下,稍稍施木柱之,度足達半,便燒所施之柱,樓輒傾倒。〉瓚自知必敗,盡殺其妻子,乃自殺。〈《漢晉春秋》曰:關靖曰:「吾聞君子陷人於危,必同其難,豈可獨生乎!」乃策馬赴紹軍而死。紹悉送其首於許。〉

鮮于輔は配下の兵を率いて王命に従った。輔を建忠将軍に任じ、幽州六郡を監督させた。太祖が袁紹と官渡で対峙していた時、閻柔は使者を太祖のもとに遣わして帰順し、護烏丸校尉に昇進した。そして輔自身も太祖のもとに赴き、左度遼将軍に任じられ、亭侯に封ぜられ、本州の鎮撫のために帰還させられた。太祖が南皮を攻め落とすと、柔は配下の部曲と鮮卑の名馬を献上して軍に奉じ、三郡烏丸征伐に従軍し、功績により関内侯に封ぜられた。輔もまた配下の兵を率いて従った。文帝が即位すると、輔は虎牙将軍に、柔は度遼将軍に任じられ、ともに県侯に進封された。位は特進となった。(『魏略』によると、鮮于輔は太祖に官渡で従った。袁紹が破れて逃げると、太祖は喜び、振り返って鮮于輔に「先年本初が公孫瓚の首を送ってきた時、孤は自ら忽然と見ただけだったが、今これを克ち取った。これは既に天意であり、また諸君の力でもある」と言った。『魏略』によると、太祖は閻柔を非常に愛し、常に「我は卿を子のように見る。卿もまた我を父のように見てほしい」と言った。閻柔はこれにより自ら五官将に託して兄弟のように付き合った。)

原文鮮于輔將其眾奉王命。以輔為建忠將軍,督幽州六郡。太祖與袁紹相拒於官渡,閻柔遣使詣太祖受事,遷護烏丸校尉。而輔身詣太祖,拜左度遼將軍,封亭侯,遣還鎮撫本州。〈《魏略》曰:輔從太祖於官渡。袁紹破走,太祖喜,顧謂輔曰:「如前歲本初送公孫瓚頭來,孤自視忽然耳,而今克之。此既天意,亦二三子之力。」〉太祖破南皮,柔將部曲及鮮卑獻名馬以奉軍,從征三郡烏丸,以功封關內侯。〈《魏略》曰:太祖甚愛閻柔,每謂之曰:「我視卿如子,亦欲卿視我如父也。」柔由此自託於五官將,如兄弟。〉輔亦率其眾從。文帝踐阼,拜輔虎牙將軍,柔度遼將軍,皆進封縣侯。位特進。

陶謙は字を恭祖といい、丹楊の人である。若い頃学問を好み、諸生となり、州郡に仕え、茂才に推挙され、盧県令に任ぜられた。幽州刺史に転任し、議郎に召されて車騎将軍張温の軍事に参謀し、西の韓遂を討伐した。ちょうど徐州で黄巾の乱が起こり、謙を徐州刺史に任じて黄巾を撃破し、敗走させた。(『呉書』にいう:謙の父は、もと余姚の長であった。謙は幼くして孤となり、はじめは不羈(奔放で規制に縛られないこと)で県中に聞こえた。十四歳の時、なお帛を綴って幡とし、竹馬に乗って遊んだが、邑中の児童は皆これに従った。もとの蒼梧太守で同県の甘公が道でこれに出会い、その容貌を見て異とし、呼び止めて車を止め語らい、非常に喜び、娘を妻として与えることを許した。甘公の夫人はこれを聞いて怒り、「妾は陶家の子が遊びに節度がないと聞いている。どうして娘をこれに許せましょうか」と言った。公は「彼には奇異な風貌があり、成長すれば必ず大成する」と言い、ついに娘を妻として与えた。)

原文陶謙字恭祖,丹楊人。〈《吳書》曰:謙父,故餘姚長。謙少孤,始以不羈聞於縣中。年十四,猶綴帛爲幡,乘竹馬而戲,邑中兒僮皆隨之。故蒼梧太守同縣甘公出遇之塗,見其容貌,異而呼之,住車與語,甚恱,因許妻以女。甘公夫人聞之,怒曰:「妾聞陶家兒敖戲無度,如何以女許之?」公曰:「彼有奇表,長必大成。」遂妻之。〉少好學,爲諸生,仕州邵,舉茂才,除盧令,〈《吳書》曰:謙性剛直,有大節,少察孝廉,拜尚書郎,除舒令。郡守張磐,同郡先輩,與謙父友意殊親之,而謙恥爲之屈。與衆還城,因以公事進見,坐罷,磐常私還入與謙飲宴,或拒不爲留。常以舞屬謙,謙不爲起,固彊之;及舞,又不轉。磐曰:「不當轉邪?」曰:「不可轉,轉則勝人。」由是不樂,卒以搆隙。謙在官清白,無以糾舉,祠靈星,有贏錢五百,欲以臧之。謙委官而去。〉遷幽州剌史,徵拜議郎,參車騎將軍張溫軍事,西討韓遂。〈《吳書》曰:會西羌寇邊,皇甫嵩爲征西將軍,表請武將。召拜謙楊武都尉,與嵩征羌,大破之。後邊章、韓遂爲亂,司空張溫銜命征討;又請謙爲參軍事,接遇甚厚,而謙輕其行事,心懷不服。及軍罷還,百寮高會,溫屬謙行酒,謙衆辱溫。溫怒,徙謙於邊。或說溫曰:「陶恭祖本以材略見重於公,一朝以醉飲過失,不蒙容貸,遠棄不毛,厚德不終,四方人士安所歸望!不如釋憾除恨,克復初分,於以遠聞德美。」溫然其言,乃追還謙。謙至,或又謂謙曰:「足下輕辱三公,罪自己作,今蒙釋宥,德莫厚矣;宜降志卑辭以謝之。」謙曰:「諾。」又謂溫曰:「陶恭祖今深自罪責,思在變革。謝天子禮畢,必詣公門。公宜見之,以慰其意。」時溫於宮門見謙,謙仰曰:「謙自謝朝廷,豈爲公邪?」溫曰:「恭祖癡病尚未除邪?」遂爲之置酒,待之如初。〉會徐州黃巾起,以謙爲徐州剌史,擊黃巾,破走之。

董卓の乱の時、州郡が兵を起こし、天子が長安に都を置くと、四方との連絡が途絶えたが、謙は使者を間道から派遣して貢物を献上し、安東将軍・徐州牧に昇進し、溧陽侯に封ぜられた。この時、徐州の民衆は豊かで、穀物は豊富に蓄えられ、流民の多くが帰順した。しかし謙は道理に背き、感情のままに振る舞った。広陵太守の琅邪の人趙昱は、徐州地方の名士で、忠直であるがために疎んじられた。曹宏らは、讒言と悪意に満ちた小人であったが、謙は彼らを親しく重用した。刑罰と政治が調和を失い、善良な人々の多くがその害を受けたため、次第に混乱した。下邳の闕宣が天子を自称し、謙は初め彼と同盟して略奪を行ったが、後に宣を殺害し、その配下の兵を併せた。(謝承『後漢書』にいう:昱は十三歳の時、母が病にかかり、三か月余りに及んだ。昱は悲しみやつれ、目を閉じる間もなく、粟を握って卜に出、祈禱して血を流し、郷党はその孝を称えた。処士で東莞の綦毌君について『公羊伝』を学び、兼ねて諸学に通じた。年を経て志を潜め、園圃を覗かず、親疎もその顔を見ることは稀であった。時に父母の安否を問うために入っても、須臾で還った。高潔廉正で、礼を抱いて立ち、清英厳恪、その志を妨げる者はなかった。善を旌して教化を興し、邪を弾いて俗を矯めた。州郡が召請しても、常に病と称して応じなかった。国相の檀謨・陳遵が相次いで召したが、起たなかった。ある者が盛んに怒りを発しても、終に意を回さなかった。孝廉に挙げられ、莒長に任ぜられ、五教を宣揚し、政は国の表となった。黄巾が乱を起こし、五郡に陸梁すると、郡県は兵を発し、先ずこれを辦じた。徐州刺史の巴祗は功第一と上表し、遷賞を受くべきこととなったが、昱は深くこれを恥じ、官を委して家に還った。徐州牧の陶謙が初め別駕従事に辟したが、病と辞して遜遁した。謙は重ねて揚州従事の会稽の呉範に命じて旨を宣べさせたが、昱は意を守って移さなかった。刑罰を以て威そうとしたが、その後ようやく起った。茂才に挙げられ、広陵太守に遷った。賊の笮融が臨淮から討たれて郡界に迸入すると、昱は兵を率いて拒戦したが、敗績し、害された。)

原文董卓之亂,州郡起兵,天子都長安,四方斷絕,謙遣使間行致貢獻,遷安東將軍、徐州牧,封溧陽侯。是時,徐州百姓殷盛,穀米封贍,流民多歸之。而謙背道任情:廣陵太守琅邪趙昱,徐方名士也,以忠直見疏;〈謝承《漢書》曰:昱年十三,母嘗病,經涉三月。昱慘戚消瘠,至目不交睫,握粟出卜,祈禱泣血,鄉黨稱其孝。就處士東莞綦毌君受《公羊傳》,兼該羣業。至歷年潛志,不闚園圃,親疏希見其面。時入定省父母,須臾即還。高絜廉正,抱禮而立,清英儼恪,莫干其志;旌善以興化,彈邪以矯俗。州郡請召,常稱病不應。國相檀謨、陳遵比召,不起;或興盛怒,終不迴意。舉孝廉,除莒長,宣揚五教,政爲國表。會黃巾作亂,陸梁五郡,郡縣發兵,以爲先辦。徐州刺史巴祗表功第一,當受遷賞,昱深以爲恥,委官還家。徐州牧陶謙初辟別駕從事,辭疾遜遁。謙重令楊州從事會稽吳範宣旨,昱守意不移;欲威以刑罰,然後乃起。舉茂才,遷廣陵太守。賊笮融從臨淮見討,迸入郡界,昱將兵拒戰,敗績,見害。〉曹宏等,讒慝小人也,謙親任之。刑政失和,良善多被其害,由是漸亂。下邳闕宣自稱天子,謙初與合從寇鈔,後遂殺宣,并其衆。

初平四年、太祖(曹操)が陶謙を征討し、十余りの城を攻め落とし、彭城に至って大戦となった。陶謙の軍は敗走し、死者は数万に及び、泗水はそれによって流れを止めた。陶謙は剡に退いて守りを固めた。太祖は兵糧が少ないため軍を引き返した。〈『呉書』によると、曹公(曹操)の父が泰山で殺害され、その罪を陶謙に帰した。陶謙を討伐したいがその強さを恐れ、そこで上表して州郡に一時的に兵を罷めさせた。詔には「今、海内は騒擾し、州郡は兵を起こし、征夫は労苦し、寇難は未だ鎮まらず、あるいは将吏が不良で、それに乗じて討捕し、黎民を侵侮し、離散被害を受ける者が多い。風聞が流れ、城邑を震蕩させ、丘牆(城壁)は横暴を恐れ、貞良は群悪に化す。これは薪を抱えて焚火を救い、火を扇いで沸騰を止めるのと何が異なるのか。今、四民は流移し、他方に身を寄せ、白首を山野に携え、稚子を溝壑に棄て、故郷を顧みて哀歎し、阡陌に向かって流涕し、飢餓困苦もまた甚だしい。往時の迷謬を悔い、今日に教えを奉じようと思っても、兵は連なり衆は結び、鋒鏑は野に布き、一朝解散すれば、夕べに繫虜となる恐れがある。それゆえ兵を阻んで屯據し、止めようとして敢えて散じないのである。詔書が到れば、それぞれ甲士を罷め遣わし、親農桑に還り、常員の吏のみを留めて官署に供え、遠近を慰示し、皆に聞かしめよ」とあった。陶謙は詔を受けると、上書して言った。「臣は聞く、遠方を懐け服従させるには、徳なくしては集まらず、難を克ち乱を平らげるには、兵なくしては成し遂げられない。それゆえ涿鹿、版泉、三苗の野には五帝の師があり、有扈、鬼方、商、奄の四国には王者の伐があった。古より今に至るまで、威を揚げて乱を鎮めず、武を震わせて暴を止めなかったことはない。臣は以前、黄巾の乱が治まらない初めに、策を受けて長駆し、安んじる暇もなかった。憲章を勅戒とし、威霊を奉宣し、天誅を敬って行い、伐つごとに必ず克ったが、妖寇は類が多く、殊に死を畏れず、父兄が殲滅されると、子弟が群れをなして起こり、屯を治め兵を連ね、今に至るまで患いとなっている。もし命を承けて甲を解き、弱国自ら虚にし、武備を釈して乱に資し、官威を損じて寇を益するならば、今日兵を罷めれば、明日必ず難が至る。上は朝廷の寵授の本を辱め、下は群凶の日月滋蔓を命じ、強幹弱枝し悪を遏え乱を止める務めではない。臣は愚蔽であっても、忠恕は明らかでなく、恩を抱いて報いを念じ、行うに忍びない。ただちに部曲を勒し、警備を申し令める。出でては強寇を芟り、力の及ぶ限りを見、入っては徳沢を宣べ、職事を躬奉し、微労を効して罪負を贖うことを冀う」また言った。「華夏は沸き擾ぎ、今に至るまで鎮まらず、包茅は入らず、職貢は多く闕け、寤寐憂歎し、一日も敢えて寧んじることがない。誠に思うに、貢献必ず至り、薦羞(貢物)通じるを得て、その後鋒を銷ぎ甲を解くことが、臣の願いである。臣は以前、穀物百万斛を調達し、すでに水次にある。ただちに兵衛に勅して送らせる」曹公は陶謙の上書を得て、兵を罷めないことを知った。そこで彭城を進攻し、多くの人民を殺した。陶謙は兵を率いてこれを撃ち、青州刺史田楷もまた兵を率いて陶謙を救った。公は兵を率いて還った。臣松之が案ずるに、この時天子は長安におり、曹公はまだ政を執っていない。罷兵の詔は、曹氏から出ることはできない。〉(『呉書』にいう:曹公の父が泰山で殺され、その罪を謙に帰した。謙を討たんと欲したがその強さを畏れ、そこで上表して州郡に一時兵を罷めさせた。詔に曰く「今海内は擾攘し、州郡は兵を起こし、征夫は労瘁し、寇難は未だ弭まず。あるいは将吏が不良で、これに因縁して討捕し、黎民を侵侮し、離害する者衆し。風声流聞して城邑を震蕩し、丘牆は横暴を懼れ、貞良は群悪と化す。これ何ぞ薪を抱いて焚を救い、火を扇いで沸を止むるに異ならんや。今四民は流移し、他方に託身し、白首を山野に携え、稚子を溝壑に棄て、故郷を顧みて哀歎し、阡陌に向かって流涕す。飢厄困苦、また已に甚だし。往者の迷謬を悔い、今日に教えを奉ぜんと思うも、然れども兵連なり衆結び、鋒鏑野に布き、一朝解散すれば夕に繫虜とならんことを恐る。是を以て兵を阻み屯拠し、止めんと欲して敢えて散ぜざるなり。詔書到らば、其れ各々甲士を罷遣し、親しく農桑に還り、惟だ常員の吏のみを留めて官署に供し、遠近を慰示し、咸く聞かしめよ」と。謙は詔を被り、乃ち上書して曰く「臣聞く、遠を懐け服を柔ぐるは徳に非ざれば集まらず、難を克ち乱を平らぐるは兵に非ざれば済まず。是を以て涿鹿・版泉・三苗の野には五帝の師あり、有扈・鬼方・商・奄の四国には王者の伐あり。古より在昔、威を揚げて乱を弭めず、武を震わせて暴を止めざる者は未だあらず。臣前初め黄巾の治を乱するを以て、策を受けて長駆し、啓処する遑あらず。憲章の勑戒を奉宣し威霊を敬行し天誅を行い、伐つ毎に輒ち克つ。然れども妖寇類衆にして、殊に死を畏れず、父兄殲殪すれば子弟群起し、屯を治め兵を連ね、今に至るまで患と為す。若し命を承けて甲を解かば、弱国自ら虚しくなり、武備を釈てて乱に資し、官威を損じて寇を益す。今日兵罷めば明日難必ず至らん。上は朝廷寵授の本を忝け、下は群凶日月に滋蔓するを令し、強幹弱枝・悪を遏め乱を止むるの務に非ざるなり。臣愚蔽と雖も、忠恕昭かならず、恩を抱き報を念じ、行うに忍びず。輒ち部曲を勒し、令を申べて警備す。出でては強寇を芟り、惟だ力の視る所、入りては徳沢を宣べ、躬ら職事を奉じ、微労を効して罪負を贖わんことを冀う」と。また曰く「華夏沸擾し、今に於いて未だ弭まず。包茅入らず、職貢多く闕け、寤寐憂歎し、日として敢えて寧きこと無し。誠に思う、貢献必ず至り、薦羞通ずるを得て、然る後に鋒を銷ぎ甲を解かんことを。臣の願いなり。臣前穀百万斛を調え、已に水次に在り。輒ち兵衛に勑して送らしむ」と。曹公は謙の上事を得て、兵を罷めざるを知り、乃ち彭城を進攻し、人民を多く殺した。謙は兵を引いてこれを撃ち、青州刺史田楷も亦た兵を以て謙を救った。公は兵を引いて還った。臣松之案ずるに、此の時天子は長安に在り、曹公未だ政を秉らず。兵を罷むるの詔は、曹氏より出づるを得ず。)

原文初平四年,太祖征謙,攻拔十餘城,至彭城大戰。謙兵敗走,死者萬數,泗水爲之不流。謙退守剡。太祖以糧少引軍還。〈《吳書》曰:曹公父於泰山被殺,歸咎於謙。欲伐謙而畏其彊,乃表令州郡一時罷兵。詔曰:「今海內擾攘,州郡起兵,征夫勞瘁,寇難未弭,或將吏不良,因緣討捕,侵侮黎民,離害者衆;風聲流聞,震蕩城邑,丘牆懼於橫暴,貞良化爲羣惡,此何異乎抱薪救焚,扇火止沸哉!今四民流移,託身佗方,攜白首於山野,棄稚子於溝壑,顧故鄉而哀歎,向阡陌而流涕,饑厄困苦,亦已甚矣。雖悔往者之迷謬,思奉教於今日,然兵連衆結,鋒鏑布野,恐一朝解散,夕見繫虜,是以阻兵屯據,欲止而不敢散也。詔書到,其各罷遣甲士,還親農桑,惟留常員吏以供官署,慰示遠近,咸使聞知。」謙被詔,乃上書曰:「臣聞懷遠柔服,非德不集;克難平亂,非兵不濟。是以涿鹿、版泉、三苗之野有五帝之師,有扈、鬼方、商、奄四國有王者之伐,自古在昔,未有不揚威以弭亂,震武以止暴者也。臣前初以黃巾亂治,受策長驅,匪遑啟處。雖憲章勑戒,奉宣威靈,敬行天誅,每伐輒克,然妖寇類衆,殊不畏死,父兄殲殪,子弟羣起,治屯連兵,至今爲患。若承命解甲,弱國自虛,釋武備以資亂,損官威以益寇,今日兵罷,明日難必至,上忝朝廷寵授之本,下令羣凶日月滋蔓,非所以彊幹弱枝遏惡止亂之務也。臣雖愚蔽,忠恕不昭,抱恩念報,所不忍行。輒勒部曲,申令警備。出芟彊寇,惟力是視,入宣德澤,躬奉職事,冀效微勞,以贖罪負。」又曰:「華夏沸擾,于今未弭,包茅不入,職貢多闕,寤寐憂歎,無日敢寧。誠思貢獻必至,薦羞獲通,然後銷鋒解甲,臣之願也。臣前調穀百萬斛,已在水次,輒勑兵衞送。」曹公得謙上事,知不罷兵。乃進攻彭城,多殺人民。謙引兵擊之,青州刺史田楷亦以兵救謙。公引兵還。臣松之案:此時天子在長安,曹公尚未秉政。罷兵之詔,不得由曹氏出。〉

興平元年、再び東征し、琅邪・東海の諸県をほぼ平定した。陶謙は恐れ、丹楊に逃げ帰ろうとした。ちょうど張邈が叛いて呂布を迎え、太祖が還って呂布を撃った。この年、陶謙は病死した。〈『呉書』によると、陶謙が死んだ時、六十三歳であった。張昭らがそのために哀辞を作り、「ああ、使君よ、君侯将軍よ、懿徳を膺け秉り、まさに武、まさに文、体は剛直に足り、守りは温仁をもってす。令舒及び盧、民に遺愛あり、牧幽曁徐、甘棠これ均し。憬憬たる夷貊、侯に頼りて清く、蠢蠢たる妖寇、侯にあらざれば寧からず。ただ帝は績を念い、爵命もって章す、すでに牧しかつ侯、土を啓き溧陽。遂に上将に昇り、号を安東に受け、世難を平らげんと将し、社稷これ崇し。降年永からず、奄忽として殂薨す、喪覆し恃いを失い、民困窮を知る。曾て旬日ならず、五郡潰崩す、哀れむ我が人斯、誰にか仰ぎ憑らん。追思靡及び、仰ぎて皇穹を叫ぶ。嗚呼哀しいかな」と。陶謙には二人の子、商と応がいたが、皆仕官しなかった。〉

原文興平元年,復東征,略定琅邪、東海諸縣。謙恐,欲走歸丹楊。會張邈叛迎呂布,太祖還擊布。是歲,謙病死。〈《吳書》曰:謙死時,年六十三,張昭等爲之哀辭曰:「猗歟使君,君侯將軍,膺秉懿德,允武允文,體足剛直,守以溫仁。令舒及盧,遺愛于民;牧幽曁徐,甘棠是均。憬憬夷貊,賴侯以清;蠢蠢妖寇,匪侯不寧。唯帝念績,爵命以章,旣牧且侯,啟土溧陽。遂升上將,受號安東,將平世難,社稷是崇。降年不永,奄忽殂薨,喪覆失恃,民知困窮。曾不旬日,五郡潰崩,哀我人斯,將誰仰憑?追思靡及,仰叫皇穹。嗚呼哀哉!」謙二子:商、應,皆不仕。〉

張楊は字を稚叔といい、雲中の人である。武勇をもって并へい州に給仕し、武猛従事となった。霊帝の末、天下が乱れ、帝は寵愛する小黄門の蹇碩を西園上軍校尉とし、京都に軍を置き、四方を御するためとし、天下の豪傑を徴して偏裨とした。太祖(曹操)や袁紹らは皆校尉となり、その配下となった。〈『霊帝紀』によると、虎賁中郎将袁紹を中軍校尉とし、屯騎校尉鮑鴻を下軍校尉とし、議郎曹操を典軍校尉とし、趙融・馮芳を助軍校尉とし、夏牟・淳于瓊を左右校尉とした。〉并州刺史の丁原は張楊を遣わして兵を率いて蹇碩のもとに行かせ、仮司馬とした。霊帝が崩じると、蹇碩は何進に殺された。張楊は再び何進に遣わされ、本州に帰って兵を募り、千余人を得て、そこで上党に留まり、山賊を撃った。何進が敗れると、董卓が乱を起こした。張楊はそこで率いる兵をもって上党太守を壺関で攻めたが、落とせず、諸県を略し、衆は数千人に至った。山東で兵が起こり、董卓を誅しようとした。袁紹が河内に至ると、張楊は袁紹と合流し、再び匈奴の単于於夫羅と漳水に屯した。単于が叛こうとしたが、袁紹と張楊は従わなかった。単于は張楊を捕らえて共に去り、袁紹は将の麴義を遣わして鄴の南で追撃させ、これを破った。単于は張楊を捕らえて黎陽に至り、度遼将軍耿祉の軍を攻め破り、衆は再び振るった。董卓は張楊を建義将軍・河内太守とした。

原文張楊字稚叔,雲中人也。以武勇給并州,為武猛從事。靈帝末,天下亂,帝以所寵小黃門蹇碩為西園上軍校尉,軍京都,欲以御四方,徵天下豪傑以為偏裨。太祖及袁紹等皆為校尉,屬之。〈《靈帝紀》曰:以虎賁中郎將袁紹為中軍校尉,屯騎校尉鮑鴻為下軍校尉,議郎曹操為典軍校尉,趙融、馮芳為助軍校尉,夏牟、淳于瓊為左右校尉。〉并州刺史丁原遣楊將兵詣碩,為假司馬。靈帝崩,碩為何進所殺。楊復為進所遣,歸本州募兵,得千餘人,因留上黨,擊山賊。進敗,董卓作亂。楊遂以所將攻上黨太守於壺關,不下,略諸縣,眾至數千人。山東兵起,欲誅卓。袁紹至河內,楊與紹合,復與匈奴單于於夫羅屯漳水。單于欲叛,紹、楊不從。單于執楊與俱去,紹使將麴義追擊於鄴南,破之。單于執楊至黎陽,攻破度遼將軍耿祉軍,眾復振。卓以楊為建義將軍、河內太守。

天子(献帝)が河東におられた時、張楊は兵を率いて安邑に至り、安国将軍に拝され、晋陽侯に封じられた。張楊は天子を迎えて洛陽に還そうとしたが、諸将は聞き入れなかった。張楊は野王に還った。建安元年、楊奉・董承・韓暹が天子を挟んで旧京に還ったが、兵糧が乏しかった。張楊は兵糧を路上で迎え、遂に洛陽に至った。諸将に言った。「天子は天下と共にすべきものであり、幸いにも公卿大臣がおられる。張楊は外難を捍ぐべきであり、京都で何事を為そうか」そこで野王に還った。すぐに大司馬に拝された。〈『英雄記』によると、張楊は性質が仁和で、威刑がなかった。下の者が謀反を企て、発覚すると、彼らに向かって涕泣し、すぐに許して問わなかった。〉張楊は平素から呂布と親しかった。太祖が呂布を包囲した時、張楊は救おうとしたが、できなかった。そこで東市に出兵し、遠くからそれに勢いをつけた。その将の楊醜が、張楊を殺して太祖に応じた。張楊の将の眭固が楊醜を殺し、その衆を率いて、北の袁紹と合流しようとした。太祖は史渙を遣わして邀撃させ、犬城でこれを破り、眭固を斬り、その衆をことごとく収めた。〈『典略』によると、眭固は字を白兔といい、楊醜を殺した後、軍を射犬に屯した。時に巫が眭固に誡めて言った。「将軍の字は兔であり、この邑の名は犬である。兔が犬を見れば、その勢い必ず驚く。急いで移るべきである」眭固は従わず、遂に戦死した。〉

原文天子之在河東,楊將兵至安邑,拜安國將軍,封晉陽侯。楊欲迎天子還洛,諸將不聽;楊還野王。建安元年,楊奉、董承、韓暹挾天子還舊京,糧乏。楊以糧迎道路,遂至洛陽。謂諸將曰:「天子當與天下共之,幸有公卿大臣,楊當捍外難,何事京都?」遂還野王。即拜為大司馬。〈《英雄記》曰:楊性仁和,無威刑。下人謀反,發覺,對之涕泣,輒原不問。〉楊素與呂布善。太祖之圍布,楊欲救之,不能。乃出兵東市,遙為之勢。其將楊醜,殺楊以應太祖。楊將眭固殺醜,將其眾,欲北合袁紹。太祖遣史渙邀擊,破之於犬城,斬固,盡收其眾也。〈《典略》曰:固字白兔,既殺楊醜,軍屯射犬。時有巫誡固曰:「將軍字兔而此邑名犬,兔見犬,其勢必驚,宜急移去。」固不從,遂戰死。〉

公孫度は字を升済といい、もと遼東襄平の人である。度の父の延は、吏を避けて玄菟に居住し、度を郡吏に任じた。時に玄菟太守の公孫琙の子の豹が十八歳で早死した。度は幼少時の名が豹であり、また琙の子と同年であったので、琙は彼を見て親愛し、師について学ばせ、妻を娶らせた。後に有道に挙げられ、尚書郎に除され、次第に冀州刺史に遷ったが、謡言によって免官された。同郡の徐栄が董卓の中郎将となり、度を遼東太守に推薦した。度は玄菟の小吏から起き上がったため、遼東郡に軽んじられていた。以前、属国の公孫昭が襄平令を守り、度の子の康を伍長に召し出した。度が官に着くと、公孫昭を収監し、襄平の市で笞打ちの上殺した。郡中の名豪大姓の田韶らは以前から恩遇がなく、皆法によって誅殺され、滅ぼされた家は百余りに及び、郡中は震え慄いた。東は高句驪りを伐ち、西は烏丸を撃ち、威は海外に行き渡った。

原文公孫度字升濟,本遼東襄平人也。度父延,避吏居玄菟,任度為郡吏。時玄菟太守公孫琙,子豹,年十八歲,早死。度少時名豹,又與琙子同年,琙見而親愛之,遣就師學,為取妻。後舉有道,除尚書郎,稍遷冀州刺史,以謠言免。同郡徐榮為董卓中郎將,薦度為遼東太守。度起玄菟小吏,為遼東郡所輕。先時,屬國公孫昭守襄平令,召度子康為伍長。度到官,收昭,笞殺於襄平市。郡中名豪大姓田韶等宿遇無恩,皆以法誅,所夷滅百餘家,郡中震栗。東伐高句驪,西擊烏丸,威行海外。

初平元年、公孫度は中国が擾乱しているのを知り、親しい役人の柳毅や陽儀らに言った。「漢の天命はまさに絶えようとしている。諸卿とともに王業を図ろう。」その時、襄平県の延里の社に大きな石が生じ、長さは一丈余りで、下に三つの小さな石が足となっていた。ある者が公孫度に言った。「これは漢の宣帝の冠石の祥瑞であり、里の名が先君(公孫延)と同じです。社は土地の主ですから、明らかに土地を得ることを示し、三公が補佐することを示しています。」公孫度はますます喜んだ。かつての河内太守の李敏は、郡内で名を知られた人物であったが、公孫度の行いを憎み、害されることを恐れて、家族を連れて海に入った。公孫度は大いに怒り、彼の父の墓を掘り起こし、棺を割いて屍を焼き、その宗族を誅殺した。遼東郡を分割して遼西中遯郡とし、太守を置いた。海を越えて東萊郡の諸県を収め、営州刺史を置いた。自ら遼東侯・平州牧を称し、父の延を追封して建義侯とした。漢の高祖こうそと世祖(光武帝)の二祖の廟を立て、詔命を受けたものとして襄平城の南に壇墠を設け、天地を郊祀し、藉田の礼を行い、兵を治め、鸞路に乗り、九旒の旗、旄頭や羽騎を用いた。太祖(曹操)は公孫度を武威将軍に表し、永寧郷侯に封じた。公孫度は言った。「私は遼東で王となるのだ。何が永寧か!」印綬を武庫にしまい込んだ。公孫度が死ぬと、子の康が後を嗣ぎ、永寧郷侯の爵位を弟の恭に封じた。この年は建安九年であった。(『魏書』にいう:度は毅・儀に語って「讖書に孫登は天子と為ると云う。太守の姓は公孫、字は升済、升は即ち登なり」と言った。『晋陽秋』にいう:敏の子は敏を追求して塞を出で、二十余年を越えて娶らず。州里の徐邈がこれを責めて「不孝は後無きより大なるは莫し。何ぞ終身娶らざるを得んや」と言った。乃ち妻を娶り、子の胤を生みて妻を遣り、常に喪に居るの礼の如くし、憂に勝えず、数年にして卒した。胤は生まれて父母を知らず、識るに及びては、蔬食哀戚すること亦た三年の喪の如くした。祖父の存亡を知らざるを以て、主を設けてこれを奉じた。是に由り知名し、仕えて司徒に至った。臣松之案ずるに、本伝に敏は家を将いて海に入ると云い、而も復た子と相失せり。未だ其の故を詳らかにせず。)

原文初平元年,度知中國擾攘,語所親吏柳毅、陽儀等曰:「漢祚將絕,當與諸卿圖王耳。」〈《魏書》曰:度語毅、儀:「讖書云孫登當為天子,太守姓公孫,字升濟,升即登也。」〉時襄平延里社生大石,長丈餘,下有三小石為之足。或謂度曰:「此漢宣帝冠石之祥,而裡名與先君同。社主土地,明當有土地,而三公為輔也。」度益喜。故河內太守李敏,郡中知名,惡度所為,恐為所害,乃將家屬入於海。度大怒,掘其父塚,剖棺焚屍,誅其宗族。〈《晉陽秋》曰:敏子追求敏,出塞,越二十餘年不娶。州里徐邈責之曰:「不孝莫大於無後,何可終身不娶乎!」乃娶妻,生子胤而遣妻,常如居喪之禮,不勝憂,數年而卒。胤生不識父母,及有識,蔬食哀戚亦如三年之喪。以祖父不知存亡,設主奉之。由是知名,仕至司徒。臣松之案:本傳云敏將家入海,而復與子相失,未詳其故。〉分遼東郡為遼西中遼郡,置太守。越海收東萊諸縣,置營州刺史。自立為遼東侯、平州牧,追封父延為建義侯。立漢二祖廟,承制設壇墠於襄平城南,郊祀天地,藉田,治兵,乘鸞路,九旒,旄頭羽騎。太祖表度為武威將軍,封永寧鄉侯,度曰:「我王遼東,何永寧也!」藏印綬武庫。度死,子康嗣位,以永寧鄉侯封弟恭。是歲建安九年也。

建安十二年、太祖(曹操)が三郡の烏丸を征討し、柳城を屠った。袁尚らは遼東に逃げたが、公孫康は袁尚を斬り、その首を送った。詳細は『武帝紀』にある。公孫康は襄平侯に封じられ、左将軍に拝された。公孫康が死ぬと、子の晃や淵らは皆幼かったため、人々は恭を立てて遼東太守とした。文帝(曹丕)が即位すると、使者を遣わして恭を即座に車騎将軍・仮節に拝し、平郭侯に封じた。また、公孫康を追贈して大司馬とした。

原文十二年,太祖征三郡烏丸,屠柳城。袁尚等奔遼東,康斬送尚首。語在〈武紀〉。封康襄平侯,拜左將軍。康死,子晃、淵等皆小,眾立恭為遼東太守。文帝踐阼,遣使即拜恭為車騎將軍、假節,封平郭侯;追贈康大司馬。

初め、公孫恭は陰消の病にかかり宦官のようになり、劣弱で国を治めることができなかった。太和二年、公孫淵は公孫恭を脅迫してその地位を奪った。明帝(曹叡)は即位すると、公孫淵を揚烈将軍・遼東太守に拝した。公孫淵は使者を南方に遣わして孫権と通じ、往来して贈り物を贈った。

原文初,恭病陰消為閹人,劣弱不能治國。太和二年,淵脅奪恭位。明帝即(位)拜淵揚烈將軍、遼東太守。淵遣使南通孫權,往來賂遺。〈《吳書》載淵表權曰:

臣は伏して考えるに、天地が反易し、無妄の運に遇い、王道が平らかでなく、傾き乱れていることに遭いました。先人以来、漢と魏に歴事し、機会に縁って、国のために節を尽くし、代々任を受け継ぎ、藩屏を守ることができましたが、なお符命がどこに帰するか知りませんでした。厚い恩に感じ、しばしば顕著な使者を辱めるたびに、退いて考えるに、人臣の交わりは境を越えないものなので、固く自らの執着を守り、以前の使者を拒み違えました。義に二つの信はありませんが、どうして大恩を忘れましょうか!陛下が鎮撫され、長く小国を存続させてくださり、前後の裴校尉、葛都尉らが到着し、勅戒を奉戴しました。聖旨はますます密で、重ねて絹や白絹を賜り、幽明の事柄が備わって著しく、申し示される事柄は、耳を提げて言うがごとくです。臣は昼は歌い吟じ、夜は夢を見、終身これを誦え、志は足ることを知りません。末世の凶荒、乾坤が塞がれ、兵革が未だ収まらず、人民が離散しています。この天命を仰ぎ、眷顧あらんことを願い、一隅に私的に従い、永く雲日を瞻仰いたします。今、魏家は忠善を採り録めず、功臣の後を褒めることなく、かえって讒言と誤りがその志を行わせ、幽州刺史や東萊太守の誑惑誤謬の言葉を聞き入れ、みだりに州兵を興し、臣の郡を害そうと図っています。臣は魏に背いていないのに、魏は臣と絶交します。聞くところによれば、人臣には去就の分があり、田饒は斉に適し、楽毅は趙に走り、主に事えることができなかったので、有道の君を保ちました。陳平や耿況もまた時変を睹て、ついに漢に帰し、帝籍に名を刻みました。伏して考えるに、陛下の徳は再び出ず、時は世に遇うことがないので、慺慺として慕い自らを納れ、遠くを望み険しきを見るも、近く易きが如くです。誠に願わくは、神謨をもって早く洪業を定め、六師の勢いを奮い起こし、河・洛の地を収め、聖代の宗とされたく、天下幸甚です。

原文臣伏惟遭天地反易,遇無妄之運;王路未夷,傾側擾攘。自先人以來,歷事漢、魏,階緣際會,為國效節,繼世享任,得守籓表,猶知符命未有攸歸。每感厚恩,頻辱顯使,退念人臣交不越境,是以固守所執,拒違前使。雖義無二信,敢忘大恩!陛下鎮撫,長存小國,前後裴校尉、葛都尉等到,奉被敕誡,聖旨彌密,重紈累素,幽明備著,所以申示之事,言提其耳。臣晝則謳吟,宵則發夢,終身誦之,志不知足。季末凶荒,乾坤否塞,兵革未戢,人民盪析。仰此天命將有眷顧,私從一隅永瞻雲日。今魏家不能採錄忠善,褒功臣之後,乃令讒訛得行其志,聽幽州刺史、東萊太守誑誤之言,猥興州兵,圖害臣郡。臣不負魏,而魏絕之。蓋聞人臣有去就之分;田饒適齊,樂毅走趙,以不得事主,故保有道之君;陳平、耿況,亦睹時變,卒歸於漢,勒名帝籍。伏惟陛下德不再出,時不世遇,是以慺慺懷慕自納,望遠視險,有如近易。誠原神謨蚤定洪業,奮六師之勢,收河、洛之地,為聖代宗。天下幸甚!

国家(魏)は公孫淵が両端(魏と呉の双方に通じる)であることを知り、遼東の吏民が公孫淵に誤らされることを恐れた。そこで公文を遼東に下し、赦免を兼ねて告げた。

原文《魏略》曰:國家知淵兩端,而恐遼東吏民為淵所誤。故公文下遼東,因赦之曰:

遼東・玄菟の将校吏民に告ぐ。逆賊孫権は乱の階梯に遭遇し、その先人の州郡劫略に因り、ついに群凶となり、自ら江表を擅にし、垢を含み疾を蔵している。教化できることを期待し、故に地を割いて孫権を王とし、南面して孤を称させ、上将の位に就け、九命の礼をもって遇した。孫権は自ら手を叉し、北に向かって稽顙した。人臣の寵を仮り、人臣の栄を受けること、孫権のようである者は未だいない。狼子の野心は、告令しても移し難く、ついに反覆に帰し、恩に背き主に叛き、天に滔き神に逆らい、乃ち敢えて号を僭称する。江湖の険阻を恃み、王誅が未だ加わらない。近年以来、また遠く船を遣わし、大海を越え渡り、多く貨物を持ち、辺民を誑惑誘引する。辺民は無知で、彼らと交易する。長吏以下、禁止しようとする者はない。ついに周賀に百艘の船を浮かべさせ、津岸に滞在させ、有無を貿易させた。疑い拒むこともせず、名馬を贈り、また宿舒を使わして周賀に随行させ通好させた。十室の邑にも、なお忠信あり、君を悪に陥れることは、春秋に書かれるところである。今、遼東・玄菟は国朝(魏)に奉事し、青綬紫綬を紆き拖く者、千百を数とし、纚を戴き纓を垂れ、皆印綬を佩びながら、曾て匡正し善を納れる言はない。亀玉が櫝の中で毀れ、虎兕が匣から出るのは、誰が過ちか。国朝は子大夫のため恥ずかしく思う。昔、狐突に言あり、『父が子に二心を教える、どうして君に事えようか。名を策し質を委ねる、二心は辟(罪)である』と。今、乃ち邪謀に阿順し、姦惑に脅従するのは、豈に独り父兄の教えが詳らかでなく、子弟の挙げる所が非を習うのみならんや。もし苗の穢が田を害し、風に随って烈火の如く、芝も艾も共に焚かれれば、どうして白く別つことができようか。かつ又、この事は固より易く見え、古の成敗を鑑みるに及ばず、書伝に載せられるところである。江南と海北には万里の限りあり、遼東の君臣には怵惕の患いなし。利は義の利とせざるところ、貴しは義の貴しとせざるところ、これは安楽の居を厭い、危亡の禍を求め、忠貞の節を賤しめ、背叛の名を重んずるものである。蛮・貊の長ですら、なお礼を愛することを知る。これをもって人に事えるは、また顔を為し難い。かつ又、宿舒は罪なく、押しのけて呉に入らせ、不義の使を奉じ、初めて家と訣別し、涕泣して行った。周賀が死んだ日に至り、覆われた衆は山を成し、宿舒は死を脱したが、魂魄は身を離れた。何の逼迫か、乃ちここに至る。今、忠臣烈将は、皆遼東の反覆携貳に憤り、皆舟に乗り海を浮かべ、期して思いのままにしようと欲している。朕は天下の父母として、天下が新たに定まったことを加えて思い、既に干戈を労働させ、遠く大川に渉り、費役をあのようにすることを欲せず、また辺陲に遺された余りの黎民が、このように迷誤することを悼む。故に郎中の衛慎、邵瑁らを遣わし、且つ先に詔の意を示させた。もし股肱の忠良が能く節を効かせ信を立てて時君を輔け、邪を反かえして正に就き大功を建てるならば、福これより大なるは莫し。もし自ら嫌疑し、既に悪逆に見染め汚され、敢えて言い倡えることなく、永く伊戚を懐くことを恐れるならば、その諸々賊の使と交通した者は、皆赦免し除き、これと更始する。

原文告遼東、玄菟將校吏民:逆賊孫權遭遇亂階,因其先人劫略州郡,遂成群凶,自擅江表,含垢藏疾。冀其可化,故割地王權,使南面稱孤,位以上將,禮以九命。權親叉手,北向稽顙。假人臣之寵,受人臣之榮,未有如權者也。狼子野心,告令難移,卒歸反覆,背恩叛主,滔天逆神,乃敢僭號。恃江湖之險阻,王誅未加。比年已來,复遠遣船,越渡大海,多持貨物,誑誘邊民。邊民無知,與之交關。長吏以下,莫肯禁止。至使周賀浮舟百艘,沈滯津岸,貿遷有無。既不疑拒,齎以名馬,又使宿舒隨賀通好。十室之邑,猶有忠信,陷君於惡,春秋所書也。今遼東、玄菟奉事國朝,紆青拖紫,以千百為數,戴纚垂纓,咸佩印綬,曾無匡正納善之言。龜玉毀於櫝,虎兕出於匣,是誰之過歟?國朝為子大夫羞之!昔狐突有言:『父教子貳,何以事君?策名委質,貳乃辟也。』今乃阿順邪謀,脅從姦惑,豈獨父兄之教不詳,子弟之舉習非而已哉!若苗穢害田,隨風烈火,芝艾俱焚,安能白別乎?且又此事固然易見,不及鑑古成敗,書傳所載也。江南海北有萬里之限,遼東君臣無怵惕之患,利則義所不利,貴則義所不貴,此為厭安樂之居,求危亡之禍,賤忠貞之節,重背叛之名。蠻、貊之長,猶知愛禮,以此事人,亦難為顏!且又宿舒無罪,擠使入吳,奉不義之使,始與家訣,涕泣而行。及至賀死之日,覆眾成山,舒雖脫死,魂魄離身。何所逼迫,乃至於此!今忠臣烈將,咸忿遼東反覆攜貳,皆欲乘桴浮海,期於肆意。朕為天下父母,加念天下新定,既不欲勞動干戈,遠涉大川,費役如彼,又悼邊陲遺餘黎民,迷誤如此,故遣郎中衛慎、邵瑁等且先奉詔示意。若股肱忠良能效節立信以輔時君,反邪就正以建大功,福莫大焉。儻恐自嫌已為惡逆所見染汙,不敢倡言,永懷伊戚。其諸與賊使交通,皆赦除之,與之更始。

孫権は使者の張彌、許晏らを遣わし、金玉珍宝を携えさせ、公孫淵を燕王に立てた。公孫淵もまた孫権が遠くて恃むに足りないことを恐れ、かつ貨物を貪り、その使者を誘き寄せ、張彌、許晏らの首を悉く斬って送った。

原文權遣使張彌、許晏等,齎金玉珍寶,立淵為燕王。淵亦恐權遠不可恃,且貪貨物,誘致其使,悉斬送彌、晏等首,〈《魏略》載淵表曰:

臣は考えますに、大兵が到来し、畏れ多くも詔書を奉じ、命を承り、前後して周賀らを斬り、功効を挙げました。聖朝は臣を信じ、優れた詔を重ねて下され、褒賞の礼は厚く、恩寵は人臣の極みに至り、白骨が更に肉を生じ、枯骨が更に栄える思いです。臣は聞きます、堯は功臣を優遇し、舜は禹を登用し、周公は管叔・蔡叔を誅戮し、光武帝は龐萌を断罪し、上位の者は明らかに功績を記録し、下位の者は死を以て節を尽くします。臣は不才ながら、敢えて昔の人の例に比し、死を以て節を守り、恩寵に報いようとします。今、呉賊の遠征軍が到来し、国境を荒らし、諸将は志を同じくし、怒りを奮い起こし、皆戦おうと欲し、勇気は百倍しています。臣は謹んで厳しい法令を執行し、進む者は賞し、退く者は斬り、知らしめて死を恐れないようにします。賊は衆多く、我が軍は寡少ですが、将兵は心を同じくし、命を軽んじ、節を重んじ、戦えば必ず勝ち、攻めれば必ず取ります。賊は疲弊し、我が軍は鋭気に満ち、士気は益々奮い立ち、勇気は益々倍加します。願わくは聖徳が広大無辺で、明らかに臣の忠誠をお察しくださり、辺境の臣が外敵を破り、国内の姦賊を清め、功効を挙げて朝廷に報いることを。臣は公孫淵、誠惶誠恐、頓首頓首、死罪死罪。

原文(段落全体)臣前遣校尉宿舒、郎中令孫綜,甘言厚禮,以誘吳賊。幸賴天道福助大魏,使此賊虜暗然迷惑,違戾群下,不從眾諫,承信臣言,遠遣船使,多將士卒,來致封拜。臣之所執,得如本志,雖憂罪釁,私懷幸甚。賊眾本號萬人,舒、綜伺察,可七八千人,到沓津。偽使者張彌、許晏與中郎將萬泰、校尉裴潛將吏兵四百餘人,齎文書命服什物,下到臣郡。泰、潛別齎致遺貨物,欲因市馬。軍將賀達、虞諮領餘眾在船所。臣本欲須涼節乃取彌等,而彌等人兵眾多,見臣不便承受吳命,意有猜疑。懼其先作,變態妄生,即進兵圍取,斬彌、晏、泰、潛等首級。其吏從兵眾,皆士伍小人,給使東西,不得自由,面縛乞降,不忍誅殺,輒聽納受,徙充邊城。別遣將韓起等率將三軍,馳行至沓。使領長史柳遠設賓主禮誘請達、諮,三軍潛伏以待其下,又驅群馬貨物,欲與交市。達、諮懷疑不下,使諸市買者五六百人下,欲交市。起等金鼓始震,鋒矢亂發,斬首三百餘級,被創赴水沒溺者可二百餘人,其散走山谷,來歸降及藏竄飢餓死者,不在數中。得銀印、銅印、兵器、資貨,不可勝數。謹遣西曹掾公孫珩奉送賊權所假臣節、印綬、符策、九錫、什物,及彌等偽節、印綬、首級。」又曰:「宿舒、孫綜前到吳,賊權問臣家內小大,舒、綜對臣有三息,脩別屬亡弟。權敢姦巧,便擅拜命。謹封送印綬、符策。臣雖無昔人洗耳之風,慚為賊權汙損所加,既行天誅,猶有餘忿。」

臣が以前に校尉の宿舒と郎中令の孫綜を派遣し、甘い言葉と厚い礼をもって呉の賊を誘い出しました。幸いにも天道が大魏を福として助け、この賊虜を暗然と迷わせ、配下の者たちに背き、多くの諫めに従わず、臣の言葉を信じて受け入れ、遠くから船の使者を派遣し、多くの兵士を率いて封爵と任命の儀式に来させました。臣が執った行動は、本来の志の通りに実現し、罪の咎めを憂えるものの、私心としては大変幸せに思います。賊の兵士は本来一万人と号していましたが、宿舒と孫綜が偵察したところ、およそ七、八千人で沓津に到着しました。偽りの使者である張弥、許晏と中郎将の万泰、校尉の裴潜が官吏と兵士四百余人を率い、文書、任命の服、什器などを携えて臣の郡に下ってきました。万泰と裴潜は別に贈り物の品々を持ち、馬の交易をしようとしていました。軍将の賀達と虞諮が残りの兵士を率いて船の場所にいました。臣は本来、涼しい季節になってから張弥らを捕らえるつもりでしたが、張弥らの兵士は多く、臣が呉の命令を受け入れるのに不便な様子を見て、疑念を抱いているようでした。彼らが先に行動を起こし、変事を起こすことを恐れ、すぐに兵を進めて包囲し、張弥、許晏、万泰、裴潜らの首級を斬りました。その従兵たちは皆、下級の兵士や小者で、東西に使役され、自由がなく、縛られて投降を乞い、誅殺するに忍びず、すぐに受け入れ、辺境の城に移住させました。別に将軍の韓起らを派遣して三軍を率いさせ、沓まで急行させました。長史の柳遠に賓主の礼を設けさせ、賀達と虞諮を誘い出し、三軍は潜伏して彼らの下船を待ち、また多くの馬と貨物を駆り立てて交易しようとしました。賀達と虞諮は疑って下船せず、交易者五、六百人を下船させて交易しようとしました。韓起らが金鼓を鳴らし始め、矢が乱れ飛ぶと、三百余りの首級を斬り、傷を負って水に飛び込み溺死した者は二百余人に及び、散り散りに山谷に逃げ、投降して来た者や隠れ潜んで餓死した者は数に含まれません。得た銀印、銅印、兵器、物資は数え切れません。謹んで西曹掾の公孫珩を遣わし、賊の孫権が臣に仮授した節、印綬、符策、九錫、什器、および張弥らの偽りの節、印綬、首級を奉送します。」

原文(段落全体)臣前遣校尉宿舒、郎中令孫綜,甘言厚禮,以誘吳賊。幸賴天道福助大魏,使此賊虜暗然迷惑,違戾群下,不從眾諫,承信臣言,遠遣船使,多將士卒,來致封拜。臣之所執,得如本志,雖憂罪釁,私懷幸甚。賊眾本號萬人,舒、綜伺察,可七八千人,到沓津。偽使者張彌、許晏與中郎將萬泰、校尉裴潛將吏兵四百餘人,齎文書命服什物,下到臣郡。泰、潛別齎致遺貨物,欲因市馬。軍將賀達、虞諮領餘眾在船所。臣本欲須涼節乃取彌等,而彌等人兵眾多,見臣不便承受吳命,意有猜疑。懼其先作,變態妄生,即進兵圍取,斬彌、晏、泰、潛等首級。其吏從兵眾,皆士伍小人,給使東西,不得自由,面縛乞降,不忍誅殺,輒聽納受,徙充邊城。別遣將韓起等率將三軍,馳行至沓。使領長史柳遠設賓主禮誘請達、諮,三軍潛伏以待其下,又驅群馬貨物,欲與交市。達、諮懷疑不下,使諸市買者五六百人下,欲交市。起等金鼓始震,鋒矢亂發,斬首三百餘級,被創赴水沒溺者可二百餘人,其散走山谷,來歸降及藏竄飢餓死者,不在數中。得銀印、銅印、兵器、資貨,不可勝數。謹遣西曹掾公孫珩奉送賊權所假臣節、印綬、符策、九錫、什物,及彌等偽節、印綬、首級。」又曰:「宿舒、孫綜前到吳,賊權問臣家內小大,舒、綜對臣有三息,脩別屬亡弟。權敢姦巧,便擅拜命。謹封送印綬、符策。臣雖無昔人洗耳之風,慚為賊權汙損所加,既行天誅,猶有餘忿。」

また言うには、「宿舒と孫綜が以前に呉に行った時、賊の孫権は臣の家族の大小を尋ね、宿舒と孫綜は臣に三人の息子がおり、脩は別に亡くなった弟に属していると答えました。孫権はあえて奸巧を働き、勝手に任命を行いました。謹んで印綬と符策を封じて送ります。臣は昔の人が耳を洗ったような風節はありませんが、賊の孫権によって汚損されたことを恥じ、天誅が行われたとはいえ、なお憤りが残っています。」

原文(段落全体)臣前遣校尉宿舒、郎中令孫綜,甘言厚禮,以誘吳賊。幸賴天道福助大魏,使此賊虜暗然迷惑,違戾群下,不從眾諫,承信臣言,遠遣船使,多將士卒,來致封拜。臣之所執,得如本志,雖憂罪釁,私懷幸甚。賊眾本號萬人,舒、綜伺察,可七八千人,到沓津。偽使者張彌、許晏與中郎將萬泰、校尉裴潛將吏兵四百餘人,齎文書命服什物,下到臣郡。泰、潛別齎致遺貨物,欲因市馬。軍將賀達、虞諮領餘眾在船所。臣本欲須涼節乃取彌等,而彌等人兵眾多,見臣不便承受吳命,意有猜疑。懼其先作,變態妄生,即進兵圍取,斬彌、晏、泰、潛等首級。其吏從兵眾,皆士伍小人,給使東西,不得自由,面縛乞降,不忍誅殺,輒聽納受,徙充邊城。別遣將韓起等率將三軍,馳行至沓。使領長史柳遠設賓主禮誘請達、諮,三軍潛伏以待其下,又驅群馬貨物,欲與交市。達、諮懷疑不下,使諸市買者五六百人下,欲交市。起等金鼓始震,鋒矢亂發,斬首三百餘級,被創赴水沒溺者可二百餘人,其散走山谷,來歸降及藏竄飢餓死者,不在數中。得銀印、銅印、兵器、資貨,不可勝數。謹遣西曹掾公孫珩奉送賊權所假臣節、印綬、符策、九錫、什物,及彌等偽節、印綬、首級。」又曰:「宿舒、孫綜前到吳,賊權問臣家內小大,舒、綜對臣有三息,脩別屬亡弟。權敢姦巧,便擅拜命。謹封送印綬、符策。臣雖無昔人洗耳之風,慚為賊權汙損所加,既行天誅,猶有餘忿。」

また言うには、「臣の父の康は、かつて孫権の使者を殺し、仇敵の関係となりました。今になって孫権は欺瞞を用い、使者を派遣して誘い出し、孫権に心を傾けさせ、国を空しくし禄を尽くして、遠くから上卿を命じ、極位を寵授し、南方を震動させ、礼数を尽くさせました。また孫権は宿舒と孫綜を待遇し、委曲を契り、君臣上下、歓びと情を尽くしました。それなのに四人の使者を殺害され、首を万里の彼方に晒され、兵士たちは離散し、津渚で屠戮され、恥辱が遠くまで広まり、痛みと辱めは天に満ちています。孫権の怨みと憎しみは、肌骨に刻まれるでしょう。もし天がその業を衰えさせ、滅亡に至らせれば、孫権は内傷して憤激し死ぬでしょう。もし運命がまだ尽きず、毒を撒き散らすならば、必ずや長蛇が来て寇害となることを恐れます。徐州の諸屯および城陽の諸郡は、これに接近しており、もし船団が来年海門に向かうようなことがあれば、その消息を得次第、速やかに臣に告げてください。そうすれば備えをすることができます。」

原文又曰:「臣父康,昔殺權使,結為讎隙。今乃譎欺,遺使誘致,令權傾心,虛國竭祿,遠命上卿,寵授極位,震動南土,備盡禮數。又權待舒、綜,契委曲,君臣上下,畢歡竭情。而令四使見殺,梟示萬里,士眾流離,屠戮津渚,慚恥遠布,痛辱彌天。權之怨疾,將刻肌骨。若天衰其業,使至喪隕,權將內傷憤激而死。若期運未訖,將播毒螫,必恐長虵來為寇害。徐州諸屯及城陽諸郡,與相接近,如有船眾後年向海門,得其消息,乞速告臣,使得備豫。」

また言うには、「臣の家門は恩を受けており、実に深く重いものです。臣が職務を引き継いで以来、連続して栄寵を受け、特別で計り知れないものであり、身分に応じて倒れ、力を尽くして死ぬべきです。しかし臣は狂愚で、考えが迷い暗く、すぐに賊を捕らえず、疑われるに至りました。前の章表に述べた心情と事態は、実はただこの賊を疲弊させ、自滅させることを望んだだけで、誠に累世の恩に背き、僭称した盗賊の虜に附くつもりはありませんでした。しかしその後、愛憎のある人々が、事に乗じて誣告を加え、偽りの節目を作り出し、ついに明らかな聴聞を市の虎について疑わせ、恩を移し愛を改め、威怒を起こさせ、ほとんど沈没し、長く負い目となるところでした。幸いにも慈恩に頼り、なお三度の赦しを垂れ、過ちを補い、罪責を解除することができました。もし天威が遠く加わり、寛大に見てくださらなければ、早くに糜砕され、祖先を辱め祀りを廃され、どうして自らを明らかにし、微かな功績を立てることができたでしょうか。臣は事が成功したことを喜び、自ら伸びることができた一方で、過去のことを悲しみ、このような変事に至り、残った恐怖が躍動し、まだ安んじることができません。ただ陛下が既に春の日のような生かす仁を尊び、憤りを除き隙間を塞ぎ、わずかなことを抑え止め、今を推し量り過去を明らかにし、臣の本心を察し、長く抱き戴き、三泉の下まで分を噛みしめることができるようにしてください。」

原文又曰:「臣門戶受恩,實深實重,自臣承攝即事以來,連被榮寵,殊特無量,分當隕越,竭力致死。而臣狂愚,意計迷闇,不即禽賊,以至見疑。前章表所陳情趣事勢,實但欲罷弊此賊,使困自絕,誠不敢背累世之恩,附僭盜之虜也。而後愛憎之人,緣事加誣,偽生節目,卒令明聽疑於市虎,移恩改愛,興動威怒,幾至沈沒,長為負忝。幸賴慈恩,猶垂三宥,使得補過,解除愆責。如天威遠加,不見假借,早當麋碎,辱先廢祀,何緣自明,建微功。臣既喜於事捷,得自申展,悲於疇昔,至此變故,餘怖踴躍,未敢便寧。唯陛下既崇春日生全之仁,除忿塞隙,抑弭纖介,推今亮往,察臣本心,長令抱戴,銜分三泉。」

また言うには、「臣は光栄に包まれ、恩情に報いていないのに、罪の咎めによって自ら譴責と怒りを招き、身分に応じて即座に誅殺され、衆人の戒めとされるべきです。それなのに越権し常軌を逸し、偽って呉に通じたのは、誠に窮迫を思い、報効がまだ立てられていないのに、天威の督罰が加わり、いつか突然自らを洗い清めることができなくなることを長く恐れたからです。故にあえて一年間自ら職を廃し、使者を派遣して呉を誘い、必ず来ることを知りました。孫権が郡を求めることは、長年にわたって積み重ねられ、初めは一言の応答もありませんでした。今孫権が使者を得て、来ることを必ず疑わないでしょう。この一挙で、果たして計画通り、上卿と大軍が盛大に集まり、財貨と贈り物は国を傾け極位に至り、捕らえられ、離散し死亡した者は千余人に及び、滅びて戻りません。これは誠に暴虐な賊の鋒を暴き、誇り高ぶった巧みさを打ち砕き、天下に明示し、その業を破損し、十分に恥じ入らせるものです。臣の誠実な思いで国に報效しようとする念は、非常に大きな過ちがある一方で、非常に大きな功績もあります。どうか陛下がその過度な過ちを許し、その毫毛ほどの善を採り上げ、国恩を得させ、終始を全うさせてください。」

原文又曰:「臣被服光榮,恩情未報,而以罪釁,自招譴怒,分當即戮,為眾社戒。所以越典詭常,偽通於吳,誠自念窮迫,報效未立,而為天威督罰所加,長恐奄忽不得自洗。故敢自闕替廢於一年,遣使誘吳,知其必來,權之求郡,積有年歲,初無倡答一言之應,今權得使,來必不疑,至此一舉,果如所規,上卿大眾,翕赫豐盛,財貨賂遺,傾國極位,到見禽取,流離死亡,千有餘人,滅絕不反。此誠暴猾賊之鋒,摧矜誇之巧,昭示天下,破損其業,足以慚之矣。臣之慺慺念效於國,雖有非常之過,亦有非常之功,原陛下原其逾闕之愆,採其亳毛之善,使得國恩,保全終始矣。

明帝はそこで公孫淵を大司馬に任命し、楽浪公に封じ、節を持ち、郡を領することを従来通りとした。(『魏名臣奏』に中領軍の夏侯献の上表が載せられている。それによると、公孫淵はかつて王命に背き、貢ぎ物を絶ったが、それは実際に二心を抱いていたからである。険阻な地の守りに頼り、さらに孫権を頼みとしていた。それゆえ海外で勝手放題に振る舞った。宿舒は賊の孫権の軍勢や府庫を直接見て、その弱少で頼りにならないことを知り、それゆえ決意して賊の使者を斬った。また高句麗・濊貊は淵と仇敵で、ともに寇掠を働いている。今、外には呉の援けを失い、内には胡の寇があり、国家が陸路から来られることを心に知っているので、勢いとして恐れ惧れる心を抱かざるを得ない。この時に乗じて、使者を派遣して禍福を示すべきである。奉車都尉の鬷弘は、武皇帝の時に初めて使命を奉じ、道路を開通した。文皇帝が即位すると、使命を通じようとして、弘に妻子を連れて郷里に帰らせ、車・牛・絹百匹を賜った。弘は恩を受けたので、国朝のために死ぬまで仕え、帰る意志はなく、妻子を留め置き、自らは使命を奉じることを乞うた。公孫康はついに臣妾と称した。弘が使命を奉じて意にかなったので、関内侯の爵を賜った。弘は性格が果敢で烈しく、心を国に向け、日夜努め励み、自ら力を尽くそうと考えている。冠族の子孫で、若い頃から学問を好み、書記に博通し、多くに関わり、口論は速やかで、弁舌は俗ならず、典誥に依拠し、胸から出るかのようであり、さらに本郡に仕えて、常に人々の上にあり、彼の地の士人はかねてから敬服している。もし使者を派遣するなら、弘に行わせることができよう。弘はもとより旧土の者で、その国の風俗に習熟し、利害を説けば、弁舌はその意を動かすに足り、明察はその事を見るに足り、才能はそれを行うに足り、言辞は信を得るに足りる。もしその計が用いられれば、酈生が斉王を降したことや、陸賈が尉佗を説いたことでも、遠くこれに勝ることはないであろう。遠路に進もうとするなら、駿馬を捨てるべきではない。重い病を癒そうとするなら、扁鵲を退けるべきではない。どうか愚言をお察しください。)

原文明帝於是拜淵大司馬,封樂浪公,持節、領郡如故。〈《魏名臣奏》載中領軍夏侯獻表曰:「公孫淵昔年敢違王命,廢絕計貢者,實挾兩端。既恃阻險,又怙孫權。故敢跋扈,恣睢海外。宿舒親見賊權軍眾府庫,知其弱少不足憑恃,是以決計斬賊之使。又高句麗、濊貊與淵為仇,並為寇鈔。今外失吳援,內有胡寇,心知國家能從陸道,勢不得不懷惶懼之心。因斯之時,宜遣使示以禍福。奉車都尉鬷弘,武皇帝時始奉使命,開通道路。文皇帝即位,欲通使命,遣弘將妻子還歸鄉里,賜其車、牛,絹百匹。弘以受恩,歸死國朝,無有還意,乞留妻子,身奉使命。公孫康遂稱臣妾。以弘奉使稱意,賜爵關內侯。弘性果烈,乃心於國,夙夜拳拳,念自竭效。冠族子孫,少好學問,博通書記,多所關涉,口論速捷,辯而不俗,附依典誥,若出胸臆,加仕本郡,常在人右,彼方士人素所敬服。若當遣使,以為可使弘行。弘乃自舊土,習其國俗,為說利害,辯足以動其意,明足以見其事,才足以行之,辭足以見信。若其計從,雖酈生之降齊王,陸賈之說尉佗,亦無以遠過也。欲進遠路,不宜釋騏驥;將已篤疾,不宜廢扁鵲。原察愚言也。」〉

使者が到着すると、公孫淵は武装兵を軍陣として配置し、使者に会いに出た。また、たびたび国中の賓客に対して悪口を言った。〈『呉書』によると、魏は使者の傅容と聶夔を派遣し、公孫淵を楽浪公に任命した。公孫淵の計吏が洛陽から戻り、公孫淵に言った。「使者の左駿伯は、使者全員を勇力ある者から選んでおり、普通の人ではありません。」公孫淵はこれにより疑念と恐怖を抱いた。傅容と聶夔が到着し、学館に滞在した。公孫淵はまず歩兵と騎兵で彼らを包囲し、それから任命を受けるために中に入った。傅容と聶夔は大いに恐れ、これにより洛陽に戻って状況を報告した。〉景初元年、ついに幽州刺史の毌丘倹らに璽書を持たせて公孫淵を召還させた。公孫淵は兵を起こし、遼隧で迎え撃ち、毌丘倹らと戦った。毌丘倹らは不利となり撤退した。公孫淵はついに自立して燕王を称し、百官や役所を設置した。使者に節を持たせ、鮮卑の単于の璽を仮に授け、辺境の民を封じ任命し、鮮卑を誘い呼び寄せ、北方を侵擾させた。〈『魏書』によると、公孫淵はこの変事が毌丘倹だけの仕業ではないと知り、防備を整えた。呉に使者を送って謝罪し、自ら燕王を称し、同盟国となることを求めた。しかしなお、配下の官吏に命じて魏に対して自らの正当性を訴える上書をさせた。

原文使者至,淵設甲兵為軍陳,出見使者,又數對國中賓客出惡言。〈《吳書》曰:魏遣使者傅容、聶夔拜淵為樂浪公。淵計吏從洛陽還,語淵曰:「使者左駿伯,使皆擇勇力者,非凡人也。」淵由是疑怖。容、夔至,住學館中。淵先以步騎圍之,乃入受拜。容、夔大怖,由是還洛言狀。〉景初元年,乃遣幽州刺史毌丘儉等齎璽書徵淵。淵遂發兵,逆於遼隧,與儉等戰。儉等不利而還。淵遂自立為燕王,置百官有司。遣使者持節,假鮮卑單于璽,封拜邊民,誘呼鮮卑,侵擾北方。〈《魏書》曰:淵知此變非獨出儉,遂為備。遣使謝吳,自稱燕王,求為與國。然猶令官屬上書自直於魏曰:

大司馬長史の臣下郭昕、参軍の臣下柳浦ら七百八十九人が申し上げます。今年七月己卯の詔書を拝受し、謹んで拝読いたしましたが、その懇切な内容に魂が震え、身命をどこに投げ出せばよいのか分かりません。郭昕らはひそかに自らを省みますと、蟻のような卑しい者どもで、時勢に役立つ器量もなく、千年に一度の機会に巡り合い、公孫淵の祖父以来の光明の徳を受け、恵みの潤沢な恩沢に浴し、栄華を潤してきましたが、寸尺の功績もなく、身分不相応な地位にあるという累いを負っております。それにもかかわらず褒賞を受け、名を天府に登録され、ともに駑馬の身でありながら龍や駿馬に付き従い、青色や紫色の綬を帯び、雲の梯を飛び昇り、恩に感じて報いることだけを考え、死をも選り好みしません。臣下らは聞きます。明君が上にいらっしゃれば、政治を聴き言葉を採り上げ、人臣が下にいれば、隠し事をしてはならないと。それゆえに機会を得て訴え、あえて冤罪を申し立てる次第です。遼東郡は辺境にあり、束縛されない勢力に近接しており、平素から三州の物資を転送し、費用を調達して賞賜に供し、歳費は累億に及び、中国を空しく消耗させております。それでもなお、彼らは跋扈し、辺境を荒らし、烽火は相望み、羽檄は次々と届き、城門は昼間でも閉ざされ、路上には人影がなく、州郡の兵士は逃げ散り、壊滅しております。公孫淵の祖父の公孫度が初めてこの郡に臨んだ時、荒廃した土地を受け継ぎ、日月の光を開き、神武の謀略を立て、烏合の民を集め、土地を掃いて生業とし、威光は異俗に輝き、徳沢は民衆に及びました。遼東の地が崩壊しなかったのは、実に公孫度のおかげです。孔子は言われました。『管仲がいなかったら、我々は髪を振り乱し左前に衣を着ていただろう。』もし公孫度に巡り合わなかったならば、郡は早くから廃墟となり、民は虜の朝廷に縛られていたでしょう。残された風教と余った慈愛は、永遠に朽ちることなく存続しております。公孫度が薨去されると、官吏と民は感慕し、喜んで子の公孫康を戴き、尊んで奉りました。公孫康は大業を受け継ぎ、立派な計画を成し遂げ、文は明らかに武は烈しく、徳を広め仁を施されました。心は朝廷に向け、謹んで恭しく、国を助けて乱を平定し、数々の功績を挙げ、功業は大きく事績は重要で、勲功は王府に蔵せられました。公孫度と公孫康は、武皇帝(曹操)の聖明な世に値し、名を記録する計画に合致し、漢室を補佐し、身を低くして質を委ね、己を卑下して魏に仕えました。小を嫌って大に就いたのではなく、恐れて服従したのでもなく、高い風格を慕い、盛んな美徳を懐き仰いだからです。武皇帝もまた虚心に受け入れ、破格の待遇で遇し、功績の大小にかかわらず、常に忘れられることはありませんでした。

原文大司馬長史臣郭昕、參軍臣柳浦等七百八十九人言:奉被今年七月己卯詔書,伏讀懇切,精魄散越,不知身命所當投措!昕等伏自惟省,螻蟻小丑,器非時用,遭值千載,被受公孫淵祖考以來光明之德,惠澤沾渥,滋潤榮華,無寸尺之功,有負乘之累;遂蒙褒獎,登名天府,並以駑蹇附龍託驥,紆青拖紫,飛騰雲梯,感恩惟報,死不擇地。臣等聞明君在上,聽政採言,人臣在下,得無隱情,是以因緣訴讓,冒犯愬冤。郡在籓表,密邇不羈,平昔三州,轉輸費調,以供賞賜,歲用累億,虛耗中國。然猶跋扈,虔劉邊陲,烽火相望,羽檄相逮,城門晝閉,路無行人,州郡兵戈,奔散覆沒。淵祖父度初來臨郡,承受荒殘,開日月之光,建神武之略,聚烏合之民,掃地為業,威震燿於殊俗,德澤被於群生。遼土之不壞,實度是賴。孔子曰:『微管仲,吾其被髮左衽。』向不遭度,則郡早為丘墟,而民系於虜廷矣。遺風餘愛,永存不朽。度既薨殂,吏民感慕,欣戴子康,尊而奉之。康踐統洪緒,克壯徽猷,文昭武烈,邁德種仁;乃心京輦,翼翼虔恭,佐國平亂,效績紛紜,功隆事大,勳藏王府。度、康當值武皇帝休明之會,合策名之計,夾輔漢室,降身委質,卑己事魏。匪處小厭大,畏而服焉,乃慕託高風,懷仰盛懿也。武皇帝亦虛心接納,待以不次,功無鉅細,每不見忘。

また命じて言われました。『海北の土地を割いてそなたに与える。代々の子孫が、実にこれを所有するのだ。』皇天后土は、まさにこの徳のある言葉をお聞きになりました。臣下から庶民まで、大小を問わず、その風下に預かり、これに従って行動し、敢えて失墜させませんでした。公孫淵は生まれながらに蘭や石のような気品を持ち、幼少時から温和で思いやりのある教訓を含み、文にも武にも優れ、忠実で慈恵があり、かつ正直でした。民衆は敬愛し、誰もが慕い愛さない者はおりません。公孫淵は祖父の事業を受け継ぎ、万民に君臨し、礼をもって国を治め、善い教化が広まり、独自の先見の明を持ち、遠方をも網羅し結びつけ、王室に尽力する大義を、険しい所を平らかな所のように見なし、代々忠誠を明らかにし、その名声を損なうことはありませんでした。孫権はその義を慕い、万里の遠さを厭わず、連年使者を派遣し、自ら結んで援助を得ようとしましたが、拒絶され殺害されても、古い怨みを思わず、細やかな往来を続け、恩寵と友好を結ぼうと求めました。公孫淵は節操をますます固く守り、利益のために心を動かさず、志を石のように固く守り、確かにますます堅固でした。それでもなお、真心が明らかにされ保証されていないことを恐れ、謙虚な言葉と厚い贈り物で、孫権の使者を誘い出し、その首を斬って献上し、二心のないことを示しました。呉は遠方にありますが、水路が通じて便利で、帆を揚げればすぐに到着し、隔てるものはありません。公孫淵は敵の深い恨みを顧みず、人臣としての節を存念し、強力な呉との友好を断ち、魏に仕える心を明らかにし、神霊が明らかにご覧になり、天下に広く知れ渡りました。陛下はその偉大な功績を称え美とし、この武功を褒め称え、盛大な善い命令を下され、寵愛は斉や魯に次ぎ、陪臣に至るまで、広く大きな福を受けました。まさに天が覆うような恩恵は、終始一貫して尽きることがなく、股肱の臣として力を尽くし、永遠に禄と地位を保つことができると思っておりました。思いがけず一朝にして、理不尽な残酷な目に遭うとは。養育の厚さを思い、積み重ねてきた功績を念じ、悲しい思いが成就せず、痛切に見捨てられ、国中が号泣し、胸を叩いて血の涙を流しております。三軍が討伐するのは、蛮夷戎狄が驕り高ぶって恭順せず、それゆえに武力を用いるのであり、義のある国が逆に誅討を受けるとは聞いたことがありません。そもそも聖王の制度では、五服の領域内で職務を果たさない者がいれば、まず文徳を修め、それでも従わなければ、その後で征伐するのです。公孫淵は小心翼翼として、職位を謹んで恭しく守り、勤勉に事に当たり上に奉り、努めていると言えるでしょう。忠節を尽くしたのに、かえって災禍に遭いました。『小弁』の詩が作られ、『離騷』が興ったのも、皆このようなことからです。たとえ佞邪な者がいて、盗人の言葉がとても甘くても、なお清らかな目でご覧になり、憎んでも善を知り、讒言や巧みな言葉が正直そうに見え、聖なる聴覚を惑わし乱しても、なお文書による通告を望み、その理由を知らしめるべきです。もし本当に罪があるなら、三度の赦しが下るべきであり、もし改悟しなければ、功績を計算して減刑し、八議の対象とすべきです。しかし、密かに軍を潜ませて襲撃し、大軍が突然到来し、戈を振るって長駆し、遼東の地を衝撃しました。犬や馬でさえ死を嫌うのに、まして人間においておや。官吏と民は死を冒し、王師を挫き辱しめました。

原文又命之曰:『海北土地,割以付君,世世子孫,實得有之。』皇天后土,實聞德音。臣庶小大,豫在下風,奉以周旋,不敢失墜。淵生有蘭石之姿,少含愷悌之訓,允文允武,忠惠且直;生民欽仰,莫弗懷愛。淵纂戎祖考,君臨萬民,為國以禮,淑化流行,獨見先睹,羅結遐方,勤王之義,視險如夷,世載忠亮,不隕厥名。孫權慕義,不遠萬里,連年遣使,欲自結援,雖見絕殺,不念舊怨,纖纖往來,求成恩好。淵執節彌固,不為利回,守志匪石,確乎彌堅。猶懼丹心未見保明,乃卑辭厚幣,誘致權使,梟截獻馘,以示無二。吳雖在遠,水道通利,舉帆便至,無所隔限。淵不顧敵讎之深,念存人臣之節,絕強吳之歡,昭事魏之心,靈祇明鑑,普天咸聞。陛下嘉美洪烈,懿茲武功,誕錫休命,寵亞齊、魯,下及陪臣,普受介福。誠以天覆之恩,當卒終始,得竭股肱,永保祿位,不虞一旦,橫被殘酷。惟育養之厚,念積累之效,悲思不遂,痛切見棄,舉國號咷,拊膺泣血。夫三軍所伐,蠻夷戎狄,驕逸不虔,於是致武,不聞義國反受誅討。蓋聖王之制,五服之域,有不供職,則脩文德,而又不至,然後征伐。淵小心翼翼,恪恭於位,勤事奉上,可謂勉矣。盡忠竭節,還被患禍。小弁之作,離騷之興,皆由此也。就或佞邪,盜言孔甘,猶當清覽,憎而知善;讒巧似直,惑亂聖聽,尚望文告,使知所由。若信有罪,當垂三宥;若不改寤,計功減降,當在八議。而潛軍伺襲,大兵奄至,舞戈長驅,衝擊遼土。犬馬惡死,況於人類!吏民昧死,挫辱王師。

公孫淵は冤罪を被っていましたが、今まさに危険に臨みながらも、なお聖恩を頼りに、茫然として再び逃げ出そうとし、きっと奸臣が詔を偽り、妄りに威虐をふるったのだろうと期待し、臣下らに言いました。『漢の安帝の建光元年、遼東属国都尉の龐奮が、三月乙未の詔書を受け、幽州刺史の馮煥と玄菟太守の姚光を逮捕せよとのことだった。調べてみると乙未の詔書はなく、侍御史を幽州に派遣して(牧を)奸臣の詔書偽造者を糾明させた。今の刺史はもしかすると誤って偽詔を承けたのではないか?』臣下らは議論し、刺史が兵を起こして天下を揺るがすのは、偽詔によるものではなく、必ず詔命によるものだと考えました。公孫淵はようやくうつむいたり仰いだりして嘆息し、自ら無実を傷みました。深く土地が人を養う所以を思い、ひそかに古公亶父が杖を執って岐山に行った故事を慕い、冠を投げ紱を解き、山林に去ろうとしました。臣下らはこれを押しとどめ、死をもって誓い、府門を屯守し、その決意を聞き入れませんでした。しかし、七営の勇猛な兵士と五部の蛮夷は、それぞれ腹一杯の思いを抱き、心を合わせようと謀らず、腕を奮って大声で叫び、門を押しのけて逃げ出しました。近郊の農民は、鋤や鍬を放り出し、薪を伐って棍棒を作り、机を盾に変え、難に赴くために駆けつけ、軍旅がたちまち形成され、湯火を踏むような危険にあっても、死を顧みず生を顧みませんでした。公孫淵は見捨てられ孤立していると知りながらも、怨んでも怒らず、次々に軍に命令を出し、侵犯してはならないとし、また自筆の書状で告げ諭し、懇切で誠意に満ちていました。しかし、官吏と兵士は凶暴で、解散させることができず、命をかけることを期し、死地に投じても後悔しませんでした。公孫淵は官吏と兵士が命令に従わないことを恐れ、自ら馬を走らせ、自ら出向いて説得し、やっとのことで止めさせました。一飯の恵みにも、匹夫は命をかけるものです。ましてや公孫淵は代々にわたり百姓と信義を結び、恩恵は民心に刻み込まれております。先帝(曹丕)が初めて興隆されて以来、陛下に至るまで、公孫淵の代々の栄誉、豊かな功績と美徳は、名を記録して褒め称えられ、朝廷で明らかに弁えられ、衣服を着て靴を履く者も、明らかな文を誦詠し、口実としております。埋めてまた掘り起こすのは、古人が恥じたことです。小白(桓公)や重耳(文公)のような、衰世の諸侯でさえ、なお信義を重んじて慕い、覇業を隆盛させました。『詩経』は文王が万邦に信義を施したことを称え、『論語』は仲尼が食を去って信を存したことを称えています。信という徳は、まことに大きいものです。

原文淵雖冤枉,方臨危殆,猶恃聖恩,悵然重奔,冀必奸臣矯制,妄肆威虐,乃謂臣等曰:『漢安帝建光元年,遼東屬國都尉龐奮,受三月乙未詔書,曰收幽州刺史馮煥、玄菟太守姚光。推案無乙未詔書,遣侍御史幽州(牧)考奸臣矯制者。今刺史或儻謬承矯制乎?』臣等議:以為刺史興兵,搖動天下,殆非矯制,必是詔命。淵乃俯仰嘆息,自傷無罪。深惟土地所以養人,竊慕古公杖策之岐,乃欲投冠釋紱,逝歸林麓。臣等維持,誓之以死,屯守府門,不聽所執。而七營虎士,五部蠻夷,各懷素飽,不謀同心,奮臂大呼,排門遁出。近郊農民,釋其耨鎛,伐薪制梃,改案為櫓,奔馳赴難,軍旅行成,雖蹈湯火,死不顧生。淵雖見孤棄,怨而不怒,比遣敕軍,勿得乾犯,及手書告語,懇惻至誠。而吏士凶悍,不可解散,期於畢命,投死無悔。淵懼吏士不從教令,乃躬馳騖,自往化解,僅乃止之。一飯之惠,匹夫所死,況淵累葉信結百姓,恩著民心。自先帝初興,爰暨陛下,榮淵累葉,豐功懿德,策名褒揚,辯著廊廟,勝衣舉履,誦詠明文,以為口實。埋而掘之,古人所恥。小白、重耳,衰世諸侯,猶慕著信,以隆霸業。《詩》美文王作孚萬邦,《論語》稱仲尼去食存信;信之為德,固亦大矣。

今、呉と蜀しょくが共に帝を称え、鼎の足のように並び立っており、天下は揺れ動き、統一するものがない。臣らは常に陛下がこの危険な状況を恐れられることを心配している。公孫淵は堅固な金城を拠点とし、和やかでまとまった民衆を頼りにし、国は豊かで兵は強く、横行することができる。名を記して身を委ね、善き道を守って死ぬまで忠義を尽くし、九州の模範となっている。今、二つの敵国が隙をうかがっており、どちらが決着するか分からない。これを警戒せずに公孫淵を害することは、柔らかいものを飲み込み硬いものを吐き出すようなもので、王者の道ではない。臣らは卑しい者ではあるが、誠にこれを恥じる。もし天がなければ、臣ら一郡の吉凶さえまだ分からない。もし天があるというなら、何を恐れることがあろうか。臣らは聞く、家に仕える者は二代目になると主とし、三代目になると君とする、と。臣らは辺境の地に生まれ、貧しい家の出身であり、魏に対して大きな後ろ盾はなく、代々公孫氏に隷属してきた。生を受けた恩と賜り物に報いるのは、命を懸けて力を尽くすことにある。昔、蒯通は率直に言ったが、漢の高祖は彼の誅殺を赦した。鄭詹の言葉は道理に適っていたので、晋の文公は彼の死罪を許した。臣らは頑迷愚かで、大義を理解しておらず、ただ一介の者として、肝胆を披瀝し、竜の逆鱗に触れる言葉を申し上げ、罪は万死に値する。ただ陛下が広く包容して養育され、臣らの訴えを理解され、遠く離れた臣らを永遠に守り支えてくださることを願う。

原文今吳、蜀共帝,鼎足而居,天下搖盪,無所統一,臣等每為陛下懼此危心。淵據金城之固,仗和睦之民,國殷兵強,可以橫行。策名委質,守死善道,忠至義盡,為九州表。方今二敵闚𨵦,未知孰定,是之不戒,而淵是害。茹柔吐剛,非王者之道也。臣等雖鄙,誠竊恥之。若無天乎,臣一郡吉凶,尚未可知;若云有天,亦何懼焉!臣等聞仕於家者,二世則主之,三世則君之。臣等生於荒裔之土,出於圭竇之中,無大援於魏,世隸於公孫氏,報生與賜,在於死力。昔蒯通言直,漢祖赦其誅;鄭詹辭順,晉文原其死。臣等頑愚,不達大節,苟執一介,披露肝膽,言逆龍鱗,罪當萬死。惟陛下恢崇撫育,亮其控告,使疏遠之臣,永有保持。

〉

原文〉

二年の春、太尉司馬宣王(司馬懿)を派遣して公孫淵を征討させた。六月、軍は遼東に到着した。〈《漢晉春秋》によると、公孫淵は自立して紹漢元年と称した。魏が討伐に来ると聞き、再び呉に臣従を称し、兵を乞い北伐して自らを救おうとした。呉人はその使者を殺そうとしたが、羊衜が言った。「いけません。これは一介の者の怒りを爆発させて覇王の計略を捨てるようなものです。むしろこの機会に厚遇し、奇兵を密かに派遣してその成功を求めさせるのがよいでしょう。もし魏が淵を討伐できず、我が軍が遠征すれば、それは遠方の夷狄に恩を結び、義は万里を覆うことになります。もし戦いが続いて終わらず、前後が分断されれば、我々はその傍らの郡を虜にし、略奪して帰還し、それでも天の罰を下し、かつての出来事に報復するには十分です。」孫権は「よかろう」と言った。そこで大軍を率いて出撃させ、淵の使者に言った。「後の知らせを待ってほしい。簡牘の文書に従い、必ず弟と休戚を共にし、存亡をともにしよう。たとえ中原で滅びようとも、私は本望である。」また言った。「司馬懿は向かうところ敵なく、深く弟を憂えている。」〉公孫淵は将軍の卑衍、楊祚らに歩兵と騎兵数万を率いさせて遼隧に駐屯させ、囲いの塹壕を二十余里にわたって築かせた。宣王の軍が到着すると、卑衍に迎撃を命じた。宣王は将軍の胡遵らを派遣してこれを撃破した。宣王は軍に命じて包囲網を突破させ、兵を南東方向に進めさせ、急に北東に向きを変え、すぐに襄平へ向かわせた。卑衍らは襄平が守られていないことを恐れ、夜逃げした。諸軍は首山に進み、淵は再び卑衍らを派遣して軍を迎え撃たせ、決死の戦いをさせた。再び攻撃し、大破した。そこで進軍して城下に迫り、包囲の塹壕を築いた。ちょうど三十日以上も長雨が続き、遼水が急激に増水し、輸送船が遼河口から直接城下まで来られるようになった。雨が上がると、土山を築き、櫓を修築し、発石車や連弩を設置して城中を射た。淵は窮地に陥った。食糧が尽き、人々が共食いし、死者が非常に多かった。将軍の楊祚らが降伏した。八月丙寅の夜、大きな流星が数十丈の長さで、首山の東北から襄平城の東南に墜落した。壬午、淵の軍勢は崩壊し、その子の脩とともに数百騎で包囲を突破し東南へ逃走したが、大軍が急襲し、流星が墜落した場所で淵父子を斬った。城は陥落し、相国以下の首級を数千も斬り、淵の首を洛陽に伝送した。遼東、帯方、楽浪、玄菟はすべて平定された。

原文二年春,遣太尉司馬宣王徵淵。六月,軍至遼東。〈《漢晉春秋》曰:公孫淵自立,稱紹漢元年。聞魏人將討,復稱臣於吳,乞兵北伐以自救。吳人欲戮其使,羊衜曰:「不可,是肆匹夫之怒而捐霸王之計也。不如因而厚之,遣奇兵潛往以要其成。若魏伐淵不克,而我軍遠赴,是恩結遐夷,義蓋萬里,若兵連不解,首尾離隔,則我虜其傍郡,驅略而歸,亦足以致天之罰,報雪曩事矣。」權曰:「善」。乃勒兵大出。謂淵使曰:「請俟後問,當從簡書,必與弟同休戚,共存亡,雖隕於中原,吾所甘心也。」又曰:「司馬懿所向無前,深為弟憂也。」〉淵遣將軍卑衍、楊祚等步騎數万屯遼隧,圍塹二十餘里。宣王軍至,令衍逆戰。宣王遣將軍胡遵等擊破之。宣王令軍穿圍,引兵東南向,而急東北,即趨襄平。衍等恐襄平無守,夜走。諸軍進至首山,淵復遣衍等迎軍殊死戰。复擊,大破之,遂進軍造城下,為圍塹。會霖雨三十餘日,遼水暴長,運船自遼口徑至城下。雨霽,起土山、脩櫓,為發石連弩射城中。淵窘急。糧盡,人相食,死者甚多。將軍楊祚等降。八月丙寅夜,大流星長數十丈,從首山東北墜襄平城東南。壬午,淵眾潰,與其子脩將數百騎突圍東南走,大兵急擊之,當流星所墜處,斬淵父子。城破,斬相國以下首級以千數,傳淵首洛陽,遼東、帶方、樂浪、玄菟悉平。

初め、公孫淵の家ではたびたび怪異が起こった。犬が冠や幘をかぶり赤い衣を着て屋根に上り、かまどで蒸した飯の中に小児が蒸し死んでいた。襄平の北の市場に肉が生じ、長さと囲みがそれぞれ数尺で、頭と目と口ばしがあり、手足はないのに揺れ動いた。占いでは言った。「形があっても完成せず、体があっても声がなく、その国は滅亡する。」公孫度が中平六年に遼東を占拠し始め、淵の代まで三代、合わせて五十年で滅んだ。〈《魏略》によると、初め淵の兄の晃は公孫恭の任子として洛陽にいた。淵が恭から位を奪ったと聞き、淵は結局保てないと考え、たびたび上表して報告し、国家に淵を討伐させるよう望んだ。皇帝は淵がすでに権力を握っていたので、それに乗じて彼を慰撫した。淵が反逆すると、遂に国法によって晃を拘束した。晃は以前に警告していたが、罪に問われないことを期待していた。しかし肉親として、淵が滅べば自分も巻き添えになることを知っていた。淵の首が届くと、晃は自分が必ず死ぬと覚悟し、その子と向かい合って泣いた。当時、上(皇帝)もまた彼を生かそうとしたが、役人が許さないと考え、遂に彼を殺した。〉

原文初,淵家數有怪,犬冠幘絳衣上屋,炊有小兒蒸死甑中。襄平北巿生肉,長圍各數尺,有頭目口喙,無手足而動搖。占曰:「有形不成,有體無聲,其國滅亡。」始度以中平六年據遼東,至淵三世,凡五十年而滅。〈《魏略》曰:始淵兄晃為恭任子,在洛,聞淵劫奪恭位,謂淵終不可保,數自表聞,欲令國家討淵。帝以淵已秉權,故因而撫之。及淵叛,遂以國法系晃。晃雖有前言,冀不坐,然內以骨肉,知淵破則己從及。淵首到,晃自審必死,與其子相對啼哭。時上亦欲活之,而有司以為不可,遂殺之。〉

張燕は常山国真定県の人で、本来の姓は褚である。黄巾の乱が起こると、張燕は若者を集めて群盗となり、山や沢の間を転戦し、真定に戻ると、一万人余りの勢力となった。博陵の張牛角もまた徒党を集め、自ら将兵従事と号し、張燕と合流した。張燕は張牛角を帥に推し、ともに癭陶を攻撃した。張牛角が飛び矢に当たり、傷ついて死にそうになり、配下に張燕を奉ずるよう命じ、「必ず張燕を帥とせよ」と告げた。張牛角が死ぬと、配下は張燕を奉じたため、彼は姓を張に改めた。張燕は敏捷で素早く人並み外れており、軍中で飛燕と号された。その後、勢力は次第に広がり、常山、趙郡、中山、上党、河内の各山谷がすべてつながり、その小帥の孫軽、王当らがそれぞれ配下を率いて張燕に従い、勢力は百万に達し、黒山と号した。霊帝は征討できず、河北の諸郡はその被害を受けた。張燕は人を京都に遣わして降伏を請い、平難中郎将に任じられた。〈《九州春秋》によると、張角が反乱した時、黒山、白波、黄龍、左校、牛角、五鹿、羝根、苦蝤、劉石、平漢、大洪、司隸、縁城、羅市、雷公、浮雲、飛燕、白爵、楊鳳、於毒らがそれぞれ兵を起こし、大きいものは二三万、小さいものも数千を下らなかった。霊帝は討伐できず、使者を遣わして楊鳳を黒山校尉に任じ、諸山の賊を統率させ、孝廉や計吏を推挙する資格を与えた。後には広がり、数えきれなくなった。《典略》によると、黒山、黄巾の諸帥は本来は身分の高い者ではなく、互いにあだ名で呼び合い、白馬に乗る者を張白騎、軽捷な者を張飛燕、声の大きい者を張雷公と称し、ひげの多い者は自ら於羝根と称し、目の大きい者は自ら李大目と称した。張璠の《漢紀》によると、さらに左校、郭大賢、左髭丈八の三部もあった。〉その後、董卓が天子を長安に遷都し、天下で兵乱が頻発すると、張燕はその配下を率いて豪傑と結びついた。袁紹と公孫瓚が冀州を争うと、張燕は将の杜長らを派遣して公孫瓚を助け、袁紹と戦ったが、袁紹に敗れ、勢力は次第に離散した。太祖(曹操)が冀州を平定しようとすると、張燕は使者を遣わして王師(曹操軍)を助けることを求め、平北将軍に任じられた。配下を率いて鄴に赴き、安国亭侯に封じられ、邑五百戸を与えられた。張燕が没すると、子の張方が後を継いだ。張方が没すると、子の張融が後を継いだ。〈陸機の《晉惠帝起居注》によると、門下通事令史の張林は、張飛燕の曾孫である。張林は趙王司馬倫と乱を起こし、一年も経たないうちに、尚書令しょうしょれい、衛将軍の位に至り、郡公に封じられた。まもなく司馬倫に殺された。〉

原文張燕,常山真定人也,本姓褚。黃巾起,燕合聚少年為群盜,在山澤間轉攻,還真定,眾萬餘人。博陵張牛角亦起眾,自號將兵從事,與燕合。燕推牛角為帥,俱攻癭陶。牛角為飛矢所中。被創且死,令眾奉燕,告曰:「必以燕為帥。」牛角死,眾奉燕,故改姓張。燕剽捍捷速過人,故軍中號曰飛燕。其後人眾寢廣,常山、趙郡、中山、上黨、河內諸山谷皆相通,其小帥孫輕、王當等,各以部眾從燕,眾至百萬,號曰黑山。靈帝不能征,河北諸郡被其害。燕遣人至京都乞降,拜燕平難中郎將。〈《九州春秋》曰:張角之反也,黑山、白波、黃龍、左校、牛角、五鹿、羝根、苦蝤、劉石、平漢、大洪、司隸、緣城、羅市、雷公、浮雲、飛燕、白爵、楊鳳、於毒等各起兵,大者二三萬,小者不減數千。靈帝不能討,乃遣使拜楊鳳為黑山校尉,領諸山賊,得舉孝廉計吏。後遂瀰漫,不可復數。《典略》曰:黑山、黃巾諸帥,本非冠蓋,自相號字,謂騎白馬者為張白騎,謂輕捷者為張飛燕,謂聲大者為張雷公,其饒須者則自稱於羝根,其眼大者自稱李大目。張璠《漢紀》云:又有左校、郭大賢、左髭丈八三部也。〉是後,董卓遷天子於長安,天下兵數起,燕遂以其眾與豪傑相結。袁紹與公孫瓚爭冀州,燕遣將杜長等助瓚,與紹戰,為紹所敗,人眾稍散,太祖將定冀州,燕遣使求佐王師,拜平北將軍;率眾詣鄴,封安國亭侯,邑五百戶。燕薨,子方嗣。方薨,子融嗣。〈陸機《晉惠帝起居注》曰:門下通事令史張林,飛燕之曾孫。林與趙王倫為亂,未及周年,位至尚書令、衛將軍,封郡公。尋為倫所殺。〉

張繡は武威郡祖厲県の人で、驃騎将軍の張済の同族の子である。辺章と韓遂が涼州で乱を起こした時、金城郡の麴勝が祖厲県の長官劉雋を襲撃して殺害した。張繡は県の役人として、隙を見て麴勝を殺し、郡内で義士と称えられた。そこで若者たちを招き集め、県内の豪傑となった。董卓が敗れると、張済は李傕らと共に呂布を攻撃し、董卓の仇を討とうとした。詳細は『董卓伝』にある。張繡は張済に従い、軍功によって次第に昇進して建忠将軍となり、宣威侯に封じられた。張済が弘農に駐屯した時、兵士たちが飢えていたため、南の穣県を攻めたが、流れ矢に当たって死んだ。張繡はその軍勢を引き継ぎ、宛に駐屯して劉表と連合した。太祖(曹操)が南征し、淯水に軍を進めると、張繡らは軍勢を挙げて降伏した。太祖が張済の妻(張繡の叔母)を側室にしたため、張繡はこれを恨んだ。太祖は張繡が不満を抱いていると聞き、密かに張繡を殺す計画を立てた。計画が漏れ、張繡は太祖を急襲した。太祖の軍は敗北し、二人の息子(曹昂と曹安民)が戦死した。張繡は穣に戻って守りを固めた。(『傅子』によると、張繡には親しい部下の胡車児という者がおり、その勇猛さは軍中で第一であった。太祖はその勇健さを気に入り、自ら金を与えた。張繡はこれを聞き、太祖が側近を使って自分を刺させようとしているのではないかと疑い、ついに反逆したという。『呉書』によると、張繡が降伏した後、(凌統)賈詡の計略を用い、軍を高地に移動させてほしいと願い出た。その行軍路は太祖の駐屯地の中を通っていた。張繡はまた「車が少なく荷物が重いので、兵士たちにそれぞれ鎧を着用させてほしい」と言った。太祖は張繡を信じ、すべて聞き入れた。張繡は武装兵を厳重に整えて駐屯地に入り、太祖を急襲した。太祖は備えていなかったため、敗北したという。)太祖はその後数年かけて攻撃したが、陥落させることができなかった。

原文張繡,武威祖厲人,驃騎將軍濟族子也。邊章、韓遂為亂涼州,金城麴勝襲殺祖厲長劉雋。繡為縣吏,間伺殺勝,郡內義之。遂招合少年,為邑中豪傑。董卓敗,濟與李傕等擊呂布,為卓報仇。語在〈卓傳〉。繡隨濟,以軍功稍遷至建忠將軍,封宣威侯。濟屯弘農,士卒飢餓,南攻穰,為流矢所中死。繡領其眾,屯宛,與劉表合。太祖南征,軍淯水,繡等舉眾降。太祖納濟妻,繡恨之。太祖聞其不悅,密有殺繡之計。計漏,繡掩襲太祖。太祖軍敗,二子沒。繡還保穰,〈《傅子》曰:繡有所親胡車兒,勇冠其軍。太祖愛其驍健,手以金與之。繡聞而疑太祖欲因左右刺之,遂反。《吳書》曰:繡降,(凌統)用賈詡計,乞徙軍就高道,道由太祖屯中。繡又曰:「車少而重,乞得使兵各被甲。」太祖信繡,皆聽之。繡乃嚴兵入屯,掩太祖。太祖不備,故敗。〉太祖比年攻之,不克。

太祖が官渡で袁紹を迎え撃った時、張繡は賈詡の計略に従い、再び軍勢を率いて降伏した。詳細は『賈詡伝』にある。張繡が到着すると、太祖はその手を握り、共に歓待の宴を開き、自分の息子の曹均に張繡の娘を娶らせ、揚武将軍に任命した。官渡の戦いでは、張繡は力戦して功績を挙げ、破羌将軍に昇進した。南皮で袁譚を撃破したことに従軍し、さらに所領を増やされ、合計二千戸となった。当時は天下の戸数が激減し、十分の一しか残っておらず、諸将の封邑で千戸に満たない者はなかったが、張繡は特に多かった。柳城での烏丸征伐に従軍したが、到着する前に死去し、諡を定侯とした。(『魏略』によると、五官中郎将(曹丕)がたびたび宴会に招き、怒って「貴様は私の兄(曹昂)を殺したのに、どうして平気で顔を合わせられるのか!」と言った。張繡は心中不安を覚え、自殺したという。)子の張泉が後を継いだが、魏諷の謀反に連座して誅殺され、封国は取り潰された。

原文太祖拒袁紹於官渡,繡從賈詡計,復以眾降。語在〈詡傳〉。繡至,太祖執其手,與歡宴,為子均取繡女,拜揚武將軍。官渡之役,繡力戰有功,遷破羌將軍。從破袁譚於南皮,復增邑凡二千戶。是時天下戶口減耗,十裁一在,諸將封未有滿千戶者,而繡特多。從征烏丸於柳城,未至,薨,諡曰定侯。〈《魏略》曰:五官將數因請會,發怒曰:「君殺吾兄,何忍持面視人邪!」繡心不自安,乃自殺。〉子泉嗣,坐與魏諷謀反誅,國除。

張魯は字を公祺といい、沛はい国豊県の人である。祖父の張陵は蜀の地に客居し、鵠鳴山で道を学び、道書を作り出して民衆を惑わし、道を受ける者から五斗の米を出させたので、世間では米賊と呼んだ。張陵が死ぬと、子の張衡がその道を行った。張衡が死ぬと、張魯がまたそれを行った。益州牧の劉焉は張魯を督義司馬とし、別部司馬の張脩と共に兵を率いて漢中太守の蘇固を攻撃させたが、張魯は張脩を襲撃して殺し、その軍勢を奪った。劉焉が死に、子の劉璋が代わると、張魯が従わないとして、張魯の母と家族を皆殺しにした。張魯はそこで漢中を占拠し、鬼道をもって民を教化し、自ら「師君」と称した。道を学びに来る者は、初めは皆「鬼卒」と呼ばれた。本道を受けて信じる者になると、「祭酒」と号した。それぞれ部衆を率い、多い者は治頭大祭酒となった。皆に誠実信義をもって欺かないことを教え、病気の者は自ら過ちを告白させ、多くは黄巾賊と似ていた。諸祭酒は皆、義舎を作り、今の駅伝のようなものとした。また義米や義肉を置き、義舎に掛けておき、通行人は腹一杯になる分だけ取った。もし多く取りすぎると、鬼道がたちまち病気にした。法を犯した者は三度まで許し、その後で刑を執行した。長官を置かず、皆、祭酒によって治め、民や異民族は便利で喜んだ。巴、漢の地を雄として占拠することほぼ三十年に及んだ。(『典略』によると、熹平年間(172-178年)に妖賊が大いに起こり、三輔には駱曜がいた。光和年間(178-184年)には、東方に張角が、漢中に張脩がいた。駱曜は民に緬匿法を教え、張角は太平道を行い、張脩は五斗米道を行った。太平道は、師が九節の杖を持って符祝を行い、病人に叩頭して過ちを悔い改めさせ、それによって符水を飲ませ、病気が軽くて治る者があれば、この人は道を信じたと言い、あるいは治らなければ、道を信じないのだと言った。張脩の法は張角とほぼ同じで、静室を設け、病人をそこに置いて過ちを悔い改めさせた。また人を使い奸令祭酒とし、祭酒は主に老子の五千文を習わせ、奸令と号した。鬼吏とし、主に病人のために祈祷を請け負った。祈祷の方法は、病人の姓名を書き、罪を認める意思を述べる。三通作り、一つは天に上げて山上に置き、一つは地に埋め、一つは水に沈め、これを三官手書と言った。病人の家に五斗の米を出させて常例とし、故に五斗米師と号した。実際には治病に役立つことはなく、ただ淫らで妄信的なものだったが、小人たちは愚かで、競ってこれに従った。後に張角は誅殺され、張脩も死んだ。そして張魯が漢中にいた時、その民が張脩の業を信じて行っていたのを利用し、それを増やし飾った。義舎を作らせ、その中に米と肉を置いて通行人を止めさせた。また自ら過ちを隠すことを教え、小さな過ちのある者には、道を百歩修繕させると罪が除かれるとした。また月令に従い、春夏には殺生を禁じた。また酒を禁じた。その地に流れ寄り住む者は、奉ぜざるを得なかった。臣の松之(裴松之)が言うには、張脩は張衡であるべきで、『典略』の誤りでなければ、伝写の誤りであろう。)

原文張魯字公祺,沛國豐人也。祖父陵,客蜀,學道鵠鳴山中,造作道書以惑百姓,從受道者出五斗米,故世號米賊。陵死,子衡行其道。衡死,魯復行之。益州牧劉焉以魯為督義司馬,與別部司馬張脩將兵擊漢中太守蘇固,魯遂襲脩殺之,奪其眾。焉死,子璋代立,以魯不順,盡殺魯母家室。魯遂據漢中,以鬼道教民,自號「師君」。其來學道者,初皆名「鬼卒」。受本道已信,號「祭酒」。各領部眾,多者為治頭大祭酒。皆教以誠信不欺詐,有病自首其過,大都與黃巾相似。諸祭酒皆作義舍,如今之亭傳。又置義米肉,縣於義舍,行路者量腹取足;若過多,鬼道輒病之。犯法者,三原,然後乃行刑。不置長吏,皆以祭酒為治,民夷便樂之。雄據巴、漢垂三十年。〈《典略》曰:熹平中,妖賊大起,三輔有駱曜。光和中,東方有張角,漢中有張脩。駱曜教民緬匿法,角為太平道,脩為五斗米道。太平道者,師持九節杖為符祝,教病人叩頭思過,因以符水飲之,得病或日淺而癒者,則云此人信道,其或不愈,則為不信道。脩法略與角同,加施靜室,使病者處其中思過。又使人為奸令祭酒,祭酒主以老子五千文,使都習,號為奸令。為鬼吏,主為病者請禱。請禱之法,書病人姓名,說服罪之意。作三通,其一上之天,著山上,其一埋之地,其一沉之水,謂之三官手書。使病者家出米五斗以為常,故號曰五斗米師。實無益於治病,但為淫妄,然小人昏愚,競共事之。後角被誅,脩亦亡。及魯在漢中,因其民信行脩業,遂增飾之。教使作義舍,以米肉置其中以止行人;又教使自隱,有小過者,當治道百步,則罪除;又依月令,春夏禁殺;又禁酒。流移寄在其地者,不敢不奉。臣松之謂:張脩應是張衡,非《典略》之失,則傳寫之誤。〉

漢王朝の末期、征伐する力がなく、やむなく張魯を寵遇して鎮民中郎将とし、漢寧太守を兼任させ、貢ぎ物を献上させるだけにした。民が地中から玉印を得たことがあり、配下たちは張魯を漢寧王に尊ぼうとした。張魯の功曹で巴西郡の閻圃が張魯を諫めて言った。「漢川の民は十万戸を出し、財産は豊かで土地は肥沃、四方は険阻で堅固です。上は天子を助ければ桓公・文公のようになり、次いで竇融のようになっても、富貴を失いません。今は制度に従って官職を任命する権限があり、勢い十分に独自の判断ができ、王となる必要はありません。どうかまだ称さず、禍の先駆けとならないでください。」張魯はこれに従った。韓遂、馬超の乱の時、関西の民で子午谷を通って逃げて来た者は数万家に及んだ。

原文漢末,力不能征,遂就寵魯為鎮民中郎將,領漢寧太守,通貢獻而已。民有地中得玉印者,群下欲尊魯為漢寧王。魯功曹巴西閻圃諫魯曰:「漢川之民,戶出十萬,財富土沃,四面險固;上匡天子,則為桓、文,次及竇融,不失富貴。今承製署置,勢足斬斷,不煩於王。原且不稱,勿為禍先。」魯從之。韓遂、馬超之亂,關西民從子午谷奔之者數万家。

建安二十年(215年)、太祖はついに散関から武都に出て張魯を征伐し、陽平関に至った。張魯は漢中を挙げて降伏しようとしたが、弟の張衛が承知せず、数万の兵を率いて関を守り堅く防いだ。太祖はこれを攻め破り、ついに蜀に入った。(『魏名臣奏』に載る董昭の上表文によると:)

原文建安二十年,太祖乃自散關出武都征之,至陽平關。魯欲舉漢中降,其弟衛不肯,率眾數万人拒關堅守。太祖攻破之,遂入蜀。〈《魏名臣奏》載董昭表曰:

武皇帝(曹操)は涼州従事や武都の降人の言葉を聞き、張魯は攻めやすく、陽平城の下の南北の山は離れており、守れないと聞き、本当だと思った。そして実際に行ってみると、聞いていたのとは違い、嘆いて言った。『他人の推量は、少しも人の意にかなわないものだ。』陽平山の上の諸屯を攻めたが、すぐには落とせず、兵士の負傷者が多かった。武皇帝は意気消沈し、軍を引き上げて山を断ち切って帰還しようとし、元大将軍の夏侯惇、将軍の許褚を遣わして山の上の兵を呼び戻させた。ちょうど前軍がまだ戻らないうちに、夜間で道に迷い、誤って賊の陣営に入ったところ、賊は退散した。侍中の辛毗、劉曄らが軍の後方にいて、夏侯惇と許褚に言った。『官軍はすでに賊の要衝の屯を占拠し、賊は散り散りに逃げました。』まだ信じなかった。夏侯惇が自ら前進して見て、ようやく戻って武皇帝に報告し、進軍して平定し、幸いにも勝利を得た。これは近年の出来事で、官吏兵士の知るところである。

原文武皇帝承涼州從事及武都降人之辭,說張魯易攻,陽平城下南北山相遠,不可守也,信以為然。及往臨履,不如所聞,乃歎曰:『他人商度,少如人意。』攻陽平山上諸屯,既不時拔,士卒傷夷者多。武皇帝意沮,便欲拔軍截山而還,遣故大將軍夏侯惇、將軍許褚呼山上兵還。會前軍未還,夜迷惑,誤入賊營,賊便退散。侍中辛毗、劉曄等在兵後,語惇、褚,言『官兵已據得賊要屯,賊已散走』。猶不信之。惇前自見,乃還白武皇帝,進兵定之,幸而克獲。此近事,吏士所知。

また楊暨の上表文によると:

原文又楊暨表曰:

武皇帝が初めて張魯を征伐した時、十万の軍勢を率い、自ら臨み、方略を指示し、民の麦を利用して軍糧とした。張衛の守りは、言うに足りない。地が険しく守りやすく、精兵や虎将がいても、勢いを施すことができなかった。三日間対峙し、軍を引き上げて帰還しようとし、言った。『三十年軍を率いてきたが、一朝にして人に渡すようなものだ。どうしたものか。』この計略はすでに決まっていたが、天が大魏を祝福し、張魯の守りが自ら崩れたため、それによって平定したのである。

原文武皇帝始征張魯,以十萬之眾,身親臨履,指授方略,因就民麥以為軍糧。張衛之守,蓋不足言。地險守易,雖有精兵虎將,勢不能施。對兵三日,欲抽軍還,言『作軍三十年,一朝持與人,如何』。此計已定,天祚大魏,魯守自壞,因以定之。

『世語』によると、魯は五官掾を派遣して降伏させ、弟の衛は横山に陽平城を築いて防ぎ、王師は進むことができなかった。魯は巴中へ逃げた。軍糧が尽き、太祖は帰還しようとした。西曹掾の東郡の郭諶が言った。「いけません。魯はすでに降伏し、留め置いた使者もまだ戻ってきていません。衛は同意していませんが、偏師を率いているだけなので攻撃できます。孤軍を深く進めているのですから、進めば必ず勝ち、退けば必ず免れません。」太祖は疑った。夜に野麋が数千頭で衛の陣営を突き崩し、軍は大いに驚いた。夜、高祚らが誤って衛の兵士たちと出会い、祚らは多くが太鼓や角笛を鳴らして味方を集めた。衛は恐れ、大軍が襲ってきたと思い、ついに降伏した。〉

原文《世語》曰:魯遣五官掾降,弟衛橫山築陽平城以拒,王師不得進。魯走巴中。軍糧盡,太祖將還。西曹掾東郡郭諶曰:「不可。魯已降,留使既未反,衛雖不同,偏攜可攻。縣軍深入,以進必克,退必不免。」太祖疑之。夜有野麋數千突壞衛營,軍大驚。夜,高祚等誤與衛眾遇,祚等多鳴鼓角會眾。衛懼,以為大軍見掩,遂降。〉

魯は陽平がすでに陥落したと聞き、額を地につけて〔帰降〕しようとしたが、閻圃がまた言った。「今、迫られて行けば、功績は必ず軽くなります。杜濩のもとへ赴き、樸胡とともに抵抗し、その後に身を委ねたなら、功績は必ず多くなります。」そこで南山へ逃げ込み巴中に入った。側近たちは宝物や物資、倉庫をすべて焼こうとしたが、魯は言った。「もともと国家に帰順しようとしたが、その意志が通じなかった。今逃げるのは、鋭い鋒先を避けるためであって、悪意があるわけではない。宝物や物資、倉庫は国家のものである。」そこで封印して蔵に収め、去った。太祖が南鄭に入ると、彼を大いに称賛した。また、魯がもともと善意を持っていたことを考慮し、人を遣わして慰め諭した。魯は家族をすべて連れ出し、太祖は魯を出迎えて鎮南将軍に任命し、客礼をもって遇し、閬中侯に封じ、邑一万戸を与えた。魯の五人の息子と閻圃らをみな列侯に封じた。〈臣の松之は考えるに、張魯は善心があったとはいえ、結局は敗れてから降伏したのである。今、一万戸で寵遇し、五人の息子をみな列侯に封じるのは、行き過ぎである。習鑿歯は言う。魯は王を称そうとしたが、閻圃が諫めて止めさせた。今、圃を列侯に封じる。賞罰とは、悪を懲らしめ善を勧めるためのものである。もしそれが物事に対して軌範と教訓を明らかにできるならば、遠近や幽深を問わない。今、閻圃が魯に王となるなと諫め、太祖が彼を追封した。将来の人々で、誰が順を思わないだろうか。その本源を塞げば末流は自然に止まる。このことを言うのであろう。もしこのことを明らかにせず、焦げ爛れた戦功を重んじ、豊かな爵位と厚い賞賜を死戦する兵士だけに与えるならば、民は乱があることを利とし、俗は殺伐を競い、兵力を頼みとし、干戈を収めないであろう。太祖のこの封は、賞罰の本質を知っていると言えよう。湯や武がこの立場にあっても、これ以上はない。《魏略》によると、黄初年間、圃の爵位と邑を増やし、礼請の中にあった。後、十数年して病死した。《晉書しんじょ》によると、西戎司馬の閻纘は、圃の孫である。〉息子の彭祖に魯の娘を娶らせた。

原文魯聞陽平已陷,將稽顙〔歸降〕,圃又曰:「今以迫往,功必輕;不如依(杜灌)〔杜濩〕赴樸胡相拒,然後委質,功必多。」於是乃奔南山入巴中。左右欲悉燒寶貨倉庫,魯曰:「本欲歸命國家,而意未達。今之走,避銳鋒,非有惡意。寶貨倉庫,國家之有。」遂封藏而去。太祖入南鄭,甚嘉之。又以魯本有善意,遣人慰喻。魯盡將家出,太祖逆拜魯鎮南將軍,待以客禮,封閬中侯,邑萬戶。封魯五子及閻圃等皆為列侯。〈臣松之以為張魯雖有善心,要為敗而後降,今乃寵以萬戶,五子皆封侯,過矣。習鑿齒曰:魯欲稱王,而閻圃諫止之,今封圃為列侯。夫賞罰者,所以懲惡勸善也,苟其可以明軌訓於物,無遠近幽深矣。今閻圃諫魯勿王,而太祖追封之,將來之人孰不思順!塞其本源而末流自止,其此之謂與!若乃不明於此而重燋爛之功,豐爵厚賞止於死戰之士,則民利於有亂,俗競於殺伐,阻兵仗力,干戈不戢矣。太祖之此封,可謂知賞罰之本,雖湯武居之,無以加也。《魏略》曰:黃初中,增圃爵邑,在禮請中。後十餘歲病死。《晉書》云:西戎司馬閻纘,圃孫也。〉為子彭祖取魯女。

魯が薨去すると、原侯と諡された。子の富が後を嗣いだ。〈《魏略》によると、劉雄鳴という者は、藍田の人である。若い頃から薬草採りや狩猟を生業とし、常に覆車山の下に住み、毎朝晩、雲霧の中を出歩き、道を間違えなかったので、当時の人々は彼が雲霧を操れるのだと言った。郭汚、李傕の乱の時、多くの人が彼のもとに身を寄せた。建安年間、州郡に附属し、州郡が上表して推薦し、小将とした。馬超らが反乱を起こした時、従おうとせず、超に破られた。後に太祖のもとへ赴くと、太祖はその手を握って言った。「孤が関に入ろうとした時、夢で一人の神人を得た。それが卿なのか!」そこで手厚く礼遇し、上表して将軍に任命し、その部党を迎えさせるよう命じて遣わした。部党は降伏したがらず、彼を脅して反乱を起こさせ、諸々の亡命者たちがみな身を寄せ、数千人の兵を擁し、武関の道口を占拠した。太祖は夏侯淵を派遣して討ち破り、雄鳴は南へ漢中へ逃げた。漢中が陥落し、行き場がなくなり、再び帰順した。太祖はその鬚をつかんで言った。「老賊め、ついに捕まえたぞ!」元の官職に復帰させ、勃海に移した。当時また程銀、侯選、李堪という者がいた。みな河東の人で、興平の乱の時、それぞれ千余家の兵を擁していた。建安十六年、みな馬超と合流した。超が破られて逃走し、堪は戦場で死んだ。銀と選は南の漢中に入り、漢中が陥落すると、太祖のもとへ赴き降伏し、みな官爵を回復した。〉

原文魯薨,諡之曰原侯。子富嗣。〈《魏略》曰:劉雄鳴者,藍田人也。少以採藥射獵為事,常居覆車山下,每晨夜,出行雲霧中,以識道不迷,而時人因謂之能為雲霧。郭、李之亂,人多就之。建安中,附屬州郡,州郡表薦為小將。馬超等反,不肯從,超破之。後詣太祖,太祖執其手謂之曰:「孤方入關,夢得一神人,即卿邪!」乃厚禮之,表拜為將軍,遣令迎其部黨。部黨不欲降,遂劫以反,諸亡命皆往依之,有眾數千人,據武關道口。太祖遣夏侯淵討破之,雄鳴南奔漢中。漢中破,窮無所之,乃復歸降。太祖捉其鬚曰:「老賊,真得汝矣!」復其官,徙勃海。時又有程銀、侯選、李堪,皆河東人也,興平之亂,各有眾千餘家。建安十六年,並與馬超合。超破走,堪臨陳死。銀、選南入漢中,漢中破,詣太祖降,皆复官爵。〉

評して言う。公孫瓚は京を守り、座して滅びを待った。公孫度は残虐で節度がなく、公孫淵は受け継いだ事業によって凶事を積み重ね、ただその一族を滅ぼすに足りた。陶謙は昏乱して憂い死にし、張楊は臣下の手で首を差し出され、みな州郡を擁拠しながら、かつての匹夫にも及ばず、もとより論ずるに足りない。張燕、張繡、張魯は群盗を捨て、功臣の列に並び、危亡を去り、宗廟の祭祀を保った。それは彼らにとってはまさっていたと言えよう。

原文評曰:公孫瓚保京,坐待夷滅。度殘暴而不節,淵仍業以載兇,秪足覆其族也。陶謙昏亂而憂死,張楊授首於臣下,皆擁據州郡,曾匹夫之不若,固無可論者也。燕、繡、魯舍群盜,列功臣,去危亡,保宗祀,則於彼為愈焉。