三國志
魏書・三少帝紀
齊王は 諱 を芳といい、 字 は蘭卿である。明帝には子がなく、王と秦王詢を 養子 とした。宮中のことは秘密で、その由来を知る者は誰もいなかった。青龍三年に齊王に立てられた。景初三年正月丁亥朔、帝が重病となったため、皇太子に立てられた。その日、皇帝の位につき、大赦を行った。皇后を尊んで皇太后とした。大将軍曹爽と 太尉 司馬宣王が政務を補佐した。 詔 して言った。「朕は微末の身で大業を継承し、孤独で憂いに沈み、訴えるところもない。大将軍、 太尉 は先帝の遺命を受け、朕の身近で補佐し、 司徒 、 司空 、冢宰、元輔は百官を統率して 社稷 を安んじている。卿ら大夫たちは心を尽くし、朕の意にかなうように努めよ。宮殿造営などの工事はすべて遺 詔 により中止する。官奴婢で六十歳以上の者は良民に免ずる。」二月、西域から言葉を重ねて通訳して火浣布が献上された。 詔 して大将軍、 太尉 に臨席して試験させ、百官に見せしめた。
丁丑の 詔 に言った。「 太尉 は道を体し正直で、三代にわたり忠を尽くし、南では孟達を生け捕り、西では蜀の敵を破り、東では公孫淵を滅ぼし、その功績は海内に冠たるものがある。昔、周の成王が保傅の官を立て、近くは漢の顕宗が鄧禹を崇め寵遇したのは、優れた人材を厚遇し、必ず尊ぶべきものがあるからである。 太尉 を太傅とし、節を持ち兵を統率し諸軍事を 都督 するのは従前の通りとする。」三月、征東将軍満寵を 太尉 とした。夏六月、遼東の東沓県の官吏と民が海を渡って斉郡の境界に居住したため、故縦城を新沓県として移住した民を住まわせた。秋七月、上は初めて自ら朝廷に臨み、公卿の奏事を聴いた。八月、大赦を行った。冬十月、鎮南将軍黄権を車騎将軍とした。
十二月、 詔 して言った。「烈祖明皇帝は正月に天下を去られた。臣子として忌日の哀しみを永く思うため、再び夏の暦を用いることとする。先帝が三統を通じさせるという道理に背くが、これも礼制が変改される所以である。また夏の暦は数の上で天の正を得ている。建寅の月を正始元年の正月とし、建丑の月を後の十二月とする。」
正始元年春二月乙丑、侍中 中書監 劉放と侍中中書令孫資に左右光禄大夫を加えた。丙戌、遼東の汶県、北豊県の民が流亡して海を渡ったため、斉郡の西安、臨菑、昌国県の境界を区画して新汶県、南豊県とし、流民を住まわせた。
昨年十二月からこの月まで雨が降らなかった。丙寅、 詔 して獄官に冤罪を速やかに正し、軽微な者を釈放するよう命じた。公卿たちは直言と良策を、それぞれ心を尽くして述べよ。夏四月、車騎将軍黄権が 薨去 した。秋七月、 詔 して言った。「易は上を損ねて下を益することを称え、制度によって節度し、財を傷つけず、民を害さないとしている。今、百姓は不足しているのに御府では金銀の雑物を多く作っている。これで何としようか。今、金銀の器物百五十種、千八百余斤を出し、溶かして鋳直し軍用に供する。」八月、車駕は 洛陽 界内の秋の作物を巡視し、高齢者と力田にそれぞれ差等を付けて賜物を与えた。
二年春二月、帝は初めて『論語』を通読し、太常に命じて太牢をもって辟雍で孔子を祭らせ、顔淵を配祀した。
夏五月、呉の将朱然らが襄陽の樊城を包囲した。太傅司馬宣王が軍勢を率いてこれを防いだ。六月辛丑、退却した。己卯、征東将軍王凌を車騎将軍とした。冬十二月、南安郡で地震があった。
三年春正月、東平王徽が 薨去 した。三月、 太尉 満寵が 薨去 した。秋七月甲申、南安郡で地震があった。乙酉、領軍将軍蔣済を 太尉 とした。冬十二月、魏郡で地震があった。
四年の春正月、皇帝は元服の儀を行い、群臣にそれぞれ差をつけて賜物を与えた。夏四月乙卯、皇后甄氏を立て、大赦を行った。五月朔、日食があり、皆既食となった。秋七月、 詔 を下して故大司馬曹真、曹休、征南大将軍夏侯尚、太常桓階、 司空 陳羣、太傅鍾繇、車騎将軍 張郃 、左将軍 徐晃 、前将軍 張遼 、右将軍 楽進 、 太尉 華歆、 司徒 王朗、驃騎将軍 曹洪 、征西将軍 夏侯淵 、後将軍朱霊、文聘、執金吾臧覇、破虜将軍 李典 、立義将軍 龐徳 、武猛 校尉 典韋 を太祖廟の庭に祀った。冬十二月、倭国の女王俾弥呼が使者を遣わして貢物を献上した。
五年の春二月、 詔 を下して大将軍曹爽に衆を率いて蜀を征伐させた。夏四月朔、日食があった。五月癸巳、尚書経の講義が終了し、太常に命じて太牢を用いて孔子を辟雍に祀らせ、顔淵を配祀とした。太傅、大将軍および侍講者にそれぞれ差をつけて賜物を与えた。丙午、大将軍曹爽が軍を引き返した。秋八月、秦王曹詢が 薨去 した。九月、鮮卑が内属し、遼東属国を置き、昌黎県を立てて彼らを住まわせた。冬十一月癸卯、 詔 を下して故 尚書令 荀攸を太祖廟の庭に祀った。己酉、秦国を京兆郡に復した。十二月、 司空 崔林が 薨去 した。
六年の春二月丁卯、南安郡で地震があった。丙子、驃騎将軍趙儼を 司空 とした。夏六月、趙儼が 薨去 した。八月丁卯、太常高柔を 司空 とした。癸巳、左光禄大夫劉放を驃騎将軍とし、右光禄大夫孫資を衛将軍とした。冬十一月、太祖廟で祫祭を行い、初めて以前に論じられた佐命の臣二十一人を祀った。十二月辛亥、 詔 を下して故 司徒 王朗の作った易伝を、学者が課試に用いることができるようにした。乙亥、 詔 を下して言った。「明日、群臣を大会する。太傅に輿に乗って殿上に上がることを命じよ。」
七年の春二月、幽州 刺史 毌丘倹が高句驪を討伐し、夏五月、濊貊を討伐し、いずれもこれを撃破した。韓那奚など数十国がそれぞれ種族を率いて降伏した。秋八月戊申、 詔 を下して言った。「先ほど市に行って見たところ、売りに出されている官奴婢は、みな七十歳で、あるいは重い病気や障害を負っており、いわゆる天民のうち困窮している者である。しかも官は彼らの力が尽きたとして再び売りに出しているが、進退の道理がない。彼らをすべて良民として解放せよ。もし自活できない者がいれば、郡県が救済を与えよ。」
己酉、 詔 を下して言った。「私は十九日に親しく祭祀を行うはずであったが、昨日外出した時すでに道路の修繕を見た。雨が降ればまた修繕し直さなければならず、ただ労力を無駄にするだけである。私は常に、百姓の力は少なくて労役が多いことを思い、日夜心に留めている。道路はただ通行に便利であればよいのに、聞くところによると老人や子供を鞭打ち、ひたすら立派に飾り立てようとし、疲弊して離散し、ついには哀れな嘆きに至っているという。私はどうして安心してこれに乗り、宗廟に芳しい徳を致すことができようか。今後は、明確にこれを戒めよ。」冬十二月、『礼記』の講義が終了し、太常に命じて太牢を用いて孔子を辟雍に祀らせ、顔淵を配祀とした。
八年の春二月朔、日食があった。夏五月、河東郡の汾水以北の十県を分けて平陽郡とした。
秋七月、尚書の何晏が上奏して言った。「国をよく治める者は必ずまず自らを修め、自らを修める者はその慣れ親しむものを慎重にする。慣れ親しむものが正しければその身は正しく、その身が正しければ命令しなくても行われる。慣れ親しむものが正しくなければその身は正しくなく、その身が正しくなければたとえ命令しても従わない。それゆえ君主たる者は、交遊する者は必ず正しい人を選び、観覧するものは必ず正しい模範を察し、鄭の淫声を放逐して聴かず、佞人を遠ざけて近づけず、そうして後に邪心が生じず正道を広めることができる。末世の暗愚な君主は損益を知らず、君子を斥けて遠ざけ、小人を引き入れて近づけ、忠良の臣は疎遠にされ、へつらう者や親しみやすい者が近くにいて、乱は近しい者から生じ、 社稷 の鼠に譬えられる。その昏明を考察すれば、積み重ねによってそうなったのであり、聖賢が諄々として至極の配慮としている所以である。舜が禹に戒めて『隣よ、隣よ』と言ったのは、近づく者を慎むことを言い、周公が成王に戒めて『その朋よ、その朋よ』と言ったのは、交わる者を慎むことを言うのである。書経に云う。『一人に慶事あれば、兆民これに頼る』と。今後は、式乾殿に行幸され、あるいは後園を遊 豫 される際には、皆大臣が侍従し、それに従ってゆったりと遊宴し、併せて文書を省覧し、政事について諮詢謀議し、経義を講論され、万世の規範とされるのがよろしいかと。」冬十二月、 散騎常侍 諫議大夫の孔晏乂が上奏して言った。「礼によれば、天子の宮殿には削り磨く制度はあるが、朱や丹で飾ることはない。礼に従って古に復すべきです。今、天下はすでに平定され、君臣の分は明らかです。陛下はただその位に倦まず、公平正しい心を持ち、賞罰を審らかにして人を使うべきです。後園で乗馬の練習をやめ、外出には必ず輦や車に乗られることが、天下の福であり、臣子の願いです。」何晏と晏乂はともに欠点を捉えて規諫を進言した。
九年春二月、衛将軍中書令の孫資が、癸巳の日に、驃騎将軍 中書監 の劉放が、三月甲午に、 司徒 の衛臻が、それぞれ位を退き、侯として邸宅に退いた。位は特進とした。四月、 司空 の高柔を 司徒 とした。光禄大夫の徐邈を 司空 としたが、固辞して受けなかった。秋九月、車騎将軍の王淩を 司空 とした。冬十月、大風が起こり家屋を壊し樹木を折った。
嘉平元年春正月甲午、車駕は高平陵に謁した。太傅司馬宣王は、大将軍曹爽とその弟の中領軍曹羲、武衛将軍曹訓、 散騎常侍 曹彦の官職を免じ、侯として邸宅に退くよう上奏した。戊戌、役人が黄門の張当を逮捕し廷尉に引き渡し、その供述を調べたところ、曹爽が謀反を企てていたことが分かった。また尚書の丁謐、鄧颺、何晏、司隷 校尉 の畢軌、 荊州 刺史 の李勝、大司農の桓範も皆、曹爽と姦謀を通じていたため、三族を誅した。詳細は『曹爽伝』にある。丙午、大赦を行った。丁未、太傅司馬宣王を丞相としたが、固辞したので取りやめた。
夏四月乙丑、元号を改めた。丙子、 太尉 の蔣済が 薨去 した。冬十二月辛卯、 司空 の王淩を 太尉 とした。庚子、司隷 校尉 の孫礼を 司空 とした。
二年夏五月、征西将軍の郭淮を車騎将軍とした。冬十月、特進の孫資を驃騎将軍とした。十一月、 司空 の孫礼が 薨去 した。十二月甲辰、東海王の曹霖が 薨去 した。乙未、征南将軍の王昶が長江を渡り、呉を急襲してこれを破った。
三年春正月、荊州 刺史 の王基と新城太守の州泰が呉を攻撃し、これを破り、降伏する者が数千人いた。二月、南郡の夷陵県を設置して降伏帰順した者を住まわせた。三月、 尚書令 の司馬孚を 司空 とした。四月甲申、征南将軍の王昶を征南大将軍とした。壬辰、大赦を行った。丙午、 太尉 の王淩が帝を廃し楚王の曹彪を立てようと謀っていると聞き、太傅司馬宣王は東征して王淩を討った。五月甲寅、王淩は自殺した。六月、曹彪は死を賜った。秋七月壬戌、皇后甄氏が崩御した。辛未、 司空 の司馬孚を 太尉 とした。戊寅、太傅司馬宣王が 薨去 した。衛将軍の司馬景王を撫軍大将軍とし、尚書事を録させた。乙未、懐甄后を太清陵に葬った。庚子、驃騎将軍の孫資が 薨去 した。十一月、役人が、太祖廟に祀られるべき功臣たちについて、改めて官位順に並べるよう上奏し、太傅司馬宣王は功績が高く爵位が尊いので、最上位とした。十二月、光禄勲の鄭冲を 司空 とした。
四年春正月癸卯、撫軍大将軍の司馬景王を大将軍とした。二月、皇后張氏を立て、大赦を行った。夏五月、魚二匹が武庫の屋根の上に現れた。冬十一月、 詔 を下して征南大将軍の王昶、征東将軍の胡遵、鎮南将軍の毌丘倹らに呉を征討させた。十二月、呉の大将軍諸葛恪が防戦し、東関で諸軍を大破した。我が軍は不利で引き返した。
五年夏四月、大赦を行った。五月、呉の太傅諸葛恪が合肥新城を包囲したため、 詔 を下して 太尉 司馬孚にこれを防がせた。
八月、 詔 を下して言った。「故中 郎 西平の郭脩は、節操を磨き行いを励み、心を守って曲がることがなかった。かつて蜀の将軍姜維が郭脩の郡を侵掠し、彼は捕らえられた。昨年、偽りの大将軍費禕が群衆を駆り立てて陰謀を企て、漢寿を通りかかった際、多くの賓客を招いて会合を開いた。郭脩は大勢の座中で手ずから刀を振るって費禕を撃ち、その勇は聶政を超え、功績は介子推を上回る。身を殺して仁を成し、生を捨てて義を取った者と言えよう。死後に褒賞と栄誉を加えるのは、忠義を表彰するためである。子孫に福禄が及ぶのは、将来を奨励し勧めるためである。郭脩を長楽郷侯に追封し、食邑千戸を与え、諡を威侯としよう。子は爵位を継承し、奉車都尉を加えて拝授する。銀千鉼、絹千匹を賜い、存命者と死者の栄誉を輝かせ、永遠に後世に伝えよ。」
皇帝が即位してからこの年に至るまで、郡・国・県・道は多く設置・廃止され、あるいはすぐに復活することもあり、数えきれないほどであった。
六年春二月己丑、鎮東将軍毌丘儉が上言した。「かつて諸葛恪が合肥新城を包囲した時、城中から兵士劉整を城外に派遣して消息を伝えさせたが、賊に捕らえられ、尋問を受けた。賊は劉整に言った。『諸葛公はお前を生かそうとしている。お前は従ったと述べよ。』劉整は罵って言った。『死んだ犬め、何を言うか。私は必ず死んで魏国の鬼となり、いい加減に生き延びようとしてお前たちに従うようなことはしない。私を殺したいなら、さっさと殺せ。』結局、他の言葉はなかった。また兵士鄭像を城外に派遣して消息を伝えさせたが、誰かが諸葛恪に告げ口したので、諸葛恪は騎兵を派遣して包囲線を探らせ、鄭像を捕らえて連れ戻した。四、五人の者が鄭像の頭を覆い顔を縛り、城壁の外を巡らせ、鄭像に命令して大声で叫ばせ、『大軍はすでに洛陽に戻った。早く降伏せよ』と言わせようとした。鄭像はその言葉に従わず、かえって城中に向かって大声で叫んだ。『大軍は包囲のすぐ外に近づいている。壮士たちよ、奮闘せよ!』賊は刀で彼の口を突いて言葉を封じようとしたが、鄭像は大声をあげ、城中に聞こえさせた。劉整、鄭像は兵士でありながら、義を守り節操を堅持した。その子弟には特別な処遇を与えるべきである。」 詔 を下して言った。「高い爵位は大功を褒めるためであり、重い賞賜は烈士を寵遇するためである。劉整、鄭像は募集に応じて使者となり、重い包囲を突破し、白刃を冒して突進し、身を軽んじて信義を守った。不幸にも捕らえられたが、節操を抗ってますます奮い立ち、六軍の大勢を揚げ、城を守る者の恐れを鎮め、難に臨んで顧みず、志を全うして命令を伝えた。昔、解楊が楚に捕らえられても死んでも二心を抱かず、斉の路中大夫は死をもって命令を成し遂げた。劉整、鄭像と比べても、これ以上はない。今、劉整、鄭像に関中侯の爵位を追賜し、それぞれ兵士の名籍から除き、子に爵位を継承させよ。部曲将が国事に殉じた場合の規定に従って処遇せよ。」
庚戌の日、中書令の李豊が皇后の父である光祿大夫の張緝らと謀り、大臣を廃して替えようとし、太常の夏侯玄を大将軍に立てようとした。事が発覚し、連座した者は皆誅殺された。辛亥の日、大赦を行った。三月、皇后張氏を廃した。夏四月、皇后王氏を立て、大赦を行った。五月、皇后の父である奉車都尉の王夔を広明郷侯・光祿大夫に封じ、位は特進とし、その妻の田氏を宣陽郷君とした。秋九月、大将軍の司馬景王(司馬師)が帝を廃そうと謀り、皇太后に上奏した。甲戌の日、太后の令が下った。「皇帝芳(曹芳)は年齢もすでに長じているのに、万機を親らせず、内寵に耽溺し、女徳を沈淪させ、日々倡優を引き延ばし、その醜い戯れを放任している。六宮の家人を迎えて内房に留め置き、人倫の秩序を壊し、男女の節度を乱している。恭孝の心は日々に損なわれ、悖逆と傲慢はますます甚だしく、天の系緒を継ぎ、宗廟を奉ずることはできない。兼 太尉 の高柔に策を持たせ、一元大武を用いて宗廟に告げさせ、芳を斉に帰藩させ、皇位を避けさせる。」この日、別宮に移り住んだ。年二十三であった。使者が節を持って護送し、河内の重門に斉王の宮を営み、制度はすべて藩国の礼の通りであった。
丁丑の日、 詔 令を下した。「東海王の曹霖は、高祖文皇帝の子である。曹霖の諸子は、国と最も親しい関係にある。高貴郷公の曹髦は大成の器量がある。彼を明皇帝の後継者とせよ。」
高貴郷公の諱は髦、字は彦士。文帝の孫、東海定王曹霖の子である。正始五年、歘県の高貴郷公に封ぜられた。幼い頃から学問を好み、早くから成長していた。斉王が廃されると、公卿たちは協議して公を迎え立てることにした。十月己丑、公は玄武館に到着した。群臣は前殿に宿泊するよう奏請したが、公は先帝の旧居であるとして避け、西廂に留まった。群臣はまた法駕で迎えるよう請うたが、公は聞き入れなかった。庚寅、公は洛陽に入った。群臣は西掖門の南で迎えて拝礼した。公は輿から降りて拝礼を返そうとしたが、礼官が「礼儀上、拝礼はなさらないでください」と請うた。公は「私は人臣である」と言い、遂に拝礼を返した。止車門に至って輿から降りた。左右の者が「旧例では乗輿で入ります」と言うと、公は「私は皇太后に召されたが、何をなすべきか分からない」と言い、歩いて太極東堂に至り、太后にお目通りした。その日、太極前殿で皇帝の位に即き、陪位した百官は喜びに満ちていた。 詔 を下した。「昔、三祖(武帝・文帝・明帝)は神武聖徳をもって天に応じ、大位を受けた。斉王が位を嗣いだが、非道をほしいままにし、その徳を覆した。皇太后は 社稷 の重さを深く考え、宰輔の謀を容れ、その位を替え、大命を私一人に集められた。微かな身をもって、王公の上に託され、日夜畏れ慎み、祖宗の大訓を嗣ぎ守り、中興の弘業を広げることができないことを恐れ、戦戦兢兢として、谷に臨むが如くである。今、群公卿士の股肱の補佐、四方の征鎮で力を尽くす者たちは、皆、徳を積み功を重ね、忠勤して帝室に仕えている。どうか先祖先父の有徳の臣に頼り、私を左右し、皇家を安んじ治めさせ、朕の蒙闇を助け、垂拱して治めさせてほしい。聞くところによれば、人君の道は、徳の厚さが天地に等しく、潤沢が四海に施され、まず慈愛をもって導き、善悪を示し、その後、教化が上に行われ、兆民が下で従うという。朕は徳がなく、大道に暗いが、天下と共にこの道に至りたいと思う。書経に言わないか、『民を安んずれば則ち恵みあり、黎民これを懐く』と。」大赦を行い、元号を改めた。乗輿の服御や後宮の費用を減らし、尚方御府の百工技巧で華美で無益な物を廃止した。
正元元年冬十月壬辰、侍中に節を持たせ四方に分遣し、風俗を観察させ、士民を慰労し、冤枉や失職者を察させた。癸巳、大将軍司馬景王に黄鉞を仮授し、朝廷に入る時に趨らず、奏事する時に名を告げず、剣を帯び履を履いたまま殿上に上がることを許した。戊戌、鄴の井戸の中に黄龍が現れた。甲辰、有司に命じて廃立と定策の功績を論じさせ、爵位を封じ、邑を増やし、位を進め、賜物を分け与えることそれぞれ差等をつけた。
二年春正月乙丑、鎮東将軍毌丘倹と 揚州 刺史 文欽が反乱した。戊寅、大将軍司馬景王がこれを征討した。癸未、車騎将軍郭淮が 薨去 した。閏月己亥、楽嘉で文欽を撃破した。文欽は逃走し、遂に呉に奔った。甲辰、安風津の都尉が毌丘倹を斬り、その首を都に伝送した。壬子、淮南の士民で毌丘倹・文欽に欺かれた者たちを特に赦免した。鎮南将軍諸葛誕を鎮東大将軍とした。司馬景王が許昌で 薨去 した。二月丁巳、衛将軍司馬文王を大将軍とし、録尚書事とした。
甲子、呉の大将孫峻らが兵十万と号して寿春に至ったが、諸葛誕が防戦してこれを撃破し、呉の左将軍留賛を斬り、京都に戦勝を報告した。三月、皇后卞氏を立て、大赦した。夏四月甲寅、皇后の父卞隆を列侯に封じた。甲戌、征南大将軍王昶を驃騎将軍とした。秋七月、征東大将軍胡遵を衛将軍とし、鎮東大将軍諸葛誕を征東大将軍とした。
八月辛亥、蜀の大将軍姜維が狄道に侵攻した。雍州 刺史 王経が洮西で戦ったが、王経は大敗し、狄道城に戻って守った。辛未、長水 校尉 鄧艾を行安西将軍とし、征西将軍陳泰と力を合わせて姜維を防がせた。戊辰、さらに 太尉 司馬孚を後続として派遣した。九月庚子、尚書の講義が終わり、経典を執り親しく授けた者である 司空 鄭冲、侍中鄭小同らにそれぞれ差等をつけて賜物を与えた。甲辰、姜維は撤退した。冬十月、 詔 を下した。「朕は寡徳をもって、寇虐を阻止できず、ついに蜀賊が辺境で暴れることとなった。洮西の戦いでは、ついに敗北を喫し、将兵の死亡は数千にのぼる計算である。ある者は戦場で命を落とし、冤魂となって帰らず、ある者は敵の手に捕らえられ、異域に流離している。私は深く痛み哀れみ、そのために心を悼む。そのため、所在の郡の典農及び安撫夷二護軍の各部の大吏に命じ、その家族を慰問し恤み、一年間賦役を課さないこと。力戦して死んだ者は、皆、旧来の規定通りとし、漏れのないようにせよ。」
十一月甲午、隴右四郡及び金城は連年敵の侵攻を受け、ある者は逃亡・反乱して賊に投じたため、その親戚で本土に留まっている者は不安を抱いているとして、皆、特別に赦免した。癸丑、 詔 を下した。「かつての洮西の戦いにおいて、将吏士民の中には、ある者は陣に臨んで戦死し、ある者は洮水に沈み溺れ、骸骨が収容されず、原野に棄てられた者がいる。私は常にこれを痛んでいる。征西将軍、安西将軍に告げよ。それぞれ部下の者に命じ、戦場及び水辺で屍を探し求め、収斂して埋葬させ、生きている者と亡くなった者を慰めよ。」
甘露元年春正月辛丑の日、青龍が軹県の井戸の中に現れた。 乙巳 の日、沛王の曹林が 薨去 した。
夏四月庚戌の日、大将軍の司馬文王(司馬昭)に袞冕の服と赤い舄を副えて賜った。
丙辰の日、帝(曹髦)は太学に行幸し、諸儒に問うて言った。「聖人は神明を幽かに助け、仰いで天を観、俯して地を察し、初めて八卦を作った。後の聖人がこれを重ねて六十四卦とし、爻を立てて数の極みを究めた。凡そこの大義は、備わらざるものはない。しかし夏には連山、殷には帰蔵、周には周易と称する。易の書がこのように異なるのは、何故か。」易博士の淳于俊が答えて言った。「包羲(伏羲)は燧皇の図に因って八卦を制定し、神農がこれを演じて六十四卦とした。黄帝、堯、舜はその変化を通じさせ、三代は時勢に従い、質朴と文飾はそれぞれその事柄に由来します。故に易とは、変易のことです。連山と名付けるのは、山が内から雲気を出し、天地を連ねるようであるからです。帰蔵とは、万事万物がことごとくその中に帰蔵されるからです。」帝はまた言った。「もし包羲が燧皇に因って易を作ったのなら、孔子は何故『燧人氏没して包羲氏作る』と言わなかったのか。」俊は答えられなかった。帝はさらに問うて言った。「孔子が彖伝・象伝を作り、鄭玄が注釈を施した。聖賢は異なるが、その経の義を解釈することは同じである。今、彖伝・象伝は経文と繋がっておらず、注釈だけが繋げている。これは何故か。」俊が答えて言った。「鄭玄が彖伝・象伝を経文に合わせたのは、学者が探し求めて理解しやすくするためです。」帝は言った。「もし鄭玄が合わせたことが学問に誠に便利なら、孔子は何故学者が理解しやすいように合わせなかったのか。」俊が答えて言った。「孔子はそれが文王のものと混同されることを恐れたので、合わせなかったのです。これは聖人が合わせないことを謙遜としたからです。」帝は言った。「もし聖人が合わせないことを謙遜としたなら、鄭玄は何故ただ一人謙遜しなかったのか。」俊が答えて言った。「古義は広大深遠であり、聖なる御問いは奥深く遠大で、臣が詳しく述べ尽くせるものではありません。」帝はさらに問うて言った。「繫辞伝に『黄帝、堯、舜は衣裳を垂れて天下治まる』とある。これは包羲、神農の時代には衣裳がなかったということか。しかし聖人が天下を教化するのに、何がこれほど異なるのか。」俊が答えて言った。「三皇の時代は、人が少なく禽獣が多かったので、その羽や皮を取って天下の用を足しました。黄帝の時代に至ると、人が多く禽獣が少なくなったので、そこで衣裳を作って時勢の変化を助けたのです。」帝はまた問うた。「乾は天であるのに、また金であり、玉であり、老馬である。これは細かい物事と並列されるのか。」俊が答えて言った。「聖人が象を取るには、遠きを取ることもあれば近きを取ることもあります。近くは諸々の物事を取り、遠くは天地を取るのです。」
易の講義が終わると、また尚書の講義を命じた。帝が問うた。「鄭玄は『稽古同天とは、堯が天と同じであるという意味だ』と言い、王粛は『堯が古の道を考察して順守して行ったのだ』と言う。二つの解釈が異なるが、どちらが正しいのか?」博士の庾峻が答えて言った。「先儒の説はそれぞれ食い違っており、臣にはどちらが正しいか決められません。しかし洪範には『三人が占えば、二人の言うことに従え』とあります。賈逵、馬融、そして王粛はいずれも『古の道を順守考察する』と解しています。洪範の言葉から言えば、王粛の解釈が優れています。」帝は言った。「仲尼は『天のみが大いなるものであり、堯のみがそれに則った』と言っている。堯の偉大な美点は、天に則った点にあり、古の道を順守考察したことではない。今、篇を開いてその意義を明らかにして聖人の徳を説明しようとしているのに、その大いなる点を捨てて、より細かい点を称えるのは、果たして作者の意図だろうか?」庾峻が答えて言った。「臣は師の説に従っているだけで、大義を理解しているわけではありません。折衷するのは、陛下のご聖慮にお任せします。」次に四岳が鯀を推挙した話になると、帝はまた問うた。「大人というものは、その徳を天地と合わせ、その明を日月と合わせ、思慮は行き届かぬところがなく、明らかさは照らさぬところがない。今、王粛は『堯は鯀のことを明らかに理解できなかったので、試用したのだ』と言う。そうだとすると、聖人の明らかさにも及ばない部分があったということか?」庾峻が答えて言った。「聖人といえども広大なものであっても、まだ及ばない部分はあります。だから禹は『人を知ることは聡明であり、帝(堯)でさえもそれは難しい』と言ったのです。しかし結局は聖賢に改めて任せ、多くの功績を輝かせることができた。これもまた聖人たる所以です。」帝は言った。「始めがあり終わりがある、それが聖人である。もし始めができなければ、どうして聖人と言えようか。『帝でさえ難しい』と言いながら、結局改めて任せることができたというのは、人を知ることが聖人にとっても難しいということであって、聖人の明が及ばないという意味ではない。経書には『人を知ることは聡明であり、人を官職に適切に任じることができる』とある。もし堯が鯀を疑い、九年間試用したのなら、人を官職に任ずることを誤ったことになり、どうして聖哲と言えようか?」庾峻が答えて言った。「臣が経伝を拝見するに、聖人でも過ちを犯さないわけではありません。だからこそ堯は四凶について過ちを犯し、周公は管叔・蔡叔について過ちを犯し、仲尼は宰予について過ちを犯したのです。」帝は言った。「堯が鯀を任用したのは、九載経っても成果がなく、五行を乱し、民は水害に苦しんだ。仲尼が宰予について過ちを犯したのは、言行の間の軽重が違うだけだ。周公と管叔・蔡叔の件については、これも尚書に載っており、博士が通じているべきことだ。」庾峻が答えて言った。「これらは皆、先賢たちも疑問に思ったことであり、臣の浅はかな見識で論じ尽くせるものではありません。」次に「下に 鰥 ありて虞舜という」の部分になると、帝が問うた。「堯の時代、洪水が害をなし、四凶が朝廷にいた。賢人聖人を速やかに登用してこの民を救うべき時であった。舜は既に三十歳を過ぎ、聖徳は輝いていたのに、なぜ長く登用されなかったのか?」庾峻が答えて言った。「堯はため息をついて賢人を求め、自らの位を譲ろうとしました。岳(四岳)が『徳が足りず帝位を辱めます』と言ったので、堯は再び岳に側微の地から人を推挙させ、その後に舜を推薦させました。舜を推薦する根本は、実は堯にあったのです。これは聖人が衆人の心を尽くそうとされたからでしょう。」帝は言った。「堯は既に舜のことを聞きながら登用せず、また当時の忠臣も進言して推挙せず、獄(官?)に側微の地から人を推挙させてから推薦したのでは、聖人を用いて民を憂うることを急いだとは言えない。」庾峻が答えて言った。「これは臣の愚かな見識が及ぶところではありません。」
そこでまた礼記の講義を命じた。帝が問うた。「『太上は徳を立て、其次は施しに報いることを務める』。天下を治めるのに、どうして教化がそれぞれ異なるのか。また、どのような政治を行えば徳を立てることができ、施しても報いを求めない境地に至れるのか?」博士の馬照が答えて言った。「太上に徳を立てるとは、三皇五帝の時代に徳をもって民を教化したことを指します。其次に施しに報いるとは、三王の時代に礼をもって治めたことを指します。」帝は言った。「この二者がもたらす教化の厚薄が異なるのは、君主に優劣があるからか、それとも時代がそうさせたのか?」馬照が答えて言った。「誠に時代に質朴と文飾があるため、教化にも厚薄があるのです。」
五月、鄴と上洛でともに甘露が降ったと報告があった。夏六月丙午、元号を甘露と改めた。乙丑、青龍が元城県内の井戸の中に現れた。秋七月己卯、衛将軍の胡遵が死去した。
癸未、安西将軍の鄧艾が上邽において蜀の大将軍姜維を大破した。 詔 して言う。「兵はまだ武力を極めていないのに、醜い敵は打ち破られ、斬首や捕虜は万単位にのぼる。近年の戦勝で、これほどのものはない。今、使者を遣わして将士を労い賞を与え、大宴会を開いて一日中飲み食いし、朕の意にかなうようにせよ。」
八月庚午、大将軍司馬文王に大 都督 の称号を加え、上奏する際に名を称さなくてもよいこととし、黄鉞を仮授することを命じた。癸酉、 太尉 の司馬孚を太傅とした。九月、 司徒 の高柔を 太尉 とした。冬十月、 司空 の鄭沖を 司徒 とし、尚書左 僕射 の盧毓を 司空 とした。
二年春二月、青龍が温県の井戸の中に現れた。三月、 司空 の盧毓が死去した。
夏四月癸卯、 詔 して言う。「玄菟郡高顕県の官吏と民が反乱を起こし、県長の鄭熙が賊に殺害された。民の王簡が鄭熙の遺体を担ぎ、昼夜を分かたず星明かりの下を歩き、遠く故郷の州まで運んだ。その忠節は賞賛に値する。特に王簡を忠義都尉に任じ、この特異な行いを表彰せよ。」
甲子、征東大将軍の諸葛誕を 司空 とした。
五月辛未、帝は辟雍に行幸し、群臣に命じて詩を賦させた。侍中の和逌と尚書の陳騫らが詩作に手間取り、担当官が免官を上奏した。 詔 して言う。「朕は暗愚ではあるが、文雅を愛好し、広く詩賦を招いて得失を知ろうとしたのに、このように紛糾するとは、まことに心が落ち着かない。和逌らを許す。主管者は今後、群臣は皆、古義を玩味し習得し、経典を修めて明らかにするよう戒め、朕の意にかなうようにせよ。」
乙亥の日、諸葛誕が召喚に応じず、兵を起こして反乱を起こし、揚州 刺史 の楽綝を殺害した。丙子の日、淮南の将吏・士民で諸葛誕に欺かれて誤った者を赦免した。丁丑の日、 詔 を下して言った。「諸葛誕が凶悪な乱を起こし、揚州を覆滅させた。昔、黥布が叛逆した時には漢の高祖が自ら軍を率い、隗嚻が背いた時には光武帝が西征し、また烈祖明皇帝(曹叡)が自ら呉・蜀を征伐された。これらは皆、威勢を奮い起こし、武威を震わせ輝かせるためであった。今、皇太后と朕が共に一時的に戦陣に臨み、速やかに醜い賊を平定し、東の地を安寧にすべきである」。己卯の日、 詔 を下して言った。「諸葛誕が逆乱を起こし、忠義の士を脅迫した。平寇将軍・臨渭亭侯の龐会と騎督・偏将軍の路蕃は、それぞれ配下を率い、門を斬って突出し、忠壮で勇烈であった。これは褒め称えるべきである。龐会の爵位を郷侯に進め、路蕃を亭侯に封ぜよ」。
六月 乙巳 の日、 詔 を下した。「呉の使持節・ 都督 夏口諸軍事・鎮軍将軍・沙羡侯の孫壹は、賊(呉)の一族であり、上将の位にあったが、天を畏れ命を知り、禍福を深く見極め、翻然として衆を挙げて遠く大国(魏)に帰順した。微子が殷を去り、楽毅が燕を逃れたとしても、これに勝るものはない。孫壹を侍中・車騎将軍・仮節・交州牧・呉侯とし、開府を許し辟召の儀は三司と同等とし、古代の侯伯の八命の礼に倣い、袞冕と赤舄を与え、事は豊かで厚いものとせよ」。〈臣の松之は考える。孫壹は脅迫を恐れて帰順したのであり、褒めるべき事績はない。古義に照らせば、覆い隠そうとしてかえって名が顕わになるようなものである。当時の情勢に合わせ、遠く式典に従う必要はなく、むしろ才能に応じて賞を与え、その来たる心情に報いるだけで十分であった。ましてや光栄ある八命を賜り、礼が台鼎(三公)と同等とは、過ぎていないか。招き寄せて遠方を来させるという点でも、取るべきところはない。なぜか。もし彼の将守(孫壹)が時勢と何のわだかまりもなく、終始殊寵を喜ばず、反逆心を生じさせなかったならば、反逆して恥じ入るより甚だしい辱めがあろうか。もし憂い危険が迫り、逃れなければ免れられないのであれば、必ず死を逃れて苟くも生き延びようとするだけで、栄利を望むことはないであろう。それでは高位厚禄は何のためか。魏の初めに孟達・黄権がおり、晋には孫秀・孫楷がいた。孟達・黄権の爵禄賞賜は孫壹より軽く、孫秀・孫楷の礼遇秩禄は特に優遇されていた。そして呉が平定されると、数等降格され、最初の待遇を継承しなかった。これは始めに中庸を失ったからではないか。〉
甲子の日、 詔 を下して言った。「今、車駕は項に駐留し、大将軍(司馬昭)は天罰を恭しく行い、前に進んで淮浦に臨んでいる。昔、相国や大司馬が征討する時は、皆、尚書を伴って行った。今も旧例に倣うべきである」。そこで 散騎常侍 の裴秀と給事黄門侍郎の鍾会に大将軍と共に行くことを命じた。秋八月、 詔 を下して言った。「昔、燕の刺王(劉旦)が謀反を起こした時、韓誼らが諫めて死んだが、漢朝はその子を顕著に登用した。諸葛誕が凶乱を起こした時、主簿の宣隆と部曲督の秦絜は節義を守り、事に臨んで固く争い、諸葛誕に殺された。これは比干のような親族関係がないのにその殺戮を受けた者と言える。宣隆と秦絜の子を騎都尉とし、贈り物を加えて賜り、遠近に明示して、忠義の士を特に扱うようにせよ」。
九月、大赦を行った。冬十二月、呉の大将の全端・全懌らが衆を率いて降伏した。
三年(258年)春二月、大将軍の司馬文王(司馬昭)が寿春城を陥落させ、諸葛誕を斬った。三月、 詔 を下して言った。「古来、敵を撃破した時は、その屍を集めて京観とし、これによって昏逆を懲らしめ武功を顕彰した。漢の孝武帝の元鼎年間、桐郷を聞喜と改め、新郷を獲嘉と改めたのは、南越の滅亡を顕著にしたためである。大将軍は自ら六軍を統率し、丘頭に陣営を据え、内では群凶を平定し、外では寇虜を殲滅し、功は万民を救い、名声は四海に響き渡った。敵を撃破した地には、良い名をつけるべきである。丘頭を武丘と改め、武力をもって乱を平定したことを明らかにし、後世に忘れさせないようにせよ。これも京観や二邑(聞喜・獲嘉)と同じ意義である」。
夏五月、大将軍の司馬文王を相国とし、晋公に封じ、八郡を食邑とし、九錫を加えることを命じた。文王は前後九度辞退したので、取りやめになった。
六月丙子の日、 詔 を下して言った。「昔、南陽郡で山賊が騒乱を起こし、元太守の東里衮を人質に取ろうとした時、功曹の応余が独り身で東里衮を守り、難を免れた。応余は転倒して命を落とし、身を殺して君を救った。 司徒 に下し、応余の孫の応倫を吏に任用し、節義に殉じた報いを受けさせよ」。〈『楚国先賢伝』によると、応余は字を子正といい、天性剛毅で、志は仁義を尊んだ。建安二十三年(218年)に郡の功曹となった。この時、呉と蜀は服従せず、国境は多難であった。宛の守将の侯音が山民を扇動し、城を守って反乱を起こした。応余は太守の東里衮と共に騒乱の最中、逃げ出して脱出した。侯音はすぐに騎兵を派遣して追跡させ、城から十里の地点で追いついた。賊はすぐに東里衮を射ようとし、飛び交う矢が行き交った。応余は前に進んで身をもって矢を防ぎ、七ヶ所の傷を負った。そこで追ってきた賊に言った。「侯音は狂ったように狡猾で、凶逆を起こした。大軍が間もなく到着し、誅殺されるのは近い。そなたたちは元は善人で、もとより悪心はなかったはずだ。善に戻ることを考えるべきで、なぜ彼の指揮を受けるのか。私が身代わりになって君を守り、重傷を負った。もし私が死んで君が全うされるなら、命を落としても恨みはない」。そして天を仰いで号泣し、涙を流し、血の涙が共に流れ落ちた。賊はその義烈さを見て、東里衮を害さずに解放した。賊が去った後、応余も命を絶った。征南将軍の 曹仁 が侯音を討伐平定し、応余の行状を上表し、祭礼を修めた。太祖( 曹操 )はこれを聞き、長く嘆息し、荊州に命じて門閭を再び顕彰し、千斛の穀物を賜った。東里衮は後に 于禁 の司馬となり、『魏略』の「游説伝」に見える」。〉
辛卯の日、淮南の功績を大いに論じ、爵位を封じ賞を行い、それぞれ差等をつけた。
秋八月甲戌の日、驃騎将軍の王昶を 司空 とした。丙寅の日、 詔 を下して言った。「老人を養い教化を興すことは、三代が風化を樹てて不朽を垂れる所以である。必ず三老・五更を置いて至敬を尊び、その言葉を乞い教えを受け入れ、惇史に著わし、その後六合が流れを受け、下民が見て感化されるようにする。宜しく妙に德行を選び、その選に充てるべし。関内侯の王祥は、仁を履み義を秉り、雅志は淳固である。関内侯の鄭小同は、温恭孝友で、礼に帥いて誤りがない。王祥を三老とし、小同を五更とするように。」車駕自ら群司を率い、古礼を躬行した。
この年、青龍と黄龍が 頓丘 ・冠軍・陽夏県の境界の井戸の中に相次いで現れた。
四年春正月、黄龍二頭が寧陵県の境界の井戸の中に現れた。夏六月、 司空 の王昶が 薨去 した。秋七月、陳留王の曹峻が 薨去 した。冬十月丙寅の日、新城郡を分割し、再び上庸郡を置いた。十一月癸卯の日、車騎将軍の孫壹が婢に殺害された。
五年春正月朔、日蝕があった。夏四月、 詔 を下して有司に前の命令を遵守させ、再び大将軍司馬文王の位を相国に進め、晋公に封じ、九錫を加えた。