三國志
魏書・明帝紀
明皇帝は 諱 を叡といい、 字 は元仲、文帝の太子である。生まれたときから太祖に愛され、常に左右に侍らせた。〈『魏書』によると、帝は数歳の時から聡明な姿があり、武皇帝はこれを異とし、「我が基盤は爾に三世に及ぶであろう」と言った。毎回の朝宴や会同では、侍中や近臣と共に帷幄の中に並んだ。学問を好み多くのことを知り、特に法理に留意した。〉十五歳の時、武徳侯に封ぜられ、黄初二年には斉公、三年には平原王となった。母が誅殺されたため、後継者として立てられなかった。〈『魏略』によると、文帝は郭后に子がなかったため、 詔 して帝を 養子 とさせた。帝は母が非業の死を遂げたことを不満に思っていた。やむなく、郭后を敬って仕え、朝夕に長御を通じて起居を問い、郭后もまた自ら子がないため、慈愛を加えた。文帝は当初、帝が喜ばないのを見て、他の姫の子である京兆王を後継者にしようと考え、長く太子に立てなかった。『魏末伝』によると、帝は常に文帝に従って狩猟し、親子の鹿を見た。文帝が母鹿を射殺し、帝に子鹿を射るよう命じたが、帝は従わず、「陛下は既にその母を殺されました。臣は再びその子を殺すに忍びません」と言い、涙を流した。文帝はすぐに弓矢を置き、これを深く奇異とし、後継者とする意思を固めた。〉七年夏五月、帝の病が重くなり、皇太子に立てられた。丁巳の日、皇帝の位に即き、大赦を行った。皇太后を太皇太后と尊称し、皇后を皇太后とした。諸臣の封爵はそれぞれ差等があった。〈『世語』によると、帝は朝士と普段から接しておらず、即位後、臣下たちはその風采を聞きたいと思っていた。数日後、侍中の劉曄だけを引見し、終日語り合った。人々は傍で聞いていたが、劉曄が出てくると、「どうだったか」と尋ねた。劉曄は「秦始皇、漢の孝武帝の類で、才能はわずかに及ばないだけだ」と言った。〉癸未の日、母の甄夫人を追謚して文昭皇后とした。壬辰の日、皇弟の蕤を陽平王に立てた。
八月、 孫権 が江夏郡を攻撃し、太守の文聘が堅守した。朝廷で議論し、兵を発して救援しようとしたが、帝は言った。「孫権は水戦に慣れており、敢えて船から下りて陸上攻撃するのは、ほとんど不意を突こうとしているからだ。今は既に文聘と対峙しており、攻撃と守備の勢いは倍の差があるので、結局長くは続けられない。」先に治書侍御史の荀禹を派遣して辺境を慰労していたが、荀禹が到着し、江夏で通過した県の兵と従っていた歩騎千人を率いて山に登り烽火を上げると、孫権は退却した。
辛巳の日、皇子の冏を清河王に立てた。呉の将軍の諸葛瑾、張霸らが襄陽を侵し、撫軍大将軍の司馬宣王が討伐してこれを破り、張霸を斬った。征東大将軍の曹休もまた尋陽でその別将を破った。功績に応じて賞を施行し、それぞれ差等があった。冬十月、清河王の冏が 薨去 した。十二月、 太尉 の鍾繇を太傅とし、征東大将軍の曹休を大司馬とし、中軍大将軍の曹真を大将軍とし、 司徒 の華歆を 太尉 とし、 司空 の王朗を 司徒 とし、鎮軍大将軍の陳羣を 司空 とし、撫軍大将軍の司馬宣王を驃騎大将軍とした。
太和元年春正月、郊祀で武皇帝を祀って天に配し、明堂で文皇帝を宗祀して上帝に配した。江夏郡南部を分割し、江夏南部都尉を設置した。西平の麴英が反乱を起こし、臨 羌 令と西都長を殺害したため、将軍の郝昭、鹿磐を派遣して討伐し斬った。二月辛未の日、帝は藉田で耕作した。辛巳の日、鄴に文昭皇后の寝廟を建立した。丁亥の日、東郊で朝日を祭った。夏四月乙亥の日、五銖銭を発行した。甲申の日、初めて宗廟を営造した。秋八月、西郊で夕月を祭った。冬十月丙寅の日、東郊で兵を訓練した。焉耆王が子を派遣して入侍させた。十一月、皇后の毛氏を立てた。天下の男子に爵位を人二級賜り、鰥寡孤独で自活できない者に穀物を賜った。十二月、皇后の父の毛嘉を列侯に封じた。新城太守の孟達が反乱を起こしたため、 詔 して驃騎将軍の司馬宣王に討伐させた。〈『三輔決録』によると、伯 郎 は涼州の人で、名は休を令さない。その注に曰く、伯郎は姓は孟、名は他、扶風の人である。霊帝の時、 中常侍 の張譲が朝政を専断し、譲の監奴が家事を管理していた。彼は官途で成功せず、家財を全て監奴に賄賂し、親戚関係を結び、数年で家業が破産した。多くの奴隷たちは恥じ、彼の望みを尋ねると、彼は「卿らに拝礼されたいだけだ」と言った。奴隷たちは長く恩を受けていたので、皆承諾した。当時、賓客で張譲に面会を求める者は、門前に車が常に数百乗あり、数日経っても通じない者もいた。彼が最後に到着すると、奴隷たちは彼の到着を待ち、皆車を迎えて拝礼し、直接彼の車だけを中に入れた。人々は皆驚き、彼が張譲と親しいと思い、争って珍しい物を彼に贈った。彼はそれを受け取り、全て張譲に賄賂し、張譲は大いに喜んだ。彼はまた蒲桃酒一斛を張譲に贈り、すぐに涼州 刺史 に任命された。彼の子に達が生まれ、幼少で蜀に入った。その蜀での事跡は劉封伝にある。『魏略』によると、孟達は延康元年に部曲四千余家を率いて魏に帰順した。文帝が初めて王位に即いた時、既に孟達のことを知っており、その来訪を聞いて大いに喜び、貴臣で識見のある者を派遣して観察させた。帰って「将帥の才である」と言う者もいれば、「卿相の器である」と言う者もおり、王はますます孟達を敬った。迎えて孟達に書を送り、「近くに命令があるが、まだ十分に旨を伝えられない。なぜか?昔、伊摯は商を背いて周に帰し、百里奚は虞を去って秦に入り、楽毅は鴟夷子皮に感じて蟬の抜け殻のように脱し、王遵は逆順を識って去就した。皆、興廃の符徴を審らかにし、成敗の必然を知ったので、丹青はその容貌を画き、良史はその功勳を載せた。聞くところによると、卿の姿態は純粋で優れ、器量は卓越している。時に乗じて才能を発揮し、名声を歴史に残すべきである。今、翻然として清流に鱗を洗うのは、甚だ嘉楽すべきことである。虚心に西を望めば、依依として旧の如し。筆を下ろし文を綴れば、歓心これに従う。昔、虞卿は趙に入り、再び会って相国に取り立てられ、陳平は漢に就き、一度会って参乗となった。孤は今、卿に対しては、往時の者たちよりも情が深い。故に、所御の馬や物を贈って忠愛を明らかにする。」また言った。「今、海内は清く定まり、万里は一統し、三方の辺境には風塵の警めがなく、中夏には狗吠の憂いがない。このため、網を弛め禁を闊にし、世と疑うことなく、保官は空虚で、初めから資任はない。卿が来て就くならば、孤の意を明らかにせよ。慎んで家人をして道路に繽紛させ、親しい者が疎遠な者を驚かせることがないようにせよ。もし卿が来て会いたいならば、まず部曲を安んじ、守るべきものを固め、それからゆっくりと軽騎で東に来るがよい。」孟達が譙に到着すると、進見して閑雅で、才弁は人に優り、衆人は皆注目した。また、王が近くに出る時、小輦に乗り、孟達の手を執り、その背を撫でて戯れて言った。「卿は 劉備 の刺客ではないだろうな?」遂に同乗した。また 散騎常侍 を加えて拝し、新城太守を領し、西南の任を委ねた。当時、衆臣の中には、待遇が粗雑すぎる、また方任を委ねるのは適切でないと考える者もいた。王はこれを聞いて言った。「我は彼に他意がないことを保証する。また、蓬の矢で蓬の中を射るようなものだ。」孟達は文帝に寵愛され、また桓階、夏侯尚と親善したが、文帝が崩御した時、桓階と夏侯尚は既に死去しており、孟達は自らが寄留の身で長く辺境にいたため、心中安らかでなかった。 諸葛亮 はこれを聞き、密かに孟達を誘おうとし、数回書を送って招いた。孟達はこれに返答した。魏興太守の申儀は孟達と不和で、密かに上表して孟達が蜀と内通していると告げたが、帝は信じなかった。司馬宣王は参軍の梁幾を派遣して察知させ、また入朝を勧めた。孟達は驚き恐れ、遂に反乱を起こした。干宝の『晋紀』によると、孟達が初めて新城に入った時、白馬塞に登り、嘆息して言った。「劉封、申耽は、金城千里を拠りながらこれを失ったのか!」〉
二年春正月、宣王が新城を攻め落とし、孟達を斬り、その首を伝送した。新城の上庸・武陵・巫県を分割して上庸郡とし、錫県を錫郡とした。
蜀の大将諸葛亮が辺境を侵し、天水・南安・安定の三郡の官吏と民衆が反乱して亮に呼応した。大将軍曹真を派遣して関右を 都督 させ、兵を進めた。右将軍 張郃 が街亭で諸葛亮を撃ち、大破した。亮は敗走し、三郡は平定された。丁未、帝は長安に行幸した。夏四月丁酉、 洛陽 宮に帰還した。死刑以下の囚人を赦免した。 乙巳 、諸葛亮討伐の功績を論じ、爵位を封じ食邑を増やすなどそれぞれ差をつけた。五月、大旱魃が起こった。六月、 詔 を下した。「儒を尊び学を貴ぶのは、王道の教えの根本である。近頃儒官の中にはその任にふさわしくない者もおり、どうして聖人の道を宣べ明らかにできようか。博士を厳選し、侍中・常侍の任に堪える才能ある者を選べ。郡国に命を下し、貢士は経学を第一とするようにせよ。」秋九月、曹休が諸軍を率いて皖に至り、呉の将陸議と石亭で戦い、敗北した。乙酉、皇子の穆を立てて繁陽王とした。庚子、大司馬曹休が 薨去 した。冬十月、 詔 を下し公卿近臣に良将をそれぞれ一人ずつ推挙させた。十一月、 司徒 王朗が 薨去 した。十二月、諸葛亮が陳倉を包囲した。曹真が将軍費曜らを派遣してこれを防がせた。遼東太守公孫恭の兄の子の淵が恭から位を奪い、淵を以て遼東太守を領させた。
三年夏四月、元城王の礼が 薨去 した。六月癸卯、繁陽王の穆が 薨去 した。戊申、高祖 大長秋 を追尊して高皇帝とし、夫人の呉氏を高皇后とした。
秋七月、 詔 を下した。「礼によれば、王后に嗣子がなければ、支子を選んで立てて太宗を継がせる。その場合は正統を継ぎ公義を奉ずべきであり、どうして再び私的な親族を顧みることができようか。漢の宣帝は昭帝の後を継いだが、悼考に皇号を加えた。哀帝は外藩から迎えられて立ったが、董宏らが滅びた秦の故事を引き合いに出し、時の朝廷を誤らせ、恭皇を尊び、京都に廟を立て、さらに藩妾を寵愛して長信宮の比とし、前殿で昭穆を叙し、東宮で四つの位を並べた。僭越で度を超え、人神もこれを祐さず、師丹の忠正な諫言を罪とし、丁氏・傅氏が焼かれるような禍いを招いた。これ以降、これが相次いで行われた。昔、魯の文公が逆祀を行った罪は夏父にあり、宋国が法度に外れたことは華元が非難された。公卿有司に命じ、深く前世の行いを戒めとせよ。後継者が万一諸侯から入って大統を奉ずるようなことがあれば、人の後を継ぐ者の道理を明らかにすべきである。佞邪で時の君主にへつらい諂い、正統を犯すような不正の号を妄りに建て、父を皇と称し、母を后と称するようなことを敢えて導く者がいれば、股肱の大臣はこれを誅殺し赦してはならない。これを金策に書き、宗廟に蔵し、今の法典に明記せよ。」
冬十月、平望観を改めて聴訟観とした。帝は常々「獄事は天下の生命に関わるものだ」と言い、大獄を裁くたびに、よく観に行幸して臨席し聴いた。
当初、洛陽の宗廟がまだ完成しておらず、神主(位牌)は鄴の廟にあった。十一月、廟がようやく完成したので、太常の韓曁に節を持たせて鄴から高皇帝( 曹騰 )、太皇帝( 曹嵩 )、武帝( 曹操 )、文帝(曹丕)の神主を迎えさせ、十二月己丑の日に到着し、神主を廟に奉安した。
癸卯の日、大月氏の王波調が使者を派遣して貢物を献上したので、調を親魏大月氏王に任じた。
四年の春二月壬午の日、 詔 を下して言った。「世の質朴さと文飾は、教化に従って変化する。戦乱以来、経学は廃れ絶え、後進の者が進む道は、典謨(経典)によらない。これは訓導が行き届いていないのか、それとも進用される者が徳によって顕れないからなのか。郎吏で一経に通じ、才能が民を治めるに足る者は、博士が試験を行い、その高第の者を抜擢して、速やかに任用せよ。その浮華で道の根本に務めない者は、皆罷免し退けること。」戊子の日、太傅と三公に 詔 して、文帝の『典論』を石碑に刻み、廟門の外に立てさせた。癸巳の日、大将軍の曹真を大司馬とし、驃騎将軍の司馬宣王( 司馬懿 )を大将軍とし、遼東太守の公孫淵を車騎将軍とした。夏四月、太傅の鍾繇が 薨去 した。六月戊子の日、太皇太后(卞氏)が崩御した。丙申の日、上庸郡を廃止した。秋七月、武宣卞后(卞皇后)を高陵に合葬した。 詔 して大司馬の曹真、大将軍の司馬宣王に蜀を討伐させた。八月辛巳の日、東巡を行い、使者を遣わして特牛(一頭の牛)を用いて中嶽(嵩山)を祭祀した。乙未の日、許昌宮に行幸した。九月、大雨が降り、伊水、洛水、黄河、漢水が氾濫した。 詔 して曹真らに軍を返させた。冬十月乙卯の日、行幸から洛陽宮に戻った。庚申の日、令を下した。「罪が殊死(斬刑)に当たらない者は、それぞれ差等に応じて贖罪を許す。」十一月、太白(金星)が歳星(木星)を犯した。十二月辛未の日、文昭甄后(甄皇后)を朝陽陵に改葬した。丙寅の日、 詔 して公卿に賢良を推挙させた。
五年の春正月、帝は藉田で耕作した。三月、大司馬の曹真が 薨去 した。諸葛亮が天水を侵したので、 詔 して大将軍の司馬宣王にこれを防がせた。昨冬十月からこの月まで雨が降らず、辛巳の日、大雩(雨乞いの大祭)を行った。夏四月、鮮卑の附義王軻比能がその種族の人々と丁零の大人(首長)児禅を率いて幽州に来て名馬を貢献した。護匈奴中郎将を再び置いた。秋七月丙子の日、諸葛亮が退却したので、封爵と位階を増す者にそれぞれ差等があった。乙酉の日、皇子の殷が生まれたので、大赦を行った。
八月、 詔 を下して言った。「古の諸侯の朝聘は、親族を厚く睦まじくし、万国を協和させるためであった。先帝は令を定め、諸王が京都にいることを望まれなかったのは、幼主が位にあり、母后が政務を摂る時、微細なことから防ぎ、次第に進めて、盛衰に関わるからである。朕は諸王に会わないこと十二年、悠々たる思い、どうして思いを起こさずにいられようか。諸王および宗室の公侯にそれぞれ嫡子一人を率いて朝参させること。後に少主、母后が宮中にいる場合は、先帝の令の通りとする。これを令に明記して布告せよ。」十一月乙酉の日、月が軒轅大星を犯した。戊戌の晦の日、日食があった。十二月甲辰の日、月が鎮星(土星)を犯した。戊午の日、 太尉 の華歆が 薨去 した。
六年の春二月、 詔 を下して言った。「古の帝王が諸侯を封建したのは、王室を藩屏とするためである。詩に云わないか、『徳を懐けば 維 寧く、宗子は 維 城なり』と。秦、漢は周を継いだが、或いは強く或いは弱く、共にその中道を失った。大魏が創業し、諸王が国を開いたが、時の宜しきに従い、一定の制度がなく、永く後世の法とするには適さない。諸侯王を改封し、皆郡を以て国とすることとする。」三月癸酉の日、東巡を行い、通りかかった所で高齢者、鰥寡孤独を慰問し、穀物と布帛を賜った。乙亥の日、月が軒轅大星を犯した。夏四月壬寅の日、許昌宮に行幸した。甲子の日、初めて新しい果物を廟に供えた。五月、皇子の殷が 薨去 し、追封して安平哀王と諡した。秋七月、衛尉の董昭を 司徒 とした。九月、摩陂に行幸し、許昌宮を修築し、景福殿、承光殿を建てた。冬十月、殄夷将軍の田 豫 が衆を率いて成山で呉の将軍周賀を討ち、賀を殺した。十一月丙寅の日、太白(金星)が昼間に現れた。翼宿に彗星が現れ、太微垣の上将星に近づいた。庚寅の日、陳思王の曹植が 薨去 した。十二月、行幸から許昌宮に戻った。
青龍元年の春正月甲申の日、青龍が郟県の摩陂の井戸の中に現れた。二月丁酉の日、摩陂に行幸して龍を見た。これにより年号を改め、摩陂を龍陂と改称し、男子に爵位を人二級賜い、鰥寡孤独には今年の租賦を免除した。三月甲子の日、 詔 して公卿に賢良で篤実な行いの士をそれぞれ一人推挙させた。夏五月壬申の日、 詔 して故大将軍の 夏侯惇 、大司馬の 曹仁 、車騎将軍の 程昱 を太祖(曹操)の廟庭で祀らせた。戊寅の日、北海王の曹蕤が 薨去 した。閏月庚寅の朔の日、日食があった。丁酉の日、宗室の娘で諸王の娘でない者を皆邑主に改封した。 詔 して諸郡国の山川で祠典に載っていないものは祭祀してはならないとした。六月、洛陽宮の鞠室(蹴鞠場)で火災があった。
塞を守る鮮卑の大人(首長)歩度根が反乱した鮮卑の大人軻比能と内通した。 并 州 刺史 の畢軌が上表し、すぐに軍を出して外では軻比能を威圧し、内では歩度根を鎮めようとした。帝は上表文を読んで言った。「歩度根は軻比能に誘われて、自ら疑心を抱いている。今、畢軌が軍を出すのは、かえって二部を驚かせて一つに合わせるだけであって、何を威圧し鎮めるというのか。」急いで畢軌に勅し、軍を出す場合は決して塞を越えて句注山を過ぎてはならないと命じた。 詔 書が届く前に、畢軌はすでに軍を進めて陰館に駐屯し、将軍の蘇尚、董弼を派遣して鮮卑を追撃させていた。軻比能は息子に千余騎を率いさせて歩度根の部落を迎えさせ、蘇尚、董弼と遭遇し、楼煩で戦い、二将は敗死した。歩度根の部落は皆反乱して塞外に出て、軻比能と合流して辺境を侵した。 驍 騎将軍の秦朗に中軍を率いさせて討伐させると、敵は漠北に逃げた。
秋九月、安定で塞を守る匈奴の大人胡薄居姿職らが反乱した。司馬宣王が将軍の胡遵らを派遣して追討させ、撃破して降伏させた。
冬十月、歩度根部落の大人である戴胡阿狼泥らが 并 州に赴いて降伏したため、秦朗は軍を率いて帰還した。
十二月、公孫淵が孫権の派遣した使者張弥・許晏の首を斬って送ってきたため、公孫淵を大司馬・楽浪公に任じた。
二年の春二月乙未、太白が熒惑を犯した。癸酉、 詔 して言った、「鞭は官刑と為し、怠慢を糾す所以であるが、近頃多くは無辜の者が死んでいる。鞭杖の制を減じ、令に著すべし」。三月庚寅、山陽公が薨じた。帝は素服で哀悼し、使者を遣わし節を持たせて喪事を典護させた。己酉、大赦した。夏四月、大疫が発生した。崇華殿が災害に遭った。丙寅、有司に 詔 して太牢を以て文帝廟に告祠させた。山陽公を追謚して漢の孝献皇帝とし、漢の礼をもって葬った。
この月、諸葛亮が斜谷より出で、渭南に屯した。司馬宣王が諸軍を率いてこれを拒いだ。宣王に 詔 して、「ただ堅壁を守りてその鋒を挫くべし。彼は進んで志を得ず、退いて戦うことなく、久しく停まれば糧尽き、虜略して獲る所なく、必ず走らん。走るを追い、逸を以て労を待つは、全勝の道なり」と言った。
五月、太白が昼に見えた。孫権が居巣湖口に入り、合肥新城に向かい、また将の陸議・孫韶を遣わし各々万余人を率いて淮・沔に入った。六月、征東将軍満寵が進軍してこれを拒いだ。寵は新城の守りを抜き、賊を寿春に致さんとしたが、帝は聞き入れず、言った、「昔、漢の光武帝が兵を遣わして略陽を県拠させ、終に隗囂を破った。先帝は東に合肥を置き、南に襄陽を守り、西に祁山を固め、賊来れば常に三城の下で破れたのは、地に必ず争う所あるが故なり。仮に権が新城を攻むるも、必ず抜く能わざるべし。諸将に勅して堅く守らしめよ。我自ら往きてこれを征せん。比至るに、恐らく権は走らん」。秋七月壬寅、帝自ら龍舟に御し東征した。権が新城を攻め、将軍張頴らが拒守して力戦した。帝の軍が未だ数百里に至らざるうちに、権は遁走し、議・韶らもまた退いた。群臣は大將軍が方に諸葛亮と相持して未だ解けず、車駕は西に長安に幸すべきと為した。帝は言った、「権走り、亮胆破る。大將軍以てこれを制す。我憂い無し」。遂に進軍して寿春に幸し、諸将の功を録し、封賞各々差有り。八月己未、大いに兵を曜し、六軍を饗し、使者を遣わし節を持たせて合肥・寿春の諸軍を犒労した。辛巳、行きて許昌宮に還った。
司馬宣王と亮が相持し、連日囲みを積む。亮は数たび挑戦したが、宣王は堅く塁を守り応じなかった。会に亮が卒し、その軍は退き還った。
冬十月乙丑、月が鎮星及び軒轅を犯した。戊寅、月が太白を犯した。十一月、京都に地震有り、東南より来たり、隠々として声有り、屋瓦を揺るがした。十二月、有司に 詔 して大辟を刪定し、死罪を減じた。
三年の春正月戊子の日、大将軍司馬宣王を 太尉 とした。己亥の日、朔方郡を再び設置した。京都に大疫が流行した。丁巳の日、皇太后が崩御した。乙亥の日、寿光県に隕石が落ちた。三月庚寅の日、文徳郭后を葬り、首陽陵澗の西に陵を営み、終制の通りとした。〈顧愷之の『啓蒙注』に言う。魏の時代に周王の墓を開いた者がいて、殉葬された女子を得た。数日を経て息があり、数か月で話せるようになった。年は二十ほどであった。京師に送られ、郭太后は彼女を慈しみ養った。十数年後、太后が崩御すると、哀しみ思い泣き、一年余りで死んだ。〉
この時、洛陽宮を大いに造営し、昭陽殿・太極殿を建て、総章観を築いた。百姓は農時を失い、直臣の楊阜・高堂隆らがそれぞれしばしば激しく諫めたが、聞き入れることはできなかったものの、常に寛容に扱った。〈『魏略』に言う。この年、太極諸殿を建て、総章観を築き、高さ十余丈、その上に翔鳳を建てた。また芳林園の中に陂池を造り、楫櫂越歌を行った。また列殿の北に八坊を立て、諸才人を順序に従ってそこに住まわせ、貴人・夫人以上は南に移して付けた。その秩石は百官の数に擬した。帝は常に内で遊宴し、書を理解し信頼できる女子六人を選び、女尚書とし、外からの上奏文を処理させ、裁可を決めさせた。貴人以下から尚保まで、及び掖庭の掃除を担当し、伎歌を習う者まで、それぞれ千数人いた。穀水を通して九龍殿の前を流し、玉井綺欄とし、蟾蜍が水を受け、神龍が吐き出した。博士の馬均に司南車を作らせ、水転百戲を行わせた。歳首には巨獣を建て、魚龍曼延、弄馬倒騎を演じ、漢の西京の制度を備え、閶闔諸門の闕外に罘罳を築いた。太子舎人の張茂は、呉・蜀がしばしば動き、諸将が出征しているのに、帝が盛んに宮室を興し、玩飾に心を留め、賜与に限度がなく、国庫が空になったこと、また、以前に吏民の妻に嫁いだ士女を没収し、再び兵士に配すること、生口による自贖を認めた上で、さらに容姿の良い者を選んで掖庭に入れたことを憂い、上書して諫めて言った。「臣は 詔 書を拝見しました。士女で士以外に嫁いだ者は全て没収し、戦士に配するというのは、確かに一時の便宜ではありますが、大いなる教化の善きことではありません。臣が論じさせてください。陛下は天の子です。百姓・吏民もまた陛下の子です。礼では、君子と小人に賜る日を同じにしないのは、貴賤を区別するためです。吏は君子に属し、士は小人です。今、彼らから奪ってこれに与えるのは、兄の妻を奪って弟に妻とするのと異ならず、父母の恩は偏ります。また 詔 書では、生口で年齢・容色が妻に相当する者で代えることを認めているので、富者は家産を傾け、貧者は借金をして、高く生口を買って妻を贖います。県官は兵士に配する名目で、実は掖庭に入れ、醜悪な者だけを兵士に出します。妻を得た者も必ずしも喜ぶ心はなく、妻を失った者には必ず憂いの色があり、困窮し愁える者は皆、志を得ません。君主が天下を持ちながら万姓の歓心を得られないなら、危うくならない者は稀です。しかも軍師は外に数千万人おり、一日の費用は千金に止まりません。天下の賦税を挙げてこの役に奉じても、なお足りず、ましてや宮廷に定員外で名簿にない女子がおり、椒房や母后の家に賞賜が横行し、内外で引き合い、その費用は軍の半分です。昔、漢武帝は神仙を好み、方士を信じ、地を掘って海とし、土を盛って山としたが、頼みとしたのは当時天下が一つで、敢えて争う者がいなかったからです。衰乱以来、四、五十年、馬は鞍を離さず、士は鎧を脱がず、一たび交戦するごとに、血が野を染め、傷つき痛み叫ぶ声は今も止みません。なお強寇は国境にあり、魏室を危うくしようと図っています。陛下が兢兢業業として、節約を尊び、天下を安んずる道を思わず、奢靡に務め、中尚方に純粋に玩弄の物を作らせ、後園で誇示し、承露の盤を建てるのは、確かに耳目を快くする観覧ではありますが、また十分に寇讎の心を駆り立てるものです。惜しいことです、堯舜の節倹を捨てて、漢武の奢侈の事を行うのは、臣はひそかに陛下が取られないことを願います。願わくは陛下が沛然として 詔 を下し、万機の事で無益で損なうものを全て除去し、除いた無益の費用で、将士の父母妻子で飢寒にある者に厚く賜い、民の苦しむことを問い、その憎むものを除き、倉 廩 を満たし、甲兵を整え、謹み恭しくして天下に臨まれることです。このようにすれば、呉賊は面縛し、蜀虜は輿櫬し、誅伐を待たずして自ら服し、太平の路は日を数えて待つことができます。陛下は海表に神思を労する必要がなく、軍師は高枕し、戦士は備員となります。今、群公は皆、舌を結んでいますが、臣が敢えて瞽言を献上しないわけにはいかないのは、臣が以前に要言を上奏し、散騎が臣の書を奏上し、『聴諫篇』を善しとした時、 詔 に『それでよい』と言われ、臣を太子舎人に抜擢されたからです。また臣は書を作って、人臣として諫諍できないことを諷したのに、今、諫めるべき事がありながら臣が諫めないなら、これは書を作って虚妄を言いながら、実際には言えないことになります。臣は五十歳になり、常に死ぬまで国に報いることがないことを恐れています。ゆえに身を投げ出し、命を捨て、冒昧にも聞き届けられることを願い、陛下の裁察を仰ぎます。」書が通じると、上は左右を顧みて言った。「張茂は郷里の故を恃んでいるのだ。」事を散騎に付けただけだった。茂は字を彦林といい、沛の人である。〉
秋七月、洛陽の崇華殿が火災に遭った。八月庚午、皇子の芳を斉王に、詢を秦王に立てた。丁巳、行幸から洛陽宮に戻った。役人に命じて崇華殿を再建させ、名を九龍殿と改めた。冬十月己酉、中山王の衮が 薨去 した。壬申、太白星が昼間に現れた。十一月丁酉、許昌宮に行幸した。
四年春二月、太白星が再び昼間に現れ、月が太白星を犯し、さらに軒轅の一星を犯し、太微垣に入って出た。夏四月、崇文観を設置し、文章をよくする者を徴用してこれを充てた。五月乙卯、 司徒 の董昭が 薨去 した。丁巳、粛慎氏が楛矢を献上した。
六月壬申、 詔 を下して言った。「有虞氏は象刑を描いて民が犯さず、周人は刑罰を置いて用いなかった。朕は百王の末にあり、上世の風を追い慕うが、何と遠く隔たっていることか。法令がますます明文化されると、犯す者はますます多く、刑罰がますます増えても、奸悪は止まらない。以前、大辟の条項を調べて多くを免除したのは、生民の命を救おうとする朕の深い思いからである。それなのに郡国の獄で死ぬ者は、一年の中ですでに数百を超える。これは朕の訓導が純粋でなく、民に罪を軽んじさせたのか、それとも苛酷な法がまだ残っていて、民を陥穽に落としているのか。役人は獄事を審議して死刑を緩め、必ず寛大簡素に従え。また恩赦を乞う者について、言葉がまだ出ていないのに獄が判決を報告するのは、道理を究め実情を尽くすものではない。廷尉および天下の獄官に命じる。すべて死罪で獄案が確定した者で、謀反および手ずからの殺人でない者は、速やかにその親族に知らせ、恩赦を乞う者がいれば、奏上当の文書とともに上奏させよ。朕は彼らを全うする方法を考えよう。これを天下に布告して、朕の意を明らかにせよ。」
秋七月、高句驪王の宮が孫権の使者である胡 衞 らの首を斬って送り、幽州に届けた。甲寅、太白星が軒轅の大星を犯した。冬十月己卯、行幸から洛陽宮に戻った。甲申、大辰(心宿)に星が彗星のように現れた。乙酉、また東方に彗星のように現れた。十一月己亥、彗星が現れ、宦者(星官名)の天紀星を犯した。十二月癸巳、 司空 の陳羣が 薨去 した。乙未、許昌宮に行幸した。
景初元年春正月壬辰、山茌県で黄龍が現れたと報告があった。これにより役人が上奏し、魏は地統を得たので、建丑の月(十二月)を正月とすべきだと主張した。三月、暦を定めて年号を改め、孟夏四月とした。服色は黄を尊び、犠牲は白を用い、軍事には黒い頭の白馬に乗り、大赤の旗を立て、朝会には大白の旗を立てた。『大和暦』を『景初暦』と改称した。その春夏秋冬の孟仲季月は正歳(正月)とは異なるが、郊祀・迎気・礿祠・蒸甞・巡狩・蒐田・分至啓閉・時令の公布・中気の早晚・民事の敬授については、すべて正歳の斗建を暦数の順序とした。
五月己巳、行幸から洛陽宮に戻った。己丑、大赦を行った。六月戊申、京都で地震があった。己亥、 尚書令 の陳矯を 司徒 とし、尚書右 僕射 の 衞 臻を 司空 とした。丁未、魏興郡の魏陽、錫郡の安富、上庸を分けて上庸郡とした。錫郡を廃止し、錫県を魏興郡に属させた。
有司が上奏した。「武皇帝は乱を治めて正に復し、魏の太祖とされ、楽舞には武始の舞を用います。文皇帝は天に応じて命を受け、魏の高祖とされ、楽舞には咸熙の舞を用います。陛下は制度を制定し治世を興し、魏の烈祖とされ、楽舞には章武の舞を用います。三祖の廟は万世にわたって廃されず、その他の四廟は親等が尽きれば順次廃され、周の后稷、文王、武王の廟祧の制度のようになります」。〈孫盛が言う。諡は行いを表し、廟は容貌を留めるもので、いずれも既に亡くなった後に顕著になるものであり、始めを推し究めて終わりを要約し、百世に示すためのものである。その年にあって逆に祖宗を制定し、終わらないうちに予め自らを尊び顕すことはない。昔、華楽は厚葬によって非難を招き、周の人は凶事を予め行って礼に背いた。魏の諸官はここにおいて正道を失ったのである。〉
秋七月丁卯、 司徒 の陳矯が 薨去 した。孫権が将軍の朱然ら二万人を派遣して江夏郡を包囲したが、 荊州 刺史 の胡質らがこれを撃退し、朱然は退却した。初め、孫権は使者を海路で高句麗に派遣して連絡を取り、遼東を襲撃しようとした。そこで幽州 刺史 の毌丘儉に諸軍および鮮卑・烏丸を率いて遼東の南境に駐屯させ、璽書をもって公孫淵を召還しようとした。淵は兵を起こして反逆し、儉は軍を進めて討伐しようとしたが、ちょうど十日間雨が続き、遼水が大いに増水したため、 詔 によって儉に軍を引き返させた。右北平の烏丸単于の寇婁敦、遼西の烏丸 都督 の王護留らは遼東に居住していたが、配下の民衆を率いて儉に従い内属した。己卯、 詔 して遼東の将吏・士民で淵に脅迫され投降できなかった者を、すべて赦免した。辛卯、太白星が昼間に現れた。淵は儉が引き返した後、ついに自立して燕王と称し、百官を置き、年号を紹漢元年とした。
詔 して 青州 ・ 兗州 ・幽州・ 冀州 の四州で大規模に海船を建造させた。九月、冀州・兗州・ 徐州 ・ 豫 州の四州の民が水害に遭い、侍御史を派遣して溺死した者や財産を失った者を巡行調査し、現地で倉を開いて救済した。庚辰、皇后の毛氏が卒去した。冬十月丁未、月が熒惑星を犯した。癸丑、悼毛后を愍陵に葬った。乙卯、洛陽の南の委粟山に営んで圜丘とした。〈《魏書》に 詔 を載せている。「帝王が天命を受ける者は、みな天地を恭しく承けて神明を顕わし、世統を尊び祀って功德を明らかにする。ゆえに先代の典が既に著わされれば、禘郊祖宗の制度が整うのである。昔、漢朝の初めは、秦が学問を滅ぼした後に当たり、残欠を採り集めて郊祀を整え、甘泉の后土、雍宮の五畤から、神祇の兆位に至るまで、多くは経典に見えず、このため制度は常ならず、あちらこちらと変わり、四百余年の間、禘祀は廃されていた。古代に更に立てられたものは、遂に欠けるところがあった。曹氏の世系は有虞氏から出ており、今、圜丘を祀り、始祖の帝舜を配祀し、圜丘を号して皇皇帝天とする。方丘で祭るものを皇皇后地とし、舜の妃の伊氏を配祀する。天郊で祭るものを皇天の神とし、太祖武皇帝を配祀する。地郊で祭るものを皇地の祇とし、武宣后を配祀する。皇考高祖文皇帝を明堂で宗祀し、上帝に配祀する」。晋の泰始二年に至り、圜丘・方丘の二至の祀りを南北郊に併合した。〉十二月壬子冬至、初めて祭祀を行った。丁巳、襄陽郡の臨沮・宜城・旍陽・邔〈邔の音は其己の反〉の四県を分離し、襄陽南部都尉を置いた。己未、有司が上奏して文昭皇后の廟を京都に建立した。襄陽郡の鄀葉県を分離して義陽郡に属させた。〈《魏略》に言う。この年、長安の諸鐘簴・駱駝・銅人・承露盤を移した。盤は折れ、銅人は重くて運べず、霸城に留めた。大いに銅を発して銅人二体を鋳造し、翁仲と号し、司馬門外に列坐させた。また黄龍・鳳凰をそれぞれ一体ずつ鋳造し、龍の高さは四丈、鳳凰の高さは三丈余りで、内殿の前に置いた。芳林園の西北隅に土山を築き、公卿・群僚に皆土を背負わせて山とし、その上に松・竹・雑木・善草を植え、山禽・雑獣を捕らえてその中に放した。《漢 晉 春秋》に言う。帝が盤を移そうとしたところ、盤が折れ、その音は数十里に聞こえ、金狄(銅人)が泣いたともいう。そこで霸城に留めた。《魏略》に 司徒 軍議掾の河東の董尋の上書諫言を載せている。「臣は聞く。古の直士は、国に対して言葉を尽くし、死を避けなかった。ゆえに周昌は高祖を桀・紂に譬え、劉輔は趙后を人婢に譬えた。天が忠直を生み出すのは、白刃や沸騰した湯の中へも顧みずに向かっていく者が、誠に時の主君のために天下を惜しむからである。建安以来、野戦で死亡し、あるいは家門が尽き果て、生き残った者がいても、遺されたのは孤児や老弱者である。もし今、宮室が狭小ならば、広大にするべきであり、それでもなお時宜に従い、農務を妨げないようにすべきである。ましてや無益な物を作り、黄龍・鳳凰、九龍・承露盤、土山・淵池など、これらは聖明の君主が興さないものであり、その労力は宮殿の三倍にもなる。三公・九卿・侍中・尚書は、天下の至徳の者であり、みな道理に合わないと知りながら敢えて言わないのは、陛下が春秋に富み、心に雷霆を畏れるからである。今、陛下は既に群臣を尊び、冠冕を顕わし、文繡をまとわせ、華輿に乗せておられる。これが小人と異なる所以である。それなのに穴を掘り土を運ばせ、顔や目を垢で黒くし、体に泥を塗り足を汚し、衣冠は乱れ、国の光を毀って無益なものを崇めるのは、甚だ言うべきことではない。孔子は言われた。『君は臣を使うに礼をもってし、臣は君に仕えるに忠をもってする』。忠も礼もなければ、国はどうして立つことができようか。ゆえに君が君でなく、臣が臣でなく、上下通じず、心に鬱結を抱き、陰陽を不和にし、災害が屡々降り、凶悪の徒が隙に乗じて起こるならば、誰が陛下のためにこのことを言葉に尽くすだろうか。また誰が万乗の君に死をもって諫めようとするだろうか。臣は言葉を出せば必ず死ぬと知っている。しかし臣は牛の一毛に自らを比べ、生きていても既に益がなく、死んでも何の損があろうか。筆を執って涙を流し、心は世と辞する。臣には八人の子がいる。臣が死んだ後、陛下に累をかけることになる」。上奏しようとして、沐浴した。通じた後、帝は「董尋は死を恐れないのか」と言った。主事の者が董尋を収監するよう上奏したが、 詔 があって問わないこととした。後に貝丘令となり、清廉で倹約し民心を得た。〉
二年春正月、 詔 を下して 太尉 司馬宣王に衆を率いて遼東を討たしむ。
二月癸卯、大中大夫韓曁を 司徒 とする。癸丑、月が心距星を犯し、また心中央の大星を犯す。夏四月庚子、 司徒 韓曁薨ず。壬寅、 沛国 の蕭、相、竹邑、符離、蘄、銍、龍亢、山桑、洨、虹の十県を分けて汝陰郡となす。宋県、陳郡苦県は皆譙郡に属す。沛、杼秋、公丘、彭城豊国、広戚の五県を以て沛王国となす。庚戌、大赦す。五月乙亥、月が心距星を犯し、また中央の大星を犯す。
秋八月、焼当 羌 の王芒中、注詣ら叛く。涼州 刺史 は諸郡を率いて攻め討ち、注詣の首を斬る。癸丑、彗星が張宿に見ゆ。
丙寅、司馬宣王、公孫淵を襄平に囲み、大いにこれを破り、淵の首を京都に伝え、海東の諸郡平らぐ。冬十一月、淵を討った功績を録し、 太尉 宣王以下、邑を増やし爵を封ずること各差あり。初め、帝は宣王を遣わして淵を討たせんと議し、卒四万人を発せんとす。議臣は皆、四万の兵は多く、役費の供給難しと為す。帝曰く、「四千里を征伐するは、奇を用いるとは云え、また力を任すべきで、少しも役費を計るべからず」。遂に四万人を行かしむ。宣王が遼東に至るや、霖雨のため時に攻めず、群臣の中には淵は卒に破れ難く、宣王を還すべしと 詔 すべき者あり。帝曰く、「司馬懿は危に臨み変を制し、淵を擒にするは日を計って待つべし」。果たして皆その策の如し。
壬午、 司空 衞 臻を 司徒 とし、司隷 校尉 崔林を 司空 とする。閏月、月が心中央の大星を犯す。十二月乙丑、帝、疾に臥し癒えず。辛巳、皇后を立てる。天下の男子に爵を人二級賜い、鰥寡孤独に穀を賜う。燕王宇を大将軍とす。甲申、免じ、武 衞 将軍曹爽を以てこれに代えしむ。
初め、青龍三年中、寿春の農民の妻、自ら言うに天神に下され、登女と為す命を受け、帝室を営衛し、邪を蠲き福を納るべしと。人に水を飲ませ、また以て創を洗わしむると、多く癒ゆる者あり。ここに後宮に館を立て、 詔 を下して称揚し、甚だ優寵せらる。帝の疾に及び、水を飲むも験なく、ここにこれを殺す。
三年の春正月丁亥の日、 太尉 の宣王が河内に戻ってきた。帝は駅馬で召し寄せ、寝殿に引き入れ、その手を取って言った。「朕の病は重い。後のことを君に託す。君は爽と共に幼い子を補佐せよ。君に会えたことで、何の恨みもない。」宣王は頭を地に叩きつけて涙を流した。その日、帝は嘉福殿で崩御した。時に三十六歳であった。癸丑の日、高平陵に葬られた。
帝の容姿は見るに値し、遠くから見ても威厳があった。東宮にいた時から、朝臣と交わらず、政事を問わず、ただひたすら書物に思いを潜めていただけである。即位した後は、大臣を褒め礼遇し、能力を選別し、真偽が混ざり合うことを許さず、虚飾や讒言誹謗の端を絶つことに努めた。軍を動かし大衆を起こし、大事を論決するにあたっては、謀臣や将相は皆、帝の大いなる方略に心服した。性質は特に記憶力が強く、側近の小臣の官歴や性格・行い、名声や足跡、およびその父兄子弟に至るまで、一度耳や目にしたことは、終に忘れることがなかった。恥辱を忍び欠点を隠し、率直な意見を受け入れ、官吏・民・士・庶民の上書を聴き受け、一月のうちに数十から百通に至り、文辞が卑俗で拙くても、なお閲覧し最後まで調べ、嫌気がさすこともなかった。孫盛が言うには、長老から聞いた話では、魏の明帝は天与の才能が秀で、立ったままの髪が地に垂れ、口が重く言葉少なだったが、沈着で意志が強く決断力があった。初め、諸公が遺 詔 を受けて補導した時、帝は皆を地方の要職に処し、政務は自ら出した。そして大臣を厚く礼遇し、寛容で正直を善しとし、たとえ顔色を犯すような激しい諫言があっても、殺害することはなく、その君主としての度量はこのように偉大であった。しかし、徳を建て風教を後世に伝えることを考えず、藩屏の基盤を固めず、ついに大権が偏って占拠されるに至り、 社稷 を守る者がいなくなった。悲しいことだ。