八月、孫権が江夏郡を攻撃し、太守の文聘が堅守した。朝廷で議論し、兵を発して救援しようとしたが、帝は言った。「孫権は水戦に慣れており、敢えて船から下りて陸上攻撃するのは、ほとんど不意を突こうとしているからだ。今は既に文聘と対峙しており、攻撃と守備の勢いは倍の差があるので、結局長くは続けられない。」先に治書侍御史の荀禹を派遣して辺境を慰労していたが、荀禹が到着し、江夏で通過した県の兵と従っていた歩騎千人を率いて山に登り烽火を上げると、孫権は退却した。
辛巳の日、皇子の冏を清河王に立てた。呉の将軍の諸葛瑾、張霸らが襄陽を侵し、撫軍大将軍の司馬宣王が討伐してこれを破り、張霸を斬った。征東大将軍の曹休もまた尋陽でその別将を破った。功績に応じて賞を施行し、それぞれ差等があった。冬十月、清河王の冏が薨去した。十二月、太尉の鍾繇を太傅とし、征東大将軍の曹休を大司馬とし、中軍大将軍の曹真を大将軍とし、司徒の華歆を太尉とし、司空の王朗を司徒とし、鎮軍大将軍の陳羣を司空とし、撫軍大将軍の司馬宣王を驃騎大将軍とした。
秋七月、詔を下した。「礼によれば、王后に嗣子がなければ、支子を選んで立てて太宗を継がせる。その場合は正統を継ぎ公義を奉ずべきであり、どうして再び私的な親族を顧みることができようか。漢の宣帝は昭帝の後を継いだが、悼考に皇号を加えた。哀帝は外藩から迎えられて立ったが、董宏らが滅びた秦の故事を引き合いに出し、時の朝廷を誤らせ、恭皇を尊び、京都に廟を立て、さらに藩妾を寵愛して長信宮の比とし、前殿で昭穆を叙し、東宮で四つの位を並べた。僭越で度を超え、人神もこれを祐さず、師丹の忠正な諫言を罪とし、丁氏・傅氏が焼かれるような禍いを招いた。これ以降、これが相次いで行われた。昔、魯の文公が逆祀を行った罪は夏父にあり、宋国が法度に外れたことは華元が非難された。公卿有司に命じ、深く前世の行いを戒めとせよ。後継者が万一諸侯から入って大統を奉ずるようなことがあれば、人の後を継ぐ者の道理を明らかにすべきである。佞邪で時の君主にへつらい諂い、正統を犯すような不正の号を妄りに建て、父を皇と称し、母を后と称するようなことを敢えて導く者がいれば、股肱の大臣はこれを誅殺し赦してはならない。これを金策に書き、宗廟に蔵し、今の法典に明記せよ。」
冬十月、平望観を改めて聴訟観とした。帝は常々「獄事は天下の生命に関わるものだ」と言い、大獄を裁くたびに、よく観に行幸して臨席し聴いた。
当初、洛陽の宗廟がまだ完成しておらず、神主(位牌)は鄴の廟にあった。十一月、廟がようやく完成したので、太常の韓曁に節を持たせて鄴から高皇帝(曹騰)、太皇帝(曹嵩)、武帝(曹操)、文帝(曹丕)の神主を迎えさせ、十二月己丑の日に到着し、神主を廟に奉安した。
癸卯の日、大月氏の王波調が使者を派遣して貢物を献上したので、調を親魏大月氏王に任じた。
四年の春二月壬午の日、詔を下して言った。「世の質朴さと文飾は、教化に従って変化する。戦乱以来、経学は廃れ絶え、後進の者が進む道は、典謨(経典)によらない。これは訓導が行き届いていないのか、それとも進用される者が徳によって顕れないからなのか。郎吏で一経に通じ、才能が民を治めるに足る者は、博士が試験を行い、その高第の者を抜擢して、速やかに任用せよ。その浮華で道の根本に務めない者は、皆罷免し退けること。」戊子の日、太傅と三公に詔して、文帝の『典論』を石碑に刻み、廟門の外に立てさせた。癸巳の日、大将軍の曹真を大司馬とし、驃騎将軍の司馬宣王(司馬懿)を大将軍とし、遼東太守の公孫淵を車騎将軍とした。夏四月、太傅の鍾繇が薨去した。六月戊子の日、太皇太后(卞氏)が崩御した。丙申の日、上庸郡を廃止した。秋七月、武宣卞后(卞皇后)を高陵に合葬した。詔して大司馬の曹真、大将軍の司馬宣王に蜀を討伐させた。八月辛巳の日、東巡を行い、使者を遣わして特牛(一頭の牛)を用いて中嶽(嵩山)を祭祀した。乙未の日、許昌宮に行幸した。九月、大雨が降り、伊水、洛水、黄河、漢水が氾濫した。詔して曹真らに軍を返させた。冬十月乙卯の日、行幸から洛陽宮に戻った。庚申の日、令を下した。「罪が殊死(斬刑)に当たらない者は、それぞれ差等に応じて贖罪を許す。」十一月、太白(金星)が歳星(木星)を犯した。十二月辛未の日、文昭甄后(甄皇后)を朝陽陵に改葬した。丙寅の日、詔して公卿に賢良を推挙させた。
五年の春正月、帝は藉田で耕作した。三月、大司馬の曹真が薨去した。諸葛亮が天水を侵したので、詔して大将軍の司馬宣王にこれを防がせた。昨冬十月からこの月まで雨が降らず、辛巳の日、大雩(雨乞いの大祭)を行った。夏四月、鮮卑の附義王軻比能がその種族の人々と丁零の大人(首長)児禅を率いて幽州に来て名馬を貢献した。護匈奴中郎将を再び置いた。秋七月丙子の日、諸葛亮が退却したので、封爵と位階を増す者にそれぞれ差等があった。乙酉の日、皇子の殷が生まれたので、大赦を行った。
六年の春二月、詔を下して言った。「古の帝王が諸侯を封建したのは、王室を藩屏とするためである。詩に云わないか、『徳を懐けば維寧く、宗子は維城なり』と。秦、漢は周を継いだが、或いは強く或いは弱く、共にその中道を失った。大魏が創業し、諸王が国を開いたが、時の宜しきに従い、一定の制度がなく、永く後世の法とするには適さない。諸侯王を改封し、皆郡を以て国とすることとする。」三月癸酉の日、東巡を行い、通りかかった所で高齢者、鰥寡孤独を慰問し、穀物と布帛を賜った。乙亥の日、月が軒轅大星を犯した。夏四月壬寅の日、許昌宮に行幸した。甲子の日、初めて新しい果物を廟に供えた。五月、皇子の殷が薨去し、追封して安平哀王と諡した。秋七月、衛尉の董昭を司徒とした。九月、摩陂に行幸し、許昌宮を修築し、景福殿、承光殿を建てた。冬十月、殄夷将軍の田豫が衆を率いて成山で呉の将軍周賀を討ち、賀を殺した。十一月丙寅の日、太白(金星)が昼間に現れた。翼宿に彗星が現れ、太微垣の上将星に近づいた。庚寅の日、陳思王の曹植が薨去した。十二月、行幸から許昌宮に戻った。
塞を守る鮮卑の大人(首長)歩度根が反乱した鮮卑の大人軻比能と内通した。并州刺史の畢軌が上表し、すぐに軍を出して外では軻比能を威圧し、内では歩度根を鎮めようとした。帝は上表文を読んで言った。「歩度根は軻比能に誘われて、自ら疑心を抱いている。今、畢軌が軍を出すのは、かえって二部を驚かせて一つに合わせるだけであって、何を威圧し鎮めるというのか。」急いで畢軌に勅し、軍を出す場合は決して塞を越えて句注山を過ぎてはならないと命じた。詔書が届く前に、畢軌はすでに軍を進めて陰館に駐屯し、将軍の蘇尚、董弼を派遣して鮮卑を追撃させていた。軻比能は息子に千余騎を率いさせて歩度根の部落を迎えさせ、蘇尚、董弼と遭遇し、楼煩で戦い、二将は敗死した。歩度根の部落は皆反乱して塞外に出て、軻比能と合流して辺境を侵した。驍騎将軍の秦朗に中軍を率いさせて討伐させると、敵は漠北に逃げた。
秋九月、安定で塞を守る匈奴の大人胡薄居姿職らが反乱した。司馬宣王が将軍の胡遵らを派遣して追討させ、撃破して降伏させた。
冬十月、歩度根部落の大人である戴胡阿狼泥らが并州に赴いて降伏したため、秦朗は軍を率いて帰還した。
十二月、公孫淵が孫権の派遣した使者張弥・許晏の首を斬って送ってきたため、公孫淵を大司馬・楽浪公に任じた。
この月、諸葛亮が斜谷より出で、渭南に屯した。司馬宣王が諸軍を率いてこれを拒いだ。宣王に詔して、「ただ堅壁を守りてその鋒を挫くべし。彼は進んで志を得ず、退いて戦うことなく、久しく停まれば糧尽き、虜略して獲る所なく、必ず走らん。走るを追い、逸を以て労を待つは、全勝の道なり」と言った。
五月、太白が昼に見えた。孫権が居巣湖口に入り、合肥新城に向かい、また将の陸議・孫韶を遣わし各々万余人を率いて淮・沔に入った。六月、征東将軍満寵が進軍してこれを拒いだ。寵は新城の守りを抜き、賊を寿春に致さんとしたが、帝は聞き入れず、言った、「昔、漢の光武帝が兵を遣わして略陽を県拠させ、終に隗囂を破った。先帝は東に合肥を置き、南に襄陽を守り、西に祁山を固め、賊来れば常に三城の下で破れたのは、地に必ず争う所あるが故なり。仮に権が新城を攻むるも、必ず抜く能わざるべし。諸将に勅して堅く守らしめよ。我自ら往きてこれを征せん。比至るに、恐らく権は走らん」。秋七月壬寅、帝自ら龍舟に御し東征した。権が新城を攻め、将軍張頴らが拒守して力戦した。帝の軍が未だ数百里に至らざるうちに、権は遁走し、議・韶らもまた退いた。群臣は大將軍が方に諸葛亮と相持して未だ解けず、車駕は西に長安に幸すべきと為した。帝は言った、「権走り、亮胆破る。大將軍以てこれを制す。我憂い無し」。遂に進軍して寿春に幸し、諸将の功を録し、封賞各々差有り。八月己未、大いに兵を曜し、六軍を饗し、使者を遣わし節を持たせて合肥・寿春の諸軍を犒労した。辛巳、行きて許昌宮に還った。
司馬宣王と亮が相持し、連日囲みを積む。亮は数たび挑戦したが、宣王は堅く塁を守り応じなかった。会に亮が卒し、その軍は退き還った。
冬十月乙丑、月が鎮星及び軒轅を犯した。戊寅、月が太白を犯した。十一月、京都に地震有り、東南より来たり、隠々として声有り、屋瓦を揺るがした。十二月、有司に詔して大辟を刪定し、死罪を減じた。
この時、洛陽宮を大いに造営し、昭陽殿・太極殿を建て、総章観を築いた。百姓は農時を失い、直臣の楊阜・高堂隆らがそれぞれしばしば激しく諫めたが、聞き入れることはできなかったものの、常に寛容に扱った。〈『魏略』に言う。この年、太極諸殿を建て、総章観を築き、高さ十余丈、その上に翔鳳を建てた。また芳林園の中に陂池を造り、楫櫂越歌を行った。また列殿の北に八坊を立て、諸才人を順序に従ってそこに住まわせ、貴人・夫人以上は南に移して付けた。その秩石は百官の数に擬した。帝は常に内で遊宴し、書を理解し信頼できる女子六人を選び、女尚書とし、外からの上奏文を処理させ、裁可を決めさせた。貴人以下から尚保まで、及び掖庭の掃除を担当し、伎歌を習う者まで、それぞれ千数人いた。穀水を通して九龍殿の前を流し、玉井綺欄とし、蟾蜍が水を受け、神龍が吐き出した。博士の馬均に司南車を作らせ、水転百戲を行わせた。歳首には巨獣を建て、魚龍曼延、弄馬倒騎を演じ、漢の西京の制度を備え、閶闔諸門の闕外に罘罳を築いた。太子舎人の張茂は、呉・蜀がしばしば動き、諸将が出征しているのに、帝が盛んに宮室を興し、玩飾に心を留め、賜与に限度がなく、国庫が空になったこと、また、以前に吏民の妻に嫁いだ士女を没収し、再び兵士に配すること、生口による自贖を認めた上で、さらに容姿の良い者を選んで掖庭に入れたことを憂い、上書して諫めて言った。「臣は詔書を拝見しました。士女で士以外に嫁いだ者は全て没収し、戦士に配するというのは、確かに一時の便宜ではありますが、大いなる教化の善きことではありません。臣が論じさせてください。陛下は天の子です。百姓・吏民もまた陛下の子です。礼では、君子と小人に賜る日を同じにしないのは、貴賤を区別するためです。吏は君子に属し、士は小人です。今、彼らから奪ってこれに与えるのは、兄の妻を奪って弟に妻とするのと異ならず、父母の恩は偏ります。また詔書では、生口で年齢・容色が妻に相当する者で代えることを認めているので、富者は家産を傾け、貧者は借金をして、高く生口を買って妻を贖います。県官は兵士に配する名目で、実は掖庭に入れ、醜悪な者だけを兵士に出します。妻を得た者も必ずしも喜ぶ心はなく、妻を失った者には必ず憂いの色があり、困窮し愁える者は皆、志を得ません。君主が天下を持ちながら万姓の歓心を得られないなら、危うくならない者は稀です。しかも軍師は外に数千万人おり、一日の費用は千金に止まりません。天下の賦税を挙げてこの役に奉じても、なお足りず、ましてや宮廷に定員外で名簿にない女子がおり、椒房や母后の家に賞賜が横行し、内外で引き合い、その費用は軍の半分です。昔、漢武帝は神仙を好み、方士を信じ、地を掘って海とし、土を盛って山としたが、頼みとしたのは当時天下が一つで、敢えて争う者がいなかったからです。衰乱以来、四、五十年、馬は鞍を離さず、士は鎧を脱がず、一たび交戦するごとに、血が野を染め、傷つき痛み叫ぶ声は今も止みません。なお強寇は国境にあり、魏室を危うくしようと図っています。陛下が兢兢業業として、節約を尊び、天下を安んずる道を思わず、奢靡に務め、中尚方に純粋に玩弄の物を作らせ、後園で誇示し、承露の盤を建てるのは、確かに耳目を快くする観覧ではありますが、また十分に寇讎の心を駆り立てるものです。惜しいことです、堯舜の節倹を捨てて、漢武の奢侈の事を行うのは、臣はひそかに陛下が取られないことを願います。願わくは陛下が沛然として詔を下し、万機の事で無益で損なうものを全て除去し、除いた無益の費用で、将士の父母妻子で飢寒にある者に厚く賜い、民の苦しむことを問い、その憎むものを除き、倉廩を満たし、甲兵を整え、謹み恭しくして天下に臨まれることです。このようにすれば、呉賊は面縛し、蜀虜は輿櫬し、誅伐を待たずして自ら服し、太平の路は日を数えて待つことができます。陛下は海表に神思を労する必要がなく、軍師は高枕し、戦士は備員となります。今、群公は皆、舌を結んでいますが、臣が敢えて瞽言を献上しないわけにはいかないのは、臣が以前に要言を上奏し、散騎が臣の書を奏上し、『聴諫篇』を善しとした時、詔に『それでよい』と言われ、臣を太子舎人に抜擢されたからです。また臣は書を作って、人臣として諫諍できないことを諷したのに、今、諫めるべき事がありながら臣が諫めないなら、これは書を作って虚妄を言いながら、実際には言えないことになります。臣は五十歳になり、常に死ぬまで国に報いることがないことを恐れています。ゆえに身を投げ出し、命を捨て、冒昧にも聞き届けられることを願い、陛下の裁察を仰ぎます。」書が通じると、上は左右を顧みて言った。「張茂は郷里の故を恃んでいるのだ。」事を散騎に付けただけだった。茂は字を彦林といい、沛の人である。〉
秋七月、洛陽の崇華殿が火災に遭った。八月庚午、皇子の芳を斉王に、詢を秦王に立てた。丁巳、行幸から洛陽宮に戻った。役人に命じて崇華殿を再建させ、名を九龍殿と改めた。冬十月己酉、中山王の衮が薨去した。壬申、太白星が昼間に現れた。十一月丁酉、許昌宮に行幸した。
四年春二月、太白星が再び昼間に現れ、月が太白星を犯し、さらに軒轅の一星を犯し、太微垣に入って出た。夏四月、崇文観を設置し、文章をよくする者を徴用してこれを充てた。五月乙卯、司徒の董昭が薨去した。丁巳、粛慎氏が楛矢を献上した。
六月壬申、詔を下して言った。「有虞氏は象刑を描いて民が犯さず、周人は刑罰を置いて用いなかった。朕は百王の末にあり、上世の風を追い慕うが、何と遠く隔たっていることか。法令がますます明文化されると、犯す者はますます多く、刑罰がますます増えても、奸悪は止まらない。以前、大辟の条項を調べて多くを免除したのは、生民の命を救おうとする朕の深い思いからである。それなのに郡国の獄で死ぬ者は、一年の中ですでに数百を超える。これは朕の訓導が純粋でなく、民に罪を軽んじさせたのか、それとも苛酷な法がまだ残っていて、民を陥穽に落としているのか。役人は獄事を審議して死刑を緩め、必ず寛大簡素に従え。また恩赦を乞う者について、言葉がまだ出ていないのに獄が判決を報告するのは、道理を究め実情を尽くすものではない。廷尉および天下の獄官に命じる。すべて死罪で獄案が確定した者で、謀反および手ずからの殺人でない者は、速やかにその親族に知らせ、恩赦を乞う者がいれば、奏上当の文書とともに上奏させよ。朕は彼らを全うする方法を考えよう。これを天下に布告して、朕の意を明らかにせよ。」
秋七月、高句驪王の宮が孫権の使者である胡衞らの首を斬って送り、幽州に届けた。甲寅、太白星が軒轅の大星を犯した。冬十月己卯、行幸から洛陽宮に戻った。甲申、大辰(心宿)に星が彗星のように現れた。乙酉、また東方に彗星のように現れた。十一月己亥、彗星が現れ、宦者(星官名)の天紀星を犯した。十二月癸巳、司空の陳羣が薨去した。乙未、許昌宮に行幸した。
五月己巳、行幸から洛陽宮に戻った。己丑、大赦を行った。六月戊申、京都で地震があった。己亥、尚書令の陳矯を司徒とし、尚書右僕射の衞臻を司空とした。丁未、魏興郡の魏陽、錫郡の安富、上庸を分けて上庸郡とした。錫郡を廃止し、錫県を魏興郡に属させた。
有司が上奏した。「武皇帝は乱を治めて正に復し、魏の太祖とされ、楽舞には武始の舞を用います。文皇帝は天に応じて命を受け、魏の高祖とされ、楽舞には咸熙の舞を用います。陛下は制度を制定し治世を興し、魏の烈祖とされ、楽舞には章武の舞を用います。三祖の廟は万世にわたって廃されず、その他の四廟は親等が尽きれば順次廃され、周の后稷、文王、武王の廟祧の制度のようになります」。〈孫盛が言う。諡は行いを表し、廟は容貌を留めるもので、いずれも既に亡くなった後に顕著になるものであり、始めを推し究めて終わりを要約し、百世に示すためのものである。その年にあって逆に祖宗を制定し、終わらないうちに予め自らを尊び顕すことはない。昔、華楽は厚葬によって非難を招き、周の人は凶事を予め行って礼に背いた。魏の諸官はここにおいて正道を失ったのである。〉
二月癸卯、大中大夫韓曁を司徒とする。癸丑、月が心距星を犯し、また心中央の大星を犯す。夏四月庚子、司徒韓曁薨ず。壬寅、沛国の蕭、相、竹邑、符離、蘄、銍、龍亢、山桑、洨、虹の十県を分けて汝陰郡となす。宋県、陳郡苦県は皆譙郡に属す。沛、杼秋、公丘、彭城豊国、広戚の五県を以て沛王国となす。庚戌、大赦す。五月乙亥、月が心距星を犯し、また中央の大星を犯す。
秋八月、焼当羌の王芒中、注詣ら叛く。涼州刺史は諸郡を率いて攻め討ち、注詣の首を斬る。癸丑、彗星が張宿に見ゆ。
丙寅、司馬宣王、公孫淵を襄平に囲み、大いにこれを破り、淵の首を京都に伝え、海東の諸郡平らぐ。冬十一月、淵を討った功績を録し、太尉宣王以下、邑を増やし爵を封ずること各差あり。初め、帝は宣王を遣わして淵を討たせんと議し、卒四万人を発せんとす。議臣は皆、四万の兵は多く、役費の供給難しと為す。帝曰く、「四千里を征伐するは、奇を用いるとは云え、また力を任すべきで、少しも役費を計るべからず」。遂に四万人を行かしむ。宣王が遼東に至るや、霖雨のため時に攻めず、群臣の中には淵は卒に破れ難く、宣王を還すべしと詔すべき者あり。帝曰く、「司馬懿は危に臨み変を制し、淵を擒にするは日を計って待つべし」。果たして皆その策の如し。
壬午、司空衞臻を司徒とし、司隷校尉崔林を司空とする。閏月、月が心中央の大星を犯す。十二月乙丑、帝、疾に臥し癒えず。辛巳、皇后を立てる。天下の男子に爵を人二級賜い、鰥寡孤独に穀を賜う。燕王宇を大将軍とす。甲申、免じ、武衞将軍曹爽を以てこれに代えしむ。
帝の容姿は見るに値し、遠くから見ても威厳があった。東宮にいた時から、朝臣と交わらず、政事を問わず、ただひたすら書物に思いを潜めていただけである。即位した後は、大臣を褒め礼遇し、能力を選別し、真偽が混ざり合うことを許さず、虚飾や讒言誹謗の端を絶つことに努めた。軍を動かし大衆を起こし、大事を論決するにあたっては、謀臣や将相は皆、帝の大いなる方略に心服した。性質は特に記憶力が強く、側近の小臣の官歴や性格・行い、名声や足跡、およびその父兄子弟に至るまで、一度耳や目にしたことは、終に忘れることがなかった。恥辱を忍び欠点を隠し、率直な意見を受け入れ、官吏・民・士・庶民の上書を聴き受け、一月のうちに数十から百通に至り、文辞が卑俗で拙くても、なお閲覧し最後まで調べ、嫌気がさすこともなかった。孫盛が言うには、長老から聞いた話では、魏の明帝は天与の才能が秀で、立ったままの髪が地に垂れ、口が重く言葉少なだったが、沈着で意志が強く決断力があった。初め、諸公が遺詔を受けて補導した時、帝は皆を地方の要職に処し、政務は自ら出した。そして大臣を厚く礼遇し、寛容で正直を善しとし、たとえ顔色を犯すような激しい諫言があっても、殺害することはなく、その君主としての度量はこのように偉大であった。しかし、徳を建て風教を後世に伝えることを考えず、藩屏の基盤を固めず、ついに大権が偏って占拠されるに至り、社稷を守る者がいなくなった。悲しいことだ。